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教育制度分科会(第4回) 議事録

1.日時

平成13年6月25日(月曜日) 15時~17時

2.場所

文部科学省分館201特別会議室

3.議題

  1. 新しい時代における教養教育の在り方について委員からの意見発表及び自由討議
  2. その他

4.出席者

委員

 鳥居分科会長、佐藤副分科会長、國分委員、田村委員、横山(英)委員、奥谷委員、志村委員、藤原委員、船津委員、横山(洋)委員

文部科学省

 御手洗文部科学審議官、近藤生涯学習政策局長、寺脇生涯学習政策局審議官、名取主任社会教育官、樋口政策課長、その他関係官

5.議事録

(1)事務局から配付資料の確認があった。

(2)田村委員、横山(洋)委員からの意見発表があった後、新しい時代における教養教育の在り方について、自由討議が行われた。

田村委員からの発表

  • それでは、初等中等教育、特に中等教育ということについて、今まで学校でいろいろとやってきた経験を踏まえて、教養教育について考えていることを申し述べさせていただこうと思う。
     言ってみれば、中等教育段階での教育というのは、すべて教養教育になるのだろうという気がするが、教養教育になるのだろうと感じる理由について、最初に説明を申し上げたいと思う。
     一応、教養というのはいろいろと定義があるわけだが、考え方としては、単なる学殖、多識ということではなくて、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身に付けた創造的な理解力や知識で、したがって、その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なるという、これができ上がった形である。その前段階で、では中等教育がどのような役割を果たすのだろうか。初等教育も含めてということになるのだろうと思うが、その辺で考えていることを少し申し上げてみたいと思う。
     近年、成果を上げいる発達心理学という学問があるが、資料の№5というところで、発達心理学の学者として、マズローとエリクソンの説を少しく御紹介させていただこうと思う。特にエリクソンの説は、私ども学校の仕事をしている人間にとっては大変参考になる説で、彼はフィールドワークのようなことをかなりやった上で、このような説をつくっているので、ピンとくるというか、なるほどなと思うことが多い。
     今、中等教育というと、思春期、13歳から20歳だが、これはもちろん人によって多少の年齢の差異はあるわけだが、アイデンティティを確立させる。アイデンティティというのは学者の説によると、本来あるべき自分の姿をアイデンティティというのだそうだが、私はいつも生徒に話しているのは、「……らしさ」ということ。哲夫なら哲夫らしさというものがあるのだと。その背景には、中村先生の御専門である分子生物学も、DNAが20世紀の半ばに構造が解明されて、すべての生き物の活動はDNAに支配されているということがだんだんわかってきた。そのDNAが一人一人みんな違うわけである。したがって、「らしさ」もみんな一人一人違うという意味では、かなり信頼が置ける説だろうと思う。これを確立しておかないと、自分の人生に対する不確実性という言い方をしているが、自信が持てないといった感じかもしれない。
     念のために申し添えると、小学校時代に当たる児童期、6歳から12歳では、発達課題は勤勉性とエリクソンは定義している。これは本当にそのとおりだと思う。そこで勤勉性をしっかりと確立しておかないと、一生劣等感に悩まされるという、これはなかなかにうがった見方だと思う。これは四、五年前だったけれども、ある県の小学校の管理者と勉強会を開いているときに、大議論をやったことがある。その先生は、一切宿題を出さないということをおっしゃって、とんでもない話だというので私がかみついて、随分議論したことが記憶にある。私は勤勉性ということを考えたら、宿題というか、ホームワークは、当然、計画的に出すべきだろうと考えている。
     それはそれとしまして、アイデンティティの確立というところで考えた場合に、どのような教育をしてきているかということを、今日は、自分の学校での例を引いて御説明してみたいと思う。
     なお、レジュメの中に、1番で「今なぜ教養教育か」という設問がされている。その背景を考えて申し上げてみたいと思うが、現在ある教育というのは、戦後の1945年から始まった新しい教育制度の成果、よくも悪くもその成果という認識をするという前提で考えると、1946年に教育刷新委員会がスタートして、いわゆる階層社会を前提とした複線型の戦前教育制度を改めて、単一社会の単線型の教育制度に変えるわけである。これは非常に興味があるが、同じ敗戦国といっても、第2次大戦の敗戦国であるドイツもイタリアも教育制度には手をつけていない。日本では一種の社会改革に近い考え方がそこで実行されたと見ているが、6・3・3・4という新しい制度、教育委員会の創設、男女共学といったようなことが、ここで導入されるわけである。結論として言えば、これはある意味では大成功だったと思う。それがいろいろな事情によって少しずつ変わってきて、現在に至っていると考えるべきだろうと思う。
     No.1の右側のところにその流れが書いてあるが、昭和22年から始まって、昭和26年(1951年)、1958年、そして1968年、これが教育課程の改訂の流れである。最初の1947年と1951年の試案と言われていたころは、まだまだアメリカの影響が非常に強い内容があって、いわゆる経験主義が非常に強く出ていたカリキュラムが前提にあったと考えられる。
     1958年、1968年は明らかにそこから変わってきている。歴史的に言うと、1957年にかの有名なスプートニク・ショックというのが起きる。つまり、社会主義社会圏が上げた人工衛星を自由主義社会圏が上げられないということで、教育を変えなければいかんということで、理数系を含めて系統的な学習をするという傾向が強くなって、系統性の重視ということで、ここで変質する。いわゆる学力ということが今議論されているが、その辺が強く前面に出てきた最初の時期だと思う。その傾向は更に教育の現代化と称する1968年の改訂で更に強化される。内容的にいうと、この時期に選択制をほとんど認めないで、全員が同じことを、しかもかなり高度なことを強制的に学ぶという形がここででき上がる。
     ただ、その理想は結構だったが、残念なことに、教育の量的拡大という傾向が同時に起こる。全員が同じものを学ぶ、しかもそれを全国的に一定の水準を保障するということで学ぶというこの形は、経済活動を非常に有効にさせた。
     私はよく申し上げるのだが、このころアメリカのニューヨークのブルックリンに、日本の電機会社の工場があって、そこを見に行ったときに、ビルの中に大きな倉庫があって、そこにテレビが山のように積んである。それを現地で働いている人が計算しているのだが、山のように積み上げてあるテレビを1台ずつ数えている。中途でわからなくなって、また最初から数え出している。日本人だったら、だれでも縦何台、横何台、奥行何台でパッと計算して出すのだが、それができない。〈ああ、こういうのか〉と、そのときのことを印象的に覚えている。日本はそのために大変な経済発展を遂げる。その結果、教育の場においてはいわゆる進学率の向上という形で、1955年が高校進学率が52%、大学が10%だったのが、1975年には高校進学率が92%、大学が38%という、急激な進学率の向上がここで起きる。
     1968年から10年間、この20年間が、非常に難しいことを学ばせるという学習指導要領をつくったわけだが、それはそれで一つの意味があったのだが、今申し上げたような状況が起きたことも一つの原因であった。68年には、豊かさを象徴する事件が起きてくる。つまり、イギリスのGDPを日本が追い抜くのである。そして、69年にはドイツを追い抜き、70年代に入ると、1人当たりでもヨーロッパ各国を追い抜くという大変な経済成長を一方で起こし、教育の進学率も大変な勢いで進んでいく。
     1968年の改訂の中では、群論の問題とか、それから中学でサイン・コサインを確か習ったと思う。高校でも選択制がほとんど同じものを皆さんが学ばさせられるという時期であった。多くの現在の大学の先生方はこの時期の高校生活を経験しているわけである。
     結果、これは昭和59年の調査として出てきてのだが、この時期からはっきりといわゆる七五三という現象が小・中・高で起こってくる。つまり、小学校では7割しかわからないまま卒業している。中学では半分、高校では3割の子しか理解できないままに卒業しているということが、この時期にはっきりしてくる。実は残念ながらその傾向は、その後、たび重なる学習指導要領の改訂にもかかわらず、ほとんど変わっていない。文部省の昭和59年の調査の結果を載せたが、やはり同様に七五三という現象が起きている。これは全く解消していない。この解消していない理由を少しく述べさせていただこうと思う。
     実は68年の10年間の反省で、77年から「ゆとりと充実」、あるいはその次は「新しい学力観」、現在、これから行われようとしている「生きる力」という新しい学習指導要領の改訂は、基本的には知識の詰め込み型の教育をやめようと。そして、一人一人がものを考えられるような方向で授業ができないものだろうか、学校の教育がつくり上げられないものだろうかという試みをしていた時期だと感じている。
     ただ、この時期に現場でどういうことが起きたかというと、実は昭和50年(1975年)、このときに非常に大きな決定を我が国はしている。それはどういう決定だったかというと、大学の新増設をストップさせるという決定をしている。これはなぜかわからないのだが、私の想像では、私立学校振興助成法ができて、とにかく大学については大蔵省と相談しないとつくれない。つまり、つくればつくるほどお金がかかるわけだから、大蔵省が相談に乗って「いい」と言わなければつくれないということが背景にあったのかなという気もしないでもないのだが、いずれにせよ、ここで大学の新増設をストップさせるわけである。
     そこで、昭和50年以降は、大学の進学率が約15年から17年ぐらいの間、進学率が低下していく。進学率低下というのは、その前にものすごい勢いで伸びてきたときに、急にストップして低下していくということは、どういうことかというと、大学に入れなくなるという現象が起きるわけである。高等教育に行きたいという希望は、社会がどんどん豊かになっていますから、みんな持つ。しかし、大学はつくられないということで、大学に行けない。大学入学が非常に難しくなる。これが年々進んでいく。どこも大学と名がつけば、全然知らないような大学でもとにかく難しくなる。
     実はこれから先は、現場の反省だが、私たち初等中等教育を受け持った人間は、その難しいことを教育に利用していた。だから、生徒に何て言ったかというと、「そんなことをしてたら大学へ入れないよ」「そんなことをしてたら大学に入るいい高校へ入れないよ」という教育が基本的な流れだったと言っても、残念ながらしょうがないのではないかということが続いていた。
