言語力育成協力者会議(第2回) 議事要旨

1.日時

平成18年7月6日(木曜日) 10時~12時30分

2.場所

フロラシオン青山 「孔雀(西)」

3.議題

  1. 児童生徒の発達段階に応じた各教科等を横断した言語力の育成について

4.出席者

委員

 岩田委員,内田委員,大津委員,尾﨑委員,甲斐委員,梶田委員,角屋委員,三森委員,寺井委員,西原委員,松川委員,松本委員

文部科学省

 布村大臣官房審議官,常盤教育課程課長,井上視学官,宮崎視学官,合田教育課程企画室長,増子専門官,森友教育課程企画室長補佐,石塚学校教育官

5.議事要旨

(1)事務局より配付資料の確認,説明等が行われた。

(2)岩田委員,大津委員,角屋委員の各委員から意見発表が行われ,その後,質疑応答が行われた。

<意見発表>

発表者
 社会科では,例えば,記述的知識,分析的知識,説明的知識,概念的知識,規範的知識というように社会科で養うべき知識を分類しているが,言語との関連では,記述,説明,解釈,判断という分類を踏まえた授業展開を行っている。
 【記述】に関して,社会事象を考えていく際,体験と結びついた形での豊かな情報や人の表情が見える形での豊かな情報が重要である。
 授業では,細部まで目を行き届かせて,それを記述させるというトレーニングが必要ではないか。現状においても,観察事象のスケッチ化や地図化は行われているが,もう一段細かな視点から記述し,報告することを求めていくべきである。
 学習指導要領における記述について,例えば「調べ」にかかわり,観察や調査等の活動だけでなく,「観察,調査したことを詳細に記述し,」という表現を入れることにより,こうした学習活動について積極的に開発がなされ,言語力の育成につながるのではないか。
 【説明】に関して,子どもたちが社会事象を見えるようにするためには,概念を使って,概念装置を子どもたち一人一人が自分で組み立てていくようにする必要がある。地理学,歴史学,政治学,経済学,社会学から出される情報や法則性,概念に対し,子どもたちが「なぜ」と問い,仮説を立て,検証し,自分で納得的に事象間の関係を分かることにより初めて自分の独自の概念装置になっていく。
 社会科の授業では,事象の原因や結果の科学的な検証をして納得させるというプロセスがあり,その場合の納得のさせ方として,帰納的な説明や演繹的な説明,確率論的な説明,説明的スケッチなど,様々な納得のさせ方を使っているが,言語力の基本はこの説明力であると考える。
 学習指導要領における記述については,社会科学習で科学知の習得の中核になる「説明」という用語を適切な箇所に入れることによって,社会科学習の中で説明の位置が明確になり,言語力の育成に社会科が有効に働くのではないか。
 【解釈・判断】に関して,社会科では,社会認識を通して市民的資質を形成することを基本的な学習の目標にしている。市民的資質を育成する知識として,規範知の選択能力(価値判断能力)の育成を目指している。そのため,価値判断が適切にできるような情意的な豊かさを子どもたちに意図的につくっていく必要がある。
 日本人としての共通の教養知,暗黙知を考えるべきであり,それをもつことにより日本人としての共通のアイデンティティの形成に繋がる。また,これは言語力に繋がると考える。
 人間理解に関して,価値判断にかかわるところは教材化を進める必要があるのではないか。昔の人や身近な人がどういう場面でどんな決断をなぜしたのかということについて教育していく必要があり,判断のトレーニングが大事である。この幅広い教養知,暗黙知をもった上での判断が重要であり,各自の解釈,判断を説明し,意見交換をしてコミュニケーション能力を高めることが言語力の育成に資すると考える。
 解釈・判断にかかわる学習指導要領への示唆としては,社会事象について,適切な解釈・判断ができる市民を形成するため,次の三点を考慮に入れた学習指導要領を構築したい。一つ目は,小・中・高等学校の社会科関連カリキュラムに,適切な価値論争問題を何らかの形で組み込むこと,二つ目は,日本人としてのアイデンティティ形成に必要な教養知や,地域に根付いた人間形成に必要な教養知を考慮すべきであること,三つ目は,小・中・高等学校の社会科単元を,人間の生活が見える内容に構成することである。
 発達の段階との関連から,重点をおくべき部分として,小学校段階では,記述を中心にして教育をすることが重要である,中学校段階では事象間の関連構造をしっかりと言語で明示化するプロセスや留保条件付きの判断を身に付けることが重要である,高等学校段階では,論題をめぐって論争し,コミュニケーション能力を付けていくことが大切である。

