学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会  議事録

1.日時

平成20年12月2日(火曜日)15時~17時

2.場所

文部科学省3F1特別会議室

3.出席者

委員

伊井主査、中西委員、井上明久委員、伊丹委員、今田委員、小林委員、谷岡委員

文部科学省

倉持研究振興局担当審議官、奈良振興企画課長、門岡学術企画室長、高橋人文社会専門官

4.議事録

【伊井主査】 

 それでは、よろしゅうございましょうか。時間になりましたので、始めることにいたします。よろしくお願いを申し上げます。
 それでは、まず配付資料の確認からお願いをいたします。

【高橋人文社会専門官】 

 配付資料につきましては、お手元の配付資料一覧のとおり配付をさせていただいております。資料は3つございます。欠落などございますれば、お知らせいただければと思います。
 また、基礎資料をドッジファイルで机の上にご用意させていただきましたので、こちらの資料もごらんいただければと思います。これは前々回と申し上げたかもしれませんが、これまでの識者からのプレゼンテーションの資料を入れた形で、かなりつくりかえてございますので、これまでの議論を振り返るような観点でご参照いただければと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。
 それでは、今日の委員会ですが、昨年5月以来、学問的な特性とか社会とのかかわり、振興方策の3つの観点から、人文学及び社会科学の振興について審議を進めてきたところでした。一応「(その1)」、「(その2)」ということで審議経過の概要を出しておりますが、(その1)につきましては、実証的な分析手法に基づく社会科学の研究の振興方策について取り上げたところでありました。
 これまで何度か申し上げておりますように、社会科学の振興の在り方につきましての全体像がまだ十分に議論できていない状況ということでありますので、このためにそれぞれの専門分野の方をお招きし、改めて社会科学についての議論を進めているところでございます。
 特に10月29日でありますけれども、根岸先生におこしいただきました。根岸先生からは、経済学における研究成果の発表というものが、20世紀の中ごろを境として、書籍による発表から論文の発表形態と変わりつつあるということ、当然そうなりますと、書籍の場合は評価をしないままといいますか、いきなり本に出てしまうわけでありますけれども、学術のレフリー制度そのものに起因する問題点が、論文になりますと起こってくるということでありました。これは専門知に基づく学術専門誌のレフリー制度が、ノーマルサイエンスのもとにあります研究成果には対応できなくても、パラダイムシフトをもたらすような成果には必ずしも対応できないということのご指摘かと思うわけであります。
 また、そのときに話題として出ましたのは、もうお亡くなりになりました森嶋通夫先生が自説の体系や俯瞰的な知を示すためには、書籍による成果発信を重要視されていたということもご指摘なさいました。
 そういう意味で書籍とレフリーつきの論文とどういうふうにすればいいのかということになるわけでありますけれども、そのほか学会の細分化の問題、大学教員の処遇の問題、経済社会とのかかわりなど、幾つか重要な論点をお挙げいただいたわけです。
 前回の11月14日は、民法学のご専門の星野英一先生をお招きいたしました。法学の学問的な特性とか、学問と研究の違い、法学における教育の重要性、日本法学の研究水準についてお話をいただいたところでありました。
 具体的には実定法学というふうにお呼びになりましたが、実定法学は法学、哲学や法史学といいましょうか、法社会学などの基礎的な法学の成果を取り入れていくことで、より深く多様な点から法を見ることができる。より強い説得力を持った解釈が可能になること、さらにはそのことがよりよい実務につながっていくということをご説明なさったかと思います。
 その次に、実定法学には、「立法」へ、法律をつくることの関与という価値判断を伴う知的な営みである、営為であるということ、そして「価値」という問題を扱う特性ゆえに、法学の「科学性」が、明治以来、問題提起がされ続けてきたということをお話しいただいたわけであります。
 さらに、法学の「科学性」ということでありますけれども、過去のそれぞれの研究成果を上げられた先生方の例を引用なさりながら、法学は個別の事例についての説明だけではなく、規範を定立する学問であり、他人の研究成果を用いながら体系を構築していく学問であることをお示しいただきました。ここらがそれまでの哲史文などの人文学とはまた違うところであろうと思いますけれども、また法学は狭義の科学、サイエンスではなく、もっと広い意味の「学」(シアンス)であると述べられたと思います。
 このように法学が個別の事例の説明だけではなくて、規範を定立する学問であり、法の体系を構築する学問だと。サイエンスではなくて、シアンスであると述べられた点は、法学だけに限らないと思いますけれども、人文学、社会科学の学問的な特性をどういうふうに説明していくのかという上では非常に大事なご指摘だった、あるいはその特徴だとも言えるだろうと思います。
 このほか、前回、星野先生からは、法学にはバランスのとれた実務家の養成という役割があり、これは教育ともかかわりますが、体系を示した教科書の執筆が重要だとのご指摘でした。「教育のための研究」の重要性をお示しいただいたところです。
 そして、幸か不幸か、日本の法律というのは明治以降に導入したものですから、ヨーロッパの学問を取り込むことによって、バランスのとれた世界各国の法律を学ぶことができたということで、日本の法学の研究水準は諸外国においてもトップレベルにあるのだということでありまして、外国と比べましても遜色はないということでした。トップの研究者を支えるすそ野の形成においておくれをとっているということはないということですが、さらに具体的な振興策として、共同研究へのバックアップ、比較法センターの設立という、これは特におっしゃっておりましたが、発展途上国への法整備、支援戦略、いろいろ海外における途上国への法律の整備をサポートできるのだということでありました。国際ルールづくりへの積極的な参加などもご提言いただいたところでした。
 以上がこれまでのお2人の先生のご発表ですけれども、今後につきましては次回は12月8日、来週引き続きまして社会科学の論議を進めていくためにも、今度は政治学についてのヒアリングを行いたいと思います。本日はこれまでの社会科学の審議をもとにいたしまして、一たん報告書の取りまとめに向けて、実務的な中身を具体的により深く探っていきたいと思っております。
 それでは、本日の審議に入りたいと思います。
 お手元の1枚ものの資料1というところですが、論点メモ(案)というのを挙げております。これまでの主な意見がありまして、ここに取りまとめているところでございまして、本日はこれらをご審議いただいて、深めていきたいと思っております。
 主な意見としましては、昨年8月にまとめました『審議経過の概要(その1)』という何度かお配りしたものですが、その『審議経過の概要(その1)』をまとめる際に作成しました『主な意見』というものがありまして、さらに今申し上げました根岸先生と星野先生のヒアリングの際のご意見、これらをもとにしてつくったものです。
 それでは、これにつきまして少し事務局からご報告をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】 

