科学技術・学術審議会学術分科会
2001/06/14議事録
平成13年6月14日(木) 15:00〜17:00
文部科学省本館仮設建物会議室A21
有川、石井、池端、小平、鳥井、長尾、薬師寺
吉田
坂田研究振興局担当審議官、泉振興企画課長、吉川学術機関課長、宮嶌主任学術調査官、松川学術企画室長、他関係官
資料1(人文・社会科学特別委員会について)、資料2(人文・社会科学特別委員会における検討スケジュール(案))、資料3(人文・社会科学特別委員会における検討のイメージ(素案))、資料4(科学技術・学術審議会総会及び科学技術・学術審議会学術分科会における主な意見−人文・社会科学関連部分−)及び資料5(人文・社会科学に関するデータ)に基づき事務局より説明の後、自由討議が行われた。その内容は以下のとおり。
【委員、科学官】
以前、科学研究費補助金の審査をした時も申請件数は社会科学系よりも人文科学系の方が多いという印象を受けた。社会科学系の場合、例えば経済学関係では、財団等から金銭的な援助を受けやすいと思うが、人文科学系は基礎的な分野なので、難しいのではないか。
【委員、科学官】
法律の先生は比較的科学研究費補助金になじみがない。法律は解釈を主体とした学問なので、例えば弁理士協会等の研究費や各大学の研究費で間に合っている。また、私立大学には科学研究費補助金のカルチャーがそれほど浸透しておらず、全員が申請するわけではない。申請するのは国立大学の経済学や政治学関係が多いのではないか。
【委員、科学官】
研究者数では、総数の約3割が人文・社会系である。
【委員、科学官】
3割というのは意外に多いと思う。資料5の中に教員という表現の統計と研究者という表現の統計があるが、研究者にはどういう範囲が含まれているのか。
【事務局】
資料5の1ページ目のデータは大学の教員で、学部及び大学院に籍を置いている教授、助教授、講師、助手である。
国際比較のデータについては、研究者の定義が一定の研究歴があることが要件になっているので、ポスドククラスや、場合によっては大学院博士課程の学生も研究者にカウントされているという現状がある。
したがって、資料5の8、9ページで言っている研究者と1ページ目で言っている本務教員数というのは必ずしも一致していない。
【委員、科学官】
一致していないが、全体に対する人文・社会系の割合という意味ではどちらも3割ぐらいになっている。教育という場合には知的資産の伝承という側面もあるが、そのような伝承的な仕事に関わっている研究者と研究的に何かをクリエイトしていく仕事に関わっている研究者との割合が人文・社会系と自然科学系とでは違うのではないか。
【委員、科学官】
研究所数について見ると、人文・社会系の研究所の数は14であり、全体の75と比較すると、ある程度のバランスがとれているように思う。しかし、研究所の研究者数について調べると、大学共同利用機関の教官の全体の数は1,610人。うち人文・社会系が206人で、全体の12.8%である。国立大学の附置研究所の研究者は全体で3,275人。うち人文・社会系の研究者は384人で、全体の11.7%であり、社会科学系がほとんどである。これはクリエイトする部分に専従している者と言える。もちろん大学の学部等の先生にもクリエイティブな仕事をしている人はたくさんいるが、人文・社会系の研究者の比率が10%程度というのは、全体から見ると確かに小さい。
【委員、科学官】
自然科学系の先生には、自分の研究成果が社会にどのように役に立っているか、ということを認識している人が比較的多い。それは、新しい繊維や産業ができるということだけでなく、世の中に知的喜びを与える等の面も含めてである。
人文・社会系の先生方は、自分の研究をどのように社会に役立てようと思っているのか疑問である。例えば経済では、実際の経済政策はあまり新しい経済学で行われているわけではなく、非常に古い経済学をもとにしている。
実利的に役に立つというのではないが、自分の研究が何かの役に立つと誇りを持って言えることが大事で、国民からそのようなことを負託されて大学の先生は働いていると思う。個々にではなくマクロにこのような役割を担っているというのを少し明らかにして示してほしい。
【委員、科学官】
自然科学系では、「研究者」という集団と「技術者」という集団がある。「研究者」の研究成果が、「技術者」を通じて社会に実際に役に立っていくところがよく見えてくる。
人文・社会系においても「研究者」対「技術者」というものが、意識はされていないが、どこかにあるのではないか。例えば、弁護士や公認会計士は、もしかしたら自然科学系における「研究者」対「技術者」というところの「技術者」なのかもしれない。
