学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第4回) 議事録

1.日時

平成19年6月29日(金曜日) 10時~12時

2.場所

尚友会館8階 1、2号室

3.出席者

委員

 伊井主査、立本主査代理、飯野委員、上野委員、中西委員、西山委員、家委員、伊丹委員、岩崎委員、小林委員、谷岡委員、深川委員

文部科学省

 徳永研究振興局長、藤木審議官、川上振興企画課長、森学術機関課長、戸渡政策課長、江崎企画官、門岡学術企画室長、鈴木日本学術振興会研究事業課長、高橋人文社会専門官 他関係官

オブザーバー

(科学官)
 秋道科学官

4.議事録

【伊井主査】
 おはようございます。時間になりましたので、ただいまから会議を始めることにいたします。
 本日、第4回目でございます。朝早くからどうもありがとうございます。
 まず、本日の会議の傍聴登録状況につきまして、事務局からお願いいたします。

【門岡学術企画室長】
 本日は7名の傍聴希望者の方がいらっしゃいます。

【伊井主査】
 はい。それでは、次に配付資料の確認をお願いいたします。

【門岡学術企画室長】
 資料につきましては、お手元の配付資料一覧のとおり配付してございます。欠落等ございましたら、お知らせいただきたいと思います。また、人文学・社会科学に関する基礎資料をドッジファイルにて机上にご用意させていただいておりますので、こちらの資料も適宜ごらんいただきたいと思います。
 以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 それでは、これから議事に入ることにいたします。
 毎回申し上げて恐縮なんですけれども、資料2‐1にございますように、この会議の審議事項の全体につきまして、本日の審議に占めます位置づけにつきまして、確認をしておきたいと思います。毎度のことでありますけれども、3つの審議事項について、ここの会議では審議をすることになっております。第1の審議事項は「人文学及び社会科学の学問的特性について」でございます。ここでは自然科学との違いについて留意しながら、研究内容や研究手法などの面から見た人文学及び社会科学の学問的特性について考えるということです。2つ目の審議事項が「人文学及び社会科学と社会との関係について」ということでして、ここでは人文学及び社会科学の社会的意義とか研究成果の社会還元のあり方について審議していただくということでございます。審議事項第3としましては、学問的特性と社会との関係を踏まえた人文学及び社会科学の振興方策についてということです。当面は人文学及び社会科学の学問的特性、あるいは社会的意義につきまして各委員からさまざまな観点からプレゼンテーションをしていただいているところですけれども、これまでの3回を振り返りますと、1回目は人文学全般についてと、社会科学の面としては、猪口委員から社会的な意義だとか特性等につきまして活発なご議論をいただいたところでございました。2回目以降は研究内容や研究手法などの面から見た人文学及び社会科学の学問的特性ということで、その意義及び支援方策を含めまして、各委員から順次発表していただいているところでございまして、2回目は立本委員、そして3回目は今田委員からご発表いただいたわけでした。
 本日、4回目でございますけれども、伊丹委員から「経営学の研究方法の特性と研究成果の社会的意義」と題しまして、30分ばかりプレゼンテーションをしていただきまして、皆様のご意見を賜れればと思っております。できるだけご参加の皆さんにご発言をしていただきたいと思っておりまして、ご発言のときは手短にご発言、ご質問していただければありがたいと思っております。
 それでは伊丹先生、よろしくお願い申し上げます。

