「1.背景と現状」にまとめたように、ヒトゲノムの解読完了に象徴される進展を受け、ゲノム研究は新たな段階に入った。ヒトも含めた諸生物について、生命現象の素過程を統合し生物を形作り、働かせる仕組み(生命システム)を解明すること、そして、生物個体間、環境との相互作用により進化・多様化を生み出す仕組み(生物システム)を解明することが、ゲノムを単位として研究することにより初めて可能になったのである。また、ゲノム研究は基礎科学の深化ということだけでなく、人の健康問題や地球の環境問題等の社会的な諸課題の解決へ、その成果の機動的な還元が期待されている。
このような状況において、我国のゲノム研究の成果をさらに発展させるために、特定領域研究としての体制については、以下の3本の柱を軸に考えることが適当である。
第1の柱は「ゲノムの徹底的機能情報解析から生命システムの解明」へのアプローチである。ヒトの遺伝子数が予想よりも少なかったことはゲノム配列決定から得られた大きな発見であった。これはわれわれの遺伝子観を大きく転換させるものであった。ゲノムはわれわれの想像をはるかに超える巧妙な遺伝子と遺伝子ネットワークの使い回しのしくみを獲得して生命現象を司っているのである。このメカニズム、即ち素過程としての遺伝子ネットワークを解析し、それらを統合して生命システムを明らかにすることこそが新たな段階のゲノム研究に求められる。この点においてゲノム配列は正に出発点である。したがって、今後のゲノム研究における第1の柱では、決定されたゲノムの徹底的な機能解析をおこない、その情報にもとづいて、ゲノムのもつ遺伝情報総体がどのように働き、制御され、その結果として細胞・個体を作りあげていくのか、すなわち生命システムの解明に向かうことである。ミレニアムプロジェクトにおいてもこの方向の研究を進めてきた。それぞれの実験系の利点を最大限活かした形で、体系的なゲノム機能解析が進行中である。枯草菌、酵母や線虫ではゲノムワイドの発現・機能解析の情報が得られつつあるし、ショウジョウバエでは異所発現系統やRNAi系統など、ゲノムワイド解析の道具作りが進行中である。実験系によって進展度は様々であるが、その次のアプローチは情報科学である。特に統合されたシステムとして理解するためにはコンピュータモデル化やシミュレーションさらには理論化といった予測に向けたアプローチが必要である。このためには情報科学の先端的研究がおこなわれる必要がある。そして予測と実験的検証の適切なサイクルが必須であり、そのような実験科学・情報科学の融合研究体制を構築することが必要である。先行している系では、現ミレニアムプロジェクトの中でそのような試行がおこなわれるであろうし、その場合、その成果をもとに、次期プロジェクトにおいて、システムのモデル化やシミュレーションなど具体的なシステム的理解ができることを目標とすべきであろう。それ以外の系においても、徹底的機能解析から適切な時期に次のシステム的理解のフェイズへ進むことが求められる。
第2の柱は「比較ゲノム解析による進化・多様化のゲノム基盤の解明」の研究である。生命・生物の大きな特徴は普遍性と多様性である。第1の柱においてはゲノムの情報からいかにして細胞・生物が作られるかという普遍的な基本メカニズムの解明をめざしている。一方、地球上には実に様々な生物が存在するし、進化の途上ではそれをはるかに上回る生物がいたに違いない。しかし、なぜ多様なのか、また、どのようにして多様性が出現したのかあるいは消滅したのかは明らかではない。「生物システム」ともよべるこの多様性のメカニズムは生命・生物の大問題である。この多様性の源はやはりゲノムである。ゲノムの変化が進化を推進してきたことはまちがいない。むろん遺伝子の変化だけではないだろう。遺伝子の使われ方や相互作用の違いといったそれこそシステムの変化によるものと思われる。このような多様性のメカニズムを解明する第一歩はゲノムの比較である。進化上ユニークな位置にある生物や、第1の柱で扱うようなモデル生物の近縁種などのゲノム配列や遺伝子発現・機能の比較を行うことにより、例えば細胞レベルの進化や微生物の多様化機構、動物・植物の進化・多様化、脊椎動物の起源、脳・神経系の進化、さらには人類への進化などについての大きな手がかりを得ることが当面の課題である。この延長には環境とゲノムの相互作用といった地球規模の視点での研究の展開が必要である。霊長類比較ゲノム研究はすでに開始されているが、ミレニアムプロジェクトにおいて、ゲノム配列決定や遺伝子発現解析の能力が格段に向上したことを最大限活用した方向性である。
