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中央教育審議会初等中等教育分科会

2003年7月11日 議事要旨
中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会総則等作業部会(第4回)

中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会
総則等作業部会(第4回)

1. 日   時   平成15年7月11日(金)15:00〜17:30

2. 場   所   ホテルフロラシオン青山   はごろも(1階)

3.
議   題    (1) 学習指導要領の「基準性」の一層の明確化について
・葉養正明氏(東京学芸大学教育学部教授)からの意見聴取
  (2) その他

4. 配付資料
資料1    当面の具体的な検討事項の例
資料2 学習指導要領の「基準性」に関する規定及びその趣旨等について
資料3 いわゆる「はどめ規定」等について
資料4 学習指導要領の「基準性」の一層の明確化に係る課題について
資料5 教科書制度の改善について
資料6 平成15年度公立小・中学校における教育課程の編成・実施状況調査の結果について(速報−第2報−) (PDF:56KB)
   1    個に応じた指導の実施状況
   選択教科の開設状況(中学校のみ)
資料7 意見発表資料(葉養正明氏) (PDF:461KB)
資料8−1   キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議中間まとめのポイント (PDF:41.2KB)
資料8−2 キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議中間まとめの骨子
資料8−3 キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議中間まとめ
資料9 今後の日程(案)

  (机上資料)
          中央教育審議会答申、教育課程審議会答申
  小・中・高等学校等の学習指導要領
  諮問文、文部科学大臣諮問理由説明、初等中等教育局長補足説明等
  第1回〜第3回総則等作業部会配布資料

5. 出席者
(委   員)
安彦主査,浅田委員,今井委員,小栗委員,小久保委員,西村委員,船津委員

(意見発表者)
葉養正明氏(東京学芸大学教育学部教授)

(事務局)
文部科学省: 金森初等中等教育局審議官,河野主任視学官,大槻教育課程課長,関児童生徒課長,今里教育課程企画室長
国立教育政策研究所:月岡教育課程研究センター長