【伊丹委員】
 時間は30分ぐらいをめどでよろしゅうございましょうか。

【伊井主査】
 そうでございます。

【伊丹委員】
 伊丹でございます。
 きょうの私のお話、一応与えられましたテーマは「経営学の研究方法の特性と研究成果の社会的意義」ということだったんですが、この分野、特に経済とか経営、法学、会計学等で最近、専門職大学院も増えておりますので、その専門職大学院の研究機能について、私自身はどう思うかということと、それから全体のテーマでございます人文学及び社会科学関係の研究の振興についての提言のようなことを後半ではなるべく重点を置いて、前半の経営学そのものの話は長いメモも用意いたしましたので、なるべく短く終えたいと思います。
 10ページ近いメモを用意いたしました。何かいろんなことを考えて、いろんなことをつづっていたら長くなっちゃったものですから、全部お話ししますと2 時間くらいかかりますので、それをもちろんやるつもりはございません。かいつまんで、お手元にメモがあることを前提にお話をしたいと思います。
 まず最初に、経営学というような実社会に関係の深い学問を三十数年やってきた人間からいたしますと、大学における経営学の研究というのは、基本的にはどういうスタンスで研究とか教育とかをやらなきゃいけないと思っているかということの一番基本的な考え方を冒頭に申し上げておきます。それは「実学の象牙の塔」を目指してということでございます。大学でございますので、あくまで象牙の塔でございます。それで悪いことは、私は何もないと思います。しかし、我々がやっている学問は、これは経済学も私は全く一緒だと思いますが、実学でございます。現実に起きている現象を研究するということが基本的な役割である、しかも社会現象、実利を多くの方が感ずるような、そういう現象を研究しております。したがって、実学というコンセプトは決して外してはならない。
 実学という言葉と象牙の塔という2つの言葉は一見矛盾しそうでございますが、この矛盾しそうなところを統合するといいましょうか、アウフヘーベンするといいましょうか、そのぎりぎりの線をきちっとねらうというのが大学の役割だと思います。象牙の塔でなければ、大学らしい貢献が社会にできるとは私には思えない。大学が単なる実務的知識の切り売りの機関になってはならないと思いますし、一方で、象牙の塔にこもってばかりで実際に研究しているはずの対象である経済や経営の現象が持っている社会的なインパクトのことを考えないと、実学というコンセプトを持たないと、やっぱりぐあいが悪いと思います。
 私はこういう分野の研究や教育をやっておりますと、よく企業の方から、すぐ役に立つ人材を育てるような教育をしてくれとか、あるいは、あした役に立つような知識がたくさん出てくるような研究をしてくれという極めて実務オリエンテッドなリクエストを受けることが多うございます。私は基本的にはその種のスタンスはとりません。実社会に貢献するということは深く実学の研究の人間として大切なことだと思いますが、我々は社会の中で、大学という場でこういう研究や教育の活動をやっている以上は、単なる専門学校とか単なるコンサルティングの会社とかとは違うタイプの貢献をすることが社会の大きな分業の中での我々の意義だと思っております。
 そういう前置きをしました上で、経営学の研究方法の特性のことをお話ししたいと思います。これは別に経営学に限りませんで、私自身も自分の専門分野が経済学にかぶりますので、以下申し上げることは経済学でも通用することだと思っておりますし、より広く社会科学一般にも通用することだと思いますが、たびたびこの委員会の議論で自然科学と社会科学の違いって何だというふうに議論がございました。私の頭の中では、最大の違いは社会現象と自然現象の中を構成している構成主体の特性にあると思っていまして、社会現象の場合には、人間が構成主体でございます。その人間は意図を持っております。意図を持っておりますので、その人間の意図的な行動によって現象の流れ自体が変化してしまう。これは自然現象の世界ではないことだと私は思います。どこかの分子が何か意図を持って、自分の秘めたるポテンシャルをこの場では発揮してやろうと思ったなどということはあり得ないと思いますので、それが最大の違いだと思います。
 そういたしますと、社会科学では社会現象を構成している構成主体相互の間の行動自体の相互作用について因果関係を明らかにするということが研究の対象になるのみならず、その構成主体がどういう意図で動いているかという意図の因果関係までやらなきゃいけなくなるというので、随分と複雑になるなと。この意図の部分のコントロールされた実験というのは、実は不可能でございます。したがって、自然科学でよく行われるように、精密に場合を分けたコントロール実験というのが難しくなって、したがって実験によるデータ収集ということはほぼ不可能であるというふうに、極端に言えば、私は考えるべきだと思っております。
 さらに2ページ目に参りますと、社会現象でももちろんデータはございます。さまざまな意味でのデータがございますが、経済の統計データなんていうのは一番いい例ですが、これもコントロール実験の結果、得られたデータというよりは、「意図の部分はブラックボックスに入れた上での」、外形的類似性のあるデータを集めた。例えば、人間の所得というのはさまざま、そういうデータがあるんですけれども、それはもういろんな意図を持った人がいろんな行為をした最終結果があらわれた数字にしかすぎませんので、それを、もともとの出発点がコントロール実験によってランダムな現象を制御した上でデータとして何が言えるかということをきちっと確かめようという目的でつくられた統計学という研究データ分析の手法を使うというのは、最後の最後はどこか無理があるんです。その無理を承知の上で皆さんやっておられるんですが、そこのところをあんまり間違えないほうがいいかなと思います。
 2番目に、研究方法の特性としてエビデンス、前回もエビデンスベースドという話がたくさん出ました。私も賛成ですが、自分の主張を他人に説得するための証拠という意味でのエビデンスをどういうふうに提供するかというのは実にエクレティックな折衷的な考え方をとらざるを得ないというのが次に申し上げたいことでございまして、前回の議論でしたか、家委員が、理解できたと思えるというのはどういうことをやった後で理解できるんですかとおっしゃった、あれは私は非常に大切な質問だと思いました。物理学では、あるいは自然科学では、ある一定の多くの方が共有されておられる方法論的ベースがあって、暗黙のうちにそれはもう当たり前だと前提されているが、それを社会現象に当てはめようとすると、少なからず無理が出ることが多いと思っております。
 説得論拠提出の方法というのは、私は3つあると思っておりまして、1つは観察結果法とでもいいましょうか、観察したら、こんなデータ、結果が得られました。2番目は演繹論理で、こういう論理を組むと、こういう現象が起きるということを予測できそうですという方法。3番目は、その2つを折衷する論理重合体合成法と、これは私の全くの個人的な造語でございますが、そういう3つの方法が多分あるなと。
 観察結果法というのは典型的には大量データを集めましたと。あるいは、もう一つは少数事例の厚い記述をやりましたと。一方が統計処理、一方がケース分析と呼ばれるんですけど、多くの歴史研究はこのケース分析に当たるんだろうと思いますが、ともにどういう意味で、自分の主張が正しいと相手を説得しようとするかというと、これほど多くの現実観察を集めましたので、勘弁してください、信じてくださいと、こういう話でございます。
 2番目の演繹論理法というのは、数理モデルを使ったり、概念モデルで言葉の世界での演繹論理を展開していくというのも両方ともあると思いますが、ともにこの説得の最終的な論拠は、これだけ長い論理の連鎖をきちんと考えましたと。前提が正しければ、結論は正しいと思って信じてくださいという話でございます。
 しかし、社会科学の場合には両方ともなかなか難しいとすると、この2つの方法を折衷したような論理重合法とでも呼ぶべきような方法しかほんとは多分とれないんだろうなと実は私は思っておりまして、少数のデータ、多少それより多いケース、それらをつなぐ論理、そういうのを全体で意味のある全体像のストーリーを描くと。その全体像のストーリーが信じられると思われたら、どうぞ私の言うことを信じてくださいという、その種のスタンスしかあり得ないんじゃないかなと私には思えております。
 観察結果法というのは一番簡単に見えますので、すぐにだれでも飛びつけます。大学院生すら、すぐやれる。だから、これがついついはやるんですが、それが一体どこまで社会現象の真実に迫れるかということについては、私は自分自身もやりましたけど、少なからず疑問を持っております。
 しかし、2の小さいbのところに書いてあるところがわりと大切なことだと私は思っていることなんですが、一見「科学的に」見える。つまり大量データの統計処理をやるとか、そういう演繹論理法で数理モデルの展開によって一種の結論を導くというやり方でも、結局その最終的な「証拠」の信頼性は、どれだけ多くの人がそれを真実と考えてよいと納得するかに依存しているわけで、例えば演繹論理法なんていうのは、置いた前提をほんとに信じますかということに決定的に依存しちゃうわけですので、途中の論理が正しくても、最初に置いた前提が間違っていれば結論は間違っているということが十分あり得ますので、そういう、結局はどの方法をとろうと、その主張の論拠を聞いた人が、専門家が多くの人の納得の総量というのが、どうやら社会現象の場合には真実性の判断の論拠にならざるを得んというのが現状ではないかと思っております。
 それが現状なんですが、実際にございますさまざまな研究で、実は私が心配しますのは、研究の結論から現実の現象への適用の際に、多くの方がオーバーゼネラリゼーションというジャンプをなさる。この結論の部分でのジャンプがもちろん仕方ないんです。仕方ないんですが、次のページに参りますと、「精密に見える」方法論をお使いになる方ほど、最後の結論から現実への解釈とか適用とかという。結論というのはデータ分析の結論、数理分析の結論と、そういうものですが、そのジャンプが、私は距離が大きいように思います。これは自分の使っている道具が、包丁がとてもよく切れるものですから、何かとても料理がうまいだろうと言っているのとよく似ていまして、必ずしもそう簡単にはならんのだけどなと。ただ、ジャンプを全くしない禁欲的態度ももったいないように思います。どのみち、研究方法というのは非精密度が結構高い研究方式はとれないんだと最初から観念してしまえば、その非精密度に応じた程度のジャンプはしたほうが筋は通るかなと、こういうことでございます。
 さて、Dのところに書いてございますのは、日本の社会科学でこれまで大量に起きていた現象についての私の考えでございます。「他人の研究を研究する」という研究方法。これがまだたくさんございます。輸入学問であるということがもたらしたことで、これは自然科学でも昔はあったんじゃないかと。今でもあるのかもしれませんが。これも2つございまして、ヨコタテ研究でXなる他人の研究を学習しましたというまとめ。それをまとめると研究になってしまうという不思議な状態が日本で結構続きました。30年前は、経営学ではこれが主流でございました。そんな後進国状態からやっと抜け出しつつあるように思います。
 申しわけございません。ここで「研」のところで改行があったり、「う」のところで改行があったり、強制改行をさんざんしているソフトでございまして、マックでしか使えないソフトで日本語バージョンができていないものを無理やり使うとこういう現象が起きるという、マックを使う人間の少数民族の悲哀でございます。
 それからもう一つの、他人の研究を研究するというバリエーションで、X派生研究みたいなのがあって、2つありまして、どこかの国でXという理論ができた。それを日本で再試してみました。これは結構簡単なんですが、これが研究ということになっちゃったりする。あるいは、だれかがXという研究をやっていますと、それに「Note on」という論文が来ます。両方とも、これ、経済学でも経営学でもとても多いんですけれども、こういう研究は研究者の卵の勉強のスタイルとしては、僕は全然おかしくないと思いますが、いつまでもこういうことをやる人がたくさんいる。研究の創造性という点でいえば、X学習研究もX派生研究も、どちらも似たようなものですが、だってそもそもXがないと、自分が存在できないんですから。なぜかX派生研究、「Note on」とか再試をやりましたという人がヨコタテ研究者、つまり学習研究をする人を激しく非難する傾向があるようでございまして、これはその1つの非難する心持ちを与えてしまうのが、国際ジャーナルに派生研究は一応載ることは載るんです。学習しましたというだけじゃ、さすがに載らないんですけど、そういうようなことがあるかなと。
 そういうふうに考えますと、実は社会科学の分野で国際的に受け入れられる研究というパラダイムには、私は偏りがあるなと思っておりまして、ほんとうに創造的な研究というのは、実は国際的なジャーナルのレフェリー審査を通りにくい。それはレフェリー審査のプロセスというのが一種のパラダイムをベースでつくられていて、今はこういう考え方の研究がはやっているからとか中心だからという理由でその分野の研究者が増えて、自分と似たような研究をやっている人については、レフェリーをするけどというようなことがよく起きます。私自身もこういうことは経験いたしました。
 実は学会の雑誌では、簡単にリジェクトされた論文をベースにした本を書いたら、今度はそれがある種の理論の流れの1つの起源になったなんていうのを私自身が経験いたしましたので、いかにいいかげんなものかなというのがよくわかります。ほんとに創造的な研究というのは目の前の不思議な現象に懸命に納得性の高い説明を与えようとするもので、そこからさらに国際的に受け入れられるような普遍的な論理の枠組みが出てくるというのだと一番いいんだと思うんですが、国際的なジャーナルという観点でいうと、実際には必ずしもそういうわけにはいかないのが社会科学の実態ではないかというのが私の正直な感想でありまして、したがって、COEの審査などを受けますと、国際的なジャーナルに論文が何本あるかというようなことがすぐ指標に出てくるんですけど、あれ、日本文学を研究なさっておられる方はどうなさるんだろうかと、あるいは日本史を研究なさっておられる方はどうなさるんだろうかなと人ごとながら心配になっちゃうんですが、私どもの分野でも、こういうのはあまり強調しないほうがいいような指標だと私には思えます。
 それから、ちょっとあと飛ばしまして、経営学の研究成果の社会的意義について、私が考えていることをお話しいたしますと、2つのタイプの研究成果があるように思います。
 1つは特定の経営現象。これはここに書いてある経営という言葉を社会と置きかえていただいて、社会科学一般についてのお話だと思っていただいてもいいお話をしているつもりですが、特定の経営現象の論理の解明をする。どうしてこういう商法にすると、あんなに株主総会がもめるのかとか、わかりやすい例はそういうことですが、あるいはもう一つの研究成果は、広く経営現象を見るための概念的枠組みとしていいものを開発していく。経済学の分野で、あるいは経営学でもそうですけど、日本のみならず欧米を眺め渡しても、ジャイアント‐‐巨人と呼ばれるような方の研究はほとんど2です。そういうタイプの研究成果が2つあったとして、それがどういう社会的意義を持ち得るかということについては、これは経営学について特定した話を私はいたしますが、4つあると思います。働く人にとっての意義、企業にとっての意義、政府にとっての意義、社会のさまざまなステークホルダーにとっての意義。それは企業というものが、経営学の研究対象は企業とその経営及び、そこに働いている人たちの動き方というものですが、企業というものが日本の社会で占める重要性を考えれば、この4つの社会的意義は比較的簡単に出てまいります。ちゃんとした知識基盤を研究が提供すれば出てくると思います。その種の知識基盤を提供するというふうに言いますと、ついつい誤解されることがございまして、現実の経営を肯定するような研究成果ばかりかとか、現実の経営とか企業の動きを、ベースを認めた上で、若干よりよい方向に導く程度の知識基盤に限定しているとしばしば思われるんですが、私は必ずしもそうは思っておりませんで、極めて批判的な研究成果でもいいし、肯定的な研究成果でもいい。
 日本は不思議な国でございまして、日本経営学会という学会の、ここから先はほんとはオフレコにしたいんですが、メンバーの多くがマルクス主義者であると。すごいなと思って。批判経営学という立派な分野があるんです。現実の企業がやっていることはいかに悪いことかということを研究する分野があるという驚くべきところがあるんですけど、それを僕はもちろんやってもいいと思いますが、そればかりが意義があると思うこともなかろうかと思います。
