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科学技術・学術審議会学術分科会

2002/04/11議事録
科学技術・学術審議会学術分科会人文・社会科学特別委員会(第9回)議事録


科学技術・学術審議会  学術分科会
人文・社会科学特別委員会(第9回)議事録

1. 日  時 平成14年4月11日(木)  15:00〜17:00
2. 場  所 経済産業省別館1028会議室
3. 出席者  
     (委  員) 石井,池端,大ア,鳥井,薬師寺
     (専門委員) 立本,似田貝,毛里
     (科学官) 秋道,位田
     (有識者) 石井紫郎
     (事務局) 坂田研究振興局担当審議官,井上科学技術・学術政策局次長,
太田主任学術調査官,泉振興企画課長,尾山政策課長,明野情報課長,
吉川学術機関課長,西阪学術研究助成課長,
松川学術企画室長  他関係官

4.  議  事

(1) 人文・社会科学の振興に関する報告書の構成の検討について
  資料2(「人文・社会科学の振興について〈報告書骨子案〉」),資料3(「人文・社会科学の振興について」)及び資料4(「人文・社会科学特別委員会(第7回〜第8回)における主な意見」)に基づき事務局より説明の後,質疑応答,意見交換が行われた。その内容は以下のとおり。

   (○・・・委員,専門委員,科学官及び有識者の発言,▲・・・事務局の発言)
  
  報告書の趣旨は異論ない。問題は,いかにインパクトがあり,簡潔なものにするかである。
その点で言うと,「2.人文・社会科学の重要性」という部分は日本も世界も共通であり,特にこれは世界を論じているわけではなく,日本のことを論じているわけだから,「1.」と「2.」を合体して,人文・社会科学が21世紀において「一般的に」重要というのではなく,「特殊的に」重要だと主張すべきである。今,人文・社会科学が必ずしも恵まれた地位になく,科学技術基本計画には「文化」という言葉は三回しか出てこない。あれはもちろん自然科学が中心であるが,そのような中で21世紀の科学技術・学術において人文・社会科学がとりわけ重要だという点を幾つかのポイントで第一に入れていただきたい。
第二に,この報告書は人文・社会科学の社会的あるいは新段階の要請であり,今までの欠陥あるいは不十分な箇所などを我々学者が自己点検する場ではないと思う。そのような前提のもとに,人文・社会科学の特殊な重要性に見合った形で社会的要請に応えるためには,今までのやり方では不十分である。そこで新しい提起をするとして社会的要請は何かということを三点ほど挙げる。
最後に,具体的な政策に結びつくような短期的政策提言を三点か四点をするという構成のほうがいいのではないか。

  「1.」と「2.」を合体してもいいが,趣旨をはっきりさせるという意味では,「1.はじめに」があったほうがいいのではないか。「1.はじめに」の二つの文は,諸問題に対応するのが人文・社会科学の役目だということをはっきりと述べており,これが本委員会の全体の論調であって,「2.」では,継承と批判と創造という相反する人文・社会科学の多面性を全部発展させなければいけないと言っている。「1.はじめに」のほうは,むしろ人文・社会科学の継承という面ではなく,批判,創造という面に重要性を置いている。それが「4.人文・社会科学の振興方策」につながっていくので,「1.はじめに」においてそのような姿勢を簡潔に述べておくのも重要ではないか。それを「2.人文・社会科学の重要性」に入れてしまうと,いろいろな面があるということだけになるのではないか。

  「1.はじめに」は,我が国はこれから国際的な貢献をしていくべきだということを二点述べている。それが非常に重要な人文・社会科学振興策の中軸となり,日本の人文・社会科学は今までの孤高の学問として世界と隔絶するということではなく,より積極的に国際的に参加していくべきということである。
「2.人文・社会科学の重要性」というところも,結局,我が国の人文・社会科学が科学技術に比べて遅れていることとして,「1.はじめに」にある,世界に対して貢献するための問題点をまず述べている。(2)の批判的役割というところはクリティックスのことを言っているが,後段においてこのような研究を支援をすべきだというための一種の前置きを「2.」で言っており,(3)も学問の創造・発展である。「2.」を述べておかないと,後で振興策が出てこない。

