資料3 教員養成部会 (第38回) 議事概要(案)

1.日時

 平成17年10月31日(月曜日) 14時~16時30分

2.場所

 東京會舘 11階 「シルバールーム」

3.出席者

 梶田部会長、天笠委員、大橋委員、大南委員、河邉委員、甲田委員、佐々木委員、高倉委員、渡久山委員、永井委員、中嶋委員、野村委員、平出委員、北條委員、八尾坂委員、山極委員、山﨑委員、横須賀委員、鷲山委員

文部科学省関係者

 銭谷初等中等教育局長、樋口政策評価審議官、板東審議官、山中審議官、布村審議官、徳永審議官、戸渡教職員課長、浅田専門教育課長、勝野視学官 他

4.議事

(1)今後の教員養成・免許制度の在り方について

 中間報告(素案)に基づき、論点ごとに討議が行われた。主な発言は以下のとおり。

委員
 p.5の「5.教員の多忙化と同僚性の希薄化」だが、確かに多忙は現実にあるし、同僚性も良い言葉だが、多忙化イコール同僚性の希薄化と直結する考えがあるようで、多忙感があってもやりがいを持っている者もいるだろうし、多忙な中でも校内研修等を行っている学校もある。同僚性は、組織としての一体感の意味もあるので、多忙化しているから同僚性がないという解釈は誤解を与えるのではないか。

委員
 学校というのは、学びの共同体よりも、教育の共同体なのではないか。同僚性についても、教員の気風の問題があり、2つに分けた方が良いのではないか。教員の多忙感は正さなければならないが、多忙の有無に関わらず、「教師集団」という一つの共同体の中で支え合い、教え合うことが必要ではないか。

委員
 全体を通じて、カタカナ言葉が多すぎる。p.4~5の「2.学校や教員に対する期待の高まり」の部分で、「学校や教員には、常に家庭や地域の意向を意識しながら、職務を行うことが求められている」としているが、学校や教員に一方的に問題が投げられている印象を受けるので、例えば、「とはいえ、子どもを育成するにあたって、家庭や地域社会の責任は厳然としてある」といった表現が必要ではないか。p.10の○の3)に、「教員の多忙感を軽減し」とあるが、現在、教員に改革疲れが起きている中、4)に、「学校全体として組織的に対応するための体制整備を進める必要がある」とされ、この方向で取り組もうとすれば、多忙感が増すことになるので、どうしたら良いのか。具体的な記述があれば、印象が変わるのではないかと思う。

委員
 本部会の中間報告に対する世間の受け止め方は、三位一体改革からの火の粉を振り払うことにあると理解する向きがある。また、世間の注目が、免許更新制の導入と教職大学院の新設のみに焦点化されている。後者は、p.11に整理されたので、両ワーキンググループの成果がつながれていると理解したが、前者は、例えば、「はじめに」のところに、10月26日の中教審答申との関連を示す内容を書き込めば、説得力が増すのではないか。私としては、第三の教育改革の仕上げの段階にあるとの気持ちでいる。

委員
 10月26日の中教審答申は、義務教育の基本的な枠組みを改革する内容であり、国が示すのはスタンダードと結果の評価であり、条件整備をする代わりに、できる限り現場に任せるとしている。現場に任せられる以上、これを教員が担わなければならならず、教員の力量にかかっている。これから、教員が重要になるということを強調した方が良い。

委員
 戦前の師範教育から戦後の教育改革が行われ、現在、戦後60年で、新しい段階に来ているという歴史意識を、最初の部分で示した方が良いのではないか。過去の答申を読むと、我々が何を行えば良いのかが具体的にわからないのと同時に、どのような歴史段階にいるのかという認識が乏しい。

