子どもの徳育に関する懇談会(第9回) 議事要旨

子どもの徳育に関する懇談会(第9回)が、以下のとおり開催されました。

1.日時

平成21年4月27日(月曜日) 14時~16時

2.場所

ホテルフロラシオン青山 芙蓉(東)

3.議題

  1. 「審議の概要」について
  2. その他

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
安彦 忠彦 委員(早稲田大学教育学部教授)
押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授)
加倉井 隆  委員(江東区深川第一中学校長)
陰山 英男 委員(立命館大学教育開発推進機構教授、立命館小学校副校長)
小泉 英明 委員(独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括)
坂口 一美 委員(社団法人日本PTA全国協議会常務理事)
馬場 喜久雄 委員(財団法人総合初等教育研究所室長)
無藤   隆  委員(白梅学園大学教授)
 森   隆夫 委員(お茶の水女子大学名誉教授)
森田 洋司 委員(大阪樟蔭女子大学学長)
山折 哲雄 委員(宗教学者)
鷲田 清一 委員(大阪大学総長)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師

文部科学省

玉井文部科学審議官、德久大臣官房審議官、高口男女共同参画学習課長、
高橋教育課程課長、磯谷児童生徒課長、塩原専修学校教育振興室長、
大谷幼保連携推進室長、塩川児童生徒課課長補佐

(国立教育政策研究所)
 大槻国立教育政策研究所次長
 中岡国立教育政策研究所教育課程研究センター長

オブザーバー

天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)

5.議事要旨

 (1)開会

 (2)議事

 ※事務局より、参考資料、資料2、3、4の説明ののち、資料について議論。

【鳥居座長】  そろそろ徳育についてのこの懇談会の審議の概要、中間報告的なものをまとめなければならないという段階に来ている。事務局は資料2、3のような形で今日の議論の素材になるものを整理してまとめた。

 読んでいるほうにすると、あまりにも細かく区切ってあり、最近のはやりの作文の方法で文章を1つずつ区切って点検しているというような書き方になっているので、そのつもりで見ていく。

 資料4にまとめてあるが、上から順番に点検し目次のイメージとしてこの程度の書き方でいいのか、ぜひ加えるべきことはないかということも含めて、資料の3及び4を点検いただきたい。

 特にそれ以上のことを申し上げないので、場合によっては少し前後してもよいので、ご意見をいただきたい。

 馬場先生、何かありますか。

【馬場委員】  1ページの一番最初の「はじめに」のところ、このあたりの「審議の概要」、平成10年度参考というのは少し載るのか。載った場合に、子どもに向けたメッセージの例で福沢諭吉の「ひびのおしえ」と「ふくしま子ども憲章」が挙げられているが、今年度出た「心のノート」では、「ひびのおしえ」は同じだが、「ふくしま子ども憲章」ではなくて、たしか会津藩のほうの日新館のほうが載っているので、そのあたりが一致しているほうがよい。

【鳥居座長】  今の点はどうか。

【塩川児童生徒課長補佐】  例として挙げたものは、今までこの会議で配ったものをベースに書いたものである。今の馬場先生のご意見を踏まえて考えさせていただく。

【鳥居座長】  了解。

 どうぞ、森先生。

【森委員】  1ページの一番下の諸外国のところ、アメリカ、イギリス、フランスと、例が2ページに載っており、韓国が一番最後である。具体的に書くと思うが、私はヒアリングで韓国に大分感銘を受けた。お年寄りには敬語を使うとか、食事はお年寄りがはしをつけるまで待っているとか、具体的にこれもぜひ強調して書いていただきたい。

 ついでにもう一つ申し上げると、徳育に対する基本的な認識で、知・徳・体と言うが、では、知と徳はどう違うか、知と徳が体とどう違うかとか、その関連性というのはどうなっているか。

 前に私は、知・徳・体で独学のできないのは徳だけで、知は自分でやれるが、徳を独学でやった人というのはよほどの聖人君子なので、どんなふうにしてやったらいいのかと、そういうことを読んだことがある。

 もう少し補足すると、司馬遼太郎の小説にも出てくるが、昔の将軍で智・仁・勇というこの3つを考えると、勇将は智将にしかずと。幾ら元気がよくてやる気があっても頭のいい人には負ける。智将は仁将にしかずと。幾ら頭がよくても徳のある人には負けると。しかし、仁は厳ならずと。仁には厳しさが欠けることが多いという。結局、智・仁・勇みんな必要だということを言いたいのだろうが、そんなことを考えるから、徳の基本的な認識というのは、知・徳・体と簡単に我々は言っているが、基本的に整理できるものなのかできないものなのか教えていただきたい。

【鳥居座長】  むしろ森先生のお話をもう少し聞かせていただいて、事務局に、勉強してもらうということだと思うので、今のお話を少しわかりやすく説明していただきたい。

 要するに今回の中間報告の中で、今、智・仁・勇の仁という字を使ったり、あるいは知・徳・体の徳というのを今、森先生が指摘されたが、徳、昔の言葉で言うと文徳と武徳というか、そういうものが基本としてどこの国にもあったという、その考え方が国民に理解していただけるかどうか、一般の方々に理解していただけるかどうかというところまで日本自身が変質してしまっている。それをどうやっていこうかというのが、今日の最初の1ページ、2ページあたりの課題だと思うが、いかがか。

【陰山委員】  実は、私たちは今、立命館で、私学なので道徳ということではなくて私学として精神性をどう育てるのかということで、小中高引っくるめて、徳育についての全体の見直しの作業というのを行っている。その教科を立命科という教科として位置づけて、小中高一貫した精神性の教育を行うということをやっている。

 そうした中で1つ、私たちが注目をしているのは、子どもたちの徳に関する精神性というものは、要するに心というのは、やはり今は脳のあり方と大きくかかわっているということが言われるようになってきた。もちろん、徳の内容そのものは道徳の教科の価値観として教えていくが、それを支えていく脳のあり方として、きちんとした食事をとるとか、あるいは体育をきちんとやって健康に体を動かすとか、あるいはどこへ行っても恥ずかしくない学を積むことによって立派になっていくというような、そうした物事と連動させることによって、徳というものは非常に盤石なものになってくる、そういうとらえを立命科の中でも行うというカリキュラムをやっている。

 一方、大阪府のほうで今、教育委員をさせていただいているが、やはり荒れる地域というのは、単に子どもが虐待されるだけではなくて、やはり食事が貧しいとか、それから、これは道徳と若干重なるというか離れるというか、生徒指導の場面のことが関係してくるが、きちんとした朝食を食べさせるとか、あるいは給食できちんと栄養を与えるかということによって、その子どもたちの心が安定してくるというようなことは、全国各地の実践例からも挙がってきていることであり、これは大阪府の教育としても、今、重視をしているところ。

 これは道徳のカリキュラムを考えるということではなくて、もう少し徳育ということで幅広くとらえるところだろうと思うので、そういう道徳教育を支えるその周辺部との関係ということを他の学校現場の実践例を織り込んでいただきながらやっていただけると、非常にがっしりとしたものになってくるのではないかという気がする。

【鳥居座長】  今、陰山先生がおっしゃった後半部分は、今日の資料では3ページの下のほうなど、何カ所かに出てくるが、それもお目通しをいただいた上で、もう一度何かあればご意見をお願いしたい。

 ただいま3ページの一番下に書いてある、ここの書き方をこういうふうに変えたほうがいいというお考えがもしあればどうぞおっしゃっていただきたい。

【陰山委員】  子どもたちの道徳性の高まりというのは、知育、体育、徳育というものの指導とともに、その周辺を支えることによって伸びてくるというようにして、道徳のために知育とか何かをやるわけではないが、そういう道徳性の成長というものは、知育、体育、食育等の土台があってしっかりしたものになってくるということを提言いただければいいのではないか。

 特に、食育に関しては、家庭の努力が、要するにもう全然満足に食べさせないのに、子どもたちにだけきちんと考えなさいよということは、これはあり得ないわけで、後半の地域や家庭との連携という点でも食育というものをここにきちんとすることによって関連性が出てくるのではないかと思う。

