学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会 議事要旨

1.日時

平成20年4月24日(木曜日)15時~17時

2.場所

合同庁舎7号館 3F1特別会議室

3.出席者

委員

伊井主査、立本主査代理、井上孝美委員、上野委員、中西委員、家委員、猪口委員、今田委員、小林委員、立本委員

(科学官)
佐藤科学官、高山科学官

(外部有識者)
村上陽一郎 東京大学特任教授

文部科学省

藤木研究振興局審議官、伊藤振興企画課長、森学術機関課長、袖山学術研究助成課企画官、戸渡政策課長、坪田政策課企画官、後藤主任学術調査官、高橋人文社会専門官

4.議事要旨

【伊井主査】 

 それでは、時間になりましたので、ただいまから科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進委員会人文学及び社会科学の振興に関する委員会を開催いたします。
 本日は、東京大学特任教授の村上陽一郎先生にお越しいただいております。村上先生におかれましては、ほんとうにご多忙のところ本委員会にご出席いただき、ありがとうございます。よろしくお願いいたします。
 まず、本日の配付資料の確認をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】 

 資料の確認の前に、4月より新たに3名の方に科学官にご就任をいただいておりますので、ご紹介を申し上げたいと思います。
 初めに、人間文化研究機構総合地球環境学研究所教授の佐藤洋一郎科学官でいらっしゃいます。続きまして、東京大学大学院人文社会系研究科教授の高山博科学官でございます。それから、本日、ご欠席でございますが、早稲田大学政治経済学術院教授の縣公一郎科学官にもご就任をいただいております。
 それから、事務局のほうにつきまして、4月1日付で異動がございましたので、ご紹介させていただきたいと思います。4月1日付で、坪田知弘科学技術・学術政策局企画官が着任いたしております。
 異動のご紹介につきましては以上でございます。
 それから、本日の配付資料でございますけれども、配付資料につきましてはお手元の配付資料一覧のとおりでございます。議事次第の2枚目でございます。欠落などございますれば、事務局のほうへお知らせいただければと思います。
 それから、基礎資料につきましてドッジファイルで机上のほうにご用意させていただいておりますので、ご参考にしていただければと存じます。
 それから、資料の中で資料2といたしまして、本委員会におきますこれまでの主な意見をまとめさせていただいております。また、本日のご議論なども踏まえて、毎回ブラッシュアップをしてまいりたいと思いますので、またお目通しのほどお願い申し上げます。
 以上でございます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。資料2の方はまた後でゆっくりごらんいただければ、これまでの審議の経過とともに、まとめを蓄積していただいており、事務方のご努力に感謝いたします。
 これから議事に入ります。現在、この委員会では学問的特性、あるいは社会とのかかわり、振興方策の3つの観点から人文学の振興について審議を進めているところでございますが、このような観点から、第8回目からは人文学に関し我が国を代表するご高名な研究者の方々に本委員会にお越しいただき、人文学研究についてご高説をうかがっているところでございます。委員会として、議論のための共通の基盤を形成する努力をしておりますが、基本的にはかつて続いてまいりました哲史文という学問的な基礎組みをどのように我々は検証していくのかということを進めているところでもあります。
 過去、これまでの経緯を振り返りながら、確認のために少し申し上げていこうと思っております。第8回目には樺山紘一先生から「人文学の目指すもの」と題しましてご発表いただきました。樺山先生は人文学を理解するキー概念として、「精神価値」「歴史時間」「言語表現」という3つを提示していただきました。人文学の機能としましては、これは何度も後から出てまいりますけれども、「教養教育」「社会的貢献」、そして「理論的統合」という3つがあることをご指摘いただきました。このような見解を前提にいたしまして、「人文学とは世界の知的領有と知識についてのメタ知識」であるというお考えをいただいたところであります。
 続きまして第9回目は、亀山郁夫先生から「グローバル化時代における文学の再発見と教養教育」と題したご発表をいただきました。ロシア文学の翻訳、あるいはロシア文学の研究者としてこれまで古典の復興ということもなさってきたわけでありますけれども、「文学研究」とは、「研究者個人の精緻な読解力」、あるいは「イマジネーション」、そして「人間そのものへの洞察力」を通じた「人間の多様性の解明」であるというご指摘をいただきました。その際、研究者個人の体験と想像力を文学作品、しかも「古典」を通じて普遍化していくという伝統的な方法の重要性をご指摘いただいたものと私も理解しております。とりわけ古典という過去に蓄積された作品をどのように我々が現代によみがえらせ、そこから知を共有していくかということだろうと思います。さらに人文学を背景とした「教養」とは、価値を異にする人々の間のある種のコミュニケーションの道具、すなわち「共通規範」であるというご指摘もあったかと思います。
 前回については、少し詳しく申し上げますと、大阪大学総長の鷲田清一先生にお越しいただきました。臨床哲学の分野でいろいろご活躍なさっており、「哲学の現在」と題しましたご発表をいただきました。哲学には諸学を基礎づける「基礎学」としての役割と、「教養」としての役割があるとのご指摘でした。これまでも「教養」が1つのキーワードとして続いてきたと思いますが、哲学は「価値の尺度」、これはすべての学問についても応用できる言葉であろうと思いますけれども、その「価値の尺度」について判断する能力が求められていました。すなわち価値の尺度を前提とし、その尺度に基づいて物事の優劣を判断しなくてはなりません。
 ただ、その「価値の尺度」がほんとうに正しいのかどうか、それを吟味して判断する必要があり、鷲田さんはその営みを「価値の遠近法」とおっしゃっていたかと思います。これが人文学としての哲学の本来の役割であるという重要なご指摘もいただきました。遠近法という基準により、どれほど我々は価値を的確に判断でき得るかということだろうと思います。そして、基礎学であり、教養であります哲学の二義性を、個別科学の専門性に対する一種の「アマチュアリズム」という観点から説明いただきました。この一種のいわゆる素人性と申しましょうか、「アマチュアリズム」こそが一般市民と専門家の橋をつなぐといいますか、架橋する役割が哲学者に与えられているとのご見解もいただきました。哲学の社会的有効性についてのご指摘だと考えてもよいだろうと思います。
 また、我が国の哲学研究の課題として西洋の偉大な哲学者の著作に対する文献学的な関心ばかりがいわば肥大化し、ある研究者の細かな原稿までしらみつぶしに調べていくこともありました。いわゆる哲学者研究にとどまっており、本来の「哲学研究」になっていないというご指摘でもあります。
 そこで、本日はこれまでの哲学、歴史学、文学についてのヒアリングを踏まえまして、「自然科学と人文学の関係性」についてご審議をいただこうと思っております。
 具体的な論点としましては、第1は「自然科学と人文学の歴史的・哲学的な関係性」についてであります。これまでの審議で人文学、特に哲学は「理論的統合」とか、「諸学の基礎」といった役割、機能を果たしているとのご指摘をいただいておりますが、自然科学との関係で人文学的な知が果たしてきた役割を、科学史、自然哲学的な観点から議論を深めていくことが必要だろうと思っているわけでございます。
 第2点としては、「『科学的な知』と『技術的な知』との相違」についてであります。これまでいろんな方からご論議をいただいておりますけれども、この点を明確に分けて議論していたわけではなかったと思います。今後の議論を活性化していく観点から、知の探求それ自体を目的とする「科学的な知」に対して、他の目的のために知というものを活用する「技術的な知」という区分を設定することが必要ではなかろうかと考えています。科学技術とよく言われますけれども、これもかなり言葉の使い方の難しいところで、科学と技術はもともと違っているものであるというご指摘もあります。個人的な見解としては、人文学や社会科学に対する社会からの批判の多くが、「人文学や社会科学の研究成果が、『経済成長』などの『科学』とは別の目的に奉仕する道具として即座に活用できないのはおかしい」という観点からなされている点もあったかと思います。
 少し先走ったことを申しますけれども、このような観点からも、果たして人文学はそのように経済成長だとか、産業育成などにほんとうに有用なのかどうかということの別の価値体系もあると思われますが、そのような点もご審議をいただければと思っております。
 前置きが長くなりましたけれども、科学史、科学哲学、科学技術社会学がご専門であります東京大学特任教授で、東京大学名誉教授でもいらっしゃいます村上陽一郎先生をお招きし、「ヨーロッパ学問の系譜」と題しましてご発表いただくということにしております。
 なお、村上先生からは40分程度ご発表いただくわけでございますけれども、少し延びても構いませんので、残りの時間、委員の皆様からのご質問、ご意見を賜ればと思っています。
 それでは、よろしくお願い申し上げます。

