学術研究推進部会(第11回) 議事録

1.日時

平成17年6月27日(月曜日) 15時~17時

2.場所

霞が関東京會舘 「ゴールドスタールーム」

3.出席者

委員

 笹月部会長、岩崎部会長代理、中西委員、伊井委員、飯野委員、伊賀委員、井上明久委員、小平委員、谷口委員、鳥井委員

文部科学省

 清水研究振興局長、小田研究振興局担当審議官、河村科学技術・学術総括官、柿沼主任学術調査官、芦立学術機関課長、甲野学術研究助成課長、里見学術企画室長 他関係官

オブザーバー

 石井分科会長
(科学官)
 清水科学官、高埜科学官、本藏科学官

4.議事録

(1)平成18年度概算要求に向け、政府の基本方針について、資料2-1~2-7に基づき、事務局から説明が行われた。

(2)各委員から「大学・研究所の設立のポイント」について事前にご意見をいただき、とりまとめた資料(資料3-2)について事務局より説明後、意見交換が行われた。主な内容は以下のとおり。
(○・・・委員、科学官の発言)

○ 資料の「1.多様な学術研究の振興」と、「5.人材育成にかかわっての発言」である。平成3年の大学設置基準の大綱化に伴い、教養教育が改革され、例えば自然科学の基礎研究をジュニア段階から勉強できるような体制ができたのは大変結構だと思うが、人文社会系が弱くなっているのではないか。
ここにいらっしゃる先生方は、幅広くいろいろな学問をなさった中で、例えば理系に特化した最先端のところにいる。そのような幅広い人文社会も含めた教育が、先端の創造的な研究にどうかかわってくるのかということはとても関心のあるところである。
また、データの捏造があった論文投稿の問題等も含めて今の高校までの段階の教育では、まず受験勉強が優先される中で、大学に入ってからすぐに特化した専門教育ということになると、コモンセンスをきちんと身につける機会もないのではないかという不安を抱く。その点についてはかつてオウム真理教の事件が発生したときに問われた時期があった。そのようなことも含め、人材の育成を図っていく際にいかに人文社会が社会人、あるいは市民としてのコモンセンスを形成していくかということもうまく反映させていく提言が必要ではないか。

○ 最初の教育というところについて、事前のアンケートでも何人かの方にいただいているが、最終的には多様な学術分野を創成し、それをどのように伸ばしていくかという観点において少し意見をいただければと思う。

○ 教養あるいは社会を意識した高い専門性は重要である。理工系分野の先端の学問をやっていると、そういう社会リテラシー、社会との関係という視点を持つ必要を非常に強く感じる。この部会でも随分議論されてきたことであるが、好奇心に基づいてという基本的なところももちろんあり、学問を自由に行うわけであるが、それが市民社会にどのように返っていくのかという意識が常に必要である。
 私どもの大学では、博士課程の教育において、科学技術社会論を必修にしようという動きがある。現在は学部に入ったときの教養課程がない。しかも博士課程という高度なところに来て同じような教養をつけるというわけにはなかなかいかないので、工夫が要るかと思う。これは大切な視点ではないかと思う。

○ 教育というと、まず個人の興味、好奇心あるいは関心、それに基づいた多様な研究ということになる。言葉ではそうであるが、実際に個人のみずみずしい好奇心、関心、そういったものがいつ、どこでどうやって育てられるのか、あるいはそれを育てるためにどのような仕組みが必要なのかということが非常に大事ではないか。それは大学に入ってからでいいのか、もっと以前の問題もあるのではないか、私は常にそこを気にしておるのでどなたか意見をお持ちの方は聞かせていただければと思う。

○ 知的活動には大きく2つのプロセスがあると思う。1つは、分析的にどんどん細かいところへ入っていくというプロセスである。もう1つは、何か実現したい目的を持って、知識を集めてきてインテグレートしていくというプロセスである。社会において具体的課題はあり、それに向かって知識を統合していくというプロセスが大学の中に内包されているということが、今おっしゃったような社会との関係を考えていく上で非常に大きな要因になると思う。
 文理融合とよく言われるが、分析的なプロセスのときにいろいろな分野の人を集めてきても融合ができるはずがない。どんどん細かいところへ入っていくのであるから、統合というプロセスがあって初めて自分たちの専門だけでは足りないということになり、社会学や人文科学の研究者も一緒に考えなければならないところができてくる。
 今、大学というところは分析的なことをやるところだという雰囲気があり、工学はある種のインテグレーションをしているのかもしれないが、それでも社会が、技術としてやっているところが多く、その辺を大学のメカニズムの中に取り込んでいくことが多様な研究の芽をつくる1つの手だと思う。

