教育制度分科会(第6回) 議事録

1.日時

平成13年7月25日(水曜日) 10時~12時

2.場所

KKR HOTEL TOKYO 「孔雀の間」

3.議題

  1. 新しい時代における教養教育の在り方について委員からの意見発表及び自由討議
  2. その他

4.出席者

委員

 鳥居分科会長、木村副分科会長、奥谷委員、坂村委員、志村委員、杉田委員、竹内委員、船津委員、森委員、横山委員、山崎委員、山本委員

文部科学省

 御手洗文部科学審議官、結城官房長、近藤生涯学習政策局長、田中総括審議官、寺脇生涯学習政策局審議官、名取主任社会教育官、山中生涯学習政策局政策課長、その他関係官

5.議事録

(1)事務局による配付資料の確認の後、山崎委員、山本委員から「新しい時代における教養教育の在り方について」意見発表が行われた。

(山崎委員からの意見発表)

○ 山崎委員
 御紹介いただきました山崎でございます。
 私は国立大学の教師をしていましたのが6年前までであります。折からそのころ、どこの国立大学でも教養部解体ということがほぼ結論になっている時代でありまして、現実問題として私のおりました大学では、教養部を解体して共通教育プログラムを別に立て、教養部の先生方を全員文学部に収容して、膨大な文学部ができ上がってしまった。そういう経緯を経験しております。その過程を通じて、教養教育の根源的な難しさを痛感した一人ですので、その感想に基づいて少し歴史を振り返ってお話を申し上げたいと思います。
 簡単に言いますと、教養というのは知識あるいは広く知を軸にした人格形成と呼べばよいのではないかと思います。日本語にはもう一つ、「教養」以前に「修養」という言葉がございまして、これは必ずしも知というものを中心にしておりません。例えば技芸に通じた人間、優れた職人さんという人たちは修養はしていたわけであります。しかし、教養は必ずしも身に付けていなかった。ということから考えますと、教養というのはやはり近代的な理性の世界の中で、いわば理性的な知の周辺にプラスアルファをつけたものを指して呼んでいるようであります。
 ところで、大変皮肉なことでありますけれども、そういう教養の概念が世界中に広がったころに――教養の概念を外国語でどう言うかというのはいろいろ御意見がありましょうけれども、一番広く知られているのはドイツ語で「ビルドゥンク(Bildung)」ということであろうかと思います。「ビルドゥンクスロマン(教養小説)」などと申しました――そういう教養が生まれたころに、実は教養の根源が揺らぎ始めていたのです。つまり、終わりかかっているものを取り上げて近代の大学の中に持ち込んだという皮肉を言いたくもなるのであります。
 と申しますのは、本来の学問、例えばギリシャ以来の西洋、あるいは東洋の学問にしましても、それ自体の中に基礎から頂点に至る一種の体系性があったわけであります。古代ギリシャというのは、どこまでも世界観、哲学――我々が今呼んでいるような言葉で言えば哲学が根底にありまして、その上に幾何学もあれば、物理学も、音楽もあったのであります。御存じのように、音楽のリズムと物理学の法則は同じ原理でできているというのがギリシャ人たちの常識でありました。こういう思想の恐らく最後は、ニュートンの時代であろうと思われます。ニュートンは御存じのように、物理学の世界で、俗に言う万有引力の発見をしたと言われておりますけれども、彼はあくまでも英国国教会の大変強い信念を持った信者でありまして、むしろ英国国教会の思想についての護教論的な意味で彼の物理学を書き上げたという側面がはっきりと残っております。
 例えば中世の教育を見ますと、確かに実用的な学問が幾つか生まれてきております。例えば法律学であるとか、医学であるとか。しかし、そういうものも根底には哲学があり、更に神学がその底にあって、いわば基礎づけの関係が見えておりました。恐らくはそういうものの最後は、例えばドイツ観念論の世界であっただろうと思います。例えばカントという人は、人間の精神世界を3分割いたしまして、理性の世界、倫理の世界、美の世界、三つの批判の本を書いたわけです。
 おもしろいことでありますが、日本の国立大学が最初に文学部に哲学を置きましたときに、その哲学科は基本的に3分割するのが通例でありました。つまり、哲学、倫理学、美学。これはカントの三つの批判を引き写したものでありました。文学部の哲学科の教師の主観的な意図としては、恐らく西田幾多郎さんあたりまでは、哲学が世界のすべての知を基礎づけていると思っていたでありましょう。本家のドイツのほうでいいますと、恐らくそれの最後がヘーゲルであり、更に言ってみれば鬼子であるマルクスというところまでが、古い知的世界の信者であったと言えると思います。
 しかし、このような体系性というものは、実は近代になってこっぱみじんに壊れたのであります。哲学があらゆる学問を基礎づけるなどという信仰はとうの昔になくなりましたが、各学問のかなり狭い専門分野ですら基礎づけという理念は成り立たなくなりました。大変おもしろいことでありますが、今、大学の物理学の先生に、「物とは何ですか」とか、「物質とは何ですか」と聞けば、皆さんキョトンとするわけです。そんなことは考えたこともない。これは本当の話です。とんでもない話ですが、例えば芸術学といっても、その根底に美があるなどというのは、近ごろでははやらないのであります。むしろ人類学や社会学といろいろな形で結合を始めています。そして、その人類学は文明というものの価値を相対化してしまいましたので、何が基礎づけであるかさっぱりわからなくなりました。
 その過程で、結局何が起こったかといいますと、技術的な知――これは広い意味で技術とお考えいただきたいのですが、我々が理性を持って一つの方法論を打ち立てて、そこに知の世界をつくる。言ってみれば認識ということ――これとそれを通じて何か身に付く――これは少し大げさに言えば、ある信念であるとか、使命感であるとか、あるいは美的趣味であるとか、そういう漠然とした人格形成のファクターでありますが――そういう要素と先ほどの知的な方法論との間にはっきり分裂が生まれてしまいました。昔ですと、繰り返すようですけれども、根源にギリシャならイデアがある。その後のユダヤ、ヘレニスティックな考え方の中では神がある。あるいは、ヘーゲルのように古代のイデアとは少し違った意味でイデーというものを根底に持つ。それは人間の知識の世界を構築すると同時に、それを確信することは人間の振る舞いの規範にもなったわけでありますが、これが分かれてしまいました。
 実はかつての古い知と教養と人格の世界を何とか復元しようと考えた、いわば誤った試みをしたのがマルクスでありました。マルクスという人は、世界を知るのは世界を変革するためであると主張した学者でありまして、一方で歴史の必然性ということを言いながら――ヘーゲルの場合ですと歴史の必然性を洞察するのが人間の自由であったわけですが、マルクスになりますと、必然性と一方で言いながら、その必然性を実現するために、人間は革命的努力を行わなければならないと、大変矛盾したことを考えたわけであります。しかしながら、現実につい最近まで、我々のキャンパスにもたくさん左翼の学生がおりましたが、彼らは大変倫理的でありました。一方で科学的社会主義などと言っていたわけであります。
 ですから、マルクス主義という、言ってみれば間違った体系を除きますと、近代はとにかく基礎づけ、グルンドレーグンクという概念がほとんど無効になった時代だということが言えます。現在、例えば物理学を勉強するのに、数学を学ばなければならない。これはわかります。しかし、それは数学が物理学の一部に組み込まれているということであって、数学が物理学を基礎づけているとは言えないのです。いわんや例えば文科系の学問になりますと、法律学というものを倫理学や心理学、あるいは神学が下支えしているということは全く現実に存在しませんし、そういう主張をしている法学者もほとんどいなくなりました。
 そういう状況の中で、第2次大戦後も漠然と教養の概念が残っていましたから、新制大学は教養課程をつくったわけですが、そこで何が行われたかというと、必須な教養とは何であるかがさっぱりわからないという現実でありました。ですから、習慣に従って大学の教養部には主に人文科学、社会科学、それから自然科学のごく基礎というようなものを並べてみましたが、並べてみると、現場の教師はみんな閉口したわけです。というのは、程度を下げますと高校で既に教科の中に組み込まれている話になりますし、程度を上げますと専門課程の、つまり3年以上の学問になるわけです。例えば私が芸術学というものを教えたといたします。そうすると、専門課程の芸術学と教養課程の芸術学はどう区別するのか。ただ程度を落とすだけだと、結局はそうなっていたわけです。
 早い話が、自然科学を専攻する学生のための芸術学などと言われても、自然科学を基礎づける芸術学というのが果たしてあり得るのかという原理的な問題もありますし、それぞれの教師がそもそも芸術学をやっていて、自然科学をよく知りませんから、どうしたら役に立つのかも見当がつかない。そこで、デパートのようにとにかく科目数を増やして、何でもありますよといって店を広げていたのが、かつての教養部でした。ですから、学生のほうにも勉学意欲がわきませんし、教師のほうも何か二流の大学教師にされたような気がして、不愉快である。これが教養部解体の一つの大きな動因であったと私は見ております。
 ところで、これの更に根源を考えますと、実はある時期に、先ほど中世から始まっていると申し上げましたが、知識というものが役に立つものになりました。医学とか、法学とか。役に立つ学問が出てくると同時に、その学問を教える制度が生まれます。この制度は、たまたま後に、国民国家というものが強まってきますと、国家の制度になります。それぞれのディシプリン、専門的学問に社会的な資格を与えるようになります。例えば昔だったら単に法律家組合というところに属していれば、それで裁判に立ち会って仕事ができたのでしょうけれども、今では弁護士という資格を国家が与えるようになりました。この資格は国家単位で普遍的であり、場合によってはグローバルに普遍的ですが、今のところまだ医者にしても、弁護士にしても、経理士さんという人たちにしても、これは国家単位で資格が出ております。
 国家単位で資格が出たときに何が起こったかといいますと、それまで資格を支えていた同業組合、あるいは知的なサロンと言ってもいいかもしれませんが、それが崩壊いたしました。今までは顔の見える範囲の中で、お互い同業の知識人が集まって、そこで相互認知を行い、評価を行っておりましたから、知的能力はもちろんのこと、人柄とか、あるいは何か膨らみというようなものも見えていた。顔が見えていたわけです。ところが、近代国家が学問を制度化し、資格化した途端に、それぞれの専門家の顔が見えなくなりました。国家試験を通ればいいのですから。その人たちが実は学問以外の世界でどんな顔をして暮らしているか、ということは全く見えなくなりました。
 この制度化を生んだときに、同時に起こったことですが、制度の中にたまたま入らなかった知的活動を商品化したわけです。つまり、これを市場に乗せたわけです。一方は国家が制度化いたしました。残った部分は商品化いたしました。ですから、知識というものはその段階で、本に印刷して市場に出すもの、ずっと後になりますとそこにテレビだの講演会だの、いろいろなものが出てまいりますが、とにかく制度化されないものが商品化されました。それが実は狭義の教養であったわけです。
 大学で哲学を教える。しかし、そこで制度化できないような哲学を語る人は、岩波文庫で哲学書を出す。これは商品になるわけです。あるいは、総合雑誌に何か書く。これは極めてはっきりした現実的問題でありまして、三木清という人は大学のほうでは彼が望むほどいいところに就職できないと思っていました。そこで、せっせと岩波書店に書いたわけです。これが教養である。
