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科学技術・学術審議会学術分科会

2003年7月17日 議事録
科学技術・学術審議会  学術分科会  基本問題特別委員会(第16回)議事録

科学技術・学術審議会   学術分科会
基本問題特別委員会(第16回)議事録


1.日   時   平成15年   7月17日(木)   10:00〜13:00

2.場   所   三田共用会議所   C、D、E会議室

3.出席者   阿部総合科学技術会議議員、小林会長代理
(委   員)   小平主査、伊賀委員、池端委員、石井委員、磯貝委員、小幡委員、川村委員、郷委員、白井委員、戸塚委員
  (科学官)   勝木科学官、寺西科学官、西尾科学官
  (事務局)   結城官房長、石川研究振興局長、林科学技術・学術政策局長、井上科学技術・学術政策局次長、坂田大臣官房審議官、丸山研究振興局担当審議官、藤木開発企画課長、川原田振興企画課長、他関係官

4.議   事
(1) 学術研究体制の在り方について−議論の整理について−
   資料2−1「今後の学術研究体制の在り方についての議論の整理」、資料2−2「学術研究とは、もし学術研究が存在しなければ(基本問題特別委員会作業グループにおける主な意見)」に基づき、事務局及び石井主査代理より説明の後、意見交換が行われた。

    ( ○・・・議員、委員、科学官      △・・・事務局の発言 )