○ 先ほど大学に入る前の話があったので、そのことを1点と大学に入ってからのことをもう1点述べたい。私は今の立場になる前から付属学校の卒業式で式辞を述べるチャンスがあり、そのときに「あなたは理系ですか、文系ですか」というスピーチをしたところ、非常に反応が大きかった。具体的な例としてアメリカでは、例えばエドワード・ウィッテンというフィールズ賞をとった非常に有名な方がいる。学部では、ウィッテンは社会学をやり、大学院に入るときに物理を専攻し、物理で素粒子論をやり、その中で新しい数学を開拓して、数学のフィールズ賞をとった。日本では文系、理系と自分を狭く規定し過ぎていないだろうか。
 これは日本の教育システム全体にかかわることなので、どのように変えていったらいいかという提言はなかなか難しいが、日本では早い時期に理系、文系というカテゴリーを分け過ぎている事は大きな問題だと思う。我々は大学の学部段階の教育課程を大幅に変えることを考え、文系、理系をなくすという考え方も頭の中をよぎったが、1つの大学だけでこれをやるというのはまだ時期尚早であろうということで、断念した。日本全体として理系、文系に早く分けてしまうシステムをどこかで変えていく必要があると考えている。
 もう1つは、理系、工学部の人間にとって倫理が非常に重要だろうと私は思っている。そこでいろいろ調べたところ、大学全体としては取り組んでいないが、もともと生物科学系などでは生命倫理は大分前からやっているということがわかった。さらに最近驚いたことは、工学部の中に工学者における倫理問題を自主的に6人のチームで開講して「学問とは何か」という題名、「理工学における倫理問題」いう副題で著書も出し、問題を提起している。30を超えたばかりの若い助教授が中心になっている工学者の中にも倫理問題が非常に重要だということを理解し、このような動きがあるということを知った。
 したがって、大学において人文科学というのは非常に大事であり、そのためには人文科学の方も変わる必要がある。現代的な問題として、倫理、宗教、哲学という非常に大きな問題に人類が直面しており、研究者、大学の教員が現代的なその問題に対して関心を持っている方もいる。反対に、今までの伝統的な哲学とか倫理を教えている先生もいる。そこで、工学や生物系の研究者と倫理学をやっている研究者とが一緒になることにより、人文科学を現代化していくことによって学生の興味も出てくるし、それはまた研究者にとっても非常に有用だと思っている。

○ 資料3-1の一番最初にもあるように、結局は萌芽的・独創的な研究が次々と生み出されるような環境とはどのようなものか、また、どのようにそれを大学が工夫し、あるいは国が支えるのか、これがこの議論の最終的な目標となる。
 そういう意味でもみずみずしい若者をどう育てるのかと言う、それは幼少期の生活環境にあると思う。イギリス人は常に自然の中に子供たちを連れ出してハイキングに行ったり、動物と遊んだりしているという。そのような若者を手にして、どうやって大学で力を発揮させるのかというところが焦点になろうかと思う。その環境として、大学間の交流あるいは国際的な交流、常に優れた研究者等に触れさせるということが1つの大きな目標にもなろうかと思う。

○ 今の大綱化によって、確かに教養教育ということに非常に重点が置かれていて、文理融合型ということが盛んに言われるが、本当に文理融合の科目はあり得るのか。専門家というのは少し離れれば非専門になる。そういう人たちと我々は討議し、論議し、本当に真剣に考えなければいけないというのは痛切に感じている。理系でも文系でも完全に分かれないものを我々はお互いに論議し合う環境を作っていかねばならない。
 大学でも非常に苦労しているが、例えば私の専門の人文学でも、特にここ10年程は研究成果を上げるために極めて細分化し、たこつぼ化している。さらに理系の方と話してもやはりたこつぼ化している。自分の専門から少し離れるとわからない。これは深刻な状況ではないだろうか。ほんのささやかな研究だけをして業績を上げている方が最近は特に多くなっている。それで、視野の狭い研究者が今どんどん増えているのではなかろうか。だから、今こそ、文理融合でもいいが、もっと視野の広い研究者を養成していくのを、専門に入る前の共通教育の時代から真剣に考える時期に来ているのではなかろうかと深刻に考えているところである。

