子どもの徳育に関する懇談会(第10回) 議事要旨

子どもの徳育に関する懇談会(第10回)が、以下のとおり開催されました。

1.日時

平成21年6月11日(木曜日)14時~16時

2.場所

財団法人 都道府県会館 4階402会議室

3.議題

  1. 「審議の概要」について
  2. その他

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
天野 秀昭 委員(特定非営利法人日本冒険遊び場づくり協会副代表)
大野  裕  委員(慶應義塾大学保健管理センター教授)
押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授)
加倉井 隆  委員(江東区深川第一中学校長)
河合 優年 委員(武庫川女子大学教授)
坂口 一美 委員(社団法人日本PTA全国協議会常務理事)
馬場 喜久雄 委員(財団法人総合初等教育研究所室長)
平野 啓子 委員(語り部・かたりすと,大阪芸術大学放送学科教授,武蔵野大学非常勤講師)
 森  隆夫 委員(お茶の水女子大学名誉教授)
柳田 邦男 委員(ノンフィクション作家)
山折 哲雄 委員(宗教学者)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師)

文部科学省

玉井文部科学審議官、德久大臣官房審議官、高口男女共同参画学習課長、
磯谷児童生徒課長、有松企画・体育課長、池田青少年課長、
塩原専修学校教育振興室長、大谷幼児教育企画官、塩川児童生徒課課長補佐

(国立教育政策研究所)
 中岡国立教育政策研究所教育課程研究センター長

オブザーバー

天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)

5.議事要旨

 (1)開会

 (2)議事

 ※ 大野委員、馬場委員より、説明の後、事務局より、資料2、3の説明。その後、資料について議論。

【鳥居座長】  それでは、今日は「審議の概要」の審議に十分な時間をとりたいので、先立って、今お話のあった大野委員からご提出の参考資料のご説明をまずしていただいきたい。それから馬場委員の配付資料もご説明いただいて、それから「審議の概要」に入りたい。

 では、大野先生、今日配っていただいた資料の説明をお願いします。

【大野委員】  それでは、簡単に説明させていただきます。

 「審議の概要」を拝見して、非常に理念的にすばらしいと思ったが、2点気になったことがあった。1つは、地域、家庭について触れられているが、学校の具体的なところが少し乏しいような感じがした。内容に関してだが、どちらかというと、一方的に子どもたちに教えるというような雰囲気があったので、何かもう少しないだろうかと思って考えた。特に家庭、地域というのは大事だが、最近の家庭を見ていると、非常にいろいろな問題があって、そこにあまり期待をし過ぎるのは難しい可能性がある。私はむしろ学校が中心になって、そして家庭、地域を巻き込んでいくというふうなモデルというのがないだろうかと思っていた。

 学校というのは、教員ということで人的なリソース、知識、経験、いろいろなものがあるし、場所的にも、やはり生徒たちが集まるということで、それを使えたらと思っていたところ、私が年来一緒に勉強しているスクールカウンセラーが中野中学校というところで活動しており、もう5年、6年ぐらいの活動の中で非常に荒廃した学校が立ち直ったというお話をちょうど2カ月ぐらい前に聞いた。そこで、それを少しここでご紹介できたらというふうに考えた次第である。

 いかに荒廃していたかというのは、この資料の1ページ目から出ているが、来客玄関、廊下、天井などが壊れている。生徒用トイレというのが2ページに載っているが、2つ便器がある。これは別に2つ並んでいるわけではなく、ほんとうは全部壁があるはずが全部壊されているということである。1年分の修繕費が1カ月で使われてしまうというふうな状況だったと聞いている。

 ただ、生徒たちは、この学校に限らず、学校には来ている、だけど授業に出ないという生徒が結構いるということである。廊下を自転車で走っていたり、家庭も非常に困窮していて、電気がとめられているので、夜は学校の外に来て、中には入れないので、そして学校の電灯で本を読んだりしているという、そういうふうな状況があったと聞いている。

 そこで、総合の時間と道徳の時間というのを活用して、先生たちが何とかできないだろうかという活動を始めたそうである。3ページ目、細かいところはまた読んでいただければと思うが、テトラSというのを先生たちが導入されて、2年間活動をされたということである。これはご存じの方もいらっしゃるかと思うが、生徒たちの気持ちに寄り添いながら理解をしていくという活動で、むしろ先生たちが生徒たちの気持ちをどう理解するかというふうなものだそうである。

 そして、その中で先生たちの連携というものは強まっていったが、なかなかそれが生徒の行動の変化につながっていかないということで、5ページ目、ここに書いてあるように、少しずつ効果が出てきたが、依然として先ほどのようないろいろな問題が出てくる。そこで、ライフスキルというのを導入したということである。私が専門としている認知行動療法というのがある。それは、同じ状況でも人によって考え方とか感じ方が違う。そこでいろいろな心の問題とかを解決していこうという治療法だが、これを生徒の指導に使って、同じ状況でも人によって感じ方、考え方が違う。それを通して相手の気持ちを理解しようという。つまり、これが私は人の気持ちを理解したり、思いやったりする道徳につながってくる基本的なコンセプトだろうと思う。そういうのを年間40時間から50時間かけて3年間やったということである。

 例えば、部活の活動の中で、自分が部長に選ばれた。それでは、どういうふうなことを考えるかというのを生徒たちが小グループで話し合う。例えば、部長に選ばれてよかったと思う子もいれば、面倒くさいな、責任が出てと思う子もいれば、いろいろな考え方がある。突然教員室に呼ばれた、では、あなたはどう感じる、どう考えるかとか。先輩からたばこを勧められた。では、どういうふうに感じて、考えるか。そういうふうなことを一緒に考えていく。それが6ページ目の右上にあるが、こういうふうに先生が説明して、そして小グループでやっていくというふうな活動をした。そして、先生と生徒、そして、生徒と生徒の交流を通して、一方的に教えるのではなくて、お互いが関与しながら勉強していくという活動をやったということである。

 その一方で、そこに協力していたスクールカウンセラーがいろいろな個人、問題に悩んでいる子どもたちにカウンセリングをしたり、集団で話し合ったり、そして、家庭訪問をして親御さんたちにこういう活動に参加してもらうという。特に問題がある子どもの親御さんというのは、どうしても拒絶的で出て来ない。学校に行けばしかられるのではないかということで出て来ないが、その中でスクールカウンセラーがいて、その親御さんたちがやっているいい面をうまくサポートしながら少しずつ学校に出てきていただく機会をつくることで、だんだんそういう親御さんたちも出てくる。

 一方で、何とかこの状況を変えてほしいというふうに思われていた親御さんたちは、ボランティアチームというのをつくって、学校の中にスペースをつくって、そういう親御さんたちが集まって、学校の様子を見たり、生徒と一緒に何か活動をしたりという活動をされたということである。

 その結果、非常によかったということで、7ページ以降、トイレもちゃんと壁がそのまま維持されている。そして8ページ、授業もきちんと受けている。この授業風景というのがあるが、これがきちんと受けているだけではなくて、これを始める前というのは、ほとんどが私服で、それもとんでもない格好をしている生徒が多かったらしいが、制服を着て出てくるようになった。

 また、地域等の活動で、9ページ目、こういったのぼりをつくったりして、地域と交流をするということをされて、そしていろいろな活動も活発になってきたということで、開始当時は不登校が大体9%だったそうだが、今は2%まで減ってきているということである。聞くところでは、全国平均が5%らしく、随分よくなったというふうにこの学校のスクールカウンセラーたちは言っている。

 以上が全体の概要である。この活動が非常にいいと思ったのと、ただ、そこで活動している先生たちもカウンセラーも言っているが、やはりこれができたのは、校長先生がかなりリーダーシップを持ってやろうというふうにおっしゃったからである。ただ、その校長先生が交代すると学校は結構方針が変わるので、そこが非常に不安だということである。この活動の途中に1回交代されたそうだが、幸いそのときは、新しい校長先生も非常に賛同されて活動を続けられて、一貫性がある。

 もう1つは、やはりこれだけの活動をするには、先生たちが一丸になってやらないといけないということで、むしろ非常に荒れていたからできたというところがあるようである。何とかしないといけない。とにかく今は先生が手を出せないので、暴れている生徒がいると、先生たちが五、六人いって、周りを取り囲むらしい。手を後ろに置いて、そして周りを取り囲んで、そしてその周りをまた生徒たちが取り囲んでいるという状況だったらしいが、そういう中で、何とかしないといけないということがあったということである。

 だから、逆に言うと、それなりにできているところでは、なかなかこういう活動をみんなでやろうという雰囲気にならないので、それをどう広げていくかというのも大事ではないかというふうに聞いている。

 こういう活動を見て私が思ったのは、やはり学校というのはいろいろな問題があるにしても、生徒たち、そして保護者たちが頼りにする、核になるところなので、こういう学校を核にした徳育の方針というのも重要なのではないかと思って報告させていただいた。

 どうもありがとうございます。

【鳥居座長】  ありがとうございました。それでは、続いて馬場先生からもお願いいたします。

【馬場委員】  前回の会議の中で、まとめの中の実践例というのを幾つか具体的なものを挙げていただきたいというようなお話をして、幾つか挙げていただいたが、どうしてもPTAの活動とかそういうものが多いとは思った。少し紹介した事例集ができたので、わかりやすいかと思って持ってこさせていただいた。

 「こころを育む総合フォーラム」ということで、まず、4ページをごらんください。心の東京革命の7つのルール、それから、文科省の大臣が言った5つの提言と幾つか話題にされたが、ここにも7つの問いということで、子どもたちのことにできること、家庭、地域、学校、企業ということでまとめられている。

 そして、事例としては10ページをごらんください。10ページは、家庭、学校というのが中心になり、地元の看護師さんたちの命の授業である。それから14ページは、家庭と地域の協力ということで、森と海の学校、海を中心として子どもたちをグループで育てているということである。それから18ページは、これも家庭と地域で冒険楽校というのができている。20ページは、家庭と学校と地域の連携で、中学校を拠点とした地域づくり、学校づくり、花でということである。それから22ページが、家庭と地域の連携で、少年少女合唱団。24ページも家庭と地域。それから26ページが、家庭、学校、地域ということで、3つの連携した例。そのようなことがあるので、少し紹介させていただいた。

【鳥居座長】  ありがとうございました。今、2つのご説明を拝聴したが、また今日の審議の中でも、いろいろこの件について言及していただき、ご質問もあれば出していただきたいが、今さしあたってご質問がありましたらどうぞ。特にございませんようでしたら、今日の本題に移りたいと思う。

 それでは、「審議の概要」について、今日はたっぷり時間をとっていただいたので、審議いただきたい。まず最初に、事務局から資料をつくっていただいているので、ご説明をお願いしたい。