発表者
 言語力といってもいろいろな捉え方があるので,その規定をはっきりとしておくことが大切である。
 この会議で対象となる言語力は,言語知識を効果的に運用することによって,豊かな知的達成をなし遂げることができる能力,言い換えれば,言葉を上手に使って生活を充実させることができる力であると思う。
 言語力を構成する要素としては,1.言語知識,2.言語運用知識(語用論)と言語運用能力,3.論理,4.コミュニケーション,5.情緒・感性が挙げられる。
 これらの言語力を構成するいろいろな要素がどのように連携しているかについて,考えることは有意義である。
 言語知識・言語技術・論理の3つの要因を使って,言語を効果的に運用する能力を育成することが第一歩である。
 このようにして構成され,育成された運用能力を使うと,効果的なコミュニケーションが可能になり,豊かな言語生活が保障される。「豊かな言語生活」の中には,情緒とか感性が当然含まれる。そのとき,すべての基盤には,母語の知識を意識化させる力としてメタ言語意識がある。
 これの養成は単に言語知識を豊かにするだけではなく,言語技術や論理力の養成にもつながる。
 メタ言語意識とは,言語(知識)に関する知識を得るために必要な意識を指す。また,それは単に言語知識だけではなく,言語運用過程を含み,無意識的に行われていることを意識化させ,気付かせるということになる。
 メタ言語意識は,対象となる知識によって発現時期が異なる。音韻知識に関する意識,形態に関する意識,統語に関する意識,意味に関する意識,語用に関する意識,これらはすべて発現時期が異なっており,発現時期と合わせて学校教育の構成を考えるのも,重要な視点である。
 論理に関しては,論理構造を学び,それにより身に付けた論理構造に関する知識を使って議論を構成することが大切である。議論は,事実を使って主張し,結論を導くが,事実と主張ないしは結論とは同じものではないため,その間に介在するものが「論拠」である。その論拠が何かを明らかにする過程が必要だということを意識化させるのが言語力の養成にとって重要である。
 言語を使って論理をどのように表現するかについては,言語表現の問題であり,言語技術が直接かかわる。他教科とのかかわりに関連し,論理構造を学習させるものとして,例えば数学や理科や社会科もこの中に入るかもしれない。
 論理の表現に関しては,言語を直接の対象とする国語や外国語がかかわってくるし,そこで養成された言語表現は,すべての教科に直接的にかかわってくる。
 言語には普遍的な原理があり,すべての日本語や英語などの自然言語はその原理によって律され,その一部の可変部の値を適切に定めることによって,実際の表現系としてはいろいろな言語が実現されるという考え方である。
 この考え方は,言語技術もしくは言語表現法にも当てはまり,学校教育の中に導入する現実的な方法として,良いのではないか。
 コミュニケーションの教育は,自己表現と他者理解という2つの部分から成り立っており,その中の共同学習という文脈では,心の理論というものがある。
 この「心の理論」とは,他者の心の動きを類推したり,他者が自分とは違う信念を持っていることを理解したりする機能ということで,人間でも初めからこれが表出されているわけではなく,例えば2歳とか3歳といった小さい子どもの場合には,心の理論が欠けていたり,あるいはその機能が十分に働かないということが見られる。
 もう一つは,共同学習,対話ということがある。ここで,自分自身との対話ということについて,これは自分自身を意識化する,自分自身の心を意識化するという意味で,ある種のメタ認知を含むものである。いわゆる推敲なども,ある意味で自分自身との対話になるかと思う。この観点も,コミュニケーションを考えるときに忘れてはならない。
 記述と説明について次のようにレベルを分けることができる。記述をするときに資料を収集し(レベル1),資料を整理して,その中から事実が一体何であるかを認定する(レベル2)。そして,その認定された事実をどう記述するか(レベル3)。また,それとは別のレベルで,記述された事実をもとにして,事実と論拠を使った議論を構成する(レベル4)。そうすると,それによって主張が導かれてくる。
 これを学校教育に当てはめてみたとき,1,2,3のレベルのことを小学校の低学年,中学年で重点的に行い,そして,小学校の高学年から中学校にかけて,主に4のレベルの部分,議論を構成することを中心に進めていくと,言語力ということに非常に有効ではないか。
 外国語教育について言えば,主として母語によって形成されたメタ言語意識を活用して,外国語の運用能力を育成することが大切である。その意味で,母語教育と外国語教育を連携させることが必要で,そして両者は決して対立するものではない。

