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ゲノム科学に関する研究開発についての
長期的な考え方

平成10年6月29日

科学技術会議
ライフサイエンス部会
ゲノム科学委員会


目 次

1.ゲノム科学

2.ゲノム科学の意義

(1)ヒト(モデル動物を含む)を対象としたゲノム科学研究

(2)ヒト以外の生物のゲノム科学研究

3.ゲノム科学を遂行する戦略について

(1)研究開発推進の基本的考え方

1)体系的・組織的な研究実施を必要とする基盤的な研究の推進
2)個別的研究の推進
3)関係省庁及び関係機関間の連携・協力の推進
4)プライベートセクターへの支援
5)不断の見直し

(2)戦略的に取り組むべき重要研究開発課題

1)ゲノム情報科学の樹立
2)ゲノム構造解析
3)ゲノム機能解析
4)技術開発

(3)研究開発の戦略的推進方策

1)情報基盤の整備
2)人材育成
3)ゲノム科学の進展による新産業の創出とその展開の支援
4)研究の評価

(4)ゲノム科学研究と人間・社会・自然との調和

1)研究開発情報の公開と国民理解の確保
2)生命倫理
3)安全確保

我が国として取り組むべき重要研究開発タイムテーブル

科学技術会議ライフサイエンス部会ゲノム科学委員会委員


1.ゲノム科学

ゲノム科学は、研究が始まったばかりであり、その全貌はまだ姿を現しておらず、従来の生物諸科学にはない、新しい枠組みを持つ科学領域の形成の途上にある。そこで、これまでの発展過程を検討し、今後を推論し、やがて見えてくるであろうゲノム科学の全貌を見通して、将来あるべき姿から、現在何をなすべきかを検討することが重要であると考えられる。

ヒトゲノム解析プログラムは、約10年前に始まった。ヒトゲノムの全塩基配列を決める作業は、アポロ計画と同様、新素材、コンピュータソフトなど様々な領域の技術開発を促し、米国を中心に、当初の予想をはるかに上回る速度で進展した。2003年には、全配列が明らかにされるだろうとの楽観的な予測もある。その間、国際協調と分担とによる日本の役割も大きくなってきた。しかし、ヒトゲノム解析プログラムの目的は、ヒトゲノムの全塩基配列の決定にだけあるのではない。全塩基配列の決定は、ゲノム科学研究の出発点でしかない。
ゲノム科学の特徴は、有限ではあるけれどもゲノムの持つ莫大な情報量にある。塩基配列の数からだけみれば、今後の技術開発によっては配列情報を短時間に得ることは十分可能とも思えるが、複数の遺伝子によって説明される生物機能を考えれば、すべての生物機能を説明するための遺伝子の組合せの数は、途方もない大きさになる。個々の生物機能を塩基配列に還元し、計算機によってそれらの情報を整理し、原理を見い出し、さらにそれらの原理を構成して生物機能を予測し、予測を実証する一連の研究をゲノム科学とすれば、現状はまだ研究が端緒についたばかりと言える。さらに、地球上の生物は、進化によってその多様性を獲得し、その結果、膨大な生物種が存在する。これらの多様な生物が持つゲノムの潜在的能力の研究も不可欠であり、ゲノム科学の拡がりはなお一層大きなものになると考えられる。
そのわずかに見え始めた現在のゲノム科学でさえ、従来の生物系の諸科学とは、根本的に異なる性質を持つものであることが明らかとなりつつある。ゲノムは生命の設計図であると言われている。生体の機能と遺伝子との対応が明らかになればなるほど、精密な設計図の片鱗が見えてきた。しかし、ゲノム科学の進歩によって、分子進化の法則や、環境への適応の法則や、遺伝子の利己的増殖等を始め、設計図の概念だけでは予測すら難しい、設計図に期待される以上の情報を持つことが明らかになってきた。
ゲノム科学の視点が出る前には、遺伝暗号、プロモーター領域の構造、エンハンサー等による転写調節、DNAの特殊な三次構造、複製、組換え、修復等についての塩基配列に存在すると推定される原理的法則を求めて、個別の研究が行われてきた。そして、今もこれらの個別研究は、重要性を失ってはいない。しかし、もし、全塩基配列が解明されれば、これまでこのように帰納的に明らかにされてきた塩基配列の持つ生体機能も、ゲノムの配列情報から演繹的に計算され、確かな予測が可能になるであろうと考えられる。当然のことながら、遺伝子の総数が分かり、その構造が明らかにされ、その発現様式との対応が解析され、また、遺伝子産物の持つ立体構造も、比較的少数の基本構造から計算されるに違いない。さらに、ヒトを始めとする多様な生物のゲノムの全塩基配列が決定すれば、そこに存在する遺伝子の情報はもとより、遺伝子や遺伝子産物の相互間に働く情報についても明らかになることが予想される。また、異なる生物種間での比較から、進化の法則が明らかにされる可能性がある。
全塩基配列の決定によってもたらされるゲノム塩基配列情報の観点から見たゲノム科学は、個別の機能を積み上げて、生物現象を帰納的に説明しようとする現在の生物諸科学とは異なる、これまでに例をみない科学である。換言すれば、ゲノム塩基配列情報から見たゲノム科学は、ゲノムの情報から、要素自身及び要素間に働く基本原理を発見し、原理に基づいて演繹的に生物現象を予測することを目的とした新しい科学としての側面を持つ。