【森委員】  食育が出たので、食育基本法では、食育が基礎で、たしかその後で、その基礎の上に知・徳・体があるのではないかと、私はこんなふうに理解しているが、小泉総理の提案したときの所信表明演説とか施政方針演説を丹念に読んだが、まず最初言ったときは、知・徳・体を総合でと言った。総合なんておかしいと思って、どこかに食育は知・徳・体の基礎だと言ったら、だんだん変わってきたのだが、今度の指導要領でも総則に食育の重要性が出てくるが、残念ながら道徳との関連というのは、なかったような気がする。その辺少々気になる。

 家庭でやるべきだとなると、そのとおりだが、食育の中身がはっきりしない。だから、わかりやすく言うと、栄養のバランスを教えるのは食を教える。「ごちそうさま」とか「いただきます」とか「感謝しましょう」という、それは食で教える。「を」と「で」の違いというのをもっとわかりやくしたほうが、一般的にわかりやすいのではないかと思う。みんな勝手に「食育とは」と、栄養の先生はそういうことをおっしゃるし、教科書を教える先生は普通の先生で、教科書で教える先生はいい先生だと、昔よく言われた。最近はあまり言わなくなったけれども、食で教えるというのは徳育と関係してくるのではないか。

【小泉委員】  ただいまのご意見にも関係するので、一言。これは私の疑問点でもあるわけだが、徳育、知育、体育、食育というのがよくセットで用いられており、この3ページにも下のほうでそういう形で整理されている。この徳育、知育、体育の場合は、これらはすべて子どもたちの徳、知、体を育むという表現であって同列に用いても自然である。しかし、食育という場合には、食べるという食自体が育む対象ではないので、正確な概念としては同列に扱うのには無理がある。徳、知、体(人の属性)を教育されるのは子どもたちであり、食に注意して育てることを教育されるのは主として親や教師である。食育という語呂合わせによって、かなり概念的な混乱がある。食餌は大変大事ではあるが、概念的には明確にそこのところを区別したほうがいいのではないか。

【鳥居座長】  その他の問題について何かあれば、どうぞ。

【渡辺委員】  同じく3ページ、今、皆様に論議いただいている知育、体育、食育の前の段階のフレーズ、社会的存在、自然・環境の中に生きる存在としての人間と徳育の部分だが、一つ一つ大事な点が書かれているとは思うが、やや新しい、現場に即した乳幼児発達の言葉が少し遠い感じがするので、ここら辺は文言の吟味、修正ということをぜひお願いしたい。

 例えば、ちょうど3ページの真ん中で「生まれたばかりの子どもは、動物的本能や衝動、快と不快の感覚的欲望のみに従って行動するが」という、この文言だが、もう少し現在は、生まれたばかりの子どもは急激な環境の変化に適応し、聴覚などの感覚を刻々と発達させながら身体機能を高めていくとか、それから安全安心な環境のもとで大人から十分に愛され、信頼されることにより情緒が安定するとともに、心身の発達が促されるといった、骨子は同じだろうが、新しい視点のニューロサイエンスや発達であると、少し文言がやわらかくなってきたり、あるいは相互作用といったものや、刻々と環境とのやりとりの中で刺激されてというような感じになってくるので、そこら辺を少し吟味いただきたい。

 例えば、次の「子どもは、発達に応じて、大人の権威に依存した」というような言葉なども、そのとおりであるが、もう少し子どもの側の目線からいくと、子どもは発達の過程に応じて、お友達とのかかわりを含め、一緒に遊んだり活動したりする中で楽しさとともに主張のぶつかり合いや葛藤を経験する、その中で相手の気持ちを推しはかったり、自分の気持ちを抑えられるようになったりして、そして仲間とともに目的に向かって取り組む中で、自分たちで決まりをつくったり、みずから判断し、決断し、解決しようとして自主自立の態度や社会性を徐々に体得していくといったような、少し視点を変えて子どもが発達している、子どもの目線からの書き方はどうかと思う。

 子どもは周囲と調和的にかかわりながら、発達段階に応じて失敗したりやり直したり頑張ったりしながら、ハーモニーというもの、ルールというものがあるんだということを体得していくが、そこら辺の実感は、やはり日々子どもらしく遊び、楽しく頑張ったり失敗したりしながらという、生き生きとした躍動の中で行われており、少しそういうものが入ったほうが子どもの実態に即していると思う。

 特に、例えば3番目の「個人は、社会における様々なかかわりの中に生き、自らを取り巻く自然や環境とのつながりの中で生活するものである」なども、「環境との相互作用」といった言葉を少し入れてはどうか。そして、多様な経験の積み重ねの中から感性や思考力がはぐくまれていったり、身体感覚を伴う経験や他者とのかかわりの中から社会や自然や環境との対応や調整や交渉が可能となっていくといった、欲張っているかもしれないが、そこら辺も少し気になるかたさがあると思うので、検討いただければ。

【無藤委員】  今の渡辺委員のご指摘に全く賛成であるが、少しつけ加えたい。今の渡辺委員がご指摘になった3ページの箇所、最初のアスタリスクのところが、大ざっぱに言えば間違ってはいないが、近年の研究に照らして言うと誤解を招きやすい表現だと思うので直していただければ。

 さらに、括弧の中で「自然児から社会的な存在としての人間へ」ということだが、やはりいろいろな研究から、自然児ということではなくて、子どもというか赤ちゃんは最初から社会的な存在といえば社会的な存在であり、ただそれが養育者というか、親とのかかわりから次第に社会的範囲が広がっていくと。家族を超えていくと見たほうがいい。

 そして、いわゆる自然児という言葉もあまり使わない用語のような気がする。自然児とか野性児というのは、むしろそういう社会的な存在である小さい子どもがどこかにほうり出された虐待の結果として生まれるものであって、人間は初めから社会的、文化的な中に生きながら、次第に道徳的な規範に気づいていくという視点をぜひ出していただければと思う。

【山折委員】  これは前回も申し上げたことだが、知育、体育、食育に関するレベルと徳育の世界というのは、質的にも世界も随分違うものだと思う。それが第1点である。

 そうした場合、知育、体育、食育などの領域においては、理念とか方針とか考え方というものを、ある程度集中的に短期的に議論をして、方向性を出す政策に結びつけていくということは可能かと思うが、それについて徳育の問題はそういう方法では実際の効果を上げることが基本的にできないと思う。非常に長期にわたる努力、長期にわたる話し合いというか、そして多くの国民の方々の同意を運動の中で得ていく。こういうプロセスがどうしても必要だと思う。

 だから、1年とか2年の審議によってある結論を出して方向性を出すという、その考え方それ自体がどうもおかしい。私は基本的にそういう考えを持っている。

 それが1つと、では、なぜそれは長期的な問題なのかというと、徳育というのは宗教、道徳の問題と切っても切り離せない側面を本質的に持っているからである。では、その徳育を、宗教、道徳との関連でどのような包括的な枠組みの中で考え、またこれからの新しい日本の社会をつくり上げていく上で、心をはぐくんでいく。どう考えていったらいいかということになるのであるが、これがまた大変な問題をはらんでくる。

 一つは、よくいわれるようにわが国においては、宗教の問題というものはとりわけ悩ましい問題であって、みんな心の底では大事だと思いながら、それを表に出して議論できない状態にある。公教育の場では、この宗教の問題、宗教教育の問題、そして、宗教の情操教育の問題を正面から論ずることはできないという、そういう奇妙な時代が半世紀以上も続いていたわけである。その問題から来る、最も大きな問題が今日の子どもたち、大人たちの心を、大きくゆがめてしまっているということではないか。もちろん自分のことも含めて、そう思う。

 では、この問題をどう乗り越えていったらいいのかというところから、徳育に関する懇談会の議論を始めなければいけないのだろうと思う。ただ、御承知のように、宗教情操教育、宗教教育の問題は、憲法の問題ともかかわるわけであるから、そういう点では徳育の問題を考えるというのは、今日の我々の憲法を考えるぐらいの重い課題であるということが当然出てくる。それほど重たい問題だということも、これは一応覚悟しなければならない。

