特別支援教育の推進に関する調査研究協力者会議(第7回) 議事要旨

1.日時

平成20年11月10日(月曜日)10時-12時30分

2.場所

三田共用会議所 第4特別会議室

3.議題

  1. 関係団体からのヒアリング 1.全国特別支援教育推進連盟 2.日本発達障害ネットワーク(JDDネット) 3.日本障害フォーラム(JDF)
  2. その他

4.議事要旨

(1)髙倉座長より挨拶が行われた。
(2)事務局より配付資料の確認が行われた。
(3)各団体より資料に基づき意見発表された後、質疑応答。その概要は以下のとおり。

〔概要〕
○:委員
△:事務局
◎:ヒアリング団体


(全国特別支援教育推進連盟)

○ 資料1のp8に就学猶予・免除についての記載があるが、 今の制度そのものを考えると、やむを得ず就学猶予をするということはあるが、 訪問教育等、手続的に整っている現在、就学免除の在り方が大きな課題だと思うが、 どのように考えるか。
◎ 就学猶予・免除については大きな課題。 以前は、就学猶予・免除は非常に関心の高いものであり、 特別支援教育機関が出している調査の中にも必ず、就学猶予・免除者の人数が入っており、 国において就学猶予・免除をなくすことが1つの大きな柱だったのだが、現在では、課題にならないのか。

△ データ的なことを申し上げると、障害を理由として就学猶予・免除を受けている子どもは、平成19年度、義務教育段階で77人。その内訳は、就学免除者が14人、就学猶予者が63人。義務教育段階には1,000万人以上の子どもたちがいるが、就学猶予・免除を受けているのはそのうちの約0.0007%という極めて限られた数の子どもで、おそらく生命の維持等が課題となっているような子どもたちだろうと考えている。

○ 認定就学の制度をやめるというような発表があったが、認定就学は今の制度の中でやや二重制度のようになっており、例えば背景として社会全体の差別意識や偏見への抵抗があったり、また、特別支援学校における教育が非常に効果的であることが分かっていれば皆特別支援学校を選ぶだろうと思うが、そのような前提条件が整ったら、という趣旨の発表ということでよいか。

◎ 認定就学については、人間が認定するのであって、事情や環境が認定するものではない。認定した結果でこうなった、認定が足りなかったからこうなった、というようになるよりも、すっきりと就学基準に該当するか否かを大きく括って考えたほうがよいのではないかという考え方。障害のある子どもが通常の小・中学校に在籍する場合に、それはあえて認定就学などという言葉は要らないのではないか。

(日本発達障害ネットワーク(JDDネット)

○ 原則、通常の学級から特別支援学級、そして特別支援学校へと、移籍が原則一方向でしかないという意見について、現実的に今、特別支援学校から通常学校への転出が約4,000件あるが、硬直的と言えるだろうか。  また、特別支援教室構想の実現についての意見があったが、現実的に制度をつくっていく中での設計上のイメージや、具体的にどのような形が理想的と思われているのかについて、教えてほしい。

◎ 1点目の質問について、確かにそれだけの数が実際に逆方向に動いているということは承知しているが、保護者の立場としては、私の周りでそのような事例が頻繁に起こっているとは言い難い状態。逆方向へ移籍したケースも何例かあるが、それができた理由として、その子どもについてきちんとした支援を行うという視点を持った方々が周りにいたということ、なおかつ、その動きをするということを保護者と一緒にきちんと考える体制ができていたということがある。それができていれば確かに今でも行われていると思うが、それが日本全国どこでも行われているかというと、個々の資質に頼らざるを得ないのが現状ではないか。その意味合いで、個人の資質に頼るのではなく、システムとしてそれが行われるような方向に動いてほしいと考えている。  
2点目の質問については、例えば、就労している保護者が就労の場を離れて送迎をしなければならないような状態での通級は、適切な支援ではない。まず、その子どもが通っている学校の身近なところで、本当に必要な支援をリアルタイムで行えるような体制が学校の中に必ず設定されていて、なおかつ、全部の教科ということではなく、その子に必要な学科に関して取り出しができるような形というものをイメージしている。