 ですから、本質的に教養というのは、明治以後の日本においては、実を言うと明治以後などと言っても、本当は大正の10年代以降、昭和の10年代ぐらいの間でありますが、これが教養の時代であり、大変本も売れました。本質はファッションや娯楽と同じなのですけれども、ちょっと変わったところが知の世界にはございます。それは本質的に知というものは権威的であるということです。権威主義的とは申していません。権威なのです。というのは、知、学問というのは、正しいか誤っているかを判定いたします。正しいか誤っているかということを問題にするのは、そもそも権威であります。どっちでもいいということはないのです。ですから、これを市場化するということには、根本的に最初からパラドックスがあったわけです。
 つまりは、おいしいものとか、きれいなものを人に売るときは、「これはお楽しみでございます」と言って渡したわけですが、教養を商品にしたときには、「あなたは教養がないから、これを勉強すべきである」と言って売ったわけです。消費者の側からいったら、甚だこれは失礼かつ生意気な態度でありまして、したがって、長生きできませんでした。むしろ皮肉を言うなら、教養主義を長持ちさせてくれたのはマルクス主義であったと思います。つまり、学生たちはとうの昔に大学教師の権威を疑っていましたが、マルクス主義の権威は疑っていなかったために、一所懸命本を買って読んだわけです。これも今や崩壊いたしました。
 そうなると、現代では教養を支えるべき社会的条件は存在していないと私は見ております。そして、なおかつ困ったことに、そこにいわゆる情報化の波が押し寄せました。情報化というのは私の定義では、断片的、瞬間的、そして速効性のある知の氾濫であります。これは全く体系性を要求しておりません。即日古くなって差し支えのない、本来使い捨て用の知であります。
 もう一つおもしろいことは、情報というものは謙虚であります。知は権威的であります。例えば日常語をお考えいただいたらわかります。情報は「差し上げます」と言います。「社長、こういう情報を差し上げます」。しかし、知識については、知識を「差し上げます」とは言いにくいのでありまして、知識は「授ける」ものであります。そう聞いた途端に、大衆は顔をそむけるわけです。人情からいってこれは当然のことであります。しかし、言うまでもなく、教養あるいは知識の体系性、知識の脈絡というものは知の本質でありますから、何とかして守らなければなりません。現在のところ、それは専門化されたディシプリンの内部でようやく保たれております。
 そこで、私は現実問題として大学の教養教育は、「体系的」あるいは「共通の」という言葉を外してしまって、教養は存在しないという、言ってみれば悲観論の上に立って、積極的に何かできないだろうかと考えるわけです。その場合に、私は繰り返し大学審議会でも申し上げましたけれども、専門の違う副専攻を学生に要求する。この場合、専門と副専攻の間には、常識的に考えてかなり距離が必要です。つまり、何が距離であるかというのはまた議論の余地があると思いますが、常識的に見て、物理学をやっている学生は副専攻に化学をやっても、これは教養にはなりません。物理学をやっている学生が法律学をやったら、あるいは芸術学をやったら、これは教養になるというのが私の考えなのです。
 それはどういうことかというと、少なくとも思考法のチャネルを二つ以上持つ。違った頭の使い方をするということであります。それでは広い教養が身に付かないではないかとたぶん御心配になると思うのですが、広い教養というものはもはや存在しないのです。それでは人格がいびつになるではないかとお考えかもしれませんが、私はそうは思っておりません。先ほどちょっと申し上げた「修養」という考え方を思い出していただければわかります。かつて一芸に一生をささげた大工さんであれ、料理人であれ、「仕事は一生仕事です」と言っている人は一冊も本を読んでいませんでしたが、人格的にはなかなか優れた人がいました。
 したがって、これは学問についても言えることで、物理学というものを本当にやり抜いた人には、おのずから何かがついてきます。いわんやそこに副専攻がもう一つあって、別のチャネルで頭を動かしていれば、教養というものはでき上がっていくだろうと考えていわけです。
 そして、大事なことは、教養教育を学校の外に出して、社会の教育機能をもっと高めることだと思っております。現在、出版不況でと言われますが、出版不況というのは人為的につくられた状況です。何もテレビやテレビゲームが普及したから、人が本を読まなくなったというわけではないのであります。実はテレビゲームの中に、今や様々な物語、小説が復活しつつあります。本を読まなくなったということは統計上の詐術も入っていまして、それでは昔はみんなどれだけ本を読んでいたか。今は大衆社会です。人口の90何%が高等学校に行き、そのまた半分、つまり人口の半数が大学へ来ているというのは、昔の物差しでいえば異常事態なのです。それがみんな本を読まなくなったからといって、ちっとも不思議はない。
 私は下品な例を使うのであります。近ごろの女子大生は売春をすると嘆いている人がいます。私に言わせれば、今では売春婦さえ大学に来られるようになったわけです。つまり、人口50%が高等教育を受けるというのは、本当に恐ろしい事態なのです。その中で我々は教養を考えなければいけない。
 例えば、やるべきことは目の前に転がっています。今、様々な出版物の中で何が売れているかというと、言うまでもなく、その時々のベストセラーです。その結果、何が売れなくなったかというと、ロングセラーなのです。つまり、長く読み継がれて、早い話が1年に500冊しか売れないけれども、10年売れるという本は幾らでもあるのです。しかし、そういう本を保っていくためには、出版社が相当の負担をしなければなりません。倉庫料もかかります。管理料もかかります。その上に我が国は、これに在庫税をかけるのです。この税制一つを取り上げても、国は今、国民に本を読むな、ロングセラーを読むなと言っているわけです。むしろこれを逆にしたらどうなるか。5年以上売れ続けた本には、補助金を出す。これだけでも教養の社会化というか、世の中に教養を広げることはできます。
 更に、小学校段階から中学段階に至るまで、今では趣味と呼ばれていますが、趣味的な教育を行っている機関が幾らでも存在します。中村委員が京都でやっていらっしゃる生物学、これは昔でいえば博物学のようなものですが、生物学を子どもに教え、一種の日曜学校をなさっています。それと博物館を兼ねたようなものです。そういう施設に子どもたちが集まってくる。それを大いに応援してやれば、そこにおのずからなる教養教育が成立する。したがって、教養教育の社会化、学校の外に出すことを私は強く主張しております。
 さて、もう一言言わせていただきますが、実は私は、地方の極めて大衆的な大学の学長をいたしております。東京にいらっしゃる皆さん、あるいは国立大学の優秀な学生を御覧になっている皆さんには、想像もつかない現実が日本中に広がっている。50%の人口が大学へ行くとはこういうことだなというのを、私は日々に見ております。ここ3日ばかり、昨日の朝までですが、私は集中講義をいたしました。総合人間文化学部という、昔流に言えば社会学部と文学部を足したような学部ですが、そこの2年生に日本語を教えました。で、気がついたことですが、今の大学生は、高校でも、中学でも、小学校でも、日本語を勉強していなかったということであります。
 くどいようですが、具体例を出させていただきます。この人たちに、「私は花が好きです」という言葉を3通りに発音するように求めたところ、まずその概念がわかりませんでした。これは言うまでもなく、「〈私は〉花が好きです」「私は〈花が〉好きです」「私は花が〈好きです〉」(〈 〉内を強調して読む。)と3通りに言えて、そうなると意味が明らかに変わるわけです。実はこの程度の日本語表現ができていないのは、私の大学に限らないと思います。実はその直後に、東京大学や慶應大学の先生たちと勉強会がありまして、その話をしましたら、みんな首をかしげて、「それはうちの学生も同じだ」と言う。のみならず、例えばこの席ぐらいの広さの部屋で演習をいたします。この席で、つまり学生の言うことが聞こえない。大きな声が出せない。そういうレベルの人たちがいて、これが将来、高校や中学の先生になったり、あるいは学会で発表したりするのだと思うと慄然といたします。
 うちの大学が特別に程度が低いと言われればそれまでですけれども、実はこのごろ、NHKのアナウンサーがニュースを読んでいるのを見ても、今のような意味上のアクセントを間違えるのがざらにいるのです。「現代の世界の問題」、これも3通りに言えます。「〈現代の〉世界の問題」「現代の〈世界の〉問題」「現代の世界の〈問題〉」(〈 〉内を強調して読む。)、これが言えないのです。そうしたことはしかし、教養ではないのだろうか。一番基礎的な共通教育の中身はこういうことではなかろうか。
 実はおかしな迷信がありまして、近代の教育はとかく技術主義的に傾いていて、したがって、頭はいいが、貧寒たる人間ができているというのであります。私に言わせると、これは全く逆だと思います。要するに今の学生たちにできないのは、技術の駆使であります。そもそも技術が身に付いていない。掛け算の九九から始まって、「私は花が好きです」に至るまでの一番基礎的な技術ができていない。こういう技術ができていないところへ、いかに高尚な抽象的な教養を持っていっても、それは身に付かない。
 私は今、奉職している大学でたまたま責任者を命ぜられていますものですから、旧来の先生方の意識改革をやっている。私のような大学で先生の構成メンバーを見ますと、大変偉いお年寄りか若い昨日なった人かどっちかなのです。ですから、この間には大きなギャップがあるのですが、やはり一番問題なのは、偉い先生方です。定年退職してこられて、過去に大変な業績のある方に、とにかく新聞が読めるように学生を指導してくださいと、今それをやっているわけです。その過程で驚いたことが幾つかありました。例えば経営学部の先生で、簿記原論を教えていらっしゃる人に、「簿記を教えてくれ」と言いましたら、「そんなことはできない」と言われたのです。「そんなことは経営の専門学校へ行って習うことである。大学では簿記は教えない。簿記原論は教える」。そこで私はびっくりしまして、その先生に簿記の勉強をしてもらうように、学長命令を発して、早速やってもらうことにしました。これが現実なのです。
 おまえのところは最低の大学だと言われればそうかもしれませんが、むしろそうだから、ある意味で現実を反映しているところがありまして、多かれ少なかれ日本の大学は今そうなっています。のみならず、小中学校ですら同じであるようです。実は昨日、川上さんという有名な「プロの教師の会」の会長さんに話を聞いたのです。小学校はともかく、中学の先生ですら各教科のディシプリンの技術的な教育をすることが好きでない。不愉快だと思っている。つまり、「ピタゴラスの定理」を覚えさせるよりは、「ピタゴラスの定理」はどのようにして発見されたか、そのプロセスを考えてみようなどという教育をなさっている。しかし、こんな教育ができる人は1万人に1人だと思うし、それをおもしろく理解する生徒は10万人に1人だと思う。とにかく「ピタゴラスの定理」は使える技術なのですから、これをまず教えて、それから原理について考えればいい。原理の部分は確かに教養です。技術の部分は役に立つものです。役に立つからといってばかにするということは、甚だ筋が違っているのです。そういうことを言えば、先ほど申し上げたような例えば職人さんはみんなばかにされるはめに陥るのでありますが、振り返ってみますと、近代化というものは、つまりは職人さんをばかにしてきた歴史ではないかという感想を持っています。
 少し時間をオーバーしましたが、終わらせていただきます。

