資料8 木岡委員提出書類

学校のよさを引き出す学校評価の再設計

名城大学大学院大学・学校づくり研究科長・教授 木岡 一明

1.「学校評価」の憂鬱

日本の学校で、一般の教職員はもとより管理職でさえも、学校評価に自ら進んで取り組んでいるケースはまだまだ少ないように思える。講演や助言で各地を訪問していると、むしろ、学校評価は煩わしく憂鬱なもので、その必要性や重要性などほとんど実感できないという情況を多くみかける。
「憂鬱な学校評価」にはやらされ感がつきまとう。したくてする評価であるよりも、学校教育法で義務化されたからしょうがなくてやる評価だからである。やらされ仕事は作業になる。作業は単調で追いたてられ感が襲う。そして、多忙感へと変質する。
「憂鬱な学校評価」には徒労感がつきまとう。あれだけ問題点や課題を明らかにしたのに、ちっとも改善されないからである。徒労感が募ると無力感が漂ってくる。そして、現状への諦めが全体を覆う。
「憂鬱な学校評価」には後悔と弁解がつきまとう。一年間を振り返りその時々の慌ただしさが蘇ってくる中で、もっと打つ手があったか、為すべきことがあったかと、自らの至らなさを反省するものの、しかし自分は一所懸命に努力したし、それに応えてくれなかった周りが悪い、条件が悪い、・・・が悪い。
まだまだ憂鬱にさせる理由はあるだろう。「学校評価」は、日本でも少なくとも半世紀を超える試みの歴史を有したものであるが、それが未だに定着していないのは、こうした憂鬱が学校に根深いからであろう。

2.マネジメントの目標と学校教育目標

その憂鬱さの原因は、マネジメントの目標と教育の「目標」を混同していることにある。
マネジメントのサイクルは、よく知られるようになったが、目標設定と目標達成のための計画策定の段階(P)、その計画の効果的実施の段階(D)、実践によって目標がどの程度達成できたかを点検する段階(C)、そして点検結果に基づいてさらなる手だてを打ち出す段階(A)へと連なっていく連続的な過程である。このサイクルは、閉じたものではなく、さらなる目標の達成に向けてらせん的に広がっていくものである。その周期は達成する事柄に応じて、日や週の単位、月単位、学期単位や年単位、中期など多様である。少なくとも年度で完結するものではなく、学校が存続する限り綿々と続く。
他方、教育のサイクルも、マネジメントのサイクルに似てはいる。しかし、違いが大きい。人は生涯かけて学び続け、人格を錬磨していく。教育の目的も「人格の完成」に置かれ、そのもとで崇高な理念と目標が掲げられてきた。しかも、知・徳・体を基本にして感性や情緒に重きを置く伝統的な教育価値観を創り上げてきた。それゆえに、ともすると学校でも、学校教育目標として、たとえば「心豊かでたくましく元気な子どもの育成」といったたぐいの、目指す子ども像を描いた価値表現が好んで用いられてきた。しかし、この目指す子ども像には際限がない。児童生徒が在学する限り、その子ども像の実現に近づく教育を真摯に追求することが学校の使命であり、学校教育目標は、マネジメント・サイクルを構成する目標とは次元が異なり、その使命を書き表したものなのである。だから、「目標」とは書かれているが、進むべき方向性を示した基軸であると言うべきなのである。
しかも、実際の教育場面では、目の前の児童生徒が対象であり、個別性や臨床性が重要な問題となる。そのため、実際の教育内容や方法は学年や教科、学級や授業の単位に個別化され、その実践は児童生徒と対面する個々の教職員の解釈と判断に委ねられていく。つまり、教職員は個々にその基軸に沿った目標を受け持つ児童生徒の実態に照らして自己解釈し、自らの指導や授業を位置づけることになる。その結果、たとえば、長期休業中、基礎・基本の徹底を重点課題として補習教室を開いた教員と、体力づくりや自然とのふれあいを重視して野外教室を開いた教員は、それぞれ熱心に取り組んだものの、子どもたちを取り合って関係がぎくしゃくしたり、学校事務職員としては光熱水費や消耗品費の偏りが気にかかって制限したりで、取り組みが噛み合わず十分な達成感を味わえないといったことが起きてしまうのである。
だから、学校のマネジメントでは、こうした事態が起きないように関係を円滑化し、各教職員の取組が噛み合うように調整することや、重点課題を鮮明にして教職員間で解釈の幅が生じないようにすることが重要となる。マネジメントは教育の効果を高める手段であり、その評価は教育成果の高低がいかなる手段(マネジメント)によって引き出されたかに対してなされるものである。
ところが、多くの学校では教育とマネジメントを一体的に捉えているために、教育の成果(たとえば学力の向上)とマネジメントの成果(たとえば少人数指導の適切性)を混同し、前者の実態(児童生徒間の学力水準)に対して、手段である後者の有り様を点検し実態をより望ましくする方策(場合によっては他の指導方法への転換)を探るのではなく、学校間や教員間の優劣や個々の指導力の問題に留めてしまっているように伺える。だから憂鬱になるのである。
マネジメントの目標は、教育目標ではなくその教育目標(使命)が示す方向に児童生徒を高めていくための手段や方法、取組を内容として定められるものなのである。