 

(事務局から資料2、3の説明)

 

【鳥居座長】  ありがとうございました。それでは、今事務局が用意した「審議の概要」について、皆様からのご意見をちょうだいしたい。時間がたくさんあるようだが、お一人お一人のご意見の開陳の時間はなるべく手短にお願いしたい。どうぞよろしくお願いいたします。

【柳田委員】  事情があって4月、5月と2回欠席して申しわけない。実はその分貯蓄していたものとして四、五分時間をいただければと思う。

 一昨日だったか、これを事前にいただいたので精読させていただいた。そして大きな枠組みの問題点と具体化する問題点と2つの分野について感じたことをまず申し上げたい。大きな枠組みとしては、いろいろと提言の題目あるいは理念というものを箇条書きにして挙げていること。これは今の時代にふさわしい項目が挙がっているので、それはそれでいいが、それをどう具体的に徳育なり、さまざまな分野での取り組みとして具体化するかという一種の方法論の面こそが今非常に重要。徳目なり理念というのは、もう何百年来変わらず続いてきたものが基本にあって、それが根底から崩されるような社会構造になっているというところに目を向けて、そこにどう取り組むかという方法論が大事だと思う。

 それで、先ほどの中野中学校における実践を見ていても、あるいは私自身がいろいろと現場体験しているものを見ても、非常に個別性のある取り組みの中でそれぞれに成果を上げるという実態を見ると、それは何なんだろうかということは後ほどまたお話ししたいと思うが、そういう大きな枠組みを組むときに、その方法論をどういう叙述文体で、どういうふうな形でアピールしていくかということである。

 それは大変個別性がある問題だが、個別性の中に普遍性があるので、事例収集のワーキンググループをつくって、実際の実践事例集なものを集大成することが必要なのではないかということと、それを通してさらにそういうワーキンググループが実践事例から何を普遍的言い得るかという提言をまとめるというのが一番現場に届く方法ではないかと思う。そのためにワーキンググループの作業を、我々の今の会議で待つというのではなく、今の会議はそういうのをつくるという提言で終わっていいと思うが、速やかに実践に移すような形でやる必要があるのではないか。

 それから大きな枠組みでもう1点問題なのは、虐待にしろ、あるいは核家族化した中で母親にいろいろなストレスが集中的にかかってくるというその背景には、今の経済の困難、あるいは企業社会における残業やら、過酷な労働やら、そういう中でストレスが母親にかかってくる。あるいは母親自身がキャリアウーマンのようなことをやっていても、ゆとりを持って子どもと接することができないというのは、さまざまな経済構造の問題があるため、いわゆる男子、男の育児参加というものを積極的に取り上げていかないと、すべてが絵にかいた餅になる。やはり今の社会状況を見ても、今日のリストラやさまざまな状況の中で悲惨な家庭がどんどん増えているし、生活保護世帯が百数十万もあるというような、急増しているというような実態を見ても、経済と徳育の関係というのは大変重要だと思う。そのためには企業社会が変わらなければいけない。

 どういうことかというと、例えばフランスで言えば、父親は半年間ぐらい育児休暇をとれるという話だから、生涯出生率が1.8幾つというような高いものが保証されているとか、さまざまなそういう経済制度的なもの、そしてそれに対する企業の理解と積極的な実践ということが望まれるわけである。そういう問題について、文科省から発信する意義は大きいと思う。それは、例えば内閣府のやることだとか、経済産業省のやることだとかということではなくて、子どもの視点から、子どもをどう育てるかという視点から言うと、この国はおかしいよ、こういう点を何とかしなければという、そういう発信の仕方が必要なのではないかと思う。具体的なことはまた後ほど述べたい。

 それから、各論的なことにかかわると思うが、ここに述べられた全体の提言書の構成の、課題と方法という形で3と4が述べられているが、理念やあるべき姿を述べていて、いかんせん実践にどう結びつくかというところがまだまだ迫力がない。これはいつの時代でも格好つけて述べることはできるわけで、それを今の時代どうするかというようなことを述べていかなければいけないが、その細かいところまでは別として、例えば、乳幼児期の子育ての課題ということで、14ページに愛着形成の問題というのがある。乳幼児期にどういう人格形成が始まるかということが、おそらくすべての基本だろうと私は思っている。これはまさに乳幼児期の精神保健の専門の先生がおられるので、僭越だが、おそらく小中学校に行って問題を起こすその根源は乳幼児期の人格形成にあるだろう。そして、その中で、特に愛着の形成だったら本人が愛着体験がなければ他者に対する愛着を持てないというような1つの宿命みたいなものがあるわけだが、それをどうやったらできるかということは、例えば、私が数年前から柳田絵本教室というので、テレビを消して絵本の読み聞かせを、とにかくおなかにいるころからやりなさいというのをやっている。それで、私の宗教に入信してくれた若い家族が実践したら、子どもの言語力、感性の発達がすごい。そして3歳半ぐらいになると、弟、妹に読み聞かせまでやってしまう。何にもほかにやらなくてもそれだけですばらしい。2歳ぐらいになると夫婦の会話に割り込んできて、「ママ、それいい考えね」なんていうことを2歳ぐらいの子が言うわけである。

 そういう発達形成における絵本の読み聞かせというものの問題は、方法論のように見えていながら、実は決定的な決め手というのか、あるいは理念を実践するすべてをそこに含んでいるみたいな意味があるのだろうということを感じる。

 あるいは、例えば、最近宮崎県の都城のほんとうに田舎のお寺さんがやっている幼稚園で、規模は小さいが、感動的な体験を聞いてきた。それは2年ほど前だが、「そんなの関係ねえ」というのを朝から晩までテレビでやっていて、子どもたちが何をやっても「そんなの関係ねえ」というので、全然話にならんという中で、1年間年中組で取り組んだ話だが、その保育所の方はすばらしいと思った。

 4月が始まって、お寺さんなので広場もあり梅林もあり森もある。子どもたちにいろいろな花や昆虫やそれに親しみを持たせるので、週に1回は森に出たり梅林に出て出会った昆虫や鳥や花に親しんでいくというのをやっているが、梅林に行ったらその奥にあった森に大きな木の横に小さなほこらがあって、それを見たら男の子が「あ、めっきらもっきらどおんどん」と言った。『めっきらもっきらどおんどん』という絵本を皆さんご存じかどうか知らないが、友達のいない「かんた」という少年が、おもしろくないから近くの森に行って1人で「めっきらもっきらどおんどん」とめちゃくちゃな歌を歌う。たまたまその絵の横に氏神さんみたいな小さなほこらがある。その絵を見ただけで、男の子がほこらがあると言った。そして、「めっきらもっきらどおんどん」と言ったものだから、その保育士の方が早速反応して、それでそのときに数人の男の子が走っていって、「ほんとうだほんとうだ」と言った。女の子をその絵本を知らなくて何も興味を示さなかった。

 そこで、教室へ帰ってから早速読み聞かせした。そうしたらみんなぐいぐいついてきた。先生は次の週に戦略的に、今度は梅林の前の広場でみんなを地べたに座らせて読んでやろうといって読み始めた。実体験と絵本の世界を一体化しようといって。そして、そのほこらの出るページに来たら、男の子が「先生待った」と言う。そうしたら、いきなり男の子が全員ほこらのところへ走っていって、読み聞かせをしている絵のほこらと同じだということを確認に行った。そうしたら女の子たちも興味持って行って、それでみんなぞろぞろ帰ってきたらその男の子が「スタート」と言う。その次を読めというわけである。読んだらもうものすごい。

 それはどういう話かというと、「かんた」はその後ほこらの横にある大木の穴の中に首を突っ込んだら向こう側の世界に行ってしまう。そうしたら、おかしな3人組がいて、いろいろな遊びをするが、その中にはももんがごっこと言って空をマント飛んだりとか、あるいはおたからまんちんという仙人みたいなおじいさんがビー玉をのぞかせてくれると、その中で海底の世界が見えたりとかいろいろな遊びをする。

 子どもたちに早速保育士がそれを実際の遊びに結びつけようとして、まずはももんがごっこというのをやり出した。そしたらみんな「ももんがー」と言うと、怖くて小さな踏み台すら飛び越えられなかった女の子まではどんどん飛ぶ。怖がっていた子が自分を超えて何か行動するところへどんどん結びついていく。

 それから、最も感動的だったのは、じゃあビー玉ごっこやろうというので、透明なビー玉をみんなに持たせてのぞかせた。何が見えるかな、海かなとか、お魚かなとか。そうしたら、ある男の子が、それは遅刻した子だが、「あ、お母さんがいた。お母さん物干しでお布団干している。今日僕寝坊しちゃった。明日から寝坊しないで早く起きよう。お母さん大変」と言った。そしたら、もう1人の女の子が、その授業の前にリサちゃんという子を泣かせてしまった子だが、先生が「さあリサちゃんいるかな」と言ったら、のぞいているうちに泣き出した。「リサちゃんがいる」と言って。「リサちゃん泣いている。涙がいっぱい」と言って。そしてわーっと自分も泣き出して、リサちゃんのところへ言って、ごめんね、ごめんねと謝った。

 そういうことを1年間、『めっきらもっきらどおんどん』を中心に展開していったら、終わるころにはみんなで『めっきらもっきらどおんどん』の物語を壁画にして1年間終えた。その間に、いつの間にか「そんなの関係ねえ」というのは子ども中から、言葉から消えていってしまった。

 何を意味しているかというと、子どもたちにあれはだめ、これはだめ、こうしなさいではなくて、実際の実体験とそういう絵本の世界のファンタジーと一体化することによって、子どもたちは自分で何かを気づいて見つけていく、そこが大事なんだろうと思う。だから、動機づけと気づきというのを実際にどうするかがこの徳育という中でとても大事で、自分で気づかない限りはいくら徳目並べてもだめだということ。そして、それに対応する教師なり保育士の問題意識なり取り組み方についての自覚、そしてまた、そういう専門職になる教育カリキュラムの中に、果たしてそういう動機づけができるような専門家になるようなカリキュラムが組まれているのかどうかということである。

 学科を教える、あるいは何か項目を教えるのではなくて、極めてケース・バイ・ケース、個別性のあるところに敏感に反応して、そして子どもたちと接していく。そういう臨床の知とでもいうべきものをどう現場で実践していくかというのは大変大きな課題であって、それが私が個別事例の重要性というものを集大成していくような意味だと思う。これは哲学的には科学の力、臨床の知恵という中村雄二郎さんが提言しているような、そういう時代的な背景を考えたときに、徳目などということが一種の理念の知から実践の知に変わるためには、そういうさまざまな現実というのを見ていかなければいけないのではないかなと、そんなことを思う。

