4.領域を推進するに当たっての基本的考え方

(1)研究領域と研究項目

1.領域1:脳の高次機能システム

(a)情報認知のメカニズム
 異種情報の統合、主観的認知、連合野における外界モデル形成
(b)行動と運動の企画と制御
 行動の認知的制御、行動戦略、随意的行動
(c)情動の生成と制御
 報酬と動機、価値判断、喜怒哀楽の感情
(d)大脳による高次情報処理
 論理的思考、情報創生、エピソード記憶生成、高次機能学習
(e)言語とコミュニケーションの脳内メカニズム
 言語の生成、心理表象生成、文法処理、センテンス理解

2.領域2:脳の神経回路の成熟と機能発現

(神経回路の機能の視点から、形成・成熟・機能発現過程を解析する)
(a)神経回路の形成
 発生、形成、再生
(b)神経回路の機能的成熟
 可塑性、発達、学習
(c)神経回路の特異的機能発現
 感覚から行動までに関与する神経回路の調節・修飾・制御

3.領域3:分子レベルでの脳機能構築機構の解明

(神経の基本素子を構成する分子機能の研究)
(a)神経細胞とグリアの運命決定及び動態に関与する分子
 分化、特異化、増殖、細胞死
 移動、突起伸長、軸索ガイダンス、シナプス形成
(b)神経細胞の機能発現に関与する分子
 イオン・チャネル、神経伝達と受容体、シグナル伝達
(c)脳のシステム制御に関わる分子機構
 分子遺伝学的手法による探索と機能解明

4.領域4:脳の病態解明

(a)アルツハイマー病とパーキンソン病-病因・病態解明と治療法の確立
 γセクレターゼ、Aβ凝集機構の解明、Aβ排出機構の解明
 黒質細胞生存・維持におけるsynuclein、parkin、DJ-1
 タウオパチー、タウ蓄積と神経細胞死の関係の解析
(b)ポリグルタミン病などの変性神経疾患の病態解明
 ポリグルタミン病およびALSの発症機序の解明、治療法の開発
 その他の変性神経疾患
(c)機能性精神疾患の病態の解明
 統合失調症、気分障害、薬物依存症
 PTSD(posttraumatic stress syndrome)

5.領域5:統合的脳研究の推進

(a)若手脳研究者の育成
(b)脳研究基盤の整備
(c)学際的脳研究の遂行

(2)研究分野と研究要旨

1.領域1:脳の高次機能システム

 近年分子生物学的手法の導入により、脳を構成する素子や物質の知識は飛躍的に増大した。しかしそれらのミクロの知識は脳全体から見れば、いわば点に関する理解であり、それを面としての理解へ広げる必要がある。脳がシステム全体としてどのように機能するかを知ることは、精神現象の理解にもつながる重要な研究目標であるが、最近システム的研究による脳理解の端緒が開かれ、今後の発展が期待される。
 知覚、運動制御、記憶、情動等の脳機能の過程が行われるメカニズムの研究は、日本国内でも行われてきた。それらの研究内容は質的には水準が高く、世界をリードする研究も少なくない。今後はさらに高次元の機能である、認知、随意行動、感情制御、言語理解、論理的思考の行われる機序の理解を目指す研究方向が展望される。個々では理論的神経科学と実験的解析の統合的研究が展開されよう。
 本領域の推進に当たっては、木村實(京都府立医科大学医学部教授)を領域代表者として、次の項目を設定する。

(a)情報認知のメカニズム

 大脳連合野における高度な認知過程の解明を目標とする。統合的視覚情報処理によって行われる個体識別、個人識別や、三次元的空間識別の理解をスタート点として、今後は主観的情報認知過程を解明すべく研究を進めることが期待される。さらに、外界モデルが学習を通じて連合野に整理形成されていく過程を神経ネットワークのレベルで解明する研究を推進する必要がある。

