道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議第8回会議(平成28年2月9日)における主な意見(未定稿)

【道徳教育の評価と道徳科の評価の関係性について】
○ 道徳の評価といったときには学校における道徳教育の評価、それから1時間1時間特別な教科道徳の授業の評価を考えていく必要があるが、その際何をどのように見ていくのか、そのあたり整理する必要がある。
○ 中教審の答申、あるいは解説でも、道徳教育の評価と道徳科の評価は分けて考えられているので、これら二つはきちっと分けておくことが大切。
○ あくまでも道徳科における評価というのは、道徳科の時間の中における評価であるから、教育活動全体ですることとは別のことであるということを整理する必要がある。
○ 道徳教育の評価及び道徳科の評価では何を評価するのかということはしっかり押さえておく必要がある。
○ 道徳科の評価においても道徳教育の評価においても、児童理解を深める、生徒理解を深めるということとともに、子供たち自身が自己理解を深めていく、そういう効果があると感じている。

【個人内評価について】
○ 個人内評価と言われて思い浮かぶのは、1年間道徳の授業を35時間やっていて、子供たちから明らかに見えてくるのは、例えば感想文一つにしてみても、最初出さない子が1行書いて出してきたとか、量の問題じゃないけれども、そうやって取り組んでみようというような、明らかに変化が見えてくる。そういったことが1年間ためた感想文を見ていると見えてくる。内容に関しても、本当に深く考えたなとか、友達の意見によってこんなことをすごいと思ったとか、そういうようにするのであれば自分はこんなふうにも考えていきたいよというような、人の意見を聞いて自分に取り込んで、またその自分を練っているというような内容とか、そういう意見が出てきたときに、この子の内面が揺れ動いて変わってきているのではないかな、そういう意味で個人内評価を記述したりすることができるのかなと思っている。
○ 個人内評価という点では、発言とか記述とか、そういうところしか見取れない。それに基づいて、その子自身がねらいとする道徳的価値についてどのような考え方を深めていったのか、多面的に思考を深めていったのかということを捉える必要がある。ただ深める、深さという点での評価は大変難しい。それを可能な限り教師がどのように見取れるかというところが勝負。
○ 個人内評価には横断的な個人内評価と縦断的な個人評価があると思っていて、横断的な個人内評価に関しては20あるものを一つだけ全部見ていくという形になるかもしれないし、縦断的だとすれば、何かポートフォリオなりでためておくとか、そういうふうなものがあるかもしれない。その横断的な、縦断的なという二つの形での要素が必要。

【道徳教育の評価について】
○ 教育活動全体で行う道徳教育の評価については、行動の記録等を活用するという実態もあることから、どちらかといえば表れている面というところを積極的に、いわゆる励ましていくというような形で評価することになると考える。
○ 道徳教育については、道徳の内容と関連付けてそれぞれの各教科でも指導されている。その各教科で行われている道徳教育とともに、学校生活全体を通して、どのような変容や行動がなされたかというようなあたりを蓄積していって評価をしていくと、それが総合所見の中の一部にも書かれていくのかなと考える。そういうような評価を進めていく必要があろうかと思う。
○ 道徳性の成長に関わる見取りの部分に関しては1年間のスパンで意図的に道徳教育をしてきて、この道徳の時間以外にいろいろな場面でその子のそういう姿を見ていくと、事実として蓄積されたもののほかに教師が感じ取ったもの、感じ取ったものが危ないと言われたらもう仕方がないが、でも多くの教員は、ああ、この子できるようになったなあというふうに感じながらその子を励ましているので、道徳教育全体に関しての個人内評価ということは、そういう事実の見取りと教師の見取りで行っている。