 時間があまりオーバーしてはいけないので、とりあえずはここまででやめておくが、そういうことを感じた。

【鳥居座長】  ありがとうございました。大変いいお話を柳田先生から聞かせていただいた。どうぞ。

【柳田委員】  一言だけ。

【鳥居座長】  どうぞ。

【柳田委員】  柳田絵本教の実例、実践例だが、1歳になるかならないかの女の子を抱えてアメリカに転勤で行く家庭に相談され、心配で、これからどういうふうに言語教育をしていくかというので、私は英語はまず教えないほうがいいと言った。それで、テレビを見せないで、3歳までは子どもが起きている限りテレビをつけない。そしてそのかわりに絵本をいっぱい読むといって、100冊ぐらい持っていって、片っ端から、毎日毎日お母さん、お父さん、読んであげてください、それで十分ですと言った。そうしたら、先ほど言いましたように、2歳ぐらいになったらすごい。全冊自分で読んでしまう。しかもお母さんの感情を込めた読み方そっくりである。そして次に生まれた双子の弟、1つ違いだが、3歳半ぐらいでどんどん読み聞かせて。随時テープにとって送ってくれるものだから、その成長ぶりを全部私は同時進行で把握できた。

 そして5歳になってアメリカの幼稚園に入った。日本人学校がないのでアメリカ人の中へ入ったわけで、ちんぷんかんぷんでわからない。だが、特にそのときに英語なんかお受験的に教えないほうがいい。せいぜい基本単語のスペルを正しく書くぐらいやっておけばいいのではないかと言ったら、半年で、前に3カ月ごとにやる能力テストで30点満点で18点とり、1年たったらクラスのトップになって、6歳になって1年生に進学したら最初からクラスのトップだった。先生がその理解力のすごさに驚いて、どういう家庭教育をしているのか、詳しく聞かせてくださいといって聞かれた。そうしたら、とにかく絵本だけ読んできたというので、最近は英語の絵本も少しずつ読むようにしている。ただ、それだけだった。

 それで、弟やさらにその下の子もできたが、その弟もまた大変絵本好きになって、どんどん伸びているが、成績を上げるために絵本を読んだのではなくて、その女の子の人格形成がすばらしい。いろいろなもやもやしたことをだだこねるのではなくて、きちんと言語で発言し、そしてお母さんやお父さんに訴えたり、要求したりする。そしてまた弟に対する面倒見もいい。また知的発育もあって、読書力がすごい。

 そういうことを考えると、やはり実践の方法論というものをしっかりと提言していくということが今の時代に非常に重要なのではないかなということを感じる。

【鳥居座長】  ありがとうございました。私は3人の孫をニューヨークで生育させた。何百冊という絵本を送ったが、送るたびに困るのは、日本の絵本の質がどんどん悪くなっている。要するに絵はへんてこりんな絵。なぜここまで崩すのかという絵をかいた絵本。なぜ言葉をここまで崩してしまうのかという絵本がだんだん増えている。それは先生、どうお考えか。

【柳田委員】  確かにそういうコミック系的な絵本は多いが、私は毎月全部出版されるのをチェックしているが、いい絵本がどんどんできている。すばらしい絵本が次々生まれている。

【鳥居座長】  それもあるが。

【柳田委員】  だからそれを見る親の目、あるいは指導する先生方の目である。小学校あたりに行くと、絵本について理解を持っている先生は10%もいない。きちんとこういう絵本をうちの図書室にそろえなければという問題意識を持つ先生が、朝読なんかの状況を見ていても、1割もいないと言ったらいいと思う。それは現実で、そのあたりも、例えば絵本を200冊以上読まないと教員免許をやらないとか、あるいは10冊絵本についてレポートを必修にするとか、それくらいのことをやらせないと、ほんとうに教師や保育士の資格がないのではないかというふうに私は思う。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 それでは、次のご意見を伺うことにします。どうぞ、渡辺先生。

【渡辺委員】  今の柳田先生のお話に少し触発されて、簡単に短く触れたいと思う。柳田先生の命を育む絵本の世界というのは、今年11月23日に慶應の日吉のキャンパスで市民の公開講座でまたお話しいただくが、柳田先生は、子どもたちにとって命を、あるいは心を育む絵本の世界が、実は私たち、工業化社会の中でストレスにつぶされかけている大人にこそ大事なんだというふうにおっしゃっていて、そして、実際におそらく、例えば絵本を読む親子の場合に、絵本を読むという1つの課題を我が子と喜んでやるという、その機会を与えられた大人がそこからよみがえるのではないかと思う。

 そして、私たち自身が日々、よりよい自分によみがえっていったり、変化するということなくして、子どもにこうすべき、ああすべきと言っても、それはうまくいかないんだということを柳田先生はおっしゃっているのではないかと思う。

 そして、絵本の世界の中で展開することは何かというと、1冊の短いストーリーというか、ページをめくる、その限られた時間の中で、親子とか血のつながりということを超えて、1人の幼い子どもと、あるいは大人でもいいが、それから他者が、親が出会う。その出会いの触れ合いの質というものがきちんと向き合って、そしてほんとうにわかるまで、あるいはほんとうにわかって一緒に喜ぶという、その確認がないと絵本を読み聞かせることはできない。あるいは、絵本の読み聞かせの中から喜びが出てきて、もう1回とか、ああ読んだなという感じが、実感が出てくることがないだろうと思う。それは読み聞かせを実際になさっていらっしゃる先生、平野さんが今日いらしているので、そちらに伺ったほうがいいと思う。

 実は、もう少し広く申し上げると、私たちの今生きている人間関係、大人の人間関係の中で、ほんとうに子どもの気持ちを理解するというゆとりが大人になかったり、あるいは大人自身が、みずからの子ども時代を尊重されていない、命としての自分を尊重されていないという中で、非常に窮屈に育っているために、窮屈に育っている自分が窮屈なものに対して反発したり、それを打ち破っていこうとしている幼子や、あるいは若者に対してどうしても柔軟に理解して包むという大人としてのキャパシティーがない。つまり、そういった次世代を育む親心というものを十分に耕してもらえなかった、そういう時代的な背景を持つ私たちが今親になったりしているという、そこら辺の問題が見事に出てくるのだろうと思う。

 であるから、実践の方法ということで申し上げると、昨日私が出会ったご夫婦は、1つの例だが、ご夫婦それぞれにお子さんの思春期の問題があって、向き合っていても、私どもが何を見ているかというと、そのお母さんとお父さんの体の響き合い、心の響き合いの中で、ほんとうにどれぐらいお互いが相手を求めながら生きているかという、おそらく子どもが見ているであろう姿、気配などをみんなで観察する。

 そうすると、私たちは言葉では確認しないが、大人同士は目と目を合わせない。大人同士が自分のことは話すけれども、こちらの言っていることにうなずかない。あるいはうなずいて補足して、あるいは違う観点をうまく、相手を尊重して導入するということを知らない。非常に一方的で狭い、キャパシティーのない対人関係を見ている子どもたちが、おそらくそれは家庭でもそうだろうし、幼稚園でも保育園でも学校でもそうなのではないかと思う。

 そうなると、そういう子どもたちが人と人との響き合い、そして自分を開示し、かつ相手を受け入れるということを通じて、1人ではなくてよりよい関係をつくっていくという人間同士の響き合い、人間の心のオーケストラ、それも一言で言えば、私は本来の徳育だと思うが、そういったものにやはり入っていけない。

 そのときに私どもの実践例としては、例えば、非常に端的だったが、「お父さん、お母さん」と言って若い医者が、「今ともかく黙って握手してください」と言って握手させたときに、そのご主人に向かって若い医者が、生意気にも、「お父さん、今お母さんの手を握ってどう思いますか」と言った。意外だったが、お父さんが初めて「済まなかった」とおっしゃった。「おれは仕事の忙しさだけじゃなくて、おまえの育児の仕方に非常にけちをつけていて、言っても仕方がないと思って身を引いた、そこが自分の課題だった。自分はこれからは意見が違ったらどういう意味なのか、わかるまで話そう、言っていこうと思う」というふうに言った。そうしたら、お母さんはわーっと泣かれました。

 であるから、私どもの向き合い方の1つの原点が、絵本をともに読むという、1つの世界のスリルや喜怒哀楽の感情や山や谷やの冒険をともに、ほんとうに全身で味わうという、そういったことを提供してくれる世界なのではないかと思うが、それをより広く臨床に応用するとしたら、やはり日々の出会いというものをもう少し大人が見直して、そして子どもの目にどう映るかということを考えて、やはり大人が自粛して、大人のエゴを大人同士でぶつけないようにするとか、そういったことがもう少し強調されていいのではないかと思う。そこら辺の相互作用とか命の響き合いは身体言語やそういったものにあるんだということをもう少し盛り込んでいただければいいと思う。

【鳥居座長】  ありがとうございました。それでは、次の方どうぞ。天野委員、どうぞ。

【天野委員】  天野です。僕も2カ月来られずに、今回ちょっとびっくりした。「審議の概要」を送っていただいたときに、「あ、ここまでできているんだ」と少し驚いた。「今こそ、この徳育に取り組まなければいけない」という危機意識が1ページと2ページに書かれているが、僕には全くそれがないもので。むしろこの報告書に書かれていることを進めようとする今のこの状況が危機だというふうに思っている。要するに、子どもたちの環境をもう少し何とかしないことには、命そのものが危ないという。つまり、彼らの命が危ないというのが僕の実感しているところで、そういう意味では、徳育とかというような話とは問題意識が全然違う。彼らが最も危険に直面しているのは多分命だろうと僕は感じている。そのことについてきちんと触れて語るのが大人の徳だろうというふうに僕は感じている。なので、その立場からの話を少ししたいと。事例が幾つか出たので、僕も1つ事例を思い出して話したい。

 高校1年生と小学校5年生の男の子の間で起こったことである。高校1年生の子は多少不良っぽいにおいのする子で、子どもの中ではとても人気がある子である。ちょっと悪さも教えてくれる、ちょっと危険なにおいのする兄ちゃんみたいな感じで。その子の周りにいつもたむろしている子には小学生や中学生、幼児までいて、遊び場なのですべての年代の子がそこには絡んでいる。その中の5年生の男の子に、あるときその高1の子がジュースを買ってきてくれというふうに頼んだ。非常に夏の暑い盛りで、そのジュースは特別なジュースで、一番近い販売機までは歩いて5分もかかるが、それを頼んだ。2本買ってきてくれと言って2本分のお金を渡したのだが、買ってきたのは1本だけだった。それで高校生が「もう1本はどうした」と聞いた。5年生の男の子は、最初「もう1本は落とした」と言った。高校生が「どこに落としたんだ」と聞いたら「どぶに落っことした」と言うから、「では拾いにいこう」と言ったら、実はどぶに落っことしたんじゃなくて、おっかない兄ちゃんがいて、その1本をとられたという話が出てきた。そいつもおっかない兄ちゃんの1人なので、「それじゃあ取り返しにいこう」と言った。そうしたら、その小学校5年生の子は再び言い方を翻し、実は100円を落っことしたという話をした。やはりそれもどぶに落としたということだったので、それじゃあそれを拾いにいこうという話になったが、そこでさらにもう1回転換があって、その100円自体がおっかない兄ちゃんにとられたという話になって、結局話が4転した。

