学術の基本問題に関する特別委員会(第7期)(第7回) 議事録

1.日時

平成26年7月17日(木曜日)14時00分~16時00分

2.場所

文部科学省3F1特別会議室

3.議題

  1. 学術研究の推進方策に関する総合的な審議について
  2. その他

4.出席者

委員

(委員、臨時委員)
西尾主査、小安主査代理、安西委員、鎌田委員、濵口委員、平野委員、荒川委員、伊藤委員、亀山委員、金田委員、鈴村委員、瀧澤委員、武市委員

文部科学省

小松振興局長、山脇振興局審議官、磯谷研究開発局審議官、安藤振興企画課長、木村学術機関課長、合田学術研究助成課長、中野学術企画室長

5.議事録

【西尾主査】  
  おはようございます。定刻になりましたので、ただいまより、第7回科学技術・学術審議会学術分科会学術の基本問題に関する特別委員会を開催いたします。
 それでは、議題に入る前に、まず事務局より配付資料の確認をお願いいたします。

【中野学術企画室長】  
  はい。失礼いたします。本日の会議でございますが、事務局に少し遅れて参る者がございます。大変申し訳ございません。
 資料の確認をさせていただきたいと思います。議事次第に配付資料一覧を掲載させていただいております。資料といたしまして、1から4、そして参考資料として1から4ということでお配りをさせていただいております。読み上げ等は省略させていただきますが、欠落等ございましたら、事務局までお申し出いただければと思います。
 また、資料1でございますが、1枚物のカラーの紙の下に、このような冊子を入れておりますので、万が一欠落がないか、御確認いただければと思います。
 また、配付資料のほかに、机上に、参考資料4の下に置いておりますけれども、机上資料ということで、「日本の人文学・社会科学の振興のために」という鈴村先生からの御提出の資料を配付させていただいておりますので、こちらも御確認をいただければと思います。
 また、グレーの紙ファイルで、前回までの本特別委員会の配付資料をつづったものを置いております。5月におまとめいただきました中間報告につきまして、それを基に、またそれを深める議論をしていただくわけですけれども、それにつきましても、このグレーのファイルの第6回の中の配付資料の一部としてつづっておりますので、適宜御参照いただければと思います。
 以上でございます。

【西尾主査】  
  ありがとうございました。
 それでは、学術研究の推進方策に関する総合的な審議に移りたいと思います。
 今回は、人文学及び社会科学の観点から見た学術研究における課題等について審議したいと思います。
 本日は、広島大学大学院総合科学研究科の古東哲明教授と東京大学大学院人文社会系研究科の武川正吾教授にお越しいただいております。お二人は日本学術振興会学術システム研究センターの主任研究員でいらっしゃいます。また、同センター副所長の村松岐夫先生にも御同席いただいております。本日は、御多忙の中、御出席いただきましたこと、まことにありがとうございます。
 人文学・社会科学に関しては、前期の第6期に「人文学及び社会科学の振興に関する委員会」を中心に議論が行われ、平成24年7月に学術分科会において「リスク社会の克服と知的社会の成熟に向けた人文学及び社会科学の振興について(報告)」という報告が取りまとめられております。まずは、その概要について事務局より紹介をいただいた後に、人文学及び社会科学の観点から見た学術研究における課題や中間報告に対する御意見等について、御知見の深い古東先生、武川先生からそれぞれ御発表いただき、質疑を含め自由討論とさせていただきます。
 また、机上配付させていただいておりますが、鈴村委員から事前に資料提出がございましたので、両先生の発表の後に、質疑の冒頭になりますけれども、鈴村先生から資料について御説明をいただければと考えております。
 それでは、早速ですが、事務局より説明をお願いいたします。

【中野学術企画室長】  
  失礼いたします。お手元の資料1と、先ほど申し上げました、この冊子を御用意いただきたいと思います。
 ただいま西尾先生からありましたように、人文学・社会科学につきましては、この審議会、今、第7期でございますが、その前の第6期におきまして、このような「リスク社会の克服と知的社会の成熟に向けた人文学及び社会科学の振興について」という御報告を取りまとめいただいております。文部科学省等におきましても、こちらを踏まえた施策を現在展開しているということでございます。
 この前期の報告でございますが、この冊子の一番後ろのページになりますが、学術分科会の下に、当時、人文学及び社会科学の振興に関する委員会というものが設置されておりまして、そちらで具体的な中身の御審議をいただいたということでございます。印刷博物館館長の樺山紘一先生に主査をお務めいただいておりまして、鈴村委員に主査代理をお務めいただいたということで、この特別委員会に現在御参画いただいている先生方にも御参画をいただいたということでございます。
 報告書の中身は少し大部になりますので、資料1として、概要、カラーのものをお配りしております。この概要で御説明をさせていただければと思います。
 この報告に向けての御審議ですけれども、23年5月からということで、ちょうど23年3月の震災の後に御審議いただいたということで、そういったことも踏まえまして、社会の安寧と幸福に貢献すべき学術として、どのように人間・社会等に向き合い、研究活動を行うべきかという設問を立てて、それに答えるべく、今後の人文学・社会科学の在り方などについて御検討いただいたということでございます。
 そして、矢印のところにありますように、社会に内包される問題に向き合うことを、特に当面する緊急な課題と考え、3つの視点から課題を抽出・整理し、5つの推進方策を提言したということでございます。
 3部構成になっておりますけれども、その第1章で今の3つの視点、人文学・社会科学の振興を図る上での3つの視点ということを御提言いただいています。
 まず第1は、諸学の密接な連携と総合性ということで、急速に進む専門化を優先させて細分化に陥り、知の統合や分野を超えた総合性への視点が欠落していたのではないかという問題意識の下、分野による方法論や価値観の違いが存在することを相互に理解し、お互いに補完し合うよう、十分に議論を行いながら、諸学を密接に連携して、総合的な視点で研究を進めるということでございます。
 それから、視点の2点目といたしまして、学術への要請と社会的貢献ということで、23年の災害や社会の高度化・複雑化を背景に、研究の社会的機能の発揮が期待されているということから、研究者が多様な社会的活動に参画するとともに、社会の側に研究への参加を求めることで、社会的要請への積極的な応答を試みるという視点。
 それから、視点の3点目といたしまして、グローバル化と国際学術空間ということでございます。母国語特性に固執する余り、外国籍や外国由来の活動に対して消極的な対応も稀(まれ)ではなかったのではないかという問題意識の下、受け身の形でグローバル化に対応するだけではなく、日本由来の学問領域を国際的な交流の場に引き出すことを責務の一つと考え、リーダーシップを取ることで貢献・寄与するという、このような3つの視点を掲げていただいております。
 第2章といたしまして、制度・組織上の4つの課題として、共同研究のシステム化、それから研究拠点の形成・機能強化と大学等の役割、そして3番目に、次世代育成と新しい知性への展望、4つ目に、成果発信の拡大と研究評価の成熟という4つの課題を挙げていただきまして、裏面に行きますが、第3章で、当面講ずべき5つの推進方策を挙げていただいております。
 まず、その1つ目ですけれども、先導的な共同研究の推進ということで、下記の3つを目的とした共同研究を支援する枠組みの構築ということでございますが、先ほどの第1章にございました3つの視点に対応する形で、「領域開拓」を目的として諸学の密接な連携を目指す研究、それから「実社会対応」により社会的貢献を目指す研究、そして「グローバル展開」を目指す研究という枠組みを構築すべきだと。この御提言を踏まえまして、現在、日本学術振興会で共同研究の事業を推進していただいているということでございます。
 推進方策の2つ目は、大規模な研究基盤の構築ということで、共同利用・共同研究拠点等の拠点化への支援、あるいは大型プロジェクトの推進を御提言いただいております。
 また、3つ目に、グローバルに活躍する若手人材の育成、4つ目に、デジタル手法等を活用した成果発信の強化、5つ目に、研究評価の充実ということで、研究評価につきましては、文部科学省の評価指針でも、人文学・社会科学につきましては、その特性を踏まえた評価が必要だというような注意喚起をしていただいておりますけれども、こちらでも、レビューの在り方の議論を含め、人文学・社会科学の特性を踏まえて評価の項目を充実すべきだという御提言でございます。
 このように、特にこの3つの視点ということで挙げていただいておりますものは、諸学の密接な連携と総合性につきましては、本学術分科会で、この特別委員会でおまとめいただきました中間報告でも、総合性ですとか融合性ということを現代的要請の柱として挙げていただいておりますし、また学術への要請と社会的貢献、社会との関係ということにつきましても、中間報告でも強調されているところでございます。また、3つ目のグローバル化ということにつきましても、国際化をキーワードにしていただいておりますので、そういう意味では共通する部分もありながら、人文学・社会科学の特性ということもあろうかと思いますので、本日の御審議をいただければと思います。
 事務局からは、以上でございます。

