学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第10回) 議事録

1.日時

平成20年3月6日(木曜日) 16時~18時

2.場所

文部科学省 3F1特別会議

3.出席者

委員

 伊井主査、立本主査代理、井上孝美委員、白井委員、中西委員、西山委員、飯吉委員、井上明久委員、伊丹委員、猪口委員、今田委員、岩崎委員、小林委員、谷岡委員、藤崎委員

文部科学省

 徳永研究振興局長、藤木大臣官房審議官(研究振興局担当)、伊藤振興企画課長、森学術機関課長、磯谷学術研究助成課長、戸渡政策課長、江崎科学技術・学術政策局企画官、後藤主任学術調査官、門岡学術企画室長、高橋人文社会専門官 他関係官

オブザーバー

(科学官)
 辻中科学官
(外部有識者)
 鷲田 清一大阪大学総長

4.議事録

【伊井主査】
 それでは、定刻時間になりましたので、ただいまから始めさせていただきます。
 本日は大阪大学総長の鷲田清一先生にお越しいただいておりまして、鷲田先生には年度末のほんとにお忙しいところ、ご出席いただきまして、ほんとにありがとうございます。御礼を申し上げます。
 まず、本日の配付資料の確認をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 配付資料につきましては、お手元の配付資料一覧のとおり配付させていただいております。議事次第の2枚目でございます。欠落などございましたら、お知らせいただければと思います。また、ドッジファイルにつきましても、いつもの基礎資料ということでご用意させていただいておりますので、ご参照いただければと思います。
 それから、今回資料2といたしまして、人文学の関係の審議に入りましてから2回ほどヒアリングということでヒアリングを中心に審議をいただきましたので、その部分を主な意見ということで資料2としてまとめさせていただいております。こちらは、毎回ブラッシュアップをしてまいりたいと思います。また、項目なども逐次変わっていくことになりますので、よろしくお願いいたします。資料2の資料につきましては、またある一定の段階になったところでご議論をいただくことになるのではないかと考えております。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 資料2は、今も説明がございましたように、昨年は社会科学の研究のあり方としてまとめたものですが、また、人文学も体系化しながらまとめていきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 これから議事に入ります。
 現在、この委員会では毎回私、申し上げているところですけれども、人文学の3つの審議事項についてご議論いただいているところです。第1の審議事項としましては、人文学及び社会科学の学問的特性についてということでありまして、研究方法に着目しながら実証的な社会科学及び人文学の振興についてと、第2の審議事項は、人文学及び社会科学の社会との関係についてということで、人文学等の社会的意義や研究成果の社会的還元のあり方ということです。また、第3の審議事項としましては、学問的特性と社会との関係を踏まえた人文学及び社会科学の振興方策について、具体的な施策について等を審議しているところです。
 このような観点から、これまで2回、哲史文と、きょうは哲学でございますけども、人文学に関し、我が国を代表するご高名な研究者の方々にこの委員会にお越しいただきまして、人文学の研究につきましてご高説を賜っているところでございます。委員会として、議論のための共通の基盤を形成する努力をここで行って、先ほどの資料2のようなところでまとめていくというわけです。
 そういうことで、前々回は東京大学名誉教授の樺山紘一先生にお越しいただきまして、「人文学の目指すもの」と題しましてご意見を賜った次第でした。
 また、前回は東京外国語大学長の亀山郁夫先生にお越しいただきまして、「グローバル化時代おける文学の再発見と教養教育」ということでご発表いただきました。
 本日の鷲田先生のお話をお聞きする前に振り返ってみることにいたしますが、樺山先生からは、人文学を理解するためのキー概念と申しましょうか、それには「精神価値」、「歴史時間」、「言語表現」という3つの概念をご提示していただいたわけでございました。また、人文学の機能として、「教養教育」、「社会的貢献」、「理論的統合」という3つの機能があることのご指摘をいただきました。そして、このようなご意見を前提として、人文学とは「世界の知的領有と知識についてのメタ知識」であるというようなご意見であったかと思います。
 それで、その後、前回の亀山先生でありますけれども、「文学研究」というのは「研究者個人の精緻な読解力」、「イマジネーション」、そして、「人間そのものへの洞察力」を通じた「人間の多様性の解明」であるというようなことをご指摘なさいました。また、その際、インターネット上の圧倒的な言語の力、すなわち、グローバリゼーションの力を前にして、ポスト構造主義の批評理論のような精緻な方法の限界を示していただきながら、研究者個人の体験と想像力を文学作品、しかも、古典を通じて普遍化していくという、いわば極めて伝統的な手法でもあるわけでありますけれども、その方法の重要性をご指摘いただいたというふうに理解をしております。
 また、文学研究の社会的有効性という観点からは、3つご指摘なさったかと思います。第1は、極めて個人的な営みである文学、あるいは、文学研究がどれだけ普遍性を有するかということを判断する基準としては、読者の獲得という視点が必要であるということであったかと思います。読者というのはいわば教養教育を受けた人間の数を意味しているということです。
 第2は、そのような教養、あるいは、教養教育とは、世代間のコミュニケーション及び共時的なコミュニケーションという観点から、ある種の共通のコミュニケーションの道具、すなわち、共通規範であるということでありました。
 第3は、このような社会的な機能を有している教養教育の充実のためには、教養知と最先端研究の結合という観点から、共通規範である古典研究への集中的な知の投資、そして、それが文学の国民への還元という観点から、翻訳や出版に対する支援策が求められるとのご意見をいただいたわけでございました。前回も出版の助成というようなことも話題になったかと思います。
 そういう流れを受けまして、本日は、哲学を中心にご審議いただくわけでして、これで一応哲史文という旧来の人文学の伝統的な学問についてご意見を賜ることになるわけですが、鷲田清一先生からは、「『哲学』の現在」と題しました発表をいただきます。
 ご存じだと思いますが、鷲田先生は哲学、倫理学がご専門でありますが、これまで現象学の視点から、身体、他者、顔、規範、所有、モード、老い、国家などについて多面的に論じられてきておりまして、そういう視点から美術だとかファッション批評など、幅広くご活躍なさっているところでございます。
 近年では哲学的思考をケアや教育などの社会のさまざまな現場につなげる「臨床哲学」というプロジェクトで盛んに活躍なさって、オピニオンリーダーとしてもご意見をいただいているところでございます。
 本日は30分程度お話をいただきまして、少し伸びても構いませんけれども、また、前回、前々回同様に活発なご意見を賜ればと思っております。
 それでは、鷲田先生、よろしくお願いをいたします。