     その結果どうなっているかというと、実は大学入試を目標にして勉強することになる。それはどういうことを意味しているかというと、大学入試の問題は、子どもの成長を考えてつくってくれてはいない。全く関係なしに、選ぶために適当にその大学の先生が工夫して、教科書を参考にしながらつくっているという問題である。それを目標にして一所懸命勉強することが、自分たちの成長にほとんど役に立たない。意味がないというようにあるいは感じていたかもしれない。象徴的なことは、一所懸命勉強して、難しい大学へ入って、数学の講義を受けようとすると、大学の先生は最初何とおっしゃるかというと、「君たち入試で、数学で苦労してきたろう。しかし、その数学は今後全く使わない。大学の数学は全然違うんだ」ということをおっしゃる。そういうことを聞いて生徒がショックを受けて、私どものほうに報告に来る。一体何のために入試の勉強をしたのだろうかということで、そのときに生徒たちは不思議に思う。
     つまり、初等中等、高等教育とありながら、接続がそこで切れている。そういう状況が、「ゆとりと充実」「新しい学力観」「自己教育力」「生きる力」という改訂をしたにもかかわらず、七五三という現象にかなり大きな影響があったのではないかと思っているわけである。つまり、学ぶことに対する意欲が本当の意味で起きない。その一つの象徴として教科に対する意識調査結果を見て欲しい。これは御存じのTIMSSの国際比較の調査結果だが、この数字はどういうことを示しているかというと、実は数学と理科の学習に関しては、日本の小・中・高生は世界有数の結果を出している。つまり、試験をするといい点を取る。しかし、その勉強が楽しいかとか、それから退屈だと思っているかとか、やさしいと思っているかとか、生活の中で重要だと思っているかとか、将来そういう仕事に就きたいと思っているかという調査をすると、日本の子の数字は世界最低である。その点については、日本の子どもたちは外国と比べると、将来その仕事が大事だと思っているということについては、「ノー」の返事が世界で一番多い。楽しいとも思わないし、将来それが役に立つとも思わないという形で、知識だけは持っているという姿が出てくる。
     次に、これは大問題だと思っているが、総体としての数字ですので、すべてをあらわしているかどうかわからないが、はっきり言えることは、就職率が年々低下しているという現象である。これは豊かさがもたらしたものだという見方もあるだろうと思う。同時に、学校で勉強していることが社会に出て役に立つという意識を育てていないとすれば、こういう数字になるのだろう。つまり、学校で勉強することと社会で働くことがあまりつながりがないとすれば、学校で勉強したことをもって社会に出て働こうという気が起きないわけであるから、就職はなるだけ先へ延ばすという話になる。したがって、大学院、大学、短大、高校、中学、全部押しなべて我が国では、就職率が毎年どんどん下がってきている。これはフリーターを入れていない。
     現実にこれは昨年のある県の調査だが、これを見ると、よくわかる。これは左側で、中学2年生と高校2年生が、学校で何を学びたいかということに対する答えである。これを見ると、なかなか彼らは考えている。外国語とか、コンピュータとか、自立する心とか、新しいことに挑戦することとか、人生の目標の発見を学校で学びたいと思っているわけである。だから、結構しっかりしている。しかし、現実に高校へ進学した後、あるいは中学生が高校へ進学するときに、何をもとにして選ぶかというと、圧倒的に第1位は学力である。学力レベルでしか考えられない。学びたいと思っていることとつながっていない。これはやはり学校の現場の反省事項ではないかと私は思う。その辺のところを解決するのが教養教育ではないか。
     教養については、私の学校の場合は中等教育だから、13歳から20歳の子どもをあずかって、どのようなことで学校で生活させようか。何といってもアイデンティティの確立が一番重要なので、何をやっているかというと、中1から高3まで、私の学校では校長講話というのをやっている。中高一貫だから、中1から高3まであるわけだが、各学年で年間6時間から7時間、多いときには8時間やるが、学年ごとに私が話をする。その話については、シラバスを出している。
     シラバスの一番最初に、中1から高3までに校長講和で話すテーマ、教材を載せる。その際に、中1から高3までの学年の目標――私が考えている自分の人生あるいは人格形成に必要なテーマということで、学年の目標を提示している。御参考までに、中1は、目標が「人間関係」、中2が「自我の目覚め」、人と違うこと、この辺からアイデンティティが始まる。中3が、人と違うことに気がついて、どうやって考えていこうかということで、クリエイティブな能力とか、学問について、「友情、個人と社会」ということを取り上げていく。
     高1になると、「自己の社会化」、これはまさにエリクソンのいうアイデンティティであるが、これが中心テーマになる。高2にいくと、「自由」をテーマにする。この辺から福沢諭吉先生が出てくるのだが、これをテーマにして話す。高3は「自分探しの旅立ち」という、これは文部省の言葉をテーマにしている。高3の最初で一番重要な、6年間話をしてきた総まとめとして生徒に示す論文は、これは何年も前からやっているのだが、佐藤先生の論文である。「人権に関する若干の覚書き」という、先生はもうお忘れになっているかもしれないが、あるところに発表した文章で、非常に難しい文章だが、生徒はきちんと読みこなす。つまり、基本的人権にかかわる解説をされている。基本的人権の中核的権利は人格的自立権である。それを歴史的に説明している文章である。人格的自立権というのは、つまり自分の人生は自分が決めるのだという権利が、基本的人権という権利の中心になる。それを高3の最初に示して、考えさせる。
     これをもとにして、私どもの学校では、生徒の生活指導あるいはホームルーム、あるいは道徳の時間を、校長講和のシラバスを中心にして、6年間計画をしてやってもらう。時間割は最初から決まっているから、私はこれだけは自慢しているのだが、健康なものだから、20年ぐらいこれをやっているが、ただの1回も休講していない。全部やっている。それは自慢できるものであり、基本的にはこの考え方が中心になって、学校全体のそのような考え方の柱としている。私はこれが自分の学校の教養教育だと考えている。
     学校の教育目標は「自調自考」を第1に置いて、2番目が「国際人の資質を考える」、3番目が「高い倫理観」、三つの教育目標を立てている。そのように20年やってきて、どのような生徒が出始めているかというと、お手元に差し上げているが、「自調自考」論文というのが書かれ出している。「自調自考」論文というのは、実は「自調自考」を教育目標にした学校だから、高2の段階でまとめて、卒業時までに整理しなさいということで、要するに卒業論文である。これは別に卒業のために必要な単位でもなければ成績もつかないのだが、「自調自考」を目標にした学校で、「自調自考」論文を書かないで卒業するというのはよっぽど理由があるのだろうから、親御さんと一緒に私のところへ来てくださいということだけ言っている。まだ相談に来た生徒はいないので、全員が書いて出しているということになるだろう。1万人近い卒業生が出ているが、全員が書いて卒業している。
     現状で幾つかのおもしろい例を上げると、これは今年卒業した子だが、大学受験を頑張っていると同時に、アメリカ横断ウオークにトライして当選した。「どうすんだい、大学は」と言ったら、「受けて受かればいいし、受からなければ浪人して、1年間アメリカで歩いてきたいと思っている」ということを言っていた。受けてこれに受かって、大学も実は受かってしまった。上智に行っていると思う。今、休学して、アメリカを歩いている。こういう子どもが出てきている。その報告書がいろいろ出ている。
     それから、№7に載せている生徒だが、「日本学生化学賞」というのがあるが、その「日本学生化学賞」で昨年、「生命誕生の起源―アミノ酸生成の試験管シミュレーション―」というので総理大臣賞をとった。試験管の中でアミノ酸を無機物から有機物につくり上げたという実験である。有名なノーベル賞をもらった実験があるのだが、それを再現したというテーマである。普通、大学では大学院あたりでやる実験らしいが、やってみたいというので、高校2年の1年間をかけてコツコツ化学部でやって、この子がつくった論文が見事に総理大臣賞をもらった。
     何でこれを示したかというと、学生化学賞も作品集に載っているのだが、韓国からその研究資料をよこせという依頼があった。実はこの子も既に大学へ行っているので、大学に連絡をとって、「そういう依頼がきたから、あげてもいいか」と言ったら、「いいですよ」と言うから、コピーして韓国に送った。こういう子が出てきているということである。この子は大学で同じように化学の研究を始めている。まだ1年生である。
     それから、ついこの間、5月の末に新聞に出たのだが、私の学校の卒業生のことである。この子は司法試験に受かったときに私のところへ来た。「大学に伝えに行ったのか」と言ったら、「いや、大学には行ってないけど、先生には言いたい」と言って来たのだ。私は非常に感激した。校長講和でいろいろ聞いたのが、こういうことをした経験になったということを言いに来た。たまたま読売新聞が取り上げたのだが、この子は高校を出て、自分がどういうものか探し求めて、5年間大学へ行く気になれなかったという子だが、最後に、やっぱり自分はこういう方向がいいということを確信して、それから明治大学の法学部の夜間に行って、4年生で司法試験に受かったということで、今は司法研修所に行っているようである。「これはむだではなかったと思っています」と、そのときも言っていたが、こういうことが教養教育ではないかと思っている。
     何かいいことばかり言ったような気がして恥ずかしいのだが、でも、少しいいことも言わないと、今の中高の教育は全然だめだとばかり思われていても困るものだから、とてもいい子も育っているということをぜひ申し上げたいと思って説明をしたわけである。
     基本的に中・高で教養教育というのは、校長さんが責任を持つことではないかと思っている。教科は当然、教養教育につながることをしなければいけないわけだが、学校としてやるということで、いわゆる組織影響力というのか、集団でそういうシャワーを浴びることによる自分の考え方の変更が起きてくるのだと信じているわけである。うちの学校でいうと、「自調自考」というのを年がら年じゅう私が言うものだから、何をやるにも生徒は「自調自考」と言っているようである。ふざけていると思うのだが、それでいいのだろうと思っている。何かそういうものについてそれぞれの学校がテーマを持ってやれば、必ず成果が出てくるのだろうと信じているが、それが中等教育における教養教育なのかなと感じている。

