学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会 (懇談会) 議事録

1.日時

平成20年11月14日(金曜日)15時~17時

2.場所

文部科学省3F1特別会議室

3.出席者

委員

伊井主査、立本主査代理、井上孝美委員、伊丹委員、猪口委員、今田委員、岩崎委員、立本委員、谷岡委員、藤崎委員、佐藤委員

(外部有識者)
星野 英一 日本学士院会員、東京大学名誉教授

(科学官)
佐藤科学官

文部科学省

倉持研究振興局担当審議官、奈良振興企画課長、戸渡政策課長、門岡学術企画室長、高橋人文社会専門官 他関係官

4.議事録

【伊井主査】

 それでは、ただいまから、科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会に置かれております人文学及び社会科学の振興に関する委員会を開催することにいたします。
 本日は、日本学士院会員でありまして、東京大学名誉教授でございます星野英一先生をお迎えいたしました。星野先生におかれましては、ほんとうにご多忙のところ、この委員会にご出席いただきまして、ありがとうございます。御礼申し上げます。
 まず、配付資料の確認をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】

 資料につきましては、お手元の配布資料一覧のとおり配付させていただいております。欠落などございましたら、お知らせいただければと思います。それから基礎資料につきまして、ドッジファイルを机の上に置かせていただいております。
 以上でございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。
 それでは議事に入ってまいりますが、この委員会は昨年の5月以来、学問的特性、社会とのかかわり、振興方策という3つの観点から、人文学及び社会科学の振興につきまして審議を進めているところでございます。
 人文学につきましては、「審議経過の概要(その2)」におきまして、人文学の学問的特性や振興方策の方向性について審議経過を整理してお渡ししているところです。人文学につきましては、おおむね全体像を整理することができたものと思っているところであります。
 一方、社会科学につきましては、昨年の8月の「審議経過の概要(その1)」につきまして、実証的な分析手法に基づく社会科学研究の振興方策について取り上げたところでありましたが、社会科学研究における理論研究、思想や歴史、制度研究という議論が残されているところであります。社会科学研究の振興のあり方につきましては、全体像がまだ十分に議論できていない状況だと思っているわけでありますが、そのため現在、改めて社会科学研究につきましての議論を進めているところです。
 具体的には、これまで議論となりました、何度か出てまいりました、「国際水準の研究」とは何か、あるいは「すぐれた研究者」とは何をもって「すぐれた研究者」と言うのかなどにつきまして、ご議論を前回からもしていただいているところであります。
 とりわけ前回は、経済理論、経済学史がご専門の根岸隆先生をお招きいたしまして、経済学研究における研究成果の考え方や学会のあり方、日本の経済学の問題点などを中心にして、いろいろお話をいただいたところでした。確認をしておきますと、根岸先生からは、まず経済学における研究成果の発表が、20世紀の中ごろを境としまして、書籍という媒体の発表形態から論文による発表へと変化しつつあるということ、またそれに伴いまして、学術雑誌のレフェリー制度そのものに起因する問題点の指摘がありました。ノーベル賞を受賞するに値するような論文がレフェリーつきで落ちたとか、ほかの論文に掲載されたのが受賞したということがありましたけれども、ノーマルサイエンスのもとにある研究成果には対応できても、パラダイムシフトをもたらすような成果には必ずしも対応できないという指摘があったわけであります。
 またその際に、森嶋通夫先生が自説の体系や俯瞰的な知を示すために、書籍による成果発信を重要視されていた事例などもお示しいただいたわけでした。これは個人的な考えと申しましょうか、見解としましては、間接的に書籍による研究成果の発表についての利点を述べられたのではないかと思っているところであります。
 次いで、経済学に関しまして、日本の学会がアメリカの学会に比べますと、細分化されたままで連携した動きがとれないということ、これは私なんかの関係する学会でもほんとうに細分化されて、お互いに連携されていないという点もあります。同じような傾向があるように見受けましたが、ヨーロッパでは各国の経済学会を超えた、EUレベルの学会に統一されつつあるのに対しまして、アジアでは連携する学会ができていないということなど、学会の問題点もご指摘いただいたところでした。
 また、日本の学会の発行する学術雑誌の水準も徐々に向上しているものの、外国の研究者が盛んに投稿するという、国際的な評価のレベルにはまだ達していないということもお話しいただいたところであります。
 このほかにも委員とのやりとりの中で、年功序列に基づく大学教員の処遇の問題、経済学の振興にとりまして社会とのかかわりの重要性など、幾つかの論点をお示しいただいたものと思っているわけであります。
 本日は先ほど申し上げましたように、民法学がご専門の日本学士院会員で東京大学名誉教授の星野英一先生にお越しいただきました。「日本法学の現状と課題」と題しましてご発表いただくことになっております。既にお手元に先生のお書きになりました、非常にわかりやすくお書きくださっているところだと思いますけれども、幾つかのご論考をコピーしてお渡ししておりますが、星野先生からは40分程度ご発表いただきまして、残りの時間を委員の皆様からご意見を賜ればと、いつものようにしていきたいと思っております。
 それでは星野先生、どうかよろしくお願い申し上げます。