 この4転したところでその高校生は頭を抱えて、「おれには一体どうなっているのかもうよくわからないから、天野、かわりに話を聞いてくれ」と初めて僕のところに来た。僕が聞きにいったら、その子はご丁寧にまた僕に対しても4転して話をした。その4転した話を聞いたが、それが終わった後で、「そうか、でもところでほんとうはどうしちゃったんだろうねそのジュース」と言ったら、その子がうつむいてしまって、小さい声で、「実はね、飲んじゃった・・・」という話が出てきた。あんまり暑くて、販売機まで遠いし、それであまりおいしそうだったので飲んでしまったという話がそこで初めて出てきた。

 高1の子は5メートルぐらい離れたところにいて聞こえただろうから、「聞こえただろう、こいつ飲んじゃったんだって。でもな、気持ちわかるよな、こんな暑い日に高校生にパシリに使われて、おれだったら2本とも飲んでたよ」というふうに言いながら、「さあどうする」という話をして、その高校生に渡した。バトンタッチした。

 高校生は股をべっと広げて、小5の子の前にどかっと座った。その小5の子はもうこの世の最後みたいな顔をして落ち込んでいる。自分の大好きな兄ちゃんに頼まれているので、ひょっとしたら喜んで行った可能性もあるが、それを黙って飲んでしまって、さらにうそついてそれがばれてしまったわけだからもう最悪。もう地面と顔がくっつくのではないかと思うぐらいに落ち込んでいたが、その子を前に多分3分、4分ぐらい、何も会話がない。高校生がどかっと座ってしばらく考えていた。

 その、彼が口を開いた。「確かにパシリに使ったおれも悪かったかもしんねえけどよ。おめえだっていったん引き受けた者の責任っていうもんがあんだろうよ。おまえ最後まで責任果たせよな」と言って、そして彼はもう1回お金を渡した。僕はびっくりしたけれども、そうしたら、そのお金を受け取った小学生は、疾風怒濤というのはまさにこのことだと僕は思うが、ものすごい勢いで駆けていって、ものすごい勢いで帰ってきた。顔は真っ赤。滝のように汗が流れている。ぶわーっと流れている。さっき飲んだジュース全部出ちゃったぐらいの汗だった。それで、その子は高校生の前にその小学生がジュースをがっと差し出して、「僕、責任果たしたよねっ!!」というふうににっこにっこして言った。

 僕はそれを見たときに、「ああ、かなわんなぁ」というふうに思った。結局、それから僕は、自分が最後までかかわってこれの結論を出そうとしていたら、一体おれは何がやれただろうということをそれから何日も考えた。その結果、多分自分が最後までかかわったら、要するに、高校生なのに小学生をパシリに使った。自分が飲みたいものを飲むために小学生をパシリに使った。そういうことするなよなという話と、あと、やはり、それにしたって黙って飲んでしまったというのはよくないよな、それに嘘をつくのもという話をして、今回お互いにきちんと考えないといけないことがあるから、そういうことをお互いに、自分のしたことを反省し合って、はい、握手みたいな、そんな感じが、せいぜい大人がやれるところの関の山であろうと。多分、それは間違ってはいないが、だからそれがなんなんだという話でもある。

 要するに、それでこいつはあまり信用ならないやつだなと高校生が思ったとしたら、ではその解決法でそれが回復できるか。もっと悲惨なのは飲んでしまった方の小学生。大好きな兄ちゃん、その兄ちゃんを裏切った、うそついた。彼には心のとげが大きく刺さっている。ごめんなさいというふうに言って、そのとげが抜けるだろうか。多分抜けない。それをその高校生の子は、もう1回お金を渡して、それで再び買いにいかせることでその心のとげを抜いてしまった。これは毒をもって毒を制すというやり方だと僕は思う。大人ではできないやり方だ。

 今の話を分解していくと、1つ1つのエピソードはすべて悪に彩られている。高校生が小学生をパシリに使った。小学生は黙って飲んでしまった。それをさらにだまそうとした。それで、最後に、お金をもう1回渡し直して、敗者復活と言えば聞こえはいいが、見方を変えればパシリに使い直しただけともいえる。そういうようなことを、要するに、いけないというか、あまりほめられたことではないようなことの連続の中で、人間関係というのがものすごく彩られたというか、この出来事が始まる前と、終わった後というのが恐らく全然違う、多分もっとしっかりとした2人の関係ができ上がっていった。

 僕はこのことがすごく重要だと思っている。どういうことかというと、要するに、悪とかそういうようなことというのを決して奨励するわけではないにしても、ひなたと日陰みたいなところがあって、善とか正しいとかというのは、確かにひなたの世界ではある。だけれども、人の心に奥行きを持たせるのは、むしろ悪の体験のほうだというふうに実は僕は思っている。

 つまり、例えば嫉妬とか、ねたみとか悲しみとか、そういうようなことだったりする。そういうようなことを体感しながら、そのことをどういうふうに自分の中で昇華していったらいいのだろうかということの葛藤と悩みがある。このことが僕は人の心に深みを与えるんだというふうに実は思っている。

 小説を読んでも、テレビドラマを見ていても、善人ばかりの世界なんか多分つまらなくて仕方がない。やはり人の悪の心というか、こうありたいができないから困っているのではないかみたいな、あるいは、どうしてもこうなってしまうみたいなところが描かれるから豊かさが出てくる、深みが出てくる、奥行きが出てくる。

 だから、そういうようなことをだめだというのではない。けれど、それは、自分を傷つけたり人を傷つけたりすることがあるのもまた事実である。だからと言って、それは人からなくせるかというとなくしようがない。例えば、愛する人ができるから嫉妬心が起こる。これは分けられない。だから、そういうようなものがある以上はそれとどうつき合っていくか、どのように自分の中でコントロールしていくかということしか多分ないと思う。

 そのためにはつき合い方を知ること。だからまず、その前には受け入れること。自分の中にそういう世界がある。僕は悪や闇のない人なんていうのはいないというふうに思っているので、ここにいる人たちだって徳ばかりの人間だと全然思っていない。新聞紙上で出てくるような、学生に手を出すような教授とか、そういう人も多分世の中的には徳があると見られているのだろうが、そんな部分を持っているものである。人なんていうのはそんなものであるということから始まらないことには話にならないのに、子どもにちゃんとしなさい、ちゃんとしなさいとばかり言う。だから、子どもは自分が出せなくなっていく。まさにこのことが子どもを追い込んでいる。それは子どもを殺している。そのことをちゃんと大人は受けとめないと、つまり正しさは人を追い込むことにしかならない、正しさというのは凶器である、場合によっては、使い方によっては。

 そういうことではなく、やはり人の持っているつらさや弱さとかということについて、それが人の心のひだを生み出していくのだということに立って、やはり考えていく必要がある。つまり僕は、子どもの、そういう意味でいうと、悪というか、ふらつきというか、試行錯誤みたいなものをもっともっと大人の社会が許容する必要があるということが、子どもが命を吹き返す絶対条件になっているというふうに実は感じている。子どもを表現する形容詞はいろいろあるが、僕は「危ない」「汚い」「うるさい」という、3つをいつも使っている。子どもというのは、危なくて、汚くて、うるさいものだ。だけど、今の大人はこの「危ない」「汚い」「うるさい」をものすごく嫌う。危ないからだめ、汚いからだめ、うるさいから静かにしなさい。つまり、子どもが子どもであることを非常に嫌がるのが今の社会である。そのことによって子どもが殺されているということに、やはりちゃんと目を向ける必要があると思う。

 「危ない」「汚い」「うるさい」の頭文字をとるとAとKとUで、「あく」となる。僕は子どもの「あく」を大人がもっと社会的に許容しない限り、子どもは生きられないというふうに思っている。

 以上です。

【鳥居座長】  はい、ありがとうございました。では、森先生、どうぞ。

【森委員】  私も大分休んでいるほうなので、送られてきた資料を見て、これだけおまとめになるのは大変だったな、ご苦労だったなと思うが、そう思いながらも少し厳しいことを述べさせていただく。

 1つは、柳田先生がおっしゃったような、課題と必要性。私はいつも思っているが、必要性はもう結構である。大事なことは必要性を実現する可能性、方法論で、それが、この構成では4章になるわけだが、一番最後に来ている。この4章までたどり着くには二十何ページ読まなければいけない。あるいはもっと読まなければいけない。それで、最後の28ページ、皆さん、ごらんいただきたいが、終わりから2行目に、「国民ひとりひとりへの強いメッセージが」とある。国民ひとりひとりは、私はこれだけのものを最初から、問題の所在、普遍性、今日的課題、何とか、ほんとうに読むのかと思う。

 ここで気がつくことは、大事なことを最初に書くのか、最後に書くのか。アメリカの本は大事なことは最初に書くという、日本の学者もいるが、非常にドラスティックなことを言うと、4章を最初に書いて、今何をすべきかということを。なぜそういうことを言うのかという理由を1章、2章、3章で書くと読まれるし、多分マスコミも、あ、今度はちょっととインパクトがあるのではないかと思う。

 それで、もしそれが不可能なら、現在のままで、「はじめに」のところで、はっとさせるようなことを書かなければいけないと思うが、ここに書かれていることは非常に、だれも反対できないことばかりだが、欠けていると思うのは、「知・徳・体の調和ある発達」と「はじめに」の2行目にあるが、調和ある発達が調和されていないということをもっとインパクトのある表現でできないものかどうか。であるから、「知・徳・体」と言うけれども、知は巨大化して、体も、うまい表現がないが、偏在的に、オリンピックとかサッカーとかはいいが、毎年の体力調査では子どもたちの体力がどんどん落ちている。体の格差とでも言うか。徳に至っては、知と体に埋没してしまって、どこかへ行ってしまっている。そういうことをはっきりと、知・体に比べ、徳のおくれといったようなことをもう少し考えて表現できたら、あっと思われるのではないかと思う。

 それから2番目、最後にこだわるが、社会総がかりという、ほんとうに総がかりに触れているのかなと思う。例えば、先ほどの「関係ない、関係ない」ではないが、あれはテレビでやっている。テレビ局に対してどういう提言ができるのか。何も言っていない。だから、私はテレビの、スポンサーも関係あるだろうが、テレビ局のプロデューサーというか、そういう人たちに対する良心的な強いメッセージを出さなければ意味がないのではないかと思う。