横山委員からの発表

  • 私のほうからは教養教育の在り方につきまして、東京都として、特に初等中等教育を所管している立場から若干お話をさせていただきたいと思う。
     まず、本論に入る前に、前置きとして、この審議会の中でもこれまでの議論の中で、教養を培う上で基礎・基本としての国語教育、とりわけ読書活動が重要であることはつとに指摘されているが、実は昨日、文部科学省による読書活動優秀実践校の表彰式があって、都からも小学校、中学校、高等学校、養護学校、各1校、計4校が優秀実践校として表彰を受けることができた。私どもとしても誠に光栄に思っているところである。この読書活動の実践として行われているのは、朝の10分間読書運動、あるいは読書習慣、読書新聞の発行であるとか、あるいは読書を通じた交流など様々である。
     これらの活動を通して得られる効果として指摘されることは、「読書習慣が身に付いた」とか、あるいは「読書量が増えた」、更には「図書館の利用率が向上した」と。こういった効果は当然認められるわけだが、それ以外に、私はこのほうがはるかに重要だと思っているのだが、「授業への集中力が高まった」、あるいは「主体的に学習する態度が身に付いた」、更には「異学年の間での交流が深まった」、こういった予想以上の波及効果があったということが、現場からは指摘されている。
     都としても、今後、これを機会に、読書活動の分野にも光を当てて、読書活動のより一層の充実を図っていこうと考えている。
     これが前置きで、本論のほうに入らせていただく。実は東京都としての教養教育の取組の紹介、あるいは具体的方策について、意見発表の依頼を受けたときに、正直申し上げて戸惑った次第である。というのは、まず教養教育という概念でくくった分野は、実際学習指導要領にもないし、教育現場において教育課程の編成に当たっても、教養教育という概念について特別の意識をしているわけでもない。そもそも教養教育の定義が私どもとしてはよくわからない。そういう中で、初等中等教育段階における役割は何かと考えることは大変悩ましい問題だが、教養教育の基礎として初等中等教育が行うべきものは、基本的には学習指導要領に基づいて、教育課程をしっかりと編成して、確実にそれを実施していく。これに尽きるような思いを持っている。
     そこで、中教審の教養教育についての「審議のまとめ」の中にもあるが、初等中等教育における教養教育というものを私なりに理解させていただくと、新学習指導要領が目指す教科教育とともに、ボランティア活動などの奉仕体験、あるいは自然体験活動などを通して培われる「生きる力」をはぐくむ教育を、初等中等教育における教養教育と理解させていただいた上で、教育行政の立場から学校現場の具体的な事例、あるいは私ども教育委員会の施策を中心に話をさせていただきたいと思う。
     初めに小・中・高等学校における教養教育の取組について、二、三の事例を御紹介させていただく。先般の「審議のまとめ」の「生涯にわたる教養教育」という第3章の中で、「教養は学校、家庭、地域のあらゆる場面を通して、様々な体験を積み重ねることによってはぐくまれるものである」という御指摘がある。これを受けて、小・中・高等学校における体験活動の取組事例を紹介して、教養教育の基礎を培う初等中等教育の役割について考えてみたいと思う。
     実は東京都教育委員会では、平成11年度から「トライ&チャレンジふれあい月間」を設定して事業を行っている。資料の2ページを御覧いただきたいと思うが、この「トライ&チャレンジふれあい月間」では、すべての小学生、中学生が、自ら目標を設定して、体験活動を行うことを通して、社会の一員としての自覚を高め、健全で豊かな心をはぐくむ、これをねらいとして実施している。これは東京都が行っている「心の東京革命」の一環として、教育分野として実施しているものである。子どもたちが設定する目標には、例えば「くじけず、やり遂げる」、あるいは「家族や友人と協力をして活動する」「地域の人々と積極的にかかわる」、様々あるが、取組内容としては、地域清掃活動であるとか、あるいは職場体験、リサイクル活動、地域の伝統・文化体験、福祉施設訪問など、様々な体験活動を行っている。
     その際、高等学校あるいは盲・聾・養護学校の施設は、学校の施設そのものを体験の場として提供したり、体験活動の指導をしたりすることによって、小・中学生の体験活動を援助し、支えていくという仕組みをつくっている。これらの活動を啓発する意味で、全体的なシンポジウムを行ったり、また、体験活動のフィナーレとして、子どもたち自体による体験発表会、こういったイベントを実施している。
     体験発表会の中で、特に印象的な事例を一つ御紹介すると、これはある小学校の事例であるが、学校で花の栽培を行うことを通して、高齢者と触れ合う活動がある。ある学級でサフィニアの苗を育てるという提案があって、ちょうど1年前に高齢者と一緒に給食を食べるという機会があって、まず一緒に給食を食べたことがある高齢者の人たちと、一緒に育てようということを子どもさん自ら提案されて、高齢者を招待して交流する機会があった。
     そのときの6年生の児童の感想を一つ紹介させていただくと、こう言っている。「初めは緊張したけれども、高齢者と一緒に苗を植えているうちに……」、異世代交流というか、「……話ができるようになった。苗を植えるのが初めての私にやさしく教えてくださった。一番驚いたのは、高齢者の人たちがてきぱきと働く姿であった」。別の生徒は、サフィニアの花言葉というのは「あなたといると心が安らぐ」というのだそうですが、「サフィニアを見たたくさんの人たちに喜んでいただいた。花を育ててよかったと思いました」、こんな感想も述べている。これらの感想から得られることは、子どもたちが高齢者と触れ合うことのうれしさと、感謝の気持ち、あるいは植物を大切にする心、土に親しむ働くことの楽しさ、人のために役立つことの喜び、こんなことが感想文から伝わってくる。
     東京都では毎年11月を「トライ&チャレンジふれあい月間」として位置づけて、すべての公立の小・中学校で一斉にこのような体験活動を実施している。学校、家庭、地域のあらゆる場面を通して様々な体験を積み重ねるという、まさに教養教育の基礎を培う取組を組織的に行っていると考えておる。
     次に、高等学校の事例について申し上げると、都の教育委員会では平成9年度から都立高校改革を進めておりまして、学校の個性化、特色化、あるいは開かれた学校づくりなどの学校改革を推進いたしているところである。
     都立高校改革の一環として、平成12年度から都立高校を対象にしたインターンシップ推進校を設置している。平成12年度が6校、13年度が12校指定しているが、望ましい勤労観であるとか、あるいは職業観を育てる指導内容、あるいは指導方法の工夫改善について、研究を都教委として委嘱している。生徒がインターンシップの体験を通して何を学んだのか。そうしたことについて、推進校の実践報告があるので、そこから以下若干紹介する。
     ある普通科の高等学校の例だが、この学校では教育課程の類系として、福祉教養系を設けていて、2年生で福祉基礎という科目を学校設定科目として設定している。この授業では9月から11月までの期間に8日間、保育園や福祉施設でインターンシップを実施している。保育園で体験したある生徒の――日誌の交換をしているが――日誌に書かれていることを見ると、例えば「担当の先生が『じゃ遊ぼう』と言った瞬間に子どもに囲まれた。初めは女の子だけだったが、次第に男の子が多くなり、最後は男の子だけになって大変だった。一遍に全員がしゃべる。だれと会話していいのかわからない。保母さんの大変さがつくづくわかった」と、こんな感想を述べている。それに対して、当然インターンシップなので、指導担当がいて、指導担当の保母さんが日誌に次のような返事を書いている。「どの年齢でも子どもたちは自分の話を聞いてほしくて一斉に話すことがある。そんなときに、『順番に聞くから、お友達も一緒に聞こうね』と、こんな声をかけて、一人一人が満足して話せるように配慮していくべきだ。これからもどうか子どもとの会話を楽しんでほしい」と保母さんが指導している。
     また、別の保母さんからは「子どもたちの話すことを必死に聞いてあげてください。ためになる話を百するよりも、子どもの話を一つでも二つでも真剣に聞いてあげるほうがずっと大切です。とても大変な仕事だけれども、頑張ってください」と、こんなアドバイスも日誌で行っている。
     この生徒は将来、ケースワーカーになることを考えていたが、こうした保育園での体験を通して、保母さんの仕事にもかなり興味を持ち始めたようなことが日誌から散見される。この授業を指導している高校の先生は、当初、生徒が実習先で迷惑をかけるのではないかとかなり心配をしたようである。ただ、実習から帰ってきて、生き生きと話をする生徒の姿を見て、やはり現場の経験が生徒を成長させるとつくづく実感したと言っていた。
     以上お話ししたような体験活動は、自分と他者との関係をどのようにつくればよいのかということを知る絶好の機会になっているようである。特に異世代とのコミュニケーションを豊かにする契機となっていて、これらを通して子どもたちは自分が大切にされている、自分を必要としてくれている、あるいは人のために役立っているということを身をもって感じ取っているようである。