○ 今、ヒューマンサイエンス、ヒューマンテクノロジーという大きな命題に対して、小さなセンターと大きな研究所が必ず連携を組み、学部学生等も研究会には半ば強制的に出席してもらい、人文から理学・工学などが融合し合い、新しい技術を生み出すような研究会等を年4回開催している。
 研究スペースとしては、研究所やセンターがお金を出し合い、現在、建物等の20パーセントを総合研究スペースとして利用できる制度を最大限に活用して特定の部局に属さない共用スペースをつくりあげている。しかし、大学全体の組織として立ち上げようという状況にはまだなっておらず、その一歩手前の機構という学内組織でとまっている。おそらく将来において、人間とサイエンス、テクノロジー、人文に総合的に連携して取り組まなければならない。まだ残念ながら、倫理等のグループは加わってはおらず、人数はそんなに多くはない。理学、工学、生命科学、医学、人文あたりの研究者はすでに入っており、全体的な取り組みが行われつつある。

○ 例えば共同利用研というのがある。あれは1つには大型の機器で人を惹きつける。例えばタンパク質の立体構造の解析についてイギリスは非常に強い伝統を持っており、ケンドリューやペルツといったノーベル賞をもらった研究者たちもいる。そのイギリスからでさえもSPring-8やその他日本の持っているタンパクの高次構造の解析のために若い研究者が次々に日本にやってきている。
 したがって、国際交流あるいはその他すぐれた研究者との共同研究、接触ということを考えると、そういう共同利用研究所の機器に関しても、国際交流、あるいは国内における交流を盛んにする1つの手だてではないかとも考えられる。委員の方々から国際交流、あるいは大学間の交流ということが指摘されているが、何か具体的に国際交流あるいは大学間の連携という具体的な方策をお聞かせいただきたい。

○ 先ほどから教育の問題がしきりに議論になっているが、かなり根本的な問題だと思う。非常に端的に言うと、初等・中等教育と高等教育との乖離が非常に大きいのではないか。私は医学部にいるが、医学部の入学試験に生物を必須科目として導入するかどうかということでいろいろ教科書を調べたこともある。アメリカと日本の生物の教科書にはかなり隔たりがある。この国では研究に関しては非常にリスペクトされていても、教育に関しては、比較的レベルの低い二流の研究者がやるものとか、あるいは大学のレベルに達していないと言ったら少し誤解があるかもしれないが、教育に関する重みが少し軽いのではないかという気がする。
 分かりやすいように言うと、教科書を書くということに関しても、リタイアした人や、いまいち研究が思うようにいかないような人が書くとか、一流の研究者はそういうことはしないものだという感覚があり、アメリカとは根本的に考え方が違う。そういう状況が続くこと、日本の過熱とも言える異常な受験戦争等の事実を考えると、この辺を根本的に解決しないとなかなか豊かな小中教育、独創力のある人間を育てるといったところにつながらないのではないか。
 どうやって問題を解くことができるかということに特化するばかりに、問題を発掘したり、議論をしたりとか、そういう能力がどこかでなおざりにされている。そういう教育が小中一貫、高、大学まで続いているのではないかという印象がある。そこが外国のいろいろな学生とか、いろいろな人と接すると少し違うところがあるのが事実である。したがって、そこを何とかしていくということが大切ではないか。
 コミュニケーションの能力というのも今の若い人たちには少し欠けているのではないか。先ほどからあったように、我々が学生のころは広く人文社会系にも興味があり、社会の動きにも興味があり、いろいろ議論もあったと思う。そういうことが今はなく、静かである。静かで、かつ内向きなので、お互いのコミュニケーション能力が低い。外国に行っても議論をするといったときに、他人の意見を認めながらも自分の主張をしっかりとするというトレーニングになかなか慣れていないのではないか。国際的なレベルで研究者としてやっていこうといったときに、コミュニケーション能力がないということは致命的である。そのようなことに何らかの形でサポート、エンカレッジしていくシステムを作らないといけないのではないかとも思う。
 研究所の問題であるが、1つのあり方としては、いろいろな大学と共同研究というよりは、その中に日本の何とか大学のオフィスを置いたりして、そこで共同のカリキュラムを組むというようなできることから少しずつやっていくことも実際には重要ではないか。いろいろな大学との共同カリキュラムを組み、共同研究をし、外国のラボに日本の研究者が行き、若いときからトレーニングを受ける。しかし、そこは大学院の学生がやっているところだ、というようなことも実際はあるのではないか。これは非常に短期的な問題で、徐々に努力をしていく以外ないのかと思う。

