資料3 教育課程企画特別部会(第9回、平成27年6月9日)における主な意見

平成27年6月23日
教育課程企画特別部会

1.育成すべき資質・能力と高等学校教育の充実・改善等について

  • 落ちこぼれと言われる子や学校に行けない子については目が向けられ始めたが、特別な才能がある子供たちをどう伸ばすかという視点は、これまで日本にはあまりなかったと思う。グローバル社会のなかで、すばらしい研究者などを出していくには、何か特別な才能があったときにこれを伸ばすという視点も必要。
  • 特別支援用の高等部の教科書を見ると、社会科や国語などのほとんどの教科書において、社会で生きていくためにはどのようなことが必要なのかという観点で作られている。特別支援が必要でない子供たちにとっても、この観点は必要であり、今の高校の中では欠けていると思うので、何かの能力や知識を与えるということと併せて考えていく必要。
  • 「アクティブ・ラーニング」の定義にはいろいろあるが、厳しく定義すると、イコール探究学習だということになり、総合的な学習の時間にやるものであって教科には関係ないと思われるおそれがある。総合的な学習の時間だけで探究的な学習をと言ってもそうできるものではなく、普段の教科の習得の授業の中でも、能動的な問題解決、協働、発表、討論といったような広い意味でのアクティブ・ラーニングをぜひやっていただきたい。同時に、習得の授業では先生による工夫された解説、説明、講義も重要であり、それとうまく組み合わせ、日常的に両立していけるような授業になればいい。
  • 高校や大学でトップの成績でなかった人のほうがアントレプレナーシップやイノベーションを生むという発表があり、どうハングリー精神を生みだすかということや、どう失敗を経験して学んで立ち直るかということが大事であるという結論であった。成功のみを積み重ねたエリートは大人になって失敗するとなかなか立ち直れないという現象は世界共通だと感じた。
  • 日本の生産性はOECDの中でも非常に低いという研究結果があるが、これは教育にも原因があるのではという議論があった。今後OECDなどからこれに関連した細かい事項がいろいろ報告されると思う。
  • どのようにリーダー層を育てるか、教育に反映するかということは世界中で話題になっている。リーダーシップというのは、教科書などで教えるものではなく、自分から参加して体験していくべきものであるが、これは高等教育ではなく、小・中・高でやっていくべきものである。高校においてどのようにリーダーシップを生み出すかということが課題。
  • アントレプレナーシップの大会で、小学生は世界でもトップの評価を受けるが、高校生は急落する。中学・高校教育においてアントレプレナーシップやリーダーシップのレベルががくんと下がるなにか原因があるのではないか非常に心配になる。世界的な起業家を表彰する大会でも、アジアの代表者が賞を取るなか、日本人はこれに入ってこない。日本からは世界レベルでのクリエイティビティーやイノベーションがなかなか出てこないと感じている。
  • 実技については、上達したことが評価されるということはいいと思うが、決してそれがすべてではないということが重要。体育でも、特定の競技がうまくできることだけで決まるのではなく、普段のスポーツへの意識が評価されたり、芸術であれば、芸術への意識のほか、例えば音楽鑑賞をしたときの感想文や、自分が参加し経験をしたことがどれほどプラスになったかが表れてくるようなものがあれば、それらが評価に組み込まれてよいと思う。
  • 体育の評価について、他の教科では、試験でいい点数を出して能力が高いということを評価されるとそれで成績が決まるが、運動の場合には、他の人に比べて技能が高いと自分で思っていても、それだけで評価されるわけではないので、評価は非常に難しい。最初のスタートがそもそも違うなかで、どこを評価するかということにつきバランスがうまくとれてくると、運動が苦手な子にも得意な子にもいい影響があると思う。
  • 体育では特に、教員のバックグラウンドによってかなり指導の仕方が違うため、何を教えるかということに加えて、どう指導するか、どう評価するかということが大事であり、どのように今後の学習指導要領に盛り込むかが課題。例えば、評価の観点では、最近ではマット運動を行うときに、子供たちがタブレットでお互いの様子を撮り合って後でそれを見ることで、最初のときの自分の姿と終わりのときの姿の違いが本人がわかり、自己評価が可能になる。また、タブレットで撮り合いながら子供同士でここがいい、悪いと言い合うような相互評価や、伸び率、相対的に見たときのスキルといったように、評価にいろいろなバリエーションを入れていくことが必要。