委員
 p.2の(1)で、学校像について、「これからの学校は、(中略)信頼される学校でなければならず、教育を提供する側からの発想だけではなく、教育を受ける側の子どもや保護者のニーズに応える教育の場となることが求められている」と示しているが、これだけで良いのか。単に、保護者や地域住民の意向に応えていくだけではなく、地域や保護者から支えられて、あるいは、協力しながらつくる学校が期待されているのではないか。特に、地域に根差した教育が行われるようなってきており、地域の自然や歴史、文化といった地域の固有性の上に生きている子どもが、国際社会の中で生きていくことを考えると、国民・地域住民・保護者と一緒になり、新しい学校をつくっていくことが謳われるべきではないか。p.3の「2教育の専門家としての確かな力量」にある「学級作り」、「授業作り」の表現は、「づくり」にした方が良い。

委員
 p.10の最初の段落で、民間人校長の登用については、「決して矛盾するものではない」としているが、教員免許状の基盤を堅持する立場からも、検討が必要である。更新制を導入し、免許状を厳しくするとすれば、無免許の者が校長になることは、いかに民間経験があろうと、矛盾するものである。民間人校長を総括した上で、今後の教員政策の中で見直してもらいたい。10月26日の中教審答申で、教頭にまで民間人登用を拡大することが適当としているが、こうなると、一般教員も民間人で良いのではないかという疑問が出てくる。これは、教員の専門性の確立や適格性から見て、望ましいことではない。また、同答申では、「教師」という表現が使われているが、この中間報告(素案)の表現と一致していない。教員に対する表現は、統一すべきである。

委員
 例外的に、民間人校長や教頭、あるいは特別免許状により教壇に立ってもらうことは良いが、トレーニングを受け、専門的な資質を持った者が教壇に立つのが基本である。例えば、「いわゆる民間人校長の登用が進んでいるが、こうした例外的方向と」というような表現で、民間人登用と並んでのものではないことを示す必要がある。規制改革・民間開放推進会議で、民間人の教員への登用が言われているが、それに対してどう応えるのか、教員の資質の保証・向上という任を負うこの部会の責任である。

委員
 p.10の中段の1)~4)の留意点は確かに必要なことであり、特に、1)の「教職や学校が魅力ある職業、職場である」ということの持つ意味は大事である。教職を目指す若者の意欲や教職の魅力を持たせることが大前提であるが、それが崩れかけてきている。いかに教職の魅力を若者に喚起していくか、そのための方策等を若者に向けていかなければならない。それを含めて、ここで挙げられている留意点は一体何かを考えた時、その位置付けや、どのように受け止めるべきかがわからなくなっている。この留意点が全体の位置付けであれば、p.46以降の「6.改革の円滑な実施のために」で触れられるべきである。そこでは、それぞれの留意点が、今回の改革の施策を展開していく上で、どのように位置付けられ、絡んでいくのかを記述する必要がある。

委員
 教壇に立つ者や学校のリーダーは、民間人であるべきで、その者にも門戸を開こうという流れがあるが、それは今回の改革と本質的な矛盾がある。教職大学院における実務家教員とは何かにも関わるが、民間人にも門戸を開くべきとする教員の中に、この実務家教員も含まれているとすれば、教職の専門家ではない者が、専任教員に実務家教員を4割以上入れなければならない教職大学院に入ってくる問題があるから、それについては矛盾のないようにする必要がある。例えば、医師免許を持っているが、教職免許は持っていない者が、理科や生物の教員になりたいと思った時に、教職に迎え入れられるようにすべきではないかというところから出てきた議論もあり、そのことについて道を閉ざす形になると問題がある。また、教育が重要であり、教員が重要であるということであれば、人材確保法による給与面の優位については、聖域として確保すべきだとする向きもある。これについては、政治的判断があるが、欲を出し過ぎて失敗してもいけないので、対応に配慮が必要である。

委員
 p.20の最後の2つの○にある、教職大学院の目的・機能について、当初は、教職課程を履修していない一般大学の学部卒業者が、ストレートに教職大学院に進めるルートの記述もあったはずだが、これは削除されたのか、それとも、社会経験を経た者等に含まれるのか。

事務局
 それは、社会経験を経た者等に含まれる。幅広い人材を確保するメリットがあるため、その道を閉ざすということではないが、基本的には、開放制の原則の下、教職大学院が教員養成の主体となるのではなく、学部段階が主体となることが前提となる。

