第二章 人文学及び社会科学の学問的特性

 人文学及び社会科学の振興について、これまで学術全体の振興を図る中で様々な提言がなされ、また施策も講じられてきたが、それらは必ずしも人文学及び社会科学の学問的特性を十分考慮したものではなかった。このため、今後の振興施策を、より実効性のあるものとするためには、人文学及び社会科学の学問的特性を踏まえて施策を展開することが重要である。
 ここでは、特に研究方法の特性に着目し、人文学及び社会科学における研究が、人文的な方法と実証的な方法との組合せにより行われていることを前提とした上で、以下に見ていくように、人文的な方法を「他者」との「対話」、実証的な方法を「関係性」の「解明」(「説明」及び「理解」)と位置付けることとしたい。
 そして、まず、人文的な方法を中心とする人文学について、これを、「『人文学者』が歴史や文化に拘束された存在として『自己』を認識すること」から出発して、「価値の相対性への気付き」を経て、「他者との『対話』を通じた『認識枠組み』の共有」に向かう道程としてとらえている。そして、人文学においては「『対話』を通じた『認識枠組み』の共有」こそが、「普遍性」の獲得を意味しているものと考えている。
 おそらく、このような方法的営為故に、人文学が、諸学における個別知の探求の前提となる知の足場となっていると言いうるのではなかろうか。このような意味で、人文学は諸学を基礎付けている。

論点 社会科学の特性をどのように位置付けるか
 人文学については、「他者」との「対話」という人文的な方法を中心とした学問と位置付けているが、社会科学については、どのように位置付けるか。
これまでの審議を踏まえると、例えば、
○「関係性」の束としての「社会」の構造、変動、制度、規範についての「説明」と「理解」(「評価」を含む)
といった案が考えられるがどうか。

第一節 研究対象

 人文学は人間の精神や文化を主な研究対象とする学問であり、社会科学は人間集団や社会の在り方を主な研究対象とする学問である。以下、各研究対象について記述を進めていくが、ここでは、総論的に三点を指摘しておきたい。
 まず、人文学及び社会科学の研究対象が人間によって作られたものであって、自然に存在しているものではないということを確認しておくことが重要である。社会であれ、文化であれ、歴史の中で人間によって作られたものであり、「知識」が、純粋で客観的な「知識」として成立するのではなく、歴史的、文化的な制約を受けつつ、特定の歴史的、文化的な枠組みの中で生みだされた「知識」であることに留意しておくことが重要である。
 次に、人文学においては、哲学や思想といった「価値」それ自体が研究対象となるとともに、社会科学においても、社会を構成する人々や集団の意図や思想といった「価値」に関わる問題を取り扱っている。このように、「価値」の問題とかかわりが比較的少ない自然科学と比較して、ある面でより複雑な研究対象を取り扱っているということができる。
 さらに、社会科学が研究対象としている社会現象については、その構成主体である人間の意思や意図によって、現象自体が変化するという性質を持っている。いわゆる「法則破り」とか、「予言の自己成就」とか、「アナウンス効果」などが典型例である。このため、人間の行動のみならず、行動の背後にある意思、価値判断等について研究の対象としなければならない。即ち、社会科学では、構成主体の行動の相互作用に関する因果関係のみならず、行動の背後にある「意図」の形成に関する因果関係の解明が必要ということになる。このような意味で、社会現象を取り扱うについては、自然現象を取り扱うのとは異なる意味で複雑な問題を抱えている。

(1)「メタ知識」

 哲学や論理学を中心に、人文学では「精神価値」、「歴史時間」、「言語表現」といった「知識」に加え、自然科学や社会科学が研究対象とする諸「知識」に関する「知識」、即ち、論理や方法といったいわゆる「メタ知識」を研究対象としている。
 このような観点から、人文学は、個別の研究領域や研究主題を超えて、社会科学、自然科学に至るまで、個別諸学を基礎付け、もしくは連携させるための重要な位置を占めていると考えなければならない。

