児童にとって暗記・暗唱など体験的な活動を通した基礎・基本的な知識・技能の理解、習得は重要である。現職教員や保護者向けのアンケートの自由意見にも暗唱教材の充実、追加についての意見が出ている。また暗記・暗唱などの活動は、児童の学習成果を目に見えるものとすることで意欲も喚起する。詩や古典などの暗唱などを通して言葉の美しさやリズムを体感させ、基礎・基本の充実を図っていくことが重要である。
朗読を主目標とする教材を「朗読教材」とよび、朗読を前提とし、それにとどまることなく、さらにそれを暗唱にまで持っていくことを目標とするものを「暗唱教材」とよぶ。
朗読教材として設定されたものも、教員によって、また児童によって、暗唱を目的として学習されるなら暗唱教材となる。言い換えると、暗唱を目的とする学習も、それは朗読を基礎として成立する。したがって、暗唱教材は、まず、朗読教材でなければならない。しかし、ここで強いて「朗読教材の拡充」とせず、「暗唱教材の拡充」としたのは、朗読の段階にとどまることなく、それを暗唱することで、さらに徹底して言語の音声的側面の感受力を高め、日本語の特質に関する言語感覚を育てることのできるような作品を教材として開発し、設定することが望まれているからである。
改めて言うまでもないが、言語は意味と音声とによって成り立っている。つまり、音声(それを知覚可能な記号とした文字)を媒介として意味を伝達するのである。
言語教育は、音声(あるいは文字)の意味するものを理解する能力、およびそれを使って思想内容を表現する能力を養うことを目的とするものである。したがって、これまでの国語教育においては、記号としての言語の意味するものを理解する方法や、言語による表現の方法の習得に重点が置かれてきた。それは決してまちがいではないのだが、意味を媒介する記号面の重要性についても見過ごしてはならない。たとえば、これまで読むことの学習として行われたのは、ことばの解釈や文章構造の分析であった。しかし、ことばは、音声面の表徴として、リズムやひびきを伴って人の感性に訴え、言語感覚を触発して一定の印象を与えるものである。朗読や暗唱は、言語の意味の知的分析がややもすると理屈にはしりがちな読みから読者を解放し、言語記号の音声的側面に触れさせるものである。特に今日の情報化社会において、言語教育は実利実用のコミュニケーション能力の育成を第一義とするものだが(それが重要なことは言うまでもないが)、音声化することで初めて知覚される言語の音声的側面の受容も軽く見てはならない。言語は、音声的な印象をもって知覚・受容されるものなのである。
朗読・暗唱は言語教育としてどのような意味があるか、次に整理しておこう。
朗読を主目標とし、教師によって暗唱にまで展開してもよいような教材は、これまでも数多く取り上げられてきた。しかし、必ず暗唱しなければならないということになると、それほど多くの前例はない。特に、これまでの国語科で、暗唱は、朗読・鑑賞の発展として位置づけられており、それ自体を目的とした教材の設定は、特に教科書の上ではほとんどなされてこなかった。これから、教科書教材として、改めて暗唱教材の発掘・設定をはかろうとするならば、まず、朗読学習と暗唱学習との関わりを明確にした上で、どのような作品を、暗唱自体を目的とした教材とするかを考えなければならないだろう。
これまで、教科書の上ではあまりなかったが、教科書以外のところでは、暗唱を目的とする学習もかなり広く行われてきている。
上記のような実態をふまえた上で、今後、改めて教科書教材としての暗唱教材の意義と位置とを明確にし、その拡充を図ることがのぞましい。特に教科書教材とするからには、次のような視点から、適切な教材を発掘し、選定する必要があるのではないだろうか。
近代の詩、短歌、俳句、古文、漢詩
「語り」の教材として-落語のほか、小話、昔話など
なお、朗読・暗唱を目的にする場合、児童の発達段階に応じて、意味的にも受容可能なものであることが望ましいことは言うまでもない。
齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』が広く教育現場でも読まれて、教室での朗読活動を刺激している。教育現場は、朗読・暗唱を求めているのである。教科書に載せる教材数には限度もあろうが、教師や児童・生徒が現場の実態に応じて自ら教材を発掘する視点を教科書上に示してやるような工夫がほしい。
(田近 洵一)
-- 登録:平成21年以前 --