 それからもう1つは、出版社が非常に乳幼児教育に影響を与えているが、例えばベネッセというのがあるが、あれは赤ちゃんが生まれるとすぐにあらゆる面の生活のサービスでいろいろなものをやっているが、そこでは小さいときはテレビを見せないということをきちんと言っている。

 うちの孫が生まれて、私のうちに遊びにきてテレビをつけると、息子がテレビを切ってくれと言う。どうしてと聞くと、ベネッセではテレビを小さいときから見ていると一方的な音声上だけで、何とかと、理由は忘れたが、消してくれと言う。出版社がそういうことをやっているところもある。

 それから、これは名前を言ってもいいと思うが、ひかりのくに株式会社では、グッドナイトストーリーという365日毎晩聞かせる絵本というのがある。私も子どもが生まれたときに買ったが、今もあるかと思ったら今もある。そういう放送局とか、テレビ局とか、出版社に対するメッセージも入れてもいいのではないかという気がする。

 それから、全体を通して、何か幼児教育とか道徳教育で欠けているものがないかと、欠けているキーワードを少し考えながら読んでみたが、1つは、「絆」という言葉がどこにも出てこない。親子の絆とか家庭の絆とかが。それから、他人に迷惑をかけないという「迷惑」というのも出てこない。それから「感動」「感化」はあったかどうか忘れたが、それから我慢すること、「忍耐心」。これは別な言葉ではあったが。それから、大人一人ひとりがきちんとやらなければいけないということはあるが、それは具体的に大人はどうすればいいかという提言もない。私は、国民一人一人が人生に対する個人のマニフェスト、つまり信念を持つべきだと思うが、学校の先生も信念、校長先生も信念。学校経営の校長先生の論文を私は最近興味があって、あちこち雑誌を見ているが、学校経営の戦略とか、格好のいいことを言っているが、自分はどういう信念で生きているかどこにも書いていない、時々あるが。それは、大人も子どももであるが。

 結局、徳育というのは、無意識的な予習に始まる大人の率先垂範ということしかないと思うが、この「率先垂範」という言葉も出てこない。だから、私はそういう意味では、そういう言葉を時々ちりばめてもらいたい。そして、司馬遼太郎ではないが、魅力のある言葉がないことは拷問に等しいと言っているが、拷問ではなくて、これを読んでいると元気が出てくるような報告書になればいいと思っている。

 それから、具体的には、一人っ子の徳育についてといったようなものがケーススタディーであってもいいと思う。一人っ子というのは、今少子化で、弟や妹がいないので、一緒に家庭で遊んでいて、弱い者を助けるということを生活を通じて学んでいない、弱者を助けるということを。そういう意味で、また、おじいさん、おばあさんがいないので、おじいさん、おばあさんの世話をするということも知らないし、それから、一人っ子ではどういうことが問題なのかということも少し研究してあってもいいのではないか。

 それから、徳の普遍性。これは当たり前のことだが、徳の普遍性なら、モーゼの十戒とかいろいろ出てくるが、日本の伝統文化とか中国の古典とかの人の道、この「道」という言葉がどこかに出てくるが、たまたまめくったら出た。12ページに公徳心のところで、「公徳とは、社会生活の中で私たちが守るべき道」と。「守るべき道」と言うと、少々ピンぼけになるので、「人の道」とか、私は「道」というテーマで懸賞論文を毎年募集しているが、たまたまある年に「道」だったが、私の前に道はない、私の歩いたあとが道だという有名な言葉があるが、五常の道なんていう仁義礼智信とか、わかりやすく、これは前にも少し言ったかもしれないが、モーゼも結構だが、そういうことも入れていただきたい。

 それから、最後に、これはいつも気になっているが、「早寝早起き朝ご飯」というのは非常にポピュラーになったが、その後に続きがない。だから、3段ロケットで言えば、1段ロケットはいい。あと、落っこちてしまったような感じである。ほんとうにこの教育を進めるなら、「早寝早起き朝ご飯」に続くスローガンを何か考えなければいけないのではないか。その必要性だけ言っていても、おまえは可能性が必要だと言いながら、必要だけ言っているのかと言われそうなので、私の可能性の、例になるかどうかわからないが、それは、前にも言った「ありがとう・どうぞ・どういたしまして」。これをお題目のように唱えて、少しでも通用すれば。

 いろいろ休んでばかりいて、ほかにもたくさん個別的に申し上げたいことがあるが、以上でございます。

【鳥居座長】  ありがとうございました。それでは、次にどなたか。では、河合先生。

【河合委員】  この資料をお送りいただいて、前回休ませていただいたが、読ませていただいて、3点ほど気がついたことがあるので、述べさせていただく。

 1つは、子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題ということで、私がここで発達、特に親子関係をやってきている人間としてお話をしてきていたことの一番の枠のところがこの中には落ちているような気がする。

 それは、やはり育ちと学びをつなぐという、どういう形でそれを入れていただくといいのかわからないが、要するに、育ちの中に人としての行動の芽があるという。これはもちろん学校教育の中で徳というものをどういうふうに扱うのかということだが、学びは育ちの中から生まれてくる。

 例えば、先ほど来、早期の愛着関係とかということがあるが、それは基本的には、人は答えてくれるのだという、一番の基本的な人間の関係性に関する信頼性、信頼関係というものを形成するものであって、教育の中でいきなりそれをということはなくて、育ちの中にある。そういうものが重要だということを、私は伝えたくて、いろいろなところでお話をしてきたが、育ちと学びをつないでいただきたい。

 もう1つは、このままでいくと、これは書くかどうかは別として、親が悪いから子が悪くなるという。そうではなくて、もちろん経済状況が悪いと親が子どもに対して手をかけることが難しくなったりとか、いろいろな状況が生まれると思うが、ここで言う総がかりというのは、親でなくてもいい、つまり我々が、子どもを取り巻いている一人一人の人間が声を出そうということではないかというふうに思う。

 アメリカのNIHCDというところがやった研究で、0歳で子どもを保育に出していいのかどうかと。母親が子どもを見ないということについて、アメリカの母親が非常に不安を持って、自分たちは仕事に戻りたいけれども、それができない。子どもがそれによって著しく何らかの問題を持つのであればということで、研究した。それで、必ずしも母親でなくてもいい。十分訓練を受けた養育者がいれば、子どもは大きな問題なく社会性を形成していくのだというようなことが出てきているわけで、もちろん養育者は非常に重要なわけだが、取り巻いている人間というものが大事なのであるということがどこかに、3番のところに何かうまくあらわせていただけるといいなというふうに思う。

 2つ目、それは先ほど柳田委員もおっしゃったが、事例集は、どのようなリソースが残っているのか、どういうものが準備されているのかという具体のものについて、私もそういうものをこの中に、少なくともこういうふうな、例えば文科省の中で言うと、学校地域支援本部のようなもの、そういう制度というのはばらばらに、個別にあるわけで、私はやはりシステムとしてそういうものをいかにつなぐかということがこういう、ほんとうに未来の大人というものを考えていく、あり方を考えていくときには重要で、個別の問題を1つ1つ、ここはできた、ここはできたというふうにすると、なかなか厳しいかもしれない。

 柳田先生がおっしゃっていた読書の問題だが、私も文庫活動を家内と一緒にさせていただいているが、例えば、大阪で言うと、国際児童文学館なんというのは非常に悲しい状況になっています。やはりそういう非常に大切なものについては援助をして残して、なくなったものをつくるのは大変かもしれないけれども、今残っているものについて何か支援をすることによって、地域の核になっていくのではないかというふうに思う。

 2つ目が、どのようなリソースが残っているのか、準備されているのかということについてどこかに記述いただければと思う。

 3点目は、教育する側の問題であるが、学校の教員の道徳教育ということについて、私どもの大学の中で道徳教育というのは、教職課程の中でどういうふうに扱われているのかということを教職担当の先生にお伺いしたら、1年生の前期に2単位道徳教育というのがある。では、中身はどういうものかと言うと、先生方によっていろいろなやり方があるが、やはり人権教育のほうから入っていかれる先生もいるし、もう少し哲学のほうから入っていかれる先生もいる。これを大きな枠組みとして、指南というか、こちらのほうであるというふうな方向として出すときに、やはりそれを支える制度というのはどういうふうなものがあり得るのかとここで決めることは非常に難しいのはわかるが、どういうものがあり得るのかということについては、教員養成という、これも近畿地方で京都の教員養成の大学であってはいけないようなことがあってしまったわけだが、やはり人としてのあり方とか慎みとか、そういうふうなものも含めて、学校の中で先生方に、こうしろと言うことはやはりこういうものについてはひょっとするとあり得ないのだと思うが、でもやはり方向というようなものについてはどこかで話をするような委員会なりがつくられないといけないのではないかというふうに感じた。

 先ほど天野先生が、悪が大切だというふうにおっしゃった。私はそのとおりだと思うが、先生がおっしゃった中で、一番重要なことは、そのときにもう1人の人がいたという。それにこたえる人がいた。あるべき姿を我々が伝えるという悪があっても僕はいいと思うが、そのときに人がいたということがその子どもの救いになったということなので、ぜひ私たちが考えている徳育というのは、実は人と人との関係性というもの、今は非常に弱くなってしまった、脆弱性を示している関係性というものについて、人はいるのだ、何かしても、今はそこに人はいなくてもだれかが見ているかもしれないし、自分の中にいる人がそれを見ているのだというような、そういう視点で、なかなか難しいかと思うが、どこかにそういうものを事務局のほうでお入れいただければというふうに思った。

 この3点である。

【鳥居座長】  ありがとうございました。では、森先生、どうぞ。

【森委員】  24ページで、学校における道徳教育の充実。ここは学校が弱いので、何かと先ほど説明があったが、東京都の高校ではボランティアを必修化している。私はかねがねこれを全国でやるべきだと言っているが、高校ではもう遅いので、小中で、それはどんな形でできるのかなということもお考えいただけたらと思う。

【鳥居座長】  はい、馬場委員、どうぞ。

【馬場委員】  この「審議の概要」等をどういうふうに使われるのだろうか、どこへ発信するのだろうかと考えたときに、やはり学校ではこれを参考にして、担任が保護者会で使ったり、校長がいろいろなところで使ったり、あるいは東京で行われている道徳教育地区公開講座で使ったり、参考にさせていただくことができると思う。携帯とか、あるいはゲームとかテレビがいけないというような話が幾つか出てきたが、先日あるクラスの担任がゲーム脳の話をして、ゲームについてあまりやらないほうがいいと言ったときに、すぐさまある保護者から反発を買った。「うちの主人はゲーム会社に勤めている。先生はどんなエビデンスをもってそういうことを言ったんですか」というふうに追及された。そういうようなところで、11ページに脚注で意識調査となっていて、この情報に関するものが一番困っている。ゲームの悪影響云々とあるが、もう少しこの辺で、ゲームの悪影響というのが実態調査で説明できるようなものがあるといい。あるいはテレビの悪影響等が、意識調査よりも実態調査的なことで補足できるともっと使えるという気がした。 

