科学技術・学術審議会学術分科会
2002/03/07 議事録科学技術・学術審議会 学術分科会 人文・社会科学特別委員会(第8回)議事録 |
1.日 時 | 平成14年3月7日(木) 13:30〜15:30 |
2.場 所 | 文部科学省別館10階 第5,6会議室 |
3.出席者 | |
(委員) | 有川,石井,池端,小平,鳥井,薬師寺 |
(専門委員) | 加藤,立本,似田貝,三田村,毛里 |
(有識者) | 石井紫郎 |
(事務局) | 遠藤研究振興局長,坂田研究振興局担当審議官,井上科学技術・学術政策局次長,太田主任学術調査官,泉振興企画課長,磯田政策課長,明野情報課長,吉川学術機関課長,河村学術研究助成課長,松川学術企画室長 他関係官 |
○ | 当委員会の第一回会合において,自然科学におけるサイエンティストとエンジニア及び実際の社会という構図を,人文・社会科学に関しても考えてみることが意味があるのではないかと指摘した。つまり,人文・社会科学研究者は非常にたくさんいるし,社会的な問題やニーズも非常にたくさんある。しかし,技術者と呼ばれている集団は実際には相当いるが,その人たちに対する教育やそのような研究が意識されていないのではないか。
技術者とは,例えば文学関係では司書や学芸員,アーキビスト,法律では弁護士等の司法試験資格者,経済では税理士や会計士等が対応する。資料3の中の人文・社会科学研究の振興策の目指すべき方向の一つにあげている「現代的課題への対応」ということを考える場合,このような人文・社会系における技術者を対象にすれば,非常に具体的な方策やターゲットが見えてくるのではないか。 人文・社会科学研究者が,技術という言葉に対して非常に拒否反応があることは承知しているが,最近言われているロースクールやビジネス・スクールは,まさにその技術の部分に焦点を当てていることになっている。 技術を意識することにより研究や教育の方法がシステマティックになり,現代的な課題に対する社会からの要請に的確にこたえることができると同時に,研究者が行うべき種類の課題も明確化されるのではないか。 また,そのことが日本の人文・社会系と欧米における人文・社会系の,特に大学における体制や意識の違いもあらわしているのではないか。 |
○ | 人文・社会科学の大きい問題は,これからどのような人材を育てていくかということである。資料3の中で,研究と書いてある部分の多くは,研究教育と書かないといけないのではないか。特に人文・社会科学における人材の育成は大学が担っている部分が大きく,研究と教育は切り離せない。
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○ | 今の意見に全く賛成である。資料3に書いてある人文・社会科学の振興の必要性として,最初に精神文化の復権をあげている。おそらくニュートラルな意味だろうが,精神文化という言葉からは,いろいろなことを連想してしまうので,使用する際には,どのような意味で使っているかをきちんと限定する必要がある。
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○ | 例えば,災害の現場というのは人文・社会系,自然科学系を問わず,みんなが知恵を出さなくてはどうにもならない。防災対策を考えたとしても,いろいろな要素が全部入らなくてはいけない。そのような場は,先程の技術者の活躍する場でもあり,実は研究の場でもあるかもしれない。社会の安全に対する欲求は非常に強くなってきている。
つまり,人文・社会科学に対して外から要求するというより,人文・社会科学が内在的にそのような課題にしっかり取り組むことがとても大事な社会になっている。これは,大事な視点ではないか。 |
○ | 資料3の「人文・社会科学の意義」の部分は,個人と集団,あるいは個人的な問題と集団的な問題の基礎研究というかなり社会学的なものである。その上に,さらに人文・社会科学における細分化や閉鎖性という問題点を指摘するのであれば,この意義の部分が基盤としてあり,それに加えて人間の科学としての総合性を求めるというような「総合性」を表す言葉が必要ではないか。
この「意義」の部分を受けて「人文・社会科学の振興の必要性」の部分における「精神文化の復権」というのは,個人の問題を指しているので,教育の問題に関わってくる。しかし,教育という具体的な施策を入れるのであれば,「意義」や「必要性」のところになぜ教育が必要なのか,どのような教育が必要なのかということをはっきりと明示する必要がある。 また,「人文・社会科学の振興の必要性」のまとめ方だが,「1.人文・社会科学それ自体の振興」「2.外部からの期待」は,実は人文学と社会科学に要請されているものに対応する。人文・社会科学それ自体の振興,外部からの期待というのは,どちらにもとれる事で,むしろ1番のほうは人文学を中心とする振興,2番目としては社会科学を中心としている振興,3番目に学問の融合,統合の三つ立てにするか,あるいは1,2をやめて,並べてこのような振興策があり,最後に「新分野の開拓」や「学問の融合」ということが必要であると整理したほうが,「意義」と「必要性」の整合性を保つためには必要ではないか。 |
