学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第8回) 議事録

1.日時

平成20年1月25日(金曜日) 15時~17時

2.場所

文部科学省 3F1特別会議室

3.出席者

委員

 伊井主査、立本主査代理、上野委員、白井委員、家委員、井上明久委員、伊丹委員、猪口委員、今田委員、岩崎委員、谷岡委員、深川委員、藤崎委員

文部科学省

 徳永研究振興局長、岩瀬科学技術・学術総括官、伊藤振興企画課長、磯谷学術研究助成課長、戸渡政策課長、江崎科学技術・学術政策局企画官、門岡学術企画室長、高橋人文社会専門官 他関係官

オブザーバー

(外部有識者)
 樺山紘一 東京大学名誉教授、印刷博物館館長
(科学官)
 秋道科学官、高埜科学官

4.議事録

【伊井主査】
 それでは、時間になりましたので、ただいまから科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会にあります人文学及び社会科学の振興に関する委員会、第8回会合を開催いたします。
 本日は、皆様、お忙しい年度末のときに多数お集まりくださいまして、ありがとうございます。さらに、本日は、東京大学名誉教授、印刷博物館館長の樺山紘一先生をお迎えいたしまして、先生にプレゼンテーションしていただこうと思っているところでございます。ほんとうに本委員会にご出席いただきまして、ありがとうございます。
 それでは、本日の会議の傍聴登録等につきまして、事務局からご報告をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 本日の傍聴登録状況でございますが、傍聴希望者の方10名ほどいらっしゃいます。
 以上です。

【伊井主査】
 配付資料のご確認をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 資料につきましては、お手元の配付資料一覧のとおり配付させていただいております。欠落などございましたら、お知らせいただければと思います。また、いつものことでございますが、人文学、社会科学の基礎資料をドッジファイルにて机上にご用意させていただいておりますので、こちらの資料も適宜ごらんいただければと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】
 それでは、これから議事に入ります。
 前回から人文学の振興につきまして審議に入っているわけでございますけれども、初めに審議事項全体につきまして、本日の審議が占める位置づけにつきまして何度か申し上げているところでありますけれども、もう一度確認をしておきたいと思います。
 この委員会では、3つの審議事項につきまして審議を行うことが求められているわけでございます。第1の審議事項は、人文学及び社会科学の学問的特性についてということであります。これまでの審議では、昨年1年間かけて主に研究方法に着目しまして、実証的な社会科学研究の振興を中心にして審議を続けてまいったところでございます。今後は、おそらくは結果的に伝統的な社会科学も含まれると思いますけれども、人文学の学問的特性につきましてご審議をいただくことになっているところでございます。そして、本日、樺山先生からのご発表があると思いますけれども、そこでのキーワードは、おそらく教養だとか文化だとか人文学の国際性といったようなことになるのではなかろうかと思っているわけでございます。
 第2の審議事項は、人文学及び社会科学の社会との関係についてということであります。ここでは、人文学の社会的意義とか研究成果の社会還元のあり方についての審議をいただくことになっているわけであります。学問的特性を踏まえますと、おそらく教育といいましょうか、生涯教育を含めまして、そういった活動が人文学の社会的な還元の方法に含まれるのではなかろうかと思っているところでございます。
 また、第3の審議事項としましては、学問的特性と社会との関係を踏まえた人文学及び社会科学の振興方策についてということで審議を求められているところであります。皆様方のご審議を踏まえまして、人文学の振興方策につきまして検討を行いたいと思っているところでございます。
 そういう背景のもとにこれまで続けてまいっているわけでありますが、それでは、その人文学の振興につきまして、このような位置づけをした上で本日の審議に入りたいと思っているわけであります。
 まず、人文学につきましては、委員の皆様方はそれぞれいろんなイメージを共有していらっしゃるところだと思いますけれども、これからしばらく数回にわりまして、ご著名な研究者の方にこの委員会にお越しいただきまして、我々、勉強会といいましょうか、ヒアリングを続けてまいりたいと思っているわけでございます。歴史学、哲学、文学研究など、ご専門とされる研究分野に関連したご発表をいただきながら、人文学が目指すべき方向、先ほど3つ申し上げましたけれども、そういった意義につきまして、委員の皆様方のお感じになったこと、お考えになっていることを、これから活発にまとめていきたいと思っているわけでございます。
 そして、先ほどから申し上げておりますように、西洋中世史がご専門の東京大学名誉教授でありますとともに、現在は印刷博物館館長の樺山紘一先生にお越しいただいたという次第でございます。本日は、「人文学の目指すもの」と題しましてご発表いただくことになっているわけでございます。樺山先生には30分程度プレゼンテーションをしていただきまして、残りの時間、委員の皆様からの活発なご意見をいただくというふうに進めたく思っているわけでございます。最終的には5時をめどにいたしますが、いろんな議事で少し前後すると思いますけれども、よろしくご協力のほどをお願いいたします。
 それでは、樺山先生、よろしくお願い申し上げます。

