道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議(第5回) 議事録

1.日時

平成27年10月13日(火曜日)15時00分~17時00分

2.場所

文部科学省3階 3F2特別会議室
東京都千代田区霞が関3-2-2

3.議題

  1. 発達障害等の児童生徒への配慮に関するヒアリング
  2. その他

4.議事録

【天笠座長】
 定刻になりましたので,道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議第5回を開会いたします。御多忙の中,御出席いただき,ありがとうございます。
 本日は,佐藤委員,髙木委員が御欠席となっております。なお,本日は,発達障害等の児童生徒への配慮などのテーマについて,筑波大学附属特別支援教育研究センターの宮本センター長,早稲田大学教育・総合科学学術院の本田教授,熊谷市教育委員会の今村学校教育課副課長,板倉指導主事の4名の方々にお運びいただいております。御多忙の中お運びいただきまして,ありがとうございます。
 それでは,配布資料の確認を事務局よりお願いいたします。

○事務局からの配布資料の確認

【天笠座長】
 これより議事に入ります。
 まず,本日の議事の流れについて御説明させていただきます。本日は,発達障害等の児童生徒への配慮に関するヒアリングを行います。その後,質疑応答や意見の交換を行いたいと思います。発達障害等については,教育現場においてその指導方法や評価方法について様々な実践がなされていると承知しておりますが,このたびの道徳の「特別の教科」化の実質化を図るに当たって,更に配慮すべき点はないかということを,前回と今回の2回にわたって議論を進めてまいりたいと思っておりますので,どうぞよろしくお願いいたします。
 そこで,本日は,発達障害等の児童生徒への配慮ということで,発達行動小児科学などが御専門で,高機能自閉症などについて研究をなさっている筑波大学附属特別支援教育研究センターの宮本信也センター長,学校心理学や軽度発達障害が御専門の早稲田大学教育・総合科学学術院の本田恵子教授,地方自治体において発達障害等に関する施策に取り組まれております熊谷市教育委員会学校教育課の今村美己副課長及び熊谷市教育委員会教育研究所の板倉伸夫指導主事より,道徳科の指導に当たって求められる発達障害等の児童生徒への配慮について御発表いただきます。
 それでは,ヒアリングに移ります。宮本センター長,よろしくお願いいたします。
【宮本センター長】
 筑波大学の宮本と申します。私は特別支援教育研究センターで勤務しておりますが,元々小児科医です。本日は,発達障害の子供の特徴についてお話しさせていただきます。私自身は,道徳教育の専門ではありませんが,議論の参考にしていただければと思っております。限られた時間ですので,本日は,最も困難性の強い自閉スペクトラム症,ここでは頭文字をとってSADとさせていただきます。それに絞ってお話をさせていただきます。
 最初に,発達障害の子供たちがもつ発達の問題は,発達の遅れ,発達の偏り,発達のゆがみという三つに分けることができます。10年,20年前まで,発達障害イコールほぼ知的障害という時代は,この発達の遅れだけが注目されていたと考えることができます。そして,発達障害は現在,医学領域では大きく六つのカテゴリーに分類されています。発達全体の問題と発達のある部分の問題があります。それぞれ,その問題が外に表面化する場合,どのような問題で現れやすいかということを示したのがこれです。主として能力面の問題で現れるか,あるいは行動面の問題で現れるか。能力面の問題というのは,要するに言葉が話せるとか話せない,漢字が書けるとか書けない,文字が読めるとか読めないとかです。行動面の問題は,いわゆる問題行動と周りから言われるようなことです。
 これでお気付きいただけるように,自閉スペクトラム症とADDの二つが行動面の問題として外に現れやすいという特徴があります。これが現在,通常学級で発達障害と言われ,いろいろ対応されている子供たち,特に周囲の方々が対応に苦慮している子供たちのほとんどが,このどちらか,あるいは両方の診断名をもっている理由です。それ以外は能力面の問題として出ますので,試験でもしない限りは気が付かれにくく,対応に苦慮することは比較的少ないのです。今日は,この中の自閉スペクトラム症,SADの特徴についてお話しさせていただきます。
 自閉症とは,昔は人との関わりをうまくもたない,あるいはもてない,会話もほとんどしない,一人で好きなことをやっているというイメージが強かったですが,この自閉症のイメージは現在は大きく変わっております。これらの自閉症の古典的なイメージは,中等度以上の知的障害を伴う,しかも孤立型と言われる,自閉症の中のある一つのタイプを見ていたにすぎないというのが今の考え方です。現在,自閉的な特徴をもっている子供たち全体では,知能が正常の子供の方が多いというのが今の一般的な考え方です。したがって,自閉症の子供たちは会話もするし,友達とも遊ぶし,集団行動も行う。むしろこれが自閉的な子供のマジョリティーです。
 では何が違うのかと言うと,状況に合った適切なやりとりや行動がある程度できるようになるのが,ほかの子供に比べるとかなり遅いということです。若しくは,話題に沿った会話ができるときもあれば,できないときもある。一度頭に入ると,しばらくそればかりになってしまう。これは非常に一般的な表現で言わせていただいています。これを更に一般的な言葉に置き換えると,マイペースで話が通じにくくて,しつこい。SAD,つまり自閉的な特徴のある子供たちは,簡単に言うと,このような特徴がある子供たちであると言い換えることができます。これは,医学の方の診断用語や専門用語では,いかにもおどろおどろしげな子供たちがそこにいるようなイメージを与えがちですが,むしろこのような一般的な用語で言うことで,必ずしもまれな,あるいは特殊な子供たちが少数,そこにいるのではないということを御理解いただきたいです。
 ちなみに,現在SAD全体の頻度は,子供全体の約1%,100人に一人と言われております。ただし,最近は更に多い数字が報告されておりまして,比較的最近で最も多い数字は,韓国で出されたもので2.6%から2.7%,つまり50人に一人という数字が出てきております。これらの頻度の増加は,実際に発達障害のある子供の実数が増えたのではなくて,一つは気が付かれるようになったということです。それからもう一つは,考え方がかなり変わってきたので,古典的な自閉症以外の子供たちが更に気が付かれるようになった。それまでは,わがままとかマイペースと見られていた子供が,障害があるのではないかと見られるようになってきたという部分が多いと言われております。
 彼らの一つの特徴であるマイペースさということについて,いろいろなことが背景にあると思いますが,ある一つの側面をお示ししたいと思います。
 よくSADの子供たちは,人の気持ちが分からないと言われます。でも,本当に気持ちが分からないのかということを考えてみたいと思います。このようなデータそのものや,幾つかの図や写真は,皆様のお手元には印刷されておりません。これは,イラストや写真は著作権の問題等もあるので,結果だけ示させていただいています。これは私の研究室でやったものですが,こちらが知能が正常な自閉症の人たちです。実際にはもっとたくさんやっていますが,この人たちに,この六つの表情の写真を見てもらいます。そして,その写真が,この六つの感情のうちどれに相当するかというのを選んでもらうという課題です。
 非常に簡単な課題ですが,笑顔は全員分かりました。恐怖の表情は,全員間違えています。ここが定型発達の人たちの正答率です。このことが何を示すかというと,気持ちが分からないと言われているSADの子供たちも,彼らが分かりやすい表情や感情と,分かりにくい表情や感情があるということです。一方で,この3番目の人は,六つの感情の中で恐怖の表情を間違えましたが,残り五つは全部正答です。一方,2番目の人は,笑顔と泣き顔は分かりましたが,残りの四つは全部間違っています。つまり,同じ自閉という診断が付いている子供でも,感情が結構分かる子供と分からない子供がいる。これは当たり前のことですが,算数が得意な子供もいれば国語が得意な子供もいる。駆け足が早い子供もいれば遅い子供もいる。しかしながら,発達障害という診断名が付いてしまうと,その子供たちは皆,教科書に書いてあるような状態を全て示すような錯覚を与えてしまいがちになります。
 さらに,これは,「明日は雨です」という文章を,喜んでいる口調,悲しい口調,怒っている口調で吹き込んだものを聞いてもらい,そしてこの六つの感情のどれかを選んでもらうという課題です。そうしますと,紫がSADですが,喜んでいる口調の音声が今度は一番正答率が低いという結果になります。これは非常に奇妙なことです。なぜならば,表情であれば喜んでいる,楽しい表情は100%分かったのに,音声であるとかえって分からない。この事実は何を意味するかというと,分かりやすい感情と分かりにくい感情があるということです。しかもそれが表情と音声で異なるということは,自閉の子供たちは人の気持ちが分からないのではないということです。もし気持ち自体が分からないのであれば,少なくとも表情と音声の結果はほぼ似た形になるはずです。
 では,なぜ分かりやすい気持ちと分かりにくい気持ちがあるのか。これが実際に使った写真ですが,上が恐怖の表情,下が驚いている表情です。皆様も,ぱっと見ると,どっちだろうと思われると思いますが,六つの感情をカードで示して選ばせますので,正答か正答でないかが出てきます。自由に,これはどういう感情かと問うと,それはその人がそう思ったのであって,正しいか,間違っているかということがなくなってしまいます。
 自閉の子供たちは,おびえている表情を,驚いていると間違えやすいです。これは日本に限りません。欧米でも同じことが言われております。皆様もごらんいただいて分かるように,この二つの表情は似ているのです。目を大きく見開いて,口も広がり,頰の辺りが緊張している。ところが,決定的に違うのは,眉間です。恐怖の表情は眉間が寄って,驚いている表情は眉間が広がります。動きが正反対です。自閉の子供にアイカメラを付けて写真を見てもらうと,彼らの視点は顔の輪郭をよく回ります。しかし,顔の真ん中や目の辺りには余り視線が行かないと報告されています。つまり,顔の中心部や目の辺りにその感情を弁別する手掛かりがある表情は,彼らは分かりにくい。顔の輪郭に特徴がある表情は分かる。これが笑顔が分かりやすい理由です。
 では,音声はどうでしょう。「明日は雨です」という2文節のうち,前半と後半で,音を変化させます。それでも喜んでいる口調と聞こえるかどうかということを試します。
 そうすると,これは定型発達の子供ですが,前半部を変化させた場合には正答率が70%に落ちました。それでも10人のうち7人は,まだ分かったのです。ところが,後半部だけ,あるいは全体を変化させると,正答率が4割以下に落ちてしまいました。一方,SADの子供は,どこを変化させても全て4割以下に正答率が落ちます。この数字は何を意味するかと申しますと,喜んでいる口調の一番のプロソディー,音声の特徴は,語尾にあるのです。したがって,定型発達の子供は前半部が変化させられても,喜んでいる口調の特徴であるこの語尾が残っていたら,7割の子供は分かった。でも,この語尾も変化させられたら,4割以下に下がってしまったということです。