【委員、科学官】
全く同感である。今の科学技術万能で進んでいる全体的傾向にいろいろと不満を感じる。科学技術の発展は、便利で効果的なものを提供してくれるが、その成果は、最終的には人類にもたらされなければいけない。本当に人々の心が豊かになるという最終的な目的に向けて、自然科学、科学技術は手段は提供できるが、社会という複雑なシステムの中へそれをどのように生かすべきかという評価、あるいは方法については、人文・社会科学の成果が欠かせないと思う。
人文・社会系の成果はいろいろ出ているが、それを具体的に社会に役立てていくところが確立されていない。人文・社会系がクリエイトしたものを実社会に役立てる場合、昔は哲学というレベルで、思想等を通じて影響を与えるということができたが、現在のような社会ではそれだけでは力は及ばないだろう。何か新しいものが必要だ。何か途中に立つ人文・社会系の科学技術というレベルのものがほしい。
【委員、科学官】
今の意見については、例えば、世界の共通的な歴史認識をつくることがひいては世界平和につながるというようなことも含めて、つまり現世的な技術ではない部分も含めての議論であれば賛成である。
【委員、科学官】
自然科学系であれば、例えば望遠鏡を通して捕えた宇宙の果ての映像を全国のテレビに放映するということで、成果を発信するテクニックを持っていると思う。それが人文・社会系の場合には感じられない。マスに対してどういうインパクトを与えるかという手段が確立されていない。
【委員、科学官】
人文・社会系、特に人文科学系では、成果を本にして読んでもらうというのが基本的にあると思う。これは単なる啓蒙的なものからいろいろなレベルのものがある。研究成果は直接にはおそらく学術的な本になるが、研究成果を出版する文化や学術書、啓蒙書という形で研究成果等が一般に伝わるようなルートが衰えてきているのではないか。新聞も1つの大きな場所だと思うが、そこまで見ていかないと社会との関係が見えてこないという問題がある。
【委員、科学官】
例えば、自然科学系においては、基礎的なこれから新しい学問になっていくものは、ほとんど役に立つかどうか分かっていない。そういうところからスタートしている。役に立つかどうかで考えれば、そういうものは全部切られてしまう。むしろ役に立ちそうもないものの中から役に立つものが出てくる。
人文・社会系はどうか。基本的に人文学というのは役に立たないものと言われるが、本当に役に立たないかというと、決してそうではない。現在、科学技術というものが前面に出てきているが、科学技術は基本的に内部に価値観を持っていない。それに価値や意味を見出していくのは、むしろ人文・社会系の一見役に立たなかったような学問ではないだろうか。そういう点では、人文・社会系は最も重要な部分を支えている可能性がある。だから、役に立つということを近視眼的に見るのは問題がある。
また、人文・社会系、特に人文科学系の人たちと社会とのインタラクションはどうなっているのか。これはどの分野でもそうだが、現在は社会とのインターフェースを非常に重要視しようとしている。自分たちの研究している学問はどういうものなのか、それについて社会的な認知を得ないと自分たちの研究はできないという危機感を持ち始めている。だから、本やテレビ等を使って自分たちはどういうことを研究しているのかを示す努力はしている。しかし、まだ弱い。人文・社会系は、社会へのインターフェースを常に確保した上で、どういうことをしているのかを世の中へ出していく必要がある。
ところで、「役に立つ」というのは、1、2年後に役に立つということなのか、あるいは100年後に役に立つということなのか、どれぐらいのスパンを考えてのことなのか。
【委員、科学官】
「役に立つ」というのは大まかに一言で言うと、次の世代を我々はどう生きるべきかを示すということである。それは自然科学も人文科学も社会科学も一緒である。役に立たなくていいと言った途端に、表現しなくていいということになる。自分は一生この研究をやりました、それが終わった途端に全く消えました。自己の興味だけで研究を行えばいいんだとすると、それで済んでしまう。そうではなく、表現型を作っていくということが役に立つということだと思う。多分、学術出版やマスコミという分野は衰えつつあって、人文科学でも社会科学でも表現型を構築し直さないとだめだろう。簡単にインターネットで表現すればいいという話でもなくて、どうやって表現していくのか。「役に立つ」ということは、自分はこれをやったんだと言い張ることと言い直してもいい。
【委員、科学官】