  • 芸術教科では、最終的に何ができたかという結果だけではなく、学習者の学びそのものを促進していくような働き、意味合いを評価しており、他の教科でもこれを取り入れるべき。具体的には、授業中の学習に対する姿勢やアイデアの質、理解の程度、深さなどであり、これを授業中の発言や振る舞い、作品、レポートなどにより、その価値や成長を学習者にフィードバックするという形成的評価の面が非常に重要。一斉講義の形式の授業ではこれがつかめないので、評価ができる場を作るためにも、アクティブ・ラーニング導入の意味がある。アクティブ・ラーニングのような指導では、指導の中で評価ができ、評価そのものが指導になる。自己の活動を見つめる目を育てるという評価の役割の一面もこれで可能になる。本来の意味での指導と評価の一体化を実現できる。また、これには授業者の子供を見る目を鍛え抜くことが必要であり、子供の資質・能力を育てるには、教員の見る目、授業力もこれとセットで考えていく必要。
  • 評価については、これまで教師からの値踏みという側面があったが、そのような上から目線の評価ではなく、児童生徒の新しい能力を育成していくための支援として行われるべきものという発想に転換していくべき。
  • 今の時代、少子化のなか、お互いに支え合うというよりは、わが子をどうにか苦労せず一人前にしたいという保護者が多い。また、子供たちの育ちに対して一つ一つをしっかり見ていこうとするため、子供は評価されることに非常に憶病で、集団のなかで自分を思うように発揮できない。このような中、協働的な学習の場面を作ろうとすればするほど、教師はそこにしっかり働きかけていかないと、子供たちはその中で自分の学習にしていけないという実態がある。この観点からも、評価の問題については、一人一人がもっている力をいかに引き出していくかという視点から取り組むことが大事。子供たち同士が、お互いの持っているよさを認め合いながら協働した活動の中で人と関わり合うと、自分ひとりではできなかったことが体験できるという観点で、学習集団の在り方というところにも視点を当てるべきと思う。

2.育成すべき資質・能力を踏まえた教科・科目等構成や内容の在り方等について

  • 高校生の各教科への重要性の認識について、芸術に対するこれが非常に低いことは課題。感性や表現力というのはどの分野に行こうと基盤になる部分であり、これが薄かったり弱かったりすると、このまま高等教育にいっても大きな成果は得られない。教科の全体的なバランス感覚をどのように育てていくかは大事であり、次の学習指導要領の改善後、このデータがどのように変化するかを押さえていく必要があるのではないか。
  • 突出した才能を持っている人を、全体のバランスだけから考えると、その突出した才能をつぶす可能性がある。バランスがとれているのはいいけれども、とれていなければいけないという一律的な考え方を一歩立ち止まって考えてみるべき。
  • 埼玉県では、協調学習を中心とするアクティブ・ラーニングの取り組みを行っているが、教科間の壁が低くなるなど、非常にいい方向に向かってきている。県内の専門高校においても、アクティブ・ラーニングを中心としながら様々な教育活動を学校で実施し、学ぶ意欲の向上や学力の向上などで大きな成果を収めていると感じる。一方、その分やるべきことが多くなってくるため整理、精選をしっかりやる必要がある。特に専門高校においては、資格取得の観点で課題。資格によっては、この科目が何単位以上必要などきっちりと決められているものもあり、全体の割合としての科目構成をどう考えるかをしっかり押さえておかなければ、この方面に影響が出るおそれがある。
  • 個別の知識や技能を教える基礎科目も大事であるが、各教科の中の本質になっている見方や考え方が、それぞれの授業の中や単元の中で見えるようにしないと、社会と自分との結びつきがわからない。その観点からは、新しく公民科の中に作られようとしている、社会とのかかわりや生き方をもっと充実させようという科目(公共)は重要になってくるだろう。それは、18歳選挙権の観点から政治的素養を教えるためということだけではなく、社会の中で自分たちがどのように生きていくのか、人生をどのように選択するかということに生かされなければいけないと思っている。