【村上東京大学特任教授】 

 ご紹介いただきました村上でございます。今までお三方、樺山、亀山、鷲田3教授のお話だったと承っております。このお三方は、文字通り人文学の歴史学、文学、哲学という代表的な学者でいらっしゃいますが、私はどちらに属するのかが自分でもはかりかねるところがございまして、今週も月曜日はJST、JSTはどちらかといえば科学、理工系でございますが、月曜日はJSTの会議に1日出席しておりまして、きのうはJSPS、学術振興会の会議に1日に出席しておりまして、理工系と人文社会系のどちらともつかない、自分の立ち位置というものが自分でも明確になってないという人間でございます。それから、そうそうたるメンバーであります皆様方の前でどこまでこの委員会の目標に沿ったことがお話しできるかいささか心もとないのですが、とにかく責めを果たしたいと思いまして、パワーポイントを用意いたしました。
 このパワーポイントという方法も、社会系はともかくとしても、人文系ではまだ必ずしもなじんでない方々もいらっしゃるかもしれません。私自身も気になるところなのですが、ハンドアウトも必要だということでしたので、事務局のほうでパワーポイントの原稿をハンドアウトにしていただきましたので、どちらをごらんくださっても結構でございます。
 今、伊井先生のお話の中にも出てまいりましたが、私は科学と技術を今でも、少なくとも自分の原稿の中では科学と技術を中黒で結ぶ方法を死守しておりまして、新聞や出版社に原稿を出しますと、大抵とられるのですが、残せと言って科学と技術は区別するという立場におりまして、科学技術庁も科学技術基本法も科学技術基本計画もすべて区別がない。つまり、日本では科学技術という4字熟語がかなり長い間成立してしまっているわけですが、私はこれは少なくとも中黒を打つべきだと。ただし、これは後で申しますけれども、現在、20世紀後半から21世紀にかけて、科学と技術はある面ではかなり歩み寄っているところがある。したがって、科学技術という表現も、極めて特異な状況の中では、むしろ妥当である場合があり得るということは認めております。
 例えば英語ですと、サイエンス・アンド・テクノロジーという言い方が普通で、アンドで結ぶわけですから、この場合は2つの違ったものを接続詞で結んでいるという観点がいつまでもつきまとっております。これを嫌う人、つまり今申しました非常に特異的な状況の中で科学と技術をつなごうという英語使いの人たちはSTという言い方をしたり、場合によってはテクノサイエンスという新しい語、これは私のワープロの中にはまだ出てまいりませんで、テクノサイエンスと打ちますと赤線が引かれますが、テクノサイエンスという言葉をあえて使う方も最近では少しずつ出てまいりました。少なくともヨーロッパ語では、基本的に科学と技術は別物という観点は現在でも保たれているというふうに考えられます。あるいは、むしろそれが気になるという人さえいます。
 技術というのは、今さら皆様方の前でこんなことを申し上げるのはほんとうに僣越というか、何ですけれども、とにかく技術というのはおそらく人類の発祥とともにあったに違いない。例えば現在の科学の中では、先ほどの社会的利得性の最も少ないと言われている天文学ですが、天文学も古代社会──古代社会といっても、いわば先史時代と言ってもいいですが、先史時代のような古代の人類社会にあっても、占星術ないしは天文学は技術として存在していた。これは歴学ないしはカレンダーメイキングのためと、ナビゲーションのための技術として最も重要な技術として存在していたと思われます。
 例えば文字のなかった時代の農耕文化、ヒンズーの文字が発明される前の状況の中でも、交渉という形で天文学的なデータはきちんと語り継がれていまして、それを使ってカレンダーをつくるということが、実際に文字でカレンダーをつくるわけではないのですが、農事の祭祀を行っていくような方法が使われていたという研究がございます。
 その中に、今、私たちが科学と呼んでいるような知的な営為はなかったわけではございませんけれども、独立した形での科学というものは存在していなかったと言っていいと思います。もう1つの非常に重要な技術は医術でありますが、これも現在では科学の中に入れられる可能性が強いところでありますけれども、あるいは本草学のような、今で言えば薬学に近いものも医術の中に含まれていて、その中に幾ばくか現在の科学と呼べるようなものが含まれている。そのほかに技術としては、私が今属しております社会技術研究開発センターというところで社会技術という言葉を使い始めているのですが、本来は徴税技術とか軍事技術・政治技術のような、あるいは法体系のようなものもすべて社会技術として言っていいと思うのですが、これも運用していく技術という形で、これは人類社会の発達とともに発展してきたと考えていいと思います。
 技術の場合、技術者たちは大抵の場合、同業者組合をつくります。最も典型的なのは職人の親方・徒弟制度でありますが、これは確かに閉鎖的であります。ただ、技術の場合、これは明確に区別をしていただければと思うのですが、そういう同業者の組織の外に必ず技術を使ってくれる人、クライアントがいるということが、技術の最も重要な特徴だと私は思っています。つまり、同業者の中だけで問題が解決しているわけではなくて、必ず同業者の仲間の外にその技術を理解するクライアントがいるということが特徴だというふうにここでは考えておきたいと思います。
 ちなみに、今のような親方・徒弟制度が学校制度に変わっていくプロセスというのは、18世紀の終わり、皆様ご承知のEcole Polytechniqueが最もめざましい例として目立つわけでありますが、フランス革命真っただ中でつくられた、現在ではグランズエコールの1つであり、理工系のエリート教育のフランスにおける最もトップの学校組織になっておりますけれども、ここでできたときには、言ってみれば市民革命によって貴族や王様、宮廷官僚を次々にギロチンにかけてしまった。さて、自分たちの政府ができてみて国をどうやって運営していくかといったときに、国を運用する技術を持っている人たちが自分たちの間に全くないことに気づいた。文字通り泥縄ですけれども、軍事省にEcole Polytechniqueをつくった。給料を払って選抜した優秀な市民の子弟を速成教育して、国家官僚として徴用するという目的のためにつくられたのが、技術学校としての最初の組織的な例だと思います。
 これは市民革命の達成しなかった他のヨーロッパ諸国にも波及いたしまして、ドイツ語圏ではテーハー、ウィーンが一番最初でありますけれども、その後、オーストリア以外のドイツ語圏にずっと広がってまいりますし、アメリカではRensselaer Polytechnic Schoolというのが1825年に誕生いたします。さらに、アメリカではMorrill法という、これも文科省でこんなことは皆様百もご承知でしょうけれども、Morrill法が通ったのが62年、そしてそのいわば中央政府、連邦政府が持っている土地を州政府に無償で払い下げるけれども、その土地を土台にして、州政府はそれぞれの州の産業に適した技術者を養成する学校をつくりなさいというのがMorrill法でありますが、それがA.&M.’s、(Agricultural And Mechanical.Colleges)と呼ばれている新たな技術学校を生み出します。これはAもありMもあり、A&Mもあったわけで、現在でも、ユタでしたか、たしかAgricultural And Mechanical.State Universityと呼んでいたと思います。
 実際にはこれは大学ではなくて、技術学校でありますが、ご承知の例のクラークも、そのAの校長先生だった人が日本政府に呼ばれて、札幌に似たようなものをつくるということで、ごく短い時間ですけれども、日本でAの設立に努力をしてくれたのがクラークということになります。
 日本でも、文部省ができたのが明治4年ですけれども、10年に東京大学ができますけれども、工部大学校が東京大学とは別個に立てられました。これは大成功だったわけでありますが、86年、(明治19年)に帝国大学令ができて、東京大学は帝国大学になりますけれども、その前年に工部省が廃止になりまして、行き場のなくなった工部大学校は廃校になります。そして、それを引き受けたのが東京大学で、東京大学は1886年(明治19年)に帝国大学になります。まだ京都大学もできていませんから、単に帝国大学と呼べばよかったのですが、明治19年には完全に法・文・医・理の四科大学とイコールパートナーとして帝国大学の工科大学が誕生いたします。これは世界広しといえども明治19年(1886年)という時期にユニバーシティと名乗っていて、工科大学、工学部をいわばイコールパートナーとして持っているところは帝国大学ただ1つであります。
 ということは、日本では工学という言葉も生まれますが、エンジニアリングというのは工学と訳したことで、日本独特の技術の扱い方になっていくと私は思っております。学生数は現在でも社会科学系の約半数で、これはかつての文部省の統計ですが、理学系と工学系を分けますと、大体8分の1ぐらいが理学系になってしまう。日本の場合は理工学部が多いのですが、あえて理と工を分けると、工が8に対して理が1ぐらいの学生数になってしまうという、これも世界で非常にユニークな数字であります。つまり日本の、特に近代化、あるいは戦後の産業育成を支えていたのはまさに工学だったと言って差し支えはないと思います。
 イギリスなどでは今でも工学部へいくのは文字通り二流、三流の学生であるという意識が非常に強いところで、サッチャーさんはそれを何とか改めようと思って、工科大学を随分イギリスにつくったわけでありますが、そのためにサッチャーさんはオックスフォード大学から、遂に歴代のイギリス首相としては非常に異例に名誉博士号をもらえなかったというエピソードが伝えられております。つまり、あろうことかサッチャーさんは当時のいわゆる日本の奇跡と言われている工学を中心とした日本産業の奇跡をいわば後追いしようとして、言ってみればオックスフォード的な知的雰囲気からは総スカンを食ったという話であります。
 いずれにしてもそういうことで、ただ、一言申し上げておきたいのは、産業革命と今申し上げた工学教育の学校教育化というのはほぼ並行しているわけですが、ただ、産業革命を担った技術者たち、あるいはアントレプレヌールという言葉が一番正確だと思うのですが、ここで挙げたような人たち、CarnegieはUSスティール、EdisonはGE、Whitworthはイギリスの精密機械工学の産業を立ち上げ、Whitworthのネジといいますと、今日でもデファクトスタンダード的に使われます。Borsigはドイツ語圏で蒸気機関車をつくる会社を立ち上げて大変成功した人で、田中久重はもちろんからくり儀右衛門ですが、東芝の前身の1つ芝浦製作所をつくった人で、豊田佐吉は言うまでもない。この人たちは学校教育は一切受けてないというわけです。小学校も満足に行ってない。言葉は悪いのですが、ほとんどたたき上げた人たちである。
 つまり19世紀になると、先ほど申しましたように技術学校が次々に誕生して、国家社会は技術の学校をつくっていこうとするわけですけれども、産業革命にかかわった人たちはほとんどそういう教育を受けてない。それから、大学はもちろん行ってない。それから、いわゆる職人として親方・徒弟制度の中で、あるいはギルドの中で育てられた人たちでもない。文字通り徒手空拳、自分の才覚と運と努力だけであの巨大な基幹産業の前身をつくり上げた人たちと申し上げていいと思います。これは19世紀に特有の現象だったというふうに申し上げていいと思います。
 ただ、田中久重、豊田佐吉はそうなのですが、日本では既に19世紀中に学士号を持ったいわばエンジニアが各地で活躍するようになっています。これは先ほど申し上げたように、世界でもごくごくまれな例であります。例えば辰野金吾とか、高峰譲吉とか、下瀬雅允とかいうような人たちが社会の中で、国家官僚的な場面も含めて非常に活躍をしていく。それが工学部卒業生であります。あるいは工科大学の卒業生であります。辰野金吾も高峰譲吉も工部大学校の卒業生でありますが、というわけですね。
 ですから、日本の場合が非常に特殊である。じゃ、技術と全く縁を持たない純粋な知識体系はどこに存在し得たのかということ、これはいろんな形でその可能性を追求することはできると思いますが、少なくとも自然科学と何らかの意味で結びつけるというのが私の頭の中にあることなものですから、どうしても古代ギリシャを挙げなければならないように思います。古代ギリシャの哲学と呼ばれているものは文字通り自由人ですね。都市国家、アテナイならアテナイ、どこでもいいのですが、そこの自由人、奴隷ではない人たち。ここで言う奴隷というのは、例えばアフリカ系の人たちをイギリスやアメリカが奴隷として扱ったという形の奴隷とは少し違って、征服した相手の都市国家の市民を自分たちの目的のために使うというわけですから、結構インテリもいたのですが、そういう奴隷という立場ではない自由な、しかもある程度富裕な市民層の知識追求というのが、ビロソフィア、知を愛するという哲学と呼ばれているものの出発点にあるだろうと思われます。
