資料9-1 教育課程部会幼児教育部会(第3回 平成27年12月24日)における主な意見(未定稿)


教育課程部会幼児教育部会(第3回 平成27年12月24日)における主な意見(案)


1.幼児期において育みたい資質・能力について

○ 幼児期には、このことがどんなことなのかとか、分からないことが分かったら面白いとか、自分がやろうと思ったことができるようになったとか、自己肯定感につながることもあるのだが、そもそも学ぶということはどういうことかということが幼児期にしっかりと押さえておく必要がある。正しいとされていることをただ上から強いるとか、大人から教えてもらうことではないということをしっかり幼児教育が発信していくということが大事ではないか。自分で正しさとは何かということをいろいろ考えながら、本当にこのことは大事なことなのだと思っていくこととか、こういうことが分かったら本当に楽しかったとかという経験をすることにより、小学校以上の教科につながっていくことが打ち出せたらよい。

○ 幼児教育が基盤とする活動として、一つ、遊びという言葉が出ていて、それと横並びの言葉として、生活という言葉がある。遊びという言葉と生活という言葉をどのような意味合いにおいて実質化していくかということではないか。小学校以降では、一つは生活ということを核にしつつ、それをよりよく支える知識としての科学、学問、つまり教科に分化していく。
そうなったときに、教科というものが人ごとではなくて自分事につながっていくのだろうと思うが、その基礎、基盤としての幼児教育において、その遊びという言葉と生活という言葉がどんな意味合いとして整理し、書き込んでいけばいいのかということを、しっかりした御議論していただくのがよいのではないか。

○ 幼稚園教育要領の総則において、幼稚園教育の基本として三つ定められており、その1番目に、幼児期にふさわしい生活ということで、生活という概念がここに入れられている。ただし、これは、ただの衣食住ではなく、幼児の主体的な活動を促すという意味での生活になると思う。
2番目に、幼児の自発的な活動としての遊びとなっており、幼稚園にいる間は、当然ながら、全てが生活ではあるが、その中で、とりわけ幼児の自発的な活動としての遊びが成り立つ。
そういう二段構えの構成、これが幼稚園教育の基本の基本だと思う。

○ 幼稚園教育要領の解説には、幼児の生活はほとんど遊びによって占められており、生活を基盤にしながら、子供たちが何かを獲得したり、学んだりするというのは、遊びを通して行われるものであるということを解説している。

○ 生活科の中では、まだまだ子供たちの遊びとか、遊びの工夫とか、遊びの創造ということを通して、いろんなことに気付くとか、それが生活を豊かにしていく基盤だという考え方もある。遊びから自覚的な学びへの移行について、幼児期といっても3歳、4歳、5歳で変わってくる。そこから、今度は6歳、7歳と低学年教育の段階に、どのようなグラデーションがあり、それが変化したり、進化したりするのかということは、幼児教育だけではなく、低学年教育までも含めた描き方ではないか。
子供の学びとはどういう質のものとして展開し、どういう質のものとして展開してほしいと願い、実際にカリキュラムや意図的な指導を構築するのかという話だと思う。そこで、遊びというものが、3歳、4歳、5歳、6歳、7歳あたりまでは、かなり遊びということが入ってくると思うが、それをどういうふうにカリキュラム全体の中で位置付けていくのかという話にもつながってくるのではないか。
もう一つは、小学校以降では、遊びという言葉がすごい意味のあることとか重要なことであるとか、それが基本になっていろんなことが生じてくるのだということが余り理解されていない。生活科ではともかく、他の教科ではその辺が弱い気もする。
まず幼児教育の中でどのように意味付けるかということと、そこから6歳、7歳、低学年教育にどういう訴えをしていくか。生活科はダイレクトにいくし、それを受けとめる基盤は生活科にあると思う。これはスタートカリキュラムとも関係するが、生活科を核にしてスタートカリキュラムを作り、そこをクッションにして、各教科の成立をいい形、本質的な学びという形で促すというか、スタートしていくということを考えると、遊びという概念が割と核のような気がする。

