教育制度分科会(第10回) 議事録

1.日時

平成13年12月17日(火曜日) 10時30分~12時30分

2.場所

KKR HOTEL TOKYO「平安の間」(10階)

3.議題

  1. 新しい時代における教養教育の在り方について

4.出席者

委員

 鳥居分科会長、木村副会長、茂木副会長、佐藤副分科会長、田村委員、永井委員、横山(英)委員、志村委員、杉田委員、竹内委員、藤原委員、船津委員

文部科学省

 御手洗文部科学審議官、近藤生涯学習政策局長、寺脇生涯学習政策局担当審議官、名取主任社会教育官、玉井初等中等教育局審議官、加茂川初等中等教育局審議官、山中生涯学習政策局政策課長その他関係官

5.議事録

○ 鳥居分科会長
 それでは、ただいまから中央教育審議会の教育制度分科会第10回を開催させていただきます。
 今日は、前回の御指摘を踏まえまして、修正した「答申案」を皆様にお配りしてございます。これをもとにいたしまして御審議をいただきたいと思います。
 初めに、ワーキング・グループの座長として「答申案」をおまとめくださいました木村副会長から、前回の素案からの変更点を中心に、本日の「答申案」について御説明をいただきます。よろしくお願いいたします。

○ 木村副会長(ワーキング・グループ座長)
 それでは、前回からの変更点について御説明申し上げます。
 前回、たくさんの御意見をいただきました。議事録を詳細に拝見いたしまして、ほとんど御意見を入れさせていただいたつもりであります。そのほかに書面で何人かの委員の方から修正案をいただきました。それも検討した上で、加えさせていただいております。
 ただ、御意見の中に相対する意見がございますので、その辺は前回申し上げましたように、最大公約数をとるということで、必ずしも入れられていないところがございますので、御了承をいただきたいと思います。
 それでは、お手元の資料「答申案」を御覧いただきたいと存じます。
 まずスタイルが変わりました。御覧いただきますと、「はじめに」というところで1枚ついておりまして、「第1章」が「今なぜ『教養』なのか」、それから「第2章」が「新しい時代に求められる教養とは何か」というタイトルになっております。「教養の危機」という言葉が消えております。
 まず1ページからまいります。「はじめに」というところで、従来の「第1章」を二つに割らせていただきました。教養の危機ということで記述していきますと、どうしてもかつてあった教養教育が危機に瀕していて、それを甦らせるというイメージが出てきてしまう。これは御指摘のあったところでありますけれども、そういうことがありましたので、我々としては新しい時代の教養が必要だというイメージを出すために、「はじめに」というところでその辺を書かせていただきました。
 「はじめに」の新しい文章としては、アンダーラインのところに、どういうスタンスで議論したかということを簡単に書いてございます。
 次へまいりまして、「第1章」であります。冒頭のところの四つのパラグラフが、いわば前提となっておりまして、ここで、社会が従来とは変わってしまったのだということを言っております。ここで挙げましたのは、社会に豊かさができたという状況、それから価値観の多様化、ある意味では過度の多様化のために、社会の一体感が喪失したという事実、それから少子化でありますとか、家族構造の変化、さらに多くの方から御指摘をいただいておりますが科学技術の進展、そういう社会の変化が前提となっていることを、四つのパラグラフ、アンダーラインのたくさん入っているところに書いてございます。
 中ほどに、アンダーラインはほとんど入っておりませんけれども、「このような時代においてこそ……」、これは従来と同じ文章でありますが、ここでまず第一弾の教養の定義を致しました。力という意味からの定義をしたということでございます。
 そこに2行、文章をつけ加えさせていただきました。
 3ページへまいりまして、3ページの「新しい時代に求められる教養とは何か」ということで、教養の定義が二つ記されております。書き出しのところに「教養とは」ということになっておりますが、これは先ほどの力をさらに具体的に書いたということで、ここでは社会とのかかわり方から教養を考えております。
 それから、アンダーラインの最後の3行で、「教養は」ということを書いてありますが、これは我々人間の内面的な問題として教養をどう考えるかという記述であります。
 それから、「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」、具体的な教養の要素を前回同様、整理しておりますが、「ウ」のところで科学技術のところを大幅に膨らませて書かせていただいております。
 「ア」が、自ら社会秩序を作り出していく力の必要性の整理をいたしております。
 「イ」は、異文化理解。
 「ウ」のところが、新しい科学技術の問題。
 「エ」が、読み、書き、考える力など、普遍的に求められる教養。そのもとに国語の力があるぞという指摘であります。
 「オ」は、これまでありました型から入る「修養的な部分」を書かせていただきました。
 従来は「カ」までありましたけれども、「カ」は「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」を受けたような形になっておりますので、それは切り離して、そこで少し表現を変えて、まとめた形にして書かせていただきました。
 それから、5ページへまいりまして、中ほどに「21世紀は」云々と書いてありますが、これから我々が生きていくのは地域社会であるということを改めてここで記述させていただきました。
 それから、下から4行目ですが、「幼・少年期」という言葉を使ってありますが、これは従来、御記憶かと思いますが、「人格的基礎の形成期」というやや難しい言葉になっておりましたので、「青年期」との対応で「幼・少年期」としたほうがよかろうということで、表現を変更させていただきました。
 それから、6ページへまいりまして、6ページの一番下のところですが、これは今回の修文で特に重視したところでありますが、「科学的なものの見方や考え方」という表現を随所に入れております。
 それから、7ページでありますが、囲みの最初の「◇」のところで、「テレビやゲームに費やす時間を制限する」という点です。前の表現では若干わかりにくかったのですが、それを具体的な書き方にして、それを「『我が家の決まり』づくり」とするとしました。「『我が家の決まり』づくり」という表現はあったのですが、具体的に書いたということであります。
 それから、7ページの下から2行目、「学習する習慣や物事に粘り強く取り組む態度」ということで、またそこに「科学的にものを考える力や態度」という表現を加えさせていただいております。
 次のページで、最初のアンダーラインですが、これは現在、教員免許状の問題等でも議論しておりますが、要するに違う校種の先生方が教え合うということもいい刺激になるだろうということで、2行を加えさせていただきました。
 次の「◇」で、「国語教育や読書指導の重視」ということで、これは「充実」という言葉を使っておりましたが、「重視」と直させていただきました。
 それから、9ページで、これも御意見がありまして、これは例の教育政策研究所云々ということがあったのですが、もう少し普遍的な書き方をさせていただきました。すなわち、「特に、発展的な学習に関する指導方法の開発や、学習の過程で子どもがつまずきやすい事項を分析し」というように普遍的に書かせていただきました。「実践的研究」ということも新たに加えております。
 次の「道徳教育の充実」というところでありますが、ここには映像作品という御指摘もありましたので、まとめて、「すぐれた文学作品や映像作品を教材として活用する」という表現にしました。
 それから、私も感じておりましたが、自然との触れ合いということが今までありませんでしたから、その点についての御指摘が委員の方からございましたので、それを、「自然の中で生き物を見つめたり、四季の移り変わりに生と死の循環を感じたりするなどの体験や、様々な分野での社会奉仕体験などの体験を通じて、豊かな心を育むことも重要である」という表現で書かせていただきました。
 その次の「知・徳・体の調和のとれた育成」ということで、表現をそのように直させていただいております。
 それから、ちょっとした修文でありますけれども、先生方が自ら自己研鑽に励む姿が具体性がなかったので、「自ら研究したり、読書等を通じて自己研鑽に励む姿」というようにわかりやすくいたしました。
 10ページでありますが、これも御指摘がございましたけれども、ボランティア体験研修の後に、「青年海外協力隊」という事項も加えさせていただきました。
 それから、評価の問題で、やや文章がわかりにくかったということで、アンダーラインをつけた部分のように直させていただいております。
 11ページで、具体的な方策の「1 論理的に粘り強く考える訓練を行う」というところで、ここでも論理的に粘り強く考える力というのは、科学的に物事を考える能力とか、科学的な見方が重要であろうということで、その2行をつけ加えさせていただきました。
 それから、一番下のところは、「科学技術・理科教育の推進」ということで、これは入っていなかったのですが、新しく次のページへわたって4行ほどつけ加えさせていただきました。「生徒一人一人が、科学的なものの見方や考え方の基礎を身につけることができるよう、最新の研究成果も生かした教材の開発や、科学者等による指導の機会の充実が重要である。博物館や科学館での講座や科学技術やものつくりに関するコンテストの開催など、若者の科学への関心を高め伸ばす機会の充実も求められる」という表現でございます。
 それから、「2」の「『将来』との結びつき」云々のところで、最初の「◇」で、いきなり企業等でのインターンシップがきておりましたので、「学ぶ意味を考えさせる上で」という文章をつけ加えて、やや具体的にいたしました。
 それから、12ページの一番下の「◇」のところで、「また、すぐれた芸術や伝統文化に接したり、多様な芸術文化活動やスポーツ活動を体験することは、感性を磨き、人間としての幅を広げる上で大きな意味を持っており、これらの活動の一層の推進を図る必要がある」というように、やや具体的にいたしました。
 それから、13ページのところには、「大学入学者選抜の在り方」について、少し修文をしております。
 また、「大学における教養教育」のすぐ上のところで、社会人のことを書いてあったのですが、社会人の受け入れの意義みたいなことがありませんでしたので、「ともすれば同世代のみで構成されがちな我が国の大学に、社会人を積極的に受け入れることは、大学の多様化の面からも有意義である。各大学には、社会人特別選抜の積極的導入等、入学者選抜において社会人の能力や」云々という表現をつけ加えさせていただきました。
 それから、14ページは、ちょっとした修文でありますけれども、中ほどで、教養教育を担当する教員には高い力量が求められるということを加えました。
 15ページでは、最初の「◇」で、「さらに、各大学には、自らの教養教育の理念を教職員や学生に簡潔かつ明確に示す努力が求められる」という表現を加えさせていただきました。これは御紹介申し上げましたけれども、今、私どもで大学評価の前哨戦として教養教育の実情調査をやっておりますが、それぞれの大学で教養教育についてはお考えをかなり述べておられますが、明確なところとそうでないところが見受けられますので、そういうことも加えて、全体的にそういう表現にさせていただいております。
 16ページの頭でありますが、前は教育版科学研究費ですか、そんなことを書いてありましたけれども、現在の制度との整合性の問題がありますので、少し表現を変えまして、「教養教育の改善に積極的に取り組む教員を支援する必要がある。例えば、授業内容や指導方法等の改善のための調査研究を行う教員や教員グループに対する支援の充実や、学内において各教員の教養教育に対する取組を促すための『重点配分経費』を創設することなどが考えられる」とし、「教育版科学研究費」という言葉から「重点配分経費」に変えさせていただきました。
 17ページでありますが、「第3節」の「(1)」のキャプションを変えました。前のキャプションは「品格ある教養社会の実現に向けての課題」ということでありましたが、これを「成人の教養を涵養するための課題」というように少しわかりやすくいたしました。
 最後の19ページは、一番上のところですが、成人教育等で問題であるのは、「学んだ成果を社会の中で生かす」ということがあまり考えられていない、そういう仕組みがないという点です。生きがいのためにそういうものをやるのだという視点が強過ぎるということで、現状、生涯教育への参入者が頭打ちになっているような状況もあるようですので、「学んだ成果が社会の中で生かされる仕組みの充実」が大切だろうと、わずか1行半ですが、文章をつけ加えさせていただきました。
 それから、囲みの中の「◇」を少し整理いたしまして、一番最後の「◇」で「学習成果を社会に生かす仕組みの整備」ということで、キャプションを変えさせていただいております。
 前回からの変更点は以上でございまして、いろいろ御意見をいただきまして、なるべく御意見を入れるような形で修文をさせていただきました。
 以上でございます。