その際、表現のツール、あるいは方法を考えなくてはいけない。自然科学系の場合は、それが論文として出てくる。例えば、毎年どのような研究をしたかという問いかけが来るが、その書式が全部自然科学系を基本にしている。人文科学の研究者は成果を一つの著書にまとめて発表したということを書きたいのだが、それはだめで、レフェリーつきの雑誌に掲載された論文や招待講演について書けとなっているので、書く数がどんどん少なくなる。
何か別の人文・社会科学の成果を評価する基準を作らない限り、限りなく人文・社会の成果は落ちていく。
【委員、科学官】
そのとおりだと思う。ただ、私が表現型という言葉を使ったのはこういうことである。
地球温暖化を例にあげると、例えばここの海でCO2を吸収している等のデータはある。それを世界中から集めてシナリオを作る。大気中のCO2の温度がどのくらいになると、地球の温度はこのくらいになるという結論が出て、それで初めて分かる。天文学にしても、超新星の真横からX線を観察した。これだけだと世の中は何にも分からないが、宇宙の始めはビッグバンがあって、こうこうこうあって、だから超新星の周りからX線が出てきて、これを観測した意味というのはこうだという話になると世の中は分かる。つまり、それがあわせて全部表現型になっているという感じがする。だから、社会に伝わるような表現をしないと本を書いても伝わらない。
【委員、科学官】
正しいと思うが、それは人文・社会系に特有な問題なのか。今の科学は、非常に細分化されているために、例えば、多くの予算をもらっているバイオ等の分野では表現型が非常にしっかりしており、非常にパブリックアピアランスがしっかりしている。それに比べると、他の自然科学分野や人文・社会科学分野は予算も少ないので、つまり表現のニーズもあまり起こらないという問題がある。それはいたちごっこであり、どちらが先なのか、このような委員会でしっかりと考えなくてはいけない。
学術審議会学術研究体制特別委員会人文・社会科学研究に関するワーキンググループで議論したのは、まず、表現型に言葉の問題があって、人文・社会系は自然言語を使っている。それから、表現型の問題で違うのは、自然科学系が法則定立型なのに対して、人文・社会系は法則が非常にはっきりしない分野だから、いろいろな解釈が成り立つ。そのうえでいろいろな表現を考えたときに、どのようにしてたこつぼから抜け出るかを、これからきちんと考えていかなくてはいけない。石井紫郎先生は日本研究等の成果も英語で外に出していき、その過程の中で、表現のプラットフォームができ上がってくるのではないかとおっしゃっていた。そのような議論はした。
【委員、科学官】
自然科学系では条件を同じにすれば、だれがどこで実験しても同じ結果が出ることを行っている。それに比べて人文・社会系は非常に多様で、同じ条件で同じことを行っても同じ結果が出ない領域なので、非常に個別性が高くて、難しいということはよく分かる。
昨今の世界は、科学技術万能で来てしまっているが、それではだめで、個別性の非常に高いレベルでの精神活動が人間社会というマスを取り仕切れるメカニズムを生み出さないと人類の危機である。本質的に難しくてそれはできないという部分もあると思うが、人類の危機を救うという意識で人文・社会系の先生方に頑張っていただきたい。
例えば、ドイツが東京にインスティチュート・フュア・ヤーパンスというのを出している。そこには人文の先生や経済の先生がいて源氏物語の研究や日本の経済状況を調べている。自然科学系は少なくて、人文・社会系の先生方がドイツから来て日本の研究を幅広く非常に積極的に行っていて、それをドイツに持ち帰りドイツの社会の中のいろいろなところへ生かすというシステムを持っている。これはブリティッシュカウンシルも持っている。
それに比べて日本の人文・社会分野の現状というのは、言葉の難しさと日本語の特殊性ゆえに伸び悩みというか、発展し兼ねているという状況である。それは分かるが、これをどうにかしないと日本をいい方向に導いていくことはできないのではないか。
【委員、科学官】
学問、アカデミズムというものはある意味ではジャーナリズムと一体化していく必要がある。国立民族学博物館の初代館長梅棹忠夫は、ジャーナリズムとアカデミズムは両輪であり、この片方だけで走っていてはだめだということを言っていた。それは学問の社会的ニーズも必要であるが、自分の研究してきた成果はジャーナリズムに乗せない限り普遍化していかない。それがあるからこそ、自分の研究している学問が社会の中でどういう意味を持ってくるのかが見えてくる。学者というのはある意味でアカデミズムの論文を書く一方、一般の人たちへ向けても書くことをしなくてはならない。