 5ページ目に参りまして、いろんなことを申しましたけど、研究成果の社会的意義は、そういう知識基盤を社会のいろんな立場の人たちが使うことによって社会全体がよりよくなるということが社会的意義の根幹だと思います。その意味では政策的研究というような、この委員会の議論の論点の1つは、まさに私は適切だと思います。ただ、この際の「よりよく」というのは決して特定の企業にとって利益がより多くなるとかというようなことだけだとは解釈しないほうがうんといいと思います。経営がよりよくなることのインパクトというのは、最終的には私は社会全体に及ぶと思って、自分はこういう学問をやっておりまして、日本人の大半は企業から所得を得ているんです。その企業の効率が悪くなったら所得は減って、みんなの暮らしは悪くなっちゃうんです。そういうことを素朴に考えたほうがいいなと思います。
 今申し上げてきたような意義は、基本的には、例えば私は日本の企業と日本の経営についての研究をやっているときには、日本の国というのをある意味で国境を暗黙のうちに前提にしたような議論をしているんですが、しかし国際社会を念頭に置いた社会的意義も私はあると思います。その第1の意義は、日本という国のあり方を、企業経営の実践というどこの国にもある現象について明らかにして、それを国際的に発信する意義でありまして、おそらく日本への理解を高め、日本の国際的位置づけをより良好にするための意義というのは十分にあり得ると思いますし、もう一つの意義は、日本の企業が国際的な経営展開をするときに、知らないうちに間違った態度を企業の方々がおとりになる、あるいは誤解されるということで、国際社会で非難を浴びるということがしばしばございます。そういうことがないような知的基盤の提供という意義もあるように思います。
 日本の企業の人も日本の学者も非常にしばしば、すぐ居丈高な、帝国主義的な発言をして、日本的経営をすぐやれとか、どこでも通用するとかということを言ってみたり、そうかと思うと卑屈な対米従属主義に行ってしまったり、2つの極端な間の中間点におられるのが多くの方だと思いますが、しかし日本の社会の歴史的な経緯とかいろんなことを考えますと、現在の日本の企業が行っておられる経営が、例えばアメリカでアメリカの企業が現在行っておられる経営とは明らかに違う面がたくさんあるということはごくごく素朴に認めた上で、違う国から来た企業として、国際としての国際理解を進めるための意義というのも研究にはあるように思います。
 以上が経営学の研究についての私の意見でございますが、あとは人社系の研究振興のための抜本的政策として、ない知恵を絞って、わずかな時間しか使っておりませんので、大したアイデアはないんですけど、3つほど申し上げたいと思います。その前に、極めて基本的には資源投入の全体量が足らなさ過ぎるというのが最大の問題だ。これは苦しい財政事情のもとで言ってもせん方ないことだと思いますので、もし言うとすれば、社会、政府で、政府セクターを通してでの大学での研究への資源投入ではなくて、社会から直接研究活動に投入される資源を増やす方策を考えたほうがいいかな。例えば、税制というのがよくございます。寄附に対する税制緩和なんてのはよくございますが、こっちのほうが大切かと思いますが、これについては、きょうはお話しするのはやめておきましょう。
 1つだけ冗談で、経団連の会議なんかでこう言うと、すぐ競争的資金にしろと。そうすれば大学の先生はたるんどるから、ぴしゃんとしていい研究が増えると、こういうタイプのことを言われるものですから、すぐ私はそんなことはないと。貧しいお金でよくやっていると褒めていただきたいぐらいだと。一橋大学の年間予算というのは100億円ぐらいなんですが、たった100億です。それでご迷惑もおかけしているかもしれませんが、経済財政担当大臣を出したり、財務大臣を出したり、いろんな大臣を出しております。前には内閣総理大臣も出したことがございます。そういう一橋大学を年間運営するのに100億要る。わかりやすいので、ウルグアイ・ラウンドのときに農業対策費として6兆円の金を政府が用意したというのがあった。6兆円くださると、一橋大学は600年やれるんです。それぐらい貧しいお金でちゃんとやっているんですから、倍にしてくれても罰は当たらんと思いますって、そういう感じがいたしております。これはしょうもない話でして、言ってもしようがない話なんですけど、これは愚痴としては言いたくなる。
 さて、より具体的には3つの政策を私は提言したいと思いまして、1つは研究能力の高い教員層の強化政策が、あんまりにも当たり前過ぎますが、これが一番大切じゃないかと思います。2番目は特定組織の重点支援政策、3番目は国際発信政策と、3つについて今日はかいつまんでお話しします。
 研究能力の高い教員の量・質両面での強化をしないと、いつまでたっても研究のレベルは上がらないというのが私の実感でございます。研究が発展しない最大の原因は非常にシンプルで、質の高い研究者の量が少ないということだと思います。もちろん質の高い研究者の方がおられないわけではない。そんな失礼なことは申しませんが、トータルの量を見ると、少ないなと。
 その後はいろんなことが書いてございますが、じゃ、そのためにどうしたらいいかという具体的なことを6ページに幾つか書いてみました。研究者養成機能を充実させないといけないということが私の言いたいことなんですが、その充実が図られる最も基本的な条件は「ポテンシャルのある学生」の進学者を増やすことであります。あまりにも少な過ぎる。選挙と同じで、選挙は「出たい人より、出したい人」を選べとよく言います。どうも日本の社会科学系の大学院は、入りたい人は結構いるのかもしれないけど、入れたい人が入ってこないということがどうもありそうだなと。したがって、入りたくなるような大学院の数をまず増やさないかん。別にみんな実利に燃え過ぎて、研究なんか嫌だからという理由の学生が私は多いとは思いません。ただ、ほんとうに心がときめくとか、ほんとうに自分の一生をかけてもいいとかというようなタイプの質を感じさせる研究者が集まっている大学院が少な過ぎるんじゃないのか。もう一つは、進学者の負担がやっぱり大きいなと。その2つの対策として、後で申し上げますように、特定の組織の重点的な支援というようなことからまず始めて、種銭になる将来の研究者を育てられるような質の高い研究者をまず育ててという、数を多くしてという、ほんとに迂遠に見える作業が私は必要なのではないかと思います。
 ここのところ、例えばアメリカの大学の研究者養成機能で代用できないかというアイデアは十分ございます。実は私もその代用をしてもらった例で、アメリカのPh.D.を持っておりますが、日本へ帰ってきて、自分で学生を育て始めていろいろ考えましたのは、やっぱりいい大学院生が日本の大学院にいるということは日本全体の研究基盤にとってものすごく大切だなと今思っております。簡単に言いますと、いい大学院生が周りにいると、先生が頭悪くならない。刺激を受けるんです。ところが、いい学生がみんなアメリカに行っちまいますと、先生のほうがどうもばかになるんじゃないかという気がしております。
 もう一つは、先ほど言いましたように、国によって事情が違いますので、私、アメリカの教育を受けてみて、あれもとても役に立ったけど、あれだけをむやみに信じる人が出てくるとほんとに困るな。そういう現象が経済学でも経営学でも最近起き始めていると思いますが、やっぱり何かクックブックリサーチ、何かお料理の教本みたいなのがあって、それをやると一応のリサーチはできますという。それを育てるのはとてもいいことなんですけど、そこでとまっちゃう人がどうも増えちゃうというのがぐあいの悪いことかなと思っております。
 進学者を増やすというのが第1の対策で、第2の課題は、院生も含めた研究環境の充実をやってくださいという、これも後で申し上げます。これはフィールドスタディーだとか国際協力研究などという、結構お金のかかることを中心に方法論がつくられている分野では結構大切なことのように思います。
 7ページのc)というところに「第三に」と書いてあるのは、これがわりと私は、みんなだれも言わないけど、大切なことだと思っていまして、研究機能直結の事務組織を充実しないと、若い先生方が予算消化のためのさまざまな事務作業に忙殺される。大型の予算がつくと人が1人死ぬといううわさがある大学がある。私は、これは自然科学でも社会科学でも一緒だと思います。私の息子が自然科学系で、ある大学の助教授をやっていまして、そういう大型の金の事務組織の中心人物をさせられている。よくわかります。これはそういう人たちを、ほんとうにポテンシャルのある人たちが多いわけですので、そんな事務的作業から解放してやりたいと思います。
 そういうもろもろのことを解決するための1つの大きな手段だと私が思っておりますのは、Dのところに書いてある、これが第2の政策ですが、特定組織への「自由度を与えた」重点支援を考えたらどうか。現在行われておりますCOEというのは、明らかにそういう意識を持った政策かと思います。あの政策は、その意味で私は非常にいいと思っております。特定の研究テーマ、特定領域の研究に大型科研のような形で支援するというのは、どうも次世代の研究者をきちんと育てる基盤をつくる、拠点をつくるという観点からすると、やっぱり不向きだなと、いろんな経験から私は思っておりますので、そんなことを思いますし、現在、大学院教育改革で新しい予算がついて、プログラムをやって、私もその審査委員の1人をやっていますが、教育改革だけを見ていると、出てきているプログラムの質は、申しわけないけど高くなくて、それはやっぱり研究基盤と一体にしてつくらないと、今だめなんだよなというのは改めて感じております。
 ちょっとだけ私の勤務しております大学の話をさせていただきますと、COEの拠点、私が代表者になっている一橋大学の商学研究科がいただきました。実に意義がございました。お恥ずかしい話ですが、商学研究科全体が持っております年間の自由に使える研究予算の5割増しの金額をCOEだけで、最終的には私の一存で使えるはずの意思決定の仕組みになったお金で使えるようになりました。極めて研究活動が活発になりました。大学院生も外国へ行かせたり、外国にリサーチ行くのを何十万という単位で、すぐに援助ができるようになりました。非常にありがたかったです。
 予算使用についてはいろんなことが書いてございますが、この辺はご興味がありましたら、法人化後、国立大学法人になってから、どうも管理がきつくなったようですというのが現場の悲鳴でございます。それがどうして起きてしまうかというのも、みんなが変な人が多いというんじゃなくて、善人が多いとこういうことになっちゃうという社会科学的な説明がそこに書いてございますけど、これはもうやめます。
 さて、3番目の政策は「国際的発信」のための政策でございまして、翻訳・出版プロジェクトでございます。既に日本国内に人文系でも社会科学系でも、英語になったらば世界的なインパクトが大なり小なり、かなりの程度あり得るぞという良質な研究成果は、私はあると思います。そういうのをご本人が英語に直して出版しろということを、尻を叩くだけじゃなくて、政府が音頭をとって大量のお金を投入して、翻訳・出版するプロジェクトを作るほうがいいというのが私の提案でございまして、こうした形での世界への出口を政府が援助しますと、それは研究者養成への刺激にもなるし、研究活動への促進剤にも長期的には極めてうまくいくだろうと思います。翻訳や出版を研究者自身にやらせるというのは極めて非効率なんです。そんなこと、どうせ得意じゃないんですから。なおかつ世界中で自由に読まれるということを保証するためには商業出版にして、商業出版社の流通ルートに乗せる必要がございます。そのために当然、出版補助金というものが必要になるでしょう。1件当たり、そんな巨額な補助金ではなくてもいいんですが。それを始めますと、これはぜひ事務局にお調べいただきたいんですが、補助金という名の予算を商業的目的というふうに一般には思われる商業出版に使うと、それは会計検査院にしかられる。したがって、使っちゃいかんとCOEなんかでよく言われていたんです。最近変わったというんですけど、どうもその辺が不分明で、したがってこれは補助金の出版助成使用の可否をめぐる制度的な微妙な問題を解決しないとできないかもしれません。
 ちょっと時間が長くなっておりますので、もうこのあたりでやめますが、最後に専門職大学院と研究機能の強化について、私が関連しております2つの組織のお話をごくかいつまんで申し上げます。詳しいことはそこに書いてございますので、後でお読みいただければと思います。私どもの商学研究科では俗にMBAと言っております経営学修士コースという高度専門職業人養成のためのコースを正式に6年前ですか、発足させました。2000年ですから、もう7年前になりますか。このコース、専門職大学院というような形をその後もとっておりません。商学研究科という、従来は基本的には研究者養成用のコースしかなかった研究科に我々が勝手にこういうのを何の予算ももらわずにつくって、勝手に始めた。同一の教員組織が2つのコースを同時に教えております。しかし、プログラムとしては、入試も授業科目も完全に分離しております。したがって、教員の負担が明らかに増えました。しかし、それは短期的には仕方がないことだとみんなを説得して、無理やりやりました。なぜそういうふうにしたかと申しますと、研究者を養成するための教育と、高度専門職業人養成をねらうコースと、2つを同時に1 つの教員組織が教えるところに意味があると思ったからでございます。そのメリットは9ページの(2)のところに、資源の共通利用だとか、相互フィードバックだとか、いろいろ書いてございます。それを後でお読みいただければ結構でございます。ついついそういう実学の、こういう高度専門職業人だと、実務家中心の教員になって教えればいいと思う大学が出てくるんですけれども、現実にはそんな簡単にいきません。実務家出身の方というのは大変貴重な経験をお持ちですから、教員の一部になっていただくことには大変意味がございますけれども、大体自分の経験が枯渇すると、もうそこから先が十分に機能できなくなる。長期的には限界を露呈することが多い。私どもの大学でも、専門職大学院というようなことを言われるようになるはるか前から、実務家の方できちっと教育、研究もできそうだと思われる方を厳選したつもりで来ていただきました。ことごとくとは申しませんが、多くの場合、残念ながら失敗いたしました。
 その専門職大学院的なコースを私どもは勝手に始めましたけど、同じ一橋大学の中では、神田一ツ橋にございます国際企業戦略研究科というのは、こちらは専門職大学院としての認定を受けて、基本的には夜間のプログラムと英語で行うMBA教育と2つをやっておりまして、完全に使用言語とかいう意味で分野を分けて、すみ分けをしているということでございます。その専門職大学院としての制度的認定、一橋大学の商学研究科のほうの経営学修士コースはそういう制度的認定はございませんけれども、社会のほうはよく見ていまして、決してそれでさまざまなデマンドが減るということはございません。
 したがって、私は専門職大学院というのを位置づける、高度職業人教育をきっちりやるということは大切なんですが、それがすぐ専門職大学院の強化というふうに現在の専門職大学院の制度的枠組みを所与として、直ちに専門職大学院の強化というふうに進むのは問題が多いなと思っています。
 しかし、専門職大学院という制度がせっかくあって、それが、じゃ、社会科学系統の研究にどういうふうに寄与するだろうか。私は寄与すると思います。先ほど申し上げましたように、実務家の方たちがお持ちの深い経験や洞察を、研究者養成のトレーニングを受けた人が一緒に研究活動をやることによって、きちんとした形にまとめるということは十分あり得ると思います。それと同時に、専門職大学院も結局は大学の一部でございます。専門学校ではございませんので、深い知識の湖として機能できるようにしておかないと、専門職大学院自体が長期的に立ち枯れると思います。したがって、私は専門職大学院らしい研究機能の強化ということが社会科学全体の大きな研究振興の一部として重要な政策に今やなりつつあるなと思っております。
 10ページ目に書いてございますのは、私、来年から東京理科大のMOT専門職大学院に移籍いたします。定年で移籍いたしますが、これは私、既に関与していろんなことをやっておりまして、この4月からMOT研究センターという研究組織を発足させました。そういうことが必要だと思います。
 ちょっと長くなりまして、申しわけありませんでした。