○ 鳥居会長
 どうもありがとうございました。
 それでは、早速ですが、御自由に御審議をいただきたいと思います。できますれば、「はじめに」、それから「第1章」「第2章」というように上から順番に御意見をいただけるとありがたいと思います。よろしくお願いいたします。

○ 基本的には大変よいまとめで、それにあたられた委員の方々に大変感謝申し上げます。 ただ、何点か述べさせていただきますと、まず、「はじめに」の2番目のパラグラフの3行目、「体系的な知識よりも断片的な情報が重視される」とはちょっと言い過ぎではないか。「断片的な情報に偏りがち」くらいかもしれませんが、それを重視するというのはどうだろうかと思いました。
 それから、3ページ目、「第2章」のちょうど真ん中から始まる「イ」のパラグラフで、最後のところに「世界の人々と外国語で的確に意志疎通を図る能力も求められる」とありますが、一般的に全員に求められるということではないと思いますので、そこは言い方を変えたほうがいいのはないかと思いました。
 3番目に、6ページの一番下の、先ほど木村先生がコメントなさいました「科学的なものの見方や考え方」を重要視して、何ヵ所かにお入れになったというのは、基本的には全く賛成でございますし、後のほうに「知・徳・体」のバランスということがあって、そこで調和がとれているのかもしれませんが、科学的なものの見方のみを強調するというふうにとられてはよろしくないかと思います。その3点でございます。

○ いろいろ文章を直していただいてありがとうございます。
 ただ、一つ、教養全体が文学的な側面にまさに傾いている節もあるかなという感じがしておって、こういうことは教養の中に入るのかどうかわからないのですが、ちょっと御議論いただければありがたいのです。つまり、主体的に生きるというようなことが全体のコンセプトで、そのための教養だとすると、昨今、企業に寄りかかって、終身雇用できたということが変わっておりますよね。いきなりペイオフとか何か言われても、あるいは401Kとか言われても、非常に情けないことに、国民1億総困っているのではないかと思います。何といったらいいのでしょうか、金融教育みたいなこと、経済のことについては全く何も書いていないですが、それは教養とは言えないのですかね。今日の状況を見たら、一体どうなるかなという感じがしたのです。
 つまり、全部自立しろというようなことも書いてあるのだけれども、組織に寄りかかってきましたよね。企業人の方も感じていらっしゃると思うのです。ここでいきなり、世界構造の変化とか、自由化とか、グローバリゼーションという流れの中で、ほうり出されていくわけですね。ですから、青年期のところに、新しい時代の教養の中にひょっとしたらあるのかなということを思ったのです。それは必要ないのだということであれば、それはそれでいいのですけれども、どこか何か必要なのかなということを考えたのですが、いかがでしょうか。

○ 鳥居分科会長
 今、委員からお話があった点は、私流に整理してみますと、かつての、冒頭に書いてある教養のリストという範疇からはそれるかもしれないけれども、新しい時代を生きていくために必要な素養という観点からいうと、入るという際どいところにあるもので、将来はたぶん恐らく教養と呼んでいいかどうかわからないけれども、少なくとも生きていくために必要な素養ということでは間違いないということだと思うのですね。ほかの委員の先生方がどうお考えになるかですけれども。

○ 「この力こそ」というところにそこが抜けていて。要らない、別なところで書けばいいのだといえば……。

○ 鳥居分科会長
 表現方法を変えて、教養プラス、生きていくために必要な新しい時代の素養みたいなものを入れるかどうかではないかという気がしますけれども、いかがでしょうか。

○ 木村副会長
 またイギリスの話をさせていただきますが、1970年代に私は何年か住んでいましたが、あのイギリスの調子の悪い時代に彼らに感じたのは、したたかさといいますかね、そういうことをものすごく感じました。今お話を伺っていて、その辺のことかなという気はしますけれども。

○ 関連しているかもしれませんし、あるいは今のお話と逆の方向なのかもしれませんけれども、3ページの「ア」のところで、「自ら社会秩序を作り出していく力が不可欠である」ということで、能動的な社会秩序へのかかわり方を出すべきだということを盛り込んでいただいて、大変うれしいのですけれども、「社会全体の幸福を考え」という言葉ですが、ここのところはあるいは「良き社会の在り方」、あるいは「良き社会、公共の在り方を考え」ということを入れていただいて、後のほうで、例えば裁判員制度を導入しようとしているわけです。今まで社会の秩序を受け身的にとるのではなくて、能動的にかかわっていく必要があるということを、今のお話とはちょっと逆方向かもしれないのですけれども、温かさということをもう少し考えよという趣旨かもしれません。それに比べると、私の申し上げているのは、むしろもっと強く生きろという趣旨なのかもしれません。この全体のトーンは、従来と違って、より積極的に社会や公共とかかわっていくべきだというトーンが、一つの流れとしてあっていいのではないかという感じがしています。
 ですから、「社会全体の幸福を考え」と言いますと、幸福が初めからあって、それに何か合わせるように考えていく。関連した修文があと三、四ヵ所出てくるのですが、後で申し上げますが。むしろ今、木村副会長がおっしゃったような趣旨で、社会秩序のあれに積極的にかかわっていく姿勢が必要だということを出していただいて。これは金融問題とか、いろいろな問題に関係してくる話だと思うのです。単に法律とか、そういう話だけでなくて。

○ 先ほどの委員のお話ですが、私も金融に限りませんけれども、人間として社会に生活していくための最低の常識といいますか、そういうものは教養の中に入るのではないかという感じがするのです。金融といっても、専門的なものになったら全然別でございますが、それはそんな感じがいたします。
 もう一つ、別なことで恐縮ですが、この中に入っているのかもしれませんけれども、特に国際会議に出るときに感じるのですけれども、日本人というのは議論のキャッチボールがものすごく下手だという感じがするのです。何か自分が意見を言って、それに対して反対されると、敵味方みたいなことになってしまうのですね。もう少し議論のキャッチボールをうまくやらないと、民主主義が成り立たないと思うのです。アメリカ人はその点、ばかげたことと思われることも、一所懸命何か議論しているという雰囲気を時々感じるのです。そういうことはどこかに入っているでしょうか。別の表現をすればディベートとか、そういうものをどこの段階でやるかは別にして、小学校がいいのか、中学校がいいのか、高校がいいのか、大学がいいのか知りませんけれども、物事をみんなが相談し合いながら決めていくという社会ですね。これが日本にとってこれから非常に必要なことではないかと思うのです。その辺がどこかに入っているのかどうか教えていただければと思います。