◎ 通級による指導教室というものは学級編成ではないので、それがこれからどう広がっていくかが問題。現在、全国の通級による指導教室のうち約95%は小学校であり、さらにそのうちの約65%が言葉と聞こえの教室。ここにもっといろいろな機能をどのように付けていくのかということが重要だが、文部科学省では、特別支援教育支援員(介助員/学習支援員)という形での制度を考えている。学習支援員は非常勤で、教員免許を持つことを限定にしておらず、しかも教員にかわっての授業をするということを認めていない、介助員とかなり近いもの。そうすると、通常学級における指導の中に入って支援するということが中心になって、取り出すということはなかなかできない。保護者は支援を求めているが、できれば通常学級の中で目立たないようにやってくれという声が非常に多い。これは叶えるべきだろうと思うが、そこで十分な支援を行えない場合に、取り出しによる指導がもっとできるよう、それも身近なところでできるよう、制度の成熟が必要。

○ 特別支援教室について想定しているのは、特別支援学級とは別に、特別支援教室という概念を新たに位置づけるということか。

◎ 日本では学級が編成されなければ先生が配置できない。通級による指導教室は、教室という名前がついている限りは学級編成ではない。したがって、通級指導教室を効果的なものとして、例えばアメリカのリソースルームのような形で運営していくためには大きな乖離があり、特別支援教室構想が途中で止まっているのはそこの二重構造を残したままであるからで、どのように次のステップに行くかが大事。

○ 特別支援教育に関する現在の様々な問題は、未だに学校の体制が知的障害への特殊教育モデルから抜け出していないことに起因しているということが発表の中で指摘されていたように感じる。また、特別支援教育とは「Education For Special Needs」であって、障害がある子への教育とイコールにしてしまうと問題ではないかと感じるが、それらについてご意見を聞かせてほしい。

◎ ご指摘のとおりだと思うが、もともとは目や耳、身体に障害のある方たちの教育の始まりから30年遅れて、昭和54年に養護学校教育の義務化によって初めて最重度の障害のある子どもにまで教育の光が当たったが、そこでは知的障害の子ども、特に障害の重い子どもに対して教育の充実が図られており、ある意味では日本の法律的な意味での発達障害、LD・ADHD・高機能自閉症等の教育はずっと遅れたという歴史的な経緯がある。先行する盲や聾あるいは知的障害の教育は大事であるが、それを無視することなく、もっと支援の必要な子どもにも、という形の広がりが、一番の改革の概念の転換であろう。日本では障害種別に支援を行うという考え方が伝統的に強いが、イギリス等の教育を見ると、子どもが何を求めているかということに対して敏感。それが本来のインクルーシブ教育の原点なのだろう。目の前にいる子どもがどのような困難で苦しんでいるのかということに対してきちんとした理解と具体的な手だてを持つ、その専門性を教員にどうやって持たせるかということが、これまでの特殊教育の財産をさらに大きく発展・充実させていく観点として重要ではないかと思う。

○ 文部科学省の学習障害の概念は包括的であり、それらを全て「障害」という言葉で括るのではなく、「障害」という言葉に代わる、「Special Needs」の概念がきちんと出てくるような、より良い日本語はないか。

◎ 個人的には、「Special Needs」という言葉と同時に、「Learning Differences」という言葉を大事にしたい。子どもによってはスピードやスタイル等、学び方が違う子どもがおり、教育の専門家はその子どもの学び方の違いを理解すべきであって、たまたまそれを障害という言葉で理解しようとしてきたのだが、必ずしもそれを前面に出すのではなくて、学び方の違いというような意味でのLDという考え方で、インクルーシブな教育の具現化にもマッチする。 (日本障害フォーラム(JDF))

○ 資料3のp1に「権利条約は、第24条第1項の「インクルーシブ」とは、障害のない子どもに提供されている場に、すべてではないにせよ障害をもつ子どもを受け入れるもの、と理解されることが、この間のJDFと政府との意見交換会等で確認されています。」とあり、これは場が非常に強調されているが、場と教育内容との関係については特にここで議論せずに、場にポイントを置いてインクルーシブということのコンセプトを理解しようということでよいか。

◎ 中身の問題は当然議論しなければならないが、まず、そのようなインクルーシブな法制度として整備しなくては、分離型の法制度が教育の中身と連動するという時代ではないと思う。入り口は等しくというのが世界の流れであり、等しくしたために教育が行えないということはあり得ず、まずは、専ら法制度の問題として意見している。現在、就学先を決定する際に本人の意思についての聴取義務があるが、何ら教育委員会側の決定権を拘束するようなシステムにはなっていない状況の中で行政の決定だけで分けられるということは、法制度としては障害者権利条約にはなじまない。