  「1.はじめに」は生かして,これが報告書全体の中軸や精神であるとする。あるいは,人文・社会科学の振興をなぜ今日図らねばならないのかという,一番中心になるところをそこで訴える。そして二番目に文化の継承,人文・社会科学の批判的役割,創造という三つの観点をうたっているとして,「1.」と「2.」を原案どおり分けることでよろしいか。

  「3.人文・社会科学の課題」は,書いてあることはむしろ現状の問題点のようである。それを課題と表現するのがよいのか。

  「3.」は今,人文・社会科学が抱えている問題なので,それでよいと考える。

  構成には賛成だが,人文学がこの構成でうまく位置づけられるか。「文化や人類社会の多様性」という点がひっかかる。

  それでは,四つの構成はこれでいくということにして,各論に移る。

  「1.はじめに」はやはり大事で,我々委員会の現実に対する問題意識が出てくるべき。そういう点で,地球的規模の問題をさらに具体的に言った場合に「人口問題,環境問題,科学技術の弊害,国際化など」だけでいいのかということが気になる。それは,冷戦以降の国際化のもとでも地域紛争等が進んでいるという深刻な現実や,それをさらに逆上っていけば南北問題は解決できていないのではないかという問題。そのように,新しく出てきた問題と同時に,前から引きずってきて全然解決できていない問題も新しいレベルで出てきているということを少し入れておかないと,かなり深刻な事態も見据えて提言しているという感じが出ないのではないか。

  今の点はどちらかというとマクロな問題であるが,一方で身体や精神にかかわる問題や,教育問題等のミクロな問題も書いておいたほうがよいのではないか。こちらのほうが深刻な問題として私たちの身近な生活や生き方に現われている。

  「1.」の二つ目の●で,最初に書いてある問題というのは,人文・社会科学はもちろん社会に貢献しなければいけないが,人文・社会科学がどこまで貢献できるかという面から言えば,必ずしも代表的に例示するのがよいかどうかという問題が残る。むしろ,一種の国家社会の枠組み崩壊のような現象が進行しているのではないか。その統一性の確保が中心課題ではないか。

  結局,人文学にかなりひっかかりが出てくる話であり,それを何と表現するのかと熟考しているが,やはり文化や心性,その辺のアイデンティティー(自己同一性)の問題ということだろうか。それが人文学というものを一くくりにしたときに何を対象にしているのか,あるいは何に関心があるのかというときのキーワードになるのだろう。文化では少し漠然とし過ぎているが,「心性と文化」ぐらいは言えるのだろう。それが荒廃あるいは引き裂かれているということだ。いわゆるグローバリゼーションの中で出てくるというものもあるし,また人間社会の規律の崩壊のような現象もある。その辺りは,人文学という基盤がきちんとできていなかったら社会科学も成り立たないだろう。

  本報告書は,一方で戦略的な目的もあるのと同時に,前の学術審議会学術研究体制特別委員会人文・社会科学研究に関するワーキング・グループの審議のまとめの続きで,社会に対し,より人文・社会科学の認識を深め,また評価をしっかりとしてほしいというメッセージもある。そこを「1.はじめに」で明言しておく必要がある。今の二つの●だけでは,現代的な問題にしっかりと関与して重要な役割を果たさなければならない人文・社会科学の分野については明示されるが,それとあまり直接には関係していないが,人文・社会科学の他の分野という,分野の二層構造があるということを最初に言っておく必要があるのではないか。
ただし,今問題になっているのは,地球的規模の問題としての位置づけをするべきということである。最初から地球的規模の問題が出てくると,それでは関係ない部分はどうなるのかという話になる。その点はむしろ「2.」の「(1)文化の継承と発展」の一つ目の●の1行目「人文・社会科学の研究は,人間の精神生活の基盤を築くものである」これを一番の基本としている。
もう一つ,ミクロの問題については,一方で地球的規模の問題があると同時に,個人的な問題がある。逆に,グローバリズムがどんどんクローズアップされるのと対照的に,個のほうも今非常に重要な問題を抱えている。そういう二つの柱についてをもう少し言っておいたほうがいいのではないか。その二つの柱から,では人文・社会科学が人文・社会科学同士の間で,もしくは自然科学との間でどのように接点を見出していくかという構造を考えていったほうがよい。単に地球的規模の問題があるからというだけでは少しインパクトが弱い。人文・社会科学としてはやっぱり精神生活の基盤を築くような,何か訴えかけるような構造が必要なのではないか。