【鳥居座長】  はい、ありがとうございました。では、加倉井委員、どうぞ。

【加倉井委員】  中学校ということで話させていただく。今悪影響の話があったが、私は今中学生でどんなことが必要なのか考えている。今子どもを見ると、動じないというか、あまり驚かないというか、「別に」というような言葉が多いように感じられる。多様な刺激、テレビも含めて多いのか、また、我々の批判精神というか、評論的な社会風潮もあるのか、ささいなことではあまり驚かない。感動もしない感じを受けている。

 心に響くという言葉もあったが、そういう感動という体験は、心を育てていく上で、特に、中学生の時期の発達過程では、とても大事なのではなかろうかと思ってる。

 いろいろな子どもが自然体験であるとか、社会体験であるとか、先ほど言ったが、ボランティアなんかもそういう社会体験に入るのだろうが、生活体験であるとか、様々な体験をしている。その中に、例えば本を読んで感動したであるとか、移動教室で満天の星を見て感動したとか、テレビで涙を流したとかを見て、それから、運動なんかで試合に負けて悔しかったとか、感動体験としたが、そのような体験をした子というのは、道徳性が特に高かった。私たちの素人研究調査だが、そのような結果を得た。

 子どもが人知を超えたというか、自分の感性や思い、そのようなものを超えた、また、目からうろこの落ちるような感動体験というのは、今の子にとても大事なのかと思う。

 今朝の新聞に盲目のピアニストがコンクールで優勝した話もあった。我々は経験できない、思いもよらない考えや事実があったと思う。、いろいろな人生観とか生き方、そういうものに出会うことによって、子どもというのははっと思うようなこともある。道徳的に価値のあるものに触れるから感動するのだが、そういう生き方、自分の生き方に影響を与えるような、そういう逸話に出会わせていきたい。

 盲目の話で、実はこんな人の話を知っている。自分が事故で目が見えなくなってしまったけれども、たまたま隣に弟がいて、弟は何でもなかった。その弟に何でもなくてよかったなと言えるまでにはさまざまな葛藤があり、10年もかかったのだと。そのような話1つをとっても、生き方として、子どもの心の中にじんと来るようなことはある。人間性の理解でもある。講演会での話であるが、命のやりとりをして自分が生きているというようなこと、人の命を奪って生きているのだなんていうようなことを聞いたことがあるが、一つの感動体験であった。そういうような感動体験というのが今の子に欠けている。

 中学校で授業を見る機会が多いが、道徳とは、優しさだとか、自分は規範意識があるとかないとか、そんなようなことをやるのが道徳と思っている先生が多い。そうではなくて、感じるというか、そのよさにじんと来る、そこをポイントにしたい。せんだっての授業を見たら、子どもたちのよいとこ探しみたいなことをやっていた。友達から、あなたのいいところというのをみんなに書いてもらって、結構自分っていいところがあるからよかったよかったというようなことで、先生もよかったよかった、それで、みんなもよかったよかった。確かにそれはうれしいし、一時の情緒的な興奮はあるのだろうが、道徳的な価値というよりも、道徳には関係しているが、それは、自分の持っている良さをはっきりさせたと言うことと思う。それも大事だが、知ったとか、個性を明確にしたとかにばかり追われていってしまって、内面というか、良さと言っているものの意義、勝ちであるとか、こういう生き方をしていきたいとは考えるとか、どうもそちらのほうになかなか行かないい。先生方も道徳的な価値を追究していくほうに入り込みにくい。そのような印象を私は授業を見て感じた。

 学級活動では大変いいけれど、ちょっと道徳としてはね。授業そのものは大変によいが、子どもの感性に触れていくような、生き方などへの感動、そういうものを特に中学生時代には大事にしていきたい。道徳的に価値あるものとして、子どもが受け止めたときに感動が生まれると思う。授業は、そこに焦点を置いていけたらいいのではないかと思った次第である。

【鳥居座長】  どうもありがとうございました。それでは、柳田先生。

【柳田委員】  事例集の問題について河合先生が大事なご意見をおっしゃってくださってありがとうございました。

 事例集でとても大事な点は、エピソードを集めるだけではなくて、ワーキンググループをつくるというのはどういう意味を持つかというと、そこから何を読み取らなければいけないのかということだと思う。日本の医学にしろ、教育にしろ、あるいは法律の世界にしろ、すべては近代科学の知みたいに、自分と対象と切ってしまう、切断して相手に対して教えるとか、あるいはそれを観察するとかではこうなのだが、大事なことはその関係性を、自分自身がそこへ飛び込んでどうかかわるかという関係性を絶えず意識しながら、さまざまな問題に取り組んだり、提言したりするという、そこが大事だと思う。

 そういった意味で、こういった事例集を集める場合も、ただエピソードを集めて参考にしてくださいではなくて、私が先ほど宮崎県の幼稚園であったような体験の場合、ただそのエピソードだけを紹介すると、あ、それでは、うちも『めっきらもっきらどおんどん』という絵本でやってみようかなという極めて短絡的な形になってしまう。そんな話を都会の幼稚園でやったって全く役立たないわけで、環境条件なり、そこにおける、先ほど来そこに人がかかわっているという、つまりその場合幼稚園の教師あるいは保育士になるわけだが、それがどうかかわるかということが大事なわけで、そういったことをきちんと読み取ってコメントしていくということをつけておかないと事例集の意味がないのではないかと思う。

 それから、また別の意見を1つ申し上げたいと思うが、私はいろいろな人の意識が形成されたり、気づきが起こったりする上で最も大事なのは、現実の人間関係。それから現場、あるいは現物という、現人間、現場、現物というこの3拍子がものすごく人間の認識が本物になるかどうかという点で非常に重要だと思っている。

 私は災害とか事故の安全問題でいろいろ仕事に取り組んでおり、例えば、国交省の航空局から、最近管制エラーが多いので、管制の交信ヒューマンエラーをどうするかとか、あるいは日本航空でエラー続きなのをどうするかというのをかなり深くかかわってやっているが、いろいろな当事者のヒアリングを聞いて、ただこういうことがあったではなくて、それを分析で、なぜそこで注意力のある偏りが起こったりとか、ど忘れが起こったりするかという、そこの背景まで分析してやるのが1つで、事例から学ぶということがまず第一の基本なのだが、そこから普遍性、一般性のある問題が出てくるというのが1つと、それから現実に起こってしまったことを、一般のほかの管制官やパイロットやいろいろなものが実体験的に、どうそれを自分の体の中へこなしていくかということをどういうふうに伝えていくのか、情報を共有していくのかと、そこまで踏み込んだ提言をしているわけである。

 例えば一例を挙げると、日本航空が85年にジャンボ機の事故があった。その教訓を生かさなければいけないというか、風化させてはいけないと口で言うのは簡単だが、もう23年もたって、社員構成を見ると、8割ぐらいはあの事件以後に入社した、全く過去のこととしてしか認識しない。つまり情報としてしか認識しないわけである。それは日々の業務や、あるいは作業の中では何ら意味を持たない、単に情報や知識として持つだけでは。そこで当時の残骸や遺品や、ほんとうにめちゃくちゃに壊れたいすやそういったものを大々的に展示して、そこから何を読み取るかという、安全啓発センターという展示センターをつくり、社員全員にそれを見せる。つまり、すさまじいあの巨大な残骸を目にすることによって、一体我々は何をしなければいけないかという根底から揺さぶられる。それから新入社員は必ず御巣鷹山に登山させる。そして、500の墓標が並ぶ山を体験させる。そうすると、新入スチュワーデスなんていうのは顔色が変わってしまう。浮ついた気持ちがどこかへ吹っ飛んで。それから、当時の体験者、あるいはご遺族の話を聞かせる。

 こういうふうな、現人間、現物、現場というような意味で体験すると、子どもの世界でほんとうに心の底に染みついたものになる、実行可能なものになってくる、揺るがしがたいものになってくる、そういうことだと思う。

 では、それは何かというと、この懇談会の審議会報告の素案の中には、実体験教育みたいなものに力を入れましょうということがさらりと書いてある。だが、僕はさらりと項目を書くのではなくて、それが一体どれぐらい重要なのか、今日のようなメディア社会になって、すべてがバーチャルな情報、知識の接触だけになりつつある、この中において、現実体験こそがほんとうの子どもたちの心を揺さぶり本物にしていくものだ、そのために何をするか、こういう文脈できちんととらえないといけないのではないか。

 例えば、森に入って間伐を実際にやらせるとか。私の知り合いのある林を持っているおじいさんが、孫が小学校1年生に入学したら、その入学祝いに大きなのこぎりとなたをあげた。そして、その孫を連れていって間伐をやらせた。こうやって森は守らなければいかんのだと。これはすごいインパクトで、でもその子は、今小刀さえ危ないなんて言って持たせない親が多い中で、おのを持たせ、なたを持たせなんてすごいことだと思うが、それこそが実体験的なことだろうと思うので、あらゆるところでそういう経験をしていく必要があると思う。

 例えば、荒川区でいろいろと学校パワーアップ事業みたいなもので、1校当たり校長さんが100万使えるような独自財源を充ててやったら、ある中学校で、それを2年生だったか、キャンプに使った。そのキャンプをするときには、中学校に来て以来、一口も先生と口をきかなかったごんたぐれみたいな子どもなんかも何人かいたが、そういう子に率先してくい打ちやテント張りをやらせると、生き生きとしてやって、それを先生がむしろ逆に手伝うぐらいの感じでやったら、その子たちが初めて先生と口をきいて、それで終わったら、すごくよかったと。それで、先生と普通にしゃべれたのは初めてだった。いい経験だったと言ったそうである。そして2学期からがらっと教室の雰囲気が変わっていったという。

 そういう意味で、私が申し上げたいのは、全体の構成をするときに、最も重要な、今の時代これこそは大事なことだということをほんとうに絞り込んで、冒頭にそれを強調して、なぜそれが必要なのかということを言う。そして、後半において、いろいろな、20項目も30項目もある提言というのを、触れなければいけないだろうから述べるのだろうが、今の時代これこそはというのを焦点を絞って冒頭で論じることが必要なのではないか。こういう大変ドラスティックな提言をしたい。そうでないと、何かいつも文科省、あるいは昔の文部省、期待される人間像だとかというのをもう何十年もやってきているけれども、またやっているぐらいで終わってしまうのではないかという危惧を抱く。