【鷲田大阪大学総長】
 どうも皆さん、こんにちは。
 本日は哲学の立場から人文学、科学の振興についてお話しさせていただく機会をちょうだいいたしまして、まずは深く御礼申し上げます。
 ただいまご紹介いただきましたように、私は現象学を出発点として、さまざまな哲学の仕事をしてまいりました。
 前回はロシア文学のほうからご発言があったと伺っておりますけれども、文学研究と哲学研究には一つとてもおもしろい共通点がございまして、それは何かといいますと、あなたの専門は何ですかと聞かれたときに、固有名詞で答えてよいという奇妙な学問でございます。経済学であっても社会学であっても、あるいは、理工系の学問であっても、あなたの専攻は何ですかと聞かれたときに、本居宣長ですとか夏目漱石ですとか、答えるということは普通考えられない。同じように、私の場合でしたら、あなたの専門はと聞かれたら、若い、40代ぐらいまではフッサールですというふうに答えておりました。あるいは、メルロー=ポンティですと答えておりました。前回はドストエフスキーのご専門の方がここで発表されました。
 この固有名詞で一人の人間を自分の専門とするというのは、実は非常に気持ちをくすぐられるような甘美なところもございますが、同時に、日本の文学研究というか、特に哲学研究、思想研究のあり方のいびつさを示すところでもございます。まずは、そのあたりからお話しさせていただきたいと思うんですが。
 まず、お断りしておかなければなりませんのは、もう一点、本日は人文学の本道ということで、パワーポイントは用意させていただいておりません。本来はこういうレジュメもつくらないのが哲学する者の発言の常なんですけれども、出任せを言っているのではないということをご承知おきいただけますように、一応レジュメのほうはつくりましたので、1つの黒丸ごとに5分ぐらいずつお話しさせていただこうかと思っております。
 それで、まず、哲学が一体世間でどういう風評を得ているかということですが、哲学というのは、あるときにはものすごく高く持ち上げられ、あるきとには侮蔑の対象となる、あるいは、皮肉の対象となるようなものでございまして、持ち上げられるときは学問の女王といふうにかつては言われました。20世紀では、後ほども申し上げますが、最も基礎的な学問中の学問、基礎学という言い方をされました。
 ところが、他方では、何か浮世離れしたところに生息していて、そして、霞を食って生きてるような、そういう虚なる研究生活を送っている、何の役にも立たない、虚学中の虚学、理屈だけの学問であるという、少しというか相当評判が低うございます。
 まず、学問の女王というときに、衆目が一致しているのか、あるいは、哲学者が偉そうに言っているのかは別にしまして、やはり哲学というのはあらゆる学問の基礎を考究するという、そういう考えで多くの哲学者は仕事をしております。
 諸学、その一つの例えば物理学であれば、物理学における物質という概念であるとか、あるいは、運動という概念であるとか、1という概念であるとか、そういう非常に根本的な概念そのものを論じる。あるいは、また、医学においては医学の根本にある、そもそも病とは何であるか、あるいは、正常と異常というときの異常というのは一体どういうことなのかということを考えたり、あるいは、精神医学なんかの場合でしたら、そもそも治すということが一体どういうことを意味するのかということですね、そういうことを考える。あるいは、前々回報告がありました歴史学に関しましては、そもそも歴史学の対象というのは不在のものです。現在ないものについて語る学問ですが、そもそも不在のものについて科学的研究があり得る、あるいは、語りということがそもそもあり得ることは一体どういう根拠に基づいてであるかというようなことを考える。
 要するに、一般に知が単なる知識、ナレッジというものが単なるオピニオンでない、独断的な、あるいは、主観的な思いなしではない、サイエンスであり得るということのその根拠というのは一体どこにあるのかということを考えるのが哲学である。したがって、あらゆる学問の基礎にかかわる。科学が科学で、諸学が学であり得る、その根本にかかわるような議論を行うのが哲学だという、そういう考え方が一方にありました。
 したがって、そういう考え方の中では、あらゆる科学者は同時に哲学者でなければならない。つまり、自分の学問の可能性、根拠ということを考え詰めていったら、どうしても哲学の問題に突き当たるんだと、そういう考え方でございます。
 それに対して、もう一方の評価はこれとは正反対で、要するに、虚学中の虚学、うつろな学であるという評価でございます。これはもちろん言うまでもなく、実学に対して虚学というふうに言われておりますが、要するに、実学というのは最近は少し狭い意味で、何か役に立つ応用的学問のような言われ方をしますが、本来、実学、虚学というのは明治の初期ではこういう区別がされておりました。つまり、虚学というのは役に立たない学問という意味じゃなしに、机上でなされる学問、つまりペーパーだけの学問である。それに対して、実学というのは、同時代の社会や文明が抱え込んでいるさまざまな現実の問題にきちっと取り組んでいく学問であるという、そういう意味で本来実学ということが言われたので、哲学が虚学中の虚学というときには、そういう現実的な社会問題というのは形而下の問題であって、哲学者がかかわるものではないというようなおごりがおそらく哲学者のほうにどこかあって、虚学と言われても恥じるところがなかったという、哲学者の傲慢さをよくあらわすのがこういう面ではないかと思います。
 ただし、私自身もかかわりましたけれども、例えば日本の論壇あるいは論説というものを考えましたときに、例えば1990年代あたりから論壇の様子というのが随分変わりました。それまで、戦後の日本の論壇というのは政治学者、経済学者が中心になって論じるもの、つまり、現実の問題をしっかり分析し、また、その解決の提言をするためには、まずは政治的な事柄、経済的な事柄という社会のベースになるものをしっかりつかんでおかなければならないというような考え方で長らく論壇雑誌、例えば、『思想』に代表されるような、あるいは、『世界』に代表されるような論壇雑誌というのは政治学者、経済学者が常に論陣を張るという形でございましたが、1990年代から、例えばある年は一番論壇誌で執筆回数が多い、そういう人はだれかという統計がありまして、今は亡き河合隼雄先生、臨床心理学者が論壇誌で一番執筆の頻度が高いというような時代がやってきました。
 論壇誌に限らず、新聞の文芸時評ではなくて論壇時評というのも科学哲学者が担当したり、あるいは、文芸批評家が担当したり、私のような哲学者が担当したりという、それまで考えられなかったような顔ぶれが連載するというようなことも起こってまいりました。
 その背景にありますのは、やはり論壇誌のテーマ自体が、つまり特集で組まれるテーマ自体が大きく変わってきたということが顕著に見られます。例えば、環境危機の問題であるとか、生命操作の是非という問題であるとか、最近では医療崩壊、あるいは、介護問題、あるいは、教育の崩壊、危機、あるいは、カルト宗教の問題、あるいは、ITインターネットの文明的な意味という問題、あるいは、家族とコミュニティの空洞化という問題、さらには、性差別という問題、マイノリティの権利という問題、こういうような問題が90年代からは20年余り、論壇誌で毎号、どこかで特集を組むというようなことが起こってきました。
 これは言ってみれば、これらの問題というのは、つまり、環境の問題、生命の問題、病の問題、老いの問題、教育の問題、家族の問題、性や障害の問題、こういう問題というのは、単に今抱えている問題は制度改革という形で対処し得るものではなくて、むしろそういう事柄についての私たちのこれまでの考え方そのもの、つまりフィロソフィーそのものを根元から洗い直すことが求められているという、そういうたぐいの問題であると思います。そういう意味で、テーマごとに、例えば臨床心理の方が、あるいは、宗教学者が、あるいは、ケア関係の研究者が発言するということが非常に増えてきたわけでございます。
 今、要するに、環境であれ生命であれ、病、老いであれ、それについての私たちのこれまでの考え方、つまりフィロソフィーそのものをその根元から洗い直す必要が生まれてきている、そういう段階に私たちの文明が改めて来ているということを申しました。そのフィロソフィーが本日、提題させていただく哲学ということでございます。
 ところが、この哲学というのが、哲学を生んだヨーロッパ、フィロソフィーというカルチャーを生んだヨーロッパと、それから、日本でいう翻訳語である「哲学」というものが私たちに思い起こさせるイメージというものが相当落差がございます。
 それについて、この2つの誤解ということで申し上げますと、まず、日本において哲学は難しい、これはヨーロッパでも、哲学を生んだヨーロッパでも哲学というのは難しいというイメージがあるんですが、その哲学が難しいというときの難しさが違う。
 まず、1つは、哲学の言葉は難しい。つまり、まず哲学の本を開いたときに、知らない漢語がずらっとまるでお経のように並んでいて、ここに書かれてあることと自分の人生とが一体どこでクロスするのかがわからないというような印象を与えてしまうというところがございます。
 例えば簡単な例を挙げますと、日本語で「存在」であるとか「無」であるとか「生成」という言葉を頻発しますと、ああ、あの人は哲学っぽいええ話をするなという印象を与えます。「存在」こそこのごろ一般的な名刺になってまいりましたけど、「生成」という言葉とか「無」という言葉はやはり哲学愛好者しか使わないようなイメージがあります。
 ところが、「存在」、「存在」か「有」かという、ここでもうそもそも議論があるんですが、「存在」、「無」、「生成」というのは英語ではビーイング、ナッシング、ビカミングという言葉でございます。ドイツ語ではザイン、ニヒツ、ヴェアデンという言葉でございますが、要するに、あること、ないこと、なることという、こんな簡単な言葉でございます。それが、日本語の場合には、突然、「存在」、「無」、「生成」というふうになってしまいます。
 もちろん、これは正確に翻訳しようとしてビーイングやビカミングの言葉のニュアンスを伝えようとしたときに、翻訳しようとしたときに、ぴたりと日本語で重なる言葉がないから、正確を期して新しい造語で訳したという事情もありますが、例えばヘーゲルという、日本では超難解な哲学者と言われている人の『ローギク』という、『論理学』という本がございますが、例えばこれの最初の序論の表題は、「アンファンク」という、英語でいうビギニングという言葉でございます。ところが、これは岩波の全集でも「始元」と訳されております。始まる、それから、元、元年の元ですね。
 「始元」とか、哲学者ってすごいことから論じるんだなって思うんですけれども、英語ではビギニングなんです。そこで書かれていることは、学問というのは一体何から始めたらいいのか、どの問題から取りかかったらいいのか、あるものについて語ることから始めたらいいのか、あるいは、「無」から始めたらいいのかとかいうふうに、何から考え始めるかという問題。だから、始まりでいいんです、思考の始まりという、考えることの開始という意味なんですが、それが日本では「始元」という言葉になってしまうわけです。
 だから、そういう意味では、まず翻訳、言葉というものが日常の哲学への日常的な接近というものを拒んでいるという面がございます。
 ところが、ヨーロッパの人にとっても実は哲学は難しいんです。ビーイングやナッシング、ビカミングという言葉で書かれていても難しい。それはなぜかといいますと、これはヨーロッパの哲学というのが日常みんなが使っている言葉、自分という、私という言葉でもいいし、自然という言葉でもいいんですが、そういうものは日常的に非常に多義的で意味の含みが多いものですから、そういうものをもう一度きちっと再定義して、この言葉は、例えば自我という、私という言葉はこういうふうに使うというふうに再定義して、そして、日常の私たちが使っている言葉に含まれる論理、ロゴスをきっちりたどっていくという、そういう作業をやる。つまり、日常言語の自己批判をやるわけですね。
 そうすると、ふだん何気なく使っている言葉を一々定義に戻って、こういう意味でこれは使うというふうに絶えずルールを思い浮かべながら思考しなければならない。そのためにものすごい注意と根気が必要なので、その執拗な議論についていくのがしんどいという、そういう難しさだということなんです。
 そこがまず一つ、哲学を生んだヨーロッパと日本における哲学という言葉とのイメージの違いがあります。
 それから、2番目に、哲学はテーマが浮世離れしているという、そういう誤解がございます。哲学というと認識論、存在論、あるいは、形而上学、そういうような、実在論とか、そういう難しいテーマがずっとあって、難しいなという、浮世離れした、つまりそんなこと知らなくても生きていけるようなテーマについてみんな哲学者は考えているんだなというイメージがあります。
 ところが、ヨーロッパの哲学は実は我々が想像しているよりはるかに社会的思考が強いものです。例えば、古代ギリシャ哲学でよく論じられるのは、よさ、何かがよいというときのよいってどういう意味だろう、あるいは、正しさってどういうことなんだろう、美しさってどういうことなんだろう。あるいはまた、友情とは何だろう、教育とは何だろう、政治とは何だろう、こういうテーマがソクラテスをはじめ古代ギリシャでは非常に進んで取り上げられましたし、ヨーロッパの近代哲学では自由、権利、法、統治、ガバナンスですね、こういう概念が非常によく論じられました。
 したがいまして、例えば古い順番に言いまして、例えばイギリスのジョン・ロックは日本では“An Essay concerning Human Understanding”、『人間知性論』を書いた人として有名なんですが、実は彼の主張はもう一つあって、『市民政府論』という本なんですね。あるいは、ヒュームというと日本では“A Treatise of Human Nature”、『人間本性論』という人間本性についての本で有名なんですが、彼はもう一つ、別の主著は、イングランド史の歴史の本です。あるいは、カント、これはもう『純粋理性批判』、カントといえば『純粋理性批判』という理性の権能について論じた人と思われますが、カントは同じぐらいのエネルギーをかけて、倫理とか法とか、あるいは、永遠、永久平和、平和について論じました。ヘーゲルは精神について論じた人として『精神現象学』が主著とされますが、彼は法哲学、あるいは、歴史哲学の著者でもありました。
 現代でも、例えばハーバーマス、あるいは、チョムスキー、あるいは、デリダ、テイラー、それぞれドイツの人、アメリカの人、フランスの人、カナダの人ですが、彼らはもちろん理論的な著作も書いていますが、政治的な発言を非常に多くする人であり、また、初等教育のあり方について非常に深くコミットした人たちでした。
 そういう意味で、哲学というのは決してテーマが浮世離れしているわけではない。ただ、日本の場合、それがいわゆる存在の問題とか認識の問題とか実在の問題というふうに、ある種ヨーロッパの哲学のテーマの中の一部が非常に拡大視されてきたというところがあるというバイアスがかかっているということでございます。
 そこで、次に、哲学ってそもそもどういう作業をするのか、どういう営みなのかということについて述べます。これまでは哲学者が外からどういうふうに理解されているか、どんなイメージでとらえられているかということをお話ししましたが、今度は哲学者自身が、哲学という営みをどういうものとしてとらえているかということについて考えてみたいのですが、これがまた実は2つに対立する2つのとらえ方に引き裂かれているという面がございます。
 それは、ここに書きましたように、基礎学なのか、教養なのか。ドイツ語でいいますと、Grundwissenschaft、最も基礎にある科学、サイエンスなのか、それとも、英語でいうカルチャー、つまりBildung、教養なのかという対立でございます。
 この20世紀の100年、特に哲学の100年を見たときには、この基礎学か教養かという哲学者の自己主張が極端にまで対立した時代であろうと思われます。
 20世紀の最初の四半世紀というのは、日本でも哲学が入ってきたときに、「純哲」という訳し方をしたように、純粋哲学こそほんとうの哲学だというイメージがございました。これは、哲学は純粋であるからこそほんとうの意味のサイエンスなのだ、哲学は決して政治的な利害関係とかいろんな思考習慣とか常識とか、そういうものに惑わされないで、それから切れて、ロゴスに従ってただただ論理的にのみ思考する、そういう意味でピュアなものだというイメージが一方にありました。
 これは単に哲学だけじゃなしに、科学が科学である根拠は一体何かということについて研ぎ澄ました学者は、経済学だったらシュンペーターのように純粋経済学、あるいは、法学でしたら、ハンス・ケルゼンのように純粋法学ですね。法を基礎づけるものは法だけであって、政治でもなければ利害関係でもないという、論理学において論理を基礎づけるものは論理でしかないのと同じように、純粋法学は法という規範を基礎づけるものは法という規範でしかないという、そういうピューリズムの立場に立ちました。純粋数学という学問もあります。私はよく中身はわかりませんが。
 それ以外に、今度は芸術の分野でも、純粋小説、純粋詩、純粋音楽、純粋造形、純粋映画、純粋演劇というふうに、要するに、芸術が実現する価値の世界は、美という価値、あるいは、調和という価値という、その美的価値だけで成り立っているものであって、それ以外の、この絵はあの人にそっくりだとか、そういうようなところで芸術作品が成り立つんじゃないというピューリズムというのがずっと一方で主張されたわけです。ところが、他方で、20世紀の哲学の趨勢はそういうピューリズムという、純粋哲学、純哲というものがほんとに成り立つんだろうか。むしろそれへの疑いというものをより濃くしていくという形で、20世紀の哲学は進行していきました。
 それは、20世紀の哲学のキーワードを幾つかお示ししただけでもイメージしていただけるかと思いますが、例えば、言語ゲームであるとか、コミュニケーション行為であるとか、構造であるとか、パラダイムであるとか、あるいは、生活世界であるとか、神話作用であるとか、こういう20世紀のいろんな哲学の流派のキーワードとなるべき概念というのが、今言ったようなものがございますが、これらの共通点は何かというと、知識、あるいは、知そのものですね、知というものを媒介しているもの、社会的に、あるいは、歴史的に媒介しているものへの反省というものを前面に出しているということです。
 知というのは、我々の知識というのはゼロから始まるのではなく、歴史的、あるいは、社会的な制約を受けつつ、それらのある歴史的な枠組みの中で、歴史を背負いながら生まれてくるのだ、だから、時代、時代によって哲学の問題、あるいは、一般に科学の問題にも歴史的なステージというものがあって、そういう場というものがあって、その場、歴史的な議論の場というものを研究する必要があるんだ。そういう意味で、哲学、あるいは、科学というのはほんとうの意味で完全にピュアなものではあり得ない時代性、歴史性というものを背負っているという考え方ですね。
 そういうものが前面に出てきて、この基礎学という考え方、哲学は基礎学であるという考え方というのは大きく揺らいできたということが言えるかと思います。これは哲学にとってかなりゆゆしきことでございまして、哲学がプロ中のプロだと自負していたその根拠が揺らいでいったということでございます。
 ところが、他方で、哲学は基礎学、学問中の学問ではなくて、実はあらゆる学問の中で一番学問のコアから外れているものだという考え方がございます。言いかえますと、アマチュア性がある。一番アマチュア性があるものだ。それが哲学というのは一つの教養だという考え方でございます。
 言葉もそうです。私はアマチュア性が高いということを言いましたけれども、多くの方が例えば経営の哲学とか料理の哲学、そば打ちの哲学とかおっしゃるときっていうのは、その哲学の名前にはアマチュア性がつきまといますけれども、よく考えれば、アマチュアというのは愛している人ということです、ラバーということですね。哲学の定義、フィロソフィーも知を愛する、愛知という、知を愛するということですから、そういう意味では、哲学という学問自体が最初からアマチュア性というのを持っていたと言えるわけです。
 これは教養という言葉、これをどういうふうに定義づけるかというのは難しいんですが、要するに、私は例えばこういう言い方ができると思う。例えば、価値の遠近法をわきまえているということ。つまり、いろんな価値に関して、なくてはならないものと、あってもいいけどなくてもいいものと、端的になくていいもの、最後に、あってはならないもの、こういうような価値の遠近法、何がほんとに大事なのかということをわきまえていることというような形で、例えばですが、教養ということを定義できるのではないかというふうに思います。
 そういう意味で、広い視野を持った、そして、深い配慮というものを背後にたたえた、そういう価値の遠近法ということをわきまえていること、ほんとうに大事なことをわきまえているという意味での教養というような、それがフィロソフィーがあるということなんだという考え方が一方にありまして、こういう対立が哲学者自身からも言われております。
 そこで、次に、先に申し上げたその基礎学という哲学の自己規定が成り立たないということになれば、哲学の専門性についてどう考えればいいのかということ、それから、また、もう一つ、教養という自己規定をするならば、哲学はもはやアカデミックな学問でなくなるのかということ、そういう問題が出てくるわけです。
 これは、哲学者というのがそもそも大学の中でどんな場所にあるべきものなのかという問いに直結してくる非常に難儀な問題でございます。
 そういう意味では、まず、哲学というのがあらゆる学問にかかわるという意味でも、それから、もう一つ、教養という単なる専門の学問を越えた一つの思考のより広い能力を指しているという意味でも、いずれにしてもその今の日本の哲学研究というのは、そういう本来の哲学のあり方とは随分ずれているような感じがする、それがさっき最初に申しました、あなたの専門は何ですかと言われたときに、プラトンですとかフッサールですと言って、それでちゃんと通用してきたことの怪しさということなんです。
 というのは、例えば哲学も日本のアカデミズムの中では、本来、哲学というのはあらゆる学問の基礎であるものだと言いながら、実際には哲学も他の学問と同じようにものすごく先鋭的に専門化してきたわけです。現に私は先ほど言いましたように、あなたの専門は何ですかと問われると、20世紀のドイツ、フランスで研究された現象学という非常に狭いものを私は専門としていると答えてきました。そして、例えば古代哲学をやっている、私ももちろんそれこそ教養として古代哲学も読んで学びましたけれども、そういうプラトンの専門家の前に行くと偉そうなことを言うのはためらわれて、私は専門でありませんからと言って、ものすごく遠慮してしまうんですね。ましてや、哲学者だったらほんとうは西洋の哲学だけじゃなしに、まず自分の足元、つまり日本のこれまでの思想史、あるいは、東洋の思想史をわきまえていなければならないのに、そんなもの、私なんか口チャックしております。インド哲学、中国哲学、そんなの高校で習っただけで、それについて軽はずみなこと絶対言えません。あるいは、日本の本居宣長にしたって、あるいは、親鸞の思想についても、ほんとうにそれこそ教養程度しか知りませんから、学会では絶対発言しないです。
 これはやはり基礎学であるにしたって、教養であるにしたって、いずれにしても、そのどちらの哲学にもふさわしくない、単なるサイエンス、ワン・オブ・ザ・サイエンシーズですね、単なる専門化している近代科学の一つに過ぎない。そんな場所に自分をとじ込めているという非常に奇妙な感じがいたします。
 それから、もう一点、哲学というのはいろんな社会的なディスクール、言説というものが生成する、その場所にかかわるものです。それこそ近代の哲学者だったら自由という思想、あるいは、概念、あるいは、法という概念、権利という概念、そういうものをつくり、また、そういうものが社会の中で生成してくる現場で発言し続けてきたわけです。
 実際、ヨーロッパの哲学者たちというのは、そういう概念が社会的に生成する現場に非常に深くコミットしてきました。例えば、ジャーナリズム、これもある社会的なオピニオンとか概念が生成する場所ですが、そういうものに非常に深くコミットする。あるいは、そういうものを教育する場としての初等教育、中等教育、こういうものに哲学者が非常に深くコミットします。
 例えば、先ほどもちらっと名前を挙げましたハーバーマスとそのお弟子さんたちというのは、実はドイツにおける初等教育のカリキュラムの形成に対して非常に深くコミットし発言しております。そういうことが一つあります。
 それから、また、哲学を生んだヨーロッパでは、ドイツ、フランスを中心に、あるいは、イギリスもそうですが、中等教育、高等学校の中に哲学の授業というのが深く組み入れられておりまして、フランスなんかでは、日本でいう高校3年生に週8時間の哲学の授業がございます。フランス語の授業よりも英語の授業よりも数学の授業よりも、哲学の授業が多い。厳密にいいますと、文系の大学に進む学生には週8時間の必修科目、それから、理系の大学に進む者には週3時間の必修の哲学の授業がございまして、80年代、フランスは政府が必修化を外す、選択科目にするという政策を決めましたときに、哲学者及び市民が猛烈な反対運動を起こしまして、それを取り消させたということがございます。それほど、市民は中等教育における哲学の重要性というのを強く言っております。
 それから、もう一つ、フランスなんかでは上級公務員を育成する専門職大学院などでは、哲学の論文を書くことが修了の要件になっております。これもどうしてといって聞きましたら、もうものすごく当たり前過ぎる答えが返ってきたんですが、行政にかかわる人というのは一人でもこの国の、この社会の人が一人でも多く幸福になるということ、そのために働く人でしょう、その人が幸福とは何かということについて一度も考えたことない、あるいは、幸福の概念についてきっちり吟味したことなしに行政の仕事にかかわるというのはとても危険なことじゃないですかと言われて、だから、幸福とは何かということを考える哲学を勉強するのは当たり前じゃないですかと言われて、あまりにも明快な回答でびっくりしたことがございます。
 そういうふうに考えてくると、確かに日本の哲学の教育というのは研究者養成、つまり、哲学の思想史研究としての哲学の専門家を養成するというところにすごく偏極しておりまして、それが偏重されておりまして、いわゆる社会の中の哲学的思考というものをどういうふうに育んでいくかというような関心が日本の哲学教育においてはきわめて少ないということが言えると思います。
 それで、先ほど言いましたように、私たちというか日本での、特に哲学科という、文学部哲学科の大学院生というのは、みんなそれぞれ私の専門はだれだれですという固有名詞で呼ぶような、ある哲学者の思想の文献学的研究に入り、そして、それを思想史の脈絡の中にどう位置づけるかということに腐心してきた。そして、その人の書き物の解釈を更新していくことにもうすべてのエネルギーをかけてきたということが言えるわけです。
 ここで少し大胆な話になってしまい、私自身の自己否定にもなってしまいますが、私は日本における大学及び大学院における哲学教育というのは相当重心移動をさせないといけないのではないかというふうに思っております。
 まず、1つは、大学院における教養教育、これを日本では哲学科というのが担わなければならないんではないだろうかと思っています。日本の大学では哲学科というのは文学部の中にあります。これは非常に奇妙なことです。諸学を基礎づける学問だとおのれで言いながら、哲学科が文学部にあるというのは非常におかしなことです。つまり、哲学というのは科学の哲学、歴史学の、歴史の哲学、医療の哲学、宗教の哲学、自然科学の哲学、芸術の哲学、ありとあらゆるジャンルの基礎というのを考えるということを自負しているんでしたら、哲学は文学部じゃなしに、大学で行うあらゆる学問研究及び教育の基礎になければならない。
 これは、私は大学における教養教育に当たるものではないかと思っております。つまり、専門化、あるいは、学問の細分化が今日ほど極端に進んでまいりましたときに、実は、科学の先端的な研究、専門的な研究にかかわればかかわるほど、自分がかかわる領域というのが狭くなってくるわけです。
 例えば医療の先端的な分野でも、あるいは、材料科学の先端的な分野でも、衛生科学の先端的な分野でも、エネルギー科学の先端的な分野でも、狭くなるんですが、同時にそれらの成果というのはすべて市民の日常生活、特に安全等々に深くかかわるものなんですね。そうすると、広い視野、あるいは、教養というものを持たないで、ただ、自分の専門領域のことだけ研ぎ澄ました研究をして、それがどういうふうに社会の中で使われるか、生かされるかには関心がないというような研究というのは危なっかしくて仕方がない。
 そういう意味で、専門化、学問の研究の細分化が進めば進むほど、つまり、学年が進めば進むほど、逆に自分のやっている研究というのが社会の中で、あるいは、時代の中でどういう位置にあるのか、これが社会に対してどういう影響力を持っているのか等々についての視野、広い視野というものを持つ必要がある、広い判断力を持つ必要がある。
 そういう意味で、大学、現在の細分化された学問の中では、大学院でこそ、上級学年に進めば進むほど、教養教育が要る。そのことが、大学で哲学を教えることのまず1番目の意味ではないでしょうか。
 2番目は、もう一つは、もし哲学が先ほど言いました広い意味での教養というものを意味する、つまり、価値の遠近法、何が大事なのかと、ほんとうに大事なものは何かについての正しい判断力を持つことであると考えるならば、私は哲学教育というのは高校、あるいは、できたら中学から始めるべきだろうと考えております。
 そうすると、哲学科の大学院を出た人、実際には5人に1人ぐらいしか哲学の研究者になれず、就職先に困ってるから、じゃあ、高校に哲学の教師として送り込めばいいじゃないかというお考えも出てこようかと思いますが、今はそもそも高校の「倫理」という科目に哲学科出身の人が採用されない、つまり「歴史」の先生が余った時間を「倫理」も兼ねて教えてるというような中で、そもそも就職先がない。
 けれども、もっと難儀なのは、今の日本の哲学科で学んだ学生を高校に送り込むことが何より危ないということなんです。フッサールの研究、あるいは、カントの研究しか知らない、そして、文献学的関心しかない人を、高校の倫理の教師として送り込めば大変危ないことになります。だから、むしろ私が先ほど言いました、それこそ真の教養教育というものを哲学科の中でこそ哲学の教育としてしなければならない。まずは、だから、高校の倫理の授業、あるいは、将来的には哲学の授業を担い得るような将来の教員を養成するという教育が実は大学の哲学教育の中で必要になってくるのではないかと思います。
 さて、先ほどから申しております価値の遠近法、広い意味での教養というものにかかわる、それの育成というものにかかわる哲学教育ということを考えましたときに、じゃあ、その価値の遠近法をわきまえるというのはもう少しわかりやすい言葉で言えばどういうことでしょうか。
 私は、価値の尺度について判断するという仕事、これが広い意味での哲学というより人文学の仕事ではないだろうかというふうに思っております。つまり、一定の価値の尺度を前提にして、その中で優劣を、あるいは、何が優れ何が劣るというような評価をするんじゃなしに、そもそもある社会の中でメジャーになっているような価値基準、あるいは、評価基準、それがほんとうに正しいのかどうかというその論議をし、判断をするというものこそ、人文学、特にその中でも哲学の仕事ではないのだろうかというふうに思っております。
 より具体的に言いますと、人文学はこれまで、人文学はどれも趣味としてやることが許される、あるいは、単に好奇心だけで、しかも、固有名詞を対象としてやることが許されるような、ある意味では高等遊民的な学問としてかろうじて大学の中で存在が許されてきたわけですが、それに非常に冷たい風が背中から吹き寄せてくるようになりまして、今、人文科学の方々もいわゆる社会的なニーズに応えるということを必死になって模索されております。
 けれども、私は、社会のニーズに応えることももちろん重要なんですけれども、むしろ、ほんとうのニーズというのは一体何なんだろうか、あるいは、今の私たちが知っている社会のメジャーなニーズというのは、ほんとうにそれに応えるべきものなのか。あるいは、今のニーズがめがけている豊かさというものは人間にとってほんとうに望ましいものなのかという、そういうニーズそのものの吟味、あるいは、あるニーズに応えることをよしとする、そういう価値の尺度、あるいは、評価の基準自体を吟味するという仕事こそ人文学というものがなさねばならないことなのではないかと考えるわけです。
 そのためにこそ、人文学は過去の古今東西のいろんな考え方について時間をかけて学んで、そこからいろんな価値観のあり方というのを学んできたわけですし、また、現在も人類学をはじめとして、できるだけ自社会とは異質な社会の考え方というものを調査し、そしてまた、報告し、そのことで自社会の価値観とかものの考え方というものを相対化するように努めてきた。そういう仕事というのが人文科学、そして、特に哲学にはあるのではないだろうかというふうに思います。
 そんな中で、もしも人文科学、あるいは、もっと広く自然科学も含めて、その存在意義ということを考えるときに、私は一つ、市民をエンパワーするような学術性あるいは専門性というものが考えられるのではないだろうかというふうに思っております。
 今、大学は一方ではさまざまな社会貢献、産業への貢献ということをやっておりますが、大学が、アカデミズムが取り組むそういう産業社会への、あるいは、産業経済への貢献というのは、具体的には研究レベルで、例えば産学連携という形で、あるいは、技術移転というような形で取り組まれることが多うございます。
 そういう形で、社会貢献というのは大学は一方で果たしていますが、他方で、今度は内側を見ると、学会の中で、特に専門家共同体の中で、いわば知識のための知識の競争をやっているという面があります。
 だから、一方では産業社会への貢献、他方では、専門家同士の、専門家共同体の中での熾烈な戦い、競争というものがあって、市民はそのどちらからも取り残されているんですね。産学連携は市民にとってあまり関係がない。大学という組織と企業との協力関係で、他方で、学者同士の熾烈な戦い、これも市民には関係ない。そんな中で、産業、経済への貢献と内弊的なアカデミズム、そのはざまにすっぽり取り残されているのが市民という存在であろう、あるいは、市民社会という存在であろうと思います。
 そんな中で、私たちは学術の専門性、学問の専門性、あるいは、大学の自治としてかつてうたわれた学問の自由というものを、むしろ市民的な自由というものへ、あるいは、市民社会的な自由というものへとつないでいくような、そういう貢献というものもあるのではないだろうかというふうに思います。
 そういう貢献であれば、人文学、特に哲学というものも十分に現にもう貢献しているところがあります。一例をあげれば、科学技術のあり方についての市民のかかわりです。具体的には、市民参加型のテクノロジー・アセスメントであるとか、あるいは、都市づくりにおけるシナリオワークショップ、これは例えば10 年後、20年後に市民がどういう都市生活というものが我々にとって望ましいかというイメージを提示しながら、それに照らして、じゃあ、今取り組むべき設計というのはどういうものかということを討議していくような、それを市政に、行政に反映していくような、そういうシナリオワークショップというものがあったり、あるいは、これは北欧なんかでは一部制度化されていますが、コンセンサス会議です。つまり、原子力発電について、あるいは、遺伝子作物の安全性等についてというふうに、市民生活の安全性に深くかかわるような科学技術に関して、市民、専門科学者と、それから、市民のNPOとかそういう公募で集まった団体が議論し、そして、専門の研究者に意見を聞いてから、次に、セカンドオピニオンをまた別の専門家に聞く。そして、そういう討議をしていく中で、市民自身がテクノロジーのあり方、サイエンスのあり方に対してある政策提言をしていって、そして、それを行政というものがある種反映しなければならないというような、そういう運動も現に行われております。
 そして、そんな中から、公共的な事柄に関して、みずから責任を負うような市民を育成する。つまり、文句を、クレームをつける受け身の市民ではなくて、自分自身が、この社会システムはどういうふうに動かしていったらいいか、どこを修正すればいいかということについてきっちり責任を担い得るような発言をする、そういう市民を育成するということです。
 こういう活動に、我が国でも哲学者が深く関与している。具体的には、例えば日本で最初のコンセンサス会議をやりました科学哲学者の人たちです。科学哲学者の人たちというのは、一方に自然科学の、あるいは、行政の専門家、そして、他方に市民の代表、そのあいだに立って、基礎学であると同時に、アマチュアっぽい教養であると言った、哲学のその二義性をうまく使っているんですね。
 だから、一方で、基礎学にかかわってきた者として、自然科学、あるいは、科学技術論の人たちに対して、結構突っ込んだ議論をかけることができる。他方で、アマチュアっぽい教養というものに深くかかわってきた者として、市民の不安とか、あるいは、市民が一体何を望んでいるのかというようなことについて非常にいい感受性を、それを救える感受性を持っている。
 だから、そういう哲学の、一方ではウルトラアカデミックな基礎学にかかわり、他方では、いい意味でのアマチュア性を持った教養にかかわるという、この哲学研究者の二義性というものが、例えばこういう市民参加型のシナリオワークショップであるとか、テクノロジー・アセスメントにおいては非常に有効に働いているということが言えると思います。
 最後に、「『哲学』はこの国ではまだ始まっていない」という挑発的な言い方をしたいのですが、要するに、日本の大学における哲学科の教育を根本的に変える必要がある、重心移動する必要がある。それと同時に、それは哲学科の授業として、教育として取り組むんじゃなしに、むしろ一方では大学院の教養教育、一方では、中等教育における哲学教育という形ですそ野を広げていかなければならないということです。
 これまでの日本の哲学は、はっきり言いまして、百数十年間、西洋思想史の研究に必死で取り組んできました。西洋の偉大な哲学の歴史、そのテキストをまず言語を学ぶことから始め、そして、テキストクリティークをきちんとし、草稿、マニスクリプトまでしっかり読み込んで、そして、ヨーロッパの思想の歴史について正確に理解するという、そういう研究を必死でやってきました。そして、マルクス研究、ヘーゲル研究なんかになりますと、あるいは、現象学研究でも、世界でもほんとに先端、ヨーロッパの思想を研究するのに、レベルとしては世界レベルのところまで達しております。けれども、それは哲学のお勉強、「哲学学」であっても、哲学ではないということなんですね。
 そういう意味で、私たちはある意味では、人文学が一般にすることですが、古今東西のいろんな考え方、他の地域でのいろんな価値観、考え方、そういうものと語らう、その作法というものを高校時代から学んでいく、あるいは、教育していく必要があるだろうと。
 そのときに、哲学研究者がその議論の語らいの、あるいは、コミュニケーションの対話のメディエーターとしてしっかりと司会役をできる、あるいは、議論が脇にそれないようにファシリテートをきちっとできる、そういうコミュニケーションの作法を身につけたファシリテーターとして、哲学研究者がそういう人たちを育成していくということにもっと力を入れることが今の日本の哲学教育には必要なのではないかというふうに考えております。
 いろいろ言いたい放題のことを言いまして申しわけありませんでしたが、これで一たん終わらせていただきます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 非常に鷲田さんの今までなさってきていることと非常に絡めながら、哲学というものが何かということを根本的に問いながら、最後は非常に挑発的に、哲学はこの国ではまだ始まっていないと、これから始まるんだというようなことでありますが、私も先ほど聞きながら、フランスにおきましては中等教育における哲学の重要性といいましょうか、週に8時間も哲学をすると、人の幸福のために学ぶんだという、非常にこれは重要な指摘だろうと思うんでありますけれども、日本の哲学というものは哲学学であって哲学ではないといふうなことから、最後の話題に転じていかれたわけでございます。
 非常に示唆的な、これまでのお二人の、前々回と前回とはまた違った面での人文学のあり方をご指摘いただきました。
 それでは、これからしばらくの間、また今までどおりご意見を賜ってご質問をいただければと。どうぞ。