○ 小学校の場合は、生活科はまさに生活の科であるが、幼稚園と多少違うのは、幼稚園教育で言う生活というのは、まさに子供が幼稚園に登園して帰るまでの全てであり、その生活を通して、いろんなことを得ていくということであることだ。生活科の場合は、学校その他の生活の場を通して体験してという面とともに、生活科において、その生活を対象として見るということ。つまり、学校生活とか家庭生活とか地域の生活を対象として考えるという面も含む意味で、認識面が広がっていると思う。そこが幼児教育と生活科との違いである。
もう一つ、小学校教育で注目すべきこととして、特別活動の中では学級の生活というのが入ってくるため、それはまさに学校、学級における人間関係その他の生活を作るということである。そういった連続性の違いというのが多分あり、今回の改訂では、特に幼稚園教育と小学校教育のつながりが問題となっており、それを念頭に置きながら、改めて、幼稚園教育の中の生活、それから遊びを考えてほしい。
それから、幼稚園の中で、例えば年長児になってくると、もう遊びというか生活というか、例えば、自分たちの生活を作っていくようになる。例えば、飼育当番とかお掃除、片付けとかは、遊びとは少し違う気もする。ただ単純な衣食住の生活でもないため、まさに生活主体になるみたいな部分であるが、そういうことをどう表現していくかも、検討してほしい。

○ 小学校以降の教科において生活を考えたときに、特別活動のような場も考えなければいけないし、その中で、小学校以上で、共同体の中の一員としての義務と責任のようなことも非常に明確に意識するようになると思うのだが、そこにどういうふうに、幼稚園の時代からつながっていくのかということを考えなければいけないのかなと思う。

○ 低学年においては、図画工作科においても、幼稚園との関連がある。遊びという言葉として、小学校6年間通して造形遊びがあり、その遊びというのは学習の中での遊びという捉え方が中心ではあるが、材料と関わるとか、そういったことから発想を広げたりするというようなこともある。幼小連携の中の一つの大きな柱として、図画工作科というのも入っていることも知っていただきたい。

○ 個別の知識や技能の基礎、思考力、判断力、表現力等の基礎、学びに向かう力、人間性等というこの三本柱がいかに関連するかということと、この三つの柱、それぞれどのように捉えるかということが非常に重要になってくる。
幼児期の知識の在り方というのはどういうものかということを一つ、ここで押さえて、個別の知識や技能は、個別の対象とのふさわしい関わり方というのを子供が身に付けていくということなのだということとして捉えられるのではないか。
思考力、判断力、あるいは学びに向かう力というものを捉えるときに、やはり保育の中で展開する、子供が行う活動の過程の質というところを捉える視点として、ここが重要なのだというところが一つ、大切ではないか。
知識や技能が身に付くとしても、それがやらされて身に付くとか、それを身に付ける意味ということを子供が理解しないまま、大人が与えてしまうということでは、恐らくそれは幼児期の学びではないのではないか。思考力、判断力、表現力等も、子供が自分なりに考えて工夫するというプロセスにおいて、そこにあるのかということをしっかり見なくてはいけないのではないか。思考力、判断力、表現力等の基礎や学びに向かう力、人間性等が欠けた形で個別の知識や技能の基礎ということが成り立つということはなく、この三つが関連しているということをしっかり押さえるべきではないか。
思考力、判断力、表現力等の基礎の赤字の表現のところで、「気付いたこと、できるようになったことなどを使って」とあるが、これだと、できること、気付くことが先にあって、それを用いて子供が考えるという発想と思われ、幼児期は、できるようになったり気付いたりするそのプロセスの中で、個別の知識や技能を獲得していくこともある。そのような学びの特性をしっかり押さえるべきではないか。

○ どこに入るのか難しい部分はあるかと思うが、この学びに向かう力、人間性等というところの下のハの協同性のあたりに、幼稚園のときに、例えば滑り台の順番を待つとか、順番が来たら譲り合うようなところがあってしかるべきではないか。協調性というか、時間が来たら譲るとか、そんな人間性みたいなところが、この学びに向かう力とか人間性あたりで培えられないか。

