教育制度分科会(第2回) 議事録

1.日時

平成13年5月28日(水曜日) 13時30分~15時30分

2.場所

KKRホテル東京 「孔雀の間」

3.議題

  1. 新しい時代における教養教育の在り方について自由討議
  2. その他

4.出席者

委員

 鳥居分科会長、佐藤副分科会長、梶田委員、木村委員、田村委員、永井委員、茂木委員、森委員、横山(英)委員、奥谷委員、坂村委員、志村委員、杉田委員、竹内委員、藤原委員、船津委員

文部科学省

 御手洗文部科学審議官、結城官房長、近藤生涯学習政策局長、寺脇生涯学習政策局審議官、名取主任社会教育官、玉井初等中等教育局審議官、木谷高等教育企画課長、樋口政策課長、その他関係官

5.議事録

(1)事務局から委員及び臨時委員の紹介があった。

(2)事務局から配付資料の確認があった。

(3)事務局から配付資料の説明があった。

(4)新しい時代における教養教育の在り方について、次のとおり、自由討議が行われた。

  • 1991年に大学教育に関するカリキュラムの大綱化が行われて今年で10年になる。大綱化は大きな改革だったが、その改革を本当に各大学ができたか。むしろ現状では、教養教育を見失ってしまったのではないかという思いを多くの大学人が持っている。少しさかのぼると、あまりにも教育改革が進まないのに業を煮やしたのが臨教審であり、その臨教審で徹底的な日本の教育の改革案が出てきたが、本当に100%効果を持ったとは言えないという思いをみんな持っている。更にさかのぼると、56年前、第2次世界大戦が終わったとき、日本人はそれまで持っていた物の考え方の規範を1回全部投げ捨て、新しいものを求めて今日まできたのだが、その中の多くは、今日になってみると見直さなければならないものである。このような幾つかの歴史的な区切れ目を経過しながら今日に至ったような気がする。現実の問題として、我々の目の前に展開している大学の姿、高校、中学、小学校の生徒たちの姿、また、街で歩いている若者たちの姿を見ていると、何か気になったり心にひっかかったりすることが多い。
  • 審議のまとめでは「今なぜ『教養』なのか」ということについて、原動力としての教養が書かれており、我々がどのような目標と方向に進むべきかを考え、その原動力としての教養が必要と書いてある。しかし、これは逆ではないか。普通は、国としてどういう方向に向かっていくか、また、何をしなければいけないのかという、いわゆる戦略的に国がどうするかということによって必要な人間が決まってくるから、目標を決めるための教養というのは一体何なのだろうか疑問に思う。
     日本の教育はどちらかというと平均点的教育を目指してきたが、みんな同じにはならないことがわかってきている。そうすると、独創性のある人間が重要と言うようになるが、独創性があって人と違うことをやる人は、今の日本の教育制度に合わないから落ちこぼれてしまう。日本でそういう人間が重要だと言いつつ、なぜ制度を変えないのか、本当にそういう人たちにチャンスを与えるつもりなのか。そういった基本的な哲学をしっかりさせないと、何が教養かわからなくなってしまう。
     科学技術はもう少し重視してもいいのではないか。科学技術によって今の世の中が大きく変わっていることは間違いない事実であるが、科学技術についての基本的な教養をないがしろにするから、例えば、原子力関係の事故が起きたりする。今後、ITやコンピュータに関して、基本的な力がなければ同じような大きな事故が起こってくる可能性が高い。科学技術時代の教養というのは何なのだということを議論してもいいのではないか。
  • 日本に国家目標があった時代には、教養をどのように形成していくか、教養をどう身に付けていくかは、自然に決まってきたというのはそのとおりであり、福沢諭吉が問題提起したときも、明治も大正もそうだったと思う。戦後の日本の特徴は、国家目標を論ずること自体がタブーなようになっているものだから、逆さまの論理でもって話が始まってしまう。このことは、日本の教育制度を考える上で大きな問題である。
  • 国の方向づけなどを考えて、それに向かって行動するための原動力としての教養というのはおかしいのではないか。また、国の目標は決まっているものであるという議論についても、ニワトリとタマゴのようなものである。
