資料4 言語力の育成に関して予めいただいた意見及び第1~3回会議における主な意見(概要)

言語体験の充実

  • 子どもに言葉の力がないと感じている。何も言わなくても物が買えるなど、便利な世の中で子どもが言葉の感性に触れる機会がない状況である。子どもに言葉の感性に触れる経験が必要ではないか。
  • 子どもの言葉の感性が鈍っていると感じる。英語活動などで、子どもが身振り手振りを見て分かることの喜びや、子どもが自分の意思で何かして欲しいことを伝えるため自分の知識を総動員して考えるような、体験的な場面を作ることは大事である。
  • 今の子どもは、生活経験が少なく、ゲームや消費など偏りのある経験が多い。また、核家族で地域とのかかわりが減少し、家庭では単語による会話しかない。言葉がないことで考える力がなくなっているという危機感を感じている。学校では、子どもに体験させることが大事である。
  • 気持ちのこもった言葉をかけられることにより情緒は育つ。

体験の言語化

  • 体験は、やりっぱなしと言われることが多いが、体験を言語化して経験化することが重要である。
  • 理科において学習する現象については、子どもの経験は皆無である。どこまで体験としてやらせて言語化し、実験に入るかが問題である。
  • 言葉と体験の関係性を議論し、教師が適切な役割を果たすことが求められる。
  • 環境と人間を考えた時、「言葉と体験」の体験の部分に入ってくることも考えられる。
  • 理科や社会などの語彙の問題については、その教科で意味を体験を交えてしっかりと定着させてほしい。
  • 興味に関わって、子どもたちに内的必然性のある形で、知識体験そのものも獲得させてやることが大切である。今までの実践では、押しつけがあったり、子どもたちが、なぜ学習を行っているのか納得しないまま学習している実態があるので、学習指導要領の中で、強調していただきたい。
  • 総合的な学習の時間や特別活動、読書などを中核として、教科等における体験の体系化を図ることが重要である。

