平成24年8月1日
科学技術・学術審議会
研究計画・評価分科会/学術分科会
脳科学委員会
脳は、人間が人間らしく生きるための根幹をなす「心」の基盤であるとともに、身体を統合的に制御する機能を有する。脳科学は、人間の心の働きを生み出す脳の構造と機能を明らかにすることを通して、真に人間を理解するための科学的基盤を与えるものであり、社会が高齢化し、多様化・複雑化も進む中で、我が国が直面する様々な課題の克服に向けて脳科学に対する社会からの期待が高まっている状況を踏まえ、平成19年10月18日、文部科学大臣から科学技術・学術審議会に対し、長期的展望に立つ脳科学研究の基本的構想及び推進方策について検討を求める諮問がなされた。これを受け、同審議会の下に設置された脳科学委員会は、平成21年6月23日に「長期的展望に立つ脳科学研究の基本的構想及び推進方策について~総合的人間科学の構築と社会への貢献を目指して~」(以下「報告書」という。)を取りまとめた。報告書では、脳科学研究について、社会への貢献を明確に見据えた研究を戦略的に推進し、効率良く成果を社会に還元する必要があること、また、我が国における科学技術全体の共通財産として、脳科学分野にとどまらず他の研究分野にもイノベーションをもたらし得る基盤技術開発を推進すべきこと、さらには、多段階の階層構造をもつ複雑な生体システムである脳を対象とし、学際性・融合性の高い脳科学の特徴を踏まえた研究の推進が必要であること等が提言された。
これらの脳科学委員会における議論等を踏まえ、社会に貢献する脳科学の実現を目指し、社会への応用を明確に見据えた脳科学研究を戦略的に推進するため、重点的に推進すべき政策課題を設定して研究開発を推進する政策課題対応型研究開発として、脳科学研究戦略推進プログラムが平成20年度より実施されている。
まもなく脳科学研究戦略推進プログラム開始から5年が経過しようとしており、研究課題の終了とその後の展開を見据えて事後評価も実施されているところ、今後、報告書を踏まえて「社会に貢献する脳科学」を着実に実現していくためには、高次脳機能の解明、精神・神経疾患等の革新的予防・治療法の開発、脳・身体機能の回復・代替・補完等、当該研究が目指すべき目標を明確に設定することが必要である。
また、複雑な生体システムを対象とした脳科学研究において、これらの目標を達成するためには、いつまでに何を達成するのか、具体的なマイルストーンを適切に設定した上で、戦略的に進めていくことが重要である。
その際には、遺伝子解析、分子・細胞レベルの機能解析、分子機能イメージング、光遺伝学等による神経活動の計測と装飾、認知行動解析、脳機能イメージング、BMI技術、計算論的神経科学等の先端的な技術・研究方法から最適なアプローチを選択することが必要である。
また、そういったアプローチを支える基盤技術として、モデル動物等の開発が求められる。
脳科学研究戦略推進プログラムにおいては、システム神経科学や計算論的神経科学に立脚しつつ、様々な要素技術等を組み合わせて、脳情報双方向活用技術や、脳内情報を解読・制御することにより、脳機能を理解するとともに脳機能や身体機能の回復・補完を可能とするBMIの開発を目指し、研究を進めてきた。
その結果、非侵襲・低侵襲型脳活動計測機器、NIRS+EEG統合技術(高精度可搬型システム・携帯型システム)を用いたリハビリテーションシステム、fMRI+EEG統合技術、デコーディッドニューロフィードバック技術、人工網膜、外骨格ロボットシステム、オン・デマンド型脳深部刺激システムや、それらを支える様々な要素技術等の開発が進められ、低侵襲・非侵襲的な手法による脳内情報の解読・解析技術及び脳情報双方向活用技術、大量のデータ処理技術、工学技術の操作性等が大きく進展したと言える。我が国独自の技術や、世界をリードする研究成果も多く輩出されている。
具体的には、主な研究成果として以下が挙げられる。
このうち、デコーディッドニューロフィードバック技術は世界初の革新的な技術である。当該技術によって脳活動パターンを目標の状態に誘導すること、また、神経刺激と適切に組み合わせることにより、精神・神経疾患(うつ病、自閉症、認知症、中枢性慢性疼痛等)の革新的な予防・治療や身体機能(運動・コミュニケーション機能)の回復・代替・補完につながり得ることが成果として期待される段階まできている。デコーディッドニューロフィードバック技術の実用化に当たっては、その生理学的な機序等が解明されることが必要であり、今後は、それらに関する研究や、精神・神経疾患の脳内情報の解析・蓄積、治療効果の評価系確立等を進め、精神・神経疾患患者の脳活動からのデコーディング技術、疾患に応じた最適なフィードバック技術、デコーディッドニューロフィードバックと神経刺激の結合技術等を確立していくことが求められる。