 そこへいくまでには哲学というのが、もう少し社会と結びついていたところもなくはなかった。例えば皆様よくご承知だと思いますが、プロタゴラスという哲学者がおります。フォアソクラティカルの1人ですが、そのプロタゴラスは相対主義で、人間は万物の尺度だと言ったという有名な人ですけれども、プロタゴラスは知識を売って生活をしていた。彼はアテナイの市民の子弟の教育に携わって、それはいわば教育することでお金をもらうという立場にいました。彼はアテナイ市民じゃなくて、交易をしてあっちに行ったりこっちへ行ったりしていた人ですけれども、そういう人間もいたわけですが、やがてソクラテスやプラトンになって、言ってみればプロタゴラスは徹底的に弾劾される人になりますが、そういう意味ではアテナイのいわばビロソフィアの出発点というのは、もはやそれは純粋に知を愛するという意味であって、それは一切お金とも関係がない。いや、お金と関係がある人は、むしろビロソフィアなんてできないという限定付きの知の営みとして成立していくことになると申し上げていいと思います。
 それはどこへいったかというと、東ローマとイスラム世界に移転いたします。西ローマは5世紀に滅亡しますが、イスラム世界はそれを自分たちのアラビア語に翻訳するわけです。ですから、東ローマ帝国とイスラム世界が古代ギリシャを継承する形になります。この辺も言うまでもないことですけども。
 ヨーロッパというのは8世紀ぐらいにようやく形ができてくるわけですけれども、8世紀、9世紀、10世紀あたりのヨーロッパはほとんどギリシャの哲学を知りませんでした。アリストテレスに至ってはあの膨大な著作の中のわずか1つ、アナリティーカプリオール、分析論全書と呼ばれているテクストがわずかにヨーロッパ世界に伝わっていただけで、ですから9世紀、10世紀、11世紀のヨーロッパ世界では、アリストテレスはちっぽけな論理学者という理解しか全くされていなかったわけであります。
 プラトンもメノンの一部と、あとはそうですね、それぐらいのものでしょうかね。テクストはわずかにほんとうに断片的なものしかヨーロッパに伝わっておりませんでした。伝わっていたのはビザンツとイスラムです。
 ところが、いわゆるレコンスキタになって、現実的ルネッサンスと呼ばれているものが生まれます。レコンスキタはこれですけれども、ピレネー山脈以南が全部イスラム化した後、少しずつ少しずつキリスト教世界がピレネー山脈から南下していって、イスラム勢力を追い落としていくプロセスがレコンキスタですけれども、その流れが大体12世紀というのがそのちょうど真ん中、マドリードのちょっと南にトレードというまちがありますが、それがちょうど11世紀から12世紀にかけてキリスト教徒の側に戻ると言ってもいいのでしょうか。最後にグラナダが陥落するのが1492年ですから、コロンブスがアメリカを発見した年ですから、そこまでかかるわけです。
 その間に少しずつキリスト教世界が回復していくことになるわけですが、そのトレードを中心にして12世紀に、言ってみればアラビア語文献をラテン語に翻訳する大運動が生まれます。そして、この大運動の結果、初めてキリスト教とギリシャ・ローマの学問の中での、特に古典時代の哲学を結びつけた新しい学問としてのスコラ学が誕生すると同時に、それをやるための場所としての大学が、初めてウニバルステータスというラテン語で呼ばれるような大学が誕生いたします。
 大学というのは哲学部と3つの上級学校、神学校と医学校と法学校からなる組織でありまして、ご承知のとおり、パリ、ボローニャ、オックスブリッジ、ややおくれてハイデルベルク、あるいはその他もろもろということになります。大体みんな同じ構図を持っておりました。哲学部にすべての大学生は入るということです。そして、哲学部を終えた学生がさらに司祭になる、医師になる、そして法曹になるという場合にもう少し上級学校として。
 あと、実は下に「知識は売り物ではない」と書いたのですが、神学校、医学校、法学校を卒業すれば、知識を売り物にすることにならないかというふうにお考えかもしれませんが、それは明らかに違います。つまり司祭はもともとそうですけれども、医師にしても法曹にしてもそうなのですが、例えば英語ではそういう仕事がまさにプロフェッションと呼ばれたり、あるいは場合によっては、ドイツ語ですと一番わかりやすいのは、ベルーフという言葉がルーフェンという動詞からきていることでおわかりになると思いますけれども、ボケーション、ボーカル、声という言葉で表現されるようなもの、つまりボケーションというのは神様が声をかけることですね。神様が人間に声をかける。それがボケーションです。プロフェスというのは約束をするというのが本来の意味で、声をかけられた人が神と約束を交わす、それがプロフェッションの本来の意味です。
 ですから、ボケーションもプロフェッションも、基本的にはこの3つの仕事にのみ当てはめられて使われた言葉であります。今はプロフェッションという言葉はあらゆる職業にも使えるようになってしまいましたけれども、ボケーションという言葉はまだ司祭職など、あるいは牧師職などに多く使われるということが今でも残っております。
 つまり、これらの仕事というのは確かに知識を使うわけですけれども、それは神との契約の中で神にかわって働く人たち、しいたげられている人、あるいは苦しんでいる人、病で苦しんでいる人、そして心で苦しんでいる人、あるいは権利を侵害されて苦しんでいる人、その人たちのためにかわって働く、そういう仕事としてこの3つの仕事が特別扱いをされていたということになりまして、これは今でも欧米ではある意味ではステータスの高い仕事になっているわけですが、それは理由はそういうところにあります。
 つまり通常の意味での仕事ではない。お金をいただくための仕事ではない。もちろん、これらの人たちはオノラリアとか、お金をいただくわけですけれども、おもしろいのは当時のお医者はリュックサックを背負っていまして、口があいているのです。診察をし、治療をし、そしてお大事にと言って後ろを向きます。そうすると、口のあいたリュックサックが患者さんのほうを向くわけです。患者さんは幾ばくかそこにお金を入れる。外へ出たお医者は幾らくれたかなって調べちゃいけないわけで、そのままほっておくわけです。次の保険なんていうのは絶対考えないわけです。次へ行ってまた同じことをする。だから、うちへ戻ってきたときには、だれが幾ら入れたかわからなくなっているという仕組みであったそうです。
 お金のないときは入れないでもいい。当然入れられないわけです。それでももちろん構わない。ただ、お金のないとき入れませんって言わないで、入れるふりをしなさいって言われたという文献に出会って、私はびっくりしたのですが、これは例えば教会で献金が回る。献金が回るとき、お金を入れたくなければ入れないでもいい。でも、回ってくる袋をただすっと隣へパスするのではなくて、やっぱり入れたふりをしなさいと。これもある文献にそういうことが書いてあって、教会という場所で何と欺瞞的かと私は昔そう思ったのですが、それはそうではないのです。つまり入れるふりというのは、ゼロ円のオノラリアを入れていること。つまり自分たちのために神にかわって働いてくれている人たちの名誉と、それに対する尊敬をあらわすために入れる動作をする。それはゼロ円でも動作は必要なのだという感覚に裏づけられているのだということがわかって、なるほどと思ったのですが、つまりそういう仕事として、これらの仕事が通常の意味での仕事から離れたものであるということになります。
 自由七科というのは、ご承知のとおり、哲学部の基本的なもので、文法と論理と修辞、天文学、幾何学、算術、音学で、この学はあえて私は「楽しむ」を書かずに「学ぶ」を書きましたけれども、この文法、論理、修辞は言葉に関するわざですけれども、下の四科、クワデルビュームのほうは自然を理解しようとするときの基本的なわざですね。音学もそうなのです。1本の弦や1本の菅を1対1という算術的な比で割りますと、8度という調和音程がとれます。1対2という算術比で割りますと、5度という完全調和音がとれます。というような形で、音学もまた数学的な秩序、これが実はこのころのスコラ学の中では神の秩序ということになっているわけですが、神がこの世界をつくったから、神の合理性がそういう形での秩序にあらわれているという理解が行き届く結果として、そうなっているわけです。
 したがって、そういうことを一つ一つ学んでいくことが、神のこの世界をつくり上げているデザインを理解する営みにつながっている。だから、ギリシャでは単に知を愛することだったのだけれども、12世紀ルネッサンス以降のヨーロッパでのフィロソフィーというのは知を愛すると同時に、しかも神の計画を知るという目的のために使われることであって、だからギリシャの愛知よりももう少し別の意味が加わっていたというふうに申し上げていいと思います。
 スコラ学の中では、聖書に加えた自然というのは、神によって書かれた第2の書物であるという表現がしばしば登場いたしますが、今申しましたように、神がこの世界をつくったがゆえに、神によってその自然という1ページ、1ページを丹念に読み解いていくことによって、神の計画を人間もまた理解することができるという信念がここに貫かれている。それが知識をドライブしていたということになります。その点はいわゆる科学革命と呼ばれていて、通常、近代科学が誕生したと言われている17世紀でも全く変わりませんでした。ここに挙げているコペルニクス、ケプラー、デカルト、ガリレオ、ニュートンという人たちも全くその点では共通であって、スコラ学者と変わったところはありません。コペルニクス、デカルト、ガリレオはカトリックです。コペルニクスのころにちょうどルターの宗教改革が始まって、プロテスタント運動が始まりますので、ケプラーとニュートンはプロテスタントでありますが、これら17世紀に生きていた人たちはすべて基本的にはキリスト教的な枠組みの中で知的活動をしている。例えばニュートンは、万有引力はどうして働くのかと問われたときに、ためらわずに神が働かせているのだと答えているわけです。それから、例えばケプラーはそんなことを言っていますし、コペルニクスもここに書いてあるようなことを申しております。
 ですから、これらを近代科学の父と呼ぶのですが、これが今私たちが言っている科学というものと直接的に一枚岩でつながっているというふうには理解しておりません。ここにはもうワンクッションないと、今、私たちが科学と言っているものは生まれてこないというのが私の基本的な歴史理解です。
 ですから、コペルニクスにしても、ガリレオにしても、ケプラーにしても、ニュートンにしても彼らはすべてフィロソファーと呼ばれていたわけです。言うまでもないことですけれども、哲学者と呼ばれていたわけで、これは後で言いますが、scientistという科学者とか、physicistという物理学者という言葉は19世紀にならないと出てまいりません、生まれません。この段階ではすべて彼らもまたフィロソフィーをやっている。ナチュラルフィロソフィーでもいいですが、フィロソフィーをやっているという点で全くスコラ哲学と異同がない。先ほど申しましたように、中世神学と呼ばれているスコラ学は自然学を無視した、あるいは軽視したと時々誤解があるのですが、それはとんでもない誤解で、今も言いましたように、スコラ学は聖書と同じぐらい自然を大事にしているわけですから、自然研究ということはスコラ学の中では聖書研究と同じだけの重みを持って、哲学的な意味で重要視されていた。これも間違いのないところであります。
 ルネッサンスの話はスキップいたしますが、18世紀になって事態は激変したと私は感じております。私は聖俗革命という概念を提案しているわけですが、聖というのは何も清らかとか俗っぽいという話ではなくて、世界を説明したり記述したりするときに、最後か最初かはともかく、神を持ち出さなければ説明や記述が完結しないという立場が聖なる立場で、もはや神なんか要らない、神はなくても説明が完結できるという立場を俗だとすれば、この聖から俗への変化というものが18世紀のいわゆる啓蒙主義時代に起こった。
 有名な例なのですが、ラプラスが『天体力学』の『メカニックセレッセ』という本を書くのですが、ナポレオンに献呈して、ナポレオンですから、19世紀になっているのですが、ナポレオンはご承知のとおり、結構熱心なカトリック信徒でしたから、この本の中でなぜ宇宙のつくり主に1度もラプラスは言及しなかったのかと非難したら、ラプラスは私は宇宙の説明体系の中でもはや神を必要としないのだと胸を張って答えたというのがラプラスのエピソードとして語り継がれておりますが、つまりこれこそが啓蒙主義の精神だったと申し上げていいと思います。
 『百科全書』はご承知のとおり、啓蒙主義時代の、言ってみれば最も華と言われているものですけれども、ディドロが主として、ダランベールも一部加わって、多くの執筆者によって書かれた『Encyclopedie』ですが、あれをごらんになればすぐおわかりのとおり、ここでは哲学的な知識も技術的な知識、もともとディドロという人は刃研職人の息子でしたから、いわゆる職人技術に対しても非常に関心の高い人だったわけです。ですから、『百科全書』の中では例えば編み物の針だとか、鉄鋼をどうやって精錬するかとか、陶器をどうやってつくるかということのチャート図といったものも、それから哲学的な知識や天文学の知識、音楽の知識なども全部ごちゃまぜになって、しかもアルファベット順、つまり体系的な順番を一切無視して、完全にごちゃまぜの知識のいわば無秩序な堆積物をつくり上げた。それが『百科全書』です。