言語に関して身に付けさせたい力

説明する、論証するなど

  • 「他者を理解し、自分を表現」するばかりでなく、先ずは「自分を理解」することが重要である。自分の理解はコミュニケーションの基本的なことである。
  • 経験や既習をもとに、子どもなりに考え、解決することは基本である。また、行ったことを自分で納得し、まわりに「説明できる」ようにすることは重要である。
  • 論理的思考を身に付けるためには、技術的な部分も大事だが、新聞を読んで「意見が言える」ようになるなど、基盤となる日常生活の中にもっと論理的思考を取り入れていくことが重要である。
  • 論理的思考力は、持論や意見を言うことではなくて、ある思考に対してどうしてかという説明ができることである。必要なのは、結果に至るまでの論拠を示せるかどうか、「○○だから・・・」というように「論証できる」ことが大事である。
  • 言語教育のねらいは論理的に考え表現する力を育成することである。論理的に考えるとは、事象を互いに「関連付ける」ことである。表現する力とは、表現すべき内容と表出方法の2つである。
  • 議論には、人の話を聞くマナーだけでなく、分析的に聞く力や、聞きながら議論の流れに応じて聞き分けて使うことが必要になる。論理的思考力を他者に知らせるためには自分の思考を表現する力が必要になる。国語を中心として教科に応じて聞き分け、自分の主張に合わせた証拠・推論をまとめ上げ表現する力を連携して育てていくことが必要である。論理的思考力を議論ができるという狭い範囲で考えるのではなく、広く捉えるべきである。
  • クリティカルシンキング、つまり自分の頭を通してものを言う、一度は疑ってみる、自分の体験と照らしてそれを追求するという態度を身に付けるべきである。早い段階から自分の頭を通して考えるという態度をすべての教科の中で意識的に取り組む必要がある。
  • 問答や対話は基本である。対話をする際に、他者に対して他者との違いを明確にして自分を表現し、証拠を示して話をする能力が幼児教育から小学校、中学校を通じて各教科の中で必要になってくる。
  • 能力の育成において、力とは何かということを明確にすることが今回の学習指導要領改訂に求められている。力の範囲は性質上、国語力に大きく依存している。学習や社会の中で日常的に使う言葉の力を分析的に捉え、幼児・小学校教育の中で順に高めていくことや、各教科の適性に合わせて組み込むことを考えていくべきである。
  • 小学校6学年で身に付けさせる力として、例えば他者との関係性の中で知識を身に付けさせる能力、論理的に自分なりに考えて他者に伝える能力が期待されている。これを学習指導要領あるいは、別の基準により示す必要があるのかどうか。そこを決めた段階でそれぞれの発達段階での内容やプロセスにつながっていくのではないか。
  • 力を付けるための活動が、子どもたちにとって必然的なものでなければ、読むためにやらされていると子どもが感じてしまうことになる。
  • 言葉だけでは誤解が生じることがあるので、「モラルにかかわること」をしっかりと教える必要がある。
  • 感想やその場しのぎの言葉を言うのではなく、資料や議事録に基づき文章を分析しながら議論できるようにすることが大切である。
  • 視点を変える訓練を行い、何が見えて何が見えないのかを考えさせることも重要である。
  • ディベート教育では、自分の判断を一時的に留保し、肯定と否定の両方の立場から主観的に議論をつくらせて、主観的又は客観的な物事の見方を子どもたちが意識的に使い分けできるようにするプロセスが重要である。
  • 説明は、自分で納得するためにも他人を説得するためにも重要であり、さらに、説明の過程で新しいことに気付いたり、よりよくするための知恵に気付くこともある。
  • 根拠がどこにあるのかが分かればしっかりとした議論ができる。感想と根拠に基づく意見とは違うということをしっかり教えるべきである。
  • 観察と説明の間に「なぜ」を補って指導することによって、子どもたちに説明があって知恵が働いていることを発見させることができる。そして、このような学習が、子供たちの意欲的な取組に繋がっていく。
  • 記述と説明について、小学校低・中学年では、記述の際に資料を収集すること、資料を整理して、その中から事実を認定すること、認定された事実を記述することに重点をおき、また、小学校高学年から中学校では、記述された事実をもとに、事実と論拠を使った議論を構成することに重点をおくことが、言語力の育成のために有効ではないか。
  • プレゼンテーションのとき、小学校低学年では低学年なりの言葉で説明はするが、意識化されていない。全体の中でどのようなことがあり、自分はここについて語っている、説明しているという意識を図ることが大事である。
  • 言葉の使い方について、日本では、婉曲な言い方を大事にし、一つの事柄を一つの言葉で割り切らないよさがある一方、直接的な議論のやりにくさがある。他方、西洋では、言語化することにより直接的な議論ができる一方、感情や情緒が抜け落ちる。言葉の使い方を改善していく場合に、大事にしていく部分とそうでない部分を考える必要がある。
  • 日本で使う対話という用語は共話を含む。「自己と対話する」ということは、よい点、悪い点を自分の内心で考えてみることである。
  • 教育の中では、「議論」とは相手をやり込めることではなく、相手を尊重するという発想で捉えるべきではないか。
  • 日本の文化がポジティブに見直されていることを考慮し、ヨーロッパ的な「対話」の捉えとして、相手との対話の中で相手の論拠・論理の弱さを指摘し、相手の無知の知を知らせるという考え方も重要である。
  • 小学校の段階から、学力の低い子どもも含め全員に、議論的な力を付けていく必要がある。他方、中学校・高等学校段階では、対話することが必要であるとともに、知識だけではなくプロセスを重視した学習を行う必要がある。
  • 議論は個人の力を高めるだけではなく、議論することが行動として大事であることを理解することにより、市民あるいは社会人として重要であることを感じることができる。