(山本委員からの意見発表)

○ 山本委員
 今日は、こういう機会を与えてくださいましてありがとうございました。
 お手元に資料をお届けしてあるかと思います。私のほうは生涯学習関係が専門でございますので、そういう中で教養を培うための方策についてということでございましたので、二、三考えてみたというものでございます。
 その方策について申し上げる前に、まずその背景、私がそういうことを考えるときの教養がどういうものであるかということを申し上げて、それから入りたいと思います。「1」の「生涯にわたる教養」のところですが、先ほどは近代の教養から説き起こしてくださいましたが、私ども俗にはリベラルアーツのところから手がかりを得ておりますので、そのことについて、既にこの分科会なり前の中教審でお話があってダブっているかもしれませんが、簡単に触れさせていただきます。
 「リベラル」というのは、気まぐれな先入観や狭い踏みならされた道から自己を開放する自由な心。「アーツ」というのは、人間の機能の遂行に関係している技能。したがいまして、「リベラルアーツ」となると、一つは「事物を美的に創造する芸術的技能(fine arts)」と「事物を操作する実用的技能(useful arts)」の中間に位置しておりますインテレクチャルアーツ(intellectual arts)だと言われますが、つまり、「両者を含んで精神全体の完成を目指す知的技能」という言い方がなされております。よく具体的な例として出されるのは、ローマのころから確立しました「七自由科」で「自由七科」と言ったりしますが、三科が「文法」「修辞学」「論理学」で、言語表現の自由の促進、知性の訓練。四科のほうは「算数」「幾何」「天文」「音楽」です。これは要するに物事の調和とか、均斉の構造を理解して、それに基づいて物理的・社会的・文化的環境を理解していくということで使われております。このようなところを私どもは若いときから教養というと手がかりにしておりましたものですから、改めてそこから始めさせていただきました。
 今、私どもが考える場合には、生活・社会の次元と時系列の次元というのが生涯学習、生涯教育などでよく使われますので、それでとらえてみようとして少し整理しました。最初のところにございます図の「生活・社会の機能領域」というのは、私どもが生涯学習のことを考えていきますときに、例えばプログラムをつくって生涯学習を支援していく、その目的・目標をたてるときとか、あるいは人間の精神構造をとらえていくときとか、いろいろなところで必要な枠組であります。ここでは生活・社会の機能領域を挙げていますが、これらの機能についての行動の仕方とか、あるいは考え方というところに目をつけて、教育とか、学習支援を考えているわけです。その中で、教養はどこに位置づくかということを確認しようというので提出してみた図でございます。
 生物的機能の保持というのは、まさに生きていくということで、睡眠から始まって、衣食住、保健などの機能ですが、これにかかわる行動の仕方と考え方があると思います。
 それから、財やサービスの生産・分配に関する領域は、広い意味での経済になってくると思います。成員の再生産に関する領域は、結婚、出産、家族の問題など。新成員のソーシャリゼーションにかかわる領域は、子どもの教育などでございます。また、秩序維持の領域ということで、交際、近隣生活から広い意味での政治的活動、社会的活動にかかわる機能があるわけです。
 実は、それら全体にかかわる領域として「生活の意味づけと動機づけ」に関する領域が考えられるわけで、これはよく言われるところでございます。この中に教養、趣味、娯楽、あるいは儀式、例えば誕生日のお祝いとか、成人式、結婚式、葬式も入りますが、こういうものがあるわけです。この生活の意味づけと動機づけをする領域は、今まで申し上げたような機能領域の全部にかかわってくる。その中に教養が入っているという理解であろうかと思います。
 そのような考え方をもとに、時間をとめて生活・社会次元での教養を考えますと、生活とか社会の機能及びその在り方全般にわたって意味づけや動機づけを行うような考え方だと思います。
 それから、時系列になりますと、教養は、個人の生涯にわたる行動――生活・社会での行動になると思います――やその在り方についての意味づけや動機づけを行うような考え方なのだろう。ここでいう「考え方」というのは、「観念(idea)」または「信念(belief)」と「価値志向(value orientation)」です。感情的態度もよく言われるのですが、それは教養の場合には含めなくて、芸術のほうでいいのではないかと思いまして、外してございます。以上が生涯学習のほうで教養をとらえていくときの考え方を整理してみたものでございます。
 「生涯にわたる教養を培う方策について」ということでございますが、まず動向と現状についての若干のコメントというので、大ざっぱな話をさせていただきます。西欧の場合、伝統的には教養はエリートに帰属して、それを培うことは家庭や個人にゆだねられてきていると私どもは認識しております。中産階級以下を対象とする近代の成人教育では、実用的な知識・技術が提供される中で、19世紀の半ば以降の大学拡張講座等に教養的な講座が散在しています。貴族以外のところでの大学拡張が行われるようになりましたのが19世紀の半ばから後半ですが、そういう中に教養的な講座が出てきているところがあります。
 20世紀になりまして、成人教育では、科学技術の発展で、職業教育とリベラルな教育は総合的に扱われるべきだと言われながらも、なかなかそうはなりませんでした。一般の人を対象とする成人教育は、ほとんど実用的な教育、職業教育であります。科学技術の発展の中で、その基盤となる幅広い教養が必要だと言われるようになってきたのですが、実際のところは職業的な教育をやっている。やはりこれだけでは足りないというので、一般教育的な――一般教育というのは、すべての教育の共通するところという意味で、今は教養と重なっていますが――ところが必要というので、教養が重視される。それを重視した成人教育をやっていますと、科学技術の発展の中で、やはり職業教育が足りないというので、そちらが前面に打ち出される。両方うまく合わせればいいのですが、そうはできなくて、結局、交互に前面に打ち出されてきたという経過をたどっております。
 伝統の異なる我が国の場合ですが、明治以前の18~19世紀ごろは、例えば「文武両道」というときの「文」の修養――先ほど修養というお話がございましたが――それから草子物とか、読み物に親しむこと、遊芸の稽古事、習い事など、いわゆる教養に当たるものを培ってきたと思います。私は町方ですので、都市のことしかわからないのですが、日本史のほうの農村のことを研究している若い人たちの話を聞いていますと、江戸時代でも農村などで、豪農層は都市からいろいろな稽古事、習い事に当たるような領域の人たち、遊芸関係の人たちを呼んだりして、かなり親しんだり、あるいは芝居も呼んで、一般の村民に見せたりすることもあったという研究がだいぶ前から出てきております。そういうところで、幅広い教養に当たるようなものを培ってきたのではないか。
 今日でも生涯学習では、芸術、芸能、趣味、文芸関係の学習が盛んです。今、一番盛んなのはこれと、スポーツ・レクリエーションで、一人で二つ三つやっている人がいますから、ダブっていますので、合計で100%になりませんが、どこで調査しましても4割ぐらいは芸術、芸能、趣味、文芸関係の学習をしていると思います。スポーツ関係もそれぐらいの比率になってくると思います。
 明治以降は、西欧の学問とか、文学が通俗講演会――当時は「通俗講談会」ということが多かったのですが、そういうもので盛んに紹介されました。また、出版物、先ほどお話しくださいましたようなところとか、そういうのを通じて、成人にも浸透していました。今日、教養的なものと言われる学習は、文学・歴史などという例示で調査をしますと、国民全体で約6%という比率です。国民全体でなく学習者だけに絞りますと、13%ぐらい。学習率が4割から5割の間をいっていますから、このぐらいになるということになります。1%というのは成人層で数えますと約80~85万人で、400何十万人がこういう学習をしている。これは総理府の「生涯学習に関する世論調査」からですが、どこで調査してもそういう傾向があります。しかし、教養関係の比率は最近、若干増えているような印象でございます。