(b)行動と運動の企画と制御

 目的性を持つ動作選択ないしは行動の決定がいかなるメカニズムで行われるかを細胞レベル・ネットワークレベルで解明する研究が有望である。そのような認知的動作決定の機構とともに、複数ないしは複合的な行動の効率化の機構も研究の対象となろう。さらに、行動の戦略の研究は未踏の領域である。多用な選択肢のなかから効率よい目的達成を可能とする戦略を形成するために、脳がいかに外界情報を利用し、記憶情報を活用するか、それらの過程を解明することは脳の統合的行動制御機構を知る研究の中核部分とみなされる。

(c)情動の生成と制御

 価値判断と感情制御の脳内機構を知る研究が展望される。報酬に関する大脳辺縁系由来の情報が、どのように行動や認知の過程を変容させるかを知り、さらに、帯状回前部や前頭前野を中心にして報酬予測と価値判断がどのような機構で行われるかを理解することが期待される。他方、脳活動イメージング法や局所機能検索法により、ヒトにおける感情の表出と制御の機構も解明が進むと考えられる。

(d)大脳による高次情報処理

 論理的思考の原理的理解の研究が目標となる。高度な情報処理の場である前頭前野に関する研究は、従来認知情報の選択・保持・変容・操作に関して進められてきた。今後はさらに高次元の情報処理機構が研究のターゲットになろう。情報の分類とカテゴリー化、抽象化、一般化に始まり、状態の全般的把握や状況判断、さらには推論や論理の組み立ての機構へと研究が進行すると期待される。さらに、思考のモデルとして前頭前野における活動を把握し、論理的思考の原理的理解を目指す方向へ進むことになろう。ここでは理論的神経科学と実験的解析の統合的研究が展開されよう。

(e)言語とコミュニケーションの脳内メカニズム

 言語理解と発語のメカニズムの研究が研究対象となる。言語理解に関しては、音韻理解から単語の意味理解、文法の処理機構、さらにはセンテンスの理解へと研究が進行することとなる。他方言語発現に関しては、心理表象から音韻表象へ進行する過程、次に構音群の喚起から構音の運動プログラムへ進行する過程を担う脳内の機構を明らかにすることが期待される。

2.領域2:脳の神経回路の成熟と機能発現

 脳を構成する個々の神経細胞のはたらきは多様な分子の機能として実現されている。しかし非常に多くの神経細胞から成り立つ脳の複雑な機能を、個々の神経細胞の機能の総和として理解することは困難である。これまでの脳研究でわかったことは、脳の働きは多くの神経細胞がつながった神経回路のはたらきとほぼ対応すること、及び神経回路の働きは一つ一つの神経細胞の協調した働きとして理解され得ることである。したがって神経回路の研究は、分子の研究と脳全体の研究の橋渡しとなる研究であり、脳機能の統合的な理解の為には欠くことのできない研究領域である。
 「神経回路」は、動物のからだが出来上がるにつれて「形成」され、成長・発達するにつれて機能的に「成熟」する。動物が成体となるまでには、脳領域の特異性に応じて「発現」される個々の神経回路の独特な機能が完成する。したがって神経回路の研究は「形成」、「機能的成熟」、「特異的機能発現」という3つのプロセスに分けて考えることが出来る。
 本領域の推進に当たっては、狩野方伸(金沢大学大学院医学系研究科教授)を領域代表者として、次の項目を設定する。

(a)神経回路の形成

 神経細胞はどのようにしてお互いに特異的に結合し、回路を作るのであろうか?こうした研究はショウジョウバエや線虫等のモデル生物や神経筋シナプスを用いて盛んに行われ、そのメカニズムが明らかにされつつある。哺乳類の脳でも、神経突起を特定の方向に伸びるように誘導する分子やそのリセプターが次々と見つかり、神経細胞の特異性を決定する原理的なメカニズムが明らかにされつつある。今後は分子領域における研究との緊密な連携の元に、神経細胞と神経細胞の接点であるシナプスがどのようにして形成され、どのようにして脳領域特異的な性質を持った神経回路が作られるのかが重要な課題となる。成熟した個体における神経細胞への効率的な遺伝子導入法、特定の分子の機能を促進、又は阻害する方法などを積極的に活用してこの分野の研究を活発に進める。