 資料1と資料2につきまして、簡単にご説明をさせていただきたいと思います。
 今、伊井主査からお話がございましたとおり、本日の論点メモということで、資料1、5つの論点を書かせていただいております。それから、資料2につきましては主な意見ということで、「社会科学関係を中心に」という副題がついておりますが、社会科学関係のこれまでのご意見をまとめたものでございます。
 まず、本日の論点メモ(案)のほうからご説明させていただきたいと思います。
 この論点メモをまとめていくに当たりまして、伊井主査ときちっとご相談させていただくとともに、あと来週、ヒアリングにお招きしております佐々木毅分科会長にもお話を伺って、まとめているところでございます。
 それでは、中身のほうをご説明いたします。
 5つ論点はあろうかと思っております。1つは、社会科学について、「研究水準」に伴う課題とは何かということでございます。これまでの審議の中で、いわゆる「輸入学問」という我が国の人文社会科学の来歴に伴うような課題があると。特に、これは伊丹先生のご発表のときだったと思いますが、いわゆる「X学習研究」でなく、「X」の部分を創出するような独創的な研究を評価していくべきであるというご意見がこれまであったかと思います。
 こういったことを踏まえまして、社会科学において「研究の独創性」とは何か、「国際的に通用する研究水準」とはどういったものなのかといったことにつきましてが1つ論点だと思っております。また、これを確保していくためには、どういう方策が必要なのかというあたりでございます。
 それから2つ目、「評価に伴う課題」でございますが、これまで主に人文の議論のときでございましたけれども、「評価」の確立が必要だということで、意見が基本的に大きな方向を示されていると思っております。
 問題は多分その先にありまして、その際に想定される評価指標というのはどういうものになるのか。特に「定性的な評価」というものを、きちっと人文社会科学の面で打ち出さなければいけないということだったと思いますが、特に「定性的な評価」を行う際の評価指標、これは技術的な意味での指標ということもありますけれども、方向性はどういったものかということでございます。
 それから、これにからめまして、いわゆる「知の巨人」による評価というものが必要かつ重要であるというご意見がかなりあったかと思いますが、このあたりはもう少し細かく具体的な議論が必要かなと思っております。
 それから3つ目でございますが、細分化に伴う課題ということでございます。これまでの審議の中で、知の総合としての、あるいは総合された知とでも言ったほうがいいのかもしれませんが、「学問」というものと、個別知識の探求としての「研究」、こういう言い方がいいかというのもありますけれども、こういう2つのタイプの知があるだろうというお話があったかと思います。こういった区分に基づいて、例えば細分化というものを考えたときに、どういったことを考えられるかということが3つ目でございます。
 それから4つ目でございますが、「学者」の養成に伴う課題は何かということでございます。これまでの審議の中では、いわゆる「幅の広さ」というものを確保するための基礎的訓練の必要性といったご意見がかなりの方からあったかと思います。こういったことにつきまして、大学院教育などを含めまして、若手研究者の養成をどのようにしていったらいいのかということが4つ目の論点だと思っております。
 それから5つ目でございますが、「社会とのコミュニケーション」に伴う課題は何かということでございます。これまでの審議の中で、特に法学や経済学などにおきましては、「実務の専門知」とのコミュニケーションというのが重要だろうというご意見が示されたかと思っております。
 それから、これは少し一歩踏み込むかもしれませんが、こういったことが社会科学に対する社会からの支持の涵養につながるという考え方もできようかと思っております。こういったあたりについて、どのように考えたらよいかということが5つ目でございます。
 以上が論点メモ(案)でございますが、資料2のほうでございます。主な意見、「社会科学」関係を中心にというところ、これを簡単にご説明させていただきたいと思います。
 最初のページは目次というのがずらずらと出ておりまして、項目、それから小項目とでも申しましょうか、そういったものだけを並べたものでございます。主な意見、「社会科学」関係を中心にということでございますが、基本的には人文学で審議経過の概要その2というのを一たんまとめておりますが、大体あれに沿うような形で項目を立てさせていただいております。構造は大体そういうことで課題があって、特性ということで研究方法や成果についてのお話があって、それから役割、機能という話があって、それから振興の方向性ということで、4つの柱、人文と同じような形で整理をしております。
 総論的なことでもう一つ申し上げますと、まだ情報を整理している段階でございますが、人文の話と社会科学の話は、うまく切り離して、社会科学だけを取り出すということが非常に難しいということがよくわかりましたので、実際には人文学にも当てはまる記述がかなり入っております。それから、あと技術的に切り分けできないという部分は、これから概念整理等もしなければいけませんが、そういったところを多分、一本化して、最後まとめざるを得ないのかなというふうに思っております。中身は時間の関係もありますので、簡単にご説明します。
 1ページをごらんいただきたいのですが、本文になりますが、これは色がついておりまして、1ページの上に色の解説がございます。1ページ、2ページではないのですが、青字は「審議経過の概要(その1)」、1年半近く前にまとめたその1に由来する記述でございます。ほぼそのままの形で記載しております。その後の議論などを踏まえて若干の修正をしたりしている部分もありますけれども、基本的にそのまま書いております。
 それから、赤字でございますけれども、赤字は「審議経過の概要(その1)」をまとめる過程で、主な意見というものを当時審議のプロセスの中でまとめていきました。そこに由来する記述です。正確に言うと、そこに由来する記述で、その1にはそのまま書き込まれてないものというのが正確なのですが、その1に由来する記述だと思っていただければと思います。
 それから、緑字なんですが、これは「審議経過の概要(その2)」で記述したものへの留意事項と書いてあります。要するに主に人文についてまとめたときの記述ですので、そこまで書き出すとほとんど報告書に近くなってしまうので、そこはただ、ここの部分はその2のところで記述がありましたよという注意だけを書いてあります。
 黒字は、この前の2回の根岸先生と星野先生のヒアリングの際のご意見が黒字でございます。
 赤字、青字については、これまで議論されていますので、黒字のところをできるだけ中心に簡潔にご説明したいと思います。
 まず、1ページの課題でございますが、これは本日の論点メモほぼそのままですけれども、研究水準についての課題ということで、いわゆる「X学習研究」とか「X派生研究」の話から始まって、創造的な研究というものは何なのでしょうかというあたりの記述が1ページあたりです。
 2ページは経済学の研究水準ということで、これは根岸先生からのご意見でございました。一つの具体例として、経済学者の人名辞典に占める日本人経済学者の割合とか、そういったのを見たらどうだろうかというお話があったかと思います。
 それから、2ページの下のほうは法学の関係で、前回の星野先生でございますが、全体として日本法学は世界のトップ水準にあるというお話だったと思います。
 それから、3ページは細分化ということで、まず学会の細分化というお話が根岸先生からあったと思います。学会が細分化されてしまっていることの問題と。
 それから、3ページの下のほうで「学問」と「研究」というお話がございましたが、これは前回、星野先生からあったかと思います。「学者」と「研究者」、それから「学問」と「研究」というものは少し性質が違うのではないかということでございます。ここは読んでいただければと思います。
 4ページもその続きでございますけれども、優秀な研究者と優秀な学者と少し違うのではないかというお話とか、日本の社会が必要としているのは個別の研究だけではなくて、そういったものを体系的に学問として仕立て上げるための力量を持った人がたくさん生まれてくるということが、実は要求されているのではないかというお話があったかと思います。
 それから、5ページが特性でございます。まず、(1)対象でございますが、多分、ポイントは、これは「審議経過の概要(その1)」のときにもあったと思いますけれども、ここを価値的前提というふうにまとめさせていただいておりますが、実証的な研究に基づいて事実を調べるという前提に価値的な問題というのがあるのではないかというお話が5ページ。
 6ページの意図を持った研究対象、これも同じことを違う形で言っているということだと思いますが、研究対象が意思を持っていますので、意図的行動によって現象が変化していく、研究対象が変化していくのだと。そういう特徴を持っていると。
 6ページの(2)研究方法のすぐ上のパラグラフですが、多分、ここは一つポイントだと思いますけれども、「社会科学では、構成主体の行動の相互作用に関する因果関係のみならず、行動の背後にある『意図』の形成に関する因果関係の解明が必要であり、それだけ複雑になる傾向がある」ということ、これは1年ほど前の主な意見に記載されていた事項でございます。
 それから、研究方法でございますが、まず総論というところですけれども、「意図」や「価値」に関する問題があるので、人文的な方法と実証的な方法ということで、2つに分かれていくのではないかというあたり、これはその1に記載されたことでございます。
 7ページのほうにずうっといきまして、まず人文的な方法ということですが、ここは前回の星野先生の法学についての議論を、あえて今の段階ではここに入れてあります。かなり価値判断を伴うとか、規範の定立というものが、特に実定法学について、それが中に含まれているというお話がありましたので、あえてここに書いております。こういったところは次回の佐々木先生の政治学のお話だとかも含めて、また変わっていくのだと思っております。
 7ページ、8ページ、9ページ、10ページあたりの黒字は、基本的には星野先生のご意見でございました。
 法学を例にしてでございますが、7ページですと、法学は「科学」ではないかもしれないけれども、「学」あるいは「学問」であるというふうに考えているというお話があったかと思います。その際にサイエンスという言葉を使うと、これは英語というより和製英語かもしれませんが、「自然科学」的な意味が強くなりますが、フランス語シアンスであれば、これは「学」であって、哲学も当然含んだような哲学であり、歴史学なども含んだような、まさに学問という意味、こういう意味で使うべきではないのかというお話があったかと思います。
 それで、法学の分類ということで、基礎法学と実定法学に法学は分かれるので、歴史法学はいわゆる法社会学とか、法制史の研究という、どちらかというと科学としての法学という部分と、それから法哲学には哲学としての法学の部分がありますというお話があって、それで8ページで、実践の学としての実定法学と。次に実定法学でございますが、実定法学は実践の学問であるという、まず大きなご指摘があったかと思います。
 そして、「解釈」と「立法」というところですが、実定法学については規範を定立するという営みを含むものであると。その実定法学の規範を定立するという営みの中身ですけれども、「解釈」と「立法」という方法があると。特に近年は、「立法」というのが社会情勢上重要になっていると。
 それから、「立法」と「解釈」の意味ですけれども、もう一つ下の○にいきまして、「立法」というのは抽象的な規範をつくることであると。それで、学問の中で価値判断をしているということでございます。
 それから、次に相対化の視点ということですが、日本法学、学問の歴史からして各国の法律を相対化する視点を持っているというご指摘がありまして、これはいいことというご指摘だったと思います。
 それから、9ページにまいりまして、基礎法学と実定法学のインテグレーションの重要性という話があったかと思います。基礎法学の成果をインテグレートしていくようなものとして、実定法学があるのが望ましいだろうというお話があったかと思っております。基礎法学のバックアップなしには、よい実定法学もないし、よい実務もないというお話があったかと思います。
 それから、法学における体系的研究の重要性でございますが、これは先ほど伊井先生のほうからもあったかと思いますけれども、あえてこれは教科書の執筆ということでおっしゃられていたかと思いますけれども、教科書の執筆は個別の研究とは別に体系をつくる研究であると。法学の場合、そういう意味を持っていると。体系をつくる研究というのは、教育のための研究ということとイコールになったりするというお話があったかと思います。
 それから、次に価値の間の「バランス感覚」と「説得性」の重要性というお話がございました。法学はバランス感覚を重視する学問であると。さまざまな価値をバランスさせて、具体的な問題についての解決を図るということが求められている。そして、その際には、バランス感覚が保たれていることの根拠ということだと思いますが、説得力の必要性、説得性が大事だというお話があったかと思います。
 それから、次、10ページでございますが、10ページの黒字の部分も基本的には星野先生の同じような話ですので、ここは割愛します。
 次に、(3)で実証的な方法というところでございますが、ここは基本的にはその1をまとめていくプロセスの中で、今田先生のご発表をベースにしてまとめられた部分だと思っております。意味解釈法、数理的演繹法、統計的帰納法ということでご整理を当時いただいていたかと思っております。それが(4)(6)(7)というところで、11ページにかけて続いております。
 それからあと、立本先生から当時、臨地研究ということで、フィールドワークのようなお話と、それから実験的な研究方法ということで、これは岩崎先生などから当時、ご発表いただいたところだと思います。これはこれまでの議論でございましたので、ここはさらっと終えます。
 こういった実証的な方法と人文的な方法とがあるということでございます。
 それから、12ページの成果でございますけれども、ここもその1の段階でかなりまとめたところ、あるいは人文学のところでもかなりまとめたところですが、12ページの下のほうですと、客観的な証拠に基づき真実を明らかにするという自然科学のタイプだけのものではなくて、説得的な論拠により真実らしさを明らかにするとか、あるいは13ページでございますけれども、「教科書」の執筆の意味というのは先ほどの星野先生のところの繰り返しですが、「飛躍」の問題ということで、客観的事実を明らかにするより先の話といいますか、解釈とかいう部分も当然ありますので、そういったところで、いわゆるジャンプがあるだろうというお話があったかと思います。
 それから、「選択肢の一つ」という性質をおそらく持つだろうというお話もあったかと思います。
 13ページの一番下の赤字のパラグラフですが、これは当時の主な意見にあったのですけれども、社会科学の研究成果には2つのタイプがあると。特定の社会現象の論理の解明であり、2つ目は広く社会現象を見るための概念枠組みの開発であるという、当時、こういった記述がありましたので、ここに整理のために入れました。
 それから、「学問」と「研究」ということですが、これは先ほど星野先生のところで出たものでございます。2つの性質があるのではないかというお話でした。