【西尾主査】  
  ありがとうございました。
 それでは引き続き、古東先生より御発表をお願いいたします。

【古東教授】  
  こんな大きな舞台の委員会で話すようにしていただきましたこと、光栄に存じます。もちろん、私よりもっともっと適切な方が人文学の領域にたくさんおられるんですが、成り行きもございますので、きょうは失礼をさせていただきます。何もできませんけれども、猛暑の中、涼しい森の散策の御案内ぐらいはできそうなので、「人文学の森」と題しまして、話をさせていただきます。
 細かい資料に関しましてはペーパーが配布されてますので、適宜そちらを御覧ください。
 それでは、森の中に入っていこうと思います。
 まずいきなりで恐縮ですが、日本の森林率について話します。環境破壊が進んだとか緑が少なくなったと言われながら、飛行機に乗って飛び立ちますと一目瞭然。日本は非常に森林が多い印象をうけます。それで、日本の森林率を調べてみますと、この二、三十年、日本は世界で第2位です。国土の7割前後が森林でございました。
 皆さんの中間報告の冒頭に、天然資源が日本は少ないとおっしゃるけども、森林資源は世界第2位であるということを言いたいわけではございません。何のエビデンスもありません。私の皮膚感覚で言うのですが、教育の充実度とか、あるいは教養文化の広がり、そういうものを含んだ広い意味での学術性が、森林率に不思議にも対応しているように感じます。つまり学術力も本国は世界第二位。あちこち世界を回ってみましたけれども、やっぱり日本の学術度はすごいのではないかなと感じております。文教施策に携わるみなさん、もっと自信をもたれてよいのではないかと思います。ただ、フィンランドにはどうしても負ける。
 その森林ですが、森林は「資源」だけではございません。イヴァン・イリイチのいう「ヴァナキュラー」な価値に満ち溢(あふ)れています。「ヴァナキュラー」な価値とは、「一般市場で取引されない価値」という意味です。「シャドーワーク」という仕方で、つまり、日の当たらない仕方で働いている、そういう恵みの側面です。例えば、資料にあります「水質浄化」とか「野性生物の棲息(せいそく)場」あるいは「絶景や森林浴提供による精神浄化機能」といったものです。
 これは農林省の、もう十数年前の統計と試みですが、こういうヴァナキュラーな価値を、強いて貨幣価値に換算すると、どれくらいになるかを試算されました。たとえば大気浄化機能を、空気清浄機で置き換えるとすると幾らぐらい掛かるか。そうしていろいろ試算なさり、総額でなんと70兆円を超える額だったそうです。営林のために農林省さんは1兆円は使っていないと思います。ですから70倍から100倍ぐらいの経済効果があることになります。予算要求の際のなによりもの説明根拠となりましょう。学術もまた森なのであれば、同じようなヴァナキュラーな価値がたくさん秘められていることになりましょう。その学術のもつヴァナキュラーな価値を、だから例えば、学術が果たす精神浄化効果だとか、文化社会の知的側面での防波堤効果だとか土台破壊防止効果などなどを金銭的に換算いたしますと、70兆どころじゃないような気がいたします。GDP比0.5%、つまり2.5兆円ぐらいが高等教育に投資されているのだとすれば、その100倍ぐらいの金銭的な効果があることになります。つまり250兆円。こんな試算を文科省でも本格的になされば、説得力ある面白いデータが得られるのではないでしょうか。
 さて、一応、例えば「野性の生命の生息圏」と申しましたが、じつはその実態はよく分からない。生命科学者の中村桂子氏のお話ですと、命名率は5%だったそうです。何の話かと申しますと、それはある世界的プロジェクトの結果です。大森林の中の巨大な1本の木を上手に完全に封印して伐採し、その中に棲息(せいそく)していた動植物すべてを捕獲しまして、その名前を調べたのだそうです。世界中の生物学者に調査も依頼なさったそうです。当然、相当数の名前が判明すると予想されていたのですが、結果は、なんと5%。95%の動植物が新種、つまりは正体不明の生命体だったわけです。命名さえなされてませんから、その生態などはまるで闇の中。森全体が不分明なものの広がりということになりましょう。
 同じことは、私の専門の現代思想の現場でもございます。この世は不分明な闇であり、分からなさに直面することを出発点にして、現代の思想は始動しています。分からないものに満ちたものを、その上で、分からないものだと自覚した上で見守っていく知の在り方を、非知(non-savoir)と申します。非知は、現代フランスの哲学者、G・Batailleの言葉ですが、この非知性という態度をベースにして、現代思想は営まれています。現代思想が、非言語とか、ノワーズとか、無根拠とか、他なる世界(Au delà)とか、死の位相などの、異他性の次元の探求に専念してきたのも、そのためです。
 生命科学も現代思想も共に、ファジーな学問ですから、そういうことなんだろうと思っておりましたら、あろうことか、非常に厳密・厳格な、宇宙物理学もまた、非知の分からなさの世界を相手にしているとのこと。宇宙全体がダークマターとかダークエネルギーといった、もはやモノではない不分明な次元の広がりだと判明したからです。ダークマターとかダークエネルギーと、一応、そう名付けられているんですが、物質(マター)ではない。これともあれとも言えない、正体不明な非知なる位相の広がりです。しかも宇宙の96%がそうだと申します。ですから、宇宙全体が非知なる分からなさの広がりである。そんなことも考え合わせますと、学術というのはそもそもが、非知の闇夜(やみよ)の海に向かってこぎ出す航海のようなものではないかなと考えられます。
 さてともあれ、そんな意味で不分明さに満ち溢(あふ)れた森ですから、当然、人為を超えた位相といわなければなりません。ヴァナキュラーなシャドーワークに満ち満ちております。そういうヴァナキュラーなシャドーワークに満ちた次元のことを、かつて老子や荘子は、「無為自然」と申しました。そんな無為自然な森ですから、人為で完全にコントロールできるものじゃありません。
 どれほどコントロールできないか。うまく数値化はできませんが、身体と病気の治癒の事例が手掛かりにはなりましょう。友人の医者の話を信じると、人間の肉体の自然活性力、つまり自然治癒力のことですけれども、それは80%ぐらいある。けれど、医者でさえこれには直接関与できない。医術が関与できるのは、この自然治癒力という名の自然活性力をいかに誘引していくのかということだけだと申します。上手に傷口を縫合したって、最終的に縫合していくのは、肉体それ自身のもつ自律的な活動、すなわち自然活性力でございます。森の場合にも、森全体の生育活動のほとんどは、森の存在それ自体が発露するそういう自然活性力の中で進行していることになります。
 もう一つ、ヴァナキュラーな価値だらけの事柄に関しましては、成熟しますには、時間が掛かるということがあります。時熟性が前提になります。もし、学術もそういう森だとしますと、森の場合の自然活性力にあたるものは何なのでしょう。これは当然、個人研究者それぞれの内から湧き上がる自由な発想、深い疑念、創意、情熱、夢、そういうものが一番の活性力のベースになっているだろうと思われます。そのことを、安西祐一郎委員は、「個々人の研究者の本当の心の奥底からのエネルギー」と実に的確に申されておりました。ここの箇所を読んだとき、ゾクゾクっとしました。これこそが、学術の森の豊かさの秘密と根幹の全てだという感じがいたしました。
 「個々人の研究者の本当の心の奥底からのエネルギー」ということを、もっと具体的に申しますと、まず、「知的な好奇心」が駆動していくのが学問の本来の形態だということです。人文学の場合にはここに、「痛苦解決」の問題系が加味されます。これは、私たち人間がこうして生まれて生きて死んでいくとはどういうことかをめぐる問題系です。つまり生老病死の問題、何のために生まれて存在して死んでいくのか、なぜ死ぬのか、死んでどうなるのか。こうした生死の暗さから由来する存在不安に応答しようとする問題のことです。この問題と格闘し、それに答えていこうとすることこそ、人文学の究極の課題でございます。
 しかし、知的好奇心が駆動する場合であれ、痛苦解決への衝動が駆動する場合であれ、問題を解いて、そしてその回答が出ることが最大の目的です。ですから、学術研究は自己目的的(Autotelic)な活動ということになります。だから学術活動の最大の歓(よろこ)びは、内発的な報酬由来の歓(よろこ)びです。つまり、成果だとか栄誉だとか金銭とかじゃなくて、当該の問題を探求することそれ自体が、そして更にその問題が解決されて痛苦が癒やされることそれ自体が、喜びにつながっていく内発的活動だということです。こうした内発的で自己目的的な営為のことを、心理学者のチクセントミハイは、「内発的な報酬由来の愉悦」と名付け、通常の営為である「外発的報酬由来の愉悦」と厳しく対比しました。
 学術研究なさる方はすべからくそうであるし、もともとそうだったはずでございます。
学術は、個々人それぞれの内発的な研究衝動とか願望をその根本の活性力とした広大な森の生育現象だと、いってよいのではないでしょうか。
 だが、しかし、ほっておきますと、営林の活動なしでは、うまくその自然の活性力が発揮されません。学術の森もそうです。学術の森が生き生きと生育するためには、学術施策という営林活動が当然要ることになりますと。文科省のお仕事とは、そしてそこにリンクするこうした審議会や委員会とは、だから森の番人にほかなりません。学術の森の自然活性力を誘引することこそ、その最大究極の仕事ではないか。そう思います。そうしますと、この委員会でも議論がありましたとおり、個々の研究者のコミュニティの側の内発的活性力の問題も重要ですし、国家とか指導者、皆さんのようなお立場に立った、森の番人としての様々な学術施策の御審議も重要になってまいります。
 閑話休題。ここで、人文学の森の特性について、若干申し添えておきます。人文学は、芸術、哲学、宗教学、それから文学や歴史学や地理学だとか、一応、「教養の華」としてもてはやされている分野です。ですが、自然科学を含む学術の森全体での位置づけで申しますと、ただの地面や土壌でございます。卑下して言うんじゃありません。自然科学者を含み、全ての研究者のその内的活動を支えているマトリックス(基盤・母体)となっているいうことです。つまり人文学は、各研究者すべての感性とか、思考能力とか、あるいは言語性とか、歴史観とか、生命観とか、存在観とか倫理性、そういうものを養っていく、そういう土壌、地面の働きをしております。ですから、人文学は、まさに「日の当たりません場所での地味な土台活動(シャドーワーク)」ではあるんですけれども、極めて重要だろうと思います。
 それでは第2の森章に入りましょう。
 学術施策の重要性、つまり森の番人の仕事、それは強調しても、し過ぎることはありません。けれど過度になれば、親切の押し売りになって逆効果。内発的要求から発す自発的活動としての学術の森の活性力が失せてしまいます。つまり、角を撓(た)めて牛を殺す。そのことを、敬愛します社会哲学者にして文明批評家のイヴァン・イリイチは「逆生産性」と名付けて、それこそが実は私たちの現代社会の根本の問題だと申します。
 逆生産性というのは、よりよくしようとする努力がかえって、人間的で自然で内発的な営みを抑制し、逆生産的な結果を生み出すジレンマのことです。懸命に、様々な人為的な施策を私たちが施すんですが、そのことがかえって、先ほど申しました自然の内発的な活力をたわめて、抑圧して、かえって生産性を上がらなくしてしまうというパラドックスのことです。イリイチは最初は神父にして神学者でしたから、教会活動の中でそのことにまず気づきました。祈りのための通路や手段であった儀式や教会教義が、精緻(せいち)化され厳格化されればされるほど、祈りの実質はネグレクトされ、いつのまにか返って、信仰の中身が空疎化する。そんな逆説に逢着(ほうちゃく)したわけです。手段(道具)は、「一定の強度を上回って成長するとき、不可避的に、その利点を享受しうる人々よりも多数の人々を、その手段が作られた目的から遠ざけてしまう」。そう彼は申しております。