     また、「審議のまとめ」にもあるように、自分は何ができるのか、どのように生きていくのか、社会とどうかかわっていくのか、こういった考えを深める上で、貴重な体験となっていることが伺えるかと思う。
     話は変わるが、都の教育委員会は、平成13年度に教育目標を全面的に改定した。従来の教育目標を変えることについては、教育委員会の中でも相当議論があった。従来は普遍的な理念を目標として掲げていた。しかし、急激な社会の変化、あるいは子どもたちの教育をめぐる様々な変化に対応するためには、普遍的な目標だけではなくて、時代の変化に対応した理念をやはり目標に盛り込む必要がある。つまり、教育界でよく言われている不易と流行とを織り交ぜる必要があるということで、全面的に見直したわけである。
     ここで書かれている教育目標は、具体的に都民にわかりやすいほうがよいということから、まず育てたい人間像を示している。その人間像は三つあって、「互いの人格を尊重し、思いやりと規範意識のある人間」を育成する。2番目が「社会の一員として、社会に貢献しようとする人間」を育成する。それから、3番目としまして「自ら学び考え行動する、個性と創造力豊かな人間」を育成する。こうした三つの育成像を掲げている。このうち一つ目と二つ目は、他者とどうかかわっていくのか、あるいは社会とどうかかわっていくのかということを求めた、教育用語でいうと徳育に当たるものである。三つ目は、学ぶ姿勢や学ぶ力を求めた知育に当たるものと考えている。こうした人間像を示すことによって、子どもたちに期待することを一種のメッセージとして送っているわけである。これはまさに先ほどの事例の中でも申し上げたとおり、様々な体験を通して身に付けるべき教養の基盤となるべきものと考えている。都の教育委員会では、こうした人間の育成像というか、これらを具体的な施策として各教育現場で行っているわけである。
     次に、教養教育を改善するための具体的方策について、今申し上げた事例に基づいて、私なりの考えを申し上げたいと思う。教養教育を充実させるためには、初等中等教育の役割として大切なものは、これも「審議のまとめ」にもあるが、また、先ほどから申し上げているとおり、基礎・基本の充実、それから自ら学び考える力、あるいは豊かな人間性の育成が大切であるということについては、全く異論はない。
     ただ、先ほど申し上げた実践事例などを通して感じることは、教養教育を行うための基礎として特に重要なことは、自立した一人の人間として自分の生き方をしっかり持つことではないかということである。このことは「審議のまとめ」にも示されてはいるが、ここをもう少し強調したいところである。自分がどう生きるのかという自分なりの生き方そのものをしっかりと確立すること。そして、社会的に自立することが最も重要であると考えている。
     この中で、社会的に自立するといっても、社会に出る前の段階であるので、経済的に自立する意欲を持つこと、それから社会的役割を担う自覚を持つこと、自分の能力を発見し、自分らしさ、アイデンティティを確立することが期待されていると考えている。社会的な自立を促すということでいえば、進路指導というか、もう少し踏み込んだ言い方をすれば、キャリア教育を充実させることが特に重要であると考えている。
     都の教育委員会の諮問機関である東京都産業教育審議会の第19期の答申、これは平成7年の答申であるが、この中で、これからの生涯学習社会において、小学校からキャリア教育を系統的に行うことが重要であると指摘されている。このキャリア教育が教養教育の基礎として重要であると私どもとしては考えているところである。人はだれもが将来、充実した職業生活を送ることを願っているわけであり、職業を通して、自分の個性を発揮し、社会的な役割を担って、そして経済的に自立することは人生にとって極めて重要な課題である。学校教育においては、将来、職業生活の中で自己実現を図ることができるよう、キャリア教育を小・中・高等学校の発達段階に応じて系統的に行うことが求められていると考えている。
     例えば、小学校低学年で申し上げれば、身の回りの行動に関して自立すること、あるいは働くことの意義について理解すること、こういった課題がある。こうしたことができ、またわかるようにするために、意図的に教育をすることが必要であると考えている。また、小学校高学年では、自己の個性について知ること、あるいは進路に対する自覚を深めること、こういった課題をクリアするために、キャリア教育の目標を定める必要がある。中学校、高等学校とそれぞれの発達段階に応じて、キャリア教育の目標を定めて、教育計画を立てていく必要がある。これは職業に就いた後も、生涯求められるものである。
     先ほども申し上げたが、東京都では平成9年9月に、都立高校改革推進計画を策定した。都立高校の教育の最大の課題は、生徒の多様化に対応して、各学校が個性化・特色化を図ることであろうと、これは基本的に考えている。そのため、生徒の多様な興味あるいは関心や指導に対応して、総合学科高校、単位制高校、あるいはチャレンジスクールなどの新しいタイプの高校を順次設置して、それぞれの高校の個性化・特色化を進めているところである。
     その際、キャリア教育の考え方を生かして、「産業社会と人間」あるいは「キャリアガイダンス」などといった生き方にかかわる新しい科目――学校設定科目――を設置して、人間としての在り方、生き方の教育の充実を図っているところである。
     実は東京都では、15年後の東京都の将来像を描きながら、中長期的施策を示した「東京構想2000」というものを昨年12月に策定した。教育の関連としては、社会のルールを守り、思いやりのある豊かな心を持つ子どもを育成する。それから、学力や個性を伸ばす教育を充実し、日本の未来を担い、世界に貢献する若者を育てる。これを施策として示している。その具体的な戦略の一つとしては、先ほどから申し上げております体験活動の機会を充実することを取り上げている。また、新しい教育の可能性として、ドイツの職業教育のシステムをモデルとした、週のうち何日かは企業で実務的な教育を受けて、週のうち何日かは高校で学ぶ。座学としての授業は最小限に絞る。こういった学校と企業とが提携した教育、いわゆるデュアルシステムの教育を導入することを提言している。学校で一般教育を学んで、企業等の職業の実体験を通して、職業的な資質・能力を身に付けるシステムである。
     そもそも義務教育を終えた段階で、子どもにとって選択肢というのは、現状の日本のシステムの中では、事実上高校進学という道しかない。ほかにどういう道が用意されているか。必ずしも絶無とは言わないが、ほとんど高校進学しか道がないというのが現在の状況だろうと考えている。義務教育を終われば、本来もっと社会ともかかわりながら自分の生き方を見つけて、自立の道を歩んでいかなければならない。それが義務教育の使命だと私どもは考えているが、そういう生き方ができにくい社会システムになっている。これに一石を投じるというか、風穴をあけるのがデュアルシステムの教育である。こうした高等学校をぜひともつくりたいと考えているところである。
     初めに教養教育とは一体何なのかということで、大変頭を悩ませたと申し上げたが、そもそも主に大学などで学問を通して身に付けるものが教養教育ということで、果たしていいのだろうか。こういうことが実は最後までひっかかっていたわけである。教養の基盤として、社会的自立を念頭に入れたときに、真の教養というか、これは高等教育機関で学問を通して身に付けるものと考えるだけではなくて、それだけではやはり弱い、不十分であると考えている。このことは「審議のまとめ」においても、学校教育だけでは限界がある、あるいは高等教育機関のカリキュラム以外での教育が重要であると、これが指摘されているわけだが、生涯を通して教養を身に付けるには、まさに家庭教育、初等中等教育、高等教育、地域社会や職場での教育、それぞれがどういう役割を果たしているのかを整理をする必要があると考えている。最近の若者というのは、生活する上で必要な体験が不足している。社会的自立がおくれているということが強く指摘されている。特に高学歴社会が一層進む中で、学生でいる期間が長くなる。そのことによって、社会的役割に対する意識が希薄になっているという現象がある。
     こうした中で、先ほど「東京構想2000」のところでお話ししたデュアルシステムの教育のように、まさに学校と社会、あるいは職場との双方が絡み合って、社会との接点を持ちながら人格を形成していく、このことこそが生きた教養の育成になるのではないかと考えているわけである。本来ならばドイツのマイスターのように、いわゆる座学的な学問とは別の道を歩んで、技術を極めて、その道の職業の達人になった人が、ある意味では教養人として立派に社会から認められているわけである。社会的自立、あるいはキャリア教育、デュアルシステムなどについて申し上げたが、新しい時代における教養教育にはこうした視点が必要ではないかという問題の投げかけをさせていただいた。今後の検討にぜひ役立てていただければ幸いである。
     東京都の教育の現状、あるいは都教育委員会の施策を中心に思いつくままに教養教育の所感を述べさせていただきいた。以上である。