【星野名誉教授】

 ただいまご紹介いただきました星野でございます。
 今ご紹介がございましたように、私の話はこういう題になっております。事務局は、今、伊井先生もお話になりましたことが問題になると伺いましたが、今日のところはそれとは順序だけを変えてございます。
 レジュメに沿って申します。「はじめに」に続き、法学の対象と方法をまず先にやり、日本の実定法学の特色というところに入りまして、さらに現状と課題、最後に学術振興のための具体的なことをちょっと書いてみたわけであります。
 最初に「はじめに」と申しましたのは、人文学、社会科学のことと伺っておりますが、法学というのはどうもどれにも属しないというところがございます。あえて言うならば両方の要素を含んでいるうえに、さらに特殊なものを含んでいるということを申し上げたいのであります。そもそも申しますと、法学というものはとりわけ日本におきまして、他領域の学者を含む多くの方々にあまり理解されていない、あえて言うならば、ほとんど理解されていない学問であります。
 次に、法学の対象と方法に分けて申し上げたいと思います。まず対象としましては、社会に存在する「法」と、国家等の制定した、国家のほかにも例えば地方公共団体といったようなものがございますが、それらの制定した「法律」、この両方に関係いたします。
 まず法と法律を分けていることについて申します。これは私の考えでありまして、必ずしも多くの学者に受け入れられているかどうかわからないのです。あまりこういう方法論の論文を書いてくれる方がないものですからわからないのですが、若干賛成する方が出ています。法と法律を分けることがいろんな意味で必要であろうと思いまして、ここに引用しました、放送大学の『法学入門』というテキストの初めのほうにその必要性が書いてございます。
 簡単に申しますと、法とは社会に事実上存在するものでして、丸山眞男先生の言葉をかりますと、いわば自然に存在するものです。もちろん自然というのは、例えば契約などというのはそうですが、取引社会の慣行は主に契約として現れるわけで、人々がつくるものですが、結局みんながつくって同じ方向にだんだん向かっていくという意味では自然ということで、自然と申したわけです。
 むしろそちらよりも、法律のほうを先に説明したほうがよろしいかと思います。厳密な定義があるわけではありませんが、これは国家その他の正式の立法機関が制定したものを法律と呼ぶとするほうがよいのではないかと思います。法律のほうは丸山先生の言葉をかりれば、作為に当たるものですが、人によってつくられたものを扱うものです。
 初めに申し上げるべきでしたが、今日の大役を仰せつかりまして大変考えました。もちろん事務局の方にもご説明を伺いましたが、さらに、今までのここでの検討の資料をいただきたいと思い、ほとんど全部の資料をいただいて、皆様方の報告あるいは議事録を、ざっとながら拝見させていただきました。特に今年の8月6日と22日のものは、かなり丁寧に読ませていただきました。ただ、全部をリファーすることは時間の関係もあって、失礼させていただきます。若干引用に偏りがあるかもしれませんが、お許しいただきたいと思います。
 つくられたものを扱うのが人文学の特色の一つであったと思いますが、まさに法律はそういうものです。そして、法律も法も、人間及び社会生活のほとんどすべての領域に及んでいます。むしろ法律が介入することができない領域があるか、それは何かというほうが法学では問題になるぐらいです。それは、簡単に申しますと、まず人間の心です。一つには内心です。人間関係については、愛情です。といっても若干デリケートな問題があります。愛にも幾つかのものがあるとギリシャ以来言われているようですが、特にアガペーといいますか、チャリティーの問題、それとフィリアという友人愛の問題には入れないのです。それ以外の関係のほとんど全部に法律は関係します。例えばエロスに関係する結婚とか親子には法律が相当介入しています。というより、これらは法律が介入せざるを得ない領域です。それ以外は人間生活のほとんどすべての領域に及ぶもので、私どもが朝起きてから夜寝るまで、考えてみると全部法律に関係しております。
 次に、法律の方法について申しますと、法学の普遍性と特殊性と言うことができます。この普遍性、特殊性というのは、他の学問に比べてという意味です。
 第1に、他の学問、つまり科学と哲学と共通の部分があります。これはある時期に盛んに言われた「虚学」という言葉を仮に使いますと、その部分です。独自の部分は、当時「実学」と呼ばれた、今でも使われている言葉ですが、そういうものを含んでいるということです。この点では医学、薬学、工学、農学、教育学と共通なものです。要するに実践のための学問という部分ですが、それと共にそうでなくて純粋の認識のための認識という部分を含むのです。
 この両者は関連せざるを得ないのです。つまり、虚学の部分も、認識のための認識をしていれば済むともいえそうですが、やはり法学の一部として、法律の実践のために何らかの意味で間接的には役立つことが期待されるのです。客観的にそういう意味を持つと同時に、学者もまたそういう考えをどこかで持っているということだと思います。私はこれを医学部の先生から、医学部における基礎医学と臨床医学の関係として伺いましたが、それと共通の面があるのではないかと思います。基礎医学と臨床医学との関係のアナロジーが可能ではないかと思います。つまり大変広い範囲を含むということです。
 この2つの部分について申し上げます。共通の部分を、私どもは基礎法学と呼んでおります。これは外国にない言葉です。日本の法学の独特の用語だと思います。これに対し、独自の部分は実定法学と呼んでおります。こちらは似た言葉が外国にないことはないと思いますが、こういう基礎法学対実定法学というように、法学という言葉を共通にして形容語を違ったものにする形はないようです。有名な民法、法社会学の川島武宜先生は、実用法学という言葉を使っておられ、私もレジュメには「実定法学」(「実用法学」)としました。どうも実定法学というほうが普通に使われます。
 それぞれについて簡単に申し上げます。基礎法学というのは簡単に言えば科学と哲学にあたる部分です。例を挙げました。まず、法社会学があります。社会学の一環です。
 次は法史学で、歴史学の一環と言ってよろしいと思います。法、あるいは法律の歴史を探るものです。
 比較法学というのはわかりにくいところがありますが、要するに、外国法あるいは日本法を比較するものですが、実際そう多くの国の法律を勉強できませんので、幾つかの法律、1国か2国ぐらいの法律をかなり詳細に勉強して、比較することになります。実際はこういった外国法学という形で存在することが多いのです。目標は、各国の法律あるいは法を比較して、その中から共通点と差異点、なぜそうなっているかなど捉えることです。
 そのほか括弧に入れたのは、ほかの学問にあるものにみんな法をくっつけたものです。法心理学とか法論理学とか法言語学などは、外国ではかなり盛んな所もあります。しかし日本では、やっている方もありますが、まだそれほど盛んになっておりませんので括弧に入れたのです。フランス、ドイツあたりではこれらは相当盛んに行われておりまして、法学の周辺といいますか、関連学問として挙げられることが多いものですが、日本ではこれを挙げる学者はほとんどないと言ってよいかと思います。私の見た限りでは、法学入門あるいは法学概論でこれらを挙げている方はあまりないように思いました。
 次に哲学の部分です。哲学とは何かは大変難しい問題で、学問は科学に尽きるという哲学論もあるようですが、一応違うものとして挙げました。ものの本質であるとか、学問の方法、メタ理論などがよく挙げられておりますが、それらは哲学の一部ではないかと考えています。けれども、法学では法哲学の価値論が重要な部分です。法哲学は法概念、法思想、法価値論といったものを含むとされています。
 こういうものが基礎法学としてあり、大学の講義などにもあり、専門家、そしてその学会がそれぞれ存在します。
 しかし、どこの時代、国でも法学において主流をなしているものが、実定法学というものです。基礎法学は方法による分類がされていますが、実定法学のほうは対象によって分類されています。対象ごとに学という字がつきまして、憲法学、民法学、刑法学、刑事訴訟法学とか、知的財産法学とか、たくさんのものがあります。新しい法律の領域が出て学問も増えます。知的財産法学などというのは最近、講座としても認められたものと思います。
 これらは、法領域ごとに専門化してしまいまして、ややその学問間の交流が少ないところがあります。しかし、教育上の便宜ということもありまして、一応例えばここに憲法という名前の法律、民法という名前の法律、刑法という名前の法律がありますから、現実にある法律を中心に、その周辺の法律とか、それに関連する広く社会関係を学習するということは、教育上便利な区分でもあると言えます。
 この部分には何が含まれるかを、一言で申しますと、言語や論理を用いる技術であると言うことができます。そこがほかの学問にない特色、あるいはほかの技術にない特色であろうと思います。
 あまりうまい例が思いつかないのですが、例えば、人を殺した者は死刑とか何年の懲役に処すとある場合に、人を殺すというのは一体どういう意味かをまず考えなければなりません。
 人とは何かがそもそも問題です。というのは、ローマの時代には、例えばいわゆる鬼胎というのですか、変な子供は人間でないから、これを殺しても人を殺すのではないから、構わなかったようです。要するに人の概念そのものが問題になります。最近問題になっているのは人の初めと終わりでして、例えば堕胎は、人を殺したことになるのか、母親を傷つけたことになるのかという問題が直ちに出ます。死亡のほうでは、脳死は死であるかどうかといった、人がいつ終わるのかが問題になります。こういう形で、人とは何かが問題になるのです。
 よく例に引かれるのは、人を殺すつもりでピストルを引いた、ところが、当たる直前に持病から心臓麻痺で死んだという場合には、人を殺したことになるのかどうかということを、刑法では議論します。大まじめといっては大変失礼なのですが、1年におそらく日本でも1回もないようなケースですが、理論的には大変難しく、興味のある問題でもありますので、少なくとも今までは盛んに議論するのが刑法学の一つの伝統でした。
 こういうふうに、法律の条文があればそこに使われている言葉を分析し、その意味を考え、それから幾つかの法律の条文との関係、全体の体系的関連を考えていくわけです。
憲法の規定と民法の規定はどういう関係にあるのか。全法律的な体系的関連とか、それらを貫く原理は何かといったようなことなども考えます。そういった体系、つまり言葉から論理に至る体系を構築することが目標とされることもあります。あえて言ってしまえば、論理を駆使した技術のようなところがあります。ですから悪く言う人は、法律家は人を言いくるめてごまかす人間であると言います。実は私も法学部へ入った始めには、そういうものかと思ったことがあります。
 しかしこの部分が法学の中心であります。レジュメに書きました「ある所、ある時期には」中心ということを少し説明いたします。
 法学はローマ法学に始まっている、大変古い学問です。
 そのころは事件ごとに学者の意見を聞き、それを裁判所で適用しました。まさに実践のための学問です。
 そのローマにおける法学者の意見つまり法律はたくさん蓄積されて、ものすごいものがあります。これをユスティニアヌス帝がまとめさせました。それを中世の学者が細かく検討しました。中世ローマ法学というのは大変細かい注釈です。
 近代においては、イタリア、フランス、ドイツが中心ですがローマ法をさらに現代に適用できるように体系化しました。特に19世紀のドイツ法学は、大変緻密な概念構成とがっちりした論理体系をつくり上げました。それがフランスにも影響を与えました。
 英米法は比較的ローマ法の影響が少なく、独自の発展を遂げた判例法ですから違った形をとっています。裁判官はケースごとに判断を下すわけですが、同じようなケースに対してなされた判決をあとの裁判所が全く無視することはできないという判例拘束の原理といわれるものがあります。それを体系づけたものがアメリカやイギリスの、いわゆるコモンローです。
 英米をコモンロー国と申しますが、フランス・ドイツなど、ヨーロッパ大陸の国をシビル・ロー・カントリーと呼びます。シビルローというと民法のようにも思われますが、そうではないのです。シビルローというのはもともとはローマ法のことでして、ローマ法の影響を受けたヨーロッパ大陸のフランス、ドイツ、イタリア、スペインといった法律をシビルローと呼びます。
 どちらでも、法学者の言語や判例をもとに、実際の法適用に役に立つ実践的学問で言語、論理を用いた技術の面が強いのです。極めて単純な論理の積み重ねのようですが、うっかりすると間違うことがあります。逆必ずしも真ならずに反するような議論を相当な先生でもたまにしかねないのです。
 続いて、実定法学の特色について申し上げたいと思います。まず、実定法学一般の特色、次に日本の特色を申したいと思います。
 実定法学一般に通ずる特色は、まず人間と社会のほとんど全領域に関するという、先ほど申し上げたことの繰り返しです。
