学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第3回) 議事録

1.日時

平成19年6月20日(水曜日) 16時~18時

2.場所

弘済会館4階 「椿」

3.出席者

委員

 伊井主査、立本主査代理、上野委員、白井委員、中西委員、西山委員、飯吉委員、家委員、井上明久委員、石澤委員、伊丹委員、猪口委員、今田委員、小林委員、深川委員、藤崎委員

文部科学省

 徳永研究振興局長、藤木審議官、川上振興企画課長、森学術機関課長、磯谷学術研究助成課長、江崎企画官、門岡学術企画室長、高橋人文社会専門官 他関係官

オブザーバー

(科学官)
 秋道科学官、辻中科学官

4.議事録

【伊井主査】
 どうも皆様、お暑いところをお集まりくださいまして、ありがとうございます。ただいまから、科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会のもとに置かれております人文学及び社会科学の振興に関する委員会、以下、略称いたしますけれども、第3回の会合を開くことにいたします。
 まず、本日の会議の傍聴登録状況につきまして、事務局からお願いをいたします。

【高橋人文社会専門官】
 本日の傍聴登録状況でございますが、傍聴希望者の方、10名いらっしゃいます。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 それでは、事務局のほうから配付資料の確認をお願いいたします。

【高橋人文社会専門官】
 資料につきましては、お手元の配付資料一覧のとおり配付させていただいておりますけれども、欠落などございましたら、お知らせください。
 なお、資料2‐2‐1に当たります人文・社会科学振興プロジェクト研究事業のカラー刷りのパンフレットが入っていると思いますが、そちらにつきましては資料番号を付しておりませんので、ご留意いただければと思います。
 それから、いつものことでございますけれども、基礎資料のほうをドッジファイルにて机上にご用意させていただいておりますので、こちらの資料も適宜ごらんいただければと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 それでは、議事に入ります前に、これまで2回開きましたが、やむを得ずご欠席なさっていらっしゃった方でございますので、本日、初めてご出席の方のご紹介をお願いをいたします。

【高橋人文社会専門官】
 本日、初めてご出席の委員の方々をご紹介したいと思います。
 初めに、飯吉委員でいらっしゃいます。

【飯吉委員】
 飯吉でございます。どうぞよろしくお願いします。

【高橋人文社会専門官】
 次に、石澤委員は少しおくれているということでございます。
 それから、深川委員でいらっしゃいます。

【深川委員】
 どうぞよろしくお願いします。ぎりぎりに間に合いました。

【高橋人文社会専門官】
 それから藤崎委員も若干おくれていらっしゃるということでございます。
 以上でございます。

【伊井主査】
 それでは、これから議事に入ることにいたします。
 毎回復唱しているところでございますけれども、資料2‐1にもございますように、この委員会では3つの審議事項につきまして審議を行っているところです。改めて確認をいたしますと、第1の審議事項につきましては、「人文学及び社会科学の学問的特性について」ということでございます。ここでは自然科学との違いについて留意しながら、研究内容とか研究手法などの面から見ました人文学及び社会科学の学問的特性について、ご審議いただくということです。2つ目につきましては、「人文学及び社会科学と社会との関係について」ということでございまして、人文学及び社会科学の社会的意義とか研究成果の社会還元の在り方、そういったことについてご審議をいただきたく思います。3つ目の審議事項でありますけれども、学問的特性と社会との関係を踏まえた人文学及び社会科学の振興方策についてという、これが最も大事な点ではあろうと思いますが、これについてご審議いただくということでございます。そういうことで、当面は人文学及び社会科学の学問的特性とか、その社会的な意義につきまして各委員の専門的な観点からプレゼンテーションをしていただく。そして、意見交換をしていただくというふうなことを進めてまいっております。
 第1回目は、この委員会におきましては、私のほうから人文学全般につきまして、猪口委員からは社会科学全般につきまして、それぞれの社会的な意義、特性及び支援方策に関するかなり総論的な話をしていただきました。そして、活発な意見交換をしていただいたわけでございます。前回の第2回目は、研究内容や研究手法などの面から見ました人文学及び社会科学の学問的特性につきまして、その社会的な意義だとか支援方策を含めまして、少し分野を絞った形でご発表いただくということにし、主査代理であります立本委員から、「臨地研究の研究方法」と題しまして発表して、意見交換したところでございます。それと、その後半は、世界を対象としたニーズ対応型地域研究推進事業につきましての意見交換をいたしました。
 そういう流れを受けまして、本日、第3回目は、今田委員から、「社会理工学の理念と方法」ということで、30分ばかりプレゼンテーションをしていただきまして、その後、また例によって活発なご意見を賜れればと思っていることでございます。
 それでは、今田委員、よろしくお願いいたします。

