学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第12回) 議事録

1.日時

平成20年8月6日(水曜日) 15時~17時

2.場所

尚友会館第1、第2号室

3.出席者

委員

 伊井主査、立本主査代理、井上孝美委員、上野ひろ美、中西委員、西山委員、飯吉委員、家委員、伊丹委員、猪口委員、今田委員、岩崎委員、谷岡委員、深川委員、藤崎委員

文部科学省

 磯田研究振興局長、倉持研究振興局担当審議官、奈良振興企画課長、勝野学術機関課長、北風学術研究助成課企画室長、戸渡政策課長、後藤主任学術調査官、門岡学術企画室長、高橋人文社会専門官 他関係官

オブザーバー

(科学官)
 縣科学官、佐藤科学官、高山科学官

4.議事録

【伊井主査】
 それでは時間になりましたので、ただいまから科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会のところに置かれております、人文学及び社会科学の振興に関する委員会の第12回の会合を開くことにいたします。
 本日はほんとうに暑いところ、お集まりくださいましてありがとうございます。本日は、できるだけ意見を集約していく方向で進めたいと思いますので、よろしくご協力くだいさませ。事務局から配付資料の確認をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 配付資料につきましては、お手元の配付資料一覧のとおり配付させていただいております。資料1から3までございます。欠落などございましたらお知らせいただければと思います。また、関連資料をいつものとおりドッジファイルで机上にご用意させていただいておりますので、参考にしていただければと思います。以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 それでは、いつものようにこれまでの審議事項を少し振り返りながら本日の審議に入りたいと思います。
 これまで何度か、いわゆる哲史文のそれぞれの専門の先生方においでいただきまして、我々も勉強会ということで進めてまいりました。去年の12月以来、半年にわたりまして、それぞれの学問の個性、役割、機能、そしてこれらを踏まえまして、いわゆる人文学研究の振興の方向性につきましてお話をいただいたところでございました。それにつきまして折々とまとめておりますし、皆さんのご意見も賜ってきたところです。まずは人文学の中核と言ってよろしいだろうと思いますが、いわゆる哲史文のうちの全体的な俯瞰をする意味で、樺山紘一先生にお話をいただいたところでした。人文学を研究・理解する上におきまして大事な概念としましては、精神価値、歴史時間、言語表現という三つの概念をお示しいただきまして、人文学の機能としては、教養教育、社会的貢献、理論的統合という機能についてお話しいただきました。
 続きましては亀山郁夫先生には、文学研究というのは研究者個人の精緻な読解力であり、イマジネーション、人間そのものへの洞察力を通じた人間の多様性の解明であるというようなことをお話しいただき、古典はまさにさまざまな人文学の縮図でもあるというようなお話をいただいたところでした。
 次に、哲学ご専門の鷲田清一先生からは、いわゆる哲学には、諸学を基礎づける基礎学としての役割、そして教養としての役割があり、そのときに価値の尺度そのものがほんとうに価値ある尺度として正しいのかどうかということの判断も人文学におきましては必要であるということでした。
 次に、自然科学も含めました学問全体の視点に立ちまして人文学を見るという観点から村上陽一郎先生、さらに、人文学の施策の方向性を考える観点からは猪木武徳先生にお越しいただき、前回は中野三敏先生からのお話も伺い、海外における日本の文化財といいましょうか、そういう文化資源をどうするかというお話をいただいたところでした。
 これまでのヒアリングにおける外部の有識者の方々からのご発表と、そして委員の皆様方からのご意見につきまして、主な意見ということでこれまで資料をお配りしたところでもありました。
 そこで、本日はこれまで人文学についてのヒアリングが一とおり終わりましたので、委員会として概括的なイメージは共有できたと思っております。人文学に関する審議につき、審議経過の概要(その2)としてその案をまとめてみました。これは、資料1として配付しているところです。
 本日はこれをもとにしましてブラッシュアップしていくようなイメージでご審議いただければと思います。少し精粗がありますので、もう少し詳しくする点、具体的な施策の提言も盛り込んでいきたいと思っております。
 その際、こちらのほうから、ご審議いただく際の観点として少し申し上げたいと思っておりますのは、第1は、具体的な施策の提言をお願いしたいということです。これは、あくまでも人文学というものはどうあるべきかという哲学的な研究会ではありませんで、できるだけ具体的な施策のもとで予算化していく、我々はどういうふうに具体的に社会に対してメッセージを発していくかということが大事なものですので、その観点から提起をお願いしたいということです。
 大きくは、前半の第1章から第3章までの人文学の学問的な特性や役割、機能について書かれました部分と、後半の第4章の施策の方向性について書かれた部分からなっております。おわかりと思いますけれども、施策の方向性について具体的な施策の打ち出しがやや弱いと言いましょうか、あまり書かれていないところでして、わずか2ページばかりしかありません。これをもう少し補強していきたいと思っているところでございます。
 また、施策につきましては国が行うことが適切なものと、大学とか研究機関、組織そのものがしていいかなくてはならないというようなものがあるだろうと思います。学部、研究科が行うのが適切なもの、あるいは研究者みずからが行うことが適切なものというふうにさまざまなレベルがあるだろうと思っておりまして、一律に「こうすべきである」とは言えないところがあると思います。そして、おそらく人文学の振興につきましては、アカデミー側での自主的な取り組みが大きな意味を持つのではなかろうかと思うわけでございます。
 そういうわけで、きょうは第4章のあたりを中心に、いろいろ具体的にご提案をいただければと思っております。
 次に第2は、人文学の学問的特性や役割、機能に関する部分につきまして、具体的な事例を提起していただきたいということです。審議経過の概要(その2)(案)というところで、今、ごらんいただいている前半部分になりますが、大体樺山先生がご発表いただきました枠組みにかなり依拠しているといいましょうか、本日のこのまとめも、これまでの数人の先生方のいろいろなご発言を切り張りしたような点もあり、それで構成しているようなところもありますので、できるだけ一貫性を持たせたいと思っております。
 初めの枠組み自体は、人文学を学問の文脈と同時に社会との関係でもきちんとした位置づけをしたいところで、今回の審議経過の概要(その2)(案)の骨格となるかと思いますが、抽象度もやや高いため、少しわかりやすい観点から、具体的に事例を挙げていただければと思っております。
 そういうことで、第1章から第3章までと、第4章とに分かれておりますので、それぞれに具体的な提言をしていただければと思っております。
 最後に、今後の取り扱いについて申し上げますと、本日ご審議いただいた上で必要な修正を行い、次回、既にご案内しております8月22日に再度ご意見を賜りたいと考えております。そして、最終的な報告書は、昨年まとめました審議経過の概要(その1)と、今回の(その2)(案)、そして今後の審議の内容とあわせまして、最終的な形にしてまいりたいと思っています。
 それではまず、今申し上げましたお手元の資料1、審議経過の概要(その2)(案)につきまして、事務局から説明をお願いできればと思います。よろしくお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 それでは、資料1の人文学及び社会科学の振興について審議経過の概要その2(案)につきましてご説明をさせていただきたいと思います。
 1枚おめくりいただきまして、まず目次をごらんいただければと思っております。
 まず、概括的なポイントを申し上げた上で、それぞれの章の説明というふうに行きたいと思っております。
 まず、全体としまして、この報告自体、大きく前半と後半に分かれております。前半は序と1章、2章、3章というところでございます。本委員会の使命として学問の特性を踏まえて施策をということでございますので、いわゆる特性に当たるような部分が1章から3章ということになります。4章で、そういった人文学の特性を踏まえて施策というような形になっております。
 それで次でございますが、前半部分、特に序のところですけれども、ここは本委員会でヒアリングでお越しいただきました村上陽一郎先生のご発表を大体軸にしてまとめております。それから、1章から3章につきましては樺山先生がお示しになられた人文学についてのいろいろな枠組みを骨格として、そこに委員の先生方からいただいたご意見でありますとか、あるいはそのほかのヒアリングで来られた先生方のご意見をうまく入れながら構成をしたつもりでございます。あと、この「その2」の弱点とでもいうんでしょうか、まだ案をつくってみて足りないところというのを先にお話し申し上げたいと思うのですが、先ほど伊井主査からもございましたとおり、第4章の施策に当たるような部分、振興の具体策みたいなところですが、ここがちょっと、内容的に弱いかなということでございます。それから、1章から3章につきましては抽象度が高いので、この報告書は世の中に対して出ていく報告書になりますので、もうちょっと具体的な事例を何かうまく盛り込んでいければわかりやすくなるのではないかというところが弱点になるのかなと現段階では思っております。
 それから、この「その2」につきましては、人文学の部分だけをまとめております。その1年ほど前に社会科学のうち、主に実証的な部分だけを中心にまとめた、当時「その1」となってはおりませんが、これを「その2」とすれば「その1」というものがございましたが、あれとの接続も図ろうかなとも思ったのですが、接続をさせるといろいろ構造を変えたりして、なかなか難しくなる感じもしましたので、人文学の部分だけをここでまとめております。ですから、今後は「その1」「その2」、それから今後、秋にかけての審議を踏まえて、最後に全部が合わさるというようなイメージを持っております。今後の進め方でございます。
 それでは中の説明に移りたいと思います。
 まず4ページ、「序」の「視点」でございます。ここは先ほど申し上げましたが、主に村上先生のご発表を前提に、これは人文学、社会科学、あるいは自然科学も含めて、その前提となるような視点というものをまず二つ確立をして、その上で本論に入るということでございます。
 まず、一つ目の視点は、(1)でございますが、「知の自足性と道具性」というふうにタイトルをつけました。これは知について科学という側面と技術という側面の二つに分けて考えたほうがいいのではないかというご指摘でしたので、そういったものを踏まえての書き方でございます。
 まず技術につきまして、技術というのは知の世界の外部に存在する、「クライアント」というのは村上先生の言葉でしたけれども、クライアントが設定した社会的・経済的目的の達成のための手段・道具として活用される知のあり方。これを使命達成型と呼ぶ。これに対して、科学とは、外部の目的のための道具ではなくて、知のための知、いわば自己充足的な知の営みということで、科学という知のあり方を定義いたします。この科学というのは、先ほどの技術が使命達成型ということであるとすれば、その対比として好奇心駆動型の知ということができるだろうということでございます。
 一応こういうふうに類型は分かれますけれども、「しかし」というパラグラフでございますが、20世紀後半になって、科学の成果を利用した技術開発といったものが活発となった結果、技術開発の前提となる科学研究にも産業などのクライアントが存在するようになったということが村上先生の問題意識だったと思います。この結果、本来的には好奇心駆動型の知である科学というものが、20世紀後半になって使命達成型の科学とも呼び得るような、いわゆる技術的なふるまいをする科学というのが誕生した、そういったような問題意識だったと思います。
 こういった状況を踏まえると、今日、学術の振興を審議するに当たり、この使命達成型の科学の登場というのが多分大きな意味を持つ。それは具体的には科学をめぐる最近の問題というのは、使命達成型の科学の基準で好奇心駆動型の科学が評価されてしまっている。そういったところにいろいろな問題が出てきているのではないかというご指摘だったと思います。こういったものを、まず議論の前提としての視点として提起する。
 それから二つ目でございますが、我が国が受容した西洋近代科学の特性というものを前提としてきちっと自覚しておかなければいけないというご指摘があったと思っております。これは下線部のところをごらんいただきたいと思いますが、我が国が受容した西洋近代科学とは、総合の学問としての「科学」ではなくて、既に専門分化を遂げた後の「個別科学」であって、そのことが我が国の学問のありようを、今に至るまで規定してしまっているのではないか。そういった問題意識を自覚することが多分大事だ。この二つの問題意識が前提となると思っております。
 次に人文学の中身に入りますが、6ページをお願いいたします。「課題」ということでございますが、これも先ほどの「序」とつながっているところでございますけれども、大きく二つ提起されたと思っております。一つは輸入学問、この言葉が適切かどうかというのもありますが、輸入学問という性格に伴う課題として、まず三つあっただろう。一つ目は、西洋の研究者の研究成果を学習するタイプの研究からの脱却ということが一つ課題なのではないかというご指摘が、さまざまな方々からあったと思っております。この(1)の最後から2番目の行をごらんいただきたいんですが、「受容」という段階から次の展開が必要な時期に来ているんだろうということでございます。
 それから二つ目の問題としては「社会的な言説との乖離」といったものから脱却していかなきゃいけないのではないかということでございます。我が国では、どうしても「輸入学問」という来歴があるために、我が国の歴史や文化、社会といったところからやや乖離しがちだったのではないかということでございます。これが二つ目。それから三つ目が、輸入ということの裏返しですが、近代以前から我が国に存在する人文学的な知への関心の低下ということが挙げられたかと思っております。
 それから7ページの第2節でございますが、「細分化に伴う問題」ということでございます。ここは人文学に対する人々、あるいは社会の期待といったものは、人間とは何かとか、歴史とは何かといった大きな認識枠組みの構築とか提示というところにあるのではないか。そういったところにこたえ得るような形で人文学が役割や機能を果たしていく上では、あまりにも細分化が進み過ぎているのではないか。あるいは細分化を前提として分野なりなんなりの固定化が進んでしまっているのではないかというご指摘があったと思っております。
 次に8ページでございますが、第2章「役割・機能」でございます。これは第3章の特性と入れかえてもいいのかなと思ったんですが、役割・機能のほうを先に書かせていただいております。
 これは先ほども申し上げましたとおり、大体樺山先生のご発表に沿っているような形で構造をつくっております。役割・機能としては、「理論的統合」と「社会的貢献」と「教養教育」と三つある。その三つの役割のうち、どれか一つが欠けても人文学というのは成立しない、あるいは成立しがたいということだと思いますが、そういう方向での審議だったと理解しております。
 まず第1節で、「理論的統合」でございますが、内容としては「メタ知識」の学という意味での理論的統合。それから(2)の「価値の判断」、これはもしかしたら価値の尺度の評価という言葉のほうが適切なのかもしれませんがそういったもの、それから「人間研究」という三つの側面が示されたと思っております。