 ディドロは序論の中であえて非常に強調しているのが、アルファベット順に立項しているということです。アルファベット順に立項するというのは、当時としては非常に強調しなければならなかったのでしょう、おそらく。その意味は今申し上げたように、すべての神学的な体系を無視した、断片化された知識、それは技術知も全部ひっくるめてごちゃまぜにして、シャッフルし直して、ただアルファベット順に並べるということをやってのけたのが、これでいわば知識もまた完全に人間化、世俗化した。救済も世俗化するわけですが、これが有名な『百科全書』のとびら絵であります。真ん中の女性が真理でありまして、それを覆い隠していた黒雲が理性の光によって今や覆い払われようとしている。下のほうからは、いろいろな人たちが手を差し伸べて真理を覆い隠しているのを今ひきはがそうとしているという事態であります。この黒コマは基本的には当時の人々の感覚ではキリスト教、宗教であったわけでありまして、まさに啓蒙というのは宗教的な迷妄から理性がひとり立ちをすることにほかならない。
 カントの有名な啓蒙についてという小さな論考がありますけれども、そこでも明確にカントはそう述べています。自分の理性以外の代理人の判断によって物事を判断することほど啓蒙から遠い未熟状態はないというのがカントの言い分でありました。その代理人という言葉は鋭敏な方はすぐお気づきのように、カトリックの強硬な神の代理人という言葉で呼ばれているわけで、つまりはそういう宗教的な権威による判断に任せておくことは、人間として最も恥ずべき状態だというのがカントの言い分だったわけであります。
 19世紀になって初めて私は科学者が誕生したと思っています。例えばイギリス人のウィリアム・ヒューエルがscientistという言葉をつくり、physicistを初めて使ったのが1840年。istというのは、これも今さら皆様方のような知識人に申し上げるまでもないのですが、その前に来る言葉というのが基本的には広い概念ではあり得ないわけです。広い概念だったら、ianが語尾につくわけであって、ミュージシャンに対してフルーティストとかピアニストであり、フィジィシャンに対してデンティストというわけですから、istというのは専門性、場合によって職業性がある程度その前に来る言葉の中にインプライされているような場面で使われる言葉になります。
 ハックスリーのエピソードというのは有名な話なのですが、これはスキップします。ご存じの方はご存じでしょうから。
 日本でサイエンスという言葉を19世紀に日本語に翻訳したときに、大体多分西周だということになっているのですが、これは哲学家西周によってつくられたというほどに明確では必ずしもしないです。というのは、科学という言葉は1科の学か1科学かわからない使い方が当時あって、1科の学と読むべきなのか、1科学と読むべきなのか。例えば究理学は1科学、あるいは1科の学であるという表現が文部省の古文書の中にあるのですが、明治7年の文書の中に私は見つけましたけれども、それを1科学と読んだら科学という言葉のかなり早い使い方、1科の学と読んだらまだ科学という単語にはなってないということなので、どっちかよくわかりません。いずれにしても、でもそのころなんですね。いずれにしても科に分かれた学問という意味で科学という。これは言うまでもなく日本語です。漢語ではありません。中国でも今使いますけれども、それは日本から輸出された結果です。
 ですから、日本語で造語された科学というのは、まさにこのist的な学ということ、つまり19世紀のヨーロッパがまさしくist的な学をつくり上げていくところで始まっているからであります。
 細分化されたistたちが誕生していきます。それこそジオロジストだったり、フィジィシストであったり、サイエンティストであったり、あるいは人文社会系でもソシオロジストであったり、ソシオロジーはご承知のオギュスト・コントがつくった言葉ですが、やはり19世紀の40年代ですね。同業者組合もできます。
 彼らの特徴、科学者の特徴は何だったかというと、一番大きな特徴はクライアントが外部にいないということです。つまり彼らは知識は売り物でないという点では、今までの哲学者と同じ考え方に基づいていたわけです。もはや神の計画を追求しようとするというあの啓蒙主義以前、聖俗革命以前のヨーロッパの知識人の哲学的な動機というのは、もはや19世紀以降には共通には存在しません。じゃ、その動機というのは何かというと、真理の探求心と言えば一番カッコがよく、基本的には好奇心と言っていい。だから、好奇心を満足させることであります。ですから、その営みは完全に個人の中で自己完結しているか、さもなければ同業者組合の中で自己完結しています。専門学会の中で自己完結しています。外にクライアントはいませんでした。知識の生産、蓄積、流通、消費、利用、褒賞などすべての行為が科学者共同体の内部で自己完結しているのが、本来科学のほんとうの姿です。そして、これは現在でも科学のある程度というか、かなりな程度と言ってもいい。やはりそうだと申し上げていいと思うのですが、その点については後で申し上げます。
 20世紀に入って、科学に対してようやく政府や財団が研究に支援活動を始めますが、それはまさにphilanthropyであります。Philanthropyは、これも皆様方に言うまでもないのですが、フィルアントロポスですから、人間を愛することです。オペラや芝居なんかが人間活動の中で大事であるとして支援するのであれば、自然についての好奇心を働かせて、それを探求している人たちの活動も人間活動の一部として大事だから支援をしよう。まさにそれですね。それがphilanthropyで、文部省が出していた科研費もかつてはまさしくその原理に基づいて提出されていたと私は信じています。ノーベルの遺言、人類に最も貢献した人というのも、これもこの人類というのは人類の文化、この意味での文化ですね。文化活動に貢献した人であって、国家や社会の、先ほど伊井先生のお話にもありましたような経済賦活とか、産業賦活とか、そんな話とは本来全く無縁のノーベルの遺言はそうだったわけです。
 人類に最も貢献した人というのもphilanthropyでありました。『三四郎』の中でこういうところがあったので、ちょっとおもしろいので引いてきたのですが、「野々宮君」、野々宮宗八、寺田寅彦ですが、「穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣ってゐるから偉い。然し望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたって」、この望遠鏡というのは光の圧力を測定しようとしているというのが野々宮宗八が描かれている場面で、説明にありました。その望遠鏡です。いわゆる天体望遠鏡ではありません。「その度盛がいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかもしれない」。まさに科学の本質はこの現実世界と交渉がない、接触がない。自分たちがおもしろいと思うからやること、それが科学の本質だ。これは漱石が喝破しているわけです。まさに私はそうだと思うのです。
 文化には2つの定義がある。これも今さら皆様方の前で言うのも恥ずかしいのですが、人間が生きていくために必ずしも必要ではないけれども、今申し上げたような人間活動の一部として大事だと思われるもの、あえて文化庁的文化と書きましたけれども、それから人間が生きていくのに必須のあらゆるもの、これはむしろ文化人類学が追求するような文化と言ってもいいのかもしれません。あるいは文化人類学者の方もいらっしゃいますが、いや、ちょっと待てとおっしゃるかもしれないのですが、とりあえず例えば食器をつくるとか、調理するとか、言葉を使うとか、そういうことも含めた文化とすれば、技術は常に(2)の意味での文化の一部だ。科学は19世紀以降に制度化された際には明らかに(1)である。その以前の哲学、フィロソフィーはギリシャにあっても、それから12世紀ルネッサンス以降のヨーロッパにあっても明らかに(1)であった。
 ところが、事態が変わったのは20世紀後半です。そんなに古い話ではないのです。実は私は今71歳ですが、まさに私の人生の真っただ中でこの大規模な変化が起こったのを、私たちはまさにそれを実際に目撃したと思います。科学研究にクライアントが生まれたわけです。その最大のクライアントは軍事であり、産業でありました。ちょうど第2次世界大戦が始まるころ、戦間期あたりからこれが次第にはっきりしてまいります。つまり科学の知識が売り物になるようになった、クライアントが生まれるようになった。私の仲間はある本の中でscience a a commodityという言葉を使っています。財物としての科学という観点が生まれてきたわけです、第2次世界大戦をきっかけにして。そして、その中で(1)と(2)の境界があいまいになってきたというのが、ここ40~50年の出来事であると思います。
 私たちはそれを2つの形の科学として区別します。好奇心駆動型の科学と使命達成型の科学。テーマの選定は、科学者が行うのに対して、使命達成型の科学は例えば原爆をつくれというのは科学者以外の軍事が設定したテーマです。研究の構成は、好奇心駆動型の科学ですと、研究チームというのは基本的にホモジニアスですが、原爆開発計画、マンハッタン計画が典型的にそうであるように、あそこには技術者もいれば、物理学者もいれば、心理学者もいれば、航空機工学者もいれば、さまざまな人たちがヘテロに集まっています。研究の構造はハイアラーキカルに対してリゾーム、学問指導者がリーダーであるのに対してマネージャー型で、今やどちらかといえば使命達成型の科学が、例えば文科省の場合でも振興調整費の場合だとか、旧科技庁関係のさきがけとか、そういうのはどちらかといえば使命達成型科学が本命になってきているということになります。
 ただし、科学者の意識はほとんど常に(1)にいるわけです。つまり自分たちは好奇心駆動型で、学会の中で論文さえ書けばいいのだと思っている。でも、結果は(2)になることもある。そして、今や社会の目もどちらかといえば(2)の型。(2)の型というのは使命達成型の科学。評価の基準も(2)の形の枠組みで行われるようになる。しかも、その影響がまさに人文学や社会科学にまで及びかけている、あるいはもう既に及んでしまっている。それは人文学や社会科学のみならず、科学の自殺でさえあると私は思っています。つまり、そういう形での評価だけで科学研究が推進されるということは、既にお話ししてきましたように、科学自体でも既にそれは非常に問題だ。
 例えば例ですが、これはある大学でほんとうにあった例ですけれども、これはだれが悪いのかわからない。文科省が悪いのでしょうか、どこが悪いのかわかりませんが、個人の業績リストを提出する際にあらゆるファカルティメンバーに過去5年間のレフェリー付き論文だけが意味あるものとして求められて、その他著書や、その他5年前にさかのぼってもそれを書くことは無意味だというフォーマットで業績リスト、これは社会科学も人文学も全部一律にそのフォーマットで書けということが要求されている実例を私は知っております。これはどう考えてもほんとうに驚くべきことではないかと思うんです。確かに科学の一部の世界では、5年前の引用論文というのはかなり少なくなっていることは事実です。でも、物理学の世界でも10年前、20年前の基礎的な論文が引用されることも間々あります。ましてや人文学や社会科学では、30年前の論文でも引く価値のあるもの、あるいは著書でも引く価値のあるものがたくさんあります。そういうことを一切無視するというのは、これはほんとうに学問の自殺ではないかと私は憂慮しております。
 学問というのは、最後にこれは私の個人的な推理ですけれども、2つの効用があると思っています。1つは通常の意味での生活上の便宜と利得の増大で、これをゆるがせにしていいとは私は思っていません。これも大事なことだと。しかし、同時に人間がいわゆるBildung、教養という言葉の一番いいヨーロッパ語はBildungというドイツ語だと思うのですが、自分をつくり上げていくこと、確立していくこと、そしてそれは同時にコンクリート、セメントでかちかちに自分を固めてしまうのではなくて、常に何かに対して、新しい可能性に対して開かれている、そういう自分をつくり上げていくために知識は決定的に必要であって、そういう人間たちがいることによって人間の社会は成り立っているということを、学問知識の効用として忘れてしまっては文字通り学問の自殺になるのではないかということを最後のメッセージにして、少し駆け足で進めましたけれども、すみません、1時間足らずになってしまいましたけれども、とりあえず失礼させていただきます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。最後のほうにおっしゃった人文学の評価の問題も重要な点だと思います。私どもは慣らされ過ぎてしまい仕方がないのだとあきらめ、そういうフォーマットに向かわざるを得ないのも現実としてあるだろうと思います。非常に警鐘を鳴らすといいましょうか、我々の人文学のあり方の根本にもかかわる問題であったと思います。ほんとうにありがとうございます。
 それでは、あとまだ40分くらいございますので、皆様のご質問、ご意見を賜ればと思います。科学官の方も含めまして、できるだけ多くの方々のご意見をいただければと思っておりますので、簡略にご質疑をいただければと思っております。どうぞどなたからでも結構ですけれども、どうぞ、立本先生。