(3) これまでの議論の論点整理として、資料3-3~3-8に基づき、事務局より説明後、意見交換が行われた。主な内容は以下のとおり。
 (○・・・委員、科学官の発言、△・・・事務局の発言)

○ 資料3-6で、我が国の公財政支出対GDP比がほかの国々の半分のレベルだということがはっきりと出ているが、それでも最近は比較的近づいているわけで、資料2-5の11ページにあるグラフ、片方は高等教育で、片方は科学技術研究だろうか、このグラフは政府負担研究費ということであるので、高等教育そのものではないが、これとの関係をまず知りたい。
 資料2-5の11ページにあるような経年推移を見ていくと、これは下が0.4から始まっているので、実際には非常に近いところに最近来ている。資料3-6にある2002年版ではかなり日本の状態はよくなっているが、その前、戦後数十年にわたって低い時代があった。この時代の資料3-6にあるような割合の推移は分からないのか。というのは、GDPということで国民生産が回っていく中で、このような研究活動あるいは高等教育に再投入される部分が、あるレベルまでは生活費になっていて、それを超える部分がいわば貯蓄に回せるということで、日本の場合、エンゲル係数が割合高いと思うが、それに比べ、この数十年にわたって欧米が蓄積してきている分が現在どのように響いてくるのかというところが分析できそうかどうかが知りたい。
 フローの分析ではなく、我々は今ひしひしと感じるのは、先ほど来議論があるように、研究施設、大学の施設の整備は建物内容で見ると日本は非常に貧弱である。支援人材もすぐに手に入るわけではなく、育てて蓄積しないと、例えば英語ペラペラの事務官についても育てないといけない。そういう支援人材を含めて、フローとしては現在近くなっているが、蓄積を比べようとすると、過去にさかのぼってこの辺の投入割合がどのようにになっているか知りたい。

△ 1点目の資料2-5のデータと資料3-6のデータとの関係であるが、ご指摘があったように、資料2-5は研究費に着目してとったデータである。全体としては、民間がどれくらいの研究費を出しているかということと政府負担がどれくらいかというデータとなっており、そのうちの政府負担分を比較したのがこのグラフである。「政府負担」というだけで、これが大学セクターにどういっているかということはこれだけではわからない。
 一方で、資料3-6の方は、観点が違っており、教育の観点で公財政支出を見たデータである。高等教育、初等中等教育とそれぞれデータをとっているが、これは高等教育に対する公財政支出のデータである。
 2点目であるが、大変難しい。ストックに関するデータというのは、正直、私どもは見たことがない。今後の課題だろうと思う。

○ 資料3-6の施設整備は、諸外国も日本も全部入っていると考えていいのか。

△ 考えていただいてよい。少なくとも日本の場合は入っていると理解していただいて結構である。イギリスの場合も、考え方からすると、インフラという考え方で国が補助する分は入っている。

○ 資料3-6の学生支援というのは、もちろん大学院生も入っているだろうし、アメリカがこれほど大きいというのは奨学金が非常に大きいということなのか。

△ アメリカの場合は連邦政府によるペル奨学金というものがあり、これがかなりの金額を占めている。

○ 資料3-3、学術研究の推進における大学・大学共同利用機関と国の役割について、本日のテーマである多様な学術分野を創成し、それを育成するかということに関して、大学の役割はどんなものか、国はそれをどうサポートするのか。もちろんその前には、どのように好奇心あふれる学生、あるいは若者を育て、それを研究の場にリクルートするのかという個人の問題、大学の問題、国の問題とあるわけだが、このスキームに従って議論を進めたいと思う。
 大学がどのような特色を出すのか、どのようなインフラを整備するのか、それをどのように伸ばすのか、そういうことに関して大学がやるべき工夫について、具体的な提言をいただきたい。