(b)神経回路の機能的成熟

 神経回路の発達に伴って、頻繁に使われるシナプスが強化され、不用なシナプスが弱められ除去される。これらの変化は発達の限られた時期(臨界期または感受性期)の神経活動に依存して進行する性質がある。シナプスの強化や除去に伴う形態の変化、そして臨界期を決定する分子メカニズムを明らかにすることが重要である。
 シナプス可塑性はシナプス形成や高次脳機能の背景にある要素的な過程であり、神経科学の最もホットな研究領域のひとつである。長期増強や長期抑圧に関与する機能分子やシグナル伝達系が次々と同定され、分子機構が急ピッチで解明されつつある。ここでは機能分子が特定の場所に局在する機能ドメインの役割、可塑性が神経活動の履歴に影響される現象、特定のシナプスが選択されて可塑性が長期間維持される現象(シナプス選択性)などの解明が大きな課題である。さらに逆行性シナプス伝達などの新たな発見があり、今後の研究の進展が期待される。

(c)神経回路の特異的機能発現

 脳の多種多様なはたらきを分担する神経回路を見つけ出し、そのメカニズムを解明することは約半世紀にわたる神経科学の歴史を通じて中心的な研究目標である。感覚系では、末梢の受容器から感覚中枢に至るまで、その感覚に特有な情報を抽出する(特徴抽出)過程が詳細に調べられてきた。運動系においては、それぞれの運動に関与する神経回路が同定され、神経回路を構成する神経細胞の活動が調べられ、運動遂行における神経回路のはたらきが明らかにされてきた。また、感覚と運動の双方が密接に関連した記憶・学習などの高次機能も神経回路のはたらきとして理解され始めている。今後は、神経回路のはたらきを、要素としての神経細胞のはたらきと、要素間の結合としてのシナプスのはたらきに分け、両面において分析的な研究を進める。同時に、高次脳機能が神経回路の集積された機能としてどのように実現されているのかを明らかにする事が大きな課題である。とくに感覚系の神経回路における「特徴抽出」が、高次の脳機能である「認知機能」にどのように結びつくのか、記憶・学習などの高次脳機能が実現されるときに神経回路がどのように働くのかを、多くの神経細胞からの同時記録や光学的記録法を用いて解析することが必要である。こうしたアプローチを手がかりとして、神経回路の機能と脳全体の機能との間に存在するギャップを着実に埋めることが重要である。

3.領域3:分子レベルでの脳機能構築機構の解明

 脳神経系は、ヒトにおいて、100億個以上の神経細胞が作る複雑な回路の上に成り立っており、そのはたらきの原理を理解する為には、基本素子となる神経細胞の活動やそれを支える分子の働きを知る事が重要である。ヒトゲノム解読、プロテオミクスの技術革新などにより、遺伝子や分子に関する情報と解析法が近年革命的に進歩している。全遺伝子の半分近くが脳神経系に発現し、しかも、脳の領域や細胞によって発現が異なる事から、従来、網羅的な遺伝子解析や単一細胞・個体レベルでの遺伝子機能の解析を行う事は困難であった。しかし、最新の解析技術を導入する事により、機能分子や疾患関連遺伝子の発見及びそれらの分子の脳機能における役割が、今後、急速に明らかになると考えられる。ここでは分子機能を情報の立場から見るバイオインフォーマテクスの方法も用いられる。
 分子領域では神経細胞の発生から高次脳機能の発現・制御にいたる広い現象に関わる分子を同定しその基本性質を明らかにし、他領域の研究を分子生物学的な側面からサポートする。分子領域がカバーする分子の種類は多岐に渡るが主たる機能によって次のような3項目に分けて考える。
 本領域の推進に当たっては、三品昌美(東京大学大学院医学系研究科教授)を領域代表者として、次の項目を設定する。