  地域研究の視点に立つと,一気に個人的問題にいくのではなくて地球的規模と個人的問題の中間が問題になってくる部分があるのではないか。政治や社会の問題と同時に,社会の人々が集団としてどのような考え方を持っているかというようなものが入ってくる。

  本委員会では今この段階で人文・社会科学を盛り立てることが必要であり,そのときに最低限何が必要かということを提案する必要がある。
人文学の場合にはかなり個の営み,個からのメッセージが重要であり,大事に育てなければならない。今後,人文学に求められることは,社会科学あるいは自然科学と一緒になった形でもう少し積極的に前に出てくることである。ただし,政策的提言として,それがどういう形であり得るのかということになると,そこで思考が停止してしまう。個の営みに対して,重視しこれを捨ててはいけないという現状維持のみではなく,より育てるため,そして共同作業をやるために,人文学を巻き込んだ形で何を提言したらよいかというところにつながるような形がまだ出てこない。

  「1.はじめに」の二つ目の●の議論については,学術審議会学術研究体制特別委員会人文・社会科学研究に関するワーキング・グループの審議のまとめにおいては,マクロの問題としては人口問題等を置き,そこから展開していくため,キーワードはボーダレス化と多様化,そして人文・社会科学の自己変革と表現されている。したがって,それをマクロの問題の表現として,ボーダレス,多様化,人文・社会科学の自己変革等を置き,その後に,例えば中間的領域や,社会を形成して統合していく力等を置く。それには,国際紛争や,精神生活にかかる個人の問題等いろんなことも含まれるかもしれない。書き方は,そこにいろんな膨らみを持たせられればいいが,極めてそこが大きく問題になっているという書き方もあるのではないか。マクロから中間的にボーダレス,多様化,人文・社会科学の自己変革等が求められているかという書き方もある。

  地球的規模に対する個というのもまた中間段階があるのではないかという指摘についてはよく分かるが,もともと人文・社会科学というのは局地的な学問として発展してきており,地球的規模の問題に取り組み始めたのはおそらく近年のことではないかと思う。
必要なことを強く訴えるというのはよく分かるが,だから何が必要かということをどのように訴えるかというときに,一般国民の感覚から考えたときに,日本を何とかするために人文学,社会科学の力をぜひ借りたいということがある。日本の国や民族が,二十一世紀の社会にともかく自信を持って生きていくための精神的基盤,あるいは社会科学的な裏づけや展望を与えてもらいたいというのは,極めて素朴な願望ではないか。

  本報告において,現代社会の定義は何か。日本が地球的規模でつながっている問題は環境,エネルギー,人口などであり,その他の問題は日本の中でやる,ということではないはずである。その辺が具体的な研究の対象にも響くので,例えば日本国内で通すプロジェクト研究でも,アフリカで同様には通さないということにつながるのではないか。だから,現代社会という言葉が世界と日本のどこでもあてはまるということには少し危惧する。

  例えば環境問題を取り上げたときに,もちろん環境だから地球的規模の話なので,地球的規模の視野から研究に取り組まなければならない。一方で,政策提言について日本としてどのように取り組むのかというときに,アフリカについて一所懸命取り組むのも大事であるが,どこに優先順位を置くかといえば,やはり日本なり,アジアなりの問題を解決することを通じて地球的規模の貢献をすることが大事である。最初だけ地球的規模と言うと問題が拡散してしまう。

  三点ほどある。第一点は,「1.」一つ目の●と二つ目の●については,「地球的規模で生起している諸問題」というのを,「人口問題,環境問題,科学技術の弊害,国際化などの現代社会が直面している様々な課題」と言い換え,それを解決するためには人文・社会科学の知見,あるいは人文・社会科学の統合性,そういうものが必要であるという論理になっているので,この二つの●は同じなのではないか。
第二点は,人文学についてであるが,地球的規模で生起している諸問題に人文・社会科学が対応するときには,文明,人間や社会の在り方,文化や人間・社会の多様性等の面においてかなり人文学のことを述べているのではないか。
第三点は,個人的問題について,もっと入れるというのであれば,「人間の精神生活の基盤を築くものとしての人文・社会科学の持つ統合性に期待する」等の形で上に入れたほうがよい。ただし,趣旨としては,諸問題というのは自然科学や社会科学だけではだめで,人文・社会科学という大きな学問分野がそれに対応するものであり,その対応の仕方についてはいろいろあるというニュアンスでこれは書かれているのではないか。それが不十分であるということであればもっと詳細に入ったらいいが,詳細に入るのはその段落の後で加えることにしてはいかがか。