 そういう事例を出発点としながら、現代社会に同じ構造のジレンマが蔓延(はびこ)っていることに彼は気づきます。例えば、通信手段の発達が、人と人との「つながり」の過密化を帰結させ、その結果かえって「つながり」が希薄化し、人間的交わりの断絶と喪失を促進させてしまうという逆説がそうです。今、若者たちのあいだに、「脱ケータイ」携帯運動とか「脱つながり」運動が静かに起こっているのも、彼ら・彼女らがこの逆説に気づいてきたからでございます。
 精緻(せいち)で合理的で精魂こめた計画経済方式が、かえって生産の非効率化を産んだ旧共産主義体制のことも思い起こされます。一生懸命計画して経済システムを整備なさったんですが、残念ながら非効率的で創造性のない経済システムに脱してしまいました。
 この逆生産性のジレンマが、21世紀の学術研究動向を、割りかし言い当てているんじゃないかなと思っております。
 21世紀に入って、特に自然科学の領域において、「新発見」や「新技術」ということに対して、大きな社会的期待が寄せられるようになりました。新発見、新技術とやわらかく申しましたが、いわゆるイノベーションですね。イノベーションに対する社会的期待が大きくなって、その結果、研究費用は巨額化し〔「平成元年度比で約3倍」(「議事録」)〕、業績競争が加速度を増してきました。そのため、学術研究の中心軸が、かつての「知的好奇心駆動型」や「苦悩解決型」から、「課題達成型」あるいは「業務遂行型」へ移行してきました。当然、学術研究を動かす内発的研究動機が、外発的研究動機へ変容してきました。研究それ自体の内在的価値、(知る歓(よろこ)びだとか、文化的豊饒(ほうじょう)さだとか、存在不安解消による精神的充溢(じゅういつ)とか、それらによる国民の心の安定いったヴァナキュラーな恵み)、に重きを置く姿勢は希薄化して、研究に由(よ)って達成される外在的成果価値である資金獲得額とか論文数だとか経済効果だとか計画達成率だとかインパクトファクター値とかランキングだとかに、重きを置く体制に変質してまいりました。
 私は余り信じておりませんけれども、トムソン・ロイターをはじめとするインパクトファクターの数値が下がってきたことの理由は、逆説的にもじつはこのことに由来するのではないかと、考えています。この十年ほどの間にみられる日本の学術力の低下の根本原因は、だから上記の「逆生産性」があらわれた結果だと考えています。かつてのように、研究者を信頼し、彼ら・彼女らの自由な内的情熱とか夢だとか創意工夫に委ねていた佳(よ)き学術施策の在り方が、方向転換してしまったことこそが元凶ではないかと睨(にら)んでいるわけです。
 そのことをイリイチの言葉で申しますと、内的な必要性(necessity)からだった学術が、外的な「ニーズ(needs)」に呼応する「学術産業」と化したからだと、言いかえてよいでしょう。喉の渇きとか飢えのように、ほんまにそれが必要であるという、そういうnecessityから学術が始まっているのが、いつの間にか外的な状況とか社会の動向が求めてくるneedsに合わせて業務をしなさい、研究をなさいという風潮が蔓延(まんえん)してきました。このためnecessityが抑圧されて、抑圧どころか悪として扱われてさえいるんです。necessityなるものは個人のたんなる我が儘(まま)、贅沢(ぜいたく)な願望、社会の窮状や時代の混迷さをしらない浮世離れの遊びと見なされる次第です。イリイチは「人間の条件の核心であった『必要』は、人間の敵ないしは害悪に変わってしまった」と申しております。こうして「ニーズ」が、現代の人間社会に蔓延(まんえん)しました。人間は、より多く、より速く「ニーズ」を満たすために、モノの生産と消費のスピード、効率性を競い出すことになりました。「ニーズ」が、世界各地共通の社会的規範として確立したことになります。
 ニーズというのはトップダウンでございまして、草の根的でボトムアップ的に内発する「必要」性を排除し、多種多様な人間の生命活動を単純化・画一化いたします。これは小安先生もおっしゃっていた、多種多様な私たちの学術活動が単純化されて画一化されるということです。個人の自由や自律や独創性を強調しながら、画一的なもの、右にならえ式の単一性が横行いたします戯画的状況。これをイリイチは「現代の貧困化」と呼びます。個人の内発的情熱や願望を信頼せず、「イノベーション」を声高に叫んでもお説教、たんなる野蛮です。
 先日、政府筋から「破天荒な異能vation」を求むとかいうスローガンが提唱されました。破天荒な異能vationとは、森の例えでいいますと突然変異のことです。森はシャドーワークの中で、ある日突然、内的に必要だからこそ突然変異をするんです。なのに、森のどこかに生えている樹木の前に行って、「おまえたち、破天荒な異能vationをしなさい」と言って、肥料や水をどばどば与えようというわけです。でもそんなことすれば、豊かな可能性を秘めたせっかくの若木も枯れてしまいます。まさにこれこそ「現代の貧困」の典型です。
 このあたりのことについては、金田、高橋、甲斐の各委員が以下のような名言を吐かれておりますので、資料を参照なさってください。
 さてでは、どうしたらいいのでしょう。
 自然活性力のようなものが学術の森でも中心でした。ならば、自然の声を素直に聞けばよい自然の息遣いに忠実に従う施策こそが一番重要ではないか。自然の息遣いとは、絶対贈与の息づかいです。宇宙ひろしといえども、人間だけです、give and take が当然と考えている生物は。人間以外の全てのものは、give and give and give……。take〔見返り・成果〕なんか求めません。見返りを求めてくる、米とか水とか乳牛とか吹き来る風とか、御覧になったことがありますか。もしあれば気色悪いですよね。自然界にある全てがそうです。汚れた排気ガスを出している悪い工場主だから、おまえには空気をあげないとか、あなたは善良な市民だから空気を与えましょう、そんなことをいう大気はありません。あるいはマンゴーの樹があって、君はいたずらな猿だからマンゴーをあげないとか、あなたはいつも優しいリスだからマンゴ食べていいですよなんていう、そんなマンゴーの木もありません。ひたすら与える、ただそれだけです。
 その典型が太陽です。太陽は、巨大なヘリウム原子炉ですけれども、熱エネルギーを与えて与えて与え尽くす、そういうものでございます。こんな在り方を、古代ギリシャのストアの哲学者たちは、Κατά φύσιν ζείν(kata physin zein=自然に従って生きる)と名づけ、そういう在り方こそ至上の生き方だといたしました。学術施策の基本もこれでいいのではないかと思っております。つまり太陽になる。ですから、これもつい最近でしたが、文科省から、さすがと思いましたが、給付型奨学金制度を採択するというニュースが飛び込んできましたが、これなどは典型的な太陽政策です。
 あるいは、この委員会でもデュアルサポート方式が提唱されました。言葉は悪いですが、昔の運営の仕方を、やっぱりもう一回見直して強化しようと、運営交付金とか、私学助成金とか、それをもう少し充実させよう。こういう声があがってきたことも、大変貴重なことと考えております。それを「ばらまき」というのではないということを、フランスの現代哲学者、ジョルジュ・バタイユは「普遍経済学」という言い方で表現いたしました。これはgive and takeを前提とする近代経済(限定経済)に対して、来るべき時代の経済、太陽が一番のトップモデルですから、太陽経済と名付けました。自然界はなべて、give and give and……、です。森羅万象はこの方式で見事に存在しているわけですから、これでうまくいかないはずはない。こういうのはばらまきじゃない。自然の摂理です。もしこれを「ばらまき」だというのなら、自然の世界全体が「ばらまき」ということになります。だからむしろ、ばらまかない人間だけが「不自然」ということになりましょう。つまりせこい、吝嗇(けち)ということになりましょう。ばらまかなければ、森が典型であるような自然界の豊饒(ほうじょう)さのようなものは、人間世界には実現できない、そう言ってもよいでしょう。学術は森だとすれば、学術は人間界には育たないという皮肉な結果になりましょう。
 太陽経済は夢物語ではありません。それは、メセナの活動がそうなんです。実際やりまして、ガリレオ・ガリレイとかダヴィンチとかを、いわばこの世に出し、かつルネサンスの花を開かせたわけでして、それの現代版が学術振興会だと私は考えております。詳細は申しません。 ですから、「人民よ国家よ、太陽たれかし」。そう願わずにはおれませんと。
 そのポスターも作りました。アラン・ドロンさんに出演していただきまして、太陽経済とか、新しい時代の学術システムの太陽構想のポスターは、こういうやつでございます。『太陽がいっぱい』。ジョークでございます。
 さて、当初私に与えられた任務は、人文の森のあらましを紹介することでしたが、もう時間が来てしまいました。詳細はプリントを御覧ください。特に面白いのは、考古学や文化人類学や歴史学の研究者の方々です。世界中どこに行きましても、歴史的遺産や発掘現場には日本の研究者がおられ、汗水垂らしながら日々黙々と活躍されてます。諸外国と比べて格段の差があります。恐らく、日本人の勤勉実直な情熱、器用な職人芸的手先の技術や繊細な感性、そして堅実で信頼感抜群の科学研究補助費(海外学術調査補助費など)が、そのバックボーンになっていると推察されます。
 それから、特記したいのは、3番目に記載した仏教研究です。余り知られていませんが、日本は仏教研究の世界的メッカです。インドでは仏教自体が廃れましたし、中国では政治体制の影響から仏教研究は衰退しました。明治期以来、黙々と仏教研究を続けてきたのは、日本だけです(台湾も)。いやでも面白い重要な研究が日本で生まれます。だから例えばSAT、「大正新脩大藏經テキストデータベース」。これは日本仏教学会と「次世代人文学開発センター」が中心になられて、あの万巻の書を全部テキストデータ化したものです。世界中からアクセスがあります。人文情報学(Digital Humanities)の最先端研究事例。「日本の学術がオープンに国際的な場でもって評価されて」(安西祐一郎「議事録」第五回)いる好例ではないでしょうか。        
 そのほか、臨床哲学(大阪大学文学部臨床哲学研究室)、東方美学研究会(広島大学・神戸女学院大学など)、死生学(東京大学「死生学・応用倫理センター」)、感性と論理の総合科学(慶應義塾大学「感性と論理のグローバル研究センター」)、野性の科学(明治大学「野性の科学研究所」)などが、活溌(かっぱつ)な活動をなさっており、今ではそれぞれが世界的活動の中心となっておられます。
 それから、人間文化研究機構の民博とか歴博とか日文研や国研などでも実に面白い研究が、なされております。
 さてブリリアントな一部のこうした美林プロジェクトばかりでなく、人文学は「教養文化のいしずえ」という姿形で、学術の森の裾野や国土の地味な地盤を形成しています。「底上げ的なレベルでの教養」(亀山郁夫「議事録」第二回)としてのこうした人文学の活動は、シャドーワーク化しており目立ちはしませんが、とても重要です。「明日、明後日、来年にはすぐには製品化にはつながらず、利益もでず産業とは直結しないけれど、やはり〈知の根本〉を支えるために、国民の税金を使わなければいけない」(高橋淑子「議事録」第二回)。それこそが「民意」でしょう。一般書店の本棚の賑(にぎ)わいを御覧になれば、そのことは一目瞭然です。歴史書、思想書、文学書、語学書、美術書等々。これらの執筆に、本国の人文学者の相当部分が日々尽力しておられます。人文学が日本の教養文化という裾野を形成し育成している如実な証左です。これこそ、「国力の源泉」そのものではないでしょうか。
 御清聴ありがとうございました。