○ 11ページの「◇」の上のほうに、「討論などを通じて」というのが入っています。

○ なるほど、ありますね。もう少し入れてもいいような感じもするのですけれども。

○ 4ページの3段落目になりますか、3行目のところですが、これも表現ぶりなのですが、「異なる生き方や価値と調和して生きる力を身につける」というのは、ここも何となく受け身的な感じがするのです。こういう文章はいかがかと思ったのですけれども、「生き方や価値観との調和を図りながら良き社会を築くことに寄与するために必要な教養」というような、もう少し能動的な。そして、もっと具体的に言うと、委員がおっしゃったディベートとか、いろいろなものにつながっていくのだと思います。この表現だと社会を受け身的にとって、それに調和していく感じのように受け取れるところがありまして。
 委員がおっしゃった討論というのをここで書くと、ちょっと具体的になり過ぎるものですから、後のほうで指摘があるということですけれども、あるいはもう少し書き込むのかどうかあれですけれども、入り口のところではいかがかなということです。

○ 前よりかなりよくなった点は評価したい。
 一言で言うと、これは総花的であるということです。教育改革国民会議のことに関して、その点は中曽根さんが何度も批判していますけれども、それと同じ落とし穴に入っているということですね。ただ、この答申案を取り上げた新聞記事を見ると、読むべきところを読んでいるのだったら、総花的でもいいのかなと。要するに、ここに書いてあるのは、テレビやゲームに対するあれというのは非常に画期的な、この委員会の功績だと思います。これは自由とのギリギリの境目ですね。そこに口出しをするという、教育上の配慮から口出しをするということです。これはすばらしい提言だと思います。
 国語のことについては、これまでも言われていますけれども、今回はもっと切り込んで言っている。これも大変評価できる、すばらしいことです。
 あと家庭教育とか、道徳教育ですね。道徳教育に関してはちょっと具体性が乏しいのが残念ですね。というのは、道徳教育というのは、それに反対する人はいないわけで、その具体の部分でいろいろ問題が起きているわけです。本当はここでその指針を指し示してやれば、私が前に言ったとおり、礼節とか、そういうのもありますし、勇気とか、正義感とか、卑怯を憎む心とか、あるいは家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛ですね。そのようなことをはっきり、果敢に指摘すべきだと思うわけです。
 今言った形ぐらいに、重要なところだけを抽象して取り上げていただけるなら、総花的でもいいのかなと。最初は非常に不満に思ったのですが、今、新聞記事を見て、じゃあいいのかと、そのようにも思ったのですが、ただ、どうしても直していただきたいところもあるということです。
 総じて非常によいと思うのですけれども、まず6ページですが、真ん中より少し下です。理科離れ、数学離れ、要するに好きではない者が多いとか、そういう職業に就きたいと思う者は、国際的に最低レベル。これは重大な問題になっているわけです。学力の試験は、2位との差が縮まっているとはいえ、ともかくまあまあのトップクラスをとっているわけです。
 これに関して、その次の10行ぐらいです。「このことの背景には、」以下、その10行です。特に最初の3行ぐらいです。本当に理科離れ、数学離れが起きていることは、世界でも最低レベルと、ここに書いてあるとおりです。そういうものに就きたい者がいない。これは日本が過度に記憶力を重視した画一的なものをやったからか。あるいは、「自ら学び、自ら考える力や、豊かな人間性」と歯の浮くような言葉が続きますが、これはおじけづくような言葉の羅列ですが、これがおろそかになってきたこと。本当にこの2行ちょいが、その本質だったのかということです。これは本当に討議したのでしょうか。私は、これは完全な誤りだと思っているわけです。ここから離脱しない限り、日本の教育は立て直せない。立て直せないと、経済も、政治も、すべて立ち直りません。ここが本当の正念場のところです。ここは本当にしたのかどうか。しかし、これについて話し合うと、これまたそれだけで1年以上のことになってしまいますから、私はそこは削除していただきたいと思うわけです。
 例えば、具体的に申しますと、中等教育においては、確かに過度に記憶力を重視したという側面もありました。しかし、初等教育を考えてみますと、漢字を覚えるとか、読み書きを教える、九九を教える、こんなものは強制的かつ画一的にやる以外にないわけです。そのようなフォトグラフィックメモリーのすばらしいうちにたたき込む。要するに、考える力も何もないわけです。とにかく知識でたたき込む、強制する。これしか小学校にはないです。そのような教育を初等教育に取り戻さない限り学力回復はあり得ないわけです。まずそこです。
 それから、理科、社会が嫌いになったというのは、本当にそうなのかということです。自ら考える力がないから。本当にこれは信じられない解釈です。
 私なんかこれに関しては、文部省がここ10数年とってきた個性の尊重というのが最悪の犯人だとにらんでいるわけです。学校及び家庭における個性の尊重です。なぜなら個性というのはほとんどが悪い個性なのです。ほとんどの子どもの個性というのは踏みにじらないといけない個性なわけです。例えば、親の手伝いをしたくない、苦しいことを嫌がる、宿題をしたくない。誰だってそんなのは当たり前のことです。それを押さえ込む。それが最も重要なことです。良い個性を伸ばすなんていうことは当たり前中の当たり前で言う必要もないわけです。ピアノがうまい、絵がうまいとか、あるいは親孝行とか、すばらしい個性はいっぱいあるわけです。
 その結果として、先生と生徒、あるいは親と子が友達になってしまった。したがって、教育力を両面から失っている。
 そういうことになると、例えば子どもが疲れていたり、テレビを見ていたら、子どもに対する人権の尊重、個性の尊重ということで、手伝わさない。しかし、幾ら疲れていようと、雨戸を閉めさせる、寒風の中にお使いに行かせる。そのような教育が昔から日本にはずっとあったわけですね、当然のこととして。それがないと忍耐力とか、我慢力が当然減退するわけです。ここなのです。忍耐力とか、我慢力の減退です。数学や理科が好きなものが最低レベルと言うけれども、本当はこれよりもっと大きなことは、本を読まないということなのです。小学生、中学生、高校生が本を読まないというのは、数学、理科が嫌いだということより、はるかに大きな、決定的な事実、これを突き付つけられているわけです。それを改革しないといけないわけです。特に教養教育の点からは絶対的なテーマです。
 読書がだめになって、数学がだめになって、理科がだめになった。この三つのものの共通部分には何があるか、本質は何かと申しますと、これは忍耐力、我慢力なのです。なぜなら国語の教科書、社会の教科書を読むのは、忍耐力、我慢力は必要がない。しかし、数学の教科書、理科の教科書は、1行1行理解して、問題を解こうとしても解けません。難しいです。解けないことというのは非常な苦痛です。
 例えばテレビを見る、漫画を読むのに比べて、読書で1字1字拾っていくのはとても苦しいことです。これは忍耐力とか、我慢力を取り戻すということ。その裏には、さっき言ったような個性の尊重、先生と生徒が友達とか、ほかにもあるわけです。このような流れの中で、低落が生じているというのが私の解釈です。自ら学び、自ら考える力、豊かな人間性、それから過度に記憶力を重視した……。むしろ今、初等教育においては、記憶力重視の路線に転向しないといけないわけです。今、世界的に見ても、例えば理・数の時間数が最も少ないという統計もあるわけです。
 したがって、ここに書いてある理由はとても容認できないことです。もしもこの委員会でよく話をして一致した見解ならば、それなら当然、私は少数意見なので無視されて結構ですが。
 例えば、この削除が忍びないのだったら、この中でもいい文章はあるのです。例えば、今言った「このことの背景には」からは除いて、その5行目、「このような反省に立ち」から、次の「生きる力」云々を全部飛ばして、「生涯にわたる……」以降を生かすわけです。「このような反省に立ち、生涯にわたる教養の基盤の形成に向けて、基礎的・基本的な……とともに」、これは非常に良いことが書いてあると私は思うです。「基礎的・基本的な知識や技能」というところを、後に出てくるようにここは「読み・書き・計算」としてほしいわけです。これは幼・少年期の部分ですから、幼・少年期においては、理科も社会も重要ではありません。国語が断トツに重要で、その次が計算なのです。したがって、ここははっきり、「読み・書き・計算を確実に修得させるとともに」、あとはそのままで。そのようにしていただければと思います。
 さっき言った、私が非常に反発している2行ちょっとは、1980年代までにアメリカがやっていた教育で、それは失敗に帰して、90年代ぐらいから捨てられた教育なわけです。
 7ページの四角囲みの「◇」の1番目の「テレビやゲーム」云々、これはすばらしいです。
 下の「2」の「確かな基礎学力」、これも私は非常にすばらしいと思いました。
 8ページは問題があるところでして、一番上の「◇」は、「読み・書き・計算」と出していただいて、これは非常に良いわけです。その後に、「このため、社会人や大学生」云々と4行ぐらいあるわけですけれども、これは上の「読み・書き・計算などの基本的な事項を徹底するため、反復練習とか、課題とか、放課後の個別指導」とあまりにもマグニチュードが違うのです。重みの違う横綱と序の口みたいなものを並べて書いてあるわけです。序の口の部分がどうしても必要なら、どこか別にやってもいいですけれども、時々このようなウエートの違い過ぎるものを並列させるのは、奇異に思いました。
 それから、文部省等のあれには、常に基礎学力をつけるために、「きめ細かな指導」というのがあるのですけれども、「きめ細かな」というのは広い言葉ですから、その中に入っているかもしれませんけれども、ここは私は要求しているわけではありませんけれども、「きめ細やかで厳しい」という一語が本当は欲しいのです。やはり厳しさを、特に初等教育では取り戻す。中等、高等は全然違います。だんだんに考える力とか、そういうものをどんどん育んでいく。初等とは全く違うということを色分けをしないといけない。