 それから、評価でございますけれども、これは主に前々回の根岸先生のところのお話が中心になっております。「学術誌」「ジャーナル誌」と、それから「書籍」「単著」と2つのタイプの成果発表のスタイルが社会科学の場合にはあるだろうと。これはどちらがどちらで、いいとか悪いとか、なかなか難しいのではないかというお話だったと思います、一言で申し上げれば。特にジャーナル誌の限界ということを、14ページの一番下あたりから15ページにかけておっしゃられたかと思っております。特に15ページの一番上なのですが、「『科学革命』のような、現在支配的な学説群に対して大きな変革を迫るようなタイプの研究の評価という観点からは、ジャーナル誌における『査読』には大きな限界があると言わざるをえない」というお話があったかと思います。
 それから、学術誌の「査読」の限界というふうに見出しのついているところで、もう既にその話に入っておりますが、ここは一つおもしろい例がありまして、いわゆる大経済学者であっても何度も学術誌への論文掲載を断られるという経験をしていることが調査で明らかになったということを、当時、根岸先生がご紹介されていたかと思っております。
 それから、15ページの下の赤字のところですが、これはその1をまとめる段階で既に同じご指摘があったかと思います。「真に創造的な研究は、国際的なジャーナルのレフェリー審査を通りにくいということが間々ある」と。それから、最後の○ですけれども、「このため、人文学及び社会科学の場合、国際的なジャーナルでの発表をあまり過大に採りあげない方がよいのではないか」というご指摘が、既に1年以上前にあったかと思っております。
 それから、16ページですけれども、森嶋先生が学術誌の査読に対してはかなり批判的であったというお話ということ、ただ、その一方、「書籍」には「査読」あるいは「評価」という仕組みが基本的に入っておりませんので、そのあたりの問題は当然ありますねというお話があったということでございます。
 それから、16ページの一番下は、ジャーナルへの投稿というものが若手研究者の養成にどういう役割を果たしているかということで、こういったご意見、あるいは情報提供ということかもしれませんが、あったということでございます。
 それから、17ページで役割・機能でございますけれども、ここは少し整理が必要なのですが、(1)で青字で書いてある部分はその1で記載したものでございます。これは人文学、社会科学、両方含めての当時まとめだったと思っておりまして、これは当時は「意義」ということで一番最初に書いてあったのですが、人文のその2をまとめるプロセスの中で、おそらくこれは役割・機能の話だろうと思いましたので、こちらに移しております。
 青字のその1のときは、英知の創造、文化や価値の継承・交流、社会的な課題の解決に向けた多様な知見の提供、教育への貢献という4項目でございました。
 18ページの(2)人文学のところですが、ここはたくさん書くとかえってわかりにくいと思いましたので、項目だけでございますが、その2の人文学の審議のところで、理論的統合と「教養」の形成と社会的貢献という形で当時まとめたかと思っております。この青字と緑字の部分は重なるところもかなりありますので、このあたりの整理が必要になると思っています。
 これを踏まえて、下の(3)社会科学ということでとりあえず切り出してみたのですが、これらは(1)(2)とあわせて多分まとめないといけないと思っております。(1)(2)(3)というふうにしてあるのですが、ここはなかなかうまく手がかりが見つけられなかったところもありまして、佐々木分科会長にも少しご相談をしながら、多分、来週佐々木先生からのご発表の中でもあるかと思いますが、論点先取りみたいな形でまとめております。ですので、ここはかなり流動的だと思っております。
 まず、1つ目が実践の学ということで、これは人文学の研究としての固有性が理論統合みたいなところにあるのだとすれば、実践の学というのは社会科学のわりと固有の固有性になるのかなということで、実践の学というふうにしております。
 この赤字の部分は1年以上前のご意見ですけれども、こういった形でまとめられるのではないかなというのが1つの案でございます。
 それから、2つ目に「市民」の育成と、それから3番目に「実務の専門家」の育成というのがあります。これは人文でいうところの教養の形成とか、あるいは社会貢献の一部でもあるのかもしれませんが、そういったところにほぼ対応している部分でございまして、おそらくこういったものが出てくるだろうというふうに考えて、少し論点先取り的に挙げております。
 19ページにまいりまして、特に専門家の育成というところで、当時、専門職大学院の研究の在り方とかも含めて、あるいは心理学におけるカウンセラーとか、ああいったところも含めていろんなご意見があったかと思います。このあたりがもう少し深まっていくのかなと思っております。
 特に19ページの最後の黒字ですけれども、星野先生から法律家の養成という教育活動が法学者の仕事の非常に重要な部分になっているというお話もございましたので、特に社会科学であれば、こういった部分というのが大事になってくるのかなということでございます。
 それから、20ページの方向性でございますけれども、ここも人文と一緒の部分もありますし、多少分かれるところもございます。基本的な考え方としては、学問の特性を踏まえて方策を考えなければいけないということにほぼ尽きております。
 まず、(1)の共同研究ということですが、これは人文そのもののまとめのときには、他者との対話という観点から共同研究というのを理論的に位置づけた上で、国際共同研究とか、異分野との対話という意味での異分野との共同研究とか、あるいは他者との対話ということであれば、日本研究の意味というのはほかの研究と少し違うような位置を占めざるを得ないのではないかとか、そういったお話がその2の中でなされていたと思います。
 社会科学の場合にどうかということでございますけれども、これも同じ人文的な観点、他者との対話という観点から位置づけられるのかどうかというところはありますけれども、やはり共同研究の必要性という意見は出ているというふうに考えております。
 特に20ページの下のほうの黒字の部分、星野先生からでしたけれども、共同研究というのはバランス感覚を養うのに有益であると。相互の討論の機会を多く持つことが非常に重要だというご指摘もありましたので、こういった観点からの共同研究の推進というのは社会科学にあるのだろうなと思っております。
 それから、共同研究のスタイルという、20ページの一番下から21ページにかけてでございますけれども、21ページにまいりまして、赤字の部分はこれまで議論になっておりますので、21ページの黒字のところですが、法学の場合、これまで1つのテーマに集中して共同研究を行うということは比較的少なかったけれども、最近は法学に関するさまざまな問題が社会で噴出していますので、他の分野の研究者も含めて共同研究を行っていくべきテーマというのが非常に増えているだろうというご指摘があったかと思います。それから、比較法研究所とか比較法センターのような、これはどちらかというと共同研究というよりは、もしかしたら基盤みたいな話かもしれませんが、そういったお話も21ページにございました。
 それから、21ページの真ん中あたりからの青字ですけれども、「政策や社会の要請に応える研究」の推進というのは、その1のときにまとめてございますので、この部分は基本的にほぼそのままの形で、23ページまでここに記載をしております。
 それから、24ページでございますが、体制や基盤の整備ということでございます。1つ目の国公私大学等を通じた共同研究体制等の推進ということで、これはその1のところで記載をされたものでございます。これも制度化もされましたので、こういった部分が実際に施策としても進んでいるということでございます。
 (2)が学術資料・調査データ等のデータベース化、アーカイブ化の促進という部分でございます。これも必要だということでございます。
 それから、24ページの下からの部分については、体制や基盤の整備ということで、実証的な方法を用いる研究に対する支援ということで、これは人文的な方法を用いる研究に対する支援は要らないという意味ではなくて、実証的な方法を用いる場合はどうしても社会調査であるとか、あるいはコンピューターが必要であるとか、そういったことで施設・設備が必要だったり、大がかりな旅費だとか、調査研究のさらに委託のような形での大規模なお金が必要な場合もありますので、そういった部分は人文社会科学についても忘れずに支援すべきではないかという意味でございます。
 それから、25ページで、今度は人材、学者の養成ということでございますけれども、この部分はかなり前回、前々回でご意見をいただいております。黒字の部分ということでございます。これもどうまとめようかと思ったのですが、段階別にいたしまして、まず博士課程教育における課題ということで、アメリカとの比較がなされたかと思います。アメリカの場合はカリキュラムがかなり標準化していると。コースワークと密接に結びついているので、特定の好きなところだけやるということではなく、これは深川先生からのご意見だったと思いますが、経済学の場合であれば理論の人も経済史をやるし、経済史の人も理論を強制的にやらされると。そういったところで一定の幅の広さというのを確保していると。それがカリキュラムの標準化、コースワークということですが、そういった仕組みとこれは密接に絡んでいるものだというふうに考えるというご指摘だったと思います。
 次の○でございますが、これは猪木先生からのヒアリングのときの、これも同じ話ですけれども、やはり幅の広さと基礎的訓練というのが非常に大事だろうというご指摘だったと思います。
 それから、次の○でございますけれども、これは深川先生からだったと思いますが、博士課程のカリキュラムというのは学位論文中心の仕組みになっているところがちょっと問題ではないかと。コースワークというのがやっぱり必要で、指導教員の間での採点基準のコーディネートもできてない現状において、中途半端に「ジャーナル主義」の業績評価を導入されると、結局、日本の経済学というのが中途半端なものに終わる可能性があるので、こういったところを注意しないとまずいのではないかというご指摘だったと思います。
 それから、25ページの一番下の行から26ページにかけてが若手研究者養成システムの問題ということで、博士課程では必ずしもないという、その次の段階ということにしてあります。一番上は根岸先生からのご指摘で、年功序列、人事の問題ということを挙げられたかと思っております。
 それから、上から2つ目は、アメリカに行っているときは非常に活発に活躍するのに、日本に戻ってきた途端にちょっとエネルギーが落ちるような感じのところがあるのですが、大丈夫かというご指摘が議論の中であったかと思います。
 それから3つ目は、これは高山科学官からの西洋史の場合ということで、ヨーロッパで論文を書き、ヨーロッパで書籍を出し、そちらで活躍してしまっている若手がどんどん出てきているのですが、こういった事態をどうとらえていくべきなのかという問題提起があったかと思います。
 それから4つ目ですが、これは星野先生ですが、東大の法学部で70年ぐらい続いている判例研究会というご紹介があって、研究成果について集団の中で討論を行っていくと、非常に厳しい討論の中で鍛えられていくし、また説得性のある議論が研究者のほうでできるようになると。養成の話であえて入れております。
 それから、1つ○を飛ばしまして、「新しい問題に適切に対処するためには」というところですが、これは星野先生ですけれども、ここでは若い研究者には個別的な問題の研究とそうでないものとおっしゃっていました。これは幅の広い総合的な研究ということだと思いますが、そういったもの両方を組み合わせていくことが大事だというご指摘があったかと思います。
 それから、一番最後の価値の間のバランス感覚というのは、先ほど申し上げたことを人材養成の観点からも入れたということでございます、バランスをとるということで。
 27ページにいきまして、教師や学生自身がバランス感覚を養っていくことが大事だというご指摘があったということでございます。
 それから、成果発信でございますけれども、社会との関係を含むと書いてありますが、まだうまく整理できていないので、ここに社会との関係も入れているのですが、学会への発信というものがその1のところに、一応簡単ですけれども、書いてあります。
 それから、実務知との関係ということが、特に根岸先生、星野先生のところでかなりご指摘があったかと思っております。経済学の振興のためには、経済社会との関係や交流を持って、その先には政策提言というものが視野に入ってくることが必要ではないかと。こういった取り組みを進めていけば、学問としての経済学も活性化するし、現実、経済の発展にも貢献すると。学問と社会との良好な関係が構築されていくのではないかというお話。
 それから、次の○にいきますと、実践や実務との連携といった観点からの人的交流というものが重要であろうと。大学内と大学外との間の人事交流が必要であるというご指摘がありました。
 それから、27ページの下から2つ目の○になりますが、これは星野先生からでしたけれども、国際的には、国際社会からということですが、特に日本法学の成果を海外に向けて発信することが要請されていると。これは法整備支援の観点なども含めてということですけれども、日本法学は自国の法を相対化する必要を持っているので、こういったところに対する日本法学への期待が大きいというご指摘だったと思います。
 それから、評価の28ページでございますが、自然科学の評価パラダイムの問題ということで、自然科学の評価の基本的な考え方、見方が人文学や社会科学にもそのまま適用されようとしているような感じがするので、これはかなり問題なのではないかというご指摘だったと思います。
 それから、研究体制の多様性という問題点にまとめましたが、1つの研究課題に多くの人が集まっているという状況であれば、評価は確かにしやすいかもしれないけれども、人文・社会科学の場合は多くの研究者が1つの研究課題に集中して研究を行うというものでは必ずしもないので、評価というものが原理的にしにくいとでもいうのでしょうか、実際、しにくいのだというお話がこのあたりでございます。
 それから、29ページにいきまして、評価軸の多元性の確保の必要性という、これも同じなのですが、「学術誌」と「書籍」「単著」の間の問題ということで、評価軸は多分、多元でないとまずいだろうというお話、これは根岸先生からなされたと思っております。
 それから最後、その他というところですが、これは審議まとめのその1で出たものを書かせていただいております。
 少し長くなってしまいましたが、以上でございます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。一応、昨年から審議してまいりまして、人文学、社会科学の振興につきまして、その1、その2とまとめたところでありますけれども、これは今までの審議経過のもとでそういう形になっているわけでありますが、最終的には今の論点にもありましたように、どういう形でまとめていくのか。ほぼ体系はでき上がりつつあるわけですが、先ほどもありましたように、次回12月8日に佐々木先生の政治学につきましてのヒアリングを得まして、後は審議的にまとめていく方向で、その1、その2を別々にするのではなくて、できるだけ融合しているような形でまとめていくほうがいいのかなということをも思っております。
 そういう意味で、本日はご参加の方が少ないのではありますけども、資料1にありましたように、本日の論点メモという形で抜き書きをさせていただいておりまして、この段階で社会科学を中心としまして、1から5まで忌憚のないご意見を賜れればと思っているところです。
 今日はどうぞご自由に、さまざまな形でご発言いただきたいと思いますが、どこからでもというと収拾がつきませんので、(1)「研究水準」に伴う課題とは何かというあたりからお話をいただければと思っております。1つ1つ論点を、話をしていただきながら次に進んでいくというふうにしていきたいと思っておりますが、まず1番の、今もご説明がありましたところですが、いかがでしょうか。
 伊丹先生、どうぞ何か。