発表者
 国語は,言語教育の基幹である。母体にして,論理的思考力という側面から見たならば,小学校の低学年では「まず,次に,そして」という順序の系列で物を考えさせている。また,中学年では,いわゆる目的という関係で整理しようとしている。また,高学年では筋道を立ててやろうとしている。それが今,各教科でうまくいかない原因の1つは,各教科が意識していないからである。したがって,国語で立てた筋を各教科で意識して授業展開することにより,今の問題を解決し,言語力を育成できるのではないか。
 これからの言語力として一番必要なのは,論理的表現力とコミュニケーション能力だろう。
 論理的表現力は,イメージの形成や具体物での論理操作,あるいは抽象的な論理操作,そして自己の世界観の確立の大きく4つに分けられるのではないか。それを言葉という形で翻訳すると,イメージの形成や具体的な思考,形式・抽象的な思考,自分なりの考えを表現するという形で各校種の段階が対応できるのではないか。
 これを国語の基盤に置き,各教科はどうするのか,あるいは,各教科として違うところと同じところはどういうところかという形を定めなければいけない。
 理科の場合については,中学年では,例えばアサガオの観察について,事実を正確に記載する,あるいは理解するということは,問題意識とか仮説のもとで事実を理解していくということである。だから,問題意識とか仮説をもとに,事実収集がされる。これが理科の中学年における大きな一つの特色ではないか。
 次に,それに基づく概念理解がある。これは,特に高学年でやれば良いと思うが,この概念理解というのは,例えば「重量の保存則」を小学校5年生で習う。それを理解し,それに基づいて,例えば,コップの中である物体が溶けて見えなくなった。見えなくなっても,やはりこの中に存在している。それは重量が保存されているから,重量で調べれば良いという考え方で理解することが,高学年における形式的な理解だと思う。
 3番目に,これは小学校高学年から中学校までについて,自分の考えを表現したり,自分の考えを整理するということに分かれたり,例えば国語やほかの教科において,自分なりの意見の表明の仕方がある。理科の場合は,科学という形の条件がある。科学というのは,実証性や再現性や客観性を附加させて,その手続にテストが合格したものを自分の意見とするということである。これが中学生から高校生までの考え方である。
 コミュニケーション能力について,ただかかわり合わせれば,お互いに意見の表明をし合えばそれがコミュニケーションかというと,そうではない。例えば,自分の仮説に基づいて出てくる実証的なデータや予想と違った反証的なデータ,実験結果があるが,それらをかかわって条件に返すことが,いわゆるかかわりである。その場面として,仮説設定の部分と結果の解釈の部分という2つの場面に整理できる。
 これからの学習指導要領では,各教科の指導計画の作成と各学年にわたる内容の取り扱いのところで,各教科ごとに言語力を育成する学習指導過程を明記して,各教科で国語を基幹とする言語力を育成する方向で改善したら良いのではないか。

