第1回小学校部会における主な意見

発達の段階(低学年・中学年・高学年)を踏まえた学習・指導の在り方

○低学年の指導と高学年の指導の在り方は相当違ってきているのではないか。小学校は学級担任の教師による全科指導が基本で、教科ごとの検討はもちろん必要であるが、小学校教育全体の在り方を示す必要がある。高学年の場合には中学校との連携接続をどうしていくかということが重要。また、現場では教科担任が広がってきている現状を踏まえると、教科担任の持つべき部分と、学級担任が指導すべき部分をある程度めりはりを付けられるようにする。これは学校ごとのニーズに応じながらだと思う。また、中学校を見通した上で、生活指導の在り方についてもかなり立ち入った配慮が要るかと思うので、そういうことについても検討が必要。

○低学年については、個別の教科での検討とともに、全体的な在り方を考える必要がある。幼児教育を通して育ってきた子供の力をどう生かすかという観点で低学年教育を考えていくことが重要。スタートカリキュラムなどでも、子供の学びというのはゼロからではなくて、既に幼児期に学んだものをベースに次に行くんだということは共通している。その点を打ち出していくと良い。スタートカリキュラムは今のところは生活科の解説書に書いてあるだけで、学習指導要領自体で明記されているかどうかは微妙な書き方になっているので、もう少しはっきりさせた方が良い。同時に、低学年教育が幼児教育で得た力を発展させるという意味でどうあるべきかということを、低学年教育の独自性として出す必要がある。その際、例えば、算数で言うと計算力、国語で言えば文字の読み書き等狭い意味でのスキルに終始しやすい傾向があるような気がする。それはそれで大事だが、もう少し広く子供たちの考える力、思考力、学びに向かう力等を教科ごとにおいてもしっかりと伸ばしていくということが必要ではないか。

○小学校一年生の終わりぐらいから二年生の始まりぐらいでかなりの学力差が出てきているということがわかってきている。そのまま放置すると、結局それが小学校高学年までの学力差に拡大していくので、十分小学校の学習に乗り切れない子供たちへの指導の配慮が必要だと思う。幼児期から小学校低学年の学力を決めるかなり大きな要因として、語彙量がある。語彙量をどうやって拡充していくかということは、幼児教育の課題でもあると思うが、小学校教育の課題でもある。家庭における親と子のやり取りが大きな要因になると思うが、さらに教師と子供のやり取りということと、もう一つは読書指導。どのような本を読むかということが重要だと思うので、これらも踏まえて、低学年教育の充実をお願いしたい。

○小学校の場合は、一般的には学級担任制であるが、高学年になってきたときに、知的なレベルも高くなってくるので、教科担任制や教科を分担することは、大切な指導の形態ではないかと考えている。これは、教員の側の専門性も生かせるし、結果的に多忙感の軽減にもつながる。また子供の側から見たときに、高学年になると個性が出てきて、教員と「うま」が合うか合わないかということが出てくる。子供たちが一人の学級の担任とだけ朝から帰るまで一緒にいるというのではなく、様々な教員と触れ合うことができることによって、話ができる教員を見付けることができる。いじめや不登校が問題になる中で、担任の先生でなくてもいいから相談をしなさいということを呼び掛けている学校も多い。様々な教員が教えることによって、子供たちは相談しやすい先生がわかるということ。また、一人の子供を多くの教師が見るということになるので、メリットが多いのではないかと思う。

○小学校一年生が終わった段階で既に一年生の内容がしっかり理解できていない子がいるという現実がある。今度の学習指導要領では、その内容を履修するだけではなくて、それを確実に修得していくという考え方が必要。ただ、それぞれの学年で修得できたかどうかを正しく評価して、そして、それが修得できていない子たちをどうサポートするかということを考えていくと、教員の今の仕事の仕方ではそこまで手が回らない。やはりチーム学校の考え方で、社会と結びつきながら学校の教育を実践していくことが重要。また、これが小学校の教員の仕事だと思っている内容の中でも、それをチームに任せるようなことができないかどうかということも含めて検討されていくことが必要。

