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教育制度分科会(第8回) 議事録

1.日時

平成13年10月10日(水曜日) 14時~16時

2.場所

文部科学省分館201・202特別会議室

3.議題

  1. 新しい時代における教養教育の在り方について

4.出席者

委員

 鳥居会長、茂木副会長、奥谷委員、竹内委員、田村委員、永井委員、藤原委員、船津委員、森委員、横山委員

文部科学省

 近藤生涯学習政策局長、寺脇生涯学習政策局審議官、名取主任社会教育官、山中生涯学習政策局政策課長、その他関係官

5.議事録

○ 鳥居分科会長
 それでは、ただいまから中教審の教育制度分科会第8回を開催させていただきます。
 「新しい時代における教養教育の在り方について」、このテーマにつきまして分科会をずっと続けてきましたと同時に、ヒアリングもやってまいりましたし、更にワーキング・グループで素案をまとめていただいたわけでございます。「新しい時代における教養教育の在り方について」という素案が、おかげさまでまとまりました。
 今日は、ワーキング・グループの座長である木村副会長が、どうしても御出席になれませんで、誠に残念ですが、ワーキング・グループに参加されました皆様には、9月21日と10月4日、2度にわたりまして大変精力的に御検討を進めてくださいましたことに、感謝申し上げたいと思います。
 これからこの「骨子案」を御審議いただくわけでございますけれども、問題は公開するかどうかという問題なのですが、事務局とも御相談いたしまして、教養教育という問題については、マスコミをはじめ、一般の方々も大変強い関心を持っておられますので、むしろ公開をしたほうがよろしいのではないかと思いますが、よろしゅうございましょうか。もし御異議がなければ、公開ということにさせていただきたいと思います。(委員了承)。
 先ほど申しましたように、木村副会長がどうしても今日は御出席になれませんので、「骨子案」につきまして、事務局からかわって御説明をお願いしたいと思います。

○ 事務局
 「骨子案」、資料1に基づきまして、御説明させていただきたいと思います。
 この「骨子案」でございますけれども、まず「第1章」ということで、「今なぜ『教養』なのか」ということについて、体系的な知を獲得する努力やそれに基づいた価値観の構築への努力が尊重されなくなっている、そういう「教養の危機」について初めに記述したらどうか。中間まとめでも、戦後教育の総括も踏まえた危機が記述されておりますが、それらも膨らました形で記述することになると思います。
 そういう中で、「新しい時代にふさわしい教養の必要性」ということで、21世紀の「知識社会」の中での人間の生き方と知識とのつながりを復活させるという意味での教養教育の重要性、また、国際化した社会の中で、それにふさわしい教養の再構築が必要であるということを言っております。
 「第2章」で、「新しい時代に求められる教養とは何か」ということでございますけれども、「教養とは」ということで、教養とは、個人が社会と関わり、経験を積み、体系的な知識や知恵を獲得する過程で、人格全体の訓練を行い、蓄積される人間観、世界観、自然観などの価値観の総称であり、教養教育とは「知性と感性の融合を軸とした人格形成」という形でまとめております。
 新しい時代に求められる教養を構成するものでは、現在の時点で、今申し上げましたような教養を見通して、特に強調されるべき視点ということで、幾つか挙げております。規範意識や倫理性、バランス感覚などの感性、身体的能力や精神的能力を含めた教養が必要ではないか。あるいは、礼儀・作法というような修養的教養も重要ではないかという点でございます。
 それから、日本人としての思考や行動の規範となるような、民俗文化やそれが体現された習慣や伝統行事の重要性も再認識すべきではないか。
 また、グローバル化時代において、世界市民の教養として、他者に対する理解とか、特に宗教に関する理解は不可欠ではないか。また、外国語によるコミュニケーション能力も言っております。
 あと、生涯にわたり学習し続ける、あるいは社会としての品格も記述してございます。
 「第3章」として、では「どのように教養を培っていくのか」ということでございますけれども、ここは中間まとめでは、主体的な態度や意欲と、異文化との接触という二つの点が挙げられておりましたけれども、これに加えまして、一般知識化された多様な専門的知識を獲得・統合するような知的な技能を養うことも重要な点ということで挙げております。専門知識を一般知識化するのは専門家のほうの役割というふうにとらえております。
 次に2ページに移りまして、では具体的にどういう形での教養教育の取組になるかという点でございますけれども、「第1節」は「初等中等教育段階までの教養教育」ということでございます。初等中等教育段階までの教育の在り方ということですが、先ほどの前半で全般的な問題点を申し上げますけれども、加えて、我が国の子どもたちをめぐっては、学ぶことへのモチベーションの低さ、社会性や規範意識の希薄化などの課題が存在しているということで、まずは学校に入りますまでの幼児期からの家庭教育ということで、しつけを含めた幼児期からの家庭教育は教養教育の原点。幼児期にあいさつやことわざなど、我が国の風土の中で生まれた共通の生活習慣、あるいは行動様式・思考方法としての「生活文化の型(かたち)」を教えて、公共の中での行動の規範となるようなものを身に付けさせることが必要である。
 プラス、小学校に入りまして以降ですけれども、生涯にわたって教養の基盤として不可欠な、基礎的・基本的な知識・技能や自ら学び自ら考える力、豊かな情緒などを身に付けさせることが必要である、ということで総括しております。
 具体的な方策ということで、これは小・中・高でございますけれども、昨年の中間報告の段階では、「基礎・基本の徹底」「自ら学び、自ら考える力の育成」「豊かな人間性の基盤づくり」、この3本柱でございましたが、後ほど御紹介しますが、もう一つ「教員の資質向上」を柱に加えております。
 「基礎・基本の徹底」ということで、多様な個性は、基礎的・基本的な知識・技能の確実な習得を基盤に各自が主体的に学ぶことによって伸ばせる。特に初等中等教育段階においては、基礎・基本を全力を注いで指導する。特に国語の力はすべての基盤であり、重要であるということを言っております。
 具体的な取組といたしまして、基礎・基本の徹底のためのきめ細やかな指導体制。ここでは基本的な事項についての反復的な練習とか、個別の家庭学習課題――これは有り体に言いますと、宿題もしっかり出そうということだと思います。それから、放課後等の補習とか、そういうものもやる。
 あと国語能力という面で、読書指導の充実。例えば、「朝の10分間読書」運動というのがございますが、そのようなものをやっていこう。
 更に、学校の教育活動の評価といった、検証するような仕組みづくりも考えようということでございます。
 続きまして、「自ら学び、自ら考える力の育成」ということで、ここでも学習習慣、粘り強く取り組む態度を学校教育の中で取り上げていこう。一つは、体験的な学習の充実ということで、インターンシップとか、地域のいろいろな人材の活用等。
 また、学ぶ意欲にこたえるということで、発展的な学習とか、補充的な学習といった指導上の工夫もしっかりしよう。
 それから、知・徳・体のバランスのとれた教育も行おうということでございます。
 このほか、高等学校での総合的な学習の時間で、教養教育の時間としての活用とか、いろいろな点が挙げられていたところでございます。
 「豊かな人間性の基盤づくり」という面では、特に学校・家庭・地域が一体となった取組ということで、体験活動でございますけれども、伝統的な行事など生活文化に参加する、あるいは学校もそういうものを積極的に取り入れるといった、地域の文化財などへの視点が挙げられております。
 また、世界の宗教とか、異文化に対する理解を促進する取組も挙げられております。
 「教員の資質向上」という点につきましては、社会体験研修などの教員研修の充実とか、教員のボランティア活動への取組とか、教員の評価方法の工夫等が挙げられているところでございます。
 次に、「第2節」ということで、これは昨年の12月の中間まとめにもございましたが、「初等中等教育と高等教育との接続」、具体的に言いますと大学の入試がいたずらに断片的な知識の多寡とか、あるいは決められた時間内にいかに効率的に答えを見つけ出すかというところをポイントに絞って入試が行われている。高校以下の教養教育を実質的に充実するといっても、それを難しくしているのではないかという視点でございますが、このあたりはワーキング・グループのほうで今後また更に検討という部分でございます。
 続きまして、4ページからでございますが、ここは「高等教育段階における教養教育」ということで、この部分はかなり充実してございます。「高等教育段階における教養教育の在り方」ということですが、高等教育段階においては、社会の中での自己の役割や在り方を認識し、より高いものを目指していくことを意図した知的訓練を学生生活全体を通じて行うことが人格の陶冶にとって重要だということで、若干、日本の教養教育を振り返っております。
 戦後、アメリカのリベラルアーツ教育をモデルに一般教育が導入されたということですが、理念は非常にいいのですけれども、問題点という面では、少人数教育等の教育条件の整備という点で十分ではなかった点、あるいは教養部と専門学部、専門教育の連携の点があります。あるいは、設置基準におきまして、振り返りますと、以前は大学の授業科目というのは、一般教育科目、外国語、体育保健、専門と分かれていまして、一般教育の中がまた人文・社会・自然と分かれて、12単位ずつという型にはまっていたわけです。そういう形での教養教育が、多様な大学の実態に合わなかった。学生にとっては、教養教育の内容と高校での教育内容の差がはっきりしない。教えるほうにとっては、専門教育担当と一般教育担当との役割分担が不明確という点があったのではないか。
 このようなことを踏まえまして、平成3年、大学審議会が答申をして、大綱化を行ったわけですけれども、それ以降、「くさび型」のカリキュラムの編成などカリキュラム改革が行われて、あるいは全学的な教養教育の実施体制が導入されたり、セメスター制とか学生による授業評価が行われてきたわけです。
 現状として、教養教育に対する教員の意識改革の不十分さとか、取組へのインセンティブの不足、あるいは教養部に代わる実施体制が不明確になってしまった、あるいは学部教育自体に対する学校あるいは学生側の目的意識の不十分さ、こんなことが相まって、教養教育の崩壊といいますか、解体ということも一部言われているわけでございます。
 こういう中で、ワーキング・グループのほうでは、新しい時代に対応した教養教育の再構築の必要性というものを打ち出したらどうだろう。気運も高まっている。今、大学評価・学位授与機構で、評価をするために、『国立大学における教養教育の取組の現状』という厚い冊子をまとめられまして、こういうところで、国立大学ですけれども、教養教育の状況を分析しています。大綱化以降、平成5、6年に教養教育のいろいろな改組が行われましたが、その後、少し数が減っていましたけれども、またここ平成12年、13年と大綱化以降と同じぐらいの教養教育の改組の取組が行われている。
 あるいは、法科大学院が検討されて、専門職を大学院レベルで養成しようという動きになっている中で、一体、例えば法学部の学部レベルではどういう教育を行うかという、学部レベル教育の見直しが迫られているという中で、学部教育を専門教育の基礎・基本と教養教育というものとして位置づけようということで、教養教育の再構築の気運が強まっているということがあるのではないか。これは木村先生がかなり言われていた部分でございます。
 そういう中で、学部教育全体を通じた教養教育の在り方を抜本的に見直して、再構築を行う。この場合の視点といたしまして、専門教育への入門教育とか、あるいは人文・社会・自然といった従来の学問分野の縦割りの知識伝達型の教養教育だけでなく、専門分化が進んでいる学問の共通基盤となるような知識・技能の獲得、あるいは人間としての在り方や生き方に関する深い洞察を養う教育が必要ではないか。これはワーキング・グループで、いわゆる教養を重視している大学のカリキュラムの例も参考にさせていただきまして、ICUとか、上智大学とか、南山大学では、例えば専門への入門教育ではなくて、総合的視野から問題の本質をとらえる柔軟で批判的な思考を育てる、学際的な内容とか、専門を異にするような複数の先生が担当するということで、例えば南山大学ですと、「異文化との出会い」「生命と環境」「知識・言語と情報社会」「モダンの系譜」、そんなふうなテーマから一つか二つ選んで、それを必修にさせるという感じでやっております。
 そのような内容とともに、先生のほうも専門知識をわかりやすく学生に提供して、自らの学問への姿勢とか、生き方を語ることで、感動を与える教養教育をぜひやってほしい。例えて言うならば、先生がやめますときに最終講義を行いますけれども、最終講義は非常に感動的なものが多い、いいものが多い。ああいうものを日ごろからやっていただくと非常にありがたいと。あれは1回だからできるという声もございまして、そういう感じで、ぜひ先生のほうもしっかりやってもらいたいということです。
 21世紀の大学にとって、教養教育は特に学部教育にとりまして専門教育と並ぶ車の両輪ということで位置付けて、大学の生き残りには教養教育の抜本的充実が不可避という形で書いております。
 5ページ以下は、具体的方策ということでございますけれども、これにつきましては、今のような問題意識を踏まえまして、カリキュラムの編成の改善ということで、各大学の理念に基づいた従来の学問分野にとらわれない学生の価値観の形成、あるいは知的好奇心を呼び起こすような科目をつくる。
 あるいは、教育方法の改善ということで、特にきめ細やかな指導のために少人数教育ができるような体制とか、教員の積極的な取組を促すシステム。
 あるいは、教養教育をやっていくために、5ページから6ページにかけてですが、各大学が連携してやる。例えば、インターネット等を使いまして、ほかの大学の授業を受講できるようにするとか、あるいは教養学部をやっています放送大学の授業を活用するといったようなことも重要ではないか。
 あるいは、優れた芸術文化に実際に触れて、感動プラスそれについての知識をしっかりと教えるといった、大学外の活動を活用してはどうかということがございました。
 あとは異文化との交流、あるいは教養教育の実施体制の点がございます。
 これは大体、4年制大学の学部教育が中心でございまして、短大とか、そのあたりは今後の検討ということになろうかと思います。
 「第4節」は、「生涯にわたり教養を培っていくために」ということで、小・中・高・大学と教養教育が充実すれば――ここまでは必要ないのかもしれませんけれども、ここでは具体的な方策ということで、生涯にわたって学び続けるための多様な学習機会の充実の点、7ページにいきまして、学んだ成果を生かして社会に参画するための仕組みづくり、それから、生涯にわたる教養の涵養を支援していくような社会の実現ということで、企業におけるボランティア休暇制度とか、いろいろな形で生涯にわたる社会人の教養を高める活動を支援するような仕組みを考えてはどうかということを挙げているところでございます。
 全体的に、一番初めの検討のときにも、せっかく中教審で報告していくということで、世の中にインパクトを与えるような具体的な提言を行えたらということが、ワーキング・グループの皆さんの御意識にあったのではないかと思っています。
 以上でございます。