6.議事等
(1)    事務局より,資料2から資料6について説明が行われた。

(2)    葉養正明氏(東京学芸大学教育学部教授)から,学習指導要領の「基準性」の一層の明確化について意見発表が行われた。意見の要旨は以下のとおり。

   始めに,「基準性」の変遷をたどってみる。昭和33年に,学習指導要領が告示された当初は,「最低基準」という言葉が使われたが,詰め込み教育などの批判を受け,「学習指導要領は標準である」という言い回しが現れたようである。
   その後,学習指導要領の告示化をめぐっては,法廷に持ち込まれ,その総決算になったのが昭和51年5月の最高裁大法廷判決,通称「学テ判決(学力テスト判決)」である。そこには,「大綱的基準として法的拘束力を有する」という文言が含まれ,これが司法当局による,学習指導要領の位置づけについての法的な決着という形になって今日に及んでいる。
   こうした経緯の中で,平成12年の後半頃から文部科学省の公的な文書に「学習指導要領は最低基準である」という表現が使われるようになり,また,13年4月の新聞報道で,町村文部科学大臣の「学習指導要領は国が定める最低基準であって,理解の程度によっては,進度が速い子の場合,例えば小学校3年生の子どもが,4,5年生,あるいは中学校1年生程度の学習をしてもよいのではないか」という談話が伝えられ,この談話によって,「最低基準」という考え方が公的なものになった,という受けとめ方が現場に広がったと見ている。
   「最低基準」説は,現場では3,4年前から出てきたように受け取られていて,現場に相当影響を与えている。一つは,次の教科書検定は「最低基準」で実施されるが,今の教科書は,そうではないのではないか。そういう受けとめ方が現場にはかなりある感じがする。
   また,「学習指導要領は最低基準」であることが更に明確化されたとして,では何が「最低基準」の中身であるのかも,現場ではどうもはっきりとしないところがある。最低基準というのは,全員が共通に学習する内容か,それとも学習指導要領の大綱化・弾力化を意味するのかが,分かりやすく整理されなければ,現場が混乱すると思う。なお,学習指導要領には,「適切に定めるものとする」「配慮するものとする」「工夫する必要がある」「できる」など様々な表現があるが,「最低基準」と考えた場合に,これらの表現の違いや,何をどうすることが最低と考えられているのかが現場には分かりにくい。
   次に,「最低基準」説によって教育はどうなるかについては,当然,発展学習や補充学習を促進するという流れに行き着くだろう。
   ベネッセ教育総研が平成14年7月に行った「全国の教育研究所・センターの所員に対する意識調査」という資料の中で,「新学習指導要領が『最低基準』とされて学校教育はどう変わると考えますか」という質問に対する回答の集計がある。全体では,「学校の授業では足りないと考える子どもや保護者が増加する」,「授業時数が足りない教科が増加する」などの項目において高い傾向がみられた。また,校種間で大きい差異があるのは,「学校の授業では足りないと考える子どもや保護者が増加する」,「授業時数が足りない教科が増加する」,「上級学年ほど学力差が広がり一斉授業がしにくくなる」で,高等学校,中学校,小学校の順に割合が高くなっている。逆に,「基礎・基本の定着が促進する」,「学ぶ目標が明確になり指導に力が入る」の2項目は高等学校が低かった。
   全国の教育研究所・センターの所員は,「最低基準」によって教育がこのように変わることになるだろうと考えているということで,参考になるデータだと思う。
   次に,教育基本法第10条の解釈との関連についてであるが,教育法学者によって長く論議がなされてきた。主とした論調は,教育行政の役割を条件整備行政に限定するもので,代表的な議論の一つとして展開されたのが,教育の領域は,教育内容や教育方法などの内的事項と,学校の建築,教職員配置,教職員の処遇などの外的事項に区分され,教育行政は外的事項のみに役割があるという峻別論で,第2次大戦直後以降しばらくの間広がったということだろう。その根拠になったのが,著名な比較教育学者であるキャンデルの著書『コンパラティブ・エデュケーション(Comparative Education =比較教育学)』の中の「教育におけるインテルナ,教育におけるエクステルナ」という記述で,それを基に日本の教育法学者が,内的事項・外的事項峻別論を展開した。外的事項については教育行政の役割であるが,内的事項については教員自身の決定にゆだねられるべきだ,というのがキャンデルの所説でもあるというような言い方がなされた。
   ただ,その後,例えば内的事項―教育内容・方法と外的事項−教職員配置は,全く無関係ではなく,むしろ教職員配置が教育方法の在り方や教育課程の在り方に大きく影響を及ぼしているのではないかという議論が出てきて,教員の裁量を拡大するためという発端との矛盾が生じてきた。結局,内的事項・外的事項を大綱的なものに限定し,その大綱的基準については,教育行政の役割・範囲に属するという論調に落ちつき始めた。
   昭和51年5月の最高裁大法廷判決では,「本件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧するのに,おおむね,中学校において地域差,学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項が,その根幹をなしていると認められるのであり,(中略)全体としてなお全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められる」となり,大綱的基準説という教育法学者の中での議論と,最高裁大法廷判決がダブる形になった。このような経緯で,教育法学の論議が推移しているようである。
   最後に「『基準性』の一層の明確化の意義」について,地方分権,規制改革という流れの中で考えると,学習指導要領が最低基準であると位置づけられるのは,ある意味で必然的な面があるにもかかわらず,学力低下論との狭間にあるのが,現在の状況ではないか。つまり,国が教育内容についての最低基準を設定したとしても,国民に提供される教育の中身や質が,それに従って低下するのかどうかは,まさに地方分権の問題であり,規制緩和に伴って裁量が拡大する学校や自治体の責任の問題であるというとらえ方が弱いのではないか。学習指導要領が大綱化されれば,教科書が薄くなるのは明らかであるのに,薄くなったことをもって学力低下論が出てくることに理解できないところがある。地方分権と言われているということは,地方の権限が強くなったことを意味するし,規制緩和に伴って学校の裁量権が拡大したことを意味する面もあるが,そちらの役割はどのように一体押さえられているのだろうか。むしろ,現段階で大切なことは,「学習指導要領が最低基準である」ということをより明確化して,地方の活力や各学校のカリキュラム開発力,あるいは教育開発力を支援することである。
   そういう意味から言うと,「基準性」をより明確化して,「最低基準」であるということをはっきりさせるのは,極めて自然な流れだったのではないかという感じを持っている。学習指導要領の総則は,平成元年の学習指導要領から,それぞれの学校がということで「各学校においては」と「各」を加えたが,その理解が現場に十分行き渡っていない。地方分権や規制改革の流れであるから,それぞれの出先機関や各学校が活力を持って取り組んでいけるようにすることが大切である。

(3)    意見発表者と委員との間で意見交換が行われた。主な発言は以下のとおり。(□=意見発表者,○=委員,△=事務局)