 周知のように、成人の職業教育・訓練にあっては――これはどちらかといいますと、旧労働省系列を念頭に置いておりますが――必要に応じてその基盤となる一般教育的なものが取り込まれることがあるかもしれません。しかし、職業教育・訓練とリベラルな教育・学習の統一は図られていない。そちらの審議会等に出ておられる委員が生涯学習分科会に来ておられますが、生涯学習にあって教養的な学習を職業訓練の中に入れたほうがいい、人間的なことを扱うのが入ったほうがいいということをおっしゃってくださっております。その辺の統合と言い方はおかしいかもしれませんが、うまくそれをかみ合わせることができていないという状況でございます。
 方策について考える前提ですが、これからの知識社会にあっては、教養というのは生活・社会のあらゆる機能を意味づけたり、動機づけたりする働きをして、これが強くなり、社会の新たな在り方を探る基盤となっていくのだろうと思います。要するに物事をつくったり、生活していく中で、知識というのはますます重要な意味を持つことになってくるわけですから、それだけ大きな意味を持つようになると思います。したがって、人々の教養が不足しますと、社会全体の機能がうまく働かなくなったり、創造的な社会を創出しようとする意欲が減退して、社会の停滞や衰退をもたらすおそれが出てくるのではないかと私どもは考えております。そのようなことで幾つか方策的なことを申し上げます。
 1点目は、職業訓練との関連でということで、これは何度も言われていることで申しわけありませんが、変化のテンポが速く、流動化の激しい時代にあって、生涯学習には流動性へのパスポートとなることが期待されている。これはケルンサミットのケルン憲章とか、昨年のG8の教育大臣会合の議長サマリー等々で繰り返し言われております。
 我が国の場合に、失業対策で大学・大学院で短期の職業訓練講座をやってはどうかということで、報道もなされております。その職業訓練講座でありますが、それにある程度のリベラル的な色彩を付加して、流動性へのパスポートとなり得るようにしてはどうだろうか。リベラルな部分は、蓄積されていけばそれがその後の様々な教育・学習の基盤になって働くということがあろうかと思います。
 今、大学に競争原理が導入されようとしていますが、その中で短期の職業訓練の講座をやるとすれば、実用的な知識・技術を扱う領域は、学生も集まりますし、社会人対応でも日が当たります。しかし、そうでないところは残念ながら学生も集まりませんし、職業訓練講座になりましても出番はありません。
 ではどうしたらいいかということで、社会のほうで必要な職業訓練のところにリベラルな部分をつけるというのを、ある程度慣例化できないか。義務とは言いませんが、必ずつけていくという考え方を持てないかということでございます。
 参考として申し上げますと、実はこういう歴史がございます。ニューディール政策のときに、公立学校成人講座に資金を投入いたしました。それによってハイスクールの教師4万人を救済したという事例があるのです。それまでアメリカは大学とか、図書館とか、それから民間でも成人講座をやっていたのですが、いつでも成人教育はお荷物だと言われるのです。こんなお荷物を抱えてと言われていながら、世界大恐慌のときに教師も失業する人が続出するおそれがあるという中で、ニューディール政策はそういう手を打ったということがございます。それ以後、公立学校の成人講座は重視されるようになってきたわけです。中身は、移民が多いですから、市民教育とか、あるいは英語の語学の教育とか、先ほどのお話の日本語とはちょっと違うかもしれませんが、そういう関係のことを中心に最初はやったようです。そういう事例もありますので、この際、大学のほうでもいろいろ手を打っていただきたいと私どもは思っています。
 2番目は、我が国の高齢化との関連です。高齢化が深刻になっていくことはわかっていることでございますが、現在の高齢者の中には教養的な学習をしている人が多い。先ほどの芸術、芸能、趣味まで含めさせていただきますと、これは非常に多いということになります。それは人生の「完成」を目指す――先ほどのギリシャではないですが――努力と言えるようにも思われるわけです。最近は学習をするだけではなくて、その成果を生かした社会参加・貢献によって生きがいや充実感を得たいという高齢者が増えています。最初はいいのですが、例えば定年退職をしまして、こういう学習を始める。あるいは、ゴルフが今までできなかったというので、喜んでやる。二、三年ぐらいはいいのですが、そのうちにむなしくなるというのです。学習しているだけではむなしくなる。どこかで社会とかかわって社会貢献をしながら、学習も続けていきたいという高齢者が増えてきているわけです。高齢者といったって、年齢的に言えば高齢者かもしれませんが、御本人たちは高齢者と思っていないという元気な方々が多いわけでございます。
 したがいまして、高齢者の場合には、教養的な学習を進めるよりも、むしろ逆で、社会で活動できるような社会的機能領域の学習を盛んにする。先ほどのいろいろな機能領域があります。例えば地域でいろいろな活動をしていただくような知識・技術を身に付けていただくというのもあると思います。そういう関係のことをやって、教養的なものとバランスをとって完成を目指す努力を支援していったらどうだろう。
 私の知っている例ですと、ある大手の企業のいいところまでいって定年退職した方が、周りの友達と語らって何をやったかというと、税理士の勉強をしたいというのです。税理士になるのかというと、そうではないらしいのです。毎年2月から3月に税の申告をしますが、そういうときに地域の商店の人たちとか、その他どうしていいかわからないで困っていることも結構耳にする。そういう人たちに何か役に立てばというボランティア的なことをやりたいというので、税理士の資格を取る勉強をする。それが更に振るっていまして、一遍に勉強してしまえばすぐ取れるかもしれないが、それでは生きがいがなくなってしまうので、5年計画でじっくり勉強を楽しみながら、資格を取ろうということでやっている。そんな例もありますので、高齢者の場合には、逆の方向も考えていただけないものかということでございます。
 3番目は、これは今申し上げました二つの方策とは違うのですが、最近、私どもが考えていることをつけ加えさせていただきました。人間の生涯についての考え方の転換を図ることも必要なのではないかということでございます。従来、我が国の場合には、子どものころは一人前を目指して努力する。一人前になって働いて、あるいは子育てをして一定の年齢になれば隠居をするという一種の社会通念があったように思いますが、それは崩れてしまって、今はとてもそんなことを言って通用する時代ではございません。これからの高齢社会とか、生涯学習社会にあっても、一生ということについて、何かそれなりの考え方ぐらいはあってもいいのではないか。それを通念という大げさなものにしなくても、何かそういうものがあってもよいのではないか。
 例えば、生涯にわたる学習という観点からの提案でございますが、子どものころはまず成熟を目指して努力をする。成熟したら、更に完成を目指す。高齢者の方々は皆そういうところを目指しているようです。古代ギリシャは市民層になりますから、ちょっと違うかもしれませんが、日本の場合、先ほどのお話のように5割からが大学へ行く時代でございますので言ってもいいと思います。
 この場合、「成熟」というのは難しく考えなくていいのではないか。自立して何かができる状態という程度のファジー概念でいいのではないか。「完成」というのも、自己の能力を思うように発揮できるような状態という程度の緩やかな考え方でいいのではないかと思います。
 ある福祉系の短期大学にいる後輩が生涯学習論を担当していまして、その中で話をしましたら、社会人入学の中年の女性が2人いたらしいのですが、講義が終わったら飛んできて、「今までの話の中で一番おもしろかった。私たちが目指しているのはこれだ」と言われた。それから、東京の渋谷の社会教育館を利用しているグループがいろいろありますが、そのリーダー層が主に出てくる講座で、「どうだろうか、こんなことは」という話をしましたら、「『完成』はいいが、『成熟』はどうも我々にとってピンとこない」とか、いろいろなお話をしてくださいました。
 それは一つの事例ですが、何か考え方についての手がかりが必要なのかなと考えております。それは高齢者にとっても必要ですが、子どもにとっても、どうなのでしょうか。昔のことを言ってもいけないのでしょうが、子どものときに御隠居さんのいい姿を見て、自分もああやって一所懸命努力してあのようになっていくのかなというのが見えたかもしれません。今は何にも見えないわけですから、そういう中で、高齢者の人たちが完成を目指して努力している、充実感を持って生きているという姿が見えれば、また子どもは子どもなりに考えるところもあるのではないかと思ったりしております。
 以上で、発表を終わらせていただきます。

