いじめ防止対策協議会(平成28年度)(第4回) 議事録

1.日時

平成28年9月30日(金曜日)13時30分~16時30分

2.場所

文部科学省3階 3F1会議室

3.議題

  1. いじめ事案への対応における課題について(保護者との情報共有等)
  2. 重大事態への対応について
  3. その他

4.出席者

委員

相上委員、愛沢委員、實吉委員、村山様(水地委員の代理)、高田委員、種村委員、東川委員、村田委員、森田委員、野村様(横山委員の代理)

文部科学省

関総括審議官、瀧本大臣官房審議官、藤原初等中等教育局長、坪田児童生徒課長、松林生徒指導室長、丸山生徒指導調査官、山本専門官

5.議事録

≪議題(一)いじめ事案への対応における課題について≫
 ※事務局より資料一と資料二の説明。



【委員】  対応については、ここに上がっている視点について、我々も検討すべきだと思う。この対応というものが非常に難しく感ずる場合もある。特に学校から保護者に報告しない場合もあるだろうし、それから、教員が見守ることで対応を終えたこともあるだろうし、いろいろなケースがあるので、いろいろ議論していければなというふうに思う。
 それから、保護者が担任によく相談をすることがある。そのときに、そういう事案について、担任から管理職に報告がされていない場合があるんではないかというような懸念もある。
 したがって、この辺の流れをよくしてみるということも、いろんな点で考えていかなければならないのではないか。非常に大事なことなので、そういうような場合、管理職と担任とよく話し合って、事案を管理職が把握するということが極めて大事である。そうすると、やはりリーダーとしての管理職の指示等も出てくるだろうし、担任と管理職、あるいは担任と保護者の信頼関係というのもうまくつながるんではないかというふうに感じる。
【座長】  ただいまのことに関連して、事務局にお伺いする。
 今、各学校に義務付けられている組織がある。この組織の長(ちょう)は校長、メンバーとしては、教頭から始まり校内分掌が大体並んでいる。法律では、教職員含めていじめの事実を知ったときには、全て組織へ報告することになっている。ということは、全件組織へ上げなければ、ある意味では地方公務員法の職務義務違反に当たる事項になるんではないかというぐあいに考えられるが、その点について、そう解釈していいのかどうかということを伺いたい、天童市の例が典型的な例かと思うが。
 天童市では処分が出ている。それが解釈としていいのか、あるいは、そういうことを徹底させていない、周知していないということが今の現場の現状を反映したものだというぐあいにお考えなのか。そのあたりは、いろいろと各地の事情をお調べになっていて、事務局の方はどういうぐあいにお考えか。
【事務局】  事務局の方から法律等の規定について説明させていただく。いじめ防止対策推進法の二十三条では、学校の教職員は、いじめについて疑い、事実があると思われるときは、学校への通報、その他の適切な対応をとるというふうになっているので、学校への通報というのは、当然、校長を含めた組織に通報するということになっている。その点を文部科学省において通知等では周知をしているところ。
【座長】  ということは、明らかに義務違反になるということ。
【委員】  やはり、そういうような形が、情報、流れ、そういうものを含めて極めて学校一体、そういう感が出てくるから、非常に重要なことだというふうに思う。そういう意識を校長、教頭の下の教員もしっかり持つべきだというふうに考える。
【委員】  現場という形で少しお答えする。例えば相談の内容が具体的にいじめられているとか、いじめがあるとか、そういった明確な言葉でもし親が相談すれば、当然、それは学校全体の大きな課題になる。
 ただ、そういうケースは、実は余り多くないのかなと思っている。面談等の様々な機会、保護者と対話する機会というのは、小中高、非常に多くあるかと思う。例えば学校に行きたがらないとか、あるいは友達との関係が心配だとか、明らかに子供がいじめられているとか、その前段階、あるいは、それに近いものが相談としてかなり挙げられるのかなと。
 そのときに、それらが全て、正直、例えば校長まで来るということはほとんどないと思っている。生徒が六百人いれば、限りなく全員がそのような課題を持っているので、そこは極めて難しい。当然、矢面に立っている担任が、その生徒の周辺の状況を探りながら観察はするが、そういった部分での、ここに挙げられている課題というのは、残念ながらまだ徹底できていないのかなというふうな気がする。
【座長】  今の御意見は課題として、それは必要なことだという御意見か。それとも、現実的には非常に無理だというお話も……。
【委員】  無理とは思わないが、難しいというふうには感じている。
【座長】  私は、組織を挙げて対応を検討しなければならないと考えている。組織を挙げて対応しなければ、今までの学校の慣例に従って、知り得た教員が抱え込むという事態になりかねない。だからこそ今回の基本方針も、法律も含めて、学校では徹底した組織的対応を求めるというようになっている。そこのところの問題がうまくクリアできていないという問題として私は捉えている。
【委員】  私が申し上げたのは、組織的な対応ができないということではなく、やはりいじめ以外にも様々な課題がある。私は、生徒指導の高校の校長の立場で、委員会の立場で来ており、実は多くの相談は、学習、あるいは進路に関してのもの。なので、具体的に明確にいじめということがあれば、これはとんでもない問題になるから、当然すぐに俎上(そじょう)に上がる。
 ところが、繰り返しになるが、非常に明確でない、特に親からの部分というのは、子供が訴えれば非常に分かりやすいが、親は正確に全体像を捉えていないケースがあるので、その意味で非常に難しい。難しいというのは、組織での対応が難しいのではなく、そのことについて話し合う題材になるかどうかというのが難しいということを申し上げた。
 多くの学校は、小学校、中学校も同じだと思うが、担任があって、その担任が学年という形、その学年の中で学年会に持ち上げ、そして学年主任が企画委員会に上げるという、どの学校にもある定期的な、一週間に一回情勢報告をしてもらう会議をしている。そういった中で取り上げる部分というのは、実は非常に多くのことを担任は毎日抱えているので、いじめという言葉が出ないときに、近いものを吸い上げるのは非常に難しいかなということを申し上げた。
【委員】  今、天童市のお話が出た。天童市の第三者委員会の委員長をしたので、そこのところをちょっと踏まえながらお話しする。今、委員が言われたように、いじめだという形で教師が認識をする場合には、私が学校で交渉した事例の中でも、やはり校長先生や教頭先生まで行っているというのは、これはもう数例で、むしろ行かない方がおかしいというふうに思っている。
 ただ、問題なのは、これも委員が御指摘のように、様々ないじめに関する兆候が多分たくさんあるんだと思う。それは、天童市で言えば、クラブ活動の中で、どうもこの子が少し仲間外れにされていて、毎回毎回、非常に苦しい思いをしているように思える。あるいは、そのように見て取れるということが教師の目から見える部分がある。ただ、その一点を見てもいじめだというふうに判定はできないけれども、何かおかしいなと思うことは、いろんな教員が認識している場合がある。
 ところが、天童市のところで指摘をしたのは、そういう一つ一つの事例を組織的に集めてみて、初めて事の重大性や全体像が分かるので、個々の教員が事の軽重を、その段階で判断して、フィルターを掛けて組織的に上げないというところに問題があるんだという指摘をさせていただいた。
 その意味では、地方公務員法上の懲戒処分に当たるかどうかはともかくとして、やはり一つ一つの個々の教員が認識している細かなことを組織的に寄せ集めて見立てたときに、何が見えてくるのかということが重要なので、そこの部分のフィルターを外してやる、あるいはフィルターを掛けてあげないということをしないような対応を徹底していくということは、とても重要かなというふうに思っている。
【委員】  今のお話にもあったが、やはり、いろいろな状況がある中で出てきた、いじめの芽になり得るような、子供が大変な状況に置かれているのではないかという気付きを共有することが大事だと思う。情報を共有することが当たり前にならないと、いじめに当たるかどうかの判断を個人に委ねる形になってしまう。結果的に組織として共有できなくて、大事なときに関わり損なってしまうというのが、一番の課題ではないか。
集まってきたものについては、いじめに関する対応チームというか、いじめ対応組織を置くことになっているわけだから、そこがちゃんと対応することを習慣付ける。それを当たり前のものにする取組が、最初は大変だと思うが、大事なのではないか。
 初期の対応をどうするのか、集まってきた情報をどう記録して、どう共有するのかも含めて、試行錯誤しながら対応していくことで、少しずつ改善をして意識が変わっていくことになると思う。いじめ対応組織があることによって、担任の先生とか、初期の対応をする人や初期の情報に接する方個人が、一番重い責任を負うということにならず済む。早い段階で報告をしたら、あとは組織が判断をすることで、逆に報告した人を守る仕組みになっていかないといけない。個人が、自分で情報を出していいのかどうか、出したら自分の責任になりはしないかと心配することにならないようにするのが大事だと思う。
 それと、いじめかもしれないと思っただけでも、保護者の方にとっては、いじめた側(がわ)も、いじめられた側(がわ)も、そういう話を聞くだけで頭の中はいっぱいになってしまう。悲しみであったり、怒りであったりという感情が湧き上がってくると思う。学校への信頼が強ければ強いほど、学校で子供が大変な思いをしていたことを感じた段階で保護者は不安になる。それを受け止めて、育ててきたことの大変さも含めてねぎらいながら対応して、気持ちを受け止めることが一番大切と思っている。
 対応の中で問題があれば、当然、その部分については、心配を掛けたことも含めて謝罪をするべきだと思う。全ての責任を認めて謝罪をするかどうかの判断を最後までもっていくのではなく、対応上で心配を掛けるようになったことは、当然、しかるべき謝罪も必要だと思う。少なくとも心配な思いをさせたことについては、申し訳ないと思うことをちゃんと伝えながら、親の気持ちに寄り添っていかないと、コミュニケーションを図るのは難しいと考える。
 保護者と協力して解決を目指すということでは、いろいろ起きてくることの背景には、必ず、その子供の置かれている生活状況や地域の状況があるので、そういうことにもちゃんと心を配りながら、総合的に対応する視点を持てると良い。
 ソーシャルワーカーであったりとか、スクールカウンセラーであったりとか、様々な職員も使って、担任の先生中心で対応する責任を分散できる。担任の先生がいじめている子、いじめられている子の両方に関わることは本当に大変なこと。チームで対応することで、担任一人に負担が掛からないように、組織で判断をしながら、保護者と子供を大切にしていかれるような関わりができると良いと思う。
【座長】  今のところ、お伺いすると、法律とそれから今の組織、それから対応の関係、それからいじめの認知という、この四つの問題がある。ここのところは、例えば組織へ上がって、すぐさまいじめかどうかの判断を、その認定をしなければいけないのかというと、そうはうまくいかない。非常に時間が掛かる。
 だから、いじめが組織へ上がっても、並行させながら、今、委員がおっしゃったように、被害者も加害者の方も、その苦しみや怒りや、いろいろな感情がある。これに向き合いながら、なおかつその状況が、これはいじめかどうか分からないという状況で上がってきたとしても、その子供たちの状況がある。その状況に対して手当てをしていくということは後回しにせずに、なおかつ組織で並行しながら事実確認をしていく、こういうことが必要なんだろうなと思う。
 どうも誤解されているのは、疑わしいのは上へ上げにくいとか、あるいは、それを上げても、そこの組織ですぐさま判断しなきゃいけないというところがあって、現場の教育的な指導、配慮というものと、なかなかうまく、そこのところが合わない、マッチングしないというところが生じている。そこをうまく説明しながら、今までのようにいじめの事実が認定できて、そして対応を起こすというのではなく、まず先に対応を、後回しにしない。つまり、被害者、加害者を含めて、あるいは周りの子も含めての対応と、それから、起こった状況に対して教育的な指導は幾らでも施していただいたらいいわけだから、その指導、対応というものを後回しにせずに、その後で並行しながら事実確認をやっていきながら、組織でいじめかどうかを判断する、こういう手順になっていくかなと。