【今田専門委員】
 東工大で勤めております今田と申しますが、とても共鳴できるというか、実は、十一、二年前に東工大に初めて文理融合の研究科をつくりまして、社会理工学研究科というんですが、旧一般教養を教えていた先生方を中心にして価値システムという大学院専攻をつくりました。
 そのときに、どうすればいいかと考えた。人間の能力をはかるのにどうすればいいかというときに、文理融合だから、理系と文系両方ないといけないというんで、いろいろ調べたら、まさにフランスのやり方というのはとてもいいという。人間の能力をはかるのに一番単純な方法は哲学と数学の試験でいいということで、哲学はやっぱり構想力、数学は解析力、この2つがあるとやっぱり新しいリーダーが21世紀育つんではないかということで、今、意を強くしたんですが。
 要は、その当時の反省は、世の中にはレベルの低い価値判断で速やかに意思決定できる人と、高度な価値判断をするけど意思決定全然やらない人、こっち、結構文系に多いんですよね、人文系に、という、この2つタイプがあって、このまずいところを補完するように、高度な価値判断をして速やかな意思決定という、そういうふうにするためには、この高度な価値判断のところで哲学、速やかな意思決定のところはロジカルな数理的な能力をということでつくったんですけどね。
 まさに、だから、哲学はそういう意味で基礎学という以上に基礎人間能力みたいなものにもかかわると思うんで、意を強くしてお聞きしてたんですが。
 もう一個は、一般庶民の中に入ると、市民社会の中に入るというお話でしたけれど、これも最近社会学では特に言われていまして、今までは政策科学的なテクノクラート的な学問、それと、批判的な社会運動とか批判的な学問としての社会学、それから、もう一つは、たこつぼ的に今おっしゃったように人名のあれで、だれそれの研究、もうこの状態を脱しなきゃいけないというんで、パブリックに向かう社会学というようなことも言われ出してましてね。
 そういうときはやっぱり哲学ですよね。あんまり一般の市民社会の中に入っていくのに、数学とか物理学とかという、そういう細かなところで入るよりは、そもそも物事の考え方をどうするか、どういうふうに価値判断するかということなので、とても、だから、要は一番言いたかったのは、価値判断ということと哲学というのはとっても強く結びついているんではないか。
 だから、それに解析能力みたいな数学、理系の能力が加わると学問のレベル、人材育成ではとてもよい。一般の中には入るときはやっぱりおっしゃったような教養のレベルまで落とした形で入っていって、いろんなことを議論していただくという、何かそんな感じでお聞きしたんですが、そんなんでいいんでしょうかね。価値判断の学という。