【樺山印刷博物館館長】
 ご紹介いただきました樺山でございます。このような重要な会にお呼びいただきまして大変光栄でございますが、また、大変荷が重いということで随分と緊張いたしております。よろしくお願い申し上げます。
 人文学あるいは人文科学というこの学問領域でございますが、ご承知のとおり、私もそのうちに加わっておりますが、世の中的には、役に立たないもの、何となく趣味に類するものと見なされがちでございまして、こんなに役に立たないものをどうするんだと、あちこち近年も言われ続けてまいりました。にもかかわらず、人文学が学問として成り立ち、世の中のお役に立つべきだといういろいろなご意見もあり、それについて釈明せよというご趣旨かと思いまして、何で僕が来なきゃいけないのかと随分と不公平感があるんですが、だれかが行って釈明すべきだということでございますので、常日ごろ、人文科学研究者として考えております事柄をあらまし申し上げまして、後ほど、いろいろご批判なりご質問なりにお答えすることができればと考えております。よろしくお願い申し上げます。
 お手元に簡単なレジュメと、それに対応するパワーポイントの刷り出しがございますので、ほぼこの順番に簡単にお話をさせていただきます。
 近年、私ども人文系の研究者の間でもって、しばしば大学改革等のただ中だということもありまして、いろいろなことが取りざたされます。何よりも予算や人員等が大学でもって削減されているということから、人文学そのものの衰退、これは質的に量的にという意味でありますが、ともに人文学の衰退という事柄がしばしば言われるようになってまいりました。これは、当事者がそう言う場合もあり、また、他者からそのように評釈されることもありますが、そのような衰退現象というものは、事実、否定できないのではないかという考え方が一方にあります。
 しかし、他方では、こういう時代、21世紀に入りまして、人間社会あるいは私たちの人間文化のあり方が極めて複雑をきわめ、その中で人文学のあり方について強い期待が寄せられているという意味では、当事者たちにとっては、この人文学というものが目覚めること、覚醒こそが、実は現在、人文学に対して求められているところであり、また、現状認識としても、かなり新しい学問というものがその中から生まれてきているという意味では、覚せいもあると。一方で衰退化、一方で覚せい化というのは、私ども研究者の当事者の間では、しばしば語られるところであります。これは公の場所から始まりまして、居酒屋の談義に至りますまで、いろいろなこの議論がございます。
 そんな中で、それでは、現在、私たちが人文学を取り巻く状況がどうであるかということを申し上げてみたいのですが、言うまでもなく、私の理解でありまして、この中には、もちろん広い意味での人文学の研究者がたくさんおいでになりますので、いや、異なった見解があるということは十分承知しておりますが、私が理解した限りで申し上げますが、何分にも、かねていろんな席でもってご一緒させていただいている方々がたくさんおいでになるので安心もしているんですが、怖いなという感じもいたしておりますが、私の理解を申し上げます。
 まず第1に、ご承知のとおりでありますが、教育の仕組み、とりわけ高等教育、大学及び大学院の教育におきまして、その中で人文学という学問領域が大変大きな境目に、あるいは転換点に来ているということはよく知られているところかもしれません。つまり、ご承知でありましょうが、現在、かつて教養学部もしくは教養部が解体され、一般教育が制度的には形をなさなくなってきたという、それを背景にいたしまして、哲学とか、あるいは文学とか歴史とかいった、かねて人文学の中心、中核をなしてきた、この枠組みあるいはその名称等が急速に失われてきていると。いまだに哲学入門とか西洋哲学概説とかいった科目がなくはありませんけれども、かつて私どもが学生であった時代にあったような教育科目、哲学入門、歴史学入門、あるいは日本史概説とかいったような名称の教育システムは急速になくなってまいりました。もう哲学なんか要らなくなったのかと哲学者たちは随分と皮肉に思ってきたところでありますけれども、同じような事柄が、単に教養教育、一般教育だけではなくて、専門教育におきましても文学部を中心とする諸学部では、哲学とか歴史という言葉をなるべく使わないようにしようと。これは、新しい言葉を使わないと、なかなか設置審等でも認めていただけないということもあり、そのために急速に哲学も歴史もそのものとしては、こういう名称を持ったものとしては高等教育のカリキュラムの中から急速に失われていっております。
 他方、研究のほう、今申し上げたのが教育の側面でありますが、同時に「研究のかたち」というほうから考えてまいりましても、随分と事情が変わってまいりました。ご承知のとおり、文学部もしくはその周辺を中心とする学部あるいは大学院におきましては、普通は哲史文と申しますが‐‐哲学、史学、文学‐‐哲史文というこの3つの領域が人文研究の中心をなしてまいりました。ここでお話し申し上げているのは、主に、この哲史文という3つにかかわるところでございますが、言うまでもなく、人文研究、人文科学研究には、哲史文に含まれないもの、場所によっていろいろ名前がありますが、社会学であるとか行動学とか、あるいは心理学、地理学、人類学、その他さまざまな学問がございますが、一応それらの学問をここで切り離しまして、哲史文という、言うなれば古典的に人文研究の中核をなしてきたものだけに差し当たり限ってまいりますけれども、依然として研究者の意識の側、当事者の側からは、哲史文というこの枠組みは強く維持されていると言わなければならないと思います。つまり、自分が何の研究者、どの分野の研究者であるかということを自覚したり、あるいは他人に説明したり、とりわけ近所のおばさんに説明するとしても、その場合には、まずは哲史文のうちのどれか、私は哲学を研究していますとか、歴史ですとか、文学ですとかいった、哲史文というこの3区分は依然として研究者の自分の側の帰属意識としては十分に引き継がれてまいりました。
 もちろん実際には、先ほど申しましたとおりに、教育におきましては、実際には哲学でも歴史でも文学でもなく、何とか比較文化研究だとか、あるいは国際比較何とか論だとかいったものに属しており、制度的にもそこに所属しているにしても、人文研究者の意識としては哲史文のいずれか、あるいは人に説明するときにも、同じように哲史文のどれかに属しているというふうな説明をするのは依然として変わってはおりません。
 しかしながら、こうした哲史文という大きな3つのくくりが存在するにもかかわらず、実際の人文研究者の現実の営み、営為は、これとはかなり大きく離れてまいりました。とりわけ、ご承知のとおり、人文学に限りませんが、個別の研究主題、例えば大学院生の修士論文あるいは博士論文の執筆課題、テーマは極めて細分・固定化されてまいりました。私は、西洋史、西洋中世史家なんですが、例えば、私どもが見ております大学院生が、あるいは博士論文を書いた人間の研究主題を見ますと、例えば10世紀のドイツ聖法、ランス司教区のヒンクマール司教の発見した文書についてとか、こういうテーマでもって十分な論文が書けますし、また、実際、そのような論文は、私の学生時代と比べてみますと、極めて専門度の高い、上手に組み上げれば外国へ出してもおかしくない、そういう論文が書かれるようになってまいりました。しかし、その10世紀のヒンクマール司教の発見文書の分析というので、果たして歴史学として他者にどれだけ説明能力があるかというと、そこの間にはかなり距離があることも事実であります。ただ、このように細分化され、かつ現段階で固定された次第に十分に沈潜し、そこでもって専門能力を発揮しない限り、現在の日本では、とりわけ特に国際学会で通用することはほとんどない、こういう事態になってまいりました。このことは人文学に限らない、あらゆるところでも同じような事態が進んでいるのかと思います。
 一方でこのような教育の分野における変化と、また、研究者の当人たちの自覚や、あるいはそれを取り巻く環境の変化、こうしたものが私たちの周りでも急速に進んでいるというのは否定しがたいところかと思われます。
 ただしということで次に参りますが、このような人文学をめぐるさまざまな状況は、一方では、確かに人文学の衰退を説明するいろいろな例証になるかもしれません。けれども、他方では、確かに近年、私ども人文科学の当事者はもとよりのこと、日本における知的な関心、興味を持つ、いわゆる読者の方々を含めて、こうした方々の間で大きな関心、興味を引きつけている斬新な研究があることもまた否定できないところだと思われます。
 例えばということで幾つか例を引いてみますけれども、いずれも皆様ご承知のとおりかと思います。例えば、哲史文の哲学に関していえば、もちろんその中には哲学研究、ヘーゲルであったり、カントであったりという研究もあると同時に、現在、現代社会でもって極めて強い関心を引き起こしている問題、例えば生命倫理にかかわる問題、これらにつきましては、もとより、哲学やあるいは倫理学や、場合によっては宗教学やといった古くからあります幾つかの学問領域が深くかかわっております。
 とりわけ生命倫理に関して申し上げれば、言うまでもなく生命とは何か、あるいは、例えば終末医療ですが、ターミナルケアにおいて個人の人格というものはどのように尊重され、あるいは保護されるべきかといったような人格の問題というようなこの問題は、言うまでもなく、現場のお医者さんたちの極めて悩みつつある問題でありますけれども、現在では多くの場合に、その場所には哲学者や、あるいは倫理学者が呼ばれ、彼らのそれぞれの研究のもと、研究に従ってさまざまな諸説を述べてきております。生命とは何か、とりわけ単に終末医療だけではなくて、生殖医療でありますとか、あるいは、例えば困難な飢饉や飢餓などに直面したときに、人間の尊厳は一体どのように保持できるかといったような問題、つまり生命にかかわる問題というのは、かねてから哲学、倫理学の主要な問題の一つでもあったにせよ、現在、21世紀になりまして最も注目を浴びる問題であり、また、哲学者あるいは倫理学者の間でもって大変注目を浴びてまいりました。
 あえて申しますと、流行だと言ってもいいかもしれませんが、しかし、単に流行であるだけではなくて、これは、言うなれば、そのことを通して倫理学や哲学のイノベーションにつながっていくという、そういう側面を持っていることも否定できません。
 あるいは、新宗教、普通は新興宗教などと言葉を使いますが、学問的には新宗教と言われる宗教は、現在、いわゆる新進宗教も合わせまして、現在生活、現代社会の中でも大きな問題を提起してまいりましたが、社会的な問題、あるいは場合によっては事件上の問題になったものも含めて、新宗教が現在の人間をなぜこれだけ引きつけるのかということ、あるいは、その新宗教がどのようにして、それぞれの宗教的な営為を行っているかという現実についての宗教・社会学的な模索、研究といったものを、実は宗教学あるいは哲学の中でもっと大きな課題となってまいりました。個別の宗教の名前を挙げることは控えさせていただきますけれども、これらのものは、場合によっては極めて長い時間のフィールドワークの結果として分析されるべきものがたくさんありますし、また、日本だけではなく、例えばアメリカの幾つかの急進的な宗教のあり方といったものも、現在では宗教学の主題として大きな役割を果たしていると言われております。
 次に参りますけれども、あるいは歴史学でも、もちろん先ほど申し上げましたような伝統的な、あるいは古典的な分析手法があると同時に、言うならばイノベーションを思考する幾つかの学問がこの20年、30年、大きな注目を引きつけてまいりました。例えば、イスラム世界の歴史は、もちろんイスラム世界が国際政治、国際経済において大きな役割を果たしていることと大きな連関がありますけれども、しかし、イスラム研究者は、それに比例する形でもって、この二、三十年間、極めて増加してまいりました。単にイスラムという宗教を分析するだけではなくて、イスラム宗教によって支えられている社会とか文化といったものをどのように理解するかという事柄は、人文研究者の主要な関心の一つでもありますし、また、そのことは同時に現実的なさまざまな問題を解き明かすための重要な役割を果たしてきたと思います。
 これまで、通常、東洋史あるいはアジア史という名前で呼ばれてきたものは、通常は中国を中心とし、その周辺世界及び南アジア、インドなどを中心としてまいりましたけれども、近年、アジア史あるいは東洋史研究者の多くが、このようなイスラム世界の歴史、イスラム世界史にシフトしているということは確かであります。
 あるいは、もちろん歴史学の分野はたくさん領域がありますけれども、とりわけ、その中でも中世社会史と一くくりにできるような領域は二、三十年前から大変にぎわってまいりました。あえて言えば、イノベーションという段階を迎えてまいりましたけれども、例えば日本史に関して申し上げれば、現在でも大変話題を引きつつある網野善彦氏の中世社会論といったような問題は、かなり高齢の研究者から、大学生、大学院生に至るまで大変多くの学生を引きつけまして、いわゆる網野学説をめぐる議論は今でも大変ホットであります。このような主題は、単にこれまでの実証研究あるいは史料研究、文献研究といった側面を超えて、例えば民俗学、人類学、その他、フィールドワークを含む学問との間の接合が強調され、そのことでもって、確かに大きなイノベーションがこの二、三十年の間に起こったことは確かであります。
 文学でも、これはご承知のとおりでありましょうけれども、例えば『源氏物語』がちょうど執筆されてほぼ1,000年に当たりますけれども、その 1,000年を迎えるに当たりまして、『源氏物語』に関する研究は近年大変ホットになってまいりました。とりわけ、女性の文学研究者の方々がこの『源氏物語』にさまざまな角度から議論を集中させることにより、かつて、以前であれば大変な碩学の方々が分析してこられた『源氏物語』とは異なった側面が近年大変強調されるようになったと思います。例えば、話題になっておりますけれども、『源氏物語』の中には、いわゆる唐物という‐‐中国から来た物という意味ですが‐‐唐物と言われるものが、物質あるいは概念、考え方、表現方法など、実は『源氏物語』には極めて豊富に盛り込まれておりますけれども、西暦11世紀の初め、いわゆる国風文化、国の中で成熟した文化と言われたものに対して、なお、『源氏物語』が中国とのかかわりが深く、しかもそのことを通して11世紀初頭の東アジア世界の文学表現全体の中で考えようではないかという提言もあり、この提言は大変温かく迎えられたと思います。この『源氏物語』1,000年をめぐりましては、おそらく今後ともしばらくの間、大変多くの角度から提言なり報告が行われるに相違ないと思います。
 あるいはまた、文学研究者がこれまで従事してまいりました、いわゆる作家研究、これは日本の作家からヨーロッパの作家まですべて含んでのことでありますが、この方々は作家研究を行うと同時に大変多くの翻訳を出してこられました。日本への翻訳あるいは日本語からの翻訳も含めてですが、翻訳をしておいでになりましたけれども、この翻訳という営みが近年大変大きな話題を集め始めました。ご承知かと思いますが、「カラマーゾフの兄弟」の新訳版が五十数万部を売り尽くすという大変な常識を超えた大ブームを巻き起こしました。東京外大の学長の亀山先生ですが、そういう新しい翻訳、新しい日本語による、また、新しい日本語を通しての理解といった事柄が翻訳全体の力を増大させ、そのことを通して読者、これは研究者から一般読者に至るまで、読者たちに大きな刺激を与え始めました。その意味では、文学研究者、とりわけロシア文学を初めとして文学研究者に大きな勇気を与え始めたと思います。その意味では、単にイノベーションであるだけではなくて、文字どおり、人文研究者の覚せいを呼び起こしたと言うことができるかもしれません。
 さて、こういう斬新な研究、イノベーションがある中で、しかし、人文学研究が課題としているもの、目指しているものはどう考えたらいいだろうかというこの問題になりますと、私たちも十分に答える能力を持っているわけではありませんし、私もあくまで試案ということでもって以下3つの事柄を申し上げたいと思います。
 第1には、人文学は基本的には基礎学として機能しているところがあり、また、今後ともそのような課題を負っているだろうということであります。
 例えば、ご承知のとおりに、ヨーロッパにおける自由七科、いわゆるリベラルアーツでありますが、中世から現在に至るまで、多かれ少なかれヨーロッパにおける学問研究の、あるいは学問教育の基礎をなしてまいりました。文法、論理学、修辞学、あるいは音楽、幾何学、天文学、算術、これだけ7つ数え上げますと、哲学や文学に属する部分から天文学や算術は自然科学ではないかという感じもいたしますけれども、しかし、長い間、自由七科、リベラルアーツの中で展開されました音楽とか幾何学とか、こうしたものは物を計算するスキルの問題ではなくて、数に関する哲学的な思考あるいは音楽に関する理論的な思考を前提にしております。したがって、大学の教養課程に相当する部分で音楽を勉強するということは、歌を歌うとか楽器を弾くとかそういうことではなくて、音楽が持っている論理的な、あるいは形而上学的な意味合いを論ずること、これら音楽でありました。現在では随分模様が変わってまいりましたけれども、長らく自由七科、リベラルアーツの音楽は、そのような意味合いを持っておりましたし、また、天文学も算術も幾何学も同じであったと思います。
 同じことが中国でも存在することはご承知のとおりかと思います。四書五経と言われるもの、論語、孟子、中庸、大学から、五経であります書、詩、易、礼記、春秋、これら合わせて9つの分野は、それぞれ著作物を前提にしておりますけれども、中にとりわけ詩経のように、現在でいえば文学表現に当たるもの、あるいは春秋のように歴史に当たるもの、つまり、私たちが現在、人文学の基礎教育、基礎教養と言われているものはほぼこの中に含まれており、したがって、中国における四書五経の読解は、もちろんこれらを通して現実の社会運営に資するという側面もあると同時に、これらのテキストを読む、その読み方を通して、言うならば世界や人間を考えるための基礎教養、基礎理念を提供したものだと言わなければなりません。
 つまり、これらヨーロッパの自由七科や中国の四書五経も含めまして、こうした基礎的な教養や基礎的な理念は、基本的にはそこを通して物事を考える思考のパターンや、あるいは学術上の概念の使用方法といった、こうしたものについての方法的な基礎を与えるものであり続けてまいりました。したがって、学問研究に先立って自由七科、リベラルアーツは、いわば強制された形でもって教育に組み込まれておりましたし、四書五経もそうであります。もちろん、これらの上に立って、例えばヨーロッパ中世の大学であれば、法律学あるいは医学、そして神学といった専門学問がありますが、これらの専門学問を形成するためには、このようなリベラルアーツが前提となっているということは現在でもほとんど動かすことができないかと思われます。