それから、科学技術というのは、極端に言えば価値はない。場合によっては、人類をいくらでも悪い方向に持っていくような技術も出てくる。それに価値を持たせるのは社会の側である。その価値がどうなっていくのかに関わっているのが人文・社会科学、特に私は人文学だと考えている。だから、その点では非常に重要な学問だろうと思うが、現在はそれになかなか対応できていない。
人文・社会科学の振興ということを考えた場合、そのような意味でのより基本的な問題を扱うような分野は重点の1つに挙げたほうがいいだろうと思っている。それはかなり根幹である。その分野は見かけとしてはほとんど役に立たないものだが、いよいよ必要になるだろう。
【委員、科学官】
「役に立つ」という言葉は、特に人文・社会系では嫌われることが多いが、ここで議論する場合には、一度もう少し広い意味で、根源的なところで「役に立つ」ということも含めて考えることが必要ではないか。
例えば、英語でインタレスティングという言葉とインポータントという言葉があるが、大体技術系の人はインポータントと言い、サイエンスの人はインタレスティングと言う。インタレスティングという言葉で言うと、訳の仕方にもよるが、自分の興味があるのならどうぞ自分で勝手にやってくださいとなる。しかし、同じことをインポータントと言った途端に、これは支援しなくてはいけないということになる。
また、評価については、自然科学系の査読つき論文等が基本になっているということだが、相当主観的なものをある程度客観的にはかる手段は必要で、それを工夫して作り出していかなくてはいけないと思う。100人の仕事を100人が違う方法で表現したら、どう比べたらいいのか分からなくなってしまう。
例えば一つの見方としては、「研究者」対「技術者」という場合の「技術者」の部分が抜けているのかもしれない。あるいはジャーナリズムがそれにあたっているのかもしれないが、何かがあると思う。研究成果を社会に分からせるための何か一つのプロセスが自然科学系にはある。人文・社会系にも実際には相当あると思う。それが顕在化していないとか、我々が意識していないということではないのか。それを見つけ出したら、相当分かりやすい話になってくるのではないか。
【委員、科学官】
人文・社会科学者は勉強していることが前提になっての議論だと思うが、本当に人文・社会系の先生が研究ができているのかというと、これをはかるのは非常に難しい。例えば、大学の学部の先生は教えるのが中心で研究をしていないのか、研究所の先生だけが研究をしているのかというと、そうではない。学部の先生も教えているだけではだめなので、教える背後に研究がなくてはいけない。それが中心でなくてはいけないと思っている。
私立大学の場合は客観的な条件が悪くて、皆さん非常に忙しい。教えている学生の数は、人文・社会系の方が、特に社会科学系は膨大である。さらに、今は委員会ばかりで、結局勉強する時間がない。しかし、教育はちゃんとやらなくてはいけない。そして、大学改革もやらなくてはいけない。さらに、学生の数が多くなって、就職の面倒を見なくてはいけない。
大学にはいろんなタイプの先生がいて、一緒に研究会を行えないかと思っているが、なかなか時間が取れないので、共同研究ができないという状態になっている。どこがネックになって、研究活動が不活発になっているのか、いろいろな先生が自分の力量を発揮できないのかというあたりの分析をして、一番根っこのところを直さないといけない。
【委員、科学官】
世の中の人に向かって発信する、社会へ向かって発信する重要性というのは何も人文・社会系だけではない。自然科学系も当然である。それを行っていかなければ、徐々にその分野の社会的認知を悪くしていき、結局は研究ができなくなってくるということを考えれば、自分たちの行っている学問をちゃんと世界に向けて発信していく必要がある。今までアカデミズムは学会の中で発信していけばいいと考えていたが、それは間違いだと思う。そのようなパブリシティはちゃんと考えなくてはいけない。
ただ、評価については、確かに人文・社会系は、自然科学系のような形ではすんなりとはいかない。かなり面倒な要素がたくさん入っていると思う。しかし、手がないわけではない。
【委員、科学官】
今は国立大学の独立行政法人化の問題があって、最近では民営化まで言われている中で、人文・社会系は、社会との関係を相当しっかり考えないと押しつぶされる可能性が非常に高い。人文科学や社会科学が押しつぶされたら、それこそ日本の社会はどこへ行くのかという話になる。
【委員、科学官】