(2)「精神価値」、「歴史時間」、「言語表現」

 人文学及び社会科学は、「精神価値」、「歴史時間」、「言語表現」を研究対象としている。人文学ではそれ自体として、社会科学では、人文学の側から見た場合にはある種の応用分野として、また哲学的アプローチとか、歴史的アプローチとかいった方法的な意味付けをもった研究対象として、これらを取り扱っている。
 人間の社会や文化が成立するに当たっての人間の「精神価値」はどこにあるのか、また、「精神価値」は単に現存するだけでのものではなく、「歴史時間」の中で形成されたものであることから、その歴史的な脈絡はどのようにして理解できるのか、さらに、「言語表現」を理解する在り方はどのように説明できるのか、といった問題が、人文学を中心に伝統的に取り扱われてきた。
 これらの問題は、いわば古典的な問題であると同時に、現在でも決して十分に説明できていない重要な問題である。また、これらの問題は、諸学が「学」としての基礎付けを求められた際に、思索の深いレベルで出会う問題の一つでもあると言いうるものである。
 このような意味で、「精神価値」、「歴史時間」、「言語表現」それ自体を研究対象としている人文学が、学問全体の展開において果たすべき役割は大きい。
 なお、ここで「精神価値」という言葉を用いているが、これは後出の「価値」という言葉とは、意味の範囲が異なっているので留意が必要である。ここで「精神価値」とは、人間の心の働きに関わる価値意識であり、思想、哲学、倫理、宗教、芸術等が対峙する「真」、「善」、「美」、「聖」などの価値である。

(3)社会科学の研究対象

論点 社会科学の研究対象をどのように位置付けるか。
 人文学については、「精神価値」、「歴史時間」、「言語表現」、「メタ知識」と位置  と位置付けたが、社会科学については、どのように位置付けるか。 これまでの審議を踏まえると、例えば、     
○社会構造 (実証的な政治学、経済学、社会学等)
○社会変動 (政治史、経済史等)
○社会制度 (法学、行政学等)
○社会規範 (法哲学、政治哲学、経済思想等)
といった案が考えられるがどうか。
論点 社会科学の研究対象としての「社会」をどのように定義するか。
 自然科学との対比を意識すると
 ○存在するものとしての「自然」に対して、作られたものとしての「社会」
 人文学との接続を意識すると
 ○「『他者』との『対話』」の場、即ち「関係性の束」としての「社会」

第二節 研究方法

 人文学及び社会科学は、自然科学のように客観的な「証拠」に基づき「真実」を明らかにするというよりは、「論拠」を示すことにより「真実らしさ」を明らかにすることを目指すものである。一見科学的に見える方法でも、どれだけ多くの人が「真実らしい」と考えられるかという「説得性」に依拠していると言ってよい。
 人間や社会の在り方を把握するためには、人間の意図や思想といった「価値」に関わる問題を避けて通ることはできないことから、人文学及び社会科学の研究を進めるに当たっては、実証的な方法による「事実」への接近の努力とともに、研究者の見識や価値判断を通じた「意味づけ」を行うことが不可欠である。
 以上を踏まえ、人文学及び社会科学の研究方法の特性を考えると、言葉による意味づけや解釈という研究者の見識や価値判断を前提とした人文的な方法と、人間の行動や社会現象などの外形的、客観的な測定を行う実証的な方法とが併存することになる。

 ここでは、このような基本的な考え方を前提としつつ、人文学及び社会科学の研究方法を人文的な方法と実証的な方法の大きく二つの類型に分けた上で、それぞれ分析する。ただし、ここで留意しておきたいことは、実際の研究においては、これらの方法が組み合わされているということ、そして、組み合わされることが、個々の研究というよりも、人文学及び社会科学全体の振興にとって、重要と考えられることである。
 即ち、伝統的な学問観では、人文学及び社会科学の研究方法上の特性は、1.数学によるというよりは、自然言語により定性的に記述する学問であること、2.外形的、客観的な事実を明らかにするというよりは、解釈を通じた意味づけの学問であること、3.研究対象に再現可能性がないという意味で、非実験系の学問であるということが、しばしば言われる。
 しかし、他方、人文学及び社会科学においても、実証的な研究方法を積極的に活用すべきという考え方がある。この立場からは、自然科学と人文学及び社会科学との差異は質的なものではなく、量的なものであり、人文学及び社会科学においても、1.統計的な方法、2.実験的な方法、3.フィールド研究等のいわゆる実証的なアプローチに基づいてなされることが望ましいということになる。
 ここでは、実証的な研究方法による「事実」への接近の努力とともに、研究が、一見実証的な研究方法のみによって成り立っているように見えても、そこには「価値的な前提」があり、この意味で、人文的な方法というものに自覚的であることが求められるという立場に立つものなのである。

