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第2章 義務教育費負担の現状、沿革及び国際比較

1. 義務教育費負担の現状

(1) 義務教育無償の原則
 義務教育は憲法の規定により無償でなければならない。したがって、義務教育費は高校や大学のように授業料により受益者負担に転嫁することができず、原則として全ての経費を公費で賄わなければならない。
 児童・生徒個人の用に供する教材については、義務教育無償の原則に触れるものではないと解されているため、必要な範囲で家計の負担を求めている。しかし、教科書については、義務教育無償の精神に則り、国において購入し、一人一人の児童生徒に給与することとされている。

(2) 市町村・都道府県・国の負担関係
 義務教育については、市町村に対して小・中学校の設置義務が、都道府県に対して盲・聾・養護学校の設置義務が課されており、これらの学校の経費は、「設置者負担主義」(学校教育法第5条)に基づき、原則としてその設置者が負担することとされている。しかしながら、小・中学校に係る経費の全てを市町村に負わせることは、市町村の財政力にとって過重であるため、設置者負担主義の例外として、市町村立小中学校の基幹的な教職員については、都道府県にその人件費と旅費の負担義務を課すとともに任命権を付与する「県費負担教職員制度」が設けられている。その上で、全国的な義務教育水準の維持と教育の機会均等を保障するため、都道府県が負担する義務教育諸学校の基幹的職員の給料・諸手当に係る経費については、国がその2分の1の負担義務を負う「義務教育費国庫負担制度」が設けられている。
 教職員の研修に要する経費は、研修を実施の責任を負う任命権者(県費負担教職員については都道府県)が負担することになる。ただし、政令指定都市及び中核市は自ら研修を行いその経費を負担する。
 基幹的な教職員の人件費、旅費、研修経費以外の経費は、それぞれの学校の設置者が負担する。そのうち、学校施設の整備については、義務教育諸学校施設費国庫負担法等に基づき、国が2分の1ないし3分の1の負担又は補助を行っている。
 学校全体で使用する教材、設備、備品の整備、基幹的な教職員以外の職員(市町村費非常勤講師、用務員、調理員など)の人件費、その他学校運営に必要な経常的な経費は、小・中学校の設置者である市町村が負担している。教材等の一部に国からの補助金が支出されているが、大部分の財源は市町村の一般財源である。
 以上のような義務教育に係る経費の種類ごとの市町村・都道府県・国の負担関係を図にすると次のページのようになる。総額約10兆円の義務教育費負担のうち、国・都道府県・市町村の負担割合は概ね3:4:3であり、国と都道府県の負担する経費の大部分が人件費である(平成12(2000)年度。義務教育についての経費負担の量的イメージについて、図1参照)。

(3) 児童生徒1人当たりの義務教育費
 義務教育費国庫負担金を、都道府県別に小・中学校の児童生徒1人当たりの額で比較すると、小・中学校1校当たりの児童生徒数や教員1人当たりの児童生徒数が少ない県ほど、児童1人当たりの額が多くなるという関係にある。最も少ないのは埼玉県で、最も多いのは高知県であるが、これらの数字をこれら両県について対比させたものが下の表である。
 義務教育の学校では、そこに1人しか子どもがいなくても、その子どもの教育を受ける権利を保障するため、そこに教員を配置して義務教育を施さなければならない。公立の小・中学校は、いかに小規模で、児童生徒数が少なかったとしても、義務教育として最低限必要な教育を必ず行わなければならない。学級担任制を基本とする小学校では、仮に各学年の児童数が10人しかいない場合であっても、それぞれの学年を学級に編制して学級担任を置くことが原則である(義務標準法では、2学年をまとめて1学級にするのは、2学年をあわせて16人以下の場合としている)。また、教科担任制を基本とする中学校では、仮に各学年の生徒数が10人しかいない場合であっても、各教科をきちんと教えるために最小限の人数の教員は必要である(義務標準法では、3学級以下の中学校でも、教員は8人必要だという考え方をとっている)。
 このように、教育の機会均等を実質的に保障するためには、小規模な学校ほど児童生徒数に比して手厚い教員配置が必要になるため、へき地・離島を抱え小規模学校の多い地方ほど、児童生徒1人当たりに必要な義務教育費は多くなるのである。(義務教育費国庫負担金における児童生徒1人当たり負担額について、表1参照)