   基礎研究あるいは学術研究は、すぐには役に立たないものだという風潮は非常に危険であるということがベースにある。分類が大事なわけではないが、「発見/理解の学術」とは、例えば、望遠鏡で宇宙の果てまで見てみようというようなことであり、「創造的学術」とは、工学部の大部分が入るが、何かを創っていこうというものであり、経済効果が出てくる分野でもある。また、文学の世界は創造的学術だが、これは経済とは無関係な創造的行為である。それから、「社会安定化学術」とは、医学、農学、法律学など、仕組みをきちんとしたり、我々が生活して生きていくための支えをなすものと言える。このように見ると、それぞれに基礎もあれば、最初から応用を目指しているものもある。
   したがって、ここにおられる方々は、大体成功している方々が集まっているわけだが、もとはというと研究の初期段階では怪しげだったわけで、それを思い出して許容するような施策をしていかないと、長期的に問題があるのではないだろうか。
   もし学術研究がなければ大学は存在しないかもしれないが、学術研究は即、大学での研究、あるいは大学においての研究は即、学術研究なのかというと少し違いがあるかもしれない。例えば、科学研究費補助金制度は、国公私立大学の所属者だけでなく、民間でも非常に学術的な研究のみをやっている研究集団なら、応募が可能な部分もある。
   学術研究というものの意味が、時代を追って変わってきていると思う。そういう意味で、21世紀初頭の現時点で学術研究をどう考えるかという視点が必要なのではないか。例えば、工学や経済学などは、もともとその学問が実用的であるが、数学や哲学、宗教学はほとんど役に立たない教養としてのものだったが、実学として様々なものが出てきた中の一環にあると言える。そういう意味で、学術を実際の生活や社会の有用性という視点で判断し始めたのは最近のことである。そのような中で、人間の知性と技術を必要なものだと考える動きが出てきたわけだが、本当に役に立つことだけが意味があるのかということが今問われている。我々は今後の学問を、あるいはこの学術研究をどう考えるのかという視点が必要である。
   すべての大学の使命が学術研究を推進するべきものとして考えられるのか、あるいはすべての大学ではなく、大学の一部が学術研究を推進する機関として考えられるのか、という議論が大事ではないか。多様性や個々人の内発的な想像力に基づく自由さといったものがすべての大学に共通的に求められる根幹となるものであるとすれば、法人化等における評価において、そういうものを重視した評価が必要になる。
   学術研究と教育がどのような関係にあるのかということが、資源配分を行う上でも、重要な問題である。教育が即、学術研究を包括するものならば、そういう形で資源配分していかなければならない。おそらくこれまでは、教育が学術研究を包含しているということであり、そういう形で研究費などの資源配分がなされてきた。しかし、その大前提が成り立たなくなっている、もしくは再検討するよう大学に突きつけられているように感じる。
   先ほど法学が歴史的に体系化されてくる過程の説明があったが、それは大学のような機関に学術がある時期、収れんして高度化した過程があった。ところが、21世紀の今日においては、必ずしも学術が大学に収れんするものではないという時期を迎えているのではないか。学術研究を進めていくためのデータベースなどの基礎的な研究基盤が組織的にかなりの程度整備されてくると、外側からも自由にアクセスができ、個人が自発性に基づいて研究をしようとすればそれなりにやっていけるようになる。また、公開制で質が検討されるようになったことで、学会でも個人で属する方が相当ふえてきており、個人で資料や研究の場にアクセスできた方々が、その成果を公開の場で評価されるという道も開けつつある。今や学術研究と大学を必ずしも結ぶことは難しくなり、民間の研究や私人の研究のようなものをどう考えていくのかが難しくなっている状況なのではないだろうか。
   大学と学術が完全に重なり合っているという認識を、作業グループが一致して持っていたわけではない。そういう印象を与えたとすれば、その誤解は解いておきたい。
   ヨーロッパに大学が設立された当初の法学と医学は、まさに実学であった。しかし、人文主義や知的営為の自律的な運動により知の世界を切り開いていこうという運動が展開するとともに、直接役に立つことを目指さないものが大学の中で育ってきた。非常に象徴的なのは博士号であり、法学博士と医学博士以外はすべて哲学(PhD)である。博士号のタイトルそのものが学問と大学における研究の歴史をそのまま表現している。
