資料1-2 今後の教育課程の在り方について(これまでの議論等の要点のまとめ)(案)(整理中)

平成27年6月22日
教育課程部会

※これまでの教育課程企画特別部会におけるご意見や、ヒアリングにおける発表内容及び資料、
諮問の内容、報告された各種答申、提言の内容や調査等の結果、補足資料等の内容を基に作成。

1.初等中等教育の教育課程に関する現状と課題

(1)社会の質的変化等と教育課程の課題

  • 阪神・淡路、東日本の二つの震災を経て、公共心や絆、人の生き方に対する評価が高まってきた一方、日本社会全体として、他者との関わりを軽視する傾向も懸念される。
  • 人口減少社会への対応を真正面から取り上げる必要がある。子育てや介護を「リスク」と捉えるのではなく、自己の生き方を人や世界との関わりの中で考え、次世代を育てることを社会全体で応援するという課題と真剣に向き合う機能が学校教育にはあるのではないか。
  • 人間の様々な活動の増大が、地球や社会環境に大きな影響を与える時代において、持続可能な社会づくりを担う子供たちを育成するという観点が重要。社会や世界に「開かれた学校」において、子供たちが主体的・協働的に学ぶことができるよう、教育現場が多様なつながりを持ちながら教育環境を充実させていくことがますます重要。
  • グローバル化の中で日本人が世界に出ていく際には、国際的な場でも自分の意見を説得的に主張できる能力も必要。また、自国の文化等を語れることも非常に大切。
  • 雇用ニーズを世界的に見ると、高い問題解決能力を要する仕事のニーズは高まり、低いものはニーズが低下している。技術の進展や社会的な変革とタイムラグなく、変化する社会の中で人間がいかに幸せに生きていくかを追求した教育の変革が行われることが必要。
  • 社会の変化の「スピード感」に対応していくことができるかどうかで格差が生じている。加速的に世界が動いていく中で、何が重要かを識別し、主体的に判断し、社会を形成し世論に関わっていく自覚や能力を高めていくことが求められている。
  • 親がどれだけ教育に関心を持つかや、経済的背景等の要因によって、勉強ができる子は運動もできる、勉強ができない子は運動もできないというような二極化が懸念される。
  • 今後の社会的変容を踏まえれば、自己の生活や感情、行動等をセルフコントロールできるようにすることもますます求められるのではないか。

(2)前回改訂の成果と次期改訂に向けた課題

  • 幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の教育課程の基準となる学習指導要領等については、これまでも、時代の変化や子供たちの実態、社会の要請等を踏まえ、数次にわたり改訂されてきた。平成二十年及び平成二十一年に行われた前回の改訂では、教育基本法の改正により明確になった教育の理念を踏まえ、子供たちの「生きる力」の育成をより一層重視する観点から見直しが行われた。特に学力については、学校教育法第三十条第二項に示された「基礎的な知識及び技能」、「これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力」及び「主体的に学習に取り組む態度」の、いわゆる学力の三要素から構成される「確かな学力」をバランス良く育てることを目指し、教育目標や内容が見直されるとともに、学級やグループで話し合い発表し合うなどの言語活動や、各教科等における探究的な学習活動等を重視することとされたところ。
  • これを踏まえて各学校では真摯な取組が重ねられており、その成果の一端は、近年改善傾向にある国内外の学力調査の結果にも表れていると考えられる。
  • その一方で、我が国の子供たちについては、判断の根拠や理由を示しながら自分の考えを述べることについて課題が指摘されることや、自己肯定感や学習意欲、社会参画の意識等が国際的に見て低いことなど、子供の自信を育み能力を引き出すことは必ずしも十分にできておらず、教育基本法の理念が十分に実現しているとは言い難い状況。また、成熟社会において新たな価値を創造していくためには、一人一人が互いの異なる背景を尊重し、それぞれが多様な経験を重ねながら、様々な得意分野の能力を伸ばしていくことが、これまで以上に強く求められる。
  • これまでの学習指導要領は、学問的な体系に沿って教科ごとには体系化されているが、それぞれの教科を通じて、あるいは教科横断的に、どういう力を育てるのかという、個々の内容を越えた目指すべき力について議論がなされてきたものの、そうした観点の構造化ということからいうと、日本の学習指導要領はまだ十分ではないのではないか。前回改訂においては、是非1つだけでもと取り組んだのが言語力であるが、そのほかにもいろいろな資質・能力があり、これらについて教科ごとに連携しながら学習指導要領を作っていこうというのが、今回の改訂の方向性であると捉えている。

2.新しい学習指導要領等が目指す姿

(1)新しい学習指導要領の在り方について

  • 学制公布から終戦まで約70年、そこから更に70年という節目において、学力はもちろんのこと、それのみならず「子供たちに必要な力をどう育成していくか」という観点から、評価観も含めた学習指導要領の改訂をすべき。
  • 子供の意欲の喚起や指導方法の改善が難しいという話もあるが、そもそも子供というのが学びに対してどんな方向性を持っているかということが重要。子供はもともと学びたがっているし、成長しようとしている。そうした力を洗練させるという場所に立てば、指導方法の工夫も、資質・能力の議論も全く変わってくる。
  • 今回改訂の教育目的、学習・指導方法と評価の一貫性という議論については、今までの指導要領とは大きく異なり、枠組みが広がってきている。加えて、子供自身の気持ちやニーズに応えるような、価値観の転換を伴うパラダイムシフトが必要ではないか。
  • 子供たちに何々を指導するということだけではなく、子供たちが何々をできるようになるというようなことが明確になるような在り方が検討されてもいいのではないか。
  • 学習指導要領の理念を底支えするのは、人はどう学ぶものなのかということ。放っておいて伸びるわけではない力の中に、対話をしながら相手の主張を取り込んで、自分の考えの適用範囲を広げていくというたぐいの力がある。そうした力を育成するために、対話の機会を意識的に創り出すことが、学校というシステムの社会的機能として求められているという視点を持つといいのではないか。
  • 知識と活用力と学習意欲の関係をそれぞれの学校がどのように関係付けていくのかということが大事。知識も身に付いたら楽しいし、おもしろいと思うから生徒はやる。どうしたらおもしろくなるのかという観点を新しい学習指導要領に入れ、教室の中の子供たちが生き生きできるようにということを常に考えながら、理論的にもしっかり深めていかないといけない。毎回、前回の学習指導要領はこういう点が足りなかったということを繰り返す議論で終わってしまうというのではもったいない。
  • 学校と地域社会等とのつながりを持った教育課程とすることが重要。外部人材の活用による出前授業やキャリア教育など、世の中と結びついた授業を通じて子供たちにこれからの人生を前向きに考えさせることが、主体的に学ぶ鍵になる。外の「風」を教室に入れることで、教育現場も変わっていける。
  • OECDとの政策対話では、我が国がPISAの結果に満足するのではなく、資質・能力の育成や「アクティブ・ラーニング」の充実など、その先に進もうとしていることへの賛辞が送られた。諸外国の例を参考にしつつ、これらにキャッチアップするということではなく、それを越えるようなものにしていかないといけない。
  • 大学入試の影響もあり、暗記すべき用語を網羅するような教科書も特に高校段階では少なくない。高校教育改革と大学入試改革をセットで進めていかなければならない。入試改革の議論は、高校の学習内容を社会と接続した学びに変えていく大きなきっかけになるのではないかと期待している。
  • 経済が成長すればするほど、学校で教える基礎・基本と社会で役立つ内容や人材との隔たりが大きくなる。専門高校でも教育そのものが大きく変わらなければならない時期。
  • 高校生に地域と向き合う機会を持たせることが、当事者意識と感謝の意識の醸成につながる。卒業後、地域を離れる生徒の多い普通科進学校にこそそういった機会が必要。身の回りの困難さといった課題を、学校教育がチャンスに変えていくことに使えるとよい。
  • 子供たちは、他地域の生徒との交流、自地域の未来に対する議論と活動、他学年・異世代との交流、地域社会との交流を通じて大きく成長する。
  • 特別支援教育の対象となる子供たちが倍増する中で、特別支援学校か通常の学校かと分ける二極的な考え方には限界がある。通常学級内にいる教育的ニーズのある児童生徒のことを踏まえれば、教師の教育観のパラダイムシフト、そこに基づく組織経営や指導法、評価の多様性の導入は必至。障害診断の有無に関係なく個々の教育的ニーズに応じた学びが必要。
  • オリンピック・パラリンピック開催の2020年がゴールではなく出発点となり、新たな文化が生まれるような改訂とすることが重要。

(2)育成すべき資質・能力について

育成すべき資質・能力についての基本的な考え方等

  • 教育基本法に定める教育の目的を踏まえれば、育成すべき資質・能力の上位には、常に個人一人一人の「人格の完成」が位置付けられなければならない。あわせて、教育基本法に定める教育の目的の一つとして、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」の育成があることを踏まえ、自立した民主主義社会の担い手として求められる資質・能力の育成は、公教育の普遍的な使命であることに留意しつつ検討を行うことが必要である。
  • グローバル化や情報通信技術の進展など今後の社会の変化も見据えながら、自立した人間として、他者と協働しながら、新しい価値を創造する力を育成する観点から求められる資質・能力について検討する必要がある。
      具体的には、例えば、「主体性・自律性に関わる力」「対人関係能力」「他者と協働する力」「課題を解決し、新たな価値を主導・創造する力」「学びに向かう力(意欲・集中力・持続力等)」「情報活用能力」「グローバル化に対応する力(外国語によるコミュニケーション能力、日本と外国の伝統や文化に対する深い理解など)」などについて、今後求められる資質・能力として重視しつつ、検討する必要があると考えられる。
     さらに、環境問題の深刻さを考えると、地球環境問題等に関わる「持続可能な社会づくりに関わる実践力」「地球的視野・価値観」などについても、今後重要な資質・能力として検討する必要があると考えられる。
    また、我が国の児童生徒については、学習意欲や自立の意識に課題があることを踏まえ、単なる受け身の教育ではなく、主体性を持って学ぶ力を育てることが重要であり、リーダーシップや、企画力・創造力などのクリエイティブな能力、意欲や志を引き出す指導についても特に重視していく必要がある。
     あわせて、人として他者と支え合ってより良く生きるための思いやりや優しさ、感性など豊かな人間性に関する普遍的な教育についても、重視する必要がある。
     さらに、芸術やスポーツの分野で育まれる資質・能力についても、そこで培われるものの見方や考え方等には他分野にも転移可能な汎用的なものもあると考えられるところであり、それらについても、育成すべき資質・能力の中にどのように位置付けるか、検討する必要があると考えられる。
     なお、これらの資質・能力の育成は、総体的に見れば、教育の目的を踏まえ、その目標を達成できるよう、人間のよさや可能性を最大限に発揮できるようにすることを目指して行うものである。これらの資質・能力の育成に当たっては、教育課程全体を貫いて人間としての在り方や生き方を追求する視点を重視する必要がある。
  • 新しい時代に求められる資質・能力としては、他者と協働しチームを編成できる人、異なる価値を統合できる人、根拠等を明確に説明できる人、深い知識と広い視野を持つ人、人間同士の関係を重視する人、グローバルな課題を地域の課題と関連付けられる人として必要な力などが考えられる。

資質・能力等の構造のとらえ方

  • 学習指導要領自体が目指す資質・能力を、どういうモデルとして考えるか。個々の資質・能力をパーツとして身に付けていくというよりは、立方体的にイメージして、一面は知識理解、側面は技能・能力、天井の面はタイトルとか価値、そういう立方体を膨らませて人間が大きく成長していくように考えるのがいいのではないか。
  • 育成すべき資質・能力に関しては、学校教育法が規定する学力の三要素(知識・技能、思考力・判断力、表現力等、主体的に学習に取り組む態度)を議論の出発点としながら、主体的に学ぶ情意(自己肯定感等を確保するという受動的情意性、「学びに向かう力」といった能動的情意性)や協同性、認知面と情意面を統合するメタ認知などに拡張して考えていくことが必要。知識面、思考面が車の両輪だとすると、それを進めるところのエンジンが情意面であり、それらをコントロールし、適切な方向に進めるようにしていくのがメタ認知である。
  • 知識については、個別の知識をばらばらに獲得するのではなく、それがネットワーク化され、中心的な考えとともにしっかり構造化され、活用されるよう、考える力を伸ばすことが重要。
  • 思考するためのスキルを教えていくべき。国際バカロレアのカリキュラムも参考になる。方法に振り回されないよう、示し方に注意が必要であるが、「分類する」「比較する」などのスキルを学ぶことにより、質の高い学びが実現する。
  • 知識を知っているだけではなく、それが社会に生きていく上でどう使われるかというところをしっかりとチェックできているのかということが大事。一方で、土台となるベーシックスキルの読み書き計算や推論など、本来の教科が持っているべきところを徹底するということも忘れてはならない。
  • 学習意欲は、起業精神、イノベーション、独創性においても重要な資質の一つ。我が国では、子供の年齢が上がっていくにつれて学習意欲が下がっていることが懸念される。

特にこれからの時代に求められる資質・能力等

  • これからの時代に求められるシチズンシップについては、一つの固有の組織においてどのように生きるかということではなく、複雑で変化の激しい社会の中で自分をどのように位置付け、他者と一緒に生き課題を解決していく力として捉えることが重要。
  • 様々な出来事や情報を自ら瞬時に受け止め、自分で判断していくことが市民性の基礎になっていくのではないか。英語教育でも、実際にアクティブに外国語の中で自らの思考を形成していくことや、それを可能とする環境、動機付けの重要性を強調していくべき。
  • グローバル化に対応していくためには日本文化を学ぶ必要がある。経済力が強くても海外では尊敬されない。自国の文化を語れる力を持っていることが非常に大切。
  • 日本文化を表現していくために、日本の歴史的な過程を語り合える能力や姿勢を重視すべき。高校教育の現状として、古代から順に学ぶことで近現代史まで学び切れていない問題がある。近現代の歴史的な過程を知ることによって、国家や一市民として何を目指すのか、自分がどのような立場にあるのかについて議論ができるようになる。また、日本史か世界史かが選択になっていることで、世界における日本の歴史などのつながりが理解できなくなっている。
  • グローバル化は同時に地域に帰着するものでもあり、自国とグローバル双方の観点から地理的・歴史的に考える力を高めることも重要。現行学習指導要領では「歴史的思考力の育成」が重視されているが、いまだ暗記中心の教科であるというイメージを払拭できておらず、歴史を学ぶことの動機付けも弱い。
  • 国語の重視が思考力、表現力の育成につながる。自覚的に母語を学び確かなものにしていくことでしか、外国語を実際に使えるものとして修得できない。国語教育と英語教育は「思考形成」というところでつながっており、相互的に捉えていく視点が必要。
  • 日本語はもちろん重要だが、早くから外国語に慣れ親しむことで有利となることもある。外国語を幼児期に理屈抜きで身に付けることによって、英語的な物の考え方の修得と結びつくのではないか。
  • 多様性という観点からは、英語だけでなく、中国語などほかの言語も大事。また、プログラミングについても、言語の中で広く考えてほしい。
  • 中学女子の3割は1日10分も運動していないという調査結果が出ており、これで健康寿命が維持できるか心配。基礎的な健康コントロールを教えることが学校体育の役目であり、教養としての体育という側面が重要。また、スポーツは「すること」だけでなく「見ること」の要素もあり、世界を見ることで自分自身のこと、他者との関わりを学ぶことにつながるものである。
  • 社会が変動して変容するからこそ、ますます規範というものが問われてくる。規範というものをしっかりと、クロスカリキュラムで教えていくことも大事。
  • 生得的要因や環境的要因などが重なって不適応を起こす子供たちには「自己肯定感がない」「学ぶべきときに学べていないという未学習・不足学習・誤学習が逸脱行動につながる」など共通するリスク要因がある。これを少しでも軽減しレジリエンシー(社会を生き抜く力)をつけさせることが、将来の社会不適応を予防する。犯罪学理論のエビデンスを参考にしていくことが、いじめや不登校、ひきこもりや、あるいは反社会的行動の予防だけでなく社会貢献できる子供たちを育てることにつながるのではないか。
  • いわゆる現代的な課題に対応した「○○教育」のような各教科等横断的なテーマについては、育成すべき資質・能力との関わりでその内容を捉え直す必要がある。

