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科学技術・学術審議会技術・研究基盤部会

2002/10/17 議事録
科学技術・学術審議会技術・研究基盤部会産学官連携推進委員会利益相反ワーキング・グループ(第8回)議事録

科学技術・学術審議会技術・研究基盤部会産学官連携推進委員会利益相反ワーキング・グループ
(第8回)議事録

 

1. 日   時 平成14年10月17日(木)14:00〜16:00
     
2. 場   所 文部科学省別館 大会議室
   
3. 出席者
  委   員: 安井(主査)、伊地知、今田、北地、小林、田中、田村、西尾、西澤、平井、山本
  事務局: 加藤研究環境・産業連携課長、出澤人事課審査班主査、小山技術移転推進室長、佐々木技術移転推進室長補佐 ほか
  意見発表者: 佐藤 陽次郎 氏(厚生労働省医政局研究開発振興課課長補佐)

4. 議   題
1) 治験と臨床研究について
  佐藤課長補佐から「治験と臨床研究」について意見発表
  その後、佐藤課長補佐の意見発表の内容について質疑が行われた。
その内容は以下のとおり。

(◎・・・主査  ○・・・委員  □・・・意見発表者)

 倫理指針をこれから作るということで検討するということであったが、これは、例えば大学の医師が主導的に治験を行う場合にはどうというように対象別に作るという形になるのか。
   
 治験に関しては、ただいま説明したように、薬事法という法律の中でさまざまな要件を設けて具体的な規制がかかっており、そちらで対応することを考えている。一方、薬事法の規制のかからない、治験以外の臨床研究、先ほど申し上げたトランスレーショナル・リサーチなどについて具体的な倫理ガイドラインを設けようと検討を今行っているところである。大学病院の先生かどうかということではなく、医療機関等で実施されている臨床研究全般についてのガイドラインとして考えている。
   
 薬事法にのっとった承認申請に使えるということが治験だとすると、医師主導の治験についてどのような客観性を担保するのか。
   
 今年7月に薬事法改正を行い、来年4月から実施ということで医師主導の治験が行えるようになるが、我々としては、こうした医師主導の治験をバックアップすべく、予算の確保を行う予定である。承認申請に使う治験の場合には大変な要件がかかってきて、例えばデータマネジメントをしっかりやるとか、あるいは治験進行中にモニタリングとして実施医療機関に入って記載漏れがないかといったチェックが行われる。医師主導の治験を行う際には、厚生労働省に届け出ていただくということになるが、その届出の中で承認申請のための治験と同程度のレベルに達しないようなものについては受理しないといったことも考えられる。また、これは臨床研究そのものの基盤整備といった位置づけもある。
   
 利益相反の観点から、医師主導の治験で問題が起こる可能性が高いと思われる。これはダブルブラインドでも何でもなく、思い込みがある薬を、思い込みをしている先生が、これには効くだろうと患者を選んでテストをするといったバイアス(偏見)がかかるおそれがある。その辺のチェックは重要であるが、逆に、あまりそうしたチェックを厳しくし過ぎると、この法の精神にもとるということにもなるのではないか。
   
 最近、国際的なハーモナイゼーションの中で、欧米、日本の承認申請の基準が原則的に一緒になっている。一般的には、ダブルブラインド試験を実施する第3相試験や、最適容量決定のための第2相試験や、健常人に対する第1相試験など、およそ治験と呼ばれるものについては大変な労力とお金がかかるものになってくると思われる。今、委員から指摘があったような医師の思いこみによる臨床試験については、非臨床試験のデータがない等の理由で、届出を受理しない可能性が高いのではないか。一方、治験以外の臨床研究について、現行は施設における倫理審査委員会での審査が行われることになる。そうした適正な審査等についてのガイドラインの検討を現在行っているという状況である。
   
 最近、治験が活発でなくなっているということであるが、これは非常にゆゆしき問題だと思われる。利益相反という観点からも是非治験を活発化する方向で考えていくべきである。発表された中に、医師に対するインセンティブが低いというところがあったが、要するに、これは利益相反的な観点からすると、フィナンシャル・インタレスト(経済的な利益)を医師個人に付与しているようなケースが減ってきているということか。もし利益相反が、そうした経済的な利益を禁ずるものではなくて、経済的利益をマネジメントという側面から促進するというふうにとらえれば、理想論かもしれないが、治験を活発化できるのではないか。また、ヘルシンキ宣言を基本とした倫理指針について質問したい。アメリカ等では、今、臨床試験に関する場合には、医師に対して経済的な利益を付与してはいけないというゼロトレランスの議論と、利益を付与しても厳格にマネジメントされれば問題はないという議論がある。このゼロトレランスをめぐる議論は基本的なポリシーとして非常に重要だと思う。ゼロトレランスを採用するかしないかは別として、そうした議論は、この倫理指針策定の中で行われているのか。
   
 その部分は大変議論のあるところであり、当然、日本だけではなくて、世界医師会の中でも議論されていると聞いている。現行のヘルシンキ宣言では、どの企業から、どのような研究費用をもらっているか等を患者にディスクロージャーすることが書き込まれている。その意味では、日本で臨床研究指針を定める中で、利益相反について、どの程度まで踏み込めるかということは今後の課題だろうと思われる。
   