 一方,SADの子供は,どこを変化させても分からない。これが何を意味するかと言いますと,実はまだ再現性を取れていないのですが,終わった後,彼らに,どこで判断しているかを聞くと,多くの子供は,話を聞いて,もう最初で判断しています。逆の言い方をするならば,ここから推測できることは,彼らは,どうも聞いている文章の後ろの情報に余り注意が行っていないのです。
 彼らが人の気持ちが分からないということの背景の一つは,気持ちが分からないのではなくて,気持ちを推測する手掛かりを使えていないということです。手掛かりを使えていない理由は,その手掛かりにそもそも気が付いていないということが分かります。実際,彼らに,恐怖の表情の写真を見せて,ここがこうなっていると恐怖なんだよと教えてからもう1回やらせると,今度はできます。でも,あたかもテストを解いているかのようにやりますので,とても実生活上では役に立たないのです。私たちの表情認識や音声認識はほとんどパターン認識ですので,瞬間的に私たちは判断するわけです。
 さらに,彼らの顔認知は,先天性の相貌失認と申しまして,顔そのものの区別が付かないという子供たちが一定の割合でいます。詳細は省きますが,自分の母親の顔ですら分かりません。しかも,この相貌失認は,残念ながら,一生変わりません。中学生,高校生あるいは大人になっても,基本的には続いています。ただ,彼らは,元々そのような特徴がありますので,人を顔以外で区別するやり方を自然に学習しています。例を挙げますと,私が病院で診ているある小学校5年生の,知能障害のない自閉症の子供は,私と真正面で話していると,私だと分からないのです。私の左の横顔を見ると,宮本先生だと分かるのです。彼に,何で分かるのかと聞いてみると,彼は,耳の形を見ていたのです。外来では患者さんは私の左に座るので,私がカルテを書いていると,患者さんは私の左の横顔を見る機会が多いわけです。つまり,彼は人を目印で見分けるという方略を使っていた。私の耳の形を覚えたのです。このような形で,自然にいろいろな工夫や試行錯誤をして,学習しています。
 これも実話ですが,非常に攻撃性が強く,ちょっとしたことで,すぐ手が出るSADの小学校4年生の男の子がいました。しかも加減しませんので,大体相手の子供は泣き出してしまう。あるときけんかをして,やはり本人は職員室に呼ばれて,先生に説教されて,もうやるなよと言われ,分かったと答えた。教室へ戻ったら,さっきけんかした友達にちゃんと謝っておきなさいと言われたのですが,彼は顔が分からないのです。したがって,先ほど自分がかみ付いて,泣かせた相手の前を,ごめんねの一言もなく,顔色一つ変えないで普通に歩いていく。これは物すごく心証が悪いのです。でも,実は顔に気が付いていないだけなのです。これはお母さんが教えてくださいました。
 それからもう一つ,話が通じないということもよく言われます。知能障害のないSADの子供としゃべっていても,ものすごくよく話すのですが,何かかみ合わないところが時々ある。これは彼らの想像することの苦手さという特徴から考えると,理解しやすい部分があります。
 想像するというのは,目の前にないものを考えるということです。それが苦手だということは,目の前に示されている事柄を手掛かりに反応するということになります。これが,とんちんかんな応答の背景になることがあります。子供が3人いて,最初の子供に,あなたは何年生ですかと聞くと,小学校3年生だと答えます。次の子供に,あなたはと聞くと,僕も3年生だよと答えます。3番目の自閉の子供にあなたはと聞くと,しばらく考えて,「僕はつくばに住んでいるよ」と答える。周りから見ると,「えっ」と思うのです。最初に「あなた何年生」と聞いたら,次に,「あなたは」と聞いても,私たちはここに省略されている部分を推測して,補って考えます。いわゆる文脈を読むということです。しかしSADの子供は,わざわざ示されていないものを考えるよりも,示されたことの方に注意が行きます。そうすると彼は,「あなたは」と,自分のことを聞かれたとしかとらないのです。そして何を答えるか考えて,とりあえず住んでいるところを答えるという図式になります。SADの子供と話していて,何げなく話したことに思いも掛けない返事が返ってきたときに,まず考えるのはこのことです。私たちの会話というのは,物すごく省略が多いです。こちらが何げなく省略したところを補わないで考えたのだと考えると,彼らの返事の意味が分かることがあります。
 このパターンは,単にちょっとした勘違いだけではなくて,言葉の表面的理解ということを理解する上でも同じことが起こることがあります。あるとき外来に来た小学校3年生の初診の患者の男の子は,自閉症の子供で,私は最初必ず,子供と先に会話をするのです。子供が答えやすい質問からしていきます。「あなたは何年生ですか」と聞きました。そうしたら,「3年生だよ」と答えました。「3年何組ですか」と聞いたら,「1組だよ」と答えた。私はその後,そのまま,「先生のお名前は何ですか」と聞いたら,彼はすかさず,「宮本先生」と言ったのです。これは,普通に考えたら3年1組の先生の名前を聞いています。でも彼は,言われた言葉にしか反応しませんので,「先生のお名前は」と聞かれ,私の名札を見て,宮本先生と答えたのです。でも,お分かりいただけると思いますが,このとき私が,「3年1組の先生のお名前は何ていうの」と聞いたら,彼は正しく答えたのです。つまり,彼らのとんちんかんな応答は,実はこちらの言い方次第で,かみ合ったものに持っていける。でも,それはこちらが意識しないとできません。
 想像するというのは実際にないものを考えるということで,抽象的な物事の理解ということにも結び付いていきます。これが苦手だということは,言葉の意味を理解できないということにつながってきます。これは知能障害と無関係です。知能が正常でもです。何が起こるかというと,言葉を,自分が体験した範囲でしか理解しないし,そして自分が理解した範囲でしか使わないということが起こります。これが,何とも言えない奇妙な状況を生みます。
 言葉の意味を本当に理解するためには,その言葉の持つコアイメージをもっていないのです。決して辞書的な意味ではありません。例えば,犬は何匹いますかと皆さんに尋ねます。4匹いると思う方もいれば,5匹いると思う方もいますが,これは6匹です。1,2,3,4,5,6です。ほとんどの方は6匹いると答えます。次に,6匹だと答えた方々に,なぜ6匹が犬で,ほかは犬でないと分かったのか,言葉で説明してくださいと言います。そうすると,皆さん詰まります。難しいですよね。でも私たちはこれを分かっているのです。これが,言葉の持つイメージです。
 名詞ですらそうですから,ましてや動詞や形容詞になると,実体がないものもありますので,そのイメージをつかむのはなかなか難しいです。子供たちは,生まれてから,実際に物を見たり,聞いたり,触ったり,体験したり,それに言葉が添えられることで,その言葉のもつ本質的なイメージを習得していくのです。決して机の上で勉強しているのではないのです。しかしSADの子供たちは,それがなかなか習得できない。そうすると何が起こるかというと,「猫かわいい」と言っている横で,「そうね」と言いながら,この方が怖い猫を思い浮かべていても,これもこれも同じ猫だというイメージがあれば,怖い猫を思い浮かべながら,かわいいという言葉に同調することが可能です。しかし,自分が体験した範囲を超えないというのは,自閉の子供が猫と聞いてこれが浮かんだら,彼にとっての猫はこれしかいないということです。このことは,実は定型発達の子供でも2歳ぐらいまでは普通にあります。彼らは自分が見た世界が全てなので,それは誰でもみんなそう思っていると思っているというところがあります。まさしく主観の世界で生きているわけですから,「猫かわいい」と言われても,これはどう見てもかわいいと思えないので,「何を言っているんだ,猫は怖いよ」という反応をするのです。
 でも,これはまだそれほど違和感はないですね。猫が怖い人はいるかもしれない。彼は動物園に行って,動物触れ合いコーナーでウサギさんと遊んで,そのときに「ウサギさんかわいいね」と言って,そのとき「かわいい」という言葉が入ったとします。そうすると彼は,かわいいという言葉を聞くと,これが思い浮かび,それ以外浮かばない。そうすると,かわいいのはウサギのことだろうと,色も違うし耳も違うじゃないかということで,「猫かわいい」と言っている横で,いきなり,「耳違うよ」と言う。こうなると,周りから見たら全く了解不能です。「一体こいつは何言っているんだ」ということになります。SADの子供自身も自分のそういった考えをなかなか説明できませんので,結局また訳の分からないことを言っているということで終わってしまいます。
 本当に突拍子もないことを言っているときは,そこで使われている言葉の受け止めが違うか,何か思い出しているかのどっちかなのですが,「猫かわいい」と言っている横で,「耳違うよ」と言ったら,誰がどう考えても,何かかみ合っていないということははっきり分かります。もっと大変なこともあります。例えば英語を習いたての生徒がいたとします。「I have a pen.」という言葉で,haveという単語の意味を「持つ」と覚えます。その生徒は,その時点では,まだhaveという単語の意味は「持つ」という意味しか知らない。ところが,haveという単語には「食べる」という意味があります。英語のチューターが,「お昼御飯を食べた?」という意味で,「Did you have a lunch?」と聞いたとします。でも彼は,haveは「持つ」という意味しか知りませんから,「お昼を持ってきたか」と聞いているんだなという意味にとる。そうすると,彼は持ってきていないので,「持ってきていないよ」という意味で,「No, I didn't.」と答える。でも,それを聞いた人は,「食べていないよ」と意味で捉える。「じゃあ食堂へ行って一緒に食べよう」と,食堂に行って,食べて,「おいしかったね,バイバイ」と別れる。通じていると思っていますが,実際には通じていない。SADの子供とのコミュニケーションで一番の問題はこれです。通じている,分かり合えているとお互いに思いながら,実は違う意味で理解していて,通じていない,しかもそのことに気が付いていない。
 これは,道徳教育に限らず,あらゆる教科学習や生徒指導でも同じです。私は小学校の先生には必ず言うのですが,通常学級でクラスに知能が正常のSADの子供がいたら,その子供のIQがどんなに高かろうが,先生が話したことが,先生が伝えたい意味で全て100%伝わっていると思ったら大間違いです。逆に言うならば,先生の言うことを聞かない,聞いていないと考える必要もありません。その言葉では通じないのです。これは大変な世界です。
