ここからサイトの主なメニューです

教育制度分科会(第9回) 議事録

1.日時

平成13年11月20日(火曜日) 10時~13時

2.場所

文部科学省分館201・202特別会議室

3.議題

  1. 新しい時代における教養教育の在り方について

4.出席者

委員

 鳥居会長、佐藤副分科会長、梶田委員、木村委員、坂村委員、田村委員、永井委員、藤原委員、船津委員、横山委員

文部科学省

 寺脇生涯学習政策局審議官、名取主任社会教育官、山中生涯学習政策局政策課長、その他関係官

5.議事録

○ 鳥居分科会長
 ただいまから中央教育審議会教育制度分科会第9回を開催いたします。
 今日は、「新しい時代における教養教育の在り方について」、これまでのこの分科会の議論を踏まえて、木村副会長が中心になってくださってワーキング・グループで原案を作成していただいたわけでございます。今のところ「素案」と呼んでおります。この「素案」をもとに御審議いただきたいと思います。
 なお、本日は、答申の「素案」を審議するということで、会議の公開に関する規則に照らせば、非公開ということも考えられるのですけれども、今回の答申は、国民すべてに対して教養教育の重要性を示すという意気込みでやっておりますので、「素案」検討の段階から国民の皆様の間でも広く議論をしていただいたほうがよろしいのではないかと思いまして、私としては今日も公開にしてはどうかと思いますが、よろしゅうございましょうか。

〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

○ 鳥居分科会長
 それでは、そのようにさせていただきます。
 それでは最初に、ワーキング・グループの座長として答申の「素案」をまとめてくださいました木村副会長から御報告をお願いしたいと思います。