発達段階や成長過程のつながり

  • 特に小学校の6~12歳は発達段階が目まぐるしく、どこに視点を置くかが難しい。学校種の大きなくくりだけではなく、幼小や小中などの校種間の接続・連携も含めた細やかな議論が必要。
  • 子供たち一人一人の個々の発達課題や教育的ニーズを踏まえて、何を学ばなければいけないかを見極めていくことが重要。学習の土台となるようなスキルが身に付かないまま小学校に行ったとき、じっとできないとか、読み書きの習得がしんどくなるという状態が想定される。
  • 現場の先生方には、子供たちに本当にどんな力をつけるかというのを自分で再構成できる力が必要になっている。ただ、全てを構成できるような余裕はないので、モデルと展開例のようなものが、一定程度必要なのではないか。小学校と中学校ではこういうステージを経て、こういう段階でこういうように伸ばしていくというイメージが共有されていないと、小学校5年生ではこういうことを教えればいいというところでとどまってしまい、育てた力を6年生につなげる、あるいは中学校につなげるという視点が抜けてしまうのではないか。
  • 幼児教育の質を高めることと、幼と小のカリキュラムのつながりが重要。幼と小の教育課程の考え方やその編成にはそれぞれ尊重すべき違いがあり、幼児教育は主体的な活動である遊びを通じて総合的に指導する。小学校の学びにつながるものとして、幼児期に身に付けるべき力を整理し、発達段階に応じつつ、一貫していくことが重要。内容の「前倒し」ではなく「積み上げ」になるような形の議論が必要。

(3)育成すべき資質・能力と、学習指導要領等の構造化の方向性について

学習指導要領等の構造化の在り方

  • 学習指導要領の構造として、「何を知っているか」という「内容の計画」にとどまらず、「それを使って何ができるようになるか」まで含めて議論するということは、昭和33年の学習指導要領告示以降、これまでにない斬新で大きな変化と言える。
  • コンピテンシーと呼んでいるものの中には2つの層があると考えている。一つには、あまり教科内容に依存しないような情意的なものや、対人関係的なもの、あるいは論理的な思考というものでも、あまり教科に依存しないものがあり、こうした能力はアクティブ・ラーニングのような方法の改革をもって身に付けていくことが必要。一方で、教科の本質と呼ばれているもの、その教科ならではのものの見方・考え方や、ビッグアイデアや本質的な問いということを足場にしつつ、その教科以外の領域に適用するために1つの工夫をしなければならないというものについては、内容的な改革を含み、教科の本質として何を身に付け、それを当該教科が対象とするもの以外にどのように適用するのかという学びの広げ方が求められ、意図的・計画的なカリキュラムとして内容の再編成が考えられる。つまり、コンピテンシーの中に、教科領域に余り依存しないものと、教科領域に依存するものがあり、それを見据えた内容の吟味が必要。
  • コンピテンシーをまず上のレベルで整理して、各教科におろしてブレークダウンするというやり方より、むしろ各教科の本質を上げてそれがコンピテンシーになるという筋道も考え、各教科の中でもう一度、教科の本質とは何か、その教科ならではの物の見方、考え方、その教科の当該対象を超えても適用できるようなビッグアイデアや本質的な問いというのは何かということを、各教科でしっかり整理し、それを全部並べて、その間の統合や関連付けや体系化を図っていく中で、かえってコンピテンシーの様相というのは見えてくる。コンピテンシーと言っている層と、教科の本質と言っている層と、各教科のコンテンツ、この3つが整合し、各教科がしっかりコンテンツを教え、教科の本質を全うしつつ、全体としてコンピテンシーが実現されるような学習指導要領の構造を生み出すということが大事。
  • 学習指導要領全体の構造といったとき、一つには、総則から特活に至るまでの教科等の構成と、目標の明示から内容の取り扱いといった構成をいかに発展させ深めていくかということがある。もう一つは、学習指導要領とともに、解説書や指導事例集も、学習指導要領の趣旨や方法を広めていこうという意味で組み立てられた、ある意味で歴史的な所産であり、それらを含めた全体の姿の中で、「アクティブ・ラーニング」などの指導方法や事例と、基本的な方向性や資質・能力などをつなげながら全体をどう整えるかが問われているのではないか。
  • 言語力を含めて、数式や図式など表現は多様にあり、多様な表現で物事を表すこと自体に意味がある。また、その表現に関して人と人、教師と生徒、生徒と生徒が対話するところに意味があり、対話を通して思考を深めていく。そうした過程を促すことの重要性に踏み込むとともに、対話を通して物事を多面的に理解していくということが重要。1つの正答にいかに上手に至らせるかということではなく、物事の多面的で深い理解に至らせるため、表現と対話が重要。
  • 豊かな授業を行っている学級は何が違うのかというと、子供たちが最終的にこの教科で学ぶ意味というのは何かということを、先生方と一緒に考えているということ。学習指導要領の内容の目標にとどまらず、先生方が子供たちの活動から資質・能力を取り上げて、きちんと評価する。そういうことを繰り返して、長いスパンで子供と一緒に先生が探し出すというような姿勢で行われている。学習指導要領の中で、その教科がなぜ存在するのかということを、子供のサイドの言葉で少し例示があると、先生方も子供の活動を拾い上げるすべになるではないか。
  • 学習指導要領を考えるときに、資質・能力や内容をボトムアップ的なプロセスで積み上げていくのは正当なやり方であるが、一方では、国として、出口のところで具体的にこういうようなことができることが、学習指導要領に沿って学んできたことの結果であるという終着点をもう少し明確にすることができないか。高校卒業時点で、例えば自分の意見をはっきり言えるようになるかとか、ディベート、ディスカッション、ネゴシエーションができるようになるだろうかということを想像した上で、そこに到達するまでの学習過程の中で、どういうような能力をどの段階で具体的に育成していけばいいのかという考え方を入れていく必要がある。
  • 学習指導要領は最低基準であるので、もっと発展的な能力や、探究の力を植えるような、より高いレベルの力をつけていくことを許すような構造を作っていくべきではないか。

学習活動の示し方や「アクティブ・ラーニング」の意義等

  • 新しい時代に必要となる資質・能力の育成に向けては、「何を教えるか」という知識の質や量の改善はもちろんのこと、「どのように学ぶか」という、学びの質や深まりを重視し、学ぶことと社会とのつながりをより意識した教育を行い、子供たちがそうした教育のプロセスを通じて、基礎的な知識・技能を習得するとともに、実社会や実生活の中でそれらを活用しながら、自ら課題を発見し、その解決に向けて主体的・協働的に探究し、学びの成果等を表現し、更に実践に生かしていけるようにすることが重要。
  • 資質・能力の育成に向けて、教科等の内容と学習活動をつなぐという構造化の観点は、かなり有効だと考える。一方で、内容と資質を押さえることにより、学習活動が固定化された、ある形のものでしか成立しないということにならないよう、各学校で創意工夫が行えるようにしなければならない。
  • 学習・指導方法を議論するならば、単なる手練手管やテクニックにならないよう、「なぜこれを学ぶべきなのか」「なぜその方法が妥当なのか」を考えることが必要。
  • 1つの正答にいかに上手に至らせるかということではなく、物事の多面的で深い理解に至らせるため、表現と対話が重要。多様な表現に関して人と人、教師と生徒、生徒と生徒が対話するところに意味があり、対話を通して思考を深めていく。その過程を促すことの重要性に踏み込むことが必要。
  • 日本の子供たちは、読解は得意だが考えを構造化して表現することが得意ではないとのデータもあり、システム的な思考や批判的思考(クリティカル・シンキング)などを育成する観点から「アクティブ・ラーニング」の充実が必要。
  • 効果的な「アクティブ・ラーニング」に共通する要素とともに、各教科ならではのものの見方・考え方を育成する、各教科特有の学習プロセスの意義についても整理が必要。
  • 「アクティブ・ラーニング」の検討に当たっては、言語活動に関する分析を踏まえつつ、各教科等の教育目標を実現するため、見通しを立て、主体的に課題の発見・解決に取り組み、振り返るといった学習の過程において位置づけやねらいを明確に示すことが必要。また、言語が学習活動の基盤となるものであることを踏まえた検討が必要。
  • 学習指導要領とともに、解説書や指導事例集も含めた全体の姿の中で、「アクティブ・ラーニング」などの指導方法や事例と、基本的な方向性や資質・能力などをつなげながら全体をどう整えるかが問われている。
  • 教員と生徒との対話が成り立つクラスでは非常に教育効果があるというのは、教育の本質。成功した事例をよく見て本当に参考になるような事例集をきっちりと組み上げ、子供たちに要求するだけではなく、それを私たちがどう伝えるべきなのかということまで踏み込んだ体系ができれば、次回の改訂はすばらしいものになる
  • 学習活動については、発達の特性を踏まえた学習のスタイルの違いがあるのだということをしっかり書き込んでおくことが必要。どうしてもそこからまた漏れてしまう子供たちがいるということを強調したい。
  • 一番難しいのは、意欲、態度がどうやって高められるかということ。夢を持つ子供の割合が諸外国に比べて低いという調査結果もあり、「アクティブ・ラーニング」は「学ぶ意欲」につながるようにすべき。
  • 現場としては、関心、意欲、態度を育むことが難しいが、学校と社会のつながりを重視したことをやっていくということがスイッチになり、子供たちの興味、関心を高めるキーポイントになってくる。
  • 子供だけでなく授業者自身が「アクティブ・ラーニング」に意義を見いだしていくことが重要。「何を子供に動機付けさせ、どこを目指すのか」という意識で変わる。
  • 「アクティブ・ラーニング」の実施については時数の確保が難しいとの見方もあるが、言語活動についての分析も踏まえつつ、学年等を超えて長期的に、学習活動に必要な能力の育成を積み重ねていくことにより、一層効果的で効率的な学習が可能となるという視点も重要。

3.評価の在り方について

  • 自己肯定感を高めるためには評価の在り方が重要。評価を「教師から与えられるもの」ではなく、評価規準(基準)を作るところから子供自身が関わる自己評価など「自ら獲得していけるもの」にする必要がある。
  • 現代的な学びに対応した評価の難しさなどはあるが、新たな評価なしに新たなカリキュラムはあり得ない。国内外世界の専門家も交え、教員が活用できる手段や道具を開発していく必要がある。
  • 現在行われている「目標に準拠した評価」というのは、ある意味日本独自の評価方法であり、学習指導要領の内容や事項に合わせた評価ができるシステム。それを先生方が具体的に自分の授業に合わせたときに、きちんと評価できているか。学校教育法第30条第2項に規定した学力に変わってきているにもかかわらず、特に高校では、いまだにペーパーテストを中心にしながら評価が行われている。評価の観点と資質・能力を、今回の指導要領では全ての教科の中できちんと位置付けて、何を評価すべきかを明確にしていくことが必要。
  • 評価の観点としては、知識・技能、思考・判断・表現、それから態度や情意的な力という、まさに学力の重要な要素である3観点が分かりやすい。今は4観点で目標準拠評価が行われているが、この3観点というのは、学校教育法との間で整合性がとれている。3点目の態度や情意的な力については、現行でも関心、意欲は、他の観点に関わる重要な要素であるというふうにきちんと書いてあり、他の観点との関係の中で評価をすべきということになっているにもかかわらず、単なる辞書的な意味の関心、意欲、態度だという誤解がかなり広まっている。その点を是正するためにも、この3つの観点を明記することによって、目標と一体化する評価が行われ、それをどのようにはかっていくのかいうことになると、指導と評価の一体化というところになる。
  • 評価を出口として考えるだけでは十分ではないのかもしれない。つまり、出口のところで備わっているべきものだけを教育の内容にしてよいのかということも、問題意識として持っている必要もあるかもしれない。

4.学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策

「アクティブ・ラーニング」等の実現に向けて必要な支援方策等

  • 「アクティブ・ラーニング」の充実に向けて、学校現場が更に忙しくなる懸念や、指導の変化への不安もあるが、日本の子供たちのためになるものであり、取り組む必要性は高い。思い切ってやってみようという教育委員会からの後ろ楯というところも一番の鍵になる。
  • 学習指導要領にいろいろ盛り込んだとしても、結局現場におりてきたときには教員の資質や能力が重要。「アクティブ・ラーニング」をするのであれば、教員養成・研修や、それに伴う時間の確保が必須。
  • 新しい学習指導要領にのっとったカリキュラムを現場の先生方が描くには、リソースとして先生方に教科書と学習指導要領だけということではなくて、それ以外の活用できるリソースを明示する必要がある。先生だけがこの学習指導要領を見て学習デザインをするのではなくて、何がしかのサポートをしてくれる方々を巻き込みながら、先生方が安心して外部と手をつなぎ、授業デザインをしていけるようなことも、明確化することができないか。
  • 社会人の教育現場への参加についても、元気で意欲のあるOB社員が増えており、こうした人材を組織的に参画できる仕組みができると企業側としてもやりがいがある。
  • 教員が忙しい中で、ICTをうまく活用して負担を少なくすることも併せて考えていくことが必要。ICTを教えるだけではなく、ツールとして使っていくことが重要。
  • 今回、学習指導方法の在り方について議論するということであれば、最も影響を受けるものは、教材あるいは教科書の在り方ではないか。いろいろなことを教えるために「アクティブ・ラーニング」をしようと思えば、教科書の在り方と学習指導要領の関係について展望を持った議論が必要。
  • 教材を双方向(インタラクティブ)なものとし、新しいものに変えていくべき。

カリキュラム・マネジメント

  • 学習内容に密着したリフレクティブな長い構造の授業で、常に今やっていることの意味は何かを問い直させ、その中で子供たちの資質・能力を捉えられる教員の目を養えるよう、学校の中での研究体制の在り方という意味でも、カリキュラム・マネジメントという考え方は非常に重要。
  • カリキュラム・マネジメントを学習指導要領の書き方と連動させ、国としては学習指導要領や解説書にある程度まで書いて、それから先は各学校におけるカリキュラム・マネジメントの中で具体化を図ってもらうようにするかということが大事になる。
  • 実際に現場に行くと、学習指導要領どおりに行われていないとか、あるいは事例が示されていたらそれだけをやるというような乖離がある。言語活動の議論のように、教科の枠を越えた柔軟な話し合いが必要。
  • カリキュラム・マネジメントをどう各学校で行っていくのかということが重要。幼稚園教育要領においては育てるべきことが示されているが、具体的な活動や方法については、各園で実態に即した多様な形で作り出していくということを重要視している。今育てるべきことは何かということを見極めていくということが、教師の資質として非常に求められる。各学校において教師の話し合いや研修、教材研究等を十分保証していくということが非常に重要。それが各先生に求めるというよりは、それをカリキュラム・マネジメントとして位置付けながら、各学校の教育力をつけ、それが先生たちの資質・能力を向上していくということにつなげていくことが大事。方法というのは、「アクティブ・ラーニング」は子供の実態から編み出していくということがあるので、そのときに何が大事なのか、どういう視点から考えるのかということを考えられる先生が大事。