 あと1例だけ最後にお示しして終わりにしますが,私が診ていたSADの高校生は,知能が正常で,高校は普通高校に一般入試で入りました。高校の成績は中の上ぐらいです。この子供があるとき,病院に来ると,やたら怒っているのですね。「どうした」と聞いたら,「うちの母親は最近手抜きだ。食事に野菜を出さない。」と言っていました。お母さんと交代して事情を聞いたら,お母さんもけげんな顔をして,野菜をそれなりに出していますと言うのです。結局分からずじまいで帰っていかれました。しばらくしてこの親子がまた外来に来られて,お母さんが苦笑いしながら教えてくださいました。「うちの息子は野菜ってキャベツだと思っています。」と言うのです。野菜という言葉で彼の頭の中にはキャベツしか浮かんでいなかったのです。このエピソードがなければ誰も気が付かなかったのです。これは多分,野菜という言葉だからそんなに実害がなかったのだろうと思います。
【天笠座長】
 続きまして,本田教授,よろしくお願いいたします。
【本田教授】
 私が今よく関わっているのが,キレる子供たち,少年院,刑務所などに入り,繰り返し犯罪を起こしている方たちに,「反省していますか」と聞くと,「していません」とSADの方などは言います。きちんと刑期を終えているにもかかわらず,反省していませんと答えるのです。どうしてかと聞くと,「反省という言葉の意味が分かりません」と答えるのです。僕はこういうことはしましたと,刑務所の中にもいて,きちんとお務めもして,家族に対しても反省文を書き,相手に対して謝罪もしました,だけど,謝るということの意味も分からないし,手紙は書いたけれども,それは謝ったということになるんでしょうかと,言葉の定義がはっきりしないので,家庭裁判所などでも,この子供は何て気持ちが分からないんだろうと誤解をされる方もいます。
 ですから学校などで私がよくやっていくのは,定義を合わせるということなのです。ADDの子供たちは,「分かっているよ」と言います。これは両極端です。分かっているけど,行動が先に行ってしまうのです。言葉で分かってはいるけれども,興奮しているので行動が先に行ってしまって,「またやっちゃった」と,いけないと思っているのに,先生に怒られているから,先生の声が怖くて,またそこで「分かっているよ」と興奮したまま,この子供は反省していませんと言われてしまう。
 「道徳の時間はどうですか」と聞きます。「眠いです」と言います。「言葉ばかりで,僕たちは体を動かした方が分かるのですが,先生がいっぱい教科書を使って,いろんなお話をしますが,分かりません」と言うのです。でも,分かりましたと言わないと,また読まなくてはいけなくなるので,とりあえず「分かりました」と言うのです。逆にSADの子供たちは,こだわるのです。「何でですか」「どうしてこうなのですか」と,先ほど宮本先生が言われたように,「僕だったらこんなことしません」というような形です。多分それぞれの特性に合わせたということのが,前回の会議の課題に挙がっていたと思うのですけれども,その特別な配慮を要する児童生徒の場合に,どういう示し方をしたら彼らの心の中に道徳性が育つのか,その話をしようと思います。
 これは皆さん御存じのとおり,学習指導要領に入っているものなのですが,道徳的な心情についてです。判断力,そして実践意欲と態度という,これは内的なものです。内的なものをいかに彼らが分かる形にするかというのが,特別支援の子供たちに必要なところです。脳の機能で,この右側のところで,心情というと情動機能になってきます。判断力は制御・実行機能という前頭葉の部分,実践意欲とか態度は目標設定・言語機能という部分になってきます。自分,他者,自然や崇高なものとの関わり,これはもうイメージの世界です。こういったものを伝えていくという,かなりハイレベルなことをする。社会や集団との関わりに関することについて,彼らは,自分のことと他者のこと,ここまでは大好きです。社会のルール,面倒くさいです。守って得したことがない。急いでいろいろやりたいからです。まずこの二つをどうしっかり入れるか。友達と遊びたいと思うということから,いろいろな道徳については入っていきます。ただ,道徳性という内面的なものが規則とかルールと間違えられてしまうので,そのあたりで道徳嫌いとなりますから,道徳性とはこういうことだよというのをきちんと伝えていく必要があります。
 次に,脳のお話です。左側から切った模式図だと思ってください。道徳性を働かせていくためには,前頭葉,言語の側頭葉,イメージとか創造力の頭頂葉,視覚の後頭葉のという,この四つの高次の脳が働いている必要があるのです。ここに,先ほど宮本先生がおっしゃったような発達の偏りとか,発達の遅れ,つなぎの悪さというのもあります。学習障害のLDの子供の場合は,見ているけど言葉にならない,言葉では理解するけど動作の方につながりにくい,体は動くけど,見たものが言葉にならないとか,そういうつなぎの問題はそれぞれ特性が違うのです。ですから評価につなげていくときに,分かっていることをどう測るかとか。表現で測ったら,分かっていることが測れなくなってしまうので,評価の在り方が大事になります。
 行動のレベルは,まずこの自律神経系,脳幹,脊髄というところで,これは意思が働いていない分野です。心臓がどきどきする,かっとなったら体温が上がっていくとか,逆にSADの子供は体温が下がっていって,徐脈になったりします。だから白けていきます。アスペルガーとかSADの子供たちですけれども,ADDの子たちは興奮しますから,どんどん体温が上がっていって,口も早くなっていくし,興奮していくし,心臓もばくばくする,だから手なんか出やすくなってしまう。それにお手伝いしているのが,ここに視床下部というのがあるのですが,情動行動です。心情などをつくっているのがセロトニンという安心物質です。これが足りないと鬱になったり,あるいは虐待をしたり,いじめなどもそちらの部分です。
 小学校の高学年からいじめが出始めるのは,快感を求めてしまうからです。達成感のある子供は,腹八分目で大丈夫です。一つのことをじっくり味わって,内省もできるし,楽しみが長続きするのです。ADDの子供は,無理です。興奮だけです。SADの子供はなかなかこの達成感,触れ合いというのが苦手ですから,小さい頃に触れ合い遊びをした子供たちが発達させる情動のもとなのです。勝った負けたが,こちらなのです。できた,できないがこちらです。そういうことを積み重ねていくと,小学校の高学年になって快感というものを求めずに済むのですけれども,達成感がない子供たちはやはり勝った負けたから,自分の方がより優越感を得たいために人をおとしめていくとか,人に意地悪をするとか,人が困っているのを見て何となく興奮する。それはアドレナリンの興奮ではないです。何か微妙な,変な興奮なのですね。それを覚えてしまうと性的な興奮とつながっていくこともあり,大脳辺縁系,これは動物脳と呼ばれているので,行動の記憶として覚えてしまうところです。だから,ここから出てきた物質をどういう行動で手に入れたかというのがインプットされると,そのまま,ずっと行動が繰り返されてしまう。ですから,道徳性というようなものを育てながら,まず,優しくするとはどういうことかなど,言葉の定義をきちんと言った上でやってあげなくてはいけない。
 例えば,「見守っていてね」と言ったら,ずっと1日中見ていた子供がいます。「ずっと見ていてねと言ったから,ずっと見ていました」と言うのです。量をきちんと話して,誰を何でどうするということを,定義を合わせていかなくてはなりません。赤ちゃんが落っこちてしまっても,「だって,先生は見ていてねとしか言っていないです」と言うのです。「見ていてね」というものの中には,その子供の安全性まできちんと管理してあげてねということなのですけれども,そういうことになってしまうのです。この子供たちの中では,側頭葉の中できちんと実行機能と合わせた行動の定義をしないと,一つ一つの道徳性に値する行動が何かということが分からないのです。でも,一応分かったと言いますから,先生としては分かったのだろうということになるのですが,確認するときには行動として理解していくといように,行動として練習していくことが必要になります。
 側頭葉で言語が分かってくると,パターン化された行動が出てきます。1回優しさがこうだと言ったら,相手の肩をもむのが優しさだと,「優しくして」といったらいつも肩をもむ。ずっとそれを続けてしまうということにもなっていきます。前頭葉が発達するようになると,1の手が駄目なら2の手と,肩をもんで駄目なら,次は「大丈夫」と言ってみるとか,いろいろなことを工夫します。これはメタ認知とか他者理解というのができるようになると,前回多分樋口委員がおっしゃっていた心の理論ということで,相手の立場に立って物事を見られるので,自分が楽しいことがそのまま相手にあてはまるのではなくて,相手には違うかもしれないというようなことが分かるというのは,ここなのです。
 前頭葉の機能の中には,制御機能といって,自分の行動にブレーキを掛けたり,あるいはスピードアップしていってアクセルを掛けたりするという制御機能と,それから行動を組み合わせていく,ここがいわゆる思考力と呼ばれるところなのですが,実行機能と二つあるのです。ここを鍛えなくてはいけない。これは学校の授業の中で鍛えていくものなのですが,やはり道徳性が低くて,なかなか行動規範が身に付いていない子供たちは,考えていないのです。キレている子供たちは,考えない授業が多いのです。これは統計をとっていきましたけれども,先生がしゃべっている,いわゆるチョーク・アンド・トークという授業なのですが,そうすると子供たち自身は考えていないので,脳が暇をしていますから,エネルギーが余ってしまって休み時間に暴れている。しかし,いっぱい考えたり,いっぱいいろいろなことを話し合ったりする子供たちはキレないのです。自然体験をするとキレないというのは,こちらの部分です。いろいろなことを考えながら,思考力がある子供がキレないというのは,こちらの部分です。
 ですから,アンガーマネジメントというのを今いろいろなところで導入して,刑務所の中でも少年院でも,中学校とか小学校でも取り入れており,その中にはストレスマネジメントという,この情動行動の部分,それから感情を育てるという部分,それからパターンとして子供たちに理屈を教えるという,道徳と言っても分からないので,これはこうするといいんだよという納得の理屈ということで教える部分,具体的に行動としてやるためにソーシャルスキルを教えるという,三つのことを組み合わせてやっていくと,行動だけではなくて,その行動がなぜ役に立つのかというのが分かっていくようになっています。これは本当に練習しないとなかなか分からないので,繰り返しやっていただくということになっていきます。
 この脳の中の情報処理のプロセスというのは,ぱっと見て分かっていただけると思いますが,まず視覚が強い方の場合は目から入っていって,視覚野で反応して,そこから形を弁別します。形に名前が付いて,名前の側頭葉から前頭葉に移っていって,ここで言葉を組み立てて,運動野に入っていってしゃべる場合には,この三つを見て,鉛筆でノートに「あいう」と書きますという,こういう行動を脳の中がやっているのです。だからそれぞれどこの部分,見えているところが一部分なのか,あるいは見えているけど形に分類ができていないのか,それとも,形には分類しているけれども言葉にならないのか,言葉にはしているけれども,それを自分が表現するために組み立てるというところが難しいのか,組み立ててはいるけれども音声にならない,あるいは文字にならない,又は動作としていかない,これがLDの子供たちとか,このつなぎの悪い方たちなのです。