 問題は今申し上げたことに関係します。要するに自分で規範をつくる部分を含んでいるということです。規範をつくるというのは、すでに法律などがある場合には、それをもう少し具体的に書き直すことです。例えば、「人」と法律にある場合に、人とはこういうものだ、殺すというのはこういうことだと説明します。これは解釈という作業です。
 しかし、そもそも法律をつくらなければいけないわけです。
 日本の法律は、明治以来、外国法、具体的にはフランス法と主にドイツ法をモデルにしてつくり上げたものです。しかし、もう100年以上たちまして、再検討をする時期に来ております。民法典も、新聞なぞにも出ておりますが、5編のうち1編の大部分、つまり債権編から着手しています。
 それは立法です。解釈と共に、特に現代は立法が非常に重要になっています。会社法は全面改正されました。刑法でもご承知のとおり、裁判員制度が新しく設けられるとか、被害者の地位を重視するなどの大きな法律をしました。あらゆるところで法律の全面的改正、あるいは部分的な修正が行われております。
 したがって、いろいろな意味で規範をつくる部分を含む学問です。解釈は、抽象的な規範をもとに具体的な規範をつくることになります。立法は多かれ少なかれ、抽象的な規範をつくるものです。その基礎となる学問的作業をするのが実定法学です。昔、私どもがよく使った言葉では、法学の中ゾレンの部分を含む、こうあるべきだという部分を含んでいるのです。含まなければ、実定法学としての意味がなくなってしまいます。
 以下、列挙します。1つは、価値判断をしている学問だということです。だからそんなものは学問ではないという見方が直ちに起こってくるのです。
 第2に、何らかの意味で実践に役立つ学問だということです。もともと実践のためにできてきた学問です。基礎法学が独立したのは、おそらく19世紀だと思います。自然科学の発達につながっているのでしょう。もちろん哲学はギリシャ以来あり大哲学者が法についても論じています。しかし法の科学が問題になったのは、19世紀以降だと思います。なお、ここで実践というのは紛争の解決、世の中で行われるものもあり得ますが、裁判、行政、企業、そういうものに役立つ学問ということです。
 第3に、これは結局歴史によるものだということで、先ほど申し上げましたとおりです。
 第4として、以上の理由から、いつも両方向からの批判を受けやすい学問であることです。一方では純粋な科学のほうから、あれは科学ではない、学問ではないとよく言われます。現に法学の先生、先ほどの川島先生などには、科学でなければ学問でないというお考えがあって、科学としての法律学を打ち立てることに努力されました。そういう題の著書もあります。
 もう一方、実務からの批判があります。裁判実務、行政実務、企業実務等から、法学者は世の中を知らないという批判を受けることが多いのです。抽象論ばかりやっているのではないかということです。我々としては一生懸命、裁判なり立法に役に立つようにやっているつもりでも、現場の方から見ますと、あまり役に立たない学問であると言われることが少なくないのであります。
 ここで、基礎法学について申しますと、モンテスキューといった先駆者を別にすると、19世紀以降発達してきましたが、実定法学との関係が問題です。実定法学者の中に、基礎法学の成果をうまく取り入れて実定法学を豊かにしていく、インテグレートとしていくことは十分ではないのです。これは今に至ってもそうです。実定法学側の問題でありますが、実定法学への影響というのでしょうか、インパクトも必ずしも大きくないところがございます。
 学問というのはどうしても、新しくできるときには独自性を主張しますから、法社会学は社会学の一部であるとか、法史学、-昔は法制史と言っていたのですが、法律制度だけでなくて生きた法も含みますから-、史学の一部であるとしても、法学とあまり関係をつけようとしなかった感があります。
 法哲学も、近代ではかなり独特な発達をしてしまい、一般的な哲学そのものにもあまりインテグレートされていないように思います。カント、ヘーゲルのころ、あるいはアリストテレスにさかのぼれば当然ですが、哲学者は皆法哲学をやっていました。ある時期から法哲学者という専門家が出るようになりました。実定法学のほうも哲学をインテグレートしていない感じです。法哲学も実定法学に対するインパクトが少なかったのです。
 4番目に、教育活動が法学者の非常に重要な仕事になっているということです。狭い意味で判事、検事、弁護士といった、英語で言うローヤーばかりではなく、何らかの意味で政策の策定とか紛争解決に関係する人材、つまり、公務員や企業の幹部の養成というものが必要になります。
 したがって、法学は学問的視野が広いことが必要になります。法学の授業は、ちょっとだけお聞きになりますと、何ともつまらないとおっしゃる方が多いのです。ある先生が、ある座談会でそう言っておられるのを見たことがあります。つまらないという言い方はしておられないのですが、あまり学問的ではないというニュアンスの感想を述べています。
 授業は専門全体をカバーしなければなりませんので、大変無味乾燥な部分が含まれることもあります。しかし、先生にもよりますけれども、基礎法学の成果をかなりインテグレートされた授業をされる時もあるのです。民法ですと、1,000条ぐらいありますが、その全領域をとにかく一応カバーすることが必要になります。
 これに伴って教科書の執筆が非常に重要な仕事になります。この点はここにいらっしゃる先生方も、8月6日、22日の会議でお話になっておられることを拝見しました。伊丹先生、今田先生その他の先生方が話しておられますが、特に法学の場合にはその必要性が大きいのです。ところがそれをやっていると、個別的な問題の研究に割く時間が減るということになります。
 これは、我妻栄という、民法の不世出の先生がいらっしゃいますが、こう言っておられます。学者は、要所要所に深い井戸を独力で掘って水を汲むが、他の人が掘った井戸からの水も借りて水をためて池を作り、それを講義するということです。教科書を書く場合にまさにそうなります。
 私自身は全部にわたって教科書をまだ書いていないのですが、全部にわたって書けばいいというだけでもないので、ある程度いい教科書が必要になります。とにかく教科書のために割く時間は非常に大きく、授業の準備に割く時間も大変多いのです。大学紛争のときに経済学部の若い教授が、「教育のための研究」という言葉を使いました。もっともな言い方だと思いました。
 最後に、バランス感覚を重視する学問だということを申したいと思います。一つの価値から演繹的にすべての判断ができることもあります。しかし一つの価値だけから演繹するのでは済まなくて、幾つかの価値をバランスさせることも必要な場合が多いのです。法律の実現しようとしている利益を衡量してどちらをとるかを判断することもあります。衡量といっても量的なものではありませんから、言葉は問題ですが。亡くなった加藤一郎先生と私が、利益衡量論ということを唱えています。価値についても価値衡量ということを主張する若い学者もいます。法律の実現すべきいろいろな価値をバランスさせて、立法や解釈をし、具体的な問題についての解決を図ろうということです。
 この会議のどこかでお話があったと思いますが、法律においては裁判においても、紛争解決一般においても、立法する場合も関係者を説得することが必要になります。説得力があり、バランス感覚のある人材の養成の必要があります。そのためにやはり教師、つまり学者自身が、それらを養うことがどうしても必要になるのです。
 法学の日本における特色に入ります。やはり明治以来学問も輸入したこともありまして、日本では法学は学問性とか、あるいは科学性が問題にされ続けた学問です。ヨーロッパでも、法学の無価値性という有名な論文を書いた、ドイツの検事がいます。日本でも明治の時代に、法学は学なりや術なりやという議論が、民法典の起草をした3人委員のうち2人の間で交わされています。
 第二次大戦後になり、川島先生が、法学は科学たるべきだと主張されて、科学としての法律学を提唱されました。ある時期には、これは私個人の感じですが、東大法学部の研究室では、法社会学をやらなければ学者でないという雰囲気があり、実定法学でやっていこうと思った私は、大変苦労したという記憶が今でも生々しくあります。
 ただ、法学の一部として技術性を持った実定法学があるということについてはだれも否定できません。それを世の中の人も求めるし、学者としてもやはりそれは大事だと思わざるを得ないのです。しかし、それと基礎法学をどのように結びつけるかが問題です。
 なお、基礎法学自体、既に明治の初めから研究教育がされていました。それ以来相当進歩もありますが、やや孤高を誇るという感じがありました。未だに実定法学とのインテグレーションは十分でないと思います。
 続いて、さらに日本法学の現状と課題について申し上げます。どれも結論だけでして、詳しくは私が書いたものの幾つかは資料としましたので、お暇なときにでもお目を通していただければありがたいと思います。
 現状と課題、現状については、学問内在的と、それから外的な要請にこたえる必要に分けました。学問内在的な点の第1は、実定法学というのは基礎法学の成果をインテグレートしたものであるべきだという考え方が有力化し、おそらく支配的に近いことは、最近の特色かと思います。ただ、実際問題両方できる方は、特に現在法学部は法科大学院設置後とても忙しいものですから、労力的にもできない人も多いので、実際はどちらか1つをやっているのです。実定法学者は、ほとんどは先ほど申し上げました法学独自の技術的な部分をやっていると言えます。
 しかし考え方としては、ほとんどの学者は基礎法学を重要だと考えていると思います。これはやはり戦後、法社会ばかりでなく、基礎法学一般が盛んになり、実定法学に対してややリラクタントな考え方が強かった時代を反映していると思います。現在はそういう意味ではバランスのとれた考え方になっています。私どもは、結局は法実践のための学問であっても、基礎法学のバックアップなしにはよい法実践もないと考えております。
 これを少しわかりやすく言うと、法律を「深く、広く、遠くから」眺めるということが必要であり、多次元的な多くの視点を持つということです。つまり、1つの法律を考えるに際しても、ほかの法律との関係もあるし、それから社会との関係など、タテ、ヨコから眺めてみることが必要だと思います。日本では特に歴史的、比較法的、社会学的研究が必要とされ、それ自身としては盛んです。実定法学へのインテグレーションはまだ十分ではないけれども、それへの意欲は十分に見られるということです。
 その結果、第2に、日本法学は各国の法と法律を相対化する視点を持っていることが重要です。たしかこの委員会でも皆さんがおっしゃられたと思いますが、日本法学はその点が、欧米諸国に比べても大きな経過です。
 その傾向は現在、元国立大学はいろいろな制約があるもので、私立大学が非常に熱心にやっています。早稲田大学、慶応大学なども外国の学者を呼んだり、外国人とのシンポジウムをやっています。3月の早稲田大学のシンポジウムに私も呼ばれて行ったのですが、イギリス、フランス、ドイツで、ドイツ、アメリカの学者が来ていて、かなり世界的にも有名な人ばかりでしたが、しかし、その中での学者は法史学者で、かなり相対的な視点を持っていたのですが、あとの学者はみんな自分のことを言ったり、あるいは法社会学だけがいいと言ったり、自国の法律あるいは法学を相対化する視点はあまりないという方ばかりだったように思います。
 ところが日本の学者は、各国法、そして自国法をも相対化する視点が強いものですから、日本がいいとか、自分の言っていることが絶対いいとして頑張るということはしません。逆に言うと頼りないと言う人もあるくらいです。私はそれが、いいと思っていますが、この点はここでの皆様方のリポート全体に見られる傾向かと思います。その点が共通していると思いました。
 第3に、日本の法学はトップクラスの学者においては、今や既に欧米と比べても遜色のないレベルに達しているというのが、私の判断です。私も若干国際的なシンポジウムなどにも参加しますが、そこで感ずるところです。よく外国人の学者が日本に来るのですが、一流大学の教授でも大したことはない人が少なからずあります。残念なことには、猪口さんのご説のように言葉の関係があって、議論して相手を負かすのは大変難しいのです。アメリカ人よりもフランス人が議論が強いですから、フランス人と太刀打ちするというのはなかなか難しいのです。そういうことがあるとしても、私は比較的公平に見ているつもりですが、以上のことを言えると思います。
 ただ問題はむしろ、すそ野を広げるほうではないかと思います。私がよく例えとして申しますのは、日本の法学は富士山のようななだらかでなくて、花を挿す剣山みたいなもので、非常にすぐれたものは高くあるけれども、みんなが独立していて、なだらかなすそ野がないということです。すぐれた学者が資料の入手とかコピーといったような、言葉が悪いのですが、余人をもって代えられる仕事に無駄な労力と時間を使わないような工夫をしていただきたいと感じております。
 ここで8月の議事録を拝見して感じたことを、レジュメにないのですがつけ加えさせていただきます。法学には今まで申し上げましたところからお察しのとおり、最先端の問題というのはありませんと言ってよいと思います。最新の法律問題はあります。例えば代理母の問題はまさに最新の問題です。これは今までなかった問題です。こういう最新の問題は絶えず起こってまいります。戦後で言えば、自動車事故から始まって、公害などなど、幾らでもあります。