○ 木村副会長(ワーキング・グループ座長)
 本日、この23ページの「素案」について朗読することを考えたのですが、どうやっても50分はかかるので、20分から25分時間を頂いて、私の方から概略について御説明させていただくことに致しました。
 本日お手元に配付させていただきました答申の「素案」でございますが、これは、ただいま会長から御紹介がございましたように、私がワーキング・グループの座長として、6回ほどの御議論に基づいて骨子をつくり、それに事務局と共同で肉づけしたものでございます。ワーキング・グループの委員の方あるいはこの分科会の委員の方から非常に強い御意見を頂きますと、そこのところが強く入ってしまいますし、また、全体の文章の密度も、あるところが濃かったり、あるところが薄かったりということで、私自身もかなり直す必要があるかなと思っておりますが、今日は「素案」ということで私のほうから簡単に御説明させていただきます。
 まず構成でありますけれども、「第1章」は「今なぜ『教養』なのか」ということについて二つに分けて書いてきました。一つが「『教養の危機』」、2番目が「新しい時代にふさわしい教養の必要性」であります。
 「第2章」が「新しい時代に求められる教養とは何か」ということで、ここで具体的な指摘をしております。
 「第3章」で、それでは「どのように教養を培っていくのか」ということで、前回の分科会でも申し上げたかと思いますが、今回は、従来とは少し違ったやり方をしております。従来は、小・中・高等学校、それから大学というように、学校レベルでの切り口から提案をしていくというやり方が一般的でありましたが、、今回は人間の発展段階を切り口として、それぞれの段階における教養教育の必要性でありますとか、それをどうやって進めて行けばいいのかということについて提案をさせていただきました。
 「第3章」の「第1節」が「人格的基礎の形成期における教養教育」で、「(1)」が「人格的基礎の形成期における教養教育の課題」であります。幼児期から12~13歳ごろまでと定義をいたしております。「(2)」が「具体的な方策」であります。
 「第2節」が、「人格的基礎の形成期」に続きまして「青年期」、おおむね14~15歳から社会に出るまでの時期について記述しておりまして、「1」番が「高等学校段階における教養教育」、「(1)」が「高等学校段階における教養教育の課題」、「(2)」が「具体的な方策」。13ページに参りまして、「2」番目が「大学における教養教育」ということで、冒頭に「大学入学者選抜の在り方」、これが非常に大きな影響を及ぼすという認識のもとに、そのような小見出しを起こしております。「(2)」が「大学における教養教育の課題」、「(3)」が「具体的な方策」であります。
 18ページへまいりまして、「第3節」は「成人の教養の涵養」ということで記述しておりまして、「(1)」が「品格ある教養社会の実現に向けての課題」、「(2)」が「具体的な方策」となっております。
 それから、22ページ以降、「我が国の大学における教養教育の変遷」ということで、これはこれまでは本文中に入っていたのでありますが、前回、森委員から、本論に入るまでにこれがあると少し距離があり過ぎるという御指摘がございましたので、それを「参考」として分離させていただきました。
 以上が全体の構成であります。
 それでは、少し時間をいただきまして、内容について御紹介させていただきたいと思います。
 1ページにお戻りいただきまして、「第1章 今なぜ『教養』なのか」ということで、最初のところで「教養の危機」ということで訴えかけをしております。
 1行目の最後のところで、我々日本人の生活というのは、以前、殊に戦争直後に比べると非常に便利で豊かになった。しかしながら、物質的な繁栄ほどには、一人一人の、あるいは社会全体の豊かさは実現されていないという感じを持っている人が多いのではないかということを最初に書きました。
 その後、文章のつながりが悪いのですけれども、殊に近年の社会は大きな変動を経験しておりますが、その中で既存の価値観が揺らいでいるのではないか。そういうことから、2番目のパラグラフの3行目あたりから、「迷いや漠然とした不安感、閉塞感が社会を覆い、個人も、社会も、自らへの自信や将来への展望といったものを持ちにくくなっている」のではないかという指摘致しました。
 その次のパラグラフで、「このような時代においてこそ……今後どのような目標に向かって進むべきかを考え、目標の実現のために主体的に行動していく力を持たなければならない。このような主体性の原動力こそが、新しい時代に求められる教養」ではないかという指摘を致しました。
 従来は、教養というと、知識人の間にはある程度一つの概念みたいなものがあったのでありますが、その次のパラグラフで、「しかしながら、哲学を諸学の基礎とするような学問の体系性が失われ、学問の専門化、細分化が進む中で、教養についての共通的理解というべきものが失われてきた」のではないかと述べております。
 その次のパラグラフで、家庭や地域の在り方も社会変動の中で大きく変わってしまったということで、「個人や社会の教養を支える基盤となってきた我が国の生活文化や伝統文化」が完全に看過されてしまって、「日本人としてのアイデンティティ」を形成するという条件がなくなってしまったのではないかと指摘しております。
 これを受けて、最後のパラグラフで、子どもたちに―子どもたちだけではないのですが―目的喪失感とか閉塞感が横溢していて、そのために子どもたちや若者の間に学ぶことの目的意識が見失われているのではないかということで、これは教養だけの問題ではありませんが、下から2行目で、「教養のみならず、我が国社会の根幹をむしばむ危機であると危惧せざるを得ない。」という結びにしております。
 「(2)」番目が、「新しい時代にふさわしい教養の必要性」です。2ページの1行目のところで、「一人一人が自らにふさわしい生き方を実現することのできる社会を築くために、新しい時代にふさわしい教養を再構築」する必要があろうと指摘致しました。
 その次のパラグラフは、これもちょっとつながりがよくないのですが、21世紀というのはいわゆるナレッジ・ベースド・ソサエティということであろう。知識が非常に重要になることは確かなのだけれども、それが何のための知識なのか、そういうことをもう一度問い直す必要があるのではないかという指摘であります。
 最後のパラグラフは、1行目の最後のところに、「教養は、個人の人格形成や幸福の実現にとって重要であるのみならず、目に見えない社会のインフラストラクチャーでもある。」ということで、下から2行目、「我が国を国際社会において尊重され、尊敬される『品格を備えた社会』として輝かせる」ためには、教養ある社会をつくることが大事ではないかということを言っております。
 以上が「第1章」であります。
 「第2章」は「新しい時代に求められる教養とは何か」ということで、二つ目のパラグラフの2行目の最後のところ、「我々は、新しい時代に求められる教養について検討を行い、その要素を次のように整理した。」ということであります。「ア」から「カ」まであります。これについてもいろいろ議論があって、並べかえたりしてかなり苦労いたしましたが、六つの要素を指摘しております。
 「ア」では、社会規範意識と倫理性、豊かな感性と美意識、主体的に考え行動する力、バランス感覚、体力や精神力などを要素として挙げ、これらを含めた概念として教養というものをとらえる必要があろうという指摘を致しました。
 「イ」が異文化理解ということで、ここでは外国語によるコミュニケーション能力の育成ということをうたっております。
 そして、分科会で強い御指摘のありました国語の問題であります。「ウ」では、国語というのは単に言葉ということではなくて、2行目ですが、「論理的思考力や表現力の育成、日本人としてのアイデンティティの確立、豊かな情緒や感性の涵養などに深くかかわるものである。」ということで国語の重要性を指摘いたしました。
 「エ」が、いわゆる礼儀とか作法、そういう「修養的教養」もあるのではないかという指摘であります。
 「オ」は、社会とのかかわりの中で自己を位置付ける力、自己統制力といいますか、そういうものも教養の重要な要素であるという指摘です。
 「カ」が全体をまとめたような表現になっておりまして、以上のことを「総合的に捉えれば、新しい時代に求められる教養の全体像を、地球規模の視野、歴史的な視点、多元的な視点で物事を考え、未知の事態や新しい状況に的確に対応していく力として総括することもできる。」という総括をしております。
 「第3章」へまいりまして、「どのようにして教養を培っていくのか」ということにふれて、冒頭、「教養教育については、これまで、主として高等教育における問題として議論されることが多かった。」とし、しかし、「教養の涵養は個人にとって生涯の課題」であるということで、生涯のあらゆる場面で教養教育というものを考える必要があり、教養教育に積極的に取り組む必要があろうという指摘をまずしてあります。具体例として、二つ目の段落で、自然との接触、人類の偉大な遺産である古典に学ぶこと、歴史的遺跡や現場に接してその教訓を学ぶこと、その他、スポーツ、芸術活動などを挙げております。
 その次の「教養教育を考えるに当たって……」のところでありますが、特に重視すべき観点として三つの点を挙げました。
 第1点は、教養教育を通じて学ぶことやよりよく生きることへの主体的な態度や、何かに真摯に取り組む意欲を育てていくことが大事だということであります。
 第2点は、先ほど申し上げた知識の問題ですが、知識というものが非常に重要になるのは確かであるが、複数の知識の結びつきといいますか、知識と知識とを結合することによって新たな知識を生み出していく、そのような視点も大事であろうという指摘。
 第3点は、先ほど申し上げました、異文化との接触、あるいは「自分とは異なるもの」に対する理解も教養の重要な柱であろうという指摘であります。
 ということで、先ほど申し上げましたように、今回は、学校レベルではなくて個人の生涯を、幼児期からおおむね12~13歳ごろまでの「人格的基礎の形成期」―これは少しかたいので、例えば「幼少年期」とするということも考えておりますが―続いて、14~15歳ごろから社会に出るまでの「青年期」、それから社会人となって以降の「成人期」というように分けたということであります。
 「第1節」でありますが、「人格的基礎の形成期における教養教育」。これについても「人格的基礎の形成期」というのはちょっとくどいので、「人格形成期」としたらどうだという案も出ております。
 冒頭、委員の御指摘により、生物学でいう「受容体」のことを書いてあります。受容体のないところには何を与えても受け取れないということで、とにかく受容体をつくることが必要で、そのために教養の強固な基盤を子どもの時代からつくる必要があろうという指摘をいたしました。
 その次のパラグラフは、これも第15期の中教審の当初から何度も何度も指摘してきたことですが、家庭の教育力でありますとか、地域社会の教育力が非常に低下した。それが今の日本の現代的な課題―学級崩壊、いじめ、校内暴力、そういうものの原因になっているという指摘もありますので、その辺の指摘をしてあります。
 中教審の答申をまつまでもなく、いろいろなところで家庭教育の支援や地域における青少年教育の充実を図ろうという試みがあるのですが、どうもいま一つ十分な効果が上がっていないのではないかというのが三つ目のパラグラフの3行の文章であります。そういうことで、家庭や地域社会の教育力の向上に向けた取り組みの推進が必要であるということで、真ん中ほどのパラグラフ以降、様々なことを書いてあります。
 「また」以降でありますけれども、日本の子どもたちの問題として、学力については、いろいろ議論のあるところでありますけれども、国際的には未だにトップクラスの一翼にはあるようです。しかしながら、理科や数学に関して巷間様々言われておりますように、自ら進んで学ぶ意欲でありますとか、学ぶことと将来の生き方を結びつけて考えようとする姿勢が日本の子どもたちには非常に欠けているということで、その辺をきちんとやる必要があろう。それも教養教育の一部ではないかと考えております。
 次の、「具体的な方策」です。書き方として、「具体的な方策」のところは同じ書き方をしておりまして、まず「○」で重要な見出しをつくりまして、そして「◇」は、更に具体的な施策を網羅したものであります。もちろんこのほかにもいろいろあろうかと思いますが、これはワーキング・グループの範囲で出たものについて、できるだけ包括的にまとめたということであります。
 「1」が「家庭や地域で子どもたちに豊かな知恵を育てる」ということで、「◇」の最初、家庭での日常生活をベースにした教育の充実を図ろうではないかということで、ちょっと踏み込み過ぎかとも思われますが、2行目で、家庭での年中行事や地域の行事への積極的な参加、子どもに毎日決まった手伝いをさせるなど家庭での役割を与えること、「我が家のきまり」づくりなどを奨励する必要があるのではないかという指摘をしております。
 2番目の「◇」は、日本には教養教育を実施できるような様々なリソースがある。しかしながら、そのネットワーキングがまだ十分になされていないという指摘であります。
 最後の「◇」が、地域における子どもの居場所づくりです。今、子どものいる場所がなくなってしまったということで、そういう環境を国としてつくっていく必要があろうという提案です。
 「2」が「基礎学力」の問題でありまして、最近、中教審としての主張もあるのかもしれませんが、子どもの個性や自主性の重要性があまりにも強調されて、基礎的な、あるいは基本的な知識・技能を繰り返し教える指導をも、「一方的に教え込む」ものとしてよくないのではないかという見方も一部にはあるようであります。しかしながら、最後の行にありますように、「基礎的・基本的な知識・技能を確実に習得させ、それを基盤として、更なる自主的学習につなげることによってはじめて」個性が伸びるのだという点の指摘を行いました。
 そのためには、ごく普通に言われております「読み、書き、計算」をはじめとする基本的な事項を確実に習得させる必要があろうということで、三つ、「◇」で具体的な提案です。
 最初が「基礎学力の徹底のためのきめ細やかな指導体制の充実」。これはさんざん言われていることでありまして、反復練習をいかにさせるかとか、社会人や大学生等をティーチングアシスタントとして積極的に活用していくこと。最終的には教職員定数の更なる大幅な改善ということかと思います。
 2番目ですが、先ほどもありましたように、「国語教育や読書指導の充実」の議論があります。読書の問題についてはワーキング・グループでかなりたくさん出されました。最近おろそかにされているやに聞いております素読や暗唱、朗読、そういう言葉のリズムが、国語の学習については非常に重要である。言葉のリズムや美しさを体で覚えさせるというような指導のよさを見直すべきであろうということ。それから、「朝の10分間読書」運動というものが全国で行われて非常に大きな効果を上げているということで、更にやってもらいたいという提案でございます。
 最後は、これは随所に出てまいりますが、いろいろな取り組みがあるのはいいのですが、それが効果があったのかなかったのか、評価がほとんどないということで、評価の必要性を最後の「◇」で訴えております。
 「3」番目が、「学ぶ意欲を育てモチベーションを高める」ことの必要性であります。ここだけ点線が入っておりますが、全部についても「◇」は点線で囲む予定でございます。全体的に不整合がございますが、次回までにはきちんといたします。
 最初の「◇」は、「子どもたちの知的好奇心を喚起する取組の促進」ということで様々な提案をさせていただきました。
 次が、これももう中教審で何度か言っておりますけれども、習熟度に応じた学習、「学ぶ進度等に応じた指導の充実」ということで、子どもたちの適性とか、能力とか、そういうものに応じた学習指導方法を確立する必要があろうということで、あえて2行目に「国立教育政策研究所等において、算数・数学や理科で子どもがつまずきやすい事項を分析し、その指導を改善する研究を行い、その成果を学校における指導に積極的に取り入れていく必要がある。」という記述を行いました。実はこの種の研究はかなりやられております。少し文章は直す必要があろうと思いますが、そういうものを実際の現場でいかに生かすかということだと思います。
 もう一つここで指摘いたしましたのは、子どもを褒めるということの重要性です。
 「4」番目は、「豊かな人間性の基盤を作るための取組を充実する」ことであります。
 ここでは具体的な提案として、「知・徳・体のバランスのとれた育成」ということで、スポーツなど、さまざまな経験をすることが大切だということを書いてありますが、特に3行目では、「例えば、演劇のように、五感を働かせ、体を使う活動は、体そのものの使い方や制御の仕方を学び、集中力や想像力、コミュニケーション能力を高める上で有効である」というようなことを記述しております。御承知のとおり、これは先進諸国では非常に多く取り入れられている学習方法の一つでありますので、あえてここで書かせていただきました。
 2番目が「多様な体験活動の推進のための体制整備」についてであります。教育改革国民会議以来、社会奉仕体験活動が話題になっていますが、そのための体制を整備することが重要だという指摘であります。
 それから、「道徳教育の充実」ということで、2行目以降に、「豊かな人生経験を持つ社会人や一つの道を究めた専門家に学校での道徳教育への参加を求めることも有効である。」という指摘を致しました。それから、既に配布されております「心のノート」を十分活用もしてほしいということも書き込みました。
 「5」番目は、「教員の力量を高める」ことが重要だということで、ここでは三つ、「◇」として指摘させていただきました。
 最初が「教員の研究活動や自己啓発活動の奨励」ということで、先生方が特定のテーマを持って持続的に研究を続けたり、自己を高める努力をしていれば、必ず子どもたちがそれに対してあこがれの気持ちを持つであろうという指摘です。そのためには、先生方の研究活動を奨励してさしあげたり、あるいは先生方の図書や映像資料を充実する必要があろうということです。子どもたちの図書は整備されているのですが、先生方の図書というのは一体あるのだろうかという疑問が出されまして、そういうことから、最後の2行、「校内で教員と子どもが一緒に読書できるスペースを充実するなどの取組」がいいのではないかということになりました。
 それから、これもやられていることでありますけれども、先生方の社会体験研修の大幅な拡充が必要であるという指摘もしております。
 これも前にありましたが、評価の重要性を最後の「◇」で訴えております。
 「第2節」は、幼少年期の後の「青年期」でありまして、先ほどから何度も申し上げておりますように、おおむね14~15歳から社会に出るまでの期間を考えております。
 まず、「高等学校段階における教養教育」ということで、「高等学校段階における教養教育の課題」として、高等学校在学年齢に相当する時期というのは、自己を確立し、成人となる基礎を培う重要な時期であろうということで、この時期は非常に重要な時期であるという指摘から始めました。
 そして、11ページの上のほうは、過去どういう問題があったかということを少し指摘させていただいて、2番目のパラグラフでは、そういう状況を受けて、高等学校自体が非常に多様化したということを書いてございます。
 三つ目のパラグラフで、「現在、各高等学校において、生徒の多様な進路を前提とした多様な教育が行われ」ていると述べておりますが、そのような多様化の中で、「高校生程度の年齢になれば、だれにも年齢にふさわしい自覚や責任感を持った行動が求められる」としております。それから、高等学校というと、従来はどうしても高校、大学というようなとらえ方でしたが、そうではなくて、「また」からですが、「卒業後にどのような進路を選ぶにせよ、将来の職業や学問の基礎となる知識・技能や、自分の人生に向き合う態度や能力を、すべての高校生が身に付ける必要がある。」とし、進路にかかわらず基本的なことがあるはずだという指摘を致しました。
 「(2)」番目で「具体的な方策」として、「1」が、自分の「『将来』との結びつきから学ぶ意欲を引き出す」ような工夫が要るのではないかということで、二つの「◇」で指摘しております。
 まず、「大学での学習や将来の職業とのつながりを意識させるための取組の推進」ということです。アメリカの高等学校などを見ておりますと、日本ではここのところが非常に足りないという気がいたします。そういうことで、「進路指導が、単なる進学指導や就職指導ではなく将来の生き方を考えさせる指導となるよう、ガイダンス機能等を充実する必要がある。」という指摘をいたしました。それから、これも御指摘がありましたのでつけ加えましたが、農業高校や工業高校などの専門高校での実習等、非常に成果が上がっているということで、そこのところを記述いたしました。
 次のページへまいりまして、次の「◇」は、「人生全体を見渡して考え、学ぶことのできる機会の提供」ということであります。ここでは、ワーキング・グループでかなり強く出ました「喪失感」―死とか大病、挫折についてそのような「喪失感をもたらすような人生の側面について学ぶことの意義は大きい」のではないかとし、そういう記述をあえて入れさせていただきました。
 「2」が「『体験』で大人となる基礎を培う」ということですが、これは先ほどから申し上げておりますように、社会体験の重要性として、最近、いろいろなところで議論されていることであります。
 最初の「◇」が、「社会や職場での体験活動を組み込んだ教育の充実」であります。
 2番目が「異文化」の体験であります。ここでは再び外国語によるコミュニケーションの重要性を3行目から4行目にかけて強調しました。
 その次が「部活動や地域活動の充実」ということで、これについても3行ほど文章を加えました。これまで中教審で言っておりますように、こういう活動には地域の人材の参加が必要であろうというよりも、そういうことによってうまくいくのではないかということでその点についての指摘を致しました。
 「3」番目が、「論理的に粘り強く考える訓練」、これが日本の子どもたちには非常に足りないので、ここのところをきちんとしていく必要があろうということで、13ページで二つの「◇」で指摘しております。
 最初が「知識の深化や総合化を図る学習活動の推進」、2番目が「読書の推進」です。一つは、実際に自分で自主的に問題意識をつかまえて、自分で体を動かして何かを仕上げるという実地調査とか、卒業論文の重要性を指摘して、そういうものは「総合的な学習の時間」等でできるではないかという指摘を致しました。
 次に「読書の推進」でありますが、これは先ほども申し上げましたが、ワーキング・グループで何度も何度も出てきたことであります。「若い時期に、和漢洋の古典をはじめ、優れた書物に向き合うことの大切さを強調したい。」ということで、これ以上に強い御主張もあったのですが、例えば、各高校において、学校としての必読書を30冊選定して、卒業までにすべての生徒に読むことを勧めるなどの方策も有効ではないかという指摘であります。このようなことは現実に実施しておられるところもあって、非常に効果が上がっているということからの提案でございます。
 次が「大学における教養教育」であります。
 まず最初が「大学入学者選抜の在り方」であります。3行目から、「近年、大学側から、学生の学ぶ意欲や判断力、論理的思考能力等が不十分であるとの批判がなされることも多い」のでありますが、この問題を考えるに当たって、初等中等教育段階までの教育だけのせいにするのではなくて、大学入試の在り方も見直す必要があるのではないかという指摘であります。
 次の次のパラグラフ、「特に……」のところでありますけれども、依然として入学者確保を主眼として安易な入学者選抜が行われたり、あるいはスクリーニングするのに易しいということで、断片的な知識の多寡を問うような入学者選抜試験が依然として存在している。ここのところをどうしても考えてほしいという訴えかけをしております。それから、社会人入学の必要性。大学自体が社会人を入れることによって多様化するだろうという見方もありますし、教養教育の観点からしますと、先ほどから何度も申し上げておりますように、人生のすべての段階でそういうことに挑戦する努力が必要だということで、社会人入学の重要性を下から4行目から2行目にかけて記述させていただきました。
 次が「大学における教養教育の課題」ということで、大学については、申し上げるまでもなく、この段階は、生涯にわたる人格の陶冶、また知的訓練という見地から非常に重要であるという指摘を冒頭にいたしました。ただ、最近のプロフェッショナル・スクールの動きを見ていると、どうも学部教育は教養教育と専門基礎教育を中心に行うことになるのではないかという可能性も出てきましたのでそこのところも記述いたしました。また、それに対して大学は対応する必要があろうということの指摘を14ページに書きました。
 それから、15ページが、「具体的な方策」であります。
 「1」が、「カリキュラム改革や指導方法の改善を通じて、『感動を与える授業』」、これはワーキング・グループで何度も出てきましたが、「感動を与える授業」を生み出す必要があるということで、三つの「◇」で具体的な提案をいたしました。
 「質の高い授業とするための授業内容・方法等の改善」。最近、大学でファカルティ・ディベロップメント等でこういうことが考えられているのですが、更にそういう努力を徹底してほしいということです。それから、具体的になり過ぎるかとも思いますけれども、1コマ50分の授業を1週間に複数回実施することによって、教える側と教わる側とのコンタクトを密にするのがいいのではないかという指摘が15ページの最後のほうにしてございます。
 次の「◇」ですが、これも申し上げるまでもないことですが、「きめ細やかな指導の推進」ということで、授業科目の履修に当たっての詳細なガイダンス、あるいは教員によるアドバイザリー制度、オフィス・アワーの設定、TAの活用、これらは言い古されたことでありますけれども、そこに指摘させていただきました。
 「2」番目が「大学や教員の積極的な取組を促す仕組みを整備する」ということで、これも最近はごく当たり前の議論になりましたけれども、最後から2行目の行で「大学教員には、研究能力だけではなく教育能力も必要条件として求められる。」という指摘をしました。具体的な提案としては四つです。
 「『教養教育重点大学(仮称)』の支援」ということで、教養教育について見るべき先導的な取組をしている大学については、財政的な支援をしてはどうだという提案でございます。あるいは、一つの大学だけではなくて、複数大学で共同の教育プロジェクトをやっていくのも有効であろうと考えました。それが1番と2番の「◇」であります。
 3番目の「◇」が、「教養教育の改善に積極的に取り組む教員の支援」ということで、具体的に財政的な支援をする必要があるのではないかということです。例えば「大学教育版科学研究費補助金」をつくってはどうだという提案も致しました。
 それから、同じような趣旨の提案でありますけれども、「優れた教育能力を持つ教員に対するインセンティブの充実」ということで、ベスト・ティーチャーの表彰でありますとか、あるいは教育面での実績の高い先生に学内経費の配分を厚くする、そのようなことを提案致しました。
 「3」番目が「各大学において教養教育の責任ある実施体制を確立する」ということで、二つの「◇」で指摘させていただいております。
 これは現状をかんがみてということでありますけれども、確かに大綱化で教養教育についての改善がなされたのでありますが、教養教育を実施する体制が無責任になりがちであるというような状況があるということから、「責任ある教養教育のための全学的な実施・運営体制の整備」という提案をいたしました。
 それから、これは言わずもがなのことでありますけれども、高等教育がマス化する中で、たぶんこちらの方向へ行くのだろうと思いますが、あえてそこのところを書かせていただきました。2番目の「◇」で、「教養教育を中心とした教育を行う大学等への改組転換の促進」ということで、そのような意志のある大学については積極的に支援する必要があるのではないかということであります。意識しておりますのは、アメリカのリベラルアーツ・カレッジのようなものでございます。
 それから、「大学間の連携協力の推進」。これは最近話題になっておりますが、東京の4大学等でもこういう試みが行われ始めておりますけれども、そういう連携協力の推進がいいのではないかという指摘であります。
 「4」番目が、「学生の社会や異文化との交流を促進する」必要性があろうということで二つ。
 最初の「◇」が「社会や異文化との交流の機会の充実」ということで、様々な提案をいたしております。
 次の「◇」で、「柔軟な教育システムづくり」ということで、ギャップイヤーの問題を取り上げました。日本の大学入学者の入学年齢と比べると欧米諸国の大学入学年齢はかなり高いのですね。平均22歳とか23歳という国もあるということで、ここでは書いてありませんが、我が国では若者のモラトリアムの期間がないということからの提案で、少し「寄り道」をしてもいいではないかという指摘を下から2行目にしております。履歴書の空白というものを社会が受け入れる気運を醸成する必要があろうという指摘でございます。
 最後に、「第3節 成人の教養の涵養」であります。
 まず、「品格ある教養社会の実現に向けての課題」ということで、それは先ほど申し上げたとおりであります。人生の各場面でそういうことを考える。成人になってもそういうことが必要ですよということです。
 「具体的な方策」として、「1」が「教養を尊重する社会の実現に向けた気運を醸成する」ということで、三つの「◇」で指摘させていただいております。
 まず、「大人一人一人の自覚の必要性」であります。
 それから、産業界も随分いろいろな取り組みをされておられますけれども、更にそういうものをしてほしいというのが2番目。
 それから、特にマスコミに対して取組を要請しております。そこのところを読んでみますと、「社会全体の教養を高めていく上で、マスコミに期待される役割はきわめて大きい。マスコミ業界には、自らの社会的影響力や責任を自覚した上で、良質な作品や番組、情報の提供に努めてほしい。」ということで、マスコミに対してかなり具体的な訴えかけをいたしました。
 「2」が「大人が教養を高めるために学ぶ機会を充実する」ということで、最初の「◇」で「多様な学習機会の充実」、それから「学びやすい環境の整備」ということで、先ほど来申し上げております、リソースをどう使うか。親と子どもが一緒になって教養教育に参画するというような仕組みが必要だろうということを二つに分けて書いてあります。
 「3」、最後が「学んだ成果を生かして社会に参画するための仕組みを整備する」ということで、三つの「◇」で指摘させていただいております。
 最初が「学習成果の地域での活用の促進」。学んだ結果が自分たちの住んでいる町のまちづくりとか、いいコミュニティをつくるために役に立つということになると、ますます学習するということの意義が認識されるだろうということからの、「学習成果の地域での活用の促進」という提案であります。
 それから、それと同一線上でありますけれども、「生きがいをもって働くことを通じた社会参加の促進」という提案をさせていただきました。
 最後に「地域に開かれた大学づくりの促進」ということで、やはり大学の役割は大切であるということから、自治体とも協力しながら、住民などを対象に講座を開設したり、地域振興のための実践的な研究会を開催することが非常に効果的ではないかという指摘です。
 以上、概略を御説明申し上げましたが、先ほど申し上げましたように、骨子を母体にしておりますので、文章にかなり凹凸がございます。今後スムージングをしていく必要があろうと思いますが、とりあえずは本日はこの素案に沿って御意見をいただきますればとワーキング・グループの座長として考える次第でございます。どうも長い間ありがとうございました。