 例えば,今日は道徳で優しさ,思いやりということを学びますと言われても,思いやりってまず何だろうと,そこから言葉としては入っているけれど,言葉が動作につながっていくのにどうしたらよいかとか,思いやりの表情はどういう表情をすれば思いやりになるんだろうかと,思いやりの立ち位置というのは隣なんだろうか前なんだろうかとか,いっぱい子供たちの中では分けて,分かるように教えていってあげる必要があるということになっていきます。
 そういう意味では,発達障害のある子供たちに一つ一つ教えていくときに注意していただきたいのが,まずどこに発達の偏りがあるかどうか,それからそれを適切に,まずアセスメントをしていただきたいのです。一人一人違いますよと宮本センター長がおっしゃいましたが,本当に違うのです。特性別の教育目標というのがありますから,生かせるところ,活性化しているところはしっかり育てていきたいし,まだ少し足りないなというところはリハビリテーションで最大限に育ててあげたいし,どうしてもそこの部分に機能的な限界があるということでは,代替ということで合理的配慮をする必要があるということで,この特性別の教育目標を定めていく。
 そのために,それぞれの子供の学習段階に応じたルーブリックを作っていくことがとても大事だと思います。先生方が学習指導案を作っていく上でも参考になる思います。この子供はここまで分かればすごくよくできたことなのだと分かるのです。例えば先ほどの,少年院を出て,僕は反省していませんという子供も,みんなの前で僕反省していないのです,なぜならばと説明できているのは,実はすごいことなのです。最初から人になんか話したって分かってもらえないと思っていた子供が,そうやって自分のことを表現して分かってもらおうとする。淡々と言っていますから,抑揚は全然ないです。能面のような顔をして,反省していないなどと言われたら,情緒が豊かな方たちは「うわー」と思いますけれども,本人がそこに立ってそれだけのことを言えたら,満点以上なのです。そういったところがきちんと認めてもらえて,自己効力感につながるかどうかというところが大事な部分になります。
 これは一つの例ですが,例えば,彼らに分かるような納得の理屈というものを作って,発達障害のある子供たちに試してる最中なのですが,目標の中で、集団との関わりという分野があります。その中に,約束や決まりを守って,みんなが使うものを大切にするという項目があります。未到達の段階は自分の欲求だけです。低い人の場合,入力はとりあえずできています。標準のパターンの方は入力して蓄積もできているから,とりあえずその場面になったらできるという状態です。かなり優秀にできる方の場合は,言われなくてもいろいろな場面に応用できるという,ルーブリックで作っていくと,この部分の子供たちを何とかまず1の段階にもっていきたいなと思います。では,この子供たちに教えていくときには,まずは相手の気持ちが分かるような伝え方を,見える形でした方がよいわけです。その先は,ルールを外から指摘されれば分かるので,言い方を注意しなくてはいけないのですけれども,今何する時間だろうとか,教室ではどうするんだろうなど,本人が思い出しやすいようなキーワードを入れてあげたり,キーセンテンスを見せたりすると,その後はこうだったと分かるということをしていく。この子供たちは蓄積していますから,もうきちんと分かるのですが,発達障害の子供たちですから正確に理解できるだけで,本質,言葉の本来の意味というのが分かった上で柔軟に適用できるというところまでは,なかなかいかないのです。ですから,まずこのレベルできちんと入れてあげる,そしてそれが,一つのパターンでもよいので使えるようになるというところまでのルーブリックを作っていけるようにするのはどうでしょうか。
 これは一つの例なのですが,納得の理屈は,アンガーマネジメントの中で発達障害の子供向けにやっているものです。どういうことかというと,ADDのA君は,廊下の展示物に,面白いから興味が出て触ってしまい,ぽろっと壊れてしまった。でも,ここはルールなのですよ,展示物は触ってはいけないことになっていますよと,自分の欲求に対して社会のルールをここに,「でも」の後に入れるのです。触っちゃいけないことになっています,さあどうしようとなると,通常だったらこの子供は自分の欲求だけで不安になるから,感情で逃げ出して知らんぷりするのですが,この段階でストップをかけます。前頭葉の制御機能です。道徳性を発達させるためにはどうするか,自分の気持ちは不安だよねと,これを作った人は後で見たらびっくりするよねと,せっかく作ったのに悔しいよねなどということが分かったら,では,ここで逃げないためには,自分で何をしてあげるのかと,これが判断力なのです。ストップを掛ける制御機能が活性化するためのものだとすると,納得の理屈で自分の行動に責任を持とうというものを言葉として入れているのです。どういう責任かなと,触ったのは自分だからと,でもどうしていいか分からないから,とりあえず先生のところに行って正直に伝えるという,ソーシャルスキルの行動としては,やってしまいましたというのをまず自分で言いましょう,そうしたら,先生が,どうしたらよいかを一緒に考えてもらえるよということで,先生が,ごめんなさいカードをここに書いておいておこうと,その後その子供が来たら,また先生と一緒に対応しようねというと,この子供にとってはこれができたら,もうこれで満点ぐらいなのです。
 そういったところを毎日練習して,ロールプレイする。廊下に何か置いておきましたと。一生懸命やると,やっぱり逃げてしまう。自分の癖が逃げる方になっているので,やっぱり逃げてしまう。先生のところに行くと,今度は固まってしまう。この子供に合う方法は,壊しましたカードを見せることで,本人用のサポートブックというのを発達障害の子供たちはよく作るのですが,自分が何か困ったときにはサポートブックを見て,壊しましたカードを先生に見せる。「ああ,そういうことか」と,ウオーミングアップができれば脳が落ち着いてくるのです。そのようなことをやっています。
 委員の方々のお手元には別紙でお配りしてあると思います。SADの子供たちは,気持ちというのでは分からず,欲求だったら分かるのです。何をしたいのか,行動としてなら分かるので,欲求のレベルで,それぞれ自分の欲求だけのこと,相手の欲求だけで動いている子供もいます。LDの子供は,どちらかというと相手の欲求だけなのです。自分がどうしたいかという自主性よりも,こうしなさいと言われたことだけをそのまま模倣してやっている方が安心なので,自分で判断するという判断力が育たない場合がある。だから1段階の子供たちは,自分だけか,あるいは相手だけ,2段階になってくると標準レベルで,自分の中にもきちんと欲求とか心情とかが育っているのですが,まだこの相手が怖いからという,コールバーグの道徳性の中での,罰されるのが怖いからちょっと小さくなっている,自分の中では少し育ち始めた,見た目は一緒なのですが,全然やはり違うのです。この場合だったら,道徳性の中の自己理解というのが分かるようになって,自分のソーシャルスキルだったらどんなものを使うかとかということをだんだんと酌んでいって,最終的には自分も相手もよいという社会にしていきたいのですが,そこまでもっていくための段階を追っていって組み立てていく必要性があると感じています。
 こちらはピアジェの認知の発達なのですが,まず道徳性で幼児から見ていくのであれば,それぞれ感覚に名前を付けていく,言葉を付けていくということが大事になってくるので,今痛かったね,あるいは今悔しかったね,これが悲しいということだよと働き掛けます。よくアスペルガーの子供は,悔しいとはどういうことですかと聞いてくるので,今悔しがっているよと言うと,これですかということになります。全部興奮になってしまうのです。こちらがニュートラルになりながら,言葉で,五感で感じたものを伝えます。全部,快か不快か,あるいは痛いか,冷たいも痛いになってしまい,なかなか感覚が広がらない。だから感覚統合しながら,いろいろな行動特性に関係するような心情や判断力を,言葉と行動で見せてあげる。いわゆるネーミングです。
 それができるようになったら,まず一場面で,一対一でよいので,直感思考の小学校低学年の子供たちは,「これはこういうときに使うものですよ」と分類をした上で,分かりやすく一対一対応をして練習していくと,「そうか,その場面だったらこうすればいいんだ」と分かります。相手の気持ちを傷付けたときは,まずは「ごめんなさいなんだね」とか,それは言えるのです。ごめんなさいにもレベルが三つあるよと言っておくと,ぶつかって相手の気持ちがびっくりしたときは「ごめんなさい」,何か自分がやってしまって,反省して,責任をとるときのごめんなさいはまた違うということで,「ごめんなさい」だけではなくて,「ごめんなさい」に加えてやり直しをするというのが自分の責任だよとか,その責任とは,元に戻すということだよと言ったら,「なるほど,じゃあ壊したものを元に戻すんだ」とか,そのような感じで一個一個分かっていく。
 3年生,4年生ぐらいになってくると,学んだ内容が保存されます。ですから応用がいっぱいできるので,2年生ぐらいまでで学んだルール,あるいは道徳というのが,こっちの場面だったらどうなるか,これを自分たちで考えさせなければいけない。これはこうするよと教えてしまうと,受け身の子供が育ってしまうので,3,4年生は,この場面だったらどうするか,これをやったらどうなるのかということを考えていく。11歳以上になったら,自分自身で言葉から行動を想像させていくとか,いろいろな倫理的なものとか難しいものができるようになります。
 これは幼稚園の絵本で,こういうことを考える力を育てようということでやっているのですが,特別支援でも使っています。特殊な教材を使わなくても,絵本の中にいろいろなものがあるのです。これはどういうことかというと,優しさというのを教えていくのに,優しさとは何か,いろいろキーワードが書いてあります。「いろいろな子がいるね」,「けんかしている子がいるよ」,「泣いている子もいるね」と探していって,この子供に「優しさって何」と聞いていくと,この子供は次のシーンで,どうしたらよいかなと,ラッパを吹いて慰めるのです。このようなことの中で,この子供の場合には他者理解ができて,慰める気持ちの部分,動作としては応援するというようなことをする。
 この下の方の子供たちは,ぱっと見ると,「優しい子はどれ」といったら,幼稚園児はここだと言うのです。「だってウサギさん抱っこしているし,ウサギさんちゃんと見ているしと,これ優しいよ」と言う。15分後にどうなるかなと見ていったら,このウサギさん,逃げているのです。この子供たちは飽きてどこかへ行ってしまうんだけれども,このウサギさんをもっと見ていてといって,相手を見ているのです。この場面だったら,この子供たちは実は他者理解は三角形です。どうしてかといったら,相手の気持ちの理解が分からないので,ここで「何でウサギさん逃げちゃったの」というのを聞いてもなかなか分からないので,ウサギさんはどんな気持ちなんだろうか。今逃げている。これは抱き方が悪かったんじゃないの,ぎゅうと抱き過ぎたんだよと,優しい抱き方って何といって,いろいろ縫いぐるみでやっていく。これが優しい抱き方だね,お友達に優しい手の握り方だねと,幼稚園児が一緒に老人ホームとかに交流をしに行ったりしても,老人の方の握手とかハイタッチは,いきなりバーンとやるのではなくて,優しくそっとやるのが優しさだねと,それぞれ子供たちの発達の段階に応じた道徳性の教え方があるのです。だから,この発達をこちらが分かっているかどうか,このような納得の理屈をやるとよいと思います。