 しかし、にもかかわらず、現実的に、その憲法問題に深く触れるような問題を、すぐこういう委員会で持ち出して議論することができるのかどうかという次の問題がある。そこで、さしあたりの対応策としては、そういう憲法問題にからめて、宗教情操教育の問題を直接扱うことなく、この問題いついてどう議論を進めていったらいいかということになるだろう。それについて、私にアイデアがないわけではない。これはご賛同を得られるかどうかはわからないが、ここで二、三申し上げてみたい。まず一つは、宗教情操ということを、この徳育の問題と関連させて議論するということである。もちろんこれは、この懇談会でもずっととりあげてきたわけである。しかし、それが今回その報告書を出そうというアウトラインの中には含まれていない。それは非常におかしいことではないのか。これが第1点である。

 第二に申し上げたいことであるが、徳育の問題というのは、しばしばいろいろなところで、心をはぐくむ教育という事柄として議論されてきている。この案の中にも、心をはぐくむという言葉が出ているので、それはそれで非常に結構なことだと思う。「心」というのは、今日の日本の社会においてはこれこそまさに宗教そのものを表現する別の言葉だと私は思っているほどである。しかし、よく考えてみると、これは二、三十年前と言ったらいいのか、四、五十年前と言ったらいいのか、我々の社会においては伝統的に、道徳と言うかわりに道徳心と言っていた。宗教と言うかわりに宗教心と言っていた。愛国と言うかわりに愛国心の問題として議論してきた。公徳心という言葉もあった。ところが、それがいつの間にか宗教、道徳、愛国、そして、公徳という言葉を、その「心」から切り離して用いる状況が生まれてきた。これは非常に不思議な現象である。

 これは、戦後の日本の社会の世俗化の過程と非常に深くかかわっている問題ではなかった。いってみれば、「心」が裸になってしまったということだ。心のさびしい姿である。裸にさせられた。ほんとうはそれは宗教そのもの、道徳そのものと深く相かかわている大和言葉だったはずが、そういう伝統的な意味と機能を切り捨てたられた心という、そういう問題に矮小化されて今日まで来てしまった。その反省をしなければいけないのではないか。いや、それはそうではない、もっと別の歴史的ないきさつがあったのではないかという、そういうお考えもあるかもしれないが、それはそれとして議論を始めるべきだろうと思う。

 ちょうど日本の農業の問題で言うと、いつの間にか我々は農業の労働のあり方を、米づくりと言うようになってしまった。あれはもともと稲作と、こう言っていたわけである。稲作という言葉が、車をつくるように米をつくるということになって、ついに米づくりという言葉に変わってしまった、そのあたりが、やはり一つの重要な変化のポイントだったと思う。

 それから、第3番目に、宗教教育、宗教情操教育ということを考え、日本人の道徳心というか、宗教心というか、倫理観というものを考えていく上で、やはり古典教育がきわめて重要になると思う。古典というのは、何も日本の古典に限らない。アジアの古典、ヨーロッパの古典、ギリシャ、ローマの古典、いろいろあるが、とにかく古典と称する作品の中には、宗教的世界観や人間観、そして美意識と、そういうさまざまなものの要素がほとんどすべて含まれている。それがもともと古典である。その古典教育を戦後の日本教育は怠ってきた。あるいは、偏向した古典教育を50年以上続けてきたと私は思っているので、この反省からはじめる必要がある。

 例えば、具体的な例を申すと、万葉集。戦後の小中高大学の研究教育の状態を見ればわかるが、万葉集では相聞歌と挽歌という、愛と死の2つの世界をうたった歌がたくさん納められているけれども、戦後教育というか、戦後の古典教育のほとんどはそこから挽歌を切り捨ててきたということがある。相聞歌第一主義で来た。これは研究史を調べればすぐわかる。その背景に、死の問題を避けよう、避けようとする戦後の風潮があったわけで、これが重なっていたという問題がある。

 源氏物語の問題を取り上げてもそうである。源氏というと、戦後、我々なんかがまっさきに知らされたのは、「もののあはれ」の文学ということだった。戦後の源氏研究の主流は、この「もののあはれ」、万歳だった。しかし、源氏物語の世界には、もう一つ重要な「もののけ」の世界がある。この「もののけ」の世界の恐ろしさというものが源氏物語の全体の中に非常に色濃くにじみ出ている。

 もののけの世界、挽歌の世界をきちんとバランスよく教えることだけで、これは日本人の宗教心、道徳心というものを、具体的な事例を通して、伝統文化の事例を通して教えることができたはずであるのだが、。これが無視され排除されてきた。

 等々、数え上げていくと、戦後の古典教育がいかに偏向にみちたものであったかということがわかる。だから、そういう点では、今、われわれは「徳育」という問題を政教分離であるとか、宗教教育とかという事柄とからめて論ずるよりは我々の歴史に登場する様々な古典作品をどう教えていくかかということを考えるところから出発した方がはるかに実りがあると思う。これは1年や2年の話では片のつく問題ではない。むしろ今日の大学の教育、大学の研究においてその問題がどうなっているのかということを射程に入れなければならない事柄ではないか。何しろそういう大学で小中高の先生方は教育され、養成されているからである。つまり、戦後60年の日本の教育全体を根本から問い直すことに当然これはかかわっていくわけである。私はそんなことを考えている。

 今、徳育を考えるためのこういう懇談会、審議会というのは非常に大事だと思っている。大事だと思うがゆえに、あまり細かいところにこだわるような議論をやっていては、いつまでたっても本筋の問題には届かない。時間もないということになれば、そういうことをどういうふうにこれからお考えになるのか、今日は文科次官の銭谷先生がおいでにならないから、お聞きすることはできないが、ぜひそういう問題についてご意見を伺いたい。

 そして、鳥居座長先生にも、どうお考えか、これらの点についてお聞きしたい。

【鳥居座長】  ありがとうございました。大変大事なお話をしていただき、まことにありがとうございました。たまたま、昨日の読売新聞に先生がお書きになったものを拝読し、今日の話と結び合わせて、今ご指摘になられた問題をやはり我々は取り上げざるを得ないと思っている。

 2009年の段階の日本人というものを考えると、1945年以前の、つまり終戦以前の日本人と大きな違いが生じてきてしまったのは、今、先生が50年というふうにおっしゃったわけだが、どういう違いが起こったかというと、現在の日本人にわかりやすく、今、先生がご指摘になられたことを説明しようとしても、なかなか通じない。唯一通じるのは、文化庁の出している「宗教年鑑」を見ると、神道を信じている人が何人、日本人の中にいるかというと、約8,000万人いる。仏教を信じている日本人は何人いるかというと、7,000万人からいる。両方足したら、1億5,000万人の人口を超えてしまっている。だから、みんなどこかでお賽銭投げたり、拝んだり、自分の親が亡くなったら、何かの宗教にすがってお祈りしていることは間違いないが、それを子どもの教育の問題、子どもの徳育の問題というような具体的な問題に戻って考えようとすると、宗教に対する拒否反応が出てくるという、二重性を持っているわけである。

 そこを今回の中間報告でどういうふうに表現していったらいいか悩んでいるわけだが、今、先生からお話があったように、やはり心を切り離してしまったということについての国民的な、しかも長期的な国民運動としての反省というか、見直しというか、そういうものが必要だということを訴えるのが一つの方法ではないか。

【森委員】  今の山折先生の大変有益なお話で、私も、教育改革、国民改革、たしか宗教のことが問題になったと思う。それはそちらに置いて、心の問題で、心が裸になったというのは、非常にインプレッシブなお言葉だったが、心が裸になったのではなくて、心がなくなっているのではないかと思う。

 心とは、では何かと、私も大分関心を持って調べてみたが、心は目に見えないが、行動とか表現とか顔つきとか言葉でわかる。それでわかると思っていたら、いや、それだけではわからないという人が出てきて、それは目に見えないものを見る心眼、聞こえないものを聞く心耳が必要だとかいうわけで、だんだんわからなくなって、そのうちに中島みゆきが「心は命の別名よ」なんて歌い出して、命そのものだと。そうしたら、一休禅師が、これ、この前も言ったか、「心はいかなるものを言うならん 墨絵にかきし松風のこと」とか、山折先生の専門と思うが、そう言われてくると、目に見えないし、聞こえないものを、絵にかいて、それを読んで聞けという、ますますわからなくなる。それが無為夢想という禅の世界らしい。

 今、私の頭は混迷の中にあるが、いずれにしてもこの資料4に心の教育とか、心というのがないのは、ちょっとという気がする。項目とか何かであってもいいのではないかと。先生のご発言につられて、少々余計なことを言った。