【鷲田大阪大学総長】
 大変ありがたいまとめ方をしていただいたと感謝しております。
 1点、もし、ちょっと抗弁させていただくとしますと、基礎学、一般に入っていくときにはいわゆる教養というか価値判断に落としていくとおっしゃいましたけれども、私どもには、基礎学がより価値が高くて教養はそれを緩めたものだという、だから、そういう意味で少し難易度を下げたものだという考え方は私にはございませんで。
 つまり、これは人文学の特徴だと思うんですけど、人文学というのはある意味では社会から学ぶものだと私は思っております。つまり、例えば芸術学というのは何か自分で作品をつくるわけじゃなしに、過去に、あるいは、同時代にこの社会の中でいろいろなつくられている創造行為、創作物、そういうものが一体どういう感受性の中でどうしてこういう形になって生まれてきたのかということを学ぶものでございますよね。あるいは、人類学とか民俗学というのは単にある異文化を価値評価するんじゃなしに、逆に自分たちとは違う価値判断に基づいて、あるいは、世界の分節の仕方自体が自分たちと違う、そういう異質な社会をじっくり調査する中で、あるいは、観察する中で、そういう考え方があるのかということをむしろ学ぶものだと私は思ってるんですね。
 それは、歴史学もそうだと思うんです。歴史学も過去を我々が価値判断する、これが正しくてこれが間違っているというよりも、むしろ過去にこういう状況のときには人々がこういうふうに動いて、そして、こんな知恵を働かせたということをやっぱり学ぶものだと私は考えているんです。
 そういう意味では、教養は哲学をよりアマチュアっぽいものに薄めたものとか、そういう考え方は私はしませんで、むしろ、自分とは違う文化の中に、あるいは、過去の中に、何かあるほんとの意味での価値の遠近法、自分たちとはまた異なる価値の遠近法を発見し、学び、それをもう一度自分のほうにフィードバックして自分の教養、あるいは、価値の遠近法を練り直していく、修正していくという、そういう往復作業なんじゃないかなというふうに思っております。