○ 鳥居分科会長
 今御説明いただきましたように、「第1章」から「第3章」までの構成になっておりまして、「第3章」が大変長いものになっています。前回の「審議のまとめ」(平成12年12月)のものと比べていただきますとわかりますように、ほぼ同じ章立てになっておりますけれども、かなり踏み込んで書こうというつもりで「骨子案」ができています。それから、一部、前回の「審議のまとめ」にはなかったものがつけ加えられておりまして、6ページの「第4節」などは新しくつけ加えられたものでございます。
 そういうことを念頭に置いていただきまして、「骨子案」の構造や一つ一つのディテールについて御意見を賜ればありがたいと思います。

○ 教養教育の中で、歴史教育というのは大体どのように考えていらっしゃるのですか。

○ 鳥居分科会長
 今までの審議の過程では、古典とか、歴史という問題は、少なくとも「審議のまとめ」をまとめるときの昨年までの議論ではたびたび出ましてね。今度の新しい審議会になってからは、そこに重点を置き過ぎた教養論についての反省みたいな話が少し出始めているというのが経過だと思います。

○ 事務局
 昨年の「審議のまとめ」の中では、6ページ、7ページに、今、分科会長からございましたように御議論がございましたので、まとめてございます。

○ そう申しますのは、日本の歴史教育というのは中途半端なのです。私の経験からしましても、やはり体系立てて教えたほうがいいのではないでしょうか。要するに、あちこちで教えるのではなくて、教養の中の重要な部分だと思うのです。何か少しずつ細切れに教えているという感じを受けます。殊に最近の話、間近の歴史を教わる機会があまりないとよく言われています。対外的に歴史問題の理解を深めるということもありましてね。もう少し国民全体が共通の認識を歴史について持てるようにするべきなのだけれども、今、バラバラにやっているという感じがしますのでね。歴史を教えるというのはかなり客観的に教えなくてはいけないわけですけれども、どこでどうやるかというのは、教養教育の中で重要な部分なのだろうと思います。

○ 鳥居分科会長
 日本の歴史の教え方で一番難しいのは、対立的な歴史観という問題があって、お互い遠慮しちゃう、あるいは教えにくいところが非常にあるので、そこを迂回しようとしてきた歴史がありますよね。イギリスの歴史なんか見ていると、例えば名誉革命のあたりなんていうのは、もうはっきりしていて、子どもたちはあそこのところの歴史を教わることによって、王様がお金がなくて、しょうがないから、ごまかして国民にお札で出した。「この紙切れを持っていれば、お金と同じだよ」と言ってくれたおかげで、今で言うところのお札ができたんだという歴史として、イギリスの子どもは理解します。日本では、むしろ名誉革命というのは権利のアピールとしての歴史観だけでとらえます。そういうところの割り切り方が少し違うのです。
 教養というのは、例えば今の例を考えてみると、国民の「王様はそれほど権利を持っていないんだよ」というアピールと同時に、あのときお札ができたのだという歴史的な事実を知っていることが、実は教養のもう一つの側面だと思います。そういうことがもしできるようになれば、日本の歴史教育は変わっていくし、教養教育の重要な一部をなしていくように思います。

○ 事務局
 昨年の「審議のまとめ」でかなり触れられている部分は、少しそちらにゆだねるというところがございまして、昨年の「審議のまとめ」でございますと、基礎学力とか、そういう中に歴史が入っているのだと思います。それから、新しい時代の教養ということで、国際化、情報化の中の日本人という観点から、伝統文化、歴史への理解とか、歴史についても触れております。

○ いつ教えるかということがあるのです。

○ 事務局
 体系的なというか、そういうニュアンスがあまり入ってございません。重要であるから、しっかり教えるという形でございます。

○ 全体的な構成のことなのですが、テーマは「新しい時代における教養教育の在り方」ですが、「第1章」と「第2章」は、「今なぜ『教養』なのか」「教養とは何か」で、それはそれでいいと思いますが、「第2章」の上から3行目を見ますと、「教養とは」と言いながら、「教養教育とは」となってくるのです。そこでちょっと混乱があるので、私は「第2章」のここは、「教養とは」というのを「知性と感性の融合を軸とした人格形成」と1行で言ってしまって、その後、「個人が社会と関わり……」とか、詳しく説明するほうがいいのではないかと思います。で、「教養教育」については、「第3章」以下で述べられるのではないかと思うのです。
 それで「第3章」ですが、先ほど事務局のほうから、大学が詳し過ぎるとおっしゃったのですが、これは詳しくていいのですが、大学があまり重いと、読んだ人は、じゃ、大学へ行かないと教養は積めないのか、という誤解を招きかねないので。今まではいわゆる知識人とか、教養人とかという一部の人が独占していた教養を、「一人一人」という言葉があちこちに出てきますが、これは「国民一人一人」という意味だと思いますが、一人一人に今は教養が必要なのだと言っているのですから、大学進学率40何%というものの、あんまり「大学、大学」と言うと、これは大学へ行かないとやっぱりだめなのかな、ということになりかねないので、生涯学習のところが入っていますけれども、その辺はどんなふうに考えたらいいのか、ワーキング・グループのお考えをお伺いしたいのですが。