【今田委員】
 ご紹介にあずかりました今田です。
 「社会理工学の理念と方法」ということでお話をさせていただきますが、ちょうど10年半ぐらい前になりますけれども、1996年に東京工大で社会理工学研究科というのをつくりまして、4つの専攻で進んでまいりました。研究科をつくるときに随分苦労しましたけれども、どういうふうに人文社会科学と理工学を合体させるかというので、何度か書き直し、その他等を経てようやくできたわけですが、きょうはその社会理工学を素材にして、文理融合ということと、数理統計的な方法の人文社会科学、特に社会科学でのそれを期待されているとお聞きしましたので、それを中心にお話ししたいと思います。よろしくお願いします。
 文理融合のアプローチの必要性と言いましたが、文理融合というのは、この十数年、もう随分使い古された言葉にもなっているんですが、文理融合とか文理シナジーとか、要するに従来の文理の分離、そういう状況ではどうも対処できないような、いろいろな問題が社会に起きている。特に、科学技術と人間社会の不調和ということがグローバルなレベルで発生する可能性が特に大だということで、文系だけでは対処できないし、理系だけでもどうもうまく対処できない。その両方をうまく融合させて対処せざるを得ないだろうということで、そういう必要が高まったと。下にありますように、持続可能な社会を実現するための経済活動、生活様式ないしそれらの基礎をなす倫理・価値観の形成、そういうものへの取り組みというのが不可欠になってきたと認識しております。
 要は、文系、理系ですみ分けしていたんですが、そのすき間があって、そのすき間でいろいろな問題が発生しているというところが問題の大きなところであって、だからこそ、どちらも片方だけではうまくいかない。新しい情報メディアとか、特にバイオテクノロジーという新しい機械が、生命有機体の機械が出てきて、従来の産業革命の機械とは違って、体の中に入る、体とともにある、そういうようなテクノロジーなんかが出てきたときにどうするかというのは新しい大きな問題として、それに対して取り組まなきゃいけない。というようなこともありまして、特にいろいろな問題が発生しますけれども、そういう中で、その解決のための意思決定をするためには、どうやら文理双方の知識をかなりの程度持っていないと対応できなくなるのではないかというふうに考えております。
 ということで、社会理工学という新しい分野をつくってみてはどうかということで、このキーワードが社会理工学とは何か、一言で言いなさいといったら、大学院の入学式のときにいつも言うんですが、すべての人間の心には意思決定がありますから、意思決定をキーワードにして文理融合を図って、21世紀のネオリーダーを育成するという形にしておりました。先ほど既に述べましたように、その下にいろいろな問題、生命操作とか文化摩擦とか大規模災害とか、要は一言で言うと、今まで産業社会は富をつくって、それをみんなに分配して、生活水準を上げていくという方向でいろいろなものを、制度的な仕組みをつくってきましたが、そう楽観視できない、特に1980年代後半以来、ウルリッヒ・ベックというドイツの社会学者が「リスク社会」というものを大々的に提唱して、随分話題になって以来、要は富の生産と分配から、リスクの生産と分配という、もちろん富の生産と分配も大事なんだけれども、それだけではなくて、裏面にあるリスクの生産と分配に関しても、きちっと対応できるような社会づくりというのをしていかなければいけない、それに合った科学技術の再編ということが重要ではないかということがありまして、それが文理のすき間でいろいろなかなか対処しづらい側面を持っているので、社会理工学という観点から、そういうのをやってはどうかというのが1つありました。
 それで、きょうのお話は社会理工学全般をどうのこうのというのはちょっとわきに置いて、社会理工学の中でも方法論の部分ですね。対象は、さっき言ったリスクだとか文理のすき間のいろいろな研究対象が片方だけでは扱い切れない問題がありますけれども、それはそれでまた別途議論が必要ですが、あと方法、どんな方法を用いるんだという問題が大きな問題としてあります。
 それで、以前から言っていることですけれども、方法論としてどういうふうに考えたらいいかというので、私が考えているのは、アイデアのヒントは社会学者のマックス・ウエーバーの理解科学という構想がありまして、彼は3つ述べているんです。3つばかり理解科学の方法にある。歴史的考察において、個別の行為で現実的に構成された、彼は意味と言うんですが、私は現実、リアリティーというふうに考えております。2番目が社会学的大量観察において、平均的、近似的に構成されたリアリティー、それから3番目、理念型把握において純粋型として構成されたリアリティー、この3つを挙げていて、一番上は人文学にかなり近いアプローチ、2番目は社会科学に近い、3番目が数理モデルのことを言っていますので、理系的な側面がかなり強い。この3つがないと、ほんとうに科学はそろわない、統合できないというふうにウエーバーが言っていると私は理解します。
 それにヒントを得て、科学するとは何かという、これは新しい知識を探求して、謎や問題の発見と解決というのは当たり前なんですが、大きく分けて社会科学、自然科学、人文科学という、人文学と書きましたけれども、私は科学と言った方がいいのではないかと考えています。これまでは自然科学が大きな影響力を持って社会を引っ張ってきたという意味で、科学に値する学問だと言われてきたんですが、自然科学は必ずしも進んだ科学とは、他と比べて他は劣っていて自然科学がすぐれているという根拠はあまりないと思っておりまして、そういう意味でも方法論をしっかりやってみたいと思うんです。
 社会現象には二重の認識作用といいますか、科学者が認識する主体そのものが認識される対象であるという複雑な状況がありますし、法則を見つけたって、それを守らなくたって勝手だ、法則に従わなきゃいけない、法律は従わなきゃいけないけれども、それ以外は別に法則が見つかったからといって、守らなきゃいけなくはない。分子や原子はそれをやらないんです。法則破りはやらない。ニュートンの法則が見つかったから、おれたち、違う方向で分子運動しようよなんていうことはやらない。だけれども、人間社会はやる。その他、予言の自己成就だとかアナウンス効果等あります。自然科学だって、実験室の中では結構うまくいくんだけれども、天気予報、あれだけお金をかけて、あれだけ衛星を飛ばして、3日ぐらい先がわからない。ましてや、来年のきょう、京都に雨が降るか降らないかなんて、絶対当てようと思わない。つまりコントロールされなくて、フィールドの中でやるということだと、やはり自然科学だって、そんなに威張れたものではない。特に社会科学なんかはそういうフィールドで人々が日々やっている行為の中で、それを対象にしますから。ということは、逆に言うと、実験ということの意義をもうちょっと社会科学でも見直して、うまく使っていくという手を考えたほうがいいのではないかという気がしております。要するに、ある一つのリアリティーというのは、実は生易しい状態では把握できなくて、今言った3つ、社会科学、自然科学、人文科学みたいなものを総動員しなきゃ、ほんとうのリアリティーはとらえられないんだよということを言いたいんです。
 一番いいのは、犯罪の殺人が起きたときの犯人の確定ですよ。殺人犯のリアリティーの確定をするときに3点セットがあります。物証、アリバイ、動機があります。物証というのは、現場検証をして、いろいろな破片を集めて、そこで殺人が行われたというのを検証可能な形で再現してみせるというインダクションの世界。アリバイというのは別に、そこの現場にいることが論理的に可能である。実際にいたかどうかは別にして、論理的に可能であったということを推理、演繹すればよい。それから、動機は別に、物証やアリバイと違って、物証やアリバイのほうはしばしば科学的捜査と言われますが、動機は何か経験と勘みたいなことで言われますが、動機なくして犯罪捜査は不可能で、でないと殺人が起きたら、1億人人口がいたら1億人全部に当たらなきゃいけなくなる。だけれども、その人の人間関係のネットワークがどういう状況にあったかを解釈していくことによって、動機が存在することを証明する。解釈的に裏づければよいということで、動機は存在する。手にとれないけれども存在する。
 こういう3つの方法、やり方を総動員して犯罪を確定しますから、これを参考にすると、3つの方法というのが考えられて、現場検証のところは統計帰納法で、それからアリバイのところは演繹的推理で、それから動機のほうは意味解釈というので、リアリティーがそれぞれ個別と一般、具体と抽象、普遍と特殊に分割されている。それぞれ得手のところへ、推理・演繹法というのは抽象的で普遍的なリアリティーを、エントロピーの法則は抽象的で普遍的ですから、時空を超えて成り立ちます。だから、現場でそれに反するものが出てこない限りオーケーというようになって、帰納法のほうはデータで検証できる。動機の意味解釈のほうは、日本の文化の粋という文化が京都であるとすると、粋が存在することを解釈的につくり上げるというか、存在を完成させる。この3つ全部合わせたら1個の現象のリアリティーはトータルにつかまえられる。だから、方法的にはどれがいい、悪いという問題ではなくて、3つ総動員すべきだと考えております。
 人文学のほうは、また別の先生がおやりいただけるということなので、ここではやりませんが、数理統計的な手法ということで、やはり現場検証に当たるのが帰納法。統計的なデータを集めて検証できるという形でやるアプローチ法、統計的な検証とよく言われますけれども。それから、演繹法のほうは数理モデルを立てて、別に直接具体的なデータにかかわらなくたって、モデルを立てて、それを解いて有意義な命題を引き出すというふうにやる方法で、反証例がない限り、それが正しいというふうになっている。そういう2つの方法があります。
 でも、社会科学で統計法と数理演繹法は、経済学の数理経済学で、統計的なやつは社会学や政治学、その他等でかなりやられていますが、意味解釈法だって社会学は結構伝統的にあるんですけれども、それはそれで大事で、要は3つ全部やらなきゃいけないのではないかという感じがしております。
 体系的なデータで語るということは、とても重要なことでありまして、統計帰納法はデータを収集して、社会の具体的な状態や経験則を取り出すということなので、社会調査データを集計したり、統計分析したりすることによって現実を検証可能なものとしてとらえる。図表をつくったり、相関分析したり、多変量解析をやる。
 これは、実は内閣府、昔の総理府がやっている国民生活に関する世論調査です。同じ質問をずっとやっているんですね。20年ぐらい過ぎたときから、とても効果的に使えるようになった。やはりこれは1年、2年でやったら、どうなっているかよくわからない。これを見ていただくと、物の豊かさと心の豊かさ、ずっと二十数年、ちょうど第二次石油危機が終わったあたり、1980年ぐらいから心の豊かさのほうが大事だと。これは、ずっとトレンド的に開いているんですよね。バブルで崩壊してリストラの波があれだけあって、みんなが大変だ、大変だと言ったって、調査したら、こうなって、やはり物の豊かさの下支えができて、その上で心の豊かさというのが大事だという構造は、基本趨勢としては変わらないんだというようなことをデータベース化できる。単なる記述分析ですけれども、それもとても大事なこと。
 それから、モデルによる多変量解析というのは、統計モデルをつくって、データを当てはめて推論をしてという、社会学の分野で地位形成、地位達成解析というのがあります。こんな絵で、親の教育、職業のもとで本人が教育を受けて、その教育に基づいて本人が現在の職業的地位についているというのを10年ごとにやっているんですが、65年と95年の30年の2つの例を挙げました。この達成係数を見ると、誤差の範囲内なんですね。変わっていない。レジームは変わっていない。もちろん、昔は高度成長しましたから、オポチュニティーがどんどん増えたから、みんな、そういうのをもらえるというのはあったけれども、そういうのを除去して標準化してしまうと、ほんとうのレジームみたいなのは95年も65年も、因果規定力というのはほとんど誤差の範囲内ですね。0.04はないと、差があるとは言えないということで、レジームは変わっていないけれども、何となく格差感、逼迫感があるのは、社会のオポチュニティーが増えていないからと、感じとして解釈できる。そういうことがいろいろできるということであります。
 それから、数理演繹法のほうは時空を超えた普遍的なリアリティーを問題にするわけですが、この辺の分野としては数理モデル解析とかシミュレーションというのがありまして、その一番の社会科学のお手本は、もうちょっと後で。
 例えば、社会学だって、デュルケムという人が『自殺論』という有名な本を書いていますが、あの人の言う議論を命題化すれば、Cが凝集性、社会連帯、Dがディビエイト、逸脱行動で自殺とすると、社会の凝集性が低下すると自殺が増えると。社会的な連帯が減ると自殺が増えるという命題になって、こういう式で書けますが、50年経て、同じく社会学者のマートンという人が逸脱行動論をやりまして、報酬を獲得する正当な手段へのアクセシビリティーが減ると逸脱行動、犯罪が増えると。これは失業などで、まともな職がなかなか入手困難ならば、泥棒でもやるようなのが増えると。こういうふうに命題化すると、単純な式2つを合成しただけで社会のいろいろな文化的に称賛される報酬獲得のアクセシビリティー、Aですが、これが社会の連帯、凝集性と正比例している。だから、例えば Aが低下するというのは失業率が高まると、社会的連帯が展開するという命題が合成できる。こういうことを、今までのすごい蓄積が社会科学の各分野にあると思うんですが、命題化することで、命題を合成するだけでも、随分いろいろなことが言えて、そのアクセシビリティーを指標化するとどうなるか、どういうふうに体系化して、そのアクセシビリティーが社会的な連帯、凝集性とどういう因果関係にあるかというのが、こういうもので数値的に導き出せる指針を与えてくれるというふうになるので、ぜひこういう形のものをやるべきなのではないか。
 それから、複雑なモデルもいっぱいありますが、その辺はもうやめることにして、あとはこんな数理モデルはほんとうは経験的に検証できるのが一番よいので、これは2つが数理モデルであり、かつ経験的な検証モデルでもあることが望ましい。その一番見事な例がケインズモデルで、もう皆さんご承知なので、最単純モデルで国民所得は消費と投資、貯蓄ですが、消費は国民所得のある一定割合、大体0.8ぐらいが基準で、bは最低消費水準、生活保護世帯の水準。こういう連立一次方程式を解くと、下になって、国民所得が、Iの投資によって決まる。公共事業がこれでやられて、aは大体1以下の正ですから、大体0.8だと 0.2で5倍になる。10億投資したら50億と計算してというふうに政策的なモデルにもなっているわけですが、そういう感じのものになるのが一番理想的です。つまり、数理モデルがそのまま政策モデルとして使えて、それからデータによる検証も、消費性向がどれぐらいか、aとbを推定するわけですが、そういうのに使える。ケインズモデルは最近あまり使われていません。あまり評判はよくないですが、それでも、モデルとしては、なかなかよくできたモデルだと思います。つまり、数理モデルが経験的テストのための計量モデルとなることが理想であります。でも、なかなか人文社会では経済のように貨幣ではかれませんので、なかなかデータを整備するのが大変なんだけれども、おくれた学問だからできないというわけではなくて、対象の測定にいろいろ工夫が要るということで、そういう意味では社会科学で計量分析とか統計分析というのは、とても重要な役割を果たすということであります。
 それから、最近になってコンピュータサイエンスが随分発達をして、昔ならローマクラブの成長の限界というので、現状のまま続けると、それをずっと20 年、30年、21世紀まで外挿して延ばしていくと大変なことになるよと。地球は破滅するかもしれないなんて、要するに、こちらでこのまま続けばというふうに研究者が勝手に決めて、手続指向のシミュレーションだったんですが、最近はオブジェクト指向からエージェントベースのシミュレーションになって、このエージェントは自律的な意思決定ができるエージェントをコンピュータの中に放り込むわけです。自分が意思決定して、他のエージェントと相互作用しながら何かやっていくうちに新しい秩序ができたり、その他等々というのを入れるようになって、急速にシミュレーション技術が社会科学の中に入り込みつつあります。
 社会学の分野でも、この10年で、普及はまだまだですが、かなりそういう方法的なものに関心を示す若い人が出てきました。要するに、自然科学のような実験はできないんだけれども、このエージェントベースのシミュレーションによって主体と場について単純な前提を置いて、そこで複雑な相互作用をコンピュータの中でやらせる。そうすると、予想しない全体像が出てくるというおもしろい事例がありまして、例えば囚人のジレンマゲームをエージェントベースのシミュレーションでやらせると、協力と裏切りのゲームでやってというのがありますけれども、あれで一番強い手はしっぺ返し戦略でやる。つまり、自分は最初、協力する。相手が裏切ったら、その裏切った手を次に使う。相手がまた裏切ったら、その裏切りを使う。1つ前の相手の手を打つ。使い続ければ、利得が最大になる。これが数式で解いて出た結果ではなくて、シミュレーションで出てきましたけれども、そういうことができるということで、人工社会をコンピュータの中につくり出して、その中でいろいろみんな、ある程度の自由度を与えて振る舞わせて、思いがけない発見、双発的な特性というのを見出そうと、そういう研究が進むようになってきました。
 シェリングという人は経済ノーベル賞をもらった経済学者で、この人は昔、エージェントベースのシミュレーションを手で、碁盤の目でやったんです。分居というか、黒人、白人のすみ分けで、みんな寛容で、隣近所に二、三軒ぐらい異人種、黒人が住んでいても、別に自分はどうも思わないというぐらい寛容であっても、それがずっとインタラクションをしてやっていくと、きれいにすみ分けが起きてしまう。どの辺の寛容度まであれば、どうなってというようなことを後にエージェントベースのシミュレーションでできるようになって、やはり域値があるんですね。どこまでの寛容度であれば、ほんとうにすみ分けではなくて混ざって住めるか。どこまでだったら、やはりすみ分けちゃうか。それは個人が意図しているのでなくて、個人は結構寛容なんだけれども、社会全体としては、やはりセグリゲーションが起きてしまう。そのようなことがあります。
 もう大分時間が来ましたけれども、今後の人文・社会科学、特に社会科学の研究のありようについても何か一言ということだったので、それを述べて終わりにさせていただきますが、実験ということに関して、さっきコンピュータによるシミュレーションも広い意味で実験と考えていいのではないかと思います。それから、最近は実験経済学が随分進んできて、つい二、三年前、ノーベル経済学賞が実験経済学で出ましたね。つい最近ですが、出ました。これは、パソコンのネットワークを使ってオークションをやらせて、実際の取引は経済市場のあれとどう違うかとか、そういうことをやって、それから社会心理学の分野で実験というので、人間関係の信頼の問題とか、そういう形でやられています。多分、社会学でもかつてオーソン・ウェルズがラジオの番組を使って大々的な実験に協力して、火星からの侵入というパニック現象のあれをやったんですが、もうああいうフィールド実験はほんとうにパニックになって、大変なことになったというのがありますから、なかなかやりにくいし、あまりコントロールして実験室でやった結果だけでも、それが社会に適用できるかというのも問題があるから、できるだけあまりコントロールしないような形でやってもらうという感じで、コンピュータのネットワークを使ったり、シミュレーションしたりとかいう形での実験、これはやはりとても今後の期待が持てることではないかと考えていますし、数理モデルに表現してもいいんだけれども、解けないモデルをつくったってしようがない。解くために仮定を10も20も30も入れたら、何をやっているかわからなくなるというようなところを、でも、具体的にシミュレーションでやらせたらいいじゃないか、人間たちを何人か、1,000人ぐらい入れてやってみるというのは一つの有力な手法ではないかという気がします。
 それから、やはり実証的なデータベースというのが、きちっとどこかで統一して管理されないと使い勝手があれで、ここのテーマがどこかへ行けば、どこかで頼まないといけない。このテーマに関するデータは向こうにあるよとかいうと、アクセスして使わせてもらうために手間暇が物すごくかかるんですね。本は国会図書館へ行けば大体のものが納められているのに、データに関しては、最近はアーカイブで大分つくり出していますけれども、もっとメガ単位のデータベースみたいなものを、少なくとも科研費でやった調査を全部そこへ納入するよう義務づけるべきだと。税金を使ってやっているので。そして、巨大メガデータベースみたいなものをつくって、もちろん猪口先生なんかがやっているアジアのバロメーター、ユーロバロメーターとか、そういうのともリンクしてリアルタイムでデータにアクセスできて、いろいろなものを検証できるような状況にすべきではないか。
 もう一つ、文理融合ももう10年、文理融合の方法で大学院の研究科を運営してきましたけれども、実感したことが1つあって、文理融合で、方法で文理融合にする、それから研究する対象で文理融合的な研究体制と思っていたんですが、人を混ぜるというのはこれぐらい効果があるのかと。うちの社会理工学研究科は大体文系半分、理系半分なんですが、学生を混ぜておくと日常的に議論したり、しゃべったりするんですね。そして、理系の連中は理系的な発想をして、理系的な知識もいっぱい持っている。文系的なのはそんなのを持っている。何年か、修士で2年、ドクターへいけばもっとありますが、やっていると、体にしみつくんですね。だから、あまり計画的、意図的に教えなくたって、しみ込んでくるような形で、自分ではない分野の知識が入る。ということは、もう閉じ込めるんですよ。文系の研究者と理系の研究者を、ある研究対象、リスク社会の問題をどう解くというテーマを与えて隔離して研究所をつくって、そこの中で3年から5年ぐらいやれと。あとは何もやらなくていい、オンリーブでやりなさいというふうなことぐらいをやって、ある程度、雑務とか大学の行政みたいなのから離れてやるというのがとても重要なのではないか。特に、サンタフェでやっていますよね。アメリカのほうはカオス研究なんかをやっていますけれども、あれに近いようなものだと思うんですが、そういう感じで人を混ぜる。人を混ぜると、あまりジャーゴン、わからないようなテクニカルタームを使えませんから、詳しく説明しながらというふうになってくると、なかなかうまくいくのではないかなという気がいたしております。
 もう時間になりましたので、ここらあたりで。