○ 鳥居分科会長
 ありがとうございました。
 今、木村副会長から資料1を使って御説明をいただきました。この資料1の答申素案の今後の運びでございますが、今日ここでいろいろな角度から御検討いただいて、たたいていただいて、それをもとに、また木村先生にも御協力をお願いして、今日の御意見をできるだけ吸い上げて直します。そして、次回の分科会で、答申案をまとめまして、それを文部科学省のホームページで公開してパブリック・コメントを受けるということをして、更に修正したものを12月の総会に報告して、総会での御審議をいただくことにしたいと考えております。
 そういう段取りでございますので、今日はどうぞ直すべきところを全部おっしゃっていただきたいと思います。

○ 答申素案を読ませていただいて、本当に力作といいますか、よくできていると思うのです。ただ、私、2点、これからもしいろいろと御検討いただけるならばお願いしたいと思っております。
 一つは、「教養」というとらえ方が広過ぎると思うのです。例えば3ページにありますが、「知・情・意」とか、「知・徳・体」全部教養だと言ってしまったら、結局は教育が概論になってしまうのです、これ全部が。あるいは教育政策が概論といいますかね。ですから、私の意見では、かなりそぎ落とさないとね。
 大事なことはいっぱいあるのです。例えば、入試の問題でもいろいろな問題でも、教養ということにかかわるものだけにそぎ落とさなきゃいけないのではないか。私の考えでは、伝統的に教養というのは共有の「知」です。知的な土台です。「徳」とか「体」を言っちゃうと、「体」も教養だと言ってしまえば、もちろん今は何でもありの時代ですから、本屋さんに行けばその手の本が腐るほどあります。それから「情」も、単なる情ではなくて、知に裏づけられた情の問題なのです、教養の問題というのは。それをやっぱりどこかできちっと書いていただかないと。もう一度言いますが、教育が概論になって、この中で何でもありとなってしまうと思います。
 どうしてそうなかったかというと、大学における専門教育以外のものは全部教養だというとらえ方がありますね。あれにどこか縛られているのではないか。確かに大学には、昔は体育もあったのです。それも教養課程に、あるいは教養部に位置づいていたでしょうけれども、普通はそこまでは教養とは言わないと思うのです。そういうことを含めて、やはり概念の絞り込みというのをやっていただかないといけないのではないか。
 そうしないと、例えば「成人の教養の涵養」というところで、「教養を尊重する社会」ということが言われております。これだと、「人間的な成長を尊重する社会」とか「人間的な発達を尊重する社会」と言い換えないと。人間的な成長、人間的な発達の中のコアになるある部分が教養のはずだと思うのです。〈人間的な成長、人間的な発達〉=〈教養〉ではないと思うのです。今は本当に何でもありの時代ですから、いろいろなとらえ方があっていいと思いますが、これが一つです。
 もう一つは、和漢洋の読書ということが言われていて、これはとても大事で、もう少し膨らませてほしいと思うぐらいです。読書というのはとても大事だと思うのです。少なくとも従来の意味で言われてきた教養からいうと。しかし、その中でもう一つ言ってもらわなきゃいけないのは、日本の先人たちの積み重ねてきた文化的蓄積ということを強調していただかなきゃいけないのではないか。
 例えば、高等学校のところで「将来との結びつきから学ぶ意欲を引き出す」ということはあるけれども、将来を考えるためにはやっぱり過去が要ると思うのです。アメリカみたいに200年前にできた国ではありませんから。私はイギリスの知識人のいろいろな人とつき合って一番思ったのは、私がシェークスピアを語っても、だれも耳を傾けてくれないのです。『As You Like It(お気に召すまま)』の話をしたって。しかし、『源氏物語』の話をしたり『万葉集』の話をしたら耳を傾けてくれます、イギリスの知識人は。少なくとも私の会ったいろいろな知識人はみんなそうです。これは、これまで文部省も長く言っておられた、国際人になるためにはやっぱり伝統の土台というものがなくちゃいけないという、一見パラドキシカルな言い方になっていると思うのです。
 そこのところは、よく読めば窺えなくはないと思うのです。でも、私の率直な感想から言うと、もう少し強調していただいて、少なくとも将来を言うのだったら、体験を言うのだったら、それと並ぶ意味で日本の先人の文化的蓄積ということをやっぱり項目化して出してほしいなというようなことを思いました。