○ | 以前,人文・社会科学の問題点で,社会への研究成果発信が不十分であるという意見あったが,現在の本の出版点数等は毎年増加傾向にあるように,実際は発信は非常にたくさんあるのではないか。ところが,受信のメカニズムが本だけのメディアの時代ではなくなったため,相対的に本を読む人が少なくなった。そのようにシステム全体が十分に機能していないような関係自体が問題である。新しい多メディアの時代の中で,どのような形ならメッセージが伝わっていくのかということを考え直すようなシステム,新しいメディア状況に合わせた人文・社会科学の在り方を模索していくのが一番大事な点ではないか。これは非常に難しいことだが,書物だけに頼るのではなく,シンポジウム等さまざまな人たちが出会い直接お互いに接点を見出していくような場をいかに増やしていくかがとても大事なことではないか。
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○ | 人文学と社会科学をはっきりとした区分を設けて議論するのは大変難しい問題である。例えば,歴史学は人文学なのか社会科学なのかという議論は昔からあるが,経済史の研究者は経済学を使ってできるだけ法則的に歴史をとらえており,歴史学の中での社会科学的な分野を代表する。また,文化史や思想史は,法則性というよりもむしろそれぞれの時代が持つ個性を永遠的なものだとして,それ自体を深く思索する個性記述的な面がある。そのため同じ学問が持っている二つの面を関連付けて考えているというのが実情である。印象としては,個性記述的な学問として人文学があり,法則定立的なものとして社会科学があって,分野によっては両方にまたがっているのではないか。
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○ | 人文学と社会科学という分け方をこの段階で行うのは避けたほうがいいのではないか。当委員会では人文・社会科学と言ってきているので,今さら人文学,社会科学と言うとまた議論が混乱するのではないか。また,資料3の「必要性」の1,2を人文学,社会科学を中心にするというのは,「2.外部からの期待」に関しては全然分けられないので,具合が悪いのではないか。
また,「外部からの期待」に政策研究の推進をあげているが,旧学術審議会学術研究体制特別委員会人文・社会科学研究に関するワーキング・グループの審議のまとめでは,政策提言型研究と政策分析型研究と分けていることを踏まえ,政策研究という言い方はよく検討してはどうか。 |
○ | 人文学と社会科学の分け目は非常に際どいところにあり,おそらくはっきりと分けるべき学問ではないので,これに踏み込んだ議論はそれほど生産的であるとは思えない。自然科学との関係において,人文・社会科学も固有の重要性があるという形での提起をするべきである。
精神文化復権については非常に危うい言葉なので,うまく使わないといけない。ただ,国際競争力という観念,しかも目に見える競争力,例えば技術革新やGDP,GNP,あるいは輸出能力という議論が非常に横行している中で,これでは21世紀はいけないということは人文・社会科学でしか提起できないということを意図している。20世紀がそのような時代だったというある意味での反省に立ち,人間としてどのように生きるか,あるいは人間社会としてどのように生きるかという一種の新啓蒙主義というものを人文・社会科学が新しく提起しなければいけない時代である。 国がこのような振興策にどのように関わるのかという問題についてだが,特に人文・社会科学の場合,例えば,だれが源氏物語研究を行おうが自由で,それ自体に意味があるというところがある。文化における国のコミットメントというのは、本来は弱いほうが理想だがそうはいかず,特に教育,学術体制,人材養成の問題については国が関わらなければいけない。国が今までの人文・社会科学は極めて閉鎖的だったと決めつけるのは行き過ぎではないかという感も否めないが,確かに欠陥はたくさんある。 人文・社会科学研究の振興策に目指すべき方向が六つ挙がっているが,大きくは二つあるのではないか。つまり,国が直接体制整備をしなければいけない部分と,望ましい方向を助成するという部分である。例えば,体制,インフラという部分で日本が非常に立ちおくれていると言ったときには,まず体制整備をしなければいけないと強調し,かつ助成という部分で,例えば異分野の研究者が語り合う場をどのような形で作ればより促すようになるかという知恵を絞るということになるのではないか。 