 問題はその先で、ディスクローズされて出てきたものをどう扱うかということが決まってないと、ディスクローズしたらどうなるのかと非常に恐れたままで終わることになる。駄目なら駄目、あるいはディスクローズした後で、きちんとマネジメントする仕組みがあるということであれば、安心して情報を出せると思われる。そのディスクローズの先がどうなっているかを知りたい。
   
 ヘルシンキ宣言を見る限りにおいては、ディスクローズの後の対応等について記載されていない。そうした中でヘルシンキ宣言を踏まえながら、どこまで踏み込めるかという話もあるかと思われる。一方、日本ではディスクロージャーそのものが、実態としては進んでいない現状を踏まえて、現実的な路線で考えなくてはならないと思う。実は厚労省は文科省と共同で、遺伝子解析研究のガイドラインや疫学研究に関するガイドライン等をいろいろ出している。これらは大変厳しい内容になっており、逆に研究そのものが進まないのではないかという指摘もあるが、日本の先生方は、指針が出ればそれを律儀に遵守されるということもあるので、その中で、より現実を踏まえた対応というのが必要であろうと我々は現在考えているところである。
   
 もう一つ質問がある。海外の大学の利益相反の文書を見ていると、Clinical Trialのときに利益相反が起こりやすいということがよく出てきており、そのときのClinical Trialは治験だとばかり思っていたが、今の説明ではClinical Trialとは臨床試験のことであり、これにはEvidence Based Medicine(科学的根拠に基づいた医療。医師個人の経験則で判断するのではなく、大規模な臨床研究など科学的に裏付けられたデータから患者にとって最も有益で害の少ない治療法を選ぶ医療。以下「EBM」という。)等の用法も含まれているということになる。EBMが将来かなり権威づけられるようなことになれば、治験とは別の判断軸になるわけである。今回の報告書案の中で臨床試験の記述がほとんどなくなっているが、もし入れるとすれば、治験ではなく臨床試験という大きな枠でくくったほうが妥当だと思われる。
   
 Clinical Trialとは、欧米においては、通常は治験も含むものであり、Clinical Trialの中で更に、スポンサーがついたClinical Trialとインベスティゲーター(医師等研究者)主導のClinical Trialとに分かれる概念になっている。欧米のほうは日本と成り立ちが違っており、もともといわゆる治験だけではなく、医師主導のEBMのための臨床研究も盛んに行われており、Clinical Trialはもっと幅広い概念となっていた。一方、日本の場合、これまでClinical Trialと言えば治験のことを指すのが一般的であり、その他の部分がなかった。そのため、欧米と日本の間で若干概念的にずれが生じた。日本でも最近、このClinical Trial(臨床試験)・臨床研究の部分を欧米並みに活発化しようといった動きが、様々なところで行われている。
   
 ディスクロージャーについて違和感を感じるところがある。今までの話を聞いていると、治験については全体的な規制という結果責任に直結することになる。ディスクロージャーという概念は企業会計のほうでは「アカウンタビリティーの解除」や「責任を解除する」ということであるが、ここで言われているディスクロージャーと規制との関係は、どのように理解すればよろしいのか。何の目的のディスクロージャーかということがよくわからない。
   
 例えば、国家公務員には国家公務員法があり、倫理法や倫理規範などがあり、いろいろと縛られている。その意味では、規制というのは存在しており、治験を適正に行うためには、いろいろと薬事法が規制を及ぼしている。この規制は適正に行うためにという意味だと思われる。ここで問題にしているディスクロージャーとは、少なくとも利益相反に関して言えば、そうした規制云々ではなく、医師の経済的なインセンティブを、まず社会一般の方々に理解していただくための手段としてのディスクロージャーだと思われる。そう考えれば、マネジメントのためのディスクロージャー、アカウンタビリティーのためのディスクロージャーととらえてよいと思われる。薬事法レベルだけで言うと、薬事法は手続き(プロトコル)をどう定めるかという話が基本であるので、その中にディスクロージャーの概念は特にないと思われる。
   
 私が先ほど述べたのは、ヘルシンキ宣言の中で、ディスクロージャーの概念があるということである。もともと薬事法の概念は、先ほど説明したGCP(Good Clinical Practice:「医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令」)やGMP(Good Manufacturing Practice:適正製造基準)、あるいはGLP(Good Laboratory Practice:優良試験所規範)といった、製品管理・製造管理の観点から証拠書類をたくさん残すということだと思われる。
   
 そうであれば、利益相反は規制の枠内にあるものということになるのではないか。
   
 利益相反は規制の枠内にはないと思う。薬事法は、例えば、極端な話として、医師が医師の奥さんが勤めている会社から治験の依頼を受けてはいけないといった、いわゆる利益相反的に広く経済的な利益をとらえたものではないと思われる。もし臨床試験についての利益相反ガイドラインを作るのであれば、それは従来ある薬事法などの規制の周りでサポートするものになると思う。
   
 要するに、今までのいわゆる治験のフェーズ1、2、3においてきちんとダブル・ブラインド・テストを行うという非常に客観性のあるデータだけであれば、利益相反はほとんど出なかったが、拡大した治験やEBMのための臨床試験においては、医師個人で判断するという従来の規制がかからないところが出てくる可能性が大きくなったということではないか。