 なお、研究方法上の特性を比較的詳しく記述しているのは、人文学及び社会科学の振興のための施策の検討に当たって、研究方法上の特性の理解がかなり重要であると考えられるからある。特に、第四章で述べるとおり、実証的な方法を用いる研究に対する支援という側面、そして、政策や社会の要請に応えるタイプの研究の振興に当たって、人文的な方法への考慮というものが必要となる。

(1)人文的な方法

1.歴史や文化による拘束

 第一節で述べたとおり、「精神価値」であれ、「歴史時間」であれ、「言語表現」であれ、また、「社会構造」であれ、人間によって作られたものであった。即ち、人文学及び社会科学は、人間と無関係に存在するものを取り扱うのではなく、歴史の中で人間が作りだしてきたものを取り扱っている。このため、人文学及び社会科学における「知識」とは、純粋で客観的な「知識」として成立するのではなく、歴史的、文化的な制約を受けつつ、特定の歴史的、文化的な枠組みの中で生みだされた「知識」であることに留意する必要がある。
 ここでは、さらに重要なこととして、人文学者や社会科学者自身もまた、歴史や文化に拘束され、依存した存在として、特定の歴史や文化の内に存在しているということを指摘したい。即ち、人文学者や社会科学者は、自らも歴史に参画する者として歴史を解釈し、文化の内に存在する者として思想や哲学を構築し、社会に参加する者として社会を分析せざるをえないのである。換言すれば、世界の内にあって世界を語ることの困難性を人文学や社会科学は抱えているのである。
 なお、このような観点を踏まえると、日本の学問の伝統や歴史に由来する知恵、発想といったものが、日本の人文学者や社会科学の思考や感性の前提となっているということにも、自覚的であることが必要と考えられる。

2.経験や感性の役割

 人文学者や社会科学者が歴史や文化に拘束された存在であるとすれば、歴史や文化により培われた経験の中で培われた自分自身の感性とか思考の構えといったものが、研究の過程において大きな役割を果たすことが予想される。
 例えば、文学研究であれば、一般化された批評理論を適用したテクスト読解という、ある意味、科学的な研究方法に対して、人文学者自身の「体験」や「想像力」を、テクスト、特に「古典」を通じて普遍化していくという伝統的な研究方法が、依然として重要であることに変わりはない。それは、研究対象であるテクストとは異なる「価値」を体現した人文学者自身の「思考の構え」や「感性」といったものが、自然科学的に言えば研究装置として、人文学的に言えば「対話」の契機として、機能しているからに他ならない。

3.相対化の視点

 人文学者や社会科学者は、自分自身が歴史や文化に拘束された存在であることを自覚した刹那、自らが依って立つ「価値」の相対性に気付づかされることになる。この結果、人文学や社会科学における研究の過程は、研究対象となる歴史や文化を「他者」としてとらえること、即ち、相対化の視点を前提とせざるをえない。
 例えば、文化人類学であれば、単にある異文化の社会を観察したり、自文化の立場から評価するのではなく、逆に、異質な社会の調査を通じて、自分自身が帰属する社会や文化の「価値」とは異なる「価値」を学ぶ行為となる。また、同じ文脈で言えば、歴史学は単に過去の社会や文化を観察し、現在の視点から評価するのではなく、過去に学ぶ行為となる。
 また、日本の法学の特徴として各国の法を相対化する視点が顕著である。このことは、日本の法学が、日本の法の歴史が、フランス法、ドイツ法、英米法といった諸国の法を継受するという歴史の中で、培われた視点である。このことは法整備支援などで日本の法学者や実務家が一方的に日本法の継受を求めるのではなく、相手国の国情などを踏まえた支援を行うというところによく現れている。

