教育制度分科会(第1回) 議事録

1.日時

平成13年4月18日(水曜日) 10時~12時

2.場所

霞が関東京會舘 「ゴールドスタールーム」

3.議題

  1. 分科会長の選任
  2. 教育制度分科会の会議の公開に関する規則の制定
  3. 新しい時代における教養教育の在り方について自由討議
  4. その他

4.出席者

委員

 鳥居分科会長、梶田委員、木村委員、國分委員、田村委員、永井委員、中村委員、茂木委員、森委員、横山(英)委員

文部科学省

 小野事務次官、近藤生涯学習政策局長、寺脇生涯学習政策局審議官、玉井初等中等教育局審議官、木谷高等教育企画課長、樋口政策課長、その他関係

5.議事録

(1)分科会長に、鳥居委員が選任された。また、副分科会長に佐藤委員が指名された。

(2)鳥居分科会長からあいさつがあった。

(2)教育制度分科会の会議の公開に関する規則が制定された。

(3)事務局から配付資料の説明があった。

(4)新しい時代における教養教育の在り方について、次のとおり、自由討議が行われた。

○ 一番目に、小学校、中学校、高校に司書教諭の全員配置を一日も急ぐべきだと思う。私は箕面市で教育委員を8年間務めたが、司書教諭を各学校、小・中学校20校に配置したところ、読書の量も質も大きく変わった。二番目に、小学校、中学校、高校の社会科、公民、あるいは国語の教材として、もっと古典を取り上げるようにしていかなければならない。三番目に、社会教育施設は、この10年間に確かに多くはなっているのだが、ヨーロッパと比べて不十分である。社会教育施設を抜本的に充実していかなければいけないのではないか。さらに、教育関係者やマスコミの方たちに、古典を学ぶことがどうして大事なのかということを、いろいろな機会をとらえてキャンペーンしてほしい。古典との対話がなければ、内側の感動そのもの、体験そのものの世界も深まっていかないだろう。

○ 鳥居分科会長
 司書教諭の全国的導入というのは一つの大きなテーマではないかというように思う。スクール・ライブラリーの充実はとても大事なことであり、そのコンセプトも新しい時代に変えなければいけない。イギリスの公立ライブラリーは、本を読む喫茶店が書架のすぐ隣にある。本棚から本を引っ張り出してきて、コーヒーや紅茶を飲みながら本を読んでもかまわない。日本とはまるでライブラリーのコンセプトが違う。

○ 規範意識と倫理性については、具体的に文部科学省が取り組んでいるものもあるが、柱としては立っていないところが気になる。恐らく学習指導要領の段階では触れているのだろうと思うが、果たして学校の現場でどこまで行われているのかという検証が必要ではないか。
 情報教育について、初等中等教育段階では物的にはこれを整備しようという計画で行われているが、問題はそれを教える教員である。現職研修のような形で指導力を高める努力をしているが、教員養成の段階ではどうなっているのか。国立の教員養成大学等の情報教育の実情は、極めてお寒い状態にある。現職の研修ももちろんしなければならないが、これから育っていこうとしている教員についての教育がどうも十分でないどころか、全く行われていないに近い。教員養成大学における情報教育の実情も検証してみる必要がある。
 さらに、大学設置基準を改正して、授業科目等も極めて弾力化するなどカリキュラム上の工夫はいろいろあったかもしれないが、果たしてどう変わったのかを検証する必要がある。

○ 海外に行ったときに、そこの国の人たちと食事をしたりお茶を飲んだりすると、日本のビジネスマンは、仕事の話か経済の話しかしないという皮肉を言われることが多い。外国語で話をするときに、ビジネスや経済の用語については、我々は比較的よく知っているのだが、哲学、人生論、音楽、絵画、歴史などについての言葉をよく知らないことも、一つの理由になる。もう一つ、基本的には、教養が足りないということに起因するのではないか。
 日本人同士で比較すると、私はちょうど昭和22年に新制中学に入ったのだが、旧制中学に入った私の1年上の人たちと比べると、正直言って、教養が足りない。どうしてそのように感じるのかというと、古典やいろいろなものを十分に読んでいないからであり、それは一つは、受験の問題があるからである。教養のもとになるような学問であっても、全部受験との絡みで勉強してしまうことが一番の問題であって、高等学校のころに、みんな本をもっと読むようなカリキュラムを作って、それが大学の受験にプラスになるというような仕組みをつくらないと、ぐあいが悪いのではないか。
 日本の大学生で図書館に行っていない人はかなり多い。なぜかというと、義務づけられていないからではないか。アメリカの学生は、アンダーグラデュエートであっても、リーディング・アサインメントがあって、これを読まなければ卒業できないということで義務づけられているので行かざるを得ない。私は、もっと本を読むことを義務づけるという方向にぜひ進めていくべきではないかと考えている。