2) ワーキング・グループ報告書案について
  資料1に基づき事務局から説明した後、その内容に関する質疑が行われた。
その内容は以下のとおり。

(◎・・・主査 ○・・・委員 △・・・事務局)

  作業上、とにかく一番最初に決めなくてはいけないことが、概念の決定である。これについては資料1別紙で二つの案が示されている。今回の報告書案では、別紙の案1に則って全文が書かれているが、今日の議論の結果次第では、案2に切り替えることも技術的には不可能ではない。また、時間があれば、後のほうの4以降も是非議論していただきたい。まずは集中的に資料1別紙の議論をお願いしたい。

  これについては、このワーキング・グループで、案1、要するに既に複数との関係があれば、それは必然的に利益相反が起こり得る状況であるという見方からとらえてはどうかという意見があったと承知している。ただ、私自身は、これまでの欧米等での議論を見ると、案2のほうではないかと思う。一つには、マネジメントの対象は「利益相反になったもの」ではなく、ポテンシャル・コンフリクト・オブ・インタレスト(潜在的に利益相反になる可能性)があるものとしてとらえていることが実態として多いということである。これは先ほどの議題で出たヘルシンキ宣言の中でも、ポテンシャル・コンフリクト・オブ・インタレスト、あるいはポッジブル・コンフリクト・オブ・インタレストといった文言で書かれており、そのようにとらえることが少なくとも欧米では一般である。それを敷衍したらいいのではないか。それから、もう一つは、先ほど事務局のほうから説明があったように、日本の国内では、私法関係の文章においても、利益相反であれば、具体的に規制あるいは手続等が規定されて、それに従わなければならないということがあるということである。そうした慣行に沿うのであれば、明らかに利益相反であると認定された後に手続をとるということが、この案2をとれば、考えやすいのではないか。あと、私自身もコントロール(制御)とマネジメント(管理)を同義的にとらえられていると思われるが、コントロールは明確に利益相反である場合を対象とし、潜在的な利益相反、要するに利益相反になる可能性がある状況についてはマネジメントの対象になるのではないかと思う。

  これは二つの観点で議論したほうがいいのではないか。要するに、今のポテンシャルの話についてであるが、ここの案2にある利益相反になる可能性がある状況を認知できるのか、できないのかということである。認知できないものであれば、どうマネジメントするのかという部分がある。ポテンシャルでも認知しているという意味で使っている可能性もあるのではないかということで、まずポテンシャルととらえるのであれば、例えば案1の外にもポテンシャルがあってもいいことになる。利益相反になる可能性がある状況と、さらにその外にもう一個、枠があり得ることになるのではないか。そこをまず一回議論する必要性があるのではなかろうかということが1点ある。それと、今言われた、ここで書いてある制御という言葉が、コントロールなのか、マネジメントなのかということで、解釈が違ってくると思われる。例えば利益相反委員会を開くということは明らかにマネジメントかもしれないが、マネジメントは私の概念で言えば、利益相反があることを認知したことになる。ただし、これは問題ないので何もせずに放置しましたということもマネジメントと言える。私の中では、そうしたとらえ方をしている。あるいは会議で議事録だけを残したということもマネジメントだと思う。例えば届出が大学の事務局に行ったという部分も、この意味が変わると、利益相反に該当するものと思われるものは、すべてマネジメントすることになるのか、それとも一部だけをマネジメントすればいいのか。ここの「制御」という言葉を定義しなければ、議論が先に進まないと思われる。

  補足させていただきたい。ここの中でマネジメントシステムを作ることを提案しているわけであるので、そのマネジメントシステムにかかるということは、既にそれはマネジメントの対象であると言える。よって、開示をするということも当然マネジメントの範囲ではないか。コントロールは、具体的に、こうした委員会のほうで、このようにアクションをとりなさいとすることである。要するに大学側が大学の教員等に対して、何かアクションをとった場合に、それをコントロールと呼んでもいいのではないかと思う。マネジメントは、マネジメントシステムの範囲のことであり、そこからどう認知するかというところがまさしく教員等から大学に対してディスクローズをするということだと思う。要するに、そこで初めて、ポテンシャルとして認知されるかどうかというところに来ると思われる。

  この報告書を作っている目的とは、産学連携を強く推進しようという方が個人的に何らかの利益をこうむった結果、大学のインテグリティに問題が起きることを避けたいというようなことではないかと思う。産学連携をやること自身が、今までみたいに大学の中だけを見てやっていればよかった大学人が、それ以外の関係を持つということである。産学連携という言葉が出た瞬間に、そもそもある種の可能性を背負うことになるのではないかと思う。それでなおかつ、個人として非難を受けないよう、しっかりと組織として守っていくためには、どのようなマネジメントシステムが必要なのかという考え方だとすれば、別紙1で外縁部に線が書いてあるが、この線は、ひょっとすると大学全部というか、すべての状況がバウンダリー(範囲)に入ることを示すのではないかという気もする。