【立本主査代理】 

 科学史のエッセンスを短い時間で聞いて、目が覚める思いでございました。私の興味は日本での人文科学の振興にどのように結びつけたらよいかということですので。そこでございまして、ちょっとそれを質問したいと思います。
 おそらくは科学技術に関するヨーロッパと非ヨーロッパとの関係がポイントになるのではないかと思いますが、村上先生のプレゼンテーションでは、最初からずっと科学と技術という言葉にこだわっておられました。そして最後に学問という言葉をぽっと出してこられましたね。科学と日本との関係に関しては(技術を科学として取り入れた)工部大学校の例もありますが、これはおそらく私の言葉でいえば技術の科学化ということで、最後に提示された2つの科学のモードというのも科学と技術との連続性の中で動いているという感じもします。ヨーロッパで科学が確立する聖俗革命も日本ではなかったわけですよね。そういうふうなところで科学と技術がヨーロッパからぽっと来たので、伝統的なものが全部失われてしまったところがあって、特に人文学の場合でしたら、国史とか国学とか、そういうふうな伝統的なものが科学として否定されてしまった所もあるのではないかと思います。村上先生のこのテーゼではヨーロッパと非ヨーロッパとの関係をどのように考えるかという点をお伺いしたいと思います。

【村上東京大学特任教授】 

 大変難しい、しかも簡単にはお答えできないご質問を提起していただいたのですが、まずは日本がヨーロッパの学問を取り込んだのは、キリシタンバテレンの時代から既にあったということはもちろんですけれども、本格的にいえば19世紀、幕末から明治にかけてであって、その時期はちょうど19世紀の先ほど申し上げた聖俗革命を経た後のヨーロッパの学問の再編成期に当たっていたというふうに思われます。つまり学問といえば哲学ただ1つであったものが、19世紀にはヨーロッパでももはや哲学というのも残念ながらというか、非常に矮小化された学問の1つ、ワンオブゼムになってしまった時期です。それがまさに、例えば○○大学文学部哲学科で行われているような現在の哲学のイメージになっているわけでありますが、かつてヨーロッパではまさにすべてを包含する有機的なシステム、学問のシステムとして哲学という概念があったのが、19世紀はそれが完全に崩壊した上で再編成されて、諸科学の時代になっていく、その時期に日本は取り込んだ。非ヨーロッパの1つの非常に目覚ましい例が日本だということは間違いがないと思うのですが、その日本がヨーロッパの学問がそういう形になっているときに、いわば科学として取り込んだということが1つの歴史的な運命だったようにも思います。
 ですから、確かにこれも皆さんご承知のように、ベルツというドイツ医学を日本に入れた人が、ベルツの滞日20周年だったか、30周年だったかの記念講演で非常に激しく日本の状況を攻撃して、おまえさんたちはヨーロッパの学問のフルーツだけを取り込もうとしている、根っこを全く無視しているという非常に厳しい批判の演説をしたのがいまだに残っておりますが、確かにそうなのですが、それはむしろヨーロッパでももうフルーツになってしまっているころであったことも事実だったと思ういます。それが1つの運命だったように思います。
 だから、一般的に近代化とともにヨーロッパの近代的な学問の体系が非ヨーロッパ系に流れ込んでいくプロセスの中で、日本というのがおそらく一番モデルの1つになり得るということは間違いがないのですが、その中で、つまり植民地はまた別のパターンがあるのんですけれども、少なくとも植民地でなかった地域としては日本が基本的なモデルの1つになり得ると思うのですが、その中で日本は先ほどの漱石のように、純粋の科学もある意味では理解していたはずですが、と同時に工学をあれだけ偏重した、あえて偏重と言えば、ヨーロッパの立場からすれば偏重したというところからも明らかなように、学問、しかも東京大学がステートランであった、あるいはネーションランであったということも含めて、つまり早稲田や慶応が大学という名前を名乗ることを許されるのは20世紀もかなり入ってからのことでありますから、大学というのは19世紀中は東京大学と京都大学しかなかったわけです。
 つまり大学と呼ばれている知の殿堂であるはずのものがステートランであったということも、また1つのかなり重要な意味があって、それが近代国家形成のために使われる知識という側面をどうしても強く担わざるを得なかったという、これも時代の運命だと思いますけれども、そこもまた認めておかなければならないのではないかと思います。
 あまりお答えになりませんけれども、とりあえず。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。よろしいでしょうか。どうぞ。