4.「他者」との「対話」

 相対化の視点とは「他者」との「対話」の契機であり、「他者」との「対話」を通じて、人文学者や社会科学者は自分自身の思考の構えや感性を練り直すことができる。また、「他者」との「対話」という知的営為は、単に、学者個人の問題にとどまらず、古今東西の様々な歴史や文化が前提としている諸「価値」を学ぶことを通じて、自分自身はもとより、自分自身が帰属している社会集団、文化集団が前提としている諸「価値」を相対化するとともに、他の社会集団、文化集団が前提としている諸「価値」を抽出した上で、両者を比較考量するための高次の「認識枠組み」を構築し、これを用いて異なる社会集団、文化集団の諸「価値」を練り直していくことを可能としてきたのである。
 このような「他者」との「対話」という人文的な方法は、ある「価値」を前提として、その「価値」に基づいて物事の真偽、優劣を判断していくのではなく、その「価値」そのものが本当に正しいのかを他の「価値」との比較考量の過程で吟味し、判断していくという、知的判断、道徳的判断、美的判断を総合した判断であると言ってよい。そして、このような人文的な方法を踏まえると、人文学や社会科学は、「他者」との「対話」を通じた自他の「認識枠組み」の共有の契機を含むものであるとともに、そのような「対話」を通じた「認識枠組み」の共有により、「共通性」としての「普遍性」を獲得できる可能性をも含むものであることを意味している。また、このような「認識枠組み」の共有の結果、より普遍的な「認識枠組み」が形成され、文化集団や社会集団において共有されうるような基本的「価値」を含んだ諸概念の体系として、異なる「歴史」や「文明」の通文化的基盤(例えば「教養」)となることも想定されるのである。
 なお、人文的な方法は、このような意味で、第三章の「人文学の役割・機能」において指摘するとおり、諸学を基礎付けるとともに、「共通規範」としての「教養」の形成に資するという役割・機能を果たすことへとつながるのである。

(2)実証的な方法

 研究の対象となるリアリティーの性質に応じて、意味解釈法、統計的帰納法、数理的演繹法という研究方法に関する三つの類型が存在しており、それぞれの方法が相互に補い合って初めて、全体としてのリアリティーを明らかにすることができる。
 ここでは、三つの類型について定義を行った上で、それぞれの研究方法の中で、特に支援が必要と考えられる研究方法を例示したい。

1.意味解釈法

 意味解釈法とは、リアリティーを把握するに際し、個別の事例を採りあげ、その意味解釈により、個別の事例にひそむ物事の本質をとりだす研究方法である。物事の本質は、それを単にあるがままに記述することによって説明されるのではなく、個性的な意義のあるものを普遍的な連関の中に整序することによって説明される。
 具体的には、文化人類学や都市社会学等におけるフィールドワークを通じて作成されたエスノグラフィー、モノグラフィーにおいて抽出される「『意味の構造』の記述」や、歴史学や文化研究等における文献等の意味体験の解釈を通じて了解されうる「『存在』の記述」がこれに当たる。

2.数理的演繹法

 数学的論理を用いることにより、特定の時間・空間を超えて成り立つ普遍的なリアリティーを認識しようとする方法である。仮説認識から数理(演繹)によって導かれた命題が経験をよく説明し、他の経験的事実によって反証されない限り受容される方法である。数理社会学や数理経済学の方法である。
 また、近年、社会科学においても、研究対象となる手段や組織の構造や機能に関する操作的な模型を作成し、それをコンピュータ上のプログラムなどの方法で動かし、その挙動を観察して解を導き出したり、特徴を知ったりしようとする一種の思考実験としての「コンピュータ・シュミレーション」の手法も一部で採られている。

3.統計的帰納法

 統計的帰納法とは、体系的データを収集し、分析することにより、社会の具体的な状態や経験則を取り出すリアリティ認識の方法である。社会調査データを集計したり、統計解析することにより、リアリティーを検証可能なものとして捉える。データを図表に表したり、クロス表分析、相関分析、多変量解析などを行う計量分析がこの方法を代表する。
 なお、近年、社会科学において実験的な研究方法によりデータを収集し、これを分析するという方法も一部で採られるようになっている。

第三節 成果

 人文学及び社会科学の成果を社会の側から見た場合、人間や社会のあり方に関する唯一の「真実」として社会に提示される場合もあるが、「選択肢の一つ」として提示される場合が比較的多い。
 これは、人文学及び社会科学の成果を活用するか否かの意思決定は、社会を構成する人々が行うものであり、人々は成果として示された人間や社会のあり方とは異なる選択をし、行動を採ることができるからである。
 以上のように、人文学及び社会科学の成果を社会の側から見た場合、多様な論点や選択肢の提供といった形をとる場合があることから、成果の社会への適用に当たっては、このことを考慮することが必要である。