 さて、これは単に学問研究だけではなくて、言うなれば高等教育あるいは社会教育といいますか、生涯学習というか、こうしたさまざまな分野における教育の基本となる基礎教養だと考えることができる。そして、これらの基礎的な教養の多くは、もちろん四書五経やその他の古典的な書物だけではなくて、もちろん世界文学上のさまざまな名作であるとか、日本における文学であるとか、あるいは歴史学上のさまざまな歴史書といった、これら古典を読むことによって獲得できるんだなという、このような考え方がヨーロッパ、また中国でも受け継がれてきたと思われます。したがって、高等教育あるいは社会的な教育、生涯学習ですが、こうしたところの基礎教育のために、このような古典が進んで読まれ、また、現在でも推奨されているということは偶然ではありません。
 実は、昨年の秋ですが、国連大学とユネスコの共同主催で、東京の国連大学で高等教育にかかわるシンポジウムが催されました。パネリストとしてお呼びいただいたのですが、そこで、日本ばかりではなく、むしろ、とりわけアジア及びアフリカの途上国の高等教育担当者たちがおいでになりました。政策担当者と、あるいは教育現場の先生方でありますけれども、こうした方々の間でもって高等教育がどこに向いていくかということがさまざまに議論されました。
 その中の一環として私どもが申し上げたのは、仮に途上国が新たな高等教育を構築するために、さまざまな形での先端研究を、あるいは先端教育を行わなければならないにしても、しかし、そうであるからこそ、それぞれの場所では、それぞれの地域に固有の、あるいはそれぞれの地域に通用する効力を持つリベラルアーツを、自由学科を、自由学を前提にしないと、結局、世界中どこでも同じ学問ができ、そして、そうなったからには高等教育の卒業者はおたくの国には残りませんよと、アメリカやヨーロッパに行って、より給料のいいところに流出してしまいますよと、あなたの国の学問をあなたの国でつくり上げるためには、まず何よりも、それぞれの国のそれぞれの固有の伝統に基づいた自由学、リベラルアーツを前提とし、その教養のもとに立った学問をつくらないと、使った努力がほとんどむだになってしまう心配があるのではないだろうかと私たちは申し上げた。
 もちろん賛否両論でありました。けれども、とりわけアフリカの幾つかの国々の方々が、私どもの提言に強い賛意を示されまして、それでは、それぞれの地域のそれぞれの固有のリベラルアーツというのはどのようにしてでき上がるのだろうか、どういうふうにして、ヨーロッパでもなければ中国でもないようなリベラルアーツができるんだろうかという、そういう問題として考えたいとおっしゃっていただきまして、何だったら、あなた来ませんかと言われたのですが、いやいや、私が行って済む話ではないと、私たちの問題意識はそういうことだと申し上げたつもりでありました。
 2番目に、私ども人文学が目指したいと考えている事柄は、言うまでもなく、人文学の社会的貢献にかかわります。社会的実効性は、このような人文学の中でもってどのように保証され得るだろうか、あるいは、もともともう社会的な実効性はあきらめたという人ももちろんいます。これも私どもの間でもって常に大きな議論になりますが、しかし、少なくとも公共物としての学問や、あるいは公共物としての大学を含む高等教育は、いずれにせよ社会的な実効性を何らかの形でもって証明しなければならない。それがすぐに役に立つかどうかとか、みんなに役に立つかどうかということは別にいたしましても、特定の実効性を社会的貢献として証明しなければならないこともまた疑えない。
 とりわけ、人文学が社会における政策形成であるとか、あるいは施設、機構を形成するに当たって、人文学が持っておりますさまざまな知見が何らかの形でもって反映され、それをつくり上げるためのサポート要因になることができるだろうか、このように問題を考えてみましょう。
 実は、この問題をいただきましたのは、この審議会が数年前に‐‐7年前でしょうか、おつくりになり、それをもとにして日本学術振興会でつくられたこのプロジェクト事業を通して、私たちもさまざまなことを考えさせられました。間もなく5年目が終わり、6年目に入りますけれども、人文・社会科学振興プロジェクト研究事業でございますが、この事業の事業委員会の委員を拝命いたしまして、立本先生とご一緒しているんですけれども、そのほか、現場におります研究者が幾人か集まりまして、このプロジェクト事業を進めてまいりました。このプロジェクト事業の趣旨は大きく言って2つありますが、1つは、人文学研究者たちが共同研究をするという、言ってみれば当たり前のことなんですが、これがなかなかこれまで実現してこなかったということ、この問題を最後に別に改めてお話し申し上げます。
 2つ目は、人文学研究、とりわけ人文・社会科学両方ですが、これらがいかにして政策形成を含む社会的な要請に、あるいは社会的な期待にこたえることができるだろうかという問題。したがって、研究者には、言うまでもなく個人的な関心はもとよりのことであるけれども、しかし、幾つかの分野でもって、直接あるいは間接に社会的な効用を説明できるような共同研究をやってみてくれと、こういう形でもって全国の研究者に呼びかけ、幾つかのグループ、合わせて20ぐらいのテーマがございますけれども、大きく言いますと4つのグループでもってスタートいたしました。それらの中には、例えば国際紛争を解決するための、あるいは予防するための社会的な英知、知恵はあるかどうか、社会的な技術はあるかどうかということに関する研究、あるいは、言うまでもなく現在問題でありますけれども、地球環境を含む現在直面している困難な課題に対して、人文学者あるいは社会科学者がどのように技術を提供することができるかという問題、こうした事柄について共同研究をやってみてほしいということであります。間もなく5年目が終わり、基本的にはこの5年で終了することになっておりますけれども、かなり研究者の間には、このような社会的な貢献、社会的な有用性ということについての意識がこの中から醸成されているのではないかと考えております。
 その中で、私ども、このプロジェクト研究では第5領域と呼んでいるんですが、何となく後から来たということなんですが、人文学、とりわけ文学や歴史学や、あるいは芸術学、美術や音楽ということですが、そして哲学と、言うならば古くからある学問、哲史文に相当しますが、この哲史文が同じように今申し上げたような課題に対応して新しい方向を見出すことができるかどうかという、このプロジェクトを少しおくれて立ち上げました。比較的若目の方々に多数お集まりいただきまして、総数数十名でありますけれども、4つのグループに分かれて、それぞれ例えば文学研究、あるいは文学やその他言語表現が人々のコミュニティーの形成にどのような役割を果たすことができるかどうか。さらには、博物館、美術館、その他、ミュージアム及び文書館等、こうした施設、機構がどのようにして社会的なメリットを獲得することができ、また、住民を含む一般利用者に対してメッセージを発することができるか。博物館、美術館は言うまでもなく、芸術や歴史にかかわっておりますが、こうした施設を通して人文学がどのように社会的な役割を果たし、貢献することができるかということについて考えてほしいと、このような課題を皆さんにお願い申し上げました。現在もまだ進行中でありまして、成否のほどはいま少し待たなければなりませんけれども、このような課題が少なくとも研究者の間ではかなり先鋭に意識され始めているということは否定できません。
 あるいは、いま一つ事例を申し上げますけれども、日韓人文政策フォーラムという名前のフォーラムがございます。4年前に発足いたしましたけれども、日本と韓国両国の政府の機構が中心となりまして、人文政策、つまり人文学をいかに推進することができるかということにかかわる政策を相互に討議しようではないかという趣旨で4年前に始まりました。1年に1度集まって議論をしておりますけれども、私も当初からこれに加えていただきましたが、随分と日韓の間ではすれ違っているところもあります。しかし、また、同じように両者が人文的な知識や知恵、とりわけ伝統的に継承されてきたものがいかにして社会や、あるいは政策の構築に寄与することができるかという問題意識は極めて共通しております。
 とりわけ、一昨年と昨年は、生命倫理、あるいは現在ご承知のとおりの、いわゆるES細胞を初めとする再生医療に係る問題、これを人文学としてどのように考えることができるか、あるいはそれを通して社会的な、あるいは政策的な提言がどのように行うことができるかということを議論してまいりました。随分とアップ・ツー・デートな問題でありますし、また、私ども人文学者にとってはわかりにくいことがたくさんあるんですけれども、しかし、少なくともお互いに日韓両国、人文学研究が政策という側面でどのように機能することができるかということについての関心は確実に高まっていることも否定できません。
 3番目になりますが、だんだん理屈っぽくなって、私も嫌気が差してきているんですけれども、人文学は今申し上げたように、教養教育を初めとする基礎的な寄与や、あるいは社会的な貢献といった側面と並び、あるいはそれ以上に、言うならば、人文学研究それ自体の理論的な説明力とか統合力とかいったもの、これを十分に発揮しなければ学問として成り立たないだろう、こんなことは言うまでもありません。
 つまり、人文学は、キー概念として、例えば精神的価値であるとか、歴史時間であるとか、言語表現であるとか、これはそれぞれ哲史文‐‐哲学、歴史学、文学に相当いたしますが、現在では、単に言語表現だけではなくて、音楽や身体表現、あるいは図像表現といった芸術表現全体まで広めて考える必要がありますけれども、こうした事柄は、言うまでもなく、人文学が固有に引き取り、固有に考えてきた問題ばかりであります。人間が人間の社会、文化が成立するに当たって、人の精神的な価値はどこにあるのか、あるいはこれらのものが単に現存するだけではなくて、歴史的な時間の中で形成されたという、その歴史形成の脈絡はどのようにして理解できるのかということ、あるいは言語表現の技術や、あるいはそれを理解するあり方といったものは一体どのように説明できるのかといった哲史文に相当するこれらの事柄は、人文学にとっては古典的な主題であると同時に、現在でも決してどれも十分に説明できておらず、同時に私たちにとって重要な意味合いを持っている事柄ばかりであります。
 そのようなことを前提にして考えますと、人文学は、単にそれぞれの固有の領域や、あるいは固有の研究主題を超えて、そのことを前提にしながら、単に人文学だけではなく、人間が持っておりますさまざまな学問知識、自然科学から社会科学から、その他さまざまな技術に至るまで、これらのものを学問的に統合し、もしくは連携させるための一つの重要なポイントを占めている、こう考えなければならないだろう。つまり、それぞれの知識は、それぞれ異なった対象を扱っておりますけれども、そうしたものを学問的に統合し、もしくは連携させるための技術、知的な技術といったものは、依然として人文学に対して強く求められていると考えなければならないと思っています。つまり、人文学は単に個別の学問、哲学や歴史や文学や、あるいはフランス文学や中国史といった個別の領域の存立を超えて、これらのものを連結、結びつけていくためのそのような役割を依然として持ち続けているだろうと、そう考えざるを得ません。
 一言、個人的な私自身の信条を申し上げますが、人文学に限らず、およそ学問的な知識は、世界をいかにして知的に領有するかということにかかわっておりますけれども、しかし、その世界を領有した知的な領有の知識そのものがどのような形をしているかという、知識についての知識学、あえて言えばメタ知識に相当しますが、メタ知識、つまり、それは、単に精神的価値とか現実表現だけではなくて、例えば天文学上の知識も生物学上の知識も、またさまざまな技術知識も、それがどのような意味を人間に対して、社会に対して、あるいは文化に対して持っているのかということについての説明、これをメタ知識と呼ぶことができますけれども、メタ知識は、完結した形でもって形成するためには、人文学はどうしても本来の力を発揮しなければならない立場にいると思います。
 私自身、個人的な事情を申し上げますが、この2人の哲学者たち、一方がジャンバッティスタ・ヴィーコ、一方がヴィルヘルム・ディルタイですが、既に過去の人になりましたけれども、ヴィーコという、かつて17世紀から18世紀にデカルトの最大の論敵と言われた人物でありますけれども、人間にとって、あるいは学問にとって最も重要なものは真理なるもの、しかし、その真理なるものはつくられたものである、自然にでき上がったものではないと、ラテン語でファクティブと言いますが、ファクティブ、つくったもの、あるいはつくられたものであって、デカルトの言うように、人間とは関係ないところに存在するものを扱うのではないのだというのがヴィーコの主張でありました。そのことを通して彼は、人間あるいは事物すべて歴史内に存在するのであって、歴史の脈略の中から説明されなければならないと、この議論は言うまでもなくデカルトに対する激しい論難でありました。私ども人文科学者にとっては、このようなヴィーコが打ち立てた理解方法というものが、多かれ少なかれ事柄の根底になければならないだろうと私は考えています。
 いま一つは、ヴィルヘルム・ディルタイですが、20世紀の初頭までいた哲学者でありますが、ディルタイによれば、人間の存在は社会であれ、あるいは文化であれ、基本的にはみな歴史の中でもって構築されてきたものであり、その歴史は、自分が現在そこに参加する者として解釈されなければならないと。人間とは、あるいはそれを解釈する者とは別のところに対象として存在するのではなくて、みずから自分がそこに参画する者として解釈するべきだと、このように説明いたしました。これについては、もちろん賛否両論ありますけれども、いずれにいたしましても、つくられたもの、あるいは翻訳学ではございません、間違えました、解釈学です。このような方法的な前提を確実に理解した上でもって、私たち人文学者が何を求め、それをどのような形でもって学問や社会や文化に対して提供しているかということについてのそれぞれの理解を必要とする。これ抜きで面前にある研究課題をこなしていけばいいわけではないのだと。いかにも口うるさいおじさんのような事柄を、私も大学院生に対して言い続けてまいりました。
 以上申し上げましたとおり、私個人の理解では、人文学には大きなフィールドがある、あるいは3つの大きな足がある、教養教育の基礎となること、それから、社会貢献と一言で言いますが、先ほど申し上げたような事柄、そして理論的な統合力、この3つは人文学研究にとってどれも必要であり、どれか1つが欠けることによっては人文学そのものが成り立たない、3つの足、トリポッドと呼んでおりますけれども、このトリポッドの上に立って人文学はでき上がっている。
 したがって、個人一人一人がこの3つを十分に体現、体得できているかどうかは差し当たり別にしても、人文学全体としては、このような3つ、三脚の上に立っている学問だということを当事者はもとよりのこと、周辺のさまざまな方々に語りかけたいと思っております。
 人文学者は、なぜか3という数字が好きでして、哲史文も3なんですけれども、これもやっぱり3つだというふうに考えておりますし、もともと三位一体という、改革も三位一体と言われたそうですが、三位一体という概念も含めまして、どうも3という数字に縁が深いのかもしれません。
 最後に一言、本題とちょっとずれますけれどもつけ加えさせていただきます。
 人文学の現在における研究スタイルの革新ということから考えますと、2つの側面を見ることができます。1つは、共同研究というやり方は、個人研究優位の人文学の刷新、発展に資することができるかどうか。人文学は、多くの場合、やはり基本的には個人研究優位の学問であり続けてまいりました。とりわけ、文学研究者のように、文学は一人で読むものだと、みんなでああだこうだと論ずるものではないという、この考え方は今でもかなり強くありますが、その側面はある。でも、同時に共同研究という研究スタイルを通して新たな知見が獲得されるということ、これはいくらでもあるだろう。実は、私は、学問を始めた時点で京都大学の人文科学研究所におりましたものですから、とことん共同研究の作法についてたたき込まれまして、人文学研究は基本的には、文字どおり共同研究であり得るという考え方をとってまいりましたが、先ほどお話し申し上げました日本学術振興会のプロジェクト研究も、この立場に立って、共同研究をどのように運んでいくかということも同時に人文学の大きな課題として考えてほしいということを申し上げました。
 2つ目は、人文学にとって現段階での国際化あるいはグローバリゼーションは、どのような起爆力を発揮することができるだろうか、これについてもいろんな議論があります。実は、人文学研究は、とりわけ外国研究をやっている人間にとっては、文学であれ、歴史であれ、哲学であれ、早くから国際化、グローバル化が進んでいたと考えたくなりますが、事実はほとんど逆であります。むしろ、ヘーゲル研究者は日本語でヘーゲル研究をしてきたのでありまして、ヘーゲル研究者がドイツ語でヘーゲル論を書いたという例は極めてわずかしかありません。こういう現状の中でもって、現在、私たちは、にもかかわらず、これだけ人的にも、また情報上もグローバルなコミュニケーションが進んでいる中でもって、人文学研究はどのように、この状況を起爆力につなげていくことができるかどうかという、この課題を追っていると思います。
 その1つとして、実は近年話題になっておりますのは、とりわけ日本美術史研究、日本美術の研究の中でもって、日本に存在しない、あるいは日本から流出した数多くの美術品が世界各地でもって急速に発見されるようになってまいりました。よく知られておりますようなアメリカのボストン美術館でありますとか、ベルリンの幾つかの美術館であるとか、あるいはパリのギメ美術館であるとかいった各地でもって、これまで知られなかった、あるいは知られていたけど行方不明だった作品があちこちで発見されるようになりました。浮世絵でありますとか、びょうぶでありますとか、絵巻でありますとか、こうしたものが、とりわけ明治維新直後に流出したもの、あるいは第二次世界大戦直後に流出したもの、こうしたものが発見され、こうしたいわば外国に存在する文化資源を通して、日本の文化をいま一度理解し直す方法があるだろう。これは、かねてからこのようなことができなかったはずはありませんけれども、実際には国際化やグローバル化が進行する中で現実となってきたと思います。
 このように人文学研究、これまでのあり方と随分とスタイルにおいて変化が起こっており、このスタイルの変化が結果として人文学研究そのもののコンテンツや、あるいは思考方法を変えていくということも十分にあり得るだろう。まだまだ私たちも緒についたばかりでありまして、いろいろと課題を負っているとは思いますけれども、これからもこの方法でもって考えてみたいというのは私個人の見解でありますけれども、かねてから考えてきたところでございます。
 いくらか早口で申し上げましてお聞き苦しいところがあったかもしれませんけれども、とりあえずここまで申し上げまして、いろいろご批判等を承ることができればと思います。ありがとうございました。