○ 物と関わる、人と関わる中で、この赤字で書かれているのは、感じるとか、そういう感性とか感覚といったものだとか、試す中で自分の体の感覚を養う、磨いていくというようなことが行われていくと思うのだが、磨いていく上で重要になる、関わりの質を高めていくということは、環境や人と関わる中で、高められていくと思う。基礎というよりもさらにベースとなる土台として、そういう関わりの質をいかに高めていくかというようなところの視点も入れていただけるとよいのではないか。

○ どこに入れるかというところはあるが、「自然への畏敬の念」、「好きな遊びをする中で自己決定をする」、「自分で遊びを見付ける力」、「好きな遊びをするということの中で子供がちゃんと遊びを見付ける」、「自分で見付けられる」というようなこと、それを力と言ってしまうと、誤解があったらいけないが、「意思決定ができる力を育んでいく」というようなことを入れていく。思考力に入れた方がいいのか、学びに向かう力の方に入れたらいいのかというのは、まだはっきりしていない。
学級運営、クラス運営としての幼稚園の集団を考えたときに、「友達との関係力の育ち」とか、「社会に適応できる力」をある程度書いておく方が、担任の先生がクラスを運営していくときにも分かりやすいのではないか。

○ 幼児教育は本当に人が生きていく上での根本と感じており、その中で、学びに向かう力を強調していけないか。
自発的というすばらしい言葉が幼稚園教育要領にあって、これは小学校、中学校と上がっていくと、どうしても自主的、主体的というような、目的があってという方向に変わっていくような気がしており、ここをぜひ強調できないかと思っている。
例えば、好きなものを見付けて、それに浸っていくとか夢中になっていくとか、そういうことがまずあって、気付きとか工夫が生まれていく学び。これができるのはやはり幼児教育ではないか。小学校以降、試行錯誤がなかなか難しくなっていく。そういう中で、学びの原点が意欲というところに非常にあるのではないか。
全国体力・運動能力、運動習慣等調査において、小学校5年生で運動への関心が低いという子たちは、幼児期のときに楽しい、夢中になったという経験が非常に少ないということがデータでも出ている。どちらかというと、技能よりも、好きということがその後のスポーツや生涯学習を考えたときに非常に影響しているということが見えてきている。そういうことからも、もしかすると具体的な姿で言うべきなのかもしれないが、この意欲を具体的に強調できないかと感じている。

○ 全体的には修正していただいたのでいいと思うが、教育基本法に、幼児期の教育は生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものとの規定があり、学校教育法の中では、幼稚園は義務教育及びその後の教育の基礎を培うと規定されている。メタ認知的な考え方であるとか非認知的な能力の育成とかを重要視すれば、幼児期にたどり着いたという流れから見れば、幼児期の遊びを通しての学びというものが、実はこれからの高度成熟社会の中で求められている学力のベースが幼児期に引き継がれているのだというようなこと、それは遊びを通して、または生活を通しての、幼児期のその中で培われているものが、そちらにも結び付いているのだというようなことを総則かどこかに、もう少し明確に書けないか。
小学校との接続を考えると、5歳の育ちの姿が、どういう道順であろうと、その工夫ができれば小学校の基礎になるという論理におさまってしまうリスクがあるわけではあるが、生涯にわたる学びの基礎として幼児期に何があって、それは遊びを通してという道順の中で、一人一人の道順の中でそれが培われるんだという論理構成に持っていければ、余り5歳の育ちの姿にこだわらなくても、全体の生涯の培い、または、その基礎が、いわゆる人格形成だけでなく、学びの基礎というものが幼児期の中の遊びの中にあるんだという表現を、総則の中に入れてほしいということである。

○ 現行幼稚園教育要領の第2章に、「この章に示すねらいは、幼稚園修了までに育つことが期待される生きる力の基礎となる心情、意欲、態度などであり、内容は…」と規定されている。この資料の学びに向かう力のところで、「心情、意欲、態度などを育み」と示されているが、幼稚園教育要領で示す生きる力の基礎として捉えている心情、意欲、態度と、ここで表している学びに向かう力の心情、意欲、態度について、先生方が混乱しないためにも丁寧に説明しておくことが必要ではないか。