 ここでは、このような基本的な考え方を前提としつつ、人文学及び社会科学の成果の特性である「選択肢の一つ」という性質について、「実践的な契機」という観点から分析をする。人文学及び社会科学の振興のための施策の検討に当たり、その成果が歴史や社会の中で受容されるとはどのようなプロセスにおいてなのかを理解しておくことが不可欠と考えるからである。

(1)「実践的な契機」を内包した「真理の理解」

 人文学、社会科学から自然科学に至るまで、およそ「学問」は「真理の探究」を目指す知的営為である。しかし、これまでの検討を踏まえ「真理の探究」という知的営為をもう少し詳しく見ていくと、自然科学が専ら研究対象に関する客観的な知識の獲得を通じた「真理の説明」を志向しているのに対して、人文学や社会科学は、「対話」を通じた「真理の(共通)理解」を志向していると言えそうである。しかも、人文学や社会科学には、そのような「真理の(共通)理解」という知的営為の中に、人間観や社会観などの転換を通じた歴史や社会の変革という「実践的な契機」が含まれている場合がある。ただし、ここで言う「実践的な契機」とは、明確な実践の意図があるという意味ではなく、結果的に歴史や社会に対して効果や影響を与えている要素という程度の意味である。
 例えば、「デモクラシー」概念に関して、比較的肯定的な評価を与えたトックヴィルの「アメリカにおけるデモクラシー」には、その後の欧米社会において「デモクラシー」概念が積極的な価値を持って理解されるような「実践的な契機」が含まれていたと考えられる。
 このように、「実践的な契機」を内包しているが故に、人文学や社会科学においては、研究成果が社会還元に直結するのでは必ずしもなく、研究成果が歴史や社会の選択を経て、受け入れられたり、拒絶されたりするのである。また、その際に重要なことは、歴史や社会の選択は一度だけというものではなく、歴史や社会の変化により、受容と拒絶とが何度も繰り返されるというところにある。
 なお、第一章の「歴史や社会に根ざした研究活動の展開」で指摘した日本の人文学及び社会科学が抱える課題との関連で一言付け加えておきたい。欧米の学説等を受容する段階で、欧米の社会の文脈において意味を持っていた「実践的な契機」が形式化してしまっている可能性がある。即ち、このような場合には、学説等に含まれている「実践的な契機」が日本社会との文脈とは無関係に発動されたり、逆に、「実践的な契機」が消滅してしまい、学説のための学説になってしまうことが考えられる。

(2)「学問の成果」と「研究の成果」

 人文学及び社会科学の成果について、もう一点指摘しておきたい。即ち、「学問の成果」と「研究の成果」との区分である。
 「研究の成果」とは、限定された課題について確実に言えることだけを言う。これに対して「学問の成果」とは、自分の研究を軸としつつも 他人の研究をも幅広く視野に入れ、これらを総合的に位置付け、ある種の構造を示すことのできるものを言う。これはどちらが優れているとか優れていないといった問題ではなく、知の在り方の違いということである。
 この区分は、次節の評価の問題や、人材養成の問題にも関係するので、十分に留意しておく必要がある。
 まず、評価の観点からは、「学問の成果」は、おそらく著作物により発信することが適切であり、「研究の成果」は、おそらく学術誌への論文投稿により発信することが適切と考えられるのである。この場合、「研究の成果」の評価は、それが特定の専門分野内のコードをシェアできているかという基準で行われるが、「学問の成果」の評価は、歴史や社会における選択により行われることが容易に予想できる。
 次に、人材養成の観点からは、この区分は「学者」と「研究者」の区分に対応する。経験的にも、業績を出した人と優れた学者と呼ばれる人とでは、往々にしてタイプが異なっていると思われる。研究者として優れた論文を書いているが、学者として、即ち総合的に優れた人とは言えないという場合がある。もちろん逆もありうる。