○ 本を読むことが重要なポイントだという指摘には同感であり、1980年代に、シカゴ大学のアラン・ブルームの『アメリカンマインドの終焉』で書かれたことが日本で今言われているような感じがする。
 司書教諭を増やすことは確かに大事なことだが、現実に、今の中高生は本をあまり読まない。情報はインターネットで取っている。インターネットの情報は簡便に目的に合ったものを提供してくれるが、正確性に欠けるという部分があり、かなりいいかげんな情報が大量に流れているという実態をきちんと整理して示す必要がある。本にすると、そういういいかげんなところがかなり正確なものになるので、その部分を並行してやっていく必要がある。
 今のままで子どもたちに本を読ませようとしても、例えばリーディング・アサインメントを出しても、必要な情報はインターネットで全部取ることができる。ただ、それがあまり正確でないという問題が指摘されていない。教養を深めるためには、具合の悪い状況が蔓延し出しているという感じがある。これからの一番重要な問題は、インターネットの扱いをどうするか、それをどう位置づけるのかということである。司書教諭と比べると、ITのほうが緊急を要するのではないか。司書教諭はもちろん配置したほうがよいのだが、今の財政状況だと、すべての学校ごとに置くことは、都会の恵まれたところは別として、地方ではかなり無理な話である。例えば、地域を定めて学校図書館を統合し、そこを集中的に利用できるような仕組みを考えてみたり、コンピュータで接続したりするような工夫が必要である。
 IT化が進み、それに伴う犯罪という問題が出始めている。被害者が若い子どもたちの間に出始めているという実態がある。こうした犯罪の問題について、今のところ具体的な対策はなされていない。個人的に教育をすることによって、犯罪に対する心構えや起きないような対応をすることはできるのだが、それを組織的にやっていく必要があると感じている。
 「情報」という言葉は森鴎外がつくった言葉で、「敵情報告」の中間をとったものである。情報化が進んでいく中で、情報の内容はきちんと文章化することが柱にあるということを教えておく必要がある。つまり、コミュニケーションでは自分の考えを言葉で表現すことが第1段階で、それを第三者に伝えるというのがその次の段階であるが、第1の段階が情報の核である。言葉できちんと表現できるような訓練をすることが、情報化時代における教養を深める前提である。
 今度新しく情報の免許状が出るようになったが、情報の免許状は1回出ると無期限である。今の時点で情報を教えることができる人が、10年後にも情報が教えることができるだろうか。免許状について、1回与えられたら一生有効であるというのは、情報に限っては、扱いが異なるのではないか。

○ 教養教育は、結局、精神的な豊かさの一言に尽きる。つまり、基礎的な覚えなければならないことは当然あるが、その周辺のちょっと豊かになるようなこと、例えば、ちょっとメディアセンターに行って本を読もうとしたり、文化施設に行って何かパフォーマンスを見ようとしたり、絵画を鑑賞しようとしたり、生命倫理を学んだりして、多様な価値観を受け入れられるような人間になることである。
 宇宙の中の一つの生物としての人間ということを認識させることと、共通する社会的な倫理を学ぶことの二つが中核だが、具体的に何をやるかというと、その周辺のところの豊かさをどう構築するか、また、それを具体的に言えるかという問題に収れんするのではないか。