【伊丹委員】

 どんな研究がいいか、どういうタイプのレベルまで達しているといい研究と言えるかということについて、私は日本の人文学及び社会科学の将来を考えたときに一番大切だと、この資料を拝見しても思いますのは、社会科学や人文学が、最終的にはおそらくシンセシスの学問でなければならないということを踏まえることだと思います。知の巨人という言葉だったり、研究者ではなくて学者が大切だという言葉だったり、いろんな表現でなされている。どこか何か、さっき根岸先生のおっしゃったことですばらしい表現があったなと思って、経済の工学技術的研究になってしまっているものと、経済政策とか社会をよくするための、政府のあり方はどういうものかとかいうようなことを、両方やらなければいけないのだけど、後者が、最近のジャーナル中心の研究水準の評価のあり方だとついついそうなってしまう。それだとアナリシスはできる、細かく細かく分けてさらに細分化して、そこである一定の事実、論理を発見することはできるのだけど、実はシンセシスが一番大切なことなのではないか。そういう観点から研究の水準や研究の評価の問題をどう考えたらいいのかを考えるのが、私はやっぱり一番大切なことのように思います。
 それとの関連で、たびたびこの文章にも指摘されていることなのですが、さまざまな学問分野を通じての標準的評価方法というのが、最近は確立され過ぎている嫌いがあるように思います。私は社会科学の分野でいろいろな審査のプロセスに、例えばグローバルCOEだったりするのですが、とにかく自然科学の分野で海外のレフリーつきジャーナルが、評価が1点あると高くて、大きな著作が1点あってもそれよりも高い評価になるような偏りが明らかに見られると思います。私、東京理科大学という大学に、一橋大学という社会科学の大学から移ってみたら、中の評価のシステムにびっくりしました。本を1冊書くよりも、どこかの欧米のジャーナルにレフリーつきの二、三ページの論文を書くと、そちらのほうが倍か3倍の評価という定量的仕組みがあるのです。冗談じゃないなと。
 そういうことで、国全体のさまざまな学問分野の評価を仮に始めてしまうと、人文学や社会科学は圧倒的に不利になる。それはレベルが低いから不利になるのではなくて、むしろレベルは低い自然科学者も多いにもかかわらず評価方法がゆがむから、国全体の研究支援に関する配分がゆがむことが起きやしないかと強く心配しますので、シンセシスの学問であるということ、総合の学問であるということを強く意識すべきではないか、それが意見です。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。評価の問題は2番目ともかかわるわけでありますが、研究水準というのをどうするのかということでありまして、これは現在進められております旧国立大学の中期目標、中期計画におきましても評価が問題にもなりました。これも実は少し暗たんたる思いがしておりまして、現在の形式で進められると、評価のための仕事ということになりかねません。純粋な研究からはやや離れていくのではないかというようなおそれもあるわけです。今そういうふうなこともおっしゃったのだろうと思いますが、いかがでしょうか。研究水準と、どういうふうにするのかというようなことで、小林先生などは学校の経営という観点から、谷岡先生もですが、いかがでございましょうか。

【谷岡委員】 

 それでは私から。アナリシスとシンセシスの話、大変示唆に富むお話を伺いました。日本の大学においてもっと根本的な問題を言うなら、教授の審査やそういったシステム云々よりも、ほんとうの意味で知の巨人がリードしていて判断できるかどうかという、人を判断する評価基準、今伊丹委員がおっしゃったように、評価が点数制で分けられ過ぎて、その範囲を超えることが全然ないという事実だと思いますね。海外みたいに、まだサイテーションインデックスとかいろいろあればいいんですけども、それも存在しないということですから、そういう意味において、この人は論文3本でも5本分ぐらいの価値があるんだ、だから助教授に上げてあげようとか、ある面で大学それぞれの知の巨人がリーダーになっているのかどうかという感覚が実は問われるのだと思います。
 ただ、それに自信がないからみんな点数制にして、研究水準はあの人は何点、この人は何点という言い方しかできないのだろうと考えております。だから経営者といたしましては、ほんとうの意味で上げたい人と推薦が挙がってくる人とは実は全然変わっている、違うというのが正直なところです。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。ほかに何か1番のところでありますでしょうか。輸入学問というのは今までも何度も言われたことですけども、そこから独創的なものをどのように評価していくのかというようなことでありますが、これはその後にも書いておりますように、社会科学における研究の独創性とか国際的に通用する研究水準をどのように考えていくのかということでありますけども、一番は、とりわけ国際水準ということになります。
 何か、今田先生。

【今田委員】 

 というか、あまりよくわからないのですが、研究の独創性というのは初めからわかっているわけではなくて、やってみてうまく出てくるかもしれないというものだから、基本的に何か課題があってそれを効率よく達成してというやり方とは違うと思います。つまり、どうなるかわからないけれどおもしろそうだからというアイデアを、サポートをしてどれだけ育て上げるかというところが問題で、だめもとでかけてみるという姿勢がないとやはりできないと思います。
 独創的研究がこうしたらできるのだったらみんなやれますから、それがやれないので、やれるとすればどう独創性が、種だから、水やって肥やしやって育てると種が開くかを見抜く力が日本の学問界にないとだめで、それをどう育成するか、どうやって見きわめるかはなかなか難しいのですが、少しでもそういうのを幾つか、一遍に全部やったら全然だめなものばかりで、つぶれたのばかりというのもあれですけれども、そういうのにこれはどれぐらい独創性があると思えるかというのを審査する会議みたいな、科研費というのは私も審査員を何回かやりましたけれど、たくさん書類が送られてきて点数をつけてコメントつけてというのでやっているわけです。もう最近ではもっとひどくて、大学が科研費をどれぐらい出しているのかというので評価される、この大学は一生懸命たくさん出している。みんな同じのを、タイトルを変えただけで通るまでばんばん毎年出す。通らなくても、出しただけで評価が上がるのだということまで言われ出している。要するに、応募がまず大事だからという。
 そういうふうになってしまうと本末転倒な感じがしますので、独創性を見抜くような委員会みたいなものがあるといいので、ほんとうはもうあるはずなのですが、やっぱりそれはきちんと科研費の審査とか何とかでなされていると思うのですが、実態としてはなかなかそこまでは行っていなくて、審査される先生もたくさん送られてきて、点数を5点満点でつけてコメントを書いて、二十数名で評価したのを集めて、どうですかという感じになっていると思うのですが。
 だからその辺で何か工夫ができないのかなというのと、国際的に通用する研究水準というのも学問によって随分違うと思うのですが、特に私の所属している社会学なんかは、国際ジャーナルで評価の高いジャーナルがないのです。アメリカの社会学会誌とかはあるんですけれども、皆さん会員になっていますけれども、どうしたら掲載されるかというのはほとんどわからないのです。何人かトライしているけど突っ返されて終わりという。仕組みがわからないから、どこまで粘って頑張れば掲載可能になるか、この程度だったらだめなのか、それとも頑張ればできるのかという基準すらあんまりはっきりしてなくて、日本の社会学者で例えば「アメリカン・ソシオロジカル・レビュー」に載ったのは過去二、三回ぐらいじゃないですか、実証研究で。実証だと数学とかデータを使うから載りやすいのですが、そんな感じの状況でして。一番いいのは日本で英文ジャーナルをつくって、それが国際的な評価を認めさせるような影響力を持つように努力するのがいいのではないかと思いますけどね。