【鷲田委員】  山折先生のご発言から問題が非常に難しいところに入ってきているなと思う。というのは、森先生のご発言を私なりに解釈すると、今、我々は徳というものをどういうふうに教えるか、あるいは徳の教育というものをどういうふうにして、どの意味で再生するかということを議論しているわけだが、そのときに実際の学校現場の道徳教育でもそうだが、いつも危険視されるものが2つある。

 一つは宗教の問題、一つは歴史の問題。歴史教育の問題と宗教教育の問題というのはいつもいろいろな賛成、反対の議論が多数出てくる。私は、これらが、どうして危険なのかということと、それから、我々が今日まで議論している、その徳育ということは、本当に宗教や歴史の問題とかかわりのないところで、それを外して論じられるかどうかという問題が結びついていると思う。

 私は、歴史の問題と宗教の問題が危険視されるその理由というのは、要するに我々のこの世界、私たちが今一緒に生きているこの世界、あるいはせいぜい2代ぐらい前、おじいちゃん、おばあちゃんが生きていらしたぐらいの世界。自分のいわゆる、そういう意味で体験できる空間、体験できる時間という意味でのこの世界、それのはるか外側からこの世界を見るまなざしである。宗教というのはある意味で価値とかを考えるときに、存在ということを考えるときに、向こうの彼岸に、あるいは他界に視点をとって、そっち側からこの世界を見る。歴史というのは、今、私たちが全然経験できない、はるか過去に視点をとって、今のこの世界をまなざしで見るという、そういう視線である。

 そうすると、これは、人間をある意味で人間のほうから見ない。あるいは、現代人を現代人のほうから見ない。はるか遠くの視点から見直すということである。しかも、歴史と宗教が恐ろしいのは、歴史というのは、見ていけば人間の有徳な面だけでなく、残虐な面、殺生であるとか間引きであるとか、戦であるとかという、そういうすごく残虐な面も全部含んで歴史である。宗教も宗教で、宗教というのはきれいごとを言うのではなく、人間の愚かさとか、無意味さとか、弱さとか、残虐さとかを徹底的に見据えた上で反対にある愛とか慈悲とか、人間にはサイズが大き過ぎる、深過ぎるものを我々にその中に入れというふうに教えてくれる。

 そういう意味で、やはり宗教、歴史というのは、そういう建前ではなくて、あるいは有徳的なもので人間はあり得ないということをしっかりと見せるものである。だから、ある意味で、この世界をこの中で考え、そして少しでもよりよいものにしようというまなざしに対しては、すごく恐ろしい恐怖を与えるものでもあるのだと。あるいは論議を呼ぶものだと思う。そういう意味で、問題は、私たちが徳を考える、あるいは徳育を考えるときに、そもそも宗教とか歴史のまなざし、そういうものに根拠を置かないで、あるいはそれに触れないで、果たして徳育ということを本当に考えられるのかどうか。そういう問題を突きつけられているのではないかということで、大変難しい、重い問題だというふうに思った。

【鳥居座長】  安彦委員、それから小泉委員、どうぞ。

【安彦委員】  山折先生のお話は、私も前からずっと気になっていて、2回目あたりのときに議論が出たときに、私自身は信仰を持っているけれども、私個人の宗教について下手に口出ししてもらいたくないと言った。つまり、そういう意味では、私は繰り返し申し上げてきたように、この場での議論だけではないが、あちこち国のこういう会議に出ていて、一番あいまいなまま来ていると思って申し上げていることは、公教育と私教育をはっきり分けていないということである。この議論の場でもそうである。

 例えば私教育の場合には、今の宗教の話などは、まさに個人の、私の信教の自由の問題であり、そういう部分について私自身がどう考えるかについては、私は自分の話として議論するので、この場に出すべきものではないと思っている。それだけのわきまえをしてきているつもりである。

 例えば、そういう意味では、宗教そのものについて、これはむしろ行政の方はある意味で、行政の側から禁欲をしているわけで、そういうことについてもっと論じたいという人たちは政治家のほうにいる。むしろ戦後、信教の自由を認められて以後の我々の立場からすれば、こういう場で議論するのは、もちろん宗教について議論してもよいが、それは明らかに公教育の話か私教育の話かということで分けて議論してほしい。

 「日本人が」とおっしゃったときの「日本人」というのは、公人としての日本人の話なのか、私人としての日本人の話かということをやはり自覚してほしい。改めてこういう場で、公教育の場で徳を議論するということは、一定の限界を持っているという認識のもとに私は参加しており、そういう意味では、例えばこういう場ではっきり国民は徳について考える場合には宗教を持つべきであるとか、あるいは宗教心を持つべきであると言われたとき、例えば、深く考え抜いて、神も仏も信じないという人がいた場合には、その人に向かって、私たちは一体何を言ったことになるのだろうかということになる。

 全体として、私たちがここで議論すべきことというのは、改めて教育基本法の宗教教育の部分について、その部分に立ち戻ることは必要だと私は思っているが、その点のわきまえもなしに宗教について持ち出されるということについては、ぜひ慎重であっていただきたい。むしろ行政は、その点については考えて禁欲をしているはずであり、そういう、いわば前提を私たちは共有していかないと困る。

 徳が宗教と結びつく、絶対に結びつくというふうにもし言われてしまった場合には、これは改めて、そう言っては失礼だが、世界中の国の中で、それこそ社会主義国は宗教を信じないで国をつくり、社会を構成しているわけであり、そういう国々に対しておかしいと言うのは、、私たちが私たちの立場としてものを言うことはよいとしても、ある意味では徳と宗教とを不用意に結びつけ過ぎるというふうに思う。

 そのレベルの話で、例えば公教育としての徳育ということを考えた場合には、改めて私は、どのような宗教もある意味でかかわれる形で、かかわれるというのは、納得するというか、そういう形である意味で、無宗教の人ももちろんかかわれるという形で、基本的に徳についてここまで語っているということを示すしかないのだと思う。そこから先に何かを言うということは、非常にいろいろな問題を生むと思う。

 うまく言えないが、最終的には山折先生がおっしゃった方向というのは、私は基本的に、ある意味で手続的なことで、これもこんな場所で話すことではない、何年もかかるはずだとおっしゃったのは、全く同感で、そういう意味では一、二年の懇談会でことが済むとは私自身も到底思っていない。もし結論を出すとしても、当然のことながら一定の限界の枠内でしか出せないのだろうというふうに思って参加している。

 そういう意味では、私個人はむしろ自分で信仰を持っているからかえって、不用意に公教育を議論する場でそういうことを語っていただきたくない、というのが個人的な感想である。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 その前に小泉委員が手を挙げておられるので、それから森先生にお願いする。

【小泉委員】  発言を許していただいてありがとうございます。

 たまたま先週、ワシントンのライブラリー・オブ・コングレスにいたが、そこでオバマ大統領が宣誓に使ったリンカーンの聖書というのを見せていただいた。赤くて、比較的コンパクトな聖書だが、それを拝見していて、ただいまあったような宗教に関する話を非常にいろいろと考えてしまった。オバマ大統領の演説というのも、最後のところあたりには神という言葉が出てくることが多い。演説の全文掲載時を除いて、日本の報道の中ではその宗教的な部分がかなりカットされているように私は感じる。

 そういう国の体制が根元から違う中で、この宗教とそれに密接に関係する倫理・道徳を各国で共通的に論じるというのは、実際にはいろいろな制約があって大変難しいと感じている。種々の幼児教育プログラムの中でも大変悩んできた。どうしたら、心をはぐくむという、それを宗教なしということではなくて、今のような制約の中で可能にできるかという解決策について長いこと悩んでいる。今、一つ試みとしてやらせていただいているのは、「科学する心」(サイエンティフィックマインド)というのをもう一度見直すということをやらせていただいている。その科学する心というのは5つに要約をしてみたが、一つは「自然のすばらしさに深く感動する心。そして好奇心」。そして2つ目が「真実を率直に見つめ、認め、事実を決してごまかさない心」。そして、「偏りや思い込みなしに率直に判断し、行動する心」。その次が、「自然の中に生かされる命を大切にする心」。そして「多様性を尊び、相手を思いやる心」ということである。今、これをベースにして全国の保育園、幼稚園から、いろいろな新しい幼児の科学教育の企画・実践をご提案いただいている(ソニー幼児教育支援プログラム)。この中身というのは宗教で言われていることともかなり重なっているが、宗教とは直接は関係しない。そして、このどれもが今までの我々の科学の知識や経験から出てきている内容の項目だということである。例えば、4つ目の「自然の中に生かされる命を大切にする心」というのも、いかにも漠然とした心の話のように聞こえるが、決してそうではない。弱肉強食の自然界ではこういうことはあり得ない。そこはまさに人間の尊厳であって、進化の過程を経て、人間独自の新しい生き方を獲得した。そこには科学的な根拠があると考えている。5つ目の「多様性を尊び、相手を思いやる心」というのも全く同様である。

