資料2 修士レベルの教員養成課程の改善に関するワーキンググループ(第6回)の主な意見(案)

○ 教員の養成、採用、研修という全体の中から、学び続ける教師ということや、教育長も研修をしっかり行うことが言われており、具体的な制度的保障をする説得力のある場として教職大学院が一番のアイテムだろうと考える。今後、10年後から20年間後ぐらいは、採用数が減るという意味で教員の質を上げる大きなチャンスである。
 岐阜県の場合、ストレートマスターの採用に関していろいろインセンティブを与えており、県教委がその気になればやれることである。受け入れる連携協力校も毎年何人か送り出される学生を非常に当てにしており、教員定数のように考えている。同じ数だけ同じところに学生を入れるというのは、非常に学校は有り難いと思っているようだ。
 今後、教師インターン制度がもしできることになれば、それと教職大学院のストレートマスターがどう整合性や有効性を持っていくかということについて、今後整理していかなければならない。
 県教委や市教委が直接大学の養成課程に対して意見を言うとか、人材派遣するということは非常に重要なことになる。他方、教師塾を充実させて、教員養成を行う都道府県もある。恐らくは任命権者が余り大学を信用していないところだと思う。そういう都道府県があること自体は批判しないが、もしそれで本当に任命権者側が効果があると言うならば、そこでやっていることは一体何で、どんな成果があるのかは、今後教職大学院のストレートマスターをどう養成していくかということについてヒントになっていくと思う。
 現職教員に対しては、教職大学院に、マネジメントを学びに行くのだ、幹部候補生であるのだということは、何年かやってくる中で派遣される先生も理解してきた。研修テーマについても教科指導そのものではなくて、マネジメントにつながるものをやっており、できればマニュアルとして多くの人に公開できるようなものを作ってほしいということで、常に進捗をチェックし、何年か繰り返す中で、かなり意識ができていると思う。
 学び続ける教員の姿を具現化する制度としての教職大学院という点からいけば、やはり定数的には不足している。可能ならば、管理職は全て教職大学院で研修を終わっているか、又はそれと匹敵する行政経験を積んでいるか、どちらかが最低条件とすることが今後は必要だと考える。今は、現職から10人派遣しているが、それでは焼け石に水状態である。日本の教員研修の特色として校内の授業研究があるそうだが、それと同等に、教員研修の特色、制度設計としての教職大学院の位置づけを考えた上での大学院の単位や、教員の組織の検討をすれば、県教委側、市教委側としても歓迎できるものになっていくのではないか。

○ 議論の前提として、今後は基本的に、教職大学院に段階的に移行する、教職の高度化を目指していくということを明言している。しかし、それは教育行政や委員から話があったように、学校現場や教育行政が是非とも教職大学院こそが教員の資質を上げて高度化する上で不可欠の機関であるということがあまねく広がらなければ、大学側が勝手に動いても、それは意味がない。
 教職大学院に対する見方は各県温度差がある。教師塾でいいのではないかという議論もある。そういう点では、説明があった大学と教育委員会が常設の会議を作って、実際の学校現場や教育行政側から本当に教職大学院でいい人材を養成すべきであるという声が広がらなければ、絵に描いた餅になるのではないかと思う。

○ 横浜市が教師塾を展開しているが、それは学部学生あるいは社会人を対象に、大体土曜日にやっている。その後、横浜市の教員採用試験を受けてもらい、採用するという手順である。いわゆる大学院に行くというのは、管理職希望という人で教育委員会の方から行かせる、あるいは本人の希望があれば、自分がお金を払って、そのかわり休んでいくことができる制度はある。
 今は、インターンシップとか、大学院に入らなければ教職になれないというものではないので、少しでも教師に近い勉強を、教職試験を受ける前にしておくという形である。