○ 国としては基盤的経費をきちんと確保していただくということと、先ほど来私も気になっているのは施設の問題で、そこの財政的な基盤をしっかりしていただきたい。
 また、組織の編成に対しての自由度を大学側にできるだけ与えてほしいということで、そういう中で大学は何をするかということだと思うが、人事と研究支援システムと組織ということで、研究支援システムとしては、筑波大学も昨年来1年間以上かけて新しい研究支援システムをつくろうと思っている。1つは大学の中で基盤的な経費を確保するということと、大学の中での競争的資金等を国と同じようにやっていく。
 国に対しても提言していることであるが、研究の発展段階に対応したファンディングシステムを学内でもつくるべきだろうと思う。若手や着任した人に対しての支援、それからある程度まとまってきたプロジェクトをさらに大きくしていくための支援のプロジェクトシステムが必要である。
 最初の段階と最後の段階は大学としても非常にやりやすい。重要だとは思うが、まだどうしていいかわからないことは、中間の段階である程度の小規模から中規模の段階に伸ばしていくシステムとしてどういうものがあるかということである。若手といえば科研費の場合は37歳。先ほどのデータにもあったように、30代の後半から40代がピークだとすれば、37歳から45歳までをどうやって持ち上げていくかというシステムが非常に重要だと考えている。
 あと、組織としては非常にソフトな組織、これは先ほど議論があったが、我々としてもいろいろなソフトな組織を開学以来作ってきたが、かたい組織でなくてソフトな組織はいろいろな分野の人やほかの大学の人と一緒に研究できる。例えばMITにおけるイニシアチブのようなソフトなシステムをつくることが重要だと思っている。
 最後はやはり人事で、これは採用、昇格時にそれをどうやってポジティブな評価と厳密な評価をするかという点である。そのデータベースと評価システムを構築しようと思っているが、下手にやるとこれはかえってネガティブになるので、その辺が非常に重要だと思っている。

○ 大学における研究の進展状況に対する支援について、その資金は何に準拠しているのか。

○ 基本的には運営費交付金である。

○ 発展段階にある中間層、若手と確立した研究者というのはわりとみんなが注目しているが、本当に日の出の勢いでやっている中間層、ここがむしろ手薄なのではないかと思う。もしそういうところが大学の独自のシステムによってサポートされるとすれば、それは大変いいことだと思う。
 もう1つ、柔軟な組織というのをお聞かせいただきたい。

○ 研究所というのは分野が固定し、人も固定しがちであるが、例えば当大の場合は開学以来、期間も例えば5年とか10年に区切り、その間、人と物とスペースとお金を配分するという方式で、特別研究プロジェクト組織というものを作ってきた。その経験をもとに、例えば学部に直接関係しないで、普通の大学であれば学部にまたがったような組織を作っていき、時限をつけ、そのかわりそこには人とお金を大学本部として措置する。

○ もう一段柔軟なところに、いつも各大学、あるいは各研究機関があるスペースを持って、例えばDNAの二重構造を発見したワトソン・クリックの例の『ダブルヘリックス』という本にも盛んに出てくる話がある。ケンブリッジ大学におけるキャベンディッシュの朝のコーヒータイムでは必ず同じ部屋に集まり、分野の違う色々な人たちが自由に意見を交換する。午後になるとまたティータイム。夕方も帰る前にビールでも飲みながらという、そういうスペース、環境が日本にはないイギリスの文化ではないかと思う。そういう若者が自由に討論でき、外国から研究に来た人、あるいはセミナーに来た人もそこに来て、世界中のすぐれた研究者と若者が接触する。それを各大学が作っていただければいいのではないかと思う。
 また、各大学が、キャンパスの中に外国からの訪問者をアコモデートできる宿舎が日本にないのが大きな欠点だと思われるので、キャンパスの中にそういう人たちが宿泊できるシステムを大学が持つというのは非常に意味がある。

○ 資料3-3の大学連携で、国内の大学間連携等は特別教育研究経費等を中心として、いろいろ支援していただいているという情勢になっていると思うが、国際的な大学間連携において、外国の大学とマッチングファンドで連携を強めてやっていくところに特別教育研究の一部を投入して行うことについて文部科学省の考え方はどうなのか。そういうものがない限り、国際的なというのは実現するのが難しいのではないか。
 と申し上げるのは、世界で活躍する人材の育成ということで、我々は3年前に材料科学国際フロンティアセンターという新しい施設で、外国の大学にオフィスを構え、今は実際に夏の学校、冬の学校ということで、6割ぐらいが外国人で、4日か5日ほど講師として多彩な先生を招聘して若手の人材育成などにもいろいろ努めている。ここで一番問題なのは、外国から先生方を呼ぶのは経費などをいただいているが、世界の情勢が非常にドラスティックに変わっているので、若手を急に派遣しようといったや、あるいは職員が急に行こうとしたときに、どうしても一方通行にならざるを得ない。そういうときに瞬時に対応できるような仕組み、国としての国際的な大学間連携をもっと加速させる、助長させる必要があると思う。

△ 特別教育研究経費による大学間連携としては、例えば昨年、新潟大学が脳研究のプロジェクトをスタートさせたときにアメリカの大学と連携し、それぞれがそれぞれの立場で研究をするというものに対して研究支援を行っている事例があり、現在のシステムのメニューの中でも対応可能である。