【伊井主査】
 樺山先生、どうもありがとうございました。人文学とは何かという非常に明快な広範な話題を提供していただきまして、大きくは最後のほうに申し上げましたように、教養教育と社会貢献、理論統合というふうな3つの視点からお話を明快にしていただきました。目の覚めるような思いがいたしまして、ほんとうにありがとうございました。
 まだ50分ぐらいこの討議を、ご質疑をいただきながら、我々これから人文学というもののあり方を考えていきたいと思っております。樺山先生にいろいろご質問等、あるいはご自分のご専門とのかかわりということを含めまして、いろいろご意見を賜れればと思っております。どなたからでも、きょうはできるだけ皆様にご意見を賜れればと思っておりますので、的確にお話しくださればありがたいと思っております。どうぞ、どなたからでも結構でございます。
 どうぞ、立本先生。

【立本主査代理】
 大変わかりやすく明快で、頭の中が随分整理された感じです。一番印象深かったのは、哲史文という昔の古い言葉が出てきて非常に懐かしかったです。たしかあれは70年代、80年代に文学部が全部なくしてしまって新しいものにしたのですよね。私は、その改編が中途半端に終わったのがいかんのじゃないかなと思うのです。樺山先生の先ほどのお話で哲史文の冒頭の話のあと、最後の理論的統合力というところで、精神価値、歴史時間、言語表現というふうなキー概念を挙げられまして、そうか、そうすると、哲史文というのは、そういうものに対応させて新しいキー概念で人文学を再構築しなければいけないというメッセージかなというふうにお受けしたんです。そのときに、1つ目の疑問は、哲史文が人文学のコアになるのはなぜかということと、もう一つは、理論的統合力といったキー概念を3つ並べられましたが、三位一体なのか、それから細分化していくのかということが、疑問な点であります。私が先ほど、哲史文の改革が中途半端に終わったと申しましたのは、哲史文の解体されたときに原点に戻ってヒューマニズムの人間研究に戻ればいいところを、また変なところに再編したのではないかなと思っておりまして、その1つになる必要はないですけれども、細分化と反対の人間研究というような総合の方向が一つの人文学の道ではないかということを今のお話を聞いていて考えましたが、その点につきましてはいかがでしょうか。