 まず(1)「メタ知識」の学でございますけれども、知識に関する知識、すなわち論理とか方法自体の研究、あるいは個別科学が前提としているような基礎的な概念の研究といった、いわゆるメタ知識を扱うというような機能があるということでございます。その下に具体例で、ご発表のときにありましたので、哲学の例を入れてありますが、多分、哲学だけではなくて、ほかの歴史学であるとか、文学研究などの例を多分入れていってもよろしいのかなと思いますが、そういったあたり、ご審議の中で内容を膨らませていただければありがたいと思っております。
 それから9ページでございますが、「価値」の判断というところでございます。これも下線部分ですが、人文学には、個別科学がそれぞれ前提としている「価値の尺度」自体の評価を行う役割・機能があるということでございます。これも毎回話題になっておりましたので、これ以上特に申し上げません。
 それから(3)「人間」研究でございますが、これは主に亀山先生がご発表された視点をそのまま節にしてみたところでございます。人文学には、個別科学の諸知識の背後にある高次の視点としての「人間」をホーリスティックな立場から研究する「人間」研究を担う役割・機能があると。こういったものは、主に文学とか芸術研究などにおいて成立する総合の視点というふうに考えられるということだったと思っております。
 以上が「理論的統合」でございます。
 次に、第2節「社会的貢献」でございますけれども、社会的貢献につきましては二つの観点があるかなと思っております。一つは、9ページの一番下ですけれども、「人間や文化の文明史的な位置づけといった総合性の観点」と、それから10ページの2ですが、「個別科学の成果を一般市民に対して伝達するといった個別科学の専門性と市民的教養の架橋という観点」という二つの役割・機能が委員会の中では提起されていると思っております。
 まず(1)の「「人間」や「文化」の文明史的な位置づけ」というところでございますが、「人文学は現代文明における諸状況の変化に対応した「人間」や「文化」その他の諸価値の変革、あるいは場合によっては文明を先導するような形での諸価値の変革を担うことが期待されている」。具体的には、情報技術やバイオテクノロジーといった科学技術の飛躍的な発展、あるいは産業の発展とか生活スタイルの変化に伴う大量消費社会へと文明社会が展開していく中で、改めて現代文明を基礎づけている「人間」という価値そのものといったものへの答え、答えと簡単に言っていいのかどうかわかりませんが、何か考えというものを示すことが期待されているのではないかというお話があったかと思います。
 それからもう一つの具体的な例としては、重なるんですけれども、グローバリゼーションの流れの中で文化の多様性のようなものを確認していくという根拠づけを人文学が担うということがあるのではないかというご意見があったと思っております。
 こういったものを踏まえると、人文学には異文化コミュニケーションの可能性の探索とか、あるいは他文化が共存可能な社会システムの構築といったものに向けての研究といった社会的な役割・機能、これは社会貢献の中での話ですので、そういった社会的な役割・機能を担うことが期待されているのではないかというお話にまとめられるのではないかと思っております。
 それから(2)でございますが、「専門家と市民とのコミュニケーション支援」ということでございます。これは主に鷲田先生からのお話だったと思っておりますが、これも哲学の例になりますが、哲学の持っている一種のアマチュアリズムからして、専門家の専門性と、それから市民の教養みたいなものを結ぶという機能を、哲学がアマチュアリズムを有しているがゆえに持ち得る、果たし得るというお話があったと思います。そこから派生して、人文学の方々の社会におけるいろいろな取り組みということが自然に発生してくるだろうというお話だったと思っております。
 それから11ページですが、政策等の形成支援というのがもう一つ、これは樺山先生からの御指摘だったと思いますが、ございました。これはすべての学問にこういった機能はあるというご指摘だったと思っております。
 それから第3節、3番目の機能として「「教養」の形成」というお話があったと思っております。これも中身は三つに分かれておりまして、これは社会貢献とも多分絡むんだと思いますが、まず一つ目は「共通規範」としての「教養」の形成ということでございます。教養は世代間のコミュニケーション、あるいは共時的なコミュニケーションという観点から、異なる価値観を有する人々をつなぐある種のコミュニケーションのための道具、すなわち共通規範と言うことができる。その共通規範を具体的に担っているのは古典だろうというお話があったと思います。そこで人文学の果たす役割というのは、人文学が古典についてのさまざまな研究、あるいは教育活動も含めてだと思いますが、そういったものを行う中で共通規範、あるいは共通理解というものをつくっていって、文化集団とか社会集団の根拠づけといったものになっていくということであったかと思います。
 それから(2)でございますけれども、「「価値」についての正しい判断力としての「教養」」の形成というお話があったと思います。ここで「正しい」という言葉を使うかどうかというのは問題があると思っておりますが、とりあえず「正しい」というふうにさせていただいております。これは、前にあった理論的統合などからも当然出てくることではありますが、理論的統合の「価値の判断」というところなどが、具体的な場面になると多分こういうことになるんだと思いますけれども、教養というのは、哲学などの面からみれば、さまざまな価値についての正しい判断力と定義することができるということでございます。具体的には、これは鷲田先生からお示しいただいた例であったと思いますが、さまざまな価値について、「なくてはならないもの」、「あってもよいがなくてもよいもの」、「端的になくてもよいもの」、「あってはならないもの」を判断していくことが、教養としての哲学ということになるのではないかというお話があったかと思います。こういった例示についても、抽象度が非常に高くなっていますので、あえて残して書いております。
 それから12ページでございますが、「「教養」の文化的多様性」でございます。教養というのは、共通規範としての古典を通じて形成された価値についての正しい判断力というのが、(1)と(2)を踏まえれば多分そういうことになると思いますが、ただ、具体的な教養のあらわれ方というのは、それぞれの地域・時代で特殊・多様であって、歴史的にも多様な教養というものが存在してきたというご指摘があったかと思います。共通規範として古典があるわけですけれども、それ自体が、文化集団の固有性を背景としているので、当然多様になるということだったと思っております。ですので、共通性という意味での普遍性を獲得した古典、そういったものを教育研究活動を通じてきちっと継授していくというような営みというのが、人文学に期待されているというふうに思っております。
 12ページの最後のパラグラフなんですが、多分これが教養の部分のまとめになると思うんですが、「歴史的に形成されてきた諸教養を十分に継承しつつ、おそらくコミュニケーションの相互作用を通じて価値についての正しい判断力を磨いていく永遠の努力」といったものを、多分人文学が担って果たしていくということになるのではないかと思っております。
 それから13ページでございますが、特性ということでございます。もしかしたらこの特性が、役割・機能の前提の議論なのかもしれませんが、今回は後ろに書いております。
 まず、研究対象の特性でございますが、精神的価値、歴史的時間、言語表現、それからメタ知識を扱うということで、これは従来からずっと話題になっておりましたので、それだけは申し上げます。
 それから研究方法の特性でございますけれども、ここも幾つか重要な指摘があったと思っております。まとめますと、研究者が歴史や文化に拘束された、あるいは依存した存在であるということ。それから人文学における普遍性というのが、対話(ディアローグ)ということだと思いますが、ディアローグを通じて認識枠組みの共有を通じて獲得された可能性があるという、そういったお話があったのかと思っております。
 まず1でございますが、人文学の研究者自身が歴史や文化に拘束されているというご指摘でございます。そこから来るさまざまな限界といったようなものが出てくるということでございます。
 まず、人文学の研究対象はつくられたものである、これは樺山先生からあったと思いますが、したがって、人文学における知識というものは、純粋に客観的な知識というのが成立するのではなくて、常に歴史的・社会的な制約を受けつつ、歴史的・社会的、あるいは文化的な枠組みの中で生まれてくるものであるということにまず留意しなければいけない。自覚しなければいけない。その上で、研究者自身も歴史に参画する者として、歴史の中で歴史を解釈し、哲学を構築していく。言いかえれば、世界のうちにあって世界を語るという困難性というのを人文学研究というのは内在的に抱えているというお話があったかと思っております。
 それから2でございますが、14ページですが、研究プロセスでございます。ここは主に亀山先生がおっしゃられたこと、ですから文学研究の立場になるんだと思いますが、それをまとめてみたものです。研究者個人の見識や個性が果たす役割の重要性というご指摘があったかと思っております。これは、先ほどの1のところが歴史や社会に拘束されているという話でしたが、とすれば、当然研究者個人の個人的な体験とか生育歴などに当然研究者も拘束されているという話が次に出てくるはずですので、そういうイメージでまとめております。体験の中で形成された研究者個人の見識や個性というのが、研究のプロセスの中で大きな役割を果たしているのではないかというご指摘だったと思っております。
 それから3でございます。これは、4と一体として考えるべきところであります。ここは鷲田先生が主にご指摘された部分ですけれども、価値の相対性を前提とした「学びの重要性」、この言葉はこちらでつくった言葉なんですが、こういったものが一つあったのかなと思っております。
 人文学の研究者というのは、研究者自身が歴史や文化に拘束された存在であることを自覚した瞬間に、自らのよって立つ価値の相対性に当然気づかされる。この結果、人文学の研究プロセスは、ある意味で、研究対象からの「学び」という性質を帯びることになるのではないかということでございます。これは実は4と一体でして、4は、そういった「学び」という性質を帯びるということは、もう少し大きく言えば、人文学が古今東西のさまざまな考え方や価値観を学ぶことにより、自己はもとより、自己が属している社会集団、文化集団の価値観というものを相対化し、異なる価値の尺度をそこから抽出して、自己、あるいは自己が属している社会集団・文化集団の価値の尺度を練り直していく、そういったものを多分可能にする。これは人文学が他者との対話、ディアローグを通じた自他の認識枠組みの共有を契機として含んでいるといったことを意味しているんだろうと思われます。
 ここで対話というのを、これは世の中に出す報告書ですので、多分「ディアローグ」だと難しいので、あえて「学び合い」と名づけまして、ここを「学び合い」とするのであれば、その前提として研究者自身は多分学んでいるんだろうということで、「学び」というふうにしたものでございます。ここはまた適切な概念を、お言葉をいただければと思っております。一番いい言葉だとは思っておりませんので、また変えていただければと思っております。
 そういった認識枠組みの共有をディアローグを通じて行っていくという中で、人文学においては、多分普遍性が獲得されていくんだろうと、そこまでの話が展開できるのではないかと思います。
 その結果、15ページの5なんですが、「使用言語の多様性」というのを立ててみました。これは、以上のように人文学というものが研究のプロセスなどにおいて歴史や文化に依存していくということであれば、その研究のプロセスにおいて使用する言語というのは、研究者と研究対象との関係で多分決定されるんだろう。したがって、おそらく使用言語は多様になるのではないかというふうに理解されます。人文学について、研究者が依存している歴史・文化的な伝統と、その研究対象が前提としている歴史性や文化性との「対話」と仮にとらえるのであれば、そこでの使用言語というのは母国語(日本語)、または研究対象の歴史性や文化性を体現している言語となるのが多分自然というか、これが原則ということになるのかなというふうにまとめられるのではないかと思っております。
 それから、次に(3)でございますが、研究成果と評価についてでございます。ここは特性の中でもあまりご意見が出なかったところだと思っております。特に評価の部分についてはほとんど白紙状態になっておりますので、またここについてご意見を賜れればと思っております。
 まず、成果の特徴ですが、「真理の理解」と「実践的な契機」というふうにまとめてみました。言葉がこれで適切かどうかというのはあります。「自然科学が専ら「真理の理解」を目指すのに対して、人文学や社会科学には、「真理の理解」に加え、人間観や社会観などの転換を通じた「文明」や「社会」の変革という実践的な契機が含まれている場合がある」と。ただ、ここで言う「実践的な契機」というのは何かを意図してということではなくて、結果として効果を与えているというぐらいの意味でございます。これはたしか村上先生だったと思いますが、トックヴィルの例をお引きになられたと思うんですが、トックヴィルが民主主義の概念にわりと肯定的な評価を与えたがゆえに、民主主義の概念が積極的な価値をもってその後理解されるようになったということを見れば、そういった契機というものが含まれていたのではないかということになるんだと思っております。
 それで、評価については定量的な評価は困難だけれども、定性的な評価はなじむという意見がありますが、では、具体的にどうするというところはなかなか難しいという状況にあるということでございます。
 最後に第4章でございますけれども、「人文学の振興の方向性」でございます。これは四つにまとめられるかなと思っております。
 一つは研究者養成についての問題。それから二つ目が、人文学を振興するためには、受け手とでもいうんでしょうか、読者の獲得ということが非常に重要だという視点が示されたかと思っております。それから3番目でございますが、読者の獲得ともつながるんですが、大学などにおける教養教育を充実するということが、人文学を振興する一つのかぎになるだろうと。これらすべてということではないでしょうけれども、そういうことだろうというご意見があったかと思っております。
 それから(4)でございますが、これは(1)、(2)、(3)とは違う性質のものですけれども、国際交流の基盤とか、あるいは学術外交ということで猪木先生がおっしゃられたと思いますが、日本研究というものを推進していくことが一つ。日本の人文学ですので、そこに求められた役割ではないかというようなお話があったかと思っております。
 この(1)、(2)、(3)、(4)につきましては、ただ一つ問題があるということであれば、課題は出てきているんですけれども、では、その次にどう展開するか、どういう施策をとるかというところが若干弱いというところが一つ課題かなと思っております。
 全体の説明は大体以上でございます。これまで毎回お配りさせていただいております「主な意見」というものがあったと思います。箇条書きで、今回も資料2として配らせていただいておりますが、おおむねこれをベースにして、これを要約して文章化し、構成をうまくつくる中で、多少色をつけたり、あるいはつなぐための論理をつけたりしたところはございますが、大体資料2で先生からいただいたご意見などをまとめるとこんな感じかなというふうにまとめさせていただいたところでございます。長くなって恐縮でございます。以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。今、お聞きいただいたように、人文学とは何かというところに入り込みますと、大変な問題になりますし、人文学の課題を、共同で論文に仕上げるというのは、これは至難の技でしょう。そうではなくて、これからの人文学をどういう方法で、具体的にどのように支援をしていくのかといった点に持っていきたいと思っているところです。
 全体的な問題及び1章から3章までと、そして4章というのがございますけれども、伊丹先生、早めにお出になるということでございますが、何かまず口火を切っていただければありがたいんですけれども。