5.各学校種、各教科等における改訂の具体的な方向性

※今後のご議論を踏まえて追記させていただく予定。

教育課程企画特別部会(第6回、平成27年4月28日)における主な意見

1.育成すべき資質・能力と幼児教育、義務教育の充実・改善等について

  • 資質・能力の育成には評価が重要。観点別学習状況の評価は、特に高校には浸透しておらず、現行の4観点だと評価がしにくい場面があるのではないか。学力の三要素に合わせて、知識・技能の習得、思考力・判断力・表現力、主体的に学習に取り組む態度という3観点に評価の観点を絞り、学力の要素と授業内容との整合性を取ることが大事。評価内容に関しても、学習指導要領の中に、子どもたちに身につけたい力の内容を3観点に合わせて明示していく必要があるのではないか。そうすることによって、指導目標が明確になり、指導と評価の一体化が意識される。そうした意識を持たせるような学習指導要領にしていかないと、評価が十分に行われず、活動だけが表面に出るような授業になってしまう。子供たちが何をどう学んだらいいのか、それを目標に明示して授業に取り組めるような新しい学習指導要領の内容を示すことが必要。
  • 学校教育法第30条2項の学力の要素というのは非常に明快だが、具体的にどのような形なのかというのは、教室ではなかなか分かりにくいところがあろうかと思う。それを具体化するような学習指導要領の在り方というものが望ましい。
  • 学力の要素の中の思考や表現等のスキルに関することを教科横断的に、それぞれの年代でどういうように、どんなことを、どのように学ばせるのか、そしてそれをどのように評価するのかということを具体的に学習指導要領に明示する必要があるのではないか。
  • 高等学校を卒業する18歳の段階で付けておくべき力がどのようなものなのか、という見通しを持った上で、小学校教育、中学校教育、高校教育を考えていく必要があるのではないか。一方で、学校間の接続の中で少し意図されたギャップも必要ではないか。
  • 資質・能力というもの自体が教育課程全体の目標改善にならないといけないのではないか。また、学校種間の接続に関しては、小学校段階なり、中学校段階なり、高等学校段階で、それぞれの子供たちがどういう状態になっているかが示されていないといけないのではないか。これまでの学習指導要領や教育課程の論議の中では、内容や観点の基本的な構造は示されているが、資質・能力が具体的にどういうところまでということは書かれていない。英語の教科化や英語活動の充実についても、どんな力を18歳の時に持つべきなのか、小学校からどういうことを培っておくと、それができる可能性があるのか、その時に、小学校で指導すべき内容や活動の提示とともに、どんな力がそれぞれの段階で必要なのかということを明示すべきではないか。イギリスのナショナルカリキュラムのように、それぞれの教科なり、領域の中で、どういう力をどういうように付けていって、中学校の段階ではここまで、高等学校の段階ではここまでということを、目安としてレベルという形で示すことが必要ではないか。
  • 評価については、観点別にどこまでできたかということを評価する形になっているが、どういうように伸びたか、どういう方向に伸ばそうとしているのかという、学習のための評価が欠けているのではないか。
  • 上から落下傘的に学習指導要領や解説における各教科の目標及び内容の系統表をおろしていくだけでは、見ていない先生も多く、現場では活用されない。現場の先生方自身が、どのような資質・能力を自分の学校の子どもに付けさせたいかというボトムアップの方式が重要。例えば、前任校では、教員研修としてこれから21世紀を生き抜くためにどんな資質能力が必要かということを小学校1年生から中学校3年生まで学年ごとに中学校区3校の先生たちの力で「コミュニケーション能力」に絞っての具体的資質能力を言語化してみた。小中連携の研究授業はこの観点で話し合われた。また、次の年には「キャリア教育の視点」に沿って小・中9年間でいかに資質能力を育成するかのひも付けを、学区の状況等に合わせて先生方自身が作り上げていった。現場の先生たちから出されていくことが重要である。
  • 総合的な学習の時間は、テーマを先生と子供が合意の上で設定し、活動の見通しを立てて、主体的、協働的に活動して発表し、有効なリフレクションを取り入れたロングスパンのカリキュラムであり、まさしくアクティブ・ラーニングそのものである。このような学習スタイルを、発達段階に応じて、各教科でも可能な限り取り入れるべき。そうすることで、学習の結果だけでなく過程そのものが重要であるという認識が広まるのではないか。非常に優秀な教員は、非常に優れた総合的な学習の時間をコーディネートしているので、それほどハードルは高いものではない。
  • 自分で学習したことを自分の言葉でまとめて人に伝えるということは重要。それによって、より学習に余裕のある生徒は次のレベルを望み、やや理解が不十分な生徒であっては、そこでもう一度考え直す機会が得られる。
  • この部分は教科でないと絶対できないという、各教科の本質に関わる見方、考え方、本質的な問いを全体で整理するということが必要。特に、学んだことが実生活、社会とどういう関連があるのかということを整理するということは非常に重要。例えば算数・数学では、帰納・類推・演繹といた論理的思考や、一般化や記号化、特殊化、単純化といった数学的な方法に関する見方や考え方、そして関数的な考え方、図形的な考え方、統計的な考え方といった内容に関する見方・考え方がある。それらは、式、表、グラフ、論証など、人と議論し納得させるために不可欠なもの。注意が必要なのは、例えば論理的な思考は、学習内容と一体化していないと身につかないということ。そういう意味でも、教科で何ができるのかということは重要。
  • 埼玉県の工業高校生にアンケートを取った中で、中学校のどの教科が自分の進路選択に一番影響を与えたかというよう質問があった。生徒の4割以上が技術・家庭科の技術分野と答えている一方で、特に影響を受けていないという生徒も半数近くおり、中学校等で習ってきた内容がどこまで将来の展望に影響を与えたかということが、見えにくくなっているのではないか。高校教育を考えたときにもやはり中学校の教育は非常に重要であるので、中と高の連携、先生方との交流をもっと深めていく必要がある。
  • 学習で一番大事になるのはモチベーション。今は中学校から高校に入る、高校から大学に入るための勉強となっており、なかなかモチベーションを持ちづらいが、そこをどう改革していくかが重要。
  • 今回の教育課程を考える上では、対立すると思っている概念が、実は対立しないということが大事な点ではないか。例えば、幼小連携の議論の中で、小学校以降の教科の学びの芽をきちんと盤石なものにしようという意図を持ったからこそ、教科内容の前倒しをするのではなく、子供が存分に遊び込み、主体となって、協働的に本格的な暮らしを存分に作ることを大切にする。それこそが、小学校以降の教科の学びの芽になるのだと考えての判断である。昔の考えで言えば、子供が存分に活動すれば知識は付かないというように対立的に考えただろうと思うが、もはや幼小連携の動きはそれを乗り越えてきている。むしろ子供が存分に遊べば遊ぶほど、思考や判断や自己制御やメタ認知、科学的な物の見方などを育てるチャンスは増えることになると考えてきており、これはとても大事なこと。
  • また、社会の要請に応えていく実践的な問題を扱えば、学問的にはレベルが下がるのではないかと思われがちだが、それも違うだろう。社会の要請に応えて本当の実社会の問題を解決しようと思えば、生半可な知識では危なっかしく、むしろ科学的・学問的に正確を期したり、単なる一つの知識ではなくていろいろな知識を持ち込んで、多面的・多角的に吟味をせざるを得なくなり、教科的に見ても、高度な水準に上がる可能性がある。そうような質のものとして社会の要請に応えていくことを通じて、子供が教科の学びの意義を実感するということと、教科的にしっかりとした系統的知識が身に付くということを同時的に実現することが可能になる。社会的な実践力なのか、学力なのかという対立的な問いは間違っているということが、資質・能力の育成ということが打ち出された段階で明確になったと思う。
  • アクティブ・ラーニングにすれば量がこなせないのではないか、学力は下がるのではないかという議論は以前からあるが、アクティブ・ラーニングをする中で、学び方や教科の本質が身に付いてくる。本質的な問いや、ブルーナーが「構造」と呼んだものが子供に身に付いてくれば、内容的にはどんどん早く身に付く。算数でも基準量を早く洞察する芽が身についていれば内容の処理は速くなり、社会科でも地理的なものの見方・考え方が身についていれば、全ての地域に一律に同じだけ時間をかけることはなくなる。
  • 社会の要請に応えるとか、アクティブ・ラーニングをしていったときに、トピックやテーマが中心になり虫食い的に進む可能性もある。教科の系統というのは何かということ、順序どおりきちんと全てに触れるということが本当に系統なのかをきちんと見据えていくことが大事。
  • 幼小連携が、遊び込むというところに思い切って踏み込んでいけた一つの大きな理由は、幼児期の子供の学びというのはそもそもどういうものか、そして、そこにおいて、幼児期の子供に形成される知識というのはどのようなものかということについての共通した学問的に基礎付けられた認識を持っているからである。小学校以降も含め、人間はどう学ぶのか、人間の知識というのはどういうものかについて、もっと新しい科学的な知識、認識を足場にして何を教えるかという議論をしていく時代ではないか。分かりやすくするが余りに不正確になってしまって、通俗的な概念を足場に教育課程の議論をするのは、また同じ過ちを繰り返すのではないかと危惧している。
  • キャリア教育、学校教育の中で、早く夢を見付けることをあおり過ぎていないか。なりたい仕事が見付かっていない、夢が決まっていないことが自己肯定感や学ぶ意欲の低い理由となっている子供たちもいる。学ぶということを楽しんでいる子供たちが、その延長で積み重ねていった経験や学びの中から、そのとき出会った仕事に就いて、その中で鍛錬していけるような学びの在り方を組み立てることが大切。
  • これまでなされてきた様々な取組の成果を検証し取り入れること、教育課程の総体的な姿を念頭に置いた上で、各教科の関わりや位置付けを考え、整えるべき環境や条件を検討すること、またその上で、評価の在り方や評価の指標を定めていくことが重要。

2.グローバル化する社会の中で求められる資質・能力や、外国語教育の充実について

  • 現在行われている小学校の外国語活動の成果をうまく中・高に結びつけていくためには、教科へ移行させ、体験から基本的な知識という部分を、小学校の一つの流れの中で、きちんと生徒たちに身に付けさせるということがより有効ではないか。教科になることによって、小学校6年を終わった時点での具体的な目標が設けられ、中学校との接続もよりうまくいくのではないか。
  • 3年生から外国語活動を週1回行っているが、教員の研修や研究授業、ALTの配置、系統的な年間計画など、条件整備をきちんと行われており、週1回でもかなりの効果を上げている。3・4年生で外国語活動が充実してくると、高学年では教科としてもよいのではないか、という話が先生方からも出てきている。ただしその前提として条件整備が重要であり、それがあって初めて教科としての厚みも出てくる。
  • 語学の能力を定着させるためにはどうしても時間が必要になる。今は外国語活動は週1回という形でやっているが、週2回ぐらいまであった方が、生徒たちの語学力を将来的に伸ばす上では良い。週1回だと知識を学ぶだけで終わってしまって、それを活用するというところまでいかない。どれぐらいの時間数が取れるかということが非常に大きな課題になっていると思う。
  • 小学校英語の教科化については、開始時期の早期化という観点だけではなく、グローバル化の進展の中での小学校教育の充実の一環として、母語以外での言葉でコミュニケーションする体験をさせるということが役に立つという観点からも焦点が当たっている。ただし、小学校の教科化のみに期待するのではなく、小・中・高と一貫した考え方でとらえ、そのスタートとして、初等教育のベーシックなところでばらけてこないよう教科化するという整理をつけるべきではないか。
  • 英語を教科化するのであればそれなりの覚悟を持って、自治体間で格差が出てこないよう、養成の段階からきちんとした条件整備をやり、5、6年制はどこでもきちんと英語教育の最初の段階ができる状況にすべき。
  • 日本語でどういうように物を考えるか、日本語でどのようにコミュニケーションを図るかについてのベースがあってからこそ外国語というものが学べるのであり、日本語をきちんとやるべき。
  • スイスでは小学校の頃から教科型にして、しっかりと努力をした成果として皆が英語をしゃべれる。音の感覚は、やはり小学校の頃にきっちりと学ぶことが非常に重要であり、体制をきっちりと整えた上で、教科化に踏み切ってもいいのではないか。
  • 早い時期から英語をやることには賛成。現場を見ていて、小学校段階で英語に2時間、3時間を費やすことによって、日本語力が落ちるということはないように思う。ただし、小・中・高の長いスパンでのCAN-DOリストをきちんと用意し、次につながるようなカリキュラムを作っていくことが必要。5、6年生の英語活動を教科化するにあたっては、今中学校でやっている教科に代わるようなものではなくて、例えば体験を通して学んでいくとか、何かトピックを決めて学んでいくというようなものにしていかないと、現在、中学校の英語になった途端つまずくということと同じことが、3、4年生と5、6年生のところで起こるのではないか。
  • 英語学習の効果を最も強く決める要因というのは、トータルの学習時間だろうと思う。学習時間は、学校の授業時間と、自分で学ぶ時間と、日常生活における接触時間の3つであるが、日本の場合、日常生活における接触時間は極めて少なく、自分で学ぶ時間は個人差が大きい。学校の学習時間も、国際的に言うと決して多くない。中学校から大学まで合わせて10年間のトータルの学習時間が極めて少ない結果として、それほど英語の学力は付かないということになる。それに比べれば、確かに学習を始める時期が早い方がいいとか、指導法の工夫が大事だというのはその通りで、それは十分変えていける話であると思う。
  • 小学校英語について、現在の成果の範囲では期待されていることにまだ届いていないのではないか。例えば中学校3年生、高校3年生時点で、「読む」「書く」のみならず、「話す」「聞く」力も測定して検証することまで必要でないか。
  • 小学校に教科としての英語を入れるということについては、各教科が教育課程の中でどういう位置を占め、どういう役割を果たしており、その教科が互いに他の教科と連動し合いながら、どういう形で学校の教育活動を作り出し、あるいは子供を育てていくのかという観点でとらえ、他の教科との連動、関係においてどういう波及的効果をもたらしていくのかを検討する必要がある。また、自ら考える力をどの言語で獲得させていこうとするのか。それは単独の日本語であるかもしれなし、あるいは、これからの21世紀を生きるには複数の言語でということも、全体的な動きからすると一つのテーマになっているのではないか。
  • 日本の英語教育がなかなかうまくいかないというのは、そもそも日本人の持っている文化も影響しているのではないか。英語では私はこう思うとか、私はこうしたいと、まず結論をはっきり言う。一方、日本の場合には、どちらかというと結論はぼやかして、場や空気を読み、相手を立ててというような中で育ってきている。それが突然、国際社会に出ていったときに自分を出さなければならなくなる。今後、日本人の持っている美徳やよさを併せ持って、グローバルな社会の中で活躍できる人材をどのように教育していくか。実は日本人は、言わなくても察する、高いコミュニケーション能力を持っていると思う。しかし海外の人と接したときには、言わなければ分かってもらえない、自分の意見をはっきり主張していかなければいけない。それは、日本の中にいたらなかなか獲得できないと思う。そこをどうつなげていくかというのがこれからの課題であり、単に英語の時間数を増やしただけでは解決できない。
  • 英語を話せるようになることが即主体的に協働できることにつながるわけではない。異質な他者と協働する力は過日話した保護要因などがあげられる。言語についていえば、日本語と英語の基本的な構造上違い、たとえば「主語から言う」「結論から言う」といった言語学的なスキル・トレーニングも入れていかないと、議論できるようにはならない。英語を学ぶことによって何ができるようにさせたいのか、そのターゲットを明確にする必要がある。
  • 英語教育について。幼小の子供をもつ母親の周りには教材の情報が溢れている。英語を小学校で教科化するという議論の前に、家庭の中でいろいろな取組が既になされており、中学入学時に相当の差が付いているということも前提にしたクラス運営、授業運営を検討する必要がある。学校教育の中だけで教育のプロセスを議論しても十分ではない。
  • 日本の学校英語教育の成果について、客観的なデータが必要。高校3年生に対する英語の抽出テストはあるが、中学校に関してはない。また、文部科学省の調査で英検準1級以上を持っている教員の県別データがあるが、教員の英語力が高いことと子供の成果、英語の授業を英語で行っていることと子供の英語力に相関があるのかどうか基礎的なデータが必要。中学校の全国学力・学習状況調査にも、何年かおきには英語があってしかるべき。
  • 小学校における英語の教科化など、増えてくる社会の要請と教育課程全体の中でのバランスを考えたとき、週5日制など全体の枠についても問題となるのではないか。

3.幼児教育の充実、小学校教育との円滑な接続等について

  • 幼・小の先生方の間で、授業や行事、研究会などの交流が行われ、接続カリキュラムをつくるということも出てきている。そうした幼・小の交流の中で5歳児の姿を捉え直すと、幼稚園での遊びの姿が、これは学習に向かう姿勢として大事だと小学校の先生から指摘されるなど、5歳児の生活の中に、小学校以上の生活や学習の基盤になる学びの芽生えがたくさん見えてくる。5歳から小学校低学年という中に共通の発達の姿というものを見ることができる。こういったことも踏まえて、幼・小のカリキュラムの議論をしていただきたい。
  • 幼児教育における評価は、一人一人のよさを引き出していくという視点から、年度当初と比較して何が伸びているかを評価し、指導要録等に記述している。そういった記述をよりきめ細かく、どういう指導の下で、どういう発達が見られ、今、どういう状況にあるのかということを次の指導者に伝え、子供たちの発達の連続性を保障するようなものが必要である。
  • 幼小の円滑な接続には、行政的な支援も欠かせない。教材の開発や普及のほか、幼・保の教員・保育士希望者が、幼・保のことだけではなく、幼小の連携や学校間の接続ということを学べるような保障も必要。
  • 幼小連携で子供の成長を考えていくと、5歳児ではかなり学びの基礎のようなことができるのではないかと思う。思考力についても、物を比較することや、関連付けて考えるようなことのトレーニングも幼稚園生でスタートできるのではないか。
  • 非認知的能力の議論は、情意面や主体的に学ぶ態度面に関わる中核的な議論。意欲の問題とともに、感情のコントロールや意思力なども含めて考えるべき。 
  • 小学校とのつながりについては、幼稚園での学びの芽生えから自覚的な学びに発展していくという整理。学びの芽生えとは、小学校において、意識して自覚的に意志的に学ぶということの始まりが幼児教育に出ているので、それをしっかり育てようということ。例えば、5歳児において考える力、あるいは子供同士で話し合う力というのは十分育て得るということで、小学校教育の前倒しではないが、小学校教育に発展する芽生えというものが伝わっていることが大事。
  • 幼児教育における評価については、ポートフォリオに近いが、作品例を含めた質的な記述を教師同士で共有し、更に子供とも共有した上で、教師が指導計画を改善し、また子供自身がその改善の一翼を担うという考え方。記述し、共有し、改善するという新たな評価の考え方を検討していただきたい。
  • 幼小接続及び幼児教育の質の向上には、行政的な関わりが重要。例えば、保育所、幼稚園と小学校の教職員の協力体制の構築や、管理職や行政担当者を対象としたカリキュラム・マネジメント研修などを行政的に保証していくことが重要。特に、平成27年度から幼稚園、保育所、認定こども園を基本的に全て管轄することになった市町村が、幼児教育アドバイザー制度の充実など、幼児教育現場への助言、監督の体制をしっかり作ることが重要。また、保育士と幼稚園教諭という2つの免許資格が異なるということの弊害は大きい。既に保育教諭という形で免許資格の統合も提言されているので、その点の議論も進めていただきたい。
  • 小学校のスタートカリキュラムについては、現在、生活科の解説に明記されているのみで、学習指導要領本体には書かれていないので、しっかりと位置づけていくことが必要。スタートカリキュラムについては、いわゆる小1プロブレムのように、子供が教室に落ち着いて座れないということへの対策として捉えられることが多いが、幼小の接続という観点で見ると、幼児期の教育の成果をいかに生かして小学校教育を充実させるかということが重要。そうした観点から充実を図るととともに、スタートカリキュラムという考え方を1年生の教育、あるいは低学年の教育全体に広げていくということが大事。具体的には、現在、国語と音楽と図工の一年生のところに、幼稚園教育に配慮して教育を進めるという記載があるが、それを全ての教科や時間に広げるということが考えられる。また、幼児教育は非常にアクティブで、主体的な学びを大事にしているが、そういう考え方を低学年にも導入し、小学校全体のアクティブな学習の始まりとして、教師が一斉教育を進めるということだけではなくて、子供がグループになり、話し合いながら主体的に学習を進めるというやり方を、いろいろな教科で広げられるとよい。
  • 福井県では、保・幼・小の接続カリキュラムを作成し、「言葉」「数」「自然」「約束」の4つの視点から内容を示している。
  • スタートカリキュラムについては大いに賛成。現状の感情のコントロールだけではなく、体のコントロールや、他人の痛みやルールを理解することなど規範意識を育てることも幼児教育の段階から入れていくことも重要。
  • 幼稚園、小学校低学年の子供たちにとって遊びは学びであり、5歳児の遊びの中にいかに意図的に学びの要素を入れていくか、小学校1年生の子供たちの学びの中にいかに遊びや体験を取り入れていくかが重要であり、そのようなつながりを大事にすることが幼小を分断しないことにつながる。
  • 思考力の育成は内容あってのことだと思うが、必ずしも教科の文脈の中だけで思考力を鍛えていくのでなくてもよいのではないかと考える。学年のはじめに思考スキルのようなトレーニングを単独である程度行ってから、そこで培ったスキルを教科学習や総合学習の中で使っていくという方法もある。
  • 幼・小・中・高の教員が、18歳で育っているべき資質・能力観や学力観を共有していく必要がある。例えば、小学校と高校では読書感想文を評価するときの観点が異なり、それを共有することは非常に勉強になる。他学校種の教員で研修をすることができれば有効。