  私も今の主査が整理した考えに近いかと思う。いわゆる研究と教育の外側に出て、ある種の社会貢献をするとか、または経済的な活動にかかわるといったときに、それを行う人たちが、大学の中での研究・教育というある種のミッションと、それから外側である種の責務を果たす。その外側の組織がフォープロフィット(利益追求)の組織になってくるというところで、ある種の対立関係が生じるという議論になってくると思われる。これをポテンシャル等で分けてみても、あまり意味がないのではないか。むしろ起こるであろうから、その起こる可能性を事前に察知しておくために開示をしてもらい、その開示した中身をもう一度、大学との関係において、ここまでしたらある種の規制を受けるということにする。この規制を受けることが法律で決まっているならばいいが、まさにインテグリティについてはバウンダリー(範囲)が確定されていないわけである。そうすると、そこは常にポリシーの中で揺れていて社会がどう認知するかという関係であるので、明確に法律でここはだめだとする、すぐにコントロールするという筋書きにはせず、ある幅が常にあって、その幅も、大学が認知した上で、ここまでやられたらちょっと問題だから、これはやめてもらいましょうという形がよいのではないか。それはおそらく先ほど言ったコントロールも含まれる。つまり開示等から始まって、チェックをして、駄目な場合にはやめさせるという管理をすることがワンセットのマネジメントになる。これは先ほどから委員の方々から言われていたことだと思う。あまり、ここを分けてもしょうがないのではないか。ここで少しアピアランスだけ書いてあるが、そうであれば、ポテンシャルとアクチャルとアピアランスがあるという定義づけをもう一度やるほうが生産的ではないかと思う。

  私は、ポテンシャルという概念は大事だと思っている。どこをマネジメントするのかということから、マネジメントの対象に入るものをポテンシャルと位置づけるわけである。ただ、そのバウンダリー(範囲)がはっきりしないということは、定義がはっきりしないことと同じである。こうしたケースがあると例を挙げて、似たようなケースは自分で申告する側が何となく感じれば、それを出すということとし、マネジメントするのであればマネジメントに入れればいいし、これは別にそんなに大したことではないということになれば、別にポテンシャルでも何でもなかったということになる。要するにポテンシャルがどこだ、アクチャルがどこだということを定義することは、おそらく利益相反は何だということを定義するのと同じように難しいわけであり、マネジメントをしなければいけないという前提に則って言えば、境界はあやふやにしても、どの段階をマネジメントするかということをはっきり詰めていくことが必要ではないか。

  別な観点からであるが、私は現段階では案1がいいと思う。なぜならば現場の大学へこの報告書を持っていった場合、案1が非常に理解しやすい。あまり難しいことを言えば、先生方が何をやっているのか全然わからなくなる。専門家の議論としては、これは非常に意味があると思うが、現段階で大学に開示する場合には、案1で進めていただきたい。そうでなければ全然浸透しないことになる。

  今、私が考えていることは、ある一人の人が利益を複数持つということは間違いなくあるということである。その場合に、複数の利益が衝突していないということもあり得る。よって、複数の利益を一人の人が持ったから、すぐに利益相反だということは言えない。最初、私は複数の利益を持った段階で、すぐに利益相反に入ると思っていたが、若干考えを修正して、複数の利益があっても、それは相反しないことはあり得ると考えるようになった。しかし、ある場合には、複数の利益が相反する状況に陥ることがあり得る。私はここに「トリガー(引き金)」という一つの考え方があると思う。要するに、何かのトリガーがあって、そのトリガーが引かれることによって、複数の利益を持った人が利益相反という状況に入っていくということである。例えば、ある大学では、100ドル以上の経済的利益があったら、その段階で何とかしなければいけないということであれば、100ドルがトリガーになるかもしれないし、場合によっては、利益相反のコンサルタントの担当者の人が、これはまずいと思ったら、もうトリガーになるのかもしれない。このように、トリガーというものはさまざまにあると思う。そこは大学によっても違うだろうし、インテグリティのとらえ方によっても変わってくる。トリガーが引かれた後というのが、いわゆる潜在的な利益相反のある状況である。ポテンシャルとは、もうそうなのだという状況に入っていくことだと思う。この潜在的という言葉の持っている意味は、要するに深刻な何か弊害が起きているかどうかはわからないが、そこは関知しないということである。弊害があろうがなかろうが、それはもうまずいねという状況で、そこが潜在的な利益相反という領域であり、そこに入ってきたら、とりあえず何らかの対策はとらなければいけないということになる。もう一つ最後のほうに、アクチャルな利益相反ということがあり得る。ここの部分は、あまり議論する必要はないと思う。現実に問題が発生してしまってどうしようもならないということであれば、プロジェクトを止めるしかないというような場合である。人が複数の利益に関与している段階、トリガーが引かれている段階、それからアクチャルな状況に入っている段階の3段階ぐらいあるのではないか。ただ、私は今の委員が述べられたことに賛成であり、ここは議論はいろいろできると思われるが、わかりやすい表現にするのが一番である。事務局の人が見て、あるいは現場の先生が見て、「ああそういうことか」とわかりやすいのが一番だと思うので、その観点から整理すればよいのではないか。

  案1の「法的地位」というところで、法的という言葉がひっかかるが、「起こる状況」というところは、もう起こることと確定している表現なので「起こり得る状況」と変えていただき、「制御」を「マネジメント」に変えていただければ、わかりやすくていいのではないか。