○ 事務局
 重くといいますか、初等中等教育のところが、先ほどの「審議のまとめ」でも、「基礎・基本の徹底」とか、「自ら学び、自ら考える力の育成」、それから「豊かな人間性の基盤づくり」ということで、具体的に書いてあったのでございますけれども、高等教育段階のところはそのあたりが、「カリキュラムとしての教養教育」「カリキュラム外の教養教育」ということで、あまり具体的に書いていなかったということもあって、更に具体的に書いたということであったかと思います。

○ ワーキング・グループの議論はそうだったのです。今まで大学が十分に議論されなかったということで、あえてここで議論して、骨子案は大学のほうが中心になってしまったのですが、前の部分は「審議のまとめ」に出ているからということで、あまり議論を深めなかったという経過があります。ですから、今日御意見をいただいて、全体のバランスをとるような形にはなっていくと思います。そういう経緯がございました。

○ 前回の部分を基本的に取り入れられて、不足した部分を今回の骨子案ではたくさん入れたと、そういう理解をすればいいんですか。

○ そうですね。ですから、最終案は、先ほど委員が指摘された初等中等教育に関わる部分ももちろん足して構成していこうと。ただ、大学のほうはほとんど議論されていなかったという嫌いがあったものですからね。

○ インパクトがあるかどうかという点で見ると、全くの落第点ですね。これはいかなるインパクトもありません。なぜインパクトがないかというと、どこに書いてあることも全部正しいことなんですね。正しいことの羅列である、断片である。結局は、その中で何が最も本質なのか、あるいはその幾つもの正しい断片の底に何が流れているのか。その部分を摘出する、あるいは指摘することが、この委員会の義務であって、正しいことを並べるなんてこれはだれでもできることで、こんなものを書いてもだれも読んでくれないし、日本の教育は良くならないということです。
 したがって、ここに幾つも正しいこと、全部正しくて、何にも文句をつけられないのですが、その本当のかなめにあるものは一体何なのか、それを探る作業、議論が絶対に必要である。それは中央教育審議会であろうと、教育に関する審議会というのはそこだけだと。それをちゃんとやってほしいと、そのように思います。

○ 鳥居分科会長
 委員のおっしゃった、ここに書いてあること、あるいはここに書くべきことの底に流れるものは、私も大事だと思うのです。それはむしろこの分科会、あるいは中教審全体でそれぞれ御意見を出していただいて、組み込んでいくというか、この提言なり答申なりの底を流れる大きな柱にしていく必要があると思います。それで、委員の場合はどんなふうにお考えでしょうか。

○ 例えば、これの2ページの「第3章第1節」の「(2)」に、「特に国語の力はすべての基盤であり重要。」と書いてあります。これはほかのものと一緒に並べて書いてありますけれども、これは全然ボリュームの違うものなわけです。本質なわけです。
 先ほど、書いてあることは全部正しいと申しましたけれども、正しいことが全部書いてあるわけではないわけです。ほかに正しいことは幾らもあります。例えば、論理的思考の育成とか、それは書いてないです。あるいは、その他幾つもあると思います。
 結局、どうして国語がそれほど大事かということです。もちろん、ここではほかのものよりは強調されておりますけれども、例えば、言語技術ということは日本人として当然ですが、そのほかに、母国語というのは外国語と違って、すべての知的活動の基盤だということです。すべての知的活動。数学においても、国語ができないと数学はできません。そういう意味で、圧倒的である。
 あるいは、小学校、中学校で語彙をきちんと増やす。語彙の少ない人は、例えば最近の「キレた」とか「ムカツク」とか、そのような言葉しかできないような子どもは、その程度の思考しかできないということです。語彙というのはある意味で思考の内容までも規定しているわけです。したがって、語彙量が減ったということは思考力が低下しているということで、非常に大きなことです。そういう意味で、知的活動の多くのものの基盤である国語は、ほかのものとは全く次元が違う。
 第2に、先ほど論理的思考と申しましたが、論理的思考を育てるには、数学とか、算数が一番良いというのは、それは数学者や算数をやっている人の嘘であって、本当は国語が一番いいのです。言語を通して論理というものを教える。例えば、ディベート等で主張をさせる、あるいは主張を書かせる。なぜかというと、数学における論理と日常の論理とは全く違うのです。数学は黒か白の論理のみです。しかし、日常の論理に黒と白はないのです。人を殺してもいい場合があるわけですから、現在、死刑などで殺しているわけです。したがって、すべて灰色なわけです。したがって、数学とは全然違うのです。それはやはり言語を通してきちんと論理的思考を育てる。それが第2番目の理由です。
 第3番目の理由は、日本人としてのアイデンティティをきちんと子どものうちに身に付けさせる。例えば、家族愛から始まって、郷土愛、祖国愛、それから人類愛。そういう愛をきちんと伝えていく。これは先生や親は語る言葉を持っておりません、一般的に言って。したがって、国語を通していろいろなものを読んで、家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛を高めていく。これはその後になって、国際人として活躍するためにどうしても必要なものです。英語ができる、世界の地理を知っている、歴史を知っている、作法を知っている、そんなもので国際人には全くなれません。日本人としてのルーツがしっかりしているかどうかです。そうでない人間は、世界に出て問題にされないということです。
 4番目に、最近の多くの問題の根本にある、日本人の情緒力の不足ということです。例えば、先ほど言ったような愛もそうですし、あるいは「もののあはれ」というような情緒、あるいは他人の不幸に対する敏感さ、かわいそうなものへの惻隠の情とか、あるいは美しいものへの感動力とか、これは数学とか自然科学を目指す上で最も重要な情緒です。このような情緒も、例えば日本の昔からある美しい詩歌とか、文学とか、叙情小説等を読んで培う。それだけではありません。もちろん芸術に触れる、自然に親しむことも必要ですが、やはり中心には物を読んでいく。
 国語というのはだから、言語技術のほかに、今言った四つぐらいのものすごく大きなものが、ここに散りばめてある幾つもの現象の多くをカバーするかなめにあるわけです。そういう点で、初等中等教育においては、国語の質及び量の圧倒的充実ということです。これをきちんとうたわないと、日本の教育はどうしようもならないということです。正しいことを幾ら網羅しても何の意味もないということです。そこがかなめである。
 教養教育に翻れば、教養教育の基礎もやはり読書ということがあるわけです。読書文化の復活ということです。もちろん体験も必要ですし、出会いも必要ですけれども、それだけではやはり圧倒的に足りないわけです。したがって、読書。そのための基礎としての国語力ですね。そういった点から、ほとんどすべてのものの中心に国語を視座として据える。これ以外に日本の教育を立て直すことは全く無理である。今度、文化審議会のほうからも国語力の充実ということが出てきますけれども、中央教育審議会のほうでも国語の質と量の圧倒的充実というような、力強い表現をぜひ入れてほしいと思います。