自由討議

  • 小・中学校の子どもに教養を求めることは大変難しいことだなという感じがしたが、この時期の子どもには世界に触れさせることが一番大事なことで、今の受験のくびきから解放しない限り、本当の教育はできないのではないかと思う。
     それと日本の子どもの生活で、学校の比重が非常に大き過ぎるというか、学校的価値観がすべてに塗り込められてしまっていることが、子どもを家庭とか、地域とか、自然に解放しなくなっているのが現状ではないか。そういったところから考えて、教養を持ち出すことでまた子どもを学校のおりの中に閉じ込めてしまうような危惧があるのではないかという気がする。
     もう一つ、だめな教師を――田村先生のような立派な先生が教育をなさっているのは、影響力が大変あるのだが、むしろだめ教師を学校の中からどうやってはじき出していくのか。その仕組みがかなり必要なのではないか。公立学校の場合、校長には人事権も何もなくて、教育委員会が持っている。教育委員会自体がそういっただめ教師を排除できる機能をもし持てないのであれば、別の例えば学校監察官みたいな、そういった第三者機関みたいなものをつくるようなことが必要なのではないか。イギリスにはそういった査察が入る仕組みがあるようなことを聞いた。父兄が不満を持ったりとか、子どもがいろいろな意味で不満を持ったりというところのだめな先生を、校長も含めて、総入れかえをするような仕組みが大事なことではないかという気がする。
  • 会長
    今、三つ大きな問題が出て、要するに子どものときから広い意味でのいろいろな世界に触れさせることができなくなっている日本の状況をどうしたらいいのか、あるいは現実がどうなっているのかという問題。
     それから、生活の中で学校の比重が大き過ぎる。別の言い方をすれば、私的な生活の中で昔はもっと多様な文化が子どもを取り巻いていたのが、どうにもならなくなっているという問題。
     3番目は全く違う問題で、いろいろな意味でだめな教師――だめな教師って何がだめかというのはいろいろあるが、それをどうしたら直させたり排除したり、あるいは自ら反省してもらったりすることができるだろうかということについて、問題提起があった。
  • 子どもの世界を考えた場合、私は小・中とよく言うのだが、小学校と中・高は別だと私は思っている。エリクソンの例をそれでわざわざ引いた。結局、義務教育ということであるから、教育委員会は小・中ということをよくおっしゃるのだが、子どもの発達状況を見ていると、小学校と中・高生というのは明らかに違う。中学生でも1、2年ぐらいから理系、文系の意識が出てくる。同じことを同じように同じ先生から学んで、理系、文系の意識が出てくるのはその時期なのである。小学校ではまだ明快ではない。それをよく例に引くのだが、実態としてそういうことがあるので、現場の人間としては小学校と中・高は分けたほうがいいのではないかと思っている。
     受験は確かに大きな影響があるのだが、何か目標を持って一所懸命頑張るということは、そう長い時間でなければ大変意味があることだと思うので、どこかでそういうことを経験することはマイナスだけではない。受験を全部なくしてしまうのは、私はいかがなものかという気がする。
     ただ、広い世界に触れさせるというのは、意図的に考えてやっていかないとどうも十分ではないのではないかという気がする。例えば日本の家庭教育の問題で、今いろいろな議論がされているのだが、平成12年2月、文部省の委託研究で信州大学の平野先生が発表した国際比較で見ると、日本の家庭教育は、いわゆる自然体験とか、社会体験は家庭でかなりやっている。諸外国と比較してむしろ日本のほうが進んでいるような数字が出る。ただ、明らかに諸外国と違うのは、規範にかかわる教育がほとんどされていない。単純に言えば、例えば「正直か」とか、「うそは言っていないね」とか、「弱い者はいじめないね」とか、あと私たちに言わせると「学校の先生の言うことを聞いているかい」とか、そのようなことについて、家庭でほとんど話されていない。これはびっくりするぐらいである。
     一番象徴的な例で言うと、アメリカでは8割以上の父親が子どもの顔を見ると、「正直か」ということを聞くそうである。いつでも言うらしい。ところが、日本の父親の8割以上は、その手の質問をしたことがない。つまり、子どもに言わせると「聞いたことがない」というわけである。父親から言われたことがない。その部分は小学校時代にやることだと思っている。だから、それは学校ではできないことだけれども、それは学校としては意識してやらなければいけないのだろうと思う。小学校と中・高をそのように分けたほうがいいのではないか。規範意識なんていうのは中学校からやるのはちょっと遅いのではないかと思う。むしろやらないほうが僕はいいと思っている。中・高はむしろできるだけ自由に伸び伸びとさせたほうがいい。
     ただし、今現実には中学でかなり厳しくやらなければだめだという意見が出ている。これは中・高一緒にしてしまえば解決する問題ではないかと思う。中高一貫教育というのをよく申し上げて、それが大事ではないかと考えている意味は、そういうところにもある。
     それから、2点目に多様な世界に子どもたちを触れさせる必要があるのではないかという話だが、私の感じでは一番の問題は受験というのが大きな問題である。確かに私どもの中学でも受験して入ってくるので、入った後、子どもになる。教室でトランプをやったり、将棋をやったりする。本当はこれは小学校の4、5年で済んでいる遊びである。ところが、やってないものだから、入ってからやる。それを勝手にやれというのでやらせると、1ヵ月ぐらいやると飽きる。そこで卒業できたと、そんなような経験があるのだが、毎年そういう状態だから、追いつき追い越せる、あるいはそういう経験は学校側が意識していればできるのではないかと思う。
     それから、最後のだめ教師はよくわからない。イギリスのスタッフボードの仕組みをおっしゃったと思うが、私が理事長をしているブリティッシュ・スクール・イン・東京という学校があって、そこは昨年検査を受けた。半月ぐらい4人の委員が来て、親、それから授業も見ていく。生徒にも、先生にも質問して、詳細なレポートを書く。それを公表する。公表することが義務づけられている。これはイギリスではできるのだが、日本ではできるのかどうかわからないけれども、すごいものである。
     私のところでやっているやり方は、生徒による授業の評価を中1から高3までの生徒に、先生方の授業は全部評価させている。それは公表している。
     それから、年2回、私のところでは地区懇談会と称して、中1から高3までの親を住んでいる地域に分けて、春と秋、10回ずつぐらいか、10地区ぐらいに分けて親御さんと話し合いをする会を持つ。それはだれも出ないで、私だけが出る。「地区懇談会」と言っている。とにかく校長にいろいろなことが言えるという会である。これはいろいろなことがわかる。うちの学校ではどうしようもない問題が出てきた場合は、先生に一応警告をする。警告して、直らなければ、ある一定期間を経てやめてもらっている。それはやめてもらった先生の実例がある。残念ながら何人か出ている。
     向かない先生はいる。間違いなくいる。よく言うのだが、普通の先生は向く子どもと向かない子がいる。そこで工夫する余地がある。理想的なのはだれにでも向く先生である。ところが、だれにも向かないという人がいる。間違いなくいる。これは転職したほうがいい。転職したほうが本人のためだし、周りも子どもたちも幸福だと思う。だから、その機能について、今、公立でもおやりになろうというので、法律の整備を文部省はしたわけである。これから始まるのではないかと思う。教育長からお話しいただけると思うが、それは学校も今動き出しているという状況がある。
  • 今のお答えに簡単な事実的な御質問をしてよいか。ただいまお話しくださった生徒による授業評価、それから地区懇談会というのは、日本の教育制度ではまだ例外的なやり方だと思うが、これは先生が校長としてお決めになって実施していらっしゃるのか、それとも学校内で何らかの教員を含めた話し合いでお決めになったか。
  • 今、二つの中高一貫校の校長をしているが、二つとも自分がつくった学校で、おられる先生は全員私が採用しているわけである。だから、私が決めないと何にも決まらない、その部分では。開かれた学校を柱にしようということから、先生方といろいろ話をして出てきた案ではある。ただ、決めたのは私。でも、それはどこの学校でも校長が決めることではないだろうか。
  • 私は大学の学長を8年間ずっとやっていた。日本中を各地に分けて、大学生だが、御父兄と私との懇談会をずっと続けていた。これはやり出すとむしろ習慣で、教員は冷ややかに見ているが、職員は万やむを得ずついてきて協力するわけである。親は熱狂的に集まってくる。学校に対する文句を徹底して言うので、これはできる。
  • 評価は、中1、中2が形式がちょっと違う。中3から高3までは全く同じスタイルで授業評価をしてもらっている。これはちょっと変えたほうがいいという実態があるから。
  • まず第1番目の小・中学生に教養教育といった場合に、ますます受験戦争が云々という話だが、僕はそうは思っていない。というのは、小・中学生に対して来年から実施される新学習指導要領をやっていけば、そういうことは絶対ない。というのは、教科については最低限の基礎・基本を着実に身に付けさせる。問題は、教科の減で増やされた「総合的な学習の時間」をどう創意工夫で使うかということだろうと思っている。都内の小・中学校でも現在試行をやっているが、どうしても横並び思想が強い。例えば国際理解教育というと、何か英会話を教えないとということで、あくまでも座学を中心にした教科で組み立てていくという傾向がある。本来的には、先ほど私どもが申し上げたが、「総合的な学習の時間」というのはまさに奉仕体験活動とか、自然体験とか、学校から外へ出て、座学ではない分野でやっていくのが筋だろう。したがって、「総合的な学習の時間」をそれぞれの学校で校長を中心として創意工夫でいろいろな組み立てをしていくということで、少なくとも先ほど言ったように学習指導要領に教養教育というのはないわけだから、そんな概念が。教育課程の組み立ての中で、教養教育という名のもとに過度に授業が増えるということはたぶんないだろうと思っている。
     それから、2点目の、生活の中で学校の比重が大き過ぎると。これは逆だろうと思っている。子どもたちにかかわる教師の比重が大き過ぎる。というのは、従前、家庭における家庭の教育力、地域社会の地域の教育力、それから学校における教育力、この三者の教育力が相連携して子どもたちの育成に当たってきた。これまでの社会的な変遷の中で、まず家庭における教育力が低下をしてきた。地域社会のコミュニティの崩壊で、地域の教育力も低下してきた。それとおのずから教育というのは、学校しか今ないわけである。
     例えば、今、小学校の先生方は、親権の代行をさせられている。本来ならば、学校に入る前にしつけがなされなければいけない。例えば昨年の教育改革国民会議の中で曾野綾子委員がおっしゃっているように、まさに学校に入る前に社会的な最低限のルールを身に付けさせるのは、親の喜びであり、義務だ。それが今なされてなくて、すべてが学校教育の中に入ってきている。少なくとも私はそういったしつけの問題から、早く教師を解放してやりたいという思いを持っている。そういった意味で、早くいろいろな手段で、家庭の教育力、あるいは地域の教育力が回復して、社会全体のシステムとして子どもたちを育てていく、そんな環境ができればと思っている。