一方、複雑かつ多岐にわたるとはいえ、生体の機能を構成する素過程だけをみれば、単純なことが、繰り返し、確実に起きているのだから、素過程を遺伝子に還元し、それを積み上げていく従来の帰納的方法からも、今後、確実な知識が期待できる。個々の生体の表現型や反応に関与する生体分子を特定し、個別の遺伝子に還元しなければ、細胞、組織、個体、生態、さらに社会を通して、各階層における塩基配列の持つ機能は、全塩基配列が決定してもなお依然として不明なのである。
既に全塩基配列が決定した微生物や酵母等のゲノムの解析から、遺伝子の総体が明らかとなったが、機能まで予測できるものは、現時点では50%に満たないことも事実である。今後、先に述べた原理発見的ゲノム情報科学の方法が確立されるであろうが、その創造の過程においても個別の遺伝子、若しくは塩基配列の持つ機能があらかじめ明らかにされていることが重要であることに変わりはない。
個別の生物機能を遺伝子や塩基配列に還元し、それらを積み上げて生物機能を構成する研究は、生物諸科学の帰納的方法の駆使によって得られる知識を基盤としており、これらもまたゲノム科学の一部とみなすことができる。すなわち、ゲノム科学が、科学としての体裁を整えるまでには、全塩基配列の決定だけでなく、個別の遺伝子や塩基配列が持つ機能についての研究がなされなければならないのである。また、塩基配列の持つ情報から、計算原理によって生物機能が予測されたとしても、必ず実験的な検証を必要とすることから、ゲノム科学は、先に述べた演繹的情報科学であるとともに、帰納的実証的科学でもあると言える。

この科学の潮流は、単に自然の見方を拡大するだけではない。ヒトとは何かを知るための、これまでにない新しい科学の領域とも考えられる。DNA指紋に代表される個体識別やそれに伴う個人を対象とした病気の予防、診断及び治療法は、個体のゲノム塩基配列情報の唯一性から発生する先端科学情報を基礎としたものである。このことは、個人の唯一性と非決定性という人間の尊厳にかかわる倫理観にも影響を与えるであろうし、ゲノム塩基配列情報の所有権や管理を巡って、また、その科学的有用性の行使においても、社会規範に深刻な問題提起がなされる可能性がある。このように、歴史上始まって以来とも言えるヒトに関する膨大な情報の解明から、ゲノム科学は、従来の社会通念の見直しと再構築とを促す可能性さえ持っていると言えるであろう。

以上述べたように、ゲノム科学には、全塩基配列決定を始めとするゲノム構造解析の側面と、個別の生物機能を遺伝子に還元し、それらをゲノム科学に統合しようとするゲノム機能解析の側面と、さらに構造解析と機能解析との情報からゲノムに存在する原理を発見し、演繹的に機能を予測するゲノム情報科学の側面とがある。また、膨大なゲノム情報、特にヒトゲノムの情報を早く正確に知り得るようになることからくる社会通念の変革に関する人文社会科学的な側面とを持つ多面的な科学である。
このようにゲノム科学は、生物系諸科学から誕生するものではあるが、その一部ではない。地球上の生物が持つゲノム塩基配列情報を、要素に還元し、要素間に働く関係の原理を明らかにし、それらを実体に即して、生命や生体、あるいはヒト及び生物界を構成する法則を発見していく、全く新しい科学であると考えられる。