【西尾主査】
 古東先生、どうも貴重な御講演ありがとうございました。非常に勉強になりました。ありがとうございました。
 それでは、引き続き、武川先生より御発表をお願いいたします。20分間という短い時間ですが、どうかよろしくお願いいたします。

【武川教授】
 東京大学の武川と申します。学術システム研究センターの主任研究員を仰せつかっております。
 今日、ここで私が話すのが適当なのかどうか、よく分からないのですが、古東先生もおっしゃっていたのと同じで、成り行き上、出てくるということになりました。
 この委員会の趣旨も正確に理解しているわけではないのですが、事務局の方とお話ししているときに、理科系の先生が多く、それで文科系のことに関して、必ずしもよく分からないというようなことがあるということで、文科系の実情をお話しいただければということで、そのつもりでやってきました。
 私もここ10年ぐらいの間、大学の中で全学の委員会などに行って、理科系の、それまで余りお付き合いのなかった理工系の先生方とお話しする機会が増えてきました。それから、学振の学術システム研究センターの主任研究員会議でも、理科系の先生方とお付き合いする機会が非常に増えてきました。
 その中で、特に自分としては違和感を持って接したということはなかったのですが、ただ、理科系の先生方から、一体文系はどういう研究をしているんだ、どういう研究生活をしているんだというようなことを、よく聞かれることがありましたので、それに対する1つのお答えということで、お話をできたらと思っております。
 最初は一般的な話もしようかと思ったんですが、時間も限られておりますので、個人的な体験を語る方が、むしろいいのではないかと思いまして、最初に私がどういう研究生活を送ってきたかというようなことを簡単に御紹介しながら、それから、あと事務局から、学術研究の推進方策に関する総合的な審議についての中間報告というのを頂きましたので、それを読んでの感想ということで話をしていけたらと思います。
 お配りした資料を補足する形で、その『PowerPoint』を使いたいと思います.まず経歴なんですけれども、81年に修士課程を修了しました。大綱化前、それから重点化前の時代なので、今の大学院生からすると考えられないんですけれども、当時は修士論文を書くということが研究生活スタートのライセンスのようなところがあり、また、博士課程に進学するというのは就職待ちの状況。多くの人が博士課程の途中で退学して、研究、あるいは教育職に就いていくという、今から考えると幸せな時代でありました。
 私の場合は、82年に、現在、国立社会保障・人口問題研究所というところに統合されましたけれども、当時、特殊法人だった社会保障研究所というところの研究員に採用されまして、そこで5年間、研究をいたしました。それから87年に中央大学に移り、それから93年に東京大学に移り、現在に至っております。
 40代のときまでは、余り学内行政とか、こういう関係の仕事というのはやっていなかったんですけれども、2006年ぐらいから、やたらと学会関係の仕事とか、学内行政の仕事とかが回ってくるようになりまして、一昨年から学術振興会の主任研究員ということをさせていただいているという、そういう経歴を持っております。
 それで、じゃあ、おまえは一体どういう研究をしてきたんだということなんですが、中間報告の中でも、専門分化が余りにも進んでいるというようなお話だったんですが、私の場合は、関心のままに、いろんなテーマに移り動いてきたというのが実際のところでありまして、この道一筋みたいなところはありません。大きく分けますと、大体それぞれの時代で社会学の実証的な研究と政策的な研究と理論的な研究というのを、それぞれやってきました。
 それで、ちょっと先ほど申し述べるのを忘れましたが、学振の方では社会科学の班の研究員ということになっています。ところが、ここでタイトルが「人文学・社会科学の現状と振興」というふうになっていて、ちょっと大それているんですが、社会学という学問が文学部に所属していて、しかも人文学と社会科学全体の中で、割と中間的な位置にあるというところから、両方について語ってもいいのではないかと思い、「人文学・社会科学の現状」というような大それたタイトルを付けさせていただきました。
 それで、話はもとに戻りますが、80年代は主に地域調査をやっており、それから政策研究というところでいうと、社会保障研究所というところにいたこともあり、福祉サービスの、さっき古東先生はニーズという言葉は嫌いだと言いましたが、そのニーズ推計、必要推計というものを行い、あるいは、当時、イギリスの福祉サービスについての紹介を行うという形でありました。それから、理論的なところでは、当時支配的であった、東大の総長でもありましたけれども、大河内理論の批判というようなことを行っていた次第です。
 それぞれの研究の内容について余り語る時間がないので簡単にしますが、地域調査をたくさんやったというところからすると、日本の自治体の場合、大体10年ぐらいの周期で地域計画、あるいは地域政策というのが変化、福祉的な方向と産業的な方向へ変化してきているというようなことがわかってきました。それから、先ほどのニーズ推計ということでいいますと、当時まだ介護保険なども存在していませんし、高齢化というのが始まったばかりで、一体どういう社会政策、あるいは社会サービスが必要かというようなことについて、みんなが見当が付かないという状況だったんですが、そうした中で、海外の事例なども参考にしながら、今後、日本でどれくらいのサービスが必要になるかというようなことの推計などを行ってきました。
 実際、介護保険が2000年から始まりますが、90年代に、そのための準備ということで、将来、どれくらい施設や在宅サービスが必要になるかというようなことが関心の的だったんですけれども、そういったものに対する推計なども行ってきました。
 それから80年代ということでいいますと、今、介護といっても、非常にありふれた言葉になっていて、社会学などでも大学院生の研究テーマとして非常に一般的なんですけれども、当時、ワープロというのが普及し始めてきましたけれども、辞書には介護という言葉が登録されていなくて、平仮名で「かいご」と打ちますと、後悔の方の悔悟が変換されて出てくるというような状況でありました。
 また、当時、サービスのメニューはどうなっているんでしょうなんていう調査をしますと、食事のメニューを提出されてくるというような状況でもありましたし、今ではヘルパーという言葉が非常に一般的に普及していますけれども、一体、それが家政婦さんとどう違うのかというようなことも分かっておりませんでしたし、それから認知症の患者さんに対して、どう対応していいかというようなことも全然分かっていなかった。
 それから、今でこそNPOというのは非常に普及しているんですけれども、民間非営利セクターというのが、そもそも理解されていない状況で、ボランタリーセクターというと、ボランティアの集合であるというように考えられていた時代でありました。そういうときに、一応、先進諸国の事例などを紹介してきたということであります。
 それから、理論的なところでは、社会政策というと、明治時代からある学問で、非常に伝統的なんですけれども、社会政策と社会保障、社会福祉の関係というのが非常に不明確であったところがあり、この点について論文を書くというようなことをやってきました。
 それから、90年代になりますと、日本の福祉国家形成についての実証的な研究を行う。それから政策面でいいますと、もう亡くなりましたけれども、隅谷三喜男先生が会長であった社会保障制度審議会というのが95年勧告というのを出しているんですが、そのためのお手伝いをするというようなことをしていました。
 それから、理論的なところでいうと、1980年代ぐらいから、世界的にフェミニズム運動というのが起こってきていて、特に社会科学の世界でのジェンダー視点というのを入れてくるということが非常に重要になってきたんですけれども、比較福祉国家研究の中に、当時欠けていたジェンダーの視点を入れるというようなことをやってきました。
 それで、それは具体的にどういうことだったかというのは、余り話す時間がないんですけれども、日本の福祉国家というのが、そもそも西洋との比較で外れ値であるというような理解が一般的で、それは家族や企業といった日本的な特殊性から説明されるという議論が一般的でしたが、日本の特徴はむしろ経済的な発展の段階の違いと、それから人口の高齢化のずれから生じるものであって、必ずしもそういう文化的な特性に由来するものではないというようなことを仮説として述べたということであります。
 時間もなくなってきていますので、ちょっと研究の方は飛ばしまして、プリントの方でいうと2番目以下のところで、文系と理系について、お話をしたいと思います。
 一口に人・社とか、あるいは文系という形でくくられることが多いんですけれども、人文学・社会科学の中というのは、その対象と方法というのが非常に多様でありまして、人・社はどう思っているのかというようなことを、よく言われるんですけれども、なかなか一口で語れないというような状況です。
 一方の極に理科系とかなり近い心理学や経済学のような学問がありますが、その対極に、日本でいわゆる「哲・史・文」と言われている領域があります。同僚の月村先生によりますと、この「哲・史・文」という言い方は日本で非常に一般的なんですけれども、明治37年以来、日本で定着したもので、特に諸外国で一般的であるということではないようであります。欧米では、諸学を並列して書くというのが普通のことであるということであります。
 それから……。

【西尾主査】  
  すいませんが、時間が来ておりまして・・・。

【武川教授】  
  そうですね。

【西尾主査】  
  後5分以内で、全体のディスカッションを開始したいので、どうかよろしくお願いいたします。

【武川教授】  
  はい。分かりました。
 それで、あと理解と文系のそういうことでいいますと、特に文学部の場合、漱石が『吾輩は猫である』で書いたような大学教師像というのがありまして、実際にはそういう教員というのはほとんどいないんですけれども、それをある程度理想化するというような傾向があります。
 それから、また大学についても、これはケネディがメンスフィールドからの引用ということで書いたところですが、イノベーションもさることながら、真理を追求するということに重きを置くというように思っている人が多いと思います。
 研究スタイル・研究費・研究時間ということなんですが、先ほど多様と言いましたけれども、文系の中でも実験室にこもって実験をやっているという人たちは多くあります。それからフィールドワークをやっている人もいますし、それから発掘を盛んにやっている人もいますし、書斎に閉じこもっている人もいます。ただ、共通して言えるのは、理系の先生と違って、学内にいる時間が少ないということがあるかと思います。この辺がなかなか理解されにくいところです。
 よく理系の先生と話していて問題になるのが研究室ということの意味です。文系の方でも研究室という言い方はあるのでありますけれども、理系の研究室と同じような意味で使われているわけではありません。
 あれ。また消えちゃった。