○   「時間数」については,「基準性」という概念の中に入っていると思うか。

□葉養氏   学校教育法施行規則や学習指導要領に示されている標準授業時数は動かせないという人もいれば,子どもの負担にならない限り弾力的に上積みを行って良いという人もいて,意見がわかれるところである。「学習指導要領は最低基準である」の「最低基準」と,標準授業時数の「標準」との関係は,明確にした方がよい。
   自治体レベルでも,学校週5日制を前提としつつ私学に負けないような公立の在り方を考え,様々な工夫をする動きもある。時間数については,児童生徒の過度の負担にならないのが大原則ではあるが,国で歯どめをかけるよりは,むしろ標準授業時数は最低基準として自治体に判断させる方が工夫しやすいと思う。

○   私どもの市では,英語教育の一環として中学生の海外派遣を行っており,年1回,中学1年生から中学3年生まで同一問題での選考試験を実施している。英検3級以上のレベルの試験問題にしており,教育課程においては「基準性」からはみ出していると思う。地方自治体でもっと自由な教育をという地方分権の話があったが,市独自に様々な施策を推進していきたいと考えており,教科の「基準性」という点で考えを伺いたい。

□葉養氏   建前として義務教育は,国民すべてがある程度の幅の中で知識・技術など力を身に付けられればいいというものであるが,現実はかなり程度の高い子どもを集めている学校もあれば,逆にそうではない学校もある。
   国には,最低基準となる国民の基礎的教養のような部分を日本全体の基準として押さえてもらって,徹頭徹尾様々な工夫を講じて,教員に対して,できるだけ多くの子どもに身に付くように努力してほしいというメッセージを与えてもらいたい。そのうえで,自治体に創意工夫ができる余地を与えてもらえれば,地域性に合った形で,各地域がそれぞれの学校教育の卓越性を追求することができると考える。

○   ベネッセの資料で,「学校の授業では足りないと考える子どもや保護者が増加する」という意見が,小・中・高の順で増えていることが気になるが,「学校の授業では足りない」というのは,何のために足りないとお考えか。

□葉養氏   本データは,地域性の違う48のセンターから集計した資料であり,クロス集計をしていないため,このデータからだけでは読み取りができないが,授業時数も含めてこのような結果が出ているのは,多分に「最低」という言葉やマスコミ等を通じての学力低下論の影響などに現場の所員が反応しているからではないか。

○   学習指導要領が持つべき基準には,一定の教育水準を確保するために国が定める基準と,教育の機会均等ということを考えたときの基準の2つがあって,必ずしも一致するものではないが,どうお考えか。

□葉養氏   「最低基準」という言葉遣いは,昭和33年の学習指導要領告示の時期に使われて以降,文部省の公的文書で出てこなかったと思う。そして,また平成12年の後半頃から使われ始めたが,今までの「基準」と「最低基準」との違いや,「最低基準」の「最低」にどういう意図があるのかが分かりにくい。むしろ,中央教育審議会で,「最低基準」を明確に定義していただきたい。

(4)    学習指導要領の「基準性」の一層の明確化について,自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員,△=事務局)

○   事実上,「基準性」という言葉には,中身の範囲と拘束性の強さという2種類の意味がある。その二つのことをどう検討したらいいのか,ご意見を伺いたい。

○   なぜ「最低基準性」ではなく「基準性」としたのか。

△   昭和33年の学習指導要領の基になった教育課程審議会の答申に,明確に「最低基準」を示すということが言われており,それ以降,形式的には変わっていないので,捉え方としては「最低基準」である。ただし,「最低基準」という説明をすると,中身がレベルの低いものとして受け取られるからやめたほうがよいのではないかというご指摘もいただいている。
   よって,ここでは「基準性」という言葉を使っているが,意味するところは「最低基準性」である。なお,拘束性については先ほど話があったように,最高裁判決で法的拘束力があるということで既に明らかである。

○   地方が自由にできるようにし,その中で地方がしっかりと対応し,国がそれをサポートするという捉え方は,新しい視点ではないかと思う。

○   地方では様々なことが行われており,今の教育界では,地方分権はかなり進展している。もともと教員は,学習指導要領は「基準性」としてとらえていると思う。「基準性」を強調すれば,それ以外のやり方を目指しているのではないかと解釈できる。

○   その点は,地方によってかなり温度差があると思う。
   「基準性」に「最低」というニュアンスが込められているのであれば,「最低」の部分である学習指導要領に示されていることすべては,最低国が責任を持つべきであり,それ以上の部分は各地方自治体が実態に応じて取り組むという考えでよいか。

○   「基準性」の問題は習熟度別指導や少人数指導と切り離せない関係にある。

○   「最低基準」といっても,B.S.ブルームの完全習得学習の理論では95%の子どもが95点以上を取るぐらいのニュアンスであるが,学習指導要領の場合,国は,すべての子どもが「最低基準」を完全に習得できるよう外部条件を整備し,それ以上のことは各地方公共団体が工夫し,努力していくという考え方についてどう考えるか。