民族学博物館や東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所で、外部評価を行っているかどうか、行っているとすれば、レフェリー性や専門資料が難しいという分野で、どのように行われているのかお尋ねしたい。
【委員、科学官】
アジア・アフリカ言語文化研究所では、外部評価は2回行った。研究所に直接にコミットしていて、比較的研究所の活動を知っている方々に、研究活動に関するものに限らず全てのデータを差し上げて、実際に来所してもらい、議論や質疑応答をすることによって、研究所全体の活動を外側から評価していただいている。
外国人による評価については、研究所には非常にたくさんの外国人の方が来ているので、その方々に全部のデータを英訳したものを送って、それで書面審査をして返していただくという方法をとっている。
【委員、科学官】
民族学博物館の場合も、基本的なパターンは同じである。博物館活動、展示、研究活動等全体にわたっての評価となるが、これは、基本的には資料を全部渡してからインタビューを行う形である。また、向こう側からこういうことについて聞きたいということがあるので、そのインタビューに答える。
正直言って、今行っている外部評価はそれほど厳しいものではないが、厳しい点を幾つか指摘を受けることがあり、それは本当に役に立つ。例えば、今はたくさんの資料を出版しているが、自分のところで全部出版することはない、自分で出版するのはこれとこれでいいから、あとは外へ出しなさいというサジェスチョンが出てくる。そういう厳しい指摘にはすぐに対応するが、基本的には指導してもらいたい問題点、先行き展開する上で都合のいいことばかり言ってもらっていることが多い。
外国人による評価も行った。外国人に英語でインタビューを行う。その後出てきた評価を日本語に訳して出すという形で行っている。
これはこれでなかなか貴重である。外国人が見た研究施設の批判はいろいろある。かなり率直に言うから、国際化という点では非常に重要だと思う。
【委員、科学官】
ということは、実際に研究所で仕事をしている人との距離感によるのだろうが、近い人であれば、研究所総体としてのアクティビティ、クリエイティビティというものは評価できる。だから、個々の研究者のアウトプットは言葉の依存性が非常に高く、個別性があるので、評価しにくいと言うが、集団としてのアクティビティはある程度評価できるのであれば、人文・社会系の学術成果を社会に評価してもらえる道は、何か工夫すれば十分あるように思う。
【委員、科学官】
同じ専門分野の人から委員を数名選抜して、その人に例えば3年間の業績を送って評価してもらう。これは同じ専門家だから、評価はすぐ出る。公正を期すならば投票で委員を選抜する。内部的にそのような業績評価委員を作って、3年ぐらいの間隔で、3分の1ずつ評価していく。A、B、Cのランキングはすぐつけられる。Cをもらえばより一層頑張ってくださいということになる。Aならば結構です、Bは少々改善してください。もしDがつけば危機的ですねという話になってくる。そういう評価をやろうということに今なりつつある。
つまり、同じ専門家集団の中なら評価できる。それが社会的というか、もっと広い点での評価となるとちょっと難しい。
【委員、科学官】
日本は明治以来、近代科学技術を導入したため、日本の科学技術は翻訳型である。押しなべて非常に細分化されている分野で協力して、論文も5人ぐらいが連名で出すというのが自然科学の研究である。『ネイチャー』に出るかあれに出るかと言っているバイオの世界が普通に見えるが、それに比べると、アジア、アフリカや中国研究等、世界中が日本の研究は非常に優秀であると見ている分野が実はあって、それは日本の中で認知するよりも、世界的に認知されているものが結構ある。だから、外部評価すると、アジア・アフリカ言語文化研究所や京都大学の東南アジア研究センター等、世界的に認知されているところがある。一番問題なのは、研究が解釈型だからどうしてもたこつぼ型になるので、なるべくたこつぼ型にならないように横の連携をつけて、少しきちんと社会的なアカウンタビリティみたいなのを作っていく。その方がいいのではないか。社会科学は、全体として社会的なアカウンタビリティがないのではないかという議論もあるので、自戒として反省はしているが、全部が全部そうではないと思う。
【委員、科学官】