また,日本の国家機関の資料の公開が非常に遅いことは問題であるとともに,そのような資料を処理したり,資料に関して対話できるアーキビストやライブラリアンが日本には非常に少なく,彼らの社会的地位が低く,また,ごく一部の学校でしか養成することができない状況である。このような体制を変えないと研究者が研究に集中できないので,これこそ国が関わるべきことなのではないか。 それから,例えば図書,資料の収集及び有効活用,あるいはデータベースの整備について,今まで日本の研究機関で効果的に行われてきたかというと甚だ怪しく,これも国が関わる必要があるのではないか。 |
○ | 国が関与すべき部分と助成する部分というのは非常に重要だが,方向性で分けるのは非常に難しいので,むしろ具体的な施策で国が関与すべき面,もっと助成する面という区別をする方がいいのではないか。それは,具体的な施策の優先順位をつけることにも関わるが,緊急を要する施策,時間をかけるべき施策という具体的な施策の区別によってかなりその面が補われるのではないか。
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○ | 資料3にある「人文・社会科学の振興の必要性」として,「人文・社会科学それ自体の振興」と「外部からの期待」という二つの項目を箇条書きにあげているが,これらは相互に深く関係しているので,それらの関係性についての記述があったほうがいいのではないか。例えば,外部からの期待としての現代的課題への対応というのは,従来の人文・社会科学ではなく,新分野の開拓をせざるを得ないということにつながり,人文・社会科学それ自体の振興と関わってくる。
政策研究というのは,これまでの人文・社会科学ではうまく行われてこなかった。政策研究もいろいろあるが,従来は,基礎研究と応用という分け方をした。それに類すると,応用の方にモニタリングやプランニングという新しい言葉が含まれる。しかし,例えば,社会学が社会の状態をモニタリングするということは,あまり行われてこなかったが,新しい社会の変化とともに学問も変わっていかなければいけない。それを政策という言葉ではなくて,そのような意味を内包するような言葉を選んだほうがいいのではないか。 「人文・社会科学研究の振興策」の箇所については,「目指すべき方向」の一番最初に「分野間の協働による統合的研究の推進」という一番難しいものが来ているが,順序を変えたほうがいいのではないか。 |
○ | 政策研究とは,国や社会の強い要請に基づいて行われる研究と理解してよいのか。 |
○ | そうではない。 |
○ | 政策提言型という意味合いなのか。 |
○ | 人文・社会科学としては,学術的に政策提言を行ってきた。 |
○ | それは,主体が国か個人かは別として,自発的に行っているという意味では,学術研究なのではないか。 |
○ | 学術研究というのは基盤的(ベーシック)なもので,応用していくというのは,例えば,具体的な環境問題についてどのように解決(ソリューション)するかということである。人文・社会科学はあまりソリューションという言葉を使いたがらない。これは,問題解決型という感覚が近い。現代的課題に対して人文・社会科学がどのようなアプローチや貢献ができるかということは,相当緊要な課題として出ているという見方はせざるを得ない。ただ,それをどのように学問でつなげていくかというのは,新分野の開拓など学問の創造・発展というものにつなげないと簡単ではない。
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○ | 教育に関していうと,大学の教育だけが問題ではなく,人文・社会科学の研究成果を若い人たちや次世代の人たちに知らしめるということも,裾野を広げるという意味で非常に重要である。そのようなものは広報,発信に関する施策でもある。国外に関しては余りにも外国に対する成果発信が少ない。また,国内では,たこつぼ化しているために学問のおもしろさを伝える広報的な活動が少ない。これらの問題は,広報,発信という枠組みの中で非常に重要な施策の一つではないか。
また,分野の融合よりも人的な融合が非常に重要である。これも国内における人文・社会科学と自然科学の間や人文学と社会科学の間の人的融合と,外国との人的な融合が考えられる。 社会に起こっているさまざまな問題に関して,人文・社会科学は何もこたえていないではないかという指摘があるが,全部を政策科学にする必要はない。ただし,環境問題等の現代的課題に対して,孤高の学問でいること自体が問題である。そのような意味で政策科学が出ているが,政策科学ですべて行うということではなく,実体主義や実証主義のような何か社会との関わりの中で出てくる学問が新分野ということになるのではないか。現在,若い人たちに対する人文・社会科学の訴えが弱いが,このようなことを行うことによって,結果的にはやや精神文化の復権という効果があるのではないか。 以上の広報的な問題,人的な融合の問題,新分野の実体的な人文・社会科学の開拓の問題をプロジェクトを通して具体的に進めるのがいいのではないか。 国との関係については,国は基本的には多元的で支援をする必要があるが,統治をすると問題になるので,統治の問題と施策の問題というのは分けて考え,多元主義的な支援アプローチをとるべきである。 |