ゲノム科学の成果は、ゲノムの構造や遺伝子の機能、それらを関係付ける計算原理の解明を通して、生物の生理的機能、形態形成、個体や群落、生態系、さらには、生物圏の全容の理解にもつながるものである。また、その応用は、少子高齢化社会を迎える我が国の医療問題への対応や地球的規模での対応が求められている食料問題や環境問題の解決にも新たな視点を与えるものと考えられる。さらには、将来の経済改革に資する新産業の基盤形成等を通じて、人間と人間社会を取り巻く自然とが調和的に共存し、人類の生存基盤を拡充し、活力ある豊かな社会を築くことを可能にするという意味で、非常に大きな意義を持つものである。

2.ゲノム科学の意義

ヒトゲノム解析プログラムは、多くの人から、ヒトゲノムの全塩基配列の決定が目的であるかのごとき誤解を受けてきた。全塩基配列の決定は、データを得る段階にすぎず、しかも、地球上のヒト以外の生物の全塩基配列情報も欠かせないものである。したがって、ヒトに関して言えば、個人に至るまで、ヒト以外に関しては、全生物種のゲノムの全塩基配列に至るまでが、いずれは対象となるであろう。
しかし、ヒト自身のゲノムの持つ、極めて大きな多様性は、現在の研究段階においては、他の生物とは格段に差のある研究対象である。この多様性を利用して、それを説明できるゲノム情報科学の樹立が、新しい科学として試されるに至っている。
例えば、病原に対する感受性や体質に関する遺伝子の多様性がある。人種や集団、さらに個人に至る階層別の解析が可能であるし、対象の表現型の豊かさに加えて、ヒト以外の動物と異なり、言語を通して莫大な生体機能情報が得られることから、多様な情報をきめ細かく集めることができる。また、様々な記録が残っていることによって、時代を越えて情報が得られるなど、ヒトは、別格の研究対象なのである。
有用性の観点からみても、がんを含む生活習慣病等の克服をはじめ、高齢化社会を迎える我が国の医療問題の解決には、ヒトゲノムを徹底して解析することが必要であることは明らかである。したがって、ヒト(モデル動物を含む)とヒト以外とに分けて推進し、互いに情報を交換しながら推進することが最も効率の良い研究戦略であると判断される。
一方、ヒト以外の生物についても、ゲノム科学の基礎を築くために必要な研究用生物としての重要な役割がある。ヒト以外の生物では、実験的な検証が可能であり、ゲノム情報から予測される機能の解析には不可欠の材料となる。また、ゲノム情報の多様性の研究は、進化の研究にとどまらず、特殊な環境で発現する遺伝子の機能の研究等にも重要である。
さらに、ゲノム塩基配列情報には、上述のように医療問題の解決に有効であるばかりでなく、顕在的、潜在的に大きな有用性がある。食料の持続的生産や環境保全についても、画期的新品種の開発や環境修復機能を有する生物の開発等、育種やゲノム操作を通して実現されるものであることを考えれば、ゲノム塩基配列情報は最も重要なものの一つである。このように深刻化する地球規模の問題の解決には、有用な動物、植物及び微生物のゲノムの情報を徹底して解析することが不可欠である。また、これらのゲノム塩基配列情報は、直接、間接に新産業の創出と発展にも資するに違いない。以上のように、現在の人類と地球とが抱える問題の解決に、ヒト以外の生物ゲノムの解析が有用であることは明らかである。