4.体力の向上や健康の維持等について

  • 社会の変化に合わせた学校体育・保健の在り方が重要。公園でボールを使って遊べない現状では、学校体育で運動する時間をある程度確保してあげないと、生活の中で運動や体力づくりの時間が確保できない時代になっている。また、体作りや運動能力の獲得というのは、幼・小・中・高と連携して行っていくことが重要。小さい子供は、脳から指令を出したことが体にうまく伝わらずまっすぐ走れないが、神経系の発達に応じた運動環境を整えてあげることによって育ってくる。そこが抜けてしまうと、後でやろうと思ってもなかなか獲得できない。
  • 自分自身をコントロールする力や、ルールの中で世界の人たちと正しく競い合っていく力が重要。日本人は自己表現が苦手だが、スポーツでは自分を表現することができ、競い合いの中で戦ったり、競い合ったりして相手を評価していく。できなかったから駄目なのではなくて、競い合うことに意義があるということを、机の上ではなくて、自分の体を通して身に付けていくということは非常に必要なこと。また、自然界とどう付き合っていくのかという観点からは、自然を感じられるのは自分の体であり、まだまだ分からないことがたくさんあるんだといったことも含めて、学校体育・保健で学ぶことができる。コミュニケーション能力や、自分をコントロールする力、ルール、痛みに寄り添うといったことを学び、そうして獲得した資質・能力が他の教科にも連動していくのではないか。また、オリンピックだけではなく、パラリンピックといった題材も通じて、障害のある人たちにどう寄り添っていくかということも学んでいけるのではないか。

5.特別支援教育の充実等について

  • 発達障害には、診断されているケースと診断されていないケース、また要件がそろわないので診断まではされないが発達的な偏りがありそれがのちの自立や社会参加を難しくさせる要因になるというようなケースがある。そのことを踏まえると全ての学校・学級に発達障害を含めた障害のある子供たちやニアな状態像を持つ子どもたちが1割以上在籍することを前提にして、通常学級の中でどう指導していくかということをしっかりと書き込んでいく必要がある。ただ受容されるだけで十分なわけではなく、教育的ニーズに応じた適切な指導がないと社会参加や社会適応が難しくなってくる可能性がある。現状でも丁寧な指導やその子の状態像を理解し受け入れるということはかなり広がってきている。しかしながら、どれだけ理解されても、体力や学力などといったベーシックスキルから衝動性や攻撃性のコントロール、ルールや倫理、マナーなど将来の自立と社会参加を視野に入れたトレーニングが受けられず、具体的なスキルになっていなくて不適応を起こしてしまっている若者が少なくない。現状のように、理解と受容ばかりではますます不適応を起こす社会人が増えていくのではないかということを危惧している。一方で、例えば、小学校1年生3学期と2年生の2学期の段階で全ての子供に聴写テストを行い、その分析を生かして指導し効果を上げている自治体がある。また、中学校1年生の段階で、読みや社会性はどうなのかという文科省の特別支援教育の実態調査に使われたアンケート調査を実施し、そこで上がってきた気になる生徒にはLDI-RやWISC等の検査を行うことによって指導に生かすなど、学習障害のある子供や障害の有無にかかわらず未学習不足学習の子供の指導をニーズに応じて始めることで成果を挙げている学校もある。幼少連携で発達課題のある、あるいはあるかもしれない子どもの早期指導を、個別およびクラス(学校)全体で行うことですべての子どもへの指導成果を上げている自治体もある。こういったことは全国的にやるべき。
  • 交流及び共同学習については、ただ場と時間を共有するだけでは、かえってデメリットにつながる場合がある。交流や共同学習を行う前に受け入れる側の子どもたちに学習のスタイルの多様性をはじめ発達的な違いを、いかに人は生得的環境要因的にみな異なりあうのかという指導を行うべき。そのうえで、受け入れる側の教員が当該児童の担任と情報を共有しながらターゲットを決めて当該児童も含めてしっかり指導できること(ただ、その場にいさせるとか、子どもの中に担当を決めるといった”配慮“ではなく)、またその教員自身がクラスの子どもたちのロールモデルになる言動をとること(発達を理解している等)もしていかなければ効果はあがらない。インクルーシブな教育システムの実現のためにも、そういった点もぜひ明記されたい。
  • 個別の指導計画を作るとか、個別の教育支援計画を作るということはやっているが、現状は作るだけで、あるいは作ってそれらしいことはやっても、実際、成果が上がっているかという効果確認がなされていない、効果確認基づき指導計画の見直しがなされていないところはまだまだ多い。発達障害についていえば、指導計画すら作られないという子どももたくさんいる。心理検査は教育センター等で受け、そのデータだけが教員に渡され、それで指導計画を作りなさいといわれる自治体もある。検査において必要なことは最終的な数字だけではなくその過程であるため、そういった状態で教員に指導計画をつくってニーズに応じた指導をしろということは理に合わない話だ。通常学級に在籍している生徒に課題があるかもしれないと思ったときに、例えば特別支援教育コーディネーターや特別支援教育士を持っている教員がWISC等を取って、その子の何が課題なのかというところまで踏み込んで、しっかりIEP等を書き、保護者やほかの教員と共有し、そのうえで更にそれでちゃんと効果が上がっているかを、せめて半期に一度はリバースしていくことを実質的に担保しない限りは、指導の効果はあがらないし、なによりすべての子どもの教育権が保障されない。そういうこともしっかりと議論し書き込んでいただきたい。
  • インクルーシブな教育システムにおける合理的配慮は、本人の申し出をそのままやることではない。個々の指導のターゲットを踏まえたうえで、その申し出が必要かつ適当な調整及び変更なのか、公平性公正性を担保しながら検討し判断しなければならない。そうしなければ結果として子ども自身が不利益を被ることになる。合理的配慮をする前にやるべき指導があったうえでの話でもあり、そのためにもIEP等が必要になってくるのだが、合理的配慮という概念自体が教育現場ではいまだ理解されていない。新しい学習指導要領にはその点も明記する必要がある。

6.社会の要請等を踏まえた教科横断的な学びの充実や、地域の連携等について

  • それぞれの教科を教育課程の中で孤立させないような、教科横断的な工夫が必要。例えば、理科が他の教科とどういう脈絡の中で、中2なら中2にこういう内容があるということが、他の教科との関係の中で明らかになるような、解説の記述の工夫や資料の作り方の工夫が考えられるのではないか。
  • 小中一貫教育が発展していくかどうかに関して、小中一貫のカリキュラム開発が重要。そもそも9年間に柱を通すというのはどういうことなのか。あるいは、4・3・2とか5・4といった学年の区分を工夫が、子供たちの力を付けることにどういう意味を持つのか、さらに、地域学習やキャリア教育について、既存の教科構成等で学ぶこともできるが、それをより融合的にしたり、横断的にすることによって、どのような効果があるのかといった取組の実践等を吸い上げながら、9年間で柱を通したカリキュラム開発を検討していくことが必要。
  • 小・中・高縦断的な視点で、高校卒業時にどのような力を付けさせたいかを考えることが重要。労働力人口の減少と産業構造の変化が進む中で、子供たちに職業や仕事についてしっかり教えて、考えさせる必要がある。例えば、日本の強みや科学技術といったことであるとか、地域や社会との関わりについて、教科間の連携を通じながらしっかりと教えていかなければ、子供たちは将来困ってしまう。

教育課程企画特別部会(第7回、平成27年5月12日)における主な意見

1.育成すべき資質・能力とそれを育むための学習・指導方法等について

  • 高校教育について、大学を見据えることが議論の中心となっているが、半分の子は大学に行かないことを考えると、成人とみなされる満18歳の段階で付けておくべき力についてしっかり整理しておく必要。民間の業者が高校生の力を測るという意見もあったが、そこは国が担保すべきであり、例えば英国のように、18歳の時点でとれた単位の積み重ねが大学入試の土台となるというような方法にすべき。18歳で担保すべき力としては、コミュニケーション力や社会性などすでに指摘されているもの以外でいうと、まずは自己効力感。よく自己肯定感の低さが言われるが、犯罪学では自己肯定感のみをターゲットに置くとかえって逸脱すると言われている。むしろ「努力をすれば成果は変わる、やればできる」と自らの力を信じる自己効力感が大切であり、これが社会参加の土台になる。それから忍耐力。いろいろな国の人と協働していくためにも必要であるし、自身が困難を乗り越えていくときにも必要だ。さらに、クリティカルに考えたり書いたりするという力。労働価値への理解。労働教育に関する意識調査では、働く上での権利・義務をもっと学びたかったとある。義務の意識が弱く、好きなことを仕事にできない、仕事そのものが好きでない、仕事を通して自己実現ができない、などの理由から社会に不適応を起こす成人も多いので、働くこと自体に意味があるということをしっかり教えることが必要だと痛感している。これらのことをクロスカリキュラムで、それと同時に日々生活の中で教えていく必要。
  • 卒業レポートの取り組みの効果については、大学入試との関係で、これをやった場合とやらなかった場合の比較ができないため、証明は難しい。しかし、少なくとも大学進学に悪い影響は出ないから、大学に行ってから大学の学びにスムーズに移行するためにはやった方がいいということを高校の先生方に言っている。「卒業レポート」は、実際には2年生の段階で各個人研究のレポートであるが、これは総合的な学習の時間をどのように扱うかということと深く関わるので、全国化はなかなか難しいのではないか。なお、堀川高校の生徒は、偏差値的に高い生徒がいるという誤解があるが、そのようなことはなく、偏差値に関わらず、生徒の興味関心というのは必ず内にあるので、それを引き出せるようなきっかけを作ることができれば、生徒は自ら学んでいこうとするということは間違いないと考えている。
  • 習得の授業の中でアクティブ・ラーニングを入れても、それをやっている暇があったら一題でも多くの問題を解くと言う先生もいるが、アクティブ・ラーニングを入れることが決してペーパーテストでも不利にならない、場合によってはプラスになるということもある考え方もあり、これを研究していく必要がある。
  • 高校生の進路に関する意識調査において、自分に合ったものが分からない、やりたいことが見つからない、というのは、アクティブに何かを学んだ経験がないことによる。大学入試のマークシートの試験に対応するために一生懸命勉強している限りでは、確かに見つからないというのは大変納得できる。そのため、アクティブ・ラーニングは非常に重要。
  • 英語については、受身的な技能だけではなく、スピーキングとライティングというアクティブな技能を含む4技能をきちんとした形で教えていくことをやらない限り、アクティブ・ラーニングとは結びつかない。8、9年ほど前の調査になるが、SELHiと普通校の授業を比較して、SELHiの方がディスカッションやディベートなどを多く実施し、普通校のほうが訳読などをより多く実施していたが、これらの学校における高校3年時のセンター試験の模試では、SELHiの生徒の方がより高い点数ととったことが分かった。アクティブ・ラーニングの効果は論証するものがないという話もあるが、英語という特定の分野などにおいては、ある程度数字的なものは出ているため、そういった調査をできる範囲でやっていく必要はある。
  • アクティブ・ラーニングについて、高校でも卒業レポートをという話があったが、その前に、教科の中で、普通の習得の授業の中でもできるアクティブ・ラーニングをしっかり入れるということが先にあるべき。現状では、理科や社会、数学などに発表や討論、協働的学習などの機会が入ってきておらず、評価のときも、レポートではなく定期テストの成績で評価されがちである。習得の授業で取り入れた上で、先に探究の学習に手を付けていくことはいいと思う。
  • 教科学習のなかでアクティブ・ラーニングを取り入れることは重要。生徒たちは、教科は教科、総合は総合と学びのスタイルを使い分けることはできない。高校の授業全体にアクティブ・ラーニングのような形が徐々に広まっていかないと、社会に参画するための学習をコーディネートしても難しいのではないか。
  • レポートというのは、自分が何に関心があり、社会に出て自分は何に向かっていくか、自分の存在意義は何かというところまで考えることができるという意味でメタ認知を促すという点で優れている。これは教科の中でも十分やっていくことができる。
  • 福井県ではもう3年くらい県全体として中高の接続授業を進めているが、高校の教員が中学校の授業を見て非常に勉強になったという率が非常に高い。これは職業系の高校の先生方の率が高く進学校ではまだそこに踏み込めていないという現状もあるが、このように授業を変えていく動きが広まるとよい。
  • アメリカを訪問した際、日本の経済や教育に関する議論をする中で、アメリカ人の高校生が流暢な日本語で議論をしていて非常に驚くとともに、世の中の進み具合、変化のスピードに危機感を覚えた。マイナス1をゼロにキャッチアップする必要もあるが、ここで議論すべきはゼロを超えてどうプラス1へ持っていくかということ。日本の大学だけではなく、海外でも挑戦できるようにするため、高校生はプレゼンテーション、ディスカッション、ディベートやネゴシエーションなど普通にできるようにならないといけない。そのためには、すでに57もある教科・科目にアクティブ・ラーニングの授業をさらに増やすのではなく、インタラクティブ・ラーニングとして、すでにある各授業の中にアクティブ・ラーニングを反映させていくことが大事。
  • 欧米で今非常に話題になっているのが「シンギュラリティ」の概念であり、その時代にどんどん加速しながら近づいている。今まで存在した職業が消える時代に向けて生徒にどのような準備をさせるかということは、他の国でもいろいろと議論されている。これに対する一つのアイデアとしては、高校で理系と文系を分離しないこと。理系と文系に分けて、社会人になってお互いに充分なコミュニケーションが取れない状態で一緒に仕事をすることは危険。ペーパーテストで評価できるものは近々本当に無意味になると思うので、それをどう変えていくか。この中教審自体のプロセスもインタラクティブ(対話型)にしていけたらと思う。
  • 地域社会やクラスなどの一定の社会の中で、一定程度自分が力を持ち、働かせて、活動することで何かを変える。これにより地域社会や組織やいろいろなものを変えることができるし、自分の存在を認められたり、自分の存在がより高められているということを実感することができる。欧米では、アクティブ・ラーニングのようなことが行われていると言われているが、結局、地域社会の構成員がどのような力を持ち、その社会なり国の力を将来どこまで高めることができるからこそそのようなことがなされていると思う。アクティブ・ラーニングにおいては、どのような力を持ちどのような社会を作れる人材を育成するかという観点が大事であり、結果的にはそれが一人ひとりの子供たちが社会の中で生きていくときにより大事なものを見つけることができ、日本人としてより豊かな国づくりや世界づくりに貢献できるようになっていくのではないか。
  • アクティブ・ラーニング等について、興味関心を持って臨まなければ、目指す教育効果はなかなか得られない。これを活性化させるには、子供たちがいかに変容していくかということをしっかり教員が見ることができるかということが一つの課題。そのために、教員の教え方や指導方法だけでなく、支援の仕方についても考えていく必要。
  • 高校教育を本来の普通教育という基本的な枠組みの中で考え直さないといけない。日本の場合はどうしても、個別的な知識をたくさん持っていることが普通教育の中身のように思われているが、本来はリベラルアーツであり、教科のそれぞれが持っている見方、考え方のようなものをいかに身に付けていくかが大事。生きていく上で、分かっていることだけではなく、それを使うことが一定程度できないといけないという観点で見直さなければならない。
  • 卒業レポートを課すことについて、放課後や土曜日を活用して子供たちに授業をしてきた立場からすると、常に課題になるのは時間の配分であり、卒業レポートを課す分、何をしなくてもいいのかということを生徒、教員ともに選択できるようなかたちにしないと、結果的には実現しないように思う。全ての生徒がすべての科目をすべて現行の学習指導要領通りに全部総なめしなければいけないのか、それとも何かしらのトピックを選択し、そこを中心に学習を選択できるようなかたちにするのか、ということも検討すべき。また、土曜日に課題研究に活用したいという子供たちに対して、どのような指導員がつくのかということも議論すべき。
  • 専門高校においては、座学と言われる一斉授業、実習と言われる協働的な学習を中心に行われる授業、あとはレポートという、大きく三つに分けて取り組んでいるが、すばらしい教育活動をしていると自負している。こういった活動を普通高校にも取り上げていただけるとありがたい。
  • 評価すべきものと評価すべきでないものがあり、これを全部評価しようとすると自己肯定感が低くなる。例えば総合学習のレポートでも、一人ひとりのそれに価値があり、その子が取り組んだということ自体を見てあげるべきであり、他者との比較による評価は好ましくない。
  • 自分の考えをまとめる時間や、学びたいものを学び取っていく貪欲さが現実には非常に育ちにくくなっているのが現状。教科を結集して教育課程の中でどのように高校生の学ぶ意欲を育てるかということが重要。
  • 高校生は、学習意欲と学習する目的を分けて考える。大学入試に卒業レポートの評価をという意見もあったが、そうなれば高校はその受験のための準備をし出し、卒業レポートも結局は受験のためとなってしまう。自分が意欲的に取り組んだことを、大学に入った先にさらにやりたいこととして取り組んでいく、そのために大学入試はクリアしなければならないからしっかり勉強する、というようにつなげていかないと、常に大学に入るため、と非常に短絡的に考えてしまいがちになる。目標と目的を分けて考えていく必要。
  • 柔道の創始者であり教育者でもある嘉納治五郎が、柔道の目的として、自己の完成と世の補益という二つを挙げている。他者との比較ではなく、自分自身を高めていくことを目的に修行をし、それを必ず世の中に立てるという精神であるが、これは教育の目的にも通ずる。
  • 教員を減らすということはあってはならないが、教員や生徒の生産性の観点から一言述べたい。よく聞くのは、教員が事務作業に追われて忙しいということであるが、アメリカでは、イベントを仕切るのは高校生であり、また事務作業を手伝う高校生も多い。これが社会勉強なりボランティアにも通じることがある。生徒を子供扱いするのではなく、あるいはお客様として扱うのではなく、一人の社会構成員として扱うことで、主体性を育みつつ、教員の仕事量も減らすことができるのではないか。
  • 学校全体で、コンピューター等のインフラの整備が非常に遅れている。日本の学校現場のICTの普及状況が世界と比べてどの程度になっているかということを今一度考えていただきたい。平成21年度に大量のコンピューター等が導入されたが、そろそろこれが老朽化してきている。今後の教育活動を考える上で非常に重要であるため、今後の方向性を知りたい。