○ 三つの柱のバランスが、非常によく表されている。この三つの柱の調和というのは大切で、特に学びに向かう力と人間性を土台として個別の知識や技能と思考力、判断力、表現力が成り立っていくというような関係性を捉える手掛かりとなり、非常によいのではないかと思っている。
もう一つは、土台としているものが5領域であり、幼稚園修了間際の姿として、幼児期の終わりに育ってほしい姿、こういった構図にイメージとして表れているのだと感じている。ただ、関係性が分かりずらい。5領域とこの三つの柱の関係性をどこかで明らかにしていく必要あるのではないか。
学びと遊び、これは小学校側から見ても、遊びと書いてしまうと誤解が生じることになる。今回の幼稚園教育要領や学習指導要領は他校種の先生が見ても、あるいは地域の人や一般の人が見ても分かるような形にすべきということを踏まえると、遊びにはどのような価値があるものかをどこかに示していく必要があるのではないか。
小学校体育の運動遊びとか跳び箱遊びとか、単元に遊びという言葉が使われているが、やはり小学校側が遊びに含まれた価値を理解せずに、従来どおりの教科指導になるという課題も出るのではないか。
子供たちが自発的に価値を見出しながら経験的に学ぶものが遊びであって、小学校の各教科の学習は、指導する側が価値を見出している。しかし、子供たちが自発的に見付けたように環境を整えて学習を進めていくということが小学校でも大事にしたい。スタートカリキュラムにつなげる意味でも、遊びの価値を再認識するような言葉があるとよい。

○ 現場では、環境を用意しなければ、幼児の自発的な遊びできないということがある。幼児一人一人の様子を見て、行動の理解と予想に基づいた環境を用意するということで、初めて本質的な学びができる遊びになると思う。
幼児期の特性を踏まえた、環境を通しての教育ということを、小学校で言えば、思考、判断力、表現力の教科等の本質に根差した見方や考え方のところと同列の括弧書きの上の当たりに入れていただくと、小学校の生活であるとか遊びであるとかというものの違いも少し分かるのではないか。

○ 遊びと生活という受けとめ方が多様なところもあるのではないか。生活科の中では、手段として遊びを取り入れていくことが、多いと思うが、幼稚園教育の場合には、遊ぶことが目的的になっており、特に、3歳、4歳の場合は、楽しいから、面白いものがあるから、そこに関わっていき、自発的な活動としての遊びが展開される。そのように考えると、遊びや生活の中でという言葉から始まるよりは、自ら環境と関わる中でという表現の方が幼児期の教育が伝わるのではないか。
学びに向かう力、人間性等の部分は、特にこの三つの資質の中では、学びに対する考え方も、遊びに対する考え方も、伝わっていく書き方、工夫が必要ではないか。

○ 小学校から大学まで、教科の勉強はしっかりやってきたと思われるが、幼児期にどういう経験をしてきたのかと思わせるような親が結構いる。幼稚園で育んだ力は、実はリプロダクトのところで見えてくると思っているので、幼稚園の教育がその後の次の世代を育む、その土台になっているということを指摘したい。
三つの力をまず包括するものとして、環境というものがこの中にあってほしい。やはり、小学校以上の教科につながっていくような、見えない線を感じてしまう。
学校行事である、運動会、学習発表会、遠足などで、みんなで話し合ったりしたときにこそ、幼児期にこういった豊かな体験をした子供の力が発揮されると思っている。幼児期に育んだこの三つの資質・能力を小学校以上の教科のみに収束させるのではなく、日本の教育で非常に大事な意義をもつ学校行事にも表れてくるという意識も持つ必要があるのではないか。