幼児教育、中学校教育との円滑な接続の在り方

○幼稚園・保育園と小学校の連携、小学校と中学校の連携ということを考えながら小学校のカリキュラムを考えていかなくてはいけないが、今回の学習指導要領の改訂では、高校を卒業する時の姿がどうあるべきかということをイメージしながら、幼稚園から高校三年生までの全体の中で、小学校一年生から六年生の果たすべき役割ということを考えていく必要があると思う。低学年、中学年、高学年、または各学年で育てるべき力ということを考えていく必要がある。それを基本的に考えながら教育課程を編成していかねばならない。

○中学校は教科担任である一方、小学校の場合は教科担任というよりは、教科をある程度分担して、教師が得意とするようなところの教科を分担しながら指導していく。問題行動も、中学校から小学校に下りてきている現状、高学年の子供も多面的に見ていく必要がある。一人の教員ではなくて、色々な教員が関わりながら育てていく必要もあると考えている。教科を分担しながら子供を指導していくことにより、得意・不得意も含めて、長所・短所も明らかになって、伸ばせるところは専門的に伸ばしていくような視点も必要ではないかと思う。また、本当に多忙な小学校の先生にとって、教科を分担することによって負担軽減につながっていくことも期待できるのではないか。

○私立の幼稚園や保育所の教育方針、保育方針が小学校とつながっていない。これは大きな問題だろうと思っている。小学校に入学したときに、子供の課題の早期発見、早期支援につながっていない。また、非認知能力を鍛えることが将来の人間性に大きく影響を与えるという話もある中で、幼児のときに非認知能力をどう育てていくかも大事であり、これは小学校の低学年までつながっていくように思う。保幼小の連携という中で、私立をどう巻き込んでいくかということをその一つ視点として考える必要がある。

特別支援教育の在り方

○子供たちの多様化、発達の格差、特に発達障害のある子供たちのことを考えると、個人差に対応できるような教育課程の編成が可能になってほしいと思う。特別支援教育の枠組みの中では特別な教育課程編成が可能になっているが、通常の学級に在籍する子供たちはその恩恵が受けられない。例えば、学習障害の中には読み書き障害という障害があり、聞く話すは普通にできるのに読み書きが難しいという子供が、大体5%ぐらいいる。そうしたことを踏まえると、小学校の漢字の学習については、とめはねはらいまで正確に書くことを子供に要求するかどうか。精確にとめはねはらいをしないと丸にしないならば、それによって子供たちは自尊感情を低めているという現状があると思う。過度の習熟を求めないようにすることも考えるべきで、時代の要請で新しい内容が増えていくわけだが、その分、今後必要性が薄れていくようなものについては軽減していく。そのことによって新たな課題に集中的に取り組めるようにする。そういった軽重の付け方を工夫していく必要があるのではないか。

家庭、地域・社会との連携の在り方

○学校が今までの教育課程の考え方を少し変えていかなければいけない。また、社会に開かれた教育課程とはどういうものであるのかというところから考えていくと、地域のコミュニティの核としての学校というものをもう一度認識し直す必要がある。地域を巻き込んだ教育課程を編成するためには、校長の力量が問われてくる。その学校の教育目標があって、学校の子供の実態、地域性、みんな違うわけであって、そこの学校でどういう子供を育てたいのか、どういう資質・能力を求めていくのか。そういうところを明確にしていくことが大切。いかに地域の財、人を有効に取り込んでいくのか、それをじっくりもう一度考えていく必要がある。

○計算というと、世の中一般は技能の習熟に限定してしまう。そこの風穴をどう開けるかということになると、「目標の社会との共有」という観点から考えると、計算あるいは計算力ということによってどのような力、資質を育成しようとしているのかということについて、先生方はもちろん、社会一般の方との共有ということが必要になる。今まで基本的に普通に言われている言葉の意味を再確認して教える。教育関係者はもとより、世の中の人にもきちんと理解をしていただく。こういう姿勢をどういうふうに打ち出していくかということが重要。