○ 12月に出しました「審議のまとめ」と今回の骨子案の関係は、先ほどの説明で大体わかったような気がするのですが、一つ、これは文章になっていないので、私の読み取り方が十分でないのかもわかりませんけれども、例えば「第1章」の「今なぜ『教養』なのか」というのがありまして、全体のタイトル、章立ては、基本的にこれまでのやつを踏襲しているということで、それは結構だと思います。「『教養の危機』の現状」という、かぎ括弧をつけてはあるのですが、確かに戦後目指した教養教育というのが、ある意味では失敗しているわけですから、教養教育の危機といえば危機なのでしょうけれども、それは「審議のまとめ」の中では、いわゆる時代や歴史の転換期における一つの混迷の中で、将来に対する不安とかそういう状況の中で、自分がどう生きていくかということに必ずしも確信が持てないでいる大人が多いということなどを書いている。ただ、物質的に豊かになった中で、たしか、これからは心の教育とか、あるいは国際貢献という一つの新しい価値観が芽生えてきているという脈絡で第1章は書かれていたと、私は記憶しているのです。
 ここで、「教養の危機」という、確かに冷静に見て危機的状況にはあるのかもしれませんけれども、「教養の危機」に至る背景の中に、特に気になるのは「宗教などの軽視等」と。確かに日本は、国民全体がある意味では無信教というか、無宗教というか、信仰心が全体的にないので。「教養の危機」の状況が「宗教などの軽視」ということで、ではだれが軽視したのか。別に学校教育の中でも、宗教教育というのは、私立学校以外は特段行われていないわけです。確かに宗教というのは、今回のアメリカの同時テロを含めて、イスラム教というのはどういう宗教なのか、国民も大半の人は正確には知っていないという中で、世界のいろいろな宗教に対する正しい理解を持つことは非常に重要になってきているわけです。これまでの戦後の教養教育の中で、現場の教員から言わせても、宗教を別に取りたてて軽視するようなことを自分がしたという意識は誰もないのです。国民全体がある意味でそうなのでね。
 そこで、ここに今までなかった「宗教などの軽視等」というのが唐突に出てきたような感じがして、ここで軽視ということで指摘をすれば、当然、これからの教養教育の再構築という中で、宗教心をどのように培っていくかということを入れなければ、ここに書く意味がないわけで。この辺のところは、前に鳥居分科会長が、子どもたちに自分の家が何宗教を信仰しているかというのを書かせようとしたけれども、先生方の猛反発を食らってできなかったというお話をされたように、宗教の問題については、言わんとしている意味はわかるような気がするけれども、現実にどう取り扱うかということになると、これは議論を相当積み重ねないと、具体的に宗教教育を今の公教育の中で、どういう形で、どういう時間をとってやるのかということについては、私はコンセンサスがあるというふうには思えないのでね。
 この辺のところは、項目を一応挙げてあるので、文章化したときにはよほど注意して書かなければならないのではないかなということで、「宗教の軽視」というのが3行目に出てきたので、ちょっと気になったので、そのような意見を申し上げておきたいと思います。
 それから、高等教育のところは、確かにこれまで十分な議論がなされていなかったし、基本的にこういうことで、かなり精緻に書くことは必要なのかもしれないということで、私も理解できるのです。
 それから、意見と質問と混ざりますけれども、これは私もそういう考え方で、2ページ目の2行目の「これまでの教育改革の在り方を検証することが必要。」ということは、前回も意見として申し上げたのですが、それはそれで書かれてはいるし、諮問文にもあるので、今後、中間まとめなり最終報告の中で、「教育改革の在り方の検証」の具体的な内容を書くような形になっているのか。問題の指摘ということで挙げられるだけなのか。ワーキング・グループ等で教育改革の在り方の検証について、どういう議論があったのか。
 戦後、新制大学で目指した教養教育の問題点みたいなものは、高等教育のところで成果と問題点で出ていますが、そのことはそれでいいのですが、全体として「個人の全人格的な資質や能力の育成という観点から、これまでの教育改革の在り方を検証することが必要。」だといって、どういうことを指摘したいと考えていらっしゃるのか、もし議論があったとすれば教えていただきたい。
 それから、その四、五行下の、「◇」の二つ目に「思考方法としての『生活文化の型(かたち)』を教え、公共の中での行動の規範となるものを身に付けさせることが必要。」とありますが、「思考方法としての『生活文化の型(かたち)』」という、かぎ括弧のついている中身が十分イメージがわきませんので、これはどのようなことを指しているのか。今までの「審議のまとめ」にはこんな言葉はなかったのではないか。「型」を重視するというのを能の方が強調されたことは、ちょっとそういう文章があります。「生活文化の型(かたち)」というのはそのことを指して言っているのかどうか、教えていただきたい。
 それから、具体的な方策の中で、点線で囲った中に「放課後の個別指導や補習」ということが書かれています。これもそれぞれの学校や子どもの実態に合わせて、必要なときに補習授業として遅れている子どもを放課後教えるとか、逆に発展的な学習をする子どもを個別に教えるということは、当然、習熟度別なり何なりを含めて、これからはそういうことが入ってくるとは思うのですけれども、ここでこのように一般的な形で書くと、どうも日本の学校というのは、中教審なら中教審が「放課後の個別指導や補習」と書けば、一斉にまたそういうことが競争的に始まるような雰囲気がありますのでね。ここにこういうふうに書くことについては、一時期、受験のために朝、開始前に1時間授業をしたりとか、塾とか予備校が少ない地域に行くと、学校が結局、そういうことを受け持たざるを得ないといって、やっているところがあるのです。遅くなって暗くなって補習授業をするということで、親からもいろいろクレームがつくとかということもあります。これはそれぞれの学校が自主的に判断して、必要なときに必要な個別指導や補習授業等をするということで、中教審の報告の中に、そのことを今この時期に挙げることについてはいかがなものかなということで、やや否定的な考えを持っていることを申し上げておきます。
 それから、委員からもありました、国語力をつけるということは、母国語として非常に大事なことで、その意味で「図書館の機能強化」ということで、これは前にも図書館の機能を強化するためには、やはり司書を配置すべきではないかということが、この分科会で最初のころに出ましたよね。そういうことについて、「教職員定数の更なる改善等」の中にそれが含まれてはいるのだと思いますが、図書館はきちんとした司書の人がいないと、なかなか機能が充実していかない。図書は買っても、あける時間が、正規の先生が放課後になって空き時間にあけるということになりますから、ぜひ今後、単なる図書だけでなくて、メディアとか、インターネットを含めた、学校の中での一つのセンター的な機能を持ったものにするということであれば、当然、そこに人を配置する、スタッフを配置するということが、ある程度読み取れるような文章にしたほうがいいのではないかということが、今、パッと目を通して気づいた点でございます。

○ 鳥居分科会長
 ありがとうございました。委員の提起された問題の中で、ワーキング・グループの経過として御説明しておいたほうがいいことがあれば、先にお願いしたいのですけれども。

○ では、気がついたところだけ申し上げますが、「放課後の個別指導や補習」というのは、もうちょっときめ細かく書く必要があったのだと思いますが、初等中等教育と言ってしまうと問題が大きいわけですね。ただ、小学校とか、要するに6歳から12歳ですと、その年代であれば当然のこととして、エリクソンが言うように発達課題は勤勉性ですから、やらせるという部分が相当出てこないと具合が悪いわけです。その際には、家へ帰ってもやるというような宿題を出したり、あるいは放課後指導したりということはやらないと、その年代の子はやれないのではないかという議論から、こういう表現が出てくるのです。これは大学受験のために高校生をやれという話ではないのです、議論の中身は。そこのところはちょっと誤解されると思いますね、確かに書き方が。
 確かにおっしゃるように、「0時間」というやつで、朝1時間早く来て、終わりは8時間、9時間というので、やっていますよね。あれはもう滅茶苦茶だと思うので。ああいうようなことをやりたい人はやったっていいけれども、全体としてやれというのは、私は問題があると思うし、やめたほうがいいと思います。議論はそういう議論ではなくて、もっと若年のときに、何かよくわからない子たちに宿題も何もやらないで、夏休みも全く宿題を出さないということで、それではまずいだろうという話から出てきた表現だということを御理解いただきたいと思います。これは書き方をきちんと書いたほうがいいと思います。
 それから、宗教の問題ですけれども、基本的にいろいろ議論の中で出てきているのは、ワーキング・グループでやった話は、結局、戦後の教育というのはやさしく言うと、やったほうがいいということは教えているのだけれども、やってはいけないというのは全然教えていないではないか。やってはいけないというのは、別の言い方をするとタブーということですから、それは必ず宗教にかかわってきます。例えば、イギリスのシチズンシップといいますか、市民教育も、一つの柱として5大宗教でしたかね、これを教えるということがはっきり出されているわけです。そういう議論を日本の教育が、公教育は宗教に関わらないということだけで、触れないでいいのだろうか。宗教として触れられないのなら、ほかの形で触れる必要があるだろう。これは一つの表現としては、「思考方法としての『生活文化の型(かたち)』」という言い方なら納得してもらえるかなという話も出ていたのです。宗教と言えばそれで済んでしまうのですが、その辺、どうしたらいいかということなのです。

○ 鳥居分科会長
 たぶん入り方が逆なのだと思うのです。小さい子どもに善悪というのを教えるとき、一番単純な教え方の一つは、日本の刑法の第3条に罪が全部書いてあるわけです。殺人とか何とか。これをやっちゃいけないというのは一番簡単な教え方なのだけれども、そうではなくて、例えば仏教でいうと、人のものを盗んではいけないとか、姦淫の罪を犯してはいけないとかと書いてあって、その罪を犯すと、六道のどこかに落ちる。人間界から地獄界までのどこかに落ちる。そこに落ち込んでしまったら全体抜けられないのだけれども、いいことをして一生暮らしたやつは、その上の世界、菩薩の世界とか何とかに入れる。だから、悪いことをしてはいけないという説明がつくわけです。キリスト教でも同じですよね。タルムードに書いてあるあれも同じだと思います。「そっちにはこんなふうに書いてあるよ」と教えることは、宗教を押しつけることとか、信仰の中におまえ入れということとは別のことだという考え方を、そろそろ日本の教育の中にその程度のことは入れてもいいのではないかと思ったのです。

○ 先ほど委員が日本人としてのアイデンティティということを御指摘されたのは、私も大賛成で、大事なのですけれども、この文章の中に、日本の昔からある民俗を大事にして、とにかく伝統行事をしっかりやろうではないかというような――1ページ目の「第2章」の「(2)」の二つ目の「◇」のところに、「民俗文化やそれが体現された習慣や伝統行事等の重要性を再認識すべき」というのは、そういう趣旨で、これをしっかりやろうよという趣旨で言って、表現に入れたのです。子どものときからそういうことをやることで、日本人としてのアイデンティティ、家族愛から始まって、祖国を愛する、人類を愛するということは、伝統行事の中にはっきりあるわけです。昔から日本人は田植えをやるときには、地の神様に祈って、生命を育んでくれるお米を大切にする。それを育てるというところを、田植え祭とか、まあ、三大田植え祭というのが日本にはあるわけです。そういうのも今、全然教えていないわけですけれども、そういうものを教えることによって、だんだんに心の中に育っていくのではないだろうかという表現で、教え方のやり方としてこういうことを書いたという、そういう議論があったことを申し上げたいと思います。

○ 先ほど委員からのお話があったように、国語の重要性という中に、論理的思考云々ということで、その中の中心になる自己責任とか、自立というのは、この中にはどこにも謳っていないのでしょうか。
 あと、教員の資質の向上とか書いていらっしゃいますけれども、やはり教員がサラリーマン化してしまっているというのが一番大きな問題だと思います。そこに聖職だ何だかんだというものを建前で書けても、かなり乖離してしまっている実態というのがあって、人材の流動化みたいなシステムが、教員の中にないのではないか。例えば退職させるようなことができるかどうか、中学校の校長に人事権があるかないかということもありますし、流動化させるシステムをつくらないと、幾ら教員の資質問題化にもまたインセンティブがどうのこうのといっても、実態とはそぐわないのではないか。
 それから、大学の教養教育のカリキュラムの編成の改善と書いていますが、むしろ大学に対してはカリキュラムを自由化させて、文科省がどうのこうと言うことは全く必要ないのではないか。むしろ自由化させることで、教養の科目を自分たちで考える力、大学の独自性ができてくるわけです。ですから、ここの改善するという必要性はないのではないかという気がします。

○ 鳥居分科会長
 自己責任の話は、議論が若干出て、2ページの一番下のほうにちょっと出ているのです。だけど、委員がおっしゃったような意味の自己責任の涵養、子どものときからそういう感覚を養っていくというか、それはもうちょっとはっきり書いたほうがいいだろうと思います。
 あと大学については、今おっしゃった大学の自由に任せるというのは、私は大原則として本当に大事な原則だと思います。今回このような中教審の提言が世の中に出たとき、大学に対してはどういう役割を果たすかといったら、何にも考えないで、自分の専門分野だけで生きている先生たちに刺激を与える。大学というのはそんなことをしていたのではだめなんだよという刺激を与える役をしたいという意味で、私はこの仕事をしているつもりで、何かある種の規制枠とか、大学にある種のノルムをつくって見せてやる、このとおりやれよと言うつもりはないのです。ただ、中教審としてどうしたらいいかというのは御議論をいただくべきことだと思います。