  「2.人文・社会科学の重要性」について,表現の問題だが,重要性という言い方がよいのか,役割と言うほうがよいのか。

  世界が相互理解を深めていくということはとても大事であり,それはしっかりした人文・社会科学があるから相互理解ができるのではないか。そこは何か入らないのか。

  賛成だが,日本という視点がなければ相互理解ということにならないので,日本としての記述が必要だと考える。
それから,「(1)文化の継承と発展」の三つ目の●にある,大学の教員が3割に上るということは言う必要があるのか。

  この3割が現在どんどん減りつつあることの危機感を述べたほうがいいのではないか。大学の経営からみてあまり役に立たないとか,もうからない部分は減らしたほうがいいのではないかということで,哲学等の人文分野が減らされたり,語学も英語だけに絞って他の言語を廃止する等の話がどんどん進んでいることをかんがみると,その危機感を言うことが大事なのではないか。

  大学教員という視点を入れる場合は,学術研究においてというよりは,むしろ文化の継承という点から見たときに,継承としての教育研究者の確保が大事だと力説をすればいいのではないか。

  社会にとって重要な学問であり役割があるということを明確に主張すべき。
大学の教員人事が時代に影響されることについては,学問の担い手が影響を受けるということは社会に対しても役割が十分に果たされない。そういう点では,人文・社会科学の研究者が過小評価されていることは重要な問題で,過小評価されるがゆえに数も減っていくということに対して,抵抗の論理を入れておいたほうがいい。

  継承と発展は結構だが,大学の教員の問題というのは,例えば「4.人文・社会科学の振興方策」の「(3)若手研究者の育成」ところで人的・物的なインフラストラクチャーということを打ち出してはどうか。そこで,研究者だけではなく教員も含めて議論できるのではないか。

  「2.」の表題については,政策的にこの報告書が必要であるということはもちろんだが,もっと基本的には,今後,人文・社会科学系の研究がどう変わっていかなければいけないかということである。政策立案をしていくということと同時に,研究者そのものに対して,自己点検というようなインパクトを与えるべきである。我々人文・社会科学系はどのような研究を社会的に要請され,していかなければいけないのかということも分かるように,例えば「重要性」というよりも「21世紀における」や「現段階における役割」等の表現がよい。

  「2.(1)」の二番目の●における「学問のバランスある発展」,また「2.(3)」の「新分野の開拓」における「学問の発展・深化」,これら人文・社会科学の振興のための理由づけになっているが,これは外したほうがいいのではないか。人文・社会科学のバランスある発展というのは必要だが,どのようなバランスか,何故バランスある発展が必要なのかということは言及していない。それよりは,社会的な役割や社会変化に対応するために新分野が必要であるということを書いてはどうか。

  「2.人文・社会科学の重要性」のところは,世界的に見た話のようでありながら,中身は日本における話で,何か混在している。両方書いていいが,はっきりさせたほうがよい。
「(1)文化の継承と発展」の書き方も,グローバリゼーションの中で我々が人文・社会科学をこれから取り組んでいく立場としては,もちろん日本の視点なのだろうが,やはり日本だけにとどまらない意味を持っている。日本の存在がこれだけ大きくなってきて,日本がどうなるかということが世界的に大きな影響を及ぼすわけだから,日本の人文・社会科学というものが果たさなければならない国際的な役割はある。
また,アジアであるようでアジアでない,ヨーロッパ,アメリカに近づこうとして近づけないでいるという,それは逆に両方見ればわかるというような,そういう位置にある日本として,人文・社会科学が国際的にどのように役割を果たし得るかということも,もう少し積極的に言ったほうがいいのではないか。それは全然出ていなくて,せいぜい「2.(3)」で,まだ国際的な研究水準に伍していないので何とかそこに追いつこうという発想である。もう少し高い目標があったほうがよい。