【猪口委員】 

 私は政治学で、いつも先生のご意見はほんとうに興味を持って読んでおります。
 1つ、きょうの先生のお話は、科学と宗教というヨーロッパの大きな歴史の中で、いつになっても関係がなかなか定まらないみたいなものを扱っているというふうに理解したのですが、ところが私たちのほうの社会科学、人文学のほうから言うと、そういうものと非常にオーバーラップしているんですけれども、科学と宗教というのが真理と神というような感じで、何となく似たような対象を言っているのと少し違うのですが、神と国家、あるいは神と政治、宗教と政治、そういうものはどうなっているかというのも、西ヨーロッパの歴史では非常にアンイージーというか、アンセトリングで、結局マーク・リラみたいな本を読んでも宗教を国家、あるいは政治との関係でどういうふうにするかということは、キリスト教でも非常にしっかりした議論ができてない上に、プラクティスとしても非常にごちゃごちゃで、難しいものだと思ういます。
 ところが、結局、近代の社会科学だけに限りましても、マックス・ウェーバーのように藝術から解放されるとか、そういう宗教から切り離すことによって何か社会科学的な真実についてしっかりわかろうという態度が一時すごく出たのですが、それも1世紀もたたないうちにぐちゃぐちゃといいますか、疑問もすごく出てきているところがあると思います。
 ですから、先生が今扱われた科学と宗教というだけではなくて、国家と宗教というのも非常に難しくてどうしようもない。そして、それに真理を何とかしようという場合に、社会科学というのはわかろうというだけじゃなくて、変えようというのがありますし、価値観の選択もありますし、それは個人の信念といいますか、信条といいますか、エリザベス女王が個人で信じている限りはがたがた言わないけれども、国家宗教と決めた以上、それに公的に反逆するのはだめだというふうに16世紀のころから言っていたように、個人のフェース(faith)というものをどこまでtolerateするかという問題も入ってくるので、社会科学、人文科学も非常に難しくて、結局、アメリカなんかを見ても宗教が政治の中にいっぱい入っていますし、マックス・ウェーバーの言ったとおりなんか全然なってないですし、イスラム教がそういうことをやらないからだめだということにもなってないということを考えたら、僕は科学と宗教というだけではなくて、ヨーロッパの遺産の1つとして国家と宗教、政治と宗教、そういったものもかなりよく扱わないと思います。
 とりわけこの委員会の主要な主題である人文学及び社会科学の振興について、元気ある発言がしにくいのではないかと思っているわけでありまして、これはほんとうに難しくて、例えば憲法なんてこういうことについて書くためにあるみたいなものだけれども、結局みんないいかげんに書いていると言っては悪いのですが、ほんとうに正直な国はイスラエルだけで、憲法のない国はイスラエルとイギリスとニュージーランドですけれども、ニュージーランドはイギリスの真似というか、それを引き継いで、イギリスはマグナカルタがあると言いながらも、面倒くさいからしなかったのだと思うのですが、イスラエルの場合は完全に議論が分かれて、何にもできないのです。だから、これについてはいろんな問題が出てくるので、それは社会科学で真実を扱うのか、どういう態度で扱うのかということで、いつの間にか科学と宗教、政治と宗教という問題とだんだん同じ平面といいますか、そういうところに上がってきて、今、議論がすごく盛んになっているのではないかなと思って、村上先生の宗教と国家とか、神と政治とかということ、それを社会科学、人文学の振興に結びつけて何かお教えいただけたらと思って。

【伊井主査】 

 今田先生、どうぞ。少し猪口先生、お待ちくださいますか。

【今田委員】 

 簡単にコメントさせていただきます。スピーチの最後のほうで新たな形の科学という、とても魅力的というか、刺激的なお話が出ました。好奇心駆動型と使命達成型科学という2つのタイプに分けられて、ほんらい科学は(1)のほうで、(2)は技術者のほうに近いが、最近の科学は(2)のほうに堕落してしまって、人文学や社会科学までが(2)のほうのタイプになっている。これは「学問全体の自殺とも言える」とお書きになっていました。この件について少しお聞きしたいのですが、科学は好奇心駆動型の活動で、ホモジニアス(同質的)かつ、ハイアラーキ型で、指導者がいてなされる活動とされています。なるほど近代科学が進展する過程でそうなってきたと思うのですが、斜めに構えて言うと、これは学問の「たこつぼ化」で「象牙の塔化」の原因であるという意見も出てくるのではないかと思います。
 右のほうのタイプはヘテロジニアス(異質的)で、リゾームで、マネージャーがいてなされる活動、要するに技術者的というのは異質性を重んじて、リゾーミックで理路整然としていなくて、こっちがだめならあっちをやって、またほかで試みてと、変幻自在にトライ・アンド・エラーを繰り返し、それをマネージングする人がいる活動をあらわすと言われているように見受けます。これは多分、産業革命期に民間人がいろんな発明・発見をしたときの活動のイメージがして、それで技術者的というのは腑に落ちるのですが、ほんとうにこっちのほうは科学の堕落なのでしょうか。どっちかというと僕はこっちのほうが好きなのです。こうした方向での科学をやりたいのですが。新しいことを起こして活力を出すためには、ヘテロジニアスとかリゾーム性が重要で、皆がわさわさいろんなことをやり始めることが不可欠だと思うのです。収拾つかないかもしれないけれども、何か出てくるかもしれないという感じの活力みたいなものを、ルネサンス期の人文学もいろんな形で出していい。
 感じからいくと、マネージャーというのはレオナルド・ダビンチのようなイメージがします。彼はリベラル・アーツを地で行くような人物で、興味関心のあることなら何だってやる、何やるかわけわからない。自然科学も社会科学も人文学もやって、芸術までやっています。そうした試みの新バージョンが今求められており、再度、人文学、自然科学、社会科学の在りようが問われていると思っているのですが、そういうのはやはり科学にとってはまずいのでしょうか。その点をちょっとお聞きしたかったのですが。

【村上東京大学特任教授】 

 順番に猪口先生のお話からお答えしますが、私が話したのは自然科学にどこかで特化しているので、しかも猪口先生がおっしゃったことの中の1つに、社会科学というのは真理の理解だけじゃなくて、社会自体の変革まで含んでいるという一言は非常に厳しくて、つまり社会科学と言われているものの中にいわば技術的要素という、法律はもともと技術だと私はかなり強く思っているのですが、そういう技術的な要素が先ほどから定義した意味での、私がここで少なくとも定義した意味での技術的な要素がかなり含まれている。そのことを勘案しないと、社会科学を論ずるときには多分片手落ちになるだろうということを、今、猪口先生の言葉から強く感じています。
 そして、それと同時に宗教との関連をおっしゃったのですが、確かに例えばマレーシアの憲法というのは、これもまた釈迦に説法ですけれども、イスラム国でありながら非イスラムです。あれは宗教色が基本的にはありません。つまり、そういう存在から完全にイスラム圏流の憲法を持っているところまであるわけだし、現状を考えると、特に近代化の中で祭政一致が非難されるような状況の中での現在の宗教と国家との関係というのは恐ろしく複雑で、とても私なんか手に負えません。それこそ猪口先生なら手に負えるのかもしれないけれども、とても手に負えません。
 ただ、かつては私は例えば王権神授説に最も典型的なように、国とか社会の秩序もまた神の秩序のあらわれであるという理解は少なくとも西ヨーロッパにはあったと思います。それが非常に強く非難される。それはおそらくロックのあたりもそうでしょうし、寛容という概念が出てくるのもそういうところからもありましょうし、民主主義という概念でさえ多分そういうところが含まれていると思うのですが、私は近代化というのは民主化だと思っているのですが、実は正直言って。あらゆる場面である種の民主化が起こる。これも言うまでもないことですけれども、民主主義という概念はアメリカのメイフラワーコンパクトの中にもないし、独立宣言の中にもないし、憲法の中にさえ基本的出発点ではない言葉だと思いますけれども、トクビルによって初めて民主主義という言葉がある意味でプラスの意味を与えられて、近代の中で理解されるようになったと思うのですが、そのトクビル的な民主主義という言葉を使えば、近代の少なくとも1つの特徴は民主化である。空間も民主化されたと私は思っているのです。社会の秩序も民主化された。あるいは音楽でさえ民主化された。そういう意味では何か秩序があって、意味構造があると理解しておくところを一たん全部壊してばらばらにしてしまう。ホッブスもそうだと思うのですが。
 ということが民主化というのはある意味で世俗化なのですが、それが宗教と絡んでいるというところまでは申し上げられますが、それ以上精緻な議論は今とてもできませんし、時間もないというだけではなくて、私の能力の中の外にありますので、これ以上は勘弁してください。
 それから、今田先生がおっしゃったことは、堕落とおっしゃると非常に困るのです。私は堕落の意味で言ったわけではないのです。好奇心駆動型の科学も科学の本来の姿として尊重しましょうよと。それを忘れると科学も自殺になりますよということをお話ししているだけで、もう1つの(2)で書いたような研究があり得ることに関しては、それの価値を否定しているわけでも何でもありません。ただ、今の現代社会が特にファンドレイジングなんかをしようとする立場の側からすると、研究開発に支援をする、つまりお金を出すときのラショナールが言いわけというか、合理性というか、それが何かの意味で短期的な使命が達成されていますよということを、あるいは達成されるべきである。
 こう言うと文科省批判になっちゃうかな。ごめんなさいね。例えば中期目標を立てましょうと。中期目標を立てた。それがどこまで達成できているかということが全部の評価につながっていく。実は使命達成型の科学とここで書いた、今、今田先生がいいのではないかとおっしゃったようなやり方をすれば、立てた中期目標を達成できないことは幾らでもあると思います。でも、今、フレームワークとしては目標を定めて、それに向かってひたすら、それは社会に対してこれだけのゲインがありますよという目標を定めて、そこに向かってそれを達成していくことこそが問題だ、課題だという形で、例えばファンドレイジングや評価が行われていること自体は、すべてがそれで行われる、あるいは非常に多くのものがそれで行われることは非常に憂慮すべき事態だと申し上げているつもりです。