【伊井主査】
 ありがとうございました。非常に興味深い、まだお聞きしたいようなことがいっぱいあるんですけれども、それでは本日は、ご発表いただきましたことをテーマにして、少し皆様のご意見を賜れればと思っております。どの問題からでも結構ですから、どうぞご活発なご議論をお願いいたします。
 どうぞ、はい。

【立本主査代理】
 思い当たることは大変たくさんありまして、そのとおりだ、そのとおりだと思いながらお聞きしていたんですが、前半の部分と後半の部分にわけますと、前半の意義の部分では一応経営学というふうにおっしゃりながら、社会科学一般の話でもあるとおっしゃいましたので、質問するわけですが実学を虚学に対置する見方もありますが、実はそうではなくて実学であって象牙の塔というのは、社会科学一般に言えるのではないですかというのが質問の趣旨です。この場合には実学の意味が非常に重要になってくるわけですけど、例えば伊丹委員のように、社会全体がよりよくなるというのが学問の意義であるというふうに考えますと実学と関係なさそうな根源的なもの、本質的なものを窮めて、実学にする、あるいは、今は役に立たないけれども、ずっと将来的には社会全体がよりよくなるのだと考えれば、社会科学、人文科学の一般的な意義というのはほんとは実学の象牙の塔であるというふうに申すと申し過ぎでございましょうかということです。

【伊丹委員】
 ご認識のように思います。私たちがやっているような、現実にその現象の実務というのが社会の中に大量に見られるタイプの分野と、実務の部分が大量に見られない分野というのが人文社会系の中には大きく分ければ2つあるように思います。後者の、実務の部分が大量に見られない部分というのは虚学と言う必要はないかと思いますが、そういうのもやっぱり私は大学だったらやっていてほしいなと思いますので、あまり実務につながっているところばかりじゃつまらないなと思いますので、全部が全部一緒だという、実学の象牙の塔だと言わないほうがいいんじゃないでしょうか。

【立本主査代理】
 ほかの委員の方、どうでしょう。

【伊井主査】
 今の問題につきましてでも、ほかの問題でも結構ですが、いかがでしょうか。どうぞ、何かご発言くださればと思いますけれども。どうぞ、はい。

【深川委員】
 一応社会科学に属する者としては比較的近いので、ちょっとまだ、考えをまとめてお話ししたほうがいいかなと思っていたので、五月雨式になるかもしれません。多分きょうご発表になったことについて、ほとんどの人たちは社会科学の分野では同じようなことを考えている人が多いので、非常によく整理していただいたのではないかと思います。一つは社会科学では最近出てきているトレンドの評価主義、成果主義が非常に激しく競争的資金も含めて導入された結果、ご指摘の国際ジャーナル万能主義なるものがかなり浸透していまして、特にアメリカでしかPh.D.教育を受けたことがない人にわりとこの傾向が多々見られるということなんです。多分伊丹先生の日本企業研究とか、あと私なんかの東アジア研究というのは地の利がやっぱりしょせんはあるので、アメリカのやっていることが最先端ではないというのが実感なんです。
 例えば、開発経済学なんか典型的にそうなんですけど、ドーハ・ラウンドとかアメリカの研究とか、ヨーロッパはちょっと違うんですけど、とにかくアメリカの主流ジャーナルというのはひたすらマイクロな農家負債の話とかをモデルを使ってやるんですけど、それで開発に最も成功したのがパキスタンでしょうか、バングラデシュでしょうか、ケニアでなんでしょうかというと、おかしな議論で、やっぱり我らが東アジアの成功した経済開発の研究は意外に後れているのです。なぜか失敗した人の研究はものすごく深くディープにされていて、成功した人の研究はほとんどなされていなく、全然解明されないという、何かすごくおかしなことになっているわけですね。これは彼らのフィールドが、英語が通じるバングラとかインドとかケニアばっかり行っているから、あるいは自分の裏庭の中南米ばかりやっていると、こういうことになっちゃうんです。アジアは、いやアジアは特別だからとかって、何が特別なんですかって、だれもわからないんですけど、でも特別だからとかいって切り捨てられてしまう。こういうところはやっぱり反論していく必要があって、その1つの一番具体的な、やっぱり1つのとりあえずやれる対策で、お金で解決できる対策というのは、おっしゃったように、翻訳システムに巨額のお金をかけて、金に糸目をつけず、充実することだと私は思います。日本語であるがために日の目を見ていないんだけれども、英語にすれば非常に世界を変えるようなものはたくさんあると思います。最近、世銀もそれに気がついて東アジア研究グループはかなり日本べったりになっていて、いろいろいいタネがありませんか、というのを聞いて、それを後からインド人のハイパーな人たちがモデル化して、あたかも世銀がやったようにやるというパラダイムになっているんです。これは英語さえ変えれば、わりと簡単にできること。私は、そのために1つは、まずそれ以前の問題として、大学院の、特に研究職を志向する学生には、やっぱり英語のアカデミックライティングのいい授業を強制してやらせるべきだと思います。それのための予算とか教師というのは講じるべきだと思います。それから翻訳センターをつくるのはいいんですけど、だれがやるんですか、という問題もあります。これは単に英語ができるだけではやっぱりだめなわけです。うまく、例えばアメリカの大学院生で、比較的フィールドが近いような人にアルバイト的に頼むことができたりとか、彼らも同じように日本の情報というのを欲しがっていますから、そういう翻訳をやりながら勉強するような何か工夫というのを幾つか具体的に講じていく必要があると思います。特に今やっているCOEとか科研の大きいものというのは、世界に問うていく、といういのが趣旨なわけですから、英語チェックは徹底してやるべきです。非常にソフィスティケートされたもので出していかないと、予算の効率的使用って難しいと思います。
 それからもう一つ、ちょっと思いついただけなんですけど、きょうのお話の中になかった視点として、特に政策的ということをこの会議の中で論じているんだと思うんですけれども、日本はシンクタンクが非常に弱小な、構造的に弱小になるしかならない構造にあります。アメリカはやっぱり『経済政策を売り歩く人々』というポール・クルーグマンの有名な本があるんですけど、それが典型的に物語るように、シンクタンクはやっぱりビジネスなんです。情報と政策を売るビジネス。それが確立していて、業界も税制控除のシステムがあって、寄付するインセンティブがありますし、それからデータベースの共用、特に統計の共用、公開というのがやっぱりアーカイブも含めてよくできているということです。日本の場合、私、統計審議会の専門委員も割り当てられていたんですけど、統計はすごくあるんですけど、どこにどの統計があって、どういうふうに使い手があるかというのはほとんど知られていない、一部しか知られていないですし、そういうものを通じた役所の、言葉は悪いですけど、やっぱり情報独占ってあるわけです。しかもその役所が自分のインハウスでの研究所をつくってしまうために、ここにアクセスできる研究者は結構いい目を見れるんですけど、そうじゃない人にとっては、シンクタンク機能は非常に限界があるので、そうすると大学の研究所がやるということは、それとは違うデマケーションのことをやらなくちゃいけないことになります。そして、それがピュアアカデミックスと政策との真ん中にあることをやるという非常にあいまいな位置づけになってしまっていて、それをもう少し考え直す必要があるんじゃないかなと思いました。
 以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。今のご意見に、伊丹委員は何かご意見、ありますでしょうか。

【伊丹委員】
 実現の難しさが、翻訳にせよ、政策研究にせよ、あるんですが、深川先生と私は意見が一緒で、要はそういうことを大規模にやるんだという政策が決まり、それ相応の資源が投入され始めると、ほかからもちょろちょろ資源が出てくるかなと思いますので、こういう委員会でそういうのがどかっと出ていくといいんですけどね。

【伊井主査】
 どうぞ谷岡委員。

【谷岡委員】
 結論的に、いろいろ提言なさったことは、ほとんど賛成できることばかりで、私も、ふむふむとうなずきながら聞いておりました。
 1つご質問したいのは、オーバーゼネラリゼーションという言葉が出てきたのですが、最初の前段部で、意図を含めた因果関係をつくる、またモデルをつくったりするのは大変難しいと。私が解釈したのも、その意図というのは、空間、時間すべてで変化はするし、個々の人間でそれぞれ違うから、もちろん経済学なんかでは、マクロレベルで、通貨供給をこれだけ増やせば失業はこれだけ減るだろうみたいな、大体、人々の意図というものをある程度平均化して無視した形の式がいっぱい出てまいりますけれども、それとは別に、先生がおっしゃった、意図というものを因果に含める場合にコントロール実験ができにくい。そういったたぐいというのは、わりと数が少ない部分をまず前提にしておられるのか、それともオーバーゼネラリゼーションと言うときに、そもそもスペシフィックだからゼネラライズできないんじゃないかということを、ちょっとお話をお聞きしながら思ったんです。
 つまり我々の研究成果、理論、そういったものが実際、政策でやってみたら全然違ったというケースは、その前提となる変数がかなり違っているというケースがかなりありまして、それは人々の意図も時とともにどんどん変化しているというのも1つの原因ではないかと思ったものですから、ちょっとそのオーバーゼネラリゼーションということがよくわからなかったので、もう一度、ご説明いただければありがたいです。