  客観的あるいは経験的に可能性が予測されるコンフリクトについて何となしに枠があり、一番外に白があれば、その次にオフホワイトがあり、グレーがあり、ブラックがあるということになる。問題になるのは、オフホワイトとグレーのところであるが、それは状況や大学によっていろいろ違うということではないか。マネジメントしなければいけないところは全体であり、制御しなければいけないところは黒の部分、あるいは黒に近いダークグレーのところになると思われる。

  先ほどの委員から指摘があった法的な地位というところであるが、これはたしか私の記憶では責務相反の場合に出てくる議論だったと思う。ここは、法的地位を使わない場合、公的地位あるいは公務員の地位と何とかの地位の衝突といった整理がされていたと思う。法的地位という言葉がここに入ったのは、要するに公的なという表現が、私学や民間企業を当てはめることができるのかという経緯があってこうなったと記憶している。もし法的地位というところがおかしいのであれば、公的な地位という考え方もあり得ると思われる。いわゆる狭義の利益相反、経済的な利益を受け取ったというケースでは、複数の法的地位が衝突するということではなく、ある一つの法的地位と一つの経済的な利益に衝突があるというようなケースであるので、ここの案1の最初の2行というのは、狭義の利益相反と、いわゆる責務相反が若干混ぜて書いてあるのではないか。

  地位という言葉が、ひょっとすると難しいのかもしれない。例えば、大学の教授が産学連携を始めても、地位は相変わらず教授であり、それ以上でもそれ以下でもないので、何か利益が複数あるということではないか。

  この別紙の主眼は、二重の丸のどの範囲を利益相反と呼ぶかを議論していただきたかったということであり、文面については、あまり精査していなかった。申し訳ありません。今の議論でいけば、例えば本文3ページの「はじめに」では、公的地位、法的地位をどうしようと悩んだが、3ページの真ん中あたりで、いわゆる利益相反と初めて書くときに、「責任ある地位」と、とりあえず当てたりしている。それから、5ページの注2であるが、official responsibilities とありofficialと入っていたり、次のa person in a position of trust のtrust という表現をどうするかとか、括弧内のas a government officialと書いてあったりするが、こうした言葉の並べ方、あるいはその意味のとらえ方で、かなりある。5ページの本文の下2行では、「なお、『利益相反』とは、一般には『責任ある……』」と当てて、「……者」の個人的な利益と当該責任との間に生じる衝突」と。そのtrust やofficialをぼやかしたような形で、本文では広くとらえていただくようにしている。こちらのほうで正しいかどうかを考えていただければありがたい。その別紙のについて議論をいただいて私が承った限りでは、円が二重に書いてあり、その内か外かで3段階に分かれているわけである。したがって、二重の線の評価の一つの方法として、内側の線はコントロールが必要かどうか、外側の線はマネジメントが必要かどうかという意味ととらえる考え方もあり得るのではないか。あるいは言葉を変えて内側の丸の中はアクチャルな利益相反で、外側の丸の範囲はポテンシャルな利益相反、さらにその外があるという言い方もあり得るのではないか。端的に言えば、案1と案2の違いは、コントロールの必要のない利益相反なるものを認めるか否かというところが実益として違ってくるということではないかと思われる。ネーミングの問題に帰着しているような気がする。

  あまり抽象論でやっているとわかりにくいと思われる。開示の具体例として、アメリカで私の家内がある製薬会社に勤めていて、そこの取締役であった、またはそこの株式を持っているとすると、これはつまり開示をしなければいけないということになっている。では、その状態はコンフリクト・オブ・インタレストかという問題である。その会社から、つまり私が、先ほどの臨床研究のプロジェクトを受けるといったときに初めて、「先生は、こうした関係で、この会社とこのような利害関係になっている」ということがまずあり、「でも、奥さんの件については、それほどその決定に携わっていないので、この場合は問題ないでしょう」と言われるのか、「役員をしていて、向こうで権限を持っているのだから、この研究はやめてください」と言われるかということが具体的なプロセスだと思われる、では、別の会社からの金銭的な関係を家族ないしは私個人が持っているとすれば一体どう考えるのか。先ほどトリガーで100ドルという話があったが、そこはちょっと違うのではないか。金銭的な関係を外部と持っている状態のときを、すぐポテンシャルと言うのかということについて議論してみてもあまりしょうがないのではないか。むしろそうした状況を認識した上で、ある具体的な事例が挙がってきたときに、委員会でどう評価して、これは大学として認めるか、もう大学のある種のバイアスというか、社会から期待されている真理の探究等からずれているのではないか、または学生を使ったら、教育の義務からずれているのではないか、といったことになってくるわけである。先ほどある委員が言われた具体例を挙げろということは非常にいい話であり、あまり抽象論でポテンシャル等の線引きをしてみても非常に難しいというか、無理だと思われる。