<議論>

委員
 各教科の言語力の育成に関わり,国語科はどうすべきかということについて,国語科で育成すべき力としては,国語力というものがある。その国語力と,言語力はイコールではない。私は国語力の方が広いと考えており,言語力を支える基盤形成や情緒力は,国語力にかなり大きな力が入っていると考えている。
 従って,国語科においては,国語力を豊かに実らせることにより,ある一部である言語力を育成していく。そこの部分において全教科でお互いに連携を保っていくことが必要である。

委員
 先程の発言にある「国語力」というのは,「日本語力」と理解してよいか。

委員
 「日本語力」と考えている。

委員
 「国語力」と対峙するものの中に言語の力がある。教科で考えると,ドイツ語力とか英語力というふうに分類される中に「日本語力」があるという考えか。

委員
 言語力には,国語と英語と共同で支えるべきものもあると思うが,私が考える国語力とは,例えば伝統的な言語文化にかかわる語彙力などを中心に考えている。

委員
 言語力とは具体的にどういう理解か。

委員
 言語力というのは,例えば論理的な思考力などの知的な関係をあらわす,日本語で言うと日本語の力である。「日本語」と言った場合には,これは方言の問題とか,それから古語の問題というものが薄くなってくる。一方,「国語力」とは,方言や古語などそういったものを含めた,広がりを持った力である。それに対して,語彙に限定して言えば,論理的な思考にかかわるものは共通語であって,それを支える文法とか語彙といったものが言語力に関係してくると考えている。

委員
 言語力が大きいのか国語力が大きいのか,これについては,議論があるところである。
 大事なのは,母語としての日本語力を考えることである。これを忘れると,言語の力一般とは異なり,言語体系が準備するカテゴリーシステムによってものを見て,論理を組み立てる,いわば認識というものの土台の上に別の言葉が来ると考えていくことになる。ドイツ人にとってはドイツ語が母語だから,日本人がドイツ語を問題にするときとは違う話が出てくると考えるべきである。
 従って,英語を考えるときも,日本人が英語を学ぶというところに限定しなければならない。

委員
 言語力について,先ほど国語力の一部だと発言したが,逆に言語力に焦点を当てていくと,言語力の中の一部,両者重なる部分に日本語の力があって,言語力とは全国,世界で言えば大変大きなものだろうと思うが,そのことについては,ここでは発言していない。

委員
 議論するに当たって,大津委員の「言語力」と甲斐委員の「言語力」の意味が異なることを踏まえておいた方が良い。

委員
 まず母語の力があって,その次に外国語の力が来るというのは,大抵の子どもにおいてはその順次で良いが,バイリンガルな子どもなど違う場合もある。そして,言語に関するメタ認知能力は同時に育てることができる例が多い。従って,そこを理論的にはフィルターして考える必要がある。例えば純粋培養の日本語人がどのくらいいるかということやバイリンガルの子どもがいる事実も考えると,まず純粋培養の母語力を育ててからという発想も問題があるかと思う。

委員
 バイリンガルであっても何かが土台になっている。母語というのは,そういう意味である。

委員
 大事なのは,いわゆる「言語力」を踏まえて,いろいろな学び,学習というのは言語を駆使して進めなければならないということである。つまり,学習の土台には言葉の力があり,そこから出発して,どの教科でどういうことを考えていくべきかを議論することではないか。

委員
 先程の発言の中で,メタ言語意識は最初から育てることができるとあったが,自覚化,それから分析を伴うようなメタ言語意識は,形式的な操作段階に入り,抽象的な思考能力に入ってから,自覚的に学習させることができるのではないかという意味においては,それほど意識化されたものではない。
 例えば,1つの例として,1歳7カ月の赤ちゃんが「大きいワンワン,ワンワン言わへんわ」とおもしろそうに発話する。「ユーモアのセンスが,1歳7カ月の赤ちゃんですらもうわかっているのだ」という例もあり,そうしたものが土台になって自覚化された形で運用できると思う。
 従って,言語知識とメタ言語意識を区別して定義すべきであり,論理や分析力の土台になる言語力あるいは母語力というのは,恐らく無意識的なもので,それを意識化させていくところにメタ言語意識ということが出てくるのではないか。