(2)自由討議

○ 山崎先生にお伺いしたいのですが、教養の定義をわかりやすくしていただいて勉強になったのですが、「知を軸にした人格形成」と非常に短い表現で、私は物事の定義というのは簡単で明快にできない人は本当にわかっていないという主義でございますので、非常にわかりやすかったのです。
 そこで、三つお伺いしたいのは、先ほど日本語で「私は花が好きだ」に3通りの表現があるとおっしゃいましたが、「知を軸にした人格形成」にも3通りの表現があると思います。山崎先生は複数の物の見方が大事だとおっしゃっているから、それを全部やるのが教養ということになるのでしょうか、ということが一つ。
 もう一つは、私は物事がわからなくなると、反対概念を想定するといいと思います。ですから、平和がわからないときは、戦争と。戦争に反対するのが平和だとばかり教えているのもいけませんけれども、男性がわからないときは女性を考えるとわかって、本当の男女共同参画の意味がわかるのではないかと思います。今あまりわかっていないとは言いませんが、そういうことを考えると、教養の反対概念というのはどんなふうにお考えになるのかということが、2番目の問題です。
 細かいことをたくさんお伺いしたいのですが、3番目は、「教養の社会化」ということをおっしゃって、これは非常に重要なことだと私もかねがね考えていたのですが、中身をお伺いしていると、教養の基礎・基本に当たるようなことかなと考えたのです。日本語が大事だとか、そういうことなのですが、これは「教養の基礎・基本」としてとらえていいのかどうか。5年以上売れているロングセラーに補助金を出せとか、いろいろ具体的な提案もあったのですが、私は、出版物もそうですが、最近はテレビだと思うのです。テレビで「教養の社会化」を図るにはどうすればいいのかということで、テレビの教養番組をNHKでどのくらいやっているかとか、そういうことを幾ら調べてもだめだと思います。見ない人は最初から見ないのですから。低俗番組の中に教養的なものをチラッと入れるという番組をプロデューサーがつくるようにならない限り、「教養の社会化」というのは進行しないのではないかと思います。こんなことを言ってはいけないかもしれませんが。
 そこで、「教養の基礎・基本」の中で、スキルとか、技術をともかく覚えることだというので、たまたま「ピタゴラスの定理」をおっしゃったのですが、糸川英夫さんが、あの方はペンシルロケットからヴァイオリンまでつくったり、バレーダンスとか、いろいろなことをやった多才な方ですが、「私ですら社会へ出て『ピタゴラスの定理』を一度も使ったことがない。社会で最もこれを使っているのは中学の数学の先生だけではないか」なんていうことを書いていらしたのを思い出したのです。私はそれに対して反論していたのです。要するに、そういう物の見方、考え方が必要なので、社会に使うとか使わないとかではないと思うのです。
 以上、教養の定義に関することと、「教養の社会化」についてお伺いしたいと思います。

○ 山崎委員
 「教養」の反対語は、「野蛮」でしょうかね。
 それから、「教養の社会化」と申し上げたことには、直接の意味合いと間接の意味合いがありまして、教養教育という枠組みで、つまり大学ないしは学校の中で行う教養教育の限界を感じているものですから、その教育の場及び方法論を社会化する。つまり、簡単に言えば、美術の塾であろうが、音楽の個人レッスンであろうが、様々なものが、商業的に行われております。御存じのように、もちろん出版物は、今かなり苦境にはありますが、なおかつ市場を形成しております。御指摘のテレビも、実は大きな教養のソースなのです。そういうものを多角的に利用することが、学校の制度化によって教養教育をするよりは有効であるという積極的な意味合いもあるわけです。
 つまり、学校というところは、基本的には私の申し上げる技術教育を行うところであって、その周辺に一つのにじみとして人格的教養が備わっていくところです。いわゆる教養は無限に多様化しておりますから、例えば国家がある制度の中で、あるものを育て、あるものを抑制するということは、近代文明になじみません。そこで、自由市場で競争させながら、望ましいものに対しては若干の補助を行うというのが、近代国家の政策として健康ではないかと思うのです。
 3番目のテレビのお話ですが、実は私は現在のテレビの教育機能は非常に高いと思っております。例えばNHKがやっているBS1、あるいは教育放送で行っている、例えば芸術関係の講座は、かなりの程度BBCと組んだりしております。ですから、世界的レベルに達していて、私の専門に限って言えば、あれだけの講義のできる大学教師はそうたくさんいない。BBCが組みました「世界演劇史」12巻というのがありまして、これは12回にわたって放送しました。私が大阪大学に奉職しているときに、ビデオになったものを全部買いまして、まず学生にそれを見せると、私の授業はその先をやれますから、非常に楽でありました。そういう意味でのテレビの教育機能は現に高まっています。
 それから、大衆娯楽番組の中にも、最近、実は教養的なものが入っています。例えば「世界ふしぎ発見」という番組があります。あれをつぶさに御覧になれば、その細部で提供されている知識は、部分によっては大学の教養課程より上です。これは毎週あって、楽しんで見られるようになっています。低俗番組を規制するというよりは、むしろそういういい番組を助成するほうが政策としては好ましいかもしれないと思っています。

○ 「知を軸にした人格形成」というのは、どこにアクセントを置いたらいいのでしょうか。

○ 山崎委員
 もちろんこの文意の強調というのは更に大きなコンテクストの中にあるべきものですから、本日のコンテクストの中においては、「知を中心にした」というところにアクセントがあります。人格形成については、そもそもの文脈の中でみんな議論するに決まっているわけですから、特に頭のところにアクセントがあります。

○ 主として山崎先生にお伺いしたいのですが、3番目は山本先生に少し関係していると思います。
 山崎先生のお話はいつも感心して、教えられるばかりですが、最初のところで、確かにかつての教養主義がジャーナリズムだったということは、私もそう思います。たまたまこの間、昭和13年当時の大学生が読んでいたものを見たら、ざっとカウントしますと、少なくとも3分の1の学生は、総合雑誌を読んでいた。総合雑誌という「総合」ということが、まさしく教養だったのではないかと思います。
 そうすると、ジャーナリズムということは、要するに実際の教養というものが、公式カリキュラムと違うところにかなりあったということだと思います。そう考えると、教養というのは、結局のところ、キャンパスの中のヒドゥン・カリキュラムではないかという気がすごくするのです。
 そう考えると、これまで日本の大学の教養教育は、だめだった、だめだったと言うけれども、大概の人は、授業にあまりおもしろいものがなかったかもしれないけれども、あの期間が教養課程だという場所の定義がありますね。場所の定義が最大のヒドゥン・カリキュラムだと思います。そのときはあまり専門の勉強はしてはいけないということで、そのときに本を読んだり、あるいはクラブ活動をやる。2年間というのは長過ぎるかもしれないけれども、かつての日本の教養課程が公式カリキュラムだけで見たらいろいろな問題はあったかもしないけれども、それほど無残なものであったかどうかというのは再考したほうがいいのではないかという気がします。これは山崎先生への質問なのですが。
 2番目は、山崎先生から簿記原論の話をおもしろく聞かせていただきましたが、確かに私なんかもそうですが、例のフンボルトの大学についての考え方とか、教養についての考え方が、今の年配の大学教師にはすごく生きているのだなということを非常に思いました。ところが、学生のほうはどうなのでしょうか。学生のほうは山崎先生がおっしゃるような技術に対する価値づけは、古い教官と違って、むしろ高い評価をしているのではないかと思います。これはそう思うのは、去年の調査だったか、小学生の好きな職業に、大工さんがトップになっていたと思います。若い世代は、古い教官の実用知に対するちょっと冷たい視線は全くないのではないかという気がいたします。それが2番目の質問です。
 3番目は、山本先生のお話も大変興味深く聞かさせていただきましたが、これは山崎先生のお話とも関係するのですが、従来の教養主義は受動的というのですか、要するに未達成感といいますか、いつまでたっても届かないという感じで、教養主義の罠にはまると、さっき権威ということを山崎先生はおっしゃいましたが、いつも未達成感にさいなまされる。私はそういう意味では山崎先生と違うのかもしれないけれども、マルクス主義というのは、教養主義に対する大げさにいえばルサンチマンではないでしょうか。マルクス主義に移ることによって、教養豊かな先生を批判できる。マルクス主義に移らないと、山崎先生のお話をいつもああ、なるほど、と。マルクス主義に移ると、保守反動とか何か言えるから。マルクス主義というのは、そういう意味では教養主義に対する大げさにいえば、接続面もあるのですが、断続面があって、鬼子かルサンチマンかということがあって。もう一つは、こっちは能動的なのです。社会に対して何かかかわっていくということ。これを考えると、山本先生がおっしゃった、自分でもっとやってみるということです。教養のDIY(do-it-yourself)化で、要するにカラオケみたいなもので、自分のほうがしたいと。これが従来の教養に対する考え方とすごく違うのではないか。従来的な受動的ないつまでたっても知を追わなければいけないというのではなくて、やってみる。これから教養を考えるときには、ドゥ・イット・ユアセルフの面をどうやっていくかということがすごく大切ではないかと思います。
 質問なのか意見なのか、半分は意見みたいでごちゃまぜになっておりますが、その三つぐらいを教えていただければと思います。