  「2.」の表題は「人文・社会科学に対する社会的期待」としてはどうか。そうすると人文・社会科学の国際的役割も含めることができるのではないか。

  「2.(3)」は重要性,役割もしくは期待から外れているのではないか。「国際的な水準に伍していくためには何が必要」という命題は,「2.」全体の重要性や役割や期待とは次元が違う話である。むしろ,「2.(1)文化の継承と発展」の二番目の●の項目を下におろす。つまり自然科学,あるいは科学技術とのバランスをとっていくための役割もしくは期待,あるいは科学技術の暴走に対する一種の歯止めとしての期待とすると,そこでバランスという言葉も生きてくる。新しい学問の創造・発展というのは重要性でもなければ役割でもない。

  「2.(3)」が異質であるという指摘に同意。ここに現代的課題への貢献がないと,他の箇所に書いてあることがここだけ欠落してしまうことになるのではないか。

  「2.」のところは,人文・社会科学が一体何をするのかという問題だと思う。(1)の「文化の継承と発展」は人文・社会科学の大きな役割である。では,人文・社会科学は具体的に何をするかというと,批判もしくは省察をする。そうすると,順番は(2)が先に来て(1)が次に来るのではないか。批判をし,そして文化を継承し,発展させていって,そこから現代社会を見れば人文・社会科学は何をするのかというところが(1)の二つ目の●及び(3)と通じるのではないか。「1.はじめに」において現代的問題があるとしており,人文・社会科学というのは,社会であれ個であれ,今ある問題に対して省察・批判をし,そのことを通じてこれまである文化を継承する部分は継承し,もしくは新しいものをつくり出すならつくり出す。その目から見て,第三番目に,例えば地球的規模のような現代社会の問題に対して人文・社会科学は十分に役割を果たす,という展開のほうが説得的である。

  (3)のはやはり残しておいたほうがよいのではないか。ただ,残す際に「社会の変化に対応しつつ現代的課題を解決するためには」とし,「我が国の人文・社会科学の国際的な水準を向上させて,新たな分野の開拓や学問の融合など創造・発展が必要である」としてはどうか。「1.はじめに」を踏まえた形にするためには,分野の開拓が必要であるということは入れないと,後段として続かない。

  人文・社会科学というのは本来的に現状に対する省察・批判であるということが非常に重要であり,特に学術研究において重要であるというのは異論はない。ただ,それだけで以下の論旨が展開できるか。「2.(3)」は,人文・社会科学の重要性への期待や課題に対する応え方が書いてあるので,やはり現代的課題解決に対する貢献となる研究は行われており,期待が強い分野でもあるので,そのような柱が一本要るのではないか。

  期待度がかなり高くないと,この報告書はだれにも読まれない。例えば自然科学の場合は,積み上げてきてノーベル賞みたいなものがぽんと出るような感じがあるが,それに対して人文・社会科学の場合もそれを推進するための強い信念や期待度が強く出る表現にすべきである。
「3.(3)」において創造,発展,構築,創設という言葉が使われているが,具体的には創造・発展等が段階的である。

  そこは学問の違いがあると思う。自然科学は偶然にして新しいことが生まれるということがあるかもしれないが,人文・社会科学は社会においてそれが認められることについては,それなりの時間がかかるので,人文・社会科学を新しくしていけばある瞬間に変えることができるというのは幻想的である。あまり過剰な期待を持たせる書き方は逆に信用を失うのではないか。
やはり現代的課題に対して,自分たちが何をしなければいけないか,そこから先はどうしたらいいか,実ははっきりとあるわけではない。これは自然科学も同じである。先ほど省察,リフレクティブという言葉があったが,これは非常に大切なことだろう。リフレクティブというのは哲学ぐらいでしか書かれていなかったが,今や社会領域でもリフレクティブと,自己を観察していくことが私たちにとって重要になってきている。

  「3.」の題名について,「課題」の代わりに「問題」はいかがかとすると,「(5)まとめ」の三番目については,前述の議論のとおり,(1)(2)(3)(4)に挙げられているものから新分野の開拓など学問的対応は読み取れないということもあるので,再考してはどうか。