第四節 評価

 人文学及び社会科学における「評価」を考えるに当たっては、産業技術への応用を目指した工学分野における「評価」との相違を念頭に、いくつか留意しておくべき事項がある。第一は、学問の特性に起因する多元的な評価軸の確保の必要性、第二、いわゆる学術誌の査読の限界の認識の必要性、第三は、定性的な評価の重要性である。人文学及び社会科学における「評価」システムを構想するに当たっては、学問の発展を妨げないためにも、これらを踏まえることが期待される。

(1)多元的な評価軸の確保

1.多元的な評価軸の確保の必要性

 人文学及び社会科学における「評価」については、自然科学における「評価」よりも幅広い観点から行われることが肝要である。これは、研究対象や研究方法の特性において指摘したとおり、人文学や社会科学における「知」の在り方には、事実の「発見」や「説明」といった在り方にとどまらず、「理解」や「対話」といった方法を通じた「『知』の枠組み」の構築という在り方をも含むものであるからである。この結果、「評価」に当たっては、事実のレベルだけではなく、意味や価値のレベルでの「評価」という問題が存在することになる。
 おそらく、事実の「発見」や「説明」ということであれば、手続きの適切性の確保といった観点や、当該分野における過去の研究蓄積に対して新たに何を付加することができたのかといった観点からの評価になると考えられる。しかし、「理解」や「対話」といった方法を通じた「『知』の枠組み」の構築というような場合には、アカデミズムからの評価だけではなく、「理解」や「対話」の相手方でもある社会や歴史における評価というものが本質的な意味を持つと言ってよい。つまり、人文学や社会科学の研究は、現実の社会や生きた歴史の場において、そこに存在する多様な意味や価値にさらされ続けている。これは、人文学や社会科学においては、現実の社会や生きた歴史の場において、総合的かつ継続的に評価が行われていることを意味するものであり、当然のことながら、そこでの評価軸は多元的なものとなるのである。

2.評価の三類型(歴史における評価、社会における評価、アカデミズムによる評価)

 人文学及び社会科学における「評価」類型として、ここでは三つの類型を提示したい。先に述べたとおり、第1は、「歴史における評価」、第2は、「社会における評価」であり、そして、第3は、主として専門家相互間で行われる「アカデミズムによる評価」(狭義の研究評価)である。
 まず、「歴史における評価」とは、人文学や社会科学の研究成果が、異なる時代や異なる文化といった「他者」との「対話」を通じた「普遍性」の獲得というプロセスの下、歴史における「選択」の過程において行われる「評価」を意味している。ここで「対話」が成立するとは、現実の社会や生きた歴史の場における人文学者や社会科学者の人間、社会、文明あるいは世界についての「理解」が、「他者」の「理解」との間で、「根源」において「通底」していることを意味している。また、「根源」において「通底」しているとは、論理や検証を通じて「一致」するとか、判断を通じて「同一化」するという意味ではなく、両者の間に「ずれ」や「ゆれ」を含んだ緩やかな関係性が結ばれていることを意味している。
 結局、これは、いわゆる「古典」として位置付けられうるか否かといった意味での「評価」である。「古典」とは、「他者」がそこから様々な「枠組み」を取り出すことのできる源泉なのであり、それは文明社会の「教養」を形成することとなるのである。
 次に、「社会における評価」とは、同時代のアカデミズム外の存在、例えば、ジャーナリズムやいわゆる「読者層」から示される「評価」を意味している。これは、同時代における「他者」との「対話」のプロセスの中で、「他者」の側から示される「評価」を意味している。これは、短期的な「評判」で終わる場合もあれば、同時代の思想や文化的な潮流に影響を与えるジャーナリズムなどの「時評」の場合もある。また、新書等のベストセラーのような「読者層」による「静かなブーム」といった形での「評価」もありうる。
 最後に、「アカデミズムによる評価」とは、学術水準の向上等を通じて学問の発展を促すことを目的として、研究プロセスの適切性、研究成果の独創性等の観点から、主として専門家相互間で行われる研究の検証システムである。即ち、研究システムの一部としての「研究評価」であり、施策の直接の対象となりうるような「評価」である。

 人文学や社会科学に対する「評価」の問題は、これらの「評価」を混同していたところにあると考えられる。施策の対象としての「評価」を考えるに当たっては、「歴史における評価」や「社会における評価」とは異なる仕組みとして、別途検討を行うことが必要である。