【道徳科の評価について】
○ 道徳科の教科に関しては目標に関する評価ということになる。道徳的諸価値の理解を基に自己を見つめる、それはいわゆる道徳的価値についての自覚を深めるということであるから、道徳的価値の自覚を深めるという学習に対してどのような状況であったのか、あるいは成長の要素はどのようなものなのかということが、評価の対象になってくるのではないか。道徳科に限っては、やはり道徳的価値の自覚ということを離れてはいけない。そこのところをしっかりと押さえておくことが大切。
○ 観察の中で見取るという思考の深さということをどの程度見取っていくのか、見取れるものなのかどうかということが議論の中心となるのではないか。思考の深さがどの程度前段階から時系列的に高まっていくようなものなのか。一つのものから広がって高まったのかというのもあると思うが、そのようなことを少し見ていく方法を議論した方がいい。
○ パフォーマンス評価といったとき、何か課題を与えてこういう行動ができるようになってきたというようなことは道徳科の評価ではない。道徳科の中にパフォーマンス評価を持ってくるとするならば、問題解決的な学習であるから、問題解決をしたことを評価するのではなくて、問題解決という学習過程を通じて道徳的価値をどのように自覚したのかというところを評価していくべき。
○ 道徳科の授業についてはそれぞれの授業にねらいがある。ねらいに基づいて、子供たちがどのような学習状況であったのかというところを評価する、それが1時間1時間の評価になる。それを35時間蓄積していく中で、年間を通した子供たちの成長の様子であるとか、感じ方、考え方等を総合的に評価していくということになろうかと思う。
○ 道徳科の評価では事例の評価ではなくて資質・能力を育成していくものとしてどう評価するかということを考えるべき。指導要領の中に内容の事項として、例えばAとして、主として自分自身に関することとか、善悪の判断、自立、自由と責任と、こういう項目がいっぱい出ているので、全国の先生にこの項目これを全部扱ってもらうための評価として、まずはそれをやったということが一つの評価だろうと考える。
○ カリキュラム・マネジメントの中で、道徳の時間の教育課程の編成の中で、35週でやるとうちの学校の子供たちはここをもう1回やろうとか、ここが足りていないから2回やろう、3回やろうという、そういう教育課程の編成も含めて、いつどのような項目を取り扱っているか、その実施状況について明確にするということで一つの評価をしていくことが考えられる。
○ 個人の道徳の深さは測定できないというか、してはならないと考える。これが数学とか、理科とか、もっと客観的に深さがもう少し分かるというなら理解できるが、そうではないものは、思考力とか、思考の活用の仕方とか、やはり一つの態度や姿勢や能力を見ている気がする。次の授業への取組の姿勢、あるいは受け止め方というのは、表に出るのは見ているけれども、この思考の深さだけは、何か自分の内面のところに深く入って、これは思考力や活用していく、自分の持っている思考力を現実の道徳の場面でどう活用したかということを見ていく、外に出る形を評価すべきと考える。
○ 道徳科における評価は、外に表れているものではなくて、その時間の中でどんなことを考えたのか、それは道徳のその時間のねらいである。ただしその35時間全ての時間にわたって行うわけではなくて、やはり年間35時間を振り返ったときに、1学期に比べて3学期にはこのような考えということを、例えば授業の中で発言があったんだという、そこのところが評価になってくるのではないのか
○ 道徳科の時間の中に親切にすべきだとか、いわゆる外に表れたものを指導している授業というのも見られる。最後の最後に人に親切にしようとか、挨拶は大切などと言うが、道徳科でやるのは、人に親切にするというのはどういうことなのかとか、挨拶はなぜ大切なのかの、そこをやっているので、そこについて子供たちが1学期に比べて3学期でどう考えが深まっていったのか、その意味の深まりということであるので、あくまでも道徳科のねらい、あるいは道徳科の目標に基づくということは、しっかりと押さえておくことが必要。
○ 道徳の授業をやっていくと、例えば「個性の伸長」で、自分にはよいところはないと思っていた子が、自分にはこういうところがあるんだというように変わってきたり、さらには、あっ、そうか、自分のよいところは作ればいいんだというように変わってきたりというようなことは、授業の中でどんどん子供たちが発言し、考え、書くので、それは見えてくる。