○ 教育委員会と連携していかないと絶対にうまくいかない。それは別に教職大学院だけではなく、現実問題として、ほとんどの教員は学部卒なのだから、その辺も全部含めた上で教育委員会と連携するということが必要。
 ちなみに私の大学は、年に1回、必ず教育長、教育委員会の各課長、大学側とで研究協議会をやり、そこでかなり厳しい意見が現場の方から出てくる。それをどういうふうにしていくかということで、大学の教育改革を進めてきたという経緯がある。教職大学院に現職の方を派遣するということになると、財政的な問題もあって、たくさん送るということは現実に難しい。
 そうすると、できるだけ学部卒ではなく、修士や教職大学院まで修了してほしいという形で、最初教職大学院の方にインセンティブがあったわけで、かなり学生さんもストレートで行っていたが、その後、既存の修士の方も大分変わってきたという認識が出てきて、そちらでもいいという形に今はなっている。普通、学部を卒業すると採用試験を受けるが、その時点で受かった学生は教職大学院、あるいは既設の教科教育でもいいが、そこに入学して2年間やれば、その間は待つという形で教育委員会と話がついており、教育委員会にすれば非常に安上がりに修士レベルの教員をそろえるという形で進んできている。そういう意味で、この教育委員会との連携ということは非常に大事だと思う。

○ 養成は大学、採用、研修は教育委員会という、そういう二分法では駄目だというのが基本的な考え方である。
 最近、和歌山県では教職大学院ではないが、初任者100人ぐらいの中から18人、県教委が選抜して1年間、教職大学院のスタッフが常時学校へ行って研修に協力するというプログラムを作っており、そういう協力の仕方もある。

○ 教育委員会と大学との関係ということだが、今後の教職大学院の拡充方策として、全ての都道府県に教職大学院が設置されることが望ましいとある。それで、こういう新しい動きもあるということを1つ御紹介したい。
 本学には、教職大学院に学校経営に特化したコースがある。結構優秀で年齢も高いという現職教員が派遣されてくる。ある県では、そういう人々に対して新たな役割、ミッションを与えており、使命がある。つまり、専攻している教職大学院のカリキュラムを学べということである。彼らが地元に帰って、地元の大学と協力して教職大学院を作る際の1つの役割を果たしていく、ということである。文科省にそういう事業を申請されているようである。そういう新しい動きもあり、我々も協力しなければいけないなと思う。
 修士課程を残していくということ自体は構わないと思う。養護教諭やカウンセラー、あるいは、これまでの実績等を考えて本当に必要なものは残していくというのは、もちろんよい。ただ、研究者養成という言葉が使われていることがどうしても気になる。実際、これは教員養成系大学の修士課程であり、旧帝大の教育学研究科等の修士課程、あるいは、広島大学の教育学研究科など博士課程まで続くものではなく、いわゆる教員養成系の修士課程である。
 そういったときに、ちょっと具体的なイメージが私には湧きにくい。結果として、本学の修士課程を出た者が博士課程に行くということはあるが、それは例外的である。

○ 教職大学院が実践力のある教員の輩出という方に移行していくという大前提の下で、研究者養成というのがここに入ることによって、結局逆戻りしてしまう心配があるのではないかということは分かるが、移行期間中ということと、今度逆に、研究者養成が全く理論研究のところだけでいいのかというと違うだろうと考える。
 本来であれば教職大学院で指導力、実践力を身に付けた人が今度はドクターで大学教員になり、教職大学院の教員になるというコースがある。それが機能するまでは、教員になろうと思って教育実習もやって、既存の修士の中でそれなりに学校教育現場のことを分かっている人間が、例えば修士、博士課程前期を終わった後、もう少し実践研究をやりたいということで、博士課程に行くという道もまずは必要だと考える。

○ 教員養成系の修士課程から博士課程に進学すること自体を否定しているのではなく、結果としてそれはあってもいいが、現実に数は少ない。ただ、この協力者会議の報告書にこのように書かれると、これは錦の御旗になるので、そこに気を付けてもらわないと現場は非常に困る。実態がないのに、これを主張する人が山ほどいる。こういう全体に通じるような文章にこういう表現が出てくるということは、かなり重みを持つので、移行が進まなくなる可能性があることを危惧するわけである。

○ 修士課程の件は報告書での表現の問題となる。ただ、この制度の問題として、これは移行期なのか、着地点なのかという問題もあるが、そこはそう簡単には区別できない。両方含めても、教員養成大学の修士課程というものは、養護教諭ないしカウンセラーだけというふうに限定するのも、またこれはいかがなものかという意見もあり得る。

○ 共通問題は過渡期という点で、既存の修士についての記述をもう少し工夫した方がいいかもしれないということである。簡単に言うと、既存の教員養成大学・学部の修士が、全てについて、研究者養成として生き残るというような動機を作ってしまうのは危ないということ。