 2番目の「◇」は、「国語教育や読書指導」ということで、これも中心的なところだと私はにらんでいるわけですけれども、ここは「国語教育を一層重視する必要がある」とあります。しかし、私は重視されているとは今まで思ってきませんでした。「一層重視」とすると、今までも重視してきたかのごとく誤解される可能性があるわけです。したがって、今まで重視したという意味は、算数や理科や社会、その他と同等に重視しきている。要するに文部省はすべてを重視しているわけですから。しかし、初等教育というのは違うのです。ほかを軽視してもいいから、国語だけを特に徹底的に重視するという意味ですから、「一層重視」という意味は全く違うわけです。
 しかし、前に申しましたとおり、現在、国語の授業ほど小・中・高を通じてつまらない授業はないのです。したがって、質も変えなければいけません。量は徹底的に小さくなっています。算数や理科や社会等と一緒になって小さくなっています。やはりここも「質と量の両面での充実」です。私は本当は「飛躍的拡大」とやってほしいですけれども、これはたぶん嫌がると思いますので、「量と質の両面で充実」と、このように質と量、両方を拡大しなければいけないということです。
 それから、素読、暗唱、朗読は本当にすばらしいことで、良い提言だと思うのですけれども、ほかにもここのところに入れてもいいかなと思うのは、「教材への古典の積極的導入」です。今、つまらない国語の先生が作文したのがどんどん入っているわけです。ああいうのは子どもの学力に合わせたのですけれども、子どもがたとえよくわからなくても、きちんとした作家とか、詩人とか、昔の教科書はそうでしたね、そういうものを載っけて、わからないまでも何となくわかるということも重要ではないか。「教材への古典の積極的導入を図る」ということも入れていただければありがたいとは思うのですけれども。
 それから、「素読」の前に、「名文や詩歌などの」という言葉を入れたほうが、何を素読、暗唱、朗読かということになるので。言わなくてもわかるといえばわかるかもしれません。「名文」のほかにも、日本の生んだ短歌とか、俳句とか、日本人の独創性をあれするすばらしい文芸があるわけですから、そのようなものの素読ですね。
 それから、先ほど委員がおっしゃったことですが、ここに「討論」ということも入れたほうがいいのです。なぜか。国語において論理的思考を養う。数学や算数では論理的思考は養えません。それは数学における論理と日常の論理とは全くかけ離れたものです。したがって、国語において言語を通して論理的思考を学ぶというのが最も正解なわけです。そういう意味で、論理的言語の応酬としての討論です。ディベートです。それとか、論理的言語をもって主張する作文です。生活作文だけではなくて、物事を主張させる作文です。これはまさに論理的思考の醸成に最も良い方法です。このようなことをここに入れてくれれば、これから後のいろいろな審議会、その他家庭で、国語教育の内容をどのようにやっていくかというときの一つの指針を与えてやることになるのではないかと思うわけです。
 9ページの真ん中の道徳教育のところは、先ほどちょっと述べましたが、具体性があればよかったなという感じがしたわけです。具体性は、例えば「道徳教育の充実」という「◇」の2行目に、「必要な基本的態度を育てる」とありますが、「基本的態度や情緒を育てる」。道徳教育には「態度」だけではいけないのです。
 さっき言ったとおり、勇気とか、正義感とか、家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛、このカルテットですね、この四つのものをきちんと教えない限り、日本は再生できないわけです。これは世界中どこの国でも、家族愛、郷土愛、祖国愛というのは、アメリカだろうと、イギリスだろうと、フランス、ドイツ、中国、韓国、どこでもやっている。日本だけがかなり欠けているところです。それから人類愛です。それから、卑怯を憎む心です。これがない限り、いじめは絶対にやみません。どんなに「みんな仲良く」とか、カウンセラーを置こうと、こんなものは全くの無効です。「卑怯を憎む心」というのは、これは武士道精神からきているものです。これを教えない限りうまくいきません。あと、例えば他人の不幸に対する敏感さ、感受性を養う。これは特に貧困というものがなくなった日本において、非常に重要な情緒です。こういうものもきちんと……。
 したがって、道徳教育の中には、態度はもちろん必要です。それと同時に、このような情緒です。そのような具体性を持つと、これからの具体論を決めていく審議会等にいい影響を及ぼすのではないかと、そのように思うわけです。
 それから、11ページの下のほうの「読書の推進」と「科学技術・理科教育の推進」はすばらしいと思いました。この部分は、たしか中等教育ですね。私は、初等教育では科学技術とか、理科教育は全然評価しておりません。しかし、中等教育から逆にだんだんにこういうものを強化していかなければいけないわけです。逆に国語教育はだんだんに弱くしていく必要があるわけです。算数、数学もそうです。高等学校へ行ったら、両方とも選択にしてよいと思っています、国語、数学は。理・社は、きちんとでき上がった国語とか数学の上にでき上がるものです。環境とか、福祉も同じことです。こういうものの上にでき上がるから、それは中・高のほうで強化すべきで、小学校で強化すべきものではないわけです。
 12ページは、上から3分の1ぐらいの「◇」、これは大学教育ですね。「大学での学習や将来の職業とのつながり」云々のところで、2行目に「学ぶ意味を考えさせる上で、企業等でのインターンシップなどの体験学習を」ということです。私はここは首をひねらざるを得ないのです。要するに、そんな暇はないのです。大学は、最後の勉強をするチャンスなのです。もちろん生涯教育と申しますけれども。会社に入ったり企業に入ったりということは、大学卒業と同時に、一生しなければいけないことを、何で急いで……。インターンシップで会社に行って、どうして学ぶ意味がわかるのか。今の学生はほとんどがアルバイトばかりしていて困っているわけです。それよりもクラブ活動とか、勉強とか、そういうものをきちんと身につけるべきときに身につけるべきです。これは初等、中等、高等、すべてにおいてそうです。このようなものには、私は原則としては反対しております。一見聞こえはいいですが。
 総花的であることの本質だけを国民とかマスコミはとっていただければ、それでいいとはおっしゃいますが、やはりこれまでの審議会の陥った最も大きな誤謬ですね。1週間の時間数が20数時間という、またそこに抵触してしまっているわけです。要するに、インターンシップもよい、あるいは海外協力隊に行くこともよい、それから留学もどんどん奨励せよとか、それに英語は高校を出るまでに日常会話をこなせるようにとか、ボランティアもしなさい、芸術も深めなさい、後々どんどん出てくるわけです。週20数時間でこれほど……。一つ一つとれば、どれもすばらしいことです。しかし、すばらしいことを全部はできないのです。したがって、良いことを全部並べる。それが総花です。ちょっとその誤謬に陥っている。やはりいいことを強調する。そのような視点が必要ではないかと思うわけです。
 例えば、13ページの一番上の「高等学校を卒業した時点で」と、これですね。これははっきり国民は、不可能だということを認識しないといけない。高等学校を卒業した時点で、日常生活の会話ができるような力はつきません。それをするには、週に12時間程度。今、例えば中学校では英語が3時間です。こんなもので高校卒業までにできるわけがないのです。しかし、12時間やったら、ほかのものが一切つぶれます。英語の専門家に聞いても、この部分は全く不可能と、ほとんどだれも言います。もし本当に日常の英会話をできるようにしようと思ったら、ここに書いたことが全部台なしになってしまうわけです。したがって、特別な人に特別な訓練を与える場合には別ですが、日本人すべての国民が高校までにしゃべることは不可能であることをはっきりしない限り、いつまでもこの問題は、ここ何十年も日本の教育関係の方は悩まされてきているわけです。それほど日本人にとって英語は極端に難しいのです。
 それから、14ページの大学における教養問題の4行目、「法科大学」というのがまだ出ております。その2行目の「専門性の向上は大学院を主体にして行う」ということは良いことです。これをしない限り、大学での教養教育は不可能であります。しかし、法科大学院と、どうしてこれだけを出すのかということです。あるいは、今、文部省の進めているロースクールとか、ビジネススクールですね。どうしてそこにいくのかということです。こういう現実路線と申しますか、実学的な部分ですね。というのは、専門性の向上というのは、数学も、物理も、文学も、哲学も、歴史も、何もかも全部あるわけです。どうして法科大学というのが突然出てくるのか、これは腑に落ちませんでした。
 それから、17ページの一番上の「◇」で、「各大学において、社会貢献活動やボランティア活動などをサービスラーニングとしてカリキュラムに取り入れることや、長期間のインターンシップを……奨励したい」と。これも本当にこの審議会で言ってよいことか。私はこれに対して責任を負えないわけです。先ほども申しましたとおり、学生時代にしかできないこと、もっと重要なこと、特に教養に関して重要なことが山ほどあるわけです。これは私がアメリカの大学で3年教えていたころのことを思い出しますけれども、サービスラーニングというのは何だか知りませんけれども、要するにアメリカでそういうものを片っ端から高等学校で単位にしていたわけです。そのおかげでアメリカの大学生の基礎学力、特に英語、それから数学は惨憺たるものでした。今の日本の大学生はそれとほとんど同じレベルまで低下しております。その二の舞をねらっているので。ここのところは、もし書きたい人がこの中に半分以上いるとしても、せめて「各大学」からの2行目ですが、「各大学は柔軟な履修制度を整える必要がある」と。「学生が社会や異文化との交流に積極的に参加する機会を拡充するため、各大学は柔軟な履修制度を整える必要がある」、その程度にしていただきたい。これほどはっきり書かれてしまうと、これはちょっとということですね。
 17ページの「第3節」以降は、私ははっきり言って、つまらないと思いました。当たり前のことが書いてあるのですね。その前までは、この審議会ならではのすばらしいことを、あちこちに散りばめていると思いますけれども、それ以降はあまりエクサイティングには思いませんでした。