 これをインターディシプリナリーな研究を必要とするものです。インターディシプリナリーというのは、法学の中では行政法学、民法学、刑法学、さらに倫理学や心理学の問題が関係しています。人間についての学がどれも関係するわけです。したがってこれらは、今までにない新しい法的な技術を必要とすると言えます。
 しかし、その法律技術の基礎は従来の学問に支えられた技術です。したがって、従来の学問の蓄積を十分にわきまえない限りは、最新の法律問題に対しても十分にこたえることができないということです。代理母に関しては法学的にもまだ十分な意見一致を見ていません。まして立法は、なかなかできないと予想されるような難しい問題です。これは歴史的に申して、相当古くからあるすぐれた制度を変えるか、どこまで変えるかという問題ですから、難しいのです。この辺もたしか、ここで白井先生が言っておられたことに、大いに賛成する部分があります。
 次に、外的な要請にこたえる必要について少し申し上げたいと思います。国内的には、文科省も若干関係しておりますが、今日「法教育」というものの必要性が説かれております。これは法務省のほうで検討しておりまして、私もついこの間話をしてきました。法学教育というのは大学におけるものを呼んでいます。将来法律を専門とする者に対するものですが、高等学校、中学校、小学校といったあたりで法を教えることが必要であるということから出発しています。この際、何をどう教えるかが大事だということが検討されています。これは今まであまり法学者が考えてこなかった問題で、改めて考え直す必要があります。
 次に、国際的には、日本法、特に日本法学の成果を外に向けて発信することが要請されております。これは向こうから要請される場合もありますが、日本から進んでやるべきだとされることも少なくありません。向こうから要請されているのは、具体的な法律をつくる手伝いをしてください、あるいは法律家を養成する手伝いをしてくださいということです。これに答えるのが「法整備支援」と呼ばれているものです。
 アジアの中で特に、社会主義国あるいはかつての社会主義国が今市場経済を取り入れております。市場経済を取り入れる際には、どうしても民法、商法、民事訴訟法などの、いわゆる民事法をつくらなければならないのです。これらが市場経済の知的なインフラです。ソフトのインフラということになります。したがってそれらの国々では、民法、商法、民事訴訟法、さらには知的財産法、独占禁止法といったものを一生懸命つくっています。
 例えば中国では民法典をつくっております。私はこの5月にも中国でその関係で全人代と中国人民大学共催のシンポジウムがあって行ってきたわけです。日本の学者も時々呼ばれています。中国はプライドが高い国ですから、そういう形で個別的な問題について他の国を呼んでシンポジウムをやります。しかしカンボジアの民法典と民事訴訟法典は、日本の学者と向こうの学者が一緒になって委員会を作り、何年も検討した結果できたものです。ベトナムの民法の改正についても同様であります。
 全体については、モンゴル、中国、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、ウズベキスタンと、社会主義でいる国もそれをやめた国もありますが、どちらも市場経済を入れるためにこれらの法律をつくらなければならないということがはっきりしていますので、これらの国に対する法支援整備事業と呼ばれるものが現在盛んです。憲法というのはかなり社会体制に関係いたしますが、資本主義国で憲法というのはあまり役に立たないのです。立つかもしれませんが、全面的にどうということはないのです。
 これは国のレベルの事業にもなっています。JICAと法務省法務総合研究所の国際協力部、そして国際民商事法センターという財団法人が3者あるいはそれぞれやるのが中心ですが、いくつかの大学、弁護士会、個人レベルのものなど、色々あります。 
 中国の民事訴訟法と破産法の改正事業に何らかの国際機関から正式の協力依頼を受けております。そのために、ここ1年の間に既に3回ほど日本での研修が行われました。これは1月間ほど、半分は大阪、半分は東京で行われます。国際協力部は大阪大学医学部の跡に新しくできた庁舎に入っています。実は先日その解散パーティーがあって、私は先の財団にちょっと関係しているので、パーティー要員で昨日も出てきました。先ほどお話しした5月に私が全人代で会った人が、今回参加した12人のうちの半分ぐらいを占めていたので、あいさつに行ったのです。
 他方、こちらからの発信に関しては、先進国その他広く世界の学会における発言力の向上とか、非常に盛んになっている国際条約の作成への積極的関与があります。国際有体動産売買に関する民法、商法の国際統一法ができています。それを作った国連商取引委員会の事務局長を日本の学者、北大の教授が務めました。日本はおくれて、ようやく最近批准し、国会を通り、来年8月1日から施行されます。それを記念するシンポジウムが、外国人の関係者を迎えて、この土曜日曜にありまして、私は始めのスピーチをしてきます。
 法整備支援に私は間接にしか関係していませんが、関係している方に聞いたところでは、アメリカやフランスは、同じく支援をしても自分の国の法律を押しつけてくるようです。カンボジアで日本の支援メンバーが非常に苦労したのですが、カンボジアの法律家と協力して民法典をつくったのに、アジア復興銀行だかがお金を貸すについて、アメリカ式の担保法をつくれということでカンボジア政府に押しつけてきました。せっかく統一的な法典ができた後なので、非常に苦労して反対の交渉をしたのですが、結局押し切られたので。銀行は、それをやらないと金を貸さないよとカンボジアの財務省に言ってきて、財務省が折れ、司法省も譲ったようです。アジアにおいては、各国の間でいわば法整備支援の競争が今行われており、学者も多く入った日本の法律家が努力しています。
 外国への発信の別のことですが、国際学会に出席する人は多く、最近ではジェネラルリポーターになる学者はざらにいます。最近は二国間の学会が多く、そこでは相手国と比べた日本の法や法学の特色が検討されます。しかしまだまだ不十分です。日本の法学は進んでいますから、そういうものをどんどん発信するということが必要になっております。外国語でも発表しろということはよく言われます。正直に言えばなかなかそれが難しいというのが、私どものジェネレーションです。もっとも、率直に申しまして、我々のジェネレーションでは、学問のできる人は語学ができない人が多いと言われていました。
 ただし若い人は語学が非常に上手になりました。特に帰国子女で優秀な人がたくさんおります。東大法学部あたりでも大学院で、英語だけの授業が1つはあると聞いております。法学部でもそうですから、心配ないのですが、外国語をしゃべるのはうまくても学問的なものを書くのはまた、テクニカルタームの問題もありますから、かなり難しいのです。同時通訳で聞いておりますと、明らかに間違った通訳を盛んにしています。正直な通訳は、「それはわかりません、原語はこうです」と同時通訳してくれる方もたまにはあります。日本の法律はフランス語、ドイツ語にはなりやすいのですが、英語にはなりにくりのです。憲法とか労働法は戦後アメリカの影響を受けましたから、違いますが。
 最後に、日本の法学振興のための施策について2つだけ申し上げます。
第1は、共同研究体制のバックアップということです。先に申しましたバランス感覚を養うためにも、法学のすそ野のレベルアップということから申しましても、相互の討論の機会を多く持つことが非常に必要です。ここでも先生方、井上先生、そのほかの先生が言っておられますが、特に基礎が大事です。そのためにもこのことが言えます。
 また、新しい問題に適切に対処するためには、武器といいますか、道具を磨き、道具を多様にして、持っていることが必要です。例えばちょっとした手術でも、メスには非常にたくさんの種類があります。大工さんでも、かんなだけでもたくさんの種類があります。法律の領域でも新しい立法、解釈のためにそれが必要です。そのための基礎的な訓練が必要でして、若い研究者には、個別的な問題の研究の他にこういった訓練を、両方組み合わせることが必要になります。研究者養成の問題に絡むわけですが、このことは必須だと言えます。
 実は、私どもの研究会というのは、一つ一つの研究会にはそうお金は要らないのです。それでも非常にいい研究会で、費用が足りなくて苦労しているところが多いということを申し上げたいと思います。また、基礎的研究についての費用もあまり出てこないということも問題です。現在日本にある奨学財団のほとんどが自然科学関係でして、人文社会科学関係、特に法学の研究にお金を出す財団は十指に満たないのです。5つか6つ、私はそのほとんど全部の理事や評議員をつとめたことがありますが、その程度しかありません。
 第2に、思い切ったことを言ったのですが、若い方々と話したところ、大体賛同を得ましたものです。比較法の全国的研究所の設立は考えられないかということです。現在各大学に比較法研究所がありますが、相互の連絡、情報交換が十分でなく、何よりもそれぞれの予算や人的資源が少ないために、資料の重複、逆に欠落といったことが多く不経済です。外国法の翻訳とか外国語への翻訳とか、法律の通訳が十分でないために、法整備支援のためにも、国際学会出席等のためにも、すぐれた学者が雑用に追われることが少なくないのでます。
 日本の法学の世界に向けての発信が十分に進まないことは、それによることがかなりあると思います。できれば全国で1つの比較法研究所を設立してこれらに対応したい。研究自体を進めることもそこである程度やりますが、主としてはその基礎をつくる、基礎的な研究所が必要だということです。ここでも、井上委員や今田委員が言っておられるところの、データベースの作成とか、ネットワークの作成に私は全く賛成です。
 モデルとして申し上げたいのは、ドイツのマックス・プランク研究所です。これは自然科学の研究所でもあるようですが、法律学関係では現在3つありまして、あちこちからお金を集め、国からのお金も随分入っているようです。ハンブルクにあるものが比較法研究所で、日本でも民法、商法あたりの学者にそこと関係が深い人がおります。それから訴訟法でしたか行政法でしたかの研究所がたしかボンかケルンにあると思います。フライブルク・イン・ブライスガウにも1つ、刑法の研究所があります。散在していますが、非常にすぐれた成果を出しております。
 こういったものがモデルにならないかと言う学者がいます。比較法の研究所なぞと小さなことを言わないで、もっと大きく、法学研究所を考えたらどうかと言う方もあったのですが、そこまでは無理として、比較法研究所を考えました。
 あと少し、レジュメにない補足をさせていただきます。1つは、自然科学あるいは自然科学の一部と違う点として、1点に集中した研究を多くの方がすることがないということを申し上げたいと思います。対象の範囲が広いですから、各自違ったところをやっています。もっとも逆に日本では、最新の問題に人が集中し過ぎるという気味があります。そしてみなが浅い研究ばかりしているというところがあるのも事実です。しかし全体としては、色々な対象をたくさんの人がばらばらに研究しています。
 これは 業績評価にも関係します。1点に多くの人の研究が集まっていれば、その中での評価はしやすいわけです。基準がはっきりします。しかし、いろいろな部分の、しかも次元が違う問題がたくさんありますから、それらを比較して評価することが難しいのです。自然科学でもそうだと伺ったこともあるのですが、物理学や数学でも範囲が広いので、隣の領域の仕事も評価ができない、全く同じことをやっていないとなかなか評価できないということを伺ったことがあります。法学の場合、あるいは人文社会もおそらくそうではないかと思いますが、それがむしろ普通のことではないかと思われます。
 なぜそうなってきたかという原因の1つは、日本の法学は、もとが輸入学問ですから、外国の法学に追いつき追い越すということで一生懸命やってきました。さっきの剣山の話と同じで、向こうのトップに追いつこうとして、各自違った領域をやろうとしたのです。
 もう一つは繰り返しになりますが、どうも法学というものも、政治にも行政にもジャーナリズムにも一般の人にも理解されにくい学問であります、特に最近はプラグマティズムとか、成果主義とか、経済効率万能主義といったようなものが非常に強いですから、ますますそうなっています。
 したがって、この委員会のご報告として書いていただきたいことは、いろいろご議論があったようですが、1点に絞らないで、いろいろな要素をよく理解してもらうということから始めないと、抽象論になってしまうのではないかと感じられます。いろいろな学問の共通の部分だけを強調すればわかっていただけるということもあるかもしれませんが、やはり人文学、社会科学、あるいは法律学全体として、まずある程度よく理解してもらうという努力がなお必要な領域ではないかと思います。特に法学についてはほんとうにそうだと思います。
 したがって、そのへんから出発しながら絞っていって、何か具体的施策の提言にいくことができれば大変ありがたいなと思っております。
 ちょっと時間を過ぎましたが、以上でございます。