2. 義務教育費負担制度の沿革
 今日における義務教育費負担の在り方を考える上で、明治以来の制度の変遷を改めてたどってみることは、きわめて有益であると考えられる。特に、教職員給与費の負担について、現在の原則県費負担・2分の1国庫負担という制度に至るまでの制度改正の沿革を振り返ると、それぞれの制度改正には、それぞれに教育上あるいは財政上の要請があったことが知られる。それらの要請には、今日においても妥当するものが多い。

概観】
 学制発布から明治20年代まで、義務教育費は住民負担や受益者負担に頼っていたが、明治21(1888)年の市制・町村制、明治23(1890)年の地方学事通則、改正小学校令により、義務教育費は市町村の負担とされた。しかし、その後も授業料は徴収されていた。明治29(1896)年の市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法、明治33(1900)年の市町村立小学校費国庫補助法の制定で、国による財源保障制度ができたことにより、明治33年から義務教育の無償制を実施することができ、就学率は急上昇した。
 義務教育費の負担は市町村にとって過重であったため、教員の処遇は低かった。そこで、教職員給与の改善と地方財政の健全化を図るため、大正7(1918)年に市町村義務教育費国庫負担法が制定され、義務教育費は国と地方が分担することとなった。国庫負担金の額は町村の強い要望を受けて順次増額された。さらに昭和7(1932)年には、市町村間の財政力格差を調整するため、市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法が制定された。
 市町村に対する義務教育費国庫負担金の累次の増額や国庫補助金の創設は、市町村の予算支出のうち最大経費である教員給与費に国費を配分することにより、市町村間の財源調整を行おうとしたものと見ることができる。
 しかし、市町村に対する義務教育費の国庫負担・国庫補助という方法によっては、1義務教育費の財源保障、2地方間の財源調整という2つの目的のいずれをも十分に達成できなかったため、昭和15(1940)年、義務教育の教員給与費を府県が負担し、その2分の1を国が負担する義務教育費国庫負担法が制定され、同時に地方間の財源調整のため地方分与税が創設された。
 戦後、昭和25(1950)年にシャウプ勧告により義務教育費国庫負担法が廃止され、地方財政平衡交付金に吸収されたが、教育水準の低下、地域間格差の拡大、地方財政への圧迫といった問題が生じたため、昭和28(1895)年から改めて義務教育費国庫負担法が施行され、都道府県が負担する義務教育の教職員給与費の2分の1を国が負担することとなった。
 このような義務教育費負担をめぐる歴史から、次のような教訓が得られる。
 義務教育費の中心問題は常に教職員給与費だったこと
 義務教育の無償制と完全就学の実現、義務教育の水準維持と地域間格差の是正のため、国による義務教育費の財源保障が必要だったこと
 義務教育費の国庫負担は地方財政の健全化にも資するものだったこと
 義務教育費の財源保障制度は、地方間の財源調整制度とは別に設けられる必要があったこと