○ ワーキング・グループのメンバーでしたので、全体的によく書けているのではないかと思っていたのですけれども、幾つかの御指摘をお聞きしていて、なるほどなという気がしているところもございます。
 先ほど委員が御指摘になった点は、何回か前の教育課程審議会で、ある委員が簿記を必修科目にしたらどうだという提言をされました。そのときはよくわからなかったのですけれども、その後、個人的には大変大事な提言だったのだなと思い返しているのですが、もしかするとそのようなことを考える時期がきているのかもしれません。
 それから、委員のおっしゃった言葉は、私も大賛成でして、意識的に書き方の中に入れるというのは大事だと思いますので、ぜひ御検討をしていただきたいし、自分でもしなければいけないと感じました。
 それから、今の委員のお話は、総花的であるということについて、まあまあしょうがないかなとおっしゃっていただいたので、ほっとしたのですが、現場で子どもたちを指導している経験からいうと、一人一人子どもによってものすごく違うのです。ですから、今おっしゃったように、発達段階での心理学の用語で言うと、インダストリー、つまり勤勉性、それを育てるには一番いいのがドリル学習だという一つの考え方があるのです。それが普通は12、13歳から14歳ぐらいまでのところはインダストリーを重視すべきだという考え方が基礎にあるわけです。そういう意味では、委員の御指摘は確かに正しいのですが、実際子どもたちを扱っていますと、年によって、あるいは一人一人によって、本当に違うのです。それに対しては、結局、個々に対応していく方法以外にないのです。勤勉性を中心にしてやっていくことに耐えられないほど早く成長してしまう子もいます、中学1年の段階で。中学校を終わるぐらいまでそれがかかっている子もいます。ですから、なかなかにその辺は難しいのではないかという気がします。
 日本の学校教育の制度そのものが、初等中等、高等教育という段階になっているのですけれども、それと子どもの発達が少しずれているところもあると思いますので、書き方としてはこういう書き方をしていかないと、やりようがないのではないかという感じを率直に持ちます。
 あえて委員のお話を入れるとすれば、子どもによって違うということと、発達段階という指摘を書き込むかどうかということなのかなと思っているところでございます。
 それから、最後の成人教育の教養のことは、内容については全然だめだという御指摘がありまして、そういう意味ではそうなのかもしれませんが、教養教育をこれから提言しようという場合には、死ぬまで教養教育は続けなければならないというはっきりした意思表示をしておく必要があると思いますので、内容は検討していただいて、直すべきところは直す必要がるのかもしれませんが、この部分はぜひ残していただきたいと思っております。

○ 今の御意見で、私が我慢力とか、忍耐力と申し上げたのは、理科や数学の嫌いな人が増えてきた、読書をしない人が増えてきた、それの原因分析として申し上げたわけです。それは中・高では実は手遅れなのです。幼少期における家庭教育ですね、嫌なことをどしどし子どもに強制するというのは。それから、初等教育、学校、家庭です。中学では全くもう、それから強制したら、逆に殴られてしまいます。本当の勝負は10歳ぐらいまでの、特に家庭、それからちょっと学校、3対1ぐらいでしょうか。そういう意味で、そこのところは先ほど申し上げましたとおり、理科や数学や読書が嫌いになる、その理由として申し上げたわけです。それを取り戻さない限り、学ぶ力、創造性云々ということを幾ら言っても、何の関係もない話だということを申し上げたわけです。

○ 私も委員の言うのはもっともだと思いますけれども、一つ全体は、さっき別の委員も言ったように、強い人間、主体性を培っていくことを前提にしているし、厳しいさということも言っていると思うのです。僕は委員には多少異論がありますけれども、例えば個性は取り上げるとか、厳しい教育とか、暗唱を大切にする、それはもっともなのだけれども、そういう教育をものすごくやったことによって、確かに忍耐力も、基礎学力もついた子はたくさんいると思うのだけれども、それによって傷ついてしまった子も、歴史的にたくさんいるわけです。
 典型的なのは、1960年ぐらいまでのパブリックスクールはまさにそういう厳しい教育です。ところが、結果として何かというと、ソーセージのつまり金太郎飴のプロダクションだといわれる批判もあったのです。つまり、同じような人間をつくっただけだとか、それから自殺したり、逃亡したり、やめているということもあります。パブリック・スクールのタフな教育も光と影の面はあると思います。そのことの反動として、1970年代の学生運動とか、ポップカルチャーが非常に出てきたのだと思います。
 だから、委員のおっしゃることは、私、よくわかるし、安易にすべてのものを寛容する社会になってはそれは教育ではないということはよくわかるのだけれども、それの反対側にあまりにもいくのは、委員もそうお考えになっていないかもしれないけれども、このトーン自体は、どっちかというと強い人間になっていくということをしているから、まあ、一遍我々は寛容革命の社会の中に生きちゃったわけだから、ずうっと暖房で育てて、今さら急にコールドシャワーをしろといっても、少しきつすぎるのではないかと思うのです。
 しかも、このトーンの中にはそういう厳しさということ、記憶力は大切だということは言っているので、そうそう委員がおっしゃるほど、寛容社会の中の教育にダラダラ流れていないのではないかと思うのです。
 細かいことですが、私が思ったのは、さっき別の委員もおっしゃったのだけれども、6ページの「科学的なものの見方」というのがよく出てくるのだけれども、要するに科学というのはどのような意味で言っているのだろうか。自然科学的な実証主義の意味で言っているのか、科学といっても解釈主義みたいなものもあります。要するに論理的としたらいいのではないか。科学的というと、科学観というのはすごく揺らいでいると思うのです。1950年ぐらいだと科学というのは論理実証モデルだということで一義的だったと思うのですが、私は「論理的」とすればいいのではないかと思うのですが、そこはまた教えていただきたいと思います。
 新聞記事では、7ページのところが非常に評価されていたと。「テレビやゲームに費やす時間を制限する」。私はどうなんやろかなと思うのです。「時間を決めて」ぐらいのほうがいいのではないか。「制限する」というのは、いかにも後ろ向きというか、「時間を決めて」ということが大切になるのではないかと思うのです。それはこういう形の提言のほうがいいのだということであればいいのですが、私は「制限する」ことではないと思うのです。
 それから、14ページの下から2行目、「人間的な触れあい」というのは、あまりにもポピュラー過ぎる感じの言葉になってしまったので、「語りの場」とか、そのようにしたほうが多少新鮮ではないか。
 それから、先ほど委員がおっしゃったように、「社会秩序を構成していく」というのは、何か守旧的で、「良き社会を目指して」とか、「……つくっていく」というのは、私も賛成です。