【伊井主査】

 どうもご高説ありがとうございます。私どもは先生のペーパーを前もって読ませていただいておりまして、わからないながら拝読いたしました。今日の、私どもに対してのほんとうにわかりやすいお話、ありがとうございます。お聞きすればするほど、確かに我々は朝起きてから寝るまで、寝てからもそうでありますが、すべて法律に縛られているところがあって、まさに法律のもとで生きているのだろうと思っておりますが、人間生活における社会的な規範というものが法律だということが、まさにわかったわけでございまして、人間の総合学のような感じがいたしました。
 残りの時間でさまざまなご意見をここでまた取り交わしたいと思いますが、どうぞ委員の方々から、できるだけたくさんの方にお話しいただこうと思っております。どうぞ。猪口先生。

【猪口委員】

 ありがとうございます。大変私は2つの点で、法学と法律学と関係がありまして、1つは政治の理論という感じで、実は法哲学の方の長尾龍一教授とか井上達夫教授なんかがあるのですが、非常にいつも感心させられるのは、ほんとうに学問的な感じがするし、いろいろな点で親近感を感じます。
 もう一つのほうは、たまたま法制審議会に数年おりまして、先生が発表されたのと非常に同感なところが多くて、偉い人なのにすごく時間を使っているそうなのでというか、やっているみたいなのです。いろいろな小さな法律の何かで、あれは何とかならないかといつも思います。法制審議会というのは不思議なところで、本委員会というのは比較的そんなに開かれるわけじゃないのだけど、その下にあるものすごい労力といっちゃ悪いのですが、知力、労力を集めた作業がものすごいです。
 それから先生がおっしゃった中でやっぱり、法律というか法務省の仕事自身が、人材不足なのか、すごく遅いのです。国際的な関係の法律の批准とかいろいろな形でのあれは、そもそも立法するのが遅いという感じ、何とかならないかと思うのです。
 私が言いたいのは、相対性尊重というのはすごくいい方向というか、そういう特徴であると思うのですが、やっぱり私は日本が世界に置かれた地位を考えると、もうちょっとアグレッシブなリーガリズムというのをできる人材を増やさないとだめで、そのためには多芸多弁の人が法律学者でたくさん出ないとどうしようもないので。剣山はだめですね。多芸多弁、これがないと。
 僕は思うのです。東大の法学部でもそういう感じがするのは外国的な感じの人で、サンパウロ大学の二宮教授とか、アメリカのダニエル・フット教授とか、大体聞けば言うことはこっちでもわかるような感じであるし、比較法的な質問をしても何か出てくるという感じですから、日本の法学部の人は剣山型でいいのです、すごく高みに立っているという感じはしますけれども、実世界の感じでは世界で置かれた立場を考えると、もうちょっと多弁多芸、何でもできるけどもアグレッシブなリーガリズムのよさを示すような学者を養成するように法学教育をやってくれという希望のほうが強いです。
 法哲学とか、私の関係あるのは非常に学者的な人ばかりなので、実定法的な人がどんな感じなのかよくわかりませんけど、先生の特徴づけが、剣山型が多いというのはそういう感じがしますけども、日本の社会で今求められているのは多芸多弁、多弁、これが重要で、ほんとうに国際機関で国際法をつくるときはやっぱり多弁が勝ちますから。説得的なことを展開できなきゃだめだし、忍耐力がなきゃだめだし、自信というか、あんまり謙遜的な人じゃうまくいかないと思います。押して押して、ただただ押し、薩摩藩の示現流みたいな剣道じゃないと。頭からばーっと行って、足はだただたするし、剣は上から行くし、片方でもやるという感じじゃないと無理だと思います、これからの日本の置かれた立場を考えると。そんなふうに感じました。勝手なことを申しました。

【伊井主査】

 ありがとうございます。なかなか難しいことでありますけども、今の点について星野先生、いかがでしょうか。

【星野名誉教授】

 おっしゃることは全くごもっともですが、私どものジェネレーションにはもはや難しいのです。何しろ私どものジェネレーションにはパソコンを使う人もそう多くないわけなのです。しかし若い人は先ほど申し上げましたように、非常に優秀であり、おっしゃるような多芸多弁な人もおりますから、将来は期待できるのではないかと思っております。現におっしゃるような感想を私自身、たまに国際会議に出た時に感じておりました。私が最初に国際会議に出るときに、あるところから忠告されましたのは、初めにしゃべってはだめだというのです。なるべくしゃべらないように、最後のころになってちょこっとうまくまとめるようなことを言えと言われました。そういうことがかつて日本の官庁その他で言われていたことでした。

【伊井主査】

 どうぞ、井上先生。

【井上(孝)委員】

 今日は星野先生、大変ありがとうございました。久しぶりに大学で法学の講義を受けたような気分がいたしますが、先ほどお話の加藤一郎先生に大学で民法1部から4部まで教わった人間でございまして、そういう点で法学というのは、社会あるところに法ありということで、社会全体のそういうルールの中で、人間がどうそれぞれの活動をお互いに摩擦なく行っていくかという基本的な考え方を、ずっと教育を受けたような気がするわけでございます。今日先生からまさにそういう基本的な、いわゆるリーガルマインドと申しますか、基礎法学の上に実定法学があり、それによって社会が機能していく、そういう考え方ではないかと思っております。
 そこで、法学研究が世界的に見ても、先生のお言葉によると、トップレベルになっているということを聞いて、大変うれしく思ったわけでございますが、実際に私ども行政で長年立法に携わってくると、どうしても比較法学と申しますか、諸外国の立法との比較、もしくは諸外国の実情も調査した上で、特に教育関係法令というのはそういう観点で立法に携わってきたように思うわけで、やはりそういう意味では、諸外国との比較法学というのは非常に重要な役割を果たしているのではないかと思います。
 特に明治以来、我が国が法制度が整備されてきて、やはりドイツはじめ西欧の法律体系というものをもとに、比較検討しながら法の整備をしてきたという経緯があると思うわけで、そういう意味では今後とも比較法学の重要性を先生は、比較法の全国研究所の設立というご提言をいただいて、私もむしろ法学研究所の中に比較法もそういう重要な分野としてあって、いろいろな分野の法学研究についてのデータベースを構築して、それをお互いに活用できるようにし、研究者交流と共同研究の場にしていくというのは確かに必要なことじゃないかと思います。
 特に最近はグローバル化して、単に日本の法学だけじゃなく、世界的にグローバル化社会の中では経済など、先ほど貿易のお話をいただきましたが、世界で共通のルールづくりということも必要になってくるわけでございまして、そういうことに日本がリーダーシップを発揮できればいいなと思っているわけで、そういう研究の推進というのは確かに重要な要素ではないかとも思っております。
 それから共同研究体制のバックアップは、まさにそういう共同研究の高度な研究をするための拠点形成ということがどうしても必要だと私も思っていますし、そういう拠点を形成することによって研究者が研究を共同し、それを高度化していくというのがどうしても今後は必要で、従来型の1人1人がばらばらの研究をするというのはどうしても限界があるし、制約もあるでしょうから、お互いに研究を切磋琢磨して高度化するための共同研究体制の構築も、やはり必要なことじゃないかと思っております。
 先生のご提案は非常に私も共鳴しているところでございまして、そういう意味で、我が国の法学研究が高度化して、グローバル社会の中でも諸外国との共通法の制定などに向けた研究の推進というのを、今後大いに私どもは期待したいと思っております。

【伊井主査】

 ありがとうございます。拠点づくりだとか法整備を、アジア諸国でいろいろ共同でしているというお話もいただきましたが、その今の井上委員のご意見、いかがでございましょう。

【星野名誉教授】

 大変ありがとうございます。私も全く同じ意見でございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。どうぞ、谷岡先生。