(a)神経細胞とグリアの運命決定及び動態に関与する分子

 脳神経系は、神経細胞が分化し軸索をのばし、シナプスが形成され、活動依存的な修飾を受ける過程を経て形成される。神経細胞の分化過程では、多種多様な個性を持った神経細胞が正しい時期に正しい場所で作り出される。最近、神経細胞の分化及び領域特異性を制御する分化誘導因子や転写因子などが多数明らかにされつつある。しかし、未だ複雑な脳形成の一端を説明しているのに過ぎない。今後、新規因子の同定、因子間相互作用及び対応する細胞内情報伝達系の解明が必要である。また、これらの研究と密接に関連して、神経細胞とグリアの共通の起源となる神経幹細胞を同定し、性質を明らかにする必要がある。神経細胞死の制御機構に関しても多くが今後の重要な研究課題である。
 軸索ガイダンス過程に関与する分子やその受容体が次々と発見されているが、未だ不明の点が多い。発生期に観察される神経細胞やグリアの細胞移動は神経系形成の重要な過程である。細胞移動の制御は軸索ガイダンスとも関係が深く、新規の細胞運動制御因子の同定、細胞骨格との関連、未知の神経疾患との関連を中心に解明すべき点が多い。

(b)神経細胞の機能発現に関与する分子

 神経細胞の機能は、興奮性を決定するイオンチャネルと神経伝達を司る各種の受容体及びその作用を調節するシグナル分子によって担われている。こうした分子のはたらきを明らかにする事は、脳神経系のはたらきを理解する上で重要である。これまでに電位依存性ナトリウムチャネル、カルシウムチャネル、カリウムチャネルなど古典的なイオンチャネルの殆どがクローン化されている。しかしながら、ゲノム解読が終了した現在では、機能未知のチャネル分子がさらに多数存在する事が予想される。今後は、新規分子を含めたイオンチャネルが生体内でどのようにはたらくのか、特に神経細胞の特異性を形成する過程でどのようにはたらくのかを明らかにする必要がある。神経伝達物質受容体も、グルタミン酸受容体、GABA受容体を始めとする古典的な受容体は既に殆どクローン化されているが、受容体蛋白のシナプス部位での局在、他のシグナル分子による活性調節、活動依存性の変化などに関しては不明な点が多い。一方、G蛋白共役型受容体には、リガンドが不明なオーファン受容体が多く存在する。この中には、未だに特定されていない神経機能の調節に関わる分子が多数存在する可能性もあり、リガンドの同定と脳内でのはたらきを明らかにすることが重要である。また、細胞外基質蛋白質や細胞内のキナーゼ、核内受容体の解析などが神経細胞のはたらきやその機能調節の解明に重要である。

(c)脳のシステム制御に関わる分子機構

 システムとしての脳の高次のはたらきの基盤をなす機能性分子を同定し、その役割を明らかにするアプローチが今後ますます重要になる。そのために、個々の分子のはたらきとして想定された機能を神経回路あるいは個体レベルで検証する必要がある。この目的に適した学習や行動の動物実験系を開発し、改良し、その上で、それに関わる新規分子の同定を進めること、並びに新しく発見された分子が個体の学習行動や神経回路レベルでどのように働くのかをシステム領域及び神経回路領域との共同研究を通して明らかにすることが重要である。
 分子(遺伝子)と個体レベルの脳機能をつなぐ有力な研究方法の1つとして、遺伝子改変動物を用いた分子遺伝学的手法がある。線虫、ショウジョウバエ、マウスなどのモデル動物の遺伝子改変個体を用いて、これまで既に記憶・学習に関連する多くの遺伝子の働きが明らかにされてきた。しかし、マウスでは通常の標的遺伝子破壊で胎生致死となる例や神経構築に異常をきたす場合も多く、必ずしも所期の目的を達成できるとは限らない。従って、脳機能の解明には、部位特異的な遺伝子破壊などの手法を用いて特定の脳領域と遺伝子機能の関連を明らかにする研究が必要である。また、目的の神経細胞にレポーターや免疫毒素感受性遺伝子を発現させたトランスジェニックマウスを作成し、特定の神経細胞を可視化したり、それらを破壊した場合に失われる特異的な機能を明らかにする研究も重要である。一方、霊長類等、マウス以外の高等動物においても、遺伝子導入などの解析技術を開発・改良し、高次脳機能を制御する分子のはたらきを明らかにする研究が重要となるであろう。