3.教育の周期とマネジメントの周期

教育のサイクルは、児童生徒の学年に対応して基本的に年単位で組み立てられるし、各学校においては就学期間が最長のものとなる。また、児童生徒の学校生活に対応して授業や行事や活動の単位が一つの基本単位となり、学校組織に対応して学級や学年、教科、分掌がもう一つの基本単位となる。
このことは、一つには単年度主義を生み出す原因であり、もう一つには、年度末評価が機能しない原因でもある。その背後には、毎年繰り返される異動と入学・卒業、クラス替えによって組織が一旦、ご破算になる問題がある。
せっかく年度末評価を行っても、その評価は次年度の具体的な取組を引き出す根拠になりにくい。クラスや学年団が変わってしまうし、異動による転出・転入によって、前年度の反省や改善点が引き継がれにくい。
だからこそ、各自が自己の業務についてセルフマネジメントを効果的に展開し、さらに教員や事務職員をはじめ様々な職員がうまく持ち味・強みをかみ合わせ、教務部や生徒指導部をはじめ各部・委員会が関連づけられるよう、組織マネジメントを駆動させていく日常のマネジメント(小マネジメント)の確立が求められる。
このような小マネジメントの連続が、やがて中期ビジョンの達成を可能にするのである。この大マネジメントの流れは、その間にいくつも設定された小ゴールに至る中マネジメントの積み重ねであり、全体としてはらせん的に展開するPDCAのマネジメント・サイクルが漸進的に発展的に拡がっていく大きなうねりなのである。
ところが、日本において行われてきた「学校評価」は、学校の自己評価を基本的性格として、1.年度末や学期末、行事終了後に職員会議や各種委員会において協議方式で行われることが多く、反省や結果の確認に終始しやすい、2.教育目標や年度当初の目標とのつながり、教育課程との関連づけが明確にされにくい、3.反省や評価のもとになる資料が校内の教職員に限定されがちである、4.その資料や反省・評価も当事者からの意見や感想が多く、印象や状況に左右されやすい主観性の強い評価である、5.課題は検討されるが具体的な改善策などを論議・選定することが少ない、6.改善提案が生かされず前年度を踏襲するかたちで展開されている、7.管理職や教務主任が中心となって集計や考察がなされるにとどまる、8.そもそも改善指向が強く学校の弱点や不十分さをあからさまにするにとどまる、などの問題を抱えてきた。
憂鬱さの原因は、このようにマネジメント・サイクルが機能していない学校経営システムにある。こうした「学校評価」では、元気が湧いてこないばかりか、生かしようがないと言わねばならない。