2.幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の明確化について

○ 健康な心と体の項目に、いろいろな遊びの場面に応じてとあるが、この文章だけだと、幼児期の終わりまでにということが見えにくいので、例えば、友達の動きだとか、遊具、用具、様々な地形に応じてというような、どんなものに応じて体を動かしていくのかという具体例を入れてはどうか。また、体の諸部位を十分に動かすということだけではなく、例えば、いろいろな感覚を味わうとか、体の動かし方や使い方を調整するというようなことを加えてはどうか。
改訂案の健康な心と体の三つ目の自分の体を大切にする気持ちを持つというところを、もう少し体の成長を喜ぶとか、健康に過ごすために必要なこと、あるいは、必要な理由を意識しているのか、意識して丁寧にしようとするというような気持ちを持って、子供たちの姿としてどういうふうに表れているのかということを加えてはどうか。
健康な心と体の項目に新しく入れた安全であるが、例えば、周りの状況や人や物に注意を向けて確かめたり、安全に気を付けて行動したりというような中身を付け加えてはどうか。
衣服の着脱、食事、排泄(せつ)などの生活に必要な活動の必要性に気付きとあるが、ここは気付くという表現を使うのか、分かるという表現を使うのか、整理が必要ではないか。また、必要な理由が分かりとか、必要なことの意味が分かりとかという表現がいいのではないか。
改訂案の健康な心と体の六つ目は自分たちの活動に見通しを持って取り組むということに加えて、例えば、気持ちよく、使いやすくなるように生活の場を整えようとするということが5歳の姿ではないか。
改訂案の自立心の項目の三つ目であるが、最後までやり遂げて、前と違う自分を自覚するということが、この満足感や達成感を持つということに通じるのではないか。
改訂案の協同性の四つ目の皆で共通の目的を持って話し合ったり、皆の考えをまとめたり、役割分担などをしたりして協力するということの続きで、協力したり、責任を持って役割を果たそうとするということが、子供たちの中で、役割分担を自分たちでやっていくと、その役割は責任を持って果たそうとするというような姿があるではないか。
改訂案の道徳性の芽生えの一つ目では、相手も自分も気持ちよく過ごすためにの後に、自分の行動を振り返るという言葉を入れてはどうか。
改訂案の規範意識の芽生えの三つ目は、友達と折り合いを付け、自分の気持ちを調整することだが、例えば、人の気持ちを聞くとか、周りの状況を見るとか、感じることを通して、よりよい方向に向けて友達と折り合いを付けるという方向性が欲しい。
改訂案の思考力の芽生えの二つ目では、喜びや味わいというのがあるが、この味わいというのは、判然としない。思考力の芽生えでは、物の性質や仕組みについて自分なりに考えたりという表現や、不思議に思ったことなどを探索するとあるが、この辺りが大事なのではないか。また、いろいろな予想をしたり、予想したり確かめたりという表現は、問題解決に向かう姿としてあるのではないか。
改訂案の一つ目の自然との関わりのところで、自然の大きさや不思議さが、例示として挙げられているが、例えば、自然から感じるものとして、美しさであったりとか、心地よさであったりとか、厳しさであったりとか、例示として適当なものを考えていくということが必要ではないか。
また、改訂案の自然との関わりの三つ目に、自然の不思議さをいろいろな方法で確かめるとあるが、ここに子供が考えているような自然の不思議さから、この原因は一体何なんだろうかという原因を予想しているということがあるのではないか。
生命尊重、公共心などの項目で、公共心について、もう少し具体的な中身を入れるとすれば、例えば、自分の生活に関わる社会の人の役割に気付くとか、公共の場での決まり事の意味とか、そこでの過ごし方を考えて、それらを意識して行動するというようなことがあるのではないか。
生命尊重では、季節によって、育つ野菜が違うことに気が付くとか、感じることもあるのではないか。また、動植物の変化も、1年を通して変化していくということを感じることもあるのではないか。友達同士で目的に必要な情報を伝え合ったり活用したりということが、例えば、メディアの活用みたいなことも含まれるのであれば、この部分に、図鑑とか絵本などを使って、知りたいことを子供たちが、自ら調べようということがあってもいいのではないか。
数量、図形、文字等への関心、感覚の項目では、もう少し言葉について充実していく方向で検討していいのではないか。また、数量とか形、図形、あるいは空間、この部分はもう少し表現を詳しくしてもいいのではないか。文字や様々な標識について、読んだり、書いたり、使ったりするとあるが、遊びや生活の必要性から、読んだり、書いたり、使ったりという表現にしていないと誤解が生じるのではないか。