委員
 p.20の最後の○に、「教員免許状を持たないまま大学を卒業し様々な社会経験を経た者等が」とあるが、これでは、社会経験を経ない、教員養成系大学や教育学部以外の一般大学の新卒者には、教職大学院への道が閉ざされている印象を受ける。一般大学や教育学部以外の学部でも教職のための単位を50数単位も修得しなければならず、負担が大きいので、その辺りはどうなのか。また、p.12では、「課程認定大学においては、教職指導を一層充実することが必要」とされており、教職指導がきちんとできる科目を設定しなければならないが、厳しい財政状況のため、1つの大学で科目と教員を全て揃えることができない場合がある。大学設置基準でも、他大学における科目履修による修得単位の編入が60単位まで認められているわけだから、弾力的にしても良いのではないか。p.17の枠内に、「学部段階での資質能力を修得した者の中から」とあるが、学部段階においてきちんと教員養成をすることが強調されるあまり、英語等の教科で優れた能力を持っているにも関わらず、多くの教職科目を履修しなければ、教職大学院に進めないという問題が出てくる可能性がある。特定の教科について優れた能力がある者にも、教員の道を与えることは考えられているのか。

事務局
 「学部段階での資質能力の修得」というのは、教員養成学部に限ったことではなく、課程認定を受けている学部における教育を含む。教職大学院は、課程認定大学で教員としての基本的な資質を身に付けた者と、現職教員を主体としている。もちろん、全く教職課程を履修していない者が、大学院への進学段階で教員を志望する場合もあるが、その者に対しても、p.24の上から2つ目の○にあるように、学部においてさらに免許取得に必要な単位を取得できるコースを設ける等、教員になる道を閉ざしているわけではなく、大学で配慮できる仕組みは整えている。教科について専門的知識・技能があっても、それを子どもに教えることとは必ずしもイコールにはならず、教員として、きちんとした教育をするということを主眼に、教員養成課程を立て直していくことが、今回の議論である。その意味で、今後、大学には、教員として必要な資質を責任を持って身に付けさせることが求められるので、負担は重くなる。ただし、大学における単位が過剰にならないよう、現行の総単位数の枠内で教職課程を構成することにしている。

委員
 これまで教員になる者は、どうしても初めから教職を目指した者になっている。世の中には、他の分野で優秀な者がいるので、その者が教員を志望する時に支障があるとすれば社会的損失であり、教員養成の在り方そのものが問われることになる。本当に優れた者が、教壇に立てる道を開くとともに、教壇に立つ者には、給与も高く保障しなければ、真に教員を目指す者が現れないことになる。

委員
 教職課程を履修しなかった者が、免許を取得する道はいくつもあり、例えば、科目等履修生や通信教育で単位を修得することができる。しかし、それが教職大学院の主眼ではないため、素案では「社会経験を経た者等」の「等」に含まれているが、社会で様々な仕事をしてきた者や、他学部出身で教職課程を履修していない者も、教職大学院の課程を履修して、3年をかけて免許を取得してもらう道が開けることになっている。また、1つの大学で全てを用意するのは困難であるという点は、p.29の11で連合大学院制度や連携大学院制度を挙げており、必要であればこの仕組みを検討してもらいたい。

委員
 p.16の(3)の枠内で、学部段階では「外部評価や第三者評価を導入する方向で、検討することが必要である」となっているが、p.23の枠内で、教職大学院では「大学としての自己点検・評価や認証評価が重要である。(中略)認証評価機関を速やかに創設し」との表現になっている。整合性を考えて、学部段階の表現も強調してはどうか。

事務局
 専門職大学院では既に、個別に5年に1度、認証評価を行うことが法律上義務付けられている。しかし、学部は、大学全体としての機関別評価になるため、7年に1度、認証評価が行われることになる。教職課程といった機能に関しては、まだ制度的な担保はない。専門職大学院の認証評価については猶予規定があり、当該分野に認証評価機関がない場合は、外国の評価で足りるとしたり、他の様々な評価で良いとの規定がある。認証評価機関は現在、法科大学院にしかなく、その他の分野でも、関係者が認証評価機関づくりを急いでいるところである。教職大学院を創設するのであれば、現段階から認証評価機関づくりを急がなければ、制度改正に間に合わなくなる。