4.憂鬱を晴らす学校評価の進め方

そこで、文部科学省が示した「学校評価ガイドライン[改訂]」(以下、ガイドラインと略)に沿いながら、生かせる(元気の湧く)学校評価の進め方を考えていこう。

「学校の自己評価」の進め方

この点について、ガイドラインは「各学校は、学校全体の教育目標とともに、目指すべき成果やそれに向けた取組に関する中期と単年度の目標を具体的に設定する。また、その達成状況や達成に向けた取組の状況を把握するための指標を設定する。」としている。達成目標を定めるには、まずは中長期的な見通しが必要である。その見通しのもとで、自校や自己の耐力を診断して達成可能な目標と取り組みを引き出してこなければならない。
しかし、これまでの学校教育目標は、先にも述べたように達成状況や達成方法が具体的に把握できない、ひたすら努力し続けるしかない向上目標で、しかも、教育にのみ眼を向けて、その教育を保証するマネジメントの視点を欠落さる傾向にあった。目指す姿(目的・目標)と現状とのギャップが「問題」であり、その「問題」解決が質保証である。したがって、現状と対比できる目標でなければならず、また個々の指導や取り組みを直接に問題とするのではなく、組織的・協働的なあり方自体を問うものでなければならない。ただし、学校の活動すべてにわたって微細に見直していては評価が目的化してしまう。したがって、あれもこれもと取り組みを広げるのではなく、どこから着手するのかの優先順序を決め、重点化を図ることが必要であり、それぞれの実態や情況に応じうる目標設定が問題の焦点となる。だからこそ、ガイドラインに記載されているように「学校の教育活動の精選・重点化」が不可欠なのである。
ただし、できていないことをできるようにするのは、相当のエネルギーが必要となる。そのエネルギーが充填されているならば、改善指向の評価も可能である。しかし、あまりエネルギーが蓄えられていないのなら、改善指向はかえって防衛姿勢を強化して「問題」から眼をそらせてしまう。
したがって、長所を足がかりにして、そのよさを活かす方向で取り組みを進めながら効力感を高めつつ、やがて蓄えられた元気や勇気をバネにしてマイナスにも立ち向かっていくという順序が意欲や努力を長続きさせる。だから、まずは長所に眼が向かうようにしていくこと、弱みや脅威もそのままマイナスと捉えるのではなく、プラスに転じる見方や考え方を促す評価視点の開発が重要となる。
ところで、学校評価は、組織的な評価である。そもそも、学校が組織としてのまとまりを欠いているならば、学校の自己評価は成立し得ない。ただし、実態はそうなっていない。したがって、学校の「自己」評価は、まずは教職員個々の自己評価から始めると考える必要がある。しかし、一人ではなかなか困難に立ち向かえない。だから、できるところから、できるときに、できる人が少しずつ動き始め、しだいにその動きに周囲の人々を巻き込んでいくという見通しや手法が有効である。そのためにも、評価結果をもとにチームを組み、試行錯誤を重ねて今の状況に変化を生み出すシステム開発が必要となる。
また学校評価というと、年度末に行うというのが決まりのようになっている。しかし、これまでの学校評価が徒労感を募らせてきたのは、一つには、年度末の慌ただしい時に、この一年間の学校活動のすべてにわたって評価し、実際に誰がその学校に残留するかも明確でない新年度に向けて改善策を立てようとしてきたからでもある。こうした轍を再び踏まないためには、ガイドラインでも「教育活動の区切りとなる適切な時期に行う」として、年度末に限らない柔軟な見方を示しているように、年度末とか学期末など一定の周期末に実施するだけではなく、できる時に実施し、その結果をファイルしていわばポートフォリオのように累積的・形成的に取り組んでいくことこそが大切である。