【伊丹委員】
 オーバーゼネラリゼーションという言葉の意味は、得られた研究成果、例えばマクロ経済のこれこれこういう現象について、こういうデータを集めて、こういう統計的傾向が確認できたというのが研究成果だとします。そこから、だからこんな政策をやるのがいいというところが、ジャンプがきつ過ぎると、そういう意味でございます。

【谷岡委員】
 三段跳び理論と同じたぐいで。

【伊丹委員】
 三段跳びを意識なさっておられる場合はいいんですけれども、三段跳びを一段跳びでやっちゃって、自分は一段しか跳んでいないつもりの方が多いと、そういう意味です。

【谷岡委員】
 わかりました。

【伊井主査】
 よろしゅうございましょうか。

【谷岡委員】
 特に、そこのところをお聞きしたかったわけですが、それについて、先生が提言なさった中に、クックブックリサーチに関しての提言がございました。ただ、日本の社会科学の多くの大学院を見ていますと、クックブックリサーチまで実は行っていない。その後、クックブックリサーチを卒業して自分たちが事実というものを普遍的にゼネラライズしていくにはどうあるべきなのか。前回も議論になったそうですが、そもそも社会的事実というのは何なのだと、そういう基本的な部分の教育がかなり欠けているように思います。
 ただ、先生がおっしゃったようなアカデミックライティングのクラスも大賛成なのですが、そもそもそういう事実に対する基本認識から、まず社会科学というのは積み上げていくクラスも必要なんじゃないかというのが正直なところです。

【伊丹委員】
 その点は、わりと真っ当な研究者が集まっている大学院では既に解決されていると思います。日本全体を見ると、そうでもない変な研究者がまだいるというのは、そのとおりなんですけれども、長期的にへき地も含めて全体のレベルが上がることをねらうときに、政策的に底上げからいくか、先頭集団を引っ張り上げることによって全体が上がっていくという波及効果でもってねらうかという方法論の違いはあるように思いまして、私はどうも、日本の政府の政策はすぐ平均的底上げになり過ぎると思っていまして、あまり望ましくないなと思っています。

【谷岡委員】
 わかりました。

【伊井主査】
 どうぞ、ほかに。飯野委員。

【飯野委員】
 大学あるいは大学院のレベルを上げて、国際競争に勝つようにということが今盛んに言われているわけですけれども、さっきのお話に出ていました翻訳、つまり翻訳に国がお金を出す姿勢を示すというのは、シンボリックな意味で1つのレベルアップの方法として、すごくいいことなんじゃないかと思います。
 というのは、私どもの大学でも、アカデミックライティングの訓練をして、国際的に発信できる力をつけるようにということを言っておりますけれども、ただ英語が書けるからといって、それで十分ということではありません。ある特定の分野でのアカデミックなレベルが非常に高いかどうか、そこまで到達するのかどうか、外で発表できるのかどうか。発信できる人の力というのが、英語とアカデミックな内容と両方を伴うというのは非常に難しいことなんです。その両方を伴った力をつけるための努力をすることには意味がある。それをわからせるには、1つは、今お話に出ていたような国の姿勢というのが認識されるのがいいという気がしました。
 私の分野はアメリカ史なのですが、アメリカ史の中の移民研究をしておりますので、言葉が大事です。またいろいろな国の比較が重要なものですから、研究者間の交流が何よりも目指すものの1つになります。そこでつらいのは、日本でこれだけの研究がなされているのに、世界ではわかってもらえていないということなんです。国際会議なんかで話すと、そんな研究が既に日本ではなされていたのかと言われるような、そういう状況は早く脱却したいという気がいつもいたします。
 それに関係するかどうかわかりませんけれども、もう一つ、私どもの抱えるジレンマについてお話ししますと、大学院は研究者の養成を目指すということを打ち出しているのですが、そうすると、私どものような小さい私立大学というのは経営上は非常に大変です。大体、教員1人で大学院生1人を指導するようなことですから、コスト上は苦しい。ある部分では、研究者の養成を目指すのではなく、修士を終えたら就職してくれるような人を集めて、大学院を活性化させたいと思うんですけれども、その辺が分野によってはかなり難しい。常にジレンマです。
 ですから、ともかく研究者養成の大学院を持っているという大学と、さっきの専門職大学院のように、こういうものだけに特化しているという大学をつくればいいのかという気もしますけれども、それもそれで、私たちにはちょっと納得できないところがあるものですから、大きい大学と小さい私立大学とでは状況が非常に違うというところは前提としてお考えいただきたいと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 西山委員、どうぞ。

【西山委員】
 私は一企業人なものですから、伊丹先生が今おっしゃったことは感覚的に非常に理解しやすい。
 何故かと考えますと、実際には研究者ではありませんが、一橋大学出身の方々がかなりおりまして、こういうことも少し関係しているのかなとも少しは思えるんですけれども、企業では、最も求められている人材というのは、フォロワーじゃないんですね。開拓者が求められています。開拓者というのは、主として経済現象と対峙しております。私自身も経営者の端くれということでやっておりますが、経済現象と対峙するときに経営者にフォロワーというのは要らない。
 先ほどの先生のご説明の中で紹介されたことに関連しますが、例えば経営学修士、その方は必ず就職されると思います。現場は企業にあると思うのです。単なる実務知識ではなく、研究の泉のそばにいて、社会現象の深い洞察のもとに経済現象に対峙してやるというような基盤があった上で、突進してブレークスルーする人が実は企業に一番求められているのです。フォロワーでじっとしていて、現象を解析したりして、それに基づく説明をいくらしても先へ進まないのです。
 研究の泉から発する新しい研究、つまり経済現象や社会現象に対処してわかったようなこと、解明したというようなこと、それを持っているのと持っていないのでは、何か決定的な差が出てくるのではないかと感覚的にはとらえているのですが、その辺についてご説明いただけるとありがたいと思います。

【伊丹委員】
 それは、そういう研究の深い蓄積のある人が教員として学生に教えると、学生の側にどんな変化が起きるか、そういうご質問でしょうか。

【西山委員】
 そうですね。

【伊丹委員】
 やはり今、西山さんがおっしゃったように、目の前にある経営の現象、社会現象をどういうレベルでとらえるかという、とらえ方が変わってくるんですね。表層的なレベルでとらえるというのが一番簡単な方法なんですけれども、それではほんとうのことはよくわからないので、簡単な現象のとらえ方が深くなるというのが、簡単に言えばインパクトだと。
 そういうことを実現するために、じゃあ教育上の工夫として私どもの経営学修士コースで何をやっているかって、幾つかやっているんですけれども、1つだけ多くの方がびっくりされることを申し上げておきますと、私どもの経営学修士コースというのは2年間のプログラムですが、必修科目はたった1つしかございません。入学してきた1年生の夏学期に、必修科目として古典講読というのを課します。古典講読です。例えば、アダム・スミスの『国富論』とか、そういうものをわざわざ読ませる。みんな最初はびっくりしますけれども、MBAで何かプラクティカルなことを勉強しようと思ったら、古典をまず読めと言われると。ぶーぶー言う人もいるんですけれども、卒業していくときには、ほんとうによかったと大半の学生が感謝してくれますが、これも、この古典講読をきちっと教えられる先生というのは、自分で研究をやっている人でないと、きちっとなんて教えられないんですよね。それが1つの例でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございました。
 どうぞ。

【岩崎委員】
 私は心理学なのですが、きょうのお話は非常に同感するところが多かったわけですけれども、対策としてご提言なさっている中で、大学院の充実というのは、私はほんとうに必要だと思うのですが、基本的に、政策というのかどうかわかりませんけれども、いろいろありますけれども、このくらい日本が豊かになってきたのであれば、大学あるいは研究所でもいいんですけれども、そういう研究機関にもう少し資源を投入してもいいんじゃないかと。
 私がつくづく思いますのは、前にもありましたけれども、要するに予算を、今は法人化になりましたから、そうではないんでしょうけれども、基本的に実験系と非実験系という分け方が非常に問題だと思っています。それはなぜかというと、私個人は、どっちかというとずっと実験系的にやってきたので、そっちのほうがよくわかる部分はあるんですけれども、人文・社会科学のほうが自然系に比べて範囲が広いと思うんです。それなのに、要するに3分の1ぐらいのマンパワーしか用意されていないということは、非常にすき間だらけでしかないと。したがって、議論も多分あまり活発にはなされ得ない。1つの研究室の中では結構なされるんでしょうけれども、隣接との関係が距離があるということが起こっていると思うんです。
 そういうことなので、大学設置基準が私は非常に問題だと思っているんですけれども、大学の教員の数を増やす必要が非常にあるんじゃないかと。これは、いくらいい大学院生が来ても、その先行きがないと、やっぱり大学院生は充実しないだろうと思いますので、就職先を含めて、大学の人文・社会系のマンパワーを増やす必要があるんじゃないかと。
 それは、1つは設置基準を変える必要があるということもありますし、もう一つは、すべて法人化したということに、私も3年強前まで国立大学におって、法人化する直前で逃げられたのでよかったんですけれども、今さんざん聞いていますのは、非常に惨たんたるものだと。それは比較をして言っていると思うんですけれども、やっぱりある程度の大学は、10か15かわかりませんけれども国立大学に戻して保障しておかないと、日本の国は、アメリカの大学のようにドネーションというのは期待できないわけですから、そう私学的にはやっていけないだろうと私は思っています。やっぱり研究を重視するのであれば、国立大学に戻すということも大きな政策として考えるべきだと思っております。
 そういうことで、いわば研究者の数を増やすということは、増やすという意味は、もちろん「優秀な」ということはつきますけれども、非常に必要なことなんじゃないかなと私は思っておりますので、伊丹先生の流れの中で、もうひとつ、多分実現はしにくいのだろうとは思っていますけれども、提言をしたいと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。