○ 私、いつもこの会で、自分でいろいろと考えてきたことは、どちらかというとこれを受けて、学校でどう考えるかとか、あるいは教育の現場でそれをどうとらえていくかという視点でずっと見てきたわけです。
 いろいろ御意見をお聞きする中で、総花的ではあっても、今後の教育の支えるという意味では、今回の答申は非常にすばらしいという感覚を持っております。一方においては、先ほどの委員に賛成する部分が大変多いわけで、私、個人的には国語に関係しておりますので、すべてそういうものを認めたい気がいたしておりますが、それはそれとして。
 私がここで一つ気づきましたことは、「教員の力量を高める」という9ページのところでございますが、全体的に教師の力量を高めるということで、4行書かれておりますけれども、小学校においても、中学校においても、教師の力量あるいは意識といったものが、教育の中身を決定づけるわけですが、家庭が原点ということが中教審で出されて、最近、これが教育界で大きなキーポイントになって、私どももこれをしかと受けとめていきたいという気になっているのですが、どうしても教師のところですね。教養教育の立場からどうあるべきだということを、ここでは教養を磨くことが必要であるという一言で出ておりますが、もうちょっと一言、教養教育の精神を汲んでのようなとらえ方でつけ加えていただけたらと思います。
 教師が一番正義感とか、勇気とか、嫌なことを言わない、正しいことは正しいと、価値、規範をきちんと子どもに言うというのが大変弱いわけです。校長会、あるいは校長の中にも、嫌なことは言わないのがいいという空気が、どこの社会でもそうでしょうけれどもあるわけで、いきなり学校評議員制度を持っていって、いろいろ説得しても、自ら働きかけてというところは、教育社会あるいは教員世界には弱いわけで、教師の意識といったようなものも、ここできちんと押さえるというか、言葉を強めていただきたいという気がします。
 先ほど委員からも出ておりましたディベートの問題でも、学校でも相当入れておりますが、こういった問題は、日本人は相手のことを言うと人格まで否定してしまうということで、ディベートとして意見の交換は苦手なのです。教員社会においてもまさにそういうことで、子どものディベートのほうがずっと進んでおります。教員社会、あるいは我々の教育関係者の中でも、議論のやりとりが難しいということを実感しております。そういった意味におきまして、教師の意識というところを一言つけ加えていただいたらという気がしております。

○ 私も教師とのかかわりの中で、9ページですが、「教員の力量を高める」というところがありまして、このとおりだなと思いますが、少し強調してもらったらどうかなと思います。「5」の「教員の力量を高める」の2行目のところに、「教員一人一人が、生涯にわたって」云々とあります。教員一人一人が教養の持つ意義を自覚しながら授業に当たってもらいたいという気持ちを強く持っております。今回の中教審のテーマは、子どもから成人までかかわっていることを考えますと、特に教育活動の中で、教師自身があまり教養ということを意識してこなかったものですから、触れていただけるといいのではないか。
 大学の関係ではそれをつけてくださっておりますので、なおのこと子どものほうにもバランス上加えていただくとよいのではないかと思っております。大学の意識改革が必要だという文言が、14ページの真ん中あたりのアンダーラインのあるところにあります。「教養教育を担当する教員の意識改革なしには」というのがありますけれども、小・中学校、高等学校等についてはこういう文言が出てきませんが、少なくとも義務教育の段階ではそういうことを意識して授業に臨むことが必要ではないかということで申し上げます。
 いま一つ、委員のお話を伺いながら思ったことでありますけれども、我慢、忍耐の件であります。私もある意味では、伺っていて全く同感といいますか、そういう感じを持って日々過ごしているものですから、ちょっと触れてみたいと思ったわけであります。ワーキング・グループのときにちょっと申し上げたのですが、私どもは夏休みに、教育委員会事務局の職員で小学生を持っている親御さんに話をして、お父さん、お母さんの職場を見学した後、教育長室に立ち寄ってもらうという小さなイベントを行っています。そういう中で、私が一番驚きましたのは、教育長室のテーブルで10人くらいの子どもたちと1時間、2時間会話するのですが、「算数の好きな子は?」と聞きましたら、非常に少なかったのです。私は、小学校時代は算数の好きな子が非常に多いというイメージをもっていたものですからいささかショックでした。今、嫌いな子どもが多いということもデータの上では承知していたのでありますが、自分の認識の中では、これほどと思っていなかった。
 子どもと話をしていまして、どうして算数が好きでないのかと聞きましたら、「面倒だから」と言いました。これは読書もほとんど似たような感覚ではないかという意味で、先ほどの委員のおっしゃるのは、誠にそのとおりだなと思ってお聞きもしていまして、この辺をどう学校教育の中で立て直していくかというのは大きな課題だと思っているわけです。今回、こういう答申を出していただければ、非常にありがたいと正直思っております。
 別の委員からも、あまりそうかといって、教え込み過ぎて、たたき込みになって、子どもが傷ついている子もいますよという指摘もございました。これもまた事実でありまして、学校教育においてそういう両面をどうこなすかということが課題で、そこに教師の存在の意味があると思っています。教師が本当に専門性を発揮して、子どもの意欲をかき立てるような授業展開をすれば、かなりハードなものでも子どもは喜んでついていきます。ただ上から叩きっぱなしですと、やはりだめになってしまいますけれども、子どもたちを見ていて、指導者によってこんなに能力を発揮するのかという例をいっぱい見ています。我慢強さ、忍耐を要求しながらも、それがなおかつ子どもたちに充実感となる、そこに教師の働きがある。教師の力量を高めるというのは、そういう意味でやっていきたいと思います。

○ 先ほどの委員の意見の中で、これは相当議論しなければならないという感じを受けたのですけれども、6ページの下から10行目のところの4行ぐらいを、ぜひ削除すべきだという御趣旨の御意見がありました。ここのところは今、教育界全体の中でも相当議論が分かれておって、一方では、来年4月からの学習指導要領での内容の3割削減等はやめるべきだということで、指導要領の全面実施に待ったをかける、あるいは完全な学校5日制はまだ尚早で、現在の隔週2日制ぐらいに戻すべきだという意見とも絡んで、ここのところをあいまいにしておくと、これが現場におりたときにどういう影響を与えるのかなということを、意見を聞きながら感じたのです。
 ただ、この4行をとるということは、これまでの臨教審の答申以降の個性重視とか、多様性の問題とか、ずっと15期以降の中教審も基本的にはこのスタンスに立ってきているので、ここのところは相当内部的に議論を深めないと、簡単にここを取るか取らないかというのは結論は出ないと思うのですけれども、一方でそれは全く承服できない、責任を負えないという御発言がある限りにおいては、もう少し議論を詰める必要があるのではないか。
 というのは、5ページの下のところの五、六行ですが、「中央教育審議会では、上記のような観点に立ち、これまでの教育改革の成果を検証しつつ、新しい時代に求められる教養教育の実現のための方策を検討してきた」というけれども、「教育改革の成果を検証しつつ」というのが、端的に臨教審答申、あるいはもっと前の89年の指導要領の改訂等以降の問題が議論になっているわけで、その辺のところについて、ここでは「検証しつつ」と書いてあるけれども、具体的にはどういう検証をしたのかというのは、ほとんど出ていないのです。
 強いて探せば、「はじめに」のところに、あまりにも効率を重視してきたというような表現で、これは教育改革とばかりは限りませんけれども、あるいは大学入試の在り方が非常に影響しているとか、そのようなことは言葉として少し出ていますが、本格的にここ20年ぐらいの日本の教育改革が、本当にそれでよかったのか、あるいは問題をこういう点で残しているのかというところについては、あまり議論らしい議論は、私の記憶を整理してみても、ないのです。そこをあいまいにして、なおかつ委員がおっしゃるように、6ページのところを削るか削らないかということは、ワーキング・グループだけでは非常に荷が重いのではないか。ただ、時間的には相当切羽詰まっているので、どのようにしたらいいか、私も名案はないのですけれども、恐らくこれを削るということについては、そう簡単にできる話ではないと私は推察しているので、御意見があれば、それを聞かせていただいた上で、これはこのまま放置はできないという感じを持ったということだけ申し上げておきます。

○ 今のところで、さっき委員が削ったほうがいいと言って、私は削ってもそんなに問題ないような気もするのですが、要するに、どちらもそのとおりだと思うのです。なぜかといったら、記憶力を重視した教育が創造力につながるというのも正しいし、画一化につながるというのも正しいのです。それは簡単なことで、すごく勉強できる子というか、余裕のある子は、記憶力重視の教育をやったって、創造力につながっていくのですけれども、真ん中から下の子にとっては、記憶力重視みたいなものをやったら、それでアップアップなのだから。生徒というのは別に一枚岩ではないので、それを延々に論争しても無意味で。だから、生徒はいろいろな生徒がいて、特に真ん中から下にいる生徒にとっては、こういう教育をやったら、それはおもしろくも何もない。上の生徒にはいいと思いますよ。
 ただ、別の委員が言われたように、先生の力があるから、ある程度はどっちでも持ってこれると思うのです。そういう問題ではないかと思うのですが。