【西尾主査】  
  そうしましたら、「中間報告」に関する感想は、この資料でお願いできますか。

【武川教授】  
  そうですね。すいません。
 それで、ちょっと時間も押して、過ぎていますので、「中間報告」に対する感想ということを述べさせていただきたいと思います。
 デュアル・サポート・システムというものについて御指摘いただいていて、これは非常に有り難い指摘だと思いました。実際、運営費交付金が削減されてきていることによる疲弊というものは非常に大きくて、特に地方の国立大学の仲間から、よく聞くことですけれども、図書費の打切りなどもあって、なかなか研究が進みにくくなっているという現状があるようです。
 それから、直接経費、間接経費についてもですが、基盤的経費が削減されているので、間接経費によって、その不足分を補っているというような現状がかなりあります。大学によって間接経費の使い方がかなり異なっているようです。本来、研究環境の整備に使われるべきということなのでしょうが、なかなかそういうふうにならない状況があります。
 また、現状維持をするために、競争的資金を常に獲得していなければならないという状況があり、毎年、年中行事として科研費申請、あるいは報告書申請などに関する時間が、かなり割かれているというのが現状です。基盤的経費と競争的資金が車の両輪として非常に重要であるということは痛感しております。
 文系の場合、研究費もさることながら、研究時間というのが非常に重要になってくる。したがって、研究費が研究時間の増大につながるような形での仕組みというのが重要ではないかと考える次第です。
 中間報告の中では国際交流の意義が強調されていました。私自身、この10年間、日中韓との間で、いろいろな形で国際交流に関わってきているのですが、その中で感じているのは、英語も重要なんですけれども、人文学・社会科学の場合には、母語というものも非常に重要になってくるということであります。ですからバイラテラルな交流の積み重ねというようなことも必要になってくるかもしれません。
 それから、東アジアで、日中韓、あるいは台湾などと交流していて感じるのは、英語ももちろん重要ですが、時に日本語がリンガフランカとして使われるというようなこともありました。これは恐らく過去の留学生に関する政策の成果だったかなという気もします。
 中間報告の中で国際発信のことが言われておりますが、特に英語万能による弊害というようなことも感じないわけではありません。特に英文のジャーナルに出す場合に、英語圏のレフェリーに関心のあるテーマでないと採択されない、されにくいというような傾向がある。
 それから、社会科学の場合、国単位の研究というのも多いわけで、その場合、英語圏で活躍している人が必ずしも国内のそれぞれの社会のことを分かっていないというような場合もありますし、逆にそのことによって、日本が海外で誤解されているというようなことも感じることが多いです。

【西尾主査】  
  そうしましたら、あとは、国際ネットワーク形成と博士課程と専門分野のことにつきましては、皆様には資料をベースに参照いただくことにいたします。時間が押していますので、誠にどうもありがとうございました。貴重な発表をいただきましたことに心より感謝いたします。
 それでは、自由討論に入る前に、鈴村先生から机上配付で頂いている資料をベースに説明をお願いいたします。非常に重いことを書いていただいております。

【鈴村委員】  
  時間が押していますが、10分か15分ぐらい…。

【西尾主査】  
  10分でお願いします。

【鈴村委員】  
  それでは10分いただくことにします。

【西尾主査】  
  はい。

【鈴村委員】  
  鈴村です。最初に2点の前置きを申し上げます。第1に、樺山委員会に私も主査代理として参加しましたが、この間の半年程度はケンブリッジ大学に招聘(しょうへい)されて留守にしたため、十分な貢献ができませんでした。そこで、私が重視する論点を樺山報告に追加して、議論の整合性を計りたいと思います。これが第1の前置きです。
 第2に、私は第20~21期の学術会議の副会長を務めて学術と社会委員会を統括して、人文・社会科学と自然科学のインターフェースを作って社会にリンクしていく方法について、様々な対話の努力をしました。その経験を踏まえて発言したいと思います。
 学術会議も含め、人文学・社会科学と自然科学は学術の車の両輪だという比喩が、頻繁に用いられています。しかし、研究者層の厚みとサイズ、研究費の配分額など、どの基準から見ても、人文学・社会科学と自然科学の規模格差は歴然たる事実です。この格差を正確に反映して自転車の車輪を作れば、前輪が巨大で後輪が極小な初期の自転車のようになります。この自転車にはブレーキがありません。強引にブレーキを掛ければ、前のめりの転覆は不可避だからです。疾走する自転車を止めるためには、巨大な前輪に乗ったドライバーが、飛び下りて止める他はないのです。副会長時代の私は、比喩としてもっと適切なのは飛行機の比喩だと主張していました。飛行機には右翼と左翼の2つの主翼がありますが、主翼の一方は理工学、もう一方は生命科学であると考えて差し支えないと思います。それでは人文学・社会科学の位置付けはどうなるかといえば、私は尾翼という位置付けこそ相応(ふさわ)しいと思います。サイズとしては小さくとも、尾翼のない飛行機は安定して飛ぶことはできません。人文・社会科学の小さな尾翼に的確に補完されてこそ、巨大な自然科学の両主翼も均整のとれた貢献ができるのだというイメージを、学術の振興・助成を考える立場の方々には、是非とも銘記していただきたいのです。少し長くなりましたが、これが私の第2の前置きです。
 樺山報告には、人文・社会科学への振興・助成のために、「社会の側に研究への参加を求める」とか、「分野間連携による共同研究」を推進するとか、「理工系のプロジェクトの中に人文学・社会科学が積極的に参画する」など、やや他力本願的な救済措置を匂わせる表現が登場しています。私は、人文学・社会科学の振興・助成の焦点は、学術の王道を地道に進みつつ、振興・助成の光が届かなかった研究にまっとうな機会を提供することにこそ、結ばれるべきだと確信しています。
 「社会の側に研究への参加を求める」とは具体的になにを意味するかは明らかではありませんが、「研究成果と実務を橋渡しできるような実務者の参画」を求めて「関連分野の知見や実社会での経験を有する実務者を含めた審査・評価を試行する」という表現から推察して、この主旨の提言が導く社会的帰結について、私は強い留保と警告を述べる義務を感じています。大学院教育を受けて学位を取得して、厳格な査読制度雑誌で評価を確立する経験を重ねた経歴だけが、優れた研究成果を見抜く能力を作るという神話に囚(とら)われるのは、学者の愚かな独善です。とはいえ、社会的な経験を重視した人事によって公共政策大学院などに大量に導入された実務経験者が、自らの行政経験などを神話化して、次世代の研究者の教育の《海綿》状態を産んだ実例を、我々は自戒の材料とする必要があります。分野間連携による共同研究も、連携する各分野で国際的に認知された規律が確立されていないかぎり、共同研究計画を戦略的に構成して巨額な助成を獲得したうえで、研究の実態は国際標準の厳密な評価には耐えない成果に軟着陸する危惧が払拭できないと思います。さらに、理工系のプロジェクトに人文学・社会科学が積極的に参画するというプランも、学術のフロンティアの拡大に貢献する程の研究は例外的な事例に留(とど)まる懸念があります。卓越したプロジェクトを助成・推進の対象とすることに躊躇(ためら)う理由はありませんし、助成と推進の新たな制度が必要ならば新制度の設計に反対するつもりもありません。とはいえ、新規の助成・推進制度の設計作業と並行して、人文学・社会科学の研究に対する評価制度を再検討することこそ、いま必要な課題だと私は考えています。 
 現行の評価制度は、申請された研究計画を数値化可能な評価基準とピア・レビューを用いて評価しています。この制度は、研究助成の申請側にも審査側にも多大な負担感と疲労感を生み出して、評価制度に対して怨嗟(えんさ)の声さえ挙げられているのが現状であります。これに対して、人文学の大宗を形成する哲学・史学・文学の研究者と社会科学の研究者の一部には、現在の社会で支配的な価値を実現する観点からシステムの機能様式を事実の問題として分析・認識するとか、望ましいシステムを設計して現在の価値の一層の実現を図るなど、既存の価値に順応的な研究のスタンスをとることを拒んで、あるべき社会(counterfactual society)やあるべき人間(counterfactual individual)の姿を提示することに、学術的な意義を認める研究者も数多くいます。ピア・レビューの制度に対して、このスタンスを堅持する人びとは以下のような認識を持っているように思われます。
(1) 人文学・社会科学の有用性を測る時間的スケールは、自然科学系の学術とは異
なって遥(はる)かに長い。人文学・社会科学は自然科学系の研究理念に追随するのではなく、スロー・サイエンスとしての独自のアイデンティティを確立して、固有の評価制度を確立すべきである。
(2) 人文学・社会科学の多くは、雑誌論文よりは著作の形で研究成果を評価する。
単年度での業績評価は必ずしも実態を反映せず、研究業績が正当な評価を受けるまでには一般に数年以上の期間が必要であり、引用頻度やインパクト・ファクターなどの数値測度は的確な評価の手掛かりにはならない。スロー・サイエンスとしての人文学・社会科学はスローな評価測度を確立して、独自の評価機関を設立すべきである。
 私はピア・レビューの仕組みは最善の評価制度ではないまでも、他の仕組みと比較すれば優れた点が多い次善の制度だと考えています。とはいえ、スロー・サイエンスとしての人文学・社会科学に相応(ふさわ)しいスローな評価測度が提案されて独自の評価機関が設計されれば、現存の評価測度と評価機関を絶対視すべきではないと考えるべきだと思います。問題は、(1)と(2)を柱とする考え方に基づく代替的な評価制度は、日本学術会議第1部で粘り強く要請を繰り返しても、一度も提案されたことがないということです。この委員会の検討作業において、評価制度の代替的なモデルが明確化され、今後の学術の基本制度の設計に具体的な選択肢ーー少なくともピア・レビュー制度を補完する補助制度ーーを提供されることを、私は大いに期待しています。
 机上配布された私のメモの3頁の後半以降は、私が申し上げたかった2つ目の論点に係わっています。与えられた時間が既に尽きていれば、これは次の機会に委ねることにしますが…。