○ 今のお話を聞いていて、私も似たような感想で、今言われたように力作だとは思ったのですが。
 最初に私が思ったのは、やっぱり総花的なのですよね。そして、次に書いてあります「メリハリがない」ということとも関係するのですけれども、一番大きな問題点は、今のお話と同じように思ったのですが、教養の定義がないということなのですね。議論して決めていく過程で、何についてそれをしているかの認識が当然のことながら最も大事なことだと思うのですけれども、この素案では、「主体性の原動力」とか、「つながりを社会の中でよりよく生かしていく力」とか、「目に見えない社会」など、文章の中でざっと見ても20近くの教養の定義が出てくるのですね。こうなると結局、あれも大事、これも大事という意見について、当然のことながらすべて重要になっちゃいますから、そういう足し算の方向で話していったら、総花的になるのは当然だと思うのです。
 いろいろな方がいて議論しているのに、結局、結果として教養で連想される大事なことの列挙になるのだったら、「確かにすべて大事ですね」という常識的な結論になるだけで、そういうことだったら議論なんてする必要はなかったということになると思うのです。もしみんなが常識的に大事と思うことのすべてが実現できるなら、今言われているような問題は起こらないはずであって、その総花的な方法論がうまく機能していないという現実認識から議論を始めないと、結局は何もならないのではないか。逆に言えば、結局は抽象的な理想の提示に終わるような「具体的な方策」の提示などの、あれもこれもではない「現代における教養」として、何が重要かの優先順位が出てこないといけない。もしもそういうことができるのだったら分科会の意義というのはあったのではないか。
 私が言っているのは、何も「教養」という言葉の公式的な具体的定義を行えということを述べているのではなくて、「教養」という言葉は恐らく広い意味もあって、これを一本化することはできないだろうと思いますし、またそういうことをしてもいいことだとも思いません。
 私が言いたいのは、この分科会で議論して検討する対象という限定をつけた、作業仮説的な「新しい時代における教養」というものをまず定義するべきであって、それがなければ結果として総花的な議論になってしまって、具体的に有効な政策につながる提言はできないという認識から始めないといけなかったのではないかと思いました。
 2番目に行きまして、結局そうなってきますと、なぜ「新しい時代」かということになると思うのです。議論の対象があいまいである以上、方策も総花的になって、どれをとってもいいことが書いてあるという結果に終わってしまっているのですけれども、個々にどの議論も方策も否定するのではないです。これはよく読むと、どれも否定なんてできないのですよ。どれもみんな、「こんなのだめだ」というようなことはどこにも書いていないのですけれども、逆に言えば、そのほとんどが「新しい時代の」と銘打たなくても、これはたぶん10年前にやったって「そうだな」という話だし、10年後にやっても「そうかな」と思うようなことであって。
 何のために議論しているのかといえば、タイトルについている「新しい時代」という前提があって、そこで何が問われているかから書くべきではないかと思うのです。それが主体となる人間は常に変わらないから、新しい時代の教養などないという結論ならば、そういうことを最初にはっきり書いてほしい。時代が変わっても関係ないというようなことを前面に出すべきだと思うのです。ただし、もしもそのような結論になるのだったら、私は賛同できない。どうしてかというと、人間というのは決して個として全部なわけではなくて、他者(この場合の他者には人間でないモノも含む)との関係の中で自己を確立していると思うのです。だとしたら、その「関係」の在り方が変われば、人間も社会も変わるし、当然「教養」というようなものも変わるべきだろう。
 そして、他者との関係を語るとき、20世紀に大きく進歩した科学技術を抜きにして考えることは全くできないと思っているのですけれども、本分科会のように「新しい時代」を言うなら、まずその差分について検討するのが当然であり、本素案のように科学技術が社会に与えた影響についてほとんど無自覚と言えるぐらい、わざと避けているのかというぐらい何にも書いていないというようなものは、私とこことの根本的なずれを感じざるを得ないです。科学技術に全く触れていない。私は、なぜ「教養」というのはそれと関係ないと言うのかについての理解は最後までできなかったです。
 ここで「ないものねだり」というのですけれども、何回も言うのですが、ここに書いてある個々の方策がだめだなんて一言も言っていなくて、これは実によく書けていると思うし、個々に見ると具体的でよい方策もたくさん書いてあると思います。非常にいいことも書いてある。そういうことは十分認めた上で、僣越ながら意見ということだから言わせていただいたのですけれども、結局、問題というのは、最初の問題意識のあいまいさのために、結局、あれもこれもと総花的になってしまって、そういうものの実行可能な具体的方策と「一人一人が身につける必要がある」とか、「が求められる」といった抽象的理想の提示が混在する結果となって、総体として効果を疑わせるものになっているということですね、第三者的に見ると。時間も予算も人材も、すべての資源は有限であって、あれもこれもはないものねだりで、大変だったとしても、有限の資源を最大限生かすための優先順位を考えられるのが識者という人たちの責任であって、そのつらさに耐えるのが矜持ではないかと私は思うのです。
 3つ目なのですけれども、「メリハリがない」。この「あれもこれも」が、まさに本素案の最後の「我が国の大学における教養教育の変遷」を見ていると、「大学での教養教育改革後も依然残る目的意識のあいまいさ」ということが書いてあって、よくまとまっていると思ったのですけれども、そういうものに何か関係しているのではないかと思います。私も大学にいるのですが、個々の大学でも別に何が大事かを考えられないはずはないのであって、まさにそれは「教養」の範囲なのですけれども、問題は、そのたくさんの大事の中で、「新しい時代」のために特に何が大事かを語れないということが一番問題だと思うのです。
 例えば、これは大学と関係ないのですけれども、いろいろなプロジェクトを進めていくときに、あれもこれもというようなことを言うと、結局人の心に届かないし、うまくいかないのですね。ですから、多くの枚数を使って書くだけではなくて、1枚の紙とか数行の目標にすることが大変なので、そういうことができたとき初めて人を動かせる。プロジェクト推進みたいなことの場合には、特に私は科学技術のプロジェクトでたくさんやっていますので、そのときに動かさないと目的達成ができないのでそういうことになるのですけれども、今の大学の教養教育で最も求められているのはまさにそれで、結局人が動かないわけですね。
 そういう意味で、もしもこの分科会でそういうことをまとめることができなかったとしても、大学の多様性を考えるならそもそもまとめないほうがいいのかもしれないのですけれども、まず「教養教育においてメリハリをつけ、各大学でそれを議論し、1枚の紙で学生や教職員に語れるようにまとめるべきである」という提言をするとか。ここでまとめられないのだったら、そういうこともすべきだったのではないかと思います。
 最後に「他のチャネルの無視」ということなのですが、ほかにちょっと気になったのは、全然書いていないわけではないのですけれども、限られた資源の観点から重要だという学校以外の教養チャンネルに対する考慮をもっと強く出してもいいのではないかということです。社会人の生涯教育には触れているのですけれども、現代の児童教育を考えた場合も、学校以外で何を学んでいるかのチャンネルというのは、その内容のよしあしは別として、今は全く無視はできない。なぜならば、「新しい時代」を前提に考えるに当たって、児童が社会からいろいろなチャンネルで得ている情報量の増加、総体的な学校という情報チャンネルの比重の低下が大きいことは、現代においては否定できないのです。これは必ずしも塾だけではなくて、テレビ、雑誌、インターネットも含めたすべての情報チャンネルが耳から児童に入っているわけです。そういうものについて、本分科会として影響力があるかどうかというのはよくわかりませんけれども、それらの存在を前提としないで有効な議論ができないはずであるという認識ぐらいはもっとあってもいいのではないかと思いました。