委員
 p.24の「3.修了要件」で、教職大学院は、研究指導を受けることや、論文審査の合格は必須としないとなっているが、例えば、修士論文を課すか否かは、大学院の裁量の範囲なのか、それとも認めないということなのか。裁量の範囲内にあって、それを選択するか否かは、各大学が判断する問題と理解したいが、どのように読み取れば良いのか。

委員
 修士論文を課さないことが、楽にするという意味であれば、違う。ワーキンググループでも、修士論文の作成は当たり前で、むしろ修士論文の方が楽なのではないかとの議論がされている。修士論文も課さないし、何もしないという意味ではない。

委員
 従来の大学院の方がレベルが高く、修士論文を課さない点が、教職大学院をレベルダウンさせた印象を与える。その辺りを検討しなければいけない。カリキュラムをつくる大学の裁量の中で考えていく余地のあるテーマではないか。

事務局
 修士論文の内容が、ほとんど教育に関係なく、もちろん、例外もあるが、教員養成課程や目的意識を持った教育の成果という形で位置付いているのか疑問を持っている。その中で、従来型の大学院ではない専門職大学院を活用しようとしており、また現在、ワーキンググループにおいて、モデルカリキュラムづくりを進め、その履修や成績認定は厳しいものとなるが、それは質の担保の観点で行われている。修士論文を課すことを書くと、従来の教育方法で良いという、別のメッセージを発することになりかねない。

委員
 p.15の下から3つ目の○で、「教職経験者が評価に加わる」となっているが、演習実施の段階でも、教職経験者が加わることを明確にした方が良いのではないか。p.48の別添1を見ると、直接の経験者が指導・演習に加わっていることが大事である。

委員
 p.31に、平成19年4月の開設が可能となるように準備を進めることが適当としているが、見通しはどうなのか。また、既設の教員養成を行っている大学院との関係も含めて、調整の問題が出てくるが、設置する数や場所、形態の見通しはどうなるのか。教育・教職修士や、教育・教育学博士の学位を授与するならば、一定の論文等をきちんと課して、ステータスや基準を示していく方向が良いのではないか。

事務局
 現時点では、設置数等について、確たる方針は定まっていないが、本部会や義務教育改革全体の議論を踏まえた上で、進めていかなければいけない。今回の議論では、各大学の教員養成の改革に注目しており、教職大学院をつくることが目的というよりも、各大学の教員養成課程の改革を通じて、教職大学院の設置につながる動きを求めている。平成17年度から、「大学・大学院における教員養成推進プログラム」という事業を始め、教員養成系学部に限らず、国立20大学、私立12大学の申請を採択した。国公私立を問わず、各大学において教員養成の改革が進んでいるが、文部科学省としても、それを促進・支援する観点で、こうした大学を中心に教職大学院についても構想を進めてもらいたい。教職大学院準備の財政的支援の意味もあり、それが制度化された際の資金を確保するためにも、今年度から予算をつけたので、必要な支援をしていきたい。

委員
 その点の趣旨は、もう少しp.18で示しても良いのではないか。本来、教員養成学部の上に置かれる大学院は、全て教職大学院にならなければならないと思っている。実際に、全て教職大学院になるかどうかは別として、今回の改革により、学部や大学院も含めて、教員養成を行う大学全体が変わることを期待したい。しかし、教職大学院の設置基準が厳しいため、すぐに全ての大学院を組み替えていくのではなく、条件の整った大学から組み替えていかなければ、制度が空洞化してしまう。教職大学院とは、新たな制度を付け加えたという意味ではなく、現在の教員養成の在り方や現職研修の在り方を問い直すところから出てきた改革案だということを示す必要がある。