○ 山崎委員
 前半のところで教育史の話が出てきましたので、釈迦に説法という不安を抱いておりますが、実は教養教育を表に掲げてやっていたのは旧制高校だっただろうと思います。私などは新制ですので、その片鱗をものの本で知る以外にないのですが、昔は大学よりむしろ旧制高校というところで人格形成を行うし、知的な訓練も行っている。ところが、実際に見ますと、旧制高校ほど技術教育をやっていた世界はないのです。技術教育というのは、今申し上げているのは学問の技術です。学問の技術だとお考えください。ですから、文科系ですと、大体旧制高校のときに勉強して、大学には入学試験はなかった。学科によっては違うでしょうけれども、文学部なんぞというのは、一高、三高を出ていれば、無試験で入れたわけです。そこから専門の勉強はするでしょうけれども、学問の基礎的――この場合は本当の基礎的技術、例えば語学であるとか、数学であるとか、そのようなものはそれこそ「ロウソク勉強」をして、押し入れの中へ潜ってまで勉強した。それが実は教養だったのだろう。そういう核がないところで、教養というのはどうも意味がないような気がします。
 戦後の大学の教養についてもう少し好意的に見ろとおっしゃるのはよくわかります。というのは、委員が優秀な学生であったから。つまり、優秀な学生は暇な時間を与えられると勉強しますし、総合雑誌も見ます。問題は、今、大衆化されて、国民の50%が大学に行く時代に、その全員に自発性、自由な時間の中での積極性を期待するのは無理だというのが私の実感なのです。これは現実に教えていての実感ですから、割と自信があります。
 先ほどちょっと申し上げましたけれども、戦後の大学の教養課程で学生たちが鍛えられていたのは、実は学生運動だった。本当の戦闘的マルクス主義者もいれば、いわゆるシンパもいれば、中には演劇部とか、文芸部とか、わけのわからない教養的グループもありましたが、そこで彼らは相互研鑽をやって鍛えられていたわけです。そこで与えられたディシプリンは何かというと、大まかに言ってマルクス主義でした。これははっきりマルクス主義の教授をどうこうするというのではありませんけれども、まさにおっしゃるとおり、大学の権威に批判的になれとか、なるためにはこちらも理論的に武装しなければならないという形でのディシプリンが彼らにあったと思います。それもなくなって、つまり冷戦後の世界の中で、ディシプリンを与えてくれるものは全くなくなりました。国家の側も多様化ということを言って、別に倫理的ディシプリンを与えようとしません。私はそれは賛成なのです。それはいいことだと思います。多様化です。
 その中で何かディシプリンを与えられるものが残っているとすれば、技術しかない。その技術というのは、もちろん大工さんになり、コックさんになる、そういう意味での技芸・技能も含みますが、何よりも知識の作業そのものが、90%は技術なのです。独創などというのは10%だと思っています。その技術訓練が、今、どうも小学校から大学までいいかげんになっている。
 次の職業イメージのお話を申し上げますと、これはこの場のコンテクストから離れますが、職業イメージを変えるための積極的な政策が必要だろうと思っています。というのは、今後、マーケットメカニズムが自動的に働いて、いわゆる競争社会をつくります。競争社会の中で、いわゆる表街道で成功するのはほんとに一つまみの高度知的能力を持った人ですが、これは学問とは必ずしも関係がない。大発明をするか、株で大もうけするか、どっちみちこれは知的な操作です。残ったたくさんの人たちはどうするのか。全部福祉で抱えることが仮に財政でできても、生きがいを失わせます。ですから、対人サービスの職業のイメージは――介護から町医者から、塾の先生から、更にはレストランやホテルの従業員に至るまで全部対人サービスですが――これのイメージを変えていくことが国家百年の計だと思っています。
 今、大工さんの評判が上がっているというのを聞いて、私は大変心強く伺いました。コックさんは非常に高まっている。例えば仕立屋さんは逆なのです。おもしろいのです、こういうのは。例えば3Kという観点から考えると、コックさんのほうがはるかにひどい職業なのですが、若者はあるイメージに乗せられてしまえば、コックになりたくてしょうがない。そのうちに“仕立屋の鉄人”とか、“介護の鉄人”ということで、24時間介護して倒れないなどというテレビ番組をつくれば、きっとそっちのほうへ若者が来るかもしれない。冗談でなく思っています。
 もう一つ、これは御質問の別の項目になるのでしょうか、マルクス主義が、学校あるいは教師の体系といいますか、昔の言葉で言えば体制に対する反権威として成立している。それをバネにしてみんな勉強したのだと。これはおっしゃるとおり、そのとおりだと思います。ただ、おもしろいことに、マルクス主義系の人たちが独自の権威をつくっていたことも間違いないわけで、まさに東京大学経済学部も、京都大学経済学部も大変な権威主義だったわけですね。これは皮肉な話ですけれども、反権威は必ず権威をつくってしまう。そんな感想で、お答えになったかどうかわかりませんが。

○ 山本委員
 3番目の問題の能動的云々というお話ですが、1970年代の半ばに、スイスの精神科のお医者さんが言い出したことがございます。人生が長くなってきた。従来は職業的な仕事とか、子育てで終わっているのだけれども、その後、非常に長い時間がある。仕事とか子育ては第1の人生活動で、その後に第2の人生活動をすべきではないか。それは何かというと、ただ趣味をやればいいというのではなくて、どこかで社会的なかかわりを持って、社会に貢献していくところがあったほうがいいと言うのです。第2の人生活動というのは定義をしないのですが、その特徴は仕事の中での喜びと余暇活動の自由さを併せ持つというもので、社会とどこかでかかわりがあるというものです。ポール・トルニエという人ですが、長い精神科の臨床医としての経験から出ているようです。それが世界に広がりました。
 私どももそのころそれを見て以来、そのあたりのところを基盤にしながら、先ほどの高齢者のことを考えているのです。高齢者のところを考えるだけではなくて、今は子どものときから並行型と言うと変ですが、第1の人生活動への準備と、同時に第2の人生活動もやっていってもいいのではないか。子どものときに学校の勉強をします。これは将来に備える。しかし、同時に子どものときの人生の充実を図るような活動をしてもいいのではないか。子どもだって生きがいを追求してもいいのではないかというのが私どもの主張なのです。従来ですと、子どもは将来の準備だけをやれというのでやってきましたから、そうではないのではないか。したがって、人生80年なら80年、常に両方の活動をするか、あるいはその準備をするということで組み立てられるのではないかと思うわけです。
 そうしますと、先ほどの能動的にかかわっていく部分は、必ずしも高齢者の話だけではなくて、全体ということになってくると思います。ただ、今、少し話を絞りまして、家庭の主婦とか、高齢者のことを考えていきますと、学習をしたりして、先ほどのことで言えば、教養、日本的に言えば修養をしていろいろなことを身に付けていく。それを第2の人生活動として社会とかかわって生かしたときに、それが生きがいになる、生活の充実感になるということが強いものですから、皆さんそういう方面の活動を求めているという状況があります。
 ただ、そのあたりのところの社会とのつなぎがないのです。そういうものをうまく生かして社会で活動してもらえば、社会のほうも助かるはずなのだけれども、その辺のつなぎのところがないので、それを方策としてはつくっていったらいいのではないか。行政のやることはサービスで、何もこうしろああしろではないわけですから、そのあたりのことをやっていけばいいのではないかと思います。
 教養的なものと実用的な知識・技術というあたりのところですが、先ほどの日本的な修養ということで言えば、遊芸とか、そういうことにかかわるのは、昔から伝統的にいろいろ身に付けてきているわけで、これは委員も御存じのとおりのとおりです。そういう伝統に基づく何らかの修養的なものは、そのまま即社会の中でも有用性をもって役に立つようなところがございます。ですから、そのあたりの伝統は生かしていったらいいのではないか。大正のころでも、東京の下町ですと、学校の勉強も大事ですが、稽古事、習い事のおさらい会がありますと、学校は黙認で休んでいいということになっていまして、大っぴらにみんな休んでしまうのです。それで習いに行くということがあったわけです。番頭さんでもある程度地位が上がれば、習い事ができるとか、いろいろなことがあったわけです。その伝統はあって、今でも高齢者の方々が俳句をやったり、いろいろなことをやっています。
 ただ、今、気をつけなくてはいけないと思うのは、60代の後半は学歴で言いますと中卒が半分なのです。日本というのは、先ほどのお話ではないですけれども、教養がすごくあると思います。学校では習っていないかもしれないけれども、いろいろなことを身に付けていて、そういう人たちは俳句なんかでも上手につくりますし、書だってやっていますから、レベルは高いと思います。そういう人たちが今のようなところで求めているところがありますし、高学歴を獲得した少数の高齢者の方々にしましても、職を離れた後、社会の中でただ一人茫然としているというわけにいかなくて、今のようなところで地域とかかわったり、その他のところで今のようなことを求めてきております。これから教養等のかかわりということで、短絡的にその方策を立てられるわけではないかもしれませんが、重要なところだろうと思っています。

○ 山本先生の最後のお話に関連して、私も一つお伺いしたいと思ったのでありますが、先ほど先生のお話の中でも、高齢者の方々が学習意欲も高くて、しかも学習内容は教養的なものを求めている。私もそのとおりだと思っております。その結果として、学習の成果を社会に貢献させていきたいというのも、私ども教育委員会におりましても、そのとおりだと思っているのです。文部科学省のかつての生涯学習審議会からの答申の中にも、学習成果が評価されるような社会というのがありましてね。私も評価される社会というところにいつもクエスチョンを持っておったのですが、現実の世界を見てみまして、評価されたいと思うお年寄りが非常に多いのです。それが一種の弊害と言うと語弊があるのですが、そのために、例えば静岡県などでは「葵の御紋」の「葵」を名づけて「葵生涯学習大学」などをやっておりますと、殺到して学んでくれます。健康も守られて、そのもの自身はよろしいのですけれども、学んだ後、自分がどう貢献できるか、何に役立てるかという問い合わせがいっぱいあるのです。本来、生涯学習などは自分で学んで、自分の人生を豊かにすることができれば、必ずしも他人から評価されなくても満たされることのほうが、より上の精神性かなと思ったりしましてね。評価される社会でなくてはいけないというのはちょっと強過ぎないかなと思っていたりしたのですが、その辺について、先生はどんなふうにお考えか伺えればと思います。

○ 山本委員
 そのあたりはいつも議論になるのですが、例えばそういう話が出ると、市民からパッと手が挙がって、「それを使って、官僚の皆さんは権威を振り回すのではないか。だから反対だ」とか、そういう話がすぐ出るのです。ただ、一つ言えることは、知識・技術が蓄積されて、ある意味で飽和状態になってきますと、それを活用したいという気持ちが強くなるということです。ただ、それを客観的に保証するものがないのです。評価を求めるというのは、もちろん自分の励みになるということもあると思います。これについては確かに弊害もあるのですが、蓄積された知とか、技術をもっと広く活用しようとすれば、どこかで保証しなくてはいけないだろうということがあるわけです。できれば、これは日本国内だけではなくて、国際的にも通用するようにする必要があります。外国でも進んできていまして、ニュージーランドはすごいのです。狭いところで勉強したものを広く使えるようにするというのを、我々は「評価」と言わないで、「認証」と言っています。「確かにあなたはここで勉強しました」ということを第三者が認めるというだけのことなのですが、そのようなことをいろいろ考えていって、知を使う、技術を使うというところでそれを生かしていけばいいのかなと思います。その根本にあるのはやはり学習歴で、学歴というのが学校歴になってしまっていますから、それ以外の社会での勉強を入れた学習歴――ポートフォリオと言われますけれども、先ほどのお話の答申では、「生涯学習パスポート」という名前になっています――、そういうものをこしらえて、個人個人がそれを蓄積していく。
 ただ、お話のように評価というのは気をつけなくてはいけない面がありまして、特に日本の場合には、評価となりますと人物評価になってしまうのです。つまり、その評価で、あの人間はだめ人間とか、いい人間とレッテルを張りますから。私どもは今、評価については三つの原則を立てているのですが、評価からの自由というのがあるだろう。評価なんていうのは要らないという人たちだっているわけで、この原則は理解していただいて広げなくてはいけないだろうと思います。
 したがいまして、評価からの自由というのがありますから、評価をする仕組みは、学習するところから切り離さなくてはいけない。学級講座の最後に修了式がありますが、8回出た人は修了証を渡します、7回の人は渡しませんとやりますと、あれはだめ人間ということになるわけです。それは切り離したほうがいい。
 3番目は、人物評価排除の原則です。人物評価はしないほうがいい。学習したことを評価すればいいわけです。しかし、今の日本だと、ともすると短絡してすぐ人物評価をして、あれはだめ人間とやりますから、それでみんな嫌になってしまうのです。人物評価排除の原則、3原則をあらかじめ立てておいて、学習成果の評価をやっていけばいいのではないかと考えているところでございます。