○ 今のお二人の意見にはほとんどすべて大賛成です。
 2ページ目の2行目の「新しい時代にふさわしい教養」、結局はこの言葉にちょっと流され過ぎているということです。要するに、これは過去における教養というものを半ば、あるいは何分の1か否定している意味合いがあるわけですね。それに流され過ぎている。そのために多くの概念を入れ過ぎてしまった。それで、両先生のおっしゃられたとおり、概念の絞り込みができていない。総花的になっている。これは相当部分そぎ落とさないと、全く意味がない答申になるということです。
 例えば、体験教育の強調は、本当に教養なのか。インターンシップとか、ボランティアとか、そういうのは教育として大切かどうかはともかく、教養として大事なのかどうか。やはり特化しないと、何のために教養教育を話しているのかがわからなくなってしまうということです。
 その具体的な話で、例えば3ページの「新しい時代に求められる教養とは何か」の「ア」が、いきなり「知・徳・体」、「知・情・意」となっていますけれども、その前に、両先生のおっしゃられたようなことを明言しないといけない。例えば、「かつて教養の大部分は古典などの読書を通して得られた。近年、読書は軽視される風潮にあるが、21世紀においても依然として教養の中心となるべきものである。」と。ここで断固と古典的教養、一昔前からの教養、これはイギリスでもどこでも同じことですが、そのようなものが教養の中心だということをはっきり書き示すことが新しい時代に求められる教養にふさわしいことです。新しい時代ということは、過去を否定するということではありません。
 それから、「外国語によるコミュニケーション能力を育成する」、これも本当に教養なのか。それが「イ」のところに書いてあります。これは本当にそもそもすべての日本人に必要な能力か。これは現実に週20数時間の授業でできるのか。日本人すべてが的確に意思の疎通を図るために云々は、ほとんど歴史的に不可能であることが証明されていると思います。このような甘い言葉で国を間違った方向に引っ張っていってほしくないということです。
 それから、「ウ」は非常によいと思いました。ただし、「ウ」の最後は「初等教育における教養教育の基礎に」ではなくて、国語の力は「初等教育の基軸」として位置づけないといけない。教養教育の基軸ではなくて、初等教育すべての基軸だということです。これは国語の重要性を少し矮小化しているということです。
 それから、6ページの下から6行目に、数学や理科の嫌いな子どもたちが増えてきた理由を書いてあるのですけれども、「我が国の教育が過度に記憶力を重視した画一的なものに偏りがち」だというのは、近年このような叫び声が起きているけれども、本当にそうなのかということは甚だ疑問であるということです。現在のいろいろな国際調査によると、日本の中高が最も学校での理数科の時間が少ない。家で最も勉強しない。記憶に関しても、大学に入ってくる学生等を見ると非常に落ちているわけです。高校の先生も皆異口同音にそう言います。したがって、理由は納得できません。
 ここでは、例えば「ゆとり教育」などと言って教科内容を平易にし過ぎて、すなわち、その後に「教育における平等性を重視するあまり」と、これはよく書いていただいたと思うのですけれども、やはりそこで平等性を重視すること、できない子どもの方に行き過ぎて、教科内容を平易にし過ぎて、深みやおもしろみが教科内容からなくなってしまった。これで優秀な生徒が本当に泣いているということですね。公教育では優秀な生徒が殺されてしまう。知的成長がなかなか難しくなる。来年からはさらにひどいことになってくるのです。それに調査によると、「よくわかる」や「大体わかる」子どもたちの割合は「ゆとり教育」導入以来、改善されていません。「ゆとり教育」の批判は文部省の批判になるのでちょっと書きにくいかと思いますけれども、教科内容を平易にし過ぎているということは、できる子に対して非常に不平等な扱いをしているということです。意欲をそいでしまっている。
 それから、7ページ目の四角い点線で囲った最後に、ここで書いてあることは地域社会や家庭における教育の重要性なのですけれども、ここでやはり、「このような目的を達成するためには、テレビとかテレビゲームに興ずる時間を、家庭とか学校が主体となって一定限度に抑えることが必要である」と、これを明記してくれないと、今のように家に帰って平均4時間とかテレビやテレビゲームの前に座っているようでは、どんな家庭教育や地域教育をしてもほとんど効果はない、そのように思われるわけです。
 すぐその下は、これは非常によいことですね。「一方的に教え込むもの」というのは、教育界ではとかく悪いものとして思ってきたのを、肯定的に解釈している。私は、これは非常に高く評価しております。
 それから、8ページの四角の点線で囲った中の2番目の「国語教育や読書指導の充実」。先ほど言ったように、読書というのは教養教育の核になるもので、その基礎は特に初等教育でいう国語教育です。ここの書き方ですけれども、やはり「人格形成期の教育の基軸として」と入れて、それから「国語教育の……」ということですね。それから、「充実」という言葉はほとんど無意味な言葉です。これはどんな拘束をも与えない。ここは「充実」を消して、「質的向上と量的拡大」ということをはっきり書いてほしいです。
 というのは、国語の授業というのは、私なんかの経験では、あらゆる教科で最もつまらない、退屈な授業でした。例えば、文脈に分けて何々をこうする、どれがどれにかかっているとか、くだらないことをさせる。やはりもっと読書を中心にする。質的向上の内容はその後に書いてあります。「質的向上と量的拡大」ということをはっきり「充実」という言葉と置きかえてほしいと思います。国語の突出した拡大をしない限り、日本人の基礎学力、知的能力というのは向上しないのです。これをきちんと書かないと、結局は学会の縄張り争いに巻き込まれてしまうわけです。どこかを増やすときは、では国・算・理・社全部増やそうとか各学会が騒ぎ出して、それを押さえ込まなきゃいけないので、初等教育において国語の量的拡大をはっきり謳って、他の教科とは全く違うのだということをここで示さないといけない。特に小学校の4、5年生では、大正、昭和と14時間、12時間、そして今は5~6時間しかないわけですね。かなり増やさないといけないということです。具体的な話もないと、やはりインパクトがなくなるということです。
 それから、9ページの上の四角の中の4~5行目に突然、「国立教育政策研究所」云々という、これは余計なお話です。ほかのところでもそういうようなことを分析や研究をしていかないといけないわけです。それから、ここはやはり「習熟度に応じた学習」ということをもっと強い形ではっきりしないと、先ほどの悪平等に対応できないということです。
 それから、今のところのすぐ下に、「指導に当たっては、それぞれの子どもの良さを見つけ」、その次のところにも「意欲を高め、その良さを」と、この「良さ」という言葉は最近教育関係の人がよく使う言葉で、非常に不愉快な言葉です。これは日本語の普通の言葉ではないので、ここは「長所」という言葉で、通常の日本語に戻してほしいと思います。
 それから、9ページの下の四角い点線の中の「道徳教育の充実」というのは、これはいいのかもしれませんが、「人間として生きていく上での基本的な態度を育てる必要がある」という、その後にやはり例を――例えば、基本的態度というのは、特に道徳教育は常に疑惑の目で見られるので、例えばどういうことなのかというようなことをはっきり書いたほうがいいのではないかということです。私なんかは、例えば「勇気」とか、「正義感」とか、あるいは「家族愛」「郷土愛」「祖国愛」「人類愛」とか、「ひきょうを憎む心」とか、これはいじめ対策に絶対必要なことです。あるいは「他人の不幸に対する敏感さ」、「同情心」、そういうものを具体的にはっきり謳うということです。
 その次に、「このために、豊かな人生経験を持つ」とありますが、それだけよりも、このような道徳とか情緒を得る上でも、やはり感動のある物語を与え、読ませたりというような、やはりここでも読書というものが……。人の言葉で言うのがなかなか今は限界に来ています。先生で道徳を語れる先生というのはなかなかいなくなってしまいました。親もそうですね。したがって、やはり感動のある物語、特にこれは初等教育が主ですから、そういうものを読んで感動しない限り、人が論理的に言っても全く身に付かないものです。なぜなら、今言ったような「勇気」とか、「正義感」とか、「○○愛」とか、「ひきょうを憎む心」とか、「他人の不幸に対する敏感さ」、これはすべて論理的なことではないからです。論理では説明できないことです。人間としての型ですから、これは感動とともにきちんと学ばない限り学べないことです。
 それから、10ページの点線の四角の第1行目でも、「教員が特定のテーマを持って持続的に研究を続けたり」とあって、これだけだと、先生はすべて研究しなきゃいけないような感じになっている。私は、研究なんか全然しない先生が90%を占めても全然構わないと思うのです。これをあまり強調し過ぎると、何かオブリゲーションというか、そうなる。ここに例えば「読書に励むなど」とか、そのような言葉も入れるとか、もうちょっと弱めないと、先生に対する負担になるのではないかなという感じが少ししました。
 それから、12ページの「2」ですが、「『体験』で大人となる基礎を培う」とありますけれども、これは先ほど両委員がおっしゃったとおり、総花的の顕著たるものだと思うのです。これはほどほどにしないと、他のもっと重要な教養が得られなくなってしまうのです。学校教育では週20数時間しかないということを考えると、例えばその下の四角の第1行に、「インターンシップや、学校内外のボランティア」とか、あるいはその下の「会話能力」とか、いろいろ書いてありますけれども、それをあまり強調してしまうと、もっと重要な教養がなかなか……。あるいは学力の低下ということですね。これはまさに、運転の仕方とか、タイプの仕方を学ぶことで英語の単位や何とかの単位をあげたという、アメリカで失敗したものを後追いしているだけの話です。これは非常に怖い、危険を秘めたものである。
 それから、13ページの上の四角の中に、これは高等学校ぐらいの教育ですけれども、先ほど委員のおっしゃった科学教育、これをやはりここにきちんと。小学校では科学教育は軽視して構わないと私は思うのですけれども、中・高とだんだんヘビーにしていく必要がある。特に最近、遺伝子とか、脳とか、情報とか、いろいろな科学上の発展が目覚ましいので、そういうものがないときちんとした判断力の礎ができないということです。これはまさに新しい時代に即したもので、過去と違うのは、この部分が最も大きいのではないかと思います。これをやはりきちんと強調してほしいです。「読書の推進」というのは非常によいと私は高く評価します。
 それから、例えば13ページの中ごろに「アドミッション・ポリシー」とか、下のほうに「ディスカッション」とか、その後も「プロフェッショナル・スクール」とか、「インターンシップ」とか、「グレートブックス」とか、「オフィス・アワー」、「アドバイザリー」と、最近の文部省は片仮名が多過ぎますね。特に高等教育はアメリカのまねをしているだけですから、なかなか翻訳が追いつかないのかもしれないけれども、漢語というのは非常に豊富な言語体系ですから、中国のようにすべてを漢字にあらわす国もあるわけですけれども、そこまでいかなくても、あまり広がらないうちに、はっきりした適当な漢字で置きかえていただきたいと思うわけです。
 それから、14ページの上から7~8行目に、「法科大学院等の高度専門職業」云々というのは大学院に任せるというけれども、専門性の高いものというのは、法科大学院とか、MBAとか、そういうものだけではないわけですね。したがって、その部分は消したほうがいいのではないか。そのすぐ下は非常によいと思いました。
 それから、真ん中よりちょっと下に「教育のプロとしての自覚を持ち」とか、そういうことはほとんど不可能なのです。大学の先生の体質というのは、自分たちは研究者で、教育に興味を持つ、あるいは教育に目覚めるということは、ほとんど研究者としての脱落を意味するようなところがあるわけです。このような人に教養教育を任せてはいけないのです。その人たちの意識を高めるというのはもうほとんど不可能なので、そのパラグラフの「学生の学ぶ意欲や目的意識を高めていくことが求められる。」の後に、「このようなことを実践できる、力ある教員が教養教育を担うべきである。」と。
 これは特にアメリカでは、教養教育にはその大学を代表するような学者が携わるわけです。やはり普通の人間では、熱意を語るとか、情を伝えるということまでは不可能なのです。そして、そういうことのできる教官にぜひ担当してもらう。専門教育のほうはだれでもできるようなものですから、教養教育はそういう意味では非常に大事です。
 あと、17ページにも下の点線の四角の中に「サービスラーニング」とか、要するにここに書いてあるのは、インターンシップとか、ボランティア活動をどんどん積極的にしろとか、これも教養の部分からそぎ落とすべきことですね。勉強というのは学生時代にしかできないです。先ほど言ったとおり、もっと重要な教養を得る機会を、例えばインターンシップで夏1ヵ月行って、一体何を得るのかということです。アメリカのまねもいいけれども、本当にそれで日本の学力、そういうものが得られるのか。1ヵ月あったら、日本や世界の名著なり名作なりをゆっくり夏休みに読む。どちらが教養のためにより重要かということです。教養ではないところでそういうことを、他の側面から強調するのはいいのかもしれませんけれども、ある意味で教養の敵になっていることを強調するのはおかしい。

○ 非常にいい御意見なので、なるほど、なるほどとお伺いすることがあったのですけれども、ワーキング・グループのメンバーとして、教養の定義をするのはやめようというスタンスで議論が始まったということは申し上げなきゃいけないと思いました。つまり、実存主義と構造主義の論争みたいなことをここでやるのはやめようと。今若者たちが求めているものは方法論だと。どうやったら教養が身に付くのかという、その方法論を知らないで右往左往しているというのが現実の問題としてあるのではないだろうか。ですから、その方法論としての議論をきちっと書き込もうではないかというような議論からこの構成が始まったわけであります。
 したがいまして、ある人には役立つけれども、ある人には役立たないというような答申は書かないようにしようではないかと。できるだけいろいろな方法論を――この答申は、今ようの言葉で言うと「べた」と言うのだそうですね、若者の言い方は。つまり、「べたなぎ」からきていると思うのですけれども、「べた」になってもしようがないではないか。とにかく方法論を書いて、その中からくみ取ってもらおうという話で議論していたことがスタートでございました。したがって、答申として非常に鋭くて刺激的なということは非常に魅力的な話なのですけれども、性格上、そのことに限ってこの答申を書こうというような話し合いがされたということを申し上げたいというのが第1点であります。
 科学技術については、先ほどの委員がおっしゃるように、確かにもうちょっとやらなきゃいけないなと感じました。どこに入れるかということだと思いますけれども。

○ 鳥居分科会長
 「教養」の定義がないという、あるいは定義をどう書いたらいいかという問題については、結果的には今の委員の御説明のようになりましたが、議論はしたのですね。それがどこに出てきているかというと、1ページのちょうど真ん中のところに「かつては……」というところがありまして、その3行が、今、3人の先生方からお話のあった一つの答えというか、アプローチになっているのですね。これをもっと上のほうに持っていくのかどうかという、そういう書き方でまず考えていただいて、もう一度、御意見をいただきたいのですが。
 ここでは、ここに書いてありますように、「かつては、教養について、『知識人としての共有財産の脈絡あるリスト』とでもいうべきものがあった。」と。そこから先はまだまだ補うべきことは多いようですけれども、例えば、「学問の体系の基礎をなす哲学についての知識」「教養として必要な書物のリスト」「知識とともに教養人たる人格陶冶のための訓練」と、こうなっているのですけれども、どうでしょうか。

○ 今までの3人の委員のお話を聞いていて、確かにもっともだという気はするのですけれども、ここはやっぱり基本的な選択の問題ではないかという気がします。このペーパーは、幼少年から高齢者まで、一生を一つの教養としてとらえようというしている考え方なのですね。この考え方をとったときに、3人の先生がおっしゃった考え方を貫けるのかどうか、その辺の問題がどうも難しい課題で、基本的な選択としてあるのではないかという気がしたのが第一印象です。
 第2は、科学技術、これも全くごもっともなことと私は思いますが、もう1点、この問題を考えるときに強調しておきたいのは、社会の秩序の在り方についての視点をもう少し出していただいていいのではないかという気がします。日本の場合、社会の秩序というのは、要するに所与といいますか、人から与えられてもらうものの中でいかに生きるかという視点が非常に強かったように思うのです。しかし、これからの21世紀の、まあ21世紀だからというわけではありませんけれども、グローバル化とかいろいろ動いている中で、日本の社会の秩序というものを、与えられたものではなくて、いかにして自分たちでつくっていくか、そういう自覚あるいはそのための仕組みといいますか、そういうものを考えていく必要があるのではないか。その辺はいろいろなところで出てきているのです。「公共的な精神」とか、いろいろなことが出てきておりますが、もう少しその辺を一つの視点として明確にするような工夫がどこかにないかなという思いがしております。
 第1点のほうは、私自身は心に乱れるところはありますけれども、今回の答申というのは一生の問題としてとらえるというのは、これは従来にない一つの大きなトライではないか、試みではないかという気がいたします。