   そもそも大学は社会的な制度であり、学問的な研究や科学技術の研究開発などの知的な活動をどのような社会的制度の中で行うかというところで関係してくる。大学は採算が取れるはずのない仕事をするところであり、王権のようなパトロンを必要としたし、今でもパトロンないしスポンサーが必要である。そのスポンサーの意向など外からの要請は従来から常にあったことであり、今になって初めて世の中との接点が出てきたり、実学性が要求されてきたわけではない。昔は王権がパトロンだった。今は国家がその役割を果たしている。私立大学が盛んなアメリカでも、連邦や州からの支援がなければ大学として成り立たない。そういうパトロンないしスポンサーとの間で、常に緊張関係というのは存在する。パトロンやスポンサーの要請の中身は時代とともに変化しているが、実学への要請は常にあり、大学と学術が完全に重なり合ういうことは一度もなかったし、これからもないはずである。ただし、ヨーロッパの中世以来の大学がなかったら、学術研究は出てこなかっただろうということは確かである。そこが非常におもしろいところであり、人間の知的活動の自律性が保障されることの重要性を認識しなければならない。
   これから社会的な制度として大学をどうするのか、大学へのファンディングをどうするか、あるいは、大学へのファンディングの在り方をどう考えるべきなのか、学術研究と科学技術のバランスをしっかりとるためのファンディングをどう考えるべきかなど様々な切り口があるが、1つ1つ次元は違う話であり、大学を純粋培養的に無垢の学問の府として考えると、かえってわかりにくくなるのではないか。
   国立大学を法人化しても、例えば、私立大学を民間の立場とすると、基本的に民間でできることは民間ですべきだと思う。国立大学のレベルや全体的な学術レベルを下げることにもなりかねない。例えば、国立大学が、産学連携はまだしもビジネススクールなどの市場に参入してくると、国立大学の存在意義が怪しくなる。国の形として、基礎研究や学術研究を国立大学が担うなら、しっかりその部分を育てていかなければいけない。基礎研究をやっているところにだれが研究費を出すかというファンディングはないし、授業料でやるわけにはいかないので、結局、国の予算でやるしかない。しかし、法人化後は国立大学もとにかく外部資金を取ってこなければいけないとなると、資金を取れることしかできなくなる。結局、国の予算もある程度は使わざるを得ない。これまで学術研究に配分されていた予算が民間でもできる分野に回ると、何年か先に基礎研究は全体的に薄められてしまうだろう。
   今後の国のファンディングをどのようにやっていくかということを、学術研究としっかり結びつけておかないと、国立大学の資金の回し方はいつまでも明確になってこない。文部科学省がしっかりポリシーを持ってやっていただかないと、本来の学術研究のレベルも下がってしまう。基本的に学術研究のレベルは、ある程度国として高くなければいけないので、この部分は絶対投資をして、学術的なものを担うセクターがしっかりやっていかなければいけない。
   市民を教育する教育者は、学術研究の知の伝承者として資格を修得した人でないと教えられないが、育ってくる学生は必ずしも研究者になるわけではない。現在の大学は、このような一般市民を育てるレベルの高等教育を担う大学から、国の予算を投資して支えるべき学術研究を担う大学まで非常に幅広い。ここでは、今後の学術研究体制の在り方ということがテーマであるので、国が予算を出してでも学術研究を担える大学を念頭に置くべきである。
   国が予算を出してまで大学を維持するのは、大学にある種の有用性を見出したからであり、近代になってからは、大学に学術研究者を集めて国に有用な使命を担わせた。先ほどの分析では、国にとって実益のある研究や知の伝承、蓄積、体系化を大学に担わせて、それに対して国が予算を出したということである。しかし、そこに学術研究者が集まってやっていく中で、個別性や多様性を持ってオープンに議論し、新しい知を創出するという他の研究スタイルに見られない学術研究の本質的な部分も生じてきた。しかし、近代の社会と大学、国家と大学という中では、それはむしろ許容されてきた副産物的な側面もあったのではないだろうか。異論があるかもしれないが、日本は追いつけ追い越せ時代から抜け出したが、経済的にGDPがどんどん膨らむわけではない21世紀のこの時代に、社会と大学の関係も変わりつつあり、これまでのような部分は圧縮されるべきなのか、あるいは新しい国家的な使命を担ってしっかりと予算配分されるべきなのかという観点が出てくるかと思う。
   学術研究とは、そもそも知的好奇心を探求するという人間存在の根源的な活動であると言える。運動能力を極限まで発揮するのも人間の根源的活動であるし、いかにすばらしい美の表現をするかというのも人間の根源的活動であると言える。そのことを基本にして、学術研究を社会的にどう受けとめるのかというときに、これまでは大学が知的な好奇心の受け皿として比較的いい仕組みであり学術研究の担い手であったし、社会的にもそれが許容されてきた。