○ 6ページの部分は、一般の教育論を述べているのではなくて、初等教育を中心に言っているのです。幼・少年期です。幼・少年期は、先ほど申し上げましたが、一般の中・高・大まで含めたらおかしいです。しかし、特に小学校を考えると、読んだり、書いたり、計算したり、はっきり言うと、漢字とか、九九とか、分数・小数、これほど退屈でつまらないことは世界にあり得ないのです。これは批判力のつく前に、小学生、しかも記憶力抜群のときにたたき込む以外にない。それは苦痛ではない。我々がそのようなことをされたら、それは苦痛以上のものですが、小学生にとってはそれは何でもない。それはずっと日本が伝統的にやってきたことである。したがって、「読み書きそろばん」と言われたわけで、これは千年前も正しいし、現在も、千年後も正しいということです。その原点を忘れてしまうと、世の中の動きにつられて、いつも、さあ、さあ、さあとなるのです。これは流行を追わず、不易をきちんと貫く、ということです。これは初等教育のことを主に言っている。12歳くらいまでは、これは当然知識をたたき込まないといけないと思うわけです。
 それから、先ほどあまり厳しくすると、自殺が増えるとか、パブリックスクールのことがでましたが、ちょっと私には意外でした。パブリックスクールで自殺が多かったというのは私も知っていますけれども、一流のパブリックスクールでは、先生あるいは寮長が杖で子どもたちを殴るとかはありましたが、最も大きいのは、12歳という年齢で親から離れるということだと思います。大体が全寮制で、各寮で自主管理みたいなことで、上級生によるいじめ、あるいは使い走りとか、あるいはこれはあまり出てきていませんが、ホモセクシャルの流行、そういうものの強要とか、いろいろなものがあるわけです。
 厳しいから自殺という点は、これはとてもコントラバーシャルなことです。それなら日本は今、たるみにたるみきっています。しかし、もっとたるんでいるアメリカはどうなのか。アメリカは自殺が日本よりもっと多いわけです。厳しい教育をされていた戦前の子どもたちに自殺が多かったと聞いたことがありません。厳しさと自殺との関係は、全然次元の違う問題だということです。確かに、パブリックスクールはある程度自殺はありましたけれども、どんな教育でも功罪というものがあるわけです。しかし、イギリスの現在は、パブリックスクールの卒業生たちがイギリスを担ってきたおかげです。あのような階級社会においては、それ以外になかったという面もあります。したがって、パブリックスクールを例に出して、厳しいと自殺するとか、厳しいと傷つくとか、私は理解できません。むしろ日本では近年、学校でも、家庭でも、子どもを傷つけてはいけないと、過保護にしてきたわけです。戦後、特にここ20年間ぐらいに対する猛省を促したいわけです。というのは、子どもは傷つけられたり、傷つけたり、そういうことを通して、情緒力、あるいは我慢力が培われていくわけですから、あまりにも過保護にするということはうまくないのではないか。そのような意味で、パブリックスクールを出して、厳しさと自殺とを結びつけるのはちょっと意外であったということ。

○ 私も、委員の御意見を伺っていて、そして「幼・少年期における」というところを読み直してみて、6ページの下のほうは、この時期の教育としては、個性や能力云々というのが強く出過ぎていて、もう少し慎重な書き方をしたほうがいいのではないかと思います。ただし、たたき込んで、忍耐力、記憶して云々ということばかりをあまり強調するのも、私はためらわれます。自分のことを申し上げて、非常に恐縮ですが、私は自分の考えというのを子どものころから持っていたような、周りからそう言われまして、幼稚園のときにみんなで並んでお遊戯をするのに、非常に反発した覚えがありますので、その時期でも子どもたちは個性もあり、発達の程度も違い、関心も違い、それを全く無視するというのは極端に過ぎるかと思います。6ページの下は多少見直すことに私も賛成です。

○ 鳥居分科会長
 委員がおっしゃってくださったのを受けまして思いますが、今、問題になっている6ページの下から10行目ぐらいのところの話が一番象徴的ですが、それ以外のところも含めまして、今回の中央教育審議会の答申が、どこが一歩踏み込んだところなのかということをはっきりさせるということがまず大事なのではないかと思います。今問題になっている点についていえば、今までの私たちの議論が、幼・少年期から大人になるまで全部画一的に議論をしてきた。だけど、それを人生のステージ、ステージについて、必要なものをはっきりさせるという書き方に一歩踏み込んだわけですから、そのことをもう少し鮮明にさせながら、今問題になっている6ページのようなところも、両方の意見が出ていますけれども、どちらもごもっともなわけですから、バランスをとって修文してみることにしてはいかがかと思います。

○ 6ページのところは、具体的に「このことの背景には……」というところの4行を切っても構わないと思います。
 「……姿勢に欠ける面がある。」、そして「現在、『生きる力』の育成に向けた取組が進められているが、」と続けて、「今後、このような視点に立ち、」は取りまして、「生涯にわたる教養の基盤の形成に向けて、基礎的・基本的……」とつなげれば、それでいいのではないかと思います。「生涯にわたる教養の基盤」というところがミソかなと。「基礎的・基本的な知識や技能を確実に習得させる」ということは、委員のおっしゃったことと矛盾しないし、その主張を肯定していると考えます。

○ それでよろしいと思うのですけれども、ただ、先生方がこういう姿勢を意識しておいていただきたいというのは、非常に大事なポイントではないかという気がします。つまり、例えば公立中学校の先生がまず最初に何をやるかというと、幾つかの小学校から出てきた生徒を集めて、中学校はやるわけです。そうすると、まずそれを自分の中学校に画一化しようとするわけです。小学校もかなりそういう面があるのです。いろいろな幼稚園から来た生徒を集めて、自分の小学校の子どもというので画一化しようとするわけです。これは現実としてあるのです。そのことがいろいろな問題を将来引き起こしているのも事実なのです。教えるということが、知識を伝えるというだけではなくて、人格形成に影響があるようなことまでやってしまっている、影響を及ぼしているという事実もあるものですから、今までの反省として、こういう問題があることは、先生方の意識の中で、画一的に自分の学校の型にはめようとする意識をなくしてもらう必要があると思うのです。そこをきちんとやりませんと、この改革の意味がほとんどなくなってしまう。その結末が、例えば数学は記憶する勉強なのだとか、理科の教科書を見ると、大事なことだけがゴシックで書いてあって、その項目だけ覚えれば理科の勉強をしたことになるのだということになっていってしまうのです。そのことをよく考えて、書き方を工夫していただきたいという気がしております。現実にそういう状態があるのです、先生方の意識の中で。

○ 6ページの「戦後、民主化の理念の下に、教育の機会均等を実現し」というのはこれでいいですか。実現されていないという立場の人たちもいると思うのですが。

○ 志村委員 「実現」でなくて、「増大」でしょうか。

○ そういうことですね。

○ 鳥居分科会長
 前半部分の長い長い物語を、この10文字ぐらいで言えるのか、「戦後、民主化の理念の下に」というのは。

○ いや、よろしかったらいいのですが。
 「実現し」というと、パーフェクトみたいなことですね。

○ 鳥居分科会長
 わかりました。ちょっと検討します。

○ 先ほどからの6ページのこの部分は、何度も繰り返しますけれども、初等教育を主にここは考えている部分だということを頭に入れて議論していただきたい。
 それから、「個性の尊重」というのは、私は文科省関係すべてから廃語にしていただきたいと、そのように思うのです。

○ それは近代の理念に反しますよ、そういうことを言ったら。憲法から何から。

○ いやいや、違います。私が言っているのは、子どものほとんどの個性は悪い個性ということです。「宿題を嫌い」「テレビやゲーム漬け」「親を手伝わない」「野菜を食べない」「弱い者いじめをする」などを言っています。ほとんどの個性は踏みにじるべきと言って、いろいろ顰蹙を買っていますが。
 先月、文化審議会のほうで文化庁の事務局が「個性に応じた教育」と言うので感心しました。「個性に応じた教育」ということはぜひ入れてほしいのです。これは本当にそのとおりのことです。「応じた教育」なら、遅れている子にも、進んでいる子にも……。この言葉をあちらこちらに散りばめていただけるとよい。「個性の尊重」と混同されそうなのが気がかりですが。

○ 木村副会長
 今までは全部、「個性に応じた教育」になっているのです。「個性を尊重した」ではないのです。ずうっと「個性に応じた教育」「個性に応じた教育」と言い続けてきているので、そこのところはたぶん問題ないと思います。