 今、いろいろと御意見を伺って、整理すると、そういうものになるかなと思う。その辺を基本方針を見直していくにしても、少し丁寧に説明しておかないと、なかなか現場に周知しないかなと思う。
【委員】  今の座長が言われたことと重複するかもしれないが、スクールカウンセラーの立場で考えたときに、それがいじめだから介入したり、関わったりするのではなく、そこにちょっと元気のない子がいる、ちょっとそこにいつもと違う様子の子がいるということで関わり、そのことの背景に結果的にいじめがあるということだろうと思っているから、いじめだから介入するというのでは、やっぱり難しいのではないか。
 それと、我々カウンセラーも、個別にカウンセリングルームでするだけが今のスクールカウンセラーの仕事だと思っている人間はいない。学校コミュニティーに対してどう介入していくかという部分で、管理職、あるいは学校という組織を考えたとき、そういう学校コミュニティーに対して見立てをしていくというのが非常に重要になってくるというふうに思っている。
 そういう部分から言うと、先生の資質にも関わるのかもしれないが、処分されるから、そういう行為をするのか。教育者として、この子たちの人格形成をする、少しでも成長を促すための自分の仕事だと思って喜びを感じてやるのでないと、そこで今介入しないと処分されるから、罰せられるからとか、いじめがあると評価が低くなるというようなレベルで子供たちに関わられたのでは、子供たちや保護者の信頼を得ることは難しいのではないかと感じた。
 そして、前回のお話でも出たが、オン・ザ・ジョブ・トレーニングとして若い人たちが経験不足であれば、そのことを先輩が指導する。しかし、それは先輩が指導するだけでなく、先輩たちも生涯学習としてずっとそのことを学習していくんだ、お互いに研さんし合っていくんだということがないとやはり難しいだろう。
 そして、管理職の教員の資質という部分で、朝ちょっと登校を渋るんだというような情報があったとして、そのことの背景として、もう学校に行くのを嫌がると言えば、どうしたのかな、勉強分からないのかな、いじめられているのかな、体調悪いのかなということを疑問に思わない、いじめでないと関わらない、というのでは、先生の資質として余りにも劣化しているのではないかと思う。そして、学校へ行くのを嫌がるといったら、いじめをまず前提に考えない発想を、私からするとちょっと疑問を持つ。ちょっと学校に行くのを嫌がっているんだよという親からのせっかくの情報があったときに、それは普通ではないのではないかということを思われないのかな、ということを感じた。それで、いじめがあれば上の方へ報告する、しないというようなレベルで判断されると難しい。最初に言ったように、学校に行くのに抵抗がある子がいれば、その原因なり、背景が何かということに対する疑問が湧かないのかというふうに少し思う。 そういうことだから、罰されないためにやるという発想や、いじめを報告しないから罰するということでは、その人たちの本来の教師としての専門性が育たないんじゃないかなと思う。
 もう一つは保護者との関わり。これはカウンセラーの仕事として保護者面接というのが非常に重要になってきたりするので、その視点から日頃感じていることだが、保護者がせっかく様々な情報を提供してくれたのだから、そのことを一緒にどう対応していくかということが重要だろう。
 いろいろな形で相談に来られたときに、様々な問題があるけれど、まずは相談に来られた方々と一緒にそのことを考えていこうという、我々の言葉で言えば治療同盟という、一緒にやっていこうと。この問題について、お子さんの問題について、家庭の問題について、微力ながら一緒に考えていこうと。そして、向こうとの契約がなければ、「おまえのことは信用できないから、おまえには相談しない」ということでは成り立たないので、その信頼関係を作ることが重要ではないか。
 ただ、学校の先生がそれだけを目標にされても非常に難しいんだろうなというふうに感じる。前回、座長も施策をよく考えろと言われた。まず、今の一般社会なり、保護者の方々が義務教育をどのように考えておられるのか、学校というものはどういう意味があるのか、学校で何を勉強するのか。人格を含め、知識を含め、そういう成長を促すところであって、そういうところであるということを、また、義務ということの意味をよく理解していただいて、家庭との連携なり、家庭で何をするのか。学校の教育力、家庭の教育力、社会の教育力、その辺のところをお互いにもう一度、社会全体が理解して、学校の先生はこういうことをやるんだ、家庭とすればこういうことをやるんだというのを、もう少しみんな共通理解しないと、先生だけに押し付けられても難しいだろうし、それぞれの保護者が学校の先生、学校教育に対する期待が違えば、それは学校の先生は大変なのではないか。
 だから、基本的に学校へ入るときに、小学校というところは、義務教育というところは、こういうところだよ。中学校では、こういう発達段階で、こうだよということをよく保護者に御理解いただかなければならないのではないか。
 何年か前の就学前の健診のときに、小学校での保護者のやり方、あるいは子供の成長に対して講演をしてくれというのがよくあった。どうしてかというと、学校に入ったら、もう親が来ない。だから、入る前の就学健診のときに講演をして、そういうことを説明してくれということだった。今もそういうことがあるかどうか分からないが、もう少し義務教育なり、学校なりの説明が必要なんじゃないかと思う。
 そういうことでは、今から説明される私学というのは、もうきっちりそのことを、私のところの学校では、こういうふうな教育方針で、こういうふうに指導していくというのを物すごくはっきりしておられて、そういうのを理解した上で、保護者の方も私学に進学させられるんだろうから、もう少し私学のように義務教育も、そういう学校というものを保護者の方に、社会にもう少しきちんと理解していただくことが必要なのではないか。
【委員】  やはり私立学校は、さっき座長から罰則の話があったが、学校事故も含めて、教員個人が損害賠償の対象になる。多分、公立の場合には教育委員会とか、組織が損害賠償の対象になる。その辺に大きな違いがあるので、私立学校の教員としての役割を、最初に話をするということが大事なことだろうというふうに思う。
 大きな組織の長(ちょう)に何かを上げるということはなかなか難しいのではないかなというふうに思う。一般企業では、多分、事務分掌があって、権限がそれぞれの部署に委譲されていて、その部署部署で権限を行使できるような仕組みができていると思う。
 どうしても何か問題があると、一番頭が責任をとれというふうになることがあるので、この辺が組織の作り方ということで、もう少し前段階で作り方があるんではないかなというふうに思う。
 それから、私どもの学校で注意していることは、とにかく記録を残すということをしてもらっている。どんな小さなことでも記録はとっておいてくれというのは、先生に対するお願い。事が少しずつ表面に出てきたときに、その記録の中から途中経過を酌み取っていくということをすることが大事。
 それから、先ほど教員の資質の問題というふうに言われたけれども、とにかく保護者、子供、全てに寄り添うという心を教員一人がどう持つかということが大事なことなので、その寄り添いということを常にしてほしいというふうに校長としては頼んでいる。
 最終的なところでは、自分がどう乗り越えていくかという力を付けさせなければいけないわけで、いじめの次元とは違うけれども、多くの子供がいろいろな問題を抱えて相談に来るときに、多くは家庭の問題がある。夫婦の問題、あるいは親子の問題、家庭の問題が最初にあるから、その子の家庭の中で置かれている状況というのをまず分かるということも必要なことなのかなと。とにかく辛抱強く聞くしかないよというふうに先生には言っている。
【座長】  知る権利についてはどうか。
【委員】  そちらの方も含めてか。
【座長】  そのあたりも含めて、法律的に説明していただければ有り難い。法的な根拠をどう考えるのかという点が分からない。それから、学校という状況の中で起こったいじめの事案に対していろいろな調査が行われていく、あるいは事実確認が行われる。その中での知る権利というのは、一般の知る権利というのと、また、行政の場合のいわゆる市民としての、納税者としての知る権利とか、そういうものとは性格が非常に異なってくるように私は思っているが、このあたりも少し触れていただくと大変有り難い。
【委員】  今のあたりは、別の委員の方からお話しいただいた方がいいのかなという感じもするがお答えする。今の一番初めの方の学校の先生が保護者から相談を受けて、いじめじゃないかなというふうな形で多分おっしゃったのが校長先生の方に伝わっていなくて、それで校長先生の方に報告をして、結局、この先生、何やっているんだと、そういう信頼関係がなくなってしまってというような、そこのところというのは、おっしゃっているように、いじめの認知の問題なんかも含めて、あるいは学校の先生が抱え込んでしまうという問題がどこから出てくるのかというあたりの微妙な問題が含まれているんだろうなというふうに考えている。
 日頃いろいろな相談を受ける中で、先ほどから出ているように元気がないということになった場合、あるいは学校にちょっと行きたくないんだと言われた場合に、担任の先生はその子はどういうことで悩んでいるんだろうということを、探さなければいけないと思われるのが当然なんだろうと思う。そこの中で、抽象的な可能性としては、今こういう形でいじめなんかも問題になっているから、もしかしたら、いじめじゃないだろうかというふうに言われたものが、いじめの話として相談したよというふうになってしまうのかどうなのかというところ。いじめの話として相談したよということで、そこでもういじめの疑いを持って対策組織の中でやって、そうやっていけばいいんだというふうになってしまうのも、その子の抱えている問題とか、親御さんの心配の問題をきちんと解決していく教育的な対応になっているのかどうなのかというところは、見極めをしなければいけない部分として、多分、現場の先生方にはあるのだろうと思う。
 そこのところで、では、いじめだったら報告しなければいけない義務があるけど、ほかのことについてはどうするんだ、報告しないでいいのかということは、多分、一定の段階になってきて、こういう課題なんだとはっきりしてきたときに、そういう手続に乗せていくということになってくるんだろうと思う。その辺の兆候というのが、今までのいじめの重大事態になってしまったようなケースの中には、いろいろあったのではないかというケースが出てきてしまっている。そこのところをどういうふうにいじめの問題の方としては受け止めていかなければいけないのか。
 つまり、子供たちが傷つきそうな場面というものについて、その子がどういうふうに受け止めているのかというあたり、その背景であったりということを先生方の中で情報共有をしていく。そういうことがいじめに限らずできている、成り立つような学校現場であれば、比較的一本にまとめてみれば、これ、いじめじゃないかということがはっきり見えてくる場合というのが出てくるのかなというふうなイメージを持っている。
 だから、いじめだから、あるいは報告しないと職務義務違反で懲戒されるからとか、そういう問題ではなく、子供たちが困っているような状態、あるいは周辺にいる人たち、保護者が元気がないんだというふうに言ってくれる、これは、とてもいい子供たちの状況について知るための情報提供になる。だから、それをどういうふうに学校として受け止めて、学校としての権利保障を全うしていくのかという、そういういじめに限らない対応の方針というか、そこのところがまずないと、今起こってきているような問題は解決しないのかなという感じがする。そのためには、私は日弁連でいろいろやっていて、学校の在り方の問題、これでいいんだろうかというようなことを時々やったりもする立場なので、学校の先生方は非常に多忙な状態の中で、子供たちときちんと付き合えるような、あるいは、ほかの先生たちと情報共有ができるような、そんな条件があるのかどうなのかというあたりのところをちょっと心配していたりもする。そういうところにも少し目を向けながら、この問題を考えていかないといけないんじゃないかなということを考えた。
【委員】  いじめの事案のみでお話をしていくと学校の組織力というのは、その学校が急にそういう組織になるわけではなく、何年間かの積み上げの中で、そういう組織力ができていくという現状がある。
 もう一点は、押さえておかなければいけないのは、学校は絶えず管理職を中心にしながら気になる子供たちの状況を把握している。私が今一番重視していることは、その子が元気がないとか、落ちつきがないとか、又は不登校であるとか、いろんな状況の中で、絶えず先生方と一番確認しているのは、命に一番関係する虐待については、絶えずアンテナを高くしている。子家センとの連携、児相との連携が生じてくるから、いじめも重視していくが、そういう問題を日頃抱えているということで、情報を担任、若しくは組織として絶えずやりとりしている。