2.育成すべき資質・能力を踏まえた教科・科目等の在り方について

  • 大方の高校においては、教育課程は各教科の塊という認識であり、教科の寄せ集めのようになってしまっている。高校の教育課程を考えるとき、教科等の関連がどうか、高校としての一体性はどうかという観点からの問い直しが一つのテーマになるのではないか。学習指導要領における総則という存在が各教科と必ずしも連動しきれておらず、高校の先生としては、総則の部分を読み飛ばしても、各教科のところを丁寧に読んで教育活動をやっているという状況。これまでの総則以下の構成は、学校として全体性や一体性をどのように作り出すかという課題を残しながら現在に来ているのではないか。総合的な学習の時間はこの課題への対応を果たし切れていない。
  • 実社会の出口に一番近いところにある高校生が本気で総合的な学習の時間に取り組むことですばらしい成果を生む。生徒の社会参画に関する意識の低さの裏には、実社会とかかわった経験・体験が非常に少ないということがあると考えられ、このような観点からも、総合的な学習の時間は重要。年々全国各地で大きな成果を出している高校も出てきており、学力向上や授業改善、地域活性化という更なる可能性も考えられる。総合的な学習の時間は、資質・能力の育成を図る上で、教育課程上の要の時間となっていけばいいと考える。
  • 英語の教員が英語だけしか知らなかったら今後発展性がないとの観点から、自分の教えている生徒が英語の教員になる際に、社会科の免許も一緒にとることを推奨している先生がいる。教科横断型となると、他教科の先生たちとのチーム・ティーチングなどの共同作業が必要となってくると考えられるが、例えば主専攻が英語であれば副専攻で社会科などの他のものをとるという免許制度の改革も実施することにより、英語を使ってほかのものを勉強するという体制を整える必要があるのではないか。
  • 高校のカリキュラムの一体性という論点の先に社会参加ということが大きく取り上げられているが、この考え方は今欧米などでも重視されており、様々な動きがある。これまでは、大学まではエデュケーション、その後でエンプロイメントを成功させ、その中で突出した人がアントレプレナーとなり社会を動かしていく流れであったものを、高校、中学校の頭が柔らかい最中で、社会で何をやっているかというのを教え、エデュケーションアントレナーシップへ持っていくという流れに変える。このような世界にならないと、本当に世界をリードしていくことはできないという強い思いがあって、欧米などでは教育改革に取り組んでいる。このような観点から高校で取り組むべき課題の構成そのものを変えるべきではないかということを提案したい。
  • 単純に新たな教科・科目を作るということは慎重に考えるべき。現に総合的な学習の時間が十分に機能していないという中で、今やるべきことをもう一度しっかりとやっていくということを大切にしていかないといけない。今まで積み残しているものや、今やっていることで重要なことの充実をしっかりと図るべきではないか。
  • 義務教育段階で十分に学べなかった子に対する学び直しは本当に大切なこと。高校を卒業する時点で必要な、18歳として必要な知識・技能、思考力・判断力・表現力、学習意欲等をどのようにしてもう一度彼らに取り戻すのかということを考えておく必要。
  • 少子高齢化の中で地域を支える人材としての高校生に非常に期待が高い。成績優秀で東京や京都の大学に進学する子だけではなくて、専門高校や進路多様校と言われるような学校に通っている子供たちに残ってもらいたいという思いが強い。地元では専門高校は元気な学校が多く、地域の課題に積極的に取り組んでいる学校が多い。アクティブ・ラーニングについても、専門高校ではプロジェクト学習、課題研究という形でかなりやられている。普通科高校でも、市民性に対する教育、主権者教育、公共というような意味で、高校生が自分の住んでいる地域からより広い社会に関心を持って参加することが大事。高校を卒業して就職してすぐ税金を払うような高校生もいるため、租税教育や消費者教育というようなものも大事。机上の勉強だけではなくて、参加型のことを高校時代に経験するような時間をカリキュラムの中に位置付けていくということが重要。
  • 新たな教科・科目等の在り方については、研究開発学校等においてこれまでに蓄積されたデータと照らし合わせながら、更に検討する必要。また、中山間地域の高校の存続などの、普通科、専門学科、総合学科という枠組みの中では必ずしも整理しきれないような課題がこれから今以上に大きな課題になると考えられるが、これについて研究開発学校の中の取り組みに少なからずのデータがあると思うので、それらを参照しながら次に展開するとよいと思う。
  • 高校生の場合、家庭の貧困と教育格差が直結しやすい。親が病気とか一人親家庭だと、家族の介護や家計のためのアルバイトで忙しくなり、学校に行きたくても行けなくなって辞めざるを得ない現状もある。いったん辞めてしまうと、学び直したくても金銭的にも時間的にも精神的にも難しい。しかし、現実的にスキルも何も付いていなければ、なかなか正規雇用には結びつかず、結局、非正規雇用のまま貧困を生きていくという子供たちも少なくない。そこも踏まえ、学校にいる間にいかにベーシックスキルを担保するかということも大事。
  • 歴史教育においては、教科書に書いてある用語を暗記させることが大学入試に有利だという観念がまだ強い。日本史も世界史も、1950年代は教科書に収録されていた用語は1,500語ぐらいであったが、現在は3,800語ぐらいであり、これは新しい研究成果を導入しようという良心的な執筆者の努力もあるが、大学入試で出た言葉を次の改訂の時に教科書に盛り込むということが行われていて、改訂のたびに用語が膨らむという状況。そのため古代から現代まで教えようとしても、結局現代まで行かないで終わってしまう。このような状況であるので、教科書改革というような問題も一緒に考えなければいけない。
  • 小、中学校の社会科歴史分野の教育は日本史中心であり、高校で初めて世界史を本格的に勉強するので、生徒たちは苦手意識を持ち、全体として世界史を敬遠する傾向が強い。地歴科の見直しも重要な課題。
  • ハーバードのケネディスクールでは、時代や地域の異なった人々が様々な問題に直面して、どう解決したかという課題解決的な結果としての歴史があるというように、歴史をディシジョンメーキングの積み重ねと捉えているが、日本の歴史教育はそのような発想が弱い。日本の歴史教育も、実践的なかたちに切り替える必要。また、ディベートを避けたがるという日本人の傾向を克服するためにも、アクティブ・ラーニングを徹底することが大切。
  • グローバル化時代では、日本のことをアピールするだけでは済まず、外国の人々の主張の背景にある文化の違いや、それを反映する世界史的な知識が必要であり、日本史と世界史の両立の仕方が重要。また、現在地理は選択となっており、文系の学生はあまりとらずに入ってくる傾向が強いが、地理の空間的な認識と歴史の時間的な認識をどう両立させるかということも地歴化の検討に当たって重視していただきたい。
  • 1964年の東京オリンピックの時には、日本人一人ひとりが支えて頑張っていこうという意識が非常に高かったが、今はそのような意識が低下している。自分のやりたいこと、合っていることだけではなく、社会に向けて自分に何ができるか、何をやるべきかというところに意識を持っていかないと、自分のやることが世の中につながっていくことはなかなかないと思う。2020年には、世界の中で日本が何を貢献できるのか、地球規模の問題に自分がどう関わっていくのかということを見据えることが大事。20歳代の投票率の低さにも表れるとおり、世の中に対しての関心、意識が低いなか、ライフワークとして自分が何を求めていくかというところを高校時代に教えていくというカリキュラム構成にできればと思う。
  • キャリア教育について、中高では先生方が工夫をしてたくさん実施しているが、高校、特に進学校に関しては板書を写経のように写す授業が多いと卒業生などから相談を受ける。キャリア教育といっても、総合的な学習の時間に職業講話を聞いて終わりということではなく、各単元の中に、世の中と結びついた出前授業のようなアクティブ・ラーニングを入れるということが大切。これをすると、教科横断的にもなり、また、生徒たちは世の中との結びつきも理解できる。高校の学習指導要領のなかに「キャリア教育」という言葉を入れていただくと、アクティブ・ラーニングという新しいキーワードになじめない先生方にもわかりやすいと思う。
  • 近年、職場体験やインターンシップなどの要請が多くなっており、企業側も社会貢献の観点から年々積極的に受け入れている。自分が所属する企業でも、受け入れの際、様々な模擬体験や外国人を含めてのディスカッションなど工夫をしているが、これがどれだけ生徒の役に立っているか疑問もある。キャリア教育をしっかり学校のカリキュラムの中で考えた上で、受け入れる企業側と事前のすり合わせを行うことが効果的な実施に必要だと思われる。
  • 社会とのつながりについては、高校教育に限らず、小中高と連続した教育が必要。課題研究や職業レポートなどを体験させることで、社会を見たり考えたりし、これが将来を考えることにつながり、自分自身との関わり方を考えることで、興味関心が高まっていくのではないか。
  • 今の日本の子供たちが将来何をしたいかがよく見えてないのは、やりたいことがないわけではなく、やりたいことが何なのかをゆっくり考える時間がないということだと思う。自分で考えて文章に書いたり人前でプレゼンをしたりというアクティブ・ラーニングを通じてその方向がはっきりし、これがキャリア教育につながっていくと思う。
  • 子供は、自分が奉仕活動をしようとか、何か働いてみようと自主的に思うことももちろんあるが、これが結局大学進学にとって有利になるという意識がどこかにあるため、最終的に自分のその後のキャリアに得になる、大学に入るときにプラスになるということがあるとそれはやはり強い。そのため、今後大学の入試改革が話し合われる中で、試験のことに加えて、やはり高校段階でやっているインターンシップなどの活動がどのように評価されるかということが話し合われるとよいと考えている。
  • 大学一年生に自分は自立しているかということを問いかけると、ほとんどの学生が自立していないと回答するが、その背景として、今の子供たちは、恵まれた社会の中で、また家庭の中でも少子化の状況にあり、切磋琢磨する機会が少なく、自立しなくてはいけない場面が少ないということがある。その中でこそ、社会との接点を持ち、ボランティアやインターンシップ等での協働的な学習の場で自分の考えを整理して、精神的・経済的な自立につなげていくことが非常に重要。

3.育成すべき資質・能力と高大接続の在り方等について

  • 高校が大学受験の際に大学入学者選抜実施要綱に則って作成する調査書には、昭和30年代から今日に至るまで変わらず、評定平均値を書く欄がある。これは集団の位置づけを示す評価であり、目標準拠評価の趣旨とは全く合っていない。要綱自体がすでに時代に合わなくなってきているので、これを見直し、評定平均値の再検討をしない限り、新しい高校教育の実現は不可能だと思う。
  • 京都の堀川高校の実践で、卒業レポートを生徒に課していたが、その結果として大学入試の成果も上がったと聞いている。この卒業レポートを全国化し、個別大学の入試の中に卒業レポートの判定も入れ、さらに時間的に余裕があれば、面接の中で生徒がプレゼンテーションをすることで多面的な能力を見ていくという方式がとれないかと考える。全国化することの困難と、個別大学がそれを受け入れるかという困難の二つの課題はあるが、アクティブ・ラーニングを高校に導入しようというのであれば、大学入試に卒業レポートのようなものをきちんと評価するというシステムが出来上がれば随分状況は変わるのではないかと思う。
  • 高校生がアクティブに学んだこと、探究的にいろいろなことを学んだことを積極的に大学が評価するようなシステムを意識的に導入することが、高大接続の観点から極めて重要。現在、センター試験はすべてマークシート、その後の大学入試も大部分がマークシートであるが、高校生にとって大学に入るということは非常に切実なので、それに対応せざるを得ないという不幸な状況にある。これを根本的に変えるために、受け入れ側の大学にアクティブ・ラーニングや探究的な学習を積極的に評価するシステムを導入すれば、高校生が高校でのアクティブな学びを通じてやりたいことを獲得することができるというポジティブな方向に変わると考えられる。
  • 大学の入試でという話になると、大学の教員はかなり消極的になる。何千人、何万人が受験をする中で、それぞれが持ってきた卒論を評価できるのかということ。高校の先生の手がどのくらいで入っているのかが分からず、共同の場合には、個人の力がどれだけそこに反映されているかわからないという原理的な問題もあり、また、大学の先生方にこれを評価する力があるかという問題もある。これについて、一つの方策として、卒論などの総合学習を通じて得た力を、プレゼンテーション検定、レポート検定などのかたちで、入試センターや民間などの第三者機関が評価するというものがある。そのような力を入試でも評価してほしいという者が、大学入試のときにTOEFLのようにそれを提出するという形のサポートがあれば、大学の方もそれを評価するという形がいいのではないか。
  • 大学入試において卒論などを評価する一つの方法としては、バカロレアの第三者機関のような仕組みが日本でも作られないかと考えている。
  • 卒業レポート形式を導入すると、今度はレポート作成を請け負う業者が現れることが懸念される。この点、海外では、大学入試において、その年に何の質問が飛んでくるか分からないという状況にしてエッセイを課し、生徒がいかなる経験を積み上げてきたか、生き方、考え方を引き出す方向に持って行っている。
  • これまで、高校、大学、社会のそれぞれの段階での教育につながりがなく、それぞれで最低限のことをやっていればよいという風潮があり、それが結果的に知識をたくさん教えることになってきたように思う。ものの見方や考え方を使ってより深く理解できるようになり、それを使って社会や組織を動かして何か新しいことができるような力を子供たちに身に付けさせる機会が少なかった。この意味で、高大接続問題も、社会と結び付けて考えないといけないのではないか。
  • 高校の教育課程を固定化しているのは大学入試の内容。新テストの中では、教科横断的なものをということが言われているが、それがはっきり言われれば、高校の教育課程は変わってこざるを得ない。一方、大学入試により固定される部分と、高校の個性を生かした特色ある教育を行うための自由度の高い部分とのバランスをどうするかという問題。基礎学力テストを高校2年生でもやれ、それをかなりの人が受けるということになると、高校1年の教育課程はかなり固定されたものになってくるという危惧がある。