   しかし、大学という仕組みがユニバーサル化により急激に変貌した今、大学の中にもいろいろな区分ができてきたので、その中のどの部分が担って、どの部分は担わないということも議論せざるを得ないのではないか。どこが担うべきかというときには、国家的な有用性で考えるしかない。昔、王侯貴族が芸術を保護したとき、芸術を純粋に美の探求の一環として保護したのかというと多分そうではない。王侯貴族の社会的なステイタスや政治的なステイタスということが同時に議論としてあったのであり、国家社会が純粋に個人の人間存在の根源的なものを無条件に許容するというふうにはならない。やはり国家的、社会的有用性という議論が出てくるはずである。
   このように考えると、21世紀社会における学術研究体制としては、科学技術が前面に出てきている現在、科学技術と学術研究が有機的な関連を持っている部分を担える大学が存在する場合には、そのような大学を重点的に支援するべきではないか。学術研究の担い手は社会的に非常に拡散しているので、大学だけでなく民間企業のある部分などもうまく取り込み、国家的、社会的な有用性を担い得るならば、そこにも恐れず大胆に支援していくべきではないか。最も重要なのは、それを見分けるための判断の基準をどうすればいいのかということである。それが、21世紀の学術の振興を図る上での基本になるのではないか。
   学術研究にしても、教育にしても、軍備予算と同様コストを全然考えないことが重要な要素になっていると思う。例えば、軍備をするときに、敵国に対して明らかに劣る兵器を自国にとっては進歩であるからといって研究したりしない。相手を倒すためには、費用がいくらかかろうとも相手を上回るものを研究しようとする。医療についても、おそらく費用をあまり考えない。学術研究もそのような側面が属性としてあるように思う。教育もそうだが、それが大学の本質的な一部だとすると、大学改革の中でコスト意識を持つように求められているが、何に対してコスト意識を持つべきであり、何に対してはコストを離れて考えるべきかということを一度考えなければいけない。
   教育の場合、単に学生教育だけではなく研究者として自立していくことを含めた人材養成と考えると、学術研究が研究者に担われるということは、つまりその人が知的作業をして知識を積み上げ、知識を生産していくので、その人も育っていくということと同義であると考えられる。学術研究は、人を離れては存在しない。そういう人材の集団を、どのように集めるかということが大学の役割の大きな部分である。
   学術研究が、そもそも存在しないという状態から考えることはできない。しかし、学術研究が阻害された時期というのは、日本にもあるし世界にもたくさんある。旧ソ連では、生物学の分野でルイセンコという人が自然の法則に異なる法則を出し、データを集めて体系化し、遺伝学研究所を潰した。現在のロシアの分子生物学が遅れているのは、そこに端を発していると思われる。多様性を排して1つのものに収れんするという、学術研究の最も個性としている多様性が阻害されたのである。それを跳ね除ける制度が存在するとすれば、それは大学ではないだろうか。現代でもそのことが基本にあることが、大学の健全な発展であり、知的存在感のある国ということである。
   学術研究とは、科学技術研究をサポートし、文明を発展させるものであり、また文化を支えるものである。現在の国の状況から、科学技術研究を支えるものとしての学術研究だけを発展させ、人を育てて文化を支えるものとしての学術研究を発展させる観点が落ちてしまうと、学術研究は単なる科学技術研究の下請けのような格好になり、片肺飛行になってしまい、まずいのではないか。
   大学の1つの機能として、教育は大変重要である。科学技術研究から教育ができないわけではないが、大学の教育は学術研究を通しての教育であり、その教育により育つ将来の文化の担い手や科学技術の担い手そのものがまさに文化であり、その部分はしっかりサポートしなければならない。
   国が資源を投じてでも育てていくということを考えた場合に、組織や制度的なものと人の部分とは、整理して考えたほうがいいのではないか。つまり、人文・社会科学を考えると、ある組織や制度で学問分野の全体をカバーできるとは到底考えられず、教育を重点的にするようなところでも、教育に従事すると同時に研究者であるという部分を抱え込んでおかなければ、ある領域を十分に発展させることは不可能である。そうすると、そのような研究者や個別の研究をサポートしていく仕組みを充実させていかなければいけない。今日であれば、科学研究費補助金制度が該当すると思われるが、制度的なものと研究者、あるいは個別の研究をどう育てていくかという2つの仕組みを同時にダイナミックに考えていく必要がある。