学校関係者評価(外部評価)と評価結果公表のあり方

ガイドラインでも述べられているように、学校評価、とりわけ外部評価の実施や学校評価結果の公表のポイントは、保護者や地域からの信頼の恢復であり、保護者をはじめ地域関係者が学校評価を通じて学校への関心や関わりを深め、自らが協力・支援しうる事柄を見いだし、協働的な学校づくりを推進する体制の確立にある。
ただし、学校評価の推進に関する調査研究協力者会議がまとめた第一次報告にも「学校関係者評価(外部評価)については、その評価者の性質上、学校の教育活動について学校の教職員を上回る専門性を評価者の多くに期待することは非常に困難であるし、学校や教職員が日常的に使用している用語や概念についても、必ずしも十分な理解を持っていない。また、保護者等は当然ながら時間的な制約が大きい」ことから、「保護者等に理解しやすい内容を中心として評価することを通じて、学校に新たな気づきをもたらすとともに、共通理解を深めて連携を促し、学校運営の改善に協力してあたることを目指すこと」が期待されるとあるように、自己評価結果についての評価を求めることを基本にする必要があろう。
また、公表においては、批判や反対を避けようとする学校の防衛姿勢は、取り組みの成果を過剰に誇示しどんな期待にも応える構えを見せることになって期待水準を高め、かえって種々の弱点を露呈することになりかねない。むしろ、学校の有する持ち味や強みを活かし、それによって学校のよさを発揮し、積極的にわが校らしさをアピールしていくことが有効である。そして、人々の学校への帰属意識を高めるためにも、学校評価を通じて「こんなに素晴らしい学校なんだ」というよさを示すことが最も重要なのである。
外部からの賛辞や的を射た評価は、手応えと協力関係を実感させ、その充実感をバネに学校組織を螺旋的に開発していく動機づけとなる。したがって、さらに公表されるべきは、評価結果に表れた問題に対して何をするのかの手だてである。そして、その手だてによって、いかなる展望が開けるのかの見通しと、その根拠である。手だてと根拠が納得できるものであるならば、自ずと信頼も生まれる。求めれば協力や参画も得られよう。

設置者との関わり

義務教育の質保証やその向上は、公教育システム全体にわたる責任構造を有しているのであり、ガイドラインが指摘する「学校評価の結果に応じて、学校に対する支援や条件整備等の必要な措置を講じること」は、欠くことのできない視点なのである。また、上述の第一次報告にも「学校評価の結果は、単に学校の教職員の取組に関する評価の結果に留まるものではなく、その学校を設置し、あるいは人事権を有する教育委員会等の取組についての評価の結果でもある」とあるように、設置者にとっての関係者評価でもある。
したがって設置者への評価結果の報告は、各学校からみれば、根拠(評価結果)をもって設置者に予算要求を展開することにも発展し、自律的な学校改善に対する設置者からの支援措置を促すことに繋がる。その点からすれば、翻って評価項目の設定においても、今後の予算要求等を見越し、また支援措置を要する取組の見通しをもって進めることが重要となる。それだけに、今後の学校経営ビジョンと具体的な取組の重点化が必要である。
教育行政と学校経営、そして教育がうまくかみ合ってこそ、最大限の教育効果が期待できる。そのためにも、各学校からするならば、自らの裁量権限を効果的に駆使して成果をあげ、その成果をアピールするとともに必要な措置を要求する仕組みとして、この学校評価システムが機能するように内実を組み上げていくことが必要である。

おわりに学校組織開発へ

相変わらず生活習慣病が「メタボ」という言葉とともに流行っている。面倒な検査や長い待ち時間の末、医者からの専門的な診断と嫌みな忠告をたびたび受けても、である。街に出て衆目に照らされても、注意放送や取り締まりが強化されても、車内での携帯電話の使用、路上での歩行喫煙、違法駐車、やはり無視する人々は少なくない。
結局、自分がそのことをいかに評価し、いかに認識するかが、問題となる行為や状態への反省や改善を左右するのである。
教育評価とて同様である。どんなに緻密な評価法でなされ、どんなに分析されたところで、その結果を受け止める側の自省的なまなざしと改善・改革を指向する強い意志や展望がなければ、その評価は生かされないのである。だからこそ、学校が組織としてのまなざし、意志と展望を備えるように組織開発していくことが、学校評価の始まりなのである。

参考文献

拙著『新しい学校評価と組織マネジメント』、第一法規、平成十五年
拙著『学校評価の「問題」を読み解く-学校の潜在力の解発』、教育出版、平成十八年
拙編著『ステップ・アップ学校組織マネジメント』第一法規、平成十八年

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初等中等教育局参事官(学校運営支援担当)付

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