【伊井主査】
 どうもありがとうございます。文理融合という視野から、社会科学、人文学に関する提言まで、さまざま多岐にわたってご提言をいただきました。
 これをめぐりまして、しばらく意見交換をしたいと思いますが、それを始める前に、先ほどの委員のご紹介のときにまだおいででなかった石澤委員でございます。ご紹介をいたします。

【石澤委員】
 石澤でございます。

【伊井主査】
 よろしくお願いします。
 それと、藤崎委員でございます。よろしくお願いいたします。
 ということで、フリートーキングといいますか、ディスカッションをしていきたいと思いますが、どういう展開でも結構でございます。どうぞ忌憚のないご意見賜ればと思います。よろしくお願いいたします。

【猪口委員】
 たまたま今週の週刊誌の『エコノミスト』に出ているんですが、20世紀は物理学の世紀だ、21世紀は生物学の世紀であったというのがあるんですよ。社会科学で見たら、20世紀は経済学の世紀だった。政治学は我田引水なのですが、21世紀は政治学の世紀ではないかと勝手に言いたいと思っているということを言いたいんですが、今田先生のは若干物理学と経済学に引っ張られ過ぎた整理ではなかったかという感じが非常に強くて、特に20世紀の初めごろ生きていたマックス・ウエーバーで展開しているから、若干1世紀おくれているのではないかという感じがしたんです。とりわけ、神経科学とか生物生命科学とか、すごいのがどんどん出ているときに、ウエーバーだけ言うというのは、偏り過ぎている。オールドファッション過ぎるという感じがしたんです。そこは神経科学とか生物学、生命科学とかがすごい展開で、いや、ほんとうに。
 しかも、わからない度合いが社会科学から見ても、まことにごもっともで、僕たちはいつもわからないのをやっているんだけれども、生物学のほうはほんとうにわからないことをやっているというのをわかっていて、ある程度進歩して、すごい進歩をもたらしている、発見をもたらしているというので、私はウエーバーだけでやるというのは何かいいけれども、もう一つ加えてほしいというのがあって、具体的に言うと、結局、ウォーレン・ウィーバーのあれで言うと、1、2だけで終わっているんですよね。1というのはニュートンみたいな古典力学の世界、2というのは統計的に何とかわかる確率論的な、何か量子力学みたいな世界になっているんですよ。だから、3の何だかわからない生物科学とか、そういうのがやる世界については、ほとんどあまり触れていないということ、それは実験的な方法についても若干リザベーションが強過ぎるのかなという感じがするというのがありますし、基本的にやはり生物学の進展がこのところ20年、30年、いやに早くなってきたし、そこら辺は社会科学でもまことに啓発されて、いろいろなことをやっているんです。それがアンダーレプリゼンテッドではないかと。

【伊井主査】
 どうぞ、今田先生。

【今田委員】
 わかりました。お答えします。
 あくまでもウエーバーを例にしたのは、ヒントを得たと言っているつもりでありまして、私は次の文明はバイオテクノロジーだと思っているものですから、機械テクノロジーではなくてバイオテクノロジーというものが革新的な、革命的な変化をもたらすと考えております。ただ、人間の認識作用というのは、ギリシャ、ローマ以来、手法はいろいろ変わるけれども、どういう構えで認識をするかというのはそんなに変わっていないと思っていまして、もうちょっと言うと、それはそれで置いておいて、社会学は常に生物学とコラボレーションしながら来ました。スペンサーとチャールズ・ダーウィン、それからパーソンズという人がいますが、それとヘンダーソン、それから、最近、ルーマンはバレラのオートポイエーシスというような形で来ていますので、別にオールドファッション的ということをおっしゃって……

【猪口委員】
 オールドファッションでいいと言っているんだから。

【今田委員】
 いいんだったら、別にそんなに。

【猪口委員】
 ただ、アンダーレプリゼンテッドがあるから、そこにもアラートしたいというだけ。

【今田委員】
 では、いいんでしょうか。

【猪口委員】
 具体的なトピックで、さっきリスクなんかで出てきたのがありますけれども、あれはエクスペリメンタルスタディーが社会学でも心理学でも物すごく進んでおりまして、とりわけ産学連携なんていうところではイノベーションなんかをどうやるか、どういう感じの人が育ってくればイノベーションが出やすいかというのが物すごくいろいろあって、エクスペリメンタルもあれば、自分でやってみたいのもいろいろありますけれども、物すごいですよ、これ、悪いけれども。しかも、いろいろな国の人でも、アメリカだけではなくて、アメリカと中国とかロシアとかモンゴルとか、みんな混ぜて比較をしていて、全部きちっとデータがありますし、しっかりしたジャーナルに載っていますよ。そういうのが物すごく今まで進展しているということを、産学連携がそんなに重要かどうかはまた別として、リスク・テイキング・パーソナリティーとかリスク・テイキング・ストリークスみたいな感じの研究は物すごく進んでいるので、意外とそういうのがないかなと。
 それから、あと、信頼なんていうのも物すごく進んでいて、人を不信感で見がちな人と、信頼の温かい目で見る人というのがあって、それがうまくいかないと、温かい目でばかり見て、「おれおれ詐欺」に遭うみたいな人がいる。
 僕自身も、さっき言及されたアジアバロメーターで、29のアジアの社会についてやっているんですが、国内で見ても、微妙に違っている。大阪は注意し過ぎることはないが心持多い。そのせいか、「おれおれ詐欺」にかかる人の割合が大阪は少ない。僕もそれで実験みたいなのをしたんですよ。それで見ると、日本の銘菓みたいなものを勝手に電話で注文すると、要するに郵便振替を現物と一緒に送ってきて、後払いでいいというところと、まずどこかに払え、振り込めというのがあって、振込を確認してから現物を送るというのと、ぱっと分かれるんですよ。これは物すごくおもしろくて、それはどういうコントロールをするかにもよりますけれどもね。まだ3つしかやっていないんですが、山形県のゆべしと、福井県の大豆らくがんと、香川県の、もうちょっと洋風な感じのをやった。香川県と山形県はすぐ郵便振替なんですよ。現物が先に届いちゃう。福井県は、やはり振り込んでから。そうなんです。
 僕が言いたいことは、社会科学でもちょっと実験に似たような感じで、すごくやり方が増えているということです。リスク倫理についても、完全にほとんど実験的な方法と全く同じ。それから、今の信頼でも、世論調査でぱっと見て、統計的にもぱっと出るけれども、まだそれに補足して、ちょっとエクスペリメントみたいな感じでも補強するというのは、意外と社会科学でも、すごく開花しているんですよ。あまり皆さんのお目にかかるところに出ていない場合が多いんですけれども、物すごいんですよ。
 だから、それはあまりオールドファッションだと、ヌーベルバーグのほうがアンダーレプリゼンテッドで、ちょっと残念だなというのが。