(1)ヒト(モデル動物を含む)を対象としたゲノム科学研究

科学技術創造立国を掲げる我が国は、ヒトゲノム解析を、国家的戦略研究と位置付けてきた。その理由は、ヒトゲノムの情報が、今後の生物諸科学だけでなく、ヒトが関係するすべての科学の基本情報となること、ヒトゲノム情報の量が巨大であること、その有用性が極めて大きいことなどからである。また、欧米の諸国が、国策として、大規模塩基配列解析プロジェクトを推進していることとも深い関係がある。
ヒトゲノム解析においては、国際協調を進めることにより、目標の達成を著しく早めることができるし、情報を共有することによって今後の研究に共通の国際的基盤ができる大きな長所がある。しかし、実際の解析においては、限りある情報をいかに早く、正確に得ることができるかによってその価値が決まることから、我が国も強い競争力を持つ必要がある。特に最近、一部のベンチャー企業によるヒトゲノム塩基配列情報の独占が懸念される等、国際協調とは異なる動きもある。このような国際競争の激化に対しては、ゲノム科学の理念から全体を見据えた冷静な対応が望まれる。すなわち、各国との連携を深めながら、ますます、我が国独自の推進策を検討し、世界に先んずる研究及び技術開発を推進することによって、競争力を実質的に強化し、適切に対応すべきである。
以上のような情勢から、科学技術研究の国家的戦略として、ゲノム科学に関する知的所有権の確保がますます重要になってきた。病気の遺伝子やそれと関連したヒトの遺伝子多型、ヒトの完全長cDNA等の探索、収集及び解析、さらにそれらの解析のための技術開発等を、欧米ではプライベートセクターが将来の医療を視野に入れて、特許を始めとする様々な知的所有権獲得の戦略を駆使しながら行っており、我が国の国益の観点から見過ごすことができない。知的所有権獲得の競争は、体系的研究、個別的研究のいずれにおいても先取権を得ることが大きな目標となり、研究推進にも役立つものとなっている。
このような研究の人材は、現時点では、必ずしもゲノム科学研究を意識している者ばかりではない。しかし、個別のヒトの病気の遺伝子の探索等の研究により、遺伝子と生体機能との関係が明らかになれば、それらの研究成果はゲノム科学の一部を構成することは明らかである。このように、ゲノム科学に直接参加しているという意識のない研究者や研究支援者をゲノム科学研究に参入させることは、人材の養成と確保という観点からみて極めて重要である。
さらに、ヒトのモデルとなる動物をヒトに関するゲノム科学研究戦略に含める必要がある。ゲノムの操作や実験が、ヒトに対しては許されないことから、ヒトに替わる実験対象が必要となる。ゲノム科学における普遍性の高い法則をヒトのモデルとなる動物を対象に実験を通して検証する必要があるからである。

(2)ヒト以外の生物のゲノム科学研究

大規模塩基配列の決定は、微生物の全塩基配列の決定によって、微生物学に新たな局面が開かれたことを見ても、将来、あらゆる生物種に必要となることが予想される。それは、当該生物の生体における多様な遺伝子機能の法則や環境適応の法則等の研究分野に新しい発見をもたらすばかりでなく、多くの微生物や動植物の全塩基配列の決定によって進化の法則の発見にもつながると考えられるからである。また、原理発見的な視点からのゲノム情報科学の創造にも不可欠である。現在、我が国の研究者による、ゲノム科学に対する貢献度の大きな生物種は、イネ、シロイヌナズナ、線虫、藍藻、枯草菌、好熱菌など十数種類におよび、決して少なくない。既に成果を挙げつつあるこれら生物種については、なお一層ゲノム解析を推進しなければならない。

一方、有用性については、イネ、家畜、微生物等、すべての生物のもつゲノム情報には、保健医療への応用、食料の確保、環境問題の解決、新産業の創出等の面で、大きな潜在的利用価値がある。既に欧米諸国では、自国の食料の保全や環境保護を視野に入れたゲノム科学の推進が国策として取り上げられている。我が国においては、イネゲノム解析の推進によって、欧米諸国をリードするに至ったが、今後は、機能解析における競争の激化も予想され、さらなる独自の研究戦略を推進すべきである。また、イネと同様に、ブタ、ウシ等の家畜や主要農作物についても、ゲノム科学研究の推進がなされなければならない。さらに、ゲノムの改変による有用微生物の開発は、新産業の種として各国が注目しているところである。我が国は、微生物産業の伝統があり、この伝統の上に、ゲノム科学の知識を導入することは、我が国独自の新規産業の創出につながるものと期待される。
ヒトと同様、経済効果の大きい生物ゲノムの研究が、欧米のプライベートセクターを中心に多面的に活発に行われており、我が国の国益の観点からも重点を絞って推進すべきである。ヒト以外の生物のゲノム機能の研究においても、個別の有用性が明らかになれば、それらの研究成果がゲノム科学の一部と考えられること、また、人材の確保、育成の観点からも、それらの研究を、ゲノム科学として位置付けることが必要である。したがって、全塩基配列の決定及びゲノム情報科学の創造と並行して、それぞれの有用性を追求する個別の研究課題を推進していくことは、将来のゲノム科学を豊かにするに違いない。