委員
 p.10の「決して矛盾するものではない」としている部分は、説明が必要である。p.20の一番最後の○にある、「社会経験を経た者等」の「等」だが、学部段階で免許を取得していない者を含んだものとして良いのか。p.23の枠内で、免許状未取得者について触れているが、工学部や理学部等の出身で、免許を取得していない者が改めて教職を目指す場合についても、きちんと説明した方が良い。p.19の下から2番目の委員に、「2つの目的・機能が特に期待される」との趣旨で一貫して構成されているのは良いが、そうであれば、「等」の中身を膨らませておいた方が良い。p.23及びp.27にある「教職特別課程」とは、法令上に既にあるのか。p.15の一番下の○に「教職課程の修了」とあるが、これは、教職課程の修了者に証明するものを出すということか。

事務局
 「教職特別課程」については、解説を加える必要があるが、教育職員免許法施行規則において、「教職に関する科目の単位を修得させるために大学が設置する修業年限を1年とする課程」としているものである。学部段階で免許を取得していない者も、教職特別課程により、教職大学院に在学しながら、必要単位を修得すれば一種免許状を取得でき、教職大学院の履修と併せて、専修免許状を取得できるということである。

事務局
 当初、ワーキンググループでは、大学において、教職課程を履修して、教員として必要な資質能力を育成したことを認定すべきであるとの議論がなされ、それを踏まえ、今回、教職指導を法令化し、教職実践演習(仮称)を新設することも含めて、教職課程全体について大学として責任を持ってもらうことを求めている。従来は教職課程に係る必要単位の修得の証明であったが、それに加えて、教職指導や教職実践演習(仮称)を合わせた教職課程を履修したことについて、大学として証明する行為を導入すべきではないかとの議論を踏まえての記述である。

委員
 従来は、大学で必要な単位を修得すれば、自動的に免許状の授与を申請していたが、これからは、形式は従来と同じであっても、実質的な修了認定を行って申請する形を求めている。修了証を出すかどうかは別だが、免許を持つに相応しい資質能力を、大学が責任を持って見なければいけないとの趣旨ではないか。

事務局
 教職課程において、教職課程全体の履修を意識した新科目の修得や教職指導をきちんと行ってもらうことを念頭に「修了」と書いているが、教職課程の修了証を出すことは議論してもらっておらず、概念的な意味で使用しているので、誤解が生じるのであれば、表現を工夫したい。

委員
 例えば、外国語の場合だが、自分の大学では、グローバルコミュニケーションの専門職大学院を立ち上げようとしており、同時通訳等のコースも設けようと思っているが、多様な専門職大学院を修了した者にも、教員になれる道が開かれるような意味で、「等」という表現に膨らみを持たせてもらいたい。我が国の中・高等学校における教員の英語力が問われている。現行制度では、必要な科目の単位を修得し、教員採用試験に合格すれば教員になれるが、筆記中心であり、TOEFL(トーフル)やTOEIC(トーイック)等の国際的な物差しを利用し、その基準をクリアしなければ教員になれないとすることを書き込む余地はないのか。

委員
 p.27に、「8.免許状を保有しないで入学する学生の扱い」について示しており、「等」の表現を膨らませる必要はないのではないか。この項目を見れば、自ずから「等」の要素の中に入っていると理解できる。教職大学院は、学部段階の免許状未取得者を受け入れるが、その者の受け皿ではなく、現職教員の研修等の目的・機能があるため、このような表現になっているということである。採用の問題については、今後考えていく必要があるが、各教科に関連して検討すべき問題があるので、難しい。