【伊丹委員】
 今、リアクション、よろしいですか。私の論理の流れにご賛同いただいたのは大変ありがたいんですけれども、最後の結論のところは、両方とも私は違うんです。国立大学に少数の大学を戻すべきだというのは、私はあまり賛成ではなくて、むしろ予算を国がきっちり保障するような方向に行ったほうがいいと。国立大学にまた戻ると面倒くさいことがたくさんあって、自由度のほうはやっぱり維持したほうがいいなと思いますので、予算面できちっとした対応を国が責任を持ってとるということが必要なのであって、具体的形態として国立大学という形態に戻すというのは、あまり望ましくないかなと。
 もう一つは、教員の数を増やすというと、就職先の話になるんですけれども、むしろ私はシンクタンクとか研究機関とか、そっちのほうが増えるように国が政策を持って、そういうところへ優秀な研究者が行くようにする。今の人文・社会系の日本の大学のさまざまな実情を考えますと、そういうところで教員の数を増やしても、あまり望ましくないことが結構起きるんじゃないかと思いますので、最後の具体的な政策については、私はちょっと意見が違います。

【伊井主査】
 要は、費用を増やすというところは共通しているんだと思いますけれども。
 どうぞ、上野委員。

【上野委員】
 私も、賛同するところが多く拝聴いたしました。
 3点ほどですが、最も賛同いたしましたところは「ジャンプ」のところでございます。一段、二段、三段とおっしゃいましたが、やっぱりそこの一気に結論に行ってしまうというところの思考の訓練といいますか、それがほんとうに研究者の訓練として必要ではないかとおっしゃった部分に強く賛同いたします。
 それから、私は教育学ですが、教員養成系におりますので、今、心理学の先生のご発言もありましたが、教育学、心理学等を視野におさめて考えるようになっております。そうしますと2点目で、先ほど伊丹先生がおっしゃった再試の研究です。特にアメリカが多いのですが、他者の研究、特に外国の研究を研究するという研究方法は大変多うございます。そして、それがまた先ほどのジャーナルでかなりの格付けが起きてまいりますので、その後の院生教育、学部生教育への影響力が必ずしもいいようには作用していないという問題意識を強く持っております。その辺の評価の仕方の問題があろうということを、ひごろ問題意識として持っているのというのが2点目です。
 3点目に、要は現実にどういうふうに納得性の高い説明を与えるか、先生が4ページのところでおっしゃった部分になるかと思いますが、そこの部分がほんとうに研究であろうというふうに言っていきますと、私ども教育学部の中でも、4ページの最後の観点ですが、先生は経営学とおっしゃっておりますが、3.の A.のところの概念枠組みの開発は、私どもにも大変共通して言えることになるわけです。
 そうしますと、最後にご提案になっている支援策のところと絡めて、前回か前々回か、ここで申し上げましたが、人文・社会科学の場合には、最先端の研究と、それを底上げしていく、ある種の研究者教育もそうですし院生教育もそうですし、さらには教育一般と結びついていないという、理系に比べて大変おくれている観点があると思っております。そうしましたら、例えば先ほど先端に重点的に投資をしていくという、それもあろうと。それから、底上げに傾斜しすぎていないかというご指摘もございました。そういう面が資金投入としてあるかもしれませんが、私は、人文・社会科学系を振興していくためには、どうしても次世代教育を視野に入れなければ、先端の部分も振興は難しかろうと思うんです。
 そうすると、具体的に何が考えられるかということで、今の時点でありますれば、1つは今、大学評価等で、我が研究をどういうふうに教育に還元したかという観点が授与機構等の評価の観点になっております。回答は各大学大変だと思いますが、少しその発想を生かして、ある先端の研究の部分に教育開発のようなものを入れる。どうしても日本の場合は、教育と研究のところに溝があり過ぎて、先端の研究者が教育に関与するということが少ない、機会がないのです。そういう部分を入れたらどうかということをひとつ思います。
 それから、先ほど伊丹先生がおっしゃった大学教育支援プログラム、その前の魅力あるプログラム等も少し拝見する機会がありましたが、これもかなりの国費を投入して、それなりに大学は実務等でかなり振り回されているところがあると聞いておりますけれども、少し開拓の緒についているので、その期間で終わるのではなくて、それを少し研究的に継続する道を開くというふうなこと、いわゆる大学の競争的経費獲得という観点だけではなくて、教育開拓ということで位置づけることができないかということ。
 申し上げたいのは、規模は別として、先端研究の部分に1つの教育開発の部分を位置づけることによって、今おくれをとりがちな人文・社会科学系の支援策になりはしないかということを思うのですが、いかがでしょうか。
 以上です。

【伊井主査】
 何か、伊丹委員のほうからご発言は。

【伊丹委員】
 正直に言うと、あまりぴんときませんで、教育開発を先端研究として大きな重点領域にするということが、自分の分野だったらどういうことになるのかなと思っています。研究者としてほんとうにいい研究をやっている人というのは、大半が教育者としても何らかの形で魅力のある方になるのだと私は思っていますので、ちょっとわざわざ教育開発というプログラムをつくるということの意味が何となく自分にはよく理解できません。

【上野委員】
 そのお答えで、ひとつ理解できる部分があります。おっしゃるように、最先端ですぐれた方が、そういうふうにおやりだということはわかっているのですが、層からいきますと、それをなし得る方は極めて少ないという現状が現実にある中で申し上げてみたということですが、ご趣旨はわかりました。
 以上です。

【伊井主査】
 どうぞ。

【小林委員】
 大変興味深く聞かせていただきました。特にこの意図的行動というのはどうするのかということで、意図の背後にあるというか、人間そのものというものの難しさということで、こういう意図というと、ひょっとしたら「江戸のかたきは長崎で」ということでやっているかもしれないし、嫉妬かもわからないし、そういうものも全部ひっくるめてといったらなかなか難しいということで、そこに人文のほうの出番があるのだろうなということを私はきょうお聞きしていたことが1 つ。
 もう一つは、大学経営者としてお話を聞いていますと、すごい研究者もいますし、まあまあの研究者もいるし、ただの研究者もおります。だけれども、ほんとうにすごい教育者というのはどこに位置しているかというと、必ずしもすごい研究者ばかりではないというところもあって、学生が好きなばかりに研究におくれている人もおります。そういうようなこともありますと、やっぱり大学院大学とか研究志向の大学であるとか、あるいは研究所であるとか、そういうところにすごい研究者を集めるということが、もう一つは政策として非常に大事なことだろうなと思います。しかし、それを伝える人も大事だということであれば、やっぱり研究者のすそ野というもの全体を高めるというのも、政策的にぜひやっていただきたいなと、そんなふうに思っております。
 以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 どうぞ。

【徳永研究振興局長】
 ちょっと私のほうから。
 伊丹先生に、私の場合、かつて中教審の大学分科会にも出ていただいて、大学院の特に教育機能の強化という中で、先生に審査委員などお願いして、大学院教育イニシアティブの予算をつくっていたんですけれども、先ほどの先生のプレゼンテーションの中では、大学院教育イニシアティブではだめだと。研究水準そのものが低いから問題があるので、研究水準そのものを上げるような施策でないと意味がないと。
 そういう意味では、グローバルCOEのほうがはるかにいいということなんですけれども、私がちょっとお聞きしたいのは、私どもはどちらかというと日本の特に理工系の大学院を念頭に置いていましたから、研究はそれなりの一定水準があっても、いわばきちんとしたコースワークといいますかトレーニングが行われていないという認識に立って、大学院教育イニシアティブというようなものを始めたわけですが、先生の、ここで大学院教育イニシアティブというものはそもそも云々というのは、一般的なあり方として研究水準を高めるということの施策がないと、大学院教育だけ強化するという施策は意味がないということでおっしゃっているのか、あるいは理工系と文科系との違いの中で、人文・社会系に限定してのお話なのか、ちょっとそこをお伺いしたいのですが。

【伊丹委員】
 特に私は、あのプログラムが理工系を念頭に置かれたプログラムということは、今、初耳で伺いましたので、人社系と自然科学系の違いを念頭に入れた発言ではございません。研究基盤の話と教育の話は、大学院の教育の場合にはセットで考えないと無理だろうなと、そういう趣旨でございます。でも、片方ずつやって後でセットにしてよという政策上のご都合もよくわかりますので、意味のない政策だとは申しません。

【伊井主査】
 ありがとうございました。
 そろそろ第1の議題の時間もまいりましたが、きょうは伊丹先生に、ほんとうに興味のあるお話をしていただきまして、皆さん、大分ご賛同しているところもあるだろうと思います。それぞれの研究成果をどのように情報発信を海外を含めてするかだとか、人文学あるいは社会科学のすそ野を広げるための大学の充実だとか、あるいは就職先というふうなことも出てまいりましたけれども、ほかに次世代の教育といいましょうか、研究者をどのように養成していくかというようなことも、さまざまなご提言がございました。
 これはまた、この後も、次の回、その次の回も続いていくことだろうと思っておりますが、それで一応、第1の議題を終わらせていただきまして、前回も取り残しておりました2つ目の審議事項に入りたいと思います。よろしゅうございましょうか。
 人文学及び社会科学の社会との関係につきましての審議に移りたいと思いますが、本日は文部科学省及び日本学術振興会から、人文・社会科学振興プロジェクト研究事業についてご説明いただきたいと思っているところでございます。
 この事業は、政策や社会のニーズに対応したタイプの人文学及び社会科学研究を推進する事業でございまして、日本学術振興会において行われているものです。この事業の例としましては、人文学及び社会科学の社会的意義だとか研究成果の社会還元の観点というものから、政策や社会のニーズに対応したタイプの人文学及び社会科学の研究の意義について意見交換を行いたいと思っております。
 それでは、よろしくお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 それでは、人文・社会科学振興プロジェクト研究事業につきましてご説明をさせていただきたいと思います。事業そのものにつきましては、日本学術振興会のほうから説明いただきますが、その前に、この事業について説明をして、時間の関係もありますので、委員の皆様方に議論いただきたい論点のようなものをあらかじめまとめておきましたので、それについて簡単に私のほうからご説明したいと思います。
 資料2‐1をごらんいただきたいと思います。一枚紙でございます。人文・社会科学振興プロジェクト研究事業につきましては、いわゆる政策目的型の研究を志向するような研究事業でございます。いわゆる科研費とは性格をちょっと異にするという事業になっております。
 そういった観点から論点を3つほど掲げてございます。1つ目は、研究者の自由な発想に基づきます学術研究として、これまで主に人文学・社会学研究というのは行われてきたと思いますけれども、そういった人文学・社会科学研究において、こういった政策目的型の事業を実施していくことの意義について、ご意見を賜れればと思っております。
 それから2つ目でございますが、今度は逆に、いわゆる学術研究として行われてきた文科系の学問の研究が社会に対してどういう役割あるいは意義を持っているのかということを、今さらということもあろうかと思いますが、こういったことについてもご意見を賜れればと思っております。
 3つ目でございますが、これは政策目的であろうと学術研究であろうと両方とも当てはまることではあるんですけれども、今後、例えば5年ぐらいを見据えたときに、我が国の人文学・社会科学の研究者が社会的な問題として、その解決に貢献し得るような課題というのはどういったものがあるとお考えでしょうかというあたりにつきまして、ご意見を賜れればと思っております。
 それでは、事業そのものにつきましては、日本学術振興会のほうからお願いしたいと思います。