集団との関係性、コミュニケーション

  • 個人の能力のみに焦点を当てるのではなく、集団に目を向けるべきである。小学校や地域等の集団の力に目を向け、言葉の力だけでなく、言葉を使ってどういう関係性を作るかということについて検討すべきである。
  • 集団の中で個人がどうやって効率を上げるか、相互的に考える必要がある。人とどうやって関わるかきちんと整理しておく必要がある。
  • 解答を導く際にわからなければ子ども同士で共同で考える関係がある。この子ども同士で形成される集団の関係性を大事にしていくことは重要である。
  • 社会との関係性の中で、自分と同じ集団にいない人に対して説得したり、論理的に説明するということを体験させなければならない。教室の中だけで完結するのではなく、授業内容を拡張するとかグループで学習するということを国語教育の中で取り入れていくべきである。
  • 論理的思考力は大事であるが身近な他者に届く言葉を話せるようにすることも大事である。子どもが言葉に即して考えられるように、これらを両輪で考えていく必要があるのではないか。
  • 論理的思考力だけでなくコミュニケーション技術を身に付けさせることも必要である。具体的には、ディベート等で言われたことに対して意見が言えることが大切である。
  • 言語は単にコミュニケーションの道具としてのみ捉えるのではなく、広がりのあるものとして考えるべきである。
  • 言語使用やコミュニケーションを重視した教育を考える場合、学習指導要領において、集団としての目標が必要ではないか。
  • 学習指導要領に集団に対する指導を明記し、集団をどう変えるかについて踏み込むべきではないか。
  • 言語力やコミュニケーション能力を考えるとき、それを「個人に内在するもの」と捉えた場合、指導内容が単純化され過ぎ、個人に対する指導が中心となるためクラス内のコミュニケーションの充実に貢献しない。
  • コミュニケーションという状況の中で、言語は狭義には媒体という理解である。
  • 言語力を考えるとき、個人に焦点を当てて考えるのではなく、言語を集団を結びつける媒体として考え、学びの集団として言語がどう作用し、十分な機能を果たしているのかを考えるべきである。
  • 日本のコミュニケーションは、言わないで察することに高い価値を置いている。
  • 子どもたちがグループでアドバイスを受けた場合、自分の考えとグループの考えをもう一度考え直し、比較しながら自分の考えをどう高まっていくのかを自覚した時に、集団としての思考が高まっていくのではないか。
  • コミュニケーションの教育は、自己表現と他者理解という2つの部分から成り立っており、その中の共同学習という文脈では、他者の心の動きを類推したり、他者が自分とは違う信念を持っていることを理解したりする機能として心の理論というものがある。
  • 授業をコミュニケーション空間としてとらえ、その関係性の中で言語をどう使うかという指導法を中心にして、学習指導要領をどう変えるかを考えるべきではないか。
  • 言語活動について、個人と集団との関係で分け、個人内においては個人の認識に関係するもの(理解、解釈、熟考・評価、論述)、集団との関係においては対話やコミュニケーションに関係するもの(対話、討論)という大きな2軸に分けて考えることができる。
  • 対話について、教師の一方的な教育方法では対話力が育たないことを踏まえ、学級での日頃からの聞きあう応答的な関係など、学習集団としての言語力を考えていく必要がある。
  • 情緒を考えるとき、文学作品とどう対峙するかではなく、子どもたちが会話をしながらつくり上げていくものとして考えるべきである。会話の中で、共感や知的探求のぶつかり合いを通じて、情緒も論理性も高めることができるのではないか。
  • 社会的真実を皆で探究し、合意形成をしていくために議論が必要であり、対話教育では、それにまつわる倫理性が重要であるともに、対話を振り返り、分析することが重要である。国としては、このプロセスにおいて、生徒のダイナミックなやり取りに価値を置くというステートメントを出していくべきである。