(1) 学制発布から明治20年代 〜 住民負担・受益者負担の時代
 明治5(1872)年の学制発布以後、小学校教育費は設置者である学区が負担していたが、学校教育費負担の大部分は、学区内集金、寄付金などの形による住民負担に頼っていた。
 明治18(1885)年の改正教育令は、当時の不況による町村収入の減少に対応するために教育費の節減を図ったが、その際文部省の通達により、町村立小学校では授業料を徴収するものとして、事実上の受益者負担主義を打ち出した。翌年、森有礼文部大臣の下で公布された小学校令は「父母後見人等ハ小学校ノ経費ニ充ツル為メ其児童ノ授業料ヲ支弁スヘキモノトス」と定め、受益者負担主義を導入した。これにより、明治16(1883)年にいったん51.0%まで上昇した小学校への就学率が、明治20(1887)年には45.0%まで低下している。
 明治21(1888)年の市制・町村制、明治23(1890)年の地方学事通則及び第2次小学校令により、義務教育は国から市町村への委任事務とされ、市町村に小学校の設置義務が課されるとともに、教員給与費を含めその費用は市町村が負担するという設置者負担主義が導入された。しかし、授業料は依然として徴収されており、学校教育費の20%以上を占めていたため、就学率はなかなか上がらず、明治25(1892)年においても55%にとどまっていた。このため、地方行政関係者や教育関係者から義務教育への国庫補助を求める要望が盛んに行われた。

(2) 市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法(明治29年)及び市町村立小学校教育費国庫補助法(明治33年)
 〜 国庫補助制度と義務教育無償制の確立
 義務教育への完全就学を実現するためには、授業料を廃止して無償制を実施する必要があった。そのため、時の政府(井上毅文相)は、明治26(1893)年6月、初等教育への国庫補助と授業料の低減・廃止という方針を定め、同年、勅令により尋常小学校において「授業料ヲ徴収セザルコトヲ得」と定め、授業料徴収の義務づけを廃止して、徴収するかどうかを市町村の裁量に委ねることとした。
 授業料の低減や廃止を促進するためには、授業料に代わる財源を国が保障する必要があった。そのため、政府は明治26(1893)年、小学校教員の年功加俸(勤務年数に応じて本俸に加えて支給する給与)に要する経費を国庫補助する制度として「市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法」案を帝国議会に提出し、明治29(1896)年、同法が制定された。また明治32(1899)年には、日清戦争の賠償金の一部を教育基金とする「教育基金特別会計法」が制定された。さらに、明治33(1900)年には、国庫補助対象経費に特別加俸を加えて「市町村立小学校費国庫補助法」が制定された。
 こうした義務教育教員給与費に対する国による財源保障制度の整備にあわせて、明治33(1900)年、第3次小学校令が制定され、ついに小学校の無償制の原則が確立された。
 このような無償制の確立により小学校への就学率は急速な伸びを見せ、明治33(1900)年には80%を超えて81.5%に、明治35(1902)年には90%を超えて91.6%に、明治38(1905)年には95%を超えて95.6%に達している。
 このような歴史的事実が示すのは、義務教育への完全就学の実現のためには無償制の確立が必要であり、無償制の確立のためには国による財源保障措置が不可欠であったということである。