○ | 人文・社会科学の存在意義や振興の必要性は,自明のことであり,特に説明する必要もないのではないか。存在形態や研究方法はどんどん変わってきているが,人間の知的営みの歴史とともに人文・社会科学はあると言ってもいい。人間が人間を自分で見つめる,あるいは周囲の人との関係を見つめるという知的営為はずっと昔からあるわけである。
かつて,旧学術審議会学術研究体制特別委員会人文・社会科学研究に関するワーキング・グループのとりまとめを行う際,人文学と社会科学の区分を避けたことについては,その境界線が際どく難しいという理由に加えて,もう一つ積極的な理由がある。それは,人文学,社会科学両方とも人間の営みに対する一種のクリティックス(批判)という性格が共通しているからである。例えば,古典文学等の専門家はテキストのクリティックスから始まり,盛り込まれている人物像,あるいは作者の社会観,人間観等についてのクリティックスを行っている。ドイツの歴史学では,あるテキストが本物かどうかをチェックするものをテキスト・クリティックといい,中身に関してチェックするものをクヴェレン・クリティックというように区別している。 他方で,政策研究というのは非常に多義的である。少なくとも専門家以外の方からすると,非常に過大な期待を政策研究に寄せられるおそれがあるので,前述のワーキング・グループの審議のまとめでは,その言葉を吟味し,政策分析型の研究と提言型の研究という二つに区別した。政策研究を問題にするときには,その二つを区別して議論しないと混乱する。前者は最近かなり盛んに行われている印象を受けているが,一方,政策提言型の研究はそれほど積極的に行われていない。研究者が個人としてある政策決定過程に関与する状況において政策提言的活動は行っているが,それは学問の名において語られているわけではないというところに問題がある。 |
○ | 当委員会の第6回会合で文理融合の理念について意見発表を行ったが,資料3を見ると,文理融合がすっかり消えてしまい精神文化の復権となっている。これは大転換に過ぎるのではないか。今日,人文・社会科学の有効性について問題になっているのは,科学技術が自己運動してしまっているという技術の限界についてだれも説得力を持って言えないことへの不安感が非常に強い。その意味で,科学技術に対して人間性とは何かということを共通して理解を深めるというのが精神文化の復権ということの中身ではないか。
自然科学でもあり,人文・社会科学でもあるような新しい融合型学問というのは作れないが,科学技術の一人歩きに対して発言権を持てるだけの人間性の理解の深まりが必要だという点では,文理の接点というものが必要になる。そのような意味では,文理融合は残しておいた方がいいのではないか。融合という名前のもとに,科学技術の一人歩きに対して限界を見極めるための人間性の共通理解の深まりという内容を盛り込めばいい。自然科学や科学技術の発展に対して,クリティックを行うことによって見守るという,その見守る役目を人文科学や社会科学にきちんと持たせるということである。 |
○ | 今の意見に賛成である。人文・社会科学が自発的に進んでいくことについて国が過度に関与する必要はない。この報告書で書かなくてはいけないのは,ほうっておくと進んでいかない部分に対する社会の側からの要望である。そこだけが大事なのではないか。あまりいろいろなことを書くと焦点がぼやけるので,余計なものは入れず,人文・社会科学に対して社会の望んでいることに焦点を合わせて書いたらどうか。
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○ | 人文学と社会科学の共通点としてあげたクリティックスは,普通批判と訳されているが,モニタリングや吟味,あるいは「見守る」ということにもつながる。そして,科学技術が一人歩きしている現在の状況もクリティックスの対象にならなければいけない。生命倫理や環境の問題等についても,本来行われなくてはいけなかったのにあまり行われていない。