○ 健康な心と体の項目の表現が、体にかなり力点が置かれており、心の面が少し足りないのではないか。もう少し、心の面で、困難に向き合ったときに、どう向き合って乗り越えていくかといいことも書くべきではないか。
また、全体を通して、社会の多様性が進むことについての視点や異文化理解の視点もあってもいいのではないか。
生命尊重、公共心等の項目で、国旗が取り上げられており、自分の国の国旗に誇りを持つことは非常に大事だと思うが、国旗を例に出すのであれば、例えば、様々な国の国旗についても触れた方が誤解を生まないのではないか。
小学校以降でも、特にこれからESDが重視される方向であり、問題発見や問題解決型の学び、領域横断的な学び、それらを通して自立的な心、子供の成長を促していく視点があることから、キーコンピテンシーや新しい学力観等も含めて、どんな姿に育ってほしいかということを考えることも大事ではないか。

○ 資料2の個別の知識や技能の基礎は、単なる具体的に理解できるとか、逆上がりができるということではない。感性や表現の部分も関連するが、生涯にわたるということを考えながら、このことを説明していく必要があるのではないか。

○ 自己肯定感を育むことが今の幼児には大切ということに該当する文章が自立心の項目の最後に入っているが、自己有能感のように受け取れる。みんなから愛されて、自分が大切だから友達も大切ということを入れる必要があるのではないか。
改訂案の規範意識の芽生えの項目の三つ目に友達と折り合いを付けてとあるが、友達の気持ちを知って、自分の気持ちと向き合って、葛藤しながら、よりよい方向に向かっていくといった、子供たちが自分の気持ちを調整するまでの過程が入るとよいのではないか。
生命尊重と公共心等の項目は、寄せ集め的な感じがする。生命尊重は、自然との関わりへ、情報の活用は思考力の項目に入ると思う。また、国旗に親しむとあるが、今は様々な国の子供が在園している。国旗に親しむだけではなく、いろいろな国の人たちと親しむとか関わるとかを入れて、人との関わりの項目に入れてよいのではないか。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の全体構造として考えたときに、例えば自然との関わりの項目と生命尊重、公共心等の項目のように、内容が重複した部分があるので、少し整理する必要があるのではないか。
また、思考力、判断力、表現力等の基礎の部分で、例えば、思考力のプロセスにある探求心や好奇心を入れることによって、メッセージ性が高まっていくのではないか。そういう意味で、もう一度、項目も含めて整理していく必要があるのではないか。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿に書き込むのか、あるいは、幼稚園教育要領解説に書くことがあってもいいと思うが、いつも元気でポジティブなのではなく、子供たちの育ちの上でのつまずきや葛藤など、ネガティブな面も見えてくるようなところがあってもいいのではないか。
言葉の機能としては、幼稚園教育要領には言葉の楽しさ、美しさということがあるように、リズムであったり、響きであったり、言葉そのものを楽しむということがあり、そこから表現にもつながっていく。このような言葉の豊かさというところも見ていくことが必要ではないか。
自己コントロールにも言葉が関わっていくということが、観点として入っているとよい。
文字について、幼稚園教育要領の中では文字「など」と、「など」が付いていたのが、ここの姿のところでは全て落ちており、文字を正確に書かなければいけないと誤解されるのではないか。