 もしかしたら不登校の状況もいろいろな背景があるので、そういう状況は何なのかということを担任、又は管理職も含めて、スクールカウンセラーも含めて、どういう状況なのかということを確認して対応していこうというようにしている。
 そういう中で、このいじめについても大きな問題なので、今、その状況というのは親御さんから入る場合もあるし、子供から入る場合もある。スクールカウンセラーが面接をして入る場合もある。そういう中で、いじめについても状況はどうなのかということを確認しながら対応していこうということがあるので、(一)のマル一について、学校の対応に問題がある場合ということについては、これは担任の感度の問題。意識の薄さの問題で、情報がなかなか入らないという教員も皆無ではないので、そういう場合については、その担任が、ちゃんとこっちに情報を上げているのかどうかというアンテナを高くする。間違いなく入る教員と、入らない教員がいた場合には、入らない教員については、絶えず主任級と管理職も含めて、そういうアンテナを高くしながらやらなければいけないということがある。
 ただ、これもさっき申し上げたように、学校の組織が、そういう体制になっている学校とそうでない学校、多分、温度差がかなりあるんだなというふうに思う。絶えず発信して、管理職がそういう組織力がある学校を作っていかなければいけないのかなというのは思っている。
 学校等が適切に対処しても保護者の理解が得られない、ここがすごく難しくて、いじめだろうと担任やいろんなところから情報が入ってきたときに、そのいじめ確認をまず、これは(二)のマル一にも関係してくるが、これはいじめの可能性がある場合、確認していく。その確認の仕方も手法がいろいろあるが、大体、集団対一になったときには、集団を一気に集めると口裏を合わせられる場合があるので、うまく分からないように一対一で情報を確認したり、きめ細かい対応が必要になってくる。必ず両者、いろんな人が一致するということがなかなか難しい場合がある。必ず誰かがちょっとうそをついているのか、もしかしたら勘違いしているのか、よく分からないが、一致をしない場合がある。
 かなりのいじめの可能性があると判断し、叱った場合に、そうでないケースがあった。そんな場合にその子を傷つけることになるので、それは細心の注意を払わなければいけない。
 だから、事実確認についてはかなり丁寧にやらなければいけない、時間も掛けてやらなければいけない。だから、保護者から見れば、何でそんな時間を掛けているんだという場合もあるし、保護者は、比較的、自分の子の言い分を、それは当然、かなり尊重しているので、そういう場合は、ここが難しいところだが、最終的には一致しないで、保護者の認識も違うという中でもっていく場合に、解決としては、今ここまでははっきりしている。でも、この次はまだはっきりしていないので、これについてはちょっと御理解いただきたい。これから、しっかり確認をしていくと言っても、保護者の理解がなかなか得られないという場合もある。
 そういう中で、重い事案になってしまう場合もあるので、学校としては、ここが非常に難しい。でも、学校としては、最終的にしっかり事実を確認してから対応しなければいけないので、加害者であろうと、被害者であろうと、ここをしっかりしないと、ということがある。余り結論を急ぎ過ぎてもっていった場合には大変なことになるので、その子の一生の問題になる場合もあるので、そこをしっかりしなければいけない。
 最終的には、いじめについては適切にしっかり確認、対応しなければいけないということと、あとは学校を、ある程度の組織力まで上げなきゃいけないということがある。
 最後に、いじめの事案について、さっき言った担任の温度差があるので、必ず管理職に上がるように、ある程度のグループ、ある程度の集団で判断をする。例えばいじめの事案であろうと、何の事案であろうと、学年にしっかり上げる。学年が、それはいじめとか、こうだよということを学年で基準をしっかり持って、それを今度、管理職に上げるというシステムをつくっていく必要がある。一人の基準に任せないで、ある程度、組織の基準をしっかり作って、上げられるようにしておくことが大事なのかなというふうに思う。
【委員】  PTAの立場からということで、保護者の理解が得られない場合だとか、対応に苦慮するという話だが、先生方は、現場で法的なものも含めて、いろいろなスキル的なものも一生懸命やっておられる。ただ、そうはいっても多少のことはあるというお話も先ほどから出ているところ。
 ここで出ている保護者というものは、一般的には当該加害者、被害者側を指すと思うが、どの辺の保護者を出していくか、非常に広義的な意味も含むのかなというふうに思う。
 例えば学校であるいじめが起きて、当該加害者側、被害者側の保護者に対応しても、なかなか理解が得られないという場合は、多くの全国での対応を見ていると、そこの代表となる保護者の方に相談をするというのが学校長であったり、いわゆる長(ちょう)の方の一般的な対応なのかなというふうに思う。
 やっぱり専門ではない保護者がほとんど。逆に専門過ぎる保護者もおり、先生方よりも詳しくて、それで逆に苦慮されているというケースもある。ここで言うとマル三になるだろう。私どもとしては、前回も申し上げた、PTAだったり、教師と父母の会だったり、いろいろな組織があり、単なる学校の行事のお手伝いではなく、子供たちの健全育成と、余り見えてこないけれど精神教育といったところに実は大きな柱を持っている。この精神教育のところが、まだちょっとなかなか実践はできていないというところだと思う。
 研修であるとか、事例を取り上げても、具体的にそれを実践する場がないといったこと、様々な考えを持つ方もいらっしゃること、一言で言うと難しいというところなんだろうなというふうに思う。ただ、例えばクラスで見ると担任の先生がいて、学校は組織だけれども、保護者は組織ではないといったところが一番難しいのかなというふうに感じる。
 前回もちょっと御提案申し上げたのは、全国の校長会から、例えば全国のそれぞれの会長たちに何かいじめについて議論ができないのかというところを逆に提案していただいて、話合いを持っていただくというのが、ひとつ面白いのかなと私は思っている。先ほどもあった、やはり保護者の方がコミュニケーション能力だとか、義務教育とは何なのかといったところに対して、どうしてもサービス業的な位置付けを持っている保護者も非常に多くなってきているので、そういう部分もあるだろうが、もう少し学びを保護者の方が深めないと、先生方と保護者の意識のずれというのがどんどん起きているというところは課題として挙がるのではないのか。
 対策として何をやろうというと、なかなか難しいところ。正直、うまくできている方もいらっしゃるだろうしと。そこの学校のPTAの会長なり、PTAの執行部の皆さんと学校の管理職の皆さんのコミュニケーションがうまくいっているところに関しては、そういう事例が起きても割と早い段階で解決に向かっているのではないかなという感じもするし、逆に当該いじめを受けた方、加害者側の方との保護者のコミュニケーションも、保護者側が先に手を回して解決しているというケースもたくさんあると思うので、そういう事例をたくさん出していくことも重要なのではないのか。
【委員】  まず、先ほどおっしゃっていた部分について、本当に感銘を受けたので、繰り返しになるけれども、察するというか、訴えがあるなしにかかわらず、常に注意をしながら生徒を見守る必要性、訴えがあってから動くのではなく、やはり、そういった兆候を見逃さない、そういったところは本当に強く求められているのかなというふうに思う。
 ただ、そういった教員は、決して処罰とかそういうことではなく、本当にその職業を志した部分から始まる、生徒のためによかれと思って常に行動するということ、それが前提であるのかなというふうに思っている。具体的に申し上げると、被害者だけではなくて、やはり加害者であろう生徒に対してもしっかり指導しなければいけない。そういう中で、多くの教員が志を持っているんだと思っている。
 逆に言えば、そういったことを校長は常に把握していないと、これは、時代だと思うが、いきなり保護者ではなく、例えば教育委員会からこんな苦情の電話があったとか、これが校長に直接かかるケースは非常に多くある。そのときに知らなかったでは当然済まないので、私は、そういったことが駄目だと思っているので、僅かなことでも伝わるような体制は作る。こういったことを、先ほどおっしゃっていただいたと思っているので、本当に有り難いと思っている。
 私は、三ページのこのいじめ事案の対応における課題、特に保護者との対応について、この部分について少し意見というか、お話をする。
 上に書かれているように、加害者の保護者がいじめではないと主張して、被害者との間で学校が板挟みになるという傾向は非常にありがちなのかなと思っている。というのは、いじめという概念が非常に抽象的なので、受ける側(がわ)、いじめられている側(そば)にとっては、そのとおりかもしれないが、加害者にとってみたときに、必ずしもそういった意識でない場合もあるし、親については納得できないケースは多々あるような気がしている。
 例えば暴力行為とか金銭的な恐喝、そういったことがあれば、これは明らかに加害、被害があるけれども、そうではなく、例えば仲間外れがあったりとか、おとしめる意味での写真を例えばツイッターとかに載せるケースがあったとしても、例えば悪口についてどういうふうに扱うんだとか、そういった証拠というか、SNS等に残るものではなく、日常的に一言何か悪口を言ったと。そういったことがどこまで本人、あるいは親が理解をできるか、いじめの加害者であるということに対して理解ができるということは非常に難しいと思っている。
 事例として、今の学校は結構、生徒指導が多くあり、例えば今朝も喫煙の指導をしてきた。多分、教員になってから百件以上、そういった指導をしている。いじめでの懲戒、もちろん校長ではない時代に、十八年前に一件だけあった。それは、具体的に申し上げると、五人の女子が一人の女子をいじめた。悪口を言って泣かせたということで、背景としては、いじめられた子の母親が中国人だった。しかも、中二のときに日本に来たので、文化的な部分で全く日本的な文化を知らずに、大きな声で歌を歌ったりとか、そういったところは、もちろん分かった上での指導だった。ただし、学年主任だったんだけども、その五人の加害者と言われる親は全部納得しない、相当強く校長に対して文句というか、苦情を言った。
 そのときに、収めるというか、逆の立場だったらどう考えるかということで、矛を収めていただいた。これは、もう正直、常に加害者の親というのは必ずそういった部分があるので、一般的に言われる被害者に非があるというような状況、こういったところが、特に加害と言われる保護者と学校との関係の難しさというのがあるのかなというふうに思っている。
 そうならないためにも最初に申し上げたような、日頃からの話で、許さないという毅然(きぜん)とした部分と、加害生徒に対して、しっかりその部分を認識させる、悪いことだということを認識させる、そういったことが求められるのかなというふうに思う。
 繰り返しになるが、いじめという部分の定義、ほかの例えば飲酒とか喫煙とか、そういったところとは、やや違う難しい部分を常に持つので、そこら辺が、ここに書かれているような、いざ親に対していじめ、「あなたのお子さんが学校でいじめを起こしたので、あした学校に来て、校長の方から懲戒を申し渡します」というのは極めて難しい、なかなか納得はしていただけないのかなというふうな気がする。
 最後に、やはり必要なのは、とにかく兆候を集約すること。情報ではなく、本当にちょっとした変化を見逃さない。そういったことに対して、最初は恐らく学年とか、そういった小さな単位になるかもしれないが、担任とか一人で、それを抱え込むのではなくて情報の共有化。そして、迅速な適切な対応という、これをとにかく徹底できないと、今申し上げた部分についてはなかなか難しいのかなという気がしている。
【委員】 三ページのいじめ対応の課題と保護者との関係ということで、思い付くことをお話しさせていただく。子供がいじめというふうに訴える場合でも、大抵の場合、親が出る間もなく解決していることが多分多いんだと思う。
 学校の先生、そんなに信用できないわけではなく、非常によくやられている先生、なるほどこういうふうにやれば問題起きないよなという例は非常にたくさん散見されるというのが前提だが、あるいは、むしろ子供の方は、親に言うと大ごとになってしまうので、むしろ親に言わないことの方が多い。逆に親に言うのは、かなり追い詰められている状況になって初めて親に言うというケースが随分多いように思う。