【樺山印刷博物館館長】
 難しい質問をいただいて、立本さんとあちこちでご一緒なものですから、手の内がよくわかっておられて何だかつらいんですが、哲史文というこの言葉は、現在ではほとんど教育課程では使われなくなりました。ただ、私たちは、この言葉が単に日本だけではなくて、広く考えれば世界の人文学研究に多かれ少なかれ核として残っているということは否定できないだろうと思っています。ただ、哲史文といったときのそれに伴ういろいろな雑音であるとか、あるいは誤解であるとかいったものがありますので、あえて言えば、私は、それを精神価値、歴史時間、言語表現と言いかえてみたのですが、もちろんこの3つで済むかどうかはわかっておりません。事によると、もう少し別な言葉があるかもしれませんし、先ほど言語表現をもう少し広く芸術表現と申しましたけれども、事によると4番目が芸術表現なのかもしれません。この点についてはいろんな議論があるかもしれませんので、3という数字にこだわっているわけではございませんけれども、いずれにいたしましても、人文学がキー概念として掲げてきた、あるいは現在も、また今後とも抱えるべき幾つかのポイント、このことは哲史文という制度上の言葉とは別に説明しなきゃいけないだろうというのは申し上げている趣旨でございます。
 もちろん、全体として人間研究あるいは文化研究という、より高次の、あるいはより根底にかかわる研究領域があるということは私もそうだと思います。人文学、あくまで人間の文化にかかわる事柄でありますので、人間を全体として考えるためのさまざまな手段を構築し、しかもそれが、しかし現実には個別の研究を支えることができるような仕組みを考えざるを得ないと。そういう難しい課題を私たちは負っているんだというふうに思っております。
 それで、一たんこのような説明がついたときに、一体そこから個別の研究主題とか研究者はどのように発生してくるのかという問題は大変難しいし、また、現実にも大学院生を教育したりする場合に、どういうふうな筋道でもってこの事柄を説明するか、教育するかという問題は具体的に難しいと思いますが、少なくともこのような人文学にかかわる構造概念を理解した上でもって大学院生に物事を説明したいという、かねてよりそんなふうに考えてまいりました。
 教養教育と社会貢献と理論統合と、仮にこのようにでもありましたけれども、一体これがどのようにつながっているのかとか、あるいはだれがこれを担当するのかという問題は、もちろん私にはよくわかっておりませんが、先ほども申し上げましたけれども、少なくとも個別の人文学研究者は、多かれ少なかれこの3つの課題、事によると4つあるかもしれませんけれども、差し当たりこの3つの課題をひとしく負っているんだということは理解してほしいと。ただ、その中でもって、2つでもいいんですが、どこかに力点があるかとか、あるいは人文研究者たちがつくる組織のうち、どこがこれを担当するかといった組織的な解決方法とか、いろいろ現実的には考えようがあると思っておりますので、一人で全部これをやれと言われたってできないに決まっていますけれども、その辺の具体的な仕組みのあり方、これは教育と研究、両方だと思いますが、仕組みのあり方については具体的な場でもって考えてみたい、考えていただきたいと思っております。何かお答えになっておりませんけれども……。

【伊井主査】
 今のでよろしいでしょうか。人文学という学問の特性もあるわけだろうと思いますけれども、どうぞ、何でも。

【今田専門委員】
 ありがとうございました。とても参考になりまして、私は理系の大学の中で社会科学でいるものですから、じくじたるものがあるんですが、かつて大学院の重点化と教育の大綱化ということを言われて、大学院重点が中心になって、どうも人文教養科目が軽視されているという、そういうおざなりな発言がいっぱい出てきて、何か先祖返りしなきゃいけないみたいな話で、何で先祖返りするんですかという理由があまりよくわからなかったというか、すっきりと腑に落ちるような形で示されていなかったような気がしているんですが、やっぱり持続するということは変化するということですから、ベルクソンが『創造的進化』の中でそう言っていますから、何かやっぱり新しい時代の教養ないし人文科学というものが提示されないといけない。それをここがやっているんだろうと思うんですけれども。
 私が思うに、1つの新しい文明ができあがるときには、新しい人間観が必要で、科学観も必要で、社会観も必要で、技術観も必要で、全部要るんですよね。近代文明ができるときに最初にルネサンスがあったぐらい人文学が仕掛けて人間観を変えて、それでずっとやっていったわけですから、やっぱり人文学がそういう役割をきちっと、新しい時代の新しい文明の人間存在の確認の仕方というところをきちんと基礎づけないと、適応、不適応が起きてしまってわけわからなくなったり、人間が右往左往したりする可能性があると思う。
 今、メディア革命とかバイオテクノロジー革命とか、今までにないような科学技術の革命が起きていますが、そういう中で人間存在というものがどうあるべきかというのが人文学は適切に示すべきだと思うんですけれども、そういう方向の研究というのはぜひやっていただいて、これは、だから自然科学というか、人文学と理系とのコラボレーションの問題だろうと思う。それが大きな問題の一つなんです。
 もう一つは、さっきおっしゃっていただきましたグローバリゼーションとの関連で、どう人文学は貢献すべきか。やっぱりグローバリゼーションはモノトーニアスに進むのはよくないと思う。現地のローカルな文化、個性とうまく調和しなければいけないと思うので、そういう意味では、グローバル化にとって、まさにいろんな現地諸国の文化、国民のアイデンティティーのあり方をよく理解しないことにはいけないので、まさにグローバル化にとって人文学は決定的に必要という感じがするので、そのあたりの方向での人文学の貢献というのはとても重要だと思うんですけれども、先生おっしゃったものと近い側面もあると思うので、ぜひそういうところで何かコメントをいただければと思います。

【伊井主査】
 今、2つの問題を提起なされまして、いかがでございましょうか。

【樺山印刷博物館館長】
 今田さんがおっしゃるとおりだと思うので、じゃ、個別の研究者、あるいは個別の研究者になろうとやっている人たちの現実の仕事がどうかと言われると、いや、その大きな問題と、例えば、先ほど挙げましたけれども、ランス司教区、ヒンクマールの987年の文書発見についてというのは、一体どう結びつくのかと言われるとなかなかつらいところがもちろんありますけれども、もちろん個別の主題の研究を通して、例えば私たちであれば、人間の文化の歴史的存在とは何かということで説明したいと。そのことを通して、個別ながら、しかし人文学全体の構築に結びつくような、そのような営みは可能だろうというふうに思っておりますので、さまざまな角度からいろいろなご批判やご助力をいただきたいというふうに思っております。
 それから、後者ですけれども、グローバリゼーション、国際化もしくはグローバル化が人文学にとって時には逆風に吹いたという説明もあります。つまり、世界が同じような学問になってしまったら、日本の学問はどうするのというふうに問いかけられることもありますけれども、今おっしゃったとおり、グローバリゼーションが存在し、しかも進行し、でも、その中でもって個別の文化がどのようにして成立し得るかということについては、人文学者は強い責任を持っていると思います。自分たちがつくるわけではないが、そのことについての材料を提供し、説明する義務は私たちには大変強いものとして課せられていると思います。
 先ほどちょっと触れましたけれども、アフリカ、ブラックアフリカのそれぞれの国の高等教育の担当者たちと話をしておりましたところ、大変多くの方々が私どもが提起した問題に強い関心を示していただきました。つまり、自分たちも、もちろん一般教養に相当するリベラルアーツが必要だと思っているが、それでは、ヨーロッパの論理学とか修辞学とか文法学とかをやればいいのかと、多分そうじゃないと。でも、どうしたらいいかわからないからさまざまなヒントをいただきたいというので、私たちもそうです、それぞれの固有の文化をつくり上げていくというのは、さまざまなチャネルとか知識の集積というものがある。それをまずは洗いざらい考えることから出発して、そのことを通して、それぞれのローカルな、この場合、それぞれの国民国家の固有の価値というものを発見するところから教養教育のあり方、リベラルアーツのあり方を考える必要があるだろうと。そうしないと、結局はグローバリゼーションは世界がみんな同じ文化を持ち、同じ教育をするという結論に行ってしまうので、そのことを何としても阻止することが、今、私たちにとって大きな課題だろうということを申し上げました。
 むしろ途上国の方々から、そういう問題、自分たちが極めて強く意識していて、むしろ日本人の方々のほうが逆ではないかと皮肉を言われましたけれども、私たちもそうではないと、日本におけるリベラルアーツのあり方は、自由七科でも四書五経でもないかもしれないが、それらを参考にしながら固有のあり方を追い求めていきたいと、そんなふうに考えることができるだろうと思っています。なかなかこれは難しい問題だと思っておりますし、私どもでは無理ですので、若い研究者の方々に清廉な意識でもって取り組んでいただければなというふうに考えております。

【伊井主査】
 どうぞ。

【伊丹専門委員】
 今の樺山先生のお話は大変説得的で、私のような社会科学の大学で経営学という、やたらと現実に泥臭いところに近い学問をやっております人間にも、人文学の振興はなるほど大切だと深く納得をさせました。
 ただ、2つ質問がございます。1つは、そこに書いてあるトリポッドの話なんですが、そういう三脚のさらにその背後に、人間社会、人間世界の理解の基礎学としての人文学という一つの大きなものがあるんじゃないのか。だからこそ、教養教育の基礎にもなり、社会貢献も多少迂遠な道があるかもしれませんけれども、それができるんだろうし、理論統合の力を持てるのも、そういう部分ではないかと思いましたが、そういう理解でよろしいでしょうかというのが第1の質問です。
 第2の質問は、そういう基礎学としての重要性ということを考えると、冒頭におっしゃった若い研究者が、何か古文書の研究をするという細分化された研究をついついさまざまな事情でやらざるを得なくなっているということが、その基礎学をほんとうに担える人材の育成のあり方、レートとして適切かという極めて深刻な問題がありそうだなと思いました。私どもの大学でも、昔は教養の先生に、ほんとうに巨人と思わせるような方が何人もおられたんだけれども、最近はどうもそういう人の影がないと、だからついつい大学の中の議論で教養教育は減らそうというふうになっちゃっている面があると。これは何も実利的な方向に世の中が進んでいるということじゃなくて、担っている方たちの問題が一部にはあるのではないかというふうに思うんですが、それがどうも若手の研究者のついついやってしまう研究主題という問題と深くつながっているような気がするんですけれども、私どもの分野でも実は似たようなことが起きますので、大変難しい問題をお聞きしているのは承知の上で、何かございますか。

【伊井主査】
 何か。

【樺山印刷博物館館長】
 前者、初めのほうですが、3つの足があるというのは、3つの足で支えられた本体があるというふうに私のイメージでは考えておりまして、ちょうどカメラの三脚だと思っているんです。人間や文化を考えるのはカメラであって足ではないんですが、でも、そのためには3つの足が必要で、それぞれ社会なり教養なりいろんなものに立脚して、でも写し取るのはカメラ本体だというふうに考えておりまして、その意味では、本体の部分をもう少しきちんと説明しなきゃいけないというのはそのとおりだと思っております。
 それから後者は、難しいですね。ご指摘のとおりだと思うんですが、ただ、もちろん専門研究者として立っていくためには、極めて固有の細分化された専門度の高い論文を書かなきゃやっていけません、就職できないということももちろんあります。でも、基礎教育とか、基礎理論だとか、あるいは学問等の全体的な統合というのを、そのことを通して当人たちに教えると同時に、当人たちがそれを獲得していくというのは一体どういう過程を通しているのかというふうに考えますと、難しいですね。
 ただ、今お話しありましたように、いわゆる昔は巨人がおいでになりました。でも、この巨人は、特定のカリキュラム体系があったから巨人ができたのでは多分ないんだと思いますね。一橋でも例えば、増田先生だとか上原専祿先生という私どもにとって大先輩がおいでになりますけれども、文字どおり歴史家として偉大であっただけではなくて、教養人でもあり、また社会的な発言においても極めて鋭いところをお持ちになっていると。こうした方々がどうして誕生していたかということは簡単には説明できませんが、少なくとも私たちは、歴史家たちには言うんですが、歴史家たちには歴史家の歴史をひとつ洗いざらい考えてみてくれと。そのことを通して歴史学をどうやって成熟し得るかということの答えが見えるかもしれないと。したがって、歴史家には歴史学の歴史を勉強しろと、同じように文学研究者には文学研究の歴史をフォローしてほしいと、そのことでもって文学研究のこれまで果たしてきた役割や、あるいは欠陥を含めて、そこから事によると偉大な文学研究者、昔は偉い人がたくさんいたというのはそのとおりなんです。その方々の営みのあり方を今思い起こすことができるかなと、そんなふうに考えております。