【伊丹委員】
 全体的な印象として、人文学のまとめ、私も何回か出ました委員会の議論のまとめとしてはいいんではないかと思いました。したがって、1章から3章の細かい字句の議論とか、解釈とかという点についてはいろいろご意見あるかもわかりませんが、大筋としてはそれほど大きな問題はなくて、特に研究のプロセス、研究の方法、それから研究の成果と評価というところに書いてあることの中では、私は賛成できることが多くて、人文学において真理なるものとして言われるものが、実は社会状況の変化との関係で長期的に変わっていったり、あるいは長期の評価がかかったりして、したがって、特に使命遂行型の科学というんでしょうか、それの評価基準で人文学を切らないほうがいいというのは全く賛成であります。
 ただ、一番難しいのは、人文学の振興の方向性のところでございまして、私のきょう拝見したこのまとめでの直感は、結局は、この分野の振興を図るときには、ごくごく当たり前の基礎的な手段しかないということなのではないか。その一つは読者の獲得という言葉があるんですけれども、これがものすごく大切な施策で、その読者の獲得をどういう形で国の政策として支援するのかというのは、さまざまなアイデアがあり得るかと思いますし、私は特にいいアイデアはありませんが、とにかく読者がいないと、社会の中でこういった、時として無用の学のように思われてしまいがちなものが生き残らないだろうというふうに思います。
 もう一つは、最後に無用の学として思われかねないと申し上げたことと関係するんですが、パフォーマンス重視型、競争的研究重視型の評価基準を、この分野からいかに遠ざけるかということに苦心するというのがもう一つの政策の方向ではないかと思います。したがって、ひょっとすると、特定の研究機関や特定の大学を少数に絞り込んで、そこにはあまり四の五の言わずに長期的な資源投入を国として決意するというぐらいの施策をやって初めて、総合学としての人文学を担い得るような研究者が生まれ、読者が拡大していく基盤がつくれる、そういう性質のものではないかと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。非常に大切なご指摘をいただいたところですが、とりわけ今、評価の問題がありましたが、現在の一般的な評価基準から遠ざけるところにこそ人文学の真の意義もあるんだというようなことでして、それと読者という問題もあるわけでしょうが、実際、我々が今、第1期の中期目標、中期計画の評価を書き終えたところですけれども、これが人文学がどうしても自然科学の基準の中に書かざるを得ないという状況が各大学でもあるのだと思います。これをいかに第2期では遠ざけていくかということが大事なんだろうと思いますし、一方では、具体的に予算をどうつけるかという問題にもなってくるのでしょう。どうもありがとうございます。どうぞ、全体を通じてでもよろしいです。どうぞ、猪口先生。