第3の柱としては社会的要請という面に着目すべきであると考える。ゲノム科学はサイエンスとして息の長い研究と同時に、ヒトというわれわれ自体をも研究対象にしていることなどから「ゲノム研究の成果を機動的に社会へ還元」する方向も重要である。ヒトゲノム配列が完了した今、このような期待と必要性は一層強まっていると考えられる。例えばゲノム医学として、疾患遺伝子の発見、疾患の病態機序解明、病原微生物の予防・診断・治療法の開発などについてのゲノム情報の利用による推進をはかるべきである。これは単なる応用研究にとどまるものではなく、むしろ、応用結果から基礎サイエンスにもフィードバックが期待されるものである。例えば疾患の研究は臨床応用なくしては意味がないが、臨床応用の結果は疾患の病態機序の情報として、ヒトゲノムの機能研究、システム研究にフィードバックされることが期待できる。有用微生物でも同様である。ゲノム解析の進展は、例えばこれまで培養不可能な微生物でもゲノムからまず解き明かす方法を可能にした。これらの中には新規で有用な遺伝子資源の発見が期待できるが、その事は逆に多様なシステムの比較解明につながるのである。また、ゲノム研究は様々な分野への波及効果が極めて大きいので、特に社会に対する影響について、科学知識の普及と受容という側面、生命と倫理という側面などの研究や適切な対応体制を作ることが必要である。
最後に、これらを実現するためには大規模DNAシーケンシングやヒト多型タイピングなど比較的大規模に「基盤的情報を取得」し、データベース化する体制を整備し、そのことにより諸ゲノム研究の推進を支援することが必要である。
大規模DNAシーケンシングは比較ゲノムのために必須である。200Mb程度の小型のゲノム(線虫、ハエ、ホヤなど)については全ゲノムを決定し比較することが世界の趨勢である。一方、哺乳動物ゲノム(3Gb程度)になると全体を決定するのはまだコストがかかりすぎるので、ゲノムの特定領域(数十Mb程度)に焦点をあて解析を進めるべきである。したがって、多様な生物の基盤情報を得、比較ゲノムの目的を達成するには年に200Mb程度のゲノムを4種程度決定できる能力が必要である。その能力があれば、その中にはさらに小さな微生物(1-10Mb)や多種のcDNAの決定も含めることができ、生命システム研究や微生物ゲノム研究の要請にも応えることができる。このためには特定領域研究などの経費で整備してきた施設を有効活用し、必要に応じ他の国内機関と連携してタイムリーに進めることが肝要である。
ヒト多型タイピングは、応用ゲノムにおける疾患原因遺伝子探索、特に多因子疾患において必須である。対象としては糖尿病などの代謝性疾患、高血圧症などの循環器疾患、自己免疫性疾患、精神神経疾患などが想定されるが、これらを解析・同定するために、少なくとも毎年3程度の疾患についてマイクロサテライトによる疾患遺伝子の絞込みと絞り込まれた領域についてのSNP解析による遺伝子同定が独自にできる体制が必要である(年次計画において後年度は技術改良により能力増強が見込まれる)。このためには当初マイクロサテライト解析で10-30万タイピング、SNP解析で300万タイピングの能力が必要である。これまでに特定領域研究で整備した2箇所のタイピング施設は技術改良により次期領域発足時にはこの能力に達することが期待できるので、それを活用することが適切である。
トランスクリプトーム解析も支援システムが必要である。遺伝子構造はゲノム配列からは直ちにわからないのであるから、比較ゲノムにおいても生命システム解明においてもcDNA情報は必須である。その際、わが国が得意とする完全長cDNAを中心とするトランスクリプトーム解析が威力を発揮することは明らかであるが、この技術はどこでもできるものではない。今後も多種類の生物について、発生時期や組織・部位毎など多種多様な材料のトランスクリプトーム解析が必須であるので、リソース供給のセンターとして技術をもった研究室に集中することが必要である。
以上はいずれも個々の大学研究室が個別におこなうことは不可能であるが、これまでに特定領域研究で整備してきたものの活用により達成できるものが大部分である。内容・経費について十分な検討をおこなった上で次期特定領域研究でも実現できることが強く望まれる。並行して、生命・生物のシステム的理解に向けたデータ取得のための斬新な実験技術、例えば、インタクトローム(たんぱく質相互作用の網羅的データ)やメタボローム(細胞内の代謝物質の網羅的同定と動態解析)の解析技術等の絶え間ない開発が必要である。そして、技術開発の進展と研究推進における必要度に応じ、新たな研究支援体制の構築も考慮すべきである。
以上まとめると、「ゲノムから生命・生物システムの解明、医療・生活の向上」をめざすことを、次期ゲノム領域の目標とすることが適切である。
ゲノム研究を適切に遂行するには以下に示す4種類の人材の育成・確保が必要である。
研究振興局振興企画課学術企画室