【伊丹委員】 

 今の点についていいですか。

【伊井主査】 

 どうぞ、伊丹先生。

【伊丹委員】 

 ジャーナルをつくるというルートをやめるという選択が、日本としては案外おもしろいかもしれない。要するに、アメリカの後追いをやっていたらいつまでたっても後を追うだけです。根岸先生のお話にあるように、日本の人文学、社会科学は書籍を中心にした評価を一番の基本に据えると言い切ってしまうというのも……。アメリカのジャーナルに出したらマイナスにする必要はありませんよ。だけど、そんなにそれがとても価値のあることだと思う必要なんかないのではないですか。私自身も、昔若いころはそういうのをやりました。何度も投稿して落ちた論文が、今一番、私の理論で世界で使われているやつです。ですから、そういう意味で言うと、ジャーナル制度の持っているオリジナリティーとの矛盾は大きいから、むしろ前回の星野先生のご意見なんか私は非常に共感するところが多かったですね。

【伊井主査】 

 そうですね。とりわけ人文学の場合には、評価基準というのがないわけです。そのときに評価委員の思いによっても違ってくるでしょうから、前回も出てきたように、アメリカの有名な経済学者も何度も投稿しても落ちた論文がノーベル賞になったとか、皮肉なことですけれども。いろんな形の分野でも経験していることであるだろうと思います。それと現代的な評価というものと、それが世界的な基準であるかどうかという、どうしても分野によりましては世界と比べなくてはいけないこともあるのだろうと思います。これはどういうふうに話を、2番目の評価ともかかわらせていけばよいでしょうか。

【今田委員】 

 もうちょっと追加で。伊丹先生がおっしゃったジャーナル志向ではなくて著書志向でやるのがいいのではないかということです。私も、どちらかというとそっちのほうです。ただ、世界のレベルが、グローバルスタンダードがもう社会学では査読つきのジャーナルという方向へ動いていて、それは暴力だと半分ぐらい思うのですが、何でそれでないといけないのだと。世界の名著を見てください、近代社会を立ち上げた人たちはみんな著書で書いて大きいスケールで変えたではないですか、それクラスの仕事を今後日本がやるのだという意気込みで著書を書く、一人で書き下ろすぐらいのやつも必要で。ノーマルサイエンスのときは論文みたいなので、いろんな人が量産するというのがあると思うので、だから今両方をどうあんばいするかというあたりだろうと思うのですが、ただし日本で本で書いた場合は、日本語で書いたままではしようがないです。

【伊丹委員】 

 英語にしなければいけない。

【今田委員】 

 そう。英語の本にして出すサポート体制をきちんと整えてあげないと、各人文学の先生とか社会科学の多くの先生はやれないです、無理です。ネーティブチェックも入れないといけないし、自分で最初から全部翻訳していたら、それで数年かけてしまって先の研究ができないとかなりますから、それがうまく出せる、著書が英語で出版されて、かつ日本の出版社が出すのではなくて、どこか海外のある程度知名度のある、ブラックウェルとかブリープレスとかから出すように段取りを整えて、下訳はだれかがやって、専門的な観点で自分でチェックを入れて、それからネーティブチェックを入れて出す。そこまでプログラム化されていないと少し無理ですね。
 僕もたまたまCOEにかかわっていたので、去年シュプリンガーというところから自分の書いた日本語の本を翻訳して出しましたけれども、それはもう大変な作業です。下訳はある程度頼みますが、頼んでも違う意味で訳されているのがいっぱいあるから、それは自分で直します。直して、かつネーティブチェックをかけて、出版社から来て校正をしてというような一連のプロセスで死ぬ思いでやった記憶がありますけど、サバティカルを1年とってようやくできたという感じだったので、僕らは社会科学だからまだいいのですが、人文学の先生方はもっと大変だと思うので。
 だから日本の研究水準、すぐれたものはいっぱいあると思うので、海外に出すということであれば、そういう支援体制をしっかりして出したら、結構海外の先生方で、日本語は読めないけど英語で読んだら結構おもしろいのではないかという人が出てきたりして、そういう流れができるとますますやりやすくなるという。それで、みんな、頑張ってやったらそういう方向で出せるんだとなると、やる気が出てくるのではないでしょうか、海外発信ということに関して。お金とやれやれと言うだけではどうしていいかわからないというのがあるから、そこら辺の手当てをうまくやるような仕組みをデザインしたらいいのではないかという気がします。

【伊井主査】 

 わかりました。

【今田委員】 

 それは1番のほうですので。

【伊井主査】 

 はい。研究成果を出すとともに、海外にどのように発信をし、それが世界標準といいましょうか、水準に近づくのか。そこには翻訳という、別の言語に変えていくという非常に難しい問題もあるわけで、社会科学であれば比較できるかと思いますが、人文学といいますか、文学の研究になるとかなり難しくなってくるところもあるのですけども、わかりました。

【今田委員】 

 でも、僕はそんなに社会科学と人文科学の間に溝があるとは思っていなくて、テクニカルタームとか独特の表現、その分野の表現法とかは各研究者の方々は英語で知っているわけでしょう。それを知らなかったらもうお手上げになるのですが、テクニカルタームとか独特のレトリックとか、そういうのをある程度知っていれば、翻訳者に下訳を出すときにちゃんとテクニカルタームをつけて出してもらえれば後が楽になって、それをうまく組み立てて英文にしてもらうだけという状態にまですれば、そんなにそれはないのではないかと思いますが。

【伊井主査】 

 これは、ぜひとも社会科学、人文学ともに、どういうふうに海外にも発信し広く読まれていくのか、読者の獲得だとかサポート体制というようなことをやっぱり考えていかないといけないだろうと思いますね。わかりました。ありがとうございます。
 2番目の「評価」を含めて、自然科学とまた違う方法であるし、研究の独創性とか、国際的に通用することだとか、定性的な評価ということもかかわるわけですが、井上先生、そういう立場から何かご意見を賜れませんでしょうか。

【井上(明)委員】 

 今お聞きしていて、研究水準、評価、伊丹先生と書籍などで、例えば自然科学の立場から考えますと、いきなり本を書けと言ったってなかなか書けるものではないと思うし、やはりいろんな論文を書いていくうちに自分の、独創的かどうかわからないですが、特徴あるフィールドが固まってきて、少し年月を経ることによってそれがさらに広がりを示して、その段階で初めてそういう本を書いて、またそれを第三者が読んで、評価に値するような内容になってくると思います。ただ、小学校、中学校とかいう基礎的な意味の教科書は書けるかもしれないけど、専門分野の人が高い評価を得るためには、やはり研究者が育つステップが必要であると思います。
 もちろん、研究者として最終的な評価を行うには体系化された書籍が必要かもしれない。しかしながら、そのステップ毎の成果としていきなり書籍が必要であると人文社会科学ではとらえられているとなると、私には理解しづらい。自然科学の立場から見るといきなり本を書くことは厳しい。やはりステップ・バイ・ステップの積み重ねが本に結びついてくる。その人の専門家としての特徴、他との差別化などがつながった段階で、初めて出版社もこの先生だったら知名度があり、本を書いていただこう、あるいは海外でも認知度が高ければその先生が書いた本を読みたいということにつながっていくものと思います。
 それとこの研究水準、評価というのは、今各大学では、国立大学法人の場合、来年3月に学位授与機構から部局別に研究水準の評価結果が発表されることになっています。自然科学系の部局と人文社会系の部局で評価項目が同じか違っていたかの細かい点は記憶が定かでないが、各部局毎に、例えば何々大学経済学部では評点は何点ですというようにして、公表される仕組みが開始されている。次回の評価は6年後になるのか、あるいは1期目の中期目標期間の5年、6年目の研究結果はまた少し後に行われるのか。いずれにしても、人文社会系での本委員会から評価の在り方を提言できれば、より良いのではないかと思います。必ずしも学位授与機構の評価方法が絶対的でなく、こういう項目を盛り込んでほしいなど、自然科学系と違う点を本委員会から提案できればと思います。具体的に、その点を検討してみる必要があるように思います。
 次の、「研究の細分化」についてですが、研究者が育つ過程において、最初は細分化された領域から大局的な捉え方ができるように育っていくものと思いますが、自然科学と人文社会科学に特徴の差があるのであれば、その点については研究水準、評価において、この委員会からでも提言をまとめたほうが、実際に現場で研究されている先生方にとってはプラスになると思われます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。人文学もいきなり書籍というわけにはいかないわけで、こつこつと論文を積み重ねていかないといけないし、論文を書くことによって次のステップに行くことになるわけでしょうが、自然科学はまたスピード性ということもあるのだろうと思います、発明、発見ということになりますと。だからいきなりインターネットで出すこともあるんだろうと思いますが……。

【井上(明)委員】 

 それと、ちょっとすみません。先ほどの知の巨人による創造性の評価についてですが、知の巨人に相当する人であれば、育ってきている若手の研究者のプレゼンテーションを聞いたり、論文を読めば、ある程度直観的に評価できると思います。その若手がすばらしいか、そうでないか、とりわけ将来を担うような人材かどうかということはある程度判断できると思う。だから、そういう若手が現れたときに、大学などの国際機関でその人を鼓舞して育成していくという、取組があってもよいと思います。人文社会科学においてもそのような事が行われているものと思っています。従って、評価の在り方や結果はそんなに特殊なものでないような印象を持っています。

【伊井主査】 

 今おっしゃったように、評価というのはこれからぜひ考えていかないといけない深刻な問題だろうと思います。学位授与機構の場合の評価は、このままで突き進められるとほんとうに困ると、私は個人的には思うので、評価の典拠となると、新聞に出たとか何々に出たというようなことを書かざるを得ない。すると新聞に出るような人文学の研究は普通ないです。なかなか評価の難しいところでありますけども。
 今、細分化の問題も出ましたが、1、2、3を含めてでも構いませんが、何かございますか。中西先生。