3.ゲノム科学を遂行する戦略について

(1)研究開発推進の基本的考え方

ゲノム科学は、その全容が巨大なものと予測されるため、その本質を見据えた上で、ゲノムの構造、機能及び情報の総合的解明のため、我が国の研究の現状を踏まえた、独自の研究開発戦略を建てなければならない。
これまで、我が国のゲノムの構造、機能及び情報に関する研究開発への取組みは、そのほとんどが個別小規模に分散して行われてきた。それぞれを取れば、先導的開発的意義の高い研究成果もあるが、組織的な研究体制の構築には結びつかなかった。なかでも、体系的かつ組織的な対応が必要とされる大規模塩基配列の決定及びその解析、cDNAの体系的収集、タンパク質の基本構造の体系的解析、遺伝子変異動植物の体系的な開発等が不十分であった。すなわち、これまでは、我が国の持てる総力を結集した総合的かつ計画的な研究開発の推進がなされてこなかったと言える。このため、我が国のゲノム科学研究は、個別の研究としては、欧米とほぼ同時に開始されたにもかかわらず、総合的には、欧米に比べ遅れてしまったのが現状である。

1)体系的・組織的な研究実施を必要とする基盤的な研究の推進
総合的に見て、欧米に比べ遅れている我が国のゲノム科学研究を推進するためには、今後、ゲノム科学全体に共通する基盤的な研究を推進することが重要となる。基盤的な研究については、研究分野や研究目的を勘案しつつ、体系的かつ組織的な研究実施形態を必要とするゲノム科学研究の特色を反映した中核的な拠点(センター)を構築しなければならない。
ゲノム科学は、塩基配列が持つ様々なゲノム機能原理の発見とその社会への応用とを目的としている。したがって、まずゲノムの全塩基配列の決定が重要となる。この研究は、極めて大量の情報の生産であることから、1グループが一人の研究者と2〜3名の若手研究者と研究支援者とからなる現在の大学や国研の通常の研究体制では、研究を効率的に進めることができない現状にある。大規模であるが故のゲノム塩基配列の決定の困難さを克服するためには、独創性や創造性と並んで、効率よく、早く、正確かつ大量の情報を得るための、あらゆる工夫が必要である。したがって、生物学及び情報科学に通暁した研究者に対して、多数の若手の研究者と、さらに多くの研究支援者を投入し、新しい機器や新技術を開発し、それを素早く取り入れ、強い国際競争力を持つべきである。
ただし、基盤的な研究のうち、拠点化が必要なほど大規模な取組みを必要としないものについては、課題ごとに、産官学及び関係省庁間の連携と協力とを図りつつ、柔軟に推進することも適切と考えられる。

2)個別的研究の推進
特定の生物、特定の疾患、特定の生体機能等に係る独自のアプローチからゲノム解析を行う個別の研究については、全国に存在する研究者の優れた個性的な発想を的確にとらえ支援・育成するとともに、必要な場合には、当該個別研究分野においても、我が国の中心的役割を担う研究機関を発展させていくことが必要である。同時に、個別研究の成果については、それぞれを有機的に結合し、やがて必要に応じて統合していく方策を立てるべきである。
さらに、個別的研究と中核的な拠点(センター)とが、情報においても、人材の教育や交流においても、研究室や機器機材の整備や利用においても、質の高い研究協力ができる体制を整備する必要がある。

3)関係省庁及び関係機関間の連携・協力の推進
我が国の国益を見据えて、全日本的にゲノム科学研究を統一的に推進していくために、なお一層の関係省庁間、関係機関間の協調が実現されなければならない。省庁の特色を生かした競争的推進という考え方もあるが、それ以上に、総合的な視野から全日本的な取組が不可欠だからである。

4)プライベートセクターへの支援
医療、食糧、環境等の諸問題の解決に資し、新産業の創出にも資することが期待される極めて有用なゲノム情報は、その有限性、普遍性からみて先取権争いが諸外国との競争になることは必至であり、我が国の研究者も、既にその渦中にある。これらの先取権の取得については、直接国が関与するには限界があり、プライベートセクターをも視野に入れた研究推進戦略を考えなければならない。
既に述べたように、ヒトゲノム解析プログラムは、国際協調に裏うちされ、また各国が国策的に推進している大プロジェクトである。しかし、その実施に当たっては、プログラムの遂行によって次第に明らかとなってきた遺伝子機能の重要性に欧米ではいちはやく対応し、プライベートセクターでの取組を充実させる戦略をとっている。この点からみれば、日本の取組みは遅れていると言わざるを得ない。また、ヒト以外では、イネゲノム研究についても、欧米のプライベートセクターは、イネ科穀類の重要遺伝子の特許化が重要であると認識して研究投資を行っている。これに対し、我が国のプライベートセクターの取組みは遅れており、イネゲノム解析における我が国の優位性を十分に活用しているとは言えない。
大きな資金を必要とする基礎研究の中でも、ゲノム科学に関する研究は、その情報の膨大さからみて、我が国のプライベートセクターが取り組むにはリスクが大きすぎる点がある。しかし、将来の研究成果の産業化を視野に入れたプライベートセクターの研究開発に対して、国の支援が望まれる。