【今田委員】 

 誤解が生じるといけないので、少しだけコメントさせていただいて、先生の後のほうの評価のあれで、過去5年間のレフェリー付き論文が意味あるものとか、そういうふうになっているということは僕は大反対なんですよ。特に人文学及び社会科学に関して大反対と言うと変だけれども、それが使命だというふうには思ってなくて、むしろタイプ(2)でやったら、そういうことは考えなくてもいいというふうに僕は理解していたものですから、なぜ(2)が5年間のレフェリー付き論文の数だとか、そういう評価につながらなければいけないのかなとむしろ思ったぐらいで、(1)のほうがつながっているのではないかなと思って少しお聞きしたかったので。
 別にそういうので縛りをかけて、成果主義でノルマを達成して何とかという方向へ人文・社会科学が自然科学と同じような形でいくことに関しては、僕もあまり望ましいことだとは思ってなくて、先生のおっしゃるようなタイプ(1)型みたいな形で、真理の探求ということも社会の役には立たないけれども、人間性の深い理解と真理の探求をすることはとても大事だと思っていますので、新しい形のリベラルアーツみたいな、まさに自由七科ってリベラルアーツですよね。そういうものをやるためにもタイプ(2)もうまく利用しながら、だからタイプ(1)と(2)の往復運動みたいなものをどううまく社会の中に根づかせるかというあたりがいいのではないかなというふうに思って、質問させていただいたので、この(1)を否定したわけではありません。

【伊井主査】 

 どうもありがとうございます。猪口先生、先ほどのお答えで、よろしいでしょうか。

【猪口委員】 

 はい。

【伊井主査】 

 では、家先生、どうぞ。

【家委員】 

 大変上質なレクチャーを聞かせていただき、ありがとうございました。
 お話しいただいたこと一つ一つうなずきながらお聞きしていたのですが、1つだけ私の違和感というか、意外だなと思いましたのは、ただいまご議論にあったキュオリシティドリブンとミッションオリエンテッドの区別なんですけれども、先生のお示しになった表で真ん中の2つのホモジニアス、ヘテロジニアス、それからハイアラーキ、リゾームというこの性格づけですけれども、私の感覚から言うとこれは逆なんです。歴史的にはこういうふうだったのかもしれませんけれども、少なくとも今の科学研究の営みでいうと、使命達成型のほうはよりミッションがはっきりしていて、みんながそれと同じ価値観でやるという感じがしておりまして、一方、好奇心駆動型のほうはそれぞれの人がそれぞれの価値観でやっているということで、これは私の感覚としては逆だったので、意外に思ったのが1つです。
 それで、今も議論に出た使命達成型のほうは社会の役に立つという大義名分があるから、多分あまり説明する必要はないと思うのですが、好奇心駆動型のほうは社会に対してファンディングをしてもらうということをいかにジャスティファイするか。これは多分永遠の問題だと思うのですが、それはなかなか難しくて、それの1つの極端に走ったものは、ちょうどオリンピックで金メダル獲りますと言うのと同じように、ノーベル賞獲りますというふうに走ってしまうのが1つですね。それはある意味でわかりやすいけども,本質からは外れている。
 そうではなくて、そういう極端に行かずに市民の知的好奇心を満足するというか、知的レベルを上げるとか、そういうことでやっていると、私は理学のほうなものですから、人文の方とメンタリティとしては近いと思っていて、そういうふうな意識なのですが、それを研究計画書にそう書いて許されるかというと、なかなか許されないところがありますね。
 そういうことと、それから最後のほうにおっしゃっていただいた評価の問題、これはこの委員会にとって非常に重要な問題だと思うのですけれども、今、とにかく評価というと客観性が要求される。客観性が要求されると、計量にのらないものというのはなかなか評価項目にはなりにくいですよね。さっきも言ったようなことで、計量にのらないものをいかに評価にのせるかというのは、それ自体が人文学の非常に大事な研究テーマじゃないかと私は思っているのですが、その辺、何かお考えがおありでしたら是非教えていただきたいと思います。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。いかがでしょうか。

【村上東京大学特任教授】 

 ありがとうございます。第1点の好奇心駆動型と使命達成型と区別をしたときのこの構造というのは、研究チームの構造を書いているつもりなのです。ですから、好奇心駆動型ですと、例えば新粒子を発見したいというときには、その問題に関心を持つ物理学の、しかも物性ではなくて、例えば素粒子論の人たちが大体そのチームメンバーを構成するというのが普通ではないかというふうに言っているつもりなのです。
 それに対して、例えば原爆を開発しようという使命が外でテーマが選定されたときに、そのプログラムに参加する人たちは、さっきちらっと言いましたように、核物理学者だけではなくて、技術者もいれば、軍事の専門家もいれば、さまざまな人たちが知恵を寄せ合わないと原爆は開発できなかったはずでありまして、その意味でマンハッタン計画は核物理学者、原子核の研究者だったローレンスだとか、オッペンハイマーだとか、フェルミだという人たちだけでできるはずのないものであったはずですね。それがヘテロであるという意味の表現です。
 しかも、それを5年間なら5年間の間に達成しなければならないというと、好奇心駆動型だと、別段10年かかろうが、20年かかろうが、1つの問題を追求し続けるということはあり得るかもしれませんけれども、使命達成型ですと、5年計画なら5年計画でしかるべき使命を達成しなければいけないというわけですから、ちょうど5カ年計画のように初年度にはこれだけのことをやってというタイムスケジュールをきちんとつくって、そこにはだれとだれとだれと、どういうタイプの基礎研究をやる人がどこへ張りつけばいいかということをプログラムを立てて、翌年そこでこれだけの成果が出たら、翌年には次はこういうステップにしようというステップワイズの計画を立てて、それを実行していくためにマネージャーがいる。それはおそらく雇用関係の、例えば原子核の研究者と工学者と一緒に住まわせたら、あつれきが起こることがあり得るよというような一種の労働条件みたいなところにまで気を配らないと、おそらくこのチームが使命に向かって動いていかないだろうということを考えた上でマネージャーという言葉を使ったので、1つの研究開発チーム、あるいは好奇心駆動型だと開発という言葉は使わないほうがいいのですが、研究チームの構造をこんなふうに考えたということでご理解いただければと思います。
 それから次は、通常の意味でいえば純粋科学のラショナールは何かということですけれども、それはこれまでもある程度お話ししてきたことの中にあるのですが、それは文化だと思います。しかも、ここでは(1)と(2)が逆になるかもしれませんけれども、そう言うと科学者の方は怒るのですが、芝居やオペラと同じだと言うと。でも、私はそれでいいと思います。つまりオペラは、オペラをやらなければ死んでも死に切れない人がオペラをやる。でも、自分たちのお金だけではどうにもならないから、少し助けてくれ、いいでしょと言っているのと、この粒子があるかどうかわからないけれども、あることがわかったらこんなすばらしいことはないので、だけどそれにはセルンへ行ってお金を使わなきゃいけないから、少しお金を使わせてくれというのと、あるいは100億光年の光を8メートルで集めたいから。でも、それで喜んでいるのは、天文学の場合は結構アマチュアファンがおりますけれども、要するにほんとうに利益を得る人たちは、世界でも30人、40人という天文学者しか8メートルの望遠鏡では得られないわけです。でも、それが450億円のお金につながっていくことに対してエクスキューズがあるかといえば、私はそれはさっきのphilanthropyであると堂々と言っていいのではないかと思うんですけれど。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。どうぞ、上野先生。

【上野委員】 

 大変いろいろ勉強になりました。ありがとうございました。それで、先生方がご指摘になったところと重なるのですが、問題意識が一緒ですので、感じたことを簡単に申し上げたいと思います。2点です。
 1つは、先ほど評価で議論になった30ページのところですが、私は人文学・社会科学系からの対案が今、非常に求められていると思います。さっき伊井先生がおっしゃったとおりなのですが、大変なテンポですが、例えば私は学位授与機構で大学評価の試行をおやりのころに少しチームに入っていましたが、そのころは定性評価、定量評価という両方の概念できちんと議論ができていたと思います。今のように専ら数値を求めるという議論は当初、なかったように思うのですが、現実は私よりも先生方がご存じのとおりです。そういう意味では例えば先ほどのレフェリー付き云々のあの部分ですが、国のほうが制度としてお求めになることもあるけれども、私の周囲でいいますと、学内議論で大きくいえば理系の方はこういうふうに数値になることをお求めになるし、人文社会科学系はそこにせめて自分たちの基準としてはというので歯どめをかけようとするけれども、その立論が弱いのです。おそらく国のレベルでもそれをやっていると思います。
 ですから、「本来は」ということだけではとどめる力にならない。そういう意味で歴史を踏まえつつ、19世紀、20世紀の転換があったということを前提にしながら、その人文学的価値を含み込んだ新たなそういう考え方を具体的に出さないと間に合わないように私には思えます。それが1点です。
 2点目は、先生の資料の最後のページの31ページのところで感じたのですが、同じスタンスで考えたわけですが、もし純粋科学、純粋学問の効用というふうに考えてみたとして、最初に書いてある人間(個人)の確立、束縛からの解放ということと、その次の生活上の便宜と利得の増大、この間に入るものがあるのだろうと思います。問題意識は多分共有しているのだと思いますが、つくり上げるということを考えるならば、単に個人の確立と解放だけではなくて、個人が解放されるような体制なりシステムのあり方、それは最近ではコミュニケーションと言われたり、異文化共存と言われたり、いろんなコンセプトがあるように思うのですが、そういうこの間に入るコンセプトを打ち出して、それをつくり上げるために人文学・社会科学がどう貢献できるかというふうなことをアクティブに出していく必要があるのではないかということを思いました。 以上です。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。いかがでございましょうか。