全体として、議論をどのあたりに持っていけばいいかということを考えると、日本の人文・社会科学全体のことを考えて、何とかすることを考えるべきなのか、何か政策的に今は行き詰まっているところをどうにかすべき突破口を開く幾つかの論点で議論した方がいいのかということになる。人文・社会科学全体を何とかするという話はもっと大規模な話で、例えば、今の大学評価学位授与機構の評価点検を受けているプロセスの中で、具体的にどうやって発信しているかというのから始まって、どのように社会貢献しているか等、みんなチェックされている。そういう形で今、日本全体が開かれつつある。大学というこれまで比較的閉じられていたものがどんどん開かれていっている。
もっとそこを進めるためにはどうするかということまでこの委員会で考えるのは、多少任が重過ぎるのではないかという気がする。
【委員、科学官】
他に考える場がないとすると、荷が重くても、少し時間をかけても、いろいろな人にもっと参加してもらっても、長期的には取り組んでいったらいいと思う。短期的に拙速な答えを出すことはないと思うが、そういうマンデートは持っていてもいいと思う。
【委員、科学官】
人文・社会科学全体をどうやって活性化していくかは当然議論しなくてはいけないことだが、一方では当面取り組まなくてはいけない問題がある。例えば、科学技術の負の側面ということから起こってきている問題等が指摘されているが、科学技術に限らず、この社会に生じてきている非常に重要な問題がある。もう少し深くいろいろな面から人文・社会的な研究を積み上げていかなくてはいけないような問題があると思うが、そのようなことはかなり急いでやらなくてはいけない。
また、大学院学生を育てるという意味での教育システムの問題がある。ある種の科学的な教育システムの確立という部分があるのではないか。そのようなことをあまりにも無視したために、すっと進んでもいいところが進んでいないという面もあるのではないか。
【委員、科学官】
今の意見に賛成である。今すぐ手を打っておかなくてはならないことがある一方、先ほどの表現型の話はかなり基本的な話である。それはもう少し中長期的に考えたほうがいいが、それも言及したほうがいいと思う。
資料3に書いてあるのは、「研究体制のレビューを踏まえた研究組織の見直し等」となっているが、これよりももっと基本的な問題をこの中に取り込んでいって、今後、人文・社会科学というのはどのようにしていかなくてはいけないのかという提言まで含めたほうがいいと思う。しかし、それは中長期ということで、当面の間は何をどうしなければならないのか考えることが必要だ。
【委員、科学官】
例えば、資料5の7ページにある中核的研究拠点形成プログラムの一番上に京都大学が複雑系経済システム研究拠点を作ったとある。これがいい成果を上げたとして、それが経済政策に反映するのかというと、多分、今の社会体制に反映しない。つまり、せっかく上げた成果を社会がどう生かすのか、社会側にも少し注文していく必要があるのではないか。
だから、例えばクローン人間の話であれば、今はクローン法ができたが、社会はクローン研究の成果をちゃんと生かしてくださいということを入れていかないといけない。
どのように役に立つのかと訊かれるのと同時に、どうやって役立てるのかと社会にも問いかけたいところが実はある。そこのシステムがうまく機能していないと、せっかく研究しても意味がない。これは中長期の問題かもしれないが、短期的にもあるかもしれない。例の子供たちの問題等は集中的に研究した方がいいが、それで終わりではしようがないので、それはどこかで反映されていかないといけない。
【委員、科学官】
最近、人文・社会系はペンと紙だけあればいいという時代からだんだん離れて、かなり装置性のあるものになってきている。自然科学系の実験装置とは大分違うが、表現というか、いろいろな文字の意味等のプレゼンテーションを社会的にする時に装置があったほうが望ましい。ソーシャルエンジニアリングという流れはあるが、もう少し表現型の装置性とか、そこの議論をこれからもしたほうがいいと思う。
つまり、みんなが使えて、それに対する表現をどうするかというプロジェクトもあっていいのではないか。そういうものがないために、たこつぼからみんな出ろと言われ、また表現しろと言われても、時間もそもそもないわけだから、みんなシュリンクして育っていかない。だから、もう少しそのような中間の支援マネージメントみたいなものが必要だと思う。
【委員、科学官】
どのように表現するかだけではなくて、データを集積して、みんなが使えるようにするためのデータベースの構築をもっと行わなければならない。外国に調査に行くと、文字等のデータが非常に整備されていて、探す努力がない。日本で例えば、歴史の研究を行う時には、まず資料がどこにあるか探し回ることから始めて、それに相当時間をとられる。うまくぶつかればいいけれども、空振りでだめな場合もある。データをきちんと集めて、それをどこかでストックしてみんなで使えるという基盤整備があると、制約された時間の中で非常に効率的に研究ができるようになる。情報基盤の整備はまだまだ国際的に見ると日本は遅れている。そのあたりを整備するということも大事ではないだろうか。