言語教育の構造や体系性

  • 言語生活を全体的に見ると、1認知能力の負担の程度、2経験や既存知識への依存の度合い、3証明することはどのようなことか、というメタ認知の三つの軸がある。
  • 国語の先生と接触して感じることは、論理的に考えることと情感的又は共感的に考えることを二項対立的に捉えていることである。しかし、違いを論理的にはっきりさせることが相手のためになるという情感的や共感的なことにつながる。
  • 言葉の能力として、言語学上2つのスタンダードモデルがある。一つは、知っていることの言語的能力と、それをもとにして使える能力である。日本人に欠けているのは、文法・書き言葉のような知っていることを応用する能力である。もう一つは、概念的能力、操作的能力、発見的能力、創造的能力から構成されている。
  • 言語教育について、自分が伝えようとするメッセージの明確化や整理は重要である。
  • 構成的能力の受容と表出の相互作用が考えられる。
  • 最初に自分の意見をきっちりと言って初めて、説明の仕方等を学び論文につながっていく。思いつきの取り組みでは、何を意図しているのかわからないので、体系化が必要である。
  • 日本語は分かり合っていれば言葉はなくてよいということもあるが、我々が目指す国語力とは何かということが重要である。
  • 段階型ではなく、スパイラル的な発想は大事である。そのため、子どもが今持っているものを整理することが重要であり、1自覚する機会の提供、2論理内省の道具としての言葉を身に付けることが必要ではないか。
  • 論理的思考の育成と情緒的な思考の育成は二者択一ではない。
  • 議論を中心とした授業において、教員の教え込みではなく、一緒に考えさせながら意見を述べさせ、一人一人の中で自分の考えを深める教育のように部分の技術からだんだん積み上げて総合力につなげていくことが重要である。
  • 小さいうちは型を教え、型を使ってものを考えさせ、それが身に付いてくるに従って型を崩して、自在に自分の技術として使えるようにするなど、発達段階に応じて言語技術を身に付けていくことは大事である。
  • 授業ではプロセスが大事である。プロセスには葛藤や対立が起こるが、それを解消し、束ねていく過程で議論し、論証する。その結果として、新たな問題に気付き、その連鎖により認識が深まる。
  • 言語技術と言語的教養の関係をどのように考え、リンクさせていくかが問題である。その際、日本と欧米の言語構造が異なることも考慮すべきである。
  • 言語力は個人が備えるべき能力であり、環境や相手を認識し、それとの共同活動がある。
  • 表出の仕方について、普遍の部分と個別の部分を考えることは重要ではないか。
  • 読み手の空間においては、テクストの関係を踏まえた感想を述べることが重要である。
  • 子どもがもつイメージや意味を構築する過程で言葉がそれを定型化、具現化し、朗読や劇化という形で具体化される。そこで他の子どもたちの様々なレベルのアクトアウトの仕方を見て、それが個人になり、個人の中でイメージが進化する。
  • 大きな流れとスパイラルということを踏まえた上で、どういう技術を用いるかということは内容、教材との関係で配列していくことが必要ではないかと考える。
  • メタ言語意識は、対象となる知識によって発現時期が異なる。音韻知識に関する意識、形態に関する意識、統語に関する意識、意味に関する意識、語用に関する意識、これらはすべて発現時期が異なっており、発現時期と合わせて学校教育の構成を考えるのも、非常に重要な視点である。
  • 各論を鍛えていれば言葉の力が育成されるわけではない。本当の意味での言語力を育成するためには、最初から「豊かな言語生活」のイメージを視野に入れて、育てるべき言語知識や言語技術を同時的に考えていく必要があるのではないか。
  • 発達段階を踏まえずに、中学校の言語を前倒しして小学校に落としたら良いという形でいくと、結局、小学校の子どもたちに言語で負担をかける恐れがあることを考慮しておく必要がある。
  • 言葉によって構造化された認識世界を土台にして生きていることを踏まえ、言葉はあらゆる学習の対象や手段であるばかりでなく、生きていく土台として、言葉により整理され、準備されることが重要である。
  • 言語力の育成に関しては、教科ごとの比重が異なるため、国語及びその他の教科という分け方ではなく、1言語活動そのものを対象とする教科群(国語、外国語)、2教科リテラシーの習得が必要となる教科群(社会、算数・数学、理科)、3言語とは異なる表現方法の習得が必要となる教科群(音楽、図画工作、美術、体育)4市民生活を営む上での課題解決能力を育てる教科群(生活、家庭・技術家庭、道徳、特別活動、総合的な学習の時間)のように分けるべきではないか。
  • 今後の学校教育について、どのような価値観や理念に基づいてどう改善していきたいのかというステートメントが必要であり、その上で論を整理していくことが重要である。
  • 言語力には、先見的知識や手続き的知識も含むべきである。

言語に関する基本的な技術の指導

  • 日本人の日本語の言語表現には危うさを感じるものがある。言語表現のトレーニングを義務教育期間に十分に与えていないというのはとてもよくないことだと思う。
  • 国語で言語技術の指導がなされていない。欧米諸国では、言語技術については、国語をベースとして幼児期から小学校低学年において読み聞かせを行い、クリティカルリーディングの基礎を学ばせ、それを発展させ、最終的には、社会に出て各国に負けずに議論できることを目標にしている。
  • 省略の多い小説を読む際に、間を分析・解説し、推論しながら読むなど、クリティカルリーディングの手法が有効である。
  • 絵本を読み聞かせているときに、子どもが発する何気ない発言をうまく取り上げ、それを利用して返してやれるかということが大切ではないか。
  • 絵本について、絵も命、言葉も命ととらえ、注意深く見せ、聞き取らせるというように言語材を大切にすべきではないか。
  • 言語技術として、例えばレポートの書き方であるとか、あるいは事実と考えを分けることや、1枚の絵を分析してそこに書いてあるものを取り出すといった作業については、理科や社会に応用できるのではないか。
  • 言語活動を考える場合、意味付け、発信(描写・紹介・説明)、受信(認識・理解)、新たな意味付けの下での発信という循環や相互作用の能力として分けて考えることが有効である。