     教養を身に付けた国民がたくさん増えて、自分たちの国をどうしようか、自分たちの政府はこういう政策を作るべきだということを考える力を国民が持つべきである。
     教養の概念について、「知・徳・体」「知・情・意」が出てくるが、相撲の千秋楽で膝を故障しながら優勝した貴乃花や、ロサンゼルスオリンピックでけがをして決勝戦でエジプトの選手に勝って金メダルを獲った山下選手の話は、教養の一部として教材に活用できないか。
  • 20世紀型の今までの教育の議論の中心は、箱物教育であった。21世紀型は箱物ではなくて、中身の議論をすることであり、これがまさに「教養」という言葉が表している内容である。
     科学技術を議論するのであれば、科学は何のために存在するのか、20世紀の科学が原爆を製造したことをどのように考えるのかといったことも教養の議論である。教養についてはみんなが真剣にぎろんしていかないと、これを原動力として21世紀型の日本の教育を作っていけないのではないか。
  • 教養と独創性は違うのではないか。教養とは、健全な批判機能とバランス感覚ではないか。「ドクソウ的」というのはクリエイティブなものも独「走」的なものもあるから、それと教養とは違うのではないか。
     また、国の目標によって決められるものは教養ではないのではないか。教養というのは創造的な批判機能を含んだものであり、教養ある人というのは、普通に考えるとバランスのある人である。
     学校外の学習時間が80年代から下がっている。NHKのデータによると、小・中・高だけの問題ではなくて、大学生の学習時間が1980年と比べて95年には半分に減っていて、平均1日30分程度であった。これは大きな問題だと思う。
     漢字の「教養」というと、旧制高校的な教養をどうしても考えてしまう。今やボランティア、スポーツ、英会話、コンピュータ、あるいは、漫画やビデオも入ってくるとなると、漢字の「教養」ばかりでなく、平仮名の「きょうよう」と、片仮名の「キョウヨウ」というのもあるのではないか。漢字の「教養」は従来型の古典重視型の、河合栄治郎先生タイプの教養で、ボランティア、スポーツ、英会話、コンピュータなどは、どちらかというと平仮名的「きょうよう」になる。学生の大衆文化、ギャグ、漫画といったものは片仮名の「キョウヨウ」ではないか。教官は学生に教養がないと思っているが、それは漢字の「教養」がないと思っているのである。学生は教官のことを「キョウヨウがないな」と思っているが、それは片仮名の「キョウヨウ」である。これからの教養教育は、それぞれの大学で、これら3つの教養をアレンジしなければいけないのではないか。
  • 初等中等教育段階で東洋的な知恵を学ぶのが、私の考える初等中等教育段階の教養の中味の一つである。芸術教育の中には美術と音楽しかないが、「総合芸術」という枠組の中で、ダンス、演劇も考える。また、「国語表現」と「総合芸術」をセットとして考えて展開させると、子どもの学びたいというモチベーションが少し上がるのではないか。
     大学教育の教養については、医者にしても何のためにこの手術をするのか、この「何のために」というところをきちんとしなければ世の中が狂っていくと思う。大学における教養は、改めて小学生を教えるつもりで、大学の先生方が研究ではなくて教育にもう少し重点を置いて働くことをお願いしたい。
  • 教養教育の問題を考えるときに、あえて概念を絞り込まないと議論が拡散していくと思う。教養が今、問題になっており、それは科学技術の問題とも異なり、文化の問題とも異なる。不易と流行の中の不易の問題である。教養とは、時代が変わろうと何が変わろうと、これだけは人間の拠り所として持っていかなければならないものである。
     サブカルチャー的なものと意図的に文化遺産として大学教育で次の世代に渡していかなければならないものを峻別して考えるべきである。時代が変わっても、これだけは気づかせたい、わからせたい、文化遺産としてこれだけは残したいものがあるはずである。
     科学技術についても同様である。科学技術は日進月歩であるから、その最先端についてある程度理解させなければならない。同時に、それをマスターするための数学や理科的な基礎教育も必要である。このことと教養は重なる部分があるがイコールではない。科学技術は時の流れとともに発展していくものであるが、そうではなく、ここでは不易の部分を議論していかなければならない。