     3点目、だめ教師。だめ教師というのか、私どもは定義的には指導力不足教員という言い方をしている。実は今、国会に文部科学省で上程されている教育三法の中でも、指導力不足教育を教壇から排除するという項目が盛り込まれている。問題は、従前なぜ指導力不足教員が排除できなかったかというと、戦後、日本の公務員制度というのは身分保障を主体にしてつくられてきた。したがって、指導力不足とわかっていても、身分を切る、あるいは他の職種に転換するのは制度的にできない。ただ、最近は、私の思いは、指導力不足教員の存在は、犠牲者は子どもだということ。これを相当重視をしなければいけない。そういうことから、都道府県で初めてですが、昨年度から教員に対する人事考課制度を発足させた。人事考課制度がたぶんそうすぐに機能するとは思わないが、2年あるいは3年たって相当機能した段階で、指導力不足教員を排除するか回復させるかという道がある。そういった意味で、人事考課制度と連動させて、ことしの4月から教職員研修センターというのを立ち上げて、研修を強化していこう。それでもだめな教師はどうするのか。これはたぶん法審議の経過を見ると、今国会で成立するだろう。個々の抵抗が相当あったとしても、強力に適用していかざるを得ないだろう。それはなぜかというと、被害者は子どもだということ、この原点だろうと思う。
     それから、実は先生方は過激な教員試験を通ってきているから、能力はある。問題は、指導力不足は何かというと、授業方法がわからない、あるいは子どもとのコミュニケーションをとる能力が不足している、これだろうと思う。そういう話になると、教員の養成段階、これは大学教育である。それから、採用段階で何かできないのか。あるいは、採用の研修を通してその回復はできないのか。こういう方法があるわけだが、私どもとしては養成の段階で何かできないのか、あるいは採用の段階で、現在、条件づき採用期間ということで、だめならすぐ首が切れる期間というのは、我々公務員の場合は半年である。教員は1年。これをもっと延ばせないのか。極端に言えば3年ぐらいあればそれはわかるわけである。あるいは、仮免許制度というのはとれないのか。そういった意味で、採用の段階で何か規制をかける方法がないか、御議論をいただきたいと思っている。
     もう1点は、開かれた学校づくりとの関係だが、なぜ教師がだめになるかというと、自己啓発を全くしなくてもいい世界、まさに閉ざされた世界だからである。それはなぜかというと、だれからも評価されていない。今、文部科学省が進めようとされている開かれた学校づくりというのは、まさに地域との連携の中で、地域あるいは保護者が学校を評価する。学校を評価するというのは教師も評価される。教師がシステム的に評価される立場に立てば、おのずから自己啓発は進んでいくだろう。私どもは研修センターをつくって、教師を研修してはいるが、やはり与えられた研修ではそれほど効果はない。自ら発意して自己啓発に努めて、初めて研修の効果は上がるのだろうと思っている。したがって、今、組織としての人事考課制度なり、養成・採用・研修を通した養成、それとともに開かれた学校づくりの推進が、教師の質が変わっていく、変わっていかざるを得ない、そういう大きなインパクトになると考えている。
  • いろいろな話が含まれた議論になってきたが、子どもたちの教養の話と、それから先生の質の話とか、全く異質なものが両立てで進んでいるから、整理の仕方が難しい。この
     実は先ほど来のお話を伺っていて思うのだが、大学生をつかまえて、童話・童謡の話をすると、全く知らない時代になっている。恐らく小学生でも『桃太郎』の話を知らないとか、要するに日本では童話・童謡の世界が家庭からも、幼稚園からも吹っ飛んだ。テレビの何とかの時間とか、そういうのが幼稚園でのカリキュラムに組み込まれた。ところが、アメリカへ行って本屋を見ると、『マザー・グース』とか、ディズニーの絵本とか、そういう古典的な童話・童謡は依然として残っています。日本からだけそれがなくなったのではないか。
     もう一つは、そういうものはどこで教わるかというと、家庭と教会で教わる。ところが、日本には最初からそれがないから、家庭がだめになった途端に、全部だめになったのではないかという気がする。小学生の教養、小学生がみんな持っていた昔のおとぎ話的な世界が基盤になって、その上に教養は積み上がってくるものだと思いますが、そういうのは田村先生の学校ではどうしておられるのか。
  • 具体的な話になってきて難しいのだが、そのお話をさせていただく前に、一つだけどうしてもこれは触れなければいけないことなのだが、教師の評価の問題は、教師というのはものすごく評価しにくいものである。例えば現場にいるとわかるのだが、結局、生徒の教育はみんなでやるわけである。だから、目立ってものすごく活躍する人もいるし、裏に回って支える人もいる。支える人もいないとできない。それを表に出たやつだけを評価してしまうと、現場はみんなシラける。基本的に評価は、教育の場合にものすごく難しい。難しいから、今までやっていなかった。だけど、やらなきゃならない時代になったということに追い詰められている状況だということを御理解いただきたい。やらなければならないから何とか形をつけてやらなければいけないというので、いろいろなところで苦労を始めているわけである。学校単位だと日常接しているから、割にわかる。だめなのはすぐに言える。だけど、教育委員会のような大きな組織だとなかなかそれは難しいのだろうと思う。東京都が今トライしているのだが、うまくいくのかどうか、恐らく全国の人が息を詰めて見ているのではないか。あれがうまくいけば、みんなまねると思うし、うまくいかないと〈やっぱりだめか〉という感じになってしまう危険がある。ものすごく難しいものだということはぜひ御理解いただきたい。
     あと今の「文化の形」の話だが、「文化の形」という言葉は、ルース・ベネディクトが最初に書いた学術論文の題である。要するに、文化にはいろいろな形があって、それが違うことに意味があって、どれが進んでいて、どれが遅れていると考えてはいけないのだということを述べて、彼女の人類学の学問の中での提言として高く評価されている部分である。
     「文化の形」というのは多様であることが意味があるというのは、私はよくこれは生徒に話すのだが、例えば数学の場合、10進法とか、20進法とか、2進法とあって、10とか、20とか、12とか、60というのは進んでいて、2進法というのは一番幼稚だと言われている。だけど、幼稚だという見方は間違いであって、2進法があったからコンピュータができたわけである。それは四則計算に有利な方式だから。違う形が存在することが意味があるわけだから、日本の文化も大事である。それが伝わっていないというお話は、事実としてある。
     びっくりしたのは、能管という古い日本の笛があるのだが、これは音が西洋の楽器と違って――日本人は虫の音をいい音楽として聞くが、ヨーロッパの人はあれは雑音である。虫の音をいい音楽として聞くような音を、能管という笛は出す。その能管を持って京の五条の橋の上に牛若丸が登場してきた。で、弁慶がけんかしてという話なのだが、その話をしようと思って、出てきた中学生に牛若丸の話を始めた。そしたら、牛若丸とか、弁慶というのは大相撲の選手だと思っている。これは愕然とした。これはやっぱり気づいたところで気づいた人がやる以外にないのではないかという気がする。組織でやるというのではなくて、みんながそれを大変だと思ったら伝える。それをみんながやるということが大事なのではないか。ほかに方法がない。
  • 私のゼミでも同じことが起きて、牛若丸と弁慶ではなかったのだが、童話の主人公はほとんど相撲の名前だと思って聞いている。
  • 「文化の形」ということを考えた場合にそれはものすごく大切なこと。文化というのはパターンの集合体だから、パターンというのは昔話の集積の中で生まれてくる。全然知らなければ何も頭に入らない。そうすると、行動とか、考え方にすごい違和感が出てくる。
     その点から言うと、私は中教審で提言しなければいけないと思っているのは、日本人の小学校に日本人が行かなくなってきている。これはすごく大変なことだと思っている。結局、今のようなことは小学校で身に付く。日本の小学校へ行かないほうがいいのだと思う大人が増えてくると、日本の文化はどんどん力が弱くなっていく。そうすると、パターンもどんどん薄れていきますから、日本が「文化の形」として特異性を世界に主張できることが、これからどんどん薄れていってしまうのではないだろうか。だから、気がついた人がどんどん言うよりしょうがないと思う。
  • 私は東京都のやり方に非常な危惧を感じる。キャリア教育は間違った方向である。文部省と同様に間違った方向にあると言わざるを得ないということである。最近、社会に目を開くとか、奉仕とか、福祉とか、国際感覚を養うとか、あるいは小学校から英語を入れる、パソコンを入れるとか、ありとあらゆることがどんどん入れられてきているわけだが、それはすべて教養教育の敵である。というよりも、教育全体の敵であると、そのように特に初等教育においては思わざるを得ない。この政策は文部省が支持しているだけではなくて、学界も支持しているし、教育学者も支持しているし、国民も支持している。しかし、これは完全な誤りであると、そのように思わざるを得ない。
     教育改革において最も重要なことは、1週に20数時間しかないということ。これをいつも忘れる。例えば国際理解教育で、黒人と交わる、外国人と交わる。当然、人種教育、そういうものについていい影響がある。パソコンをすればある程度パソコンがうまくなる。英語をすればある程度発音がうまくなるだろう。福祉をすればある程度そういうものに対して理解がいく。しかし、20何時間しかないとなると、それをすると国語とか、算数がめちゃくちゃになってしまう。要するに、そこがキーポイントである。もしも東京都がそのような、あるいは日本がそのようなことを本当にやるのだったら、日本人の心がめちゃくちゃになってしまう。これは国家が瓦解してしまうということ。
     本当に何が重要かということを、東京都どころじゃない、文部省、国民ですね、学識経験者を含めて、週は20何時間しかないのだと。その中で重要なことは山ほどある。今言われたことは全部重要なことである。しかし、重要だからカリキュラムに取り入れる、これが最大の過ちなわけである。重要であるものは幾つもある。その中から、どれがより重要なのか、どれが本質なのか、そこを吟味、選択するのが、このような審議会の役割であり、文部省の役割であり、有識者の役割なわけである。その視点が完全に特にここ10年間欠けている。これは恐ろしい教育の破壊である。
     現在、日本人の学力の低下、特に国語、数学。特に国語ですね。目に余るものがある。これはそのような教育どころの騒ぎではない。ここをよく頭に入れて、何々が重要であるから入れるとか、このような教育をしたら、そのような方面の進歩が生徒にあった、したがって、入れる。そういう議論はもうたくさんである。10年間聞き飽きた。