【今田委員】
 ちょっと今のレトリックはわかりませんが、要はリスク論はいっぱいこの十数年なされていて、だけれども、全体像が見えないぐらいな状況で、だから、今大事なことは、今後の21世紀の社会においてリスクというものに対して人々は物すごくセンシティブになって、応答的になっているので、だから、リスク不安の高まりを何らかの形で安心に変えてあげなきゃいけないわけですから、それは個別の分野で、いろいろな形でやるだけでは済まない。要するに、全体を統轄できるようなリスク分析、人文学も必要だし、自然科学も社会科学も全部必要で、最近はリスク文化論まで出て、文化とか階級とか性別とか何とかで全然リスクの認知の仕方が違うとか、そういうのがだんだん広がってきていますから、各論ではなくて、学という形での体系化みたいなものを積極的に推進しなきゃいけない。
 ちょっと手前みそなんですが、7月に岩波書店からリスク学シリーズというので5刊本で出ますので、論から学へ頑張って持っていくべきなのではないかという状況まで来ていて、猪口先生がおっしゃったのは、まさにそうです。理系も文系もいっぱいあるんです。いろいろな形でやられているんだけれども、それをどう体系化していくかというのをきちんとやらないと、サステナブルな社会というのが維持できない。そのために、では、研究所みたいなのを理系と文系を混ぜてやるというのも必要ではないか。データベースだって、リスクに関するデータベースが物すごく完備されているということが必要ではないかという印象なので、基本的には同じなんですが、表現の仕方が違うだけで。

【伊井主査】
 ええ、そうだと思います。
 今田先生が最後におまとめになっている研究支援の方策というようなことをお挙げになっておりますけれども、今のことを含めまして、どなたでもいいですが、ご発言をどうぞ。

【西山委員】
 2ページのところに「文理のすき間で問題が発生」という記載があります。もちろん、先生がおっしゃったとおり、そのすき間での問題もあり、文理融合でアプローチしていくということは絶対必須だと思うのですが、私は、今、起こっている本質的な問題は、文理のすき間で起こっているのではなくて、丸ごとのリアリティーというか、リアリティーそのものずばりで問題が発生しているととらえていまして、すき間だから問題が発生しているというふうにはとらえられないのではないでしょうか。その辺がちょっと気になりました。

【今田委員】
 まさに、そう言っていただくと、意を強くすることになると思うんですが、要するに、今までは専門分化して、文系がこうとらえて、理系がこうとらえて、それが追いつかなくなって、今、先生がおっしゃったように丸ごと、トータルにリアリティーが変だよ、おかしくなっているよとおっしゃられたと思うんです。
 まさにそのとおりで、リアリティーというのは、そういうふうに丸ごととらえるために役割分業をうまく組まないと、何か勝手にみんな、おれはこっちをやるから、あんたらはそっちという感じで役割分化してもだめだという感じで、そういう意味では、一度タコつぼぎみであった専門分化を一回ちゃらにして、もう一回融合させて、それから、もちろんそれでもそんなに深く研究するには融合だけでは何もできないから、もう一回きちっと機能分化しなきゃいけませんので、機能分化する仕方、役割分担する仕方をもう一回考え直さないといけないのではないかなという感じがしております。文理融合というのも、そういうのも含めて考えているんですけれども、なかなか時間が少ないもので、お伝えし切れないんですが。

【中西委員】
 先生が最初におっしゃった歴史的考察においてという点に非常に打たれました。最初におっしゃったウエーバーの理解科学のところの歴史的考察から考えるというところです。
 歴史というのは社会構造と深く結びついているので、歴史から見た社会、社会から見た歴史が非常に大切なところだと思います。人間は社会にかかわっていますから、そのかかわり方、それが虚構、仮説でもいいのですが、それをうまく解いていくことかと思われます。また人間の行動は昔からあまり変わっていないので、それに興味を持って全体を研究することが学問として大切なのではないかと思います。
 それから、文理融合ということを考えますと、もともと何故文理が分かれてしまったかということも考える必要があると思います。小さいものから順に考えますと、分子があり、DNAがあり、タンパクがあり、生物個体があり、社会があると、考えていきますと、どうも個体以上を社会科学と分けているように思われます。もともと全ての事象を一つの科学としてとらえるべきなのに、どこかで切ってしまっている気がします。たまたまある局面で切れば化学で、ある局面で切れば物理になっているという考え方を持つべきだと思います。しかし、教育においては、あなたは理系、文系というように、最初から分けてしまっているので、まるで初めから学問が分類化されているように思われがちです。でも学問とはほんとうは全部スルーで考えなくてはいけないと思います。ミクロからマクロまでスルーで考えるということについて、私たちはそういう訓練も受けていませんし、そういう場もなかったと思います。
 生物科学でも脳の研究に文理一体の場が必要だと思います。例えば、私にはよくわかりませんが、躁うつ病は多分今の医学では治らないですよね。でも、何か手だてがあるのではないかとみんな思っているのだと思います。ですから、臨床のお医者さんとか心理学の人とか、みんな一緒になって考えれば何か出るかもしれないのです。そのための場をつくらないといけないのではないでしょうか。
 あと、専門的なということも言われたのですが、専門家というのも本当は不思議な気がします。学問を細かく切って自分のテリトリーを狭くしたほうが研究者としては楽なのですよね。楽という言い方は変ですが、ほんとうは学問は全体としてとらえなくてはいけないのに、狭いところをより深くしている。ですから、そういう学問体系ではなく、全体がスルーに考えられるような学問の流れ、とらえ方も考えなくてはいけないのではないのではないか、先生のお話を伺って感じました。

【伊井主査】
 ありがとうございました。
 何かご意見ございますでしょうか。

【今田委員】
 まさにおっしゃるとおりなので、そのためにもほんとうは自然科学的な方法と人文学的、社会科学的な方法はそれぞれ科学の方法としてお互いに尊重し合うということが、まず前提にないと、だめだと思うんですよ。僕は、人文学という翻訳はやめるべきだと思う。人文科学にすべきだと。自然科学と社会科学と人文科学と。人文学と訳してしまうと、科学ではないんだから、関係ないからといって、もうそういう先入観を若いころから持ってしまうといけないので、ぜひそうしてもらいたいなと思っております。

【猪口委員】
 やはりちょっと感覚が違うのか、僕の考えでは、中西先生の意見とちょっと調和しているんだと思うんですけれども、人文とか社会とか自然というのは、別に 17世紀から18世紀ごろに突如としてそういうふうにどんどんなってきたというだけであって、勝手に変えられたというだけで、現実自体は何も変わっていないから、方法に独自のものがあるのではなくて、方法はいろいろあると。
 だから、セレクティブに、あるいは好きなものだけ使ってきて何となくいびつな人文学だか、いびつな社会科学やいびつな自然科学が出てきたというので、それで、今、困っておるというだけのことであって、16世紀、例えばトマス・ホッブスが政治学と物理学と物すごい大著を両方書いているんですよ。別に何の意味も……。アダム・スミスは経済学と倫理学と大著を書いているわけだ。それは全部一緒だったんですよ、偉い人は。
 今、19世紀から20世紀に何だかわからないのがわあわあ言って、みんな小さくして、仲間うちで評価し合って、お金が来やすくしているみたいなもので、それは話が違うので、方法についてはオープンで。
 どうしてかというと、質問あるいはパズルみたいなものがあって、これは解くにはどうしたらいいかということで素直に考えればいいので、それでアベーラブルなのは何かというふうに考えれば。社会学的とか人文科学的とか、そんなものはどうでもいいというのが僕の考えで、そのためにはオープンな心で学問を学べばいいので、やり方はいろいろとあると思うんですけれども、やはり人類史とか芸術史とか生命史とか──生命史というのは人間史だけではなくて、ずっとどういうふうに生命が来たんだろうとか、それから哲学の歴史とか、そういうのを大学に入ってかなりまじめにやらなきゃだめなのではないかなという気がしているんですよ。そうでないと、みんな、分科、理科だ、そんなのは関係ないんだ。僕たちのころは、理科の人は、製図だったっけ、何か変な、どうでもいいみたいなのをやらせられるのは、考えただけで、僕はあんなことをやるのは嫌だなと。

【伊丹委員】
 という偏りを持っている。

【猪口委員】
 そうなんです。だから、それは持っているから、そう言うんだけれども、そういうのをなくすように、全体的に広い、人間が生きている空間について何かわかりやすくというか、考えさせる習慣をつけるようなサブジェクトをちゃんと教えるべきだと思うんですよ。今、ここで何科学、何科学といったって、別にそんな違いはないというのが僕の実感です。
 僕は最近、やはり世論調査をやっていて、健康について七、八問やっているんですが、29カ国、これは東京の大きな病院のお医者さんと共同研究、分析も始めました。方法なんて、別に同じですよ。読んでみれば、健康なんて言ったって、別に医学をそんなに知らなくたって、だんだんわかってきますしね。パソコンをやれば何でも出てきますしね、どんどんわかってきます。ほんとうにそんな社会はもともとないので、それは雑誌に載りやすいようなカルテルをつくっている、それから研究費をもらうためにうまくやっているというぐらいのもので、ほんとうの難問、パズルを解くというものについて、まじめに、ほんとうに熱心にやるということでは変わらないので、方法は何でも使えるように自分を武装していくしかないのではないかなと、僕は思うのであります。
 それで、若干、今田先生、僕はそのとおり、すべていいんですが、オールドファッション過ぎるかなという感じがしたので、特に融合といったとき、違うものを何かするとか、そういうのではないんだと思うんですよ。結局、ほんとうに神経科学なんかの例もありますが、読めば読むほど、お医者さんはわかっていないのではないかなという気はするし、それこそ小説家のほうがわかっているみたいなところもあるというようなのがあるから、今はオープンマインドであること、それから方法については貪欲であること、それから大学に入ったら基礎の人間とか生命とか哲学とかについてしっかりやるということが物すごく重要ではないかなと思って、若干違和感を感じたんです。

