人権教育の指導方法等に関する調査研究会議(第7回) 議事要旨

1.日時

平成15年12月18日(木曜日) 15時~17時30分

2.場所

虎ノ門パストラル 本館6階 「雅」

3.議題

  1. 幼児教育における取組について
  2. 学校教育と子どもの権利をめぐって
  3. その他

4.出席者

委員

 福田座長、押谷座長代理、有村委員、伊藤委員、梅野委員、岡田委員、神山委員、塩委員、菅原委員、高橋委員、仁科委員、林委員、村山臨時委員、森田臨時委員

文部科学省

 金森審議官、関児童生徒課長、宮川保之視学官、亀田児童生徒課課長補佐、高田人権擁護調査官補佐(法務省) 他

5.議事要旨

(1)幼児教育における取組について

村山臨時委員の意見発表

 村山臨時から説明の後、質疑応答を行った。主な内容は以下の通り。

 私立幼稚園と公立幼稚園との連携を課題として上げられていたが、自分の市では、公立幼稚園がないため、市内の小学校と私立幼稚園との連携が必要になっている。平成13年から、市内のある小学校においては、関係のある幼稚園と保育園の先生に集まってもらうなどの取組を始めている。公立・私立のそれぞれの教育方針に関わらずに取り組んでおり、市としてもこのような取組を広げていきたいと考えている。教育センターでの幼稚園・保育園の先生による講座以外に、幼・小連携のための具体策はあるのか。

 「食」の観点から、小学校の栄養士を幼稚園に呼ぶことや、絵本の読み聞かせについての協力などの連携が図れるのではないかと考えている。

 幼児教育を道徳性、人権教育の視点から考えると、「基本的生活習慣」や「生命を尊重する心」はその核となるものであり、「善悪の判断」「ルールを守る態度」「思いやりの心」に関わる取組が中心になるものとして重点を置いているのではないかと理解しているが、どのように考えるか。また、どのように幼児の様子を見取り、実態を捉えているのか。

 どの部分を中心にするということではなく、例えば、4歳児の1学期には「基本的な生活習慣」に重点を置く、運動会や子ども会など幼児がお互いに協力する行事がある時期にはそのような点にスポットを当てる、というような形で順次取り組んでいる。
 子どもの見取りは難しいが、発達の過程を考える際には、1年間分の日案から、基本的生活習慣に関わること等を抜き出し、4歳児・5歳児に分類したものを基に、幼児教育要領との整合性や、小学校学習指導要領との相関関係を意識しながら考えた。何らかのモデルを当てはめたものではないが、このような作業を通して、先生の子どもたちを見る視点が変わってきたということである。

 幼児の気持ちを受け取る教師の能力が大事であると考える。

 人権は生得的なものであり、一方で、道徳性は芽生えという考え方からも分かるように、ある一定年齢で培われていくものであると言える。幼稚園段階において、道徳性の芽生えなどを培う際に、人権という考え方は極めて有効な基盤となると考えるが、人権と道徳性の関係についてどのように考えて研究を進めたのか。

 道徳性の芽生えを課題として研究を進めたところであり、人権尊重の精神の芽生えもほぼ重なるのではないかという仮定の下で説明した。

森田臨時委員の意見発表

 森田臨時委員から説明の後、質疑応答を行った。主な内容は以下の通り。

 権利、人権と日本的な義理人情とは、相容れないものなのか。

 権利とは、人間関係がないところで、相手と戦うための武器となるものであるが、一方で権利の行使は最小限にとどめる必要があると考える。育てるという観点からは、義理人情といった日本的構造の方が有効ではないかと考える。

 西欧近代の流れを日本の問題にそのまま結びつけることはできないのではないか。また、親の権威を否定することなく、また、権利を単なる戦うためのものではなく、一人一人の人間としての成長を可能にするという考え方を展開している人もいるが、どのように考えるか。権利とは確かに複雑な問題をはらんでいるが、関係性にも内包されている問題があるのではないか。

 日本が、近代ヨーロッパと同じ道を選ぶ必要はないのではないかと考える。児童虐待などに関しては、明らかに病理化している部分については、国家権力が関与する必要がある。権利について考えなくてよいということではなく、行使する必要があるときはあるものと考える。権利条約に関しては、作成の際の議事録等を見る限りでは、親の権威(Parental Authority)が古いものとして扱われているような感もあるが、親子関係を経験しないと先生と生徒の関係も成り立ちにくく、親と子どもの関係を重視する必要があるのではないかと考える。

自由討議

 事務局から説明の後、自由討議を行った。主な内容は以下の通り。

 現代社会においては、権利の侵害から自らを守るという観点から、法的な側面についての教育は必要ないか、また、十分になされていると考えるか。

 生活の大部分を構成するのは思いやり、優しさといった感覚であり、自分と相手との間に人間的な交流が起こらないと人間的成長にならないのではないかと考える。権利に関する教育も行う必要はあるだろうが、アメリカは訴訟社会と言われる。教育が訴訟を起こすような方向で行われるのは望ましいことではないと考える。

 人が思いやりを持って人間関係を考えるとき、その人が持っている根本的な価値の中に、人間の根源的な権利としての人権があると考えることはできないのか。法的に守られる人権の他に、人間関係の中で守られていく価値が、人間に対する価値の全体を覆っていると受け止めているが、どのように考えるか。また、大人の権利と子どもの権利に違いがあるのか。

 権利とは武器となるものであり、何かを達成するためのものであると考える。根源的な価値としては、美しさ、正直、人間が喜ぶこと、などが上げられるが、権利、人権ということのみではカバーできないのではないか。

 人がなぜ殺されてはいけないのかと言えば、それは人の価値、尊厳があるからであり、当然のことである。人の価値、尊厳を認めるとすれば、例えば、安全に生きる、といった人としての当たり前の要求を、正当な権利として捉えることができるのではないか。

 人権擁護推進審議会答申、人権教育・啓発推進法や基本計画といった人権教育に係る動向を踏まえて、本調査研究会議の審議があるという認識である。学校教育現場で人権教育に関わる立場としては、学校における指導の在り方に特に関心がある。とりまとめに当たっては、理念の部分を整理すると同時に、人権教育の指導の在り方に関する大綱的なものとして、現場の実践を促進するものにできるよう意識していただきたい。その際に、人権教育研究指定校や人権教育総合推進地域における近年の取組を集約することなども考えられるのではないか。

 権利とは、契約社会における権利という意味合いが強いと思う。

 一般的に人権教育という場合には、人権とは人間の尊厳といったものとほとんど同義である場合が多いのではないかと思う。

 権利の根源を探ると、宗教的、自然法的な捉え方など、様々な考え、解釈がある。権利の捉え方は多様であるが、国連やユネスコの下、なぜ人権が共通のものになっているのかといえば、やはり人権に人類として共有できる共通項がある、ということではないかと考える。

 次回は事務局において論点を整理してもらい、検討を進めていきたい。

 事務局より次回日程について説明の後、閉会。

以上

お問合せ先

初等中等教育局児童生徒課