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○ | 今はまだ社会的にそれほど大きな問題になっていないが,細胞工学等の生命領域の工学化がおそらくこの五,六年間で非常に急速に発達するだろう。そのとき,人文・社会科学はただ黙って見ていたのかという感じになる。だから,科学技術の進展に対する見守り,批判という視点を人文・社会科学の役目としてもっとしっかり認識しなければいけないということを入れてもいいのではないか。
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○ | 政策科学には三段階の歴史がある。一番最初は米国の戦争後の復員の問題をどのように扱うかという問題に対し,既存の政治学や経済学,社会学の研究者が一緒になって政策科学を作った。その後第二段階では,諸科学の発展の中で,経済学や政治学とシステム工学等の自然科学の特に情報関係の学問が一緒になって,政策分析用のツールを開発した。現在は,社会から突きつけられている医療過誤や環境問題等の事態が非常に早く進展するため,従来のような時間をかけた理論的な帰結から政策の提言をするのはほとんど不能になっているので,モニタリングやリアルタイムのデータを持ちながらどんどん政策を出すという第三段階に入っていると考えられている。
その場合に,傍観者的に政策を出すのか,実行者として出すのかによって随分違ってきている。今までは,傍観者型に行っていたが,実行者型に行うには,内部にいる研究者と共同研究を行う必要がある。政策科学に携わってきた側からすると,そのように考える。 |
○ | 政策研究の分析型と提言型ははっきりした区分はしておくべきである。今の時代,特に社会科学には,おそらく問題提言型の研究が求められる。これは社会科学の研究者は敬遠しがちだが,行わざるを得ない。そして,行うならばきちんと行ったほうがいい。
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○ | 先ほど,現在の本の出版点数は毎年増えていて,社会への成果発信は非常にたくさんあるという意見があったが,例えば,新聞の場合は,いくらいい記事を書いても読まれない記事はないのと一緒である。そういう意味で,どのようにしたら社会に伝わるかということまで考えた上で発信しなくては,実は発信したことにはならない。政策についても全く同じことで,良い提言だと社会が思ってくれることは非常に大事である。
自然科学系でもその部分は非常に欠けていたが,最近では,努力をするようになってきた。人文・社会科学は少しその努力が足りない。全体がどのようになっているか,その中で個々の研究成果について言わないと伝わらない。社会はそれを興味引くように伝えて欲しいと望んでいる。それが,学問がまず行うべきことではないか。 |
○ | 政策研究を行わなければいけないということは良く分かるが,なぜ消極的かと言うと,分析,提言という形で政策研究を行っても,それを実行する段階では,官僚や政治家等との衝突があり挫折してしまう。つまり,分析し提言しても,実現する力というのが別に存在し,その間の壁が大きすぎて,だんだん意欲を減退させていっている。これは,自然科学と随分違うのではないか。また,人文・社会科学者が提案していかなければいけないのは,学問の世界の分析,提言だけで済むものではなく,政策立案に関わるところであることが,躊躇していく理由だろう。
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○ | それは自然科学でもほとんど変わらず,提言が政策に取り上げられる過程においては,いろいろな時点で摩擦を起こしている。例えば,宇宙開発を行うにも莫大な経費がかかり,宇宙開発より別の分野に経費を出したほうがいいという意見もあるかもしれない。最後は財務省の査定まで絡んでくる。このように簡単に容易に実現するわけではない。
そこで,自然科学の研究者はどうしているのかというと,社会に対して発信し,社会を巻き込むことで応援団をたくさん作るという努力をしながら政策として実現していくことを考えている。 マスコミも随分いろいろな政策提言のようなことを行っているが,そうそう実現はしない。しかし,書き続けないことにはどうにもならないと,一所懸命になっている。 |
○ | あえて自然科学との類似を求めるとすれば,自然科学の場合には理学と工学という別の分野がある。例えば,核融合は,物理学としては既知の部分がほとんどだと思うが,実際にプラズマを燃やしそこからエネルギーを取り出すとなると,その開発過程は,まさに工学が必要である。ちょうど,政策の提言で,原理的にいいと思って考えたことをどのようにして実現するかという間には,自然科学の場合には工学という独自の分野がある。
人文・社会科学の場合にはそれがなく,言いっ放しである。提言と実現の隔たりというものをどのようにして埋めるのかという工学の発想みたいなものがなかなか人文・社会科学の場合に出てきにくく,またそれが難しい。 |