○ 受験があるから、教養から何からまずくなるという話が、日本でずっと繰り返されてきたが、フランスの大学受験は日本よりはるかに難しい。アメリカでもこの10年、ナショナル・ユニバーシティと言われるような10の有名大学やハーバード、スタンフォードは日本よりはるかに難しい。私がお会いするアメリカ、フランス、イギリスの知識人は、日本の知識人と称する人と比べれば、何倍もいろいろなことを考えている。何とか小さいころから古典に親しむような仕組みを作らなければならないと思う。受験を悪者にしても何もならない。教養や心の問題でも、何でもそこに元凶を求めるのは間違いではないか。受験の厳しさにもかかわらず、欧米の知識人は、心豊かなものをはぐくんでいる構造があることをもっと見なければならない。
 教養の問題は情報の問題ではない。物知りになるのが教養であれば、昔の人よりも今の人のほうがずっと物知りであろう。解釈学の第1テーゼは、事実というものはない、解釈があるだけだという。つまり、意味づけなのであり、意味づけの多様性とその相対性をどこまでわかるかということである。これは、古典を読み比べる中で養われるものである。だから、事実についてのいろいろな情報をインターネットでたくさんキャッチしたとしても、教養が深まるわけではなく、物知りになるだけである。その点を見間違うととんでもない議論になる。

○ 今日の資料の中で東京新聞が「審議のまとめ」を「総花的で焦点見えず」とコメントしているが、これは当たっていると思う。どこから何をやるのかということが見えないないので、これを確認する必要がある。
 国語力については、それは子どもから大人までの国語力を問題とするのかが不明である。子どもの発達段階に応じてそれぞれ基礎・基本があるという観点から考えないと、具体的な方策も定まらないのではないか。
 「審議のまとめ」には、家庭教育が欠けている。家庭教育で人間的触れ合いがなくなったという記述は確かにあるのだが、家庭が多様化したために、家庭教育も多様化しているという点がない。家庭教育では、親はもっとことわざを教えたほうがよい。古典は文学だけでなく、古典落語、古典芸能もあれば、古典の科学技術もあるので、そういう広い意味での文明史を教えなければならない。文明は便利なものであるから、結局、我々は知らず知らず依存心が増大している。この依存心は教育の敵である。教育は自立することであるのに、依存心を増大させているのが文明だからである。そういう意味で、学校ではあまり便利なものだけを入れるべきではない。
 さらに、計算機が出たときに、そろばんが大事だと言われ、ワープロが出たときに、書道が大事だと言われた。では、パソコンとか、インターネット時代に何が大事なのかという、カウンターパートが見えてこない。これは大事なことで、ハイテクに対するハイタッチという問題があり、このバランスが崩れていることをインターネット時代にどう教えるのかという問題がある。
 教養というのは、人間的な深みや厚みを増すために必要なものありで、教養がなければいかに専門が優れていても偏った人間になることをもっと訴えたほうがよい。

○ 大学審議会の最初の答申が、大学設置基準の大綱化をうたって、それを受けて、いわゆる教養科目と専門科目がきっちり区分されていたのを、垣根を払って、自由に乗り入れができるようにした。そのこと自体は、恐らく間違っていなかったと思う。平成3年に大学設置基準の大綱化があって、その当時、30の教養学部があったのが、現在では教養学部は東京医科歯科大学の一つしかないという状況になったが、教養教育の理念が必ずしも正確に認識されていなかったために、空洞化していたから、このような状況になったのではないか。その意味では、大綱化自体は決して間違いではなかったと思うが、今また、なぜ教養を重視しなければならないことを文部科学省の審議会が打ち出すのか、なぜそういう諮問があったのかということについて、やや疑問視する声が聞かれる。
 これからは価値観が多様化し、相対化していくことになって、個人のいろいろな生き方を認めていかなければならない。日本人は、多様化や意見の違いをあまり認めようとしない。「和を以って貴しと為す」とか、「協調性」の下で横並びにしたほうがよいという意識がまだある。したがって、社会の中で「共生」という、違いを認めてお互いが生きていくことを強調したほうがよいのではないか。
 国語の重要性についてはだれも異存はないのだが、非活字のマスメディアを含めて全体として考える必要がある。アメリカの小・中学校の図書館は「メディアセンター」と書かれていて、本もあるが、ビデオ、CD、インターネットの機械などもあり、学校におけるメディアのセンターに変わってきている。
 これからは西洋も重要だが、中国、韓国、朝鮮を含めて、アジアとの関係からいって、ハングル語、中国語など、アジアとの関係を重視した古典、宗教を教養教育の中に取り入れていく必要がある。