○ 相手の国からも支援がある。日本のお金は持ち出す必要はない、あるいは持ち出すことも認めていただいているということなのか。

△ それぞれが費用を分担しながら、研究していくということでやっている。

○ 日本の研究者が外国に行こうとしたときには、その経費を用いて外国へ行く。一方外国から研究者が来る場合にもということなのか。研究費等は日本と大学でほとんど同額的なのか。

△ そこまで明確にマッチンクファンドでなければならないという制約を設けてやっているわけではない。法人化して、経費の使い方が国の機関の場合に比べると飛躍的に自由になっているので、特別教育研究経費に限らず運営費交付金全体で大学の裁量で自由に使える。

○ もし私が大学を作るとしたら、1つこれだけはと思うのがあるので紹介したい。18歳くらいの若い学生に4年間、とにかく生命科学、宇宙科学、人間科学、この3つの最先端のところをしっかりたたき込み、その中からライフサイエンスに行く人、あるいは宇宙物理学に行く人、人文系に行く人、そういうものが出てくるような大学を作りたい。最終的には我々の目的は宇宙の理解、人間の理解、生命の理解と思っている。しかもその総論としてではなく、本当に最先端で研究をしている人たちが、自分の情熱を持って学生をそれぞれの分野で教育し、そうすることで多様な分野を育てることになるのではないか。
 アンケートの中に「something of everything」というのがある。昔の偉大なる哲学者というのは、その当時の宇宙、生命、人間、自然、そういうものの最先端の知識を持って、自分の哲学というものを構築している。今の哲学者の悲劇は初めから哲学でスタートしているので、哲学の歴史、西洋史、インド哲学を勉強する。そうではなく、生命科学、宇宙物理学、人間科学からスタートすれば最終的には哲学者が生まれるかもしれないし、すぐれた生命科学者が生まれるかもしれない、人文系の研究者が生まれるかもしれない。あるいは社会に出て、裁判官でも、弁護士でも、医者でも、政財界の人でも、あらゆる人がその中から出てくる。

○ 大変興味深いアイデアだと思う。そういうことが実現すると非常にいいと思うが、もう1つ先ほど言い忘れたが、現代の社会を取り巻く状況により、小・中・高の学生でも自分の人生を設計するときにどうすれば豊かな人生が送れるかと思うわけである。
 そうすると、今の日本の社会状況というのは、学問を本当に深く掘り下げてやることが人生の生きがいだと考える人がいるかどうかという問題がある。それよりはよく知られた偏差値の高い有名大学に入って、途中で中退してもいいから、どこかで会社を起こすとか、錬金術のようなことをやって、生活が豊かになったほうがいいといったような社会の流れがある。だから、学問のおもしろさというものを、初等・中等教育あたりからしっかりとやっていくことが、今の先生の理想を実現するためにも重要なのではないか。

○ 私も初等教育から議論していいのなら、いろいろ言いたいことはあるが、そこまで議論する場でもないので、大学にとどめた。私は先生がおっしゃるほどペシミスティックではなく、これまでも東京大学、京都大学、大阪大学、九州大学等、いろいろな大学の学生に講義をしてきたが、確かに先生がおっしゃるような、一部自分の富や栄光のみを求める学生もいるようではあるが、そうではなく、非常にベーシックに生命現象、あるいは生物学に本当にみずみずしい関心を持った学生と接することがしばしばあるので、それほど悲観はしていない。
 それと、確かに何を大事にするかということはモデルが必要である。学問を純粋に進めてきた人が本当に幸せな人生を送っている姿を見ることが、子供たちにとって非常に重要なことである。そういう意味では、NHKの番組で、大学の先生たちが自分の出身の小学校に行き、講義をするという、海部先生の番組を拝見して、子供たちが本当に目を輝かせ、喜んで天文学や宇宙の話を聞いている姿を見たが、定年になって退官した名誉教授などがそういう小学校を訪れて教育をするような需要はたくさんあると思う。幼少時にどのようにすぐれたものに接したか、あるいは自然のびっくりするような現象に接したかということが非常に大事だと思う。