 ここの懇談会の中で早急にこういう議論というのはなかなか難しいかもしれないので、やはり今の宗教の問題というのは、最後まで問題として残るかもしれない。我が国の制約の中で実践できる可能な徳育の一つとして、「科学する心」という視点で子どもたちに、なるほどと納得させながら徳育を試みるという、そういうことも一つの新しい方向として極めて有効ではないかと考えるので、いつかは検討いただきたいと思う。なお、この内容の突っ込んだ議論は、8月にイタリアで開催される教育・哲学・脳科学の国際会議のテーマとして準備している。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 では、森先生、どうぞ。

【森委員】  教育基本法の範囲内で論ずると、安彦先生がおっしゃったが、教育基本法と言われても、すぐ頭に浮かばない人もいるかと思うので、そこのところを文科省のほうでここで紹介していただいたほうがよいのではないか。それで、その続き、また少し発言させていただきたい。

【鳥居座長】  資料3の3ページの一番上に教育基本法の抜粋が載っているので、それを見ながら説明してください。

【高橋教育課程課長】  平成18年12月に公布された改正教育基本法では、第1条に教育の目的、そして第2条に教育の目標が5号にわたって列記をされている。この中には、従来の教育基本法に書かれてきた重要な教育の理念、項目もあるが、改正教育基本法の一つの大きな特色は、教育の目標を第2条に示された5項目にしっかりと整理したということである。

 特に第1号では、「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養う」、これは知育の部分、それから「豊かな情操と道徳心を培う」という徳育の部分、そして「健やかな身体を養う」と、体育の部分。従来から学校教育をはじめ、日本の教育では、知・徳・体のバランスということをしっかりと重視してやってきたわけだが、そういったことをしっかりとこのとおり確認をした。

 そういうこともあり、各委員からご指摘があったが、学習指導要領は大きくこの知・徳・体の3要素で構成している。

 それから、今ご議論になっていた宗教教育については、改正教育基本法では、第15条に「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。」と規定している。

 改正前の昭和22年に成立した教育基本法においても、「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」という規定はあり、中教審の審議やそれを受けた与党の協議、さらに国会の審議でも、この宗教に関する一般的な教養を教育上しっかりと位置づけていくと、ここが議論になった。このときに、山折委員からご指摘があったように、宗教に対する一般的な教養というのは、もっぱら宗教を知識的な側面から教えることであるが、それでは足りない、むしろ宗教的な情操教育、宗教情操教育をしっかりと公教育においても行うべきではないかという議論があった。

 例えば、民主党から提案された日本国教育基本法案の中には、「宗教的感性の涵養」という文言がある。

 山折委員からご指摘があったように、この宗教的情操を公教育でどう扱うかということは、教育界においても従来から議論があったところ。ただ、宗教的な情操というのが、そもそもなかなか定義ができないという難しさもある。議論する方一人一人がイメージする情操の持つ意味合いが必ずしも一致していないこともあり、また、日本国憲法上、公教育におけるいわゆる宗教教育は禁じられている。そういったこととの関係で、今回教育基本法においては一般的な教養というものにとどめて宗教的情操には踏み込まない形での改正が行われた。このことを踏まえ、学習指導要領では、例えば社会科や地理で世界における宗教や日本における伝統的な宗教を、もっぱら知識的な側面から充実するといった改訂が行われた。

 本日の議論に関する教育基本法改正等の動きは、以上である。

【森委員】  どうもありがとうございました。教育改革国民会議でも高橋さんが事務局にいらしてよく教育していらしたと思うが、山折先生もおっしゃって、私はやや山折先生に近いが、宗教的情操と言ってもいいのではないかと思う。こんなことを言ってはいけないかもしれないが、一部の反対があったのだと思う。仏教でもいろいろな仏教を通じて、通仏教という考えがあるので、あらゆる宗教に通ずる、それを教養と言っていいのか、宗教心と言ったほうがいいのかもしれないが、そうなると教養という定義が難しくなり、私は、カントを思い出すが、ともかく教養という中にはやはり宗教的な心の問題も入っているため、教養、単なる知識と考えるのも少し狭いのではないかという気もするが、いずれにしても方向としては賛成である。そういう意味で、私は、公教育、私教育と、あまり四角張って考えるのはいかがか。

 それで、この議論ばかりもどうかと思うので、ほかのことを言ってもよろしいか。

【鳥居座長】  どうぞ。

【森委員】  1つ気になるのは、社会の変化とか、社会構造の変化とか、いろいろ言われるが、それはほとんど目に見える現象的なとらえ方なので、もっと社会の機能がどう変わったかという観点からとらえないと、教育論としてはあまり効果的ではないのではないか。

 例えば、言いたいことは、科学技術の発達、それが何をもたらしたか。便利になった。そういう便利さが人間の生き方にどう影響したか。便利というのは、依存心を高めるわけであるから、そうすると、依存心を高めれば、自立心の足を引っ張ることになるため、人間として自立が妨げられるとか、それから少子化とか核家族化と、こう言うが、では少子化になったら、人間としてどういう変化が起きたのかと、いろいろ言われている。今まであまり言われていないことを1つ言うと、一人っ子というのは弟や妹がいないので、家庭の中で弱い者を助けるとかいわたりとか思いやりの心が自然に生まれない。そうすると、どうしたらいいのかとか、それから核家族であるから、おじいさん、おばあさんはいないから、お年寄りを介護しようなんていう、そういう気持ちも自然に生まれない。だから、そういったことを考えると、一人っ子の徳育とか、そういう項目をつくってサプライズを与えないと、非常に総花的で、どこかのレポートみたいになると、あまり読まれないのではないか。だから、ぜひ、一人っ子の心の育て方とか、何かそういう項目もつくっていただきたいということが1点。

 それからもう一つは、社会総がかりとかいう言葉がよく出てくるが、これは教育再生会議の言葉で、それ以来ずっと使われているが、確かに社会総がかりだが、そうすると議論が拡散して、それぞれ、おれはあまり責任ないのだと、ほかの人がやってくれるからということになりやすいので、傷のなめあいみたいになる。これは閉鎖的社会は全部そうであるが、お互いに傷をなめ合って生き長らえているわけだが、私は家庭、学校、社会と3つの分野に分けて考えるならば、どこが一番大事で、どこが中心で、どこが原点なのか。あとの残りはその原点を展開する拠点なんだというふうに考えるとか、何か順位をつけないといけないのではないか。

 そういう考えでいくと、言うまでもなく家庭というのは、人生のベースキャンプであるから、山に登るにはベースキャンプが要るように、家庭がなければとても大変だが、その家庭というものをどう考えるか。その場合に、家庭、学校、社会で一番悪いのはどこで、2番目に悪いのはどこで、3番目に悪いのはどこだといったふうに極端だが、言ったらどうか。私は、家庭が一番悪い。悪いといってもはっきりしない。

英語で言うとわかりやすいので、家庭はワースト、社会はワース、学校はバッドと、こういうふうに言ったほうがよい。そうすると、家庭の人、講演が終わって文句を言いにきたおばさんがいて「うちは家庭しっかりやっています。悪いのは社会です」「ああ、結構ですね。そういう家庭もありますから」と。それぞれが意識していいのではないか。

 であるから、最近の状況を見ていると、政治のほうがワーストで、家庭がワースで、学校はバッドかもしれないが、ひところ、学校は死んだとか、学校はばかにされたが、学校は三者比べればましなほうではないかと思う。そういう意味で、社会総がかりという言葉はよいが、その後もう少し、注意を喚起するような配慮をしていただきたい。