4.領域4:脳の病態解明

 歴史的には、ヒトの神経疾患から、われわれは実に多くのことを学んだ。脳血管障害の際に生じる症状から、古くは錘体路および毛帯交差、大脳の左右差の存在、さらには高次機能が局在していることを知るところとなった。後者については、ようやく現時点になって、全く異なった方法論を用いて、つまりfMRIを用いて、正常脳における機能局在が追認されつつある。われわれはまた、系統変性を呈する神経変性疾患の研究を通じて、ある系統(経路)の機能が何であるかを学んだ。代表的なのが、パーキンソン病(PD)で選択的におかされる黒質線条体路の機能であろう。この経路が障害を受けることによって全身の筋強剛が生じる。これはPDに関する一連の臨床病理学的研究があってはじめて明らかにされたものである。このように神経疾患によって生じる脱落症状の研究によって、ヒト正常脳のある部位または経路の機能が判明したまたは想定された例は枚挙のいとまがない。
 以前には全く手つかずであった(遺伝性)神経変性疾患の多くは、90年代における分子遺伝学の進歩により、linkage analysisの手法を用いてその原因遺伝子が次々と明らかにされた。これらの成果によって、ヒト脳に関する理解は新時代を迎えたといえる。これまでに全く知られていなかった遺伝子またはその産物が、ある特定の神経細胞集団の正常な機能、生存維持に必須であることが分かり、異なる神経細胞集団の脆弱性の違いなど、神経細胞の重要な個性の一面を明らかにしつつあるからである。いろいろな神経集団において、ある特定の遺伝子産物がどのようにその集団の神経細胞の正常機能または生と死にかかわっているのかという理解がすすみつつある。
 精神疾患の解明はわれわれ脳研究者の夢といっても差し支えないであろう。精神疾患の原因遺伝子の同定は、直ちに、精神現象をある物質的基盤をもつて理解する道を開くものである。神経疾患によってヒト神経機能の解明が果たされつつあるのと同様に、まさに精神疾患研究によってヒト精神現象を物質的基盤で理解する突破口が切り開かれるといって良いだろう。
 本領域の推進に当たっては、貫名信行(理化学研究所脳科学総合研究センターグループディレクター)を領域代表者として、次の項目を設定する。

(a)アルツハイマー病とパーキンソン病-病因・病態解明と治療法の確立

 二大神経変性疾患といって差し支えないのが、アルツハイマー病(AD)とパーキンソン病(PD)である。ともに加齢が大きな発症要因となっており、平均寿命が伸びればさらに患者数が増加し、わが国において近い将来さらに大きな社会経済学的問題となると思われる。双方の疾患ともに家族性の発症が知られており、連鎖解析によっていくつかの原因遺伝子が同定され、基本病態の解明が急速に進みつつある。ADでは海馬など辺縁系、錘体細胞の脱落からはじまり、PDは、黒質のメラニン含有細胞が脱落するために生じる。これらの疾患に共通していることは、加齢がどんな遺伝的危険因子にも優る最大の危険因子であることである。この点は強調しすぎることはない。換言すれば、ヒトは年をとると大多数がAD、PDの病理像を、程度はひどくはないが、呈するようになる。したがってこの2大疾患の研究によってヒト中枢神経老化本態に関する重要な情報も得られるだろう。逆に言うと、加齢によるヒト中枢神経系の変化にアプローチする上でまさに自然の実験ともいうべき絶好のモデルでもある。