○ | 批判を行うには,ある基準が必要であり,批判の中にはデザインや設計というものが必ずある。政策研究とは,人文・社会科学研究者がそのようなデザインを明白に言うことである。そのように考えると,政策研究というのではなく,批判機能の延長としての社会設計や政策提言というものが必要なのではないか。
資料3にある「人文・社会科学の問題点」として,「1.研究の細分化・閉鎖性」,「2.研究の「プライバタイゼーション」」,「3.成果の社会への発信が不十分」,「4.国際的な取り組みが不足」と4点あげているが,2の中に政策研究への取り組みが少ないということをあげるのはおかしい。むしろプライバタイゼーションというのは,「1.研究の細分化・閉鎖性」の中に入れ,政策研究の取り組みが少ないという言葉は変えたうえで,一つの項目として立てたほうがいいのではないか。 また,「1.研究の細分化・閉鎖性」というのは,「研究教育の細分化・閉鎖性」とするほうがはっきりする。 |
○ | 政策科学がなかなか育たないというのは,政策担当者とのギャップがあるので,政策科学を作っても,学問として成立しないのではないかという不安が常にあるためである。
政策決定者が,データも含めて大学の研究者が持っている専門的技術を求めないようにならない限り,絶対に政策提言の研究はできない。自然科学は法則定立型であるから,自然科学の研究者は専門的技術を非常にたくさん持っている。だから,研究者の考えを聞かないと,例えば核融合プロジェクトの政策等も実現できない。ところが,人文・社会科学は非定立型,吉田民人先生的に言うとプログラム定立型である。プログラムはいつでも変更可能なので,政策立案者のプログラムの方が優れていれば,研究者には専門的技術を求めてこない。今までの政策科学が政治経済政策を中心としたものの考え方に凝り固まっていたので専門的技術が必要とされなかったが,例えば,地域研究の分野というのは非常に多くの専門的技術を持っており,地域研究を含めた政策を考えれば,政策科学というものが育っていく可能性があるのではないか。 |
○ | 今の人文・社会科学で一番大きな問題は,実はゆとりがなくなっているということである。社会や大学の機構の変動が甚だしく,いつもそれに合わせ,非常に断片的に生きているというのが現状である。人文・社会科学というのは,ある意味で時間的なゆとりの中でしか熟成してこない。
その点で一番大きな問題を被っているのは実は若手研究者である。若手研究者が,大学がリストラ等で大きく変貌していく中で,行き先と目標を見失っているところに非常に大きな問題がある。非常に優秀な能力を持ちながら,どこに属し,発言していけばいいのか分からないような漂流する研究者がたくさんいる。 そのような若手研究者は,メディアの大転換を迎えている時代の中をどのようにして渡り切っていくかと必死に生きているが,若手研究者の新しい意見が研究の新しい制度の中に組み込まれていくことなしに,人文・社会科学の学問の継承,発展,振興は成り立たない。 例えば,大学の非常勤講師等には女性研究者が非常にたくさんいるが,たとえどんな立派な仕事をしていても,科学研究費補助金の申請は非常勤職員では自分の名前で申請できない。それをできるだけ補正していくような施策を考える必要がある。 |
○ | 社会的な実験として,大型プロジェクトを組んでみてはいかがだろうか。そうすれば,そこから研究者がどのような課題をフィードバックとして受けることができるか,また例えば,歴史学はそのようなプロジェクトにどういう貢献ができるかということが分かってくるのではないか。例えば,ある地域の防災計画を,行政が立てている防災計画とは別に,人文・社会科学や自然科学の研究者が集まって考えて立ててみるということが考えられる。
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○ | 地域研究の振興についてだが,これは国立大学附置研究所等の在り方の検討と絡んでくるのではないか。去年の9月に米国で起こった事件というのが,一つの学問的状況に対する反省という点から考えると,米国型の地域研究が完全に失敗したということではないか。つまり,非常に戦略的かつ政策的で,しかも一時的に重点化されるという地域研究や政策研究というのはきちんとした視座も持てず長続きしない。日本の地域研究は,あまり力はないが,それほど大きな変更がなく財産を非常に蓄積してきている。日本がこれからアジアの中でどのように生きるかというときに,あるいは世界の中で先が見えないというときで,この蓄積に力を注いできた地道な地域研究をどこがやるか,そして国がどれだけ支援するのかを考えなくていけない。これは間接的国策に関わることではないか。