【委員、科学官】
その点では本当に著しく遅れている。それから、非常に悲しいことに、日本マークで書誌を作れない。みんなLC(ライブラリー・オブ・コングレス)でちゃんと整理されたのをもらってきて、書誌を作っている。アジアの文献は、日本の方がはるかに整理する能力を持っているから、日本で処理すべきだと思うが、それも全然できない。オリジナルのデータベースをつくる、もう1つ前の書誌のレベルでさえできてない。
【委員、科学官】
図書館長に就任して4年目だが、文部省の時代から今の問題はかなり一生懸命取り組んでいるが、なかなか実現までこぎつけられない。金額的には日本全国で40億円から50億円ぐらいあれば、国立に関しては済む。一度整備すればどこからでも見られるので、格段に研究や教育が進んでいくと思う。
いわゆる図書館の電子化は、もっと前にやっておかなくてはいけなかった。本当はバブルのころが一番チャンスだった。
【委員、科学官】
科学技術基本計画の中でも知的基盤というのがかなり大きく取り上げられている。人文・社会科学における知的基盤は何かというのを改めて検討して、これを知的基盤として日本は整備するべきだということを取り上げると、今の時代は随分通りやすい状況になっていると思う。
【委員、科学官】
自然科学系でももちろんデータベースは非常に大切である。今はインターネットのアクセスも使うので、情報源がどれぐらい整備されているかが学会の死命を制するような状態になってきている。40〜50億円でできるなら、人文・社会系は絶対ここで頑張るべきだ。
ただ、システムのハードウエアの他に、専門分野のことが分かり、コンピューターワーク、ソフトウエアデベロップメントができるポスドクレベルの人をデータベース構築の基本期間雇い上げられるようなシステムもつけて予算要求する必要がある。
【委員、科学官】
40〜50億円というのは、古い本を全部遡及入力しての話である。新しいものは全部自動的に入っている。古いところをどうするか。人文・社会系の貴重な書籍は大体が古く、これの所在が分かることが非常に大事である。例えば、東京大学に出かけていって初めてないと知るのではなくて、行く前にどこからでもその所在だけはわかれば、研究が格段に進んでいく。
人件費の問題は、文部科学省だけにお願いしてもなかなか進まない。九州大学では、問題の重要性を学内的に認識させて、年間6,000万円、5年間で整備することにした。残っていたのは約160万冊で、初年度30万冊整備することにはなっているが、ただ大学で行うと、外から経費を調達できないのかと相当言われる。だから、ある程度大学もやるが、国としてもやる。一回入力すると、検索する格好でそれを使えるので、よそが非常に楽になる。
一番進んでいるのは北海道大学だが、個体でそのようなことを行っていくと、それぞれ特徴のあるところで入力される。例えば、東京外国語大学でやれば、ほとんどのそういったものは片づくと思う。
【委員、科学官】
だから、一方でインターライブラリーローン(ILL)で、ライブラリー間ではローンで本が動く。そのシステムはあるが、どこに何があるかというのが見えないから、このシステムは一方でできているのに、まだこちらは見られないということで機能しない。
【委員、科学官】
ILLの問題は北海道大学が進んでいるから、よそから見られる。だから、北海道大学に集中する。
【委員、科学官】
実はその問題は別のところにあって、それは日本語やアルファベットで書かれた本はいいが、それ以外の別の文字、例えばインド系の文字や東南アジアにあるような文字、これを一体どうするのか。
【委員、科学官】
今私どもも図書館で何とかそれを整備させてほしいと思っている。つまり、司書にしても学生にしても専門家がいるところでやらないとだめだということである。入力が間違っているかどうかチェックができなくてはいけないから、専門家がいるところがやるのが一番経費がかからずに済む。何とか整備させてほしいと思うのだが、動かない。これから人文・社会科学系の知的基盤をつくるというのを正面から取り組まないといけない。
【委員、科学官】
例えば、日本語でも英語でも一応世界標準がある。少数言語の国際標準は、コンピューター化しようとした途端に標準の問題が起こってきて、下手にやれば全部が相互乗り入れができないという格好になるが、標準の問題はどうなのか。