  「2.」において新しい項目を立ててはどうかという意見が二つ出ている。一つは相互理解という問題で,その観点から日本の社会の理解とはどのようなものであるかということで項目として立てる検討の余地があるという意見があった。もう一つは,日本の人文・社会科学が既に担っている,あるいは今後担っていこうとしている役割を積極的に言うべきという意見があった。

  もし課題としてなら「3.(5)」のまとめのところが課題である。例えば国内外を通じた閉鎖性と言っているところについて,閉鎖性の打破や解決が課題であるというように,課題をまとめる前提として今の問題点を列挙するという構成も可能であろう。
また,新分野の開拓をどこに位置づけるかについては,課題に位置づけるしかない。「3.(5)」の一番最後の「学問的創造・発展への対応が不十分」が上の(1)から(4)までのどこに対応するのか不明であるという指摘については,上のほうにそれにかかわることを明記すべきということか。

  「3.」は問題として,次に課題や振興方策をまとめたほうがいいのではないかということである。

  人文・社会科学者が政策研究をしても周りが全然その成果を使ってくれないということだけで問題点と言うのは十分なのか。その周りにも問題があるのではないか。

  私は学者側の問題だけではないと思う。政策提言を取り上げるか否かということだけではなく,それを取り上げる仕組みあるいはチャンネルがないことが,今の人文・社会科学が社会と隔絶しているような状況をつくり出した。細分化と閉鎖性についても,学者個人の問題だけではなく,学問全体が細分化していたという組織形態の問題である。だから,これからの新しい取り組みのほうを強調して,今までなかったことをつけ加えるように書くとよい。
まとめの部分では,閉鎖性の打破,世界における日本の人文・社会科学の役割,社会的な要請への可能な限りの回答,新分野の開拓というのは非常に大事である。例えば,自然科学との協働という作業は非常に大事だから,人文・社会科学でも自然科学をにらんで新しいイニシアティブが出せるような発想と,そういう学者組織をつくるために国はどのように支援するかということが重要になるのではないか。また,従来の研究機関の再編の仕方や,人文・社会科学の社会的役割の発信を合わせて,この三点は基本的に大変必要なことである。

  「3.」において問題点を指摘しているが,問題意識をより自発的に持たせるため,なぜそういうことになっているのかという分析も少し書いてはどうか。例えば教育・研究の細分化と閉鎖性について研究者はみんな考えているはずなのに,なぜ現実的には細切れになってしまったのかについて説明し,それは人文・社会科学研究者の意識の問題と,それを取り巻く社会の側の人文・社会科学の役割に対する認識や評価,また正当な受け入れについて言っておかないと,研究者に問題意識をきちんと持たせられない。

  「3.(3)」について,発信のためのシステムが多様化していることが原因とすると,システムをつくればいいとだけとれる。研究成果を上手に統合することによって初めて全体像が見えるので,その努力は,やはり研究者の方がやっていかないと社会からは見えない。第3回会議の意見発表における「ユーラシア平和プロジェクト」も,いかに統合して社会に提示するかが大事だということを述べたものである。

  「3.」の題名は,課題のままにしておいたほうがよい。現状における問題点が前説になって,現状の分析も踏まえ,今後これが課題であるという書き方がよい。
「3.(2)」の有効な政策提言の少なさについては,シンクタンクのようなものを期待するのか。例えば総合研究開発機構(NIRA)という国が力を入れてつくったシンクタンクが必ずしも政策と直結していないということもあるようで,そうであるとすれば大学における学術研究が直結するというのは難しい話だろう。しかし,現代の研究が政策に反映していないかというと,そういうことはない。政策策定者は様々な研究業績を当然踏まえてやっているはずである。したがって,どのように政策策定者に学術研究の成果を吸収しやすくするかという発信の在り方という方向に力を入れるほうがいい。そこで,ここの「学術研究と政策との連携を図り」という表現は逆にやや書き過ぎではないかという感じがする。
それと,英語でポリシーと言えば何もナショナルポリシーだけではなくて,あらゆる段階でのポリシーがあるが,日本で政策と言うとどうも国策ということになってしまうが,そうではない,自治体,企業,NPO等の広い意味での人間集団が何か物を考えて行うときの指標(ガイドライン)を提供するというように,広くとらえるべきなので,政策研究という言い方については換言するほうがいい。