【今田委員】
 どうすればいいか言ってもらわないと、今のはいろいろやりましょうと。

【猪口委員】
 いやいや、そうじゃないですよ。初めにしっかり教えなきゃだめだと。

【伊井主査】
 基本的にはみんなそうなんだろうと思いますが、具体的にどうするかということが、今、ここで討議なんですが。
 お手が上がったようですが、どうぞ。

【立本主査代理】
 提案ではなくて、コメントですけれども、先回も人文学と社会科学との連続性、スペクトラムと言いましたけれども、やはり違いはあると思うんですよね。違いはあるけれども、それをスペクトラムとして自然科学まで視野にいれなければいけない。猪口さんは往々にして、そのおくれているやつは全部切り捨てて、一番進んでいるところばかりいこうという方針でやられる。それが果たして人文学、社会科学の振興に結びつくかということが一つ危惧されるわけですよね。
 今田先生のきょうのご発表というのは、実は今田先生の本を教科書に使わせていただき、非常にすぐれたまとめ方だと感心している次第ですが、社会科学における研究支援というところの一番上の実験社会科学への支援というようなところと関係しまして、数理モデルとかシミュレーションとか、そういうもので分析・説明はされますが、最初に言われました人間の二重の認識作用、規則破りということを考えますと、そういう数理モデル、シミュレーションの信頼性はどうなるのでしょうか。。幾ら分析したって、例えば先ほど猪口さんが言われたイノベーションなどでも、分析結果はよくわかった。しかし、それで本当にイノベーションが解明されたといえるのでしょうか。シミュレーション手法や実験への支援という時には、その点を十分説明する必要があると思います。これはご用意されていると思いますけれども。
 次の2つ、実証データベースとか研究所づくり、これは確かに異論はございませんけれども、新たなシミュレーション手法や実験の試みをどのように支援していくかは具体的にはどうなるのでしょう。
 もう一つは、実験ということを、人間に関する擬似実験を含めて言いますと、やはり倫理性ということが出てきますね。社会科学における実験や社会科学を推進するといったときに、その点をどういうふうにお考えですか。

【伊井主査】
 どうぞ、今田先生。

【今田委員】
 ありがとうございます。
 一番上の実験社会科学というのが最近の新しい流れで、こういうことを言う先生がかなり増えてきていますので、かなり自然科学を意識した、自然科学にばかにされたくないという意識も潜在下にはあるのではないかと思うんですが、やはり実験という意識を社会科学者が持って言い出すようになった背景には、やはりコンピュータサイエンスの計算機科学の飛躍的な発展があって、昔ならとてもじゃないけれども、できなかったことが、できるようになったというのがあるんですね。それで、フィールドでやると、火星からの侵入のように社会心理学でやって、実際何か火星人のようなものがおりてきました。今、何かみんなわあわあ言っていますよと、ラジオで流したんですよね。あれをやって大変なパニックになって、やはり倫理的な問題で、それはもう二度とやれないというふうなフィールドでの大実験として、現場のまま。ということになって、社会科学から、ぐっと実験がいっとき引いたんですよ。
 何かほんとうに実験室の中で心理学は、この長さはどっちが長い、どっちが短いとか、そういうことをやっていたんですが、ようやく最近コンピュータサイエンスが出てくることによって、これを使っていろいろやれる。人工社会をその中につくってやれるというふうになりまして、多分若い人ももう携帯だのパソコンだの等々で、そういう電子メディア空間に物すごくなれているので、セカンドライフとかミキシィーとか、いっぱい。あっちが自分の人生の中でメーンの空間みたいな感じになっていますので、そういう意味では違和感がない。ただ、倫理の問題としては、それは研究とは別に、監視社会、その他等、プライバシーの情報保護等の問題で大きくまた問題になると思いますけれども、研究のほうでは、やはり一応その研究に参加してくれる人にアルバイト料を払ってやりますので、別に個人情報は出さないようになっていると思うので、それはいいというか、実験に関してはそれほど大きくは問題にはならないのではないかなという感じがします。
 もう一つは何でしたっけ。

【立本主査代理】
 数理モデルやシミュレーションは役に立つんですか。

【今田委員】
 そういう実験をすることによってですか。それは、やはり人間がどういう振る舞いを、例えば今までフィールドでやっていたら、いろいろな状況が入るから、どういうのがきいているのかわからないけれども、ある程度、コンピュータの人工社会の中で限定した条件で自由に振る舞いなさいといったときにどんなことが起きるか。思いがけないようなことが起きたら、それは、ああ、なるほどということになるので、結構普通の数理モデルとか調査データでは出てこなかったような、意図しなかったような思いがけない結果が出てきたときに、やはりこういう研究は飛躍的に進むんだと思うので、そういうのが幾つかこれから出てくるのではないでしょうかね。

【伊井主査】
 ありがとうございました。
 では、ほかの観点から、どうぞ、伊丹委員。

【伊丹委員】
 今のでいいですか。

【伊井主査】
 はい。

【伊丹委員】
 大変ダイレクトな質問で、数理モデルや実験、コンピュータシミュレーションというのは役に立つかという質問だったので、私自身も昔からそういうことをやって、そういうことをやめた人間でございますので、私の判断はそれほど役に立たないであろうと。マルチエージェント・シミュレーションというやつも、結局は置いている前提があまりに単純なので、そこから実際の現実の社会現象にシミュレーションの結果を解釈する段階で、物すごく大きなジャンプをしなきゃいけなくなっちゃう。シミュレーション自体は、コンピュータの進歩のおかげで、極めて精緻にできるようになった。しかし、出てきた結論を現実の社会の現象の解釈につなげる段階が物すごく距離があるというのが私の実感で、したがって、そう簡単に役に立つというふうには、私は自分でやってきた人間として、それほど思えなくなっている。
 それから、もう一つ、ついでに発言させていただきますと、実験社会科学への支援ということについて大きくうたうかどうかということは、事が政府の政策になった場合には物すごく注意しなきゃいけない。

【猪口委員】
 ファシズムですか。

【伊丹委員】
 ファシズムになるかどうか知りませんが、そういうつもりで言っているつもりはないんですけれども、社会科学というのは人間の集まりに関する科学です。そうすると、そこで実験をやるということは、実験対象が人間になってしまう。生物学が進歩したのは、例えばマウスを使えたということがものすごく大きなファクターであったとしますと、マウスの人権はどうなるんだと。殺されていくマウスがたくさんいる。そんなことを、もし考え始めたら……。

【猪口委員】
 考え始めていますよ。

【伊丹委員】
 そうだと思います、僕は。しかし、そこで、人間と人間以外のスピーシーの間に何か線を引くということによって、問題を解決するということに多分ならざるを得ないんだろうと思うけれども、社会科学の場合は、これは全部人間ですから、謝礼を渡すから、それで済むというたぐいの問題でない問題が重大な問題として起きてしまう。したがって、かなり限定的に考えざるを得ないのではないかと私は思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。非常に怖い話にもなってまいりますけれども、何か別の観点から。

【今田委員】
 ちょっとだけコメントします。僕が実験というふうに言ったときは言葉が滑ったのかもしれませんが、自分自身としては、やはりコンピュータのシミュレーションでやるのがよいと思っているんです。あまり実際の生の人間を使って、要するにだますことになるわけで、あまり詳しい状況を言い過ぎると実験できないということになるので、それはやはりいろいろ問題が起きる可能性があるので、それとは関係のない、自分でエージェントを上手につくって、こんなときはこんな振る舞いをして、こういうパーソナリティーをしたエージェントをつくって、そういうのを何種類かつくって、それをぼんとコンピュータの中に1万人ぐらい入れて、小さな町みたいなものをつくって、そこでいろいろな振る舞いをしたらどうなるだろうかというような、ちょっと遊び心のことでやってみると。みんな、そんなのでわかるわけはないよとおっしゃると思うんですが、医学も臨床医学と基礎医学があって、臨床で随分進んだんでしょうけれども、その臨床のほうに対応するのはコンピュータみたいなものも一つ考える。それがすべてではないんですけれども、そうではないかと思うんです。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 今の実験という問題も含めてのことでありますが、どうぞ。

【井上(明)委員】
 的を射ているかどうかわからないんですが、人文学と社会科学の振興に関して、一番最後のところで文理融合の研究所云々という個所があります。先ほどの生命との関連についてのご指摘もありました。現在、認知の問題だとか記憶、語学、学習と、脳の老齢化との関係について20~70代の各世代において、資料が蓄えられている。従って、人文学、社会科学の学習と人間の脳との関係に光を当てることが可能と思います。現在ではMRIの装置を用いると、認知の時に脳のどの個所が活性化しているかが、容易にわかる状態になっているようです。我々の大学においても、人文学と脳科学の融合を重視しています。単に人文学、社会科学だけではなしに、それらをすべて脳を通して捉える。自然科学的にみると、人間全体では区別できない一つのものだと思いますし、人文科学においてそういう視点が入ってくることが、これからの一つの新しい学問分野になり得るのではないかと思います。

【伊井主査】
 基本的には、きょうは文理融合という視点から、社会科学とか人文学をどういうふうにすればということの一つのご提言だったと思うんです。今のことについて、今田先生、何かご発言ございますか。

【今田委員】
 理系も含めたという意味でですか、融合をトータルな感じで。

【伊井主査】
 はい。

【今田委員】
 それは今後とても重要だと思っていまして、今、脳のお話をされたと思うんですが、それ以上に高齢化が進みますよね。高齢化していった先、認知症やその他、いろいろな方が出てきたりするから、どうやって住むのか。居住空間だって、随分考えなきゃいけませんよね。普通の健常者が歩いて何とか作業をしているというのは、バリアフリーだけの問題ではなくて、忘れるわけ。忘れたときにどうやったら思い出せるか。自分が振る舞っている振る舞い方みたいなものが、ある程度きちんと解析されて、それに理系の方がテクノロジーでちゃんと対応できると。例えば、そのお年寄りの振る舞い方のタイプみたいなものをきちっと人文学的、社会科学的に解析して、そして、うまくそれに合ったテクノロジーを、ただ、今までは一律普遍的に、このテクノロジーを使えばよいのですというふうにやってきたけれども、個別具体的な事例に対応したテクノロジーを考えていかないと、なかなか高齢社会に運用していくのに難しいのではないか。
 そんなことを言うと、今、法科大学院ができて、たくさんの弁護士の先生方が出られますよね。そのために、今まで法は正義を実現していればよいんだと言っていた弁護士協会の方々が、これはやはりまずいよと。普遍性を貫いたってだめで、やはり現場へ入っていって個別特殊な事情を抱えた人の相談に乗るような仕組みを、法曹界でも導入しなきゃいけないというようなことをおっしゃっていますから、やはり抽象的、普遍的に貫徹できるような論理だけじゃなくて、個別、特殊な事情に応じたという、そこらあたりが、個別、特殊なのは科学ではないというふうに自然科学では今まで言ってきたんだけれども、そうではない。特に、人文学なんていうのは、やはり個別、特殊な事情の中に本質を取り出そうとする。やはり、そういうのと普遍的な知識とがうまく合体して初めてトータルな認識といいますか、知識というか、処方というか、そういうのができるのではないかと。そのためにも文理融合みたいなものが求められるのではないかという感じです。

【伊井主査】
 まさにおっしゃるとおりだと思いますが、そうすると、例えばそういう場合の、ここにも書いていらっしゃいますけれども、社会科学研究のための文理融合を視点としたインフラというのは何かお考えになっているところは、その研究所づくりということが1つあるんだろうと思いますが、もう少し具体的におっしゃっていただければありがたいんですけれども。