     それよりも20何時間あるのだったら、本当に本質はどこなのか。日本がこのような政治、経済、その他すべて苦境にあるわけである。その苦境の原因はすべて教育に尽きるわけである。もとをたどるとすべて教育なわけである。その教育がどこが一体間違ってきたのか。そこをよく考えない限り、このような審議会で幾ら議論を重ねても、日本の教育は全くよくなる見込みはないと、そのように断言せざるを得ないと思う。
  • 確かに私が大学で見ていても、大学生に40年近くつき合ってみて、どんどん字は下手になってきて、文章は下手になってきた。今、日本がこれを回復をするためには、つまり、もっとまともな文章とまともな字が書けるようになるのには、どうしたらいいのか、具体的に。
  • 私は25年前にアメリカの大学で3年間教えていたが、そのときの大学生と今の日本の大学生が全く同じになった。英語が全く書けなかった。したがって、私は宿題が戻ってくると、全部英語の添削をしていた。どうして日本人である私が英語を添削しなければいけないのかと思うぐらいである。数学力は日本の高1レベルだった。私は心底驚いた。どうしてこのようなアメリカに日本が戦争で負けたかぐらいまで思った。現在の日本人が25年前のアメリカの学生と全く同じレベルに陥った。
     アメリカはそのように一般国民のレベルが下がっても、例えばアメリカの一流大学院の理工系等は、半分以上がアジア等からの留学生である。それから、物理とか、数学とか、その他の重要な科学分野の教授等の相当部分がヨーロッパとか、アジアの天才、秀才が来ている。したがって、国家は瓦解しない。初等中等教育がつぶれても大丈夫なのだ、アメリカは。このような国は世界でアメリカだけである。したがって、日本はアメリカだけは見習ってはいけない。日本はここ20年ほど、教育学者が中心になってアメリカのまねをしてきているわけである。
     今言ったように小学校は、例えばアメリカでも現在1万8、000校で株式投資をしている。それによって、社会に目が開かれた。それはさっき言ったとおり、何をやっても必ずよい進歩があるわけである。しかし、子どもが社会に目を開くことと、アメリカの国民にちゃんと母国語を教えることとどっちが大切かということである。そこのところは当然、株式投資は10年以内にアメリカはやめになるけれども。そのように何が本質かという観点がないと、これは教育をぶち壊しているとしか思えない。
     したがって、日本が当面、まず最初に手をつけなければいけないことは、初等教育における国語の飛躍的な質的及び量的な拡大である。現在のような教育ではいけないけれども、それを量的・質的、両方の面から飛躍的に拡大する。国語といっても広義の国語だから、その中に道徳等も含めるし、いろいろなものが含まれると思うが、そこがまず手始めである。
     なぜかというと、国語というのは、言語的な基礎であるというのが第1である。
     第2に、国民としてのアイデンティティということがある。これがないと国際人には全くなれない。小学校から英語をやって、国語を怠ったら、日本から国際人がいなくなってしまう。そこのところをはっきりして、とにかく国際人をつくるためには国語である。
     第3には、論理的思考力の養成である。よく数学者とか、数学教育者はうそをついて、算数、数学教育は論理的思考力を養うのにいいと皆さん言うけれども、あれは間違いでありうそなのだ。国語、すなわち言語として論理的思考力を学ばせるのが一番効率的かつ有効である。
     それから、国語を読んで、あるいは古典とか文学を読んで、それによって情緒力を養うということ。例えば、もののあはれとか、こういうものは日本人の世界に冠たるすばらしい情緒なわけである。このような情緒がないと、世界に出てもだれも尊敬されない。現在、数十万の日本人が海外に出ているが、経済力ゆえに羨望はされても、尊敬されている人はほとんどいない。一方、明治維新のころ、いろいろな人が外国に行った。英語もろくにできない、西洋の作法も知らない、世界史も知らない、世界文学も知らない。しかし、多くの留学生が尊敬されて帰ってきていた。彼らの身に付けていたものは武士道精神と、ほかに漢籍と日本の古典、そのぐらいの知識しかなかった。しかし、非常に尊敬された。そういうことから考えてみても、日本人の情緒とか、武士道精神に起因する形というのがある。例えば礼節とか、年長者を敬うとか、親孝行とか、すばらしい型というのがある。そういうものを小学校できちんと身に付けること。
     例えば、キャリア教育とか言って、企業でどうのこうのするよりも、例えば叙情小説を一つ読んで涙を流すこと、あるいは先ほど言った親子で共有できるような童謡は、きちんと文部省唱歌みたいな、すばらしい一流詩人の作詞した歌が幾らでもある。今、6年間で18個と文部省で決められているけれども、ああいうものを回復して、それも日本の非常に優れた文化だから、そういうものを取り戻すとか、そのようなもののほうが圧倒的に重要である。先ほど言った、何が行われた、やれ英語だ、パソコンだ、健康だ、福祉だ、要するにだれも反対できないような歯の浮いたような教育をしている限りは日本は救われないと、私はそのように思う。
  • さっき委員がおしゃった、教育の目的は、自立した一人の人間として自分の生き方を持つ人間をつくるのであり、それを一番大事なところに置く、という考えはそのとおりだと思う。そのために、何をやるかが問題。古の中には、変わるもの変わらないものがあり、これまではむしろ変わらないものを守ってきたけれども、時代が大きく動いているのだから、変わるものを教えなければいけない。これが改革の大きな流れだと思うが、ちょっとそこが違うのではないか。変わる時代だからこそ、不易をもう1回見直して、きちんとやらなければいけないのではないか。
     学校では、国語、算数、歴史などを、変わらないものとしてきちんとやる。総合という言葉にごまかされるのは困る。小学生で総合は、正直言って無理。学としてというか教育として考えたら無理。例えば地球環境問題が大事だから、環境を考えなければいけないとおっしゃるのだが、小学生にとっての環境は、うちで「ごみはこうやって捨てようね」とか、「その辺を散らかしちゃいけないよ」とか、そういうことをやるのが小学生にとって大事な環境であって、そこをおさえずに総合と言って地球を語っても意味がない。
     学校ではむしろ基本的な人間の生き方をきちんと事実として、または歴史や文学として、教えるのが必要だと思う。それをやっておいて、例えば今、環境はとても大事だということはわかっているのだから、それが家で環境というものとつながるようにする。総合や時代に合わせると言うと、響きはよいが、小・中では無理なことだと思っている。
     学問もそうで、大学で「環境」、「人間」、「総合」という学科ができているが、そこで教育された学生は、きちんとしたディシプリンの勉強ができず自信がもてなくなる。やはり基礎は大事だと思う。それを踏まえた上で、今の時代のことを考えられるような人にする手だてを、どこか教育の中で考える必要があり、根本はそこにあると思う。
     もう一つ、キャリアについては、ここでいうキャリアは、どこか外へ行って学ぶということのようだ。私は生物関係しか知らないのだが、農業高校に注目している。そこへもよく行って、農業高校の先生とも話をするのだが、農業高校は私はいいと思っている。ところが、今、総合というので、この間も農業高校の先生から、「総合」というので、「農業高校が減っている」ということを聞いた。一つ一つの決まった職業へ向けての教育がなくなり、総合になっているとしたらよいことではないように思う。
     私はキャリアというのを、今日は保育所へ行って、明日はまた別のところへ行ってというのではなく、やはり向き向きがあるので、高校ぐらいになったら、職業高校をむしろきちんと整えていくのがよいと思う。黒板を見て勉強するのが苦手という子はたくさんいるわけで、午前中は黒板を見て、午後は牛のところへ行ってというような組み合わせがよい効果を出すと思う。97%高校へ行く時代だから、それは微分・積分を解いているよりは、牛のところへ行って世話しているほうが多くがわかってくる子は多いと思う。そういう意味でのキャリア教育をきちんと位置づけていいと思う。
  • かなり誤解をされているのではないか。私どもは、「キャリア教育」なり、「総合的な学習の時間」だけを取り上げて、東京都の教育を批判されたら私どもは非常に心外である。「総合的な学習の時間」と、全体的に新学習指導要領を否定されるなら別だが。私どもは否定する立場にはない。したがって、「総合的な学習の時間」なり、「キャリア教育」が云々というのは、あくまでも今子どもたちに一番欠けているのは何か。やはり社会的規範意識の問題、それから勤労観の問題だろう。
     一方で、今、基礎・基本というが、例えば国語にしろ、算数にしろ、社会にしろ、決められた時間は基礎・基本を定着させるというのが今の方向。もう1点、例えば40人の子どもたちがいれば、40人が同じ進捗度ではない。そうすると、学校の先生はだれをターゲットに授業をやるかというと、真ん中である。そうすると、理解度の低い子はわからないからおもしろくない、できる子はわかり過ぎているからおもしろくない、それを是正し是正し、伸びる子は伸ばそうというのがまさに少人数学級、極端に言うと我々は習熟度別授業だと思っていますが、それはそれでやっているわけである。ただ、今の議論は教養教育ということで、一つの事例を申し上げたのであって、例えば「キャリア教育」という言葉一つをとらえて、東京都の教育を批判されるというのは私は非常に心外である。
  • もちろん私は東京都の教育全体を批判しているわけで、キャリア教育を批判しているわけである。私は特に、近来、ここ10年間ぐらい、日本の景気が悪くなってから、教育に関して産業界の口出しが多くなり過ぎた。これはゆゆしい時代である。最近の文部科学大臣のあれでも、産業界に開かれた大学とか――学問とか、文化というのは、産業とは直接関係ないものである、もともと。これがアメリカなんかはもちろんそういうあれがあるわけだけれども、最近はアメリカになびいているイギリスもそういうことをしているが、これは完璧に教育を壊す一つの道になってしまう可能性が強いと思う。やはり大学は産業界に役立つ人間を生むところではないということがまず第1。結果として、産業界に役立てばいいが、それが決して目的ではないということ。それをはっきり文部省の高等教育局のほうで頭に入れてもらわないと、産業界のための、あるいは経済のための大学とか、学問ということになってしまうわけである。これはもう恐ろしい時代である。以前はそうでもなかったのだが、特に最近10年間の産業界の教育に対する口出しは甚しいものがある。
     とにかく現在、政府自らが経済浮上のためには何でもしてよい、社会も変える、何も変える、教育も変えるということだ。例えば起業家精神を小学生から養えとか、ありとあらゆることがあっちこっちから言われている。こういうのも全部初等教育を壊してしまう。
     初等教育は先ほどもだれかおっしゃられたとおり、不易をきちんと学ばせないといけない。例えば小学校で独創力をはぐくむ。そんなものは全く余計なお世話で、独創力なんて何にも育てる必要はない。そんなものは小・中学校で国語や数学をたたき込んだ後に、中・高校、あるいは大学に入ってから伸びるもの。そのような人間の発達をわきまえない議論が多過ぎる。特に初等教育は、私はよく1に国語、2に国語、3、4がなくて、5に算数、あとは10以下と言っているけれども、とにかく国語中心に、すべての知的活動の基礎である国語、母国語を身に付ける。これが第1である。その他のものは、それは1週間の時間が100時間でもあれば、いろいろなものを全部入れたいと思うが、20数時間だと入らないということ。したがって、とにかくそういう本質、基本を傷つけるようなものに対しては私はすべて反対ということ。