  今の先生の例は、あまりよくないと思う。なぜならば、取締役や株は扱いが難しい事例であるので、具体的な報酬金額についての事例のほうがよいと思われる。例えば、私が研究をしていて、研究に関係する会社から、5万円ぐらいをもらったというケースと、100万円をもらったというケースに分けたとする。この報酬は何らかの合法的な収入であるとする。例えば、ディスクロージャーの基準として、1万円以上のお金の授受があった場合にはディスクローズしなさいという基準があったとする。仮に私が、これで5万円をもらったら、これはディスクローズすることになる。100万円もらった場合でも、ディスクローズするわけである。それでは、5万円をもらったというディスクローズがあった場合、大学が「このぐらいであれば別にいいですよ。あまり増えたら気をつけてくださいね」という判断で終わるとすれば、これはまだトリガーが引かれていないことになる。100万円をもらった場合には、「これはちょっと多額ですね。ついては、何でもらったのか詳しく聞かせてくださいよ」という話に入っていくとすれば、これはトリガーが引かれていることになる。物事には、仮に開示の基準があったとしても、取り上げるべき利益相反の状態と、取り上げなくてもよいものがあると思われる。そこにトリガーがあると思う。その意味で、私は先ほどトリガーについて言及した。

  私は、ポテンシャルというものを使うと頭の整理ができるので、ポテンシャルという言葉を使わせてもらうが、要するに、組織のほうで、ある一定の額以上のものは報告しなさいという規定があり、その一定額以上のものはポテンシャルであるということで行っており、そこの部分が、まさしく先生がおっしゃっているトリガーのことではないか。そうでなければ、先生のおっしゃっているトリガーというものがどのようなものなのか、要するにマネジメントに入るものはどのようなものかという考えを聞かせていただきたい。

  私は、ディスクロージャーの基準を高めに設定したりすることによってそこをトリガーにしてもいいと思う。ただ、一般的には、多分、かなり低めの基準にして、ある程度幅広に報告されるということになりがちになるのではと思う。そうすると、上がってきた事例について100%全部、利益相反委員会なり、あるいはコンサルタントがハンドリングすることはできないと思われる。そうであれば、やはりどこかに利益相反委員会が動き出すための基準などがあるのではないか。

  定義から若干ずれるかもしれないが、要は、どのような形がマネジメントしやすいかというところの問題ではないかと思う。5万円以上は全部報告しろなんていうことは多分なくて、例えば年間100万とか、200万とか、そうしたところから報告しなさいということになるだろうと思われる。事実上、先生がおっしゃっているトリガーも、私の言っているポテンシャルと同じようなものではないか。

  一番最初に言ったように、産学連携をしていて、利益相反の状況にあるかもしれない教授にとっての一番の問題は、その行為が社会的に受容されるか受容されないかということだと思う。要するに「社会的にフェアだからいいね」「まあその範囲なら問題ないね」と言われてしまえばいいという話だろうということがまずある。それともう一つ、別な話をさせていただくが、案2を今なるべくやめて、案1で進めようと思っている。案2という仕切りは、しばしば行われるが、要するに利益相反=悪だから制御が必要という状況を書くのか、あるいは、これは先ほど事務局から話があったが、利益相反だけれども制御が必要でないものもあると書くのか、どちらが社会的受容性を取りやすいかという話である。私の専門に近いところで例えると、環境ホルモンの可能性のある物質というリストを環境省が作った場合、いきなり世の中では、そこのリストにあるものが全部環境ホルモンにされてしまう。そうなると、可能性があるものというリストを作った瞬間に、そこに入ったことが全部禁止されてしまうというニュアンスになりがちになる。だから、あまり案2は使いたくないと思う。

  アクチャルについては法律違反以外は思い浮かばない。法律違反であること以外に基準がないというのは言い過ぎかもしれないが、どのような状況が利益相反かということは全くわからない。お互いにわからない者同士が、マネジメントし、マネジメントされるような状況になっては、結局何もできないか、混乱するだけではないか。そうなれば、ある程度幅を持たせないとマネジメントはできないわけである。ポテンシャルとは別に言わなくてもいいが、可能性があるものについては、ある程度例示していったほうがよいと思われる。ただし、それは必ずしもアクチャルな利益相反ではないというこについては理解していただけると思う。

  可能性がある状況があることを認めないというわけではないが、可能性があることの中に入ったものを利益相反とするのではなくて、利益相反とは、先ほど言われたようにオフホワイトでも利益相反になると言ってしまったほうが、むしろ利益相反という言葉が悪というイメージにつながらないのではないかと思う。ごく普通にあり得るのが利益相反という状況であるということではないか。

  仮にも相反しているので、自分の組織に対する責任が、個人的に持っている利益によって、何らかの形でバイアスを受けるという状態が相反だと私は思う。それはまさしく、アクチャルというか、クリミナルな状態がほとんどを占めてしまうのではないか。

  確かにそうした考え方もあり得ると思うが、そうなれば、利益相反=悪、すなわちアクチャルになってきたものを利益相反と言うとした定義になってくると思われる。むしろすべて例えば産学連携のような行為を行うということは利益相反の状態にあるとはっきり言って踏み込むけれども、それ自身は悪くないということを先に言う形にしたほうがいいのではないか。その中で極めて特殊な場合のみコントロールが必要であるという立場を貫くということでどうか。