【伊井主査】
 ありがとうございます。

【伊丹専門委員】
 今の点で1つだけよろしいですか。ここは文部科学省の政策を最終的には議論する場でございますので、そういうことと今のお話とあえて関係づけますと、そういう知の巨人のような人が育ちそうな土壌をどうやってつくるかという問題になったら、細かいことをやっていないと就職できないという、その構造自体に大きな石を投げかけない限り無理ではないか。したがって、例えば樺山先生をヘッドとして、もうお金をじゃぶじゃぶ使っていいと、樺山先生一人の目ききで若い人を10年も15年もちゃんと生活の心配なく研究できるような機関を思い切ってつくっちゃうと。そういうことを、お一人ではちょっと肩入れがあるかもしれないので、何かもう一つ別な機関をつくって、複数あってもいいのかもしれませんけれども、むしろそれぐらい思い切ったことをやらないと、石は遠ざけられないんじゃないのかと。人文学はあまり金がかからないんですよね。

【伊井主査】
 いや、もうほんとうにおっしゃるのはありがたいことで、そういうほんとうに細分化されてしまっても、やっている本人も全体像がわからないままやっているところがあるんじゃないかと……。猪口先生、どうぞ。

【猪口専門委員】
 ありがとうございます。
 私、非常に考えさせられました。私の見るところ、人文学が衰退しているというのは、必ずしも世界ではそんなことはないのでありまして、これだけ激動の、しかも速度の速くなっているときは、人文学はみんな大事だ大事だ、大変な本もいっぱい出ているんです。だから、僕は、それはまたちょっと違う方向かなと思うんです。どうしてかというと、人文学は、樺山先生のお話でも、結局、普遍的な人類的な課題なんですね。どれが正しいとか正義だとか、どれが美しいとか、どれが過去を引きずって、人間というのはこういうものだとかという、何というか施策とか何かなんですね。だから、これは人類的、普遍的だと思うんですけれども、発表の中でちょっと触れられて、あんまり本筋ではないんですけれども、そして、今の伊丹先生のあれともちょっと関係あるんですが、信じられないぐらい専門的、狭いと言っちゃ悪いんですが、ものすごく深く、細い穴なんです。大きなのじゃないというのが、僕は非常に‐‐しかも、必ずしもマルクスの生まれたドイツの人とかだれでもいいんですけれども、外国の人というのはあんまり関係なくて、日本語でやっているというのは、ちょっと何かそこら辺と関係あるんじゃないかなと思うんです。
 それで、人文学の場合は、結局、外国文化という面倒くさいものが往々にしてあるんですね。国文学と言ってはちょっとないかもしれないのですが、それでも深く深く行けば、円仁の8世紀だったか9世紀だったか、中国に行ってなった。あれはみんな漢文で書いていて、それで、韓国でも円仁のなんかはしっかりと研究されているというか、面倒くさいところはありますけれども、基本的に僕はやっぱり日本の人文学者の若干の弱いところがあるんじゃないかなという気がした。要するに、外国に対する非常に選択的な需要だけであって、ばーっと経験しようとか、外国語もちゃんとしようとか、外国の歴史もやるとか、いろんな考え方の違いも自分で経験してぶつかって砕けてなくなってもいいからやってみようというのがちょっとなさ過ぎるんじゃないか。細く狭く振るから、日本だけで学者市場が結構大きいので、それだけで生存できると言っては悪いんですが、できるというところが、ちょっと僕は感じるというか、外のほうで勝手なことを言っているのでありまして、似たようなことは社会科学についても言えるんですが、ただ、人文学の場合は、普遍的な人類的課題を扱うんだから、もうちょっとおおらかな何かあれがあったらいいかなと思っているんですよ。
 例えば、西欧の近代の科学の発展に従って、哲学とか倫理学とか美学とかみんな衰退化した、そんなことはないんですよね。それはどうしてかというと、科学主義とか実証主義はものすごく進展していますけれども、必ずしもヨーロッパとかアメリカでそれが衰退した話なんて聞いたことない。それは結局、啓蒙の考え方は1つではあっても、それとの緊張関係は、そのまま秘めたままでいっているわけなんですね。その緊張関係を、こうなんだ、こうなんだという人間の難しさを出すのが人文学なんですが、それが衰えたというのは若干人間についての施策が弱いんじゃないかな。それは、やっぱり外国と正面衝突しても何か考えたいという意欲が弱いかなというのが、僕は3割ぐらい関係あると思うんです。いろんな学術会議で1、2、3とあって、人文社会が一緒になっているからちょっとわかりにくいんですが、2が理工、3が医学の生命だか何かになっていますが……。

【樺山印刷博物館館長】
 2が生命で3が……。

【猪口専門委員】
 2が生命ですか。要するに、業績というか書いたのを見ると、日本語で圧倒的なのが1の中でも人文なんですよね。ほかのところはみんな英語でしかほとんど生きていけないという面があって、それが若干、直接には関係ないかもしれませんけれども、あんまりそれでやるというんじゃないほうがいいかなと。人類的な普遍的な課題をもうちょっと考えるようにしたら、神と国家とか、宗教と国家みたいに、ものすごく今激しくキリスト教と国家の関係なんかも難しい問題、施策が次から次へと出ているなんていうように象徴されるような、まさに人文学のルネサンスみたいな状況に、少なくとも英語とかその他で見ると、明らかに私には思えるんですね。だから、そこは衰退したなんて、そんな自分を卑下するようなことは言うべきじゃないんだって。これから繁栄の一途をたどると……。

【伊丹専門委員】
 すぐに衰退していくから。

【猪口専門委員】
 いやいや、ロードマップをちゃんとするというぐらいにしたほうがいいと思いますし、そのためのいろんな政策はとれると思うんですね。もうちょっと広く考える、もうちょっと外国の人とも学術交流をやるとか、共同研究をやるとか、いろんなことを間接的ではありますけれども考えられるので、そんなふうに考えていったほうが人文学としてはいいんじゃないかなと思うし、日本の学者連合としてもいいなと思います。どうも。

【伊井主査】
 ありがとうございます。ほんとうにそうだというふうに思うのでありますが……。はい、どうぞ。

【徳永研究振興局長】
 私ちょっともうすぐ出なきゃいけないので、1つだけ私のほうからお聞きしたいんですけれども、私も今、特に最後の理論統合ということに関して非常にありまして、いわば先生の世界の知的領有とメタ知識という形で人文学が理論統合していくと。これは、一方では、例えば東京大学の小宮山総長なんかが、今、知の構造化というようなことを一生懸命やっているわけですけれども、これまでさまざま、数学の中では知識の拡散と収束みたいなことを繰り返して、ある程度収束をするということについての、いわば方法論とかプロセスとかいうのはできました。例えば、あと、私のつたない知識でも、アリストテレスとかトマス、ベーコンとか、ディドロやダランベールの「百科全書」とかいうのがやってきたわけですけれども、今、具体的にそういう何となくぼやっとはわかるんですけれども、人文学の中で果たしてそういうさまざまな知を構造化していくような方法論とか手続とか手段とかいうことについては具体的にどういう分野が担っているのか、逆にどういう分野が今進んでいるのかということに対し、例えば、とかく最近では、そういう知の構造化みたいな問題というのは、それぞれの専門分野でのご努力、あるいは情報学の立場からのそのような形での関連づけみたいなことになりますが、だけど、人文学分野では、そういったことについての取り組みがトータルとしてあるのか、少なくとも自然科学まで含まないにしても、人文学という世界の中でも、いわば統一、構造化するという試みがあるのかどうか、それが1 点。
 もう1点だけ、きょうのこういう審議会もそうですけれども、私自身も、これはまた小宮山総長の受け売りですけれども、教育再生会議で小宮山総長が二、三度思ったことは、全くバックグラウンドの違う人たちが、こういう複雑なことについて専門知識を持ちながら議論を戦わせて、そこで大きな意思を統一、形成していくこと自体が極めて困難になっているわけで、そもそもさまざまな知識を持った人がこういう特定のテーマについて論理を展開して、その論理の中で一応意思を形成させていくということは論理学の問題なのかよくわかりませんけれども、そういったことは人文学の課題であるのかどうか、何かそういう意思形成エンジンといいますか、そういったことで人文学に何か期待できることはあるのかどうか、大変素人っぽいことで恐縮ですけれども、ご承知いただければと思います。