○ 過渡期のイメージが、今全部をきれいに描くことはできないと思う。大学によっていろいろ違う。とりあえず修士については幾つか教科をまとめて、教科教育についても今までとは全く違った教育実践を、学校課題を中心に置いた大くくりの専攻というもので、過渡的にはそういうものをやってみたらどうか。

○ 教員養成の高度な専門職業人は教職大学院でやるんだということは、やっぱりはっきりしておかないといけない。
 それで、その間の移行的なことは当然あるが、そこで大くくりにすれば、教職大学院になるかとか、そういうのは全く駄目だと思う。看板だけ変えたらそれでいいというものではないので、中身もきちんと見ながらやっていかなければならない。しかも、出来上がりのところをきちんと示しておかないと、何となく移行期がずっと続くのでは、これは話にならない。

○ 大学院については、教職大学院に移行するということが明確になっていた方が、これから計画している方々にとっては指針になっていい。
 また、教育委員会との連携をどのように進めていくのかについて、何か具体的な方向性はあるのか。教育委員会側からどんどん大学に働き掛けてくださいという話に持っていくのか、大学側からどんどん教育委員会側に働き掛けてくださいというのか。

○ 教職大学院主体に段階的に移行すると明言し、既存の修士を再編成し、教職大学院の入学定員も増やす。しかし、教育委員会が派遣しなかったり、ストレートマスターが来なくて定員割れしたりということを繰り返したら意味がない。
 教職大学院に行けば、現職を派遣した場合には、後の定員の補充処置なども文科省は応援するというのがあるが、その他にも、政策として文部科学省が国として各県教委に提起する方策はないものか。

○ 教育委員会が、採用試験に合格して教職大学院に行くという人は採用を待ってくれるという話があったが、地元の県の教職大学院に行っている人についてのみの特例ということもある。教育委員会によって違いがある。

○ 2ページの上から3つ目の丸に、専修免許状のことが書いてある。初中局の話だと思うが、結構これは厳しい。これから少子化へ向かった中で、非常に効率のいい教職大学院を作って、それが教師としての本当のプロを作るわけだから、そのときに必ず教科の話が出てくる。そうすると、課程認定と設置基準をもう少し弾力化しないと、効率のいい大学院ができないと思う。

○ 修士を出た方が、高度な専門職業人だということになると、実際現職で教えている先生方は教科を教えており、その中で、専修免許を持っている方が本当のプロだと思う。そういう方をきちんとした形で、教職大学院で養成できないのはおかしい。管理運営はもちろんいいが、それだけではなくて、第一線で活躍するかどうか。
 我が県の場合は小学校と中学校、両方の免許を持っていなければならず、小中間を動くので、中学の専修免許状を持っていなければ、要するに半人前という形になってしまい、教職大学院を出たのに、あなた何ですかということになる。

○ 共通5領域の記載の中に、18年答申「今後の教員養成・、免許制度の在り方について」からの引用として、「開かれた学校づくり」というフレーズがあるが、現在の教育振興基本計画でもはっきりと「地域とともにある学校づくり」というのが入れられており、教育改革は地域とともに、社会とともにやらなければならないということが18年答申よりも更に強く打ち出されていると思う。過去のものに基づいて書いてあるので、現在の状況を書かなければいけないと思う。「開かれた学校づくり」という言葉よりも、「地域とともにある学校づくり」ということで今は推進している。
 それから、教育制度分科会でも、教育委員会制度の見直しとともに、コミュニティ・スクールや学校支援地域本部を推進すると、はっきり3本目の柱として出しているにもかかわらず何も書いていないので、ここはしっかりと書くべきである。スクールリーダーとしての資質の中にそういうものがあるということは暗に分かるが、全ての教員にそれが必要なので、最初の、高度化の必要性のところにも少し加えないと足りない。そういう認識の上で、これからの本当の学び続ける教員が生まれると考える。

○ 共通5領域の記載について、最初の丸は、総単位数は現職も学部卒生も20単位程度を目安にする、ただ、現在のような各領域均等というのは改めようと言っている。次の丸は、現職教員で管理職を目指すコースについて、2領域については履修を減らし、総単位数も六割程度に減少させると言っており、最初の丸と合わせて見ると分かりづらい。
 管理職を目指す現職教員以外の現職教員でも、20単位というのは負担ではないか、という気がする。実際に現職の先生から、他の科目をいろいろと履修したいものがあるが、できないという話も聞くので検討してほしい。