(b)ポリグルタミン病などの変性神経疾患の病態解明

 ヒト特有の疾患であるポリグルタミン病の解明には、わが国研究者は大きく貢献した。DRPLA(dentatorubroluysian atrophy)、MJD(Machado-Joseph disease)の原因遺伝子の同定が、はじめてわが国の研究者によってなされた。このDRPLAのモデルとなるtransgenic miceが作製され、神経細胞の脱落がない時点ですでに脳萎縮が出現し、症状が発現することが判明した。これによって、神経細胞死ではなく、神経細胞の機能異常という新たなパラダイムが作り上げられた。別のグループはSBMA(spinobulbar muscular atrophy) ransgenic miceを詳細に解析し、筋力低下の症状に対してcastrationが有効なことを示し、chemical castrationでも同様な治療が可能であることを示した。これは現在臨床治験にはいりつつある。このようにこの分野ではわが国で高いレベルの研究がされており、このレベルを維持してさらに病態および治療法の開発に取り組む必要がある。
 残された神経疾患で最も困難な病気が、ALS(amyotrophic lateral sclerosis)であろう。SOD(superoxide dismutase) utationによるmotor neuron diseaseのモデルマウスは作製され、解析が徐々にではあるがすすんでいる。しかしながら、中年以降発症することの多い孤発性のALSに関しての研究の進歩はきわめて遅いといわざるを得ない。遺伝性疾患でないということが大きな制約となっているが、今後は有望な所見を絞ってそこに注力することが必要であろう。

(c)機能性精神疾患の病態解明

 統合失調症は人口の約1%に生じるとされ、青年期に発症し、一生にわたって続く悲惨な疾患の代表格である。現在の時点においては、原因遺伝子、候補遺伝子、神経発生異常、伝達物質、の多方面からのアプローチを統合して推進することが肝要である。本「統合脳」では、「統合失調症」に対する生物学的アプローチを重要視することとする。ゲノム的アプローチは、重要ではあるが、「ゲノム医科学」で行うべきであろう。すなわち、候補遺伝子が挙げられた時点で、この遺伝子産物の機能を種々の手段を用いて同定し、「統合失調症」感受性遺伝子と理解して良いかどうかを判断する。一例を挙げるならば、有力な候補遺伝子の一つであるDISC-1の機能を細胞レベル、遺伝子改変マウスレベルで検討し、統合失調症に関係しているとかどうかを判定する。
 気分障害の遺伝的因子もまだ同定されていないが、剖検脳および画像を用いて解剖学的な異常が明らかに成りつつある。またグルココルチコイド受容体の機能不全による視床下部-下垂体-副腎皮質系機能亢進が気分障害の病態として注目されてきた。
 薬物(覚醒剤、麻薬)依存性の病態解明は、伝達物質受容体の解明およびノックアウトマウス作製技術がすすみ、われわれの理解は飛躍的に進歩した。精神現象の中でもっとも分子レベルで解明されつつある分野である。

5.領域5:統合的脳研究の推進

 「脳高次システム」「神経回路」「脳分子」「脳病態」の4領域の研究の連携と学際的共同研究を推進し、さらに若手脳研究者を支援し、統合的脳研究の芽を育てるため、丹治順(東北大学大学院医学系研究科教授)を領域代表者として、次の項目の推進を図ることとする。