○ 道徳科においては道徳1時間1時間のねらいに基づいて、可能な限りどう見取っていくかということが重要。
○ 深さというのは評価になり得るのかという疑問を持っている。それと同時に、目標もそうであるが、目標に準拠するというのはいいが、はっきり申し上げて、道徳教育の目標は意図やねらいに近い目標が記述されているので、それを尊重するのはいいとして、それをうまくアレンジを一つしなければ、評価に合う目標はできないのではないかと考えている。
○ 評価の方法は方法のみであり得ない。対象に対しての方法だと思っていて、道徳科のある内容項目を評価する場合に、どういうふうな方法があるのかという対応で考えていかなければ、方法だけがひとり歩きしてしまっているような形ではうまくない。何に対して何が有効であったかという、これまでの事例なりから、そういうふうなものを抽出していくということが得策ではないか。
○ 道徳科の目的が子供たちの学びに向かう力であるとか、そういうメタ認知的なものだとすれば、教師の観察だけではなくて自己評価的なものも含めて考えた方がいいのではないか。
○ 評価に当たってはショートスパンではなくてロングスパンで考えることが重要。また自己評価の蓄積など、子供たちが振り返れるような形のものがあればいいと思っている。
○ 中学校で道徳の時間を校内研修としてみんなで取り組むという学校がすごく増えてきて、そこの学校の一番の成果は何ですかといったら、生徒理解がとても深まったんだ、この子はこんなことを考えていたんだということがとてもよく分かったということを必ずおっしゃる。そういう学校はどうしているかというと、やはり学校として、それこそカリキュラム・マネジメントですけれども、チームになって、そして授業を交換したりとか、あるいはお互いに授業を見合ったりということをしている。
○ この学校と隣の学校が一緒にまた授業を交換してみたりとか、小学校と中学校で一緒にやってみたりというようなことをやったり、あるいは教育委員会が授業のビデオを作って、それをみんなに示したりということをやっている例もある。チームとしてやっていけば、確実に子供の変容はつかめる。
○ 輪番制道徳で一つの授業でいろいろなクラスを回るという取り組みを行っている。そうすると一つの授業を同じ資料で何回もできるので、自分のスキルアップができるのと、もう一つはほかの先生、カリキュラム・マネジメントで自分が担任であっても、ほかの先生が自分のクラスの授業をしてくださるときに見に行ける。そうしたら、あの子こんなことを言うんだとか、あの子こんなに手を挙げて生き生きやっているんだと、自分の授業とは違う顔を出したりすることがある。そうすると職員室の中でそれが話題になって、この子こんなところが見えるんだねとか、そういう話題が自然に楽しんでできるので、そういう取組なんかをして、若い先生方のスキルアップとか、それから評価をいろいろな先生からしていただくという、そういう方法もあると思う。
○ 一人ずつのことに関して、35人学級で1時間に3人ずつ見れば、1年間に3回も見てあげることができる。
○ 個人内評価にはやっぱり横断的な個人内評価と縦断的な個人評価があると思いまして、横断的な個人内評価に関しては先ほど髙木委員が言われましたように、20あるものを一つだけ全部見ていくという形になるかもしれませんし、縦断的だとすれば、何かポートフォリオなりでためておくとか、そういうふうなものがあるかもしれないという、その横断的な、縦断的なという二つの形での要素が必要なのかなということが第1点です。
○ 評価を高くしようということを子供は考える。国語とか、体育とか、音楽とか、高くしようと思ってパフォーマンスするのはいいが、道徳で子供が高い評価を得ようとしたらそれはもう道徳として欺瞞。偽善者を作ることになる。ここが他の教科とは違うところで、評価されることをねらって子供に読まれてしまった授業をやると、いいことを言っておいて休み時間にいじめをやっているというようなことになる。そこが他の教科との区別。したがって、個人内評価の中でも長所、子供の長所をつかまえて、その長所を伸ばしてあげるという個性的な、そういうふうに絞れば、それほど子供たちは妙な、何というかな、取って付けたような評価を高く得るための行動、偽善的な行動を防げるのではないかと思う。

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