 発達障害のある子供たちの場合は,まず入れ方で飽きさせないであげてください。入力だけの道徳の授業だと覚えていないのです。映像を見たり,先生の話を聞いたりしても,24時間から2週間ぐらいは同じなのですけれども,覚えているのは20%だけなのです。教科書を読んだだけの授業だと10%だけなのです。もう翌日には90%忘れてしまうのです。話合いやロールプレイで,実際に自分で何かをやってみると,一気に,脳が全部使われているのです。入力,再生,関連付けです。PISA型の学力でいう,この最後の関連付け,主体的に学ぶというところまで行きます。
 だから,道徳こそまずこちらを使った授業案を作っていただきたい。多分これは次の発表の方がいろいろ例を出してくださるのではないかなと思うのですが,もう一つは,発達障害のある子供たちは集中力がもちません。これは通常の子供でも,50分間の中で,最初の10分は集中しても,ここはダウンタイムといって,もう脳が動かないときなのです。ですからこれをずっとやったら,最後のところで回復しますけれども,大体ここで,先生が今日の道徳はこういうことだよとか,今日の授業はこういうことだよと,先生は活性化し,生徒はずっと寝ているということになってしまうので,これを三つに分けてもらいたい。そういう授業になると,不思議なことに,やはり集中の山ができるのです。一つ,説明を聞きましょうと,言葉とか行動を記憶します。見て学ぶ,聞いて学ぶ。次の15分では実際にやってみようと,この場面だったらどういう判断をする,どういう行動をする,じゃあ練習してみようとなります。最後にまとめとして,自分がどのぐらいできたかなと,自分が難しかったのはどこかなと,三つぐらいに分けていくようになると,集中力がそれぞれ持続しますので,ADDの子供たちでもキレずに道徳の授業を楽しめます。このような具体的なものを工夫していただけるとよいと思います。参考資料に書いた中にもいろいろありますので,御覧ください。
【天笠座長】
 どうもありがとうございました。
 続きまして,今村副課長,板倉指導主事のお二方,よろしくお願いいたします。
【今村副課長】
 熊谷市教育委員会学校教育課道徳教育担当副課長の今村でございます。
【板倉指導主事】
 同じく教育研究所特別支援教育担当指導主事の板倉でございます。
【今村副課長】
 本日は,道徳の時間における発達障害のある児童生徒の指導と配慮につきまして,熊谷市で取り組んでいる道徳教育を交えながら発表させていただきます。 始めに,板倉より,道徳の時間における発達障害のある児童生徒の道徳指導上の困難についてお話しさせていただきます。
【板倉指導主事】
 発達障害について既に皆様は御存じかと思いますので,道徳の授業場面における生徒の特性,特徴を簡単に説明いたします。
 学習障害の子供は,書字,読字,計算,聞いて記憶などをすることに得手不得手,アンバランスなところがありますので,内容の読み取りに偏りが生じるということが多くあります。注意欠陥多動性障害の子供は,注意が移り変わりやすかったり,集中の加減が難しかったり,衝動的なこともありますので,内容の入力がうまくいかない,物事を段階的に踏んで考えることが難しくて,いきなり結論に行ってしまうということが多くあります。特に社会などの授業では,年号と読み物がマッチングすれば,授業の冒頭にいきなり答えを言ってしまい,みんな白けてしまうということがよくあります。自閉症スペクトラムの子供は,冗談や比喩とか相手の考えを推測すること,場の空気を読むことなどが苦手で,友達と考えのすれ違いが起きることが多くあります。
 また,これらの生徒については,誤学習や未学習,不足学習により,友達や先生から言動について指摘を受けることが多かったり,修正を求められたりすることが多くあり,自分では分かっているのですが,なかなかうまくいかないことから,自尊感情等がとても低いという特徴があります。また,まねとか模倣が苦手であったり,一度覚えるとそのやり方を繰り返して,新しい手順がうまく入らなかったりすることも特性としてあります。成功体験よりも失敗体験が多くて,特に中学校段階ですと小学校でいろいろ,良くも悪くも体験をしていますので,負の体験や失敗体験の方が多いと,2次障害や不適応が多く,活動意欲がとても低下している子供も見受けられます。それらの生徒が言う口癖で,「どうせ」とか「こんなの意味ないし」とかというようなことをよく聞きます。取り組んで何か失敗して,またできなかったんだとか,またできなかったろうというように,こんなの簡単だよ,だからやらないんだと,言い訳みたいなことを言い,自分自身を傷付けないように振る舞うことも多くあります。
【今村副課長】
 それでは,道徳の時間をどのように取り組めばよいか熊谷市として各学校の先生方にお願いしていることを,お話しさせていただきます。
 まず,充実した道徳の時間にするために,リーフレットを各学校に配らせていただいています。お手元にはないのですが,道徳の時間にどのようにすすめればよいのか,どのように指導すればよいのかというような内容を分かりやすく,どの指導者,若手もベテランも誰でもできるような分かりやすいリーフレットにまとめて,市内1,000人近くの教員全てに配って,道徳の授業の見直しを図っております。そうしたことで指導力の向上を図っております。
 先ほども言いましたように,誰にでも分かる授業ということを目指しています。そのために,可能な限り目に見えるようにする必要があるのです。この考え方は,発達に障害のある子供たちへの指導にも有効です。目に見えるようにするというのはどういうことかといいますと,熊谷市では,宮澤章二の「行為の意味」の一部抜粋なのですけれども,「心は誰にも見えないけれど,心遣いは見える」「思いは見えないけれど,思いやりは誰にでも見える」という言葉をキーワードにして,心の中は見えないので,思いやりの気持ちをもっていても,思っているだけでは気持ちは相手には分かりません。行為に表すことが人の道であり,また価値あることであり,そしてそれを教えることが道徳ですということを全教師に伝えております。そのために,学習活動を目に見えるようにして,道徳の授業を分かりやすく展開するということを目指したものです。
 読むこと,聞くこと,書くこと,話すことなど,それぞれ個々に苦手な子供たちにも対応できるものと捉えております。これを道徳的実践力の見える化として,研修会や訪問のたびに教職員に指導しております。具体的には小学校の学習指導要領解説にあるこの7点を中心に取り組みますが,その中で何点か説明をさせていただきます。
 まず1点目の資料を提示する工夫,こちらの方を,導入場面でねらいとする道徳的価値への方向付けを示すために,主題に対する興味関心を高めるとために,写真やモニター,アンケートの結果を模造紙にまとめます。また,パネルシアターにしたり動作化をしたりして,資料を提示する工夫を図るようにお願いしています。
 また,3点目の話合いの工夫ということで,こちらでは,意見を出し合う,比較する,まとめる,ペアで話し合う,3,4人のグループで話し合う,また,同じ意見の人同士など,そういった場面の中で自分の考えをはっきりさせた上で,ディベートなども導入しております。
 四つ目の書く活動の工夫ということにつきましては,ワークシートを活用したり,ワークシートもただ紙に書くだけではなくて,写真に吹き出しを付けて,そこにどんな言葉を入れるのがよいのかという内容のものや,手紙形式にしたり,附箋などに自分の考えを書いてから発表させたりしております。
 5点目の表現活動の工夫,こちらにつきましては,役割演技や疑似体験をさせることで,登場人物の心情を,より分かるようにします。また,心の窓,この後写真でお示ししたいと思いますけれども,自分の心や,読み物資料を使った場合の主人公の気持ちを色とか形で表現させるような教具を使って,心の度合いを主体的に考えさせるような展開もやっていただいています。また,それが友達と自分の気持ちの違いが周りの人に分かるように,これを見える化して授業を行っております。
 そして6番目の板書を生かす工夫,こちらにつきましては,キーワードや短冊,絵,写真,それから配置,カードやネームプレートなどを使い,劇場的に視覚化し,思考の流れが見えるようにしております。
 その中で今後重点的に研究をしていかなければならないと考えているのが,スキル学習です。実践につなげるための橋渡しの役割と捉えておりますので,役割演技や話合い活動を積極的に授業の中に取り入れて,自分自身の問題として深く共感できるように授業を工夫してもらっています。また,体験活動での実践も大切であるとともに,授業の中にこれらの活動をどう位置付けていくべきかというところを,今後各学校の先生方にも指導していきたいと考えております。思っているだけでは道徳の授業としてはまだ不完全です。やはり実践にどう結び付けていくかというところを主に考えていくことが必要です。
 こちらの写真は道徳の授業で,資料の中の具体的な状況を,このように立体的に,工夫して,その場にいるかのように,読み物資料の雰囲気づくりをしている授業風景です。このようなものを学年等でお互いに作って,よりその場面に近付けて心情を読むというような学習内容です。学習活動を目に見えるようにすることは,イメージすることが苦手な子供たちにとっては資料の内容や情景が分かりやすくなります。読み物資料を活用する道徳の授業については,内容を理解しなければ,ねらいとする力を育むことはできません。その第一歩として,資料を分かりやすく提示することに心掛けております。
【板倉指導主事】
 発達に偏りのある生徒にとって,言葉による説明や解説等の音は形に残りません。短く端的に説明をするならともかく,長々と状況説明があると,その説明の中にある大切なキーワードを記憶にとどめることが難しく,今まで得た情報をこれからの活動に結び付けて考えることが大変になります。しかし,具体的な情景を視覚教材として提示することにより,登場人物の心情や場面,情景等をイメージしやすくなったり,また共有しやすくなったりしますので,それらのことから考えを深めていくことができます。また,視覚教材は音声と異なり,消えてなくなることがありませんので,見直すことができ,振り返りやすくなります。そしてまた,そのことにより考え方をまとめやすくなるという利点があると考えております。
 また,注意欠陥多動性障害の生徒にとっても,情景の変化や場面などを視覚化した教材を時系列に沿って提示することで,情報が整理しやすくなり,順番を待って授業が受けられたり,衝動的な生徒にとっても順序や手立てが明確になり分かりやすくなったりするので,有効な支援教材となっております。
【今村副課長】