(2)学術誌の「査読」の限界

 学術誌の「査読」は評価軸の一つではあるが、これに過度に依存することには、学問の発展の観点から問題がある。

 例えば、学術誌の「査読」という評価システムに親和的と言われることの多い経済学の場合を考えてみたい。
 まず、経済学の歴史を振り返ると、おそらく20世紀の中頃までは、研究成果の発信は「書籍(単著)」により行われていた。いわゆる査読付きの「学術誌」への発表が中心となるのは、20世紀の後半であろう。かつての大経済学者、あるいは大経済学者たらんとする学者は、「経済学原理」とか、「経済原論」といった大きな著作を世に問うという形で、研究成果を発表していくことが基本的な姿勢であった。ところが、20世紀の半ば頃から、新しい学説の提唱に当たっては、大きな著作を執筆するのではなく、専門の学術誌に論文を発表するようになったのである。
 次に、著名な経済学者へのアンケート調査によると、大経済学者であっても、何度も「学術誌」への論文掲載を断られるという経験をしていることが明らかとなっている。例えば、サミュエルソンの古典的な論文が有力な学術誌で掲載を拒否されたり、今年度のノーベル経済学賞の受賞者であるクルーグマンも投稿した論文のうち6割が不採択になっていると言う。多くの「大経済学者」が学術誌の査読には課題があると考えていると結論を導いている。
 さらに、我が国を代表する経済学者である森嶋通夫も、生前、研究成果の発表について、「私は研究成果を雑誌論文ではなく、単行本のかたちで公開するのを常としています。現在の専門雑誌は細かい技巧を重視しすぎており、重要な発想は無視されがちである。技術的な論文なら、どんな些細なものでも、採用される機会がより大きいことは確かである。」と述べており、学術誌の査読に対して批判的であった。

 これら学術誌による評価の限界の背景には、レフェリーが概して保守的であるということがあるようである。現在の学界の主流派の考え方に基づき、それをさらに一歩前進させるような論文についての判断力は正しく、信頼ができる。しかし、現在の学界の常識を覆すような論文についての評価は慎重でありすぎ、しばしば誤った判断をすることがあるようである。
 つまり、科学方法論的な言い方をすれば、通常科学(ノーマル・サイエンス)的な論文の評価に関しては現行の学術雑誌のレフェリー制度はかなり適切に機能している。問題は、既存のパラダイムを変革するような革新的な論文に遭遇したときに、上手く機能し得るのかどうかなのである。

 そして、おそらく人文学や社会科学の場合、「書籍(単著)」という形での研究成果の発信が、このような学術雑誌のレフェリー制度の弊害を回避するための重要な研究成果の発信方法となっているのではないだろうか。もちろん、「書籍(単著)」の刊行には、「査読」というシステムがない。ある意味では、出版社の編集者の勘、即ち、大体のレピュテーションを聞いて、この研究者はなかなかの知識人ではないか、といったもので動いている部分があるのは事実である。しかし、先に述べたように、人文学や社会科学の「評価」は、自然科学のように「アカデミズムの評価」が「社会の評価」や「歴史の評価」と等価ということにはならない。評価軸が多元であることから、評価方法を複合的に用意しておくことが重要なのである。このように、「社会の評価」や「歴史の評価」にさらされるという意味で、「書籍(単著)」の意義を重く受け止めることが必要であろう。人文学や社会科学の場合には、「学術誌」の「査読」という「アカデミズムの評価」、「書籍(単著)」による(アカデミズムの評価も含めた)「社会的な評価」のバランスを確保することが重要と考える。

(3)定性的な評価の重要性

論点 具体的な評価の指標(観点)として何が考えられるか。

 これまでの審議を踏まえると、人文学及び社会科学の評価にあっては、定性的な  評価が重要であると考えられる。また、具体的には、複数の「知の巨人による評価」のシステムが必要という方向性の議論となっていたと思われる。
 残された課題としては、以下が考えられる。

○具体的な評価の指標(観点)として何が考えられるか。
○定性的な評価システムを担う「知の巨人」を選ぶ基準は何か。あるいは、「知の巨人」とはどのような性格の人か。

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研究振興局振興企画課学術企画室

(研究振興局振興企画課学術企画室)