  • 高校の学習指導要領は内容を盛り込みすぎであると感じる。義務教育でない以上、何を学びたいかは子供たちが決めるべきであり、キャリアカウンセラーのような立場の人がこれをサポートすればいいのではないか。それが人間の主体性を育むことになると思う。
  • 高校は義務教育ではないため、すべて生徒の自由にするということも一つの考え方であろうが、そこに向けてのプログラムをきちっと組んでいかないと、大変な混乱が生まれる。そのためにも、高校教育そのものの課題は何か、それは改善されつつあるかということを本気で考えなければならない。そのためには、教育委員会が何に重点を置くのかという点で公立学校は大きく左右される現状があるので、そこも見ていく必要。
  • 新たな教科・科目の新設には消極的。現行の学習指導要領で言語活動をすべての教科・科目、取り組みの中で取り入れようとしたことは一定程度功を奏しており、教科の壁を本当の意味を低くし、つながりをつけていくことにもなるし、少し弱点と言われている総合的な学習の時間の充実にもつながるのではないかと思う。
  • 特別活動も含め、各教科がそれぞれ自らの存在理由を明らかにし、互いの教科のつながりをそれぞれの立場から示していくことが大事であり、そのことをもう一度教育課程全体の立場から見渡す取り組みが必要ではないか。
  • 高校の体育については、小学校、中学校からの継続、連携が重要。高校に入る時点である程度の資質、能力が開発されていないと、高校で運動嫌いになり積極的に取り組まないという現状があると思う。幼児期・小学校からの体育学習の充実と運動習慣の形成が高校や高校卒業後の豊かなスポーツライフにつながる。
  • 高校の体育は、特に大学に進学しない子の場合には生涯にわたる豊かなスポーツライフにつながる最後の機会であるため、いかに体を動かすことやスポーツ活動が楽しいという意識を育むかということが重要。技能を身に付けさせるところに重点を置きすぎると楽しさを味わえないので、基礎的な知識やスポーツの意義、「する、みる、支える」なども含めて、あまり上手でなくてもスポーツ、運動の大切さや自分なりの関わり方といったものをうまく伝えていくような授業展開をすることが大切である。その観点から評価の在り方は課題。
  • 高校生にもなると身体能力にかなりの差があるため、クラス単位や選択科目でやると苦手な子が参加しづらく、どちらにとっても不完全燃焼という状態となる場合もある。海外などでは、能力別のクラスを設定し、あまり上手ではないが楽しく運動をしているような例も見られる。
  • 保健について、情報化社会の中で、健康や体力、ダイエット等に関する情報が氾濫しており、正しい情報をいかに収集するかという能力も重要。これまでなかったような疾病などの新たな課題も出てきており、時代に合わせてこのような課題にどう取り組むかということも考えていく必要がある。ただ難しいのは、体力や健康はなくなってくると関心を持つものなので、高校の時点でこれらにそれほど不安がない中で学ぶ意欲を引き出すのは難しい。これから未来に向かって、心と体のバランスがさらに重要になってくるのは間違いないので、授業展開の点で工夫がさらに必要になってくる。
  • 高校では、体育の授業は改善がなされてきているが、保健についてはまだ知識を単に投げ込んでいるだけというところもあるため、今回の改訂で真剣に考える必要。
  • 保健体育のなかで、今の時代に性教育をどのように捉えるかということはまじめに考えるべき。小学生段階からの無防備さには目に余るものがあるし、現状で20歳未満の中絶が2万人程度というなかで、同世代の課題として現実的にこういったことが起こっているということを扱っていくことも必要だと感じる。
  • 芸術は選択科目であり、単位数も少なく、普通科高校からすると進学にも役立たないということで、軽んじられている傾向があり、これが生徒の中にも定着してしまっていることを危惧している。芸術の大切さがもっと強調されるような学習指導要領に変えていくべき。
  • 芸術が好きになるかは、子供の頃からの教育が大切。生で見る、生で聞くということが最も大切であり、マナーや周りとの調査なども学べるよう、なるべく劇場や美術館などの現場に行く必要。また、表現という観点からは、芸術というのはほぼ唯一個を爆発させられる授業であるので、地域の芸術家たちを呼んで、表現力を磨くような授業ができればいい。