○ 一生の問題としてとらえるのだったら、ラングランあたりから、もう1960年代から生涯学習、生涯発達ということで言っているわけです。人間的な成長の在り方、しかも頭でっかちではなく、一人の人格としてということが言われているわけです。それを今さら繰り返してもしようがないと思うのです。
 そうではなくて私は、この文章を読んで、よくできているのだけれども、根本が欠けているのです。今の日本人の在り方の何が問題かということなのです。切迫感も問題意識もないところからは、結局、先ほどおっしゃったように10年前に言っても同じ、10年後に言っても同じという話になってくる。しかも、すべてが入っているけれども、ポイントがない。私は、今の委員のお話の後半はとても大事だと思うのです。私、何かああいうことが入らないかなと思うのです。ここであらゆることを言うのではなくて、今とりあえず現状を見たときに、例えば科学技術に振り回されているのではないかとか、幾つかあるわけでしょう。あるいは、優等生的な人がいて小賢しいことは言うけれども、本当にきちっとした、今の「公共の精神」も含めて、人々との中での一つのバランス感覚を持った、一つの判断をずっと貫いていけるような内的根拠が育っているかとか、幾つかあるではないですか。そういうことから目をそむけて、いろいろな今言われていることをやっていたって……という気が私は一つします。
 それから、先ほどの方法論ですが、私は委員のおっしゃるのはよくわかるし。そういう意味では、読書をやりましょう、これは一つの方法論です、例えばですよ。それだけでだめだったら、それプラス一つ、二つ出てもいいけれども。でも、ここに挙がっているのは方法論が多過ぎるのですよ、いっぱいあり過ぎて。ひょっとしたら、今言った小賢しい優等生をつくってしまう。あるいは科学技術の進歩の中で、なかなか人間としてのバランスのある、公共性のある判断ができないままになってしまう、それを温存するような方法論もここにあるかもしれないです。
 だから、強いて言えば、私の実感で言えば、やっぱり切迫感のない、問題意識が焦点が合っていないということが一番大きな欠陥であるから、定義云々というのは、言葉で広辞苑に書くようなものをここに載せることではないですよ。そうではなくて、ターゲットは何か、ターゲット。課題領域が何かなのですよ。広がりでいいのです。
 先ほどちょっとおっしゃいましたが、昔の「教養」の在り方を乗り越えなきゃいけない、これを1ページに書いたっていいと思うのです。では新しい教養の在り方はということで、少なくとも領域でいいから、エリアでいいから、例えばということで出していかないといけないのではないか。昔のものはだめだ、カントを論じても何してもだめだというのはこれでわかるけれども、では何をという。どの辺に問題があるのか、どの辺に本気で考えなきゃいけない問題があるのかということをやらなきゃいけない。

○ 私も旧中教審時代から教養教育の在り方にかかわっているので、いろいろ今ほかの委員から言われたことで、、今までの議論が基本的なところで方向を誤っていたのではないかなという自分なりの反省も含めてちょっと今考えさせられているところですけれども。
 ただ、私も、ざっと通読して、「新しい時代における教養教育」ということからしてどうもストンと一つ胸に落ちないところが……。私自身が議論にかかわっていながらこういうことを言うのは大変恐縮しているのですけれども。書かれていることは、委員がおっしゃるように、ほとんど今日的な教育が抱えている課題にみんな答えようということで総花的になり過ぎて、中には初等中等教育分科会で議論してもいいようなことがかなり細かく書かれているし、大学のほうは大学分科会で。そういう意味では、やっぱり絞り込みということは必要ではないか。
 その際、なぜ今「教養の危機」と言われるような憂うべき社会の状況になっているのかということについて、前回の骨子案のときには数行書き込まれていたのですよ。戦後、リベラルアーツということで全体的に新制大学で教養教育を重視するということで来たのが、91年の大綱化の問題もありますけれども、ただそれだけではなくて、社会全体が教養ということはあまり必要ではない、それよりもっと実利的な、どうやって物、金を自分が得るかということで非常に実利的な社会というものが、キャッチアップ時代に全体として日本人がそれを追い求めてきた。そういうところに、教養よりは、より収入を高くするためにはいい大学に入るというような風潮が、やっぱり今日の「教養教育の危機」と言われるような状況をつくり出してきたのではないかと、私は総会のときにもそう申し上げたのですけれども。
 そういうことについての一定の反省みたいなものをどこかで書いた上で、では新しい時代の教養……。教養の基礎的なものは古今東西、恐らく10年前も10年後もそんなに変わらないと思うのですけれども、あえて中曽根文部大臣のときにこの答申があったときの諮問文を今改めて読んでみますと、やっぱり「新しい時代」ということで、G8の話から始まって、国際化、情報化とか、科学技術、とりわけ生命科学とか、そういうものの発達の中で人間性そのものがちょっとおかしくなってきているというようなことの指摘をして、それに人口問題とか、環境などの問題があり、そういう問題に対して「新しい時代の教養」というものをどう構築していくかというような趣旨のことが諮問文の中に書かれていることを今改めて先生方の意見を聞きながら感じているのです。
 そういう点からいうと、もちろんこれは必要なことはほとんど書かれているのですけれども、やっぱりこれからの社会の中の「教養」の中で、アフガンの問題とかいろいろありますけれども、非暴力的な態度で紛争を解決する、そういう態度とか能力をどう育てるかとか、環境を守るためにみずからの生活スタイルや消費習慣を変えるというようなこととか、特にマイノリティ、男女共同参画社会と言われていますけれども、そういうジェンダーの問題とか、あるいは今日のこのような社会に主体的にかかわっていくためには、ローカル、ナショナル、インターナショナルの各レベルで政治に参加していくということを、それぞれの発達段階において市町村の仕組みから――参議院は今度、国会でも中学生ぐらいから子どもたちの議会をやるとかという試みがありますけれども。教育基本法では「良識ある公民たるに必要な政治的教養を培う」となっていますけれども、基本法で唯一「教養」という言葉が使ってあるのは「政治的教養」ということだけなのですが、そういうことが本当に今まで学校教育や社会全体の中で重視されてきたのかというと、私はやっぱり疑問で、今日のいろいろな混迷というのはそこのところに原因があるのではないかという気持ちもしております。
 ここに書いてあることは、前に委員からもあったように、どれ一つとして間違っていることはないのですけれども、ただ、やっぱりちょっと絞り込んで、今の小・中学校、高校も含めてカリキュラムが来年から週5日制になって、そして授業時数も減る中で、これを全部やれなんていってもとてもできる話ではないので、優先順位をやっぱりつけて、何をとりあえずやるかということを強調しないと、これをパブリック・コメントということでさらした場合には相当いろいろな意見が出てくるのではないかという気がして、木村座長を初めワーキング・グループの方が大変お骨折りいただいてこのようにまとめていただいた労を多とし、敬意を表するのですけれども、今先生方から出たことも含めて、もうちょっと時間をかけてこれはきちっと議論したほうがいいのではないかという意見を持っていることを申し上げたいと思います。

○ おっしゃられるように、ちょっと全体の表出の仕方が、正直言って「べた」なのですね。例えば、3ページのところの「地球規模の視野」というようなことは新しい時代に対応していると思いますし、何かそういうことを、コンピュータでいうとBで書くとか、少しその辺の編集技能で何とかできる部分というのもあると思うのですが、一応書かれてはいると思います。
 それと、かつては読書は教養であったわけで、読書はいいのですが、「新しい時代の」というところだと、読書で延々とべたに書いてあるのですが、一枚の絵でわかる感性とか、感動とかというものもあると思うのですよね。グーテンベルク以前の映像とか、絵画とか、美術とか、そういう芸術で一瞬の感性を育てるということもあるわけで、「新しい時代の」というのは、昔の、高げたをはいてデカンショをやった時代とは違うと思うのですよね。そういうものも書いてはあるのです、全体に。だから、そのようなところを少しメリハリを持たせて書けば訴えていけるなと思っております。
 1ページのところはだらだらと書いているので、もう少しコンパクトにしなきゃいけないなと思っています。

○ さっき委員が言われたことは全くそのとおりだと思うし、今の御意見もそうだと思ったのですけれども、私が言っているのは、教養の定義なんかできないと思うのですね。いろいろなものがあるのが教養なのだから。やっぱり、「新しい時代の」ということがタイトルに出ている以上、では「新しい時代」って何なんだということを言ってくれないと、やっぱりピンとこないということだと思うのです。
 それと、今最後に言われたこともそうだと思ったのですが、これは何でも書いてあるから、これをうまく編集すると答えは中にあるのかもしれない。よくわかりませんけれども。これをとにかく読んだときの感想は、だれが見てもやっぱり総花的になっていて、メリハリがないから、伝わってくるメッセージが何もなくて、「ああ、そうなのね」ということで終わっちゃうというのが問題点だと思うのです。

○ 鳥居分科会長
 目次を見ていただきたいのですが、目次で考えて、「第1章」は「今なぜ『教養』なのか」ということで、「『教養の危機』」、「新しい時代にふさわしい教養の必要性」となっているでしょう。ところが、「第2章」でまた「新しい時代に求められる教養とは何か」とありますから、「第1章」の「(2)」を全部「第2章」で集中して議論するというやり方が一つまず考えられると思うのです。それは後に送っちゃうとして、そうすると、「今なぜ『教養』なのか」、「教養の危機」、ここのところなのですけれども、これについては、今いろいろな御意見が出ましたけれども、もう一遍整理するとこういうことだというのをそれぞれおっしゃっていただければと思います。
 私は、一つの側面としては、さっき申し上げた、1ページのど真ん中に書いてある、「かつては、教養について、『知識人としての共有財産の脈絡あるリスト』とでもいうべきものがあった。」、この書き方がそもそも、今なぜ「教養」なのか、「『教養の危機』」なのかということの説明としては不十分だと思うのです。例えば、それに加えて、「そういうリストとでも言うべきものがあった。かつては一人一人の若者がその内容を理解したり評価したり取捨選択するために悩んだ。それが一切行われなくなってしまったのが今の危機的な状況だ」ということを書くのかなという感じがしているのですけれどもね。

○ 私はここの中でも年が若いほうですから、もっと若いと、やっぱり「昔はよかった」的なことを言うと反発しますよ、今の若い人たちって。だって、先ほどの御意見でもあったように、これからどうするとか、新しいほうに向かってと言ったときに、「新しい時代」というのを最初に強調したほうがいいと思うのです。だけれども、普遍のものもある。結果としては同じことになると思いますよ。古くからやっていることで何も全部否定するわけではないわけですから、昔のものが全部だめというような、そんなことは若い人だって言えば理解するのであって、全部が新しくなんかなるわけがないというのはわかっているわけなのだけれども、言い方だと思うのです。昔はうまくやっていたのに、今はだめという言い方をすると、いかにも昔の人がつくったなというイメージが出て、もっと前向きに進むときに、昔のものでもいいものがあるという、結果としては同じかもしれないけれども、言い方が……。

○ 鳥居分科会長
 そうすると、委員がもし一筆書いてくれるとしたら、今なぜ「教養」なのか、今なぜ「教養の危機」なのかについては、一言で言うと何ですか。

○ 先ほど委員が言われたのは私すごくいいと思ったのですけれども、時代が変わってきて、歴史的な観点から見てやっぱり反省すべき点もあるとか。いきなり未来が出てくるわけではなくて、流れの中から未来というのは出てくるわけですから、そういう意味で時代が変わっていると思います。今や科学技術も非常に進歩して、昔と違って遺伝子工学も出てきているし、コンピュータも非常に進歩している。そういう時代においてもというようなことから最初やっぱり出てくるようにやったほうが受け入れやすいと思います。時代が変わっている、と。