  「1.はじめに」で,世界的な貢献を日本がすることが重要で,そのために人文・社会科学が役に立つことを述べる。そこで,「2.」で今,人文・社会科学が何をやれるかということを述べ,「3.」は一種の戦略的なところで,今ある問題を解決するというよりも,ある可能性のところに力をつけてやっていく。人文・社会科学というのはトートロジー(類語反復)的研究において伝統的に非常に強いからそこを発展させ,源氏物語研究は決してそれをやめさせないで国際的に発信させていく,それは若い世代に任せていく。
政策提言は,今までの国策だけではなく,都市の問題等適度な大きさ(メゾレベル)の問題も含めた政策に関して,社会科学者は全方位で参加していくべきであり,専門領域をきちんと研究し理論構築した政策提言をするべきである。

  日本社会においてはどちらかというと利害集団と国の関係の結びつきが強く,政策提言が職能集団や市民社会にはあまり向いていないことが日本の市民社会の弱さとなっている。NPOやNGO等の助力を与えられるような集団における意思決定能力,合意形成,同意というものに対するサービス自体も「力をつけること」であるが,それにも政策という意味を取り入れる。政策の意味をそれくらいに広げると,人文・社会科学は非常に広い対応ができるだろう。

  「4.(2)現代的課題の対応」については,基礎的なものと,応用的なものがある。私たちにとって多様性ということは実はまだよく分かっていない。多様性に対してどのように対応したか。例えば共生,相互認識,相互理解等に持っていくための規範的な言い方は既にでき上がっているが,実際には多様性ということに対する受け止め方や日本の人文・社会科学における異質なものに対する受け止め方は未完成である。あるいは,世界の地域研究をしなくてはいけない理由も多様性の一つなので,多様性についてはプロジェクト型研究の中に基礎研究と応用部門が必要なのではないか。
(1)の統合的研究について,新しい領域の研究は,例えば環境,倫理,精神的な問題にしても,自然科学との関係を結ばねばならない分野が多いので,例示を挙げたほうがわかりやすい。

  振興方策については,分野間の協働あるいは役割志向(ミッション・オリエンテッド)の研究になるということは理解できるが,人文・社会科学で大事なことは,異分野間以前に,分野内交流がより重要ではないか。各分野内における,改めての基本的な課題や問題への骨太の取り組みによって,逆に異分野間の協働によらなくても同一分野間で解決や貢献できる問題点のほうが多分多いのではないか。
また,(1)の地域研究の振興の三つ目の●の地域政策研究という学問領域の理解が難しい。

  (2)のプロジェクト研究への支援の三つ目の●について,「なお書き」,「人文・社会科学におけるプロジェクト研究を進める場合」,「各分野を通じた」を削除して,「我が国の人文・社会科学全体の活性化につながる基礎的な領域を戦略的に推進していくことが重要」と積極的な表現にすればよいのではないか。

  「分野」というよりも「専門」という言い方のほうが少し広くなる。専門というと,例えば同じ歴史の中でも東洋史,日本史ともとれるし,日本史の中でも中世と近世ともとれる。
また,プロジェクト研究でも特に基礎的なことをきちんとやるという必要性がある。例えば,近世における日本の学問というものの伝統は,意外に欧州の人文主義に似たものや中国の考証学を継受しながら,それと違う性質を持っていて,それが日本の近代における西洋の学問の継受に役立っていたり,あるいは逆にそれを規定しているという面もあると思う。そういう意味で日本の学問的遺産に対する批判・省察をもう一度やってみるというプロジェクトはどうか。これはいろんな専門家が集まって,皆で考えるということがある。
また,地域研究については,世界の諸地域を対象あるいは学問的な場(フィールド)とした研究だけではなく,日本国内における諸地域の問題と読みかえても成り立つのではないか。地域研究について,具体的なフィールドというものを考え,さまざまな専門が結集して行うというようにもう少し広く書けないか。例えば,盛んに都市再生と言われているが,日本において都市とは,あるいは都市の再生とは何であり,再生と言うが都市はもともとあったのか,等。これもある一つの具体的なフィールドである。そのような研究の在り方を振興することこそ学問の創造であり,融合であるという幅広い解釈ができる。その代わり迫力がなくなるかもしれないが,これだけだと,どうも括弧つきの地域研究だけがクローズアップされているような印象を受ける。