【委員、科学官】
いいシステムを作ったところが勝ちで、みんなそれに真似をする。
【委員、科学官】
デファクトを少なくともある時期、インターナショナルの標準と認める期間ぐらいはないといけないのではないか。
【委員、科学官】
それは事実上無理である。どこが整備しても、音声学上おかしい等の問題が出てくる。今、LC方式はビルマ関係の先生たちが猛反対で、それは通らない。しかし、一旦作成すると、相互の間のずれを修正するソフトはできるので、入れてあるのと入れてないのでは大違いということになる。
【委員、科学官】
もちろんそうだが、下手をするとそれは大変な障害になりかねない。
【委員、科学官】
でも、そうしているといつまでも入らない。今はかなり大きいのは動いている。
【委員、科学官】
国立情報学研究所と国立大学図書館協議会に特別な委員会があって、多言語問題というのに取り組んでいる。それから、少数なものに関しては、例えば九州大学ではイメージをそのまま使っている。数はそれほど多くないと思うので、それは多分やっていけると思う。できることは、どんどんしなくてはいけない。
【委員、科学官】
つまり、ある字があって、それに対応する001100とかいうのがある。そこの関係がしっかりしてさえいれば、これはすぐアルファベットにも日本語にでもなる。しかし、字と機械語との対応関係がばらばらだったり、ソフトウエアが違ったりすれば、それは全然使えないということになる。
【委員、科学官】
閉じたところでちゃんと対応関係がついてさえすれば、なんとかなると思う。
【委員、科学官】
例えば、ドイツが行っているネパール語の研究でそれをコンピュータ化した場合と、日本が行っているネパールの研究をコンピュータ化した場合に機械の文字が一緒じゃないといけない。そのような事態はしようがないと言うのか、それともインターナショナルな知的基盤としてそういう活動を行っていこうとするのか。やらないほうがいいならやらなくていい。
【委員、科学官】
これは大変面倒な話で、その研究もあちこちで行っていて、民族学博物館でも非ローマン文字の処理をどうするかという研究はだれでも行っている。アジア・アフリカ言語文化研究所からも大分力を借りている。いろいろなことを行っているが、いまだにうまくいってない。しかし、韓国でもコンピュータ化をしているし、アラブ語はアラブで行っている。それをどのように標準化するのかという話をこの前聞いたが、これは大変だなという印象だった。
しかし、このとき重要なのは、文字を読める人をどうやって雇うのかということである。人件費がなかなかうまく調達できない。これは読める人がいないと、入力も何もあったものじゃない。
【委員、科学官】
今後の議論の方向性としては、大きく分ければ、当面取り組まなければならない問題をどう整理して考えていくかということと、根源的な中長期的問題についても他に考える場がないとすれば、ここで本格的に取り組まなければならないということである。
まずは、当面取り組まなければならない問題から入っていき、しかも焦点を絞って話し合っていくのがよいのではないか。
【委員、科学官】
それでいいと思う。今回あまり触れられなかった問題で、人材育成のことがあると思うが、大学、特に大学院レベルでのクリエイティブな仕事をしていける人材の育成が大事だと思う。これは当面の問題だと思うが、大学院の重点化や法人化等いろいろなことで大学にフレキシビリティが出てきており、そのような中でこれから重要になる問題を担う人材をどう育てていけるのか、今のシステムでいいのかということである。
【委員、科学官】
賛成である。というのは、人文・社会系はたこつぼ型だから、人材教育もたこつぼという自然科学系と全然違う世界がある。特に若い世代を考えると、それは直していかないといけない。
【委員、科学官】
人文・社会系と自然科学系では、研究の仕方そのものに違いがある。自然科学系は、共同研究という形が比較的多い。だから、大学院のドクターまでいけば、共同研究の戦力になるというスタイルがあると思う。また、自然科学系は、その中で1つの部分を研究しながら、ドクター論文を書くことは可能だが、人文・社会系は、小経営というか、独立自営みたいな形でみんなばらばらに研究しているので、難しい。更に、先生たちは研究者を育てるに当たっては、相手に応じて自分も勉強しながら教えているので、5人、10人、20人となってくれば大変である。今の教育システムでは、大学院生はだんだん増える一方で、しかも先生たちの体制もうまく整えられていない。大学院生の育て方には相当問題が出てきている。
(研究振興局振興企画課)