4.特別支援教育の充実等について

  • インクルーシブ教育は次の高校の学習指導要領改訂でも大変重要な内容。これはシチズンシップ教育とも重なる。高校の普通科にも情緒障害や発達障害等を抱えた生徒がおり、その子たちが自分をコントロールできない場面などいろいろな問題が発生して、結局退学をするような状況も出ているという現状がある。現在は、障害がある生徒が通信制や定時制に多く進学しており、高校の入学者選抜試験の中でも問題が起きてきていることに留意する必要。また、特別支援学校を、小中高を通して連続性のある多様な活動のできる場にしていくべきであり、さらには、ここでも教員の数が必要になっているということを全体的に今度の高校改革でも考えていかなければいけない。安心して通える高校、インクルーシブを主とした高校の在り方という視点も含めて次の学習指導要領改訂で考えていく必要。
  • 高校の総則のところに、将来の自立と社会参加を踏まえて、個々の生徒の発達特性や学習スタイルの多様性を踏まえた指導・評価をするということを明記する必要がある。進学校にはアスペルガーなどの診断のある生徒たちが少なからずいるが、現状、将来の自立と社会参加を見据えた指導を徹底して行っている例はまだまだ少ない。彼らを受容し、自己肯定させ、学校にいる間は大事に守ってあげるというところは随分増えてきたが、こういった指導は、卒業までこぎつけたとしても卒業後に不適応を起こすケースが多い。18歳において必要な力を、通常学級にいる特別支援が必要な子供や診断はなくても教育的ニーズのある子供たちにも、高校の段階で付けていくことをしっかりと視野に入れる必要がある。また、特別支援学校においても、やればできるとか自分にも社会貢献ができるというような自己効力感やシチズンシップを持っている子どもは少なく、これらを指導することを明確にすることも必要。
    Twice Exceptionalな子どもたちの指導についての検討も必要。全体的にはアンバランスだが一部非常に突出した要素を持つ子どもたちについて、その突出したところを伸ばそうという動きがある。能力を伸ばすこと自体は好ましいが、犯罪学では、アンバランスがある子どもの突出したところだけをのばすとかえって逸脱しやすくなるというエビデンスもある。だからこそ、できるところはもちろん伸ばすが、苦手さもトレーニングしつつ規範意識も高めていくという視点の教育が必要。
  • 特別支援の対象になるような生徒だけではなく、多くの進路多様校の子たちがそれに類する状態にあるということも検討しておくべき。大学進学を想定した議論だけではなくて、困難を背負っている子供たちが結果的にたくさん在籍している学校でどのような学びを作っていくのかということも今後検討していければと考えている。

5.小中学校における教員数の確保について

  • これまでの議論にあった小中学校のアクティブ・ラーニングや英語教育の充実などの話は、教員の確保・拡充があってこその話。社会の要請が多くなり教員の負担が非常に増している状況で、まだ教員の削減をしようという動きがあることに対して、この部会で一言声を上げておくべきではないか。ソフトの充実のためには先生方が非常に重要。
  • 児童生徒の数が減った割合に応じて教員を減らすという仕組みでは学校は回らないため、そのあたりのことを考えていただきたい。
  • 今後高校でアクティブ・ラーニングを含めていろいろなことを進めていこうとするときに、教員は相当戦々恐々となっている。現状でもさまざまな課題がある中で、さらに新たな学びをどのように展開できるかという観点からは、人の充実が非常に重要。数だけでは解決できない部分もあるが、数なしでは解決できないこともたくさんある。
  • 現場を見ると、人は全く足りていないというのが現状。すべての教育活動を充実させるためには、教員一人ひとりの力を結集させて、多くの人間で培っていく必要がある。
  • 課題を抱えた生徒がたくさん在籍する学校に対しては、サポートスタッフのような役割を持った先生方や、役割のないバッファ人材のような先生方がたくさんいることで初めてクリエイティブな活動が実行していけるのではないか。
  • 特別支援という観点でもぜひ人は増やしてほしい。OECD諸国と比較しても、一クラスの人数がこんなに多い国はない。欧米は大体一クラスが15人から25人でありきっちりとみていけるが、日本のように40人もいると見ることができない。最近では、一般のクラスでも、様々な特別な支援を要する子供がいるので、そのような観点でも配慮いただく必要がある。
  • 学校に寄せられる期待は年々大きくなっており、危機管理についても、学校側の対応のちょっとしたまずさに対して大変なバッシングを受けたりするため、学校現場では日々、子供たちの安全・安心に非常に心を配っている。そのような中での人的確保は、安全の問題に直接つながってくる。今は、難病の子でも保護者の希望があれば学校でみんなと一緒に学習するという保証がなされる中で、例えば、エピペンが必要な子供は給食の時間に担任一人の目ではとても見られず、教頭も養護教諭も先に給食を食べて、そのクラスに特別に張り付いたりしている。そのようなときに職員室の方でほかの対応が必要となったときには、誰が対応するのか。学校によって課題は様々であるが、日々多様な形で対応している中で、人材の確保というのはとても大きい問題。質的な向上ももちろん求められるが、量的確保もぜひ進めていただきたい。
  • 限られた財政を何に振り分けるかということは、国の将来の設計に関わる本質的な問題。日本の将来は、急激に減少しつつある子供たちの未来にかかっており、そこに重点的に投資するのは当然のこと。OECDの標準的なレベルにまで投資しないと日本の未来は暗い。
  • 現場の先生方は一生懸命頑張っているが、今の時代は、何かあると学校が悪い、先生の能力がないとバッシングを受け、親からの風当たりも強く、教員を目指す人がだんだん減ってきているように感じられる。現状でも、教員採用は、採用自体が少なく狭き門。今回のような教員削減の報道が出て、その門がさらに狭くなるということになると、優秀な人材が教員を目指さなくなる。そうなると、どんなにソフト面の充実を検討しても、そもそもいい人材を輩出できなくなっていくので、これは非常に重く受け止めるべき。
  • 社会不適応の観点から言っても、ニーズに応じた適切な教育は先行投資であり、これを行わないと、社会不適応を起こす人々が結局社会参加できなくなることによる税収減や社会保障費の増につながる。このようなことを文科省をあげて世論を巻き込んで主張していかないといけない。

教育課程企画特別部会(第8回、平成27年5月25日)における主な意見

1.育成すべき資質・能力と高等学校の充実・改善等について

  • 現行の学習指導要領は、小学校、中学校と積み上げながら作成されてきた結果、例えば中学校卒業段階での目標が大変な高度な内容になっている。今回の改訂では、高校卒業段階での到達すべき学力をきちんと明示した上で、そこから中学校、小学校の各段階で育成すべき学力の内容を検討してはどうか。
  • 今回の各教科の素案に、育成すべき資質・能力について書いてあるのは、出口の設定としていいことであるが、これらが各教科ばらばらであり、全体として何をどうしたいのかということが分からない。資質・能力自体を全体として関連付けるような観点が一ついるのではないか。その中で各教科がどのような担当をするのかが書かれないと、いつまでたっても狭い意味の教科の問題だけにしかとどまらないのではないか。また、高校は出口であるから、中学校や小学校との連携についても、検討の素案の中に出してほしい。新しい科目を作るとともに、もっと厳選し、特別活動や総合的な学習などとの連携を考えないと、あらゆるところで似たようなことをたくさんやることになるのではないか。
  • 18歳時点で社会に送り出すという視点から、小さい大人と扱ってどんどん社会と交わらせ、実体験を積んで成長させようという視点は非常に大事であるが、高校生の現状を見ると、これから先行き見えないとことへ飛び出すに当たり不安ばかり抱えているという状態で、大人とみなすにはまだまだというところが見られる。これを考えると、生涯学習のスタート地点に立っているという見方をし、学び続けるという素地を培うようなことを全教科でやっていく必要があるのではないか。そのような意味で、社会人基礎力のようなまとめは非常に参考になって、実際にSSHを進めているような学校でも、社会人基礎力を指針として授業構成を作り、成果も得られているということが報告されている。
  • 科学の進歩が大変激しいなかで、何が教えるに値する本質的なことなのか、何が喜びに通じることなのかを見極め、例えばiPSが発見されたときに、生徒に「こんなことが発見されたんだよ」と語れる教員がいることが大切。そのためには、教員の力量がますます問われるようになっていて、とりわけ理科目に対する教員の力量はかつてなく高いレベルのものが要求される。このような意味で、少なくとも理科目においては、博士の学位を取得した教員を大幅に拡充することを提案したい。
  • トップ層が薄いという統計データがあるが、これは国の産業の将来、ナショナルセキュリティ、国の誇りにとってかなり致命的な問題。その原因として、もっと学びたいという思いを押さえつけているような雰囲気がある。一つは科目数が多すぎて探究的なことができないということ、もう一つが、入試という関門があり、ここにおいては平均点が評価されがちなので、いろいろなことを万遍なく学ばなくてはならず、本当に伸びる時期に伸ばし切れてあげられないということを痛感している。探究的な学習を高大が連携して推進し、それを積極的に評価するようなシステムを作ることが必要。
  • SSH、SGHでは、課題研究を中心に、学んだ内容をどう活用し、探究し、思考、表現していくかというところがメイン。そして、それらの課題研究は、合同発表会などで仲間内で発表し合ったり、ほかの学校と交流して発表し合ったりする中で、彼らが探究したこと、考えたことがお互いに評価し合われている。そこでは、何をどれだけ覚えたかということはほとんど問題にはならない。そこに生徒たちは面白さを感じるし、学びがいを感じながらそれを一生懸命やる。このような意味で、一般のカリキュラムの中でこのような探究的な取り組みが行われていったときに、それがどのように評価されるかが大きな問題になってくる。
  • SSHとSGHを両方認定いただいているが、大変忙しい。いいことだからといって何でもやっていると、結局何かを省かないと成り立たなくなっていくので、今度の教育課程の中では何を中心に据えて、何をやらないのかということを明らかにしていく必要がある。
  • 高校こそアクティブラーナーを育てる最後のチャンス。これを高校で実践するためには、義務教育修了の15歳の段階までに何の力をどれだけ身に付けるべきかを明確化しておくことが大事。それを踏まえて高校では15歳までに身に付けた力をどういうふうに使ってどのように主体的に学んでいくかを考える必要がある。すなわち、小学校でしっかり土台を作り、中学校で徐々に学んだ知識を使いながら自分で決定し、高校では基本的には自分で決定しながらやっていくというように、社会にソフトランディングできるような自立への枠組みを設定していくことが、これから18歳で社会人、大人として認めていくためには必要ではないか。
  • 海外の教科書では、その科目を通してこういう力をつけていくことが必要ということや、これを学べばこのスキルがつくということが明示してあることがよくあるが、これにより子供たちは自分が何をやっているかが分かり、メタ認知を強化する上で非常に大事。教科書において、知識を土台としてこういう力にいかにつながっていくかの道筋が見えることが、どの教科においても大事。
  • 学習指導要領によって100%実現できることというのは二つしかない。一つは、教科書によって指導の内容を統一することと、あとは、教科ごとの指導時間をこれだけ持ちなさいという授業時数を規定すること。この二つしか実は規定できない。そのうえで、学習指導要領が全国的に教育内容を統一するということ自体がもうおかしいのではないか。それは、先生による多様性、子供による多様性、地域による多様性を3つを認めていないからである。いわゆる「ゆとり教育」についても、現場は10年かけてそれなりに方法論を確立していったと思うが、反省すべき点は、導入に合わせて教員の育成と現場の支援する仕組みを作れなかったということ。何をコントロールして、何を現場の自由裁量に委ねるかということをもう少しはっきり学習指導要領の中で規定してほしい。その点をこの特別部会で話し合っていかなければ、教科や科目をどうするかということをいくら話しても改善されないのではないかと思う。
  • 高校において、観察、調査、見学、また施設の活用などがほとんど行われずに教室内だけで学習が進められているとか、グループで話し合って考えをまとめたり最終的にレポートを書いて発表したりということが全体的に非常に低いという現状の中で、高校こそアクティブ・ラーニングがまさに求められていることを改めて感じた。総合的な学習の時間においては、現代社会の課題について探究的に学ぶなどのアクティブ・ラーニングを進めているため、この時間を今後も十分に確保していただければ、教科等における授業のイノベーションにつながっていくのではないか。また、カリキュラムマネジメントについても、総合的な学習の時間を核にすることで促進されるのではないか。各地では、高校におけるそういった学びにより、生徒が本気になって学び、本気で社会参画、地域参画をすることで、地域の活性化なども生み始めている。こういったことが教科だけではなく、実際に動き、活動する中で、生涯学習にもつながり、創造性や起業家精神の育成にもつながるのではないか。
  • 学び方によって学ぶ喜びは得られると感じている。高校の学び方はその人の生き方に大きく影響するものであり、高校の教科の刷新と、生徒がこれと出会えるような状況をどのように作るかという観点では、教師の在り方や指導法、カリキュラムの全てを刷新していかなくてはいけなのではないか。