 そういうケースの場合、とりわけ共通点、実務的に感想としての共通点は、既に学校が当事者になっているというケースが多いように思う。例えば子供がいろいろ先生に訴えかけるのだけれども、聞いてもらえなくていじめがやまないとか、あるいは、いじめている子というのが割と出来(でき)のいい、非常に評価の高い子だったりすると、「その子が、そんなことするわけないわよ」という話になって、相手に理解を示すことによって、むしろ非常にヒートアップしていったり、あるいは陰でいろいろやったり、そうなると学校の対応の仕方、あるいは立ち位置によって既に学校が当事者になっているというケースがかなり多いように思う。
 これは、弁護士やマスコミに訴えて収拾がつかなくなるのではなく、そもそもの構造が、そういうことで収拾がつかなくなっているというふうに思う。
 そうすると、学校としても、いじめの問題が保護者まで出てきて問題化しているときには、学校は当事者であるという意識を持つことがとても大事なのではないか。そこを余り意識せずに、学校が何か裁くかのように、「あなたは、こうでしょう」と中立的に扱ってみたり、「これ、当事者間の問題なんだから、当事者でやってください」と言ってみたり、あるいはよく出てくる言葉として、「学校は警察じゃないから、これ以上調査できませんよ」といって引いてみたりすることによって、かなり大きなもめごとになっていくので、やはり学校が当事者であるという意識をしっかり持つことが非常に大事だと思った。
 それから、もう一つ、時間的感覚の違いというのは、もう少し理解しておく必要があって、これは、いじめの第三者機関でもそうで、やはり保護者が考えている時間的感覚と、学校や第三者機関が考えている時間的感覚というのが圧倒的に違っていて、保護者はなるべく早く教えてほしい、解決してほしいと思う。それに対して学校は、あるいは第三者機関は、ある程度めどが立たないと話せないよねという、そういうずれがあることはよく理解をしておく必要があると思う。
 つまり、保護者の時間的な感覚の方がはるかに進んでいるので、やはり、いろんなことが言えないにしても、どういう対応をしているのかという、その経過をきちんと示していくことが、もめたケースなんかの場合には非常に重要であるように思う。
 なお、三ページの四角の中の二つ目の丸については、加害者の保護者がいじめではないと主張して、被害者との板挟みになる、大抵の場合、こうなのではないか。あるいは自然に任せておくと、大抵、こうなるというふうに思う。
 つまり、加害者の子は、それほど重大なことだと思っていなかったり、単にふざけていただけだよとか、あるいは向こうが悪いんだよというふうに思っていたりすると、加害者の方の子供と親が話すときに、子供は自分の親にはいいことを言うし、加害者の親は自分の子供を信用するわけだから、それは当然板挟みになるような話がある。
 そのときに、いじめか、いじめじゃないかというよりも、むしろ簡単に行われた行為であっても、それがどれだけこの子が傷ついたんだろうかという投げかけをする、そこを理解してもらうということが解決にとってはとても重要で、その意味では、そこは教育力の問題だ、先生の力の問題だというふうに理解している。
 それから、先ほど森田先生の方から御提起のあった知る権利の問題について。私は、四半世紀以上、いろいろな自治体の情報公開、個人情報の審査会の委員や委員長をやっていたので、そういう観点から少しお話をさせていただく。先ほどの御報告の中では国がガイドラインを作るという話だが、公立学校を典型とすると、これは全て自治体の個人情報保護条例、あるいは情報公開条例の話なので、その意味では、ガイドラインを作る上では地方自治的な観点を抜きにしては語れないという問題があるように思う。
 それから、個人情報の問題で言うと、情報提供するかどうかというのは、個人情報保護法制上の用語で言うと情報の取扱いをどうするかということの問題になるので、収集する目的が何なのかということが非常に重要な要素になってくる。そうすると、文科省が自殺対応の手引きの中で、調査についてもいろいろな考えを示されているが、調査というのは、再発防止と亡くなった子供がどうして亡くなったのかということを保護者が知りたいと思う気持ちに添うんだと。これをいじめに直すと、やはりいじめられている子がどうしてそうなってしまったのかということを知りたいと思う、あるいは知りたいと思う保護者の気持ちに添うということがいじめの調査の目的であるとすると、当然、被害者と言われている子供に対して、より多くの情報を提供するというのが、この法制上も正しい在り方ということになる。
 その意味では、一般論として知る権利がどうのこうのというよりも、この法制度の中で考える必要があるということが一つと、ただし、例えば調査情報をどうするのかというのは、また別の局面があって、例えば第三者委員会でもそうだが、例えば生徒の聞き取りをする。そうすると、生徒の聞き取りというのは、今後こういう問題が起こったときに同じことをやる。それが筒抜けのように相手方に伝わっちゃうと、今度、聞き取る生徒がしゃべってくれなくなる。つまり、調査目的を達成することができなくなる。そういう観点からやはり生の聞き取り情報というのは出せないと。つまり、事務事業支障情報というふうに、その方面では言っているけれども、そういう観点で判断する必要がある。
 逆に言えば、そういう観点があるということは、聞き取りに当たって、聞き取る子供にきちんと説明をしなければいけないのだろうというふうに思っている。つまり、第三者委員会なんかで子供の聞き取りをしたときに何を言ったかというと、「あなたが、ここで言ったことは、そのまま誰が言ったかという形で報告書には書きません。ただ、あなたが言ってくれた内容については報告書の中で反映はさせます」というふうに言って、「だから、その点については多少心配あるかもしれないけれども、自由にしゃべってください」というふうに申し上げてお話を伺うと。
 私が事務局に指示する立場にはもちろんない、事務局が判断することになるが、やはり調査の聞き取り情報というのは、そういう事務事業支障情報なので、これは、やはり公開できない、開示できないだろうというふうな見解を示した。
 ただ、微妙なのは、アンケート。特に無記名のアンケートをどうするのかというのはなかなか微妙なところでもある。つまり、筆跡で分かるとか、あるいは学校の先生が集めるときにクラス単位で集めてたり、席の順番であったりするので、大体、誰が書いたかというのは分かったりもしているというような状況の中で、それをそのまま開示するというのは確かに有用。しかし、匿名化されているという部分もあるので、天童市の場合は、当然、アンケートについて何が書いてあるのかということを教えてほしいというのがあった。したがって、第三者委員会の事務局レベルでアンケート調査について全て打ち直して、こういう内容がアンケートとして出てきたという形にした。個人名が生々しく出ているものについては、やや省略した部分もあった。
 つまり、情報開示とか、情報公開は加工せずに出すものだけれども、情報提供の場合には加工して出すことに問題はないので、そこは情報の質によって開示したり、開示しなかったりということがあるので、その点は、総じて知る権利というよりは、むしろ、この法制度の中で考える必要があるのと、情報の性質によって出すもの、出さないものがあるということは、きちんと区分けをして考えておく必要があるように思う。
【委員】  我々、アンケートとかよくとったりする。そのアンケートをとるときには、そのとることの目的なり、そして、そのことが、後どのように活用されるかということを必ず相手に説明して、向こうに、そのことでは承諾しないということで拒否する権限もないと、それは、できないのではないかなと思う。しかし学校場面では、先生たちがやってくれといったら、子供たちがなかなか断れないと思う。そこのところは、最初にとるときにきちんと目的を説明しなければいけない。
【委員代】  もちろんそうだと思う。
【座長】  ちょっと一点だけ。
 今の論点メモの(二)、ここのところで議論いただくところがまだ残っているかと思う。以前にも申し上げたかと思うが、今の解消率の扱い方の問題が大きくここに関わっていると考えている。御存じのように、教育振興基本計画の中の成果指標の中に豊かな心の指標として、いじめの解消率というのが入っている。そういうことに基づきながら問題行動等調査の中に、解消に関する調査項目が入っている。その調査項目は三択になっており、解消したものと、一定の解消は図られたが継続して支援中。それから、もう一つは今取組中という三つの項目に分かれている。今の成果指標は、一番目の「解消したもの」というところに丸が付いているものを解消率として測っている。
 なぜそういうことになるのかはまた別にして、その結果として、現在、問題行動等調査を見てみると、その解消率というのは非常に高い。自治体によっては七十数%から八十三%、八十四%、場合によっては九十%を超えるところがある。望ましいいじめの指導の在り方というのは、一定の解消はしたけれども、その後継続して支援なり、見守りをしていくというのが本来の学校の指導の在り方だろうと思う。
 だから、解消率を一番のみで測ってしまうところに非常に問題があるし、そこの数値を上げようとすると一定の解消でしかないものまで解消したものとして処理してしまうケースが現れてくる。集団指導で和解の場面を作ったり、あるいは謝罪の会をやったりと、とにかく遮二無二形だけでも良いから解消へ引っ張っていこうというような弊害が出てしまい、その後、波及効果が二次的被害としていろいろな場面で出てくる。その場面に対しても一定の解消が図られたケースなので、そこで終わりとするところが少なくない。
 私の個人的見解だが、解消には救済と回復という二つのプロセスがある。救済は、取りあえずいじめの場面から子供たちを救い出し、そして守っていくという、このプロセスが救済に当たる。回復には、様々なものがある。精神的ないろいろな傷を負っている。それを回復させることも言う。回復には時間も掛かるが、被害―加害の関係を修復していくということも大事なこと、あるいはクラス全体の安全・安心・快適さを修復していく、こういう過程も必要になってくる。
 様々な、そういうものを含み込んで、本来は一つの事案が解消したと見るべきだが、それは時間的に非常に長く掛かるし、場合によっては卒業後もまだ引きずりながら、傷を負いながら歩いている子供たちもいる。そういう子供たちに何らかの形で、ある程度のところまで、学校のできる範囲で回復させてやるという営みが伴わないと、いじめというものの傷を負った子供たちを救い出すということは本来できない。
 しかし、成果指標に解消という文字が入ることによって、今申し上げたように、傷や関係は修復できていないのに、そこで支援が終わってしまうというケース、解決したと見てしまうケースが随分含まれてしまうのは問題である。
 それから、一定の解消がみられたとしても、そのあとの指導、見守ってフォローアップしていくというのは、いじめの対応の基本。それすらも後退してしまうというような事態を招きかねない。ただ、これは閣議決定なので、その扱いは非常に難しい。今いろいろな改正が行われていくので、やはり本来のいじめ指導の在り方を運用面で意識してやっていただくということが必要かなと。
 だから、今の一定の解消というところをめどにして、そこに強引にもっていくということは避けるべきだし、あるいは、それがあったとしても、解消が図られたと見えたとしても、継続して見守るという運用の仕方はしっかりと徹底していっていただかないと、いろいろな被害がそこから出てくる。数値目標だけを最終目標にしてしまうと、本来の指導、教育というのがゆがんでしまう。そのことはやはり注意しておかなければならないないし、二のマル二のところにいろいろと書いてあるところも、やはり弊害の一つの現れかなというぐあいに思っているので、この点は、今後の一つの課題として考えておくべきことかなというぐあいに私は思っている。
【事務局】  確認したいことがある。次から論点整理とかで示していくときに、余りにもずれたものではいけないと思っているので、きょう大体共有化できたところで、それをどう対処するかを我々は具体的な案を示さないといけないと思っているので。
 いわゆる断片的に情報、先ほど言った一つ一つのピースの情報、一つ一つでいじめかどうか分からないものを、全て本当に僅かなものも、子供が困っているものを察するということや気付きとか、いろいろなことで、これは責められるからとか、そういう小さな了見の話ではなく、飽くまでも子供を助けるために全て対策組織に日報する。そして、それを対策組織のメンバーなり、情報集約の責任者なりが全部ピースを集めてみて、この子は、いろんな教科でそれぞれの物をなくしている、これは誰かにとられているかもしれない。訴えていることは本当だ。彼はなくし物をしているわけではないというようなことを全体で総合化して、本格的に彼を救わなくてはいけないとか、そういう行動に組織的に出るというようなことのルーチンをしっかりと何かしらに書いて、A学校ではやるけど、B学校ではやらないということにしないようにすることが大事なことかなと思う。