委員
 p.19の上から2つ目の○によれば、基本は、教員養成学部において、教員としての基礎的な力を身に付けた者を主たる学生として受け入れ、教育していくことであるから、一般の修士課程においては、教員免許状未取得者についても、教員免許を取得できる仕組みが現在もあるわけだから、既存の修士課程とは別意なものとして教職大学院をつくることを念頭に置けば、目的・機能については、p.20の表現で良いのではないか。様々な修士課程レベルの教育があっても良い。教職大学院をつくるとすれば、既存の修士課程から一部を取り出すことになり、将来の方向として、その分野が拡大していくのだろうが、そうなった時、研究者養成をどうするのかを考えておかなければいけない。教職大学院は、高度職業人の養成を目的とするわけだから、研究者養成とは必ずしもリンクしない。その結果、連合大学院等に向かうことになるのだろうが、特定の分野は教職大学院、それ以外の分野は修士課程となった時に、当該教職大学院に係る研究者養成は、どのように考えていくべきかを考えておかなければならない。p.10の民間人校長の登用や留意点というのは、前者は、免許制度の例外としての特別免許状等に関わる話であり、後者も教員養成にはほとんど関係が無く、「5.教員養成・免許制度の改革の方向」とは直接関係のない事柄である。関係のない事柄を取り上げることにより、論議を呼ぶのであれば、これを削除することもあり得るのではないか。p.46の下から2番目の○で、課程認定大学の真摯な取組が求められているが、理由付けが弱い。免許更新講習は先の話であり、理由としては、教職実践演習(仮称)の開設だけである。しかし、理由はこれだけではなく、現在の教職課程における取組や目的そのもの、例えば、新課程の在り方と絡んで問題になっているわけである。その部分をきちんと書き込まなければ、意識改革を図ることにつながってこないのではないか。p.46の一番下の○で、「求められる」、「重要である」、「検討する必要がある」と、表現を使い分けているが、内容の重要性を考えれば、微妙な表現は避け、審議会として言うべきことははっきり伝えるべきではないか。

委員
 p.40の8では、「更新制を適用することが可能かどうか、法制度上の課題などについて、さらに検討することが必要」としているが、最終答申では明らかにするのか。法制度上、可能であれば適用した方が良いのか、可能でも適用しない方が良いのかという点も含めて、本部会では最終的にどこまで検討するのか。p.48の1の事項の着眼点の4つ目の○で、「研修」という表現を使用しているが、教職課程の仕上げの段階の科目なので、現職段階を意味する「研修」は誤解を生むのではないか。

事務局
 現に教員免許状を有する者の取扱いについては、本部会で方針が整理されていないので、法制度上の課題などもあると指摘するに止めている。また、法制度上の課題以外にも、現に教員免許状を有する者に適用するとなれば、現職教員だけでも約100万人おり、教職に就いていない者も含めれば相当数に上り、仮に適用が可能となった場合でも、どのような形であれば適用可能なのか、関係者の理解が得られるのかといった課題もあるので、今後議論いただくことになる。

委員
 教職大学院の成功のためには、教育指導体制やカリキュラム整備を行い、質の高い、力量ある修了者を輩出することにより、学校現場や保護者の信頼を得ていくことは当然であるが、さらに修了者の一定の量的確保が必要条件である。今までの教育系大学院の修了者は少なく、各学校に1人いるかいないかである。この程度だと、大学院修了者であるがゆえに、校内での発言を控えたり、孤立する状況があった。例えば、少なくとも各学校に2~3人大学院修了者がいるようになれば、力を発揮していくことにつながるため、一定規模の修了者を輩出する制度設計や、修学への動機付けが不可欠ではないか。教養審第二次答申のように、目指すべき量的な政策目標を明示し、また、都道府県による派遣型システムを脱却し、個人ニーズ型・自発型システムへの移行について示すべきではないか。そのために、大学としては夜間や週末、長期休業に講座を開講する形態、教育委員会としては大学院修学休業制度の活用や、夕方以降・週末に大学院へ行ける勤務時間の配慮等が必要である。

委員
 教職大学院は、スクールリーダーや、それに準ずる新人教員を養成しようとしているのに、それらの者も免許更新講習を受けなければならないとするのは、教職大学院の目的を弱めるのではないか。これまでの議論では、単位の積み重ねだけで教員の資質を見るため、免許更新講習の受講を全ての者に課すことで、教員の資質保証をする考え方が強かったが、教職指導の実施や教職実践演習(仮称)の新設は、単位の積み重ねだけでなく、資質そのものを保証しなければならなくなっているということである。それならば、免許更新講習も、教職大学院の取組を評価し、能力のある者は免除することとしても良いのではないか。講習を受けなければならない者を輩出するような教職大学院は、教職大学院をやめなければならない。また、免許状未取得者の教職大学院への入学についても、各大学院でその者の学部での実績を評価して、履修単位を減じる等の措置を取れば、他学部出身者が教員になるための道が狭いとの懸念は減るのではないか。免許法により細かく規制しなければ、教員の資質が保たれない時代が長く続いてきたため、このようにしなければならないのだろうが、思い切った転換が必要であり、検討してもらいたい。