【鷲田委員】  先ほどまで続いていた議論、最後に一言だけ申し上げたい。結局、宗教の問題とおっしゃってこられて、宗教を入れるべきではない、あるいはここでは入れるべきではないけれども、その根底にはやはり宗教というものが、例えば欧米の社会でも、政治的合意の場面でもあるという話、いろいろあったと思うが、少し整理すると、ここで徳育という言葉の持つイメージが、やはり多くの委員で違うと思う。徳という言葉、これは少し重過ぎると思う。なぜかというと、徳のある社会とあまり言わなくて、徳というのはやはり個人に関して、徳のある人、有徳の人という言い方をするものだから、これは最終的にこの徳の問題を突き詰めていくと、人としての生き方とか、人格のあり方のコアにあるもの、そしてその根拠はというと、また宗教の話とかにつながっていく。

 この徳というのではなく、先ほど読んでいただいた3ページの教育基本法の中で、2条の1に「豊かな情操と道徳心」という言葉があったけれども、この道徳心とは、公徳心というぐらいの意味ではないかと、私は考える。徳というよりも公徳心。そして、日本語のモラルというのは、徳ということよりも、むしろある意味では、みんなが守らないといけないことということで、マナーのようなものに近い。日本語のモラルという言葉は、私は少し軽いと思う。

 だから、そう考えてくると、ここで養うべき道徳心ということで、我々が議論するときに、いわゆる徳という言葉が、本来持っている個人の生き方の根拠みたいなほうに行かないで、むしろみんながこの地上で一緒に暮らしていくためにどうしても守らなければならない。そして、それを守ることに合意ができるような、そういうマナーとかルールである。社会的な、あるいは公共的な。そういうもののほうにできるだけ重心を置いて議論をしたほうが、ここの答申というのは書きやすい──書きやすい、書きやすくないという言い方はおかしいが、そういう方向で書いたほうが議論を集約させ、あるいは合意がとりやすいのではないかというふうに私は思う。それが公教育におけるモラルの問題なのかと思う。

【森委員】  今のことで言おうとした点である。5秒で終わるが。

 3ページの3の参考で、教育基本法の1条、2条があるが、宗教教育の12条か。

【高橋教育課程課長】  改正後の教育基本法では15条である。

【森委員】  15条か。それをここにつけ加えてお願いしたい。そちらのほうが、先ほどの山折先生の議論とも関連して大事なのではないか。

【鳥居座長】  15条の3つの項目を書くときに、今思い出してみると、私があのころは中教審の会長だったが、2番目の一般的な宗教についての知識という言葉が出てきた背景は、1988年のサッチャーの改革をいろいろみんなで勉強した結果、それまでイギリスで長いこと──長いことといっても戦後だが、戦後の約三十数年間、宗教教育を全く否定してきたイギリスで、学校で改めて宗教教育をどう取り上げるかということが議論になって、はたと気がついてみたら、イギリスには、昔のイギリスと違って、ものすごくたくさんの違う宗教がある。要するに、アングリカン・チャーチのほかにカソリックがあり、プロテスタントがあり、ユダヤ教があり、イスラムがあり、仏教がありと。ヒンズーもいたということで、その人たちが同じ教室でどうやって礼拝するかという問題に彼らは行き当たって、それでモーメント・オブ・サイレンス、要するにそれぞれの心の中で、それぞれが祈るべきものに祈ると。祈りたいものに祈るという仕組みに変わっていったわけである。

 それが一つと、もう一つは、そのようにいろいろな宗教の人たちが自分の周りにはいることを理解して、自分の宗教とは違う宗教があったり、無宗教者がいたりすることを理解する必要があるということを、そのときイギリスの人たちは議論したということがきっかけになって、それで日本でも、そういう意味での宗教についての知識としての理解、それも必要なのではないかという話から入っていったような記憶があるが、そのようなことか。

【陰山委員】  今、出ていることに関連するが、全体的に課題とされていることが列挙されているので、その軽重というか、解決の遅い、早いというのが少し混乱している要因かなという感じがする。今すぐやるべき課題というのは、要するに解決が比較的早いだろうという問題と、それから、先ほどから出ている、山折先生が出されておられるような課題というのは、これは時間がかかるだろう。

 ところが、学校現場にいますと、今すぐやるべき課題のほうが放置されているがために、それがずっと積もり積もってきている。最も典型的なのがメディアの問題である。なぜメディアが問題かというと、例えば子どもたちがテレビを2時間見ると、全学習時間を超える。ですから、週に1時間、35時間の道徳の授業をやったとしてみても、とても情報量において追いついていくはずがないわけである。つまり、そこのところを無視して現場の様子を見られると、学校は道徳教育やっていないのではないかというふうに見られてしまう。そうではなくて、やっているが、それを帳消しにして、なおかつあまりある有害な情報のほうが子どもたちに直接行ってしまっているということである。

 ところが、ひとたびいじめ問題が起きると、例えばテレビ局がばーっとやってきて問題だ、問題だと言うが、子どもたちが例えば校内暴力に走るような、いわゆる爆発直前の子どもたちというのは、ほぼ間違いなく3時間以上テレビを見ている子どもたちである。生活習慣を崩している子どもたちである。

 やはりこういうふうなところ、つまり徳育を成立たらしめる社会的条件というものを少し定量的にも明確にしていただかないと、こういう課題があるから、全部学校やりなさいという形で提起されたのでは、これはもたないのではないかという感じがする。

 それと、今、鳥居座長さんもおっしゃられたけれども、そのことも私、少し考えていた。宗教の問題、実は私も先ほど申し上げたように、立命科をやっているが、やはりそうである。無宗教だとなかなか成り立ちにくい部分があって、特に私学になると、学校創設者が問題になってきて、本校は中川小十郎という方が創始者だが、これ、戦前に結構、現在の立命館からすると肌合いの違うような言動をとられていたということで、戦後、50年以上の長きにわたって、この人を扱う授業というのは行われてこなかった。それではやはり立命館のアイデンティティーは保たれないからということで、この間初めて、その中川小十郎の一生、なぜ立命館をつくったかということを授業した。

 だから、そういう時代の変化みたいなものの中で、それが課題とされているということはあるが、一方で、一昨年だったか、生まれた子どもたちの30人に1人が国際結婚というのを聞いている。それから、昨年の結婚の20組に1人、だから5%か、これが国際結婚だというふうに言われている。また、地域によってはかなりの多数の外国籍の子どもたちが来て、実際に公立学校に通っているということがあろうかと思う。だから、そういうようなことも引っくるめて、この宗教教育なり徳育の問題というのは、ここには割と出ていないが、国際性の問題、ここのところにも今後課題を持っていかなければいけないのではないかという感じがする。

 そういう点を勘案して、今するべき課題、それから、今から社会全体で考えるべき課題ということで、ある程度集約をしていただければ少しわかりやすくなるのではないか。

【鳥居座長】  最後の問題、非常に大事なことをおっしゃっているが、数年前、集中的にいろいろな小学校、中学校を文部科学省の人たちと見て歩いて、その子供たちとまだ今でもつき合っているが、ある地域は、中国からの出稼ぎの人が圧倒的に多い中学がある。行動パターンというか、生活習慣が全然違うから、大人に対するあいさつの仕方とか、先生に対するあいさつの仕方とか、あるいはちょっとものを飲むときの飲み方とか、そういうのが全然違う。大変びっくりした。でも、しかし、それは日本の子どもたちにとっては、すごくいい影響を与えたなと私は見ている。今、陰山先生がおっしゃったような問題も、どこまでここに書いていくか、また相談するが、大事なことだと思う。

 押谷先生と加倉井先生、お待たせしているが、どっちが先か。では、加倉井先生、どうぞ。

【加倉井委員】  学校現場ということで、低次元になってしまうが、簡単に言うと、5ページにある個人的な問題、個人主義的な問題の話をしたいと思っている。結論的に言えば、社会や集団とのかかわりを重視するような方向性がこれからは大事ということを言いたい。

 実は、こんなことがあったということを報告して、その話にさせていただきたい。私は公立の中学校だが、うちのほうの地域は学校選択制で、入学するときは自由にどこの学校でも構わない。ただ、学年の途中から転校するときにはそうはいかないというルールだった。各学校の特色があって、本校は、割合勉強もボランティアも一生懸命やっているところだが、部活で大変頑張っている先生がいて、少し人気が出た。そうしたら、その先生のところに行きたいということで、何名か他の学校から転校したいという話になった。