 こちらの写真は,心の変容を見える化するということで各学校には取り組んでもらっている様子です。大切なことは,登場人物の考えや自分の考えを表現したり,周りの考えに触れたりする経験を積み重ねるということです。読むことが苦手な子供も教室には何人かいると想定し,可能な限り見える化するよう指導しております。話すことが苦手な子供には,この写真のように登場人物や自分の心の変容をわかりやすく表現できる教具を使用しています。これは小学生だけではなくて,中学生にも効果的です。例えば上の二つ,こちらの2枚につきましては,心の中のAとBというような気持ちがあるとして,それが100%のうちのどのくらいの割合を示しているかというのを各自で考えさせているところです。そして左下の場合は,始めの気持ちがこちらの矢印とするならば,授業を進めていく中で気持ちが青に近付いていくという,始めの気持ちと後の気持ちが分かるように表現して,これだけ気持ちが変わったというのが自分にも周りの人にも分かるように工夫された教材です。また,こちらの右下につきましては,例えば赤と青の,こういった割り箸に付けた画用紙を持って,どちらかということを子供たちに考えさせる。微妙な心の変化が捉えにくい小学校低学年に有効と考えて,この二者択一で気持ちを表現させているという写真です。
 これは中学生の写真ですが,附箋を使って,まず自分の考えを確認した上で話合いをしています。頭を寄せ合って,自分の考えをシートに作り上げて話合いのベースを作る様子です。また,ワークシートを使ってじっくりと自分で振り返らせることも特別支援学級の担任からは有効だということを聞いています。ほかの子の考えを聞いたり,理解したりしやすい取組となっております。
【板倉指導主事】
 挙手をして答えるとか,文字に書いて表現することなどが一般的な考え方や意見の発表方法ですが,言葉で考えを発表することや聞くことが苦手な生徒にとって,自分の気持ちや友達の気持ちを形で表現すること,形で知ることは,情報の収集に負担が少なく,授業参加しやすいため,学習に主体的に取り組んでいる実感を持ちやすくなります。そのようなことから,当然道徳的価値にも迫りやすくなります。
【今村副課長】
 構造的な板書計画では,この写真のように,場面絵といいますが,道徳の資料のそれぞれの大事なところの場面絵を貼ったり,キーワードとなる言葉を提示したり,発問を分かりやすく色分けしたり,このような短冊を貼ったりすることによって,より視覚化し,印象に残りやすくすることを考え,学校の先生方は板書計画をしっかりと立てて授業に臨むことが大切だと伝えています。
【板倉指導主事】
 学習内容や活動が一まとまりになっている板書は,見通しをもちやすく,振り返りが行いやすいため,情報の収集が断片的になりやすく短期記憶の保持が苦手で心情の読み取りが苦手な生徒にとっては,とても有効です。また,文脈がいろいろ散らばってしまう生徒にとっても,流れがしっかり把握できるということで有効と考えております。
【今村副課長】
 表現活動の工夫として先ほどもお話をしましたスキル学習の一つとして,役割演技というものがございます。中学生でもこのように,可能な限り役割演技を導入します。こういったスキル学習の後には,自分の感想をみんなに伝えたり,見ていた人の感想を発表したりしますが,実際にやってみると,生徒からの感想では,登場人物の気持ちが実感できた,どのタイミングで言えばよいのか分かったとか,実際にこのような場面に出くわしたときは行動できるような気がするという感想を子供たちは持つということが分かっております。
【板倉指導主事】
 比喩や冗談とか暗黙の了解などを理解することが苦手な自閉症スペクトラムの生徒には,当事者の立場に立って物事を考えることや,物事のやりとりを客観的に把握して考えること,他者の心情や場面情景を理解するということに,ロールプレイ,役割演技はとても大切,重要,効果があるということを実感しております。
 様々な特性のある生徒に対して,道徳でも指導,評価を行うわけですが,今まで以上に生徒一人一人の特性を把握することが大切だと考えております。それは教師の主観による生徒の実態把握ではなくて,本人や保護者,外部機関等から情報を客観的に,正確に収集する必要があるからです。実態や特性をしっかり把握したら,特別支援教育にある自立活動の視点なども導入し,必要に応じて個別の指導計画なども立てる必要もあると考えております。それでも実際に道徳の授業を行った場合,心情や場面の把握が難しく,突発的な意見や物の考え方をしてしまう生徒がいると思いますが,それらの生徒の言動をマイナスとして捉えるのではなくて,多様な意見として取り入れられることが大切です。そのためには,月並みな言い方ですが,学級経営やふだんの教室の雰囲気がとても重要だと考えております。また,書くこと,読むこと,推測することが苦手な生徒への評価は,ワークシート等の成果物とともに,支援計画などをしっかり立て,細かい聞き取りなどから日常における行動の変容,確認,評価のポイントを支援計画に記載するのも大切なことになるのではないかと考えます。
 実生活と,授業で学んだ道徳的価値のずれなどが生じることもあると思います。自分は決まりやルールを守って生活しているのに,守らない友達がいて,それに悩み,不登校になってしまった自閉症スペクトラムの生徒の話を聞いたことがありますので,そのようなことを考えますと,道徳の授業とともに,教育活動全体で行う道徳教育,日々の学級経営は,本当に大切なことになっていくのだなと考えております。
 最後に,本市中学校に設置してあります発達障害・情緒障害通級指導教室では,学習や生活上の困難を自ら解決し,主体的な生活を送るためには,自分の性格や特性を知ることが大切ということで,自分探しという主題を設定し,自立活動の指導を行っております。これは専用のワークシートを用いて,個別やグループ学習を通し,自分の特性を認め,自覚を深めていくものです。このようなことを道徳の授業で用いるノートやワークシート,補助教材に,その生徒がポートフォリオ的にまとめていくことで,自分の取扱い説明書といいますか,自己理解ができる成果物を手に入れることができ,また,Q&A的な解説書が手元にできるということで,学校生活が送りやすくなり,また道徳の時間に身に付けたことが日常生活で実践され,汎化されるのではないかと考えております。
【天笠座長】
 どうもありがとうございました。
 続きまして,御発表いただきました内容を踏まえまして,委員の皆様より発表者への御質問,御意見などをお願いできればと思います。
【樋口委員】
 私もいろいろな子供に接していますけれども,本当に幅広いなということを感じておりまして,まず宮本センター長から,教えるとできるというお話がありましたけれども,どうして定型発達の子供は教えなくてもできるようになるのか。今お話を伺っていて心配になったのは,自分も本当は,できているつもりで分かっていないことが意外とあるのかなということです。どうして定型発達の子供は,自閉症や自閉スペクトラム症の子供が分からないことが自然に獲得できるようになるのかなということを教えていただきたい。
 それから,大人の自閉症の方のお話をいろいろ伺っていると,大人になってからもどんどんいろいろなことを身に付けつつあるといいますか,すごく努力していろいろなことを身に付けて,こんなことが分かるようになりましたという話を聞くのですが,発達し始めが遅れる分,ずっと発達し続けるのが彼らの特性なのかなという気もしているのですが,彼らが大人になってから成長し続けるために,子供のときの経験とかというのが実は生きているんだよということであれば,我々も道徳をしっかり教えるのはすごくやりがいのあることだなと思うのですが,そのあたりのことを教えていただきたいと思います。
 それから,本田教授の練習と納得という言葉が,私はすごく印象に残っているのですけれど,その練習というのは,いわゆるできるようになるまでやりましょうねという練習ではなくて,本人に理解をさせながら,コントロールされた状況下で体験させるということなのかなと思ったのですが,そうすると全体の中で指導することは結構難しいのではないのかという気がしたのですが,最後の方で授業全体の構成の工夫というのを伺って,全体と個別の対応というところの違いを教えていただけたら有り難いと思いました。
 それから,実際には板倉指導主事と今村副課長の熊谷市では,中学生ならばこんなことは分かるはずだ,これは当然だよねというふうに考えてはいないということだと思うのですが,現場感覚として,以前の中学生と今の中学生と道徳性の面ですごく印象が違うのではないか,分かっている度合いが違っていると感じていらっしゃるのかなと思いました。かつてであれば小学生の何年生ぐらいのレベルの子供から,これくらいのレベルの子供までいるような幅がありましたら,教えていただけたら参考になります。
【宮本センター長】
 二つ御質問を頂いたと思います。1点目は,なぜ定型発達の子供は,ある意味自然に分かるのかということです。これは,結論から言えば分からないです。どうして彼らが,あるいは私たちがそれができているのか,そして,私たち自身も,自分が思っているものは本当に相手もそう思っているのかというところを突き詰めたら,これは怪しいのです。ただ,その領域を研究するのはいわゆる現象学という哲学の分野になります。結局心というものが何なのかということを考える場合,これはいろいろな次元がありますが,これはむしろ私個人というよりは,そのように考えている人たちもある程度,少なくはないのですが,心の起源は,運動だと思っています。心というのは基本的には運動から始まっている,つまり,進化の過程で,人のような心がない動物や虫もいるわけですけれども,感情というのは人間の脳では前頭葉で行われております。情動は別です。情動は,先ほど本田教授が言われたように,中心部の大脳辺縁系とかで行われますが,いわゆる人間のもつような感情や,あるいは更に高いレベルのアフェクションという高等な感情は前頭葉の機能になります。人の脳というのは中心溝という真ん中の脳を境にして,前3分の1と後ろ3分の2に大きく分かれます。前3分の1は,運動に関する機能が全てそこに入っています。後ろ3分の2は感覚に関する機能が全てそこに入っていて,そしてそれぞれ感覚機能,運動機能から発展してきた高次の脳機能も,全てこの3分の1,3分の2にきれいに分かれるのです。
 感情というのは基本的には,私たちが相手の感情が分かるのは表情と音声,プロソディーです。私たち自身も自分の感情を表出するのは,ほとんどが表情と音声,プロソディーです。もちろん姿勢,態度もありますけれども,表情というのは顔の筋肉の動きです。プロソディーも基本的には発声する運動機能です。態度も基本的にはやはり体の動きです。表情が一番分かりやすいのですが,表情というのは表情筋といって,顔の皮膚と顔面骨という骨の間にいろいろな小さな筋肉がたくさん付いています。この筋肉を微妙に動かすことでいろいろな表情が出るわけですけれども,このことは,逆に言うならば,顔の表情筋が多ければ多いほど,その人は表情が豊かである,つまりその種の生物は感情が豊かだということを意味します。これは逆に言うと分かると思うのですが,哺乳類はある程度表情筋を持っているので,犬とか猫には感情があります。でも,例えばカエルに感情があるかと言われたら,多分ない。カエルの表情筋はほとんどないのです。だからカエルがハエを捕って食べておいしいと思っても,おいしいという情動レベルの快感はありますが,うれしい,楽しいと思っているかといったら,多分思っていないのです。