○ 古典という場合、西欧にはいわゆるグレートブックスと言われるものがあって、こんな本を読むべきだという常識がある。けれども、古典を読むと言っても、何を読むと日本という国、アジア、ヨーロッパがわかるのか。そういうガイドが、日本にはあまりないように思う。それを専門家が作らなければ、ただ古典を読みなさいと言っても、難しいと思う。もちろん、それはあくまでもガイドだが。
 教養について考えるときには、世の中には変わるものと変わらないものがあるのだということをきちんと踏まえるべきである。今、社会は大きく動いていることは確かでそれも大事なので、新聞、ラジオ、テレビなどからは変わるもののしか情報として入ってこない。けれども、どんなに変わろうとも、人間としては変わらないものがあるということを知り、それを身につけることは重要だ。だから、教育の中では、変わるものと変わらないものがあることを踏まえ、その両方をバランスをとって教えていかなければいけない。それがここでいう教養教育の基本である。
 「審議のまとめ」の中には、「科学」という言葉が一言も出ていない。科学は教養ではないのだろうか。実は、「科学技術」という言葉は出ているが、それは科学技術の発達の早さで我々の精神世界を置き去りにしたというマイナスの形で出ている。国際化の中で、普遍的思考は、やはり論理的な思考だと思う。
 科学の本質が、どうも日本では間違えて理解されていて、科学は答えを出すものだと思われているのだが、科学は答えよりも、問うことに大きな意味を持っている。ものなのである。答えが全部出てしまったら科学はなくなるので、科学がなぜあるかといえば、問うことがおもしろく、問うことが大切だからで、もちろん答えは一つではない。答えは一つではないけれども、論理的に積み重ねて、相手にきちんと共通の理解を求めるような形で進めなければならない。この組合せが重要だ。
 教養教育の観点に立った教育改革の検証とその検証の上に立った具体策の検討がこの分科会の議論すべき事項であるが、教育改革はこれまで社会の動きの中で行われてきた。教育も社会全体の中にあり、社会の物の考え方から非常に影響を受けている。このごろは、完璧にお金、お金、お金の世界になっており、恐らく子どもたちに、「教養が大事だよ」と言っても、「お金のほうが大事でしょう」という答えが返ってきそうな世の中である。今の教養教育の視点から、そういう社会をどう考えるのか。基本から考えたい。
 それから、IT革命についても、NHKが学校放送を改善しようとして、すばらしい番組を制作した。米はどうやって作るか、田んぼの中にはどんな虫が住んでいるかという映像が、クリックすると出てくる。都会の子がそれを知るのはよいのだが、それを先にしてやってほしくない。先に自然を経験してから後で検証せずに、逆転することを心配している。なぜ私がそれを心配するかいうと、コンピュータの世界は、どんなにすばらしい世界も、人間が作った世界であるから、そこには答えがあり、既にわかっていることである。しかし、自然について、私たちが知っているのはその100分の1か、1,000分の1か、1万分の1にすぎず、わからないことだらけであり、複雑であり、だからこそおもしろいのである。そこに考える素材、新しい発見が満ちている。

○ 体験的なことから教養教育をどうしたらよいのかということについて感想を述べてみたい。東京工業大学は堅い理工系の学問を扱っている割には、教養教育を重視してきた大学であると思う。これは、非常に優れた先見性のある学長がいたためであるが、恐らくくさび型の教養教育方針がなければ、東京工業大学の卒業生はこれほど世の中で活躍出来なかったと思っている。ただ、それでも、東京工業大学の中には、やはり駒場の教養教育には勝てないという思いが強い。駒場の文科系の教養教育はあまり機能していないのではないかという気がしている。理科系の学生にとって、入学後すぐ教養学部でゲーテ、ハーディ、エリオット等を読まされるというのは、強烈な経験である。それらを何とかこなさなければ、成績で振り分けされるので、みんな一所懸命予習してくる。それが、周辺つまり自分の専門以外のところの豊かさを将来求める素地を与えてくれるのではないか。その意味で、駒場の理科系の学生に対する教養教育は、かなり機能していたのではないかと思っている。
 家庭教育については、すべての家庭を同等と見ているから、文部科学省の施策が機能しないのではないかという気がする。私の友人が、英国で青少年のボランティアや海外経験の橋渡しをする活発なNPOに何十年も取り組んでいるのだが、このNPOがなぜうまくいっているかというと、ターゲットを絞っているからである。英国では貧富の差が大きく、ある地域ではそういう経験ができにくい子どもがたくさんいる。そういう地域に行って集中的に活動するということをやっていた。また、英国には階層があり、ある階層に向けてだけ徹底的に働きかけるということをやっているので、成功しているという話を聞いた。
 読書については、ある程度義務化するということは必要なことである。東京工業大学では何とか1年生のときに本を読ませようとして、共通の授業の中で何冊か読んだ上で、感想文を書かせ、それに基づいて成績をつけるようにしたところ、学生は本を読むようになった。何らかの義務づける工夫も必要ではないかと痛感している。