【猪口委員】
 3点気がつきました。今、非常によくまとまって論点もはっきりしたご報告をいただきました。ありがとうございました。
 私は三つ、少し弱くしか表現していないものがあると思います。一つは何と言うのかわかりませんけれども、体力の問題みたいなものがあると思います。2番目は、知性と感性をあまりよく区別していないので、あまり知性ばかり出てくるのもどうかな、人文学としてはどうかな、もうちょっと感性とか想像力とかが前面に出てくるんじゃないかなと思います。亀山先生の相対性とか、鷲田先生の対話というのがあるんですが、ちょっと弱い感じで、何か知のほうに偏り過ぎているような感じがしました。
 3番目は、最後のほうにちょっと関係があるんですけど、要するに、とりわけ人文学は自己主張というよりは自己表現、そのときの体力がちょっとないんじゃないかという感じばかりしているんです。体力の問題というのは、村上先生の専門分化した直後の学問の受容だということで、どうも狭苦しくて、読書の幅が狭いんだと思いまいす。したがって、読書量も意外と少ないんだと思うんです。アダム・スミスとかヒュームを見ると、政治とか経済というのが道徳論とぴっしり一体不可分になっているというのがすぐわかるんですけれども、そういった感じのときに、しっかりした諸分野をある程度見るみたいな体力がないとだめだし、それとの関連で、それをわかるだけの、そして自分の論を表現できるような体力をつける。今、伊丹さんがおっしゃった基礎的な普通のものが必要じゃないかというのは全く同感で、具体的に言えば、これは大学じゃなくて中学ですけれども、習うべき漢字の数、それから英語の数が少な過ぎるので、根本的に読書が限られ過ぎちゃってよくないと思います。漢字は3,500ぐらいがいいと思いますし、英語は、中学校の段階では1,000じゃなくて3,000ぐらい。ちなみに、隣の韓国とか中国では、中学の段階で3,000学ぶことになっているんです。それは実際にそうなっているかどうかは知らないですけれども、でも、韓国では必修に中国語、日本語をやるぐらい、あるいはそのぐらいまで行っているから、ある程度余裕を持ってそっちのほうにも行くというぐらいですから、僕はどっちかというと、基本的に体力がないと思うんです。それで、人文学者の場合でも、専門分化したときのだから言語もある程度決まって、議論の仕方とか、自己表現の仕方も決まったみたいな中であまり細かく言い過ぎて、読書幅と読書量がちょっと弱いんじゃないかなと、門外漢だから勝手なことを言いますが、そういう感じがします。それは何とかしなきゃだめで、一番初めというのは、読書の幅をちゃんと多く持ってたくさんできるように、漢字がちゃんと読める、それから近代以前の日本語がちゃんと読める、それから日本語でちゃんと書ける、それから英語ももうちょっと正確に早く読めるというような基本的な体力をつけることが、人文学だけではなくて必要だと思います。
 2番目に知性と感性の問題なんですけれども、これは亀山先生とか鷲田先生が非常に重要だとおっしゃっているのもそうなんですけれども、ただ、カリキュラムからすると、何かちょっと松下村塾的な感じで教えるみたいな感じがして、文科省が見るところのカリキュラムとしての理論武装というのがちょっと弱いかなと思って、そこを何とか。人文学というと知性よりは感性だと社会科学では思っているわけで、意外と感性のことがあまり書いていないので、ちょっと違和感を持ちました。それはイマジネーションとか、他者との出会いで驚いたとか、何か葛藤が出てきたとかというような話で感性が多いので、これをあまり知的にまとめると全然人文学的じゃなくなっちゃうんじゃないかという感じがしました。
 3番目に自己表現ですけれども、これは研究の評価と関係するんですけれども、自己表現はみんなにわかってもらいたいんですから、日本の中だけでわかってもらえればいいというのではどうしようもないので、体力を増す必要があるんです。その分野で、ルーマニア語が絶対重要だと言えばそれもそうだけど、プラス英語を入れる。それから自分のほうではタイだけでいいんだけど、それだけじゃ足らないから英語もちゃんと入れる。それから英語だけで全部足りるんだけど、そうしたら日本語もちゃんと本をいっぱい書いてくれというふうに何かしないと、複数、ないしは多数というように自己表現を持っていかないと、あまり人文学を認めてくれる人が少なくてだめだと思います。それは世界的というんだけど、英語がその二つだか三つだかに入っていれば、人口がものすごく大きいですから全然話が違って、出版社だって、英語の出版社はうまく考えれば、当たりがあったらものすごくお金が来るし、そういう余裕を持って人文系の著者を抱えて、どんなのでも出してくれみたいな余裕ができるしいいと思うんです。ただ、日本語だけになると、すべて小さくなって、持ち出し型執筆、私なんかは完全にそうなんですけれども、そういう感じになるとどんどん縮んでいってだめだから、僕は自己表現については、ここは人文学の振興の一つとしては、世界の普通語の英語についての体力をつけるようにしっかりとカリキュラムを組むべきだと思います。それは漢字とか英語の語彙の数についても、もうちょっとアンビシャスに設定しないと、中学では、「She is beautiful」で終わっちゃうから、全然話にならなくて。人文学っていうのはものすごく高度なんですね。複雑で、感性がいっぱい入るし、自己表現がうまくなかったら評価されないわけですから、僕はこういう意味でカリキュラム的にはものすごく体力が必要だし、それから他者との遭遇とか対話とか、そういうのをカリキュラムにもっと激しく強調するというのが必要だと思います。以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。おっしゃった基礎学と言いましょうか、基礎体力と言いましょうか、学問的な体力もあるんだろうと思いますが、その感性ということと自己表現というようなことでおっしゃっていただいたわけでありますが、収れんしていくと、これはカリキュラムをどうするかということにもなるんだと思います。おっしゃってくださったのは、多分人文学だけではないだろうと思うんですね。すべての学問にも通じていくんだろうと思っておりますけれども、どうもありがとうございます。
 何かほかに。全体的に、また個別でもよろしいんですが。どうぞ。

【立本主査代理】
 評価のことに関しましては、一番最初の4ページ、あるいは15ページのところに書いてあり、特に15ページのところには定性的な評価という基準を示さなければいけないという、非常に大切なことの記載もありますが、もう一つ、人文学の根本に価値とか判断力があるとすると、人文学そのものの評価の能力と、それとは別に研究成果の評価とをどのように考えるかということが、問題になってきます。一番最初の4ページのところは、外からの評価ということを書いているわけです。この評価の問題を第1章から第3章までのところに入れるのか、あるいは第4章にこの評価の確立というような形で取り込むかというのが、提言の一番のポイントになると思います。何か、今お聞きしていたところでは、研究成果評価の確立というような形で一つ入れておいたほうがいいかなという感じがいたしました。
 それからもう一つ、猪口委員の最後の英語のこと。これに関しましては、例えば15ページの「使用言語の多様性」というところに、「ただし、研究成果の発信や当該分野における教科書の執筆といった観点から、英語等の国際的に通用性の高い言語を使用するということは十分にあり得る」と書いてあるのですが、これは私は間違いだと思います。むしろ、書くのであったら、「ただし、人文学の普遍性の観点から、英語等の国際的に通用性の高い言語を使用するということは必須である」と表現したほうがよい。これは、人文学というのは言葉の学問であり、言葉の学問である以上、ひとつの言語を超えること必要だからです。また、人文学は固有性と普遍性をともに追求するという第1章から第3章までのニュアンスから言ったら、人類としての普遍性を求める限り一言語を超えることは必須だと思います。とりあえずは今の二つで。

【伊井主査】
 ありがとうございます。今のことについて何か。

【家委員】
 別の話ですが。

【伊井主査】
 どうぞ構いません。家先生。

【家委員】
 1章から3章までについて幾つか気になったことがあるんですけれども、細かいところはメールなりで後でお話しすることにします。ただ、15ページの一番最後のところの評価で、「人文学及び社会科学において定量的な評価は困難であり」と、そのとおりだと思うんですけれども、定量的な評価が困難であるのは自然科学でも全く同じことですのでという感想を述べておきます。
 きょうは4章について主に議論するほうがいいと思いますので、4章について申し上げますと、まず(2)の読者、オーディエンスのすそ野を広げる、これは非常に大事なことで、もちろんほかの学問でもそうなので、それは結構なんですけれども、(3)のところの「教養教育の充実」というのが、その流れにおいてそれを充実すべきだというのならわかるんですけれども、教養教育の充実というのは人文学だけの話ではなくて、むしろもっと大きな話のような気がするんですね。教養教育というのも、人文学を中心としたというので、私はちょっと違和感があって、自然科学的な教養も重要なので、この(2)と(3)を合わせて、人文学のオーディエンスを増やすために教養教育において人文学をもっと充実すべきだという流れなら一応納得できるんですけれども、そういう意図で書かれたのかどうかということがちょっと気になりました。
 だから、この4章の流れで、私の理解では、(1)が研究者の養成、(2)と(3)がオーディエンスの充実。(4)では日本研究。あと、ここではこれまであまり議論されていなかったのかなと思うのですが、施策としてのことで言うと、多分現代の人文学の一つの特徴は、非常に大量のデータ処理を伴うような研究手法というものがだんだんウェイトを増してきたんじゃないかなという気が、私のような門外漢から見て何となくするんです。全体に関しては、先ほど伊丹先生がおっしゃったように、当たり前のことをやるというのは私もそのとおりだと思うんですけれども、もし、施策として何か特別な配慮が必要だとしたら、そういうところが一つある分野かなというふうな感想を持ちました。以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございました。

【西山委員】
 今のお話の関連でちょっと申し上げたいのですが、特に16ページと17ページに関連することですが、結局人文学の振興の方向性のところは、全部が人材、人にかかわることだと思います。最終的には人がどうなのかということを考えたときに、(1)は研究するプロフェッショナルをどう育成するかということであり、ターゲットがはっきりしている。(2)と(3)は関係するかもしれないけれども、(3)の教養教育というのは、先生と大学生の関係ですね。それから(4)は、特別にプロフェッショナルの人達がどう考慮するかという話だと思います。問題は、(2)です。人文学の担い手としての読者の獲得というのは、大事だという割には非常にあいまいで、じゃあ、対象者としての読者というのはどこまでを含めているのかはっきりしない。もちろん、読む人と読まない人がいたときに、読んでくれた人のほうが、よりよく人文学の振興に役立つということは、極めて当たり前のことなのですが、大事な点は、どういう場合に読者になって、どういう場合に読者にならないのかということだと私は思います。読むか読まないかということも大事だけれども、対象者はこの分野に能動的にかかわろうとする人たちというとらえ方のほうが極めて大事じゃないかと思います。
 要するに、(1)(3)(4)の対象は、どちらかというと専門家の人たち。一方、(2)は、人文学の専門家になろうとして研究者を目指すような母集団を対象としている読者のことを言っているのか、はたまた、広く基盤的に人文学を支えてくれる教養人というか、人文学をよく理解している人ということを指しているのかということによって、随分とらえ方が変わってくると思います。
 さらに言えば、一般大衆、国民全体のレベルがもう少し上がったほうが我が国の人文学のレベルが上がるじゃないかという立場もありますので、単なる読者というとらえ方ではないんじゃないかと、私は理解しております。