【西尾主査】
 先生、これらの記述は重要な点だと思います。是非ご説明をお願いいたします。

【鈴村委員】
 それでは主査の御指示にしたがって、簡潔に申し上げます。私の杞憂(きゆう)であれば幸いですが、現在の学術政策には将来に禍根を残す大学の二極分解化のイメージがあるように懸念されてなりません。それは、現存するーー《過剰》なーー大学の意識的な淘汰(とうた)も視野に収めて、一群の研究大学とそれ以外のーー教養教育と就職支援に主眼を置くーー多数の大学への二極分解を促進する政策を立案して、理工学・生命科学のみならず、人文学・社会科学も含めて、研究助成の焦点を前者に集中するイメージです。教養教育と就職支援に主眼を置いた大学のうち、研究の意思と能力を持つ一部の大学は、研究大学のサテライトと位置付けられて、その限りで日本の大学の研究機能の一端を担うという展望が持たれているように、私には思われるのです。誤解を避けるために言えば、私は日本の少子化と高齢化のトレンドのもとで、いかにも過剰な日本の大学群の競争的な淘汰(とうた)は殆(ほとん)ど不可避的だと考えています。とはいえ、しばしば日本の大学制度を考えるうえで参照標準として意識されるアメリカ及びイギリスにおける大学の二極分解は、意識的な学術政策によって誘導されて誕生したものではなく、競争プロセスの結果として、自生的に誕生したものであること、しかも競争プロセスが生み出した優劣の階梯(かいてい)は、固定的なものではないことに、注目する必要があるのです。鏡の国でアリスが経験したように、同じ位置に留(とど)まるためでさえ全力で走る必要があり、現状を改めるためにはその二倍の速度で走らなければならないという競争の規律こそ、学術の世界でいま必要とされているものではないかと思います。人文学・社会科学の助成・推進の方策を考えるうえでも、今後不可避的であると思われる大学の二極分解化に関してどのような展望と哲学を持つかという点が、極めて重要であるように私には思われてなりません。既存のヒエラルキーを機械的に尊重して、大学の二極分解化の構想の下敷きにすることに、私は大きな疑問符を付けたいと思います。
 最後に1点申し上げます。これまでにも何度か、人文学・社会科学はお金が掛からないという話がありまして、理工学・生命科学と比較すれば全くそのとおりだと私も思います。とはいえ、この事実は人文学・社会科学は研究を助成・推進する措置を必要としないことを意味してはいません。第1に、人文学・社会科学は巨大な実験設備などは必要としないにせよ、図書館・文書館のように、研究者が世代を超えて収集・継承していけばこそ役割を果たす学術のインフラスチラクチャーを必要としています。大量データの収集・処理を継続的に行っていくことの必要性も、併せて強調したいと思います。第2に、人文学・社会科学の研究者は、静寂な研究環境の確保を絶対的に必要としています。また、先端的研究の過程では、国際的なヒューマン・ネットワークの形成と維持も、非常に強く必要としています。人文学・社会科学は、自然科学と比較して巨額な研究資金の必要度は低いとはいえ、決して安く見積もるべき学術分野ではないのです。
 かつて私は、若い生命科学系の研究者が、彼女の目には微々たるものに思われる人文学・社会科学の助成規模をあざ笑って、「そんな助成では私の一本の実験さえ支えられない」と言い放つ現場に立ち会って、その狭量な不見識に慄然りつぜん)としたことがあります。小さな尾翼には巨大規模の資金投入は必要ではないにせよ、小さな尾翼なりに必要な助成・推進措置をおざなりにしては、日本の学術の安定的な飛翔(ひしょう)の条件は整わないというべきです。

【西尾主査】
 本当に貴重な御意見、ありがとうございました。
 それでは、議論に入りたいと思います。きょう、御発表を頂きました方々に再度、心よりお礼申し上げますとともに、皆様方から、御発表への質問、意見等、自由に御発言を頂ければと思います。何かございませんでしょうか。
 そうしましたら、きょう、お越しいただいております日本学術振興会学術システム研究センターの副所長の村松先生、何か御意見ございませんでしょうか。

【村松副所長】 
 数分を頂いてよろしいでしょうか。鈴村先生の御意見を伺っておりまして、本当にそのように思います。人文学も社会科学も、研究のスタイルが自然科学系と相当違っていて、例えば論文より著作の重要性ということがかなりいろいろなことを含んでいいます。ロールズの「Justice as fairness」であっても、論文のときよりも、書物になってから世界的なインパクトを持ったし、グレアム・アリソンの「Essence of Decision」というのも、APSR(American Political Science Review)という有名な雑誌に出たときに、おっと思ったけれども、本当に影響は、書物になってからであったように思います。
 事ほどさように、種々のことを、そして、最後におっしゃった、研究時間のゆっくりとしっかり考えていく研究時間の環境を確保すること。それと国際的なネットワークの刺激の中でそれをやっていくことということについては、全く本当にそのとおりだと思うんですが、1つだけ、おっしゃったことで、ピュア・レビューが次善の制度にすぎないということで、それもそのとおりなんですが、これはどうしたらいいでしょうというので、社会選択の先生からもまた御意見を伺いたいところです。今のやり方でやると多分多数決的になってしまう危険(少数の方法や価値を除する危険)があるということの御指摘かなと思うんですけれども、例えば今、学振で試みております特設分野というところで、最初の段階の審査をした方が第2段階でも審査をして、その中にいろいろな人を含むことができれば、ほんの1人の人の支持でも非常に強くなれる、つまりその価値を説明できれば多数者や流行に逸脱しているものであっても拾い上げるという可能性を期待しているシステムですが、そういうところがうまく働くかどうかを我々としては、もう始めておりますけれども、見ていきたいというように思っております。
 それと、もう一言だけよろしいですか。先ほどお金が掛からないというような意見がありましたが、とてもそんなことは言えなくて、申請の数を見てもどんどん、どんどん増えているじったいです。人文学も社会科学も、特に考古学とかいうようなところは大変な費用の掛かるところだと思います。
1つ、国際発信、国際的なプレゼンスが弱いというふうに言われていることがずっと大きなテーマになってきておりまして、私、気になっているので感じていることを申し上げたい。確かにそうなんです。そうなんですけれども、きょうの御発表にあったように、自然に例えば本屋さんの書棚を見れば人文学・社会科学系のものがずらりと並んでいるところに見るように、そこにそれが与えている一般国民に対する影響があり、そのことが、それぞれの人の国際取引や研究会議に自然に情報を提供しているような効果はあるんですね。
 しかし、先端の論文として、なぜ一番いい研究が出ていかないのかということが私は気になります。経済学はやっております。経済学はやっておられますけれども、政治学は分かれております。すなわち、国際舞台に出ていくスタイルを追究する方と、優れているけれども、国内に向かって難しい問題を解いて解説するということを重要視する方と分かれております。分れております。これは調和のとれる方向を考えることができると思っているんですが、フィロソフィーのようなものとして、1つの、私がこの数年間、センターにおりましてぶつかっているステートメントは、ある教授の次の言葉である。“日本語による研究が世界一である”。例えば言語学、日本に関する言語学、それから、歴史学がそうですけど、そういう事例をお考えだと思うのですが、我々はドイツのそれが必要だとなれば、ドイツ語の勉強をして読むんだから、外国人だって日本語を読んで学ぶという期待をしていいのではないかという御発言がある。これはなかなか強力な発言であります。
 もう1つの気になる発言として、日本人においては英語よりも日本語による表現力ではじめて、高いレベルの思考、思想に到達しているということをどう考えるんだということがあるんです。それで、共に英語で表現することに否定的で自信を持った発言です。私は、これらの二つに、日本における良質な研究が今、国際語で、今は英語ですが、その国際語の場に出ていくときの障害になると考えているが。私自身は、積極的に考えていきたいと思っています。
 ただ、英語で書くということは、その間に日本語で良質の論文を5つ書けるということになるとおっしゃる非常に先端的な、世界でも先端的な研究をしておられる方がいらっしゃるんです。経済学にもいらっしゃるんですが、そういう方との論争はなかなか大変であります。この方向性について、是非インストラクションもしていただきたいし、協力もお願いしたいと思っております。どうもありがとうございました。

【西尾主査】 
  どうも村松先生、ありがとうございました。最初のことに関しまして、もし鈴村先生の方でお答えいただけることがありましたら、是非お願いいたします。

【鈴村委員】 
 お答えになるか心もとないのですが、村松先生が最初に触れられたピア・レビューの次善的な性格について、一言申し上げます。私は、次善の仕組みとは、それ程まずい制度ではないと考えています。最善の制度設計という青い鳥を追って空論を重ねるよりは、次善の制度によって現状の改善に乗り出して、発見された欠陥に対処する過程で徐々に制度の適確性を高めることが、我々の手が及ぶ範囲では一番もっともらしい道筋だと思います。
 ピア・レビューの仕組みに戻っていえば、複数のレビュワーが持ち寄る評価のリストを集約して評価委員会の総合的な評価に到達する過程では、殆(ほとん)どの場合に平均点主義が採用されているのではないかと思います。この方法では、特定のプロジェクトの評価に際して
必ずしも専門的な知見を持たない大多数のレビュワーの評価と、この研究プロジェクトが持つ潜在的可能性を鋭く見抜けるレビュワーの評価が同等のウェイトを持って集計されるため、大胆で革新的なプロジェクトが相対的に不利になる可能性は否定できません。私は目利きを自認して、自らのクレディビリティを賭ける覚悟を持つレビュワーの評価には、平均点主義が取りこぼす可能性があるプロジェクトを救い上げる重要な役割があると思います。もちろん、ピア・レビュー制度と平均点主義の凡庸だが安全な組合せから逸脱すれば、評価機構の失敗のリスクが高まることは事実でしょう。とはいえ、成功と失敗は表裏一体のものであり、少数の失敗を恐れて多数の成功を収める機会を逸することの方を重く見る立場にも、一理あると考えられるのではないでしょうか。
 もうひとつ、言葉の問題にも発言させていただきます。私自身は英語の著書と論文の方が日本語の著書と論文よりも多くありまして、若い頃は殊更そうでした。私の僅かな経験を踏まえていえば、ある成果を英語の論文として公表する場合と、日本語の論文や著書で公表する場合とでは、序論、本論、結論の述べ方は全く異なります。また、英語での公刊の方が専門的な研究者層にメッセージが到達する可能性はずっと高いことと裏腹に、内容は専門的な研究のフロンティアに追加される新たな知見に厳しく絞り込まれることは避けられません。これに対して、日本語の論文や著書で公表する場合には、想定読者層と専門的研究者層との重なりはずっと狭くなるために、解説的・啓蒙(けいもう)的な内容に記述が傾斜することは避けられません。それだけに、自らの研究のメッセージが国際的に伝播(でんぱ)される可能性を希求する限り、英語での公刊を優先する努力は不可欠であると思います。日本語で公刊した研究成果を誰かが英訳すればよいという考え方は、私には説得性が欠けているように思われてなりません。以上の私見はあくまで私の専門的研究の立場に根差すものであり、これを一般化するつもりはありません。ご参考までに申し述べました。