○   学習指導要領を子どもたちに対してどう運用・実施していくかという問題と,学習指導要領の性格としての「基準性」の問題は,分けて考えるべきである。
   学習指導要領の理念としては,すべての子どもたちに100%習得させたいということを基準として示したいわけであるが,問題は学習指導要領がすべての子どもに意味があるということをきちんと説明しないと,基準であるということが教員にはわからないのではないか。そのような基準を示すかどうかがまず第一点である。また,教育の機会均等の問題については,今まではすべての子どもに同じものを提供するという意味での機会均等,平等であったが,それぞれの子どもに応じた教育を提供するという意味での平等化と考えたときに,個別化や,個に応じた指導が出てきた。しかし,公教育である以上は,最低限の基準は設けるべきである。
   「発展」については,学習指導要領の先に進むという意味での「発展」と,学習指導要領をさらに膨らませ豊かにするという意味での「発展」の2つがあるが,事務局はどう考えているか。

△   事務局としては,両方とも「発展」の中に含まれると考えている。ただし,発展的な学習をどこまで行うかについては,学習指導要領にもあるとおり,全体としてそれぞれの目標を逸脱せず,児童生徒の過重負担にならないように各学校で判断する必要がある。
   また,昨年,文部科学省で作成した「個に応じた指導資料」には「補充」と「発展」の両方があるが,「発展」についても,多くは実際に学校で行われていた発展的な学習を参考に作成しており,これまで全く行われていなかったということではない。

○   小・中学校と高等学校との履修原理の違いも考慮しなければならない。義務教育の履修原理の場合には,年数主義なので,落第も飛び級もないが,高等学校の場合は単位制なので,あり得る。学校教育法施行令では,義務教育は満6歳から15歳までと定めている一方,学習指導要領という大綱的基準を作って,これだけは身に付けてほしいとしている。
   もともと義務教育は,イギリス流の制度では,とにかく発達の大事な時期を学校で教育の場を与えて学習をさせるという,産業革命時の重労働などから子どもを解放するための制度であった。したがって,年数主義・年齢主義の考えは,習得の度合いを問わず,とにかくその発達の時期だけは健全に育ってほしいというものであった。これに対してプロシアのフリードリッヒの履修原理は,課程主義の原理で,「国民として最低これだけは身に付けなければ絶対に卒業させない」というもので,課程,コースに合格しなかったら何年でも学校に来させていた。
   つまり,原理が違っていたものを,日本は両方折衷的にやってきているのである。先ほど運用上のことと原理上のことを分けて考えるべきであるとの指摘があったが,やや対立した性格を持っているため,双方を含めて「基準性」のことを議論せざるを得ない面がある。
   また,「基準性」について,私学に対する関与という点では,地方自治体レベルでは今以上に,関与することができるのか。

△   学習指導要領の「基準性」については,国公私立を通じて同様である。平成元年の学習指導要領,また今回の学習指導要領においても,「各学校」という文言を使用したのは,もっと学校に創意工夫,裁量をゆだねるという学校本位の考えがあるからである。例えば,「総合的な学習の時間」の新設や,2学年をくくった内容の示し方,あるいは事項の選択などである。「基準性」を踏まえてもらうということは,これまでと同様としたうえで,全体としては学校に裁量をゆだねていくということである。

○   資料4に「学校の判断で,児童生徒の実態等に応じて学習指導要領に示していない内容を加えて指導することができることを踏まえた指導が行われること」とあり,そのとおりだと思うが,従来よりも子どもたちの在校時間は長くなっていて,さらに授業時数を増やすとなると,7時間目を持つ以外に方法がない。私たちの地域では,夏休みを短縮化している小学校が出てきているが,そういうことができる学校は少ない。
   授業時数については,これ以下はないということを明確にすることがまずは大切だと思う。

○   「基準性」については,時間数の問題ではなく,指導法の改善,工夫,あるいは教材研究,特に習熟度別指導や少人数指導など,質の転換という視点で考えたい。

○   事務局からこの部会に出される資料は小・中学校だけであるので,今後は高等学校の資料も併せて出していただきたい。
   学習指導要領の「基準性」に「最低」をつけないのは,先ほどの説明で理解したし,むしろ「最低」をつけない方が良いかもしれない。高等学校としては,上級学校への進学は非常に大きな問題であり,これさえ解消されれば,幼稚園までの教育が変わるのではないか。
   何人かの大学教授は,新学習指導要領の内容だけでは,大学教育はできないと言っている。学習指導要領を基準とした場合に,各大学が「入学してくる生徒に関しては,ここまでの学力を要求します」ということを示される可能性がある。そうすると高等学校側としては,要求されるすべてのことを生徒に学習させざるを得ないが,時数的に難しいため,学校で教えられない部分は塾や予備校に行って学んでくださいとなりはしないだろうか。上級学校への合格競争だけが目的になってしまうような社会は,健全育成の面からも良くない。初等中等教育局と高等教育局が連携をとって,文部科学省としての指導をお願いしたい。