○ もちろんいい学生が大勢いるのはよくわかっているが、全体的にアメリカ的な社会になりつつある。アメリカの中でサイエンスをやろうという人が、だんだんモチベーションがなくなっているという傾向があるので、そうならないようにと思う。
 もう1つ大学の関係で、法人化の後、メリットを生かそうと思えば生かせる要素は幾つもあるとしても、全体的に各大学が内向きになり、自分たちの大学がどうやったら生き残れるかということが中心課題になってしまったために、日本全体がどうあるべきかということに少し希薄感があるのではないか。
 これは非常に重要なことで、適切な手を打たないといけない。自分のところさえよければいいというようになってしまうのではないか。

○ その点に関しても教育ということに特化すると、例えばある大学に自分が入学したのは、あの教授にあこがれて入ったんだということを言う学生もいるが、本当にそういう若者を引きつけるような教授の講義をその大学でしか受けられないというのはもったいない。今のいろいろな機器を利用すれば、光ファイバーみたいなことで全国に発信できる。だから、そういう教育の共有化、あるいは知識、システム、機械の共有ということは共同利用機関で言われたが、その前の教育の共有化も非常に重要なことではないか思っているので、工夫すべき点ではないか。

○ 多様な大学で教育を行うということについて悲観的な見方が多いように思うが、私は必ずしもそうではなく、現実にいろいろな大学ではいろいろな試みをやられている。私も大学で見ていると、先生がおっしゃるように、外に見えないというのは確かにそうかもしれない。しかし、中でいろいろな活動を見ているとそうでもなく、学生がそれぞれいろいろ学んでいるところは非常に多い。多様な学び方をしているのが見えてくるが、それは授業評価をやってみるとよくわかる。学生による授業評価にかかわらず、講義について感想を述べてもらう。つまり学生の側から見て講義はどうあるべきか、教育はどうあるべきかという観点で見てみると、学生は多様な意見を持っており、いろいろな分野を学び、その中から自分はどういうところに進もうかという視点を持っている学生はかなりいる。
 問題は、それがあまり外から見て分からないということだと思う。その部分が教育改革の欠けている部分だろう。特に大学が法人化して以来、どちらかというと研究に評価の視点があったが、教育というのはどの大学も今力を入れてきていると思う。特に中教審で最近、例えば大学においても博士課程のコースワークを充実せよということで、大学もいろいろな試みをやり始めているが、そういう教育改革をもう少し明示的に推進するという姿勢がありさえすれば、現在の大学でも多様な価値観を植えつけるような教育もできるし、学生もそういうことを望む態度はきちんとあると思う。

○ 国がやるべき事としては、経済的支援と設備の整備をしっかりして、多様性を含む大学の運営は各大学に任せるというのが最も安全で確実な事だと思う。と言うのは、今まで、ゆとり教育や教養学部廃止などを含めて、場当たり的、また、一貫しない政策がとられたことがあるからである。経費と関連して、基盤経費の中心である運営交付金の削減にもっと強く反対すべきだと思う。6年中期計画は何だったのかという感じがする。大型設備や施設を作ってもその後の維持費が出ないと、とんでもない負担を各大学がすることになる。継続した支援が必要な理由である。もう一つ、出てていない視点として、将来の研究者である大学院生の生活をどう支えるかが重要だ。特に大都市での生活は住宅費を中心にかなり大変であり、共通学生寮などを作ることを工夫したらどうか。その際、大学ごとにドームを持つのではなく、国際交流や大学交流の出来るような共同施設を作ったら良いと思う。

○ 本当に日本の研究者を育てようとするなら、いかに大学院生を生活の心配がないようにサポートするかということは重要である。生活費、あるいは宿舎の提供、そういうものは国際的に見てもあまりにも手当てが少なかろうと感じる。

○ 若いときに広い視野に立って、幅広い研究をし、そこから選んで積み上げていくというのは非常に大事だと思う。私たちの大学でも、小さい規模であるが、そういうことを一生懸命心がけているが、最終的に何が必要かというと、やはり基盤整備に費用がかかるということである。だから、基盤的な経費の支援がないと、小さい規模の大学で効果的な教育、効果的な研究を進めるにあたって、いつも壁にぶつかる。
 競争的支援獲得は、基盤ができている大規模大学には非常に有利だろうが、小さい大学には難しいことがたくさんある。競争的支援を得る努力はしているが、人員が限られており、いろいろな意味で太刀打ちできないところがある。

○ 資料3-3に関してである。連携という言葉が出てくるが、連携というのは目的ではなく、手段である。連携すればよくなるはずではない。そこをここ数年間議論を間違えてきたのではないか。1人では回答できない問題にチャレンジするから連携が必要である。だから、知識の融合も起こる。連携すればいいというものではないということを少し考えたらいかがか。