委員
 ランゲージ・アーツを訳すに当たって,テクニックではなく,情緒が絡まった言語の使い方という意味では,「言語技術」ではなく「言語表現法」とするのは適切と考える。

委員
 本日の意見発表とも共通するが,各教科は,メタ言語意識をつけるための良い素材である。いろいろなあらわれ方をしているものを実際に操作するという意味で,各教科の連携ができるのではないか。

委員
 授業をコミュニケーション空間としてとらえ,その関係性の中において言語をどう使うかという指導法にかかわる話を中心に考える方が,現実的に学習指導要領をどう変えるかを考える場合には,スムーズではないかと考える。つまり,言語からではなくて,生徒同士という視点からものを見て,その中で教師はどういう役割を演じるのかという枠組みの中で,媒体としての言語という捉え方をした方が,教育改革に結びつくのではないかと思う。

委員
 先程の意見発表の中で,これから日本がいろいろな文化の人たちと対応していかなければならない状況において,留保条件をもとにした判断など,非常に重要な能力についての発言があったが,それが日本人アイデンティティ形成のために必要だという結論にいってしまうのは残念である。地球市民的な発想で今後の教育は考えるべきであり,いろいろなバックグラウンドの子どもを考慮して,「日本人」としてではなく,子どもが自分としてのアイデンティティを確立するという意味であれば良い。

委員
 過去2回の学習指導要領作成の議論で,日本人としての一つの文化的なアイデンティティを持ちながら,世界市民の一員としてやっていく,この両方が強調されている。その両方をどう調和させるかということについては,ヨーロッパ各国などでは,議論され,普遍的な問題になっている。

委員
 日本人のアイデンティティ形成をゴールとして考えることは,適当ではないと思う。また,「日本人」ということについて,どういう意味付けをするか考えておく必要があるのではないか。

委員
 学校の現場を見ていて,理科の先生は,国語で何が行われているかわからない,また,国語の先生は理科に興味がないなど,全部独立して全くリンクしていないということが現状ではないか。
 言語技術として,私がある中学校で教えていることは,例えばレポートの書き方であるとか,あるいは事実と意見を分けるとか,あるいは1枚の絵を分析してそこに描かれている情報を取り出すといった作業である。これらのことは,例えば理科や社会に応用できる。
 言葉がどういう役割をするかについて理科や社会の教師が,共通認識を持たなければ,理科は理科,社会は社会というふうになってしまって,いつまでもばらばらのままである。従って,まず国語を核にして,言語というものは一体何かについて全部の教科の教師がある程度の共通認識を持ち,各教科がそこから何ができるかを議論していくべきではないか。

委員
 小学校の国語,理科,社会等については,認知力に依存したアカデミックな言語力を中心に考えているのに対して,中学校の外国語としての英語教育は実践的コミュニケーションということで,日常的レベルでのベーシックなインターパーソナル・コミュニケーションに重点を置いた内容になっている。そこのところが,小学校での国語教育あるいは他教科の内容と,中学校で始める外国語教育にかなり違和感がある。
 つまり,ある年齢になり,学校でやる外国語教育が,それまで国語も含めて他教科で培ってきたさまざまな言語力をベースにしないでゼロから始めるスタンスをとるのは,問題があると思う。