【伊井主査】
 よろしくお願いします。

【鈴木研究事業課長】
 日本学術振興会の研究事業課の鈴木でございます。日本学術振興会で平成15年度から実施しております人文・社会科学振興プロジェクト研究事業につきまして、簡単にご説明させていただければと思います。
 資料2‐2でございますが、ダブルクリップを外していただきまして、最初に「人文・社会科学振興プロジェクト研究事業」というパンフレットをごらんいただければと思います。パンフレットを開いていただきますと、まず左側に「人文・社会科学の振興をめざす!21世紀に期待される役割に応えるため」という標語的なものがございまして、この人文・社会科学振興プロジェクト研究事業は、左の下にありますとおり、諸学の協働ということで、人文・社会科学を中心とした各分野の研究者が集まると。そして、若手研究者の養成、研究グループの中、それからプロジェクトリーダー等に、なるべく若い方、若い研究者、大学院生等を含めまして参画いただいて進めると。それから、研究者のイニシアティブをもってこの事業を進めるということで、研究者のリーダーシップのもと、みずからが課題を設定して行う。そして、その成果は社会へ提言するということで、積極的に社会に発信していくという目的のもとにスタートした事業でございます。
 さらにパンフレットを開いていただきますと、プロジェクト全体の研究領域、1から5までの研究領域を設定いたしまして進めてございます。大きく開いていただきました一番右のページに、プロジェクト研究一覧ということで、研究領域の1から5までの、それぞれに3つから4つのプロジェクト研究を加えました一覧を掲載させていただいております。ここの説明は、時間もございませんので、ごらんいただければと思います。
 この1プロジェクトが、平均で大体1,500万円ぐらいの年間予算でもって研究を進めるという活動をしているところでございます。
 パンフレットにつきましては以上でございまして、その後、資料2‐2‐2という資料がございますが、これが研究事業を一枚のポンチ絵にまとめさせていただいた資料でございます。内容につきましては、大体、先ほど私が申し上げましたパンフレットで説明した内容でございますので、説明は省略させていただきます。
 次の資料2‐2‐3というのが、このプロジェクト研究事業の実施体制を図式化したものでございます。日本学術振興会の中に事業委員会というものを設置いたしまして、この事業委員会がプロジェクト全体の基本方針を設定いたしまして、実際のそれぞれの活動内容につきましては、研究者数名によります企画委員会を設置いたしまして、その委員会の中でいろいろなプロジェクト事業を考えるという組織形態になってございます。
 そして、先ほど言いましたプロジェクトの諸学の協働、若手研究者の部分につきましては、プロジェクト発足時点から、そういった形で諸学の協働ができるように、ここのプロジェクト研究はいろいろな分野の研究者に集まっていただいてやっている。そして、若手研究者に参加いただくということですが、企画委員会におきまして具体的な社会提言の仕方、どういった形で情報発信していくかということで進めております。
 次の資料2‐2‐4が、今年度、19年度のプロジェクトの研究事業の予定、先ほどの17のプロジェクトの個々の研究は別にいたしまして、プロジェクト全体としてどういう活動をするかという一覧表でございます。後ほど説明させていただきますが、シリーズ本というもの、それから2カ月に一遍、プロジェクト全体のニューズレターを発行する、これについても後ほど簡単に説明いたしますけれども、サイエンス・カフェの人社版というものを年2回、7月と11月にまとめて実施する、それから公開シンポジウムやフォーラムを行うということで、個々の一つ一つの研究者グループが行っている研究以外に、こういった形で社会にその研究成果を発信するという形で進めさせていただいております。
 資料2‐2‐5でございますが、シリーズ本という形でプロジェクトの中で呼んでおります内容でございます。今まで平成15年からやってきました研究の成果を、社会一般の方、高校生や大学の学部生にもわかるような形でプロジェクトの成果を本にしようということで、プロジェクトの内容をシリーズ本化していくということで、今年度、夏、8月くらいから順次刊行を予定しているものでございます。専門の編集者にお願いいたしまして、なるべく一般の人にもわかるような形で書き砕いたものということで出版することを計画しております。
 それから、資料2‐2‐6でございますが、サイエンス・カフェ人社版的なものということで、大学から外に出て一般の方と双方向で研究内容を議論したり発表したり考えたりというようなことということで、「飛び出す人文・社会科学‐津々浦々学びの座‐」というようなことで、今年度、活動をしようという計画のものでございます。
 現時点で実際に計画しているのは、資料2‐2‐6の一覧表のような内容でございますが、11月までには、他のプロジェクトのグループも企画をしていただきまして、すべてのプロジェクトで一度こういう形で、大学から出てやるということを実験的にやってみようということで現在進めているところでございます。
 こういったことで試行錯誤をしながら、今までの人文・社会科学が本を出す、シンポジウムをやるといった形以外でどういった社会への発信ができるかというのを考えながら、現在プロジェクトを進行しているところでございます。
 説明は以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 ということで、人文・社会科学振興プロジェクト研究事業のご説明をいただきましたが、これにつきまして、どうぞ何でもご質問、ご意見を賜れればと思いますが、よろしくお願いいたします。
 どうぞ、中西委員。

【中西委員】
 せっかくここで人文学とは何かとかという議論もございましたので、1つ感想といいますか、お伺いしたいことがあります。このプロジェクト自体は非常にうまくいろいろなテーマが拾えて機能していると思いますが、社会科学というのは人間の社会とのかかわりの研究、つまり人間の行動学、人間がどのように行動するかということを研究する学問だと思います。ですから、ニーズに基づいて研究できるのですが、人文学というのは心のあり方を研究する学問ですから、ニーズに合った研究とは少し異なると思います。例えば過去の文学から、人間はどういうふうに考えてきたかとか、どういう感性があったかということを研究することは、そのときの社会構造とも非常にかかわりがあるわけですから、今でも共感できることも多く、またこういうことだっただろうと理解もできるわけです。なぜなら人間の考え方の基本は昔も今もそれほど変化していないからです。このような文学と社会科学との融合ということを考える場合には、非常に努力されているとは思うのですが、研究領域を1から5に分けずに、人文学と社会科学を融合したらどういうものがあるかということを自由に出させるほうがいいのではないかと思います。
 領域に分けて募集してもこれだけ申請が出てくるわけですから、こういうことをしたいという融合研究の潜在力は非常に高いと思います。ですから、潜在力を顕在化させるということにおいては、もう少し領域をフリーにしますと、もっといいテーマが出てくるのではないかと思います。またそのテーマがうまく走っていって、出版など公表されますと、それがまた刺激となって、ああやはり融合研究が大切だ、ということが理解されていくのではないかと思います。よい取り組みだとは思いますが、1から5に領域を分けても重なるところも多いようですし、トップダウンで領域を決めなくてもという印象を持ちました。感想でございます。

【伊井主査】
 これについては何か。どうぞ。

【高橋人文社会専門官】
 ちょっと補足をすればよかったんですけれども、実はこの事業につきまして、政策目的と申し上げましたが、政策目的型の場合は、領域設定についてはトップダウン的に政府ないしは日本学術振興会のほうで決めて、その領域のもとで行っていただくというのが、普通、政策目的型ですけれども、この事業の場合は、領域設定とか、あるいは領域の下にさらに1、2、3とパンフレットの中にありますが、日本的知的資産の活用とか「失われた10年」の克服とか、こういったレベルの、領域のもう一つ下のサブ領域とでも言ったほうがよろしいんでしょうか。実は、この領域設定につきましては、研究者の側から提案していただくような形でセットした事業でして、そういった意味では、政策目的型と純粋なボトムアップの学術研究的な事業との中間的な要素があるような事業かなと思っております。

【徳永研究振興局長】
 要するに、今回のようなきちっとした、人文学とか社会科学の特性をきちっと踏まえるというよりは、とにかくやってみようということでスタートした。ただ、もちろんそういう意味では、国として初めて、こういう人文学、社会科学のてこ入れをしようということでやったということは大変大きな意味があったわけでございますが、我々とすれば、さらにそういったものを進めていくときに、今後より政策主導的なアプローチということも必要かと。一方で、また逆に言うと、必ずしもそうではないさまざまな、例えば、あまり中間的なことを言うと、逆に科学研究費補助金の特定領域研究とどこが違うんだという話になってしまいますから、そういう意味では、科学研究費補助金の中での費目の設定の仕方も含めて、あるいは先ほど伊丹先生がおっしゃったようなさまざまな提言も含めて、全体として学術研究ないし政策主導型研究、その全部をまたがる形でも、少しきちっと学問のそれぞれの内容、特性というものを踏まえた上で、少しきめ細かく政策展開をしていこうと。そのようなことも含めてご議論を賜りたいと思います。

【伊井主査】
 今のこれは、もう終わるのだそうでありますが、立本先生、政策目的によって人文学とか、今、心の問題とおっしゃった、どういうふうに対応するかというようなことも含めて、ちょっとご意見があれば。

【立本主査代理】
 局長が総括されましたが人文・社会科学振興プロジェクト研究事業というのは、一定の成果を上げたと思うんです。その大きな力はコーディネーターであると思います。コーディネーターが一定の領域の研究者をコーディネートすることによって、人文・社会科学での共同研究のスタイルを定着させて、それを普及する力になったと思います。同時に、社会的発信を意識的にしてきて、ある程度成功していると思います。これは高く評価できるわけです。
 ただ、今この委員会でやっておりますようなところとちょっとずれるのは確かにあります。例えば、先ほどの伊丹委員の具体的な提案で、教育と重点組織と国際発信というふうな大きな観点から見ると、この学振のプロジェクト研究事業は、あくまでもインパクトを与えるための1つのネットワークづくりというか、そういうふうなもので、拠点形成にはなっていない。むしろ、きょうの伊丹先生の話とか今までの議論とかを聞いていますと、人文・社会科学の今後の発展を推進する大きな力は、そのネットワークと同時に、もう一つ重点組織が必要ではないかという気がいたしております。
 それで、先ほどちょっと発言したかったんですけれども、その3つの具体策の件でございますけれどもやはりプライオリティを付ける必要があると思います。たとえば、国際発信ということも大切ですが、やはりその前に発信に値するものを生み出すというレベルアップが必要であるのは当然でしょう。それから教育というのも、魅力のある大学院をつくるということをおっしゃってますが、全部均等にそうなるのではなく、大学院一般のなかでよりみりょくのあるものをつくっていこうということになりますと、1番の教育、3番の国際発信をするためには、やはり2番目の重点的な組織というものがまず必要ではないかなと思います。
 また、伊丹委員が、COEはそういう面で非常にいいとおっしゃいましたが、これはCOEをとられた機関はそういうふうにおっしゃりましょうが、これは一応、競争的資金なのでその限界もあると思います。ここで議論しているのは、競争的資金で果たして人文・社会科学はどうなるのかということだと思います。むしろ人文・社会科学はCOEでよいのかという、そこの問いが重要だと思います。私はむしろ、重点組織といった場合には、今のCOEのイメージとは違う全然別の人文・社会科学を発展させるための組織の形を考えなければいけないのではないかなと思っております。