 今お話ししたのは,感情というのは運動,これは卵と鶏なのですが,運動がベースにあって発展してきたと考えることができる。そして情動,感情から,よりもっと広い心が生まれてきたと考えると,運動と関連します。そしてもう一つ大事なことがありまして,これはよくSADで言われるミラーニューロンとか言われますが,私たちが心の問題を考える場合,例えば共感とかそういうことを考えても,相手の人の気持ちを考えるという,共感性というのは基本的には感情の理解ですが,SADの心の理論とかミラーニューロンというのは,むしろ相手の意図を理解するということで,気持ちを理解するのとは意味が違うのです。これを非常にシンプルな命題で考えると,私たちは,例えば非常に混んでいる駅の中を歩いて,向こうに自分が行こうと思っているときに,向こうからも人が歩いてくると,ほとんどの方は,無意識的と言ってもいいくらいに,微妙にぶつからないように行きます。時によけようと思ったら相手も同じ方向によけて,ぶつかりそうになることがありますけれども,これは相手の動きの軌跡を読んでいるわけで,明らかに相手の意図を読もうとしているということになります。
 私の大学に山海教授という方がいらっしゃいますが,彼はHALという介護ロボットを作った人です。あのHALのロボットの一番のポイントは何かというと,つけると皮膚の表面の非常に微弱な電気を拾うのです。この電気は何かというと,脳でこの手を動かそうと思った瞬間に,筋肉が動く前に伝わっている電波を拾って,それに合わせてその筋肉をアシストするようになっている。つまりHALの一番のポイントは,運動しようと思う意図を先にキャッチしてできているというところです。これは明らかに心を読んでいるということになります。
 私たちは自分の動きも,自分がこうしようと思ったときに,自分が動こうと思ったそのとおりに自分の体が動いたときに動くかどうかを常にフィードバックしながら自分の行動を調節しているわけです。同じように,相手の人がこう動くはずだ,こうするはずだと予測することがそのように動いたときに,ぴたっとはまったということになる。これが心の共感性の始まりだろうと思います。恐らく定型発達の子供たちは,情動調律という言葉を使うとちょっと分かりにくいですが,基本的には動きの予測と,それが自分が思ったとおりに相手が動いたり,自分がこうしようと思ったのがうまく動いたりするという,言葉ではないレベルでの分かりが出てくるのかなという感じはあります。
 そこに関係する脳の機能が,最近少しずつ分かってきてはいますけれども,でもそれはかなり要素的な問題であって,本当にそれがどう集合すると,私たちが今子供たちを見るように,あるいは私たち自身がそうであるように,あたかも分かったという,本当はこれも錯覚なのですけれども,そのような形で生活できているのかというところまで到達するのかというのは,正直言うとよく分からないです。
 でも,とても大事なポイントがありまして,定型発達の子供たちは,基本的には教えられなくても確かに分かっていくのですね。でも発達障害の子,特にSADの子は,教えられないと分からない。つまり言わなくて分かることが,彼らは言われなければ分からないというところは押さえておく必要があると思います。それから,大人になっても発達するのかというと,基本的にはそのとおりだと思います。ただ,大人になって発達する場合の方向は二つありまして,これは発達という言葉は適切ではないと思いますが,SADの人たちは,彼らの言語理解,言葉の理解と表現力が高まることで,周りが本当によく分かっていくのですね。と同時に,かつて分からなかった自分の状況を理解できるようになる。
 そこで二つに分かれるのですが,それはそういうことだったのかと,あるいは,これからこんなふうにすればよいのだなということで,これは実際には本当の意味での納得ではなく,問題が起こらないようにするためにはこうすればよいということは理解する,それである程度適応できるのが一つです。もう一つは逆で,むしろ過去の出来事にとらわれてしまい,自分は友達と一緒に遊んでいると思っていたけど,自分は本当はからかわれていたんだということに気が付く。これは過去の出来事の再トラウマ化といいまして,これはものすごく大変です。つまり,それはもう過去に起こったことで,もうどうしようもないことなのですが,彼らはそこに執着するので,堂々めぐりしていきます。このどちらに行くかは,その人の情緒がどれだけ安定しているかで決まります。その情緒の安定は,親子関係で決まります。もちろん先生方との関係でも決まると考えてよいと思います。
【本田教授】
 学びのスタイルというのが違うということでお話ししたいのですけれども,一つの学級の中で道徳をやりたいという場合に,インクルーシブで,一斉授業は無理です。ただ一斉ではなくて,学びのスタイルに分けてグルーピングをしてもらいたいのです。グルーピングをすると,文字で見た方が分かりやすい子供,説明は全部可視化した絵の方がよいかというと,絵で分からない子供もいるのです。ですから文字で説明された方が分かる子供は,そこで学ぶ,表現するのも書いていく。目で見て,絵で表現した方が分かる子供,定義をきちんと説明してあげた方が分かる子供で,学びのグルーピングを作ってあげることや,その子供たちのワークシートを変えてあげることによって,一つの学級の中に一緒にいてもできます。
 ただ,発達障害のある子供に対して私が導入しているのは,まずは困った状態に気付いてもらうということです。本人たちは困っていないのです。よりよく生きようという道徳は,とても高いレベルなので,まず困っていただいた状態,例えば友達とけんかをして,一緒に帰ろうと言ったのに置いていかれてしまった。そのときに悪口を書いたら,もっと怒られてしまった。それは困った状態だから,置いていかれたときに悪口を書いたということ自体がいけないので,そこの部分が何でいけないのかを,まず個別にきっちりお話をした上で,目標としてはお友達と仲よくしたいんだよねと言うと「うん」と答えます。お友達とは仲よくしたいし,遊びたい。なぜなら,楽しいからです。そのために,どうしたらよいかなというのをじっくり個別に話をした上で,それに関係することが道徳の時間,次のときにはこうするよと見通しを立てます。何回目のときにはこんなことをやってねと,これをずっとやっていくと1学期の後にはお友達とこんなふうに遊べるようになるよとか,クラスの中の役割もすごく楽にできるようになるよと言うと,「やる」と言うのです。乗せていってから,それぞれの普通のクラスの中でやり方を工夫していただく。
 その後に,最初は似たグループでやるのですが,私は混合にします。ADDとSAD,一緒にします。楽しいですよ。お互いに全然反対のことを見ます。ミラーニューロンが活発に動いて,そのように発想が飛ぶんだとか,あのように断ってよいのだとか,この子は根性あるななど,お互いのよさもあり,自己理解が終わると,すごく面白いグループができています。そこは先生方のファシリテーションの問題なのですが,そういったことも学びのスタイルとしてつなげていただけるとよいと思います。
 もう一つは,やはり親御さんなのです。先ほど宮本センター長もおっしゃいましたけれども,親御さんのサポートをしっかりしていただきたい。親御さんは諦めてしまうのです。だからルールで先に指示した方が,親としては子供を動かしやすくなるのです。待っているとしんどい。でも,親御さんに,子供の状態を「今日はこんなことを学んで,授業中にこんなことができるようになりましたよ」とお伝えしていくと,やっている行動の意味を親御さんが分かるように,翻訳できるようになります。家でいっぱい褒められる,いっぱい認めてもらえる,そして待っていてもらえるとなると,ゆとりが出てくるので,親子関係がすごく穏やかになっていきます。そういう安定,セロトニンをいっぱい出していただいて,安定感を親御さんにもっていただきたい。やはり親御さんの障害の理解とか,親御さんに具体的に,子供の行動を分かるように伝えてあげたり,道徳でこんなことをしていると意図を伝えたりして,家で反復練習をしていただき,このように声掛けをしてあげてくださいと伝えることがよいのではないかと思います。
【板倉指導主事】
 飽くまで実感で,科学的,数値的な根拠がなく,大変申し訳ないのですが,道徳的なことや規範を守るということは,全体的にちょっと緩く,低くなっているような実感はいたします。あと一つ大切なのは,例えば通級指導教室に通って,自立活動を受けている子供は,自立活動とともに学習の偏りがあることもありますので,考えることが難しい子供は,自分をコントロールするとか道徳的な価値を見いだして,それに基づいて行動していくことが苦手なように感じています。幅があるというのは当然ですし,健常の子供は普通に,当該年齢の活動をしていますので,年齢相応のいろいろな学力,道徳的価値,規範意識をもっています。そういう道徳的な価値と学力的なものの幅は,私はリンクしているように感じています。学力が全て道徳に結び付いているとは思いませんが,苦手さを併せもっているというようなところの幅とか意味はとても大切で,しっかりと解釈する必要があるのではないかなと考えています。
【古屋委員】
 これまで発達障害のある子供たちには個別の教育支援計画とか指導計画に基づいて様々な学校教育を行ってきたわけですが,それをより一層,道徳の指導においても活用していくという視点はどうでしょうか。本田教授におかれましては,アセスメントと特性別の教育目的,このあたりは特に指導計画の中に位置付けられるのかなと思いました。また,熊谷市さんでも同じように,その評価については指導計画,支援計画が有効であるというお話もございましたので,そのあたりをもう少しお話しいただけたら有り難いと思います。
【本田教授】
 個別の支援計画については,早稲田で土曜講座として,現職教員向けに文科省から発達障害別のプロジェクトを委託されてやっているのですが,皆さんが一番苦労されているところです。行動目標にしていかなくてはいけないので,そのあたりは大変なのですけれども,ここの研修をたくさんしていただければ,道徳はまさにそれが成り立っていくところだと思います。あと,先ほど言いましたけれどもワークシートです。子供たちがどういう思考の段階で到達できるようになるのかということが分かるようなナビゲーション付きのワークシートが工夫できたりすると,とてもいいなと思っています。今,当校の教職の学生たちにもワークシートの作り方について,少なくとも2種類は作ってみようといっているのですけれども,大体最初は真っ白いワークシートを作ってしまいます。このことについてどう思うかと言われても,何をどう書いてよいか分からないのです。「何々についてこういう行動があって,それをあなたならどうしますか」「この人がやったことの気持ちはなぜだと思いますか」それをADDの子供だったらAかBか二つから選びなさいと言います。答えを制限しておかないととんでもない発想で来るのです。それもよいのですけれども,ADDは二つぐらいから選んで,SADの子供たちの場合には,かっちり1行の文章の中にパターンを決めて,「私はこうだと思います,なぜならば・・・・・・」と理屈を書いていくようにしておくと,それぞれの特性に応じた形で同じ学びができると思います。