 趣旨から言うと、学校は子どもの個性や適性にあわせて、選択していいということであるから、自由にいろいろな学校を選択していい。そうだというようなことで、議員の方も入り、転校がなぜいけないのだということになった。それは少しおかしいのではないかと、私は思っている。本人の個性や特性が伸ばせる学校を選択する、途中から転校してまで個性・適正に合わせた学校に通う。理屈は確かにそうだが、これまでは、そのような転校の例はなかった。それを今まで押さえていたというか、引きとめていたのは何なのかと思って考えてみた。1年間ぐらい学校に通えば、友達関係もあるだろう。その関係をチャラにして別の学校に行けるものかなとか、また1年間ぐらい部活動なんかやっていれば、愛校心みたいなものも育ってきて、自分の学校への愛着も育ってくる。それをなしにしてよその学校に来れるものなのかと思った次第である。それから、地域にもいるわけだが、それを感じず、転校が実際にできてしまう。実際には、そうしたいが、周囲の批判などがあって、学校へ行けなくなってしまう状況になった。、そのような生徒が3名いたが、そのうちの1人は仕方なく転校で本校へ来た。

 そういうような個人主義的というようなことが起きている。子どもの個性にあった学校に転校することが悪いかどうかはわからないが、情緒的な友達関係であるとか郷土であるとか社会の一員であるとか、その辺の友達や社会とのつながりの希薄さ、アンバランスというか、理屈がつけばよい、正しいと言えればよい、個人の利益が最優先、というような考え方が増えつつあるような気がしている。友達との関わり、社会性や愛校心、郷土との関わり、道徳でいえばその辺の教育がこれから課題なのかと思った次第である。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 では、押谷先生。

【押谷委員】  少し遅れてきて、最初の議論を聞いていなかったので、全体的な話になるかと思うが、3点ほど気づいたことをお話しさせていただきたい。

 1点目は、大変論旨はうまくまとまっていると思うが、どうも、なぜ今、徳育なのかという部分が、弱いかなという気がする。というのは、この骨子案の最初の所を見ると、どの時代でも、どの社会でも徳育というのは行われてきて、そして今までの動向を踏まえながら、もう一度しっかりと徳育を考えていこうというような流れに見える。しかし、今、山折先生や森先生のお話の中で、心がなくなっている、あるいは見えなくなっているというような話があったが、そのことは、人間の存在そのものの危機、あるいは人間社会そのものの危機でもあるという、そういう危機意識的なところを強調していいのではないか。

 つまり、なぜ今、徳育なのかという部分において、もっと危機意識を前面に出していく必要があるのではないかというのが1点。

 2点目は、その徳育についてだが、先ほど、高橋課長のほうから改正教育基本法のご説明があった。その第2条が、要するに目標ということで先ほど第1号についてご説明いただいたが、2号から5号までというのは、態度を養うこととなっている。まさに生き方そのものをここでは言っている。つまり、知・徳・体の調和的発達、それは大前提なのだが、その根底に人間としての生き方、あり方的なものがしっかりと位置づいていなくてはだめですよというふうに、とらえることができる。

 そうであるならば、知育、体育、徳育が並列的ではなく、徳を基盤にしてその上に知、徳、体を位置付けなくてはいけないのではないか。今回の学習指導要領改訂で、各教科等において、その教科の指導と道徳の内容項目との関連をしっかり押さえるようにという記述が加えられた。そういったことも含めて、いわゆる徳育というのが並列的ではなくて、知育、体育、食育を包括して、その根底にある人間としての生き方、あり方的とかかわってとらえられるようにしていく必要があるのではないか。徳育の重要性をもっと強調すべき。

 3点目は、先ほどの宗教心等についてお話だが、改正教育基本法で宗教についての一般的教養について強調されたということであるならば、一歩進んで、宗教的知識にかかわってどう指導するのか。そのための、いわゆる副教材というか、そういったものの開発等も、積極的に提案していいのではないか。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 そのほかに。安彦先生。

【安彦委員】  今の押谷先生のお考えと少し似たところがあるのだが、徳育のほうが、私は、前から申し上げているように、全体であって、知育は部分に過ぎない、というふうに今、考えている。どんなに賢く、知的に優秀な人でも、人間的にそれを間違ったものに使われたのではかなわないわけで、そういう意味ではやはり人格性というのが全体であって、知的な能力というのはその一部に過ぎないと考えている。この点で、おっしゃったように、重要性という点では並列的にならないように、どこかではっきりと言うべきではないか。前から全体として申し上げている、今の私たち大人が、ほんとうに子どもに向かって「人間的に立派になれ」というふうな言い方はほとんど言わなくなってきていて、とにかく大学に入るために勉強しろと、言ってみれば知的なことばかり問題にしているという、そういう状況であるから、そういう意味で改めて私たち大人に対する警告としても、やはりはっきりその辺を言わないといけないのではないか。

 それから、私はどちらかというと公教育と私教育は、原則でよいが、やはり分けるべきだと思っている。、この点でむしろ1つ、これはむしろ森先生が言われるかなと思っていたが、ドイツの学校の場合は宗教の時間というのがある。今、イギリスの例でお話があったが、私はイギリスの例は授業を見せていただいたことがある。PSLという教科の中で宗教教育をやっていて、知識教育である。これはイギリスの場合には、4つの大きな宗教の儀式をロールプレイを入れながらやっていく。非常にわかりやすく、イスラムはこういうふうにやっている、仏教はこうだというのを丁寧にやっていた。

 そういう意味では、世界から全くいろいろな人たちがイギリスに入ってくるので、信仰の面でもそれぞれの子どもたちを尊重するためにお互いに理解し合う必要というのは、日本も同じような状況になってきて、先ほどのお話のような方向というのは、やはり必要性は高まっていると思う。

 イギリスの場合にはそういう形で宗教の相互理解を深める方向で考えているが、ドイツの場合には、むしろ宗教の時間というのがそのまま学校にあって、その場合にはっきりと宗教、宗派、無宗教の人もそれぞれの子どもが尊重されて、それぞれの同じ1時間の授業を、それぞれ分かれて、宗教の教育を受けるという。その場合は当然、キリスト教の場合だったら牧師さんが来る等々、責任者も学校の先生ではない。

 そこまで公教育が徹底して信教の自由をベースに行われるというのであれば、私はそういう形も一つのあり方として参考になるかなと思っているが、今、私はその段階までここで言うべきものではない、そこまでは来ていないのではないかと思っている。

 むしろ、ここで申し上げたいことは、先ほどの観点でいけば、家庭、学校、地域と3つ出てきた場合に、家庭は明らかに私教育中心だと私は思う。だから、そこでやはり宗教的なことについて関心を持ってほしいということは言えるかと思う。ただ、特定の宗教をどうこうしろとかいうことは、到底言えないと思う。

 それから、学校というところは、今の公教育の場であるから、基本的にこれは日本の国民形成をしているところで、特定の宗教のための教育をする場ではないというのは基本法で書かれているとおりである。先ほどの基本法の15条、新法の場合でも、宗教的教養、一般的教養を教えるという点では、今お話があったようなことを参考にして、押谷先生も言われましたが、そういう場をつくってもいいと。いろいろな宗教に対して知的にお互い理解し合える場というのが必要だということは、必要性は高まっていると思う。そういう場をすべての子どもに提供するという点では、家庭の中では無理であるから、学校という場で保障すると。

 それから、学校という場は、やはり基本的に、今、陰山先生も言われたが、私は、広い意味ではやはりマナー中心でいいのだと思う。モラルまで行くというのは、なかなか難しい問題が絡んでくると思う。大体、今まで言われてきていることも、それほど重いモラルのようなことではないが、多分、山折先生などはそれが欠けているから問題だとおっしゃる。まさに私も問題意識としては類似のものを持っているが、そこまでやはり公教育の場で踏み込むことはできないと思う。

 それから、地域だが、学校はそういう意味で、やはり一定の枠内ですべての子どもを日本国民として育てる、という視点で教育するものだと思うが、地域はまたそれぞれの地域になるから、これはこれでまたある意味で私教育的な発想を入れていいのではないか。そういう意味では、もっと私たちは私教育への関心を呼び覚ますというか、その需要性を何らかの形で問題提起したいという気持ちもある。