○ タイトルが幼児期の終わりまでに育ってほしい姿であることから、姿が分かる文末表現として統一すべきではないか。例えば、何か活動しているというレベルで文末はまとめつつ、その手前のところで、心情、意欲、態度を丁寧に書いていくというような、それぞれの文章の書き方の整理が必要ではないか。
健康な心と体の項目で、体、情緒的な安定や、その感情を率直に表したり、感じ取ったりというような、感情のコンピテンシーに関わることを盛り込むことも必要ではないか。
自立心、協同性、道徳性の芽生え、規範意識の芽生え、さらに生命尊重、公共心等は内容が似通っているところもある。自立心は、自分のことは自分でする、協同性は、人と一緒に活動する、何か具体的に活動するということ、道徳性の芽生えは、もう少し広く、共に様々な人と生きるというところで必要なこと、規範意識は、明文化されたルールというようなものに対してどう関わるのかというように、それぞれ少し言葉の整理とか定義が必要ではないか。そのように考えると、規範意識の芽生えの項目の最後に入っている、友達と折り合いを付け、自分の気持ちを調整するは協同性に入れてもいいのではないか。
三本柱になっている育成すべき資質・能力と、イからヲまでの項目がどう対応するのかの整理も必要ではないか。このイからヲが三つの柱のどれかに分かれるというよりは、イの体を動かすとか、生活習慣に関わることと、チの自然との関わりからヲの豊かな感性まで以降は、どちらかというと個別の知識や技能の基礎に割と重きを置いて捉えることもできるし、あるいは、思考力の芽生えは、思考力、判断力のところに特に深く関わるというように、このイからヲまでが、三つの柱とどう関連するのかも整理して、提示できるとよいのではないか。
書き方の表現が、分かり合いとか、友達のよさを分かりというようなところは、友達のよさを感じとか、心が動くというように、認知的に理解してやっているというよりは、気持ちの面で動いているという方が、幼児期の姿としてもよいのではないか。

○ 人との関わりの項目で自信や希望、それから夢を持って自己肯定感が育まれて、そして自己有用感が芽生えていくというような関わりがセットになっていて、非常によい。これらのことは、義務教育以降でも、大事にしていかなければならないのではないか。
今、義務教育の中では、いじめの問題に関連して、生命の尊重において、成長や変化という言葉を確実に入れている。この変化の中には、小動物の死も含まれてくると思っており、そこを強調していくとよい。
健康な心と体の項目の安全教育に関わるところで、遊びを通して、安全に関する知識を身に付けるということを強調していきたい。経験を通した学び方、身に付け方が義務教育以降の安全教育の在り方につながっていくのではないか。
特に、5歳児ぐらいになってくると、身に付いていたはずのものが、欲求が優先され、できなくなることがある。そういった部分を配慮すべきこことしてどこかに書き込む必要があるのではないか。

○ いろいろな人との関わりの項目で、文化のことが入ったことは、とてもよかったと思っているが、行事などへの参加ということが強く感じられる。例えば、周りの人間が口ずさんでいる歌に耳を傾けるなどといった、身の回りの文化に触れていくというようなニュアンスでもいいのではないか。
関係する主な小学校の各教科等の関わりでは、音楽が豊かな感性のところにしかない。表現するということは、例えば、身体であるとか、言葉であるとか、思考力にも関わっていると考えており、これらにつながるということを入れることによって、音楽表現がそのまま芸術音楽につながるということとイコールではないことが、メッセージとして伝わるのではないか。

○ 興味、関心、意欲がかなり盛り込まれたことで、幼児期の学びを捉えやすくなったと思う。
健康な心と体の項目は、内容的に難しいのではないか。また、健康、体力というのは、体育という狭い考え方ではなく、生きる力の三つの柱の一つであるということを考えると、幼児期は非常に重要である。
したがって、例えば、好きな遊びを見付けてとか、あるいは、好きな遊びに夢中になって取り組む中でというような枕言葉を付けるか、若しくは、体を動かす様々な活動に夢中になって取り組んだりということが先なのではないか。
また、いくつかの項で、目標と目的、主体的と積極的という言葉が使われており、当然、意味は違ってくると思うが、外部から違いは何なのかと問われることになるので、幼児教育としての定義をはっきりさせた方がよい。

○ 幼稚園現場でも分かりやすくなるよう、指導者用資料というものを出してほしい。これまでも、国からたくさんの資料を出していただき、それがすごくよかったと思っている。より具体化、よりプロセスを感じ取れ、考えられるような資料が絶対に必要である。