委員
 教職大学院への現職教員の派遣について、p.46に研修等定数の措置が重要と書かれているが、これは単なる任命権者だけの問題ではないので、国が責任を持てる体制を将来的に作る必要がある。p.32に、教職大学院の修了者の処遇について触れているが、これも同じように検討してもらいたい。p.19の一番下の○に関連して、研究者養成については、これまでの大学における養成だけでは量的・質的問題が出てくるので、教職大学院における指導的な研究者養成を行わなければ、教職大学院は長続きしないのではないか。p.40の「8.現職教員を含む現に教員免許状を有する者の取扱い」について、多くの現職教員に更新制を適用することは煩雑であり、また、現行法で取得した免許であることから、不合理である。ペーパーティーチャーにも更新制を適用するとなると、その数の多さから不可能と思われるため、現職には適用できないといった、きちんとした検討の結果を期待したい。もし、更新制が導入され、有効期限が10年となった場合、10年経験者研修との関係が問題となるし、上進制度との関係も問題となるため、もう少し具体的な検討が必要である。また、教職大学院や他の大学院を修了して免許を取得した者や、管理職試験に合格した教員への更新制の適用についても、検討が必要である。教員免許は、ただ有効性を継続させる運転免許とは違うのであるから、更新制の具体内容をさらに検討してもらい、導入するとした場合の待遇との関係も検討してもらいたい。

委員
 現職教員を含む現に教員免許状を有する者の取扱いについては、ワーキンググループでは十分に検討していない。更新制の議論は、現職教員を問題にして出てきているため、現職教員に適用しないとなると、国民は納得しないだろう。国民が納得するような、例えば、現職教員には更新制を適用しないが、リニューアルを求める研修を行うことにより、資質能力を担保することを示すことが必要で、教員の資質能力が公証される形にしなければならないとの意見が出ていた。p.33の(1)の枠内で、「どのような制度であれば導入が可能であり、また現在の状況にふさわしいのか」とあるが、必要性があって可能性が論じられるべきではないか。本文では、導入の必要性及び意義が初めにあり、その後に平成14年の答申との関係を論じているので、表現の工夫が必要である。免許更新講習の受講機会について、夜間や長期休業時、あるいはサテライト利用や大学教員の出前講義等で、地域に関係なく受講できるような環境をつくることも必要ではないか。

委員
 現在、学校では、少人数指導やチーム・ティーチングで、教員の定数加配が行われているが、そのような指導を行うためには、教員間の綿密な連携が必要である。また、授業の担当時数も増えているので、教員は多忙感を持っている。その中で、教職大学院に通いやすい環境をいかにつくるかが、大きな分かれ目になる。また、修了者の処遇をきちんとしなければ、教職大学院を志向しないだろう。免許更新講習については、p.39に「講習モデル等の検討が行われることが望まれる」となっているが、講習には、教員のライフステージに応じた内容や、特別支援教育コーディネーターや総合的な学習の時間のコーディネーター等も視野に入れていかなければいけない。また、受講形態については、教員のそれぞれの事情が生きるものにしていただきたい。

委員
 更新制に対する国民の要望は、不適格教員の排除が強かったが、今回の更新制は、リニューアルを行うということである。それ自体は結構なことだが、国民の理解という点では難しいのではないか。p.38の3で、「都道府県教育委員会等」というように、「等」という表現が数箇所出てくるが、「等」には膨らみを持たせてもらいたい。p.36の2つ目の○の「我が国全体の資格制度との関係」について、幼稚園教員と保育士との業務は、重なるところが多く、また、平成18年度から総合施設が本格実施の予定であり、職務内容がますます重なってくる。その中で、更新制が幼稚園教員のみに求められることは、問題である。保育士資格については、厚生労働省の所管であるので踏み込んだ表現は難しいが、問題が生じるということは、どこかで触れていただきたい。

5.閉会

お問合せ先

初等中等教育局教職員課

-- 登録:平成21年以前 --