○ 山崎委員
 大事な問題をお出しになったので、私も一言感想を申し上げます。
 認知あるいは評価には2種類あるだろうと思います。一つは、普遍的な世界に向かって資格を出すというタイプの認知でありまして、これは一定の機関の権威をもって、ここで資格を認知されたらどこへ行っても通用するよという意味の認知があります。これはそれなりに大切なことで、むしろ社会とか、大学はすべてそれをやっていると言ってもいいぐらいです。
 私は兵庫県に住んでおりますけれども、今、女性がいろいろ勉強をして、昔だとそれで満足して帰ったのですが、今はそれを役に立てたいと考える人が増えた。そういう人たちをボランティアとして、いろいろな形で仕事をしてもらおうということを考えています。そのボランティアの中には、兵庫では新しい劇場の建設を予定しているので、それが建ちますと、劇場の案内ですね。お客さんに劇場の仕組みを説明したり、いわゆるツアーガイドをやるというのもあれば、あるいは自分自身がより小さなグループの先生になるというやり方が一つです。
 ただ、これには限度があって、もう一つの認知の方法を打ち立てておかなければならない。それは普遍化するほうとは逆で、閉じられた社会の中での認知です。よく考えてみますと、誰でも国家的な資格も一方では欲しいのですが、本当にうれしいのは、自分が尊敬する同業者に褒められることなのです。これは何万人とはいないので、世界中に3人ぐらいしかいない場合だってあり得ます。あの3人に褒められたらうれしい。それはいろいろなレベルであり得るので、人はおのれを知る人のために死ぬのです。つまり、小さいグループをつくって、その中で評価し合う。これは現実の形でいえば、例えば俳句の会とか、短歌の会はそうで、宗匠のもとで極めて小さなグループの中でみんな満足しています。小さい価値の基盤をたくさんつくるというのも一つのやり方ではないかと思います。

○ 今の評価のことで思ったのですが、人間というのは最後まで評価されたいものなのかなと思ったのです。そういう意味でいくと、先程の委員と同じ考えなのですが、評価はある年になってきたら、いいのではないか。例えば、おもしろいということは、自分がおもしろいと思ったとか、自分が満足したとか、そういうことを共有できる人がいればいいわけで、何も評価されなくてもいいという考えもあるのではないかと思いました。特に最近、高齢化がどんどん進んできているわけで、そういう中で、評価されたいといって年とった人がどんどん出てくると、引っ込むことも重要な考えになってくると思うのです。山崎先生のお話は感銘を受けたことが多かったのですが、若い人がどうしていつも反発するのか。偉いということに対して、昔からもそうだし、これからもそうだと思いますが、反発がすごくあるわけです。それはそう難しい話でなくて、生理的なものがあるような気もしました。
 ただ、山崎先生がおっしゃっていることに対して異論があるわけでも何でもなくて、全くおっしゃるとおりだったのですが、一つ質問したいと思ったのは、知を中心とした人格教育に成功すると、どういう社会になるのか。要するに教養を身に付けた人たちが増えるとどうなるのか。今よりもっと良くなるのですか。ちょっとお答えづらいかもしれないですが、どういう社会にしたいのか。山崎先生の話を聞いていて共感するところが多かったのは、結局、技術が重要だという話もそうだと思いますが、難しい事も多いと思うのです。というのは理想の社会は一つなわけはないし。教養をつけた人たちで満ちあふれると、一体どうなるのですか。

○ 山崎委員
 前段で提出された御疑問と後半の話は密接に関係していると思います。評価を求めない人は存在しないと思います。今おっしゃったような評価がどうでもいいという人は、自分で自分を評価しているのです。これは何も抽象的なことを申し上げているのではないのです。囲碁、将棋をする人がいます。特に囲碁の場合は、自分一人で棋譜を眺めて誇っている。あの中で技術が上達していくという実感があるわけです。昨日よりもうまくなったと。

○ それはわかります。テレビゲームも同じです。クリアすると自分で満足するのです。

○ 山崎委員
 実は我々の学問だって、教師稼業をしていれば半分はそうですよ。それは最終的には褒められたいけれども、自分が昨日より少し賢くなったと思えれば、錯覚かもしれないけれども、それは満足ですね。それはやはり、自己評価ではありませんか。
 後段の話ですが、そういう自己評価ができる人間がたくさん集まったら、まず本人が幸せですね。幸せな人が増えることは、まあいいことにしましょうよ。その次に、幸せな人は他人に害を加えませんね。不幸な人が他人に害を与える。害が少ないのもいい社会ではないですか。

○ 何となくわかります。

○ 山本委員
 今の点ですが、教養のとらえ方を間違ってしまうと停滞するのだろうと思います。教養は弱々しい人間とか、そういうイメージがあるのですが、本当はそうではないのだと思います。ですから、教養教育という場合の教養をしっかり考えなくてはいけないのだろうと思います。これからの社会で教養ある人間が増えたときに何ができるかというと、自分を解き放して自己評価をして、自分の充実感もある。創造性豊かな社会になっていくのではないか。それは何もすごい発明をする人ばかりでなくていいわけで、地域の人たちが毎日生活していく中でちょっとした工夫をする。別に物的な創造だけでなくて、精神的な創造もあります。そういう創造をしていく喜びとか、楽しみというのを味わいながら生活をしていくというようになっていけばと思って、そこら辺に期待をかけています。

○ 今のことに関連してですが、教養ある人が増えるとどうなるかということですが、先ほどの山崎先生のお話によれば、「教養」の反対概念は「野蛮」ですから、野蛮な人が減る社会になっていくのではないかと思います。そこでお伺いしたいのは、野蛮の定義を簡単にしていただけるといいのですが、人に聞くばかりではいけないので、野蛮の私の定義を先ほどから考えたことを申し上げてから、お伺いしたいと思います。私は野蛮というのは、損得を軸にした自己中心者の自己虫。最近は「自己獣」という漫画の本も出ているそうですけれども、野蛮の定義をお伺いしたいと思います。

○ 山崎委員
 おっしゃったとおりではないでしょうか。ホッブズという人は、「万人が万人を敵とする社会」というのを考えて、それではいけないというので、政治学を始めたわけですが、万人が万人を敵にするというのは、今おしゃった自己中心の世界ですよね。それはちょっと住みにくいので、野蛮と言うべきかもしれません。ただ、もっとも動物が果たしてそんなに自己中心的で、万物が万物を敵としているかどうか。それは人間の思い上がりかもしれません。

○ 鳥居分科会長
 福沢諭吉は、「野蛮」「半開」「文明」の3段階を言いました。昔は野蛮から半開、文明へと我々の社会が道をたどることを、みんなが何となく考えていたわけですが、ある段階まできてしまったらおかしくなったという側面があるのでしょうね。

○ 山本委員
 今の野蛮の話なのですが、だいぶ前に理科関係の方から聞いた話です。人間というのは本能的なものが退化して、大脳が発達していますから、いざとなるととことん殺し合うそうです。自分が残るだけ。あとはみんな殺してしまうというのがあるのだそうです。だからこそ、生まれたときからモラルとか、そういうものをたたき込んでいかなくてはいけない。ところが、ほかの動物というのは、多くは同じ種の中で戦うけれども、ある程度減ってきたらやめるのだそうです。ブレーキがかかるというのです。人間はそこが退化してしまっていますから、早くから学習とか教育が必要なのだという話のようです。

○ 鳥居分科会長
 これからの審議の中で、ぜひ両先生に御意見を伺い、また、ほかの委員の先生方からも御意見を伺っておきたい問題の一つが、今回の最終的な答申までこぎつける過程で、どうしても1回扱っておくほうがいいかもしれない問題があるように思うのです。私はこれを「新々教養主義」と呼んでいるのですが、私自身の個人的な経験からいうと、13年から12年前にかけて、私はうちの大学の経済学部のカリキュラムからマルクス経済学を必修科目でなくするという戦いを挑んで、4年かかってやっと成功したわけです。大変なバトルをやって、やっとのことで今、選択科目になった。
 ところが、その種のことが行われた結果、何が起こったかというと、環境論、それから内容的な言葉で言うと歴史批判、ジェンダー論、それから最近でいうと反グローバリズム論、こういうものを何とかして必修科目にしようという勢力が非常に強くあらわれて、教授会の人数としてもかなりの速いスピードでその種のグループが勢力を伸ばしているわけです。その問題はかなり深刻な問題でありました。
 このことは学生の立場に立ってみるとすぐわかることなのですが、例えば毒ガス部隊の歴史を1年間かかって聞かされる。あるいは、慰安婦問題についての研究を1年間講義するというようなのがズラッと並んでいる状況の中で、そこに月謝を払わなければいけない。しかも、先生のほうから言わせると、これが教養だとかなり強い調子で出てきているわけです。この新しい形の教養主義ですね。特に環境論とか、反グローバリズム論というのはその傾向があるような気がするのですが、どう扱うべきかについて、私自身も悩んでいますが、先生方にもし何か御意見があったら……。