  • 芸術科目は活動を伴うので、一見するとアクティブ・ラーニングをやっているように見えるが、自分の世界の中だけにいるということもあるので、外部の刺激を与えることが必要。この観点から、音楽や美術などの文化に関しての理解を深めていくということが非常に大事。
  • 芸術教育を考えたとき、美術館や劇場の無料開放が必要。ヨーロッパでは、高校生ぐらいまでただという国もあるため、学校教育だけでない開かれた芸術教育を、国全体で考えていく必要。
  • 家庭科に関して生活体験が少ない生徒が多いということであるが、実際の調理実習での事故などを見ても実感。体験的な学びが、家庭科に限らず、教科の中のみで完結してしまっている印象。高校教育が最も苦手にしているのが、教科を超えた取り組みであり、総合的な学習の時間もずいぶん改善されてきたが、なかなか熱心に行われず、定着しない。「在り方生き方」を考えていく観点では、校訓や育てるべき生徒像を具体化する取り組みが総合的な学習の時間でこそ行われるべきだと思うので、総合的な学習の時間を軸にして、どのように各教科の壁を越えていくのかということを強調する学習指導要領の在り方を考えるべき。総合的な学習の時間と各教科との間の往還が重要であり、その観点からはカリキュラム・マネジメントをどのようにしていくかということが大変大きなポイント。
  • 総合的な学習については、小、中、高校と各学校段階で考えていく必要。高校段階での総合的な学習の時間は、教科横断や教科連携といったものを促す点で教育課程上極めて重要な位置を占めてきたが、現状ではそれが功を奏していない。高校の先生方は、それぞれの専門の教科から発展させていけるような思考様式、指導力を持った方とそうでない方との混成部隊であるので、学校によって教師集団の組織力等が問われてくる。また、免許制度自体も、総合的な学習の時間はある意味で各専門の教科への付けたしになっており、先生方の意識もそのようになっているので、免許制度の在り方や研修制度自体も総合的な学習の時間の改善等と連動させながら考えていく必要。
  • 総合的な学習の時間は、本来、教科の力もかなり高まっている高校生が、その力をふんだんに使って探究的な学習をすることに狙いがあり、それは大賛成であったが、実際にはなかなか機能していない。教員養成のなかでも総合的な学習の時間でどのようなことをやるかが十分伝えられておらず、非常に残念。改めて、中学校や高校における総合的な学習の時間の展開についててこ入れをする必要がある。
  • 小学校の生活科やそれ以降の総合的な学習の時間について、今それが十分にできていない原因の一つに、教科横断的に必要となるような、思考ツールやその使い方、物の調べ方といった、核となるスキルが今一つはっきりしていないということがあるため、次の学習指導要領ではそこをより具体的に明記してもいいと思う。そのとき、具体的に明記すればするほどそれが画一化するおそれがあるため、豊かに読み取れることに配慮していく必要がある。
  • 総合的な学習の時間がその趣旨を生かし、体験活動を重視して、実体験に基づいた言語活動を進めていけば、学力が伸びるという例も示されている。そのような必要性を考えた上でも、総合的な学習の時間の時間数を増やすことを検討いただきたいと考えている。その理由の一つは、総合にとっての教材は生の社会であり、生活そのものであるため、計画的、系統的なものではなく、多くの情報の中から自分の課題解決に必要な情報をチョイスするところから試行錯誤があり、ある程度の時間の確保が必要になってくるということ。もう一つは、総合で関わる地域の方たちは教えるプロではないため、何度も繰り返し関わって一緒に活動する中で実感を伴って理解していくことが必要であるため、ここにも時間の確保が必要であること。現在総合は2コマであるが、これで国際標準の学力、自身や意欲、そういったものが育つのかということが多いに疑問。
  • 外国語教育の教員については、副専攻のような形で、外国語以外の知識もきちんと身に付けることが必要。これにより、外国語だけではなく、外国語を使ってより広範な話題についても授業の中で取り入れることができる。有識者会議の報告書でも、高校でグローバルイシューに関して高度な議論やプレゼンテーションなどができるようにということを書いており、免許法の改正も含めて、単一教科を超えたレベルの措置を考えていく必要。