○ 結局、大学について文科省がいろいろ介入することによって、大学の主体性がなくなってしまっているというので、大学自体が余計に弱体化していると思うのです。変な補助金を出して……。

○ 二つのことを申し上げたいと思います。
 一つは、何回か前の会議で、システム思考という話をしたと思います。システム思考というのは、原点を決めて、最重要課題ですね、それと関連するものを展開していく、簡単に言えばそういうことだと思います。ここに書かれていることは何でも書いてあるので、何かだれか意見を言うと、いや、それは何ページの何番目に書いてあるとか、そのことを委員も言われたのだと思うのですが。会長も、システム思考でいきますかねとチラッとおっしゃったのを今でも記憶しているのですが、そういう観点からこれを再構成していただけるとどうなるのかなということを考えていたのです。
 国語は私は大事だと思いますが、教育改革国民会議でも「国語、国語」と言っていたのですが、1行になって、ヘッドラインにまで出なかったのが残念なのですが。あまり総花的にならないほうがいい、顔が見えませんから。前の報告書でも、「教養とは」というので、私はもうちょっと概念を整理したらどうですかと言いまして、整理されたのですが、整理というのは並列的な分類ではないので。ですから、「更に」とか、「または」と書いてあるわけです。そうではなくて、一番大事なのはこれですということで、それが個性であり、特色だと思いますが、そういうことがないといけないのではないかと思います。
 2番目は、それと絡んで、インパクトがないということなのですが、インパクトを持たせるには、委員がおっしゃったようなことでアプローチしていくのもいいですが、教養のない人とある人はここが違うよといったようなことを出すとか、トフラーのフューチュー・ショックの話をしましたけれども、あそこでは70歳の老人が教養のある人として死にたいといって、21世紀の研究会に参加するのです。非常に感動的な話なのですが、そういう話とか。さっき、大学の最終講義は感動するけれどもという話が出ましたけれども、ドイツのプロフェッサー・シェルスキーは着任講義で感動させて、それが有名な『自由と孤独』という本になっているのです。それから、日本文学のわからない英文学者は信用できないとか、何かインパクトのある具体的な例を載せたらどうか。
 そういうことを言いながら、家庭教育、初等中等教育、大学教育、生涯学習というレベルで、「アイデンティティ」でも、「国語」でも、キーワードがはっきり出されたらもう少しいいのではないかという気がいたします。
 「第1章」の「今なぜ『教養』なのか」というところで、確かにアイデンティティが欠けていると思いますが、「アイデンティティ」という言葉自体が私はあまり好きではないのです。これは日本語に訳すとバラバラで、いろいろな意見があります。アメリカへ行って初めてアイデンティティの意味がわかったということを江崎さんが本に書いていまして、日本人はアイデンティティがわかっていないとおっしゃっていましたけれども、それを読んで私もあ、そうかな、と思ったのですが、アイデンティティがないから歴史認識も生まれてこないし、歴史認識がないからアイデンティティが生まれないのかもしれませんが、これはわかりませんが、ともかくシステム思考で原点で顔を出すということと、インパクトのある表現方法もあるのではないかということを申し上げておきます。

○ 先ほど何人かの委員がおっしゃったのですが、全体を流れる基礎的なトーンということで、これはたぶん最初に、我々がどのような社会にしていくかというイメージが弱いと、それこそ弱くなるのだという話が最初にあったと思います。なかなかそれは難しいという話があったのですが。
 「第2章」の「(2)」の「品格を備えた社会」というのは、この間、ちょうど私が行っていたスコットランドのパブリックスクールが、ブレア首相の出身校で、労働党の大会がありまして、ブレア首相は演説がすごくうまいですけれども、私の下手な英語のキャッチだと、「ディーセント・ソサエティー」とすごく言っていたと思います。例えば、「今なぜ『教養』なのか」というのは、「ディーセント・ソサエティー」とか、「品格を備えた社会」を目指すとか、そういうところを持っていくと多少いいのではないかということを一つ思います。
 それから、「教養の危機」に関係してですけれども、今、「常識力検定試験」というのがあるのです。1級から3級までありまして、1級は身近な職場とか、対人関係のものであって、70点以上取ったら合格なのです。だんだんグレードが上がっていって、3級が政治経済とか、国際社会。これは何を意味しているかというと、教養の危機でもあるけれども、常識の危機でもあるのです。さっき、委員が言われたように、一部の特権的教養ではなくて、もっと国民的なところで我々は考えていくということではないかというお話であったと思いますが、常識と教養の関係みたいなものも、「今なぜ『教養』なのか」というところにもしあれだったら入れられるといいのではないかという気もします。
 もちろん、委員が言ったように、何かポイントを絞っていくことが大切だと思いますが、そういう意味では、断片的に思うことですが、私、自分が大学の教師をしていて大切だと思うのは、事務局から「感動を与える最終講義のような授業」というお話がありましたが、なるほどそのとおりなのです。それから、委員が、最初の着任の授業が感動的な場合があるという話をされましたけれども、これは何で感動を呼ぶかというと、単に1回限りではないのです。要するに、自分のことを言うからだと思うのです。近代社会の学問というのは、自分を抜きにして、要するに客観主義ですよね。それが科学だという。だから、あらゆることは自分抜きの、自分は何か別のところにあって言うから、全く反発も感動も呼ばない。教養教育に大事なことは、教師がやはり自分のことを言う。これがすごく大事になるのではないか。自分がどうやって今まできたかとか、なぜこういうことをしゃべりたいのか。学生もそういうことを言うと、反発も出ると思うけれども、理解もしやすいと思います。授業の教え方とか、いろいろあるけれども、そういう問題は一つあるのではないかと思います。
 それから、私は放送大学の客員もやっていて、つくづく思うのですが、放送大学は非常にサポーティングシステムがあるわけで、いい授業になると思います。要するに、カメラマンからプロデューサーから、例えば資料を調べてほしい、これを取ってきてほしいと言えばやるし、私も現場へ行ってしますから。普通の大学では、授業のために、だれもサポートしてくれないわけだから、全然できないわけです。そうかといって、今、大衆大学の全部のところにサポートの人をつけろなんて言ったってだめだと思います。私は今度、フィルムができたらそうしようと思っているのですが、放送大学は45分なのです。あれを使って、あと45分は、例えば自分の授業にするとか、何かそういう組み合わせを――少しインターネットとかのことで書いてあったのですが、1人の先生が最初からずうっとしゃべるというのではなくて、組み合わせがいいのではないかと思います。
 確かにボランティアとかそういうことの大切さはあるのですが、アルバイトも実際はやっているのだから、自分がアルバイトをやったときの経験とか、いろいろなことを出して、単位になっていくようなこともあるといいのではないかと思います。

○ 事務局
 先ほどのお話でございますが、もちろん過去から文科省が大学にこういうふうにしろというのではないのですけれども、確かに今までは、ある種の善意というか、こうしたほうがいいと思うから、そうやったら予算をつけてあげるよみたいな方向の中で、大学の側が誘導されているかのような、実質上そういう状態になってきたということは否定できないだろうと思います。ただ、現在は独立行政法人化の方向の中で、そういうことについてのきちんとした抑制的姿勢は明確に考えておりますので、今度はここに何か出てきたからといって、それをやったところには予算をつけるよ的従来のやり方ではなしに、中教審のほうからこういう問題提起があったということを大学に伝えるという形で対応できるかと存じます。

○ 審議の中で、感動を与えるという話が出まして、それはいろいろ話されたのですけれども、要するに大学の先生は学問の水準を考えるから、経過で自分がこういう失敗をしたとか、こういう経験をしたということを、授業の中でなかなか言いにくいのだそうです。それが自己制御に働いてしまっているので、委員がおっしゃられたように、毒にも薬にもならないような、感動を与えない授業が結局はできてしまう。だれからも攻撃はされないけれども。それでは教養教育はできないだろうという話で、感動を与えるという話が出てきたのです。私どもが議論しているところでは、確かにそれが教養教育の原点だろう。つまり、人とつながりがなければ意味がないという点ですね。
 それから、先ほど委員がおっしゃった歴史教育の問題ですが、これは戦後、日本は社会科という教科にして、歴史をとっちゃったのです。その反省で、今、高等学校は歴史を復活して、社会科をなくしたわけです。地歴、公民という形になって、そういう意味では歴史教育はかなり整備されてきたのです。ただ、小学校、中学校は社会科でいっているわけです。そこに何か問題があるのかどうかということは、どこかで検証しなければいけないだろうと思いますが、そういう流れがあったことは確かにあります。