5)不断の見直し
ゲノム科学は、既に繰り返し述べたとおり、発展途上にある。したがって、研究の推移を不断に検討し、基本的な考え方から、具体的な研究課題に至るまで、常に見直すことが必要である。

(2)戦略的に取り組むべき重要研究開発課題

ゲノム科学について、我が国のこれまでの研究の特色と研究課題の重要性とを勘案し、我が国として戦略的に取り組むべき重要研究開発課題を以下のとおりとした。

1)ゲノム情報科学の樹立
ゲノム情報科学は、コンピュータ科学と生物諸科学との双方から得られる専門的知識を基盤としている。また、機能予測に至るゲノムの塩基配列に存在する計算原理を明らかにすることを目的とした新しい科学の領域である。したがって、どのようなデータを、どのように集め、何を目的としたデータベースを作るかに始まり、既知の機能とそのゲノム情報とから生物におけるゲノムに存在する計算原理を解明し、それを未知の機能に当てはめ予測し、予測を検証しながら原理の妥当性を証明していかなければならない。
現在は、既に全ゲノムの塩基配列が決定した、比較的単純な生物を題材としながらゲノム情報科学を創造し、樹立していく段階にある。一方、ヒトゲノムの全塩基配列の決定も、極めて急速であると考えられるから、比較的単純な生物から得られる基本原理を拡張し、また新たな原理を見い出すための情報科学の構築がなされなければならない。
しかし、新しい科学の創造とも思われるこの領域には、世界的に見ても、まだ十分な人材が育っていない。したがって、我が国でも、ゲノム情報科学に関する研究者を育成し、塩基配列情報からゲノム科学を確立する方策を早急に立ち上げなければならない。

<本領域の研究課題>
○細菌、酵母、藍藻等の微生物、線虫等、全ゲノム配列が決定したモデル生物を用いた基本原理の解明
○ゲノムの構造及び機能に存在する原理発見を通したゲノム情報科学の創造

2)ゲノム構造解析
ゲノム情報の基本は塩基配列である。その膨大な数の塩基配列の組合せを明らかにすることによって、生体機能のみならず、進化や適応の法則が得られるに違いない。しかし、その膨大さ故に、全生物の塩基配列を決定するのは困難である。したがって、まず、ヒト及びゲノム科学の基礎となる原理を見いだす材料として適した実験生物や有用生物の塩基配列決定を行うべきである。

<本領域の研究課題>
○ヒトゲノム大規模塩基配列決定
・ヒト
・ヒトモデル動物
○生物学的重要性又は有用性に基づく個別生物種の大規模塩基配列決定
・実験モデル動植物 
シロイヌナズナ、ショウジョウバエ等 
・動植物 
イネ 
・微生物 
極限環境微生物、光合成細菌、病原菌、産業有用微生物等 
3)ゲノム機能解析
ゲノム機能は、ゲノム科学の最も豊かな情報の宝庫である。ゲノム機能には、多様な素過程が相互に関係しており、箇条を挙げて論ずることが適当でないものもある。しかし、基本的には、体系的研究を行うべき課題と個別に行うべき課題とに分けられる。
ゲノム機能の研究は、塩基配列と対応する、転写産物、転写調節配列、遺伝子産物及びそれら相互間作用の解析によって初めて高次の生物機能を知る分子的手掛かりが得られる。そして、突然変異体を作ることによって、生体での塩基配列の働きが実証される。
生物現象ごとに個別に行われる研究が今後も主となるであろうが、ゲノム科学が進むに従って、やがて情報科学による予測を実証する研究も加わってくるに違いない。したがって、今から個別の情報を整理できる体系的研究を始めておくべきである。

<本領域の研究課題>
○cDNAの体系的収集と遺伝子のマッピング
・ヒト完全長全cDNA
・ヒトモデル動物完全長全cDNA
・イネ全cDNA
・家畜等(ウシ、ブタ等)cDNA
○突然変異体の体系的開発
・ヒトモデル動物:全遺伝子
・線虫、シロイヌナズナ、ショウジョウバエ、イネ等
○タンパク質の全基本構造の体系的解析
・全約1000種類
○遺伝子多型の体系的解析
・ヒト
・ヒトモデル動物
○遺伝子発現プロフィールの体系的解析
・ヒト
・ヒトモデル動物
・イネ
○遺伝子の探索とその機能解明
・ヒト疾患遺伝子
・動植物・微生物の有用形質遺伝子
○ゲノム機能に関わる分子間相互作用の研究
○生物種間の遺伝子の比較解析(遺伝子の相同性、類似性及び染色体上の位置関係)