 そのような方向で、それを基本方針に詳細にプロセスを書くのか、また通知で示すのか、指導資料で国立教育政策研究所のリーフなどでやるのかは別として、何かしらやらなくてはいけないということでよろしいですねというような方向性を確認したいのと、あと、先ほどの事例にも挙げた、保護者は担任に言って、担任が管理職に言っているか言っていないか問題でもめることもあるけれども、恐らく口止めしたのに言っちゃった問題でもめる場合というのもあると思う。
 多分、スクールカウンセラーもそうだと思うが、もう先生だけにしてください、絶対ほかの先生に言わないでください、校長先生に言わないでくださいと言ったんだけれども、もちろん守秘義務があるから、それは外部性もあるから、多分考えると思う。ただ、その子の深刻度とか、いろいろなものによって、これは明日にでも少し危ない状況になるというときは、子供との約束を反故(ほご)にしてまで、管理職や対策組織に言うのか言わないのか。その辺の判断はすごく難しいと思うが、でも、何かしら示さないと、世の中には一切言わないとか、全部言うとか、どっちかにしか走らないんだが、その基準、メルクマールを示すことが可能なのかどうか。スクールカウンセラーの例で教えていただきたいなということを感じた。
 もう一つは、多分、基本方針に書いて示せるのだと思うが、先ほどの私学の場合と公立の場合について、入学式とかの最初のときに、この学校はどこまで君たちをこうやって守るんだということをはっきりと説明することが多分大事になってくる。イギリスのように契約までは行かないだろうが、多分、学校いじめ基本方針というのは一つの契約みたいなもので、君たちがいじめられたら、全力で、こういう組織で、こういうスケジュールで守るというようなことを、ちゃんと皆さん一人一人に入学式でガイダンスするというようなことを小まめにやっていかないと、多分、期待していたのと対応が違うという話になってくるのと、そもそも示す学校基本方針がかなり詳細なものでないと。
 ただ、いじめはいけないことですとか、三回アンケートとります、以上みたいな基本方針では駄目で、訴えの度合いによって、こういうプロセスで君たちを絶対守るというようなものが期待されないと、多分、保護者も児童生徒も、この学校、大丈夫かなという形になると思う。
 その辺も基本方針に、学校基本方針ではこういうことも詳細に書くべしと。保護者にも子供にも年三回説明すべしとか、そこまで書くべきなのかどうかなと。私は、書いた方がいいのかなとふと感じたのだけれども、その辺どうかなというのを感じた。
【委員】  まず守秘義務に関しては、自分自身の経験で言っているときには、例えば、そういう子供たちがお父さんにそういうことをされているとか、あるいは友達にとか、先輩にとかいったときに、「よく言ってくれた。そのことであなたもつらい思いをしているし、それは不当な扱いだし、それはやめなきゃいけない。あなたを守らなきゃいけないんだけど、私の力量では限界がある、例えば月二回しか来ないから。それはやっぱり学校の先生方の協力を得なければ難しいけど、それに関しては言ってくれるなというけど、それは私だけじゃ無理だから、先生の協力を得るけど、それはあなた、理解してくれるか」といって、割と子供たちは理解してくれる。
 あと、保護者のときに、妊娠したような子が、「お父さん、お母さんに絶対言ったら嫌だ」と。それはどうして嫌かといったら、「叱られるから」と。「そのことに関して叱られるのが嫌だったら、お父さん、お母さんに叱られないようにすることは私はできる。だけど、お父さん、お母さんの協力を得ずに、今のあなたの問題を解決することはできない。お父さん、お母さんに言ってもいいか」といって、比較的皆、「じゃあ、いい」とか言ってくれる。いろいろな情報を収集して告げ口するようなレベルのカウンセリングをやっていると信用されないかもしれないけれど、あなたのためにと思って言ったら、「このことを担任に言うけどいいか」ということで、割と了解してくれるような気はする。
 保護者の方もそうだ。「子供は言うなと言ったけど、学生服の背中に靴の跡があるんです。蹴られた跡があるんだけど、子供は言いませんけど。聞いても蹴られてないと言いますけど」と言われても、「その情報をお母さん、よく言ってくださいました」といって、それは学校の中で共有してということで、本人に、「おまえ、お母さんから聞いたけど、蹴られたらしいな」と、そんなばかなことを聞く教員はいないので、だから、それはそういうふうに皆で集団守秘義務としてやれるのではないかなと思う。
 基本的には、先ほどのアンケートもそうだけれど、そういうふうに言うんだというインフォームド・コンセントの上に成り立てば、子供たちの信用は得ることができるのではないか。もう一つは、守ると言われても、実際には守ってもらっていない。そういうふうにいじめられて、僕はつらいと先生に言って、物を隠されるといったときに、教室で集団指導して、「おまえら、人の物を隠しちゃいけない」といって、次の夕方にはもう隠されてしまう。だから、そこのところで絶対に隠させないというふうな大人としての責任を果たさないと、あの子たちに口先で、「困ったことがあったら言えよ。俺が守る」、それは言っても、そういうふうに全然何も変わらない、隠されるのがもっとひどくなったら、それは子供たちは大人を信用できないだろう。
 そのときに守るといったら、もう全霊をかけて守らなければいけないと思う。そのことに関しては、警察の力を借りてでも守るということが重要になってくるのではないか。犯人捜しという意味ではなく。だから、そこのところを子供たちとの信用で、守るということが本当に守れるのか。例えば目の前で、廊下でプロレスごっこといって殴られている子がいるのに、プロレスごっこですといっても、遊びであっても、そこまで殴っちゃいかんということで止めることができるのかどうか。それは遊びです、プロレスごっこですといったら、度を超すなよぐらいのことで、あと、殴られている子に、「おまえ大丈夫か」「大丈夫です」といったというから、あれは遊びですぐらいの感覚でおったら、難しいだろう。
 それは大人として、鼻血を出しているのなら、「遊びでもやっちゃいかん」とか言って、きちんと止めることができないと、そこのところの資質があるのではないか。
 それと、あと先ほど言われた、保護者の方と学校なり、いろいろなところとの時間的な差があるのではないかということについて。保護者からすると、我が子がいじめられているのに、今から事情聴取して事実かどうかみたいなことをやられるよりも、まずは守ってほしい。先ほど座長が言われたように、まずは救済。このことがどれだけきちっとできて、その次にいろいろなことの対応ができていくのではないかなというふうに思う。まず、守るということ、もういじめはさせないと。
 ただ、私がいろいろなところで講演したときによく聞く、先生方にも言われるところが、「でも、やられる方にも原因がある」と言われる。いじめられる方にも。だけど、これがこの法律の一番重要なところで、意図してやったかどうかは別にしても、幾らその子に落ち度があっても、いじめてはいけないんだ。その子がルールを守らなくても、みんなで仲間外れにしてはいけない。
 ということを徹底しないと、よく加害者の保護者も言われるけど、「あの子もそういうことをするから、やられてもしようがない」と言われるけど、そういうことがあっても、やはりやってはいけないということを徹底しないと。特に教員の先生方で時々言われる方が。それは日常生活の授業をやっていて、その子がいろいろな迷惑を掛けて、先生も先ほど当事者と言われた、先生は直接いじめることはないかもしれないけど、そうやって、この子がやられてもしようがないということの心情になられたときにでも、やはり守ってやって、絶対にさせないというところがないと僕は難しいのではないかなというふうに考える。
【座長】  どんな僅かなことでも記録をとっておく、これは非常に重要なこと。リスク管理として、これはもう当然のことで、保護者に対して説得するときにも大切な資料となる。これはうそを言っているんじゃないかとか、そんな解釈はよろしい。事実を客観的にメモで、きっちりと僅かなところを押さえて、記録をとっておく。これは非常に大事なところだと思う。事実に即することがやはり保護者との信頼関係を再構築する基本だろう。保護者が、「いや、うちの子に限って」という思いを、事実に照らしつつ理解を得ていくことは非常に大事なことだと思うので、それは是非ともやっていただきたいと思う。
 それから、守秘義務は、やはりさすがスクールカウンセラーを長年やっていらっしゃって、心構えとして大変いいのだが、やはりスクールカウンセラーは子供と、場合によっては保護者といろいろと接触する。そのときに対学校との間に入っていただいて、聞くだけ、秘密は守りますよとか、信頼を得るだけではなく、そこから、更に一歩踏み込んでいただき、学校側の情報の扱いについても、また、子供への対応の仕方まで含めてスクールカウンセラーの方に関わっていただいて、学校と調整していただきながら、今の守秘義務だ、絶対言ってくれては困るよという事案についての扱いというものについても、やはりスクールカウンセラー、あるいはスクールソーシャルワーカーの方々の協力を得ながら対応していく体制を整えていく。やはりそれが必要ではないかなと思う。
 守秘義務は、当然、公務員だから、全部守られなければいけない、本当はそんなことあってはいけないが、あの子がどうだとかということを教員が守秘義務のない人にしゃべってしまうということはけしからんこと。それはもう前提としてやってはいけない。しかし、その上で、あえて子供の健全な成長を図る上で大切だという場合には、子供が先生に言わないでくれといったとしても、やはり踏み込んでいただく必要がある場合もあるかと。
【委員】  今、御指摘いただいた、正にそのとおり。私たちの仕事は、子供たちと先生とか、保護者と学校であるとか、あるいは子供と保護者であるとか、そういうところのいろいろうまくいかないコミュニケーションのずれみたいなものを修正しつつ、うまくつなげていくのが大きな目的になるので、単なる聞いたから言うだけではなく、そのことを解決できるように一緒に力を合わせていくというのは、すごく大きな問題になるかなというふうには思う。
【座長】  スクールカウンセラーの方々に聞くと、よくそういう意見が出てくる。子供に言ってはいけないと言われたから、絶対に学校には言わない、報告もしないということをおっしゃる方が随分いらっしゃるので、ちょっとその辺が少し気になったので。
【委員】  スクールカウンセラーを養成している我々のまずさだろうと。
【委員】  一点よろしいか。私が校長として、そういう場合にお願いするのは、解決するために何が必要かということを考えてほしいというお願いをする。私としては、ここの部分が分からないと判断のしようがないので、子供が黙ってくれと言ったかもしれないけれども、もう一度、子供に聞いてください。このことについては、校長にこういうことだよということを話さない限り、解決の道がないということを子供に説得して、ある程度のところをお教えいただきたいというお願いをする。それは可能なんだろうというふうに思う。
【委員】  だから、先ほども言ったように、子供がそういうふうに言ったときには、やっぱり学校の先生たちの力をかりるのが大切だということで伝えるのが一番いい方法だということは言う。
【委員】  学校基本方針についてよろしいか。法律ができて、私が非常に楽しみにしたのは学校基本方針がどうなるかということ。それで、できた頃いろいろ見たが、正直言ってがっかり。先ほど言われたように、いじめはいけないよぐらいの話のものが多い。
 ところが、虐待の死亡事例検証も何例かやっているが、そういうところに関わると、例えば保健センターのガイドライン、それから学校教育現場のガイドラインは、かなり詳細に、そのシステムを書き上げている。こういう場合にはどういうふうにすると。それを基本方針と呼ぶかは別にして、学校にはそれぞれカスタマイズされた組織があるわけだから、その組織がきちんと何かあったときに動くような形の組織図、システムを作っていくという意味で、この学校基本方針、あるいは学校基本方針の下にあるものを、それをきちんと決めていかないと、組織的に対応しましょうねで終わってしまうのではないかというふうに危惧がある。やはり先ほど御指摘のように学校基本方針、あるいは学校基本方針の下のいろいろな組織的なガイドラインだとか、そういうものをきちんと示していく必要があるように思った。これは、余りにも虐待に比べて遅れている、そういう感想を持っている。
( 休憩 )