【鳥居座長】  ありがとうございました。どうぞ。

【大野委員】  先ほど、最初に柳田先生がおっしゃっていた読み語りのことを聞きながら、私は学校の先生で、詩を読み聞かせているという先生のことを思い出した。それは、私がある吃音のある人たちの集まりで、2日間一緒に生活をしたときに、その中の吃音の方がそういうことをやっている。だけれども、それが非常に難しいとおっしゃっていた。ただ、やはり自分が吃音だから言葉の大切さを伝えたいという非常に情熱のある方だった。そのことから、やはりこういう道徳教育のときに核になる人たちが必要なのだろうと思う。

 やはりそれは私は、学校の先生というのは十分その資格がある方が多いんだろうと思う。さっき天野先生が、子どもに任せてとおっしゃっていたが、やはり任せる人、そして任せたんだということが言葉にならない形で伝わっている。それが高校生の行動につながり、またその下のパシリの子の行動につながったという。それはきっと経験をお持ちだからだと思う。そしてその経験を持っているのは、やはり学校の先生、子どもともすごく接していらしてそういう経験があるので、その経験がうまく生かせて、それを親御さんに伝え、地域に伝えられるような、そういうサポートのシステムをしてそういうことが大事なんだということをメッセージとして出すような報告書というのがこの中に盛り込まれるといいのかなというふうに思った。

【鳥居座長】  ありがとうございました。どうぞ、山折先生。

【山折委員】  私もこの会に毎回出席というわけではないが、出席をして感じた全体の流れはこの素案には、大体流れとしては生かされているような気が私はした。ここで討議されたことのほとんどすべての問題が、何らかの文言で表現されておったような気がする。

 最初に徳育ということに関する理念的な問題とか、普遍性といったような問題から説き起こして、最後に実践的な場面でどういう徳育のやり方があるかというところに行ったわけであり、流れ全体としては私はそんなに違和感は持たずに拝見した。

 ただ、それにしてもあまりにも長過ぎる。これは一体どれだけの国民が、これがもしこういうスタイルで出たときに読んでもらえるか。この不安感は相変わらず残ってしまった。ではどうしたらいいかという問題だが、やはりこの懇談会にはいろいろな分野のいろいろな専門の方々、各層の方々がおいでになって、そのお立場からお話になっている。そういうご意見を全部盛り込んだ形で1つの流れの中に盛り込んでいくと、無性格な全体の印象になることは避けられない。だれがどうやってもこれは無理だという感じがする。

 しかし、こういう懇談会の性格上、出席された方々のご意見を何らかの形で取り入れて文章化していかなければならないということがある。結果として今、さまざまな形でご意見があったように、迫力のある文章にならない。社会に対する屹立する言語にならないという。最後までこのようなやり方をやっていたのでは乗り越えることができないのではないのかと思う。

 そこで1つ提言であるが、例えば、徳育に関して、学校、地域、家庭、家族、いろいろな分野からのご意見がここに盛り込まれているわけだが、発言された現場を思い出しながら子細に読むと、本質的にというか、方法論的に違ったご意見が、あたかも1つの方向でまとめられているかのような文章になっている。だから、いろいろなお立場がこれだけ違うのだ。本質的にこの問題についてはこれだけ違う意見が出されているのだということを率直に国民の前に出して、まずそれで考えていただくという提言の仕方のほうが迫力があるし、徳育という問題は現在日本の社会においてどういう意味を持っているのかということ。それぞれが比較的広い読者の中で共有されていくのではないかという気がする。

 だから、理念、普遍性の問題についてもご意見がやはり随分違う。それから方法論の問題でも随分違う。だから、両論併記ということはよくあるが、子細を読むと、両論どころではない。5つも6つもいろいろなご意見があたかも統一されたかのごとき文章の中で、流れの中で表現されている。人の心を打つわけがない、響かないと思う。ご苦労はご苦労として、やはりこういう流れに全体としてはなるのだなと思うほかないが。

 だから、理念の問題、普遍性の問題は長期的な展望に立って、徳育という問題を考えなければならない。それは人類1,000年、2,000年の間言い続けてきたことだと言われるがゆえに、それだからこそやはりそれはちゃんと憲法の前文のように書いておかなければならないことである。しかしその問題についても意見が違っている。違っているということを正直に示したほうがいいという気がする。

 それからもう1つ、現実の問題として、短期的な問題として徳育の問題をどう考えるかという場合に、現実に道徳教育という科目が置かれているわけである。そこで現実に先生方がどうその道徳教育の時間の中で教えていったらいいのかという問題があるわけだが、少なくともこの問題については短期的であり、すぐに実行に移さなければならない緊急の問題であるので、懇談会としては道徳教育の時間にはこれこれの選択肢があるよということは提示しなければいけない。何のためにそういう懇談会をやったのだと言われかねない。

 その道徳教育で取り上げるべき教育内容というものについても、またいろいろなご意見があったと思う。だから、それはそれでいい。これだけの項目がある。「早寝早起き朝ご飯」、これを1年間やってもらうようなクラスがあってもいい。「柳田教的絵本読みのやり方」、これも1つ入れてもいいかもしれない。「ありがとう、どうぞ」、もう1つありましたね。

【森委員】  「どういたしまして」。

【山折委員】  「どういたしまして」、これで行こうというところがあってもいい。10項目や20項目こういう具体的な問題で、ひとつ1年間、2年間やってごらんよという提案の仕方があると思う。

 私の個人的な意見では、今やはり小中高ともに静かに1人で深く物を考える、これが非常に必要だと思っているので、そのためには姿勢を正して深呼吸をするという。こういうライフスタイルという問題もやはり徳育に関しては重要な問題ではないかと、具体的な課題として私は考えている。例えばそういうものをご理解をいただければ入れてもいい。10項目ぐらいは少なくとも現時点において、社会に対して、やはり提言すべきではないかと思う。

 これだけの意見の違いがあるよということは、現在の日本国民の意見がそれだけ違っているということの象徴である。その現実から出発したほうがいい。下手な、統一的な文章を出さないほうがいいような気がする。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

【森委員】  はい。

【鳥居座長】  森先生、どうぞ。

【森委員】  最近、英語を英語で教えると高校の学習指導要領が変わり、私は「を」と「で」に非常に興味を持って、「を」と「で」の違いというエッセイを書いていたが、このことはなぜ徳育と関係があるのかというと、悪で徳を教えるということ、先ほど大分有力な意見が出ていたが、けもの道を歩くことで人の道を教えようというようなことだと思うが、私は徳で徳を教えるのと、悪で徳を教えるのと、両方あってもいいと思う。それは山折先生おっしゃったようにいろいろな考え方があってもいいわけである。

 そういう意味で、内村鑑三が聖書の解説とか雑誌を出されて、かなり財をなされたのでやっかみを言う人が批判されたときに、内村鑑三は、「私は聖書を食っていない。聖書で稼いだんだ」というようなことをおっしゃったと山本七平が言っているのを読んだことがあるが、そういう意味で、徳で徳を教えるということだけでなく、悪で徳を教えるということもやってもいいが、ただ、その後で、懲悪ということをやっておかないといけないのではないかということを1つ感じた。

 それともう1つは、確かに徳目の内容が多過ぎる。私はかねがね一番大事なものは1つしかないので、1年に1つずつやれば、小学校6年間で6つできる。だから、1年で1つ、6年で6つと言っているが、今日の参考資料で、小学校の学習指導要領の低学年、それから中学年、高学年と徳目がずらっと並んでいるが、結局6年たっても何もできない。

 私の友人で、リーダーシップの研究で学位をとったのがいまして、アメリカの海軍士官のリーダーシップとかいろいろ調べて、それで私のところへ来て、小学校の学習指導要領で道徳がどうなっているかというのを見せましたら、あ、みんな同じだと言う。だから、社長とかそういうリーダーになるには、小学校の道徳の徳目をどれか1つマスターしていればなれる。なぜ1つかというと、1つできれば次、もう1つと人間の欲望は高度化し、どんどんどんどん立派になる。

 最初からたくさん徳目を並べてもだめなので、先ほど柳田先生もおっしゃったが、学校では、家庭では、何か1つずつ。ただ、何年たっても同じでは困るので、それは前にもここで少し申し上げたが、埼玉県深谷市の市長の1年間の目標は靴をそろえましょう、2年目はあいさつをしましょうと。そういうように年次ごとに目標を変えていきますと、5年たてば5つできる。ところが、各市町村に市民憲章とかいろいろあるが、みんな5つとか6つとか7つ並べて、いつまでたってもできていないというのが現状。

 そういう意味で、せっかくこれだけの人がお集まりで出される提言であるから、もっと実効性のあるものにしていただきたいと思う。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

【森委員】  それともう1つ。徳育、徳育と言っているが、徳というのは何だろうかということを今ふと感じたが、徳の簡単な定義。私は物事をほんとうにわかったら、簡単に自分の言葉で定義できなければいけないと思うが、人間の欲望をコントロールするのが徳かなというような気が今した。

【鳥居座長】  ありがとうございました。それでは、押谷委員。

【押谷委員】  今のお話を伺っており、この報告書というのが、いろいろな意見をご苦労してまとめているというのはほんとうに実感するが、もう一つ魅力がない。今まで言われていることを整理して、そしてそれなりの提言ができるということだと思うが、例えば今ここにおられるマスコミの方にこの提言を見てどういうタイトルをつけますかといったときに、あまり魅力的なタイトルをつけられないかもしれない。

 これだけすぐれた皆さん方がお集まりいただいているのにこんなにもったいないことはない。例えば、発達段階ごとの課題とかいろいろ書かれているが、やはり最近の動向で言えば、この会議でも取り上げられたが脳科学の知見をしっかり踏まえた発達段階に応じた教育というものが大変魅力的といおうか、説得力を持つように思うが、どうもそういう視点があまり見えてこない。

 それと、発達段階で見ていくと、結局子どもたちは成長するに従って、自己探求を深めていくということと、視野を広げていくということと、そこからやはり志というものを高めていく、深めていくというような、そういうキーワード的なものがあると思うが、そういったものが各段階において、発達的に押さえられているかというと、少し受け取りにくい。

 そういうポイントを押さえて、しかも最新の科学の知見も踏まえた提案がなされているというイメージがぐっと持てるような表現をさらに工夫いただくとどうか。

 それともう1つ、学校の役割というところだが、既に学習指導要領等が告示されてまだ間がないということもあろうかと思うが、ただ、中教審答申の中では、道徳教育についてはさらに検討していこうというふうに書かれてあったわけで、もう少し学校教育における道徳教育ということにかかわって提言があってもいいと思う。