【板倉指導主事】
 まず個別の支援計画を作る際に,本人と保護者の同意を一緒に作っていきますが,こちら側が作りたいという生徒は非常にデリケートなことになると思います。例えばお医者さんに診断を受けていることが保護者に個別面談等で知らされているなどの前提のがあれば作っていけると思います。支援計画自体は有効だと思っているのですが,作る際に大切にしなければならない部分はこれから検討して詰めていくことが必要になると考えています。
 もう一つは,学んでいく上で自分が気付くということです。自分の考え方がちょっとずれているということに気付き始めるような子供も総じて障害が分かってくるかもしれないので,個別の支援計画をどうするかということも含めて,しっかりと検討すべきことではないかなと捉えております。
【中橋委員】
 感想として2点,お伝えさせていただきたいと思います。
 一つは,先ほどの御発言にも関連するのですが,グレーゾーンの子供への対応でも,発達障害という診断が付いていないケースもあると思います。先ほど保護者のサポートという話も出ましたけれども,私どものところにも,保育所の方からは,この子供は日常生活を送る上でとても気になる,つまり,障害なのではないかと思っているけれども,保護者に上手に伝わらない,保護者は認めたくない,小学校に上がる前の健診でひっかかってくれば,そのときに保護者に伝えることができるのではないか,でも健診ですり抜けてしまうようなケースのときに,どうやって保護者に伝えるかという相談が具体的に結構あります。それも自治体によって若干チェックの色合いが違います。少しの程度でも気になり,障害なのではないかと診断するところもあれば,受皿が足りないからなのか,実際の事情は分からないですけれども,割とするっと通してしまうようなところがあるのではないかなと現場では感じています。そうした診断名は付かないけれど,やはり通常の子供とは少し違うなとか,気になるというような言い方をします。そういった子供の保護者がそれを受け入れられていない場合に,先ほどのような一斉授業が無理で,グルーピングをして,そういった中でやっていくということが,保護者が後で聞いて受け入れられるのかとか,そのあたりのサポートをどうするのかということが少し気になりました。
 もう1点目なのですが,熊谷市さんの発表の中で,日々の学級経営の中で道徳性をどう培っていくかというのも重要だというようなお話がありました。ここの場ではふさわしくないかもしれませんが,文部科学省として道徳を教科化していくということはもちろんなのですが,厚生労働省でもやっている放課後子供教室があります。その指導員が放課後児童支援員となるための研修が今年度からスタートしていて,指導員は全員,5年以内に放課後児童支援員という研修を受けないといけないということになっています。そうした中でも,やはり学級経営よりも放課後に,1年生,2年生,3年生,4年生という異年齢の子供が放課後の結構長い時間,特に夏休みとかには,一日過ごす中で,非常に御苦労されていらっしゃるようなところがあります。苦労をしていると感じてくれればよいのですが,あの子供がいるからうまくいかないとか言わずに,日常の生活の中で,その気になる子供にどう向き合うかとか,どのように時間を過ごしていくのかということが,少しまだ浸透していないと思います。ただ扱いにくいというだけで,道徳性の段階に行くまでに至っていないような感じがします。
 そういう意味では,省庁で連携して,放課後の支援員さん,指導員さんにも,障害のある子供にどうやって伝えているのか,道徳性をどうやって育もうとしているのか,伝えているのかということを,是非伝えていただきたい。学校とも連携しながら,放課後の教室の中でも授業が反映されて,運営しやすくなると思います。また,先生と放課後の支援員さんとの連携がうまくとれている自治体と,とれていないような自治体があるように思いますので,そういったところをしっかり連携しながら,日常生活全体通して子供を見守るという体制をつくっていただければなと思います。
【島委員】
 スキルと道徳性というものを整理して捉える必要があると思います。スキル学習と,いわゆる道徳の時間というものを分けておく必要があるのではないのかと思います。できるようになるまでずっと繰り返しやるというのは,ある意味スキル的なものになるわけですけれども,そうではなくてやはり,スキルというものを使うためのものです。その意味で,本田教授に伺いたいのですが,本田教授の「納得するために必要な要素」のペーパーの一番上に,判断の中核になる道徳心,あるいは一番下に,納得の理屈は争い場面においてどのスキルを使えばよいかを決める道徳の働きを助けるものであるとおっしゃっています。私は,納得の理屈というものがまさに道徳的な心情であり,判断力であり,実践意欲と態度につながるものである,それはまたスキルとは別のものであると捉えたのです。
 例えば正直とかルールということについても,自分にとっての喜び,相手にとっての喜び,社会にとっての喜びという広がりが,これは心情というよりも判断的な,認知的なものだと思うのですが,そこをそれぞれに応じてやはりきちんと押さえていくことが大切だということをおっしゃったと思います。例えば第1段階Aの社会のルールの存在を伝えるという段階の場合の,納得の理屈というのはどういうものを指すんだろうか,それとスキルを使えばよいかを決める道徳の働き,この納得の理屈が道徳性と捉えてよろしいのでしょうか。
【本田教授】
 試行錯誤をしながら,抽象的なことを教えても分からないし,スキルだけでも場面に当てはまらないしというところで作り出していたのが,ここのサポートの部分なのです。納得の理屈でやっていくと,「そういうことか」と,自分の行動にしてくれるのです。それ以外でルールだと言うと,無理やりやらされている感じがある。「友達,僕要らないもん」となっている子供たちがいる場合に,「家でやろう」と言ったら,「そうか,家でなら自由でいいんだ」「一人でならいいんだ」ということになりました。「ここは学校だよ」と言ったら,「そうか,学校だからお友達と話をするんだ」となります。「何で宿題やるんだよ」と言っても,「宿題を決めるのは先生なんだよね」と言う。「でも,その量をあなたは交渉することができるよ」という理屈を示してあげると,「そうか,じゃあ何ページにするか,僕,相談してきます」と,そのようなことができると,漠然とした全体のところでは嫌だという不快感になっているものを,切り分けてあげられます。心情は難しくても,欲求というレベルで,感じやすいもの,理解しやすいものにしてあげる。彼ら自身が自分自身を操作しなければ道徳性って発揮できません。だから,そこが何とか自分自身でも,自己中心的に嫌だという子供が,自分の欲求をちょっと抑えてでも先生の話を聞くと,より自分にとってお得かもしれないといったことが分かるようにするお手伝いとして,そういう教え方もあると思います。これ自身が道徳というよりも,道徳性を育てていくお手伝いの部分ではあるのですが,そういったところで使わせていただいています。
 だから本当にスキルだけやると,ソーシャルスキルは,健常児で発達していれば,6回やればエビデンスとして効果があると言われています。ただ発達障害のある子供たちの場合には,「こんなの使わなくたっていいです」「挨拶要りません」「仲良くする必要ないです」「僕一人の方が楽しいです」とか言われます。「お友達と仲よくしよう」とか「挨拶しよう」「挨拶されたら挨拶を返そう」と言っても,「意味ないじゃないですか」とか言われてしまいます。だから,「おうちではいいよ。ただ学校の中では,これはエレベーターに乗るときにボタンを押すのと一緒です。」と言うとすとんと入るのです。「じゃあ1回こんにちはと言えばいいのですね」「そうだよ。言わないと,うるさく,言うまで言われるでしょ」「うん」「それ嫌だよね」「うん」と,「教室に入ったらおはようございます」「社会にはマナーというのがあるんだよ」などマナーのシリーズでレベルで上がっていくのですが,彼らがより分かりやすくするために,社会に出ていくためには覚えた方がより自分が楽だということで社会のルールを入れています。知らないでいくと,結局いつも注意されたり,文句を言われたりして,自分の好きなことができなくなるのです。守った方がより自由だという感じでその社会のルールを入れると,割とすんなり理解して,「そういうことなのですね」「休み時間はやっていいのですね」「こっちだったらやっていいのですね」と言ってくれることもあります。
【柴原副座長】
 2回にわたり発達障害のある子供たちへの道徳教育上の課題と配慮等について,具体的な説明を頂いて協議してきました。改めて考えてみますと,今日そうした子供たちに対する,まさに一人一人の,その子供なりの学びの方法とか,学びの歩幅,そういった特性をしっかりと理解して,その中で,例えば具体的には個別の支援計画,指導計画の取組も言われたわけですけれども,私も校長時代,特別支援学級の取組でまさに,7,8人それぞれに,友情なら友情を扱ってもそれぞれに目標設定が違うのです。多くの通常学級の中でも,本来はそうだと思います。道徳的価値の自覚という非常に重要な概念がありますけれども,納得というのもあります。その納得の仕方のいろいろな条件整備というのは,子供によって違うのです。本当はそれがしっかりと,条件整備,環境が整えられたら,それなりに納得できるのではないかなと思いますし,今日ずっとお聞きしていて,道徳教育上大事にしている,例えば体験と言葉,明確化,視覚化,共有化,全てこれは発達障害のある子供たちに関わる,方法論上も非常に重要なものだと思って,2回にわたりましていろいろ教えていただきましたし,本当に今後の道徳教育の充実にも資する内容を十分意識してこれからの協議を重ねていきたいと考えています。
【天笠座長】
 私も,発達障害の子供への配慮というテーマの設定でありますけれども,いろいろお話を伺い,皆さんの意見等を聞きますと,これからの道徳教育を考えるに当たっては,限定的なことではなくて,改めてこれを全体との関わりの中でどう受け止めていくのか,生かしていくのか,そういう視点の検討が改めて必要なのだということを,それぞれの方の発表等を聞かせていただきながら思いました。今日は大変貴重な御発表を頂きました。4名の方に改めてお礼を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。
 それでは,時間が参りましたので,本日はここまでとさせていただきたいと思います。なお,限られた時間の中でありましたので,御意見等があったけれども御発表できなかったという方もいらっしゃるのではないかと思いますので,ペーパー等で事務局の方にお送りいただければと思います。
 それでは,次回の日程につきまして,事務局より御説明をお願いいたします。


○ 事務局から,次回以降の会議の説明


【天笠座長】
 それでは,本日はここまでとさせていただきます。どうもありがとうございました。
―― 了 ――

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初等中等教育局教育課程課第一係

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