≪議題(二)重大事態への対応について≫

【座長】  論点整理の三、重大事案について。これもまた先ほどのように一時間の範囲で、発言も少し時間的なことも御配慮の上、論点が随分いろいろ入っているので、よろしくお願いしたい。 
【委員】  重大事態かどうかの判断の基準について。今示された死亡事故の場合にはもう明らかだというふうに思う。
 一番問題なのは、多分、不登校事案で、一応の基準としては三十日長期欠席ということだが、ただ、その間、やっぱり何をもって三十日なのかということは、各現場の中でも、私も実際に学校現場に入って調整した事案で不登校事案というのはとても多く、やはり三十日をどういうふうに計算するのかというのは、個々具体的にいろいろなケースがあるので、学校としては苦慮されているようだ。
 ただし、三十日の基準ということがあることによって、ここはどこかで線引きをして、ちゃんと仕切り直しをしなければいけないなという学校の対応、モチベーションとしては、やはりある程度の基準があるということはとても重要だ。
 ただ、ここで御指摘のように数値的なものを示してしまうと、そこに達しないものは重大事態ではないという弊害を生むのであれば、これはやっぱり非常に大きな問題かなと。その意味で、対応の必要性の問題と、それから、先ほど御報告の中でもあった、御遺族、御家族の対応の要望とどのように折り合いを付けるのかということであるように思う。
 いじめ一般についても、いじめだから対応するというわけではなく、対応しているものが実はいじめなんだということなんだろうというふうに思うので、その意味では、様々起こっている事象の対応の必要性と、やはり家族が対応してほしい、あるいは子供が対応してほしいと思う、その要望の折り合いをどう付けるのかということがとても大事であるように感じた。
 (二)の方は、先ほど御指摘があったので、私もそのとおりだなというふうに思った次第なので、特にコメントはない。
 それから、二十八条の重大事態の調査に当たって十四条三項の教育委員会設置の附属機関の問題について。第三者性という意味では第三者委員を選んでいるのだから、その第三者性に陰りがあるというのはおかしな話だなというふうに思う。しかし、一方で、例えば天童市の場合には、いじめ防止対策推進法が施行されて間もなくの事件だったので、もともとそういう常設の委員会が出来上がっていなかったと。しかも、御家族、御遺族の方が学校であるとか、あるいは地域、例えば山形県であれば山形大学というのが学校の教員になる人が多いので、やっぱり地元は信用ができないというふうにちょっと不信感を持たれていたところもあって、それで、委員選任に当たってかなりの時間をとったということがあった。
 そういうことは当然あり得る話で、その意味では、常設よりもアドホックの方がいい場合もあるというふうに思うこともある。ただし一方で、やはり機動的にいろいろ話をする、特に子供についてはなるべく早く聞いてあげないと、いろいろ記憶が重ねられたり、あるいは自分で言ったことが違う、うそをついていなくても、それが確信に変わっていくということもあるので、やはりなるべく早く対応した方がいいということであれば、やっぱり十四条三項の委員会をベースにするしかないかなと思う。
 ただし、ここは、第三者性という問題よりも、事件によってどういう専門性のある人が必要なのかという観点がやはり重要だと思っていて、ケースによって、それこそ医学とか心理学の人がたくさんいた方がいいだろうという場合もあるだろうし、法律家がたくさんいた方がいいよねという場合もあるだろうと。そうすると、やはり事件のケースによって専門性をどういうふうに担保するのかという観点から、臨時委員であるとか、補充できるような体制をきちんととっておいて、その観点で委員を入れていくという形で、それを補充していくということがとても重要かなというふうに思った次第。
【委員】  四ページの四角の中について。数値的な部分ということに関して示すか示さないかということにもつながるかと思う。例えば二十八条の一、「いじめにより当該学校に在籍する児童等の生命、心身又は財産に重大な被害が生じた疑いがあると認めるとき」、この文の中で疑いがあると認めるときというのがかなり広い範囲、そういう兆候がある、あるいはその可能性、危険性があるということで非常に分かりやすいとは思うが、ここで言う重大な被害、この重大な被害を、御意見の中にもあったように、では、金額で言えば幾らまでかという非常に難しい部分が判断基準に出てきてしまうのかなというふうに思っている。
 だからといって重大という言葉を具体的にけがの程度であったりとか、そういうのは非常に難しいし、まず一つ、こういった、ある意味、抽象的な表現があるということ。
 同じく二番で、「相当の期間学校を欠席する」。これがやはり、では、何日というふうになるが、これこそ逆に考えたときに、学校現場ではしっかりここを見極めなくてはいけないのかなと。要するに三日であったとしても、そこに起因するものであれば、それはそうだろうし、その辺の数値をあえておかないけども、こういった表現を用いているというところを、それぞれの情勢をしっかり把握しながらつかんでいく。
 そして、最終的には、多い少ないではなく、最後に示されているように「疑いがあると認めるとき」。この疑いがあるというところをしっかり徹底して学校が対応しなければいけないのかなというところに尽きるのかなということで、その部分だけ申し上げまる。
【委員】  数値的なものをというところで言うと、やはり先ほど先生がおっしゃったような部分で、個々の子供たち、保護者のいろいろな背景があるので、なかなか難しい部分があるのかなと。むしろ、概念的な部分である程度把握していくことの方がよいのではないのかなというふうに考える。
 重大な事態というと、最悪なケースは自殺であったり、殺人であったりということだろう。私は、長崎県に住んでいる。十数年前に中学校一年生の子が三歳の子を駐車場から突き落とすという事案があり、当時は保護者会にもまだ関わっておらず、地域で何が起きて、どういうふうに動いてきたかというのは見ていた。
 一番大変だったのは、学校もそうだが、当該児童と周りの子供たちに対するいろいろなマスコミ関係の取材、あと、分からないようにはしてあるけれども、大体、地域の人が見れば分かるところで、取材が殺到したりしたことに対して地域、学校、保護者が全力で、その子たちを守るというような動きがあった。このようなことに関して、どのような取組をしていくのかというのは重要ではないのかなというふうに思うので、最悪のケースを考えた場合は、そういったところも必要かなというふうに思っている。
【委員】  数値的なものを示すということについて。私も今まで出ているように数値的にはっきり示すと、学校はそれに縛られて、それ以外はどうなのというような判断もされるので、やはり数値はどうなのかなというふうに思っている。
 よく学校では評価基準という言葉を最後使う。評価基準には二つあり、評価基準の「き」の字がちょっと違う。評価基準という基本の「基」が書いてある評価基準というのは数値的に示していく。例えば五、四、三、二、一とはっきり示していく場合は基準を使う。しかし、規準というのもある。判断規準の規準、そういう場合は言葉で、大体こういう感じと示す規準を使う。
 だから、私は、どちらかというと数値的に示す基準よりも、判断規準の規準の方を使った方が、学校としてはぴしっと決めないで、もうちょっと大きな枠の中で判断できるのかなということで、この数値よりも規準という感じで示していった方がいいかなというふうには思っている。
【委員】  重大事態の基準や例示というのは、不該当の弁解に使われてしまう恐れというのはあるような気がして、余り好ましくないのかなとは思う。事態の中で重大性というのを考えて判断していただく、それぞれの被害の状況というのはあるのだろうと思うので、それは、そういうふうに考えていただいた方がいいのかなというふうに思う。
 それから、(二)の方の「重大事態一件」という言葉が独り歩きしてしまい、誤解を与えかねないという危惧について。そうならないような形で、やはり重大事態の疑いがあって、これは本当に深刻な事態、重大事態というから重い事案ではあるけれども、今もお話があったように自殺とか、もう究極的なことに至らないようにするために疑いの段階から、こうやっているんだよということが社会的に、学校の地域の人たちにも分かってもらうような、そういうものだという説明があれば、こういうふうな独り歩きするとかなんとかということの心配はなくなるのではないかなと思う。そういった観点からやはり考えていく、あるいは誤解を解いたり、そういう誤解が生じないようにしていくことが地域の学校の保護者たちとの信頼関係を作っていくということにもつながっていくことにつながるのではないかと感じた。
 それから、(三)の十四条三項の教育委員会に設置される附属機関が重大事態について調査をしていくと、第三者性を担保する観点から問題があるのではないかという意見は、そこのところの設置される附属機関にそもそも第三者性というものを入れながら作っておられると思っている。しかし、もし、そこの第三者性の担保の観点で必要があるのであれば、さっき委員の方からも御指摘があった、事案に対応した第三者を補充していくことで、回避ができたりするのではないかなというふうに思った。
 それから、情報提供のガイドラインの問題については、適切なガイドラインであればいいだろうが、ただ、情報提供の関係の問題でいくと、実際に例えば第三者機関で重大事態の調査をやっている中で信頼関係も作りながら情報提供していくときに、やっぱりその後の調査、あるいはアンケート調査にしても、そういう調査に対して阻害要因になってしまうような提供の仕方ということについては慎重であるべき問題がある。その辺については、説明をしながら、信頼関係を得ながら、適切な情報を提供していくということを考えていかざるを得ないのかなというふうに思った。
 あと、教育委員会事務局の(五)のところについて、そういうことになってしまっているところがあるということについては、そういう実態があるのであれば、ちょっとそういう実態の方をむしろ教えていただいて、どうしてそうなっているのかというあたりを解明していく必要があるのかなというふうに思った次第。
【委員】  重大事態ということで、もう自殺とか、そういうことになれば、当然、そういうことを考えていかなければいけない、いろんなことをしなければいけないと思う。そのときに本来の目的は、そういう悲劇を繰り返さないということが一つの大きな目的で、この原点が非常に重要なのではないかな。その重大事態、自殺に対して、かたき討ちであったりとか、そういうことになると、ちょっと目的が変わってくるのではないかな、原点に返ることが必要じゃないかなというようなことを思う。
 学校とか社会、そういう組織の中では、そういう数字ということがいろいろ評価されるんだなということを改めてまた感じた。私自身は、不登校で、一応、定義として三十日以上休んでいる子供たちがどうして学校に来ないのかなといろいろ聞いたときに、嫌な人がいる、いじめられている、そういうことを言ったときに、それだけで学校に来ないのであれば、何とか力になれるというか、そういう物を隠したりはさせない、あるいは、あなたに対して悪口を言うことはさせない、それは学校が守ってくれるということができる。しかし、不登校のお子さんたちというのは、それだけでなかなか学校に来られないということではないので、学校に原因というか、行かれない大きな要因が学校にある場合と、家庭環境にいろいろ悩みがあって、学校に行けないということもある。
 よく素人の方が、「家が嫌だったら学校に行くだろう」と言われるが、非行の子はゲームセンターに行くかもしれない。しかし、神経症的に悩んでいる、そういう子供たちは、家で様々なストレスがあったときに、その家にいるので、だから、それは一概に言えないと思う。でも、あの子たちが様々な理由から、単独のいじめられたという理由だけではなしに、学校に行けないというときにいろいろ理由を聞いたときに、何々君が嫌だとか、いじめられたとかということを言う子はたくさんいるので、その子たちに関わるときに、これを重大事態とするのかということでは、はっきり申して自分自身は非常に苦労している。これを重大事態にしなければいけないのかというのを非常に思う。
 もう一つの側面から言うと、親御さんが介入してこられて、「あの子にいじめられて、うちの子は学校に行けない」ということを、裁判するぞというようなことを言われるけど、それは本当にそうなのかとか、いろいろあるので、自殺の場合には、きちんと精査して、そういう悲劇が起こらないようにをしなければいけないと思うけれど、不登校の三十日以上というところは、現場で関わっているときに支援の仕方としては非常に苦労しているというのが本音である。