【伊井主査】
 どうぞ伊丹先生。

【伊丹委員】
 2点だけ。今、西山委員の言われた読者のところは、私も言い足りなかったものですから、ぜひ申し上げようと思ったんですが、私のイメージは、比較的知的水準の高い、しかし研究者でも何でもない、学生でもない、そういう人たちの読者というのがターゲットだろうと。そこをどうやって拡大していくかということで何か施策ができるととてもいいなという感じがしました。
 それからもう一つ、評価とか、あるいは研究振興のために、どういう方たちに国としての資源をつぎ込み、環境をよくしてあげて、長期的な研究をしていただくかという、そういうタイプの、(1)にかかわる総合学の人間としての人文学を担い得る研究者の養成のところのやり方なんですが、先ほど立本先生がおっしゃったように、評価の問題を施策の大きな柱に入れちゃうというのは私も大賛成で、そのときには、ちょっと象徴的な表現をすれば、知の巨人が未来の知の巨人をはぐくむ、そういう仕組みが一番大切なような気がします。何か、定量的な評価尺度で「この人にはお金を渡しましょう」とか、「資源を投入しましょう」なんて、そういうのではなくて、もっと個人の直感的な総合的判断というようなことを信じる仕組みにしたほうがいいんじゃないでしょうか。
JSTという科学技術のほうの世界でも、実は人が人を選ぶという仕組みで、細菌学研究でしたか、そういう仕組みではっきりやろうというふうに考え方をつくってやっているのも、最近聞いたことがございます。人文学などは、まさにそういう分野で、したがって、知の巨人として将来の知の巨人を何とかはぐくむ、候補を見つけてくれる人、それをどうやって国が見つけられるかというのは大問題だと思いますが、仕組みとしてはそういった仕組みがよろしいように思います。以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございました。今田先生。

【今田委員】
 お聞きしていて、人文学のイメージというか、その位置づけや望ましい評価の仕方について何となくわかったような気もします。二、三コメントしたいと思います。評価に関してですが、評価から遠ざけるというのも一案かもしれませんが、評価を多元化してみたらいいんじゃないでしょうか。私は理系の大学にいるものだから、理系の業績評価と文系それとは180度ぐらい違うのです。理系は業績リストのトップにはレフェリード・ペーパーが並びます。どれだけランクの高い雑誌に論文を載せたか。それでほぼ評価は決まりで、著書などは一番最後に総説や解説として掲載されます。理系の先生が本を書く場合は総説であるというのが一般化しています。こういう発想で文系の業績を評価されると困ってしまいます。文系の先生方は、多くの場合、頑張って本を書くわけですよね。なのにそれは業績として最も低いランクに位置づけられるとされたのでは、やる気がなくなってしまいます。
 なので、例えば文系は、影響力のある著書をどれだけ書いたか、学会誌で書評としてどれだけ取り上げられたか(引用されたかもあってもいい)で評価するのがよいと思うのです。業績評価に際して啓蒙書と学術書に分けて整理するのも一方法です。何かそういう工夫をしないと、村上先生がおっしゃったような使命達成型の科学の論理で評価をされると、学問する気力が萎えてしまうような気がします。その辺りを、ちょっと工夫してみるのがよいでしょう。一元的評価ではないことを考慮する。
 社会学の例でも興味深い評価法があります。私は階層研究のためにアメリカのウィスコンシン大に一年ほど客員研究員で滞在しました。比較的近くにシカゴ大があるんですが、この二つの大学が全然違う社会学の業績評価をしていました。ウィスコンシン大はアメリカ社会学会関連の学術団体が発行する雑誌(もちろん、レフェリード・ペーパー)に年4本くらい書いていれば超一流の先生という評価でした。ところがシカゴ大学の社会学では査読論文の数はほとんど関心がない。5年間じっくりと待ってくれる。ただし、影響力のある本が書けるかどうかが問題。それができなかったら外に出てゆく(テニュアのない場合)か給与を下がる(テニュア有の場合)というふうに評価をしていた。どっちがいいかは、その人の性格や学問分野によると思うんです。実証研究をやっている人は査読論文による評価がのほうがいいし、じっくり腰をすえてやる人は著書による評価のほうがいい。これは単なる一例ですけれども、何かそういう工夫をしてみたらいいんじゃないかというのが一つですね。
 それから、教養教育の問題ですけれども、かつて大学院重点化と教育の大綱化が並行してなされて、ほとんどの大学では大学院重点化のほうにばかり目が向いたものだから、教養教育がおろそかになって、そのつけが10年ぐらいで回ってきている状況ではないでしょうか。いろんな大学で学生の人間性が薄っぺらになったといわれています。哲史文という人文学の基本ををきちんと身につけることで厚みのある人間存在を彫琢しないと、軽薄な人間存在になってしまいかねません。
 昔に先祖返りするという意味ではないんですけれども、時代の状況に合わせて、高度教養教育というのを考えてみる必要があると思うのです。コンピューター・リテラシーや技術倫理の問題などを含むハイグレードのリベラル・アーツがあっていいんじゃないかという気がしております。
 それから、研究成果の海外発信の最後のところで、国際交流としての日本研究の推進がえらく際立っていて、どうしてこの箇所だけ特に日本研究ということが出てくるのかなという気がしています。そこでもう少し広げて考えてみるのも一案かなと思います。人文学一般にとっての難関はなかなか英語にならないことです。西洋の哲学をやっている場合はいいんですけれども、国史とか日本文学は。
 それでお金さえあれば簡単な話なのですが、いい著書はすべて英語に<翻訳してあげますセンター>をつくって、どんどん人文学関係の本を英訳して出版するプロジェクトがあればいいのではないか。一人で英訳し、出版社を見つけて交渉するとなると大変な労力が必要で、とてもじゃないがそれに時間と労力をかける気になれない。その辺りをサポートするのがいいのではないか。例えば実験的に100冊ぐらい日本の哲史文関係の良書を選んで、それらを英訳して海外の出版社から出版するプロジェクトを立ててみることです。そのかわり、かなりその分野で英語ができて、ネイティブ・チェックもできる人を動員しなきゃいけませんが。そういうのも一つの方法で、なかなか1人でやるのは大変という面があるんじゃないか。特に人文学のほうは、そうなのではないかという気がします。
 最後に、4章の総合の学としての人文学というのがあるんですが、これがちょっとわかりにくかった。総合の学ということは、理系も文系も全部含めての学というイメージがあります。ここでいう総合の学というのは統合することなのか、全学問領域を総合するのか分かりにくいと思います。ちょっと工夫したほうがよいのでは。人間の基礎学としての人文学ないし、人間存在の基礎としての人文学とか、そういうほうがぴんと来るんじゃないかという感じがします。以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。今の初めのところに「学問の細分化」というのがありましたものですから、もう少し広い視野でそれぞれの研究ができる立場の方というようなことでまとめたところだったと思いますけれども、具体的にご提言いただいた評価の多元化とか、翻訳の問題なんていうことは、これはたとえば人文学の担い手である読者の獲得にもつながっていく問題だろうと思っておりまして、これにはぜひ取り組みたいと思っております。どうぞ、上野先生。

【上野委員】
 整理していただいてありがとうございます。私も工夫ということの域を出ませんが、3点ほど申し上げたいと思います。
 一つは、4章に行くまでの第1章から3章までの単に書きぶりですが、だれに向かってこのことを伝えたいかということを鮮明にした書きぶりにする必要があると思うんです。それで、どちらかというと人文学、社会科学の内部で納得できる、合意的な内容にはなってきているけれども、施策とかの決定にかかわる方々にわかる文章になっているかというと、これはかなり難渋なことになっていると思うので、ましてや一般の方はなおのことなので、ある段階で、そういう方に率直にお目通し願って、どのあたりが伝わるか。私たちは大学でもそういうことをやるんですけれども、そのあたり、内部以外の方を想定した、だれに向かって書いているかということを、内容は結構だと思うんですが、そういう構成と書きぶりの工夫が要るのではないかということを、1章から3章までのところで思いました。せっかくの内容ですので伝えたいと思います。
 それから2点目ですが、そこにも関係するのですが、人々がわかっていない、しかし人文科学はこのように重要で、このような評価と処遇をされたしということを強調しても、それが今まで実現されてきていないという現実に立っているわけなので、今まで先生方がおっしゃった文言なり、この案の言葉から拾い出しますと、例えば、社会状況の変化の中でいろいろな課題に対応しているということとか、それから実践的な契機ということが本文の研究成果の中に少し出てまいります。非常に軽やかに扱われているのですが、確かにすぐに結論が出せるものではないけれども、そうしたものを、自然科学も最先端の研究とともに人々の生活の問題も引き受けて科学を進展させているわけで、その部分がわかる書きぶりにしたほうがいいのではないか。社会的状況から、知の体系にいきなり遊離するのではなくて、社会的状況なり実践的な契機というものを人文科学も引き受けつつ研究を進展させているということは、かなりクリアに出したほうがいいのではないかということを、2点目に思います。
 それは4章の施策のところには必ずしも出せなくとも、1章から3章のところのどこかに、一般の方に読んでいただいても、人文科学はそういう形で問題意識としては引き受けているんだということがわかるような文言を少し追記できればと思ったのが2点目です。
 3点目、最後ですが、第4章のところです。それで、読者の獲得は、先生方おっしゃったとおりに、私も、いわゆる書物や研究論文の読者ではなくて、広い意味での母集団を想定するということを念頭に置いて提起したほうがいいと思います。それとの関連で教養教育なのですが、これもいわゆる高等教育での教養教育、施策的には大学教育ですが、このことを重視したいのは、今、社会的にもいろいろな不安状況があるわけで、そういう流動的なグローバリゼーションの社会の中で、思慮深い大人、社会人をきちっと応援していきたいんだというふうな、教養教育も少し幅広い書き方のほうがいいかなということも思いました。
 最後ですが、日本研究のところです。いわゆるジャンルとしての日本研究ということではなくて、その前の総合の学のほうに、原典重視という、言語の問題、原典があるのですが、外国語に行く、原典に行くということだけではなくて、日本の現実の中で蓄積されている、まだ明治以降の体系化が十分ではないかもしれませんが、それがあるわけで、外国語と原典だけではなくて、日本の文化、風土等にきちんと根ざしながらそういう施策なり、論文なりの、人々の生活・感覚もそこで切れていますから、そこをきちんとつないでいくような人文学研究というようなことを、日本研究の中にも入れて考えたほうがいいのではないか。
 以上、十分に言葉は尽くせませんが、3点です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。中西先生。