○ 修士レベルの教員養成は、今の割合でいうと教職大学院の方がとても少なくて、既存の修士がとても多い。これを大きくかじを切って、教職大学院を圧倒的な多数にすることが、今回の改革だと思う。そうすると、教科の方をどうするかというのが非常に大きな問題になると思う。現に、教育委員会と話していると、リーダーというのはそんなに多くは要らず、実際は教科を教えている。例えば最近言われている理科離れの中で、理科がどんどん新しく進歩しているので、その再教育を実際は県の研修センターでやっていたのだけれども、とても手が回らないので大学でやってほしいという話に今なっている。
 実際に入学してくる学生たちの考えを聞いても、学部で教科というのは実習等が増えているので非常に少なくなっている。非常に不安なので、修士で自分の専攻する教科をきちんとやりたいという希望がたくさん出てきている。量的に拡大していくわけなので、そのようなものを、この教職大学院で受け入れてあげないといけないと思う。
 そうすると、3ページの上から4つ目の丸で、ここでは今後の教科ごとのコースは設けないという形で整理してある。ところが、教える内容と教員組織というのは密接に関係するかと思うが、4ページの、教職大学院の教員組織の見直しというところの2番目の丸を見ると、教科に係る教育についても、何か新しいような形でやらなければならないようなことを書いてあり、少し中身が矛盾していると思う。
 今いる人たちの看板を変えればいいということでは全くないが、新しい形で10年後なり、15年後なり、そのあたりできちんとした教職大学院で、スクールリーダー、管理職、教科担当をきちんと養成するという、着地点をきちんと示さなければならない。あの改革は何だったんだろうかという話になってはいけない。

○ 学校の教科を軸にした教職大学院のコースの場合は、教員組織もそれに伴って、設定することになる。しかし、教科指導法を軸にしたものについては、例えば理数教科でくくって、その指導法に中心を置いたものはあり得る。

○ まずは教職大学院が極めて少なく、特定の大学にしかないので、量的に広めていかないことにはどうしようもなく、まずそれを優先して考えるべきだ。
 もう一つは、教科も教職大学院でやるべきだと思う。ただ、最後の姿を示すべきなのかもしれないが、そう急には変わらないということもまた確かであり、修士課程にニーズもある。
 現在の大学教員というのは修士課程で教科を教えることになじんでいる。まずは修士課程でその教科で過渡期として繰り返した形での教科教育はきちんとやり、それをだんだん時間を掛けて最終的には教職大学院に持っていくというイメージで書いていると思う。そこが足りないとなれば、最終形もそうだというふうに書いてもらいたい。

○ 教員養成系大学・学部で教科専門と言われる教員は約6割であり、半分より多い。簡単に言うとその教員が余り学校教育について知らないまま専門の教育をしている。それが、教職大学院を強化するからといって、そのまま移行しても、教職大学院の本来の役割は果たせないと思う。だから、教職大学院に移行する場合には、そういう先生方は審査する。そういう意味ではとても時間が掛かる。この6割の教科専門の先生方が本当に学校現場となじんで、学校現場の課題を引き受けて、自分の専門の分野で生かしていくようになっていくのには、10年とか言っていられないぐらい掛かる。

○ 教科教育を一生懸命やっている人も当然いるわけなので、その方たちだけが教職大学院に移ればよく、そうではない人は、当然移ることはできない。ちょうど今、ミッション再定義をやっているので、そこでうまい具合にリソースの再配分等もできる。大学院の最終的な形というのがきちんと示されれば、大学としても学内でのいろいろな調整もすっきりする。それが、何だか奥歯にものが挟まったような言い方で、生殺しみたいな感じになっているのがこの文章かなという気がする。

○ 将来の教員養成学部というのが何であるのかということにも関わってくるが、教科専門がゼロということでは将来的にあり得ないと思う。どういうふうに内容、方法を変えて、本当に学校教育に即した学問的な力量というものが教員養成学部にも必要だと思っている。ただ、現状が余りにも問題がある。