 もう一つ、是非御理解いただきたいのは、そういうアドホックみたいな委員会、臨時的な、第三者ということになる。はっきり申し上げて、そういう職能団体として心理職の人間を委員に選んでいただく必要があるが、地方とか人数が少ないところになると、委員の選出に苦慮しておるのが実情。
 全国の会長さんとか、みんなから、そういう委員ということで、臨床心理士会にと言われるけれど、なかなかそれは難しいと言われる。誰を推薦すればいいのか。余りにもスクールカウンセラーとかいうことを無知でも難しいし、かといって精通し過ぎて、現在もスクールカウンセラーやっている人が第三者になれるというのも難しいと思う。今、正直なところ、我々の臨床心理士会では、そういう第三者委員会に推薦できる人たちを趣旨も考えて構築していこうとしている。
 例えば、その県ではなく隣の県から行くようなことも考えようと、いろいろ今、議論している状況。職能団体として推薦するということに物すごく苦労が多くある。いろんな方から文句ということはないけれど、批判も受ける。ただ、そういうとき、いつも言っている、この第三者委員会に心理職が入らないことが考えられるのかと言うと、「じゃ、おまえ行けよ」と言われるから、「じゃあ、行きます」といったら、教育委員会の方から、「各駅停車で来られるぐらいの距離の人をお願いします」と言われる。僕は新幹線で行くようになるから、僕は来るなと言われたけれど、現実的には、この方を選ぶというのは難しい問題。しかし、これも難しい難しいといっていても解決しないので、何らかの形で、そういうシステムは構築していこうというふうに思っているが、現在、正直言って、そのシステムはまだないということである。
【委員】  重大事態を細かく定義しようとすればするほど、時に重大な事態に発展する可能性を切り落として、大事なところを見なくなることにならないように注意することが大事だと思う。だから、重大事態を判断するときに、基準を細かく決める以上に、重大事態にならないように、手前の段階、疑いの段階で、見落とさないために早めに調査をするということだと思う。やはり日頃から重大事態がどんなものかということを考える以上に、重大事態になってしまった事例とか、いじめ対応組織のようなチームで対応した事例を学びながら、見落としたことがどのような結果につながったのかを学ぶことで、重大事態にならないように取り組んでいくべきだと思う。
 それと、「重大事態一件」という数字が独り歩きするのはいかがなものかというお考えはとてもよく分かる。ただ、重大事態の疑いの段階から上げていこうという背景には、大きな死亡事件とか自殺になった手前の段階でなかなか気が付かなかったり、訴えがあってもちゃんとした調査をしてもらえなかったりとか、小さな芽の段階で気付けなかったことによって、結果的に重大事態につながったという悲しい事例が多数あったということを忘れてはいけないと思う。
 数値が独り歩きということを心配されるのであれば、過去のこともちゃんと見詰めながら取り組んでいること。学校、教育委員会は、過去のこういうことをちゃんと見据えて、取り組みをした結果で、数値が上がっていると説明していくべきと思う。
 ただ、統計のとり方として、その数字がずっと残っていくことに問題があるのだとすれば、そこは一考を要するかなと思う。
【委員】  一つ、四ページの方の三の重大事態への対応についての二の疑いがあるというのがあるが、これ、やっぱり広義の意味で意味がとれるといいなというふうに思う。疑いがあるというのは、ちょっと厳しいような感じもするが、それが一点。
 それから、不登校について。不登校三十日というのは、その子が抱えているいろんな問題がある。私も校長をしているときに、子供を迎えに行った。初めは会ってくれない。門払い。しかし、年中、校長先生来るのよという伝言が伝わると、開けてくれた。それで、また一週間、二週間続けると、会話ができるようになった。その先は、今度はもう教員に行ってもらったけれども、何とか三十日のクリアは低くすることができた。しかし、この人数を全国で勘定してみると、相当な数だ。万を十分超える。そして、それが全部、重大事態に入ってくるとなると、これは大変な問題なので、やはりこの辺は、不登校の症状によって、中身によってかなり違う。
 これは、対応と指導によって幾分改善される向きもあるというふうに私は考える。また、教育相談員もやったことがあるので、学校に行かない子、相談室まで来てもらったり、あるいは学校の保健室に来てもらったりしながら、将棋をやって帰ってもらったり、いろんなことをやった。そうしたら、二、三人は戻ることができた。
 そういうようなことで、指導と対応によって、ある程度改善はできると思う。しかし、原因はいじめではない。だから、その辺が全部含まれて、これに対応してカウントされていくと相当の数になってくるので、この辺はやはり考慮すべきかなというふうに思う。やはり不登校について重大事態という中に含めた方がいいのかどうか、改善するのができるのかどうか、そんなところも今後考えていけたらなというふうに思っている。
【委員】  不登校に関しては、不登校の背景にいじめがあるということだよね。いじめが背景で学校へ行けない状態の場合には、とても重大な問題だろうと思う。
 しかし、先ほど言われたように、全部いじめというふうなことで言っても、そうではない背景もたくさんあるというのが不登校の難しいところかなというふうに思うが、基本的にはいじめがはっきりと背景にあって登校できないということだと思う。
【座長】  事務局にお尋ねする。この重大という判断について。これは素人の解釈だけれども、法律のいじめの定義にのっとっていけば、四つの定義要件がある。児童生徒、それから一定の人間関係、それから影響を与える行為、そして苦痛を感じていること。この要件に照らすと、重大というのは周りだけで判断して決めていいものかどうか。つまり、当人の苦痛を感じているという、この要件に照らせば、その苦痛の当人の深刻度を考えていかざるを得ないのではないか、法のたてつけからいくと、そこから重大さというのが出てくるのではないかと。
 しかも、文部科学省の問題行動等調査では、平成十七年度までは「深刻な苦痛」というのを判断基準としておいていたけれども、「深刻な」というのを外し、そして、いじめ法では「心身の苦痛」となった。十八年以降も、深刻、あるいは軽微だという判断は外している。この深刻さの判断を外したのは、苦痛という、この当人の受け止め方が重要な要素になってくるからである。だからこそ重大事案については、周りの判断のみによって決まるものではないと私は思っている。そこのところ、やっぱり被害者の受け止め方を入れていかないと、先ほどおっしゃったように、いじめが疑われる段階から、あるいは気付きの段階からとんでもないものへ発展していくという可能性を防ぐことはできない。なお、重大事態については、法にのっとって被害側が申告したときに、教育委員会、あるいは首長が調査機関を設け調査を行うことができるというぐあいになっている。
 だから、そこのところでもやっぱり重大事案に関しての調査、再調査と言われるものに、今の四要件の最後の被害を受けた当人の苦痛という状況が組み込まれているのではなかろうかというぐあいに考える。
 となると、重大というのは、単なる客観的な数値で、金銭だったら何万円以上だとか、あるいは身体だったら全治何日以上だとか、こういう客観的な基準や周りの人間の判断だけでは決められない。百円の被害に遭っても何でもない子供と、それから、大変深刻に受け止めて、屈辱感でいっぱいになる子供だっているわけで、被害者の判断は入れておかないと、この重大というところには問題が残るだろう。
 だから、単に数値だけで、それをどうだこうだというぐあいには決められない問題が、定義上発生してくるのではなかろうかと思うのだが、事務局の方では、どういうぐあいに解釈しておられるのだろうか。
【事務局】  正におっしゃるとおり。実は法律的にいじめの認知自体は四要件である。四要件は何らかの行為がなくてはいけない、そして苦痛を感じると。行為が意図的、意図的ではなくても、苦痛を感じたら、それはいじめであるということは全て学校は受け止めないといけない。
 この重大事態の場合は、重大な被害という言い方をしている。だから、具体の被害の発生というのを分離解釈上は何か想定して、ただし、御議論があったように、被害を金額とか、加療日数とか、具体的な数値で決め過ぎると、それをちょっと下回れば、もう関係ないということで、非常によくない結果になるということで、我々は示さない方がいいという方向性に昨年度の議論でもなった。百円でも十円でも、しかし、何か発生していないと、財産的な被害があったというのは多分言えないと。
 ただし、本人がどうそれで感じたか。一万円でも平気な方もいるかもしれないけど、百円でも物すごい苦痛ということも考えられる。多分、何らかの被害が発生したことと本人の主観的苦痛の度合いというもの。あと、そういうのがなくても客観的に十万円とられた、本人はへっちゃらだといっても、これはどう考えても重大な被害だというのは、本人の主観とは別に認定しなくてはいけない場合も多分あり得るということを考えないといけないと思う。
 もう一つ考えなくてはいけないのは、基本方針で、保護者、児童生徒が申し立てた場合、重大事態に至ったという場合は、重大事態ではないと学校側は考えたとしてもちゃんと調査に当たるとなっている。だけれども、重大な事態というのが、ちょっと定義が明確でないということ。特に法律の文言だから、それを全ての保護者や児童生徒が理解して、これは重大だとか、重大じゃないというのは言えないというところが、これは少し課題だという認識がある。そうなると、先ほどのいじめ重大もそうだが、相談があったとき、訴えのときに、いじめだといったら、いじめである。これは分かりやすい。では、いじめではない言い方をした場合は、これはカウントしないということも現れてしまうということ。だから、さっきみたいに全部受け止めるということが大事。
 重大事態の場合は、一見軽微に見えても、申立人が自分の重大事態だといったら、恐らくそれはもう受け止めるしかない。ただし、そうなると、疑いの段階で基本的に第三者調査、首長への報告等が伴ってくるということになるので、その辺、実態、現場からは受け止めた後の対応の重さで戸惑いがあるということから、これ、ちょっとぐるぐる回ってしまう。そのあたりについて、更に御意見を頂ければと思う。
【委員】  今のお話を伺って、重大な被害であったり、相当な期間の欠席というのは、事象というか、現象だと思う。むしろ、それに伴う調査等については、いじめによるかどうか。冒頭にあるいじめにより、こういうところに至ったというところが、恐らく学校現場にとっては確認をしなければいけない一番重要というか、そこが主なのかなというふうに感じた。
 では、先ほどちょっと申し上げた数値的な部分というのは、やはり学校の中のそれぞれの置かれている状況の中で申合せというような、内規にも至らない、状況も刻々と変わる、そういった中でのそれぞれが持つ一つの基準。先ほど判断規準という言葉、分かりやすいなと思った。これは、数字が何日以上とか、何円とか、そういうことではなく、やっぱり学校として一つの方針は持つべきなのかなというふうに感じた。もちろん、それは常に一定の数字ではなくて、場面場面で変わっていくものなのかなと。
 こういったことに関して、後付けのいろんなことなのかなというふうに感じている。と言うのは、やはり初期段階でいろんな配備、これはほとんど難しいのかなと。
 そういった中で、特に設置者との連携はしなければいけないとは思う。第三者の対応、あるいは外部、恐らく警察とかも含めての話になると思うが、こういったところは、例えばさっきのマニュアルに従って、一万円被害があったから、全部そこに至らなければいけない。設置者への報告、教育委員会の報告は当然するけども、これはなかなか難しい事項になってしまう。
 だから、本当にやらなければいけないことは、いじめによるかよらないか。全てがいじめということはあり得ないと思う。複合的な原因、要因があると思う。少なくともその中にいじめが関わっているかいないかということをしっかり見極めるというのが、この条文というか、一番大切なところなのかなと。