○ 山崎委員
 そういうものを果たして一括して考えるべきかどうかはわからないと思うのです。例えばジェンダー論と環境論というのは、専門的な研究が現に進んでいますから、学問としてしっかり確立しつつあります。それに比べて、例えば今はやりのカルチャースタディーズなんていうのは、やっている人には気の毒ですが、まだまだ浅いです。これを一括して、そういうものすべてという形で議論すると、話が混乱してくるのではないだろうか。
 今はおっしゃるとおりで、自然科学の分野ですら、サイエンスウォーズというのが始まっていまして、日本を除く世界各国では大問題なのです。これは要するにジェンダーとか、少数民族問題ともかかわってきて、科学の世界の過去におけるアンバランスを正すという運動なのです。アファーマティブアクションと結びついているわけです。そういうことは自然科学の分野ですら起こっていますので、現代の一つの流行としてはやむを得ざるところだろうと思います。実態を調べるとというか、自分でその問題に立ち入って議論をするつもりで考えますと、例えばサイエンスウォーズのいわゆる社会構成主義の人たちというのですが、そちら側の理論は全く弱いようです。文句を言いにくる人がいれば、ある分野に限っては簡単に粉砕できます。ただ、さっきも言いましたように、ジェンダー論とか、環境論は、相当しっかりした学問ですから、これは粉砕できません。そこは必修にしろと言われるなら必修にされたらいいだろうと思うのです。残りの部分については、議論すれば、私はそんなに不安ではないのです。

○ 山本委員
 今の問題は、私はこう考えるのです。従来の学問は、自然科学にしても、社会科学、経済学にしても、単調論理で組み立ててきているのです。というのは、〈A〉に〈B〉を足せば、〈A+B〉になってハッピーだというのが単調論理です。だけども、実際には〈A〉に〈B〉を足すと、〈B〉が入ったために〈A〉の一部が消えてしまうところもある。そういうのが出てくるというのが非単調論理です。それに目が向かなかったために、いろいろな問題が起こっている。例えば、失礼ですけれども、今の経済学の問題にしましても、経済学を組み立てるときに非単調論理で組み立てれば、影の部分も入ってくるわけです。学生にしても、あるいは社会一般にしましても、見ていて、そんなにハッピーにいくのか、そうはいかないではないかということで、単調論理に対する反発が出てくる。それが一方で、カウンター勢力になって出てくると思います。私どももそうなのですが、非単調論理で組み立てていかないと、これからの場合にはうまくいかないのではないか。自然科学のほうはわかりませんが、社会科学に関していえばそこがすごく大事だと思います。今、人工知能のところで非単調論理を組み立てています。それは完全に証明できないようです。2値論理までは完全に証明できても、3値論理以上は完全かどうかわからない。それは構わないと思います。使える範囲でやっていけばいいわけで、公理主義というのは今はそうなっていますから。そういうのを我々は取り込んで、学問の新しい時代の構築をしていくということをやらないと、いつも今の問題が出てくるのではないかという感じがしております。

○ 山崎先生がカルチュアルスタディーズを言われましたが、あの学問がどうして出てきたかというと、普通言われているのはそのとおりだと思います。従来、大学というのは非常に限られた階層の人が来ていたのが、労働者階級の子弟がたくさん来て、彼らにとっての実感ある学問ということで出てきたと言われているのです。高等教育が50%ぐらいになると、従来型の学問は当然あっていいと思いますが、それ以外のカルチュアルスタディーズがいいかどうかわからないですが、10%で中産階級以上の人が来たという時代の大学ではないから、そういうことを全部せきとめることはできないのではないかと思うのです。何を選択というところで考えなくてはいけないとは思いますが。

○ 今の問題は、私はよくわからないのですが、先ほど山崎先生がおっしゃった教養の大衆化のところで、教養の基礎・基本があるので、今、カルチュアルスタディーズが基礎・基本になるのかどうかわかりませんが、そういうことを考えるということが一つ。それは言語だとか、いろいろな人がいろいろな提案をされているし、いろいろなものがあると思います。
 もう一つは、教養について現象的にジェンダーとか、いろいろ出てきているものを、総合的に研究するという一つの立場があってもいいのではないかと思います。小・中・高で総合学習、総合学習と言っていますが、みんなバラバラにやっているものですから、総合学習の総合的研究が必要だと思います。そういう意味で、教養についても、大学の中でのカルチュアル・スタディーズとか、いろいろなものを含めて、総合的に研究するという体制は大学ではどうなっているのかなという気がしたのです。委員が先ほど「総合性」ということを強調されましたが、これは教養の一つのキーワードなのかなという気がします。

○ 山崎先生にお伺いしたいのですけれども、今、大学に50%以上の人たちが入っているという中で、エリートという部分で、一般的にヨーロッパではエリートは実学はやらなくて、実学以外のことを学んでエリートとなっていく。日本の場合、これからエリートをつくっていこうと考えていらっしゃるのか。それともボトムアップの一般教養を全般に広めて、さっき言われましたいい社会をつくるための教養を高めていくのか。そこのところはどうお考えでしょうか。

○ 山崎委員
 「エリート」という言葉の定義ですけれども、私が「エリート」と言う場合には、知的能力が高く、血筋が正しく、お金がたくさんあって、現在、社会的に高い地位についている人という定義をしていますから、日本にはそんなものは存在しません。私が考えているのは、技能も知識も両方を含めて、それぞれのディシプリンの中で能力差があるのは当然ですから、そこに競争原理を徹底的に導入する。私はごく当たり前のことを申し上げているので、野球のうまい子と数学のうまい子はそれぞれ別のディシプリンで勝てばいいわけです。ただ、その内部で、例えばプロ野球の世界で競争原理を外したらどうなるか。だれでもすぐわかることですから、知的世界においても同様です。そこで、例えば今のようないいかげんなことをやっているのは私は許せないと思っております。多様化というのはそのためのカギなのです。競争を強化しながら、しかし、全体としては平等を保つというのはそういうことだろうと思います。
 その上で、しかしもう少し現実的に考えますと、人間の能力のおよその区分として2種類あると思っているわけです。一つは知識的人間と、もう一つ技能的あるいは技芸的人間。その分け方は、私の場合は極めて単純でして、知識的職業は、修練中に自分の到達すべきゴールのイメージが原理的に持てない。例えば、今日、私が物理の初歩を習ったとして、アインシュタインが何をやったかということは全く理解できない。理解できないから勉強するわけです。それから、修練の各段階において報酬があり得ない。つまり、社会的効用がないということです。
 他方、技能的人間は、最終のイメージが見える。例えば宮大工というような人は、その最終の成果にたどり着くのに一生かかりますが、どこへたどり着くかは子どもでもわかるわけです。それから、修行の各段階で報酬が出ます。建築現場の掃除をしていたって、徒弟には一定の給料が出ます。
 そういう二つの人間像を比べますと、大体前者をやろうというのは、人口のうち1%いれば御の字なのです。そんなのは変わり者なのです。つまり、最終ゴールのイメージもない、日々に苦しい、一銭ももらえない。そんなことを営々としてやろうというのは、精神が少しゆがんでいるのです。我々はみんなゆがんでいるのです。そういうのが集まってこの議論をしているわけです。大部分の健全な人間は、そんなことには耐えられない。耐えられないのを無理やりにやらせているわけですから、それはぐれるのは当たり前です。 私は偶然で今の大学へ行ったのですが、今の大学へ行って非常によかったと思っています。というのは、私の理論の実験ができます。両方の人間を同じ大学、あるいは大学という名のもとに包んでおくことは非常に大事なのです。これは精神衛生上、社会治安上よい仕掛けだと思います。昔だと、徒弟に行って職人さんになるのは、つまり学校も出ていないと言われたわけです。今は同じ大学を出て、片一方は大学院へ行って工学博士になり、片一方は大田区へ行って職工さんになる。現実に今、大田区で、4年制の工学部を出た人が迎えられているのです。よく働いている。彼らも生きがいがある。人間というのは本当にいじらしいものですね。4年制を出たという学位を持っているのです。学位を持った人間は、どんなつまらない仕事をやってもいいのです。彼らは生きがいを感じるし、現場で結構、職長さんが大事にしてくれる。ということであって、4年制大学にはまだまだ効用があるなと私は思っています。

○ 鳥居分科会長
 どうもありがとうございました。
 まだ御質問、御意見がおありかもしれませんが、今日は本当に内容の濃い議論をしていただくことができましてありがとうございました。これにて今日の議論は終わりにさせていただきたいと思います。
 それでは、この後のことでございますが、今後、もうしばらく検討を続けまして、先ほども申しましたように、昨年5月に諮問を受けてから、新中教審にこの問題を引き継いできているわけでありますので、そろそろ答申を視野に置いて議論を煮詰めていく必要があると思っています。9月以降、自由討議を少し行った上で、場合によってはワーキンググループを設置するなどして、答申に向けて具体的な作業を開始してはどうかと考えております。もしそのような方法でよろしければ、この休み中に事務方でワーキンググループの構成の仕方等について検討してもらいたいと思いますが、よろしゅうございましょうか。それでは、そのようにさせていただきます。
 次回の分科会はいつぐらいなりますか。

○ 事務局
 次回の分科会は9月以降に開催させていただくことを考えておりますが、日程を調整いたしまして、また文書にて御案内させていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

○ 鳥居分科会長
 ありがとうございました。
 それでは、本日はここまでにしたいと思います。どうも本日はありがとうございました。お二人の先生方どうもありがとうございました。

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