【伊井主査】
 猪口先生、どうぞ。

【猪口専門委員】
 ありがとうございました。
 同感するところはいいんですが、2点お聞きしたいと思います。1番は、大学院の教養教育が必要というか、この価値の遠近法をしっかりと教えるというのは全く大賛成なんですが、私は50年前に大学にいたとき、今数えてみたら、お話聞いてて、科学哲学とか言語哲学とか普通の哲学とかだけじゃなくて、言葉をやったものですから、キリスト教思想史とかロシアの西洋型とかロシア型みたいなのとか、陽明学とか朱子学なんていうのもちょっとやってみた。そうしたら、意外といっぱいとってたんだなという感じがしてるんですが、今はどうなったかちょっとわからないんで、具体的に、大学院でそういう価値の遠近法からカリキュラムをつくるとどういうことを提言されているのかというのを伺いたいなと思いますね。
 だから、先生のラインはそれでいいと思うんだけど、実現しないことにはどうしようもないんで、それを1点、ぜひとも伺いたいと。
 2点目は、やっぱり哲学というのは普遍的な価値判断についてのやり方とか論理とか、そういういろんなやり方について判断というか思考のあれを明らかにするもんだから、これを僕はやっぱりプラトンだとかロックだとか何とかの何とかというんじゃなくて、それでもいいんですが、やっぱり普遍的な言葉で研究成果というか思考成果を発表すべきだと思うんですよ、要するに、英語で発表すべきだ、できなければ、ラテン語でやってほしいと。そういうことを言っているんで、そういうのはあんまり見たことないし、理科系のほうだったら英語でやってるのが普通なのに、何か人文学のほうは、とりわけ社会科学系でもばらつきが多いですが、でも、頑張ってる人もいないわけじゃない。人文系の人がいやに少ないんですね。グーグルスカラーなんか見てもてんで少ないんですよ。激しく少ない。少な過ぎて涙が出るみたいな。
 だから、そこは何か発表形態についてちょっと人文系の人は工夫というか努力というか、何かしたほうがいいかなと思って、それは大学院の教育でやるべきだと思う。それは絶対どうしようもない。それは日本語を読めばいいと、いいんだから読んでくれるというのもいいんですが、それは何か時間がかかり過ぎてあんまりアプリシエーションが高くなりっこないから、やっぱり論文というか著作の発表は第1番目は日本語でいいけれども、第2番目というのがかなり接近して英語でやるべきだと、人文学はとりわけそれが重要だと思います。
 どうしてかというと、普遍的なものを扱うんですから。日本的な民族主義とか愛国主義をやるというだけみたいに言う人もいますが、まあ、それはいいですが、そんなのわかるのは日本人だけとは言わないけども、少ないんですよ。
 ロシアとか韓国なんかを見ますとそういうのがいっぱいあって、僕はちょっと日本でも徳川時代のがありますけど、まあ、いいんだ、何か慰めみたいなところがありますから、いやしみたいなのがありますから、それはだれかがいるからいいとして、普遍的な価値を、判断、論理、そういうところを扱う人はどんどん英語で書くということが哲学の隆盛につながるんだと僕はほんとうに信じていますし、お願いしたいなと思って、それも、大学院教育でどんなふうに具体化するかというのを伺えたらなと思います。
 どうも。