  • 知恵があるとか、力があるとか、学歴があるという問題ではないのではないか。かつては「公」に対して「個人」のあるべき姿も教養の一つであった。カント、ヘーゲルといったレベルの高いものを身に付ける教養と、一般の職人が一本の釘をきちんと打つことも教養の一つである。全体的なバランス、人格、品格とか、いろいろ書かれているが、全体的な想像力、要するに相手に対してどう考えられるかということも、一つの教養になる。学者の方々が考えている立派な教養と、一般の人たちが考えていく教養はとらえ方が違うのではないか。
  • 教養と道徳と掟はどのように違うのか。これまでの議論は、これらがごちゃまぜになっていて、また、全部で教養といってしまうと議論ができなくなるのではないか。それらを全部同じものにするのは幻想でしかなく、決して同じものにはならない。そうすると、最後には、教養は違う人が互いに話をすることができる最低限のルールだけになってしまうことになる。
     今一番大事なことは、英語を話せなくても、ITもよくわからないけれども、文学的なことをよくわかっているという小グループや、英語が好きで勉強している人、こういう人たちがみんな日本という国の構成員であって、彼らが祖結語で結ばれていて、協調分散的に一つの組織体を作るときの教養とは何かということではないか。
     独創性というのは要するに小グループ化していくという意味である。みんな同じようにしようということは、昔だったらできたかもしれない。テレビも1チャンネルしかないとか、本といったってそうたくさんあるわけではないから、これとこれを読めば、大体世の中が何を考えているか分類できた。だけど、今あまりに本もたくさんあるし、あまりにテレビのチャンネルも多いし、あまりにいろいろなことを言う人もいるし、現に昔の古典を全部見ることすらできなくなってくるかもしれない。そういうときにどう考えるのだということを考えないと、ノスタルジーと昔はよかった論で終わってしまうのではないか。
  • 21世紀において人権という観念で示される価値は、やはり普遍的に追求すべき価値である。しかし不幸なことに、そういう価値と、日本の実際あるいは自分の生き方がかい離して、それを埋めようとする努力、社会の雰囲気、受けとめ方がない。このような中で、初等中等から大学に至る共通した教養の問題をどのようにとらえるべきか。さらに、何か見出せたとしても、それを制度的にどう実現するのかということも、この審議会に課せられた問題である。
  • 人間は知識で行動するのではなく、心で行動するのだから、心の教育が人権教育の基礎・基本である。
     教養の表記を漢字、平仮名、片仮名と区別するなら、今の日本で多いのはローマ字である。教養というのは4層構造で「kyoyo」とローマ字で書いた教養もあるのではないか。これは何を意味するかというと、本当にその意味がわからないで盛んに横文字を言う人である。教養はいつの時代も必要なものであるが、特に現在何が必要かという書き方をしたほうがわかりやすいのではないか。今、教育界の時の言葉は「生きる力」であるから、「生きる力」の原動力としての教育はどのようなものなのかということで考えられないか。また、幼児教育、幼児に対する教養はどう対応していくのか。子どもにはことわざを教えるべきである。ことわざは物事の真理の半分しか表していないが、半分がわかれば残りの半分もいつかわかるので、親にことわざを言わせるべきである。
  • 子どもたちを見ていると、20年ぐらい前からまじめにするとか、努力するとか、頑張ることを軽視していくことが蔓延しているように思える。自立した個人としてよりよい生き方を求めるところにつながる概念を「審議のまとめ」の中で見た思いがした。人の話を聞くといった基本的な態度は小学校1年生でもしっかりしなければならないという問題もある。とくに教養とは、基礎学力と知識であり、国語の力であるとか、品性、品格などといった徳性であるといったところに注目している。
  • 初等中等教育段階では、子どもにどこまで自発性を求めるかということが非常に難しい。子どもを見ていると、動機づけが非常に重要だと思う。例えば、読書のような問題である。実際に学校生活の中で「朝の読書」などを導入した学校では、子どもの変化がはっきり現れている。大半の子どもは10分間、15分間を読むようになっていく。ある意味では、幼児も含めて、小学校、中学校、高等学校段階まではかなり意図的な動機づけをしてもいいのではないか。そういう中で、教養を培っていくのがいいのではないか。