【樺山印刷博物館館長】
 いや、難しい問題で、わかっていればとっくにやっているんですけれども、なかなか難しいです。
 今の後者からですけれども、今、バックグラウンドが違う人間がさまざまに集まります。大学も社会的にもみんなそうですが、その中でもって、意思形成をどうやって構築していくかに関する推進エンジンがどこにあるかということになります。もちろん、それには行政であるとか、その他さまざまな具体的な主体が必要ですけれども、いわゆる社交力に至るまでいろんなことが必要ですが、同時に、やはり人文学が知についてのメタ知識、つまり知識全般が私たちの視野には入りにくいけれども、でも、知に関するメタ知識を統合することによって、自然科学的な力、もちろん医療の力、芸術的な力、そうしたものを全体として統合することができる可能性を負っているだろうと思っています。じゃ、どうやってやるのかと言われると、なかなか私たちには難しいんですけれども、本来、やはり、それこそ先ほどお引きになりましたアリストテレスであるとか、フランシス・ベーコンであるとか、あるいはディドロやダランベールの『百科全書』であるとか、それぞれにその当時にあっては大きな成功をおさめましたけれども、基本的には、我々にとって人文知のあり方を示したんだと思います。紀元4世紀の知がアリストテレスの形をとっていたのと同時に、じゃ、20世紀もしくは21世紀に、そうした知の体系化、あるいはその知の体系化を押し進めるためのエンジンがここにあるんだという、そういう形での人文学のあり方というものを募っていきたいと。先ほど申し上げたのはそういうつもりだったんですが、じゃ、どうするかと言われると、今これから考えさせていただきますとしか言いようがありません。
 それから、前者ですけれども、こうした知をどうやって構造化していくかという、もちろん、かつて比較的知の体系がシンプルだったころには、百科全書、百科辞典でもって十分に構築が可能ではありましたけれども、現在ではそう単純ではないことは言うまでもありません。ただ、逆に言えば、もちろん情報集積、情報処理の方法はかつてよりもはるかに進展いたしました。かつて、ディドロやダランベールのころのあれは作品にすらできなかったんですが、それは手段がなかったからですが、今、作品をつくることは簡単ですので、こうしたスキルについてはさまざまに向上が可能ですので、その中から、先ほどのエンジンの構築、合意形成エンジンの構築、あるいはそれのための見取り図といいますか設計図というか、これは人文科学者に対して求められている事柄の一つだと思っております。さまざまな技術的な手段がどんどん変わってまいりますので、それをフォローしながらでありますけれども、できれば私たちもそれに参画したいなというふうに考えておりますが、もう、ちょっとこの年では無理かなというのが正直なところではあります。
 それから、猪口さんのお話ですが、多分、先ほどのお話の後者の部分は、どうしたらいいか。つまり、とりわけ人文科学者がグローバリゼーションに十分に対応できていないという、それは先ほど申し上げたとおりです。せめて論文あるいは授業、講義は英語でもって行うことができる、あるいは少なくとも過半が行うことができるようなシステムを考えるべきだと私たちも考えておりますが、猪口さん、来年からそういう大学をおつくりになると、この前、新聞で拝見いたしましたけれども、随分とそういう試みは進んでおりますので、今後の可能性は見えてきているなと。ただ、英語だけではないかなと、少なくとも重要な言語を幾つかでもって相互に議論ができるような、そういう場所を日本につくる必要があるかなとかねてから思ってまいりました。猪口さんのお仕事も現実にどういう形でできるか大変注目し、関心を持っておりますので、よろしく私たちに凡例を示していただければと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。先ほど猪口先生もおっしゃったような研究分野の細分化というのは、あらゆる分野であるんだろうと思うんです。先ほど樺山先生もおっしゃいましたように、過去の1枚の文書、それから歴史学がどこまで展開できるかということもあるんだろうと思いますけれども、そういうものも基礎的な研究としては非常に重要ではあるだろうと思っております。
 ちょっと話題を変えさせていただきまして、いわゆる教養教育ということが出ましたけれども、ちょっと白井先生のほう、大学における教養教育といいましょうか、そういう教科といいましょうか、早稲田の取り組みみたいなものを含めてお話しいただけないでしょうか。

【白井委員】
 困ったな。いや、私は理系の人間で、ほとんど教養と呼べるものを自分自身が持っていないので非常に困ってはいるんですが、ただ、きょうのお話を伺っていて、人文学の皆様方がどういうことを考えておられるかという、実は大変感銘を受けました。
 教養教育というのは、戦後というか、わりに近くの教育の中で、とりわけ大学教育を中心にしてほとんどなくなってきたと言っても確かにいいと思うんです。ただ、一部の科目として、やっぱり学生たちはそういうものを望んでいます。それを教養と呼ぶべきなのか何かわからないけれども、何か勉強したい。必ずしも自分の専門の狭い範囲のものではなくて、あるいは非常にプラクティカルなものではなくて勉強しようというふうに、これは学生をちょっとつっついてやると、みんな勉強をするんです。きょうお話もありましたが、例えば『源氏物語』というのもありました。来年、我々の大学の中でも『源氏物語』の一連の講義をつくろうとしていますけれども、多分これは人気が出ると思います。そういうのはほとんど多くの学生にとって実利的にはあまり意味がないということかもしれないけれども、おそらくちょっと刺激してやれば、ものすごく多くの学生がそれに反応するということは間違いないですね。
 ですから、決して学生がそういう非常に知的なものに対して興味が薄れているということはない。だけど、それはやっぱり、さっき巨人という話がありましたけれども、巨人じゃなくても、私は、そういうものを提供してくれる組織とか、人の集団とかいうものが適切にあれば、私は教養教育というのは成り立つというふうには思っています。ただ、教養系教育、いわゆる一般教育みたいなものに消えた事実はあるのであって、なぜ消えるか。それは、おそらく卒業してから、それを使って何かプロダクトをつくるとか、そういうことにはなっていないからですよ。要するに、その人の職業というものに対して直結はしていない。理工系だったら、機械であれば機械をつくるのに役立ちます。そういう技能であるし、政治学を学んだらどうかというのはちょっとよくわからないところもあるけれども、一応そういう法律を学べば法律が使えるということははっきりしていると。そういうことに対して教養というのか、人文系のものを学んだら、それによって、それをどういうふうに使ってということはないわけだから‐‐ないということはないけれども、非常に間接的であるという意味で、みんながこんなのはなくたっていいじゃないですかというような判断は非常に簡単だけど、結局そういうことだったと思うんですよね。
 だけど、きょうのお話の中で社会貢献とかいうことは、あそこにもうまいこと出ているわけですが、非常に重要であると私も思うんですよね。それは一体どういうことかということで、きょう議論の中に社会形成というものがどういうふうに思想的になされていくのかとか、そういうことをいろいろご研究だということなんだけれども、そういう深さというのかな、そういったものを教育の中にどういう体系で入れていくのかというのが、まさに文科省なんかも考えなきゃいけないし、おそらく、それはある一つのやり方ではないでしょう。それは国によっても地域によっても全部違うものだと思いますけれども、いずれにしても難しくなったのは、そういうバックグラウンドに多くの人が持つべきものですから、大衆化したこういう民主主義か何かそういう社会状況の中では、レベルの高いものを全体に普及させていくというか、導入していくことの難しさというのはものすごくあるんだと。それは、おそらくちょっとしたことじゃできないので、ほとんど法的にされてきているというふうに思うんですよね。
 ですから、それこそ小学校からか中学校からか、やっぱりさっき「哲史文」という話があったけれども、まさに哲学なんていう言葉をもう既に知らない若い人たちが多いかもしれない、そのぐらいの時代だと思うんですよね。ですから、こういうものを実際の教育の中でどんなふうに現実に扱うかということが、私はこの教養教育の中で極めて重要だと思うんです。それがないと、例えばグローバリゼーションの中でどうだという話が今ありましたけれども、グローバリゼーションの中、要するに多文化の中で問題解決ができるかできないかは、相手と議論できるかできないか。それは、まさに教養というものに幅広く立脚せずに相手とネゴシエーションなんかはほんとうはできないですよね。おそらく、お金の勘定か何かしかできないんですよ。あるいは、法律でやるか、契約でやるか、非常にドライな悲壮的なもの以外に方法論として使えなくなる。そういったことが結果として、もちろん紛争のもとでもあると思うんですよね。
 ですから、教養教育というのはものすごく重要なんだということをもう1回組み立て直していただいて、初等教育からそれこそどういうことを入れていくんだということをきっちり議論しないと、日本人に限らないけれども、地球上で人間が平和に生きられないというか、そういうことなんだというふうに思うんです。そういうことをアジアの人もアフリカの人もみんな期待しているということは、先ほどのお話の中でも、大学の教育はどうなんだと。だけど、それは非常に広範な問題を含んでいるということなんだと思うんです。どうやったらいいんでしょうかね。非常に大衆化してきているということが問題で、大衆のレベルを上げなきゃならないのが21世紀だとすると、大衆的なことを上げなきゃいけないんですよね。これがものすごく難しいんだというふうに思って、自分の大学の中だけでは局部的な人たちだけですから、それはそれなりにいろいろ刺激すると勉強はしてくれるんですが、だからといって、どれだけのことが達成できているか、自分の中だけではそれでもいいかもしれないというふうに思っています。

【伊井主査】
 ありがとうございます。組織化することによって一つの提起をしていくと。それでさらに人々が活性化し、意識を改革していくというようなことをおっしゃったところもあるわけでございます。何かそれにつきまして、樺山先生、ございますでしょうか。

【樺山印刷博物館館長】
 ご指摘のとおりだと思います。もちろん教養は基本的には個人に属する事柄ですから、個人のモチベーションと個人のアクティビティーでもって獲得されるべきものであって、みんながという話ではないだろうという議論はそのとおりですが、しかし、教育政策として、学校教育のあり方としては、もちろんそれだけで済むわけではありませんので、今ご指摘のように、教養教育あるいは、これは単に学校教育だけではなくて、生涯教育を含めた広い範囲内でもって、この教養をいかにして伝達し得るか、あるいは場合によっては教育し得るか、あるいは学習の対象とし得るかということについては組織的に考えなければいけないだろうと。
 おそらく文科省も含めて、何かちょっとここには手を出しにくいなというところが多分あるんじゃないかと思うんです。教養は個人のことで、そんなところに行政が出てくるなという議論も当然なくはありません。あるいは、特に教養の中には、近年大変強調されるようになりましたけれども、芸術にかかわる事柄、美術であるとか音楽であるとか、芸術にかかわる事柄が極めて教養の中でも大きな役割を果たしていると。芸術や、あるいは文学も含めてですけれども、これらのものは価値にかかわっておりますので、行政はなるべく出てくるなというところがあったと思います。にもかかわらず、実際には、行政は主に文化庁を通して、いろいろな形でもって支援、振興しておいでになりますから、その辺の問題は十分に整理した上でもって、やはり文科省あるいはその他関連の行政官庁も、この問題をできる範囲内のところからなるべく早く着手していただきたいなとかねて思ってまいりました。

【伊井主査】
 ありがとうございます。ほかの……。どうぞ。

【上野委員】
 私もきょう、大変ありがとうございます、整理ができました。それで思いますことは、やっぱり人文に関しては、今、白井先生、教育も含めて、やっぱり危機感が理系に比べて人文系はちょっと不足していないかという気が、私は正直思っております。私は、教育学、教育系なんですが、政策的に人文系にいろいろ関与されることは難しかったろうと思います。研究者当事者もそのことを歴史的にあまり望んでこられなかったというふうな経過もあるんですけれども、大学生のみならず、先ほどの学校教育も全部含めて、人文的素養というのは非常に低下している。理系の場合には、そちらのほうの大変低下ということで、かなり最先端の研究ないし研究者と教育の部分がある意味で提携をして、それを何とか振興しようというのが行政だけではなくて民間のほうでもあるわけですが、人文のほうにはそれがないと思うんです。そういうものはあえてするべきではないというご意見もあるかもしれないけれども、やはり研究のある種の活性化が教育にも必ず反映しますので、その部分が私は大学教育においても、それから大学の先生たちも、やはり教養教育といっても細部に入ってしまうわけですね。そうではなくて、人文なら人文の最先端の研究をどういう形で教育に反映させるのかというふうに考えていただいたら、教育と研究の部分が必ずしも別物としては考えられないで、もう少し反映していくのではないかということで、樺山先生がお示しいただいたキーワードで申しますれば、5番の基礎学という言葉をお使いになったところ、それから、最後のトリポッドのところの教養教育と理論統合。この理論統合は、学としての理論統合もありましょうし、それから各段階で理論統合があると思うんです、青年なら青年の、子どもなら子どもの。その部分が今非常に衰退化しているのは、私は、やっぱりいろんなところで既に出ておりますのでという意味で申し上げたいのは、理系のある種の普及ないし底上げに対する危機感に比べて、人文系のほうは、やっぱりそこが弱いのではないかということを思いますので、大学教育も学校教育も含めて、その部分は早急に支援ないし手当てが要るというふうに大変強く思っております。
 以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。どうしても人文学というのは、先ほどもありましたように個人に還元されるところがあって、自分だけ我慢してやればいいんだというようなところがあるので、組織的になかなか発展しづらいところがあるんだろうと思いますけれども、まだご発言なさっていない方で、どうぞ何かございましたら。