【中西委員】 

 先ほどシンセシスの科学と言われたことに、非常に感銘を受けましたが、自然科学も同じだと思います。自然科学もかなり、分析ばかりしてきたので統合的なことができてきていないということを、知の巨人と言われる人たちもかなり前から随分言われてきましたが、それでもやはり細かいことばかりに入り込んでいく傾向は変わりません。
 ただ、これを読ませていただいてわかったことは人文学が個人プレーだということだということです。自然科学ですと、プロジェクトを組んで、その中に若い人を呼び込みプロジェクトの中でとにかくたくさん働いてもらうことが多々あります。本人の論文発表歴やプロジェクトの評価も考え、若い人の発想など無関係に、とにかくプロジェクトを進めていくということがとても多いと思います。ですけども人文学は個人プレーですから、かつての自然科学のような状況にあると思います。つまり、結局、個人の発想に支えられている自然科学は現在の人文学のあり方に学ぶべきところが非常に多いのではないかと思われます。そしてそれをどのように支えるかという仕組みも同じような悩みになろうかと思います。
 評価ということですが、自然科学でもほんとうの意味、つまり中味についての評価はできないと思います。すばらしい研究を成し遂げてきたため、現在、皆が認める研究者に評価をしてもらおうと思ってもその人は、かつては、最先端していたのですが、それが成し遂げられた現時点では旧先端になってしまっているかもしれないのです。ですから立派な研究者でも、新しい見込みがある研究を必ずしも見分けられるかどうかわからないようにも思えます。ただ、評価の仕方を考えた上で、個々の研究者のチェックは必要だと思います。きちんとどのような仕事をしているか、例えば本も書いているのかなどというチェックは必ず必要だと思います。ただ、あくまでもどのように何を進めているかというチェックであり、内容に立入った評価についてはいわゆる一般的な評価手法でほんとうにできるかどうか、少し疑問なところがあります。
 あともう一つ、知の巨人という人が今ほんとうにいないと思います。昔の、例えば寺田寅彦みたいな人、自分の専門だけでなく、植物から動物までありとあらゆることに興味を持って研究をしている人のことです。しかもかつてはそれが許された環境があったのだと思います。ある程度許容性がある環境、怠けているのではなくきちんと仕事はしているけども、自分の思ったことを思ったように進めていけるようなところが、全ての個所でとは言いませんが、大学の中に1カ所ぐらいあっても良いのではないかと思います。ただこれも仕組みの問題で、今は、お金をとらないとその人はよい研究をしていないと思われがちではありますが、こんな個所についても異なる評価の方法があるかもしれないと思います。そのためには、ぜひ人文社会科学分野の研究について、こういう評価指標でこういうふうに評価していけばいいのだということを、自然科学のほうにフィードバックしてほしいと思います。
 また、人が育たないという理由のひとつですが、教科書を書くことがあまり評価されないことがあると思います。研究に関わる本以外を書くことが評価されないのです。よって、これからの評価には是非多様性を持ってほしいということと、研究そのものの独創性を議論するよりも、きちんと自分の思う仕事に邁進しているかというような評価軸が分野ごとにあっても良いのではないかと思います。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。谷岡先生、どうぞ。

【谷岡委員】 

 これは評価できないと言い続けても文部科学省のほうも困ると思うので、私は少し具体策を、多分無理なのですが提言したいと思います。どんなに細分化したって、大学で教えられている授業というのは最低30人ぐらいは普通はいるものという前提、もちろんこの学校にしかないというのも数多くありますけれども、とりあえずその分野、30人程度あるもの以上には、すべて自分の大学以外でトップ、この分野で5人と思う人を挙げてください、それから自分の学校及び恩師が書いた教科書以外でこの分野の教科書でいいと思われるものを5つ挙げてください。そういうぐあいに、必ず教授以上の人たち全員にそういうアンケートをそれぞれの分野を決めて課すというのが……。

【伊井主査】 

 それは大学の中だけですか。

【谷岡委員】 

 そうですね。とにかく日本で教授以上になった人はそれなりの見識があるという前提で。普通そういうことをしますと、人気投票みたいにおれの名前をいっぱい書けよと言って回る人間が必ずおりますので、それを防ぐためにはやっぱり教授以上で、自分の大学に関係したものは絶対書かない、恩師のものも書かないという前提を担保した上で、ベスト5を必ず書かせる。その上でこの分野のトップ5はこの人だよというぐあいに、1位に挙げた人を5点と点数化して、全部1年で出してみる。それで3年、5年とずっとランキングに出てくる人は、その分野の知の巨人とみなしていいのではないかという考え方ができると思います。ですから、みんなの感覚としてこの人はすぐれた研究をしているな、すぐれた教科書を書いているな、すぐれた人だなというのを判断しないと、評価はできないと思います。以上です。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。知の巨人というのもよくわからないところがあって、私なんかがすぐ思い浮かぶのは南方熊楠みたいな在野の人を考えたりもするのですけども。
 どうぞ、小林先生。

【小林委員】 

 4番目にもかかわるのですが、この前も少し言いましたけど、日本の博士後期課程は、アメリカのコンプリヘンションみたいな最後のテストがないものですからほんとうに狭いところだけやっていて、経済学を全部知っているかというと、そんなに知らないというような人がいるのはやはり問題だし、それで独創的なものがあっても、ほんとうに独創性かとは思います。
 全然話は違うのですが、うちの卒業生で三岸節子という世界的な女流画家がいるのですけれども、卒業生なものですからいろいろなものを送ってきたり、息子さんからいろんなものを見せていただきます。一番有名な絵がベニスのいろんな絵なのですが、そこへ行くと必ずデッサンするんです。デッサンは私もわかります。かかれた絵というのは非常に抽象的。だから何が言いたいかというと、絵は独創的なものだと思うけれども、彼女が独創的なものをかくときにかくデッサンは非常にわかりやすいです。そういう部分が必要ではないかなと。出てきたものは世界的な評価があったとしても、多分うちの学生なんかだったらわからないかもしれない。だけれども、デッサンを見たら非常にわかる。だからデッサン力というものがきちんとした学者でないと、本物はないのではないのかなという気がします。
 だから評価というのも、ほんとうに独創的なものはだれも評価できないのではないかと。だけど、前の段階のデッサンのところは評価できるのではないか。そういうところを学問でもやることが、人文であれ社会科学であれ必要ではないかなという気が、この前ちょうど三岸さんの作品を見ていてそんなふうに思いました。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。そこらを見分けるのは何かということにもなるんですが。どうぞ。

【今田委員】 

 私の印象で、人文社会科学の場合は、今おっしゃったことをかぎ分けているのは、おそらく出版社の編集者という人たちがかなりの役割を果たしていて、幾つか若いころにペーパーを書きますよね。それを二、三本見て、これはこの方向で行くと何かおもしろいのをまとめ上げて本にできるなと勘が働く人が結構、日本の特に人文社会科学系の編集者には多いです。アメリカはあんまりそんなことをしないのでしょうが。アメリカはみんな編集者を集めて、いろんなプロに配って、これがいいかどうかというふうにプロの研究者に配るシステムですが、日本の場合は出版社の編集者が見分けてやるということで、まさにそれは知の巨人とは反対のあれなのかもしれないのですが、でもそれはそれで1つのやり方だと思います。ちょっと広い視点から、この人物がやっている研究はどう位置づけられて、どうおもしろいかという。
 ところが、往々にして日本の場合は、ポピュリズム的な観点が入ってしまいます。編集者だから売れないと困るというあれがかかって。その場合は、それがかかってしまうとまずい。それがかからない編集者もいらっしゃいます。その辺が問題で、そこを何とかチェックするような体制をつくる。つまり、その本を出版するときに、その編集者がおもしろいと言ったのはいいのですが、それをチェックするようなアカデミックな、学術の専門家のシステムをつくったほうがいいような感がするのですが、でも出版社は自分のところの金を使ってやるのだからと言って拒否される可能性はありますけれども、何かそういう形で出版助成金をつけるみたいなシステムをうまく工夫できるといいのではないかなという感じで、まあ、大変だろうと思うのですが。
 それからもう一点、今度は「研究の細分化」に伴う課題なのですが、知の総合と個別知識の探求ということで、もちろんこれは両立するのが一番いいのですが、なかなか難しくて、1人でやるわけにはいかないから、やっぱり学問領域ごとに人材がうまくばらけていればいいのかもしれないのですが、要は個別で専門領域をきわめた研究があったとして、それをどうやって知の総合のほうに使うか、まとめるかという。要は何を言いたいかというと、それをやるのはリベラル・アーツの問題だと思っています。もちろん専門性をベースにして、かつ広がりのある知識を体系化するという役割はやはりリベラル・アーツの役割だと思うので、その辺を昔のギリシャ・ローマ時代のリベラル・アーツというわけにはいかないでしょうから、ここでも哲史文とか、リベラル・アーツの基礎になるべきものという議論がありましたけれども、まさに現代の高度リベラル・アーツみたいのがどういうふうに構成されるか考えて、そこに専門的な知識を翻訳し直すといいましょうか、という作業をやらないと、ただいろいろ個別ばかりではなく、これをやらないと、ほんとうに研究が進まないわけですし、だからといって、知の総合のほうをいいかげんにしていたら、何かばらばらにみんな研究がなされているだけというので、知識の全体を俯瞰する視点が生まれてきませんので、これはこれでうまくやれば、とてもいい仕事になると思うのですが、そういう分業体制みたいなのが必要なのかもしれない。
 そういう意味では、まさに巨人がその分野の全体の領域を俯瞰する、こないだ星野先生だかが研究と学問は違う、リサーチとアカデミーとは違うとおっしゃった、まさにそのことだと思うのは、全体を見通せる力を持った方が、ある1点で研究を深くやった人こそ、多分経験をベースにして全体を見る能力もつけておられると思ういます、1回深いところまで入っているから。そういう観点から全体を見渡すという、教科書でもあってもいいし、教養書であってもいいのですが、何か標準化されたテキストみたいなものが書かれるということが必要なのではないかと。それが幾つかの分野で集まれば、知の総合のための材料になるという感じがします。

【伊井主査】 

 細分化というのは否定できないと思います。それはまた否定もできないわけで、そうしないといろんな新しい分野はどんどんできないし、新しい発明、発見もできないのだろうと思います。一般的にいうと、若いときに細分化せざるを得ない状況にもあります。それは新しい研究成果だということで、そういうのを幾つか重ねないと、また実際に就職もできないとか。一般的なことをしてもなかなか評価できなく、それは当たり前ではないかということになるわけで、やはり細分化ということも必要だし、細分化を今おっしゃったように深いところまで行きながら、同時に俯瞰的な視点というものも持っていく、これはかなり個性的な能力もあるのだろうと思ういます。
 細分化で終わってしまう人もいるのです、実際。細かいことばかりやって、結局は終わってしまったと、一生研究者としては、幾つかばらばらの非常に細かいことだけをやったという方もいるわけで、ここらは細分化できたから広い視野が持てたというわけでも、そういう研究者が養成できるとも限らないところもあるのだろうと思います。