○ チャレンジということから考えると、基礎研究とは個人の考え、関心に基づく研究をただしていればよいととらえられがちのところがあるが、新しいことに果敢にチャレンジするような仕掛けが要ると思う。基礎研究者は前からしていることを単に続けるといういわば楽なところに留まりがちな面があると思う。
 今、基盤的経費を減らして競争的資金を増やす傾向があるが、競争的資金を獲得できる研究者は10人のうちの3人ほどである。つまり半分位の研究者は競争的資金がとれないという状況がゆうに生まれている。そうすると、残りの人たちは、基盤的経費がないのでほとんど研究はできないし、同時に学生を一生懸命教育しようという意欲も下がってくる。一方、競争的資金を獲得した人たちはその中でより活発に研究を進めていかなくてはならないため、教育にあまり関心を払ってはいられない状況が出てくる。
 基盤経費については、例えばアメリカでは、基本的な整備は寄付金で賄っているところが多い。また寄付は大口のみならず、例えばカリフォルニア大のバークレー校では年間1万円程で、個人会員も大学を支えている。税制的な優遇措置に支えられ皆が大学の維持に寄付を出す風土が育っている。日本でも大学は法人化をしたので、大学の建物など基盤的設備の経費は自分たちで集めた寄付金を使い、政府からの基盤経費はもっと研究投資に有効的に回せるような仕組みがぜひできればいいのではないか。
 もう1つは、完全に文科系と理科系の壁を取り払い、まず大学として学生を受け入れ、入学試験よりも在学中における競争を厳しくし、入学はできるけれども卒業は簡単にはさせなというシステム作りも大切ではないだろうか。大学で厳しく教育するというスタンスがないとなかなかいい研究者は育たないと思う。

○ 中教審の教育課程関係の会議に出席してみて、日本の子供の教育については大きな望みは抱けないなという実感を抱かざるを得ない。基本的に大人が勝手なことをそれぞれ言ってそれを無難な言葉で括った答申が出されるに過ぎない。そこは学術審議会とは全く違うところだと思う。ここでは皆さん基本的に同じ価値観を持って、同じ方向を向いて議論していると思うが、あちらの世界は全然違う。教育というもののイメージとか、子供についてのイメージというのは全然違うし、どういう人材を育てたらいいか全くばらばらで、しかも少ない資源の中、これから教育に対して資源がどんどん減っていく状況の中で、これから大学に入ってくる学生の質が高くなるということは、ほとんど期待しないほうがいいだろうというのが大前提である。
 この間、NHKのテレビで、二晩にわたって日本の少子社会化の問題の討論が行われていたが、そこにおいて、これから日本人が少なくなる、経済の水準を維持するためには外国人が入ってくるというときに、労働者が入ってくることしか想定されていない。ところが、大事なのは労働者ではなく、知的な活動をする人々である。要するに知的にレベルの高い人を日本にたくさん持ってこなければいけない。これから大学に対しても資源がそんなに増えるということは期待できないだろうし、何か具体的に戦略を絞るとすれば、外国の優秀な若い人たちをいかにして日本へ持ってくるかというとこを考えなければならない。
 例えばドイツでは、私と同じ法制史の世界では若い大学院クラスの外国の人たちを集めて、夏にセミナーを2週間ほどフランクフルトでやるというプログラムを始めている。日本にはそういう研究所さえないのでとてもできないが、これはマックス・プランク研究所の比較法制史研究所がやっている。そこには、チュータークラスで日本の法制史学者が行って、一定の役割を果たしている。
 そういうプログラムでさえ、日本ではまだだれも考えつかない。日本全体としてこれからどうやって、特に近隣のアジアの優秀な人たちを日本の大学や研究機関で、日本の研究の担い手にしていくことを考える必要があるのではないだろうか。少なくともそうやって門戸を開いていかない限り、日本の大学は危ないと言ってもいいのではないか。それくらい腹をくくってやらないと、人的にも資源的にも日本の学術は危ない。多様性などと言っている場合ではない。現に東大の中国や西洋の古代史研究、古代哲学研究といった教授のポストが埋まらないという事情が出てきている。つまり古代研究、古いところの研究をやる人がどんどん減ってきているという現状である。それは大学人が悪いと言えば、それきりかもしれないが、実際にはそういう状況が進んでいる。人文だけではなくて、社会科学も自然科学も言うまでもなく、どんどん人材を入れていくということをしないとだめではないかというのが私の率直な感想である。

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