○ 今いろいろお話を伺っていて感じたことを幾つか申し上げたいのですが、小学校あるいは幼児の段階、あるいは中学校ぐらいまででいいのかもしれませんが、教養で大切だと思いますのは、さっき委員がおっしゃった国語です。私は、ここの分科会で前にも出したことがあるかもしれませんが、昭和22年に小学校を卒業したのです。国民学校です。小学校へ行っていないのです。私が入ったときに国民学校ができて、卒業したら国民学校がなくなってしまった。ですから、私は小学校飛び級で中学校へ行ったのだと言っているわけです。いずれにしても、私の年代から国語教育が弱くなったのです。その前はよかったのです。私の前の年までは、漢字なんかも私よりもたくさんの量を知っているのです。そういうことで、ある意味では寂しい思いをしたこともあるのです。
 ここでもう一つ、やはり国語の教育を見直して、むしろ私の1年上、つまり昭和9年生まれぐらいの人たちがやったぐらいの国語教育を、小学校の段階でやるべきだと思います。これは確かに委員がおっしゃるように、すべての基礎なんですね。すべての基礎でございまして、外国語がうまくなる人は、やはり国語がきちんとしているのです。同時通訳の人を聞いていると、訳し方がうまいのです。それだけやはり国語能力、国語の力があるということは、外国語を身に付けることにもなるということだと思いますので、国語に初等段階で力を入れることは、私も全く同感でございます。
 それから、この前、田村委員から出たマナーの問題ですね。これは「型(かたち)」ということで出ていますけれども、これも小学校あるいは中学校の段階でぜひ身に付けなくてはいけない教養ではないかと思います。
 それから、さっき宗教の問題が出ていたのですけれども、宗教と言うと、若干抵抗を感じる人もいるわけでありますけれども、その点、委員の言われた愛の問題ですね。これは家族愛、隣人愛、そういう形で教えるというのも一つの手なのかなという感じがいたします。
 この間、テロのときに、実は私はアメリカにいまして、たまたまホテルで追悼会がありました。私もその追悼会に出たのですが、宿泊客、従業員、それから近所の人も300人ぐらい集まりまして、星条旗を持って、みんな手をつなぐのです。それで黙祷をしてお祈りして、その後、「ゴッド・ブレス・アメリカ」という、国歌ではなくて国民歌の一つだと思いますが、これを歌うのです。これは犠牲になった方は気の毒だという意味もありますし、それから我々は団結してとにかく頑張ろうという意味もありまして、これは一つの愛の現れなのです。
 あれはどうやって教えるかというのは非常に難しいのですけれども、日本にはいつの間にかそういうものがなくなってしまったのです。これはぜひ小学校の段階で、宗教ということでもし抵抗があれば、そういう形でもよろしいのではないかと思いますが、教えるべきことではないかという感じがいたします。
 それから、大学レベルでは、さっき委員からもお話が出ましたけれども、要するに感動を与えるような授業という話ですが、学び方ですね、新しいことの学び方というのは、大学レベルの教育ではぜひ教えるべきであって、それを教えるためには、先生が、こういう学説があったとか、ああいう学説があるというのを学生に紹介することが大事ではないとは言いませんけれども、先生が自分でやられた研究を、こういうぐあいにしてものにしたのだという、そういう話ですね。これは非常に参考になるのではないかと思います。

○ 鳥居分科会長
 アメリカではくしゃみすると、必ず「ゴッド・ブレス・ユー」と言いますよね。言われたほうは「サンキュー」と言いますよね。要するに、くしゃみでさえゴッドが生きている世界と、我々とあんまり違い過ぎるのでね。どう考えたらいいのか、ほんと難しいですね。

○ 事務局
 教員の流動化のところでございますけれども、委員がおっしゃるように、教員の世界の中に、教員の免許とか、そういうものを持っていない方も積極的に入れていくべきではないかという議論がございまして、制度も幾つかつくっておりまして、特別非常勤制度で今までに1万数千人ぐらいやっています。あるいは、先生に本当になってしまうという特別免許状という制度もあるのですが、これも制度ができましてから10年たって、全国で44人ぐらいしか活用されていないという状況もあって、それは制度が悪いのではないか、本気でやる制度になっているのかということで、見直そうという感じで、これは昨日も初等中等教育分科会の教員養成部会で議論しております。そういうところももっと具体的にやっていこうということをやりたい。
 それから、遅ればせながら、先生に向いていないような人をいつまで先生にさせておくのだという点についても、この前の国会でようやく制度改正して、他の職に――公務員としては立派な方だけれども、どうも先生に向いていない方は、他の職に行っていただくという制度改正をやったりして、何とか公務員の中の人材の流動化といいますか、そういうものもシステムとしてまずつくっていこう。あとはそれぞれの市町村、あるいは県で、それをどうやってうまく使っていただくか。システムだけは何しろオープンな形にしようということを、今やろうということにしております。だんだん外から特別非常勤講師のようなことで入ってきつつあるという感じでございますけれども、もっとやらなければならないと思っております。

○ 今度の教養教育の考え方では、一つ、知性だけではなくて感性を盛ったところが一つの特色かと思ております。この中に、先生方が様々御指摘になった「もののあはれ」とか、感動のある授業とか、あるいは人格が伝わるというようなことも含まれているかと思います。
 書かれ方が箇条書き的になっているので、例えば、5ページにあります「1コマ50分間の授業を週2~3回」というのは、生徒の名前を覚えられるほど密度の濃い生徒と大学教授との関係を築いて、感性、あるいは知的な刺激プラスアルファのものを伝えられるようにということで書いているわけです。この辺、委員がおっしゃったように、まとめて書くというやり方もあるかなと。ただし、中教審というのはあまりものを主張しないで、中立的で、解釈は御自由というところがありますので、その辺がなかなか難しいかなという感じがしております。
 一つ、私が申し上げたいのは、委員が御指摘になるように、これは感性と言った以上、学校の中ですべてをやりきるわけにはいかないと思います。ですから申し上げているように、地域社会の出番、あるいは学校にいろいろな社会人が入って――最近、免許がなくても入ってこられるような事例が非常に多くなってまいりましたね。とてもいいことだと思います。文科省のほうで統計をとっておられないようなケースでも、私の周りでは非常に多くなっています。町の職人が入るとか。いろいろな人間に触れるというそのことだけでも、子どもにとってはるかにすばらしい。一人の先生があらゆることを教える、一人の人間しか見ていないということよりは、非常にいいことだと思います。
 あるいは、「第1章」がありまして、初中の後に生涯教育というのをつけまして、これが一体のもの。そして、大学のところは、むしろ大学改革の教養教育のサジェスチョンということでもいいわけですね。別立てにしてもいいかなという感想を持ちました。

○ それに乗るわけではないのですが、最後に申し上げようと思っていたのですが、6ページに「生涯にわたり教養を培っていくために」とあるのですが、ここのキーワードを見ますと、「学習機会の充実」「参画」「支援」ということで、どうも施設依存型、お上依存型の生涯学習をもっとやろうという姿勢があるのですね。生涯学習というのはもっと自立的に、依存心を抜きにしてやるのが中心なので。教養教育もまさにそうなので、そういう姿勢をもう少し出すべきではないかと思います。
 ですから、委員がおっしゃったように、初中の後に生涯学習でもいいですし、最後でも私はいいと思いますが、大学はちょっと重過ぎるし、さっきの50分何とかとなりますとね。そのレベルで言うなら、小・中でも、少人数学級の「ようこそ先輩」のようなね。これもトフラーが30年前に言っておることなのです。メントール・システムというのです。このメリットは二つあると。一つは、子どもが少子化していますから、親以外の大人と接することができる。これは大変なことなのです。大人のほうも、自分の子どものことしか知らないのに、自分の子ども以外の子どもを知ることができる。両方いいことだというので、トフラーが30年も前に言っていることが、やっと今実現しかかっている。ですから、トフラーというのは先見の明があったなと思うのです。そのくらいの目が中教審にもあれば、21世紀の教養教育も良くなるのではないか。

○ 鳥居分科会長
 今お二人からお話のあったのを受けて、またワーキング・グループで検討していただきますけれども、場合によるとその話は、発展していくと「初等中等教育段階における教養教育」という言葉よりも、「人格形成期の教養教育」とか、そういう言葉で置き換えられて、その一部として、初等中等教育においてこういうことも考えるという置き方もあり得るわけですね。人格形成期の教養の積み方と、生涯にわたる教養の話と並べていくという置き方にしたほうが、あるいは今の御趣旨に合うかもしれませんね。ちょっとワーキング・グループで検討していただいて。
 それから、日常生活における生活文化――文化というと、the way of lifeだと思いますが、その中での教養、あるいは教養ある生活文化というか、そういうとらえ方もあってもいいし。

○ 要するにインパクトある答申というのは、アトラクティブな形で示すということですよね。例えば国語というのはすごく重要なのだということは、一つそういうことだと思います。それと比べたらささいなことですが、私、前から思っているのですけれども、教師の研修というのが出ていまして、社会体験研修というのは結構だと思いますが、演劇をやったら一番いいと思うのです。教師って大勢の集団のパフォーマーなのです。だから、研修で演劇をやるとか、そういうのがいいと思うのです。たぶん、そういうのを嫌がるというのだったら、教師に向いていないと思うので、向いていない人がすぐわかると思います。もしインパクトというのが非常にクリアな、これをしたらいいのではないかというのをはっきりさせていくということでいうのなら、例えばそういうことになろうかと思うのです。ただ、非常にインパクトあらしめたほうがよろしいのか、さっき委員がおっしゃったけれども、もうちょっと中立的で、裁量の余地をたくさんしておいたほうがいいのか……。

○ あまりインパクトの塊になってもだめなのです。だから、一つか二つでいいのです。

○ 「品格を備えた社会」というのはとてもいいキャッチフレーズだと思います。

○ 先ほどの委員の話で、私は目からウロコが落ちたという感じがしたのは、書き方が要するに制度で書いているのですが、人間が成長していく過程を中心にして書くと、鳥居分科会長がまとめられたような形になりますね、書き方が。初等中等教育という書き方ではなくて、その人がオギャーと生まれて育っていく過程で、どの教養教育という切り口で書く。初等中等教育に生涯教育は当然のこととして入ってくるわけです。それは、あ、なるほど、とつくづく思いましたね。視点を変えると、それこそインパクトのある答申になるかもしれませんね。確かに今までそういう書き方をしていないですね。制度を大人の側から書いているのです。制度を中心にして。

○ 昔、そういう書き方は1冊だけ、文化庁が出した『文化の時代』というすばらしい冊子があるのです。それはとてもすばらしい。これを言い出すと、どなたかお一人、だれか書かなきゃならないのであれなのですけれども、非常にいいトーンで完結されて書いています。結局、ここに書いてあります細かいことは、それの解説書というのがございますね、その段階のものを書いていらっしゃるような感じがいたします。ですから、教養を書くときには、本当はどなたか、一つのトーンでコンセプトをお書きになると本当はいいと思います。