  はっきりと法律でペケであるものと、白であるものがあるが、中には白と思っていても、見方によっては、世間からは白以外に見える場合がある。この場合、社会に対する大学あるいは大学教員の社会的信頼を侵す可能性があるところをポテンシャル・コンフリクト・オブ・インタレストとして、その部分をマネージしなければいけないということである。白か黒かで白だと思っていても、見方によってはインテグリティを侵す可能性があるから、その部分に関してはマネジメントすることになり、コントロールの対象はあくまでアクチャルの部分で、法律違反だと思われる。法律違反でないけれども見方によって、アピアランスとして変になる可能性があり、それをポテンシャル・コンフリクト・オブ・インタレストと言うのであり、ポテンシャル・コンフリクト・オブ・インタレストというのはコンフリクト(衝突)ではないとも言えるのではないか。

  私は今の委員の意見に近いと思う。先ほどの私の話で言えば、100万円というところを超えると、トリガーが入り、そこは弊害が起きやすいという領域に入ることになる。その弊害が起きやすいという領域に入ってから、マネジメントが始まると思う。ほんとうに弊害が起きている場合、「先生、このプロジェクトは中止してください」あるいは「先生、ちょっとお金を返してください」という話になると思われる。これは法律違反とは関係ないと思う。法律違反ではなくて、弊害がある程度蓋然性を持って立証されそうなケースのことをアクチャルというのではないか。結論から言えば、私は、主査の意見に非常に賛成である。利益相反というのを、なるべくポジティブな概念として持っていきたいので、基本的には、みんな利益相反の状況にあるけれども、それはしょうがないことであり、それがある程度のレベルに達した場合にみんなで見ていこうとするところが弊害が起きやすい領域だと思われる。そうした二段階の区別でいいかと思われる。

  私は別にアクチャル=法律違反というふうに言っているわけではなく、アクチャルの中で法律違反でないものは、一体どのようなものなのかということを、大学の先生に示すべきということを言っている。要するにアクチャルだけれども、クリミナルではないもののことである。

  今の日本の状況から言うと、ある種の経済的インセンティブを与えてでも、産学連携を推進しようという考え方があるが、それに対するポジティブでないものを提示していると言えるのではないか。

  今のはブレーキのことを言われていると思う。主査が言われたとおり、いろいろな形で経済的インセンティブを与えることはある種アクセルになっているわけである。しかし、スピード違反をしてしまったときに、止めるべきものを持っていなければならない。例えば150キロで突っ走って、大学のインテグリティをおかしくするところまで行くのであれば、それはやりすぎなので少しスピードを落として60キロの順法速度にしてもらう。そこまで言っておかなければ、あまりやらせることばかり考えて、ポジティブ、ポジティブと言うことになる。少なくともアメリカなどでの議論は、アクセルとブレーキ論できちんと押さえている。そこはやはり、何のためにコントロールするかということがあり、コントロールの手段としてブレーキを持っているということではないか。高速道路等条件が整っていれば、その順法速度が80キロまでいいという場合もあり得る。また、40キロでやってくださいということもあり得るわけであり、そうしたところで区別すべきである。あまり、これを言ったらやれなくなるから怖がってというと、後に禍根を残すのではないか。その意味で、ポジティブとか、ネガティブとかとあまり言わないほうがいいと思う。

  ブレーキとアクセルというたとえは使わないほうがいいと思う。なぜかというと、例えば、ここで後ろにおられるマスコミの方が、利益相反というのは、いわばアクセルに対するブレーキであるととらえ、今、アクセルが非常に産学連携推進で押されているので、ブレーキとなる利益相反が必要であると書いた瞬間に、これを読んだ研究者の方は「そうか、利益相反はブレーキか」と思われて、そうしたブレーキを導入されては困ると端的に考える人が絶対いると思われる。そう考えられた瞬間、利益相反の導入は非常に困難になると思う。私が、いいと思っているたとえは、馬に乗るときに手綱をつけないで乗るのかというたとえである。あるいは、道を走るときに交通法規を作らないで道路を作っていいのか、交通法規が必要ではないかといったたとえのほうがいいと思う。ブレーキと言った瞬間に、アレルギーが起きることを私は非常に恐れている。

  ルールを作るとか、馬に乗るときに手綱をつけるということとブレーキは同じことだと思う。それを単純にブレーキと言ったことがネガティブに書いてしまうことになるとすれば、それはまだ社会的成熟度が整っていないということではないか。そこは、順法速度はひょっとすると30キロで押さえなければいけないのではといった話になるわけである。むしろマスコミも含めて、きちんとこの概念をどこまで成熟度を持って理解しているかということが大きな基準かもしれない。そうした中で、あまり突っ走ると、クラッシュを起こして、せっかくやろうとしたことが全部、オール・オア・ナッシングになることだけはやめようということだと思う。あまり、そこは怖がらないほうがいいのではないか。中身を誤解しないように、我々が大学内できちんとした説得をして、理解を広めるということが必要ではないか。

  馬というのは、手綱がなければ乗れないと思われるが、巧みな人は足だけで乗れる。大学の中には、おれは手綱がなくても乗れるんだという自信満々の人がたくさんおり、いろいろな人がいるということが問題であるので、やはりガイドラインが必要ではないか。

  とりあえず時間がないので、報告書案の18ページに移らせていただき、利益相反委員会の構成に関して学外の有識者、各分野の専門家、その参加を求めるや否やという話があるので、これについて議論していただきたい。今の話との絡みで、例えば、利益相反の判断の水準を低めに設定すると、ほんとうに無数の事例がおそらく挙がってくるということになるが、それをどうやって利益相反委員会でハンドリングするかということは大変な問題である。そうしたところに、どのレベルであれば、例えば学外者が必要だという議論もあるかもしれない。