【今田委員】
 いや、ちょっと要約で、何かこんなものを入れてくださいと言われたので、あれしたんですけれども、最初はやはりきちっと文系と理系がコラボレーションできて、あるテーマに関して共通で取り組める研究所みたいなものでやらないと、一気に何か文理融合でといっても無理だと思うんですよね。1人でやれるわけがありませんから、文系と理系の先生方のコラボレーションの仕方をオン・ザ・ジョブでお互い学んでいってというふうな研究所をつくってみるというのはとても大事だし、それからいろいろなことをやるために、脳の研究でも、別に生物医学的な脳の問題だけではなくて、脳が損傷したときに人間関係がどうなるかというようなことにもデータが必要ですよね。コミュニケーションのときにはこうなる、こうなるという。そういうデータベースをいろいろなテーマに関して、文理融合系のデータベースをつくって、だれでも気軽にアクセスできるように、やはりここら辺は集中管理しないと、分散していたのでは、やはりみんな使い勝手が悪いものですから、メガデータベースみたいなものをテーマごとに、例えばリスクならリスクに関するメガデータベースみたいにつくって、人間関係的なリスクの問題、文化的なリスクの問題、それからリスク解析の理系的なものとか、そのようなものを全部、そこへ行けばアクセスできるようにという、とりあえずはいろいろなことが起きているので、それを1カ所に集中して、みんなが取り組めるようにというふうなのが初めの一歩かなと。

【猪口委員】
 データベースのデータアーカイブの件ですけれども、私もこの3点全部重要で大賛成なんですが、2番目の件については、スーパーアーカイブみたいなものを念頭に置かれているんだと思うんですけれども、あまりうまくいかんと思いますよ。どうしてかというと、日本国はあまりそういうのに興味が、まずない。官、民とも興味がないんですよ。それが1つです。
 概念的には、分野がどんどんあれしますから、ソ連邦みたいな感じになっても、そういうスーパーアーカイブをうまく使う人が出てこないので、やはりほんとうに興味があって重要で、やる人もある程度そろっているというところを重点的に資源配分していくというやり方のほうが多分いいかなと思いますし、日本の社会科学者というか、そういう方面の意欲のある人が意外と少なくて、てんでだめなんですよ。それから、財団も、てんで意欲がない。例えば日本の社会学的、政治学的な世論調査のデータはいっぱいあるんですけれども、だれも一緒にしようという気がなくて、激しいミニ派閥主義で、パプアニューギニアのトライバルソサイエティーズがいつも戦争をしているみたいな感じで、全然だめなんですよ。一緒にするという意欲がない。それから、財団は、それをやるだけの興味も必要も感じていないんですよ。だから、何が起こっているかというと、結局、確かに東大でも社会科学研究所に社会科学データアーカイブがありますけれども、説明が肝心なところは日本語なので、役に立たず。あまり粗雑に書いてあるから。粗雑というか、簡単に書いてあるから。それは、どうしてかというと、ドネーターに書けと言うから、簡単になっちゃうんですよ。それが、まず第1の弱さ。
 それから、ミシガン大学にでかいのがあるんですけれども、こういうソビエトスタイルのコンソーシアムというのははやらなくて、五、六年前に人員が、基礎作業でデータをクリーニングとか何かいろいろするのが面倒くさくて、おそらく最盛期には300人ぐらいいたのが、もう100人に落ちているんですよ。だから、すべてうまくいかなくなっているんです。
 そういう中で、どうするかというのがあって、1つはモデルとして考えられるのがドイツなんですけれども……

【伊丹委員】
 猪口さん、ぼちぼちおやめになったほうが。ほかの方もご意見があるだろうから。

【徳永研究振興局長】
 いいんですけれども、できるだけ多くの方に指名していただいて。

【伊井主査】
 はい。

【猪口委員】
 ケルン大学の、日本の社会学的、政治学的サーベイの全部を集めて、英語で物すごく丁寧に説明をつけているんですよ。だから、使いやすくなっている。だから、日本の財団とか文科省とか学術振興課はやらないけれども、何だか知らないけれども、ドイツの財団はそこにつけているという、とんでもないことでもないんですが、こっちとしてはどこであってもいいんですが、そういう何か積極的な動きがないと、なかなか。こういうリコメンデーションはいいんですけれども、進む基盤がないんですよね。ほんとうに難しいと思います。

【徳永研究振興局長】
 できるだけ多くの方に。どんどん指名していただいて。

【伊井主査】
 どうぞ、家委員。

【家委員】
 きょうの今田先生のお話、私にとっては非常に感覚的にわかりやすかったんですけれども、学問ですから、みんな自然科学にしても、社会科学にしても、わからないことを対象にしてやっているわけなんですけれども、そのわからなさの質というのが少し違うのかなという感じを持っております。つまり、その裏返しは、どうなったらわかったと実感できるかということを問うてみるといいと思うんですけれども、例えば物理学の場合には、ある現象が説明できて、さらにそれに関連した現象についてある予測ができて、それが実験で確かにそうなっていると。そういうサイクルが完結すれば、一応そこはわかったという実感を持つわけです。それに対して社会科学の場合には、やっている方々は、どうなったら「わかった」という、「腑に落ちる」という感じを持たれるのでしょうかというのが 1つ。
 先ほどコンピュータシミュレーションは役に立つか、役に立たないかというお話、私もそれを聞きたいと思っていましたら、お2人の委員から、期せずして違ったご見解が出たので、大変興味深く拝聴したんですけれども、わからなさの質、例えば天気予報のことがやり玉に上がっていましたけれども、あれはなぜ当たらないかというのは、ある程度、ある意味では、なぜ当たらないかはわかっているわけです。それはミクロのモデルが完全にしっかりしたとしていても、初期条件がほんの少し違えば、時間発展とともに指数関数的にそれが大きく変わる。だから予測不可能だと。それが20世紀の数理科学の一つの大きな成果だと思うんですけれども、そういう意味での予測不可能性から、ほんとうにミクロなモデルをどう立てたらいいかわからない、手も足も出ないというわからなさまで、いろいろなレベルがあると思うんですけれども、今、先生は社会科学、人文科学の状況はどうだというふうにお感じになっているのかお聞きしたいと思うんですけれども。

【今田委員】
 社会科学というのは、自然科学、特に物理学のように、何か物理学からいうとフィジックスとメタフィジックスの2種類しかないとおっしゃるかもしれませんが、予測ができるということが科学の絶対条件だとは考えていないと思うんですよ。下手したら、予測だって現実の場で、1年後の経済予測と1年後の天気予報だったら、まず経済予測のほうが当たりますよね。

【猪口委員】
 そうかな。

【今田委員】
 おおむね。僕はそう思っている。だって、来年今月今日に京都に雨がどれだけ降りますかは当たらない。降るか降らないかも当たりにくい。だから、要は、実験室でコントロールして、こういう条件がそろえば、こういうことができますよというのが自然科学のやり方だと思う。それはそれでとてもよいことで、その条件を整えればいいわけですが、社会現象の場合、こうこうこういう条件が整えばできますよというときに、この条件が整えられますかということなんです。人権問題になって、皆さん、こうしなさい、計画経済でやるから、こうしなさいとやったら必ず、ソビエトもそうだったけれども、サボタージュ、水増し請求、何とかをやって、人間は悪知恵が働くから、そんな予測なんかはすぐ破っちゃうというのがありますので、大体こういう方針、こういう方向で政策的にやっていくと、例えば人間の社会は住みやすくなりますよというようなことで、皆さんが納得できるようなことがあれば、そういうプランを出すという程度で、そのプランにほんとうに乗るか、乗らないかは、やはり人々が決める事柄で、こういう条件がそろえば、こういうふうにはなりますという、いろいろなものを提示するということでいいのではないかと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。

【家委員】
 もう一ついいですか。今、そこに出ている、最後の、文理融合の研究所づくりというお話ですけれども、それに近いものとして、今、国際高等研究所というのがあるかと思うんですが。

【今田委員】
 何研究所ですか。

【家委員】
 奈良に国際高等研究所。

【今田委員】
 京阪奈。

【家委員】
 はい。私、その活動を非常によく知っているわけではないんですけれども、この中には多分関係されている先生方もたくさんいらっしゃるんですけれども、あれはどういうふうに評価されているのかなと。ちょっと差しさわりがあるかもしれませんが。

【徳永研究振興局長】
 また、それは後ほど。

【伊井主査】
 できるだけたくさんの方にご意見を賜ればと思いますが、飯吉先生、何かご感想でも何でもよろしいんですが。

【飯吉委員】
 きょう、初めて出てきて、ちょっとまだ問題のポイントがよくのみ込めていないんですが、やはり今、時代が大きく変化していて、先ほどもちょっとお話がありましたサステナビィリティーの話が大切だと思います。要するに科学技術が非常に発達してきて、ある意味ではもう限界が見えてきたというんですか、そういう状況になってきた。もう一つは、例えば化石燃料も有限である。これから地球環境のサステナビリティーが大きな課題となっている。これは総合大学の仕事だと思う。
 総合大学というものを考えたときに、やはり大学の中で理系の先生もいるし、それから人文の先生もいる。そういう中で、いかに総合大学としての特徴を持たせた教育ができるかというような問題があるわけです。今、各学部の壁があって、なかなか相互の理解がまだ進んでいないという状況の中で、もう一度このあたりで学問全体を再構築し、見直していくというようなことが、今、必要になってきているのではないかというふうに私は個人的には思っております。
 そして、各学部を超えていろいろなアクティビティー、共同研究でもいいし、教育の面でもいいんですが、そういうのをやるような機会をつくろうとしているんですが、そのときにやはり一番問題なのは、文理融合で何か共同して研究をしていくというようなときに、どういうテーマが一番文理融合でお互いに協力し合ってやっていくのにフィットするのかを考えたときに、今のサステナビィリティーという問題は、非常にみんながそれぞれに問題を抱えているところですので、非常によろしいのではないかと考えているんです。ですから、この問題を一つのテーマにして、いろいろな分野の先生が一緒になって何かやってみるということが、今、一番必要になってきているのではないかということだと思っています。
 それで、1つ質問なんですけれども、先ほど文理融合の一つの研究所として、サンタフェのカオスの研究所の話が出ましたけれども、私の質問は、あれは相当、20年ぐらいやっていますね。その結論というんでしょうか、今、どういう評価に……。あそこは、かなり文理融合で研究をしていましたね。その結果が、今、どういう評価になっているんでしょうか。もしそれが非常にうまくいっているのであれば、それは一つのモデルとして参考にしてやっていくことが大事だと思うんですけれども、もし何か行き詰まっているようなところがあるのであれば、そこはまた改善しながら、新しい文理融合の研究所のつくり方というのがあるのではないかなという気がしますので、その辺はよく調べたほうがよろしいのではないのかな。