○ 自分の身近なものとか人とか社会とか文化に出会って、そこに面白さを感じて、世界を広げていったり、人との関わりを広げていったりする環境が大事である。また、学んでいくということに関して言えば、自分の周辺で起こった様々な出来事を取り入れていきながら、自分づくりがおこって、人との関係も育てていくようなイメージがあっていいのではないか。
子供たちが育っていくというのは、本当に身近なところに豊かな環境があったり、物だったり人だったりとか、保育者も含めて、文化だったり社会があって、そこに対して子供たちが世界を広げていくような面白さがある。広げていったりとか、葛藤したりするけれども、そこで自分ができたとか、行えたということが自己肯定感につながっていく。このように子供が育っていくという押さえ方をするというのは、構造化のイメージには大事ではないか。

○ イからヲの項目まである中で、子供の「自己」や「身体性や精神性」の育ちは、幼児期というのはばらばらではなく、「全体的に育つ」ということをどこかに書いておく必要がある。

また、健康な心と体のところにも、体の諸部位を十分に動かすということはとても大事なことだと思うが、体の諸部位では硬い感じを受ける。このため、幼稚園教育では指先を使ったりするようなとか、また、五感の感覚器官の育ちであるとか、操作性のようなものも含まれるようなことも書いておく必要がある。終わりまでに育ってほしい姿に書くのか幼稚園教育要領解説に書くのかということはある。
他文化、異文化共生関連では、家庭のことを知っていくということやインクルーシブを踏まえて違う他者を理解していくとか、タイプの違う人との関係も作っていくということが必要。
協同性の項目に、「いろいろな友達と積極的に関わる」とあるが、どんどん関わることだけがイメージされないように、「多様な友達と関わりを深めながら」とか、「自己の力を十分に、思いを表出する」というような部分も入ってもよいのではないか。その中で他者を理解していくということにつながっていけばよい。
衣服の着脱をはじめとした、生活習慣は、やればいいということではなく、「自分で主体的にすることが心地良さということにつながっていく」ということが大事ではないか。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしいイからヲの項目は、大体この項目でいいと思う。リの生命尊重、公共心等の項目で、生命尊重だけでなく、公共心も入れていただけるとよい。最近、災害など様々なことがあり、自助、共助、公助の精神なども、いろいろと指摘されていることを踏まえると、やはり幼児のときから、公共のためを思う心であるとか、社会一般の公益を図ろうとする精神といったものを大事にするために、もう少し文章を補っていくことが必要である。

○ ハの協同性の項目に、国籍を超えたとか、多様な民族の人とのコミュニケーションとか、そのような言葉があればいいのではないか。同じく、国旗についても、異文化のコミュニケーションに親しむような機会が明記されているとよい。いずれにしても、中学校、高校で、これだけ海外留学とかが増えており、社会に出れば、国籍関係なく、働く方が増えてきているので、外国とか、そういう言葉が入ればよい。

○ イからヲの項目は、特に5歳児の姿をイメージして書いてあるものであるが、誤解を生む言葉もあったと思う。ここで示したいことは、こういう育ちの姿を通して小学校に移行していくということがイメージできる表現であり、幼稚園教育の中だけで閉じるのではなく、その先をいかに見通すのかということと、幼稚園教育の3歳、4歳、5歳の積み重ねをどうするのかという両方の視点から整理が必要。
例えば、困難な状況に対して、いろいろ思いをめぐらせて、自信を持って行動するというのは、3歳、4歳の時期は、そんな周りの様子などを気にせず、非常に活発に行動できる。ところが、ある時期になると思い迷いながら周りの様子を見たり、相手の表情を見たりという、そういう姿を通して自信を持っていく。その辺りが、5歳の姿の修了だけの自信を持つというところでいくと、むやみやたらと活発に行動する子供が自信を持っているかというふうに受けとめられてしまうので、そのようなときは、育ちの姿をここの中に入れていかなくてはいけないと思う。
また、言葉の整理をするときに、言葉による伝えのところに、注意して聞いて、相手の話が分かるというような表現になっているが、子供が相手の思いが分かる過程の中には、やはり人間関係の育ちの中で関心を持って聞くという中から、注意してという聞き方ができるようになっていくので、5歳の子供がそこの力を獲得するプロセスが見えるような書き方の工夫も必要ではないか。その中で3歳、4歳の積み上げと、小学校教育にどう移行していくのかという流れの整理が必要なのではないか。

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