2.育成すべき資質・能力を踏まえた教科・科目等の在り方について

  • 高校の先生は教科ごとの専門性がはっきりしているため、教科をまたいでのやりとりが難しいと言われている私共のSSH、SGHの中では、このような探究力、思考力を育てたいというねらいに向けて、試みとして幾つかの教科が一緒になってカリキュラムを考え、学習指導をしている。それはSSH、SGHという仕組みのおかげでできるようになってきていることであるが、高校段階で何を育てたいかということがはっきりしているから可能なのだと思う。学習指導要領の改訂では、中心になる教育課程がはっきりした上で、各教科が何を担当するかというかたちを考えることが重要。
  • アクティブ・ラーニングは相応の時間を要するから、このような改革をすべての教科について進めていくとなると、教育内容の再整理、統合化、その原理的な確立が不可避となる。内容をあえて絞ることにより豊かな学びを実現し、それにより学力を向上させるために、改めて教科の本質を明確にする必要がある。内部論理的なものだけではなく、社会現実や生活に開かれたものという観点で教科の本質を明確にした上で、各教育内容の編成がなされていくことが重要。従来、領域固有知識の百科全書的な意味での網羅的習得が学力と言われてきたが、それについては一定程度断念せざるを得ないという意思決定をする必要がある。ただし、先のゆとり教育に対しての学力低下という批判を再燃させないためにも、しっかりとした学力論の形成と周知が必要。何を知っているかではなく、知識・技能を活用してどのような問題解決を現に成し遂げることができるということを学力論の重心にすることが一つの可能性。教育内容の整理によって教育内容の刷新としてのアクティブ・ラーニングが実現可能になり、新しい学力が育成される。
  • 日本の生徒は、学びに対する意欲、興味、モチベーションが大変低いが、他方でとても勤勉で、学力も高い。この一見反する二つをどのように理解するかという問題について、科目数が多すぎるために、自ら探究する喜びを知るまでに達していないということだと思う。限られた時間のなかで科目数を増やそうとすると、細分化、個別知識化せざるを得ず、どうしても知識重視になるため、楽しくならない。そのため、内容を削るのではなく、科目数を大胆に統合化し、その分深化させることを提案したい。そうすることで、本来勤勉な生徒が自ら探究的に学ぶこと、知的喜びを自ら体験するところまで達するだけの時間を与えてあげることが必要。
  • 科目数を大胆に減らすことについて、15歳の段階でベーシックスキルが付いていればそれも可能だと思うが、そうでない現状で行えば、高校卒業時の力に不安が残る。個々の子供が、自分が将来社会に出ていくときに何の力が必要なのかということをまず理解し、その上で科目を選択できるよう自由度をあげるほうがよいのではないか。この観点からは、グローバル化に対応するための公民におけるシティズンシップなど新しい科目というのはなかなか面白くていいと思う。
  • 教育内容の確実な定着を図るための教科・科目の在り方や、小中高のつながりなどについて、都道府県の取り組みの状況から情報を収集して判断を下すということがあってもいいかと思うので、都道府県教育委員会における取組事例についても情報としていただきたい。
  • 本日説明のあった7教科についての共通項としては、一つは、知識のインプット重視であったものを主体的な思考や表現を重視するものにしていこうという方向。もう一つは、学問的な知識を教えることから社会生活で活用していけるようにしていこうという方向。ただこれらについてはなかなかうまくいっておらず、その原因を分析して丁寧に進めないと、また同じようになる可能性がある。まず、主体的な思考や表現を重視することになぜ踏み切れないかというと、一つには評価の問題がある。入試でもそのような力は評価されず、普段の活動のなかでも、定期テストに比べると評価しにくい。評価されないものだと生徒も先生もモチベーションが低下する。入試センターや民間でもいいが、思考力や表現力をしっかり測定し、評価して、大学入試に生かそうと思えば生かせるようにすることが望ましい。また、学問的な知識重視になりがちな点については、各専門部会におろすとどうしてもそのようになってしまうが、これがあまり高度なものとなりすぎると、子供たちにとっても分からなくり、すべての人が例えば数学者になるわけではないといった論理で否定される。これには3つの対応策があり、一つは、これは一種の教養とか文化なのであるということ。これは確かに大事な方向であるが、何が教養文化かというのは決着がつきにくい。二つ目としては、内容的には大人になって使わないかもしれないが、このようなことを通じて生徒たちの資質・能力を育てているのだということ。これは各教科の中で実現されてこず、評価もされていなかったが、これを今度こそしっかり実現させて、その力も評価していこうというのが今回の学習指導要領の一つのポイント。企画特別部会において、専門部会の中でも応用、活用ということの専門家、例えば数学であれば物理学とか経済学などの応用的分野の人も入れていただきたい、教科書の執筆者にもそういう方をいれていただきたいというような方向を打ち出していくべき。
  • 子供たちが学ぶべきことが非常に多く、課題がたくさんある一方で、子供たちの学びに対する興味関心は低くなっており、国が求めている内容と子供たちの興味関心が逆の方向を向いてしまっていると感じる。基礎・基本の重視が、教え込み型の教え方、スクール形式の一斉学習につながり、これが子供たちの興味関心をどんどん薄れさせることにつながったのではないか。今後は、日本は一体何が強みで、どのように生きていけばよいのかという観点から教科・科目の在り方を考えられるといいと感じる。自分としては、非常に教科・科目が多い中で、自由度をもっと上げていってほしいと考える。
  • 事務局が説明した各教科の改革は、各教科が受信型から発信型になり、更に参画型になるという方向性だと思う。その際の一つの大きな問題は、社会における問題解決を思考するときには一定の知識ベースが必要であり、その知識ベースをどこまで個別の教科で細かく詳しく与えていくのかということ。その解決方向としては、第一は、各教科を、より深い学習を可能にするような中核となるアイデアを中心としたものに再編し、それを明瞭にすること。第二に、個別の教科を越えて、それらを橋渡しできるような場として総合的な学習の時間を活用すること。特に、それは教科と教科の橋渡しだけではなく、例えば生徒一人一人の問題意識、興味と、教科で与えられる学問的内容の橋渡しであるとか、あるいは学校で教育される中身と社会の現実において取り上げられる事柄の橋渡しであるとか、あるいは過去から現在、現在から未来への橋渡しなどの場が必要である。第三には、選択科目あるいは課外学習などの活用であり、とりわけ極めて優秀な能力・才能を持った生徒を伸ばしたり、ボランティア活動や体験活動を通して将来のキャリア形成へ目覚めさせたりすることが重要。
  • 世界史と日本史が二者択一となっていることについて、歴史を学ぶ際にはこれらの関連が重要であるが、大学1年生を見ると、選択しなかった科目が基礎的な知識を含めてほとんど欠けている。歴史は、世界史と日本史を総合的に照射し合うことがあって初めて、生きた学びとして立ち上がる。外国人と海外や日本の事柄について話す場合にも、日本の歴史事項を用いて世界史について語り合ったり提案をしたりすることが重要であるが、現在の学習指導要領の下で育っている学生たちは、片方が非常に欠けていることで全体的として相乗的に大きなマイナスとして働いている。日本の文化の担い手として、主張したり疑問視したりすること、これらは基本的な知識がないとできない。世界の中では通用する人材とするためにも、世界史と日本史のINTERACTION(相互作用)が学びの中心に位置づけられるように設計をお願いしたい。
  • 国語について、今の高校の授業でなされていることは、日本の言語文化の最も対極にあるような古文、例えば中古の仮名書きの物語を読み、一方で、現代文の文章を読むということであり、これらの橋渡しのようなものがない。日本の言語文化が持つもっと豊かなグラデーション、例えば近世や幕末の片仮名混じりや平仮名混じりで書かれた随筆、あるいは明治初期の古文で書かれた現代文以前の文体を、今日的な様々な関心時や人々の生活に結び付けやすい題材・課題を抱えている文献を通じて、学ぶことが必要。現代文と古文・漢文を相互に近づけて、多くの生徒たちが関心を持てるアクティブ・ラーニングの題材を開発していくことが必要ではないか。
  • 教科の刷新によって総合的な学習の時間はさらに先に進むことができ、子供たちの大きな実りをもたらすことが期待できる。知の総合化によって、教科の学びと総合の学び、学問の学びと暮らしがいい形で連携・統合していくという前回の学習指導要領改訂のなかで示された動きが、今回の教科の刷新によって進むのではないか。具体的には、まず、各教科でコンピテンシーの育成が進むとしても、様々な学びを生徒が明晰に自覚し、またそれを自分の興味関心のある課題について自由に闊達に適用することを通じて、一層コンピテンシーが着実に定着し、生きて働くようになるということで、各教科で学んだことをさらに補充、進化、統合する一種の要のような時間としての総合的な学習の時間の役割はいよいよ高まるのではないか。また、各教科はあくまでも個別的科学、学問、芸術を基盤としている一方、総合的な学習の時間は小学校低学年の生活科を足場に接続しており、歴史的に、生活教育と呼ばれる系譜にあるもので、そもそも教育課程上の内容編成的な守備範囲が教科とは異なる。総合的な学習の時間には、教科に干渉されない、生活の学びとしての独自の内容編成的使命があることを確認し、より充実していける時代がくるかと期待している。さらに、総合的な学習の時間の教育目標は、自己の生き方を考えることができるようにするということであるが、高校では、「在り方生き方」となっている。具体的な生き方(Doing)に対して、これを踏まえて自分は人間としてどうあるべきか(Being)という哲学的、施策的、理念的な考究が行われる場として、独自の位置を占めることが重要になってくるかと考える。
  • 古典教育について、70%を超える生徒が古文・漢文が嫌いと回答しているが、これは高校での古典の授業が、大学入試を目標として解釈中心の授業に偏っているからである。本来、古典の面白さや楽しさ、日本の伝統文化を含めて古典を学ぶことが、自国における言語についての理解を深めることになり、グローバル教育にも通じる。自国の文化を知る意味でも、新しい古典教育を含めた科目構成に転換する時期に来ている。
  • 情報について、科学的な理解に関わる内容は情報にとどめ、社会生活を営むに当たり必要な知識や果たすべき役割等については新たな公民科目で扱うことを検討とあるが、このように教科の内容の一部を別の教科に移すことは、二つの教科等が教育課程の中で連携が担保されているような状態のときに初めて意味を成す。今の高校の教育課程は、教科の塊としては存在し、まとまって存在してはおらず、教科を相互に関連させながら全体としての力を付けていくということがまだ耕されていないことを考えると、教育課程のこちら側は勉強するが横に移されたものについては学習があまり成り立っていないということが起こりうる可能性がある。教科の中でこそ完結性をもつことが一つの考え方であるとするならば、情報モラルなども教科「情報」の中でこそ担保するということも選択肢としてありうると考えられる。
  • 理数教育については、なかなか有用性を感じられないという課題があるが、かといって数学活用とか理科課題研究のような選択を増やして学ぶ機会を増やそうとすると、かえって何がやりたいのかわからなくなり、学校現場がばたつくのではないかと思う。数学活用のような活用的・探究的な内容を今ある数学1に入れ、科目を増やすのではなく統一していくような方向としていってはどうか。今必履修科目である数学1でもそのような学習は推奨されているが、トピック的になっている。
  • 歴史教育については、自分の経験では、アメリカではヨーロッパの歴史から学び、日本では地域の名産から学ぶようなところがあったが、国の成り立ちを知ることは海外の人と関わるときの自分の土台となっており、どちらも大事であった。我が国は非常に近現代史が弱いと感じるが、海外の人と一緒に仕事をしていく上で、お互い知っていて当然の知識の欠落が足を引っ張る場合がよくある。
  • 世界史という科目について、西洋史、日本史、東洋史という講座や研究室は見たことがあるが、世界史という学問の体系はないのではないか。だからこそ、時代区分ごとに地球上を行ったり来たりし、ヨーロッパが出たかと思ったら、中国に戻ったりするような教科書になっているのではないか。思い切って、歴史学的な物の見方、考え方を中心にした一つの人類の歴史のストーリーを描くようなものにすることで、歴史の必然性を捉え、歴史学の物の見方、考え方を生かしていけるようになると思うが、そうなると、実証主義的歴史学の謙虚さや誠実さに反し、強くストーリーを描くことによる危険性があり、難しいのではと思う。親学問と教科のこういったずれのようなものも、新教科の創造ということを考えるとまた出てくるのかと思う。
  • 地理学について、例えば大学の教員養成は系統地理学としての人文地理、自然地理と地誌学3科目必置になっている。学生は特定のトピックで切っていく系統地理をとても面白いと言う。これに対して高校の地理学というのは地誌学的。地誌学もとても大事であり、地誌学にも系統はあるが、地理学的な物の見方でもっと踏み込んでいくことが今後どうできるか。また、自然地理をはじめ地理学の多くは理系であり、その意味では文理の区分も本当にいいかどうか疑問。学問と教科の関係も随分複雑になっていることを踏まえて、今後考えていく必要。
  • 公民科教育を考えるときに、教育基本法13条、14条でいう政治的教養、宗教的教養に向けてどう踏み込むかということも重要な課題。いわゆる良識ある公民としての必要な政治的教養、あるいは宗教に関する寛容な態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位というのが13、14条に関する記述だが、やはり政治的中立性という名の下に、教育内容における踏み込みは弱い。グローバル化が進み、多様な文化的な背景を持つ人たちと協働して仕事をしていくことが当然になっている中で、政治的なリテラシー、宗教的なリテラシー、コンピテンシーとしての政治や宗教への踏み込み、これと学問体系的な知識との兼ね合わせ方は重要。難しい課題であるが、今回の学習指導要領のなかで踏み込めれば望ましい。
  • 本日の資料には、高校の保健体育における現状の内容が見受けられなかったため、次回資料で頂戴できればと思う。運動することでワーキングメモリが鍛えられるという観点から体育は大事であり、保健は生涯生きていく上で大事になる。セルフコントロールや規範教育など、脳機能の観点から説明できるようなことを、保健教育の中でやっていくことが重要。行動訓練により、協調運動や協働のトレーニング、他者への理解や推論といった、18歳の段階で社会に出ていくときに必要ないろいろな力を付けられる。そういった脳機能のエビデンスを踏まえたとき、とてもいいワークショップになり得るものが体育であり、その土台の指導ができるのが保健である。

3.社会の要請を踏まえた教科横断的な学びの充実や、地域との連携等について

  • 子供の学力をつけるときに、授業外の活動との連携を視野に入れる必要。例えば数学や英語などの基礎科目において、内容的なことを削るというと高度な人材育成ができないということで専門家から不満もでるが、それを補うために、高度な人材を欲しがる大学や企業が高校の授業以外のセミナーをどんどんやって、それを何らかの形で大学入試で評価したり、大学に入ってからの単位にしたりというようなかたちとすることが考えられる。また、ボランティア活動やキャリア教育をすべて高校の教育課程の中に盛り込もうとすると、高校はパンクするため、社会教育、地域教育のなかでこのような活動を入れて、それも活動歴として何らかのかたちで入試で評価することもできる。子供たちにいろいろな力をつけてほしいという観点からは、教育課程を変えていくと同時に、社会との連携をしっかり視野にいれた改革が必要。
  • ワーキングメモリは、長期記憶や短期記憶とは異なり、いかに意識的に情報を処理していくかという力で、一時的に情報を記憶しそれを使って何か作業を行っていくというものだ。最近では、この分野の研究が進み、発達障害のある子供でも、認知症のある人でも、適切なトレーニングにより確実に強化され定着することが分かっている。これを上げることが、メタ認知の強化にもなり、判断力や社会性を上げ、セルフコントロールにも直結するため、グローバル社会を生き抜き、社会貢献ができる力の土台になる。海外では様々なかたちでその強化が取り組まれ小学校等に導入されはじめているが、我が国では全く議論されていない。いろいろな教科教育の成果を上げるためにも、スポーツなどの成果を出すためにも、ワーキングメモリのプログラムをどの教科にも取り入れ、教員も子供自身もこれを強化するという意識を持つことを提案したい。
  • ボランティア活動に興味が薄い、自分の参加により社会現象が少し変えられるかもしれないという期待感が薄い、投票率が異常に低いといったデータを見ていて、今諦め感というのが非常に強く、大人を見てもやる気がない人が多いと感じる。思考、判断というのは、クリティカルシンキングがなかったら言葉だけのものになってしまうが、学校の中で先生方を見ても、何か言っても教育委員会は聞いてくれないし、無駄ではないか、やったところで良くならないのではないかという諦め感があるように感じる。声をあげれば何か一歩でも改善するかもしれないというふうに、大人自身も含めてどうにかしていかなければならない。
  • 教科・科目の再編をどんなに検討しても、生徒にその気がなければ、結局その学びを面白いと思うことができない。一つの科目の1か所でも面白いと思えば、生徒はそれをきっかけに学びを深め、他の科目との関連も見出したりすることができるが、その切り口を引き出すこと自体が本当に難しく、先生方が苦労されているところだと思う。テーマの見付け方など、生徒自身で学びを始められるような学びの導入教育みたいなものが、入学してすぐの段階で設けられないか。先生方との熟議やワールドカフェなど、どのような形がいいのか分からないが、大学教育や企業研修などで行われているようなものにヒントがあるような気がする。また、先生方が生徒たちの学びに伴走するためには、先生方の意欲が必要。そのためには、学校の配置が決まって先生方の人事が決まったときに、先生方自身が熟議することから始めることもポイントではないか。学校に裁量があり、先生方が熟議してこういった学びを生徒に実現したいというものは先生方の意見が反映されるものだということを先生方が実感することができれば、先生同士が教科を超えて生徒のことが話し合えるような風土をもう一度高校に取り戻していけるのではないかと考えている。

教育課程企画特別部会(第9回、平成27年6月9日)における主な意見

1.育成すべき資質・能力と高等学校教育の充実・改善等について

  • 落ちこぼれと言われる子や学校に行けない子については目が向けられ始めたが、特別な才能がある子供たちをどう伸ばすかという視点は、これまで日本にはあまりなかったと思う。グローバル社会のなかで、すばらしい研究者などを出していくには、何か特別な才能があったときにこれを伸ばすという視点も必要。
  • 特別支援用の高等部の教科書を見ると、社会科や国語などのほとんどの教科書において、社会で生きていくためにはどのようなことが必要なのかという観点で作られている。特別支援が必要でない子供たちにとっても、この観点は必要であり、今の高校の中では欠けていると思うので、何かの能力や知識を与えるということと併せて考えていく必要。
  • 「アクティブ・ラーニング」の定義にはいろいろあるが、厳しく定義すると、イコール探究学習だということになり、総合的な学習の時間にやるものであって教科には関係ないと思われるおそれがある。総合的な学習の時間だけで探究的な学習をと言ってもそうできるものではなく、普段の教科の習得の授業の中でも、能動的な問題解決、協働、発表、討論といったような広い意味でのアクティブ・ラーニングをぜひやっていただきたい。同時に、習得の授業では先生による工夫された解説、説明、講義も重要であり、それとうまく組み合わせ、日常的に両立していけるような授業になればいい。
  • 高校や大学でトップの成績でなかった人のほうがアントレプレナーシップやイノベーションを生むという発表があり、どうハングリー精神を生みだすかということや、どう失敗を経験して学んで立ち直るかということが大事であるという結論であった。成功のみを積み重ねたエリートは大人になって失敗するとなかなか立ち直れないという現象は世界共通だと感じた。
  • 日本の生産性はOECDの中でも非常に低いという研究結果があるが、これは教育にも原因があるのではという議論があった。今後OECDなどからこれに関連した細かい事項がいろいろ報告されると思う。
  • どのようにリーダー層を育てるか、教育に反映するかということは世界中で話題になっている。リーダーシップというのは、教科書などで教えるものではなく、自分から参加して体験していくべきものであるが、これは高等教育ではなく、小・中・高でやっていくべきものである。高校においてどのようにリーダーシップを生み出すかということが課題。
  • アントレプレナーシップの大会で、小学生は世界でもトップの評価を受けるが、高校生は急落する。中学・高校教育においてアントレプレナーシップやリーダーシップのレベルががくんと下がるなにか原因があるのではないか非常に心配になる。世界的な起業家を表彰する大会でも、アジアの代表者が賞を取るなか、日本人はこれに入ってこない。日本からは世界レベルでのクリエイティビティーやイノベーションがなかなか出てこないと感じている。
  • 実技については、上達したことが評価されるということはいいと思うが、決してそれがすべてではないということが重要。体育でも、特定の競技がうまくできることだけで決まるのではなく、普段のスポーツへの意識が評価されたり、芸術であれば、芸術への意識のほか、例えば音楽鑑賞をしたときの感想文や、自分が参加し経験をしたことがどれほどプラスになったかが表れてくるようなものがあれば、それらが評価に組み込まれてよいと思う。
  • 体育の評価について、他の教科では、試験でいい点数を出して能力が高いということを評価されるとそれで成績が決まるが、運動の場合には、他の人に比べて技能が高いと自分で思っていても、それだけで評価されるわけではないので、評価は非常に難しい。最初のスタートがそもそも違うなかで、どこを評価するかということにつきバランスがうまくとれてくると、運動が苦手な子にも得意な子にもいい影響があると思う。
  • 体育では特に、教員のバックグラウンドによってかなり指導の仕方が違うため、何を教えるかということに加えて、どう指導するか、どう評価するかということが大事であり、どのように今後の学習指導要領に盛り込むかが課題。例えば、評価の観点では、最近ではマット運動を行うときに、子供たちがタブレットでお互いの様子を撮り合って後でそれを見ることで、最初のときの自分の姿と終わりのときの姿の違いが本人がわかり、自己評価が可能になる。また、タブレットで撮り合いながら子供同士でここがいい、悪いと言い合うような相互評価や、伸び率、相対的に見たときのスキルといったように、評価にいろいろなバリエーションを入れていくことが必要。
  • 芸術教科では、最終的に何ができたかという結果だけではなく、学習者の学びそのものを促進していくような働き、意味合いを評価しており、他の教科でもこれを取り入れるべき。具体的には、授業中の学習に対する姿勢やアイデアの質、理解の程度、深さなどであり、これを授業中の発言や振る舞い、作品、レポートなどにより、その価値や成長を学習者にフィードバックするという形成的評価の面が非常に重要。一斉講義の形式の授業ではこれがつかめないので、評価ができる場を作るためにも、アクティブ・ラーニング導入の意味がある。アクティブ・ラーニングのような指導では、指導の中で評価ができ、評価そのものが指導になる。自己の活動を見つめる目を育てるという評価の役割の一面もこれで可能になる。本来の意味での指導と評価の一体化を実現できる。また、これには授業者の子供を見る目を鍛え抜くことが必要であり、子供の資質・能力を育てるには、教員の見る目、授業力もこれとセットで考えていく必要。
  • 評価については、これまで教師からの値踏みという側面があったが、そのような上から目線の評価ではなく、児童生徒の新しい能力を育成していくための支援として行われるべきものという発想に転換していくべき。
  • 今の時代、少子化のなか、お互いに支え合うというよりは、わが子をどうにか苦労せず一人前にしたいという保護者が多い。また、子供たちの育ちに対して一つ一つをしっかり見ていこうとするため、子供は評価されることに非常に憶病で、集団のなかで自分を思うように発揮できない。このような中、協働的な学習の場面を作ろうとすればするほど、教師はそこにしっかり働きかけていかないと、子供たちはその中で自分の学習にしていけないという実態がある。この観点からも、評価の問題については、一人一人がもっている力をいかに引き出していくかという視点から取り組むことが大事。子供たち同士が、お互いの持っているよさを認め合いながら協働した活動の中で人と関わり合うと、自分ひとりではできなかったことが体験できるという観点で、学習集団の在り方というところにも視点を当てるべきと思う。