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○ | 「人文・社会科学研究の振興策」であげていることは,全部旧学術審議会学術研究体制特別委員会人文・社会科学研究に関するワーキング・グループの審議のまとめで述べられていることである。当委員会においては具体的な施策では,図書,資料及びデータベースに関しては,かなり技術的な部分まで議論できたが,それ以外は非常に抽象的な言葉で書かれている。
分野間の協働による統合的研究の推進や現代的課題への対応等を行うためには,具体的な施策はどのようにあるべきかが,報告書の一番の目玉ではないか。国家が関与すべき部分ということも含めて,具体的にでき得る施策まで考える必要があるのではないか。 例えば,異分野の研究者が語り合う場や国際共同研究の場,複数専攻制等を設定する場合に,地域研究という分野が非常に適しているのではないか。 |
○ | 資料3では,「分野間の協働による統合的研究の推進」の具体的な施策として地域研究の振興を,「研究体制・基盤の整備」の具体的な施策として附置研究所等の在り方の検討をあげている。この二つを関連づけて考えるに当たっては,国立大学附置研究所の中で地域研究を行っている研究所というのはそれほど多くない。また,地域の名を冠していても地域研究を行っていない研究所は非常に多い。例えば,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所は地域研究を行っているのかというと,地域を対象にしているが地域研究という学問は行っていないという。ある地域を対象にして学際的に三つのディシプリンからアプローチしているが,それを称して一つのディシプリンとしての地域研究というのは成立しないという考え方である。
地域研究を何と考えるかによって,これらのつなぎ方が出てくるので,二つつなげてしかるべきだというようには,必ずしもすっきりとはいかない。 また,実際にこの問題を当委員会で提起するには,枠が大き過ぎるのではないか。具体的施策には,本来あるべき施策を謳うという流れと,実行性の高いものから強調して謳うという流れがあるだろうが,後者の場合は国立大学附置研究所の在り方を一所懸命論じてみても,あまり迫力のあるものは作れないのではないか。 |
○ | 「人文・社会科学研究の振興策」の中で一番難しいと思われる「分野間の協働による統合的研究の推進」は,「人文・社会科学の振興の必要性」では,「( 3)新分野の開拓など学問の創造・発展」にも関わる。人文・社会科学と自然科学の違いを見ると,人文・社会科学はディシプリンを中心にしており,研究の拠り所を研究室や学会に求めている。その結果,新領域を作って知の冒険を行おうとする研究者が自発的に集まって何かを行うという組織性やそのような戦略を考える研究者が育ってこなかった。このようなダイナミックな動きを育てないと,分野間の協働による統合的研究の推進を図るのは難しい。この問題を放っておくと,統合的研究の研究領域はディシプリンを広げるか,プライバタイゼーションといわれているものの野合にすぎなくなってしまう。プロジェクトとは別に,一方で統合的研究の推進とつながる具体的な施策をある程度イメージする必要がある。 |
○ | 科学技術振興事業団が行っている脳を考えるという会議では,保母や心理学者,脳の研究者等が集まって4日間議論を行った。その中から赤ちゃん学会が発足した等の成果を上げてきた。
科学研究費補助金だけでなく,いろいろなことを目的としている資金が実は用意されているのではないか。そこに目を向けて,そのような資金を多面的に多様に利用していくことが非常に大事である。 |
○ | まず,若手研究者に力点を置いた留学の機会や発信の機会に関して,目的をしっかり立てた予算を講じることができるのではないか。
また,人的な融合をきちんと結んだ政策的な提言のプロジェクトを,これもなるべく若手で行ってみてはどうか。例えば,日本の人文学がいかなる形で出てきて,どのような影響を持って現在に至っているのかという,非常に純日本的であるが国際的に重要な研究というものが考えられる。 科学研究費補助金の中にも成果報告を補助する目的の研究成果公開促進費があるが,それとは別に,人文・社会科学的な新しい知見を社会に公開することに,重点的に予算を措置することが考えられないか。 |
○ | 三つの次元で具体的な施策を考える必要がある。一番基底的には,データベースや資料の体系的な収集,整理という基盤の整備がある。これは絶対避けて通れない仕事で,ある意味で国が行うべき最も重要な仕事である。