(3) 市町村義務教育費国庫負担法(大正7年)とその増額運動
 〜 定額国庫負担制度の成立と教職員給与改善及び地方財政の健全化
 義務教育の無償制の確立は、小学校の設置者である市町村による公費負担の増大をもたらした。さらに、明治41(1908)年には、義務教育年限が4年から6年に延長されたため、市町村の負担はさらに増大した。町村の財政においては、税収入に対する教育費の割合が、明治20年代中ごろにはすでに50%に近づいていたが、明治30年代には50%を超え、明治40年代には60%を超えるに至っていた。
 このような町村財政における過重な義務教育費負担は、町村の財源の不足と小学校教職員の低水準の給与という二つの問題を突きつけることになった。
 このため、町村長を中心とする地方行政関係者からは地方財政の負担緩和のため、また教育界からは教職員の待遇改善のため、小学校費の国庫支弁を求める声が高まった。
 こうした状況の下、大正6(1917)年9月に内閣直属の諮問機関として設置された臨時教育会議では、義務教育費負担の在り方が最初の検討課題としてとりあげられ、同年11月には、教員給与費の国庫負担を建議した。この建議では、市町村立小学校の教員の俸給を、国庫と市町村の「連帯支弁」とし、国庫支出額は定額であるが「教員俸給ノ半額ニ達セシムコトヲ期スヘシ」とした。国庫負担の目的としては、1地方財政の緩和、2教員の増俸の両者を同時に行うべきであるとされた。
 この臨時教育会議の建議を受けて、大正7(1918)年市町村義務教育費国庫負担法が制定された。この法律は、義務教育費を国と地方がそれぞれ責任を負って分担するという原則を確立したものとして、画期的な意義を持つものであった。負担金額は初年度の大正7(1918)年度では1000万円で、小学校教員俸給の2割にあたり、臨時教育会議の建議した教員俸給の半額には及ばなかった。さらに、第一次大戦後のインフレーションの影響を受けて小学校教員俸給費総額に対する国庫負担金の割合は年々低下し大正11(1929)年には8%程度になってしまった。
 この間において、大正10(1921)年、原内閣は臨時教育行政調査会を設け、教員の削減などによる義務教育費節減計画を打ち出したが、世論の非難を浴びて挫折した。
 一方、三重県七保村の大瀬東作村長らの町村長は、大正10(1921)年に全国町村長会(現在の全国町村会の前身)を結成し、義務教育費国庫負担金の増額を求める運動を展開した。また、帝国連合教育会などの教育団体も国庫負担金増額を求める運動を行った。こうした国民の声を受けて、大正12(1923)年には、国庫負担金額を一挙に4000万円に引き上げる法改正が行われ、その後段階的に増額が行われて、昭和5(1930)年には8500万円まで引き上げられ、この時点で小学校教員俸給費総額に対する国庫負担金の割合は半額を超えて52%に達した。
 このような大正期から昭和初期にかけての義務教育費国庫負担制度の確立とその拡充の歴史は、義務教育費負担が地方財政にとってきわめて過重であったという事実、及び教職員給与の改善と地方財政の健全化のために、国による義務教育費に対する財源保障の拡大が必要であったという事実を示している。

(4) 義務教育費国庫負担法(昭和15年)
 〜 2分の1国庫負担制度の成立と教職員給与財源の安定化
 昭和初期におけるたび重なる経済恐慌とその後の軍需景気は、地方間の富の偏在と市町村間の財政力の格差を著しく拡大させた。財政力格差は教育費支出水準の格差として表れた。ある研究によれば、昭和3(1928)年当時、児童1人当たりの小学校費は、東京府が最高で65円81銭、沖縄県が最低で17円24銭だったとされる。このような教育費支出水準の格差は、財政力の弱い町村において、教員給与の支払い延滞や強制寄付による割引支給という形での教員給与の削減を急速に増大させた。
 このような状況に対処するため、国は昭和7(1932)年、市町村財政の窮迫の緩和と教員俸給不払いの防止を目的として、市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法を制定し、毎年一定額(当初1200万円)を市町村に補助することとした。義務教育費国庫負担金の配分においても、市町村の財政力に応じた配分がなされていたが、この臨時国庫補助金の配分にあたっては、財政力の弱い市町村に対しより重点的な配分を行った。
 このような措置がとられた背景には、当時、市町村の財政力を是正・調整する財政調整の仕組みがなかったため、市町村の予算支出のうち最大経費である教員給与費に国費を配分することにより市町村間の財政調整を行うこととしたという事情がある。義務教育費国庫負担金の累次の増額や国庫補助金の創設は、義務教育費に対する財源保障の拡充というよりは、むしろ義務教育費を通じて市町村間の財政力格差を是正するための財源調整を行おうとしたものと見ることができる。
 しかし、このような方法によっては、1義務教育費の財源保障、2地方間の財源調整という2つの目的のいずれをも十分に達することはできなかった。
 このため、義務教育費の財源保障のためには、市町村負担の制度そのものを改めて、教職員給与費を府県と国に分担させるとともに、地方間の財源調整のためには一般的な財政調整制度を設けるべきだという意見が、教育関係者や地方財政関係者から強く主張されるようになった。
 こうした考え方のもとに、昭和15(1940)年、義務教育の教員給与費(当初は俸給のみ、昭和18(1943)年からは諸手当を含む給与費全体及び赴任旅費)を府県の負担とし、その2分の1を国庫負担とする義務教育費国庫負担法が制定されるとともに、地方間の財政力格差を是正するため、本格的な地方財政調整制度として地方分与税が創設されるに至った。
 このような義務教育費国庫負担法の制定に至る歴史は、義務教育費国庫負担制度の本来の機能は義務教育のための安定的な財源を保障するという財源保障機能であり、地方間の財政力格差を是正するという地方財政の財源調整機能をこの制度に求めることは適当ではなく、別途一般的な財政調整制度を設ける必要があったという事実を示している。