【谷岡委員】

 今日、お話ありがとうございました。我々は自然科学を社会科学と少なくとも比較するときには、理論があり、仮説があり、データを検証しという実証に至る道筋はわりと共同で、その内部が大分違うんだよという感覚しかなかったのですが、法律学者、実は私、刑法学者でもあります。実際、自戒を込めて言うのですが、永遠に結論の出ない水かけ論を延々と繰り返すのです。お互い自分の体系を言い合いして、過失はどうだ、共犯はどうだ、未遂はどうだ、錯誤はどうだみたいなことを、実は私は学生時代と今、同じ議論を刑法学会でやっております。つまり結論の出ない、前進のない、失礼な言い方をしますけれども、そういうのが実は法学においては実体法的なアプローチ以外にあり得るのかということが問題だと思っているのです。
 質問として、まず2つの論が対立したときに、それを解決し得るものは一体何なのだ、それがないとすれば、私は科学ではあり得ないと実は思っているのです。ですから科学であるという前提のもとには、やっぱり真理に近づいていくのだという大前提のもとに、2つの相反する議論があったときに、それを解決する方策が何らかの形でもしあるとすれば、それは何なのだということを一応問題提起としてお伺いしたいと思います。

【伊井主査】

 どうもありがとうございます。

【星野名誉教授】

 解決の難しい問題を提起されまして、私も大変困っているわけですけれども、おっしゃるとおりだろうと思っております。あることがいいか悪いという価値判断になりますと、極端に言えば、アリストテレスの時代から変わらないような問題提起と解答がされているのではないかと思うのです。
 しかし、社会は変わっています。人の心も変わる。場所によって変わっているということがあります。そうなりますと、同じ問題を議論するのでも全くユニバーサルに議論すべき問題、あるいはできる問題はありますので、そうなると今おっしゃったようなことは完全に当てはまるかもしれない。そのユニバーサルのレベルで申しますと、これは最終的にはやはり説得力とかいうことになってしまうのではないかと考えています。
 これはでも、先ほど法論理学について申し上げましたが、そちらのほうで言われているのは、説得の論理というのは、いわゆる普通の論理とは違うものがあるということです。法について独特の論理を研究する動きが出ております。
 ただ、私には、それを読んでも難しくてわからないところがあるのですが、やはり法律の論理には、普通のいわゆる論理学上の論理と少し違うものがあって、ここでもご意見がございましたが、人と人との対話の論理というのでしょうか、あるいは説得の論理というのでしょうか、-議論の論理というのでしょうか、議論の論理ということは最近日本の法学でも言われておりますし、外国にもそういう本もたくさんありますが-そういうことで進めるのではないかとは思っております。さしあたり、私個人については今のところ、ごく常識的に説得力かなという感じがしております。
 しかしもう一つあるのは、今かなり地域的、時間的な違いがありますので。しかし違うといってもどこが違うのかと。日本人はこういう感覚を持っているからこうしなくちゃならないという議論がよくありますけれども、果たしてほんとうにそれが日本人の感覚なのかと。単に、ある大きな声を出す人だけの意見なのか、あるいはもっとある種の利益をバックにしている人の意見なのか、そういうことはそう簡単には言えません。したがってまず、現在私どもはどういう社会にいて、どういう問題がほんとうにあるのかということをつかまえる必要があります。これは科学でしょう。そういうものが1つあるでしょう。
 それから例えば、こういう解決をすれば、こういう立場に立ったならば、社会的にどういうリアクションが起こるであろうか、一般の人はどう考えるだろうか、あるいは専門家、例えば裁判官だったらどう考えるだろうかと、一種のいろいろな意味でのリアクションを検討することも科学だと思います。
 ただ、そういうことは現在のところ、研究が難しい。というのは、今のところそういう科学は、あまりないのではないかと思うのです。心理学とか社会学、心理学が大事だと思いますけれども、法心理学というのは日本ではほとんどまだ十分でなく、研究され始めたばかりというところです。
 したがって、そういう領域というのは幾らでもあるので、できるだけみんなの意見が収れんするためには一体どういうことが必要なのかといった検討も、社会学的、心理学的な研究の対象だろうと私は思っております。それから経済学的、政治学的に何が問題になっているかということはやはり必要です。つまりそういったある種の科学によるバックアップがなければ、立法にしてもよくできないし、ほんとうにいい解釈もなかなかできないだろうと思っております。
 そういう意味では日本の法学というのは、一方では非常にローカルであるくせに、他方では極めてヨーロッパ的というか、どこでもいいのですが、外国の法学を輸入したまま論理が使われているというところがあるのです。最近はそういうことがだんだんわかってきたので、日本のことを日本らしくやろうとしているのですが、何せさっき申し上げたように、学者はロースクールで疲れ果てておりまして、研究ができないような状態になっているようです。私は後輩のために非常に心配しています。ですから、学問的になかなかそこまでは行けないのです。

【伊井主査】

 ありがとうございます。どうぞ、岩崎先生。

【岩崎委員】

 私は直接やっているわけではないのですが、心理学なものですから、今星野先生からのお話の中で、法と心理学という分野が心理学の中でも最近出始めておりまして、それは何を主としてやっているかというと、いろいろありますけれども、証言です。今谷岡先生からお話があったように、それが法学なのか法律学なのかはわかりませんけれども、要するに自然科学の場合には、事実というか、証拠といいますか、そういうものが出てきて議論が進んでいくというか、決着がつくということはやっぱりあると思うのです。
 それは、実証されるということが数量的に実証されるということをもって、かなり積み重ねができますが、裁判において証言というのは、事実を見たということを証言するのですけど、その見た事実がいろいろなことによってゆがめられる。それはうそをついているということではなくて、人間の認識というものが、量的ではなくて特に質的な認識はかなり、みんなが言うとそちらに無意識になびきますし、それから自分のいわば先入観といいますか、あらかじめ持っているフレームの中に事実を押し込むという人間の認識の仕方がありますので、質的なものというのは、つまり犯人がだれかとかいうことになってくると、非常に白黒つけるというときに、事実でないことを事実と思い込んでしまう。これは共通に持っている、いうならば認識の仕方、あるいは記憶も絶えずゆがめられるといいますか、変わる可能性があるものでございますので、そういうことで非常に、現場における裁判その他で心理学的な知見が必要なのではないかということもやっているわけです。
 そういうことで、これは法学とは直接関係あるかないか、私にはよくわかりませんけれども、どのみち人間を介して物事が進むとすれば、そういう側面があるということをコメントさせていただきます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。何か星野先生、ございますでしょうか。

【星野名誉教授】

 ありがとうございます。実は法と心理は、学会雑誌もありますが、最近始まったばかりのようです。内容は、おっしゃるとおり裁判関係が多いようですね。あるいは犯罪とか。しかし他にも問題はいろいろあります。親子、例えば養子についても心理的な問題がいろいろあります。離婚も同様です。離婚するのがいいかどうかとかと、その後始末ということがあります。それから消費行動などというものも、消費者法は今盛んになっておりますが、ここでは消費行動の心理がわかったほうがいいということです。そういう意味でいろいろなところに心理学が必要になっています、私の知っている限りではフランスあたりでは随分盛んにやっているようですが、日本ではまだまだで、どちらかというと対象は裁判中心ですね。

【伊井主査】

 ありがとうございます。ほかに何か。今田先生、どうぞ。

【今田委員】

 私は社会学をやっていますので、法社会学などは以前よく読んでみたりしたのですけれども、今日もお話しいただいた中で基礎法学と実定法学があって、我々というか、私などの社会学がかかわるのはほとんど基礎法学なのです、法哲学だとか、法社会学とか、法史学とかというのがあるので。
 で、実定法学というのがわからない。それは学問なのか、法解釈学なのか。だから基礎法学は、法社会学その他、法哲学も、哲学や社会学やそういうのと同じ感じで理解できるのです。ところが実定法学というのは何をする学問なのかというのが。それぞれ民法、刑法、公法、私法とあって、多分それの法解釈の無矛盾性とか妥当性みたいなものを追求するのかなという感じが外野席から見ているとしているのですが、もしそうならば数学みたいなものですよね。数学は経験的な根拠を持たなくても、公理を立てて真偽判断ができて無矛盾であれば、それでいいということなのですが。
 実定法学も法律は与えられているわけですよね。本人がそれを勝手に変えるわけにいかなくて。その法の中の無矛盾性とかいろいろな解釈可能性とかいうことをやる問題となれば、数学みたいな感じもするのですが、それが正しい科学なのかというときは、かつての神学から出てきた解釈学のあれに従うしかなくて、それは社会学もあるのです、意味の解釈学というのがあって、それはいかにいろいろな事例の存在を解釈によって完成させて、リアリティーがあると思わせるか。
 リアリティー度でいろいろな解釈の勝負をするということだろうと思うのですが、お聞きしたかったのは、実定法学と基礎法学が学問的にどう違うのかということと、それから実定法学の場合に解釈可能性ということになれば、解釈学の方法に従うとすれば、事例の了解可能性みたいなもので、Aの解釈、Bの解釈を突き合わせてテストするという、これも経験的なテストはテストなのだろうと思うのですけれども、そのあたりはどういう感じになっているのか、ちょっと教えていただければ、我々もよくわかるのではないかなと思うのです。