【伊井主査】
 2点ございました。よろしくお願いいたします。

【鷲田大阪大学総長】
 どちらも特に大学院で哲学を教えるってどういうことを具体的にやり、どういう有効性がほんとにあるのかというご質問だと、ご意見だと思います。
 それで、私は先ほど哲学の、何ていう言い方をしましたっけ……、じゃあ、語り方を変えまして、哲学がファシリテーションということを教育の中にもっと、ファシリテーションの教育、あるいは、メディエーションの教育という、いろんな意見が違う人を一つの事柄についてきっちり論理的に議論ができる、そういう場を設定して、それをファシリテートしていく、そういう能力を育成するのも哲学の大きな仕事だということを申しました。
 これは実は、より具体的に言いますと、議論のさばき方を勉強する、練習するというのではありませんし、それから、また、何かある自分が専門とする、例えばヘーゲルだったらヘーゲルのものの考え方をいろんな社会の現場へ行って適用するという、そういうことをイメージしているのでは全然ございません。
 ちょっと一例だけ申し上げますと、例えば私は今の大阪大学の哲学科の学生には必ず二足のわらじを履いてくださいというふうに言っています。一方では、やっぱり歴史の勉強をきっちりしてほしいんです。
 わかりやすい例をあげれば、心と体の関係というような問題についても古今東西いろんな考え方がこれまであったわけですが、心なんてないんだという、全部すべて物質的なプロセスに還元できるという考え方から、心と体というのは単に言葉が違う、表現が違うだけで、1つの現象を2つの違う言語で語ってるだけだとか、並行現象だとか反映説だとかいっぱいあったんですが、そういう考え方というものを可能な考え方としてきっちりまずわきまえてほしい。
 どんな事柄についても、これには過去から現在までこんな考え方があって、この考え方を突き詰めていくとこういう結論になるという、そういう論理のパターンといいますか、そういうものをやっぱり、哲学の勉強をしてるんだから、プロとして、それはしっかり頭に入れて学んでほしい。
 他方で、もう一つのわらじを履いてほしい。これは、哲学というものこそ書斎の学のように言われていますが、必ず具体的なテーマを一つ持ってくださいと。そのテーマを持って社会のいろんな現場に出かけてくださいというふうに言っております。
 そうすると、哲学の勉強のほうはこれまでどおり習慣的にしっかりやってくれるんですが、現場に行くというのはものすごいつらい経験になります。なぜかというと、例えば看護師さんの集まっていらっしゃって議論されているところに行きますね。そうすると、あなたは一体どういう特技があるんですか、私たちの議論に対してどういう寄与をしていただけるんですかという、あなたは何のプロだって問われたときに、答えようがないんですね。そして、ケアの世界のこともよくわからないので、その場所に行くともう学生が震えるんです。目の前にはベテランの看護師さんがずらっといらっしゃって、私、何か教えることもできないしといって。
 そういうときに、そういう二足のわらじを履いてもらうんですが、それは哲学の諸問題の勉強と、社会的議論の現場に出るということです。後者の例を一つあげてみると、看護師さんたちの看護教育というのがあるんですけど、看護教育の現場ですごく重視されるのは全人的理解というものなんですね。全人的理解というのは、要するに、患者さんを例えばこれは肝臓の疾患の患者さんであるとか、こういう障害を持たれたのが起こっている患者さんであるとかという、そういう機能的な分析をいろいろして、これの患者さん、外科の患者さんというような見方をするんじゃなしに、看護というのは、まずその人を人としてきっちり理解し、その中で、今こういう病を抱え込んでこういう思いでいらっしゃるという、そういう全人的なパーソナルな理解をベースにしないと、すごい機械的な冷たい看護になってしまうということをおっしゃっているわけですね。
 私はそういう議論をされてる場でこういうふうに言いました。つまり、えっと言って、私は自分のことすらろくにわからない、年いって悩むことは増えても、自分がよりわかるようになったというようなことを恐ろしくて言えないのに、どうして他人を全人的に理解するってそんな簡単に言えるんですかというふうに私の場合はボールを投げたんですね。
 そうすると、その看護師さんたちが、えって、自分らの議論では想定してなかったような問いかけが、ぽっと異物のようにボールを投げられると、それで、議論の場がずれてしまって、また違う種類の議論が始まっていくんですね。
 だから、私がファシリテーションとかメディエーションと言ったのは、むしろ一種のおせっかいかもしれませんけれども、特定の現場で一色の議論になっているときに、ふっとそういう異物のような別の考え方を投げるという形で貢献できるんじゃないかと思っていまして、大変しんどいことなんですけど、そういう外の現場に哲学者もフィールドワークすることをすごく重視しています。
 これは私は実は哲学だけじゃなしに、歴史学も美学も、あるいは、文学もほんとはみんな人文系の学問というのはフィールドワークしないといけないんじゃないかと思ってるんですね。フィールドワークというと、社会科学系のもの、あるいは、人類学系のもののとる方法だと思われていますが、私は先ほど今田先生に対して、町中でいろんなことを学ぶということを言いましたけど、フィールドワークってそういうことだと思うんです。
 だから、歴史を学ぶときにもやはりそういう町中に出て、その町の気配を体で感じるというフィールドワークの中で歴史研究しないといけない、あるいは、芸術ということを考えるときにも、まさに芸術が生成しているその場所に身を置くというようなことが人文科学こそほんとに必要なんじゃないか。つまり、自分の全身の感受性をオープンにして身を置くというようなことが、血の通った学問になるためには人文学に必要じゃないかと思っています。
 それから、もう一点、これは非常に厳しいご意見で、哲学研究者は全然外国語で発表しないじゃないか、発信しないじゃないかというお話だと思います。私もそれは非常によくわかっておりまして、哲学はまだしているほうで、私は日本史の研究者こそ英語で勉強してほしいと思うんです。つまり、極端な言い方をすると、日本史の大学の授業はむしろ全部英語でやったほうがいいんじゃないか。
 つまり、私たちは外国へ行って自分の国の歴史を、あるいは、自分の国の芸術作品について外国語できちっと語る訓練、それこそ日本史は必要なんじゃないかと思っていまして、日本語ではいつでも読めるんですから、大学ではもう全部英語で日本史を教えるというぐらいの、自分の文化を疎隔化する、ディスタンシエイトする必要があるんじゃないかと思っています。
 哲学ももちろんそういうことなんですけれども、ただ、哲学というのは非常に難しゅうございまして、哲学をある種世界のグローバルな地図の中でリードしてきたのは英語じゃないんですね。英語もあるんですけれども、おっしゃったラテン語、あるいは、近代ではやはりドイツやフランス、英国、そういう国の思想家というのがむしろ哲学というのをぐっと引っ張ってきたことがありまして、哲学界ってもう使用する言語がばらばらなんです。
 その上、もう一つは、きょうさっき申し上げましたが、哲学というのは、日常我々がだれしもが使っているその言葉をもう一度厳密に定義し直して、そして、そこから論理を組み立てていく、言葉を再定義して組み立てていくという作業、どうしても日常言語というものに密着し、しかも、ディスタンスエイトするという作業、そういう難儀な作業なのです。
 わかりやすく言いますと、例えば英語で哲学の発表をするのに一番苦労するのは、ビーイングという言葉が我々は使えないんです。というのは、英語でビーイングと呼ぶものを私たちは「ある」、「いる」という2種類の言葉で呼んでまして、「ある」と「いる」というのは全然違う言葉なんですね。何については「ある」という、何については「いる」という、あるいは、どういう動作に比較して、「おる」と「いる」はどう違うかとかいう、日本語の場合に英語でいうビーイングに当たる言葉が意味の外縁が随分異なるものなんですね。それで、かたい言葉ですが、明治の哲学はビーイングの訳を「存在」に、つまり、「いる」でも「ある」でもない言葉にせざるを得なかったという事情もありました。
 だから、我々が日本語でもし哲学するんでしたら、「いる」と「ある」って何が違うのかっていうところから考えることが、ヨーロッパ人がヨーロッパの言葉で哲学するのと同じように、我々が日本語で自分が使っている言葉で哲学するときには、まず、その「いる」と「ある」の違い、例えばそんなことにものすごくこだわって考えないといけない。
 そうすると、これを英語で発表するにはものすごく難しくて、もちろん、だからといって、努力しないでいいということなんじゃないんですが、やはり他の自然科学なんかと比べまして、なかなか外国語の発信というのに皆さん苦労なさるのはそういう理由があるということがあります。ちょっと勢いなくして弁解になってしまいましたけれども。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 何かほかに、どうぞ、ございましたら。
 小林先生、大学の経営ということもございましたが、言語学という立場からも何かご発言ございますでしょうか。

【小林専門委員】
 ほんとに、今、最初のほうの出だしのところでお話になられたように、環境だとか生命だとか老いだとか、いろんなことがほんとうに人間の根源的なところが問われるというようなところで、哲学というのはもう非常に重要だろうなと私は思うんです。
 ただ、やっぱり哲学というのはフィロソフィカルでわけわからんというところがありまして、そのわけわからんところが、この前のドストエフスキーが非常にわかりやすい翻訳から非常にベストセラーになっているように、哲学も何かわかりやすくベストセラーになるように、根源的な問題にとるものに対して非常にわかりやすく、みんながふわっととっつきやすいものが少しあると、どう生かしていくかというのもちょっとわかりやすいかなと思うんですが。
 どうしても、きょうもお話、非常にちょっとやっぱりフィロソフィカルでちょっとわからなかったなという感じがするんです。だから、例えば、じゃあ、大学の中でどういうふうに哲学というものを入れていくかということでも、ちょっと、むしろ、初等・中等教育で大事だったら、大学院じゃなくても学部でも大事だと思うんですけれども、それをどういうぐあいなのかなというのがちょっとわかりにくい。
 だから、だれかほんとにわかりやすく哲学とはこうだと、根源的なものにこういうふうに、いわゆる価値の尺度とかいろいろ言われましたけれども、価値というのもそれは国々いろいろあるんだけど、普遍的な価値というのの考え方はどういうことなのかとかいうことが私自身もわからないものですから、それの考え方の示唆みたいなものがあるとうれしいなと思いますが、何かお教えいただけたらと思います。

【鷲田大阪大学総長】
 やっぱり難しいものなんですね。つまり、私たちがその地盤の上で動きながら、私たち自身が気づいていない地盤のほうを考えるのが哲学であるものですから、つまり、私たちがふだんこれは当たり前のことだ、自明のことだと考えているものの考え方とか価値の見方というものをある意味で揺るがしていく、あるいは、疑ってかかるというのが哲学なものですから、最初はなかなかわかりにくい。
 これはバーナード・ショーで、文学の話になりますが、バーナード・ショーの、ちょっとタイトルを忘れましたが、ある小説の中に、「You have learnt something. That feels at first as if you had lost something.」という、「何かを学ばれましたな。それは最初は何かをなくしたような気がするものです」というせりふがあるんですね。
 だから、何かを知る、学んだということは、実は今まで当たり前だと思ってたものが成り立たなくなって、そういうものを全然違う光のもとで見るようになるから、最初は何かもう確実なものが全部なくなってしまった、何か大事なものを失ってしまったという気分になるものだというバーナード・ショーの小説の中のせりふがあります。
 学問ってそういう形で進化していくものじゃないかなと思います。例えば、通常の科学研究というのは、ある、それこそトーマス・クーンの言い方をかりますと、特定のパラダイムの中で動いていて、ある時代の科学のパラダイムの中では、重さとはどういうものだとか、速さってどういうものだとか、時間ってどういうものだとかいうのがきっちりある土俵の中で決まっていて、そして、それで、その土俵の中でものすごく精緻な議論、あるいは、まだ解明されていないことをぐっと押し詰めていくものですが、科学革命の時代というのは、そういう土俵自体がチャラになってしまって、例えばニュートンの力学から量子力学に変わるときには、今までウエートと言ったものとかスピード、速度と言っていたものから、全部そういうものをもう一回再定義しないといけなくなる。土俵が変わってしまう、ルールが変わってしまうという面があるんですね。
 哲学というのは、そういう意味では常にものの考え方のルールを、あるいは、土俵を絶えず更新していくような性格のものですから、最初はやはり哲学をやっている者自身もものすごく難しく感じるものなんです。
 ただ、私はやっぱり今までの経験で、わかりやすくということを水割りにしてはいけないと思うんですね。原書をウイスキーに例えると、例えば新書に入門の本があって、私はそれを水割りだと思うんです。もとの思想を我々の今の考え方でもある程度受け入れられるわかりやすいものに水割りにしていくのは、飲みやすいんですけれども、最初の濃い、やみつきになるあの味が伝わらないんですね。
 ほんとに強いストレートのウイスキーというのは、やっぱり最初はここ、胸元が熱くなりますけれども、やみつきになるんで、それで、意外とおなかにじんとしみ通っていて、自分が安易なところでそれを受け入れないかわりに、受け入れたら自分自身の中に地殻変動が起こってしまうようなすごさというのがある。ただし、専門用語でそんなことを語ってもいつまでたっても伝わりませんので、やっぱり原酒のままで、しかし、伝わるような、そういう語り口というのがどうしても必要になってくる。そういう意味では、哲学にも芸が、語りの芸が要るような感じがします。
 だから、ほんとうにうまいというかきちっとした文体を持った哲学者の本は、これは自然科学の本と違うところは、自然科学の本は読めば100パーセントわからないとわかったことにならないと思うんですが、哲学の本というのは2割だったらぜいたくですね。最初読んだとき、1割しかわからなくても、その1割の中に衝撃があり、そして、何度も何度も人生の中で繰り返し読む。そして、そのたびに新しい発見があるんですね。
 だから、その1割ぐらいしか最初読んだときわからないものが、人をどうしてこんなに深くつかまえてしまうんだろうか。その力を薄めないで同じように再生産できる語り口というのを持っている人が、ある意味ではほんとうの哲学者と言えるんじゃないかなというふうに思ったりします。
 ちょっとはぐらかすような気は毛頭ないんですが、哲学の本なんかの魅力というのは私にはそういうところにあるような気がします。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 どうぞ、中西先生。