【村上東京大学特任教授】 

 ありがとうございます。おっしゃったことは一々ごもっともで、まず先ほどあえてphilanthropyで押し通すと申し上げましたけれども、それで押し通せないのが現状だということもわかっているつもりです。
 たしか私も20年ぐらい前に学位授与機構でちょっと仕事をさせていただいたときには、定量的評価と定性的評価、両方でやっていきましょうという非常にはっきりとしたことが了解されていた。でも、いつの間にかだんだん定性的評価というのが不可能だという話になっていってしまっている。これは残念ながら理工系の定量的評価ということが、だって論文というのはレフェリーがついてないとだめですよっていう概念自体、これは理系から入ってきた文化であって、これは確かにさっき今田先生がいみじくもおっしゃいましたけれども、たこつぼ的学問でも結果的にはそういう方向へ向かっていったことは確かなので、それは何も理系の文化が文系に入らなくてもよかったはずなのですが、いつの間にか論文といえばレフェリーがついてなければ論文と認めませんという状況が生まれてしまいました。
 これは時間をとって恐縮ですけれども、私が大学院の委員会に初めて出るようになったころ、今から30年ぐらい前ですが、私の大学院の課程は理学系に入りました。毎年委員会に来年度の計画表を出します。非常勤講師はだれ、どういう方にどういう講義をしていただくかという表を出す。課程から上がってきた表はすべてだれも質問をせずに必ず、だってそれこそそのころは一番課程オートノミーでしたから、課程のを尊重して、だれも文句を言わずにそうですかというので通るわけです。私どもだけ通らないのです。例えば来年度の非常勤講師としてだれそれさんをお願いする。この方は例えばフェノメノロジーの大家であって、だから『思想』にこういう論文があります。
 そうすると、物理か化学の先生が必ず立って、私にお聞きになるんです。村上さん、この業績リストの中に、この先生は『思想』という雑誌に論文をお出しになっているのが出ているようですが、『思想』という雑誌にはレフェリーはあるのでしょうかとお聞きになるんです。私は最初はこれは単なる質問だと思って一生懸命まじめに答えていたんです。レフェリー制度はありませんが、若い方が論文を寄せてくださったとき、寄稿論文に対しては社外にそれなりの評価を求めるプライベートシステムはあります。はあ、そうですかといってお聞きになるのです。翌年また同じ質問が出るのです。これはいじめのセレモニーだと気がついたのですが、3年目ぐらいに私がそのいじめのセレモニーと気づくのはなぜかというと、はあ、そうですか、あなたの領域ではレフェリーがついてなくても、雑誌に出たものでも論文とお認めになるのですねという最後の一言が、私にはこれはいやがらせのセレモニーだと思わせたのですが、それは30年前のことです。
 まさにそういう時代を経て、今や人文系でもとにかくレフェリーをつくりましょうというので、私のいた私立大学の小さな企業でもとにかくレフェリー制をつくって、レフェリードペーパーですよということにしております。やむを得ないのです、それは。
 でも、おっしゃったように、積極的に人文系、社会系でどういう評価で定性的な評価があり得るのかということについて、ペーパーだけでなくて著書を重んじる、単著を重んじるというのも残っていると思いますけれども、それもいつなくなるかわからないわけです。ですから、そういう守りの姿勢じゃなくて、攻めの姿勢で何か積極的なクライテリアを何とか出さなければいけないって、それには人文科学、社会科学の一部も少なくともそうだと思いますが、人文系、社会科学系の学問が何を目指しているかということについて、常に人文系、社会科学系の先生方が社会に向けてそれを発信し続けることも同時に必要ではないかと思います。それが積極的な打って出る1つのポイントになるのではないかと思います。
 それから、この中間に何かが必要だということもおっしゃるとおりであって、それをどう組み立てていくかということが、まさに私たちが問われているところであるということに関しては何の異論もございません。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。もう時間がなくなってまいりました。もうお一方どなたかあれば。中西先生、どうぞ。

【中西委員】 

 感想でもよろしいでしょうか。科学は文化の一部であると書いてあるのはまさにそのとおりだと思います。私たちは文化的に高いものを見ると非常に感激しますし、科学のすばらしいところにも感激する。どういう社会をつくっていくかというと、科学も含めた文化の高い社会をつくっていくのが私たちの学術の目標だと思います。ところが、外国からいろいろな情報が入ってきますので、それまで各民族が持っていた文化が技術によっても、ある程度統一化され、それまでの多様性がなくなっていくように思えます。世界中誰でも似たようなものに感動し始めているようにも感じられます。また科学も同様な傾向があると思います。ですから、もともと文化と科学は一緒だったと思いますが、どうやってこれらを一体化した上での文化の多様性を図る方策が技術でできるのかが問題かと思います。両者を統合した、文化の外側にあるもの、宗教以外に何か考えられるものがあるかという点を伺えたらと思います。

【村上東京大学特任教授】 

 これも大変大きな問題を提起してくださいまして、とても簡単にはお答えできないのですが、先ほどの上野先生のお話とも結びつけて申し上げれば、これは科学ではなくなってしまうので、中西先生のお話とは直接結びつかないかもしれないのですが、それでも科学の世界はいかに我々のやっていることがおもしろいかということを普通の世間一般の方々に伝えようとする努力というものを、少なくとも最近はかなりお始めになった。例えば国立天文台が渡部潤一さんという方を指定して、言ってみればすばるのスポークスマンになさいました。渡部さんは大変すぐれた研究者だったのですが、小平桂一が、彼は私の高校の同級生ですから、桂一と呼んじゃいますが、小平君がすばるを450億円のお金を使わせていただくことに対して、何とかすばるの結果を一般の人々にこんなにすばらしいことがおかげでわかっているのだ、おもしろいでしょうということを伝える役割を果たすようにということで、JAXAでは天才的なそういうサービスマンがいますし、KEKもそういう方を使うようになった。
 人文学、社会科学もまたわからないやつはしようがない、ついてこいというだけではなくて、我々がやっていることはこんなにおもしろいことなのです、どうですか、皆さんおもしろいと思ってくださいませんかというような動きも必要になってきているのではないか。それをやることが迂遠のようなでも、人文社会科学の中での積極性ということの1つの姿勢になるのではないかという感じがしております。それは非常に厄介なことなのです。さっきどなたかコミュニケーションという言葉をお使いになったのですが、まさにコミュニケーションのスキルの問題でもあるんです。ですから、いかに自分たちの学問のおもしろさ、好奇心を満たすということはこんなにすばらしいことなのだという、そのわくわくするようなおもしろさをそれぞれの学者がそれぞれに語ること、私はこれは大事なことではないかと思っています。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。科学官のお2人いらっしゃいますが、どうぞ何かご感想でもよろしいのですが、佐藤科学官。

【佐藤科学官】 

 佐藤でございます。私は生物学者でございまして、村上先生のお話を聞いてまことにそのとおりだと思いましたが、2つだけ手短に意見を申し上げさせていただきます。
 1つは人文学や社会科学の先生方は、過去5年間の業績リストが自然科学のものだと思っていらっしゃるようですが、自然科学の側はしようがないからそういうふうにしているのであって、何もこれでいいと思っているわけでは決してないのだということをぜひご理解をいただきたいというふうに思います。
 それから、村上先生のお話の中で非常に示唆的だと思いましたのは、特にヨーロッパのルネッサンス以後の科学は純粋な知的な好奇心の中で科学が回っているのだというふうにおっしゃったところですが、反面、あの時代の人たちはみずからが貴族でありましてあるいは貴族の中にスポンサーがいて、何か大型のことをやろうと思ったとき、それをやるだけの資財があった。現代社会は貴族がいないものですから、しようがないので研究のためのお金は社会なり国に頼らざるを得ない。やはり金が要るという点では、これは学問にとっては本質的な命題みたいなものであって、そういう意味ではどういうふうに研究の資財を得るためのエクスキューズをして、言葉は悪いですけれども、人を酔わせるかだませるかというところが必要なのだろうなということを強く感じた次第です。以上であります。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。高山先生、どうぞ何か。

【高山科学官】

 村上先生のお話をお伺いしながら一つ一つうなずいておりました。人文学が置かれている状況については、ほんとうに私も同じように感じております。
 ただ1つだけ学問ということに関して申し上げたいのですが、やはりこれは人類の知的認識領域を拡大する、そういう行為なのではないかと私自身は考えております。つまり、学問は、単に個人の好奇心を満たすというだけではなく、人類が共有する知的財産を拡大することに結びついているので、それなりにお金も出してもらえるのではないかなと、そういうふうに思った次第です。

【伊井主査】 

 どうもありがとうございました。まだいろいろ議論をしたいところでございますけれども、以上で村上先生からのご意見発表と質疑応答を終了いたします。どうもありがとうございました。
 本日の会議はこのあたりで終わらせていただきたいと思いますが、それでは次回の予定等につきまして事務局のほうからご説明をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】 

 次回の日程でございますが、資料3をごらんいただければと思います。第12回は5月30日(金曜日)午後3時から午後5時まで、場所はこの同じ部屋でございます。3F1特別会議室でございます。
 それから、本日の資料につきましては、封筒に入れて机上のほうに残しておいていただければ、また後日郵送させていただきますので、よろしくお願い申し上げます。
 以上でございます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。それでは、本日の会議はこれで終了いたします。どうも皆様ご協力ありがとうございました。

 ── 了 ──

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