◎ 教育は、たしかに教育政策と教育実践の2つの大きなベクトルから発展しいく。ただ、国全般の傾向として、教育内容の実践に入っていった場合、どうしても個人や特定の教員集団の技・意識等の問題に向かってしまう。政策とは別の方向に行くと、発展がなかなか見えにくくなってしまうので、まずは目に見える政策・制度をきちんと整備していくべきだろう。例えば、視覚障害者が放置自転車に引っかかり転んでしまった場合に、意識の低さについていくら怒ったとしても、それを置いた人との関係で終わる。駅付近の駐輪場の整備や巡回警備員の配置等、政策の問題として考えていかなくては、意識の問題にしてしまうと制度が発展しにくい。意識の前に政策があるのであり、ここではあえて、障害者権利条約について場や形を強調している。

○ 資料3のp2に、本人や保護者の意向に基づいた就学先の決定について述べられているが、一般的に言われる学校選択の自由とは関わるか。

◎ 障害者権利条約は、障害者に特別な、一般にはない権利をつくり出そうというものではなく、一般との機会均等における格差をどうやってなくすのかということが基本的なテーマであり、一般の子どもが学校選択権を持たない現状の法制度の中で、特別に障害児だけ学校選択権をくれと言っているわけではない。地域の普通の学校で学べるのが一般的なことなのであって、それとは違った形に扱われていることは、異別取り扱いであり、直接差別の典型。原則として一般の学校に就学し、ニーズや保護者の選択によって、必要な場合には特別な学校も選べるというシステムに乗ることが、本来的な権利。一般的な学校選択権と同じ意味合いではなく、本来の筋に戻るという意味で、選択権として保障するというもの。

○ 資料のp2にある就学先の決定に当たっては本人や保護者の意向に基づいたものであるべきであるということと、障害者権利条約の定める合理的配慮との関係について、特別支援学校ではなく小・中学校に就学をする場合に、現在様々な困難な点があるが、小・中学校での合理的な配慮という点では、これまで我々はどちらかというと教育内容や方法等を大事に考えるという手法をとってきた。それらの点よりも、まず制度が重要とのことであり、そのような観点から合理的配慮ということを考えたときに、どの程度のことを考えているか。

◎ 障害のある子どもの個別的なニーズがまず基本にあるので、合理的配慮の中身について一般化することはなかなかできない。例えば身体的な障害があれば、学校の中の教室の移動や身体介助、食事介助等が普通学級の場で行われるということが求められる。それを1人の先生が行うことが難しいのであれば、それに向けた加配の支援する人を学級につける。知的障害のある子どもであれば、カリキュラムや教材等をその子に合ったような形で、できる限り一緒に教えていく。先生が話している言葉自体がわかりにくいのであれば、その言葉を横に寄り添ってわかりやすく伝えたり、逆にその子が言いたいことを先生に向かって代わって話したりする支援員をつける。視覚障害の子どもであれば点字の教材をきちんと用意する。それらのように、様々な個別のニーズに応じ、その場で求められるものだと思う。

○ 就学における入り口を等しくすべきとのこと。また、特別なニーズに応じた具体的な教育の在りようは求められなければいけないし、個々の事情に応じた制度設計をしなければいけない部分も一方である。それらを実際に現行制度でどのように行っていくのかについて、具体的な考えや工夫等があれば教えてほしい。

◎ 法制度としては一覧表に該当するかどうかで分けるというシステムだが、実態はそうなっていないと思う。今の実態に釣り合っていない法制度をなくして、少なくとも地域の教育委員会が全ての子どもに対して地域の学校への就学通知を出した上で、その子の就学先を考える。個別的なニーズに基づいて特別支援学校がいいという保護者の意思・選択があれば、そちらに就学するというシステムが用意されるということが当然あり得る。ここで一番大事なことは選択権の問題で、通常の学級に入りたくても、これまでの、通常の学級ではそのような特別ニーズには応じられませんという形のやり方では、障害者権利条約から見ると難しいと思う。