4)技術開発
ゲノム科学は、それぞれの塩基配列が持つ生物機能を解析し、さらにその解析の結果を、我が国が直面しているがんを含む生活習慣病、ますます進む高齢化等の保健医療問題や、人類に共通する人口、食糧、環境等の諸問題、さらに、新産業創出等の課題の解決に役立てる点に人類の福祉に役立つ意義がある。
莫大なゲノムの情報を正確にかつ早く得るためには、アポロ計画に見られるように、月への人類の到達のためになされた、あらゆる面での技術開発に匹敵する広い視野に立った、多くの技術開発が必要となる。また、その波及効果は計り知れないものがあることにも留意すべきである。

<本領域の研究課題>
○遺伝子発現と遺伝子多型解析技術の開発
○次世代大量塩基配列解析技術の開発
○タンパク質の発現、構造決定、分子機能解析及び相互作用解析技術の開発
○新たなゲノム科学情報処理技術の開発

(3)研究開発の戦略的推進方策

1)情報基盤の整備
ゲノム科学研究においては、生物に関する情報が、各々の研究者から膨大に生産される。それら研究者の有する情報については、最近の情報処理技術の急速な進展、インターネット等の高度情報通信システムの拡大を踏まえ、研究者相互の知的情報として交流を拡大することが必要である。特に、将来のゲノム情報科学の樹立を念頭に置いて、DNA情報、タンパク質情報、個体情報等のデータベースを開発、充実していくとともに、それら相互に関連したデータを統合したデータベースの整備についても検討を行う必要がある。
また、近年、DNAに関するデータベースの国際ネットワークが急速に整備されつつある。我が国においても、公開されたデータベースとして国立遺伝学研究所が運営するDDBJ(DNA DataBase of Japan)等が整備されている。さらに、東京大学医科学研究所においても、世界有数のスーパーコンピュータが整備され、ゲノム情報の処理に関する多くのソフト開発が行われ、世界中から利用されている。また、ヒトゲノム地図情報を主体とするGDB(Genome Data Base)についても、今後の利用法を検討し、結論を出す必要がある。これらデータベースの整備は、国際的な状況を冷静に判断し、また国際的に協力しながら推進することが重要である。

2)人材育成
ゲノム科学研究は、国際的な研究開発競争が激しい分野であることから、我が国が国際的なレベルの研究開発を行っていくためには、創造力あふれる研究者が必要である。
さらに、ゲノム科学は日々革新されている研究領域であるが故に、挑戦的な課題が多く、高い能力を持つ研究支援者の育成が、特に必要である。

○研究者の養成及び確保
ゲノム科学研究を推進するためには、その広がりの大きさから見て、生物科学、工学、情報科学等の幅広い基礎的能力を身につけた創造性豊かな研究者を養成することが必要である。また、その学際性から、周辺分野からのゲノム科学分野への研究者の取り込みが、人材の確保につながることにもなる。そのため、現時点ではゲノム科学研究に参加していない人々を、様々な個別研究への参加を通して、ゲノム科学研究に取り込むことが方策として考えられる。
また、研究者の養成のため、ゲノム科学に関する教育の一層の充実を図るとともに、若手研究者の研究への支援を推進すべきである。その際、現状では最も手薄な人材として、情報科学と生物学の双方の専門的知識を必要とするゲノム情報科学に関する研究者育成の重要性には、特に留意する必要がある。
さらに、学生や大学院生には、進んでゲノム科学の意義と魅力とを啓蒙し、新しい人材の源とすべきである。

○研究支援者の養成と確保
研究基盤の中でも、研究支援業務を担当する質の高い研究支援者の充実は、繰り返しその重要性と緊急性とが指摘されてきた。しかし、我が国では研究基盤の根幹とも言える研究支援者を確保する制度が未だ十分には整備されていない。しかし、ゲノム科学の研究は、情報生産等、これら研究支援者に依存する度合いが高く、従来の研究基盤とは異なった側面を持っている。したがって、ゲノム科学の推進の過程でこの体制の欠落が諸外国との差を致命的なものにする可能性がでてきた。ゲノムの塩基配列の決定、タンパク質の高次構造の決定、大型研究設備の保守・運営、実験動植物の維持等を実施する研究支援者の質及び量が、研究開発の質や効率に大きな影響を及ぼすことを考えれば、処遇の改善と職能の適切な評価とによって、その養成と確保とを早急に行わなければならない。