【西尾主査】
 それでは、安西先生。それから、伊藤先生の順番でお願いいたします。

【安西委員】
 大学の理工系に勤務していた一方で、旧帝大の文学部の社会心理学講座の助教授をまともに常勤でやった経験を踏まえて申し上げます。やはり、人文学・社会科学と、それから理工、理学・工学の両方とも本当に分かってということは大変なことで、なかなか、じゃ、対話をすればそれで済むのかというと、そんなことはないと思われます。
第1点は、両方が分かる、そういう研究者を増やすという努力を是非文部科学省としては行っていただきたい。恐らくそれには、人文学・社会科学、その両方も非常に違うのですけれども、理工学・医学等々と両方の博士号を持つ、そういう研究者が増えるということではないか。極端に言えばですけれども。その上で私は、人文学・社会科学のハイレベルの研究が持続的に行われているという国というのは、やはりその国の力があるということだと思います。これは特にアジアの国々の中で日本がそういう役割を担うべきではないかと考えております。
 その際に、科学研究費補助金について、人文学・社会科学の方は、お金は要らないと言われるのですけど、それは遠慮して言われていることでございまして、持続的に安定的に研究のできる場を確保するということが人文学・社会科学においては最も重要なことで、それには特に科研費の安定供給が極めて重要であります。先般申し上げましたように、科研費は今、この3年で充足率が10%下がって66%に平均でなっております。そういうことが人文学・社会科学の研究者にボディーブローで効いてくるということは論を待ちません。また、図書館予算等々も大学で減ってきているということも事実で、さっきから言われておりますように、基盤的経費の削減ということが人文学・社会科学系の方々に非常に、やはりこれもボディーブロー的に効いてくるということも論を待ちません。
 以上、申し上げましたとおりで、特に科研費の面から申し上げますと、科研費が不安定になっていくということは、人文学・社会科学のさっき申し上げました国の力としての人文学・社会科学にとりましても非常に大きな課題だと大変に危惧をするところであります。そのことは是非明確に申し上げておきたいと思います。

【西尾主査】
 どうもありがとうございました。人文学・社会科学分野のことを考えるとき、科学研究費補助金が殊更重要である、ということを安西先生の方から強調いただきました。このことにつきましては、この委員会から本当に強く押し出していくべきことかと思っております。
 伊藤先生、どうぞ。

【伊藤委員】 
  簡単な質問、問題提起だけさせていただきたいと思うんですけれど、今までのお話の中で、文化系の不正行為、不正使用について。不正使用の方は大体分かるんですけれど、不正行為というようなものをどういうふうに考えたらいいのか分かりにくいので、問題提起して教えていただければと思います。理科系は分かりやすいんですけれど。

【西尾主査】
 今の御質問は、人文学・社会科学系における不正行為としてはどういうものがあるのかということなのですか。

【伊藤委員】
 まさにおっしゃるとおりでございます。

【西尾主査】  
 理工系の場合は確かに理解できるのですが。

【伊藤委員】
 どうなんでしょうね、こういうのって。

【西尾主査】
 鈴村先生、いかがでしょうか。

【伊藤委員】
 済みません。変な質問で申し訳ございません。

【鈴村委員】
 私が答えられる立場にあるか分かりませんが、思いつくかぎりで挙げてみます。第1に引用の不正があるようです。私の学生時代は、専門雑誌に公刊された論文でさえ、図書館の雑誌収納数が少ないこともあって、容易には入手できない状態でした。そんな時代に英米の大学に留学された方は、留学先で入手した最新の研究成果を帰国後に逸(いち)早く日本語で公表して、いかにも学会の最先端をリードしているかに見えたものです。しかし、後に公刊された英米の雑誌を見れば、あれは剽窃(ひょうせつ)すれすれだったと気付くこともありました。現在では、Discussion Paper を公刊以前に容易に入手できますから、この型の不正利用の可能性は高まっているのかもしれません。第2に、公刊されて久しい成果でも、広く知られてはいない文書を発掘して、源泉を明記せずに自分の論文や著書の素材として利用する型の不正行為もあるようです。第3の型は、アカデミック・ハラスメントの一類型というべきものですが、自分の目下の研究者や学生たちの研究成果を、自分の成果として横取りして公刊する不正行為です。残念ながら、この型の不正行為はなかなか根絶できないでいるようです。

【西尾主査】
 どうも貴重なお答え、ありがとうございました。金田先生、手を挙げておられましたね。

【金田委員】
 まず、今の伊藤先生の御質問に関わることですけれども、これはいいか、悪いかは別にいたしまして、我々の世代の文学部の教育などというのは、基本的にやるのは自分でやるわけですから、学生が勝手にやる、大学院生が勝手にやるというか、それをサポートするだけですが、そのときに、結局その自分たちがオリジナリティーというか、そこをどういうふうにやるのか。それはほかとどう違うのかということを明確にするということが勝負で、そこが研究だというふうな認識を植え付けられてきたというのが基本にあります。ですから、そこをごまかすと、先ほどの引用も全てそうですが、そこをごまかすと全てに不正といきなり言っていいかどうか分かりませんけれども、ほかの要素が入ってくるというふうな理解をしております。
 ちょっとそこに、それとは関係ないんですが、1つよろしいですか。

【西尾主査】
 どうぞ。

【金田委員】
 先ほどから、人文学及び社会科学の振興についてという報告ですが、報告を作る場に私もおりましたので、私自身の受け止め方も、ちょっとまず話させていただきたいんですが、私の勝手な理解では、人文学は特にそうなんです。相対的にプロジェクト的なものが少なかったと思います。それで、そういう形で対話をする、あるいはほかの分野とも一緒に物を考えてみるというようなことが特に必要だろうという背景が1つあったという理解をしております。
 それともう1つは、形としては、評価の多様性という形でしか表現できていなくて、そこの部分は少し弱い形になっているかもしれませんけれども、これは私の個人的な意見ですけれども、やはり人文学にとって多様性をいかに確保するのかというのが最大の問題だと思っております。そういう点で、先ほど古東先生のお話で、森に例えてのお話というのは大変、私は説得力があったと思っておりますが、私はしばしば海に例えておりまして、食べられない魚でも飼っておくのが大事なんだという話をしておりますが、ちょっとそれは冗談で。多様性をいかにして確保するのかということが非常に大事で、先ほどからの鈴村先生の話もありましたけど、時間的スケールの問題というものは非常に重要だと思っております。ですから、多様性をいかに保障して、その継続性を大事にしていくことができるかどうかというのが特に人文学・社会科学の非常に重要な点だろうと思っています。
 それから、もう1つ、恥をさらすようで恐縮ですが、鈴村先生のおっしゃるのもそのとおりなんですけれども、私自身も、英語でも本を書くことがあり、日本語でも書くときがありますが、これはちょっと恥ずかしいんですが、私は日本語で書いた自分の本を自分で英語に直すことはできません。始めから英語で書かないと書けない。そういう能力が実は現状ですけれども、私はそこのところにあるギャップがまだはっきりよく分からないところがあるんですけれども、それは大変重要なことだと思っております。

【西尾主査】 
  平野先生にお伺いしたいのですけれども、先ほど来、人文学・社会科学系における評価については、鈴村先生がおっしゃられたように、その対象とする期間の長さとか、いろいろと考慮しなければならないことがあるということですが、先生が委員長をお務めの評価に関する委員会の議論ではいかがでしょうか。

【平野委員】
 今日の御講演を頂いた先生方、また鈴村先生の御提言ありがとうございました。大変貴重な御意見であり感じ入っております。評価については、厳密に言えば、各分野ごとにそれぞれのスタンディングポイントがあるはずですので、それに一番適切であると思う方法を、曖昧(あいまい)な言い方ですが、とらざるを得ないと考えます。しかし、殊、私が知る限りにおいて、文系の先生方においては、本としてきちんとまとめられるということは非常に重要なプロセスだというのはずっと以前から理解をしておりますし、たまたま私がいた名古屋大学は、名古屋大学出版会において、担当の方々が各分野の先生方、日本中を回られて、すばらしい業績である成果を本として出版すべく目利きをし出版されており、門外漢な分野の文系の出版物を私もそれなりに勉強させてもらえるようになっております。そういう意味からの出版物としての評価を見ると、これは当然、長年にわたってって人生を懸けて書かれるものがあるものですから、理系のタームと全然違うということも理解しております。そのようなことからして、人文科学・社会科学系を含めた文系の評価は非常に難しく理系とは異なる視点でみるべき検討が必要だとは思っております。
 ちょっと時間が長くならないようにしたいと思いますが、以前、科研費の審査に理系の方で関わった者としては、先ほど鈴村先生がおっしゃったように、理系の中でも新しいテーマほど、高い点を付ける方と、一方は物すごく悪い点を付けるというかい離があり、総合点が低い結果となって採択枠から外れそうになるケースがありました。それゆえ特色ある研究を生かすために、特に審査員の評点が大きく外れたのを見直すというのは何回もやらせてもらいました。やはりそれがあって初めて芽が出るのかなと思います。
 分野が違う者が言っては失礼ですが、かなり強く御自分の筋というのを思われている方が審査員になられたときに、その筋と違う論が出たときにどこまで容認して新たな考えを入れてくれるんだろうかと、個人的に私は心配します。という意味では、今、鈴村先生がおっしゃったような費用というのか、研究費を付けるときの評価を。長い目で見たときにどうするかということからに直すことが必要であろうと思います。学振では安西先生が多分ずっと悩んでみえると思うんですが、科研費だけで対応ができるものではないと思います。それが故に、スパンの長い研究においては基盤的経費のかなりの部分を定常的に動けるようにつけることが必要であると言いたいんですが、これも限りがありますので簡単ではない。しかし、これは学術の根幹を守る本当の意味で私、見ておかなきゃいけないんじゃないかなと思っております。
 回答にはならなくて申し訳ありませんが、長い目で見ることが必要だと思います。