  本報告書における時間的幅はどのような立場をとるのか。大体5年くらいの時限的に政策的推進をするのか,あるいは継続的にしたりある分野を重点的にしたりするのか。学問の再編のため,当面とりわけ重要な分野について主張すべきではないか。当面取り組むべきことについて四つ考えた。
第一番目は,諸分野,あるいは諸専門の協働体制をつくるネットワークづくりを考える必要がある。その中には新領域の開発ということや,あるいはその事例として地域研究も入る。諸分野協働のネットワークづくりが極めて大事であり,例えば,地域研究がその最も格好で今必要なものであるという展開や,あるいは,ここで新領域を開発するということも入れる。
第二番目は,社会に発信するようなプロジェクトを協働で推進し,それを支援する。政策提言型と言うと狭くなる。
第三番目は,国際競争力,国際的発信,あるいは世界の中で日本が文化的にどの程度イニシアチブをとれるかという問題。
第四番目が,若手研究者養成や情報基盤等の人的あるいは物的な基盤形成。

  本報告書において,短期的に取り組むべきもの,あるいは長期的に継続して取り組むべきものについて,先生方のほうから言っていただきたい。

  異文化間の協働作業という前に,専門間で取り組むべきことがあるのではないかという指摘に同意である。例えば戦略的な方策として,従来の分野のある学問の中ではなかなかできないときに,やや分野の違う方と協働で取り組んだり,その学問の中の研究がすべてを占めるのではなく,7割か8割くらいをその学問を主体的中心にして,それ以外を外の方と一緒にやる。そう考えるとこれからの方策は,協働の中でも,統治型の協働においてはフィフティー・フィフティーではなく,専門の中を中心とした研究をやっていくことが考えられる。例えば,地域研究を中心とし,それに公共政策という経済学の政策論を一緒にやってみる。地域研究の研究者も今はほとんど政策の話を扱っており,中国研究者が中国のいろんな経済政策をやっている。だが,それは経済学者と全然協働作業をしていないところがある。
そういう意味での協働作業のための場の設定というのはもっと大事で,環境や医療分野等もやはり自然科学の研究者との協働の場がない限りコミュニケーションが難しい。人文・社会科学者は自然言語で議論しているのに対し,自然科学者は操作言語で議論しているということで翻訳の問題が出てくるので,そのような場がないと人文・社会科学の側も伸びていかない。

  競争的環境をいかにつくるかということや,評価,研究支援者,研究者の流動性,研究資金の質等の問題について,本特別委員会では,一般論でのそのような検討が他の委員会で行われているから書く必要がないのか,人文・社会科学としての特質が必要であるのかどうかということは考えなくていいのかという辺りは一度議論がされて,必要なら書いておくべきではないか。

  その点については後日の議論に移させていただきたい。

  研究成果の発信については,世界に向けた発信しか書いていないが,日本国内の社会一般に対しても分かるような発信を期待する。

  先ほどの時間的幅に関係するが,この種の報告や提案では,いつも箇条書きになって順番にそうなっていくように見えるが,例えば,ある専門の研究者たちが自分たちの中で新しいものをつくろうとするとき,実際は今の大学教育システムの中ではなかなか難しいので,外側にリーダーシップをとって場を設定する人がいて,その場をつくり上げていくうちに中側からそれに触発されて出てくるものである。報告書において提案事項を並列に書いても,自動的にそのようなものが出てくるということではない。そのことを内発化させる前に外からの刺激を,戦略的・教示的に与えていかないといけないという意味では,リーダーシップについてはどこかで記述していただきたい。

(2) 今後の予定について
  報告書の案文を作成するため,本特別委員会に報告書起草ワーキング・グループを設置することとした。
  また,次回の人文・社会科学特別委員会(第10回)については,5月16日(木)を予定して委員等の日程を調整の上,開催することとされ,報告書起草ワーキング・グループにおける報告書案文について議論することとした。

(研究振興局振興企画課学術企画室)

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