【中西委員】
 最初の人文学の課題というところで、輸入学問のことと研究の細分化という二つ出ていますが、これは非常に大きな問題だと思います。それに対しての回答という形で施策があってもいいのではないかと思われました。実は私は、最後の中野先生の講演にいたく感激しました。目からうろこといいますか、今まであまり考えてこなかったことが随分ございます。
 人文学を考える場合には、日本独自のものと、人間共通のもの、世界的なものとに分けて考えるべきかと思います。特に日本独自のものについてですが、中野先生のお話にありましたように、たかだか200年前の日本人が書いたものを、もうだれも読めない。古典を習うにしても、そのころ使われていた文字から習うのはなく活字として学ぶので、活字にした段階で、もう抜け落ちてしまう日本の文化があるということを言われました。例えば音楽も、五線譜にしたとたんに日本の音楽はどこか感性がなくなる。ですから、昔からの日本人の考え方とか、日本人のもののとらえ方を得るためには、変体がなをきちんと学んで、古典をそのままの形で直接読むことから始まるとおっしゃったのはそのとおりだと思います。
 日本の文化を知らずして、またきちんと学ばずして、外国の文化を論議するとは、ほんとうの国際人ではないと言われたのもそのとおりだと思いす。私も変体がなの辞書を本屋さんで探したのですがありませんでした。例えばこのような辞書が身近に得られるような環境をきちんと整えて、日本独自の文化を学べる環境を提供するというような、人文学の基盤を支える施策が必要だと思います。それがほかの社会科学と違った人材育成面にもつながると思います。いろいろな人を育てるということは人文学の読者を育てるということでもあると思います。日本独自の文化を学ぶ基盤をどのように得られるようにするかという点をもう少し掘り下げる必要があると思います。その上で人類共通のものの考え方、生き方などが得られ、次に世界共通のものとしてどんどん発信していかなくてはならないと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。どうぞ、猪口先生。

【猪口委員】
 第4章の第2、「人文学の担い手としての教育者の確保」、これは必ずしも同僚といいますか、人文学者じゃない人を考えるというよりは、僕は国際的な読者を広くしたら人文学は振興していくと思いますよ。絶対に読む人がいっぱいいるわけです。それで、知性、感性、体力ともにある人は、国際的に見れば、とにかく65億はいるので、その中の1パーセントかもしれなくてもものすごく多いわけですから、そこら辺をあまり気にしないほうがいいというのが一つ。そのためには、体力がなきゃだめなんです。それは人文学の書くのが面倒くさいというけれども、それはありもしないことを書いている自然科学のほうが多いんじゃないか。そういうほうが難しい場合もあり得るので、人文学が外国語に直しにくいかというと、そんなこともないし、芥川賞もあるし、そんなものじゃないと思うんですよ。それは勝手に言っているだけだと思います。それは社会科学でもずっと長いことみんな日本語でしか表現できないといったけど、それはあなたの場合はそうでしょうと言うべきであって、しかも、自分の世代はそうであっても、次の世代にはもうちょっと力強く、自分の言語以外でもできるようにしないと、このグローバル化のときに、人文学だけじゃなくて、学問が衰退してくる。これは絶対。それで、理科系の人が何とかなっているのは、それは表現が簡単だというほど簡単じゃないんですね。意外とみんな頑張っている、工夫しているんだと思います。そうじゃなきゃ生き残れないというのが切羽詰まっているからだと思うので、人文学、社会科学の場合にはのほほんとしていてもいいみたいに細かく分けて。それから日本語だけにすると、がたがた言う人もあまりいないので、そういう面があって得をしているだけで、緩やかな衰退を自分でもたらしているみたいなところがあるので、この2番目はほんとうに重要なところで、読者を獲得、日本に限らず国際的に、精力的に求める。それに一つのあれとして4番の日本研究、日本研究という必要はないんですけれども、国際的に、概念的にも、組織的にも一緒になって、ほんとうに学び合い、対話しながら、しかも一緒に論文を書いたりなんかするということをやらないと、人文学だけじゃなくて社会科学もそうですけれども、なかなかならないと思います。例えば化学でも生命科学でも、一つの特徴は、共著者がやたらと多い。医学なんて言ったら、僕は40人とか50人のを見ますからね。それはそのぐらい頭をいろいろ頑張らないとできない。それから討論もしないとなかなかいいところに達しないというのがあるんだと思うんです。
 ただ、人文学というのは「咳をしても一人」みたいな俳句がありますけれども、ああいう状況が長く続き過ぎているからだと思います。みんなと討論して、みんなと「こういうのはあれでいいのかな」というような話し合いが、日本だけじゃなくて、あるいは同僚だけじゃなくて、国際的にもそういう機会をつくるということが、この施策の一つとしてやらないと、グローバル化になると衰退が早まるんじゃないか。
 たまたまきょうの新聞で見たら、どこかのシンクタンクで文科省のむだをやめろというのがあって、グローバルCOEというのが。やめろとは言っていないけど、何とかせいというのがあって、あれはスピリットはいいんだけど、運用がそういう感じを与えたんじゃないかなと思って、それはグローバルといいながら大してグローバルでないのが多いみたいな感じが私はしますし、それから自己表現といいますか、読者獲得というと日本の読者ばかり見ているみたいなのが多過ぎると思います。そこら辺も、いろいろな面がありますけれども、施策として何とかやってほしいなと思いますね。読者は世界中の読者にする。それから自己表現も、日本語以外のものでも力強くというか、感性豊かにできるような、一つぐらい何かやりなさいよというのが、今の人はしようがないからやめておいてもいいですけれども、次の世代についてはそのぐらいに力強く施策を出さないと、「何だ、どうってことない」という感じにこの文章がとられると私は思います。以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございました。井上先生、どうぞ。

【井上委員】
 全体的には、この委員会における研究成果がこの審議経過の中にまとめられていて、それぞれ専門的な立場から意見を発表していただいた成果というのが生きていてよろしいと思うのです。ただ、これは確かに全体的に見て思いますのは、振興方策をここで提言する場合には、だれに対してメッセージを発するかということが非常に重要になってくるわけで、人文学の研究者コミュニティーと皆さん方で意見を述べ合って、共通理解に達したものを成果として発表するのは非常に結構だと思うのですが、その場合に、振興の方策、特に振興の方向性にどう反映されているかということが非常に重要だと思います。そういう意味においては、1章から3章までに書かれたことは、研究者コミュニティーの共通理解としては確かにこのとおりだと思うのですが、それが施策の方向性で果たして生きているかということについては、これだけ見ると必ずしも論理的にははっきりしていないというところがあって、研究者の養成はどこの分野でも、別に人文学だけじゃなくて、自然科学も社会科学もすべてに共通しているもので、今の研究に対するサポートのシステムが、いわゆるデュアルサポートシステムとしての基盤的経費と競争的資金による支援体制から言った場合に、人文学が、今、かなり他の競争的な資金から取り残されて、基盤的経費も国立大学運営交付金とか、あるいは私学の研究助成費が1パーセントずつ削減されている場合に、基盤的な研究環境が非常に悪くなっているという、そこの中で、人文学をいかに振興するかということを考えなければいけないと思うのです。そういう点から言いまして、研究者の養成がどういう必要性が高いかということをさらに述べて、研究者が養成された場合に、それが社会的に研究者として活動する場がどれだけ確保できるかということが一方では必要になってくると思いますが、そういう研究環境の整備というのが、この中では必ずしもはっきりしていないというところがあると思います。
 また、(2)と(3)のところで、人文学の必要性と、それが研究者なり国民なりに全体的にどれだけ必要であるかという点についても、人文学の哲史文が教養の基礎的なものだという共通理解はだれしもあると思うのですが、それをどのように実際に人文学として振興する必要性があるかということが、先ほども人文学を中心とした教養教育といっても、リベラル・アーツということから、現実の今の大学教育としての教養教育というのはもっと幅広い教養教育になっているのではないか。それは社会科学、あるいは自然科学、科学教育の基礎的なものについても、教養教育として必要だろうし、社会科学についても人間あるいは社会、世界を考える場合に必要な教養教育が形成されていると思うので、そういう意味で、人文学を中心とした教養教育を充実させるという観点だけから言って、それが果たして説得力があるものかというところに、私は若干懸念を感ずると思っています。
 それから、国際交流の基盤としての日本研究の推進のところでは、確かに今までの中野先生はじめ研究者の発言から、その重要性は十分認識されるのですが、それが一般的な国民の目とか、最後は財政当局の目から言って、果たして十分受け入れられるものかどうかというところになると、これがなかなか難しくて、そういう点から言うと、人文学の研究者の研究環境を整えて、研究者がお互いに研究成果を活用するようなデータベースの構築とか、だれでもがアクセスできるようなネットワーク形成とか、そういうようなことが人文学でも必要だと思いますので、そういうような研究環境の整備というのも、人文学の振興のための基礎的な条件として整えることは必要ではないかと思います。
 そういう意味で、人文学振興の研究環境の整備を一つの柱として出していく必要があるのではないかと思います。さらに人文学の研究者のアカウンタビリティーを高めるという意味で、外部から見た場合でも、評価が非常に厳しくなってきているだけに、人文学の振興が果たしてその必要性を十分に相手方に、国民なり財政当局に理解させるように、これをさらにブラッシュアップしていく必要があるのではないか、このように感じております。

【伊井主査】
 ありがとうございました。非常に大事なご発言をいただきました。まさに、人文学の研究環境の整備という、それは評価ともかかわるわけでありますが、それが一番大事であろうということでございますが。どうぞ、谷岡先生。