【今田委員】
 私、そんなに詳しくサンタフェ研究所のことをフォローしていないので、うまくお答えできるかどうかわからないんですが、要するに、あそこに集まった理系、文系研究者が複雑系というものの解明に取り組みましょうということで、複雑系というのは、たしか現状はカオスとほとんど違わないので、現状はよく説明できるんだけれども、ちょっと先へ行くと、その先どうなるか予測不可能な状況というようなもの、要素は多数あるから、複雑というだけではなくて、そういうことだろうと思うんですけれども、やはりそういうことって結構あるんだよという認識が、自然科学でも進むというのはとても大きな成果で、全部法則を見つけて予測ができてというふうに現象は動くもので、自然現象はそうなんだとみんな思い込んでいたけれども、いや、そうではなくて、結構自然界でも予測できない、ちょっとした初期値の違いで、こんなに大きく大異変が起こるというようなこともありますよというのを知らしめただけでも大きな成果だと思うんですが、具体的な、経済学の先生が収穫逓減の法則ではなくて、収穫逓増だという議論を出してやられたのはあるけれども、まだ何かちょっとよく腑に落ちない感じで。
 でも、そんな短期に成果を期待しては、こういうところは無理なので、やはり10年、20年という期間でかけてみる。だめでもともとというのは、世の中の 5パーセントぐらいあっていいんですよ。人間全部、ルーチンどおり、効率よくというだけでやっていると、やはり現状をブレイクするようなアイデアが出てこないもので、5パーセントぐらいはそういうものに割り振る、だめもとで。何か変なやつで、いつもは黙っていろ、黙っていろと言うんだけれども、あるとき、ひょっとしたら、これは使えるかもねというぐらい、こっちが困っちゃうことがある。変則革命論みたいなのがあって、変な人がいてというのがあっていいのではないかという気はします。

【伊井主査】
 ありがとうございます。

【今田委員】
 すみません、あまり情報がないもので。

【徳永研究振興局長】
 どうでしょう、逆に、むしろ文理融合の研究所みたいに、立本先生のところが一番そういう趣旨でつくったわけですけれども。

【伊丹委員】
 総合地球環境。

【徳永研究振興局長】
 ええ。

【伊井主査】
 では、何か一言。

【立本主査代理】
 総合地球環境学研究所は、そういう意味では設立以来文理融合ということでやっております。しかし、設立時の研究連携先が自然系に偏っていたこともあり、現実はちょっと乖離しております。むしろ文理融合というので成功例には入るかなと思われるのが、前に私のおりました地域研究の京都大学東南アジア研究センターかも知れません。これは最初から文理融合で顔を突き合わせて一緒に昼飯を食う、そういうふうなことがやはり文理融合の一番の基本だと思います。東大でも文理融合をいろいろ試みられましたけれども、結局は文プラス理というので、融合にはいかない。サンタフェのように複雑系ということで融合するというケースのように、今、飯吉委員がおっしゃいましたように、やはりテーマを、リスクやサステナビィリティーというテーマの下に集まるのが一番有効かとおもいます。地球研がそうであるとは思いますが。。そういうテーマをするんだということで、高等学術研究所のようなところをつくるというのが分離融合には一番いいのではないかなと思います。先回も、高等学術研究所は必要だということは言いましたがぜひそれは必要だと思います。

【今田委員】
 おっしゃるとおりで、何か難しい高等学術研究所とか、そんな名前にするとイメージができないんですよ。やはりテーマを決めて、例えばリスクだったらリスクで文理融合の研究所で、それからもう一つ、大学の中にはつくらない。大学の教育、それから行政の何とかをやらされたら、研究なんかできません。特に日本はそれを全部やらされるでしょう、先生方。それは隔離して、どこか別のところにつくる。例えばリスク。
 もう1個言えば、ただ、幸福ということに関してやったら、僕、調べて勉強してペーパーを書いたことがあるんです。いかに社会科学もだめかというのがわかった。人文学が、これは出てこないと、幸福の問題は扱えないという印象を持ちました。というぐらいで、幸福が科学の対象にならないのではないのなんて言われたらおしまいだけれども、それをするのが学問だった。科学の対象とならなかったものをしようとするのが学問なんだから、例えば幸福というふうにやったときに、思考ができないんですよ、社会科学のトレーニングを受けていると。できないというのは、ごめんなさい、言い過ぎましたけれども、なかなか思考がうまくいかないので、それは人文学の先生方もいろいろ入っていただいて、文理融合でやったらうまくいくのではないかということを言いたいために、ちょっと言い過ぎましたけれども。

【伊井主査】
 いろいろテーマはあるだろうと思いますが。どうぞ、上野先生。

【上野委員】
 今田先生のご提案で、先生は新しい研究科の文理融合の実績をお持ちのところが反映されていて、一般最後、とはいっても、人を混ぜることが一番効果があったとおっしゃったのが、私にはわかるように思いました。
 それで、出ている観点とちょっと違うところで、人文社会科学の振興ということですが、先端の開拓ということと、それから振興というのは、やはり下支えが要りますから、研究者や大学教員の置かれている状況はそれとして、振興ということでいうと、私はやはりそれを大学院生と大学生だけではなくて子供たちも含めて、教育と先端をどう結ぶかという観点を持つ必要があるのではないかと思っています。自然科学が先端をどう教えるかという問題意識を持っているのに比べて、人文社会科学はおくれをとっているというふうに思っているんです。といいますのは、先ほど丸ごとリアリティーのことがありましたけれども、それは研究者が社会的な状況と人間の問題を丸ごととらえるという先端の問題であると同時に、子供はまさに分化したところでばかり教えられていますけれども、まさに子供が丸ごとリアリティーをどういうふうに学んでいくかという部分とほんとうは重なるように思うんです。
 それで、人文社会科学系の場合は、どうしても自分が育ったようにしか教えられないし、結局は科研費の分野、分科、細目に戻るんです。こういう会議では、あれは便宜上だとおっしゃるけれども、研究者の一種のアイデンティティーはあそこにあると思えるんです。ですから、そこから出られないので、丸ごとというのはおよそ無理です。広領域と複合というように、とりあえずの開拓はされるけれども、それはその研究期間で終わるわけであって、それがどういう形できちんと丸ごとという研究の手法ないし問題意識として蓄積されているかというと、それがないと私は思います。
 そういう意味では、今、いろいろな試みがされていて、先ほどの科研のデータベースもそうですけれども、少しそういう文理ならぬ、広領域、複合、そういう形でかなり先行しているものがあるので、それを何とか新しい領域として支援して広げていく。そのときに、先ほど言いました、ある種の問題意識としては、先端と下支えする教育とをどう結ぶかという問題意識になれば、少し開拓できないか。どうしても、人文社会科学の場合は、ある種の抽象的な論議に終わってしまう部分があって、最終的に研究者はやりたいことをやりたいわけです。それを保証することは大事だけれども、各学問が持っている使命なり、発展をどうしていくかというと、人を混ぜるというのは極めて逃げ場のない、開拓する方法だと思いますし、それから、最先端をどういうふうに教育の中に普及させるかということを一本通せば、振興策にも結びつくのではないかと思いました。
 以上です。

【伊井主査】
 ありがとうございます。大学の経営をもなさっていらっしゃる白井委員のほうで、何かございますか。

【白井委員】
 今のご意見なんかを私もずっと伺っていて思ったのは、やはり具体的なテーマできっちり取り上げる、何人かそれに興味を持つ方を集めて、できる場所を設定して、あらゆる方法論をやはりそこは自由に使うべきだと。これは全くそのとおりだと思うんですよね。数理的な方法もあるだろうし、データをたくさんとるという方法もあるだろうし、歴史からいろいろ考えてみようという学ぶ方法もあるだろうと思う。方法論は別に何でもいいのであって、例えば教育一つの問題でも、今、盛んに議論があるけれども、一体どういう原因でこういうことが起こってきているのか、それは歴史的に見たら、いつの時代も学校というのか、子供たちの生活とか親との関係とか、そんなものは社会の状況はもちろん違ってはいたけれども、似たようなことだったのかどうか、今、要するに現在という時代の、今、みんなが問題にしているようなものは、歴史からいったら非常に異常なものなのかどうかというすら、よくわからない。異常でなければ放っておいていいとは思わないけれども、それはできるだけ減らすとか解決することを考えるのは当然だと思うんですが、そういうことについてきっちり答えられる、それをどう考えのか、それはどういう問題で、どういうアプローチがあるのかということをだれも研究してくれていない。
 さっきの躁うつ病なんかは物すごくおもしろいですよね。社会的な問題と、これも患者がほんとうに多いのかどうか、昔からどうなんだろうと、私もよくわからないんですが。家庭内暴力なんかもそうですよね。そういう非常にたくさんの問題があって、これを社会学的に、あるいは人文というか、脳科学もあるかもしれない。そういういろいろな方法論を使って、やはりこれをやってみようと。
 5年、とにかく何でもいいから全部調べろというようなことをやるような研究所というのは、理工学というのか、科学的というか、何かよくわからないけれども、とにかく社会学が必要ですよね。それから、人文的な方法論も必要だ。そういうものをやるのはとても大賛成で、今の皆さん方のお話の中で、やはりやるべきアプローチだと。思い切ってそういうところをやっていくのは、非常にいいのではないかなと。もちろん、個人の興味でずっと続く研究というのも私は全然否定するわけではないけれども、そう思います。
 それから、もう一つは、今、科学技術の進歩をとめることはできないから、とにかく非常に壊滅的方向に進むわけですよ、これは否応なしに。どういうふうに進むかをみんな選択を若干したいから、50パーセント削減しろとか、変なことを言う。変なこととというか、一生懸命言うのはいいと思うんだけれども、そんなことで防御できるのかどうかもよくわかりませんね。そういう状態の中にあって、文化だとか何だとかいうものを我々がどう考えるのか。要するに、人類は一体何を守ればいいんだろう。日本という国を守るというか、日本の文化というか、アイデンティティー、そういうものが大事だと思うんだったら、人文科学で言っているようなものは一体どういうふうにして継承されるんだろうか。そういう現代の中で、文化的なことを考えても、我々は非常に差し迫っている問題もあるわけですね。そういうものをいかにして守って、さらに非常に高いレベルで継承していく手段を考える。一番最初に、伊井先生が原理のお話をされましたけれども、そういうものをどういう状態で若い人、子供たちにもやらせて、まさに哲学が教えることは大事だと思うんだけれども、そういうのは何をどういうふうに教えればいいのか、そんなことも人文科学では非常に大きな問題だと思う。役に立たないって最初にちょっと、大体こんなものは役に立たないんだと。研究は役に立たないとおっしゃるけれども、僕はそうではなくて、そのものは確かにそんなに役立つかどうかわかりません。だけれども、それを研究している研究者が子供たちに何を教えたり、大学でも教えたり、そういう中には物すごく大きな意味があるわけだから、別に役に立っていないのでなくて、非常に役に立っているわけです。
 ですから、もう一つ、それが見えるような格好にするというのは確かに重要だと、私はそう思って伺ったんですが、では具体的にどうするんだと言われると、やはり今の上野さんの話ではないけれども、少し枠組みを変えて、何か目的指向を持った部分をつくっていくというのは、非常にいいご提案だと僕は思いました。