【今田委員】 

 全員がそんなになることはありません。必要ないので、両方できる方が頑張ってやっていただくという方向しかないのではないかと思う。だからあんまり深くもやらない人が俯瞰したって、おもしろくも何ともなくてというのもありますので、その辺はやはり適材適所におやりになる方がいらっしゃればいいのではないでしょうか。
 例えば経済学だとサミュエルソンがいて、ノーベル賞級の仕事をして、「サムエルソン経済学」というテキストが何年ぐらいですかね、半世紀以上にわたって標準知識として使われて、今でもまだ健在なテキストですけれども、そういうのを書かれるという、それが知の巨人だろうと思います。ほんとうに深く、どこまでもきわめて、かつ全体を見渡せるという。
 だからそういう研究者だと、ある定性的な評価をふっと言ったって大丈夫だと思うのだけど、細かいところだけきわめた人がやると、趣味が入りますから、自分の得手不得手とか、好みとか、全体だけ見渡せる人というのは、何かバランスだけで決めるみたいな感じになってしまうから、やはりそういう意味では両方やれて、T字型でやれる人が知の巨人なのであって、そういう人たちが若い人の研究のオリジナリティーとかを、お一人でやるのは問題だろうと思うので、何人か、10人ぐらいのグループでどうだろうかと議論をして決める、評価するというのがあってもいいと。ただ、一人の先生かやるのはまずいと思います、どこかに偏ってしまうから。という感じがします。

【伊井主査】 

 そういう核になる方が何人かいらっしゃれば一番いいのだと思いますよね、いろんな分野で。何か……。

【今田委員】 

 それから先ほど谷岡先生がおっしゃった人気投票は、アメリカ社会学会で大会のときに、自分で紙に書いてボーティングする。今までの世界の社会学者の中でだれが一番よかった、インサイトフルであると思うかというのをやりました。その結果、いわゆる世界の社会学の重鎮は挙がらなかったです。やはり上手に評論家的にぴしっと社会学が抱えている問題を指摘した本、チャールズ・ライト・ミルズという有名な人なですが、その人が何を新しく学術的に、オリジナルな研究をしたのかというとあんまりなくて、そのかわりにものすごく本質をついた刺激的な論評を本にして出しました。それが一番人気が高かった。
 だから若い人はそういうのを読んで刺激されるという、その効果は大事だと思います。だから評価の人気投票にも次元が幾つかあって、オーソドックスな理論としてというか、やっぱり学問的、知的刺激をもらう次元とか、幾つか分けてやったほうがいいかなという気がします。日本でやったらどうなるのでしょうね。

【谷岡委員】 

 まあ、けんかが起こるでしょうな。

【今田委員】 

 集団的な合従連衡が起きて、そういうふうになりそうなので、日本ではあまりよくないかもしれません。

【伊井主査】 

 谷岡先生がおっしゃった一つの大学というのは、同じような専門分野が1人か2人というようなところがいっぱいあるものですから、なかなか難しいかなという気もいたしますけれども。
 あと4番、5番もありますが、「学者」の養成に伴う課題は何か、皆かかわってくるのはくるのでありますけれども、社会とのコミュニケーションに伴う課題は何かという問いかけでございますけれども、ここに書かれている内容を含めて、何かほかにもご発言いただければと思いますけれども。中西先生、どうぞ。

【伊井主査】 

 谷岡先生がおっしゃった一つの大学というのは、同じような専門分野が1人か2人というようなところがいっぱいあるものですから、なかなか難しいかなという気もいたしますけれども。
 あと4番、5番もありますが、「学者」の養成に伴う課題は何か、皆かかわってくるのはくるのでありますけれども、社会とのコミュニケーションに伴う課題は何かという問いかけでございますけれども、ここに書かれている内容を含めて、何かほかにもご発言いただければと思いますけれども。中西先生、どうぞ。

【中西委員】 

 今日、いろいろご説明いただきまして、細分化でなく統合的にどういうことができるかといことですが、自然科学と人文学とは、例えば脳の研究でみられるように非常に密接に発展していかなくては進まないということが広く認識されてきており、実際の研究も少しずつ始まっていると思われます。特に最近は自然科学が何と統合していけるかが積極的に模索されている状況もあると思います。それから法律についても人文学、人の考え方の基本に立った法律をという方向が模索されていることがわかります。
 そこで私がわからないだけかもしれないのですが、自然科学と人文社会科学の融合ではなく、人文社会科学内での統合、特に経済学と人文学との融合はどのようになっているのでしょうか。もう始まっているのかもしれないのですが、このことを頭で気にしながら読ませていただいてもあまり理解できません。経済学は最近の社会的な問題を引き起こしてきていることもあり、人文との融合が必要かとも思われますがそのことについても何か書かれてもいいのではないかと思いました。

【伊井主査】 

 経済学と人文学とのかかわり?

【中西委員】 

 はい。

【伊井主査】 

 何かそれに関してご意見ございませんでしょうか。谷岡先生、何か。

【谷岡委員】 

 経済、歴史研究はもちろん人文学との融合になりますが、それ以外は思いつきません、今のところは。

【伊井主査】 

 今は環境問題などもかかわってくるかもしれません。人間のあり方とか、それは経済すべて優先ではないでしょうけれども、私は専門ではないからわかりませんけれども、そのあたりで結びつけられるようなものは何かあるのででしょうか。
 またこれは問題にしていただくとしまして、学者の養成といいましょうか、研究者の養成に伴いますものというのは、今の細分化ということともかかわるのだろうと思います。どのようにしてこれから評価を含めて養成をしていくのかということにもなるのだろうと思いますね。それが社会との接点といいましょうか、どういうふうにして研究というもの、人文学というものを社会に広く支持をしてもらっていくのか。どうしてもこれは人文学というものだけではないのでしょうけども、社会的なサポートがない限りは続かない。どうせ人間社会のものを研究していくわけですから、どういうふうにサポートを広げていくのかという、先ほど翻訳という問題もございましたけれども、そういった観点を含めて何かご意見を賜れれば。谷岡先生、どうぞ。

【谷岡委員】 

 私自身の経験から一言言わせていただきます。これは少し文部科学省には失礼なのですが、科学研究費がかなり無難な使われ方をしていると私は思います。大御所だというだけの理由で大変な金額が、しょうもないと言っては怒られますけれども、私が感じるように、それほど必要でない研究のほうに回ったり、また、前も1回、この会議で提案させていただいて、とにかく人文社会系に使われている研究費をすべて、科研費以外も含めて、もう一度全部一覧表にして出していただきたいとお願いしたんですが、それはさておき、そういうことを全部やって、ほんとうに研究費がきちんと使われているのかというのをもう一回精査し直す必要がある。
 そんな中で30歳、35歳、どこで切ろうといいですが、それ以下の若手研究員には研究費の申請を出せば必ず100万ぐらい与えようと実は私は思っておりました。と申しますのは、私が最初5回、科学研究費を出しましたときに、1回も当たらなかったわけです。私は博士課程も修了し、博士号も持っており、また独自でいろんな研究をしておりました。後に本を30冊以上書きましたけれども、35歳までのときに、国から私の研究が必要だとは1回も認めていただけませんでした。
 つまり、自慢するわけではないですけれども、私立大学や国立大学、そういった差もありますし、また実績のある研究者とそうでない研究者というものも差があります。でも若手研究者というのは、これから新たな分野を開発していく人たちですから、ぜひ最低1回はそういう資金を回してやっていただきたいわけです。そのための原資を、今使われている科学研究費をもう一度組み直して、35歳以下の若手から、この分野の研究者から出たら、必ず1回は与えるよというシステムを確立することだというのが私の提案でございます。以上です。

【伊井主査】 

 科研の場合、全部有効に使われていると思うのでありますけれども、若手研究支援の枠組みはあるのですよね。

【谷岡委員】 

 あるみたいなのですが。

【伊井主査】 

 ありますが、まず全員に与えるわけにはいかないところもあるのでしょうが、どうしても大学の基盤経費が今のところ少なくなっていきますので、先ほどの話ではないですけれども、外部資金となります人文学はどうしても科学研究費に頼らざるを得ません。そうしますと大学の中で、井上先生なんかおわかりでしょうけれども、各学部によって申請率というのが全体で出ます。法学部はあまり熱心でないとか一覧表が出て、文学部は熱心に外部資金を獲得しようとしているとか、申請して落ちても申請率によって大学の中での評価は分かれてくるということもあるのです。しかし外部資金をどうするのか、若手をどう支援していくのかというのは、やはり今から工夫していかなくてはいけないだろうと思っておりますけれども、井上先生なんかはいかがでしょうか、そのあたりは。

【井上(明)委員】 

 今の科研費に関して、私の記憶は定かではないのですが、おかげさまで人文社会系は生命科学系に匹敵するぐらいの件数になっていますよね。

【伊井主査】 

 多くなっていると。

【井上(明)委員】 

 理工系はさらに多いのですが、一昔前に比べますと、かなり若手にも配慮されているようです。大学の状況によりますが、申請率は低いのですが、反対に採択率は高くなっています。だから頑張れば、それなりに報われる状況にあると思います。その採択率の中身を詳細に分析する必要があると思いますが、今伊井主査がおっしゃられたように研究基盤経費の充実が人文社会系において一番重要なのだと思います。
 それと、少し視点が違いますが、人材育成、養成の件ですが、学者養成に相当する博士課程において、今おそらく日本の如何なる大学でも自然科学系に比べますと、人文社会系ではドクターを取るまでの年限が非常に長くなっています。グローバルスタンダードの視点で見た場合、各国によって少し人材育成の違い特徴があったっていいのだとは思いますが。ただ本学内でもいろいろな学部の先生方と相談、ディスカッションしていて、自然科学系では通常ドクターの学生は教授なんかと連盟で論文を出すことによって、引き上げながら育成する方針を取っています。一方、人文社会系ではアドバイスが中心であり、本人が自身で自立育成するまで待つという、ここに大きな違いがある。
 これは今中西先生もおっしゃられましたが、どちらかいいのかという問題も含めまして、特徴と、長所、欠点があるのだと思います。それを足して2で割ったほうがいいという単純なものかどうかわからないのですが、それぞれの分野の特徴なのか、単なる歴史的な伝統による風習的なものが残っているのか、ほんとうに人材育成においては、それが必要なのかどうか、そこの分析を十分に行うことによって、学者の養成等のあり方も違ってくるものと思います。昔は本を少なくとも1冊、あるいはそれも大著的なものを書かないと、ドクターが与えられなかったという時代からは今日では少し緩和されてきているように思っています。育成方針においても突き放して、かわいい子には旅をさせるということがいいのか、あるいは少し手をとって育成する方針がいいのか、我大学において、人文社会系の先生方とお話ししてても非常に悩みが大きい問題です。

【伊井主査】 

 なるほど。これはもう根本的に違うと思います。自然科学の医学部なんかはずらーっと名前が並んでまいりますけれども、人文学は基本的に院生であろうが、若手の研究者であろうが、名誉教授的な人でも、論文は全部1人ですので。