【伊井主査】

 ありがとうございます。基本的な根本的なことになると思いますが、どうぞお願いいたします。

【星野名誉教授】

 最も根本的な問題でして、実は今おっしゃったような、解釈学は数学と同じじゃないかとおっしゃることは、確かにそう言われていた時代もあるのです。しかし最近では、それからそれでは足りないと言われているのです。それは何かというと、法律の言葉や文章からある程度論理的・機械的に演繹することはできます。しかし最終的には演繹だけではできないところがあります。つまり、論理的には、2つの解決のどちらもが可能になることが通常です。あるいは、言葉だけからは一方の解決になりそうだが、それでは結論として社会的におかしいという場合も少なくありません。公園の入口に「車馬入るべからず」と立札があったとき、乳母車はいけないのかを考えると、「車」だからいけないともいえるし、そのようなものなら「危険もないからよい」ともいえるでしょう。ここにはどうしても価値判断が入ってくるのです。価値判断が入ったところからは科学ではないでしょう。しかし次に、学ではあるのでないかという問題が出てきます。おっしゃるとおり、そこのところが非常に問題になるのです。
 おっしゃったとおり、説得も科学の問題だということになると、最終的には心理学で解決がつくかどうかは別として、よくわかるのですが、説得されたということは、やはりある種の価値観が一致したことなのかどうかという問題は残ると思います。価値観というのはどこから出てくるのかということになると、結局ぐるぐる回るようですが、やはり上に上っていって、ある種のどうしても科学では尽きない何かがあるのではないかというのが、私の考えです。
 その部分があるから科学でないとしても、では、学問でないかというとそうではなくて、田中先生を援用しますと、学問は科学でなくても構わないということです。経験的なものから証明できなくてもいい。概念がきちんとしていて体系がきちんとしていればそれで学問だ、科学でないけど学問だとおっしゃっています。
 私はその学問観をとろうかと考えております。そうしないと、哲学はそもそも学問に入らないような気がしますし、法学が学問に入らないのは困るという気がします。学問だと言いたいし、またそう言うことによってその学問性——学問性というのはやや矛盾というか、論点先取ですけれども——が増すということがあるのではないかと思います。この辺はどうも私の信念みたいなものが入っておりますが。この部分が入ることが基礎法学との違いだろうということです。
 そして、解釈だけではなく、立法があります。現在は明治のころと似てまいりまして、解釈もさりながら立法が非常に重要になってきた時代です。たくさんの立法がなされています。先ほどもどなたかおっしゃったように、法務省の仕事は不必要に遅いのです。しかし、遅くならざるを得ない面もあるのです。率直に言って、何といっても西欧の法律と法学を輸入してまだ100年ですから、トップクラスの業績は非常に進んだとはいうものの、全体として日本の法学はまだ蓄積が足りません。
 したがって、現在民法の重要な章の全面改正の準備が行われております。これは非常に優秀な学者を使って、研究会をやっているのですけれども、それでも足りないのです。それに出ている人が、日本の民法学は蓄積が足りないと言っております。そんなことがあって、私はすそ野を広げるということを言ったのです。すそ野というのは学問の研究としては低いかもしれませんが。
 ちょっとここで余計なことを申しますと、私は学者と研究者は少し違うのではないかという感じがしています。あるいは学問と研究です。研究者はほんとうに小さいことを研究する。学者はもう少し広くいろいろなものを見て、そして自分のやっていること、人のやっていることの全体的な位置づけができるというか、全体構造がわかるということが学問ではないかという感じがしています。
 こういう例があります。特に法学の場合ははっきりしまして、いろいろな賞をもらう、例えば学士院賞などありますけれども、それをもらう人、つまり一つの領域でよい業績を出した人と優秀な学者と呼ばれる人とは、ちょっとずれることがあるのです。なぜかというと、その人はいいものを書いているけれども、学者として全体として優秀な人として我々がついていきたいという人では必ずしもないのです。その研究に関してはついていきたい、しかし学者としては必ずしもそうではないという場合があるのです。無能という意味じゃなくて、非常に優秀であってもです。学者と研究者はちょっと違うところがあると思います。
 教科書ということをたしか先生がさっきおっしゃったと思うのですが、教科書を書くことはやはり学者でないとできない。つまり自分の研究したところだけ書けと言われたら、わずかしか書けないので、ほかの人の研究したところをうまく持ってきて全体を体系にする。しかもわかりやすく書くということですから、ある種の能力というか、努力も要るということで、違うと思うのです。それとの関係で、特に今立法との関係ではそういう学者が必要になってくる、そういう学問が必要になる、そんなふうに私は思っているのです。
 解釈についても了解可能性だということを突き詰めていくと、価値の問題になって、経験的テストになじまないところがどこか出てきやしないかという疑問があることと、特に立法の問題が非常に現在大きいものですから、それとの関係で、法学研究の振興とか、あるいは法学教育というものをどうするかということを考えたほうがいいのではないかというのが、私の申し上げたいことなのです。

【伊井主査】

 ありがとうございます。私どものこの委員会の基本的な問題にもかかわってくるご発言だったと思っておりますが、ほかにどなたか。伊丹先生、どうぞ。

【伊丹委員】

 今の星野先生の最後の学問と研究は違うというご指摘は、私もそのとおりだと思います。したがって、例えばこの委員会が社会科学、これは科学に値するかという、その議論は別にいたしまして、社会科学の振興をするのか、社会科学の研究の振興をするのかというのは、ちょっと違う問題かもしれないと。
 実際に日本の社会が必要としているのは、個別の研究が非常に盛んになることだけではなくて、そういうものを体系的に学問として仕立て上げるだけの力量を持った方がたくさん生まれてくるということが、実は要求されていると思うと、今日の星野先生の、法学というものの特殊性と言われたことが非常に大切な問題になるように思います。
 我々、社会科学や人文学をやっている人間がしばしば自然科学との比較で、いつの間にかやや劣位に立たされるのは、自然科学の場合には個別のトピックの研究を、先ほど星野先生が使われた言葉を使えば、多くの人が1つのポイントで絞り込んで研究する、したがって相互比較がわりと簡単になる、そういうメカニズムがあるような分野で生まれたパラダイムにだんだん押されているところがないかと。それはやっぱり日本の将来の社会のために、人文学や社会科学をどうやって振興するかということを考える委員会としては、かなり根本的な問題として意識したほうがいいかなとも思います。
 ただ1点だけ星野先生にご質問させていただくとすれば、法学はそれでも社会科学の一部だと位置づけてよろしいように私には思えますが、やはり違いますか。

【伊井主査】

 難しいですね。いかがでございましょうか。

【星野名誉教授】

 私は、1つは定義の問題だと思うのですが。

【伊丹委員】

 広い意味の社会科学。

【星野名誉教授】

 哲学を含めればいいかと思います。法学にはやはり技術がどうしても含まれますので。それも心理学とか論理学で全部……。

【伊丹委員】

 どんな社会科学にも技術の部分というのはございますので、例えば会計学なんていうのはほんとうに技術が大きな部分の学問ですから、技術が入っちゃった途端に社会科学でなくなるという考え方はしないほうがいいように思います。

【星野名誉教授】

 そうですか。わかりました。もしそういう広い意味でとれば、社会科学と言っても悪くないと思います。私は何となく、実証されたものとか、あるいは1つの仮説から全部演繹的に説明できるというものが科学だという考え方がありまして、それでいくと法学の技術の部分はちょっと科学とは違うだろうという意味で使ったのです。

【伊丹委員】

 なるほど、私もそういう意味で科学という言葉を狭くとらえないほうがかえっていいと思っていまして。心理学の人はそういうのを当たり前だと思い込んでいるものだから、そういうのを時々押しつけるのですが、その押しつけには反対したほうがいいだろうと私も思っておりまして。

【星野名誉教授】

 おっしゃるとおりですね。これも私はちょっと余計なことを言うと、サイエンスという言葉がございますね、これは英語だとどっちかというと自然科学的な意味ですが、フランス語でシアンスと言いますと学一般です。哲学も入っています。そのくらい広い意味です。人文学も全部もちろんシアンスに入る。ですからフランス語でシアンスというのを科学と訳すと間違うことがあります。そういう意味で日本の場合には科学という言葉が、おっしゃるとおりでいろいろな意味に使われているという危険を私は感じておりました。

【伊丹委員】

 今の質問のついでに、これは法学という分野の特殊性なのか、何か現状をあらわすのか、特徴的な現象として、最近私が意識せざるを得なかった現象でございますので、それであえてこの場でお聞きするのですが、グローバルCOEなんかの審査員をやっておりますと、社会科学全体の中で法学の分野での応募自体がものすごく少ないのです。法学の先生、大学の教授の数はものすごく多いんだけれど、一体なぜなんだろうかという疑問があって。ロースクールで疲れておるんだというのが答えの一つなのかと、今日先生のお話をお伺いしていて思いました。

【星野名誉教授】

 わかりました。

【伊井主査】

 ありがとうございました。何か簡単なコメントでも。

【星野名誉教授】

 これは法学に非常に関係するわけですけれども、先ほど申し上げましたような法学の性格からいたしまして、かつては1つのことに集中してみんなで研究するというテーマが比較的少なかったのです。つまりCOEにしても何にしても、テーマでいくものですね。そうしますと、最近は随分そういうテーマが出てきております。例えば東京大学はソフトローというテーマでいただいているわけです。あれは非常にうまいテーマをつくったと思います。

【伊丹委員】

 私もうまいと思いました。

【星野名誉教授】

 うまいし、現によい研究をしております。今はそういうテーマがたくさんあります。環境にしても、先ほどの親子問題にしても、それから金融といったような問題とかたくさん出てきておりますから、法学以外の人も加えたいろいろな学問の人が一緒にやるテーマも増えてきております。現役だった、三、四十年前は、そういうテーマすらあまりなかったのですね。
 そういうところがありまして、だんだん社会が変わってきたというか、いろいろ複雑になってきたこともあって逆に、そういう共通のテーマができてきたかと思います。昔からあったのに、気がつかなかっただけかもしれませんけれども。
もう一つは、率直に言ってやはり、今までは共同研究をそれほど重視してこなかった傾向があると思います。一人一人が違ったことをやっていたのですね。
 ただ私が東京大学におりまして感じたことは、法学部の中で東京大学はどっちかというと共同研究を盛んにやってきたほうです。個人が研究するということを重視してきた大学も少なからずあったのです。それが日本の法学の一つの伝統になっていたかもしれません。