○ 最初のページに開放制という枠をベースにしながらと書いてあるということは、教科に関しては、大学のミッション再定義の中で、文学部や理学部と一緒に考えながらやりなさいよという話であり、教職大学院というのは教科一般のカリキュラム論だったり、方法論だったりというレベルをまず1つの到着点にすると理解している。
 将来の理想形は、教員になるために教職大学院に行って、専門も究めるという形だろうが、議論に出たように、今これをやると、積み重ねてきた部分が崩壊してしまう部分があると思う。
 文章を書くときのお願いだが、スクールリーダーという言葉や、管理職候補者という言葉が出てくるが、管理職登用は当然教育委員会で判断することであり、管理職を希望する本人が、管理職を希望するので20単位を16単位で勘弁してくださいというのはあり得ない。

○ 教科の専門家がもし教職大学院に行く場合、その教科に対するプロフェッショナルだけでなく、教育への理解があれば、理科の先生が理数系の大きなくくりとしての先生として行けばいいというのは理解した。そのときに、大学の先生も学び続けて、変わり続けないといけないのだと思うので、本当に理科教育や、理数系を軸に意欲のある教職員を作りたいという意欲に燃えていて、その教育現場を理解すると、今までなかったものもプラスされて、すばらしいことになると思う。

○ 実務家教員については、一定期間で替わっていくことが望ましいと書いてあるが、この4ページの下から2つ目の丸が中期的には最終目標となる。現在我々がどういう人事をしているかというと、この交流人事ももちろん進めているが、それだけではなく、実務経験と研究能力を持つ人を採用しようとしている。逆に、これから研究者が、研究者として大学に採用されてまた実務経験を積むことも考えているので、この両面を備えている人を増やしていくべきという表現も加えてほしい。
 今は、研究者というのが全く実務経験がない人、一方では実務経験しかない人と、完全な分け方をしているので、そうではないということである。もう一点、6月20日に出された文部科学省の、今後の国立大学の機能強化に向けての考え方では、学校現場での指導経験のある大学教員の採用増という言葉が使われている。こちらはまだ依然として実務家教員ということだが、何か意味の違いが出てきたのか。

○ 教職大学院の入学定員を見ると、50名ぐらいが多い一方、専任教員が最低11名必要である。ダブルカウントしたとしても、少なくとも11人の中の3分の2の8人ぐらいは、フルで教職大学院をやるわけだが、たった50人程度の教育をやっていて、財務経営として成り立っていくのか疑問を感じる。もちろん教育において必要ないろいろな科目等があるのだろうと思うが、例えば、ネット環境を使って専門の先生がどこかにはいる等の工夫をすることは、十分可能であろうかと思う。
 それから、大学院の場合、受講生は目的意識を持って来ているはずであり、いろいろなことを研究してみたいとか、他の方々との連携で新たな発見をするだとか、グループでいろいろ討議することによって、いろいろな知恵が出てくるということを期待しているのであって、教員がべったりとついて教えてもらうというのではないと思う。そうすると、もっと工夫すれば、法人として成り立っていくような環境になると思うので、この最低教員数の問題を入学定員の規模と併せてやるべきではないか。

○ ダブルカウントを認められたとしても、そのダブルカウントされる教員の負担というのは大きく、ダブルカウント教員の負担を軽減しようとする良心的な他の専任教員の負担が増すという状況がある。必要教員はダブルカウントが認められないという方が当然望ましいが、それは理想論で、私学の場合財政的なこともある。現状からして、もしダブルカウントが認められないとしても、何かやっていかざるを得ないということはあるが、当面の延長を検討することでお願いしたい。

○ ダブルカウントは量的な面だけで語られているところもあるが、現実には今、教職大学院のないところが教職大学院を小規模にせよつくる場合、たった11人集めるだけだが、質の問題や教員の志向とか意欲ということがあるので、企業であれば無理やりでも変えてしまうとか入れ換えたりするのだろうが、それもできない。
 だから、質が高くて意欲がある人々を選んで教職大学院をつくらないと失敗する。ところが、そういう人というのは、前の修士課程の仕事もまだ重宝されている。だから、当面ダブルカウントを認めていただかないと、教職大学院を持たないところがつくるにはちょっと困るだろうなと思う。この特例があると、とりあえずの促進剤にはなる。

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