委員
 仮に小学校の高学年で英語を必修化する場合,私は,歌とゲームと何とかという日常会話のようなものとは,一線を画すべきだと思う。
 小学校での外国語教育に期待しているのは,全科の担任である小学校の教師が,英語を扱うということで,社会科や理科で行ったことを生かした学習が,小学校の外国語教育の中に盛り込まれているというところである。
 外国語を初めて学んでいくとき,素材とする言語材料が入っていない段階で,認知力をどう生かして組み立てていくのかというのは大変難しい問題だが,全体的な学校のカリキュラムを考えた場合,外国語の時だけ幼い子供になったような形で学習が行われていることについては,全体として言語力を考える場合に,余り良い形ではないと思う。
 だから,外国語を何歳から始めるにしても,それまでの母語で形成されたものを土台にし,大事に考えてやっていくべきではないか。

発表者
 先程の発言では,実践的コミュニケーションという観点に立った外国語教育をしていると,母語の教育と外国語教育は連携して簡単に丸く納まるわけではないという話であったが,結局,共通の基盤があって,その上に外国語教育は形成されなければならないということであると理解している。

発表者
 小学校で英語教育を行う場合でも,言語力とつながるような形でやらないと,結局,単にお楽しみの時間で終わってしまうという危惧がある。

委員
 小学校の英語教育を何年生から始めるとしても,就学以前に母語で形成されている言語力をベースにして考える必要がある。実践的コミュニケーション能力を重視した外国語教育が主流になっており,それを全面的に否定するつもりはないが,実践的コミュニケーションを重視した英語教育では,ルールベーストではなくてイグザンプラーベーストというか,ここではこういう表現を使うはずだという決まり文句に基づいた活動が行われがちである。

委員
 私は,主として母語によって形成されたメタ言語意識は,外国語をプラスすることによって,さらに飛躍的に伸びると思う。従って,そういう形を生かすならば,イグザンプラーベーストではなくて,ある程度ルールベーストの部分を生かして行くべきであると思う。

事務局
 小学校における英語教育について,現在の中央教育審議会の中での取扱いとしては,外国語専門部会の報告書として取りまとめられ,多方面からご意見もいただいている状況であるが,そのことも踏まえ,教育課程部会や総会で最終的に決めることになる。そういう意味ではまだ途中の段階にあり,決定ではない。
 一方で,外国語専門部会での提案として,重きを持って受けとめ,議論を進めていくべきだろうと思う。

事務局
 この会議では,言語力を考えたときに,幾つかの側面がある。各教科,例えば社会科とか理科との関係でどうするのか,あるいは国語そのものはどうあるべきか,また,国語教育が重要だとしたら,小学校英語も視野に入れながら国語の在り方をどう考えるのか,国語と英語を対立的にとらえるのではなく,その関係をどう整理していけば良いのかということについて,議論する場として考えていただきたい。

委員
 読解力を鍛えても読書をする子は育たないように,各論を鍛えていれば言葉の力が育成されるわけではない。大津委員の発表資料2ページの7.の表について,この矢印の最終の「豊かな言語生活」のイメージによって,育てるべき言語知識とか言語技術というのは当然違ってくるし,最初からその部分を視野に入れて,そのことも同時的にやっていかないと,本当の意味での言語力というのは育っていかないと考える。

委員
 国語教育というのは言葉の教育を通じて,人を育てている。どんな言語生活者,あるいは国語人を育てていくかというビジョンがないと,各論から積み上げてきても国語の教育が狭いものになっていくのではないか。
 例えば,理科教育とか社会科教育でも,それぞれの教科でイメージされる言語生活の姿から,必要な言葉の力を逆算していかなければならないのではないか。
 また,教科の論理だけで議論しているようなところもあるのではないか。例えば,学校を離れて,1人の社会人として,言葉の力を使っていかなければならない。このような実社会での言語生活をイメージしなければ,専門家だけがわかるような言語教育論になるのではないか。
 キーワードとして,各論のキーワードは当然入っていって良いと思うが,ゴールとして目指すべき言語生活のキーワードも必要である。どういう言語生活者を育てたいか,それぞれの教科で使える言語の姿を入れつつ,分析的な力も視野に入れなければ,現場では偏った技能論だけの指導になってしまう。ゴールとする言語生活のイメージと各技能とを同時的に考え,豊かな言語生活のイメージについても具体的に学習指導要領の中に入れていくべきである。