(5) 義務教育費国庫負担法(昭和28年)
 〜 義務教育費に対する国による財源保障制度の必要性を再確認
 戦後、我が国は国も地方も極めて厳しい財政状況の下で、新制中学校を創設して義務教育の年限を3年延長するという財政的には無謀ともいえる改革を行った。新制中学校の校舎建設に当たっては、予定された国庫支出が行われなかった事情などにより、各市町村において増税や強制寄付などを余儀なくされ、その責任を問われた市町村長の辞職や自殺が相次ぐという事態も生じた。しかし、それでも何とか新制中学校制度を出発することができたのは、教員給与費についてはすでに国庫負担制度が存在しており、ドッジ・ラインの下での定員定額制(昭和24(1949)年度)による抑制措置の影響はあったものの、新制中学校に教職員を配置するための財源はともかくも保障されていたことに負うところが大きいと考えられる。
 しかし、昭和25(1950)年には、前年のシャウプ勧告に基づいて、義務教育費国庫負担法が廃止され、新たに設けられた地方財政平衡交付金に吸収された。このとき昭和25(1950)年度予算において地方財政平衡交付金に吸収されるべきものとされた国庫補助金・国庫負担金305億円のうち、義務教育費国庫負担金は247億円(81%)を占めていたといわれる。いわば、地方財政平衡交付金を創設するために義務教育費国庫負担金が廃止されたといっても過言ではない。
 義務教育費国庫負担制度の廃止にあたり、義務教育の財源を確保するため、地方財政平衡交付金制度の中で義務教育費として算定した額は義務教育費として支出しなければならないとする標準義務教育費の確保に関する法律案が閣議決定されたが、総司令部の反対のため国会上程にはいたらなかった。
 義務教育費国庫負担制度の廃止により、義務教育費の教職員給与費はすべて地方の一般財源で賄われることになったが、その結果、義務教育におけるナショナル・ミニマムの水準の確保が困難になり、1教育条件の全国的な低下、2地域間格差の拡大という事態が生じた。教育条件の低下については、たとえば小学校1学級あたりの教員数が、昭和24(1949)年度の1.22人から26(1951)年度の1.20人に減少したといわれる。地域間格差については、たとえば昭和27(1952)年度の児童1人当たりの小学校費における東京と茨城の格差が100:53であったといわれる。このため、教育界からは義務教育費国庫負担制度の廃止直後からこの制度の復活を求める声が大きかった。
 また、義務教育の教職員給与費が地方財政に与える圧迫も大きくなり、都道府県の一般財源に対する義務教育教職員給与費の割合は、昭和25(1950)年度の38%から昭和27(1952)年度の44%へと上昇した。そのため、昭和26(1951)年6月には全国知事会議において義務教育費国庫負担法復活を求める決議が行われるなど、地方行政関係者からの声も高まっていった。
 このような教育関係者や地方行政関係者からの要望を背景に、昭和27(1952)年3月に当時の文部省は、標準的な義務教育費のうち各地方団体の財政力に応じた負担分を差し引いた不足分を国庫負担するという内容の義務教育費国庫負担法案を策定した。その後、政府・与党の中での検討・調整を経て、昭和27(1952)年8月、義務教育費国庫負担法が成立し、翌年施行された。
 このようにして制定された新たな義務教育費国庫負担法は、旧国庫負担法の仕組みを基本的に引き継ぐものであったが、給与費等の負担対象職員に事務職員が加えられるとともに、教材費も国庫負担の対象費目とされた(当初は一部負担、昭和33(1958)年度からは2分の1負担)。事務職員が国庫負担に加えられたのは、事務職員が教員と同様学校運営を支える基幹的な職員であり、すでに昭和23(1948)年の市町村立学校職員給与負担法によりその給与費等が都道府県の負担とされていたためである。また、教材費が国庫負担の対象とされたのは、当時問題とされていたPTAの寄付金等の形での教材費の家計負担への転嫁を解消する必要があったためである。
 このような義務教育費国庫負担法の廃止から復活制定に至る歴史は、地方間の一般的な財源調整制度によっては義務教育費を確保することが困難であり、義務教育の水準確保と地域間の機会均等を保障するためには義務教育費に目的を特定した国による財源保障制度が必要であったという事実を示している。
 このような経緯は、現在にも通じる教訓として受け止めるべきであるが、当時と現在とでは地方の財政の状況が違うとの意見もある。しかし、地方財政の状況の如何を問わず、義務教育のための安定した財源を制度的に保障することが義務教育費国庫負担制度の目的であって、地方財政が良好なら不要だが、悪化すれば必要だというものではない。むしろ、今日のように地方の財政状況が深刻の度を増しているときこそ、この制度の必要性を再認識すべきであろう。