【伊井主査】
 ありがとうございました。
 どうぞ。

【伊丹委員】
 今の点にお答えするつもりはないんですけれども、政策目的型の研究振興ということに政府から見出されるというのは、私は、この人社系の研究として非常に意義の大きいことだと思います。ただし、そのときに、さてどういう形でやるかと。
 今、拝見したこの研究プロジェクトのやり方は、どうも研究振興にはならんなと。既に研究している人たちが、その成果の社会発信にこういう場を使うというのには貢献するだろうなと。もし政策型の研究振興をやるとすれば、基本的には、これは文科省限りの話ではなくなるはずだと。政策というのは、いろいろな省庁が政策を持っている。そういう各省庁の持っている政策目的と彼らが持っている資源、それから文科省が持っている資源をどういうふうにうまく組み合わせて、ほんとうに大型の政策目的型の研究プロジェクトなり研究組織なりを今後日本でつくっていくかということの、やや大がかりな議論をしたほうがいいのではないかと、そんな感じを持ちました。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 どうぞ。

【谷岡委員】
 私も全く同感で、文科省だけで対応できる場合とできない場合とに分けなければいかんというのは、そのとおりだと思います。
 ただ、政策目的型の研究がないのも人文・社会系の1つのいいところでもありまして、そういう意味で言えば‐‐ただ、私なんかは、もちろん専門は犯罪学ですから、前に言ったように、どちらかといえば、こういう政策をすればどれだけ犯罪者が減るだろう云々とか、そういったふうに、ある程度エビデンスをもとにして、それをコストエフェクティブな点と理論的、哲学的な裏づけなども含めて、将来の政策において、どういうふうにすればどういうふうになるんだよというある程度の予想値を出してあげたり、そういったことに使われるのが我々の研究材料でしたから。
 ただ、先ほど伊丹先生がおっしゃったように、よりよい社会とは何かというのを考えるときに、それが100年後の日本かもしれないし、10年後かもしれないし、今の日本かもしれない。ただ、例えば努力する人が報われる社会というのがいい社会だと思うかもしれませんけれども、じゃあ格差のある社会はいいのかというと、いろいろな議論が出てくると思います。そこは政策をつくる側に、もちろん任せますけれども、政策目的というときに、我々が提供できるのは、基本的にはコストエフェクティブであり、そんな研究においては、伊丹先生がおっしゃったような独創的な研究というのはめったに、そういう方向には花開かないものなのだというふうに実は考えております。コメントです。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 西山委員、どうぞ。

【西山委員】
 論点1の政策目的型研究を実施する意義というのは、もちろん極めて高いことだろうと思っております。今、日本全体が抱えている社会的な課題というのは、かなり明確になっているように思っています。
 そうしたときに、谷岡先生がおっしゃいましたように、研究者の自由な発想でやるという研究ではなくて、政策目的型研究に限定いたしますと、人文学や社会科学という学問によりずっと長らく研究されてきたものが、社会のニーズや課題、或いは政策目的に対して基盤的に役に立つということが本来なら望ましい状況だと思います。そういう役割が本来的に、学問にはあると思います。もちろん時代がどんどん変わって、環境与件もものすごく変わっていますから、基盤的なことはわかっているけれども、環境の激変についてどう対処かするというような、新たな研究予見を生み出すこと、つまり長らく研究してきた基盤をさらに進展させることは絶対必要なことだと思います。
 基本的に政策目的型研究に限定した場合には、社会的な課題や国としての政策目的を明快に国は把握しているはずです。こういう目的に対して政策として不十分であって、学問的な知見を入れたほうがずっと政策目的にかなうやり方が打てるというニーズが、国の行政には必ず存在しているはずです。それを明らかにしていただいて、それだったら、我々はずっと長らく研究してきたことと新たな研究予見で、お役に立てるじゃないかというふうなことの中で取り組んだほうが非常にわかりやすいのではないかと私は思います。これは政策目的型研究に限定した場合の話ですが。
 だから人文学とか社会科学の過去の研究成果とか、今後研究してもらうことに対して、国として、期待値がこのくらいあるよということを提示することが基点になるのではないかと私は思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 深川委員、今、お手が挙がっていらっしゃいましたが。

【深川委員】
 社会との接点という意味で考えていくと、資料2‐2‐4を拝見させていただくと、シリーズ本を出してニューズレターを出してサイエンス・カフェを出して、シンポジウムをやってフォーラムをやりますということのようなんですけれども、1つ欠けているものとして、プラットホームとしてのマスメディアをいかに教育して情報を正しく伝えていくか、というのがあると思います。
 やっぱり一般の方は、マスメディアから得る情報というのがすごく大きいと思うんです。今の日本のマスメディアの水準というのは、かなりの程度、特にテレビは非常に問題があって、全然、専門家じゃない人がずうずうしく専門家として圧倒的な世論形成力を持っていて、いろいろ混乱した状況がいっぱい起きていて、このコストがかなりなものになっていると思います。アカデミクスがアカデミクスと言えることには限界があるけれども、しかし、ほんとうの専門家は今こう考えているのだ、ということをもっと一般の人が知ることができるような戦略的な広報体制というのは考えていく必要があると思います。
 特に最近この大学業界が大きな転換点に来ているということはメディアの人たちもよくわかっているので、大体、文科担当記者というのが必ずいますね。さらに取材の人たちがいますし、あるいはNHKのような教養番組系を持っているところに積極的に働きかけて、その成果を問う、もっと能動的な広報体制を持たなければいけないと思います。
 もう一つは、どこの大学も、教養系の教員の再配置の問題を抱えているところが多いのではないかと思うんですけれども、別に人社の問題だけではないと思うのですが、1つは、伊丹委員のほうからご発表があった、彼らの行き先として私は専門職大学院もありえる選択だと思います。今の学生というのは、専門職大学院を塾の延長のように考えている学生が非常に多いんです。これに行ってこれをやれば会計士に受かるんじゃないかとか、司法試験に簡単に受かるんじゃないかという、この手のやからを排して専門職としてのプライドとか自尊心を持ってもらうためには、何がよくて何が悪いのか、というすごく基本的な教養教育がやっぱり大事だと思うんです。
 これは、むしろ同じ大学の組織の中でも、いろいろ行政的な問題があってうまく回らないという、この問題を解決していくということが非常に重要かなと思います。特に専門職大学院は、実務の方を教員としてたくさん採るんですけれども、これも伊丹委員がご指摘になったことですけれども、彼らは大体、修士しか教えられないんですね。体系的にやっていないから、何も知らない真っ白しろの学部は教えられないし、もっと体系の必要な博士も見られなくて、結局、修士だけに終わるということが結構多いです。この人たちを補完すべく、でも専門職で終わるわけですから、博士に行かないということを考えると、もう一つの大きな分野というのは、やっぱり教養教育ではないか、ということですね。教養あるプロフェッショナルをつくることが重要なので、それとそれぞれの大学が抱えている問題がうまく連動するような仕組みが私は重要かなと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 どうぞ、ほかに何かございますでしょうか。どうぞ。

【中西委員】
 何を言ってもいいと先ほど言われたので、私は、ほんとうは人文・社会科学に自然科学を全部入れないと融合にならないと思うんです。経済といっても、最近は科学、サイエンスの結果が経済的価値を生みますから、それで国と国とのトラブルがありますし、もともと多分このことは、経済的に豊かになってきて、これ以上何を求めるかというので、心の問題とかいろいろ言われてきているので、多分、振り返ったことも1つの原因だと思うんです。ですから自然科学の側面を、環境に対する態度もありますし、そこら辺を入れて、人文学及び社会科学・自然科学と、その融合を考えていくようなプロジェクトをぜひつくってほしいと思います。
 JSPSのでわかりましたように、予算を用意して何か出せと言ったら、たくさん出てくると思うんです。ですから、政策的なこともありますが、そうでないほうは、ここで議論をしていても、なかなかそうでないほうは出ないので、まず募集をしたらという気持ちもございます。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 ほかに何かございますでしょうか。
 先ほどもちょっと出ましたように、人文学は社会科学も含めてでしょうけれども、競争的な資金でのサポートで果たしていいのかという問題もあるのだろうと思いますが、それと全く無関係に人文学、社会科学というのは、ほうっておいてやるべきであると。しかし、今のほうっておいたままでは、お金を渡しただけでは、そのお金がとれないというようなこともございまして、政策という目的のもとに、何かで人文学を振興していくための費用をとってくるとかというのが、今回のこの事業の一環だろうと思っております。このまま継続することはないのだろうと思いますけれども、何かいろいろ政策的な目的のもとに、人文学、社会科学を自然科学も融合した形でどのように振興できるのかということのアイデアがありましたら、またどうぞお教えいただければと思っております。
 特にございませんようでしたら、本日の議論は、また取りまとめまして、次回以降、委員会で改めてご報告させていただこうと思っております。ちょうど時間になってまいりましたので、本日の審議はこのあたりで終わらせていただきたいと思います。
 それでは、次回以降の予定につきまして、事務局のほうからご説明をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 次回以降の日程でございますけれども、資料4をごらんいただきたいと思います。次回は7月6日(金曜日)、13時から15時、場所は今回と同様、この会場ということでお願いいたしたいと思います。詳細につきましては、また改めてご連絡させていただきたいと思います。
 それから、大変恐縮でございますが、資料4の第6回のほうなのですが、曜日がちょっと間違っておりまして、7月23日(金曜日)となっておりますが、月曜日の誤りでございますので、修正いただければと思います。7月23日(月曜日)が正しい表記でございます。
 それから、本日ご用意させていただきました資料につきましては、封筒を机上に残しておいていただければ郵送させていただきたいと思います。また、ドッチファイルにつきましては、そのまま置いていっていただければと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 それでは、第5回は7月6日(金曜日)の13時からこの場所ということで、よろしくお願いいたします。どうも本日は、ご協力ありがとうございます。

─了─

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