 その中で、例えば24ページあたりの、学校における道徳教育の充実ということで、最初の黒丸は教材等のことについて書かれている。教育課程の改善にかかわって、道徳の時間というのをどうするか、さらに高等学校における道徳教育をどうするかといった話も出ていた。教科にするかどうかということの議論はここではなされていないが、私はここでも議論してほしいが、ただ、魅力的な教材確保ということにかかわって、既に国庫補助等も検討されており、そういったものをもっと強力に押し進めるとか、もう少し現状を見て、それの発展的な、夢といおうか、希望を持たせるようなものがここに含まれてくるといいと思う。

 さらに、2つ目の黒丸の体制づくりは、道徳教育推進教師等を中心とした仕組みを提案しているわけだが、そういった具体的な仕組み、あるいは指導体制づくりということにかかわって、もう1つ国からのプッシュが必要な気がする。例えば、道徳教育推進教師にかかわって、加配的な形で確保するようにしていくなどである。今の現状をそのままにして、学校現場がもっと頑張ってくださいというのではなくて、国側に対しても財政的な援助、あるいは人的な援助、そういったことをお願いするというようなことももっと入れていいのではないか。

 それと、教師の問題だが、やはり学校において道徳教育を充実させるためには、教師がしっかりと指導ができる力量を身につけていかなくてはいけない。そのための教師のあり方、あるいは教師の研修的なものが必要になろうかと思うが、そういったことにかかわってもう少し具体的な提案があってもいいのではないか。と同時に、今の学校現場を見たときに、道徳教育がなぜ充実しないかを考えると、みんなが道徳教育をやれる、そういう仕組みづくり、あるいはそういう研修は大切だが、それをリードするリーダーを育てていくということが大きな課題だと思う。そのリーダーを養成するためには、やはり教員養成において、道徳教育を専門に研究できる仕組みをつくっていかないといけないと思う。そういう研究者養成ということにかかわって、1つ提案を行うことができるのではないか。

【鳥居座長】  それではもう時間があまりありませんので、まず、平野委員、それから坂口委員もまだ発言していらっしゃいませんが、それと、先ほど来手を挙げていらっしゃる天野委員と、そのお三方でおしまいに。

【平野委員】  はい。手短に申し上げる。

 この概要を拝見していて、どこのページを見ても、やはりいいことがたくさん書いてあると思う。具体的な事例も最後についていたり、具体的ではないものもあったりいろいろ混ざっていて。それで私が思ったのは、徒然草ではないけれども、これはいいなというページも好きなところから読んで、いいなと思ったら実行に移していくというような方向に持っていかれたらいいのではないかと、まとめられたものを見て思った。

 そうして、例えばこの中で、私が丸ポチの中に入ってよかったと思っているのが、思いやりの心を持つとか、感謝の気持ちを育むとか、そういった言葉がたしか丸ポチの並んでいる中にあったが、例えばそれも感謝の気持ちを持つという一言は、「ありがとう」という言葉を発するというやり方もあるだろうし、あと、私が前回発言したみたいに、今は物が豊かにあったり、それから、食べ物が食べられることに感謝するとか、そういう具体的なことを申し上げたが、それだけではなくて、例えば今日1日事故にも遭わずに生きてこられた、今日1日に感謝しようと、明日も元気で生きていけるようにしよう。家族が今日健康でいられたことに感謝し、また、明日も健康であれと。親に長生きしてもらいたい。子どもが安全であってほしい。そういったことにまでやはり感謝の気持ちが及ぶような、1日1回どこかでお祈りするとか、いろいろな宗教があるから、お祈りの場とか祈り方はあると思う。

 あるいは、もしかしたら、絵本の読み聞かせとか、読書とか、そういったある言葉を自分の中に問いかけてもらえるといったものも少し祈る場と似たようなものがあるのではないかと私は思っているが、心を落ち着けて今日1日を考えるような時間を持つようなことを、例えば私だったらやりたいと思うし、ほかの方々は感謝する気持ちというのはもっと別に考えられるのではないかと思う。

【鳥居座長】  ありがとうございました。それでは、天野委員からどうぞ。

【天野委員】  先ほどの山折先生の提案を僕は非常にありがたく聞いておりました。というのは、先ほど言ったが、僕はこの方向でこの報告書が出るというのは子どもを殺すことになってしまうということをはっきり思っている。なので、この方向性ではやはり根本的な部分で承伏しかねるというふうに思っている。部分的にはそうではないところはたくさんあるが、流れの中ではそういうふうに感じているという立場をはっきりさせておく。

 子どもが遊ぶということをずっとやってきた側からすると、遊びというのは快と不快の世界である。正しいから遊んでいるわけではなくて、おもしろいから遊ぶということをやっている。大人がやっていいと言うか言わないかということよりも、たとえだめと言われたって楽しいことはやってしまうみたいな。逆に言うと、そんなことであなた喜んでいるなんておもしろいねというふうに思われるようなことでも、その子がおもしろがっていたらやれるというか、大人の趣味の世界でも同じだと思う。何でそんなこと楽しいのというふうに言われても、それは本人だってよくわからない。でも、何か楽しいというのはおもしろそうだというふうに思う。自分の気持ちがおもしろそうとか楽しそうとかというふうに向かうのはなぜかというと、恐らくその先には、多分快の感覚がある。善悪ではない快の世界である。

 やりたくないというふうに思うことは不快な世界である。人間はそれを予感したときにやりたいとかやりたくないとかという話になって、徳というのが先ほど森先生のおっしゃったように、欲のコントロールだとすると、そのコントロールが徳だということになるのだろうが、快と不快の世界が実は、先ほど来脳科学という話が出てきたが、この10年ぐらいの最新の脳科学では、快と不快というまさに情動の世界がどれだけ人間の発達に影響を与えているかということが次々に明らかになってきているという話を脳科学者からついこの間僕は聞いた。

 つまり、人間は長らく善悪という価値の世界に子どもをつけ込もうとしてきたが、実は子ども時代に情動の世界をもっと開いてやること、豊かに体験させてあげること。このことが脳そのものの発達にとって大変大きな影響を及ぼしている。これまでは大脳皮質というのが人間の人間たるゆえんだということを言われていたが、大脳皮質の発達そのものにこの情動、扁桃体とか海馬とかと言われているような、最も原初的な脳の発達が非常に大きな影響を与えているというのがわかってきた。それが最新の脳科学の知見だということを言われた。

 だけど、僕は子どもの様子を見ていれば、そんなのは当たり前だと思ってみていた。つまり快と不快の体験がどれだけ子どもの魂を豊かにしていくか。その遊びの中でどれだけ子どもが回復していくか。それは大人の価値の世界とは全然違う。僕は、大人が徳を言うことはいけないと思っていないが、何分にも力関係がはっきりし過ぎているというところがものすごく危険に感じている。

 最も人数が多かったのは団塊の世代。団塊の世代があれだけ社会と対峙できたのは数の論理がとても大きいと実は僕は思っている。要するに、1クラス60人のようなところでは、とても教師がコントロールできないというような。そのことが非常にその人たち、その子たちのコントロールを受けないところというところでエネルギーがわーっと充満していった。ところが、今圧倒的な少子化の中で、要するに子どもを大人がみんなで手を加えようと思ったら、ほんとうに見事に隅々までコントロールが行き届いてしまうということになりかねない。

 そういう時代的背景の違いに対する細心の注意を払わないと、子どもが窒息してしまうということである。だから、ここのところで、十何ページかに昔と今とは違うというようなことが書かれていたページがあったと思うが、それはテレビゲームとかパソコンとかそういうのが書かれており、僕は最大の違いは、圧倒的な大人と子ども力関係の差だというふうに思っている。以前はそんなものがなかったというか、なかった時代がまだあった。けれども、今は圧倒的な差である。ここに大人が細心の注意を払わない限り、子どもはすぐにつぶされてしまう。その証拠に、今子どもたちの間に一番出ているのは自傷である。要するに犯罪ではない。自傷のほうである。自分の体を傷つけたりとか、オーバードーズ、薬を飲んだりとか。そうやって迷惑をかけるな、迷惑をかけるなと言われ続けた子どもが最後まで迷惑をかけないで、自分の命を削っている。大人に迷惑をかけてはならない。周りに心配をかけてはならない。親に知られないように、人に知られないように、自分の命を削るということを今の若者たちはやっている。この数がどんどん増えている。このことを肝に銘じないと、子どもをいじり過ぎてしまう。

 徳がだめだと言っているのではない。だけど、僕は徳は子どもを実際殺しもしてきたというすごく危険な側面を持っているがゆえに、とても警戒している。

【鳥居座長】  わかりました。では、坂口委員。

【坂口委員】  遅くなりまして、申しわけございませんでした。

 私は「審議の概要」の中で、一番大事なのが16ページの子どもの徳育の充実に向けてという部分だというふうに思っている。何といっても、具体の取り組みとわかりやすさということが大事だというふうに思っているので、いろいろな論議があるが、子どもの徳育の充実に向けてということと、徳育の推進、それから役割という部分がやはり前面に出てくるべきであるというふうに思っているし、それから、この中でそれぞれの家庭、地域、学校が具体にどんな取り組みをしていくのかということを明確に、先ほど先生方の論議の中にもありましたが、1つでもいいので明確なやるべきことが具体に書いてあるべきだというふうに思っている。

【鳥居座長】  ありがとうございました。

 時間が参りました。この辺で今日の審議は終わりにさせていただくが、今日は大変いろいろな大事なご意見をいただくことができた。特に終わりのあたりで山折先生がおっしゃったこと、あるいは森先生が1つでもいいからと、山折先生は10項目とおっしゃったわけだが、いろいろな違う意見を具体的に、そして実際に学習指導要領の中に組み込まれている徳育をやろうとしている先生方に呼びかけることができるような具体案、そういうものも含めて、もう一度考えて次回の素案にこぎつけていただきたいというふうに事務局にもお願いしたい。

 それでは、次回の予定等について、事務局から最後にお願いしたい。

【塩川児童生徒課課長補佐】  本日はどうもありがとうございました。次回、先生方には既にご案内させていただいておりますが、7月6日月曜日でございます。時間は同じ2時から4時までで、場所は文部科学省庁舎の3階の3F1特別会議室でございます。本日のご意見を踏まえた形でまた審議会用の案を整理させていただいてご審議いただけるようにと思っております。またよろしくお願いいたします。

 どうもありがとうございました。

【鳥居座長】  どうもありがとうございました。

 それでは、本日の会議はこれで終わりにさせていただきます。ありがとうございました。

 

                                                                            ── 了 ──

 

 

 

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