(6) 全額国庫負担制度の構想
 義務教育の教職員給与費については、その全額を国庫負担するという構想が戦後2度にわたって浮上している。
 このような構想が初めて発表されたのは、昭和21(1946)年1月、前田多門文部大臣の下で田中耕太郎学校教育局長を中心に策定された地方教育行政機構刷新要綱においてである。この構想は、フランス、イタリアの制度にならい、全国を大学を中心とする学区に分かち、公立学校の教職員給与費を全額国庫負担するというものであった。
 2度目は、岡野清豪文部大臣の下で作成され、昭和28(1953)年2月に国会に提出された義務教育学校職員法案である。この法案では、義務教育諸学校の教職員を全て国家公務員とし、その給与費は定員定額によって全額国庫負担とすることとされた。この法案は同年3月の衆議院の解散に伴い廃案となった。
 このように、全額国庫負担の構想は存在したが実現を見ることはなかった。
 戦後の義務教育制度は、義務教育を地方自治体の事務とする一方、国民の教育を受ける権利の保障とそのための教育内容・教育水準の適正な確保を国の最終的な責任とする考え方に立っているといえるが、義務教育の教職員給与費の2分の1を国庫負担する制度は、そのような戦後の義務教育制度の考え方に合致した、きわめて安定した制度として、今日までその役割を果たしてきている。

3. 義務教育費負担制度の国際比較
 我が国における義務教育費負担の在り方を考える上で、主要な諸外国の制度と比較検討することは極めて有益であると考えられる。現代社会における義務教育の意義には国際的に共通のものがあり、その水準の維持向上や機会均等を確保するための努力は、各国が共通に行っているものであるからである。