学校段階別での指導内容の重点化

  • 幼児期は体験や知識を共有している人にいかにうまく伝えるかを身に付け、小学校は体験を共有できていない人に伝えるためにはどうするかを身に付けさせることができる。小学校高学年では物事を複眼的にみることにより論理的な思考を身に付けることができる。このように子どもたちの成長がどの段階にあるのか考慮する必要がある。
  • ドイツでは、小学校低学年から5年生まで、子どもたちに読み聞かせて自分で対話をさせることを意識的に組み込み、小学校5年生から中学校2年生では一冊の本を要約する作業を行う。論理的な構造を理解し、議論させ完成させることで論理的思考が身に付く。このようにゴールから一つ一つ落とし込んで幼児期から教育を行うことが大事である。
  • 学校段階の各教科等における言語力の育成について、社会科に関しては次のとおり。
    ・ 小学校は観察・実験において、丁寧に見て、記録を求めることが重要
    ・ 中学校は問題を発見、検証し、それを他人に説明できるようにする指導が重要
    ・ 高等学校はなぜかと問いながらの活動で、事実判断に加え、価値判断を自分の言葉で他人に言えることが重要
  • 発達段階によっては、ミクロな視点で捉え、具体から言語を通じて、抽象に飛躍することが重要である。意図的に指導に入れていけるように、学習指導要領に入れるとよいのではないか。
  • 幼稚園は先ず体験する時期、小学校は体験を組織化し目的に応じて整理できる時期、中学校は自らの考え方にのっとり論理的に考える時期、高等学校は妥当性をチェックしながら論理的に表現できる時期と考える。
  • 子どもの認知発達のプロセスを考慮し、幼児期には一つ一つを分析的にしないで、美しいリズムや言葉を体に刻むような読み聞かせが大切である。
  • 大きな、抽象的な流れは言葉でつなげていけるが、具体的なところは発達段階に応じて変えていかねばならない。
  • 言葉の問題を考えるとき、個人差に配慮し、発達段階ではなく、児童生徒の実態や先行経験に応じて、教育内容・方法を考える必要がある。
  • 発達段階における留意点として、事実認識、概念認識、形式的認識という形の枠に基づき、教科がどうすべきかという整理の仕方が有効である。

各教科等における言語に関する指導

教科間の連携

  • 総合的な学習の時間を中核にして、教科等における体験の体系化を学校カリキュラムで作成するのは有効ではないか。
  • 学習指導要領の改訂ごとに、社会科の時数が減少している。意図的・体系的に高等学校学習指導要領の国語の教材選定の中に社会の内容をちりばめて欲しい。
  • 教科書は入口と出口しか示されず、プロセスがないため覚えるしかない。言葉の関与を認識するため、方法論ではなく、活動の一つとして各教科がリンクをして国語を教えていくことが重要である。
  • すべての教科等を通じた国語力の育成について、国語では学習用語としての言語力を付け、他教科ではコミュニケーションとしての言語力を付けるべきではないか。教科の枠組みを離れてどれだけやれるかが重要である。
  • 学習指導要領は教科縦割ではなく、教科横断的に考えるべきである。
  • 国語の教師が他教科の授業を分析して、考えを述べるなど双方向の議論が必要である。国語で教えていることで他教科で使えば効果的なこともある。
  • 国語と他教科とのすみ分けをどうするかが重要である。
  • 国語科においては、説明をきっちりやり、できたことに一人一人が責任をもつ。そういう生き方ができる子どもを育てるべきである。
  • 国語力として何を求めるのかについて、国語科が担うのか、論理を担う各教科がやるのか、また、コミュニケーションという側面でも、国語より英語活動がふさわしければそちらが担うなど、見極めが重要である。どのような具体的活動が期待されるのかをリストアップし、より適した領域はどこかを整理する必要がある。
  • 思考や論理にかかわり、国語科と各教科でどちらが担うかということについて、区別すべき点と一体として考える点を整理する必要がある。
  • 他教科が総合的な学習の時間を支えていく必要がある。
  • 小学校においては言語力が大事であり、国語できちんと教え、各教科でも意識して指導すべきである。
  • 国語科では他教科で使える言語技術を教えることが必要であり、実際に指導した後、他教科と国語の先生が話し合うなど、使えるものになっているか吟味する必要がある。
  • 言語教育を実のあるものにするためには、国語以外の教育が必要である。
  • テクストの分析や解釈、批判というのは、各教科で適用できる言語技術である。
  • テクストの空間を読み解く力を付ければ、理科や算数・数学など他教科においても読み取る力が付くのではないか。
  • 「習得」と「探究」の間の「活用」にあたるものは、教科の言葉で書き表すことや、自分なりに書き、それをコミュニケーションにして深めるということではないか。
  • 他教科にある、表層だけでは分からないが、流れから推測できることを束ねて国語でどう整理するのか。逆に国語でどう整理しておくとコミュニケーションが滑らかにいくのか、というところをはっきりさせておくべきではないか。
  • 小学校の国語や他教科は、認知力に依存したアカデミックな言語力を中心に考えているのに対して、中学校の外国語(英語)教育は、実践的コミュニケーションということで、日常的レベルでの、ベーシックなインターパーソナル・コミュニケーションに重点を置いた内容になっているおり、この内容の相違に違和感がある。
  • 国語科を含め、各教科等を通じて、描写・要約・紹介などの言語活動を行う力を身に付けることは大切であり、国語科はこれを踏まえて一層目的化していくことが考えられる。
  • 各教科等を通じた言語力の育成を考えていく際に、教科等ではそれぞれの目的を第一義的に踏まえた上で、どの部分が言語と関係があるのかという視点で考える必要がある。
  • 表出して可聴できるもののみを言語力として捉えるべきではない。
  • 各教科等が主たる目標に向かって展開していく場合に、副次的に言語力を意識できるようにするべきである。