     もう1個大切なことは、初等教育における強制力を復活するということ。強制的にたたき込むということ。しかも、最近20年間ぐらいは、強制的なものはいけないとか、画一的なものはいけないということになっている。私は初等教育は画一的・強制的で全く構わない。例えば漢字を覚させる、九九を覚えさせるのに、どうして強制力をなくして覚えさせることができるのか。画一的でも全く構わない。とにかく徹底的にそこでたたき上げるということ。子どもに理屈を言う必要は全くない。小学生のような記憶力が確かで、批判力のないうちにたたき込まないと、高校生になって九九を覚えさせたらなぐられますからね。
     そういう意味で、昔の人がきちんと先人の知恵として、初等教育は読み書きそろばん、すなわち読み書き算数と言ってきているわけである。それは現在も正しいし、未来も正しい。そこの基本、不易という点にいつまでも固執しないと、次から次へと新しいものが取り入れられる。今後、10年後も、20年後も、このような審議会で、今の時代の要求はこれですからこれを入れましょう、これを入れましょうと、常にそれがある。そのたびに国語が傷つけられていく。これなくしては日本の文化も持たないし、工業技術、科学技術も全く持たない。すべて国語力に基礎を置いている。そういう点で、非常に危惧を抱いていると、そういう意味で申し上げた。
  • 委員の『論理と情緒』というあの文章は、校長講話の教材として使わせていただいている。高1の3学期のところで、比較の意味でという意識も少しあったのだが、野口悠紀雄さんの書かれた『超勉強法』と委員の文章と二つ渡すわけである。非常におもしろいのは、委員の書かれた『論理と情緒』の内容をちょっと御説明すると、今、先生がおっしゃられた趣旨のことが書かれている。もっと詳しく、非常におもしろく、興味深く書かれている。かなりの分量だが、それを読んで、それから『超勉強法』を読んで、生徒がどういう関心を持つかというと、半々というのか、委員の意見のほうに賛成するというか、そういう感じを持つ子のほうが多いことは事実なのだが、そうではなくて、受験のために役立つ方法という『超勉強法』のほうに関心を持つ生徒もいる。そのときの感じなのだが、どっちがよくてどっちが悪いということは言わない。生徒に考えさせようと思って、それ以上のことは言わない。そういう現実があるということ。委員のおっしゃられることはよくわかるのだが、現実に生徒によっては反応が違うという事実もある。
     そこで、ぜひお考えいただきたいのは、小学校と中・高は違うということ。つい委員も小・中といってしまうが、僕は小学校と中・高は本当に違うと思う。中学校では一人一人の違いを意識してくる。事実違ってくる。画一的なことをやると興味をどんどん失う。そのことが小学校まで及んでしまうと問題がある。小学校は勤勉ということをきちんと身に付けさせるようにしたほうがいいと個人的には思っているのだが、その場合に「小・中」と言っては絶対いけない。中学は違うのだというように扱わないと、画一的なことで子どもたちがどんどん勉強に対する興味・関心を失っていってしまうという事実もある。七五三現象がそれをよく証明してくれていると思う。
     今日、実はノーベル賞フォーラムの本をお持ちしたのだが、実はノーベル賞の受賞者が、今まで日本では大学生とか社会人にフォーラムをやっていた。これは手遅れだから、やってもほとんど意味がないと盛んに言っていた。「それならあなた、どのぐらいならいいんだ」と言うから、いろいろ考えて、高校と言おうかと思ったけれども、むしろ中学生のほうがいいのではないかと思って、「中学生がいい」とあえて言った。主催者がNHKと読売なのだが、そちらのほうで「じゃあなたが言い出したからあなたのところでやってくれるか」という話が出て、中学生対象でやった。これが実は大成功だった。ノーベル賞受賞者は、例の文学賞をとられた大江健三郎さんとイギリスのハロルド・クローツさんが来られた。ハロルド・クローツという人は、C60というのを発見した大変な人らしい。この二人が来て、半日間やってくれた。受賞者が感激して帰っていった。相手は中学生。だから、中学生はやっぱり明らかに違うのだと、そこで僕は自信を持った。そしたらこの5月に、大江さんが名古屋のほうの中学でまたやった。これがまたすごくよかったという連絡が来た。だから、中学生では画一でなくてできるのだ。しかし、小学校まで及ぼすのはどうかなということが一つ。それがちょっと違う意見。半分賛成、半分反対という意見。
     もう一つ申し上げたいのは、小学校も徐々になぜ学ぶかということがわからなくなってきている生徒が出始めている。それに対する対応としては、強制でたたき込めばいいと言えばそれで済んでしまうのだが、実際教えている先生方に話を聞いて、できるのかなと思う。そこのところは委員の意見をぜひお聞きしたいと思う。
  • 私はそれに関して、戦後の教育の最大の失敗は、特に道徳教育絡みで、論理的に説明のできることだけを教えてきた。これが一番まずかった。なぜならば、人間にとって最も大切なほとんどは、論理的に説明できない。例えば「人を殺しちゃいけない」「どうして」と言われたら、だれも論理的に説明できない。どうしてうそをついてはいけないのか。どうして年長者に礼節をちゃんとしなければいけないか。例えば若い人は、子どもにも礼節を尽くせと言うだろうし、あるいは弱い者いじめをしてはいけないことに何にも理屈はない。男が女をぶんなぐってはいけない理由もない。大きい者が小さい者を張り倒してはいけない理由もない。大勢で一人をやっつけちゃいけない理由もない。あるいは、けんかで武器を持ってはいけない理由もない。要するに、これは全部型なのである。昔からあった型である。こういうものは論理的に説明できない。それを戦前余りにも軍国主義が、論理的に説明できないことを押しつけ過ぎた。それに対する反省で、戦後は論理的にすべて説明できるものをだけを教えようということになった。したがって、道徳教育は成立しない。そこが一番大きなものである。
     したがって、これからは論理的に説明できないものも強制する、こういう姿勢がないと、道徳教育は全く不可能である。それはある意味で戦後の教育の基本である基本的人権とか、民主主義とか、そういうものの根底に多少触れることなのである。しかし、そこを突破しないと道徳教育は全くできない。どれもこれも全部、論理的に説明できないものだから。今はそこまでにしておく。
  • 今のことに関連するかもしれないが、最初に田村委員がおっしゃったことだが、実は私も内心忸怩たるものがあって、私は憲法をやっているものだから、憲法の授業で、京大では2年生から教えるのだが、そのときに最初に言うのは「今までに習ったのを全部忘れろ」と言ってきた。なぜかというと、憲法という言葉というのは、みんな中学から聞いているわけで、憲法やなんかはわかっていると思うのである。そうすると、あまり勉強しない。民法とか、新しく習うのは必死になってやるが、従来の言葉というのは何となくわかった気でいる。それが一番勉強するのに妨げになるので、今まで習ったのは一遍チャラにせよと言う。
     今の委員のお話とも関連してなのだが、私が感ずるのは、人権というのは重要だといって中学や高校でいろいろ教える。けれども、恐らく彼らはこれを最大の偽善と受け取っているのではないかと実は思う。つまり、平等は大事だ、あるいは生存権で思いやりが大事だ、自由権から社会権へというのが歴史の必然だ、人間社会の必然なのだと、このように教えられる。しかし、平等といったって、みんな違うではないかと。生徒はわかっていると思う。男性と女性も違う。みんな能力も違う。ところが、先生が「平等だ、平等だ」と言ったって、現実違うではないか。そうすると、人権というのは結局建前だねと、そのように受け取っている節が非常に強いのではないかと思う。
     実際にNHKが5年ごとに調査すると、人権で一番大事なのは何かというと、生存権、国が面倒を見てくれることだ。言論の自由とか、信教の自由なんて、こんなものはだんだん評価が落ちている。これは学生だけではなくて、一般国民についての調査らしいのだが。そうすると、これは相当大きな建前、偽善と受け取られるような人権教育なんていうのは、どういう意味があるのか。
     この間も法務委員会で司法改革に関連して、ロースクールで人権教育もちゃんとやっていただかないとと言われたので、人権というのは自明のようでいて自明でないのだ、何が根拠かということによって、調整原理も皆違ってくるので、その辺をあらゆる角度から検討するのはやるでしょうけれども、いわゆる人権教育というのは……と答えた。
     たたき込めばいいと言われるが、私は自分を振り返って、中学時代に先生が言ったことに対して、〈おかしいじゃないの。偽善じゃないの〉という思いを持ったことも事実で、こういう思いをどうやって教育の場で受けとめるかということも、やはり配慮しないといかん。
     そして、委員がおっしゃったように、小学校と中学・高校というのは相当違う。特に高校の2年生、3年生なんていうのは、むしろ大学1年、2年と同じように考えてやらないといかんのではないかという思いがして、この辺、結論はないのだが、生徒は生徒なりに大人の言うことの偽善と受けとめる可能性をどうやって受けとめてやるのかということ。
     もう一つは、従来の日本のいろいろな教育で一番欠けておって、その結果何が問題かというと、公共性と公共的なるものへの関心が日本人に決定的に欠落していたと思う。いい政治家を育てられなかった。これはエリート教育が失敗したのか、一般の国民の教育が問題なのかわからないが、今まの教育で公共性をいかに育てるかということの視点が欠落していて、森嶋通夫さんに言わせると、世界の政治家は日本の政治家はわからん、日本の政治家のレベルが……ということを言われる。そこは小学校、中学、高校の教育で、公共性への関心をどのように育成するのかという問題も大きな問題としてあって、それは単に国語教育だとか、情緒というようなレベルの話なのか、どう考えていいかよくわからないのだが。ちょっと取りとめのない雑駁な話だが、感想を申し上げた。
  • 委員のお話やらいろいろ伺っていると、確かに我々は子どものころは、委員がおっしゃったようにして育ったなという部分が随分ある。
     ということは、中央教育審議会に託された任務を考えると、今、文部科学省がここ数年進めてきた政策を、どう評価するかということを問われているのだということをつくづく思うし、かといって、ただ単純に回れ右しろ、昔に戻れというのでは問題は解決しないので、文部科学省の様々の政策が戦後56年間、委員も言われたように新しく次々と打ち出されてきたのには、それなりの時代的な要請もあったはずで、それをどう評価しながら我々は次にどの方向に向かうのか。また、昔の古きよきものにどれだけの評価を与えていくのか。そして、それを教育できる先生たちをどう改めてつくっていくのかということを考えるときではないかと思う。

以上

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-- 登録:平成21年以前 --