【中西委員】
 先生のお話を伺いまして、哲学というのは言葉の定義ではなく、中身をきちんと理解することが大切だということがよくわかりました。
 私はサイエンスといいますか自然科学の分野にいるものですから、現在、特に哲学が非常に必要だと思っています。単に科学は発展すればいいという時代はもう終わってしまったので、これからの科学の方向性を考える際には哲学がなければならないと思っています。
 社会的規制や倫理を言う以前の問題として、哲学から見た科学、特に自然科学のあり方を、今一番考えていかなければならないことだと思うのですが、私の努力が足りないのか、周りでそういう場がほとんどありません。場がないというよりも、大学でこのようなことを議論する雰囲気があまり身近にないような気がしていますが、先生のおられる大阪大学では自然科学の分野の人たちがそういうことを議論するような場といいますか雰囲気づくりのようなことをされているのでしょうか。

【鷲田大阪大学総長】
 実は、夢なんです、それは。つくりたいんです。大阪大学ではつくらないとだめなんです。なぜかといいますと、隣に京都という町がありますが、京都はつくらないでも飲みに行けばそういう場所があるんです。大体タクシーで1,000円以内で行ける距離ですし、家も帰れますし、それから、大体たまり場みたいにしてよく似た種族が集まってきて、大体学者が集まるところとかは大体アーティストも集まります。
 そういうところへ行って異分野の人間が、もう終電車は心配要りませんから、もうがんがん議論できる場、そういう名物のような場所が町中にいっぱいあるんですね。
 大阪大学は中之島にあるときにはそういう場所がいっぱいあったんですが、吹田、豊中というある意味ではニュータウンのほうに位置してからはもう車でしか移動できなくなりましたから、そういう場所が自然発生的には生まれないので、やはり大学の中にファカルティクラブ的なものを、異分野の人がもう言いたい放題自分の発想について発表して、それに対して激越な反応が返ってくるという、そんな場所が要る。例えば京都の飲み屋さんだったら、何かある人が意見言うと、「おまえ、あほか」ということを平気で言うんですよね、だから、異分野の人が。そういう切磋琢磨できる場というのをやっぱりつくりたいんです。
 それが夢なんですが、もう一つ、実はもう既につくってるという言い方もできるんです。というのは、私どもは、これは特別教育研究経費のご支援もいただきまして、平成17年にコミュニケーションデザイン・センターというのを大阪大学につくりました。これは内部から5人の教員、ポストを用意し、それから、派遣教員というので8名の他学部から集まってもらって、13人、それに、10人ほどの特任の教員の人でコミュニケーションデザイン・センターというのをつくっています。
 ここは、コアには哲学、科学哲学の人が中心にいらっしゃるんですが、大学院の共通教育を担当するところなんです。ここで、要するに、科学技術論であるとか科学哲学であるとか、いわゆる、あるいは、安全学であるとかという、特に自然科学の人を強く意識して、それを人文科学の、特に科学哲学をやってる人なんかが中心に、手法は演劇などの手法を導入してディスカッション中心の授業を全学の院生を対象にやり始めています。
 そのときに、一番おもしろいのは、例えば現代の自然科学、あるいは、科学技術の問題というのはだれが専門と言えないテーマが多いんです。1つ例を挙げますと、狂牛病というかBSEをテーマに取り上げて授業するんですね。それで、1週間缶詰にしてディスカッション、ディスカッションするんです。そのときに、全研究科から最低1名ずつ参加させるんです。そうすると、BSEの場合、専門家が一人もいないんですよ。いわゆる細菌学の子もいますし、それから、政治学を勉強してる学生もいますし、歴史学を勉強してる学生もいる。文理いろんなところが全部出てくるんですね。
 そうすると、例えば細菌学とか衛生学、公衆衛生学の学生が、いかにも自分たちはBSEのプロですというような顔をして、これが一体どういう人体に悪影響を起こしていって、どういうことでこんなことが起こったのかということを一生懸命したり顔で演説をぶちますと、そうすると、うちでは国際公共政策という研究科、公共政策学のところがあるんですが、そういう人たちが、また、にやにやして、そんな次元の問題じゃないよと、これは日米の政策レベルでの問題であって、貿易摩擦とか政策的な外交的な問題をきっちり踏まえないと、これがなぜこういう形で問題になるかなんてわかんないよとかいって、また偉そうに言うんですよ。
 そうすると、最後は文学部の学生が一番偉そうにしてまして、みんな議論狭いなと、これは要するに牧畜文明、人が動物を、家畜を育てる、飼料を与えて育てるというこの文明の大きい視野の中で考えないととてもわかるもんじゃないと。ちょうど今のままいけば牛すら育てられなくなる、つまり、これまで人口爆発というのが続いていったら、世界の穀物はほとんど人間に与えなければならなくなってくる。そうすると、もう牧畜自体が成り立たなくなってくる。そうすると、牧畜で肉骨粉で育った危ない危ない牛がものすごく少数になって、ふぐのような存在になって、命がけで食べるという、少数の高いものを命がけで食べる、そんなふうにひょっとしたら50年後の世界って、食生活ってなるかもしれない、そのときに、日本の植物性たんぱく質の文化が見直されるかもしれないとか、また偉そうに言うんですよ、文学部の学生とか人類学やってる学生は。
 そういう議論をやってるときに、初めてみんなが自分の専門というのが、例えばBSE問題一つとっても、自分の専門の見方というのがいかに狭いかということを、同い年の人からそういうふうにばかにされたりして覚えていくんですね。
 そういうディスカッション中心の、文理の区別を問わない全研究科の院生に義務づけている、そういう大学院の教養教育というのを、今、二十数名のスタッフで手分けしてやっています。テーマは、もちろん、そういう科学技術の先端的な科学技術の問題、原子力の問題もあれば狂牛病の問題があったり、あるいは、まちづくりの問題であったり、あるいは、ケア文化であったり、いろんなテーマでみんなが、だれも専門はいないけれど、みんながかかかわれるというテーマを選んだディスカッショントレーニングというのをやっております。

【伊井主査】
 ありがとうございます。新しい研究テーマということになるんだと。
 西山委員、どうぞ。

【西山委員】
 非常に共鳴を持って聞かせていただきました。ありがとうございました。
 大したことではないと思いますが、1つお教え願いたいのです。先生のお話の中で、科学哲学というターミノロジーが頻繁に出てきましたが、どうして哲学ではいけないのかなという感じを持ちました。哲学をなぜ科学哲学と言わなければいけないのかということを感じました。ターミノロジーの問題なのでしょうが、その辺についてどういうことでお使いなさっているのかということをお伺いしたいんです。

【鷲田大阪大学総長】
 科学哲学というのはフィロソフィー・オブ・サイエンスといいます。ドイツ語に直しますと直訳しますと、ヴィッセンシャフツフィロゾフィーになります。
 実は、先生がおっしゃるとおり、哲学というのは元来ヴィッセンシャフツテオリー、つまり科学理論、つまり学問論……。

【西山委員】
 含まれておりますよね、本来の科学に。

【鷲田大阪大学総長】
 学問論が哲学だったんです。そうなんです。
 これが、でも、ヴィッセンシャフト、サイエンスというのが日本語の場合には二義的であって、いわゆる学問ということを意味する場合と、いわゆる僕らが自然科学を念頭に置いた狭い意味の科学ですね、それをイメージする、サイエンスということで、そういうことをイメージしてしまうことがあります。
 だから、本来の哲学は実はおっしゃるとおり学問論という意味での科学哲学そのものなんですが、日本で科学哲学というときにはナチュラル・サイエンスのいろんな約束事、あるいは、歴史、科学についての考え方の歴史なんかを研究する哲学の一分野という位置づけになっております。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 先ほどから出てきますような新しいテーマでさまざまなコミュニケーションを図るというのは、ファカルティクラブのようなものは日本の大学ないものですから、これからの文教政策なんていうようなこともあるんだろうと思いますけれども、自然科学などを含めた基礎学としての哲学というようなことがあって、教養教育というようなことの問題もあったんですが、どうでしょうか、総長の方がたくさんいらっしゃるんですが、井上先生、大学の教養教育としての哲学だとか、自然科学との関係なんていうのはいかがでございましょうか。

【井上(明)臨時委員】
 本日、鷲田先生は大学院における教養をわざわざ強調されておられました。その中でのご説明で、専門の細分化が進む今日において、より広い視野、高度な判断力の重要性を述べられておられますが、これは大阪大学では意識的に教養課程の哲学と大学院の哲学、専門基礎を学んだ後の哲学とが区別されているのでしょうか。
 カリキュラムが、意識的に区別されているのでしょうか。また、教官の方が大学内全体で意思統一されるような形での充実したカリキュラム体制を構築されているのかどうか、このあたりを教えて頂ければ。

【鷲田大阪大学総長】
 先生がおっしゃってくださいましたように、やっぱり哲学の教育というのは3種類、大学にはありまして、1つは、全学の学生、初年次の学生、一、二年生の学生に行う広い意味での昔から行われていた教養教育としての哲学でございます。
 それは、ただし、昔のように哲学概論とか西洋哲学という形じゃなしに、文化の哲学とか社会の哲学とか歴史の哲学とか、そういうようなある種主題を限定した哲学を、そこで哲学の考え方を教えるというのがありまして、それから、もう一つは、哲学科の、哲学講座のいわゆる研究者養成のコースがありまして、そして、最後が阪大特有のものとして、コミュニケーションデザイン教育という名で、哲学教育というふうに銘打っていない哲学教育がございます。
 初学者に教える、あるいは、哲学科の学生を教える先生の一部がコミュニケーションデザインにかかわってくださっています。なぜかというと、きょうは東京に来て大学を離れていますから言えるんですけど、哲学の先生はやっぱり哲学学の先生が阪大にも多うございましたので、何でそんなコミュニケーションデザインみたいなことを、そんなちゃらちゃらしたことできないという先生もいらっしゃって、いやいや、自分たちはこういうことを、やっぱりほんとの哲学をやっていかないといけないんだという若干の先生がコミュニケーションデザイン・センターのほうに移籍してくださいましてやっております。
 ただし、ここの哲学というのは意識的に哲学科の授業とコントラスティブにやるようにしていまして、例えば、哲学というのは今まで反省という方法を使ったんですね。研究室とか書斎に閉じこもって、うーんと、ああでもない、こうでもないとリフレクションを行う。それに対して、我々は哲学の原点に返りまして、ソクラテスは本なんか一冊も書いておりませんので、彼は町へ出たら若者をつかまえ、政治家をつかまえ、議論をふっかけていた。その方法をとるというので、先ほどもディスカッションの授業を中心と言いましたけど、対話ということを方法として使っています。
 そうすると、自分と違う考えがあるということをどういうふうにして知るのか、それから、また、そういう違う考えを知ったときにそれをどうすり合わせていくのかというような、その技法ということを非常に大切にするもんですから、単にいわゆる哲学の研究者だけじゃなくて、例えばアーティストの人が、こういうような机の並べ方をするとこと発言が増えるとか、あるいは、こういう手法を使うと議論が活性化する、いろんな、アーティストというのはそういう意味でものすごく、机の並べ方一つ変えるだけで、机の色、いすの色を一つ変えるだけで議論がごろっと局面が変わってしまうことがあるというのを熟知しておられるので、そういう人たちにも加わってもらって、コミュニケーションのデザインというのをしていただく。だから、「哲学」とは呼ばないでコミュニケーションデザインということにしています。
 もう一つ重要なことは、これは私のかねてからの持論なんですが、そこでコミュニケーションをやるときに、大事なのは、ディベートのトレーニングじゃなくてダイアログのトレーニングということなんです。今の社会に必要なのは、確かに外交とかでディベートの能力も必要なんですが、社会でいっそう大事なのはダイアログの能力です。
 ディベートとダイアログは何が違うのかと、ものすごく簡単にいえば、ディベートというのは、ディベートの議論が始まる前と後で立場が変われば負けるんです、負けになるんです。ずっと議論する前と後で立場が変わらない人が勝ちなんです。どこにも遺漏がなかった、論理に。
 ところが、ダイアログは逆なんです。人と話す前と後で自分の考えや感じ方が何も変わらなかったら他人と話した意味がないんです。つまり、人の考えを聞いて自分の考えが揺さぶられて、ああ、こういうふうに考える人もいるのか、だったら、こういうふうに自分ももっと自分の思想の土俵を固めないといけない、広げないといけないというところに、ダイアログの意味があります。
 私たちが重視しているのはそのことなんです。ダイアログがきっちりできる、自分の専門とは違う分野の人とダイアログがきっちりできる、それから、アカデミズムの外部の人ときっちりダイアログができる、そういう人を、あるいは、わざを養成するという、そこに主眼を置いた広い意味での哲学研究を行っております。
 哲学界で我々がやってることに一番理解があるのは、実は東北大学副学長、前日本哲学会会長の野家さんなんです。