  • 英語以外の外国語について、今の時代、近隣諸国との関係からしても、英語だけでは絶対足りるはずがないという認識であるが、実際には、英語以外の外国語をとっている日本の高校生はわずか1.5%。多くの近隣諸国において日本語は第二外国語の一つに入っており、最低4か国の言語が選択科目として用意されている。新しい学習指導要領には、英語だけでは足りないということをきちんと明記する必要。できれば、英語は必修化し、その他の外国語を選択科目にしてはどうか。また、中国や韓国を含めたアジアに関することを学校設定科目や総合的な学習の時間などで扱ったときに、それらの国の言葉について多少なりとも知識を持っていることがどれほど大きいかということを把握する必要。
  • 特別活動において、実社会に出ている人たちとの交わりからいろいろなことを吸収することも重要であるが、それ以上に、別の環境にいる同世代の子供たちとの交流が非常に子供の心を揺さぶるものであると感じる。ICTの機器による交流などをどんどん特別活動で取り入れて、特色ある学校同士の交流を深めることが学校の独自性を深め、子供たちの自分の学校への愛着も深まる。学校の独自性を強めていくような特別活動の在り方が重要。
  • 演劇について、身体表現という点では体育、言葉の表現という点では国語、舞台設定であれば芸術や理科などが関わってくる。このような演劇の扱いについて、そろそろ考えていく必要があるのではないか。
  • 学校設定教科・科目という制度により74単位のうち20単位を学校長の裁量で設定することができるが、実際には、生徒たちの現状に合わせた工夫がなされておらず、創意工夫の裁量権がないと感じている先生方のメンタリティーに課題をもった。学習指導要領は自由度が高いということを先生方にきちんと伝えるべく、学習指導要領は先生方への管理ではなく、創意工夫のサポートツールなのだということを表明できないかと感じた。また、困難を抱えた子やスペシャルな能力がある子が多く在籍している学校に対して、創意工夫の余地を学校が実現するためのグッドプラクティス集を作るとか、先生方の気づきをファシリテーションしながら次年度計画に盛り込んでいけるような校長先生のスタンスを育成するといったことを同時に検討したい。
  • 学習指導要領がどれほど学校に自由裁量の余地をもたらしているかという問題はなかなか難しい。各学校で教育課程を組む段階になる前に、公立学校であれば、教育委員会が教育課程編成委員会のようなものを作り、そこで一定の枠組みをする。そこに注目すると自由裁量の余地がないと見られるが、一方、編成委員会には現場の教員も関わるため、自由裁量の部分を入れようと思えばできる。また、教育課程は校長の名において編成するが、実際には各教科の委員がそれぞれの専門から意見を出すというのが実情。

3.社会の要請を踏まえた教科横断的な学びの充実や、地域との連携等について

  • 芸術や体育の苦手な子からは、なぜこれを学ばなければいけないのかという疑問が出ることがよくあるが、よく子供たちに言うのは、食わず嫌いにならないようにということ。楽しめる自分を発見するための機会として必修になっているのだろうと考えている。その楽しさとは、活動することの楽しさ、協同参加することの楽しさ、上達することの楽しさ。上達することの楽しさは、教育課程の時間だけではなかなか難しいが、社会教育でやっている人たちと関わることで、大人の楽しんでいる姿、上達している姿を見せ、学校を出てからも自分のレパートリーとして生活に入ってくるといいと思う。
  • 子供の貧困対策に関する大綱では、学校を子供の貧困対策のプラットフォームとするとあるが、本当の意味でこれを機能させていくとすれば、今の高校の先生方はあまりに情報が欠けているということを感じる。例えば、福祉との接続を行う担当者を先生方の中に決めるということを学習指導要領に明記して、どうしたら生徒を一人もドロップアウトさせない社会にしていくのかということを検討していくべき。また、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーの方々は、学校からすると受け入れがたい存在であると聞くので、こういった方々を仲間として受け入れられるような能力を校長や教頭に持っていただくことも必要。

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