○学校現場は今すごく大変な状況で、地域の力を借りて社会と共有・連携するということにおいては、いかに多くの地域の保護者、大人が学校現場の中で何に協力ができるのかという具体的なことを示していくことが必要。確かに子供は大人との対応は大変上手になっている。一方、子供同士や、年下の子との対応があまり得意ではない。小学校は六年間という幅があるので、学校の中で六年生から一年生までで縦の結び付けをさせて、高学年が低学年を指導したり面倒を見る。また、低学年の子は年上の中学年、高学年の子に対して対応をどうするかということの中から学んでいくこともある。例えば、登下校の瞬間を地域の方々が学校に出入りしていることによって、学校や通常の大人が見えない部分を見ていていただき、この子はどういったところを気を付けてあげた方がいいんだろうか、今後の指導においてどういったポイントを学校にお伝えして、学校と地域と連携していったらいいんだろうということにつながっていく。また、家庭の保護者の再教育にもつながっていく部分もある。多くの地域の大人、保護者が学校に関われる具体的な仕組みを作ることができればいいと思う。可能であれば、自分のエリアだけではなく他のエリアと、ICT等も活用して、他のエリアではこんな学びをしているということについても何かできるような形でカリキュラムの中で入れていけたら、多様性や、他者を受容するというところにプラスに働くのではないかと思う。

○ 保護者の学力、学歴と子供たちの学力を見たときに、相当格差が出てきている。この二極化という問題をどうしたらよいのか。その点も考えておかないと、例えば英語も好きな子と嫌いな子がはっきり分かれてしまうということになってくる。学力の底上げには、家庭学習、つまり宿題等をしっかりチェックしてまた返すというようなこともどのようにしたら定着させることができるか。そういった点も検討の余地があるように思う。

教科横断的な資質・能力の育成について

○各教科の目標を達成することを目指すと同時に、教科横断的に育成が望まれるコンピテンシー、汎用的な能力の育成が必要になってくると思う。思考力、言語能力、情報活用能力、課題解決能力のような力というのは、教科の文脈の中で育てられていくことが大事である一方で、それ自体を取り出して指導していく場面も必要になってくる。そうなったときに、例えば、生活科や、総合的な学習の時間の在り方が重要になってくると思う。各教科と生活科や総合的な学習の時間との関わりを考えながら、教科横断的にどうコンピテンシーを育てていくかということがとても大事になる。

○非言語能力というものも大事だと思う。言葉だけでなく、音でコミュニケーションがとれるような、その非言語のところはやはり教科の特性というのを十分に出すべき。教科の横並びを、全部同じように並べるのではなく、その教科の特性をきちんと踏まえて、しっかり汎用的な能力というものを見ていく必要があると感じている。

○子供が多様化する中で、個に応じた指導ということが求められる。その子供の学び方や学習スタイルに応じた指導という、学習集団を作っていくということも必要ではないかと考えている。

○学びに向かう力というのは大変重要。小学生は知らないから余計に「はてな」がいっぱい出てくる。「どうして」、「わからない」、「どうしたらいいの」。それが時間が進むに声が小さくなって、ついには言わなくなってしまう。よく聞く話である。問いや疑問というのが自然に出てきて、すぐ決着がつかなくても、それをプールしておいて、いつも頭の隅に置いて考えが進めていけるような環境、これをどうしていくかというのは小学校で大事なことになるのではないか。決着がつかなかったものは次の学習への楽しみとして残しておくべきだというような形で、カリキュラムの構成が立てられないか。算数・数学においては特に、正しいことを正しいと主張することにものすごく苦労している。世の中は正しくないことがたくさんあって、それにだまされることもたまにある。ということは、正しくないことにどうお付き合いしていくかという問題もバランスよくやっていく必要がある。これは資質・能力の二番目の柱。言語力との関わりの中で、教科横断的にも整理できると思うので、その点を検討していく必要がある。

○総合的な学習の時間における教科横断的な学びと、各教科の学習における学びを相互に関連付けながら充実を図っていくことが今回求められている資質・能力を身に付けていくことに大変有効なのではないかと思う。この点については、総合だけで言及するのではなくて、総則の中に位置付けていく方向があると良い。