○ 鳥居分科会長
 別の言い方をすると、人間としての座標軸、それは古今東西、森羅万象だと。要するに、歴史をどこまでさかのぼれるか。それから、世界の広さというか、人間の広さというものをどこまで理解できるか。それから、あらゆる知の事象(森羅万象)についてどれだけ知っているかという三つの座標軸を、人間のそれぞれの成長過程でしっかり持つことが、「教養」の一つの表現だと。それが全部何か頼りないものになってしまっているのが今の危機だというのを、例えば1ページの最初の3行、「豊かさは実現されているけれども」云々の後に突っ込んだらどうかという話も事務局と議論したのです。何か先生方から御意見はないでしょうか。助けていただきたいのですけれども。

○ 結局、博識になるのが教養ではないと思うのですよ。結局、今一番問題なのは何かというと、一人一人の内側にいろいろな、広い、あるいは深い、あるいは歴史にまでさかのぼった、そういう一つのパースペクティブ。そういう土台を持った、見通しを持った内的根拠ができているかどうかなのですよ。教養の問題というのは、基本的には内的根拠の問題。ただ、その内的な根拠が単なる思い込みとか独善にならないためには、やっぱり古今東西のいろいろなものが必要なのです。
 これはまた嫌われるかもしれないけれども、ミシェル・フーコーをはじめフランスの哲学者が言うことからいうと、やっぱり自分の中での自己内対話という、自分の中での振り返りと対話というものがないと、結局は広い、博識なもの、あるいはいろいろなことを知っていても、それが自分の主体的な判断というものに結びついていかないわけです。だから、教養ということを語るときに気をつけなきゃいけないのは、いろいろなことがあるという、それを知っていく、何でもかんでも知っていく。今は情報社会ですから、これに流されてしまったら教養ではないと思うのですよ。そういうものをみんな素材にしながら、どうやって自分の内側に自分の内的な根拠となるものをつくっていくかという、そういう問題。
 もう一つ困るのは、内的な根拠というだけをもろに出してしまいますと、独善の、思い込みの、そういうものになってしまう。だから、さっき委員がおっしゃった「公共性」とか、そういういわば水平の広がりが大事だし、もう一つは「歴史性」という垂直の広がりが大事だし、あるいは水平ということで「他文化理解」みたいなものが大事だということになるけれども。
 最後はやっぱり一人一人が、今までの言葉で言うと、「知性」とか、「理性」とか、「悟性」と言われたような、そういう知的な土台に支えられた根拠をつくっていくかということだろうと思うのです。その問題がなかったら、あらゆる教養論というのは抽象的で空に浮いてしまうのではないか。
 そういう意味では、鳥居分科会長がおっしゃった、昔はいろいろなものを読んだ、と。その後のところが大事だと思うのです。どれを自分のものにするか悩んだ、と。そこだけ書くと、今おっしゃったように「昔はよかった」になるから、だから新しい形でという。昔悩んだ。それは新しい形でも悩まないといけないわけですよ。そういう内側の振り返りと対話がなければ教養として根づいていかないわけです。教養というのは物知りになることではないですから。そこのところが何か書き込めれば、昔はこうだったけれども、新しい形での悩みとか、取捨選択とか、あるいはいろいろな現代的な課題にそれをどう適用して考えるかという、そういう考え直しとか、対話とか、自己内対話。そんなことをぜひ入れていただけたら私個人としてはうれしいなとは思いますけれども。

○ 「新しい時代」ということで、委員から科学技術の問題が提言されている。一つの切り口としてそういう指摘がありまして、私もなるほどとは思うのですが、今の若者というのはどういう状況に置かれているかというと、歴史的にいうと、「コペンハーゲン」という劇にも出てきますが、要するにルネサンスで、世界の中心は人間だということで、科学を人間はつくり出してきた。気がついてみたら、人間が中心の世界ではなくて、科学技術という壮大な神殿の中で、人間は片隅で、それに恐れて拝礼しているという、そういう姿が感ぜられたというような類の台詞がありました。今、ある意味ではそのことが若者たちの科学技術に対する不信という形で出てきているわけですね。
 それは結局、人間中心というふうに新しい世界を構成しようとしているときに、人間はまさに科学技術をその一つの手段として選んだのだろうと思うのです。当時描かれたラファエロの「アテネの学園」という絵を見ると、真ん中にプラトンとアリストテレスがいて、プラトンが天を指し、アリストテレスが地を指して、哲学とサイエンスを示したと言われているわけですが、その延長線上が今になっている。では、その延長線上の今の若者たちが何を頼りに生きているかというと、今、鳥居分科会長は「昔」とおっしゃったけれども、つまり「知識人としての共有財産の脈絡あるリスト」ということで、その線に沿ってやってきて、今になったらそれが否定され出した。私は、きっかけはやっぱり原爆だと思うのですけれどもね。ですから、そういう状況は今の若者はよくわかっているわけですね。ですから、何を頼りにしていくのかという話のときに、理性、悟性、それの結果として出てきたサイエンスというようなものが実は頼りなくなってしまっているということに対する非常な不安感みたいなものがあるわけですね。
 そういう状況を考えた場合、教養を定義できるのだろうか。「新しい時代の教養」を定義するというのは、少なくとも私には手に余ることですから、書けるとすれば、少なくともこれだけはやったほうがいいよという方法論を書いておく。あと、必要な、考えなきゃならないことはこういうことを考えなきゃいけないとか、ああいうことを考えなきゃいけないということを書いておくというぐらいで、それ以上は踏み込めないなというのが実感だったのです。いや、そうじゃない。ちゃんとあるんだ、というなら、ぜひそれを教えていただきたいと思うし。若者が科学技術に対する否定的な印象を非常に強く持ち始めている、あるいはむしろそれに対する拒否的な姿勢を出しているというような若者が増えてきている状況の中で、科学技術だけを切り口にして教養が定義できるのだろうかというのは、私は非常に難しいような気がするのです。だから、どうしたらいいだろうかと。

○ いや、科学技術をもとにして定義しろなんて私は思っていないし、そういうことは一言も言っていません。定義なんかできないですよ、教養というのは。多様性を認めるものが、まず第一に教養なのであって、教養を定義しろなんていったって、そんなのはできない。そうではなくて、私が思うのは、「新しい時代」というのは何なんだということぐらいは言えるでしょうと言っているのであって。教養の定義なんてちょっとできない。だけれども、「新しい時代」と言っているのだから、「新しい時代」というものに対しての認識というようなことは、例えば科学技術は私たちに影響を与えているとか、科学を知っている人が、逆に言うと教養がないからいろいろ環境破壊をするような科学開発をしてしまったりとか、そういうことが問題だということの認識ぐらいはあってもいいのではないかと言っているだけであって、教養を定義しろなんてことはできない。難しいですよ、それを定義するということは。
 もう少しつけ加えるならば、今は21世紀になって、ネット社会であるということを嫌というほど私たちは認識したと思うのです。それとか、最近の「複雑性の科学」なんかでもそうなのですけれども、非常に極端なことを言うと、ここで何か不用意にごみを燃やしたものが地球全体の環境に影響を与えるなんてことは今までわかっていなかったですから、知らないで、自分だけやっているんならいいだろうといって、山の奥で勝手なことをやっていたら、それが全体の温暖化に関係してくるとかね。そういうことというのは、無教養で、自分と人とは関係ないだろうとやっていたら関係があったというのは、これはすごく大事なことです。そういう意味でいったら、科学技術の知識が何もないといったら、これは昔の野蛮人ですよ、そんなこともわからないというのは。
 遺伝子の問題だってそうだし、今の牛骨粉の問題もそうだと思うのですけれども、そんなもの関係ないだろうという感じでやったら非常に大きな影響を及ぼしているわけです。原子力発電所の原因だってそうだと思うのですけれども、ある意味でいったら科学技術に対して全く無教養だったので、面倒くさいからバケツでやっちゃえばいいというようなことをやった結果、どうなったかといったら、多くの人が迷惑しているわけです。
 そういう意味でいくと、別に科学技術が大事だとかということではなくて、嫌でもこれだけこの中に入ってきちゃっていて、例えば下水に変なものを流したことによりあれになるというようなことを身に付けてくれなきゃやっぱり困るのです。だけれども、そういうことの根底にあるのは恐らく、人間とは何なのかとか、たぶんもっと深いものがあるのであって、初等においては、自分だけよければいいのではないよということをやっぱり教えてあげなきゃいけない。自分だけよければいいとか、迷惑をかけないというのはどういうことなのといったときに、山の中にこもってたき火をするのだって迷惑になるかもしれない。そういうようなことが新しい時代にわかってきたことであって、人間社会から出て行っちゃって勝手なことをやればいいというものでもないですよとか、いろいろな問題が出てきていると思うのです。
 もちろん昔からの問題で、友達とのつき合い方とかそういうのは変わらない面もあるかもしれないし、人間関係の問題というようなことで、『論語』に書いてあったとかそういうことでも、今だって「そうだな」と思うことはたくさんあると思うのですよ。だけれども、何回も言っているように、時代背景が変わったことにより、少し修正せざるを得ないことというのはやっぱり出てきているわけであって、それを教えないと、ただ単に昔と同じことというのでは……。昔と本当に同じなのだったら、答申の最初に「昔と同じです」と書いて、そのほかはなし。昔と同じことをやりなさいといって、最初のリストが出ておしまいとか、それで終わりですよね。そういうことを言いたいだけなのですけれども。

○ 今おっしゃった「新しい」という、なぜ今こういう議論をして、こういう答申を出すのかという切り口として科学技術の問題が投げかけている、プラス・マイナスいろいろな人間の在り方についての問題と、それから、さっき申し上げたことですけれども、国際社会あるいは日本国内の社会の秩序の形成の在り方が非常にこれからは難しい時期に直面しているのだと。その二つの面を一つの切り口として、自分自身の在り方、内的な根拠とおっしゃいましたがそういう問題、それと外とのつながりとか、そういうことを改めて問わなければいけない。その中でやっていくためには古典的な教養も必要だろうと思いますし、それに尽きない、何かあるかもしれませんので、切り口としてやっぱり「社会秩序」と「科学技術」というようなことのあたりが、それは二つともつながっているのですけれども、強いて分析的に言えば二つの側面があるのではないか。その辺から何か書きようがないかなという感じはするのですけれども、いかがでしょうか。