△   資料が小・中学校だけという点については,小・中学校は昨年度から新学習指導要領を実施しているので,この時期にお示ししている。高等学校については,今年度からの実施なので今後お示しをする。

(5)    検討事項全般について,自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員,△=事務局)

○   勉強を全員の生徒に理解させるということは,教員にとって非常に大切な仕事であるが,学習指導要領の「基準性」によって生徒の習熟の差が広がり,難しくなっていくのではないか。

○   学習指導要領の「基準性」の問題を考えるときに,学校現場では,教科書の存在が非常に重みを持っている。学校としては,教科書に発展的な内容が載せられていれば指導することになると思う。

○   教員が学習指導要領を読まないのはなぜだろうか。学習指導要領と教科書を見比べれば,その関係性が判断できるが,学習指導要領を読まなければ「発展」までを含めたものが最低基準になってしまうということが考えられる。その意味で,教科書の性格づけをどのように考えているのか。
   現場では「最低基準」であることに異論はないと思うが,なぜそれが最低なのかということや,なぜ授業時数がこれだけなのか,なぜこの内容がこの学年で必要なのか,どういう基準で内容を厳選したのかなどについての説明が足りないために,いろいろな解釈が出てきて,実際の運用上,非常に差が生じてしまうのではないだろうか。

△   教科書の定義については,法律で厳密に決まっているわけではないが,主たる教材であり,学校では使用義務がある。これまでは,学習指導要領に書いてあることと教科書に書かれていることが同じであったために,学習指導要領はあまり読まれなかったという点もあったのかもしれない。
   教科書が非常に重みを持っており,教科書がなければ指導できないというような実態もあるため,教科用図書検定調査審議会の「検討のまとめ」で,教科書に発展的な記述が許容された。教科書が「主たる教材」であるというのは,従たる教材が幾つもある中の主要なものという意味であり,様々な教材を組み合わせて指導していただくことが理想であると思う。

○   そうすると,各学校が教科書を選んでもよいということにならないか。

△   教科書の供給や各学校が調査研究することなどから難しい面が多い。また,現行の教科書採択制度であるがゆえに創意工夫が生かせないということはないと思う。

○   学習指導要領の「基準性」の議論をするならば,当然そこには飛び級であったり,様々な制度を変えるかどうかということが伴うべきで,それを置いておいて議論を進めるのは無理があると思う。理念はこうだが,現行の制約があり,その中で,今はここまでやってほしいという形でまとめを出さなければ,せっかく出しても,結局,何も変わらなかったとなるのではないかと危惧している。全体のシステムの中での制約などを,事務局が明確に示せば,もっと違ったアイデアも出てくるのではないか。

△   今回,教育課程については,不断の見直しをしていくということであり,今やることと,将来的にこれから引き続いて検討していくことを分けて議論していただき,答申に入れていただくこともできる。

○   学習指導要領の「基準性」について,その運用を学校現場の判断に任せたとき,上限がどんどん上がっていき,競争になっていく危険性があると思う。その点をどこかで押さえておかないといけない。

○   今の高校生は,半数が大学へ進学し,半数は高等学校で終えている。今の学力問題というのは,高等学校の場合は,完全に大学入試のための学力ということになっていて,高等学校で終えている生徒が,高等学校へ行ってよかったという気持ちで終わることができているのであろうか。進学のための授業が優先され,国際理解の授業などができないという実態があるが,進学しない生徒に対する授業はどうなのだろうか。
   クラブ活動や部活動についても,高等学校全体として,クラブや部の数の減少傾向があり,大学に進学しない若者にとっては,「総合的な学習の時間」がその代わりの時間になっているとはいえ,それも十分に行われていない状況を危惧している。

○   「基準性」の問題を考えるときに,学校段階における「基準性」の重みの違いを考えるべきであり,高等学校と小学校の学習指導要領の文言は相当違う。

(6)    事務局より,キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議中間まとめについて,資料8−1から資料9−3に基づいて説明が行われた。

(7)    事務局より今後の日程について説明があり,閉会となった。



(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)

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