各教科等の充実の方向性について

○小学校六年全体を考えると、当然発達段階等によって異なる。算数・数学の場合だと、一応四年までと、中学一年まで、高校一年まで、高校三年までという感じで今カリキュラムが作られている。四年までは数・量・形についての対象概念についての理解を中心に。四年の途中から五年にかけて、図形で言うと平行、垂直、あるいは、合同等。数についていくと公倍数、公約数といった関係についての概念が加わる。それによって思考の質が広がりと深まりを持つ。中学二年から、証明、論証が入ってきて、説明の質が格段に上がる。それぞれの時期にそれぞれのことについてしっかりとした理解と習得をし、それを活用した探究をしておかないと次の学習に進んでいけない。その構造が、算数・数学の固有のことなのか、あるいは、概念を基に思考を深めたり広げたりするという学習から見たときに、他教科との関わりがあって、ある程度のくくりでうまくくくれるのであれば、そういうことを明確にしていくということで、指導の重点が一層明確になって、資質・能力の育成に深く関わっていくのではないか。

○一般にカリキュラムは新しいことが増えていくように見えていて、コアになるような、例えば、「1」という概念の把握の仕方が学習にともなって広がりと深まりを持って大変意義深いものになっていくという認識が欠けているように思う。算数だと「1」とか「三角形」のように、各教科における急所にあたるようなもの、そういったものの示し方をどうしていくかということが重要。

○それぞれの校種が、その発達段階的に上の校種の下請けではないという前提がまずあるべき。その前提を共有できていないというところがまだあるのかなと思う。まずその前提の基礎を作る段階というのが大事。外国語活動が話題になっているが、学びのプロセスの根っこを考えていくと、それは言語とは何か、人間とは何かということにまで通じるようなものだと思う。外国語活動に触れる初期の中学年段階での体験的理解という言葉も印象的。例えば、英語で他の言葉を通訳してもらうと、英語が近くなることがあった。文法を分析して理解させるということの前に、そういった相対的な理解を育むために、文法の違いや、色々な言葉が世の中にあることなど、体験的認識というものを何らかの形で入れられればよいと考えている。

○子供の体作りや体力・運動能力というようなことは必要。現場で子供たちを見ていると、手先だけではなく体全体が不器用であったりとか、例えば、まっすぐ立てないとか、常に体が動いているとか、滑らかな動きができない、そういったことから生じて、鉛筆が器用に持てないから字も枠の中に上手に丁寧に書けないといったことがある。そういう視点も、今の子供たちの体を作っていくということにおいては、一般の学校においても重要になってきて、何らかの策をとっていく必要があるのではないか。

○高学年における英語の教科化について。今まで小学校の先生の努力もあり、子供たちは意欲も関心も増してきている。ただ、高学年では、母語で行っている学習内容や、やり取りをしている内容と、当然のことながら、外国語でやり取りしている内容には大きな落差がある。当然、言語の自然な習得のようなわけにはいかず、中学校になればかなり意図的に学習するという段階に入っていく。そこの接続が今のところはうまくいっていない。いろいろ体験的に活動して、意欲は高まってきたけれども、実際言おうと思っていることが言えない。それに対して、意図的に学んでいくにはどうしたらいのかという段階が小学校の高学年だと思う。そこに文字言語、読み書きを入れるということで、改めて母語とは違う言語システムを明示的に理解することができるようになるわけで、そうすることによって言葉というものを相対化するという力が付いた上で、中学校の学習に入っていくことができる。小学校高学年の知的な発達段階に、これまでの外国語活動に基づきつつも、中学校とつなげていくための書き言葉を加えた学習をある程度まとまった時間をとってカリキュラムの中に入れていくということが必要な段階に来ている。○体育については、現行の学習指導要領の中では、小学校から高等学校までの12年間を見通した系統立てた内容で、四年ごとのまとまりでうまく体系化されており、学校の先生方は目標、指導、評価の一体化という中では、今回の学習指導要領に寄り添って、今ちょうどうまく機能しているところ。面白い授業や子供たちの反応も見えてきて、個人的にも、十分定着してきつつあるということを思っている。一方で、中学校につなげるという意味でも、また、小学校五、六年生という発達段階を考慮しても、運動経験はもっと持たせてやりたいと思う。そういうことで、運動好きにするとか、運動経験を増やすことで、もっと運動をやってみよう、もっと健康に向かってみようという気持ちも膨らむのではないか。