【伊井主査】
 ありがとうございました。どうぞ。

【小林委員】
 私、研究者でも全然ありませんので、細かいことはわかりませんけれども、私も大学でいろいろやっておりまして、いろいろ混じり合うことの難しさというのはいっぱいあるわけです。でも、逆に言えば、混じり合わないほうがいいといいますか、それぞれのアイデンティティーはアイデンティティーでしっかりしていて、それでいて一緒になるというのがいいものですから、どうも融合という言葉が、何か足して2で割るような、黒と白でやって灰色のものをつくるとか、そんなものではないのではないかと。それぞれもうばらばらで、一定意見を言い合って、それで何かができていく。でも、そのときに一番大切なのは、それをまとめるコーディネーターがだれだと。そこ次第なんですよね。コーディネーターがよければ、いろいろな分野の人たちがいろいろな意見があって、それをうまくまとめていって、こうだという報告書だとか、いろいろなものができるんでしょうが、ただ混じり合っているだけだったら何かなと。だから、1つのテーマを決めてやるということでもいいんですが、そのコーディネーター次第だなということが、私も経営者として見ていると、結局そこの人次第じゃないかなということを感じましたので、述べさせていただきました。

【伊井主査】
 ありがとうございました。非常に大事なことだと思います。
 どうぞ、藤崎委員。

【藤崎委員】
 初めて参加させていただきますので、的外れかもしれませんけれども、今のご発言なんかも非常によくわかるように思います。おそらく分離融合にしましても、学際研究にしましても、その重要性ということはとてもよくわかるんですけれども、もしもメンバーが今田先生のように第一線級で活躍していらっしゃる方たちが顔をそろえればうまくいくのかもしれないんですが、もう一方で、先ほど、下支えとなっている教育と先端研究をどうつなぐのかというお話があったかと思うんですけれども、教育という視点で考えますと、一時期、非常に学際ということを割とセールスポイントとするような学部、学科などがかなりたくさんできた時期がありますけれども、私の知っている限りでは、そんなにうまくいっているところはあまりなくて、やはり内部でかなりすみ分けをしてしまっているという状況があるように思うんです。それでも、学際とか融合ということをコンセプトにした大学教育を行っている場所というのは、そういう教育を受けた学生というのは、それがよさ、例えば物の見方の柔軟さですとか、そのよさは一方であると思いますけれども、やはり足腰の弱さというんでしょうか、いろいろなことをたくさん学んで、多様な物の見方があるということはわかったけれども、では、自分の一番のベースになるものは何かと問われたときに、やはりちゃんと答えられないというか、そういう弱さが一方であります。ですから、育てていくということを考えたときに、いきなり融合とか学際と言われても非常に難しいなということは感じています。
 教育のプロセスを小学校からずっと考えるべきなのかもしれないんですけれども、大学教育以降に限定しましても、やはりそれぞれの専門をしっかり身につけるステージと、それからそういう学際というか、領域を超えていくような能力を身につけるステージと、そのあたりをかなり計画的に教育プログラムの中に組んでいかないと、ほんとうに人は育っていかないのではないのかなと思うことが1つ。
 もう一つは、やはり先ほどの方のご意見にも似ているんですけれども、すぐれた研究者イコール学際とか融合を進めていく上でのコーディネートの能力を持っている方とは、必ずしも言えないところがあって、その能力はどういうふうにすれば身につけることができるのかなというのは、もう一つの難しい課題かなと思っています。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 深川委員、何かございますでしょうか。

【深川委員】
 私も今回が初めての参加でございますし、非常に周囲の方々からの高邁なお話についていけているかどうか、非常に疑問が我ながらあって、よくわかっていないかと思うんですけれども、自分の経験からしますと、私、地域研究と開発経済学の2つにまたがっているようなところにいるので、必然的に非常に科学的なシミュレーションが大変お得意な人たちと、非常に人文的なアプローチをされる人たちが融合する場に必然的にいる立場だと思うんです。ただ、お互い隣の芝生は青く見えるというのはやはりよくあって、若いころ、がりがりにハイパーなことをされてきた方は、ある日突然ばたっとこれを捨てて、歴史家になられる方もいますし、歴史家から出発すると中途半端に計量にあこがれてしまうところもあって、そういう人たちがごちゃ混ぜにいる分野だと思うんです。
 1つ、きょうのご発表、多分反対される方はだれもいらっしゃらないかと思うんですが、コンピュータのシミュレーションとか実験とかが、非常に役に立たないのではないかという話は常にあるかと思うんですけれども、多分経済学の中では特にどんどん人間を対象とした世界から遠ざかっているファイナンスのマネーの世界で、それはどこかには人間が行動しているからマネーが流れているわけですけれども、マネー自体がどんどん膨張していっている世界があるので、この世界に限っては、やはり相当程度、もう既に限りなく計算的手法で成立してしまう世界があって、そういう人たちが例えば東アジアの通貨危機とかいうときには、やはりそういう分野があるわけです。そういう人たちには、またそういうところがありますし、でも、彼らの言っているアサンプションが非常に歴史的パースペクティブから来るとありえないアサンプションを置いていることが、また多々あるので、おっしゃるとおり、分離融合的な世界というのは当然あり得る、非常にやっていかなきゃいけない世界であるということは間違いないと思います。
 特にそういうハイパーの方々とよく一緒になって思うのは、多分一つの可能性ではあると思うんですけれども、非常にファイナンスのモデルとかで物すごく精密なモデルと、物すごく高等な数学を使って展開されていて非常に事象結果もいい、これをもって正義だと言われてしまう議論というのは、それは一つのアカデミックな産物としては十分価値はあると思うんですけれども、ただ、だんだんそれをやっていると、ツールそのものが目的化していっている人がたまにいまして、「わかりました、先生は非常に頭がいいということはわかりましたが、この国の問題って、それじゃないのではないんでしょうか」という根本的な世界にはよく出くわすんです。
 なので、実証データベースを構築してやっていくことには意味があると思いますし、分離融合も根本的にアサンプションは、私たちの世界とは違いますねという議論があるのは大変意義深くて、結構だと思うんですけれども、どこかで実証データベースをつくって、つくればつくるほど、多分それを使っていろいろなことをやりたくなるというのが研究者の常ですので、どんどん膨張していくと思います。ツールの材料をいっぱいつくっていくというのは、公的な役割として非常に重要だと思いますが、どこかでもう少しツールそのものが目的化するようなことを防止する文理融合の協力のパラダイムとか、データベースの構築の仕方というのがあり得ないかなと思います。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 石澤委員、何かご発言ございますでしょうか。

【石澤委員】
 きょう初めて出させていただきまして、今田先生のお話を大変感銘深く聞きました。なるほど、こういうふうに考えていかないと、なかなか文理融合とか、そういう流れの中で考える方法論といいましょうか、そういうものが構築されないのかなと思いました。そういう意味で、心の豊かさと物の豊かさのデータなんかを見まして、なるほどそうかということが実感できました。
 私もどちらかというと、歴史から出発して、今、地域研究にはまっているわけですけれども、これだけのグローバル・イシューをどういうふうにローカルとグローバルの面で見るかという点、その流れの中で、やはりいろいろな方法論を使う、この文理融合というのはそういう点で非常に有効になるのではないかなと、私の感想でございますが、思います。
 最後は、やはり、どうも先ほどからお話が出ているんですが、研究者自身の、あるいはその現場に立っている人たちの資質といいましょうか、どれだけ積極性があるかとか、やる意欲があるかとか、そういうものも含めて、やはりそういうものに帰結する。それでうまくいく部分とうまくいかない部分、いろいろあるのではないかなと思っております。
 そういう観点から、私のところでは、カンボジアに人材養成センターを持っておりまして、そこで、どちらかというと、定点観測的な、割とデータ集めをやっておりまして、そのデータそのものが有効かどうかというのは、またこれから議論のあるところなんですけれども、遺跡の保存修復という一つの現場から、言うなれば人文、社会、自然という3つ、森林問題も含めて、それから環境問題も含めて、なるべくデータをとろうと。そのデータが何を物語るか、何を予測できるかというのはまだまだ不十分でございますけれども、そんなことをやっていまして、きょうの今田先生の話、そういう意味では、非常に意を強くするというか、なるほど、こういうふうに考えていかなきゃいけないんだということでサジェスチョンをいただきました。ありがとうございました。

【伊井主査】
 ありがとうございました。
 時間もまいりましたが、本日の議論はまた事務局のほうでまとめていただきまして、お手元に資料3がいっていると思いますが、そういう形で少しずつまとめて、我々の答申をしていきたいと思っております。
 今田先生、きょうはどうもありがとうございました。
 それでは、事務局のほうで今後の予定等につきまして、ご説明いただければと思います。

【高橋人文社会専門官】
 今後の開催予定でございますけれども、資料4をごらんいただければと思います。
 次回の委員会は6月29日、10時から12時、場所は尚友会館ビル8階1、2号室を予定してございます。詳細な案内につきましては、また改めてお知らせいたしたいと思います。
 また、本日の資料につきましては、封筒に入れて机上に置いておいていただければ、事務局のほうから郵送させていただきますので、ご希望の方はそのようにしていただければと思います。また、ドッジファイルにつきましては、お持ち帰りのほうはご遠慮いただきたいと思います。
 以上でございます。

【伊井主査】
 ありがとうございます。
 実は、本日は今田先生のプレゼンテーション以外に、もう一つ議題を持っていたんでございますけれども、むしろ活発に議論をしていただいたほうがいいだろうと思いまして、次回回しにさせていただきました。次回は6月29日でございますが、どうぞまたよろしくお願いいたします。

【徳永研究振興局長】
 ちょっと私、おくれてまいりましたけれども、ぜひ皆様方にご提示したいのは、一方で、この委員会はここでやっておりますが、これ以外にも現在、学術研究の推進について動いておりまして、特にそういう中で、私どもが今考えておりますのは、この研究環境基盤部会のほうにおきまして、特に大学共同利用機関法人というものを通じて、いわば新しいタイプのネットワーク型の大学共同利用機関、それをアドホックな形でもできないかというような検討も進めておりますし、あるいは一方で、科学研究費補助金等のあり方を行う研究費部会のほうでは、基本的には科学研究費補助金の費目の区分について、これはゼロベースから見直すということの検討も、今、進めているわけでございますし、一方では、例えば特に研究基盤部会のほうでは、これまで科研費の特定領域といったものの研究がこの特定領域に終始していると。そういう、いわば一定の期間、特定領域等の研究でパワーが集結してきたものを組織に転換していくような方途もないものかというような検討もしておりますので、ぜひ少しあまり現状の中での議論ということだけではなくて、逆に、新しい仕組みというものを先生方のほうから提案をしていただくという形でご議論を進めていただければと思っております。

【伊井主査】
 というふうなことで、これからもまた活発にご意見を賜って、有効な方針を立てていければと思っております。
 本日は少し時間を超過いたしましたけれども、ありがとうございました。

─了─

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