【谷岡委員】
 何人かの発表を聞きそびれたので、あまりものを言う立場じゃないですし、社会科学者なので人文学はあまりよくわからないんですが、3点だけ申させていただきます。
 一つは、猪口先生がおっしゃったように、この報告書の中に芸術的なものや人間の感性といったものがあまり盛り込まれていないなと。どちらかと言えば、知という側面に大分突出しているんじゃないかというのが一つのコメントです。
 二つ目は、教養という言葉が、例えば15ページにも定義されていますし、それ以外のページにもまた別の定義があるんですけれども、例えば11ページにもあるんですが、私が学長になる前に、大学の責任者になって最初にやりましたのは、私の大学における教養とは何かという、教養の定義をまずいたしました。その上で、これからうちの大学でカリキュラムを考えるとき、またいろいろな施策を考えるとき、教養という言葉を使うときにはこの意味で使ってもらいたいという言葉を打ち出しました。つまり、800大学があれば、800種類の教養があると私は思っています。ですから、教養というものは、それぞれの大学で自分たちが考えて「これが教養なんだ」と思えばいいわけです。
 逆に言えば、例えばつい最近ノーベル文学賞のソルジェニーツィンが亡くなりました。同じころ、日本の漫画家の赤塚不二夫が亡くなりました。どちらが社会に影響を与えたか、どちらがたくさんサイテーションされたかということを考えますと、はっきり言いまして、日本では赤塚不二夫のほうが社会に与えた影響は大きかったと思います。もちろん、大学の漫画コースなんかもありますから、それが基礎教養だと考えている人もいるし、全然考えていない人もいると思います。ですから、教養というものをそれぞれの大学で「うちの大学はこうなんだ」ということを打ち出させる、それが一つの考え方だと思います。
 そこにおいて三つ目なんですが、危険なのは評価ですね。つまり、間違っていると証明できないことを、定性的にしろ、定量的にしろ、評価をしろというのは大変難しいし、私は無理だと思っています。今田委員のほうから、厚みのある人間、じゃあそれをだれが判断するのか。判断する人は必ず定量的に試験で判断していきましょうといいますと、ろくな人間にならない。先ほど知の巨人を知の巨人が判断するという言い方を伊丹委員がなさいましたけれども、そういったことができるというのは、ほんとうの意味でリーダーがちゃんと人を見て次のリーダーを判断するだけの目を持っているからだと思うんです。そこにおいて点数はあまり重要視されずに、どちらかといえば人間を見、人間の厚みを見る目を持っている人間がそこで要るんだろう。
 ですから、そういう意味で、評価というのが定性的にせよ、定量的にせよ、早い話が無理なんじゃないかというのが一つの考えです。
 それで、なるべく具体策を提言してくれということでしたので、あえて申し上げます。まず、各大学に教養を定義させ、定義したところから100万円ずつ与える。その教養を推進するためにその100万を使いなさいと言って、毎年報告書を出させる。それを評価する必要はありません。ちゃんと自分のところの大学の教養というものを定義したところから100万ずつ与えます。年間80億で済みます。そういうふうな空気を醸成していけば、必ず教養というものに対する底上げが、各大学からそれぞれの種類の教養が出てくると私は信じております。以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。感性をどうするかという人文学の問題、そして教養の問題ということで具体的にご提案いただきましたが、もう一つ評価という問題で、評価というのは最終的に人文学ではなかなか難しいであろうということでございましたが、科学官の方、どなたでもよろしいんですが、ございませんでしょうか。どうぞ。

【高山科学官】
 いろいろな委員の方がおっしゃったこととかなり重なるんですけれども、二つだけ私も申し上げたいと思います。
 一つは、この人文学の振興、これがどこを対象としているか。もちろん、報告書の中にも、きょうのお話の中にも、研究者、大学、それからある意味では日本社会の一般の方たちが出てきたんですけれども、ほんとうにこれ全部を対象としていいのか。あるいは人文学研究のところに焦点を当てるのか。ここのところがちょっと不分明といいますか、わかりにくかったなという印象を持っております。これはこれから先議論の対象になるのかもしれません。
 それからもう一つは、人文学に非常に特徴的に出てきますけれども、価値とかなり結びついてしまう。これはその社会のありようにかなり左右されてしまう。これはそのとおりだと思うんですけれども、ただ、学問をやっていく上では、異なる価値をもつ集団にも理解してもらわなくてはいけない。おそらく学問というのは、共通に理解できるような基盤を実際には持っていないかもしれないけれども、持つということがある意味では前提になっているんじゃないかという気がしております。だから、もちろん日本のことを日本語でというのはある意味では当然ですけれども、それをほかの言語でもきちっと説明できるということは必要なんじゃないかと思いました。だから、先ほどから出ていますけれども、横文字、あるいは外国語でもきちっと出していくということは前提になるのではないかと感じました。以上の2点です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。どうぞ。

【縣科学官】
 本年度着任しましたものですから、この委員会は12回なさっているということで、プリミティブで恐縮ですが、この文章の題名は、頭にあるように「社会科学」ということを入れるのですか。それによって全然違うと思います。人文学の振興ということでよろしいのでしょうか。

【伊井主査】
 初めに言ったように、その1がございます。それは社会科学です。

【縣科学官】
 それはもう終わっているわけですね。では、人文学だけということですね。次の2点は既に出ていることに関連しますが、一つは輸入学問ということを、最後の16ページでさらに強調する必要があるのだろうかということです。私も社会科学分野なのでよくわかりませんが、そうした歴史があったことは事実だと思います。ですから、それが前のほうで強調されるということはいいとしても、最後のほうでまたそこにあえて立ち返る必要があるのだろうかということが一つ気になりました。
 それから2番目は、2番と3番のところです。教育の場を3番では「大学等」と書いてありますが、例えば専門家と市民とのコミュニケーション支援であるとか、政策形成であるとか、それから実践的な契機ということが強調されている以上、もっと積極的な教育の場の提供ということを大学外に求める、あるいは大学の中でももっと多様性をつくる必要があると思います。社会科学の場合で言いますと、専門職大学院というものが出てきて、実践教育が展開されている。これは社会科学の持っている人文科学との対比においてちょっと違うところかもしれませんが、それとのアナロジーとして、人文学についてもそうした実践的な教育というものを持っていく。それが一つは出版というようなことで、読者の拡大ということになるのであろうと思いますが、もう少し積極的な教育の場というものをつくっていくということは可能なのかということです。
 それともう一つ、日本研究ということは、確かに日本として重要だと思いますが、国際交流の基盤というのは、日本研究のみならず、比較研究として掲げられないのでしょうか。そうした要素が、もちろんこの3章までの人文学の特性や役割にあると思いますが、振興の方向としても、それを打ち出してみてもいいのではないかという気がいたしました。

【伊井主査】
 ありがとうございました。佐藤先生。

【佐藤科学官】
 2点ほど。この会議でも何度か発言を許していただいたんですが、私は同じことを毎回申し上げておりまして、人文学の固有の問題として取り上げられている問題の中には、どの分野も一緒だというところが非常に多いような気がする。英語の論文のお医者さんの論文のところで40人共著者がというお話がありましたが、あれは、その論文が40人皆が賛成できることを言った論文であるに過ぎない。がんの治し方というような論文は、1人では書けないわけでありまして、そういう点から考えると、自然科学が簡単で人文学が難しいということは、私はあまりないというふうに思っております。
 それから、提言ということがしきりに出てくるのですが、一番最初に「メタ知識」というのが出てまいります。このメタ知識というのを、もし人文学の立場で標榜されるのであれば、これはこの中の文章にもありますけれども、これは人文学だけじゃなくて社会科学にも自然科学にも通じた普遍的な知としてのメタ知識ということになれば、それは広い意味での学際的な研究を含めた、そういうものを立ち上げていくときののりとなる、ジョイントとなるような、あるいはそれを指導するような、そういうふうな知の構築というところにあるような気がします。
 そうすると、一つこの振興の方向性の中に、そういう学際研究を含めた共同研究のあり方というようなことをお書きになるのがひょっとするとよいのではないか。皆さんに共同研究をやれとは申しませんけれども、しかしそういうふうな方向性が一つあってもいいような気もいたしますので、その点は一つ申し上げさせていただきたい。以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。どうぞ、ほかに。藤崎先生。

【藤崎委員】
 既に出つくした感もあるんですけれども、第4章について少し印象を述べさせていただきます。
 1から4までについてなんですけれども、4に関しては日本研究というのがタイトルのところに出ていることで、少し特殊な印象を与えているように思いますので、研究成果の国際交流とか国際発信ということにして、これまで出ましたような比較研究とか海外への発信というようなこと、それからここで言う日本研究などを内容的に入れていけばいいのかなと思います。
 それから、1から3についてなんですけれども、このことをもって、いずれも重要な問題だとは思うんですけれども、人文学の振興に特に予算等を用意してほしいということをアピールする上では、少し弱いのかなと思います。1番に関しては、とにかく時間をたっぷり与えてくださいというようなことが一番メインになっていて、あまりお金の問題というところにかかわってこないように思いますし、2番はともかく、3番は先ほどからありますように、必ずしも人文学の問題だけではないだろうというのは当然のことかなと思います。
 全体の印象として、この1から3までを読んでみますと、人文学というものが非常に古典的なイメージでとらえられているような気がして、この会議で哲史文という言葉がほんとうに頻繁に使われているんですけれども、ほかの場で、今の時代、ほとんど聴かない言葉で、おそらく学生などに言っても理解されない言葉ではないかなと思います。
 先ほども、近年の人文学研究は非常に大量のデータ処理などもするんだというお話がどなたかから出たかと思うんですけれども、哲史文も学問のあり方として非常に変わってきていると思いますし、その三つの分野に人文学が尽きるわけではないとも思います。
 私は社会科学ですけれども、非常に近いような関心をもって、そして非常に実証的な方法論でもって研究される人文学の研究者の方たちもいっぱいいらっしゃるので、そういうところまでイメージを膨らませて、先ほど出ましたような研究環境の整備、そこに相当力を入れて書いたほうがいいのかなと思いました。

【伊井主査】
 ありがとうございました。やや人文学の嗜虐趣味的な点がありまして、被害者意識みたいなのが根底にあるのかもしれませんけれども、今まで基本的にご発表いただいた方々の内容を整理してまとめたところがありますので、皆さん、むしろ積極的にこれからやったほうがいいだろうということでの今のご発言だろうと思います。ぜひそういう形で進めていきたいと思っております。どうぞ、岩崎先生。

【岩崎委員】
 この方策といいますか、方向性なんですけど、これはこれでいいと思うんですが、このドッジファイルの平成14年に出ている人文社会科学の振興方策、これには社会科学が入っているんですが、これをざっと見ると、(1)から(4)というのが方向性としてはこういったものだろうなと思います。研究基盤の整備というのはさっきからもお話がありましたし、それから課題設定型プロジェクトを起こすということは、これは自然科学だってあるんですけれども、特に人文科学の場合は非常に個別というか、個人研究が多いので、極端な場合、教授と大学院生のテーマが全く違うなんていうこともあるわけですね。ふつう、自然科学系、実験研究の場合にはあまりそういうことはないんですけれども、そういう意味では、課題設定型のプロジェクトをつくって、少なくとも、まず日本の中での同じ分野の人達が議論する、そういう学協会というのも人文系はあまり強くないのではないかという印象を持っていますので、そこにこういった課題としてどういうものがあり得るかというのを投げるというのも一つの方策なのではないかと思っています。
 若手研究者の育成とか、それから国際交流というのは、これはどこの分野でも同じなので、方策としては、ともかく研究基盤の整備と、それから5年計画でもいいんですけれども、そのときそのときの課題をつくり上げていくという、そのぐらいしか振興方策がないのかなというのが私の意見なんですけど。

【伊井主査】
 ありがとうございます。研究環境整備という点に尽きるんだろうと思いますけれども、あまり評価を厳しくしますとそれがなかなか進まないところもあるのかと思いますが、どうぞほかに。