【委員】  重大事態というふうに判断するかどうかということについて。要するに二十八条以下の仕組みを動かしていくための定義とは何なのかということなんだろうと思う。その意味では、やっぱり教育委員会、又は学校の下に置かれた組織において、第三者的にそれを調査して対応を決めていくためにはどういう定義をそこに持ってくればいいのか。重大事態、法律用語で重大明白というのは、では、その重大明白って何なのかといったときに、結局、よく分からない。重大明白といっているだけの話で、実際にケース・バイ・ケースで、いわゆる統一的な解釈基準というのはなかなか作りにくいというのが現状だと思う。
 その意味では、二十八条の仕組みを動かすための定義として、この重大事態をどのように捉えたらいいのかという発想でやっぱり考えなければいけないとは思っている。その意味では、やっぱり対応の必要性、先ほど課長からお話があった、例えば十万円とられれば、これは本人がどう思おうが、相当対応の必要があるよねという、それは対応の必要だと思う。
 それと、先ほど家族だとか、それから本人の要望との折り合いを付けるべきだというお話をさせていただいたが、それはやっぱり被害感情の問題なんだろうと思う。ただ、被害感情が非常に強かったとしても、単に一日、二日休んだというので、例えば不登校の重大事態と言えるかどうかという問題も当然あるので、その意味では折り合いという言い方をした。ややざくっとしているが、そういう解釈基準が背景にあるということを念頭に置いた上で、例えば三十日間を標準だというふうに考えておけば、三十日間に達する達しない、一日に達しなかったからどうだという話には多分ならないんだろうなと。
 そういう意味では、標準的な基準、あるいは標準を示すということは、ある程度あってもいいかなというふうに私は思っている。特に学校なんかに交渉に行くときに、「これは三十日超えていますよね、重大事態ですよね」というふうに校長先生とお話をすると、「そうです。これは三十日超えています、重大事態です」と。その時点で学校と対立関係ではなく、共通の同じ方向を向くことが交渉でもできる。いじめかいじめではないか、重大事態か重大事態ではないかということを窓口でやり合っても仕方のない話で、子供や親から相談を受けて学校に交渉に行こうとしたときに、「長期不登校になっている。これは三十日不登校だから、示された基準だと重大事態ですよね」というふうにお話をすると、「そうです」と。そうですと言われた途端に同じ方向を向くことができるので、その意味では解決の糸口になるので、ある程度の標準は示した方がいいかなと思う。
 ただ、金額はなかなか難しいかなと思う。
【座長】  第三者委員会の中立性というところも議論として残っている。先ほど委員が各駅停車とおっしゃった地域、そこは人材がなかなか得られないというところだが、文科省の基本方針を決めるときの議論でも懸念されていたこと。先ほど委員がおっしゃったように学校が当事者だというぐあいにしてしまうと、学校、あるいはそれを指導監督する教育委員会は関われなくなる。だけど、人材が不足していれば、学校の先生といじめの当事者間と利害関係がなければ、その先生方に調査委員会の委員になっていただくということもありだよという議論があった。
 やはり人材の、十分にマンパワーがあるところはいいが、ないところは、どうしてもそうせざるを得ない。となると、今の当事者性というのは非常に難しい議論になってしまう。そこのところは一つ切り離して、当事者というのはやっぱりいじめに関わった被害、加害という関係との利害関係というところに線を引いておかないと、現実には運用が不可能になってしまうというところが出てくるのではないかと思う。
 だから、中立性というのは、当事者と直接の利害関係がないというところで担保するという形でないと、大都市以外の小さなところでは、この第三者委員会がなかなかできない。
 それから、第三者委員会が重大事態としてやるとしても、これ、文部科学省どうか。大体、委員会は設置要綱というのがあるのが通例と思われる。そうすると、委員会を設置する理由があるはず。そこに重大事態というものの判断をやはり入れていただくということは十分必要だろうと。その判断に妥当性が欠けるとしたら、やはりそこのところで一定の折り合いなり、調整なり、あるいはまたそこのところで争うという事態が出てくるのではなかろうか。それが明確にされないままに事案だけをもって、重大だ、重大ではないという設置要綱になっているから、問題がかえって複雑になってしまうというところがあるのではなかろうかなというぐあいに私は思っている。
【委員】  誤解があったかもしれない。いじめの問題は必ず学校が当事者だというふうに申し上げているわけではなく、学校が当事者性が非常に強くなっているケースが結構あるので、その場合に学校の中における組織で、これを何とかしようとしても、やっぱり納得できない部分があるので、そういうケースについては教育委員会に設置される第三者委員会という形をとらないと難しいだろうというふうに思っているということである。
【委員】  私も同じような感覚で捉えている。要するにある段階までの調査は、当然、アンケート等含めて学校がすべきことである。ところが、その次の段階で、正に当事者になっている危険性があるわけだから、少なくとも全体の指揮については学校ではなく、第三者的なものに委ねなければいけない。そのタイミングがいつかというのは非常に難しい。そここそ正に重大事態か、そうでないかという一つの分かれ道になるのかなと思っているので、それは危険性というか可能性、そういうことになるおそれというか、その部分、先ほど何回も申し上げている法律の部分、そこが分岐点なのかなというふうに感じている。
 学校が最後まで、そういった指揮をすることは、正直、非常に難しいのかなと思っている。ただ、指導を受けながら生徒等(ら)の聞き取りであったりとか、そういった調査をするのは当然、当事者である学校で間違いないのかなとも思っている。
【委員】  不登校の子供たちもいきなり三十日休む者もおれば、時々休む者もいる。そういう休みがあったときに、もう学校の先生たちが三日休んだら訪問されて、隣家とか、いろいろな様子からの情報収集をされると思う。そのときに何らかの形でちょっと友達関係がうまくいかないとかいったときに、そこの支援がうまくいけば来るのかもしれないが、うまくいっていないから、ずるずる三十日休む。そのことがいじめられて、不当な扱いを受けて学校に行けないということになったら重大な人権侵害で、重大な問題だろうというふうに思う。
 ただ、本人がいろんなことで悩んで行けないのは別。実際にいじめられて、物を隠されて、物をとられて、そのことを回避するために登校できないと言えば、重要ではないかと思う。
 ただ、自殺なんかは、そういうふうに学校にいかないような形でサインを出してくれればいいが、出さずに学校へ行って、いきなり限界に来たときに自殺だから、不登校もいきなりではないけれど、僕は重大というか、うまく指導ができていない、保護できていないということでは、やっぱり重大だろうというふうに思った。
 そして、親も本人もいろいろ学校にそういう支援を求めるが、その期待する支援が得られないから不信感があって、そこで第三者委員会をということになるから、先ほど言われたような当事者になってしまうのではないか。
【委員】  やっぱり職能団体側の問題も大きいと思う。今、日弁連は割と組織的にいじめの問題、議論をしていて、どういうふうに委員を推薦していくのかということについてのガイドラインを各単位会に全部流している。例えば私、教育法学会というところにも入っており、天童市の場合には学会指定で推薦してほしいというふうになっていた。その中に教育法学会も入っており、教育学会とか、幾つかの教育関係学会の中でということで、教育法学会に来た。しかし、その時点では、どういう委員を推薦するかという体制は全くできていなかった。
 しかし、一回そういうことがあると、理事をやっているという関係もあって、その議論を見ていると、要はどういう形で委員を推薦していくのかということは、やっぱり理事会、あるいは事務局マターとして議論されている。一方で、例えば戸惑いを覚えるというふうによく言われているのは、心理臨床学会、臨床心理学会、両方あるだろうが、その学会でどういうふうに推薦するのかとか、あるいはお医者さんで、児童精神学会で、それはどういうふうに推薦するのか。このあたりが、特にお医者さんのところは、全くそういう議論がないのだというふうに、同じく推薦を受けてこられた先生が言っておられて、そこの職能団体にどういうふうに国の議論として影響を与えていくのか。つまり、学会は学会活動だけれども、社会的な問題として、こういう問題を学会推薦でやってもらうということの認識を学会の中に広げていくということがとても大事なのかなというふうには常々思っている。
【委員】  専門職団体として一言お話しさせていただく。やはり地方によって推薦できる人が近くにいないという場合もあろうかと思う。大きな事件があったりした場合には他県から推薦するのも含めて、体制を作っていこうと考えている。
 実際に適切な人を推薦できるかも含めて、遺族の方がおっしゃっているように、第三者をちゃんと入れるべき事案は必ずあるし、適切な人を推薦できる仕組み作りをして、専門職として関わる、コミットする姿勢で準備をする。そういう取組があって初めて生きてくるものかなと思う。
【委員】  職能団体の方の推薦、地元のところからなかなか確保しにくいという問題の中で、日弁連の方でも推薦要請があれば近くの地元会か、その周辺のところからの人で適切な人がいないかということで、人選して推薦するような形をしている。しかし、それでもやっぱり近くで動ける人がいないということになると、一定の距離が出てきて、さっきの各駅停車で来てくださいという話ではないが、結局、費用の問題というのが出てきて、事案によっては自治体にとってはすごく大きな負担になってくるという問題が出てくる場合もあるのかなと。
 その辺のところをどうするのかということはちょっと考えないと、地方によって、しっかりした第三者性を持った専門家が入った調査委員会ができるかどうかということが、それが偏りがあってはいけないのかなと。その辺のところの対策も考えないといけないかなと思って、ちょっと発言させていただいた。
【座長】  事務局にお尋ねする。
 文部科学省では、一応、助成の予算を、そういう専門家に、調査委員会を開くときには持っていると聞いている。案外、その辺のところの費用は知られていないところだろうと思う。実際には弁護士さんだとかお医者さんは、費用単価が我々学識経験者とはレベルが全然違うので、本当の費用弁済が可能かどうか、それは別の問題だけれども、文部科学省では人件費負担等に関しての幾つかの制度を持っていらっしゃると思う。これはしっかりと情宣しておいていただかないと。単に地方自治体で、市町だけが負担しなければいけないという妙な誤解を与えたり、学校関係者の方々も、そういう認識を持ってもらうと困るので、御紹介していただきたい。
【事務局】 国としては地方財政措置として、地方自治体の方が、そういった教育委員会、附属機関等で第三者委員会を立てるときの設置や委員の選任の費用というところも含めて、そういう地方財政措置をしているところ。
 それと加え、予算の事業の方でも第三者含めた外部専門家の活用の事業ということもやっているので、そこで、そういった専門家の方に入っていただいたら、調査とか、アドバイスとかということもできるようになっている。
【座長】  それは地方交付税の形でおりてくるのか、最初の地方財政措置。
【事務局】  最初に申し上げたのは地方交付税の話。
【座長】  地方交付税の範囲か。
【事務局】  はい。
【座長】  で、後の方は?
【事務局】  後の方は予算要求でできる事業である。
【座長】  という仕組みになっており、その辺も少し御理解いただいて、御協力いただきたいというように思っている。
【事務局】  予算事業について、今後の施策の拡充というときにまた御説明をさせていただければと思うが、一点だけ。
 この協議会でも昨年度からいろいろ要望や御提案があったスクールロイヤーについては、今回初めていじめ防止等対策のためのスクールロイヤー活用に関する調査研究事業というのを立て、今、概算要求をしている。まずは三つぐらいの自治体で実証実験をしていって、その有用性とか、あるいは課題、立ち位置はどっちなんだとか、いろいろ課題があるので、そういうものをクリアしていって、大阪府などの既にやっている事例もあるので、そういうことも加味しながら、実際にカウンセラー、ソーシャルワーカーに次ぐ人材として有用かどうかと。法的アドバイスができるということはやはり重要だと思っているので、そういうこともチャレンジしたいということをちょっと御紹介させていただく。


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