○ 先ほど委員がおっしゃったことに基本的に賛成でして、私自身を振り返ってみると、小学校4年、5年、6年のあたりは、先生に反抗しまくった。うちの息子もやはり同じような経歴をたどって、親子というのはこういうものかと思っているところがあるのです。委員のおっしゃったことに基本的に共感するところがありまして、2行目を全く削除するというよりも、また、別の委員のおっしゃった趣旨も踏まえて、表現ぶりを少し考えようがあるのではないかと思います。このまま残すとか、あるいは削除してしまうという機械的な処理ではなくて、もうちょっと表現に工夫の仕方があるのではないか。そっちの方向でお考えいただければありがたいと思います。

○ 私もひっかかるのです、3行目の「教育における平等性を重視するあまり」というのは。平等性というのは、初等中等教育において、過去ずっと教育現場では強かったと思います。平等性を非常に強く言っているということを実感しておりますので、最後の2行あたりはやはり残していただきたい文言の中身があるような気が自分ではするのですけれども。

○ 今のお話を伺っていて、確かに委員がおっしゃるように、記憶力を重視した画一的なものに偏りがちになりそうだということで、一所懸命逆のほうに振ってしまったというところがあると思うのです。それが振り過ぎている点もあるという指摘の仕方をしたらどうなのかなという感じもするのです。

○ 木村副会長
 それは後ろのほうに書いてあります。

○ 出ているのですか。あ、7ページの下のほうには出ているのですね。
 それから、もう一つ、殊に初等教育においては、反復練習みたいなものが必要な部分が非常に多いと思います。その場合に、先生方の教育の仕方をもう一遍直さないと、正しい反復教育ができないのでないかという気もするのです。日本人というのは割にマニュアルで動くというのが下手なのです。企業でもマニュアルで動くというのは割に下手だと思います。
 教育の面でも同じことだと思いますのは、私、なぜそんなことを言うかといいますと、アメリカに留学したときに、外国人のための英語のコースを取ったのです。そしたら、これは完全にマニュアル化されているわけです。先生が何人もいて、クラスが違うわけですけれども、それが完全にマニュアル化されていて、4ヵ月ぐらいたつと相当学ぶのです。私は、日本でこういう教え方をしてくれたら、今ごろ相当うまくなっていたはずだとその時に思ったのです。語学みたいなものは、別に考える力は必要ないのであって、覚えるほかにないわけですからね。教え方も相当変えないと、難しいのではないかという感じもするのです。もっとマニュアルを使ったような教育に持っていかないと、反復練習をうまくサポートするような教育ができないのではないかという感じがします。

○ 鳥居分科会長
 ありがとうございました。今の件は、8ページの上から2番目の「◇」の2行目に、「指導の良さを見直すべき」という言葉で一応表現しているのですが、この表現をもう少し工夫させていただいて、御指摘にこたえたいと思います。
 別件なのですけれども、10ページから青年期というのが書いてありまして、その1番目が「高等学校における教養教育」ですが、「高等学校における教養教育」の記述を見ていますと、一番大事な青年期に、人生観とか、歴史観とか、思想史とか、科学史とか、芸術とか、文学とか、もうちょっとそういうところに親しんだり、あるいは修養的な教養のためのいろいろな、能でも、剣道でもいいのですが、そのような類のことが一切出てこないような気がして、何とかならないかなという気がするのですが、御意見がありましたら、いただきたいのですが。

○ 私もその点につきましては、特に高等学校の部分が少し薄いかなと思っておりますものですから、同感であります。
 もう一つ、先ほどの6ページの関連ですが、委員の「幼・少年期」における意味でという話がございました。この3行も、今までの私の現場感覚からいいますと、こういう感じは実感としてもあるものですから、何らかの形で生かしたいという気持ちが正直あるのです。これは10ページの「高等学校における教養教育の課題」の下から5行目ほどにある「入学選抜の在り方が画一的」で云々というイメージとセンター試験などとが結びついて、国民の意識の中にもありますので、こちらのほうへ少し膨らませていただいて、6ページをカットするのもバランスとしてはよいのではないかと思ったものですから。

○ 鳥居分科会長
 その辺ところはちょっと修文をさせていただきたいと思います。
 そのほかには大きな問題はありませんか。
 この後、かなりいろいろな御意見を今日はいただきましたので、大手術を必要とするような部分が幾つかありますので、そういう覚悟で、木村先生と私とで事務局と少し文章を練らせていただいて、今日御指摘をいただきましたところを直したいと思います。ある意味では、御一任いただくというタイミングなのですが、どうでしょうか、この後のスケジュールからいうと、どういうことになりますかね。

○ 先ほど委員のほうから、14ページに「法科大学院」が出ているけれども、おかしいという御指摘がありましたけれども、私はそれは非常に強く反発いたします。それは議論してもいいのですけれども、そう議論することでもないような気も他面しております。
 つまり、法科大学院というのは法曹養成。法曹とは何かといいますと、身体上のお医者さんと同じように、人間の最も機微に触れ、生活上のトラブルとか、いろいろなものの相談に乗るべき存在なのです。そういう存在でありながら、そういう教育のシステムが今までなかったのです。法曹をもっと身近にして、社会生活上のお医者さんとして身の回りに持たなければいけない。そうすると、どこでどういう教育をするのかということで、それは基本的に豊かな教養を身につけた上で、専門性についても、一所懸命修得してほしい。それをやるのは大学しかないだろう。大学以外に、徒弟制度とか、そういうところでやる話ではないだろうということで、こういう考え方をとったわけです。これは日本にとって新しい大学院教育の一種の突破口になるのだろうと思っています。
 医学の先生方も、お医者さんもいずれはもっと教養を身につけて、今みたいに高校を卒業してすぐ医学部に入るのではなくて、なぜ自分が医者になりたいのかということを十分考えた上で入ってきていただく仕組みをつくらなければいけないという医学部の先生も少なからずおられます。それがメデイカルスクールということになっていくかもしれません。
 そういう観点から、ここのところはぜひとも御理解いただきたい。片一方は人間の身体上の機微に触れるわけですし、こちらのほうは日常生活の我々の本当にトラブったものにも直接触れる存在ですから、それを大学でぜひやらなければいけない。大学しか引き受けるところがないのではないかという趣旨で、一種の突破口みたいな形になっておるので、ここに「法科大学院」という言葉が出てきた所以だろうと私は理解しております。

○ 鳥居分科会長
 委員がおっしゃったことに関連して、ここをもう1回読み直してみると、14ページは、一番上にまず「大学における教養教育の課題」となっていまして、2行と2文字書いた後で、いきなりこれが出てきて、要するに専門大学院化の時代が来た、だから教養教育と専門基礎教育を中心に多くの学部はやる必要がある、だから教養だと、こういう論法になってしまっているので、このキーワードを出すのは早過ぎる。もうちょっと下のほうでこれを論じて、上のほうでは、そもそも高等教育全体の在り方はこうだ、だからその中で教養教育は必要なのだということを、一般論、抽象論として言っておいて、その中でも特に専門大学院もまた求められる時代が来ているからという書き方に、ちょっと修文をお任せいただけますか。

○ 全く同感です。おっしゃるとおりだと思います。

○ 鳥居分科会長
 それでは、時間もまいりましたので、また、大体皆様からいろいろな御意見を、今日はほとんどの方が強烈な御意見を出してくださいましたので、かなり抜本的な修正も含めまして、修正は分科会長である私と、この原案をお作りくださったワーキング・グループの座長を務められた木村先生と、そして事務局にお任せをいただきたいと思います。
 今後の進め方でございますが、今日いただきました御意見を十分踏まえまして、修正した答申案をつくりまして、どのぐらいかかるかわかりませんが、皆様に修文の結果をお送りします。その上で、文部科学省のほうで、どのタイミングでいわゆるパブリック・コメントを受ける体制にするか。ホームページで公開するのだそうですが、そういう体制に持っていきたいと思います。やはり一度委員の皆さんにお配りして、もう一度文書で御意見をいただいた上で、ホームページに載せる。つまり、皆さんにお配りしたものをいきなりホームページに載せてしまうのは危険ですから、そのようにしたいと思いますので、よろしくお願いします。
 1月の総会にこれを御報告するということに段取りとしてはなるわけですね。

○ 事務局
 鳥居分科会長がおっしゃいましたように鳥居分科会長、木村座長のほうで、本日の御議論を踏まえまして、文章を練らしていただいたものを先生方にお送り申し上げまして、それで御意見を伺いまして、その上で、文部科学省のホームページに掲載させていただきまして、国民の皆さんからの意見をいただく。それらの御意見を踏まえました上で、できれば1月の総会に報告して御審議いただければと考えております。その過程でいろいろまた修文等あるかと思いますが、必要に応じまして先生方のほうにまた案を配付させていただいて、御意見を求めるという形にさせていただけたらと思っております。

○ 鳥居分科会長
 というようなわけでありまして、この分科会として議論をするのは今日でおしまいにさせていただいて、今度は総会での議論に移りたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 それでは、どうもありがとうございました。
 これで閉会といたします。

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