国語科との関係

  • 国語科においては、思考や論理、伝達など国語力の中の一部として言語力を取り扱っており、国語力にはさらに情緒や感情も含まれる。
  • 国語科においては、感想は否定すべきものではなく、人間性を高めていく上で大切である。
  • 国語が担うべき言語の重要な側面として、精神を高揚させることや感性を磨くことが考えられる。
  • 国語科においては、国語力を豊かに実らせることにより、ある一部である言語力を育成していく。そこの部分において全教科でお互いに連携を保っていくことが必要である。
  • 小学校は全教科を1人の教師が行っているが、学習指導要領において各教科等が連携していない。国語科が全教科に向けて、国語力として発信して行く必要があるのではないか。
  • 感性、情緒を高めるため、国語科では言語感覚を高めていくことが必要であり、辞典を引いたり、活用したりすることを重視し、メタ言語的に言葉を扱うことが重要である。

社会科との関係

  • 社会科では、身近な地域の観察・調査などの項目の学習に当たって、細部に留意して記述・報告すること、法則性や概念を基に事象を説明すること、価値判断が必要な場面を設けて各自の解釈・判断を説明して意見交換することなどが重要である。
  • 社会科において、問題・仮説・検証で身に付けた概念や資料を活用して、未来予測にかかわる授業展開を行うことによって、対話能力の育成につながるのではないか。
  • 現行学習指導要領社会科における人物名の記載は、日本史を考える際の核となり、日本人共通のアイデンティティ形成に貢献していることから、今後の改訂に当たり、社会科で養うべき用語を整理して学習指導要領に記述することは有効である。

算数科との関係

  • 算数・数学における学習や指導における言語の問題のかかわりとしては、筋道を立てて説明することが重要である。
  • 算数・数学教育においては、論理的に考えることは筋書きを示すことであり、帰納的な考え方、類比、それを結ぶ演繹的な考え方が必要である。

理科との関係

  • 理科では、小学校中学年では、植物の観察において問題意識や予想に基づいて事実を的確に記録・伝達すること、小学校高学年では、重量の保存などの科学的概念に基づき説明すること、中学校から高校では文章や資料を用いて、科学的概念を、結果とそれを検証するデータから読み解き、実証性・再現性・客観性などの視点から評価し、論述することが考えられる。
  • 理科においては、予想(仮説)の設定場面で、発想した予想(仮説)とその検証方法を互いに発表し、互いの予想(仮説)とその検証方法を承認しあうこと、結果の解釈場面で、結果の確証や反証から観察・実験の方法や予想(仮説)の真偽を検討しあうことが、コミュニケーション能力の育成に有効と考えられる。)
  • 国語科においては、論理的思考を単純化し、判断と根拠の関係、判断と理由の関係、原因と結果の関係に分けて規定した上で、理科においては、原因と結果の関係を分担すると考えることができる。
  • 理科においては、体験を通して五感を表現する言葉を身に付けていく必要がある。その際、比較基準を用いて表現することにより、感性や情緒を高めていくことができる。
  • 対話の力を高めるためには、前提として、人の意見を認め、自分の考えなかったものを再発見することが重要である。理科では、予想や仮説に基づいて、それを認め、真偽の判断は実験や観察によることと考えることができる。