○ 委員のさっきのお話がよかったと思います。教養ある人間として死にたいという。そこから始まったらどうですか。

○ 鳥居分科会長
 社会全体としての教養のなさというか、教養の低下、喪失現象というのを、どこかに入れないといけないような気がしますけれどもね。
 私、父の戒名を決めるのに、お寺の坊さんと大論争したのです。「厳格」の「厳」という字を、簡単な「厳」という字にしたいのです、お坊さんは。ところが、先祖代々の戒名の中にあらわれる「厳」という字は、全部「巖」になっているわけです。私はそれにしてくれと言ったら、「だめだ」と言う。「どうしてだめなのですか」と聞いたら、「後世の者がわからなくなる」と言うのです。お坊さんでさえそのように言う時代になっているのです。こういうのは、世の中全体の教養といったらいいのか、何といったらいいのかわかりませんが、文科省選定の常用漢字とか、そういうものの影響を受けちゃったのかよくわからないのだけれども、とにかく水準が低下しているのです。

○ 「まえがき」に属することかもしれませんけれども、今、日本は非常に不景気というか、経済不況ということで、財界、経済界、経産省から文科省を経由して、例えば大学に対しては、世の中に出てすぐ役立つような人材を培えとか、初等教育に起業家精神を養えとか、中・高で株式や債券の知識を与えろとか、そういう教育は実はここに書いてあることと矛盾しているわけです。
 私なんかが考えるのは、現在、経済だけが不況でなくて、政治も非常にだめだ。財界も、官界も、学界も、鳥居先生のおっしゃるようにみんな落ちてきているわけです。それは何かというと、やはり教養が落ちてきている。あるいは、日本からエリートがいなくなってしまった。昔の旧制高校的なですね。すなわち、それはまさに教養なのです。歴史とか、文学とか、芸術とか、そのような全く役に立たない、そういうものを持っていないと、大局判断ができないのです。細かい判断は、MBAみたいなテクニカルな知識で対応できますが、大局判断、長期的判断は、どうしても教養が必要なわけです。これを日本が失ってしまった。そういうエリートを欠いている。決定的に欠いている。アメリカやイギリスやドイツ、フランスも、みんな育てているわけです。きちんとしたエリートです。国家のために命を投げ出す。そのかわりそのような教養を身に付けて、大局的判断、総合判断においては圧倒的に強い。そういう人材をつくってこなかったことが、一番大きな敗因なわけです。そういう点でも、教養教育というのは、日本の政治・経済すべてを立て直すための、直接的ではないけれども、間接的だけれども、最も本質的な役割である。最も遠い回り道のように見えるけれども、実はこれ以外にない道である。そういうこともどこかに、「まえがき」あたりにしのばせてほしいと思います。

○ 私、先生とほとんど同じなのです。そのとおりだと思います。昔、訳本で『教養が国を富ます』というのがTBSブリタニカから出ていましたけれども、個人の人格成長だけではなくて、教養でも、常識でもいいけれども、これはインフラなのです。つまり、コンセンサスがあるから、コストがかからないわけです。みんな無茶苦茶になってしまって、何のコンセンサスもなければ、社会的費用はすごく高くなるわけです。そういう意味で、今、委員がおっしゃったこととも関係するけれども、個人の人格形成で大事だということもいいのですが、そのことによって、国を富ますということは経済的な意味だけではないのですけれども、そういう視点というか、社会的な目に見えないインフラなのだという視点を、「第1章」のところに入れれば、委員のお話を聞きながら思いましたけれども、いいのではないかと思います。私自身、単にいいのではないかではなくて、そういう意味でも大切だと思います。

○ 委員がおっしゃった幾つかの御指摘で、多くの方々もその傾向の御意見のようでしたし、私も全く同感することがたくさんあるわけです。最初に旧中教審の「審議のまとめ」をいただいて読んだときの直感的な感想では、特に重要なのは国語の力であるということと、もう一つは品性、品格といったようなことについて注目すべきであるという文章に、私はひどく共感したという思いがあるわけで、一貫してその流れでずっと思っているのです。
 大学を中心に、今回、かなり審議されているようですが、私ども義務制を担当している立場から申し上げますと、今申しましたことは、小・中というようなところで、特に大事というところはだれも今まで指摘がなかったような気がするわけです。だれもというよりも、ここで書かれております文章のスタイルとか、あるいは中身については、私たちは何度もお目にかかっているわけです。指摘されている教育課程審議会、あるいはそのほか、教育改革の文章の中でも、キーワードとしては案外見ているわけです。現状としましては、そのこともいろいろなことで芽生えています。先ほどおっしゃいましたゲストティーチャーの件でも、教職員の流動化という問題についても、地方のレベルでも書道の先生が小学校の学級にどんどん入っている。私どもはその予算化をしておりますが、大工さんを入れるとか、そういうことも行われております。先生の配置転換の問題についても、現状が持ちこたえられない時代になっているわけです。どうしようもない先生を10何年、20年抱えて、現場が四苦八苦しているという中で、制度化されている。現状としてはいろいろな問題が既に出ているわけです。
 そういうことを考えながら、今お聞きしていると、示すべき中身としては、日本人としての生き方、根底にかかわる流れ、あるいは中核になるテーマが示されるのは本当にありがたいなと思います。それから、この文章そのものだけでも立派に読み解いて、現場で展開される人もたくさんいると思いますし、頼りにしてこれを読まれる方もいらっしゃると思います。
 そういうことも含めまして、本当はどういう書き方がいいのか、私は今はわかりませんけれども、やはり前文的にテーマなり、あるいはそこに流れる本質的なものを前に出していただいて、あと章の組み替え等も皆さん方の御意見で出ているようなことをまとめていただいたらと思います。御指摘のところは、読む場合には都合がいいところもたくさんありましたので、感想として申し上げました。

○ 先ほどの教養インフラ説ですけれども、全く同感なのですが、教養は富士山の裾野みたいなもので、富士山というのはハイジャックの飛行機ぐらいでつぶれないのです。そういう意味でも、まさに教育は国家百年の大計というのは、そういうことを言っているのではないかと思います。私は明治以来の総理大臣と文部大臣の新年のあいさつの演説を調べたことがあるのですが、ほとんどの文部大臣、総理大臣は、「教育は国家百年の大計」と言っているのです。ところが、その意味するところは、逃げ口上なのです。大事だよと言って、逃げているのです。そうではなくて、百年の大計ということは、毎年毎年、大事にしなければいけないということなのに、それを忘れているので、そういう意味で、教養インフラ説というのは賛成だということを申し上げておきます。

○ 鳥居分科会長
 昨年の「審議のまとめ」を取りまとめるときに問題になって、いつの間にか影が薄くなっているキーワードがもう一つあるのですが、委員の先ほどのお話で、論理的な思考はしっかりした母国語の力から出てくる。それから、家族愛から人類愛に至る愛も母国語が基本になっているというお話がずっとありました。これと並んで、古典。要するに、外国の教養教育では今でも古典を大事にしている。日本も古典というのはとても大事にしてきましたけれども、どこかで、まず一つは漢文軽視で、漢文というのは中国語ではないのだ、あれは古い時代の知恵を凝縮したものだという考え方に立てばよかったのだけれども、何となくどこかへいっちゃった。それから、欧米の古典も日本の教育から何となく軽く消えていった。このあたりはかつては議論したのですが、今回、あまり議論していないのです。それは、どうお考えになりますか。

○ 私は実は現在の小・中学校の国語の授業は、最もつまらない授業だと思っているのです。私は死ぬほど退屈でした。したがって、先ほど質と量と申しましたが、質も転換しないといけないわけです。実につまらない。例えば今の授業では、根掘り葉掘り文脈を分けて、いろいろ分析させる。それよりも先生のおっしゃったような漢詩ですね。漢詩というのは、確かに漢語文化圏の中心的なものですが、あれは美しい日本語のリズムの原型なのです。今、例えば85歳以上の作家たちは、みんな漢文の素読というのをやっていますから、文章がうまかったのです。最近の作家は非常に落ちています。あれを小さいときにしないために、美しい日本のリズムを会得し損なったということが大きいと思います。
 それから、日本の古典もそうです。例えば『平家物語』の「祇園精舎の……」、ああいうものを暗記させる。百人一首を暗記させるとか、そういうものをきちんと言えるということは、実は先ほど言った質と量の質のほうに入ってくるわけです。
 あるいは、小学校から「太郎さんと花子さんが」というようなことでなくて、例えば北原白秋のようなきちんとした詩人とか作家の詩とか文章を入れる。わからないなりにも、子どもたちはいろいろなものを学んでいく。あるいは、非常に記憶力の強いころで、それを暗唱する。そういうものを暗唱したら、これは一生の宝物です。そのときにわからなくても、20、30、40になって宝物になるわけです。そういうものをきちんと見直して教え込む。
 今のようなことは国語教育の中に入るわけですけれども、その方法としてこの答申にもう一つ、いつか言えばいいかと思っていたのですが、やはり強制力をもって子どもに教えるということです。現在、先生は生徒に教えるのではなくて、援助するという形になっているらしいのです。やはり強制力を取り戻す。例えば漢字を覚える。「右」はこういう字、「左」はこういう字ですと。あれほど退屈でつまらないことはないわけです。九九を覚える。これも本当につまらないことです。それはある程度の強制力を持たないとうまくいかない。強制力という言葉が唐突で書きにくい場合には、2ページかどこかに「きめ細かな指導」というのがありますね。基礎・基本の指導というところに、点線の四角で囲ったところに、「基礎・基本の徹底のためのきめ細やかな指導体制の充実」とあります。「きめ細やかな」だけではなくて、「厳しい」という言葉を一言入れるということです。そういうものがないと、非常につらいことです。それはお茶でも、お花でも、武道でも、何でも一番の基礎というのは、頭ごなしに強制されるわけです。理由なんか説明しないわけです。しかし、それが後になって、なるほど、と。いろいろな個人の、あるいは芸術的な形の凝集されたものだということが、後になってわかってくるわけです。したがって、教えるときに、「厳しい」ということも一言入れてくれれば、よほど先生たちは教えやすくなるし、これは家庭教育においても同じです。基礎・基本のかなめは国語であって、国語教育、あるいは算数でもそうですが、その徹底のためにそのようなことを一言でもいいから入れてくれれば、一言にしては非常に大きなインパクトを持つと思います。