【深川委員】
 私も非常に久しぶりに出席させていただいたので、あまり確たることは申し上げられないんですけれども、第4章の振興の方向性、そろそろ議論はかなり煮詰まっているかと思います。私も人文の人間ではなく、特に社会科学は最近、ゲームとか、計量が多くなってきているので、およそ社会といっても限りなく工学に近い方々をいっぱい抱えています。そんなわけで人文を理解しているとはおよそ思えないんですけれども、ただ、そういう素人の人たちから見ると、人文系の方たちの議論の中にわりと欠けがちな話というのが、両極端なところが欠けている、ということだと思います。
 一つは方法論の問題というのがあって、アメリカなんかを見てみますと、イギリスはちょっと違うのかもしれませんが、わりと大学の人文であっても相当に方法論というのからエントリーが入ってくるので、そこはすごくしっかりやっています。懇切丁寧にやってくれますから、例えば短期間の間に膨大なものを泣きながら読んでいますけど、その読み方まで懇切丁寧に教えてくれるので、「一応君は興味があって来るんだろうから、ほったらかしておくから、あとは君が好きなように読みなさい」ではインテンシブにできないので、そういう方法論のところをしっかり教えると一般化というのができるようになると思うんですね。前職は某国立大学の非常に教養主義的なところに勤めたこともあるんですけど、ときどき卒論とか、大学院の論文の審査にサブで入るわけですが、よくありがちなパターンとして、若いころから最終的な卒業論文とか、博士論文というのに向かって異常な情熱を傾けているので、その半面コースワークが結構甘かったりする。だから、限られた分野だけは非常に詳しいんですけど、一般化不能なので、それ以外のことは語れませんと。すぐれた才能のある人は、そこは個人の才能で補っていくので、洞察力があるから一般化できて、世の中に売れる本を出せるということだと思うんですけど、そうじゃない人は、ただセグメントされたすごく細かい話で終わり。それだと就職先も限られていくと思いますし、洞察力があって初めて、例えばおとぎ草子の研究をしていたかもしれないけど、でもカウンセラーになれるかもしれないという、そういう道って広がっていくと思うので、方法論をしっかりやるプログラムというのは、人文であっても、アマチュアながら大事ではないかなと思います。
 もう一方のエンドのところに、今度は市場性の問題というのがあって、読者の獲得とか教養教育というのは多分そこの話だと思うんです。「興味のないところにお金をつけるのか」と、必ず金を払う側からは言われてしまうので、それはそうではなくて、間接的かもしれないけど非常に重要であるということを常に常にアピールしていかなくちゃいけない分野かと思うんです。そこで、「大学等」という、この「等」がまた役所言葉なので、多分この「等」の中に微妙なものが含まれているのかもしれないんですけど、どう考えても、日本語のマーケットを考える限りは、若い人よりは圧倒的にシニアのほうが数が多くなっていますし、また、若い人が求めている教養とシニアが求めている教養というのはかなり違うマーケットが存在していると思うんですね。年をとってくると、大体人間の発想って基本的なことに回帰するので、若いころばりばりの計量だった方々も、年をとって歴史に回帰していく世界ってあるので、そういうニーズというのは非常に実はあって、そこに橋渡しをする、亀山先生のお話でも出ていたと思うんですけれども、そのときはたまたま出版社の方がプロデューサーの役をされていたということですが、そのプロデューサー自体を育成することも、人文には非常に役に立つと思うんです。だから、自分は人文の研究者ではなくても、目ききとして社会にアピールしていくような人たち。絵画とかだとキュレーターとか画廊とか、ああいう人たちがいるんだろうと思いますけれども、多分小説とか、人文的な研究の中にも、一般化して社会の中によりブリッジしていくようなタイプの人たちというのを育成することも、重要性を直接にアピールするという意味ではいいんじゃないかと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。非常に同感するところが多いです。どうぞ。

【西山委員】
 評価ということが一つ話題として出ておりましたので、何点か申し上げたいと思います。
 評価ということについてこの提言をしたときに、だれに評価されるかということを考えなくちゃいけないわけですね。要するに、評価者に評価されなければ振興はできにくい。自分たちのコミュニティーの中で振興していくということもできると思うのですが、振興するための仕組みや環境や体制が必要であり、お金もかかるというようなことからすると、評価者が評価ができるようなアウトプットにならないと振興されないということになりますから、そういう意味で評価をされるようなことをはっきり意識して、施策を出していくということが大事だと思います。
 そういうことに関連して、先ほどもご意見がございましたように、人が人を評価するというのは極めて困難であるということは私も重々承知しております。私は長年企業にいましたから、評価される立場も経験しておりますし、評価したこともあります。企業の場合、人事部というのは、非常に細かく定量的に評価するように評価表をつくってくるんですね。おそらく、国もある程度そういうことはあろうかと思います。わかりやすいから。じゃあ、実際に現場でどういう評価をしているかというと、結局人が人を評価するわけですから、とてつもない巨大な成果を出した人はだれでも評価しやすくて、これは自他ともに明快ですけど、私は研究分野でしたから、そんなことがしょっちゅうあるなんていうことは、はっきり言ってありません。そうすると、大多数は似たような状態の中で、評価をするということなんですね。どうするかというと、いろいろな評価アイテムがあるけれども、結局経験に基づいて総合的な判断で、その人を先にAならA、BならBと決めちゃってから、人事部の評価表にアイテム毎の個別の点を書きます。逆なんですね。個別のアイテムを足して定量的に評価しろというのが人事部なんだけれども、実際に現場ではその人を評価しちゃってから個別の点を後からつける。これが実態です。企業ですらこうなのです。ですから、そんなに簡単に点数をつけて、「総合点がこうだったからその人の評価はA」なんていうことは、企業でも実際には起こっておりませんね。また、そんなことをしたら全然だめなんですよ。
 人が人を評価するということについて、成果主義だと言いながら、企業ですらそうなっています。
 ということは、要するにどういうことかというと、人が人を評価することは困難であることは確かだけれども、評価ということから逃げてはいけない。人文学のコミュニティーでも評価をするんだという姿勢を堅持しないと、人文学の振興はできないという立場が必要です。いろいろなことがあって、人が人を評価するということが難しいことはわかっているけれども、それなりの人が評価することを認める。多元的な、多様な評価の仕組みがあるんだということの中で人を評価することに対処するというようなことを打ち出さないといけない。評価者がこの世界は個人的なことだからいろいろ評価されたくないということでやっているんだねと思ってしまうと、人文学に関わる仕組みや環境やそういうところに、競争力が生まれないように思います。
 私は企業人ですけれども、企業の中でも特に研究所、科学技術の世界に長くおりました。その経験からすると、科学技術、自然科学は定量的に評価できるというのはまるで異なり、結局、総合的な判断で人を評価しています。ですから、人文学でできないことはないと思います。
 結局、知の巨人がいるというのは、評価された結果が知の巨人です。だれかから評価をされているわけだと思います。ここにおられる方だって何らかの形で評価された結果がこうなっているわけだと思います。何も評価がないということはあり得ないんです。それがあるのだから、逃げないで、評価者ということを意識して施策を明快に打ち出していくということが、人文学を振興する一つの重要なポイントだと思います。今、それから逃げちゃうと、結局評価者がわからないからそんなに振興はされないと思います。ですから、私は評価についてはその施策を明快に打ち出したほうがいいという意見です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。飯吉先生、何か評価を含めて、振興についてお話しいただければと思いますが。

【飯吉委員】
 私もきょうは久しぶりに出てきました。そろそろ報告をということなので、私はサイエンティストの立場で、この報告書がどういうふうにまとめられるのかなと関心を持って出てまいりましたけど、要するに、今、自然科学もあまりにも専門化が進んで、全体が見えなくなっているという状況なんですね。ほかの学問はどうだか知りませんが。そういうことは、全体性というんでしょうか、総合性というのは非常に大事で、その辺のところはむしろ人文学に期待するところが大きいんですよ。哲学的な視点というか、全体を高いところから見るというようなことは、自然科学でも今、求められています。ですから、そういうことが人文科学の中でもヒントが得られるかなと思っております。
 それからもう一つは、最近はライフサイエンスが出てまいりました。これは生命、命、人間という、そこはまさに研究の対象になりますから、これもきっと、人文学と切っても切れない学問として登場してきていると思うんですね。ですから、そういうことに対しても、人文学から何かヒントというか、サジェスチョンなりメッセージがあるといいなと思います。
 それから最後に、教養との関係かもしれませんが、グローバルな社会にどうやって生きていくか。これからの若い人たちがどうやって生きていけばいいのかということに対するメッセージか何か出てくるといいなと。そのときに、日本人というのは昔から、西洋人と違って自然というものを客観的に見るんじゃなくて、自然の中から自然を見る、その辺のところは人文学も同じだと思うんですね。ですから自然と、それからサステナビリティー、21世紀をどうやって持続可能にしていくかというところも、これはまさにサイエンスもそれを要求されていますし、人文科学にもそれは求められていることじゃないか。
 そういうふうなことは、もちろん難しい問題ですが、そういうものに対して人文学がこれからどういう取り組みをしようとしているかということが、少しどこかにちりばめられていると、私ども自然科学者がこれを見るときにいろいろなヒントが得られるんじゃないかと思って、ちょっとすみません、普段あまり出ておりませんで、すでに話をされたのだと思いますけれども、そういうことだけちょっと申し上げました。

【伊井主査】
 ありがとうございました。全員の方にご発言いただいて、ほんとうにありがたく思います。基本的に、きょうまとめてお渡ししたものにつきましては、お認めいただいたものだと思っておりますが、あと、第4章のところで、教養だとか総合の問題だとか読者の問題だとかというようなことをいろいろご発言いただきました。これを含めまして、さらに具体的な施策というものがございましたら、メール等でもお知らせいただければありがたく思っております。これを修正しました上で、改めて次回御意見をいただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 それでは本日の会議はこのあたりで終わらせていただきます。
 次回の予定等につきまして、事務局からお願いをいたします。

【高橋人文社会専門官】
 次回の日程でございますけれども、資料3の1枚紙でございますが、8月22日(金曜日)15時から17時、場所は金融庁共用第1特別会議室でございます。前回の会場の一つ上の階ということになります。
 あと、本日ご用意させていただきました資料につきましては、封筒に入れて机の上に置いていただければ郵送させていただきます。ドッジファイルはそのまま置いておいていただければと思います。以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。ほんとうに暑いところありがとうございます。これで終了することにいたします。どうもご苦労さまでした。

-了-

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研究振興局振興企画課学術企画室

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