○ 私はちょっとニュアンスが違うのですけれども、教養教育ということが重大なあれになっているのは、最近の、政治がうまくいかない、経済が全くうまくいかない、教育改革もうまくいかない、社会も乱れる、こういうもののすべての根底に、政治家、官僚あるいは学者も含めて、一般人を含めて、日本じゅうすべてに「教養」の喪失というのがある。私は、古典的教養の喪失だと思うのです。やはり哲学、歴史、文学、詩歌、物語、こういうものの教養をなくしてしまった。
 これはどういうことかというと、要するにここ最近非常なアメリカニゼーションということがはやって、論理が跋扈し過ぎている、合理が跋扈し過ぎているということです。先ほどから科学を敵視するようなあれがありますけれども、科学は決して敵ではない。要するに、敵は、論理だけの跋扈、あるいは合理精神のみの跋扈、効率追求の跋扈なのですね。これがアメリカニゼーションの本質なわけです。こういうものに身を託していると、常にいろいろな変化に対して対症療法しかできないのですね。なぜなら、長期的視野を持つとか、大局的判断を持つには、どうしても教養とか情緒ということが必要になってくるわけです。そこで私は、情緒力というものが一つの切り口になるのではないかと思うわけです。
 例を申し上げますと、例えば情緒の例として「卑怯を憎む」。これは小学校、中学校でのいじめというものにすぐ影響してきます。「卑怯を憎む心」を小さいときから育てるということですね。あるいは「他人の不幸に対する敏感さ」というものを育てる。今、市場経済というのが跋扈しています。これというのは必ず貧富の差を大きくするものですね。あるいは民族間の貧富の差、いろいろな差を大きくするものです。それに対しての歯止めにもなるわけです。あるいは侵略国家になることの歯止めになる。そういう意味でも「他人の不幸に対する敏感さ」というのは重要です。
 あるいは、「日本人としてのアイデンティティを高める」。これがないと日本語とか、日本の文化・伝統を大切にするという気持ちが出てきません。あるいは漢字を大切にする。片仮名英語ばかり使うと、そういうものを大事にする気持ちが出てきません。あるいは家族愛というものをきちんと育てる。そうすると、すぐに少子化というものに対しての歯止めになる可能性があるわけですね。家族というのはとてもいいものだ、そういうものを体験しない限り、少子化を防ぐなんてことはとてもできないわけです。赤ちゃんを産んだら御褒美にボーナスをあげるなんてしても何の意味もない話です。
 あるいは、郷土愛とか、祖国愛とか、そういうものを家族愛と同時につくれば、これは当然自分の国の文化・伝統ということのみならず、他国の人々の同じ思いですね。他国の人々もやはり同じように家族を愛し、郷土を愛し、祖国を愛しているのだと、そういう気持ちが深く理解できる。そうすると、これはやはり軍国化への傾斜を妨げる力になる。
 あるいは、美しいものに感動する力は、自然科学を志す人にとっては最も重要な情緒なのですね。これがない人は、幾ら知能指数が高かろうと、偏差値が高かろうと、問題外なのですね。1,000万人に1人の知能があっても何の意味もない話。こういう意味で、自然科学とかそういうものを発展させるために必要な情緒。あるいは、「もののあはれ」というものをきちんと培っていれば、実利社会の儚さということがわかってくるわけです。『方丈記』とか、『徒然草』に書いてあるとおりです。
 論理ももちろん大事ですけれども、アメリカニズムのもとで論理があまりにも20世紀に強調されてきた。それは重要なものですが、それだけでは人類はうまくいかないということが、現在の日本だけではなくて、世界の混迷の大きな原因だと思っているわけです。この論理一辺倒を補うものとして、今言ったような情緒などを学ばないといけない、身に付けないといけない。これを日本人がきちんと身に付けて、そして世界に発信して、世界の人々に、論理だけではうまくいかないのだと。産業革命以来それで人類は突っ走ってきたけれども、それだけではうまくいかないのだということを教えていかないといけない、世界に誇るべき情緒です。特に「もののあはれ」なんていうのはそうです。小学教育の大目標に掲げてもいいようなものです。
 こういうものは、方法的にはやはり歴史を学び、文学を学び、詩歌を詠んだり、叙情小説を読んで涙を流したり、物語に感動したりということ、すなわち読書経験―読書だけではありません。自然に親しむこととか、友達とつき合ったり、仲良くなったりけんかしたり、全部含めてですけれども、そういうものが主力。特にその中でも読書が主力になるというわけです。そのための国語力ということを小学校で。
 したがって、私がこの会に出席して以来、常に読書と国語力というものを強調してきたのには、実はそのような伏線があって、日本を再生する、世界を救うほとんど唯一の手だてだと私は信じているから、そのように申し上げてきました。

○ 鳥居分科会長
 今、委員から、アメリカナイゼーション、要するにアメリカの合理主義のまねをする云々というお話がありましたが、本体のアメリカでは、一方では科学の進歩、合理主義が突っ走る中で、必ずそれとバランスをとって、教会を中心とする信仰の世界もあり、クエーカー教徒の人たちに代表される生活文化もあり、いろいろなものがあったのだけれども、日本のほうは前者だけまねしたということでしょうかね。

○ アメリカは多様性の国ですからいろいろなことをやる人がいて、あらゆる多様性があって、しかも失敗を恐れず実験をして、それをちゃんと評価して、だめならまた直して別のことができる国ですから。日本はそういう制度もなければあれもないので、十分気をつけてやらないと、表面だけアメリカをまねするというのは、やっぱりいい結果になっていないです。結局、今日本でやっていることは表層のまねだけですから。だったらもう全部の制度も全部アメリカに変えてくれ、そこまでアメリカが好きならば、という感じになっちゃう。

○ 鳥居分科会長
 委員はさっき3ページについてはかなり克明にお話をされまして、「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」の「ア」の前、あるいは「ア」に置き換えてというので文章をちゃんとおっしゃったのですけれども、あれをもう一回おっしゃっていただけますか。

○ 私の読み上げたものは、「かつて教養の大部分は古典などの読書を通して得られた。近年、読書は軽視される風潮にあるが、21世紀においても依然として教養の中心となるべきものである。」、そのように申しました。これをトップに持ってきてほしいということです。

○ 鳥居分科会長
 トップというのは、「ア」と置き換えちゃえという提案ですよね。
 もう一つ質問なのですが、「ウ」と「エ」について先生は何とおっしゃったのですか。

○ これは私は褒めたのです、よいと。ただ、その最後の行の「初等教育における教養教育の基礎に」というところを「初等教育の基軸として」と。「教養教育」と矮小化しない。

○ 鳥居分科会長
 それから、「エ」の「修養的教養」、つまり礼儀・作法などの型から入る話は何とおっしゃったのですか。

○ これについては何もお話ししませんでした。話さなかったということは、大賛成ということです。こういうものは、やはり先ほど言った戦後の教育の、論理的に説明できることだけを教えるという、これは完全な誤りだったわけです。礼儀や作法は何の論理もありません。何で礼儀が必要か、作法は何で必要か。しかし、武道であろうと、あるいは花とか茶でも、何であろうと、最初は理屈も話さずに必ず型をたたき込みますね。これが最も重要なことで、これが先人の知恵ということですね。これは家庭及び学校において容赦なくたたき込む。そういう意味で「エ」というのは非常に重要な条項だと思いました。

○ 国語が重要だというのは、私も国語は重要だと思うのですけれども、今風に言うのだったら、やっぱり「情報を得る力」だと思うのですよね。例えば、インターネットで情報を見るにしたって国語力がなければ読めないから、国語と言われれば国語なのですけれども、私がちょっと思ったのは、今はメディアというのが多様化していますし、先ほども他の先生がおっしゃったように、例えば一枚の絵が語るという、そういうようなものもあるとかいろいろなことを考えると、国語は確かにその中でも最も情報を得るための力としては重要だと思います。それと日本語ということをとにかく習得することは非常に重要だと思うし、そのことを最初に言うのはいいのですけれども、やっぱりもっと広く言うならば、「情報を得る力」というようなものがあって、それは必ずしも本の形がこれからだと紙に印刷されるだけではなくて、例えばネットの中にもあるわけだし、いろいろなところにあるわけなので、そういうことのニュアンスも少し出ないと、「新しい時代」というので紙の本だけというと、紙がなくなるかもしれないし、もうちょっと書き方に工夫が、と思ったのです。

○ 鳥居分科会長
 先ほどの文脈の中では、今、委員がおっしゃったのと他の委員がかねてから主張しておられるのと、同じ場所でオーバーラップして書くか、1行違えて書くか、ちょっと考える必要があるかもしれませんが、ちょっとそこは検討させていただきます。

○ 木村副会長
 たぶん出るだろうと思っていました御意見がやはり出ました。教養の問題はとても難しい。委員の皆さんが、一見同じようなことを言っておられるようですが、実はものすごく違っているのと思います。ワーキング・グループの議論の中でも同じようなことが起きます。審議会の答申というのは、どうしてもこのような形にならざるを得ないというところがあります。ワーキング・グループの中で出された意見に基づいて、骨子をつくって、それに肉づけをしていくというやり方をすると、「メリハリがない」とか、「定義がない」という批判が必ず出ますが、私はこれはしようがないと思っています。
 先ほど言っていただいたように、やはり「教養」についての定義はできないのではないでしょうか。自分自身が経験してきた教育の枠の中ではできますが、国民全部に訴えるような「教養」の定義はできないのではないでしょうか。私は、委員の御意見に大賛成で、新しい時代だから今こういうのが要るのだということは書かなきゃいけない。また、私の思っていることを言っていただいたのですが、当時の中曽根文部大臣の諮問文が実によくできているのですね。その辺のところを入れれば、新しい時代にどういうことが必要だということについてはある程度書けるかなと思っています。私自身は、「教養」の定義については勘弁してほしいと思っています。委員が言われたようなことは正しいのだと思うのですけれども、国民全体にそれを訴えかけられるかということについてはなかなか難しいところがありますね。例えば高等学校卒業者についていうと20%は専門学校へ行き、30%は就職します。いろいろなタイプの国民がいますから、そこに対して共通に訴えていくということになると、具体的な方法論をある程度出さざるを得ないと思っています。
 随分御意見をいただきましたので、分科会長、それから事務局と相談しながら少し修文させて頂きたいと思います。また、冒頭に申し上げたように文章に凸凹がありますので、それをならしていく作業も少しやってみたいと思います。
 ただ、これはいつも申し上げるのですが、審議会の答申は、最大公約数にならざるを得ないというところだけは御理解いただきたいと思います。自分はこう言ったのだがそれが入っていない、それは許さん、というように言われますと非常に困りますので、その辺については御寛容の気持ちをお持ちいただきたいと思います。少し相談して、やり直させていただきたいと思います。何度も申し上げますけれども、これは骨子案に肉をつけただけということでございますので、当然本日のような御批判が出るのは覚悟しておりました。

○ 鳥居分科会長
 大変ありがとうございました。
 私も御意見をいただいたものをできるだけテークノートしたつもりでございます。そして、テークノートしながら、これはとても大事なことを我々は書き落としているなと思ったところがたくさんあります。とりわけ最初の「教養の危機」のところでは、なぜ「教養」なのかということは、「教養」の定義でないにしても書かなきゃいけない。それについては幾つかの御発言がありました。社会の秩序をつくっていく上での根底となる内的な判断、そのようなものを我々はもう少しうまい表現で、それを忘れてしまっている日本人に訴えるというようなページになるのではないかと思います。
 これから木村先生と事務局と御相談して、もう1回素案を用意いたしまして次回出すということにさせていただきたいと思います。なお、どんな形でも結構でございますので、御意見がございましたら、ファクスでも結構ですし、お電話でも結構ですし、Eメールでも結構でございますから、事務局にお寄せいただければありがたいと思います。ひとつよろしくお願いいたします。

○ 事務局
 スケジュールについては、来週火曜日、11月27日でございますが、案のほうは「11時」となっておりますけれども、できれば10時からということで。本日と同じ場所でございます。

○ 木村副会長
 その時点でも、ある程度のものが出てくるかどうかという点については保証がないものですから、ひょっとするともう一度お願いするということになるかもしれません。

○ 今日は非常に大事な意見がたくさん出ましたから、日程を延ばしていただいたらどうでしょう。私、いいかげんなものを審議していくと、結局大変なことになると思うのですよ。たぶん、木村先生はいろいろな腹案を、今黙って聞きながらいろいろなことを考えられたと思いますので、2~3週間は要るのではないでしょうか。

○ 鳥居分科会長
 委員の御提案はありがたいではないですか。どう思いますか。

○ 事務局
 ちょっと調整させていただきたいと思います。

○ 鳥居分科会長
 では、次回はペンディングということで今日はお別れすると。では、そのようにさせていただきます。どうもありがとうございました。

お問合せ先

生涯学習政策局政策課

-- 登録:平成21年以前 --