【井上(明)委員】 

 そうですか、そこは相入れないのですね。

【伊井主査】 

 どうぞ、今田委員。

【今田委員】 

 私は社会学で人文社会系ですが、いるところは東工大なので、理系の中で社会科学を大学院生相手にして教えているのですが、自分が育ってきた環境も考えて、反省すべきことはあると、人文社会科学に関して。
 たしか三十数年前、私が大学院に入ったら授業がありません、ゼミなんです。何か先生がいて、みんなで本を読みましょうと。それでこれはどういうことか、どう解釈したらいいのだろうねという授業が中心で、まともな講義がないのです。東工大に行ってびっくりしたのは、マスターはほとんど講義中心なのです、理系は。それで、文系の先生方と社会理工学研究科でまざった状況、文理融合型の専攻に私はいるのですが、文系の先生は相変わらず授業がゼミなのです。研究室で研究室ゼミをやるなら、それは指導のためにいいのですが、ふだんの普通の授業なのに、自分が関心のある本をみんなで読んで、どうかという、それは授業とは言わないのではないかと思って、少し反省して、それをやらないから標準化したベースができなくて、みんな1人ずつあっち向き、こっち向きになってしまって、その中からだれかいいのが出てくるのを待っていればいいという、待ちの研究者養成みたいになってしまっているのではないかなと、少し心配しています。
 今のは少し極端に言いましたけれども、やはり特に今の大学院、修士のレベルは30年前だと、文系は学部の3、4年生ぐらいのレベルの知識しかなっていません。特に社会学なんかを見ていると。理系的な知識でいうと、マスターできちんと学習をして、カリキュラムをつけて、企業へ就職するのですね。文系はマスターに入ったら、学者になるみたいな雰囲気でまだいる人がいて、もう時代が違うのだから、高度知識社会、知識産業になっているのだから、かなりの専門的なノウハウを身につけて、マスターぐらいまでの知識を身につけないと社会で通用しない。企業に行くにしても、学問だけでなくてもという感じがあるので、だから何が言いたいかというと、マスターぐらいまではきちんと授業を講義で、標準化された知識を各先生方が教えるべきではないかなという感じが。ドクターへいけば、やはりプロジェクト単位で仕事を一緒にするということがいいのではないかと思いますけれども、その辺で、上にいる年とったというか、我々も含めてですが、先生方の意識改革も必要なのかもしれないという。

【伊井主査】 

 確かにそれはあるのだろうと思います。私自身も個人的に反省するところはあるのですが、確かに一つのカリキュラムをどうするのか、修士とドクターとどう違うのかというのがあり、自然科学は段階を踏んで次のステップというのがあるわけでしょうが、どうしても人文学はステップというのがないですよね。だからどうしても、我々、例えば文学であれば、筆で書かれた活字になっていないものを読ませて、みんなで協力しながら、それを解読していくというようなことをやりますけれども、そうすることによって、基礎知識を個人個人が持っていくという一つのやり方の方法も、違うところがあるのだろうと思います。
 ここまでが世界的な共通のレベルである、それをまず押さえて次のステップへ行こうということではなくて、もう大体学部で基礎知識はできたというところから始まっているのだろうと思います。しかし、それにしても確かに人文学も社会科学もそうかもしれませんが、いかに水準を保っていく、次のステップに上がっていくカリキュラムにしていくかということは、みんな反省もしなくてはいけないという気もいたしました。
 何かほかに。小林先生、どうぞ。

【小林委員】 

 やはり大学院というところに学生が魅力を感じるふうにならないと、学問のすそ野も広くならないのではないでしょうか。特に人文社会科学の大学院というのは、多分定員割れしているところが多い。よほど心理学なんかで臨床心理をやっているところは大変なものでしょうが、だから前も言いましたけれども、名古屋大学の医学部なんていうと、学部では天文学的な偏差値なのですが、大学院になると、えらく簡単になってしまって、うちの学生なんかでも入っていく。特に病院管理学なんていうと、ずるずるで入っていってしまうというようなところがあって、それで医学博士で名古屋大学というのが取れていってしまうようなところがあるわけですね。
 だから、世界の趨勢から逆のことを言えば、アメリカの大学の大学院に入るのはまた大変なことです。TOEFLの点数もまた学部よりも高くなりますし、そういう難しさがあっても、出ていったときのインセンティブがあるというようなところで、大学院教育というのがあって、そこから多くは企業へ行くのでしょうが、何人かはまた学問に目覚めて博士後期課程に行くというようなシステムができてこないと、すそ野が小さいところで、どこも行くところがないから行ってみようかとか、あるいは結構30ぐらいになって、仕事もおもしろくないから一遍大学院を受けてみようかとか、そういう人が多いようなすそ野のところでは、なかなか人文科学の振興といっても難しいのではないかなと。では、どうしたらいいかといったらわからないのですが、魅力のある修士の大学院というものを考えていくのも必要なのかなと思いますけれども。

【伊井主査】 

 修士を出ますとそれなりのエキスパートになるわけですから、そういう人々がどういうところに進んでいくのかという、いわゆるポストですね。それを拡大していかないと、修士を終えると行き先がないから、ドクターまで行こうかということで、研究者にしかなれない。ところが研究者は今縮小して、シュリンクしてしまい、ポストがますますないと。そうすると、学部の段階で上の人を見ますので、修士とかドクターに行ってももう就職できないのだと、優秀な人は出てくるわけですよね。そういう悪循環になると、また研究水準のレベルが落ちてくる。極めてこれは悪循環の体系になりつつあるのかなという危惧もいたしますけれども、何か全体を含めてほかにもございませんでしょうか。
 今日はいろいろな点をご指摘いただいて、どれをまとめるということではございませんので、日ごろ思っていらっしゃることをお話しくださればと思っておりますけれども。
 どうぞ。

【今田委員】 

 直接研究者の養成とかかわらないかもしれませんが、社会学の分野で、それと教育社会学と行動計量学会、3学会が一緒になって、社会調査士の資格認定機構というのをつくりまして、もう5年ぐらいたっているのですが、個人情報保護法だとか、何かかんかプライバシー問題とかがあるから調査がやりにくくなっていますよね、社会調査が。5割を切るような状況になって、回収率が惨たんたる状況なのですが、信頼をもらうように資格制度をつくると。学部卒は普通の調査士になり、修士を出ると専門調査士。これはうまくいくのかなと思って5年きましたけれども、すごいです。だから、つまり若い人は資格ということに関して、日本でもかなりアメリカと同じようにセンシティブというか、資格はとても重要だ、役に立つというふうに、だって認定料が数万円要るわけですから、思うようになってきているんですね。
 専門社会調査士は学者用に、研究者用の水準に達していることを条件にして、それに必要なカリキュラムを全部組んで、実習もやってというふうになっている。やってみたら結構需要があるということがわかりまして、標準化されてカリキュラム化されたもので学習するなんて、今の大学院生は嫌うかなと思ったらそうでもない。それはそのプロフェッショナルなのだというラベルをもらうことになるわけだから、そういうのもいろんな形でつくっていくというのも一つの手かもしれない。修士というのも、博士とかいうのもそうですけれども、それ以外にも研究者としての資格みたいなのをいろいろ考えて、それを持っていると、こういう研究について意見を言えるとか、何かそういう工夫でのせるといいかもしれない。

【伊井主査】 

 それがまた社会との接点ということにもなるわけですね。小林先生、何か。

【小林委員】 

 今のお話なのですが、図書館司書とか、そういうのでも今はほとんど修士の資格ですね、アメリカなんか。言語聴覚士でもそうです。いろんなものが修士レベルでの資格ということが世界的には多いですよね。日本では学部で、あるいは養成機関だとか、専門学校だとか。だからそういう専門分野のところが修士の資格だというのを多くしていけば、結構、大学院に行くのが当たり前ということになってきますよね。今は学部は5割が来るわけですから、修士のところが昔の大学みたいな感じになっていけば、やっぱりすそ野が広くなりますから、学者も増えるのではないかなという気がいたしますけれども。

【伊井主査】 

 そうですね、ライブラリアンでもかなりプロフェッショナルなところがございますよね。
 わかりました。

【今田委員】 

 結構若い人ってドライですよ。資格というのは、もらったら一生持ってられるという感じになります。

【伊井主査】 

 だけど、資格だけ取って終わるという人もかなりおるものですから。

【今田委員】 

 5年ごとに改定していかないといけない。

【伊井主査】 

 じゃあ、最後に中西先生。

【中西委員】 

 今おっしゃったことは本当にそのとおりだと思います。大学で、修士課程や博士課程まで行った人も、修了後、ほとんどの人は大学から離れていって、社会の構成員の1人になります。ですから、大部分は卒業し、ほんの少しの人だけが大学に残っていくことを考えますと、大学とはやはり社会を構成している大部分の人を育てている、という視点が今のようなことかなと思いまました。

【伊井主査】 

 ありがとうございました。こういう話をしていけば、ほんとに夜を徹してでも、私も話したいところがあるのですが、時間も迫ってまいりましたので、本日、いろんな論点から話をしていただきまして、非常に有益なこともありますし、また課題が数多く残ったと思います。物言わぬは腹ふくるる業なりというのがありますけれども、まだまだ言い足りないことはいっぱいあると思いますが、本日の議論を踏まえ、あとまだ今年内に3回ございますので、いろいろ追加し、修正しながら進めていきたいと思っております。
 どうもありがとうございました。それでは本日の会議はこのあたりで終了させていただきますが、次回の予定等につきまして、事務局からご説明お願いいたします。

【高橋人文社会専門官】 

 次回以降の開催予定でございますが、資料3のとおりでございます。次回は12月8日月曜日、15時から17時、場所は金融庁の共用第2特別会議室、12階でございます。この隣、ツインタワーのもう一つのビルでございます。また次々回、それからその次ということで、また12月12日金曜日、12月19日金曜日ということで、大変タイトで恐縮でございますが、よろしくお願い申し上げます。
 それから本日の資料につきましては、封筒に入れて机の上に置いておいていただければ、郵送させていただきますので、よろしくお願いいたします。ドッヂファイルはそのままでお願いいたします。以上でございます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。今も報告がありましたように、来週は佐々木毅先生のヒアリングということで、残り12月12日と19日で最終まとめということで、1月に学術分科会のほうに報告する、答申するということでこの委員会を終わる方向に持っていきたいと思っております。
 どうもいろいろと年末のお忙しいところでございますが、よろしくお願い申し上げます。それでは本日の会議はこれで終了いたします。どうもありがとうございました。

―― 了 ――
 

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