○全国体力・運動能力、運動習慣等調査の結果から、いろいろな成果も出てきてはいるが、残念ながら中学校二年生の女子においては、運動の二極化ということが言われている。特に中学二年生の女子が運動離れしているという状況は、この女の子たちが将来大人になって、母親になり、子供たちにどう関われるかということを考えたときに、やはり運動が好きでやってきたお母さんは、子供たちにもそういう運動経験をさせるというような意識になると思うが、そうでないところは、子供もなかなか運動に親しむことができない環境で育ってしまうということも考えられると思う。何より子供の頃に運動にあまり興味がなく、経験がない場合は、将来の健康課題にもつながってくる。将来の日本を支える今の子供たちが健康であること、体力をしっかりつけておくということは大事なことだと思う。

学習や生活を支える「言語」の役割を踏まえた、言語に関する能力の育成について

○いわゆる言語能力について、例えば、いろいろな言語の違いに気付いていくとか、その言語の違いから文化の違い、ものの考え方の違いなどに気付くということ、その土台を小学校のころから少しずつ体験させていくというのは非常に大切なことだと思う。その際、単純に明示的にこれはこうだよ、あれはこうだよ、日本語と英語はこう違うんだよと、上から教え込んでも子供は多分気付かないと思う。一番大切なのはそういうものに自ら気付いていけるような体験をどれだけさせていくことができるか、どれだけそういう環境を整えることができるかということが大事。

○外部の方が今の子供を見たときに感じることとして、大人に対する対応がうまいということがある。しかしよく見ると、子供同士は挨拶をしないということが指摘されて、これにははっとした。子供は就学前に、保護者だけでなく、いろいろな幼児教育機関に通っていて、多くの大人と接触している。小学校に入ってからも、小学校に支援員の方が大勢入っていたりして、何か困難があるとすぐ大人が声をかけてくれて、言葉を差し伸べてくれるということがあって、大人との接触は結構ある。ところが、肝心の子供同士のコミュニケーションというのがあまりうまくいっていない。これは昔であれば、就学前に子供同士の遊びなどの中で培われてきたものが、現在はないということだと思う。子供が十分自分で言葉を使えない前に、大人とのコミュニケーションで、言語能力に長けた人とのコミュニケーションをやって、察してもらったりしながらうまくやってきているわけだが、未熟な者同士の同年代のコミュニケーションというのに困難を抱えていて、それが特に最近の小学校の低学年での暴力行為が増えているということなどにつながっているのではないかと最近思うようになってきた。従来学校の中で、カリキュラム横断的に言語能力を養っていくということが言われていて、それは学習のための言語であったわけだが、生活の中の言葉のやり取り、特に子供同士のやり取りというのが難しくなってきているというのが最近の大きな課題ではないか。これは例えば、国語の時間の中でディスカッションやディベートをするといったことでは、なかなか解決ができない問題ではないかと思う。大人が多くて子供が少ないという環境の中での子供がどういうふうに言語能力を身に付けていくのかということについては、小学校のカリキュラムを考える上で一つの課題として考えていく必要がある。

(主査のまとめ)
○各教科等が小学校の教育課程の中でそれぞれ所期の目的・使命を果たしているのかという視点で、それぞれの教科の現状と課題を精査する必要がある。あるいは、そういうことについてデータを持っておく必要がある。それぞれの教科等の存在理由を考える際、他教科等との連動性、親和性も考慮したうえで、とりわけ小学校の教育課程は考えなければならない。低学年の学力の問題もこれと関係があり、学級経営がうまくいくかどうかが、学級間における学力の指導力の違いにあらわに出ているのではないか。チーム学校というのも、高学年だけのテーマではなくて、小学校の一年生から、どういう形でチーム学校というのを作り上げていくのかが問題となる。そうすると、学級経営と学年経営の連動性や、学校としての全体としてのカリキュラム・マネジメントといったことになるかと思うが、次回カリキュラム・マネジメント等の中で御議論いただければと思う。

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