(a)若手脳研究者の育成

 多面的かつ複合的な研究領域である脳研究においては、我が国の今後の研究の発展にとって特に重要な意義をもつ、萌芽的あるいは先導的な研究を幅広く支援することが極めて重要である。現在脳研究領域においては、独創的な着想と合理的な研究計画を有するにもかかわらず研究助成に恵まれない若手研究者が極めて多数存在する事が大きな問題である。この現状を解決するために、公募によって発展の期待される萌芽的・先導的研究を発掘・選定し、研究助成による支援を行う。
 他方次世代の脳研究においては、現存する研究分野の垣根を越えた、新たな発想による学際的な研究が進展し、脳理解が新たな統合的研究のフェーズへと進行する事が予見される。我が国においてそのような先導的研究が展開される素地と基盤を形成することが今強く望まれる。このためには、脳にかかわるあらゆるレベルでの実験データ、理論モデル、それらの解析ツールをデータベースに収め、共用とする国際的なニューロインフォーマテクスの展開が必要になる。ここでは脳高次システム、神経回路、脳分子、脳病態の各領域の先端的研究者が参加するとともに、次代の研究の担い手となる人材を育成するための系統的な教育プログラムを企画・展開する必要がある。その目的のために、研究者養成企画委員会を設置する。

(b)脳研究基盤の整備

 脳研究を行うためには、研究に必要なリソース(動物・標本・資材)を確保することが不可欠である。いま脳研究の現場において、遺伝子改変動物の蓄積・保存、人脳標本や実験用サルの確保、遺伝子ベクターや研究用新規素材の開発支援などのそれぞれに関して解決を要する問題が提起されており、現存の個々の研究組織や単位の能力を超えた組織的な努力を必要とする段階にある。そこで統合領域支援委員会を設置し、その内部組織であるバイオリソース委員会が問題解決の任にあたる。
 さらに、国際的な脳研究動向の調査、国内の脳研究プロジェクトにおける情報調査に基づくデータベース作成及び脳研究者のネットワーク形成をおこなうために、脳研究情報委員会を置く。他方、国際交流委員会を設置し、共同研究などの研究交流を進め、若手研究者トレーニングに必要な外国研究者招聘と若手研究者の海外派遣を企画・実施する必要がある。
 したがってこの領域の目的は、優れた萌芽的・先導的脳研究に従事する多数の若手研究者の支援、我が国の大学等における先進的脳研究の基盤形成、及び次世代脳研究者養成のための推進方策の企画・立案・実施にある。

(c)学際的脳研究の遂行

 統合的脳研究のモデルとして、小規模ではあるが学際的な研究を集中的に行う計画研究を立ち上げる。数名の研究者が中核となり、領域1-4の研究者の協力をもとめながら、分子レベル、細胞レベル、システムレベルでの実験的研究と計算論的神経科学の理論を統合した学際的脳研究を行う。計画研究の具体的テーマはは随意行動の発現を促す脳の過程とする。

(3)研究期間

 準備研究後、5年間とする

(4)関連領域との関係

 平成16年度に終了する現行の文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「先端脳」と「神経回路」の両研究領域を包含し、さらに平成10-14年度実施の「総合脳」による若手研究者育成と脳研究基盤整備の活動を継承・発展させることによって、統合的な脳研究プロジェクトを設定する。
 脳研究の波及効果は多くの関連領域の学問研究に及ぶものであり、医学のみにとどまらず、薬学、農学、理学、工学、教育学、心理学、哲学、情報科学などの諸分野研究成果を活用した統合的な視点に立つとともに、これらの研究発展を側面から支援する。
 人工知能、ロボット工学研究は工学的な手法が主体であるが、計算論的神経科学は生物科学と情報システム科学とを結ぶ接点であり、生体脳の研究を行う当領域との統合と研究交流を計ることは有益である。他方、人文・社会科学系の研究組織における人間理解を目指す研究、ないしは教育システム、社会システムの研究領域とは研究の方法論とアプローチを異にするが、研究目標には関連性がある。研究成果を還元した社会貢献の観点から、それらの関連領域との交流による情報交換と双方向の意見交換が有意義であろう。

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研究振興局振興企画課学術企画室

(研究振興局振興企画課学術企画室)