発表者
 2ページの7.の図の矢印の方向については,最終的に目指している豊かな言語生活を子どもたちが実践するためには,どういうふうにその基盤を形成していけばよいかという矢印である。その際,最後に目指すべきものがあり,それはどういう要素によって形成されているか,それぞれの要素をどうやって形成したらよいかという考慮は必要になってくる。

委員
 ゴールとすべき言語生活のイメージが大切である。どういう言語生活をイメージするかによって変わってくると思う。

発表者
 先程,発言した普遍性と多様性,個別性の「個別性」がそうだと思う。心の中には議論があるが,それをいかに表出するかといったときに,全部表出して,それが高く評価される文化と,そうではなくて,そこは抑えていくことが評価される文化とあるわけで,そこは文化によって個別性がある。そこも押さえておくことは言語力養成において重要な観点だと思う。

委員
 2ページ7.の矢印については,どれが最初になければならないということは必ずしもない。論理としてこういう筋道が考えられるということであって,最初に,ボキャブラリーからいくという話もあり得るだろうし,逆に,最初に基本的な言語生活というか,体験的なものからいくということもあるだろうし,これは双方向だろうと思う。

委員
 言語知識というのは,宣言的や手続的,エピソード記憶や意味記憶などいろいろな側面から考えることができる。それらをすべて含んで「知識」と言っているのであり,これを単に語彙の話ととらえてはならないと考える。子どもの知識構築はまず体験から始まるが,外国語教育をする際,そこが強調されて,幼児が育つように外国語ももう一回やり直すということがある。その点について,問題があるのではないか。

委員
 学習指導要領の各教科での改善について,現場から見て興味という言葉,説明という言葉,各教科の言語の3つのことがキーワードとしてあるのではないかと思う。特に,説明については,ミクロなことを積み上げていくと,そのことが非常に欠けている。その際には,全体像を持っていないということが教師や子どもの中にある。
 例えば,低学年からプレゼンテーションがある。低学年は低学年なりの言葉でプレゼンテーションのときに説明はする。ただし,意識化されていない。全体の中でどのようなことがあって,その中で,自分はここについて語っている,説明しているという意識が図れていない。

委員
 小学校は全教科を1人の教師が行っているのだが,それぞれの教科書で行ったり,そもそも,学習指導要領において各教科等が連携していない,ここは国語科が全教科に向けて,国語力として発信していかなければならない部分だろうと思う。
 逆のベクトルとして考えるのは,理科であったり,社会であったり,語彙の問題である。これについては,その教科で意味を体験を交えてしっかりと定着させてほしい。
 英語科についても,例えば構文などでは,やはり国語科にはないものを持っているので子どもに刺激を与える。算数でも,グラフや式という算数的な言語を国語の中に入れる。それは逆のベクトルでの国語力であると思う。

委員
 興味に関わり,子どもたちに内的必然性のある形で,知識体験そのものも獲得させてやることが大切である。今までの実践もそうであるが,押しつけ,あるいは子どもたちが,なぜこの学習を始めているのか十分に納得できないままに学習しているという実態があるので,学習指導要領の中で,強調していただきたい。

発表者
 いわゆる論理実証主義の考え方で言語を分析していくと,小学校で使っている言語は観察言語である。ところが,中学校では,理論言語である。例えば典型的な違いの例では,小学校では重さという言語を使い,中学校では,質量という言語に変わってくるところである。小学校の間においてはきちっとした言語の体系をとらえた上で言語の規定をしないと,余りにも早く中学校の言語を小学校に落としたら良いという形でいくと,結局,小学校の子どもたちに言語で負担をかけてしまうことになることも少し考えておかなければならないのではないか。

(3)最後に事務局から次回の日程について説明があり閉会となった。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課教育課程企画室

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)