 前にも申し上げたように、教育を論ずるとき、どうしても10年先、20年先という、時間軸の縦の軸ばかりで教育を論じるが、基本的にそれも一つがあるけれども、横の、社会学でいう社会統制的な機能というのもあるわけである。社会の秩序を一定維持するという、そういう同じ横軸で同時的に果たしている教育の機能があるわけで、その機能が実は日本の場合に、今、社会で弱まってきてしまったと言える。かつての社会教育を生涯学習と言い変えてしまった途端に、それでいいかなと思ったら、これが、どっちかというと個人的な話になってしまい、個人の一生涯の学習という視点で、少し一面化してとらえられ過ぎてしまった。むしろ昔の社会教育的な発想の持っていた望ましい面というのが欠けていってしまって、そういう面ではやはりそのような教育に対して、一般の国民に重要だということを認識してもらう。そういう場面でもう少し私教育的なことに関心を持ってもらいたい、ということを言う必要があるかなと思う。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 では、馬場委員。

【馬場委員】  大分違う話になってしまうが、よろしいか。

【鳥居座長】  はい。

【馬場委員】  11ページ、終わりのほうに、「社会総がかりの徳育の推進のために構ずべき方策」の中で幾つか方策例がある。昨年度、パナソニック財団のこころの教育フォーラムの奨励、あるいは上廣財団の教育論文賞、そのようなことにかかわらせていただいた。パナソニック財団のほうでは、例えば、こころの教育フォーラムで最優秀賞を取ったのが群馬県の看護師さんたちのグループのやっている行動だった。それから、集団宿泊訓練でとてもいいことをやっているとか、地域が学校が一体になってというような事例がよい賞を受賞していた。他にも、高校での道徳教育をやろうという、意欲のある先生とか、そのような事例が幾つか出されていた。また、上廣財団のほうでは先人の生き方について学ぼうという授業の例がよい賞を受賞していた。

 そのようなことがあり、いろいろなそのような奨励されている実態があるので、そういう実態をしっかりとらえて、ここに具体例などが出てくるといいかなと感じた。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 今、馬場先生からお話があった10ページ、11ページあたり、いろいろご議論がおありと思うが、時間があと10分しかない。あと10分しかないが、もし何か10ページ、11ページでご意見があればいただきたいが、いかがか。

 最初に私から申し上げたいことがある。10ページの下のほうに家庭と学校と地域とあるが、この学校という表現の中に、先生のすばらしい人格が子どもたちにいい影響を与えるという、そのことが何も書いていないが、皆さんの賛同を得られれば、先生に期待するものは非常に大きいということを書いてはどうか。

 何かそういうことでご意見があれば、どうぞ。

【坂口委員】  この10番にかかわることだが、私は教えるというよりも、段階に応じて引き出してあげるということが道徳教育という、先ほどからの、人間が人間として人間らしく生きていくための、人間として成長していく過程の中で、教えるというよりも、もともと持っているものを引き出してあげる。年齢に応じて、例えば自立心が芽生えたりとか、自制心が芽生えたりとか、いろいろ家庭環境や社会環境の中で身につけていくものを教えるというよりも、逆に大人が引き出してあげることが大事かなというふうに思っている。それは家庭の中でも学校の中でも一緒で、先ほど座長がおっしゃったように、先生方の一つの態度で、教えるというよりも引き出してあげるというような姿勢があると、子どもたちがいろいろな心を持てるので、大人もそうだが、マナーがあって、徳の高いと言われる方でも、人の見ていないところで何か間違ったことをしてしまったりということもあるが、それを自制する心とか、そういったものを引き出してあげるような先生方の資質みたいなものがあったらありがたいと思う。

 その部分としては、そういう先生方の資質の向上みたいなもの、もちろん家庭もそうだが、そういったものを加えていただけるとありがたい。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 どうぞ。

【渡辺委員】  同じ流れで、やはり教えるとか、そうではなくて、はぐくみ、主体的にという観点からいくと、その前の段階の4ページや5ページや6ページの一つ一つの文言の中に、やはりもう一度吟味するものがあると思う。

 例えば、6ページに、「現代の子どもの発達のつまずき」という言葉を使っているが、やはり子どものつまずきというよりも、現在の状況の中で子どもたちがどのように苦労しているかとか、それから例えば6ページの重視すべき課題の中に、一つ、例えば自己肯定感をしっかりとはぐくまれていくといった、自己肯定感などの項目が入ったりしていったほうがいいと思う。

 長くなるので、これはまた別途事務局のほうに送らせていただくが、少し文言の書き方によって、今、坂口委員がおっしゃったようなことなども変えていけるのではないかと思う。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 はい、どうぞ。

【小泉委員】  全体を拝見して、1つ、志というのはどこに入るかというのをお伺いをしたい。私は、やはり今の日本にとって志、それから意欲もそうだが、特に志というのは、大人はもちろん、子どもたちも非常に重要だと思うが、先ほどのどの教育の範疇に入ってくるか。その中ではどちらかというと、徳育に関係が深いのではないかということで、志をどう扱うかということについてご検討いただけるとありがたい。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 どうぞ、押谷委員。

【押谷委員】  私も全く小泉先生と同じ意見。学校、家庭、地域連携の項目を見せていただくと、11ページの学校における道徳教育の充実の中で、例えば、行事とか、卒業式、入学式等々において、かなりの学校で、志を持たせたり高めたりする行ったり、その行事の中に地域の人々とか、いろいろなかかわりを持っていただいた人来ていただいて、みんなで祝福したりしている。そういったことをもっとしっかりやるようにという具体的提案があってもいいのではないか。

 それと、やはり児童会、生徒会活動がもっと地域とかかわって、あるいは学校間連携も含めて取り組んでいく。その取り組みの中にボランティア活動云々と同時に、国際的な視点からも考える。私の知っている中学校では、ネパールに学校を贈ろうということで、学校レベルで取り組んで、大使館とのかかわりを持っているとか、そういうところもある。何かこのあたりについてをもっと強調できるのではないか。

【鳥居座長】  今のお話を伺って、日本の文化のレベルが少し落ちてきたのに妥協してはいけないという感じがする。志については、先ほど紹介したいろいろな皆さんと一緒に見学した小学校の生徒たちに、高い志を持って生きていってくださいという色紙を書いておいてきたら、すごくよくわかって、僕は志を持って生きていきますという返事がいっぱい来る。ところが、三省堂の辞書を引くと、志というのを引くと「志を持つこと」と書いてある。何とも、文化のレベルが落ちたとしか言いようがない。

 だから、そこのところは妥協しないで、もうわかっている言葉として使うぐらいのつもりでいったらどうか。

 ところで、あと2分ぐらいしか時間がないが、ぜひ最後に一言という方はおられるか。

 どうぞ。

【森委員】  11ページの学校における道徳教育の推進で、校内における道徳教育推進体制の充実とあるが、これは多分、道徳教育推進教師というのができたので、それをきちんとやるということだと思うが、現場の先生方に聞くと、学校における道徳教育というのは、大体指導計画も去年と同じでいいというふうに終わって、年度の数字だけ変えているとか、いろいろ聞く。これは悪い例で、いい例ももちろんあるが、その場合に、横浜市では既に推進教師は主幹教諭をあてるとか何か決めて、ヒエラルキーの中で位置づけるというのも一つの方法だが、そういうトップダウンもいいが、私は、むしろ道徳教育こそボトムアップで、全教師が毎年交代で推進教師になってやらせてみる。そして、そのつらさを共有して、初めて効果が上がるのではないかと思う。

【鳥居座長】  大変貴重なご意見をありがとうございました。

 それでは、あと1分ぐらいだが、いかがか。特にないようであれば、事務局から今後の予定を。

【塩川児童生徒課長補佐】  本日はどうもありがとうございました。次回は本日のご意見を踏まえてできればと思っている。1月後ぐらいをめどということで、5月末、あるいは遅くとも6月上旬までにと思っているが、調整ができ次第、ご案内をさせていただきたい。

【鳥居座長】  今日は大変濃密な議論をありがとうございました。

 

── 了 ──

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