なお、これらの研究においては、脳科学研究戦略推進プログラムの他の課題と適切に連携しつつ進めるとともに、デコーディッドニューロフィードバック技術はその性質から、臨床応用等に当たって倫理的・法的・社会的課題(ELSI)に関する十分な検討が不可欠であり、適切な対応がなされていくことが必要である。
また、我が国における低侵襲型及び非侵襲型のBMI技術は世界をリードするものであり、感覚器の障害の克服、脳卒中後の運動麻痺や神経変性疾患等により失われた機能の回復・代替・補完に向けて、ますます重要な手段となっていくものと考えられる。今後は、基礎研究と革新的な技術開発、さらには医工連携等の融合分野の技術開発を有効に組み合わせ、我が国の特長を生かした精神・神経疾患の革新的な予防・治療法や最先端医療機器の開発等、BMI技術の臨床への応用及び実用化を目指して、具体的な達成目標を設定しつつ進めていくことが必要である。なお、基礎研究成果の臨床への応用・実用化に向けては、橋渡し研究加速ネットワークプログラムで整備された橋渡し研究支援拠点の活用を図りつつ、社会への還元を効率的・効果的に目指していくことが重要である。
脳の働きや人の心、精神・神経疾患の病態を解明するためには、人で観察される臨床所見や高次脳機能を実験的に検証できる個体レベルの動物実験が必須である。マウスやラット等のげっ歯類を用いて開発された実験動物は脳科学研究の進展に大きく貢献してきたが、ヒトとげっ歯類では脳の構造・機能において異なる点も多く、脳科学研究の基盤として、霊長類(ここではヒトを除く。以下同じ。)を対象とした実験動物の開発は不可欠である。人の高次脳機能や疾患のモデルとなり得る有用な実験動物を霊長類で開発するためには、対象とする霊長類における生理学的、分子生物学的解析に必要となる基盤的データを収集していくとともに、特定部位への遺伝子導入や遺伝子改変の技術、実験動物の高い品質を維持管理する技術等を開発することが必要である。
脳科学研究戦略推進プログラムにおいては、脳科学研究を支える基盤技術として、霊長類における遺伝子導入技術や発生工学的研究手法等を開発することにより、独創性の高いモデル動物の開発を目指し、研究を進めてきた。
具体的には、ウイルスベクターによる霊長類への遺伝子導入技術の開発、遺伝子工学的手法及び発生工学的手法による遺伝子改変マーモセットの開発とヒト疾患モデルの開発、マーモセットの脳の構造と機能に関する基盤的データの取得等が進められた。主な研究成果は以下のとおりである。
これらの成果は、霊長類において、様々なヒト疾患モデルの作製や、脳科学研究に有用な神経系の機能を検証できるモデル動物の作製を可能とする大きな成果であり、脳科学研究を推進するための基盤技術として、精神・神経疾患の病態解明、予防・治療法開発や創薬研究、高次脳機能の解明等に貢献することが期待される。しかしながら、現在は遺伝子改変マーモセットの開発・作製に多くの時間と費用を要するとともに、その作製効率を踏まえると更なる改善が必要な技術であるなど、課題も多い。
なお、内閣府の最先端研究開発支援プログラム(FIRSTプログラム、平成21~25年度)においても、遺伝子ノックイン・ノックアウト技術による遺伝子改変マーモセット等の開発が進められており、この成果が脳科学研究戦略推進プログラムと連携して、更に優れた成果を上げることが期待される。
今後は、これまでに開発された遺伝子発現制御技術や遺伝子改変技術等を活用し、脳科学研究の基盤として多くの研究者が必要とする有用な遺伝子改変マーモセット等を開発し、効率的に作製・供給していくとともに、マーモセットの脳機能研究に必要な基盤的データの取得や脳機能の評価手法の開発を引き続き進めていくことが必要である。また、マカクザルやマーモセットに適用できるウイルスベクターによる遺伝子発現制御技術の高度化等により、その普及を促進していくことが望まれる。
あわせて、技術開発を担う機関は、得られた成果について積極的に技術移転を行い、作製されたモデル動物等を研究コミュニティに広く普及させるため、自立化を目指した体制整備を図ることが求められる。
また、これらの研究においては、「動物の愛護及び管理に関する法律」「研究機関等における動物実験等の実施に関する基本指針」等を遵守していくことが必要である。
なお、研究用ニホンザルについては、ナショナルバイオリソースプロジェクトにより自然科学研究機構生理学研究所において京都大学霊長類研究所との連携の下、飼育・繁殖・提供がなされているほか、自然科学研究機構生理学研究所においてはニホンザルへのウイルスベクターによる遺伝子導入技術の共同利用研究を促進する構想について検討が進められている。今後、我が国が脳科学分野において世界をリードする研究を推進していくためには、これらの方策に加え、必要な研究リソースをより多くの研究者が効率的に活用できる環境の整備に努めることが重要である。(以上)
研究振興局振興企画課学術企画室
-- 登録:平成24年10月 --