【岩崎専門委員】
 すみません、今の上野先生の補足といいますか、私、心理学なんですが、「哲史文」というのは非常に重要だと実は思っているんです。心理学はそういう意味では後発かもしれませんけれども、私、学会というレベルで見ると、「哲史文」の学会、全国学会というのは当然あると思うんですけれども、学会における社会的な貢献というか‐‐貢献と言わなくてもいいんですけれども、社会的な役割という意味で、学会があまりアクティビティーが高くないんじゃないかなということを思っているんです。いわば、社会的な発信でもいいですし、何かそういうものが若干後発である教育学、心理学は、その点を比べるとやっぱり少ないんじゃないかなと。そういう意味では、その点をちょっと考えていただくと、人文学の本家本元としては非常に大切なことなんじゃないかなというふうに思っています。
 それから、これはほんとうに学者として必要なのかどうかというのは根本がわからないところがあるんですが、やはり多くできた大学の中では、人文学なり文学部というものは「哲史文」という学科をつくることはなかなか難しいと思うんですね。ですから、歴史のある大学は少なくともそういうものを維持して、それを国が支援するとか支えるとか、そういう政策は必要なのか、ほんとうに必要なのか、そうでなくてもちゃんと守られるのかというのは、私はちょっとわからないんですけれども、その辺については、やっぱり「哲史文」の学会でもぜひ考えていただいて提言していただくといいんではないかなというふうに前から思っておりましたので、一言追加させていただきます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。社会との関係がやや希薄ではあるだろうと思うんですね。井上先生、学長としてのお立場から何かございますでしょうか。

【井上(明)臨時委員】
 教養教育の話も出ましたが、東北大学でも、結果的に一つ目指しているのは、高い人間力を持った人材育成という世界に通用する人材、これは理工系、人文・社会系問わずということです。そういう人材を育成しようとしたときに、教養教育の重要性です。いくら専門的な理系の知識があっても、日本の歴史などにやはり相当深い理解が必要と思います。日本の過去のことをいろいろ学ぶ、あるいは世界史等も学んで初めてグローバル的な考えが身につくのだと思います。この意味で人文学等も非常に重要であると思います。おそらく将来、研究者あるいは技術者として、ある程度のレベルまでいっても、さらに説得力のある説明が要求されるときに、人文学を含む教養教育が重要と思います。日ごろの日常生活においても教養教育を取り入れていく姿勢は、人間が進歩していく上での、ある意味では生涯的なものであります。だから、単なる大学だけのものではなしに、生涯的なものと捉えて、日本全体のレベルを向上させていくような視点も必要なのではないかと思っております。今、本学でも生涯教育としての社会人教育を含めて取り組んでいます。
 それと、少し違った視点の意見として、今日、樺山先生から大変すばらしいお話がございましたが、例えば哲学の分野で新しい動きや、斬新な事例もあることが紹介されました。従来の哲学、歴史、文学だけに捉われない国際性などのいろいろな新しい見方です。人間社会や人間も21世紀において変化してきている。従って細分化した従来の非常に古い人文学のみを学ぶのではなく、学際、国際などをキーワードにした新しい哲学や歴史観がグローバル化とミックスされて、人文学の分野でも新しい芽が出てくる可能性はないのか。過去の人文学だけではなく、そういう新しさがないと、社会貢献においても従来のものに対する解釈を深められなくなる。新しい人文学を修めたことによる提言が非常に重要になってくるのではないかと思っております。
 最後に、人文学分野においての本学、東北大学の反省もありますが、やはり教育、特に大学院教育において、博士課程の学生が、1冊の本を書かないと博士の学位を与えないといった視点だと、3年間ではだめで30年間必要だということになり、グローバルスタンダードでなくなってしまう。大学院教育のグローバル化で、現在、多くの国々から東北大学の文学部等にも入ってきている。しかし、なかなか博士の学位が取れないといったことになる。私自身は理工系なものですから、人文社会学では3年でとれないのか、この点も、世界から人材が集まり、魅力ある大学として発展していくために、また人文学分野でも国際化が進む上で、修士から5年間、あるいは10年でもいいんだと思いますが、グローバルスタンダード的な捉え方ということがあっても良いと思います。これは、東北大学だけが年月をかけて取らせているのかわからないですが。理工系で30年間取らせないではグローバルスタンダードから遅れてしまい、世界から注目されなくなります。取りとめのない話になってしまいました。

【伊井主査】
 ありがとうございます。文学研究、人文学というのは、最晩年に学位論文を出すというのが昔あったものですから、そういうふうな伝統もあるんだと思いますが、ちょっと申しわけございません、時間が……。どうぞ、一言、高埜さん。

【高埜科学官】
 先ほど伊井主査がさりげなくおっしゃっていただいたことの繰り返しを1点まず申し上げたいんですが、つまり、学問が細分化して森が見えなくなるというのは困ったことなんですが、しかし、人文学も絶えず創造をいたしておりますから、私で言えば歴史学なんですが、新しい歴史像を書きかえていくためには、先ほどの中世の教会文書のような基礎的なところをしっかり身につけておかないと創造が生まれないということがあると思うんです。これは、自然科学における実験とか計測を積み重ねていくということがなければ創造が生まれないというのと共通している、そういう面があるということの指摘を1点申し上げたい。
 それから、先ほど岩崎先生が哲史日の学会の社会に対する発信の乏しさというご指摘をいただいて、全くおっしゃるとおりだと私も感じております。その哲史の「史」のところに身を置いておりますが、教養教育との関係で言えば、戦前の極めて恵まれた旧制高校時代の、その制度が戦後引き継がれましたが、教養解体をされまして、それで私どもは、我々、史学などは随分あぐらをかかせていただいたんだなということに気がつきました。やはり、哲史文の学会などが一度解体された教養教育、学校教育、大学教育における、これは改めて創造していく、その哲史日の学会が主体となってつくっていくという動きが必要なんだということを、きょう議論を伺っていて感じましたので、意見を申し上げたいと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございました。樺山先生のご発表に対しまして、さまざまな人文学の基本的な問題提起というのがございまして、我々、これからこれをもとにしながら考えて、施策をどうするかということもこれから構築していかなくてはいけないだろうと思っております。
 ちょっと時間が押し迫ってまいりましたので、このあたりで樺山先生のご発表とご意見の交換を終わらせていただきます。
 樺山先生、どうもありがとうございました。
 では、残りわずかになりましたが、最後に関連データ及び「人文・社会科学の振興」に関する平成20年度予算案の説明を事務局からお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 簡単にご説明申し上げます。まず、資料2でございますが、「大学学部卒業者、修士・博士課程修了者の進路状況」という青いグラフでございますけれども、前回も人文・社会科学関係のデータをお出ししたところですが、前回ご欠席の方もいらっしゃったので簡単に申し上げますと、国立大学の人文系の教官が減っている。それから、特に若手の数が減っている。それから、特に国立大学を中心にして、いわゆる「哲史文」の伝統的な学問の名称を掲げた学科とかがわりと減っているというようなデータを前回お出ししました。
 今回は、卒業生の進路状況につきまして簡単にまとめてみました。結論だけ申し上げますと、このグラフではちょっと見えないところもあるんですが、卒業生につきまして、いわゆる初等中等教育の教員の採用数が減っているということと絡むと思うんですが、初中教育の教員になる方が結果的に減っているということで、その部分、「その他産業」、これはいわゆる普通の会社への就職のほうにかなり回っているという状況が、学部、修士、博士ともに人文科学では言えると。
 それから、社会科学につきましては3ページでございますけれども、教員の採用は「専門職的サービス業」の中に含まれているんですが、教員の採用について全体的に絞られている中で、いわゆる普通の会社への就職という方がかなり多いと。これは、学部、修士含めてです。
 自然科学でございますが、比較のために5ページをごらんいただきたいと思うのですが、自然科学の場合ですと、学部においては「専門職的サービス業」、「その他産業」、「進学者」ということで受け皿がきちっとあると。修士課程もごらんいただきたいのですが、修士修了で、いわゆる普通の企業に就職する方がかなりの割合を占めておりますので、自然科学の場合は、修士までは社会のほうできちっと受け皿があると。ドクターでもそれなりにありますけれども、修士まできちっとしていると。人文学は、なかなかそのあたりは厳しい状況にあるかなと。特に教員の採用の減少を含めて厳しい状況かなということがわかるというのが結論でございます。
 それから、資料3でございますけれども、こちらの前回出したものと若干変わっているんですが、夏に審議経過の報告ということで途中の段階で報告をおまとめいただいておりますので、それを踏まえて概算要求をして、その結果でございます。前回は概算要求の数字でございましたけれども、今回は年が改まっておりますので、政府予算案の数字ということで全体として6億円と。特に、この報告書でいただいております部分、「近未来の課題解決を目指した実証的社会科学研究推進事業」は約1億5,000万、それから地域研究が1億、人文・社会科学の共同研究拠点の整備の推進ということで約3億5,000万ということで、今、政府予算案で計上されており、これから国会で審議をいただくということになっているところでございます。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。とりわけ、資料2のほうは前回お配りしましたものと見比べていただければ、いろんな情報がここから我々はくみ取ることができるであろうと思っております。
 それと、概算要求を出した政府案というものが資料3で出ておりますので、またことしの夏でしょうか、新しい課題を我々は見つけていきたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。
 何かこのことに関しましてご質問はございませんでしょうか。よろしいでしょうか。
 それでは、そろそろ時間になりましたので、本日の会議はこのあたりで終わらせていただこうと思っております。
 それでは、次回の予定等につきまして、事務局のほうからお願い申し上げます。

【高橋人文社会専門官】
 次回の予定は、資料4のとおりでございます。次回、2月15日金曜日、16時から18時、場所は文部科学省の3F1特別会議室、この会場でございます。3月に第10回を予定しておりますが、それも場所はここでございます。
 それから、内容でございますけれども、次回、次々回、文学と哲学とそれぞれ研究者の方をお招きしてヒアリングを予定しております。本日と同じような形で進めることになると思っております。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございました。ということで、しばらくこういうような勉強会を続けながら、我々の意思の合成をしていきたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。
 では、本日の会議はこれで終了いたします。どうも皆様ありがとうございました。

─了─

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