2.育成すべき資質・能力を踏まえた教科・科目等構成や内容の在り方等について

  • 高校生の各教科への重要性の認識について、芸術に対するこれが非常に低いことは課題。感性や表現力というのはどの分野に行こうと基盤になる部分であり、これが薄かったり弱かったりすると、このまま高等教育にいっても大きな成果は得られない。教科の全体的なバランス感覚をどのように育てていくかは大事であり、次の学習指導要領の改善後、このデータがどのように変化するかを押さえていく必要があるのではないか。
  • 突出した才能を持っている人を、全体のバランスだけから考えると、その突出した才能をつぶす可能性がある。バランスがとれているのはいいけれども、とれていなければいけないという一律的な考え方を一歩立ち止まって考えてみるべき。
  • 埼玉県では、協調学習を中心とするアクティブ・ラーニングの取り組みを行っているが、教科間の壁が低くなるなど、非常にいい方向に向かってきている。県内の専門高校においても、アクティブ・ラーニングを中心としながら様々な教育活動を学校で実施し、学ぶ意欲の向上や学力の向上などで大きな成果を収めていると感じる。一方、その分やるべきことが多くなってくるため整理、精選をしっかりやる必要がある。特に専門高校においては、資格取得の観点で課題。資格によっては、この科目が何単位以上必要などきっちりと決められているものもあり、全体の割合としての科目構成をどう考えるかをしっかり押さえておかなければ、この方面に影響が出るおそれがある。
  • 個別の知識や技能を教える基礎科目も大事であるが、各教科の中の本質になっている見方や考え方が、それぞれの授業の中や単元の中で見えるようにしないと、社会と自分との結びつきがわからない。その観点からは、新しく公民科の中に作られようとしている、社会とのかかわりや生き方をもっと充実させようという科目(公共)は重要になってくるだろう。それは、18歳選挙権の観点から政治的素養を教えるためということだけではなく、社会の中で自分たちがどのように生きていくのか、人生をどのように選択するかということに生かされなければいけないと思っている。
  • 高校の学習指導要領は内容を盛り込みすぎであると感じる。義務教育でない以上、何を学びたいかは子供たちが決めるべきであり、キャリアカウンセラーのような立場の人がこれをサポートすればいいのではないか。それが人間の主体性を育むことになると思う。
  • 高校は義務教育ではないため、すべて生徒の自由にするということも一つの考え方であろうが、そこに向けてのプログラムをきちっと組んでいかないと、大変な混乱が生まれる。そのためにも、高校教育そのものの課題は何か、それは改善されつつあるかということを本気で考えなければならない。そのためには、教育委員会が何に重点を置くのかという点で公立学校は大きく左右される現状があるので、そこも見ていく必要。
  • 新たな教科・科目の新設には消極的。現行の学習指導要領で言語活動をすべての教科・科目、取り組みの中で取り入れようとしたことは一定程度功を奏しており、教科の壁を本当の意味を低くし、つながりをつけていくことにもなるし、少し弱点と言われている総合的な学習の時間の充実にもつながるのではないかと思う。
  • 特別活動も含め、各教科がそれぞれ自らの存在理由を明らかにし、互いの教科のつながりをそれぞれの立場から示していくことが大事であり、そのことをもう一度教育課程全体の立場から見渡す取り組みが必要ではないか。
  • 高校の体育については、小学校、中学校からの継続、連携が重要。高校に入る時点である程度の資質、能力が開発されていないと、高校で運動嫌いになり積極的に取り組まないという現状があると思う。幼児期・小学校からの体育学習の充実と運動習慣の形成が高校や高校卒業後の豊かなスポーツライフにつながる。
  • 高校の体育は、特に大学に進学しない子の場合には生涯にわたる豊かなスポーツライフにつながる最後の機会であるため、いかに体を動かすことやスポーツ活動が楽しいという意識を育むかということが重要。技能を身に付けさせるところに重点を置きすぎると楽しさを味わえないので、基礎的な知識やスポーツの意義、「する、みる、支える」なども含めて、あまり上手でなくてもスポーツ、運動の大切さや自分なりの関わり方といったものをうまく伝えていくような授業展開をすることが大切である。その観点から評価の在り方は課題。
  • 高校生にもなると身体能力にかなりの差があるため、クラス単位や選択科目でやると苦手な子が参加しづらく、どちらにとっても不完全燃焼という状態となる場合もある。海外などでは、能力別のクラスを設定し、あまり上手ではないが楽しく運動をしているような例も見られる。
  • 保健について、情報化社会の中で、健康や体力、ダイエット等に関する情報が氾濫しており、正しい情報をいかに収集するかという能力も重要。これまでなかったような疾病などの新たな課題も出てきており、時代に合わせてこのような課題にどう取り組むかということも考えていく必要がある。ただ難しいのは、体力や健康はなくなってくると関心を持つものなので、高校の時点でこれらにそれほど不安がない中で学ぶ意欲を引き出すのは難しい。これから未来に向かって、心と体のバランスがさらに重要になってくるのは間違いないので、授業展開の点で工夫がさらに必要になってくる。
  • 高校では、体育の授業は改善がなされてきているが、保健についてはまだ知識を単に投げ込んでいるだけというところもあるため、今回の改訂で真剣に考える必要。
  • 保健体育のなかで、今の時代に性教育をどのように捉えるかということはまじめに考えるべき。小学生段階からの無防備さには目に余るものがあるし、現状で20歳未満の中絶が2万人程度というなかで、同世代の課題として現実的にこういったことが起こっているということを扱っていくことも必要だと感じる。
  • 芸術は選択科目であり、単位数も少なく、普通科高校からすると進学にも役立たないということで、軽んじられている傾向があり、これが生徒の中にも定着してしまっていることを危惧している。芸術の大切さがもっと強調されるような学習指導要領に変えていくべき。
  • 芸術が好きになるかは、子供の頃からの教育が大切。生で見る、生で聞くということが最も大切であり、マナーや周りとの調査なども学べるよう、なるべく劇場や美術館などの現場に行く必要。また、表現という観点からは、芸術というのはほぼ唯一個を爆発させられる授業であるので、地域の芸術家たちを呼んで、表現力を磨くような授業ができればいい。
  • 芸術科目は活動を伴うので、一見するとアクティブ・ラーニングをやっているように見えるが、自分の世界の中だけにいるということもあるので、外部の刺激を与えることが必要。この観点から、音楽や美術などの文化に関しての理解を深めていくということが非常に大事。
  • 芸術教育を考えたとき、美術館や劇場の無料開放が必要。ヨーロッパでは、高校生ぐらいまでただという国もあるため、学校教育だけでない開かれた芸術教育を、国全体で考えていく必要。
  • 家庭科に関して生活体験が少ない生徒が多いということであるが、実際の調理実習での事故などを見ても実感。体験的な学びが、家庭科に限らず、教科の中のみで完結してしまっている印象。高校教育が最も苦手にしているのが、教科を超えた取り組みであり、総合的な学習の時間もずいぶん改善されてきたが、なかなか熱心に行われず、定着しない。「在り方生き方」を考えていく観点では、校訓や育てるべき生徒像を具体化する取り組みが総合的な学習の時間でこそ行われるべきだと思うので、総合的な学習の時間を軸にして、どのように各教科の壁を越えていくのかということを強調する学習指導要領の在り方を考えるべき。総合的な学習の時間と各教科との間の往還が重要であり、その観点からはカリキュラム・マネジメントをどのようにしていくかということが大変大きなポイント。
  • 総合的な学習については、小、中、高校と各学校段階で考えていく必要。高校段階での総合的な学習の時間は、教科横断や教科連携といったものを促す点で教育課程上極めて重要な位置を占めてきたが、現状ではそれが功を奏していない。高校の先生方は、それぞれの専門の教科から発展させていけるような思考様式、指導力を持った方とそうでない方との混成部隊であるので、学校によって教師集団の組織力等が問われてくる。また、免許制度自体も、総合的な学習の時間はある意味で各専門の教科への付けたしになっており、先生方の意識もそのようになっているので、免許制度の在り方や研修制度自体も総合的な学習の時間の改善等と連動させながら考えていく必要。
  • 総合的な学習の時間は、本来、教科の力もかなり高まっている高校生が、その力をふんだんに使って探究的な学習をすることに狙いがあり、それは大賛成であったが、実際にはなかなか機能していない。教員養成のなかでも総合的な学習の時間でどのようなことをやるかが十分伝えられておらず、非常に残念。改めて、中学校や高校における総合的な学習の時間の展開についててこ入れをする必要がある。
  • 小学校の生活科やそれ以降の総合的な学習の時間について、今それが十分にできていない原因の一つに、教科横断的に必要となるような、思考ツールやその使い方、物の調べ方といった、核となるスキルが今一つはっきりしていないということがあるため、次の学習指導要領ではそこをより具体的に明記してもいいと思う。そのとき、具体的に明記すればするほどそれが画一化するおそれがあるため、豊かに読み取れることに配慮していく必要がある。
  • 総合的な学習の時間がその趣旨を生かし、体験活動を重視して、実体験に基づいた言語活動を進めていけば、学力が伸びるという例も示されている。そのような必要性を考えた上でも、総合的な学習の時間の時間数を増やすことを検討いただきたいと考えている。その理由の一つは、総合にとっての教材は生の社会であり、生活そのものであるため、計画的、系統的なものではなく、多くの情報の中から自分の課題解決に必要な情報をチョイスするところから試行錯誤があり、ある程度の時間の確保が必要になってくるということ。もう一つは、総合で関わる地域の方たちは教えるプロではないため、何度も繰り返し関わって一緒に活動する中で実感を伴って理解していくことが必要であるため、ここにも時間の確保が必要であること。現在総合は2コマであるが、これで国際標準の学力、自身や意欲、そういったものが育つのかということが多いに疑問。
  • 外国語教育の教員については、副専攻のような形で、外国語以外の知識もきちんと身に付けることが必要。これにより、外国語だけではなく、外国語を使ってより広範な話題についても授業の中で取り入れることができる。有識者会議の報告書でも、高校でグローバルイシューに関して高度な議論やプレゼンテーションなどができるようにということを書いており、免許法の改正も含めて、単一教科を超えたレベルの措置を考えていく必要。
  • 英語以外の外国語について、今の時代、近隣諸国との関係からしても、英語だけでは絶対足りるはずがないという認識であるが、実際には、英語以外の外国語をとっている日本の高校生はわずか1.5%。多くの近隣諸国において日本語は第二外国語の一つに入っており、最低4か国の言語が選択科目として用意されている。新しい学習指導要領には、英語だけでは足りないということをきちんと明記する必要。できれば、英語は必修化し、その他の外国語を選択科目にしてはどうか。また、中国や韓国を含めたアジアに関することを学校設定科目や総合的な学習の時間などで扱ったときに、それらの国の言葉について多少なりとも知識を持っていることがどれほど大きいかということを把握する必要。
  • 特別活動において、実社会に出ている人たちとの交わりからいろいろなことを吸収することも重要であるが、それ以上に、別の環境にいる同世代の子供たちとの交流が非常に子供の心を揺さぶるものであると感じる。ICTの機器による交流などをどんどん特別活動で取り入れて、特色ある学校同士の交流を深めることが学校の独自性を深め、子供たちの自分の学校への愛着も深まる。学校の独自性を強めていくような特別活動の在り方が重要。
  • 演劇について、身体表現という点では体育、言葉の表現という点では国語、舞台設定であれば芸術や理科などが関わってくる。このような演劇の扱いについて、そろそろ考えていく必要があるのではないか。
  • 学校設定教科・科目という制度により74単位のうち20単位を学校長の裁量で設定することができるが、実際には、生徒たちの現状に合わせた工夫がなされておらず、創意工夫の裁量権がないと感じている先生方のメンタリティーに課題をもった。学習指導要領は自由度が高いということを先生方にきちんと伝えるべく、学習指導要領は先生方への管理ではなく、創意工夫のサポートツールなのだということを表明できないかと感じた。また、困難を抱えた子やスペシャルな能力がある子が多く在籍している学校に対して、創意工夫の余地を学校が実現するためのグッドプラクティス集を作るとか、先生方の気づきをファシリテーションしながら次年度計画に盛り込んでいけるような校長先生のスタンスを育成するといったことを同時に検討したい。
  • 学習指導要領がどれほど学校に自由裁量の余地をもたらしているかという問題はなかなか難しい。各学校で教育課程を組む段階になる前に、公立学校であれば、教育委員会が教育課程編成委員会のようなものを作り、そこで一定の枠組みをする。そこに注目すると自由裁量の余地がないと見られるが、一方、編成委員会には現場の教員も関わるため、自由裁量の部分を入れようと思えばできる。また、教育課程は校長の名において編成するが、実際には各教科の委員がそれぞれの専門から意見を出すというのが実情。

3.社会の要請を踏まえた教科横断的な学びの充実や、地域との連携等について

  • 芸術や体育の苦手な子からは、なぜこれを学ばなければいけないのかという疑問が出ることがよくあるが、よく子供たちに言うのは、食わず嫌いにならないようにということ。楽しめる自分を発見するための機会として必修になっているのだろうと考えている。その楽しさとは、活動することの楽しさ、協同参加することの楽しさ、上達することの楽しさ。上達することの楽しさは、教育課程の時間だけではなかなか難しいが、社会教育でやっている人たちと関わることで、大人の楽しんでいる姿、上達している姿を見せ、学校を出てからも自分のレパートリーとして生活に入ってくるといいと思う。
  • 子供の貧困対策に関する大綱では、学校を子供の貧困対策のプラットフォームとするとあるが、本当の意味でこれを機能させていくとすれば、今の高校の先生方はあまりに情報が欠けているということを感じる。例えば、福祉との接続を行う担当者を先生方の中に決めるということを学習指導要領に明記して、どうしたら生徒を一人もドロップアウトさせない社会にしていくのかということを検討していくべき。また、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーの方々は、学校からすると受け入れがたい存在であると聞くので、こういった方々を仲間として受け入れられるような能力を校長や教頭に持っていただくことも必要。

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-- 登録:平成27年09月 --