○ 読書の義務化については、「義務」と言わなくてもよいと思う。結果として義務的になればよいのであって、理想的には、自発的にどんどん読むことが一番いいのだが、それについて、朝の10分間に本を読むという運動が行われていると聞いている。これは非常にすばらしいことだと思う。

○ 古典を読ませることについては、それが可能なら賛成であるが、現実を考える必要がある。イギリスでケンブリッジかオックスフォードの文学部でシェークスピアについての講座をやめるという議論が新聞に出て、大騒ぎになっていた。イギリスのトップクラスの大学ですら学生がシェークスピアを読まなくなったので、講座をやめるという騒ぎになって、それはひどいではないかと識者が大騒ぎしたという話がある。それは大事だと言いながら、現実にそれを実効性あるようにすることは、こうしたイギリスの例を見ても、容易なことではないので、そういう現実も一方で考える必要がある。
 学校は歴史博物館であるべきだが、現実はそうはいかず、コンピュータやインターネットを使ったりしなければならなくなる。
 インターネットによる犯罪についても、犯罪まではいかないが、インターネットのやりとりではお互いの顔が見えないので、とんでもない悪口を言い合ったりして、それがエスカレートして、いわばけんかになるというのはよくある。そこに新しい事態に対する社会規範や倫理が伴わなければ、我々はとんでもない世界に突入していくのではないか。デジタル化は重要であり、もっと進めなければならないが、やはりアナログの部分をこれからどのように大事にしていくかということも忘れてはならない。

○ 情報化社会が後退することはないのであるから、教養教育を議論する場合に、その部分から入っていかざるを得ないと思う。本を読んで、古典から学ぶという考え方も、正統の議論としては当然あるわけだが、今、西田哲学を読んでわかる大学生が何人いるかと考えると、それを期待するのは無理な話ではないか。
 子どもや大学生にとって、学生の生活と学校で学ぶことがあまりにもかい離していたことが、今日の教育の大きな問題になっているのではないか。教科主義の行き着く先が教養たという考え方をしたら、また同じことを繰り返すことになる。その意味では、子どもの生活を見据えて、そこからどのようにしていくかということを議論しなければ、具体的な方策は考えられないのではないか。
 それから、大学入試にはやはり問題がある。つまり、ヨーロッパ型の大学入試とアメリカ型の大学入試は違うわけだから、同一に議論してはいけないし、ヨーロッパの大学入試というのは今でも基本的に論文でしか試験ができないのだという原則を守って、試験をしている。その事実を無視して、大学入試に原因がないというのは、ちょっと無理がある。だから、大学入試については、大学関係者が教養教育を意識して考えてもらうために発信しておく必要がある。

○ 家庭でも学校でも、子どもの教養の一番の原点としての宗教の問題について、審議会においても、ついつい我々は迂回している。学校でも宗教について調べることができない。それぞれの家庭で仏壇に拝んでいるか、教会で礼拝をしているかといった質問ができない。ここに、朴正基『幼い孫に贈る言葉』という韓国で30万部以上売れている本があるが、これにはすばらしい言葉がたくさん書いてあって、孫たちに極めて説得的に書いてある。そのほとんどの引用原典は、『タルムード』、老子、仏典などであり、それらからおじいちゃんが言葉を引っ張って、日常生活のことから結婚に至るまで孫に語っている。こうしたことができないのが我が国の弱みで、隣の国に負けるなという感じがする。その点も一度議論してみたいと思う。

以上

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