【西尾主査】
 本当に貴重な御意見、どうもありがとうございました。
 それでは、濱口先生、それから小安先生、荒川先生の順番でお願いします。

【濱口委員】
 現場の考えとしてちょっと現状を、文系はどうなっているかというお話をしたいんですけど、文系の研究はお金が掛からないと言っておられるけど、現実にはもうお金がない状態に入り掛かっているというのが事実だと思うんです。大学全体のマネジメントでいくと、運営費交付金ではもう給与を払うのに手いっぱいで、講座費と言われる昔のお金を出すには理系の間接経費を回すしかないんです。そういう現状に今、入ってきております。名大では、うちの大学。これをどうお互いに了解のある形で持っていくかというので、かなり激しい議論を1年ばかりやっておるんですけれども、なかなか収束しない。
 デュアルサポートというのをやるというのは、これは基本的に非常に大事なことだと思うんです、スローなサイエンスを支えていく意味で。ただ、現実は、デュアルサポートがちゃんと研究者に届くようなシステムを作るかどうかということが大きな課題になっていると思います。
 それから、もう1点、私はお聞きしたいことがあるんですけれども、ペーパーではなくて、本で評価は受けるというんですけれども、この本の評価が理系から見ていると全く分からない。賞を取ればいいのか、そういうものではなさそうで、出版社によって評価がかなり見えるという方もおられますけど、ここは非常に漠としているんで、先生方のリアルな評価の感覚をもう少しお聞きしたいなと、もう1つであります。

【西尾主査】
 著書、本の評価というのは通常どうなされているのかということだと思いますけど、これもやはり鈴村先生からお答えいただけますか。

【鈴村委員】
 著書を対象とする評価の分かりやすい一例は、定評のある出版賞です。私はある出版賞を二度受賞した上で、選出するプロセスにも長い間係わった経験を持っていますが、候補に挙がる著書には大別して2つの型があるように思います。第一の型は、その著書のコアになる研究がピア・レビュー制度の国際誌に公刊されたうえで、その周辺の補完的な研究の成熟を待って、著書に纏(まと)められるという型です。第2の型は、基本的にsomething new の公刊に厳密に絞られた雑誌論文には適合せず、最初から著書として企画して執筆されるという型です。いずれの生い立ちを持つ著書であれ、著書の形をとる出版形態であればこそ書ける著者の学術観、哲学及びその著書のテーマを取り巻く学説史など、学術のふくらみと香りが期待されるといってよいと思います。学術賞の選定にあたる審査員には、著書という出版形態のもつ特性を踏まえて、その学術的な価値を判定する責任があるわけです。更に踏み込んでいえば、学術賞として認定された著書が本来期待される学術的価値を持っていないことが事後的に明らかになれば、判定の責任を背負った審査員のアカデミック・クレディビリティに深刻な疑問符が付くことになります。学術賞の権威の最終的な保障措置は、この仕組みを承知したうえで審査員の職務を引き受ける人びとが背負う重い責任のうちにあるといってよいと思います。 
 著書の評価に関しては、極めてまずい信仰ともいうべき先入観があることは、私も否定できないと思います。長い伝統を持つ学派の継承者の著書だからいいだろうとか、有名な出版社が出した書物だからいいだろうとか、長いキャリアを持つ著者が執筆したこんなに厚い書物だから、きっとサブスタンスがある筈(はず)だとか、学術的には全く根拠がなく、盲信としかいいようがない《評価》もありますが、それは論外だというだけに留(とど)めます。
 学術的評価に占める出版賞の位置を最終的に担保するものは、学術賞の審査員が自らのアカデミック・クレディビリティを賭けて行う選択責任であると、先ほど申し上げました。研究者の評価が問われるもう一つ重要な論脈は大学その他の研究機関の人事です。最近でこそ、任期付の人事という形態が比重を増してきましたが、それでもなお、人事の失敗は研究・教育機関にとって長期的な重荷になります。大学その他の研究機関が競争的生存の場に立つ現在では、研究能力や指導能力に卓越した人材を的確に選定できない大学その他の研究機関は、長期的には必ず没落すると思います。ここでも問われているのは、的確・公正で責任感を持つ評価能力だと思います。
 少し脱線したかもしれません。このあたりで留(とど)めます。

【西尾主査】
 どうもありがとうございました。それでは、小安先生、荒川先生の順番でお願いいたします。

【小安主査代理】
 私も前期のこの委員会に理系の人間として数少なく関わった人間として、評価のことに関してちょっと申し上げたいと思います。やはりこのとき、私は議論に参加して、今、問題になっている「どのように評価するか」ということに関していろいろ考えさせられました。きょうもいろいろ出ておりますが、必ずしも文系、いわゆる人文学・社会科学に限られない要素が入っていると私は思っています。理系の中でも多様性ということを考えれば、例えば数学の世界では、世界に一人、二人しか自分の仕事が分からないという仕事をされている方は当然おられます。こういうものをどう評価するかというのはいつも問題になりまして、鈴村先生がおっしゃったように、一番分かる人間が「これだ!」と言ったものを周りが評価するというやり方というのはどこかで作らなきゃいけないと思います。科研費の中でそれを試みたのは今の挑戦的萌芽(ほうが)研究でして、その中では、何人かの審査員がいても、AAを付けたものは優先的に評価しようじゃないかということでやっております。このやり方がどのぐらい機能するかということを見ていくことが大事なのではないかなと、感じています。
 それから、もう1つ、スロー・サイエンスなんですけれども、これも人文学・社会科学だけではなくて、自然科学にもあります。例を挙げると、医学系にコホート研究というのがあります。これは20年、30年と人の集団をずっと見ていって、その中で環境などのいろいろな要素が我々の健康にどのような影響を与えるかを見ていく研究です。これは途中で終わったら何もかもが灰燼(かいじん)に帰してしまいますから、どうしても継続しなければいけない。しかし、一方で、その評価というのは20年後、30年後にならなければできない。こういうスロー・サイエンスは自然科学にもある訳です。ですから、抱えている問題は自然科学でも恐らく同じだと思います。ですから、これは人文学・社会科学に特有の問題という捉え方ではなく、学術の多様性を考える中で、幾つかの評価のやり方を取り入れなければ、きちんとした評価ができないということを認識することではないかと思いますの。人文学・社会科学と自然科学がお互いに同じような問題意識を持ってこれから考えなければいけない問題だろうと思っています。

【西尾主査】
 スロー・サイエンスというのが理系においてもあり得ることで、それをどう評価するかということの大事さについてでした。どうもありがとうございました。
 荒川先生、どうぞ。

【荒川委員】
 人文・社会系は、必ずしも研究予算を必要としないのではないかというような意見等がこれまでもあるわけですが、学術会議で大型研究計画をお世話した立場からコメントをさせていただきたいと思います。
 学術会議で行いましたマスタープラン2014における学術大型研究計画の立案におきまして、200件の各分野から提案された大型研究計画を学術大型研究計画として制定しております。その際に比率でありますけれども、これは件数での比率でありますが、人文・社会科系が10%、生命科学系が25%、理学・工学系が65%、おおむねそういうような比率でございました。当然のことながら、人文・社会科系でも大変吟味された上で提案を出されているわけでございまして、その内容を見させていただきますと、いろいろな連携を図る中で御提案がされております。そういう意味で、ちょうど鈴村先生がおっしゃられたように、飛行機の主翼と尾翼くらいの比率になっているのではないかというのが私の印象でございました。コメントです。

【西尾主査】
 どうもありがとうございました。人文・社会系においても大きな研究計画がきっちりあるということを荒川先生の方から、エビデンスをベースにお話しいただきました。
 それでは、村松先生、短い時間でお願いいたします。

【村松副所長】
 人文・社会科学系における評価が人事であるというのは多分究極的にはそこだろうと思うんです。ですけれども、個別にある期間を置くと、鮮やかなその世界を変えるような研究が時々出るというようなこともあるし、毎年、いいものをより分けて賞を与えるということもちょっとずつ進んできて、日本学術振興会では振興会賞というのを出しておりますけれども、この賞のために膨大な時間を関係研究員は使っています。
 でも、なお、ここから出てこないとおかしいというところからアプリ、アプライが出てこないというようなこともありまして、まだ一般的ではない。本当に多くなった場合に審査がどうなるだろうと思うんですけれども、やはり人・社の中でも選んでいこうという姿勢がちょっと出てきているということ。それはかなり重要で、いろいろ若い人を見ていると影響を与えています。あれを取ろうという気持ちを持っている人もありまして、励みになっていると思うんです。そういうことはちょっと変化かというように思います。
 それと、前回のリスク社会と知的成熟というところから出てきた課題設定型の事業というのがございまして、今、進行しておりますけれども、こういうある程度自由度を持っていいものを探すというこの趣旨に合った、そして、いいものを探すというようなことの枠を頂くと非常に、人・社の中で人を選んでその人たちに議論してもらうとすばらしい議論が起こります。今も、既に決まったもの、これから決めるもの、まだちょっとだけ残っておりますけれども、こういう事業というのは普通の科研費と違いまして、議論された上、委員の提案があって、その中で具体化していくということで、こういうことは新しい領域を改革する可能性がありますね。非常にいいものだと思っております。

【西尾主査】
 どうもありがとうございました。まだ御発言をいただいていない委員の方にいらっしゃいますので、さらに、御意見を伺いたいところなのですけれども、当方の不手際で時間がもう来てしまっております。きょう、皆様からおっしゃっていただいたことは、人文・社会系において一番大切なことは継続的に研究をきっちりとできる環境、体制をいかに確保するかということだと思います。
 一方で、濱口先生がおっしゃいましたように、大学の方では基盤的経費が人件費に充当するだけでもやっとの状況になっている中で、今後、デュアルサポートシステムの重要さ、つまり、基盤的経費ともに、安西先生がおっしゃっていただいたように競争的資金の中での科研費を人文・社会系においては特に重要なものとして、この委員会から前面に出して訴えていかなければならないということを実感しました。
 予定のお時間となりましたので、本日はこのあたりとさせていただきます。次回以降もしばらく各方面からのヒアリングを行っていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いをいたします。
 それでは、今後のスケジュール等について、事務局より簡潔に説明をお願いいたします。

【中野学術企画室長】
 ありがとうございました。次回の特別委員会でございますが、8月1日、金曜日、14時から16時、場所は本日と同じです。3F1特別会議室でございます。また、資料につきましては、お名前を記入の上、残していただきましたら郵送させていただきます。

【西尾主査】 
 本日の会議はこれで終了いたします。貴重な意見、また御発表を頂きましたことに対しまして心よりお礼申し上げます。どうもありがとうございました。

―― 了 ――

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