【伊丹委員】

 だからつい剣山になっちゃうのですかね。

【星野名誉教授】

 いろいろな理由が重なってきますね。

【伊井主査】

 ありがとうございます。どうぞ、立本先生。

【立本主査代理】

 今日の先生のお話は法学のレビューということで、一般社会学にもずっと当てはまることばかりだったのですが、特にお聞きしたかったのは、評価の問題と共同研究の問題と、それから提案されています比較法研究所のことなのですが、評価のほうに関しましては、価値判断をする法学だから、おそらく評価の体系とかいう部分もあるかと思ったのですが、範囲が広い、次元が違うというので、そういうのはやむを得ないというか、最後に説得力とおっしゃったことは、私も全くそのとおりだと思います。ですからこの評価に関しましては、これからはこの委員会で社会をどう説得するか、そういう説得力が評価の基準であるということで通るのかどうかという、そちらの問題になってくるかと思います。これはコメントでございます。
 もう一つの共同研究のほうで、施策の方向性ということで、2つ非常に示唆のある方向性を出していただいているのですが、共同研究で考えますのは、人文社会科学における共同研究とは何かということで、ここでそれが討論——討論に関しましてはほかのペーパーでも非常に詳しいことを書かれておりますので、討論なのかなとは思いますが、それが共同研究体制ということで、施策として研究会の思議とかいうことだけになれば、自然科学とかいうところから共同研究の体制というのを見ると、それは研究成果の結果を皆さんが議論されているだけで、共同研究そのものではないでしょうという議論がおそらく出てくるわけでして、そういうときに人文社会科学の共同研究というのはどうあるべきかということ、法学の場合はどうお考えですかということを、もしお聞きできれば。
 それがおそらく2番目の比較法研究所にかかわってくると思うのですが、ここで一見したところでは、共同研究体制そのものというよりは、別のカテゴリーで比較法研究所というのを考えられているようなので、そこでその比較法研究所というのは非常に大切で、特に法律とか法制とか、それの各国の比較というのは正味のことで、必要なのですけれども、先生が今日おっしゃっています社会の法を含めた法ということになりますと、この比較法研究所の中にそういう社会の法というのが入ってくるのか。
 入ってくるとすると、これは法律だけではできない。法学研究所をつくったらいいという議論もあるとお伺いいたしました。法律だけではできない問題ではないのでしょうかということと、それから比較法というときに、今回のお話も、私どもの先入観があるのかどうか、法学というのは先ほど岩崎先生のほうから出てきましたけど、フレームワークあるいはこのペーパーで出てくる認識枠組み、それを各自勝手にみんな、これがフレームワークですよと、それに基づいて法解釈をするというか、それは議論しないというところがあるのではないかなということがあります。そういうときに、比較法研究所の中でイスラム法研究とかいうものを研究できるのかという疑問がちょっと出てきましたので、お教えいただければと思っております。

【伊井主査】

 ありがとうございます。簡単にお答えできればと思いますが。

【星野名誉教授】

 そうですね。説得力が評価の基準になるかというのは大変これまた難しい問題で、それをやりますと、その上手な方が研究費をたくさんもらうというのもおかしなところがないわけではないのですが、一応の説得力でなく、もう少し深い意味を考えたつもりなのですけれども、おっしゃるとおり評価は大変難しいかと思います。
 前にここでお話のあったことに関連して言いますと、専門家の評価が出てきたと思いますが、法学の場合にはそれが非常に重要なように思うのです。さっき申しましたような状況ですから、みんな自分が偉いと思っているわけです。ですから比較するのは、御本人の言っていることを聞いただけではわからない。どうして評価するかといいますと、名人芸のようにならざるを得ないのではないかと、率直に言って思っております。これはどうもあまりお答えになりませんが。
 それから共同研究のうちの初めのものです。これもおっしゃるとおりなのですが、やはり実際はある大きなテーマはあります。漠然としていて、大きいとどうしてもそうなると思います。1つの例を申し上げます。東京大学でもう80年以上続いている判例研究会という、当時は大審院、今は最高裁判所判例の研究会があります。これは1つの判例を1人が担当して報告するものです。若い人も年寄りもそうなのですけれども、これはまさにおっしゃった、成果のぶつけ合いです。ぶつけるというより、それに対してみんながあちこちからたたきます。それをやられるから、あの研究会に出ていた人は、私自身もそう思っているのですけれども、随分違うと言われているのです。こういうものでも、評価はできないのですけれども、現実には大変きちんとした研究と説得力のある議論の訓練になります。
 それから比較法研究所ですけれども、社会の法を含めることは、私は考えておちませんでした。やはり法律の比較ですね。それしかできないと思います。おっしゃるとおり社会学の問題になって、比較社会学などとてもできるものではありません。さしあたり法律をテーマにして比べるということではないかと、おっしゃるとおり思います。ただ、それらのバックグラウンドを考えるという姿勢は大切だと思います。
 イスラム法はどうかということですが、これはやはり対象になると思います。それはある種の独特の法律です。むしろ宗教と法律が一緒になったようなもので、大変細かい戒律があります。そこでは西洋法とはかなり違った法観念があります。比較の対象としてはきわめて重要なものなので、やはり対象になると思います。国際交流の関係では、大変重要な法律でもあります。

【伊井主査】

 ありがとうございます。佐藤科学官。

【佐藤科学官】

 1つだけお伺いしたいことがありまして教えていただきたいのですが、先生の今日のお言葉の中で、説得力という言葉が非常に私にとってはショッキングだったのです。どうしてかと申しますと、価値が変化をすると申しますか、例えばものすごい技術の変更が起こったような場合には、価値が変化するというよりは、私は価値が混乱するのではないかと思うわけです。つまり社会はその技術の変化を理解できなくて、あるいは追いかけることができなくて、全く極端な2つの価値が対立するということがしばしば起きるのだろうと思いますし、今もそうだろうと思うのですが、そういう場合には法というものはどうするのでしょうか。これも説得性があるほうがよろしいのでしょうか。

【星野名誉教授】

 特に立法に関して大変難しい問題です。学問的にもぎりぎりの問題ですが。現在がそうですが、戦後はそうでした。そういうときに法学は何をするかといいますと、対立し錯綜するいろいろな人のいろいろな考え方を十分に理解して、それらの社会的な背景とか文化的な背景を理解した上で、どのようにしてみんなが何とかついていけるようなバランスのとれた解決ができるかということを求めるのが実定法学だろうと思っております。
 ですからこれは全く科学的でないので申しわけないのですけれども、事実としては法学者はそういった解決を一生懸命求めています。現在の代理母の問題などはまさにそのような問題で、考え方が完全に分かれております。具体的にこれをどうするかについてはまだ私にもわかりません。みんな非常に苦労して考えておりますが、結局は今申し上げたようにそうならざるを得ないのだろうと思います。基本的にはおっしゃるとおりです。

【伊井主査】

 藤崎先生、何かございますでしょうか。

【藤崎委員】

 すいません、少し遅刻をしてきました。ですけれど、非常に興味深く聞かせていただきました。1つ、ひょっとしたらご説明があったのかもしれないのですけれど、お伺いしたい点は、日本の法学が世界的に見てもトップレベルであるということ、その理由として、各国の法と法律を相対化する視点を持っていて、それがなぜ可能になっているかというと、歴史的、比較法的、社会学的研究が非常に盛んであるというご説明があったかと思います。
 ここでその理由がご説明されているのですけれど、私の浅い知識で言えば、日本の法学に、かなりフランスですとかドイツの影響は大きかったのかなと思うのですけれど、そういう中で日本独自の特色というのが一体どうして生まれたのだろうか、この相対化する視点をもたらした、もう少し根本的な理由は何なのかなということについてお伺いできればと思いました。

【伊井主査】

 ありがとうございます。いかがでございましょうか。

【星野名誉教授】

 これも大変難しい問題ですが、歴史的にしか説明できないと思います。これが日本の国民性と言えるかどうかはよくわかりません。1つには、やはりまだ100年しか歴史がないということが、かえってよかったのかもしれません。何千年の歴史のある法学というのは、なかなか転換して新しい考え方を取り入れるができません。日本の法学は歴史が浅いものですから、かえっていろいろなことが自由にできるということが1つあるでしょう。
 また、日本法は輸入物ですから、もとになった外国法や、それと違う外国法の研究-比較法の研究が盛んで、そのことは各国法を相対化する視点をもたらします。
 もう1つは、輸入した学問ですから、もっと日本の現実に即した学問をすべきではないかという批判が出てくるのも自然だと思います。日本の法学史の大きな事件について申します。民法学において、技術的な法学の部分は19世紀のドイツ法学の影響が強く、日本法学はドイツ法学のようになったほどです。これに対し、1920年代に、末弘厳太郎という先生が、これまでの法学はドイツ法の教科書のあれして、それが日本の法律のように言っているけれども、これはおかしい、日本の法学は土着のものでなければならない、日本の社会の実態を研究しなければならないとされました。具体的には判例と新聞を研究せよと主張されました。
 ここで既に、輸入法と社会の実態の乖離が問題になっており、法律の相対化の視点が出ていますが、種々の外国法の研究により各国の法律を相対化する視点が一層強くなったと言えるでしょう。

【伊井主査】

 ありがとうございます。日本の法律の相対化する視点を持っている、国際性があるということを含めまして、さまざまな法律というものを通じて我々のこの委員会での問題点が浮かび上がったところもあるだろうと思うし、これからこの問題をさらに継続して討議しなくちゃいけないことが多々あるということを思いました。
 それではほんとうにありがとうございました。これで星野先生からのご意見の発表をいただくことを終わることにいたします。星野先生、どうもありがとうございました。(拍手)とりわけ本日はご多忙のところ、ほんとうにありがとうございました。
 それでは時間となりましたので、本日はこのあたりで終わることにいたしまして、次回の予定等につきまして、事務局から説明をお願いしたいと思います。

【高橋人文社会専門官】

 次回の予定でございますけれども、資料3のほうをごらんいただければと思いますが、12月2日火曜日、15時から17時、文部科学省3F1特別会議室、この部屋でございますので、よろしくお願い申し上げます。
 また、その後の日程も8日、12日、19日ということで、詰まっているところ大変恐縮でございますが、またよろしくお願い申し上げます。
 それから本日の資料につきましては、封筒に入れて机の上に残しておいていただければ、郵送させていただきます。またドッジファイルについてはそのまま置いておいていただければと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】

 ありがとうございます。どうもご多忙のところ、また12月には4回ぐらいございますので、どうぞよろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。

── 了 ──

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