英語教育との関係

  • 小学校の英語教育の必修化について、英語が話せることは、スキル面の向上のみではなく、幅広い言語力の育成になることが世間に理解されていない。日本語では無自覚で使っていた言語を、英語では異言語として自覚できる。また、人にものを伝える難しさを知り、緊張感を持って話ができることなどが英語の導入の効果として考えられる。
  • 子どもに、気付いていないことに対する驚きを与えることは母語でも可能である。また、母語で知っていることをつめて考えるようにすると言葉の構造についての興味を付けていくことができる。
  • 英語をどうするのかという課題もあるが、知識は言語や文化に依存している。子どもを育てるとき、国語が立派な日本人をつくり、立派な世界人をつくる。
  • 高等学校の英語教育は国語力に効果を発揮している。英語、数学、国語の連携が大切である。
  • 英語については、単なるコミュニケーションツールだけではなく、異なる文化の下での現実の切り取り方がどう違うのかということを考えるべきである。
  • 小学校の英語教育を何年生から始めるとしても、就学以前に母語で形成されている言語力をベースにして考える必要がある。
  • 小学校の英語教育を考えたときに、技術ではなく、自分の言葉を知ることを重要な役割と考えるべきではないか。言語力育成のための基礎力を考える際、国語や小学校の英語教育の目標として、メタ認知を入れていくことも考えられる。
  • 物事を理解する際、同じカテゴリーの中で比較することは有効であることから、外国語教育は母語の力を高めることに資する。
  • 小学校の英語教育を考えたときに、母語よりも負荷のある外国語を子どもたちが学ぶことにより、言葉で人とやりとりする楽しさを体験し、言葉に対する感性を育むことができる。

その他教科等との関係

  • 体育科や図画工作科など、言葉を介さずに表現したり理解したりする教科においては、言語力の育成は他の媒体としての表現力にもつながることを考慮しておく必要がある。
  • 総合的な人間であることの媒介手段が言語であるとするならば、「踊る」、「歌う」、「見る」、「聞く」はすべて言語である。
  • 言葉の力を高める教育を考える際には、音楽や美術や体育の時間にすべてを言葉で説明する教育を推進することが、学校で言葉を発することができない子どもにとって、不利に働く可能性があることを考慮しておく必要がある。

漢字、語彙、読書など

漢字や語彙

  • 小学校の配当漢字の音、訓には三千を超える読み方がある。基礎・基本を国語が担っている。
  • 語彙を増やすことを学校でやっていく必要がある。
  • 使用語彙について、小学校では生活的語彙が多く、中学校では思考・論理的語彙が多い。日本の国語教育は生活的語彙を持つ子どもを対象とし、総合的な学習の時間や生活科を通じて日常体験を追体験させる。そうした生活語彙の充足の上で国語科は論理、情緒に関する高度な語彙を身に付けると、思考力や情緒力が身に付くのではないか。
  • 各教科の専門用語については、教科書や辞典には入っているが、授業での教師の指導に委ねられていてうまくいっていない実態がある。学習指導要領や指導書において手当てすべきではないか。
  • 感情語彙は、子ども同士の遊びや多様な生活体験を通して、語彙として定着し、それを踏まえて、論理や高度の情緒語彙が身に付いてくるのではないか。
  • 論理的な思考能力や感情・情緒を高めるため、感じてどうよかったのかを言えるようにするなど、言語化する量を増やすべきである。
  • 言語の基礎力として、語彙と学校文法ではない言葉のきまりを考えるべきである。
  • 言語の基礎力として、語彙・文法に加えて、様々な知識や情報が必要である。

読書

  • 読書をしっかりさせることで批判的に読むための技術を身に付けることが必要ではないか。
  • 基礎から本との触れ合いを増加していく必要がある。子どもは教師の意図を汲み取って動くけれど友達の意図は汲み取らないという子どもが増えている。教師が最後まで読み聞かせ、子どもたちはそれを聞き創造して模擬的な構成力を身に付けるという関係も学習指導要領にきちんと組み込まれる方がよいのではないか。
  • 読書の良さを子どもに感じさせる活動を学習指導要領に入れ、活動だけが空回りしないようにバックアップすべきである。また、PISA調査での学力の低い子どもたちがさらに落ちていることは問題であり、解決のためには読書の基礎体力を養うことが重要である。
  • 国語とその他の教科の違いを認識した上で、どういう本を読んで何をするのかという指導内容を明記しないと教える側はわからない。