○ 厚労省でも、障害者権利条約関係の研究会があるが、そこで議論になったのは合理的配慮。その定義について、日本語の仮訳において、「均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」というところがあるが、教育の場においての過度な負担や均衡を失したものとして、どの程度のことが考えられるか。

◎ 一般的な議論においては相手方の性格や規模が問題になるが、教育については、相手方が国家であり、基本的に過度な負担等の抗弁は使えない。本来的に、個別的な分野で例外規定を設ければよいのだが、全分野的に定義の中に例外規定を入れたのは良くなかった。例えば、選挙権のような基本的な権利の行使において過度な負担という抗弁は絶対に認められない。それは教育も同じ。合理的配慮には二重の規定があり、1つには、民間会社等による合理的配慮をするということが条約上は基本的に一番求められており、あと1つには、国家がそのような民間会社等が合理的配慮をするようにできるよう加工する措置が求められている。合理的配慮は、実際にサービスを提供する事業体と国家の2つの点が問題になっているのだが、教育はそのような2つの点が重なっており、過度な配慮が大変だとしても、そこは国家の力で何とかしなさいと言っているのであって、自らそれができないとは言えない。そのような意味で、本当に例外的な場合はあるのかもしれないが、通常、特別支援学校の中でされているような支援を通常の学級でしてくれといった時に、それはできませんというようなことは言えない。もちろん、すぐにエレベーターを全部つける等の措置については財政的・物理的に改築が可能かどうか等の問題もはらむので、それが当然認められるということではないだろうが、少なくとも一般的な教育の中身について、財政的に過度な負担だからできないということはなかなか言えないのではないか。

○ 障害者権利条約の第24条に「締約国は、障害者が、差別なしに、かつ、他の者と平等に高等教育一般、職業訓練、成人教育及び生涯学習の機会を与えられることを確保する。」とある。今日は主に初等中等教育に焦点を当てた意見を伺ったが、全体として、高等教育・成人教育・生涯学習等まで全部包括した意味での教育の推進というものを障害者権利条約に沿って進めていこうではないかというスタンスを持っていると思う。初等中等教育と比べ、高等教育等についても全く同列に考えているということでよいか。

◎ 日本の仮訳では「合理的配慮」としている「reasonable accommodation」について、フランスでは、これを便宜的措置ということでかなり強く訳している。また韓国語では正当な条件整備という意味で使っている。「配慮」という訳は弱い。障害者権利条約第24条は、就学前から生涯教育まで全部またがっており、8月に引き続いて11月27日にも予定している文部科学省との意見交換会でも、全てのステージ、年齢層を含めての教育という観点から話をしようと考えている。ただ、この国の教育施策の基本である義務教育に相当な矛盾も集中し、また多くの課題もあるので、そこをきちんとするのが基本。今日の協力者会議に関しては、主に与えられたテーマで答えたが、今後文部科学省とは引き続き、もう少し大きな視点から議論を継続していきたい。最低、どこをクリアしたら批准できるのか、どこを手直ししなかったらできないのかということも論点整理に入れていこうと考えている。また、最近、特別支援学校、特に高等部が増えている。これについては、今日の教育全体において様々な問題点があることから、特別支援教育を行っているところも少なくない。障害児教育と国の教育一般についての議論は、障害者権利条約の議論を待たずしても起こってくるのではないか。障害者権利条約の側からは、あらゆる年齢ステージを視野に入れ、今後、立法府や文部科学省と調整に入っていく。その中でも、とりわけ義務教育の9年間は特に問題が多いので、重点を置いていきたい。

◎ 特に大学では障害のある方が多く、それに対してどう合理的配慮をしていくかということが実務的にも問題になっており、程度の差はあるがほとんどの大学において合理的配慮を行う方向だと思うが、一般の高等学校と大学とで意識が随分離れているのではないかと思う。例えば、アメリカが黒人差別を実質的に是正する大きな手段として学校に入ることについてのアファーマティブ・アクションをとったように、高等学校でも、特に知的障害の子どもについて、試験を通らなくては入学できないという杓子定規的な考え方ではなく、アファーマティブ・アクション的なものとして受け入れていくという方向も必要なのではないか。

(4) 事務局より今後の会議の運営について説明があり、閉会した。

お問合せ先

初等中等教育局特別支援教育課

(初等中等教育局特別支援教育課)