概観】
 義務教育の教職員給与費については、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ諸国及び韓国、シンガポールなどの東アジア諸国で、その全額を国(連邦制国家では州)が負担している。義務教育学校の教職員の身分を国家公務員としている国も多い。
 主要先進国で義務教育教職員給与費を国が全額負担していないのは、アメリカとイギリスであるが、アメリカでは学区の学校税という目的税による財源が確保されているほか、州が教育目的税を設けている場合も多く、州の負担割合は増大してきている。イギリスでも中央政府が積極的な役割を果たすようになってきている。
 いずれの国においても、国策として、学力向上を目指し、教育水準保障のために国家が教育投資を拡充する方向で改革が推進されている。
 また、IEAなどの国際調査を見ると、義務教育費を国家が負担している国は、学力水準が平均的に高く、児童生徒間の学力のばらつきが少ないという傾向が認められる。その因果関係を明証するデータはないが、児童生徒の学力分布は、国家がいかに教育に力を入れているかを示す証左になるのではないかと考えられる。(日本、アメリカ、ドイツの学力分布の比較について、図2参照)

(1) アメリカ
 〜 学校教育費はすべて学校税や教育費補助金など教育目的の特定財源。教育水準の向上や格差是正のため州の役割が増大。
 連邦国家であるアメリカでは、教育は基本的に州の専管事項とされており、学校教育費負担における連邦の役割は、障害児教育などの特定分野や教育上不利な立場にある子どもたちが集中する学区など特定の地域を対象とした補助金の支出に限定されている。
 教育財政制度は州ごとに異なるが、多くの州では、教育費財源に充てるため、売上税やタバコ税などが教育目的税として設定されている。カリフォルニア州では、州の一般歳入の40%を教育関連支出に充てることが定められている。
 学校の設置・管理及び運営は、州法により設けられる学区(school district)の権限と責任に委ねられている。学区は財政的にも固有の課税権を持ち、学区住民に学校税(school tax)を課し、約4割を独自財源でまかなっている。学校税は、一般的には土地や家屋に課される財産税である。学区はそもそも学校教育のみを所掌する行政単位であるから、その徴収する学校税は必然的に教育目的税の性質を有する。学区による学校教育財政は、独自に徴収した税収とそれを補う州からの補助金を主たる財源として行われている。州補助金の交付方法としては、一般的に公立学校在学者1人当たりの公財政支出学校教育費を設定した上で、各学区の課税能力に対する不足額を補助金額とする方法がとられている。
 このように、アメリカにおいては基本的に学校教育行政そのものが一般行政から独立して学区において行われていることから、教育財政も学区が独立して行っており、学校教育費はすべて、自主財源である学校税や州・連邦からの教育費補助金など、教育目的の特定財源でまかなわれている。
 学区、州、連邦の負担割合を見ると、かつては学区の負担率が最も高かったが、近年は、教育水準の向上や学区間格差の是正における州の役割が重視されるようになったため、州の財政負担が増大してきており、最近(1999年)の負担割合は、学区が40.9%、州が49.5%、連邦が7.3%で、州の負担割合が最も高くなっている。

(2) イギリス
 〜 教育水準向上を目指して国の役割が増大。学級規模の縮小や教員の処遇改善のために国が積極的に財政支出。
 1980年代サッチャー政権の下で、学力向上を目指して開始された教育改革は、各学校の自主性を高めるとともに、1989年からのナショナルカリキュラムの導入や1991年からの全国テストの実施など、従来の分権的教育制度を見直し、国の役割を拡大する方向で行われてきた。1997年政権についたブレア首相は優先的政策課題を「第一に教育、第二に教育、そして第三に教育」と訴え、これまでの教育改革を引き継ぐとともに、初等学校1・2年を30人学級とする基準を設定するなど、国の主導による教育改革を進めている。
 教育財政についても、従来は地方教育当局が中心であり、その財源も地方の一般財源が中心であったが、一連の教育改革の中で、各学校に予算の編成・執行の権限が大幅に移譲されるとともに、1984年からは国が初等中等教育の特定の事業に補助金を支出する制度が設けられた。ブレア政権では、この補助金をさらに拡充して教育水準ファンドと改め、学級規模の縮小、英語力向上プロジェクトなど、教育水準の向上のための国の政策に沿って重点的に配分している。2002年には、教員の処遇改善などを目指して、今後3年間で国と地方の教育関係予算を約2兆4千万円増額する計画が策定されている。
 このように、従来地方教育当局中心に分権的であったイギリスの教育財政においても、教育水準の維持向上のための国の役割の拡大及び学校裁量の拡大とともに、国が支出する特定財源の重要性が高まってきている。