文法

  • 言語力は実用的・実践的な対話へのかかわりが大きいため、文法は表現や対話に役立つものであるべきである。

文化

  • 日本特有の細やかな言語を国語でやって欲しい。そうでなければ、日本の文化が崩れてしまうことになる。

教員・授業・教材

教員・授業

  • 批判的思考力や論理的思考力を養うため、従来の教え込む知識偏重型の授業スタイルではなく、ディベートなどにおいて、教師が答えを持たないで行う授業が重要である。
  • 論理的思考力を身に付けさせるため、学校現場では、どのように指導してよいか方法がわからず困っている。このため、ワークブックなどの教材が必要ではないか。
  • 教師自身の体験が不足している。
  • 大事なところを落とさない授業づくりが大切である。また、授業の振り返り時間をつくることも必要である。
  • 伝え合う力は音声ばかりなので、もっと書いて、自分の中でフィードバックすべきである。国語の時間では意図的に論理的に考えさせることが大切で、感想文ではなく、「説明文を書かせる」べきである。
  • 学習指導要領には、指導する内容や目標だけでなくプロセスをどうするのかを書き込んでほしい。論理的思考力を身に付けるため、小学校修了段階でどのようなことができるかを明示し、そこから降ろすことを考えていくとよいのではないか。
  • 今までの教科書は素材に焦点が当たりすぎているのではないか。生徒がこの素材で何ができるかということが理解できないために、批判的思考力が育たないのではないか。そういう意味でプロセスと力は不可分である。
  • 学習指導要領に言葉の定義をきちんと明記すべきではないか。
  • 教師が論理的思考力のトレーニングを受けていないことがネックとなることがある。
  • 子どもに教材を読み取らせられるかは、教師がどれだけその教材を読み取り、深く研究したのかにかかっている。
  • 抽象的な学習指導要領と現場で行われることとのギャップをどうやって埋めるのかということを考えていかなければならない。
  • 対話能力を高めるためには、対話を共話ではない対話なのかどうかということを、国語科や外国語科において、教師が意識化し、使い分けて教育することが大切である。
  • 言葉を使った教育として、単に書いてあるものを読むことばかりではなく、生徒や教師が言葉を使い、それを返すというダイナミックな使い方が重要である。

教材

  • 国語教育では従来の作家中心主義でない教科書の在り方が望まれる。
  • 欧米諸国ではゲーテなどしっかりとした小説を読み込ませ分析的に討論させて小論文を書かせている。小説を読み、自分では体験できないことを小説を通じて、深く考え理解する。このことが社会で生きていく上で大きな経験となる。学習指導要領の改訂では小説の取扱いも含めて考えていただきたい。
  • 小説を扱うことは非常によいことであるが、一部分を読んだだけで、作品と作家を結びつけることはよくない。内容についての討論を前提に小説を扱う、あるいは登場人物の関係性を分析する、あるいは作家はどういうメッセージを読者に発信し、コミュニケーションをしたいのかという分析ができればよい。
  • 文学作品は高い次元の発想や分析ができるかどうかという力が求められるが、この力と言語力がどう関係しているかを考える必要がある。
  • ドイツでは、教養として必要なものは教材に入っており、教材をどう読むのかというところで技術を教えている。それを議論することによって意見を共有し、個人でもう一度考えて論文に集約するということを行っている。
  • 外国人に日本のことを知ってもらうためには、教材はもっと文学作品を重要視すべきであり、お互いを理解できるツールとして日本人は自国の文学をよく知る必要がある。
  • 教科書を厚くして、しっかりと内容を入れるとともに、言語技術の説明や報告を積み上げるための教材が必要である。
  • 教材に関して、社会科や理科では、文章や資料は収集するだけではなく、比べて読んだり、重ねて読んだりすることが重要である。
  • 様々な辞書や本、新聞等の取扱い、図書館での本の選び方や活用の仕方など、児童生徒が社会人として豊かな言語生活を行うのに必要な言語的道具や、場の利用法も体系的に指導していくことが必要である。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課教育課程企画室

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)