3)ゲノム科学の進展による新産業の創成とその展開の支援
疾病の遺伝子の発見が、直ちに診断技術の開発や創薬につながるように、ゲノム科学の研究成果は、産業化に直結しやすい分野である。今年度のゲノム科学に関する政府予算の拡充は、経済構造改革措置の一環としてのものでもあり、ゲノム科学の発展による新産業創成に関する期待の大きさを物語っている。したがって、基礎と応用とが常に独自の立場から協力する必要があり、産官学の連携による研究開発の推進が重要である。各国も、これを効果的に実現するために独自の工夫を凝らしており、例えば、米国では、ベンチャー企業を活用して大学と先端企業を有機的に結びつけ、目覚ましい成果を挙げている。
我が国においても、新規事業展開への支援等を通じて、ゲノム科学において、産官学がそれぞれの役割を最適化しながら連携し、研究開発が効果的に推進され、また、研究成果の的確な移転による経済フロンティアの開拓等を進めるべきである。その際、産官学の連携や交流の促進に関する施策を推進するための省庁を越えた統一的な推進体制を組むことが重要である。
特に、情報、生体分子、先端技術等に係る知的所有権については、それが既に始まっている激しい国際競争の中で、世界をリードする次世代の産業形成の基盤となるとの認識に立って、その取得の促進のための環境を整備していく必要がある。

4)研究の評価
ゲノム科学に関する研究開発は、「国の研究開発全般に共通する評価の実施方法の在り方についての大綱的指針」の策定を受けて、それぞれの推進体制、推進制度等において厳密な研究評価を行いつつ推進しなければならない。
このため、各研究開発機関等において、外部評価の実施を含む厳密かつ効率的な評価を行うとともに、本「ゲノム科学に関する研究開発についての長期的な考え方」に関しても、ゲノム科学委員会において、その実施状況について定期的に評価を行い、その結果に基づき適宜見直しを行っていく。

(4)ゲノム科学研究と人間・社会・自然との調和

1)研究開発情報の公開と国民理解の確保
近年、ゲノム科学研究に対する国民の関心は、ますます、高まりつつある。一方、その著しい高度化、専門化の進展に伴い、その正確な実態が、一般の国民にとって容易には理解し難いものになり、研究開発の急速な進展に対して情報の不足から来る不安も生じつつある。
このため、どの研究者が、どの研究機関で、どのような内容の研究開発を実施しているのかという情報や研究開発の成果に関する情報等の公開が求められている。したがって、知的所有権の経済的価値を考慮しつつも、高度情報通信ネットワークの活用等により、公開性を高め、国民の抱く不安に的確にこたえ、それを解消できるようなシステムを検討すべきである。また、ゲノム科学研究に携わる研究者に対しても、自らの行う研究開発が、真に人間、社会及び自然と調和しているかについて、不断に自ら検討することが求められる。そして、その内容を正確に国民に説明する努力が肝要である。

2)生命倫理
最近のゲノム科学研究の急速な進展により、ゲノム科学と人間及び社会との接点において新たに生じた人間の尊厳や倫理、個人の遺伝子情報の保護等の問題も拡大しつつある。このような問題は、人類社会全体に大きな影響を与える可能性を内包しており、ゲノム科学研究を進める上で、十分な検討が求められている。
また、ゲノム科学研究やその成果を活用した予測医学の分野等において、今後の研究の進展によって、人間及び社会との接点に関して、より多くの問題が惹起されると考えられる。今後、この問題に対して、自然科学の観点だけでなく、研究がもたらす倫理的影響、社会的影響等に関する人文的及び社会的な観点からの検討も十分に行うべきである。このようにゲノム科学の持つ多面性を考慮に入れた成果の公開を通して、社会の理解が得られるであろう。
したがって、ゲノム科学の推進に当たっては、国民のコンセンサスを得つつ、社会や自然との調和を図りながら行うという視点を忘れてはならない。

3)安全確保
ゲノム科学は、生物に新しい性質を持たせるという側面を持つ技術を使用するが、それら技術の使用に当たっては、安全の確保を図る事が特に重要であり、合理的運用等に配慮しつつ、人間と自然環境にとって好ましくない影響等を未然に防止する観点からの十分な配慮を行うこととする。

我が国として取り組むべき重要研究開発タイムテーブル

科学技術会議ライフサイエンス部会ゲノム科学委員会委員