一番表に出て分かりやすいのが,プロジェクト研究である。このような場でプロジェクトのテーマを議論しまとめる。日本学術振興会等に人文・社会科学振興のための予算が措置できるのならば,そこでこのプロジェクト研究を進めていけばいいのではないか。具体的には,先ほど防災という案が提起された。また,日本の人文学は既に前近代においてヨーロッパの影響を受ける前から,かなりヨーロッパの人文主義に似たような,中国の考証学と違った形のものがあらわれていたのではないかと考えている。日本の学問,特に人文学の伝統というものをもう一度洗い直す必要があるのではないか。さらに,自然科学との関わりの次元でテーマを考えれば,例えば,世界の水問題は日本としても大きな課題である。これは地域研究をはじめ経済学,法学,土木工学等の協働作業が絶対に必要である。水問題はこれから世界の主導権争いの戦略に使われると予想され,政策研究の場としても,あるいは国際政治の問題としても非常に重要な課題になるのではないか。 以上のように,一番上にプロジェクトがあり,一番下に基盤の問題があるとすれば,その中間に研究組織,研究者のコミュニケーションをしっかり成立させるためのネットワーク作りにかなり支援が行われる必要があるのではないか。研究機関の再編の前に,まず関係の深い研究機関同士がいろいろな形でしっかりとネットワークを構築するということがまずあって,さらにそれが実態的な再編成や統合とかというものにつながる。いきなり制度を作るよりは,まずネットワーク作りをどのようにして国が支援するかという具体的な方法を考える必要があるのではないか。 |
○ | 研究教育体制の基盤という部分が一番気になっているが,これは非常に息長く取り組んでいかないといけない問題である。 場の提供や国立大学附置研究所等の在り方などの議論が出ているが,今の第一線の研究者が集まって先ほどあげられたような課題に取り組んでも,五年もするとその集まりが分解するという事態になるのではないか。それならば,その中で次世代が新しい時代を担えるように育つメカニズムとはどのようなものだろうということを先ほどから考えていた。このような施策を実行する際には,常にその目配りが欲しい。 |
○ | 研究機関のネットワーク作りに関することだが,具体的な成功例を二つ紹介したい。これは自然科学におけることだが,一つは日本である。京都大学数理解析研究所は早くから全国共同利用型になっている。この研究所では,毎週少なくとも一つは研究集会がある。その他に,数人が一週間程度泊りがけで利用するという短期共同利用があるが,相当な成果が上がっている。これは,ネットワーク作りとしては非常な成功をおさめているものではないか。
もう一つは、こういったものはどこでもあるのかもしれないが、ドイツのダグストゥールというところでは,日曜日に入って金曜日まで合宿する。ここで,人数も最大50人に制限して非常に密な議論をして国際的な提案を行っている。これは,具体的な施策に書いてある異分野間の研究者が語り合う場の提供や国際共同研究の場の設定に関係しているのではないか。 |
○ | 先ほどの時間の確保という問題を非常に痛感している。若手だけではなく,中堅研究者がつぶされているという感じを持っている。30歳代の研究者はまだ必死になって論文を書いているが,40歳代になると,学内での仕事や教育負担が多くなってつぶされている。私学の場合,大学改革を絶えず行わないとならず,必死になって学内の仕事をこなしている。国立大学の中でも,研究所やセンターに配置換する形で一年間研究をさせるということをしているところもある。いろいろな形があるだろうが,一種のサバティカル・イヤーのような制度を当たり前に思うような仕組みを国立大学,私立大学を問わずに作る必要がある。
また,プロジェクトの問題だが,課題解決プロジェクトはトップダウンと言われるが,いいものがあれば行ってもいいと思うが,大きなプロジェクトというのは必ずしもうまくいっていない。各研究者の研究があるので,それを犠牲にしてまで大きなプロジェクトに関わることはなかなかない。大きいテーマというのは,ふだん行っている研究と必ずしも一致しないところが出ているのが実情である。 資金配分の仕方として人文・社会科学の場合は,中小規模のものを重視して配分するということを考えないと,資金の効率的な運用はできないのではないか。 |
○ | 自然科学では,研究者がネットワークを強めて共同で新分野を推進する場合,新しい大学共同利用機関を作る場合や既存の大学共同利用機関を核に大きなプロジェクトを立ち上げたりコーディネーションの機能を有するセンターや専門的な技術者も確保する等,コミュニティー全体として推進するというスタイルが定着している。
人文・社会科学も大学共同利用機関や全国共同利用型の国立大学附置研究所というものがある。コミュニティーでまとまりがないから問題なのではないか。政策的にボトムアップでテーマや研究方法を議論しないといけないが,そのようなところに施策を施してもらい,集中的に研究者がみんなで力を合わせる。そうすれば,養成も兼ねた専門技術者の確保ができるのではないか。 |
(研究振興局振興企画課学術企画室)