○ 質の問題で、国語の場合は教科書が随分変わりましたから、中身が相当変わってきているわけです。中身としては古典、あるいは名句と言われるようなものよりも、現代詩、あるいは生活文といったようなことで、国語の教材そのものの中身が随分変わってきております。社会も同じように、歴史の問題でも、後半の近代史はほとんど飛ばすというような現状の中で、今言ったような時期に古典を考えたり、あるいは名文を覚えるというのは、本当に大切なことだと私自身はずっと思ってきたのですけれども、教科書からはどんどん消えていった。最近になって少しまた復活したところもあるようです。教育課程の中での古典への比重がずっと落ちたことも含めて、今後、教育改革の一つの視点にしなければならない問題ではないか。教育内容、特に教科書で取り上げている内容が変わっているので、その辺もつけ加えておきたいという気がいつもしています。

○ 今の古典の話ですが、皆様方御承知だと思いますが、アメリカで主として経営者対象に、古典とか、歴史とか、宗教とか、そういうもの教える学校としてアスペンインスティチュートというのがあるのです。

○ 鳥居分科会長
 グレートブックス。

○ そうそう。あれがここ30年ぐらいですかね、アメリカの一流の企業経営者になろうという人は、大部分が行っていると言っても過言でないくらいに、非常に人気があるのです。ですから、学生時代に勉強しても忘れしてしまうとか、勉強しなかったとか、そういう人が、40ないし40半ばぐらいになって、もう一遍勉強してみたいということで、また、企業のほうでもそういう素養があったほうが、幅広い意思決定ができるということで、送っているわけです。それは非常に人気があるのです。
 同じようなものを日本につくろうということで、つい3年ぐらい前にできたのです。これが企業の将来の経営者を育成する意味で、かなり人気があるということは御承知だと思います。私どもの会社も出しているのですが、行ってくると、「いやあ、すごい勉強になった」と言っていますね。殊に日本ではそういう機会がないのです。生涯教育といいますか、生涯教育の中における教養教育の一つの例だろうと思います。

○ 鳥居分科会長
 今のお話のアスペンのグレートブックスのシリーズについては、「審議のまとめ」をつくったとき、ちょっと話が出たのです。出たのですが、ここに載せるほどの話には発展しなかったのと、メンバーも入れ替わりましたのでいつの間にか消えたのですが、とてもあれは重要なので、ちょっと後で調べていただいて……。

○ あれはすごくしぼるのです。さっき厳しいという話がありましたけれども、すごいリーディング・アサインメントで、こんなに読まされるのです。

○ 鳥居分科会長
 それから、先ほど委員のお話にあった素読、暗唱も、アスペンでやらせるのですね。一番わかりやすいのが、リンカーンの演説とか、独立宣言とか、独立宣言は割と長いのですが、リンカーンの演説は、ちょうどしゃべって3分間なのですが、それが全部言えないと合格しないのです。あれを覚えた人は、それが自分の文体になるのです。すばらしく美しい文章ですから。

○ 質問なのですが、「新しい時代にふさわしい品格を備えた社会」という、この「品格」というのは討論なされたのですか。「品格」というイメージ。

○ 鳥居分科会長
 したといえばしたと思いますが、私の理解では「教養ある」というのが「品格ある社会」だと思いますが、皆さんの御意見を……。

○ 一人一人の品格というか、教養がある社会が、品格があるということではないでしょうか。

○ 鳥居分科会長
 大体そんな感じで意思統一がされているとは思いますが、もし何か御意見があれば。

○ 「品格、品格」と割にこの言葉が簡単に出てくるのですけれども、今、「品格」が崩れているというか、イメージが違ってきているというか、「卑しい」の反対の「品格」なのか、そこのところがちょっときちんとしない。「教養がある」のが「品格」とイコールになるのか、教養があっても卑しい人がいる場合もありますし、そこの部分がちょっと自分で……。

○ シビライズド(civilized)とか、リスペクタブル(respectable)ということだと思います。リスペクタブルな人間になっていく。尊敬され得る人間ということだと思います。

○ 国際社会に展開していく中で、国とか人間として尊敬されるというか、尊重されるというか、敬意を払われるということを、「品格」という言い方をしているのです。言葉が通じなくても、尊敬できる人がいますね。それを「品格」という言い方をしている。だから、人間として立派という言い方――宗教がどうしても入ってくると思っているのです。そういうような話だと思います。
 ただ、厳しいという話で申し上げますが、なかなか難しいなと思うのは、「七五三」という現象があるのです。つまり、現行、大したことを教えていないという学校教育の、小学校卒業生で小学校のことがわかっているのは7割なのです。中学生は5割、高校に至っては3割しかわからないで卒業しているわけです。それをどう解決したらいいかということを議論しないで、厳しくきめ細かくやると、非常に大変だなという感じが率直にあるのです。そこのところをどのように説明するか。私は反対しているわけではないのです。それは非常に大事なことだと思いますが、そのテーマは現実にあるのです。
 昔は厳しくて、今はやさしくなったというように、認識としてはあるのですが、教わる内容は年々増えているのです。我々が習った生物とか、理科の内容、それから数学もそうですし、歴史なんかもものすごく増えているわけです、習っているのを見ますと。そういう意味では、今の子は健闘していると思うのです。そこのところを配慮しながら書いておかないと、天の上で議論しているというふうにとられる危険があると思います。初等中等教育は特にですね。
 高等教育も、実はこれだけ普及してきますと、そういうことが通用する高等教育と、通用しない高等教育があるのだろうという気がするのです。その辺の書き方が難しいのです。だからといって、厳しさがなくていいとは、もちろん考えていないのですけれどもね。その辺をどのように言うかですね。どうやったらいいのか。
 それから、我々のときには習わなかったコンピュータとか、英語に関していえば、今の子はすごく力があるのです。それと古典とのバランスをどうとらせるかですね。古典だけやって、英語やコンピュータはやらなくていいというわけにいかないだろうと思いますし、その辺のところをどのように書き込むかというのは、実際書くとなると非常に難しいと思います。

○ もちろん、それが中核ですね。先ほど一番最初にお話しした、何が本質かという、そこの部分ですね。英語が大事なのか、パソコンが大事なのか、国語が大事なのか。そこをきちんと中央教育審議会としては、国語なんだと、それをはっきり断言するということです。もちろん、ほかは大事ではないということはありません。やはりそれが中核中の中核である。それは教養の中核であり、文化の中核でもあるわけです。それはやはりきちんとする。それがなければ、これは全く動脈の通っていない人体模型になってしまいます。まずそれをはっきりしてほしい。
 それと、先ほどちょっと言い忘れましたけれども、教養ある国民とか、品格ある社会とか、文化薫る社会というのは、国際的に尊敬されるというほとんど唯一の条件であるということのほかに、それは別の角度から見ると、日本の防衛力になるわけです。非常に強い防衛力です。例えば、明治維新のころ、アジア中が植民地化されます。日本は、当然、武力的にはイギリスにも、フランスにも、アメリカにもかなわなかった。しかし、向こうの人たちが来てみると、江戸の人々が本を立ち読みしていた。あるいは、識字率が50%近かった。これは世界でも飛び抜けて高かった。こういう国の人々に対して、帝国主義の論理、すなわち優等なる国民が劣等なる国民のために統治してあげるという論理は使えなくなったわけです。そういうことが一つは非常に大きな防衛力にもなるのだと。
 あるいは、第2次世界大戦で、東京、大阪は丸焼けにされましたけれども、京都や奈良は爆撃されませんでした。そのように、軍事だけではなくて、品格ある社会、あるいは美しい田園、あるいは教養ある人々、これは防衛力にもなるのだということも、難しいかもしれませんけれども、一言ぐらいつけ加えていただければ、より迫力が出ると思います。

○ 鳥居分科会長
 アメリカでは、最近また子どもたちにペン習字を大事にさせる学校や幼稚園が少し出てきました。たしか去年出た、こんな小さな絵本みたいな本ですけれども、『神様への手紙』という日本でも翻訳されていますが、左側のページにはペン習字で子どもたちが書いて、「ディア・ゴッド……」何とかかんとか。こっち側にはそれを日本語でほんの数行書いて、「神様、何としてください」。そのペン習字は本当に幼い字なのですが、やはり習わされている手書きの字なのです。ただ自然にどこかで見たら書いたというのではなくて。ワープロは一つも入っていない。そういう文化を残そう、もう1回復活させようという動きは、アメリカでも起こっていると思います。国語を大事にするということは、「読み書き」の「書き」のところも本当に大事だということだと思います。
 時間がちょうどまいりましたので、もしよろしければこの分科会での御意見をいただきまして、今日はとても大事な御意見をいろいろいただいたと思いますので、これをワーキング・グループに戻させていただきたいと思います。この後、2回ほど、今日の御意見をもとにしてワーキング・グループを行っていただいて、皆様のお手元に資料2という紙があると思いますが、そのようなスケジュールで、次回のこの分科会を開きたいと思います。

○ 事務局
 今後の日程でございますけれども、第9回は11月20日(火曜日)10時から12時ということで、場所はまた追って御連絡申し上げたいと思います。

○ 鳥居分科会長
 ありがとうございました。
 では、この予定で皆様にお集まりいただくことにしたいと思います。
 それから、総会のほうは11月1日に開催する予定でございます。今日の御議論をまじえながら、資料1の「骨子案」を総会にもお話しし、更に議論を深めていただきたいと思います。総会の意見も持ち帰った上で、ワーキング・グループにお願いし、ワーキング・グループでもんだ後で、11月20日に集まるという手順になりますので、よろしくお願いいたします。
 どうも今日はありがとうございました。

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