(3) フランス
 〜 公立学校の教職員は国家公務員であり、その給与費は全て国庫負担。学校の施設・設備費や運営費には国が補助金や交付金を交付。
 フランスの教育行財政は伝統的に中央集権的であり、1982年の地方分権化基本法に基づいて一定の権限と責任が地方自治体に移譲されたが、その基本は変わっていない。初等中等教育諸学校の設置者は地方自治体とされているが、その権限と責任はきわめて限定されている。国民教育省は教育課程の基準の設定から予算・人事まで広範な権限を有し、国民教育省の出先機関である国民教育視学官が小学校を、大学区視学官が中学校(コレージュ)を監督している。
 教育財政においても、国は公立学校費のうち国家公務員である教職員の給与費全額を負担しているほか、教科書その他の教材費などを負担している。小学校・中学校の施設・設備の整備費は、その設置者である市町村・県が負担しているが、その財源としては地方税収入のほか国が支出する各種補助金が充てられている。また、市町村に対しては、学校運営のためのさまざまな経費に充てるため、国から運営総合交付金が交付されている。公財政支出初等中等教育費における国の負担割合は、
 74%にのぼっている(2000年)。

(4) ドイツ
 〜 公立学校教員は州の公務員であり、その給与費は全て州の負担。学校の施設・設備費に州が補助金。学力向上のため連邦が積極的な役割。
 連邦制国家であるドイツにおいては、教育に関する国家の権限は基本的に州に属している。州は教育制度、教育政策、教育課程の基準を定め、これに基づいて地方に配置した視学を通じて学校を監督指導する。公立学校の教員は州の公務員である。地方自治体は学校の設置者であるが、学校の管理運営には基本的に関与しない。
 教育財政においても、州の負担割合がきわめて高く、連邦、州、地方の負担割合はそれぞれ、8%、75%、18%となっている(2000年)。州と地方自治体との負担区分については、教員給与費は州、施設・設備費は地方自治体が負担するというのが基本的な仕組みである。地方自治体が負担する経費については、州が補助金を支出している。
 ドイツでは、1997年に国際教育到達度評価学会(IEA)が公表した第3回国際数学・理科教育調査(TIMSS)と2001年に経済協力開発機構(OECD)が公表した生徒の学習到達度調査(PISA)の成績が各国平均を大きく下回ったため、国民の間に学力への危機感が広まった。これを受けて、各州文部大臣会議は、全国統一の教育スタンダードの設定や州内統一学力テスト、全国統一学力テストの実施に踏み出している。さらに、各州ではこれまで半日制(午前中に終了)が一般的であった学校の在校時間を午後まで延長する全日制学校を拡大しようとしている。シュレーダー連邦首相は、10年後にはドイツの教育水準を世界一にすると表明し、全日制学校の拡大のため連邦からの財政措置を行うこととしている。

(5) 韓国
 〜 小中学校教員は国家公務員であり、その給与費は全て国庫負担。地方が負担する教育費の財源は、地方教育譲与金や地方教育税などの特定財源。
 1990年まで国が教育行政を一元的に統括する中央集権体制をとっていた韓国では、1991年以降初等中等教育に係る行政権限が地方自治体に移されたが、国は依然として大きな権限と責任を有している。
 公立学校教員の身分は国家公務員であり、小中学校教員の給与は全額を国が負担している。教員の配置基準は国の法令によって定められており、現在35人学級を実現するための教員配置計画が進んでいる。地方が負担する学校教育費は、地方教育譲与金等の国からの支出金と地方教育税の税収などで賄われている。小中学校費のうち、国の負担割合は90%にのぼる。


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