  • 国としての目標・戦略についてであるが、今の日本ではそこまで踏み込むことはできないのではないか。各界のオピニオンリーダーたちが、3年ほど掛けて、日本はどのような国になるべきかという議論をしたが、結局、結論が出なかった。
     マスコミでは、教養学部あるいは教養課程がなくなった状況を受けて、大学から教養教育が全部なくなったような見方をしているが、決しすべての大学でそうではない。かなりいろいろな工夫がされている。名前が消えてしまったから、養教育が大学から消えたのではないか、専門に偏っているのではないかということを言われるのだが、一つ一つの大学を見ると決してそういうことはない。むしろ新しい教養教育のようなものも出てきているので、その点を調査する必要があるのではないか。
  • 21世紀は人権と共生の世紀であるべきであり、差別と偏見を受けて苦しんでいる人々に社会全体として国民一人一人の意識を変えていかなければならない。人権意識の育成のために学校教育の中でも、発達段階に応じてどのような教材でどのような取り上げ方をするかを考えていかなければならない。
     教養教育は幅広い概念だが、何か核になるものが要るので、人権教育を具体化するカリキュラムのようなものを作っていく必要があるのではないか。「総合的な学習の時間」の中で、年間何時間かはそういうものに充てるということも、検討の余地があるのではないか。また、これから国がどういう目標を目指して、21世紀はどういう社会にしていくかということについて、中教審の議論で少し足りないのではないか。
  • 急速に変わりつつある状況の中で、旧制高校型のいわゆる古典を通読したエリートのための教養は変わらざるを得ない。いろいろな教養の考え方があってもよいが、そこであえて何か共通の軸を探ってみると、社会の我々一人一人がどのような人間でありたいか、どのような人間として人生を送りたいかを考えることである。そのために遭遇する物事や人々をとらえることが教養の軸ではないか。外から一つの道徳、一つの目標、一つの国家の姿を与えてそれを推進するのは大変心配である。一人一人が自分で考える機会をできるだけ作るという雰囲気、環境、状況が醸成されれば、かなりの共通点・共通軸が自ずから作られるのではないか。
  • 国として目標を持つことは非常に難しい問題であろう。そこで、20世紀から21世紀に掛けての変化は、箱物から内容への変化であるとすると、例えば、従来、『文部年報』は何人学生が入って、何人出て、建物がどうといった統計が出るのだが、内容についての『文部年報』を作ってはどうか。
  • 人材の育成という部分では国家戦略は必要である。教養という部分での漠然としたものに対する国家の目標はまた別の次元のものであるが、国が一つの方向性に対して教養をどうするかということには、問題があるのではないか。また、幼児教育、小学校、中学校という部分でのしつけの問題は、家庭の中で行うことはかなり困難になってきているので、これを学校以外のところで身に付けさせるような仕組みを考える必要がある。
  • これまでの改革はどれもうまくいかなかったのは、一つは不易を忘れて時流に乗ったということ、もう一つは、週が20数時間しかないことがこれまでの教育改革で忘れられていたということである。「審議のまとめ」を見ても、すばらしいことが数多く書かれているが、この中のどれが根本・中核なのかを見極めないといかなる改革もできない。
  • 改革はポピュリズムに走りがちであり、どこが本当に変わるべきなのかという本質を見極めることが非常に重要である。
  • この答申でどこが幹でどれが枝でどれが葉かをはっきりさせる必要がある。幹も枝も葉も並べてみんな大事だと言っても困る。「審議のまとめ」では、教養の概念は5つの要素に整理されているが、更に整理してこれらをシステム化しなければならない。
  • 教養は、ある意味で、道徳とは違って一定の社会に対する批判的機能が芽生えるようなものである。「教育」にウエートを置けば、国家目標といったものが大切かもしれないが、「教養」というのは一定の社会に対する健全な批判機能がそこから芽生えていくものであると思う。

以 上

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