【井上(明)臨時委員】
 あと一点だけ。このコミュニケーションデザインは平成17年からの5年間特別教育研究経費でスタートしたとおっしゃられましたが、今後、大阪大学で定着されようと考えておられるのでしょうか。

【鷲田大阪大学総長】
 というか、もちろん、ずっと、拡張することはあってもやめることはございません。

【井上(明)臨時委員】
 どうもありがとうございました。

【伊井主査】
 飯吉先生、何かございますでしょうか。

【飯吉臨時委員】
 今の学問というものは、科学技術、非常に細分化し過ぎて専門性が極端に進んでしまって、全体の係りがわからなくなっていると。ですから、個々の専門の分野はものすごく皆さんよく理解しているんですけれども、それじゃあ、そもそも出発点である自然とは、人間とは、は依然として判っていないし、それがどういうふうに社会なり日常生活と関係しているんだとかというようなことについては、あまり考えが至らない。
 やはり今一番大事なのは、学問の再構築ではないかなと、そういう時代が来ているんじゃないかなというふうに感じてるわけですが、そういうときは、やはり哲学の出番だと思うのですが、哲学はどういう役割をしていただけるのか。全体に共通したものを何とか見つけていくとか、そういったことを考えると、哲学というのは非常に大事だと思うんですが、先生のご意見を伺いたい。

【鷲田大阪大学総長】
 私の夢というか、哲学者としての夢というのは、やはり大学に哲学科が要らなくなることだと思っています。つまり、中等教育からきっちり哲学という、ものの考え方のトレーニングなんですね。ものを精密に考えるとはどういうことか、ものを広い視野で多元的に見られるってどういう能力なのか。そういうことを中等教育からきちっとやっていれば、大学に入って学問をさらに専門的な勉強を突き詰めていこうという人が常に、しかし、それを相対化できるような哲学的なものの考え方、あるいは、センスというものを備えている。つまり、知にかかわる、学問にかかわる人はみな同時に哲学者であるというような知へのかかわり方、学問へのかかわり方というのが私どもの理想といいますか夢見ているところでございます。
 先ほど、中西先生もちょっともっとこう切磋琢磨して異分野のものが自由にしゃべり合うとおっしゃいましたけど、まさにそのことともかかわるんですが、やっぱり現代のように、専門化すればするほど、例えば同じ民俗学という学問でも地域が違うと隣でやってることが、研究室でやってることがわからない、あるいは、自然科学でも同じことだと思うんですが、ものすごい隣接しているところですらわからなくなるということがあると思うんですね。
 そのときに、妙な美学がありまして、これは非常に一つの病としての美学だとも思うんですけど、素人が自分が専門以外のところに対して口出ししてはいけない、専門は専門家に任せる、別の専門領域についてはむしろ口をつぐむという妙な美学が働くんですね。
 逆に、乱暴で、アマチュアがわざわざ隣の専門領域に乱暴でも口を出すということがほんとうは必要なんじゃないだろうか。それがまさにさっき言った道場のように異分野の人が言いたい放題、それは勝手におもろいとか、おまえ、あほかというようなことを言える、そういう土俵が必要になるんじゃないかなと。大学というのはそういう意味でもう少し野性的になったほうがいいんじゃないかというふうに、いや、大学はというより、知というものはもっと野性的であっていいんじゃないかというふうに私なんかは思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 ほかに何か。

【井上(孝)委員】
 ちょっとよろしいですか。

【伊井主査】
 どうぞ、井上先生。

【井上(孝)委員】
 きょうは大変ありがとうございました。
 先生のお話を聞いていて、最後のところで私が思いましたのは、初等・中等教育の学習指導要領改訂をこれまで3年ほど議論してまいりまして、小中段階でも思考力、表現力、判断力を育成しようというように学習指導要領では、基礎、基本の育成と、それらの活用、それから、探求的な学習をするという方向に向かうことになっています。その場合でも、やはり小中段階、高校以下は学習指導要領に基づいてそれぞれのテーマごとにやるというので、どうしても思考の作法を身につけるといっても限度があって、やはり一つのテーマについて生活体験とかそういう発達段階に応じて物事を考えるのでは、限られた中でしか意見交換ができないんではないか。そして特に小中段階で今必要だというのは、ダイアログということよりはむしろディベートを中心にしてそういう思考力とか判断力を育成しようという方向なんですね。
 そうしますと、高等学校までの教育方法、指導方法を考えると、専門分化した大学でそういう先ほど先生がおっしゃっているようないろんな立場でものを考えているという、分野が広がるとそれだけ考え方も広がるし、それから、物事の本質についてよく考えることによって意見交換をしてダイアログして、さらに自分たちの考えを高めるという、そういうのはやはり高等教育じゃないと非常に難しいんじゃないか。
 そういう意味で、やはり哲学というのはいつまでたってもこれはソクラテス以来そういう存在感がある学問ではないかと思っているんですが、その辺についてどうお考えでしょうか。

【鷲田大阪大学総長】
 私はこれは初等教育のあり方について私はきちっとした提言を持っているわけではございませんが、私が先ほど申しました、知というのはもっと野性的であるべきであるというのは、実は初等教育はもっと野性的であるべきではないかというふうに、個人のこれは感想ですけど、思っております。
 つまり、例えばいろんな教科とおっしゃいましたが、私は教科が細分化され過ぎているというふうに思っております。私も実は中教審の初等教育、道徳のところにかかわりましたけれども、ここまで一つの科目として細分化していくような考え方もあるのかというふうにびっくりしました。
 といいますのは、これはよかったな、いいなと思うような教育を経験したことがございまして、それはもう20年ぐらい前ですけれども、ドイツで小学校の授業を2年間、子供が行ってたもんですから、見学させていただいたり、毎日宿題を見たり試験問題を見たりしてましたけれども、科目は3つぐらいしかないんですね、小学校には。それは、国語、つまりドイツ語と数学と、あと、ザッハウンターリヒトといいまして、理科と社会を合わせたような、もうその3科目しか授業はありません。
 そんな中で、哲学のての字もそこには出てこないんですけど、ああ、哲学の一番芽、兆しですよね、芽というものをこんなところから育てているのかと思いましたのが、例えば数学、算数の算術の問題にしましても、例えばお母さんが車でデパートに行ってこういうものを買って、幾つ買ってお金を払いましたというシチュエーションがまず書かれてあって、じゃあ、おつりは幾ら来ましたかって、これがまず問題として1番にあります。しかし、これは式で書くんじゃなしに、ドイツ語で、つまり国語の授業を兼ねてるわけです。その式の計算を言葉で書かされるんですね。だから、そういう意味で算数がそのまま国語になっている。
 2番目は、どうしてデパートは車で行かなければならないところにあるんでしょう、つまり町中にあるんでしょうかというのが2番目の算数の問題、試験に出てくるんですね。つまり、これは社会というか物事の道理というかを考えさせる。しかも、それは文章で答えなければならない。
 3科目でも少ないと思ったのに、何か算数と社会の勉強と国語の勉強を一遍に一つの試験でやってしまおう、横着だなと思いながらも、何と野生味あふれる教育だろうというふうに。
 その野性味でいいますと、そういう試験があるにもかかわらず、私がいたところは北ドイツのドイツで一番天気の悪いところですから、そんな試験の最中でも、空にお日さんが出ると、ストップといってみんな外へ出て遊ばせるんですね。
 そういう一種の野生性みたいなものが私らの中にはちょっとユートピア的にありまして、哲学教育というのは意外とそういう何かおおらかなところでないとできないんじゃないかなという感じがします。というのは、答えがすぐに出ないような問題ばかりですので、おおらかに、まだ、もう少し考えてみようねというような余裕がないとなかなかできないのかなと思います。勝手なお答えで、申しわけありません。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 初等教育から細かく専門家し過ぎていくわけでありましょうけども、それがだんだん専門が細分化していくという中等・高等教育へのつながりにもなっていくんだろうと思いますけれども。
 本日は、哲学の現在というもののあり方から、さまざま我々に示唆深いご意見をいただきました。
 時間になりましたものですから、鷲田先生のご発表とご意見の交換をこれぐらいにいたします。どうも、鷲田先生、本日はありがとうございました。

【鷲田大阪大学総長】
 こちらのほうこそ、いろいろありがとうございました。(拍手)

【伊井主査】
 それでは、少し時間が過ぎたようでございますけれども、本日の会はこのあたりで終わらせていただきたいと思いますが、それでは、次回の予定につきまして、事務局からご説明をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 次回の予定でございますけれども、資料3をごらんいただきたいと思います。次回は4月18日の金曜日、15時から17時、文科省3F1特別会議室、この会議室でございます。それを予定しております。その次は5月9日、その次は5月30日ということで一応開催を予定しておりますので、よろしくお願いいたします。
 また、日程の変更、場所の決定などございましたら、また後日、正式にご案内させていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 それから、本日ご用意させていただきました資料につきましては、封筒に入れて机の上に残しておいていただければ、後日郵送させていただきます。また、ドッジファイルはそのまま残しておいていただければと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございました。
 それでは、本日の会はこれで終了いたします。年度末のお忙しいところ、ほんとうにありがとうございました。

─了─

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