  この学外の人を参加させるかどうかということは、ひとえに、その大学なりのガバナンス(統治機構)の問題だと思われる。学外の人を参加させるということは言ってみれば、理事会と同じような存在ということなので、そうした権限を有しているかどうかという問題だと思う。一番重要なのは、学内でしか知り得ない、非常にプライバシーにかかわるような情報をハンドリングしなければならないということである。例えば、倫理的・科学的な観点から見た治験の場合、インスティーショナル・レビュー・ボード(Institutional Review Board:研究批評委員会)がある。ボード(board)ということは、そこで決定する権限を持っている委員会という意味である。通常、利益相反に関する委員会であれば、コミッティー(committee)になると思われる。コミッティーとは、大学の理事会があって、そこから権限が委ねられている委員会のことである。もしそうした例だとするなら、それはあくまでも学内機構であり、基本的には学内の人で構成することになると思われる。あくまでもガバナンスの話であるので、それを実際、どう決めるかということは、各大学法人が決めればいいことであって、国で一律に決めることではない。文言で言うと「必要である」とまで書くようなことではないと思う。

  私も同意見である。まず、白黒がはっきりしないところで、各大学によって、いろいろなことを決めていこうという時間の連続性が必要である。この学外の有識者や各分野の専門家ということが、この議論に出てきた背景がわからないが、例えばイメージとしてアメリカの社外取締役やドイツの監査役会があるとすれば、それらは別のところで運営するということが前提になっており、その運営の仕方がいいかどうかということをチェックすることになっている。特にドイツはアメリカと違って、よりもっと社会的な存在として会社の存在があり、社会に役に立つために、いろいろな利益調整の概念を反映させるために、労働者の代表を入れるとか、いろいろな紆余曲折があって、監査役会が取締役会の指名をするみたいな形ができている。しかし、それは形式的な運営をどうやっているかということであり、実質は、やはり内部の人たちで、時間軸に沿ってやっていかなければできないのではないかと思う。

  私はどちらかといえば、学外の方を入れるべきだと思う。私がイメージしているのは倫理委員会である。私は、実際、バイオベンチャー等の倫理委員会に幾つか入っているが、倫理委員会には、学外の法律の専門家や研究者の方などが入って、わりと独立的に研究のことについて評価したり、あるいはインフォームド・コンセントの取り方について、いろいろ注文を言ったりしている。このような倫理委員会と同じような形で、利益相反委員会を構成することは可能だと思う。最終的に利益相反委員会というのはアカウンタビリティーにつながると思うが、アカウンタビリティーを説明するときに、このような情報が来て、うちはこのように判断して、この結論にしたというふうに中身を発表することは非常に難しい。なぜならば、非常に発表しにくい秘密情報や個人情報が多いからである。中身は出せないときに、どのようにしてアカウンタビリティーを確保するかというと、当委員会には外から、こうした有識者が来て、客観的公正に判断していただいているということが、アカウンタビリティーとして非常に大きいと思われる。それを内部だけでやっている場合、しょせん内輪で決めているのではないか、しかも結果も発表しないで何がアカウンタビリティーだと言われたら、そこでもう終わりになってしまうと思う。発表の内容ではなくて、人員の構成によってアカウンタビリティーを備えさせることが必要ではないか。

  確かにアカウンタビリティーを取ることは非常に重要であり、社会的に受容されるシステムでないと全く意味がないが、委員会に必ずしも外部の人をメンバーとして参加させなければいけないということではないかもしれない。ここでの記述からいくと、「参加させるなど」はやや強いような気がする。学外の有識者や各分野の専門家からの意見が反映できる程度のシステムといった、補助的な形でいかがか。

  今の委員が言われたことはわかるが、倫理委員会というものは任意で作っているものであり、その会社に絶対必要というわけではない。自分たち内輪でやるというのであれば、それもいいだろうと思われる。

  委員会の構成については私の提案でよろしいか。それでは、本来、これから議論を始めるのが19ページからであり、委員の皆様に目を通していただいてないページが3、4ページほどある。ここから先は責務相反についてのページである。今日は重要な概念については大体の方向が見えたので、おそらくそちらの全般的な書き方にかかる作業はないとすれば、あとの19、20、21、22ページの本文並びに別添資料の記述等に関して、適切かどうかということを委員の皆様に逐一見ていただき、来週の前半ぐらいまでに事務局まで意見をいただきたい。各委員に集中的に何か考えてほしいといった意見が、もし各委員からあればいただきたいと思うが、いかがか。

  私は、この報告書は全体によくできていると思う。それで、これを英文に直して、できれば海外の専門家・識者の方に一回さらしてみるということは、これをリファインするいい方法だと思う。それから、医学についての記述が少なくっていることが気になる。また、ここのポイントは、利益相反の観点からいくと、医の倫理の問題からではないと思われる。

5. 今後の日程
  次回は10月下旬に開催する予定とし、各委員との日程調整の上、事務局から改めて連絡することとされた。

(文責:研究振興局研究環境・産業連携課技術移転推進室)

(研究振興局研究環境・産業連携課技術移転推進室)

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