(2)    ビッグサイエンスの推進について
   資料3−1「ビッグサイエンスの推進に関する意見の概要」、資料3−2「基礎的な研究開発におけるビッグサイエンスとスモールサイエンスの予算額の推移」、資料3−3「基礎的な研究開発におけるビッグサイエンスとスモールサイエンスについて(説明)」、資料3−4「特定研究領域に関するこれまでの審議体制について」に基づき、事務局より説明の後、意見交換が行われた。

   ビッグサイエンスには、今後2つの推進の方向があるのではないだろうか。1つは効率化の観点から研究内容を多目的化する方向と、もう1つは一国では済まないので全世界的な国際的共同でやる必要性が生じるという方向である。
   多目的という面で具体例を言えば、加速器分野は、素粒子、原子核研究のみならず、物質構造、生命科学で応用されている。将来的には核破砕による核廃棄物の消去まで応用が可能ではないかということを考えたとき、それを包括して審議できる審議会等があってもいいのではないか。また国際性という面で、ITERと同様のビッグサイエンスがこれからも出てくる可能性があるとき、我が国として国際的な委員会に参加できるような積極性をぜひ持っていただきたい。
   国際的な委員会に積極的に我が国から出ていくという観点は、科学技術・学術審議会国際化推進委員会においても、従来よりも積極的に国際的な委員会に参加して、早い時点で対応ができるような施策を考えるべきだという議論がされている。もう1点の指摘は、大きな集中的資源投資をするのだからプロジェクトは集中的であるが、直接的あるいは間接的に広い範囲のユーザーやニーズに応えるようなプロジェクトという観点で考えるべきだということである。
   学術研究には人材を育てるということが内在されていて、非常に重要な要素になっている。そのことを考慮いただき、ビッグサイエンスを推進するにあたっても人を育てるプロジェクト、多くの人々がそこに参加し、その人々がそのプロジェクトに参加した後、様々な分野で活躍するであろうビッグサイエンスについて特に配慮いただきたい。
   ITERや国際宇宙ステーションなどの国際的なプロジェクトは、大変費用がかかる。国際的なプロジェクトに参加していくことは大事なことであるが、他国の対応をみてみると、状況が変化したのでプロジェクトから下りるということが割とある。日本の場合は、一度決定すると国際的な約束でもあるので、過程のプロセスでの検討は行うが、比較的そのまま誠実に実行する傾向があるのではないか。
   多額の予算をかけビッグサイエンスを推進していく上で、民間活用によるコスト削減など1つ1つのプロジェクトにおいて効率性を追求していくことも大事であるが、国として何を選択し、どういう優先順位で、どのように予算配分を行うかということについて、もう少し国民にアピールし、常に理解を求めていくことが必要である。
   国民に理解を求めるには、国民に対するPRやアカウンタビリティー(説明責任)という両面の観点から、制度を整備し決定過程の透明性を高める必要があるということである。
   国際協調のビックプロジェクトにしても日本が独自に発想してやるものにしても、評価の1つの軸として、世界中からその分野に関心が集まり、トップの人が参加を希望するレベルのプロジェクトであるかどうかということがあげられる。トップクラスの人達が集まってくるならば、これは国として誇るべき研究である。
   また、国内においても人の面での開放性を高め、若い人たちに、どのような機関において、どのような教育や訓練を受ければプロジェクトに参加できるのかという道筋をもう少し示していって欲しい。先程の国民の理解を求めることにも通じるが、実際にプロジェクトに参加していきたいという若い人達にいろいろなことを見せていくことも1つの広がりをつくっていくことだと思う。
   もう1つの重要な観点として、産業にどのような波及効果が見られるのかということである。公共工事ではないが、一種の公共事業のようなところもある。そのように考えれば、学術的な意味とは異なるが、ビッグプロジェクトに税金が費やされても何ら不思議がない。ここで見るビッグサイエンスの予算額は、直感的には非常に低いと思う。日本ならば、もう少しビッグサイエンスに明確なものを定め、より多くの予算が配分されて当然ではないのか。直感的に、何か根拠があって言っているわけではないが、あまりにも低いという感じがする。国民にプラスの波及効果があることをもっと理解してもらえるようにしなければいけない。
   ビッグサイエンスの意義として、国際協調、日本の独自性、技術安全保障と記載されているが、これらは必ずしもビッグサイエンスだけの意義ではなくスモールサイエンスも同じような意義を持っている。だから、ビッグサイエンスということを言って、本当に理解が得られるのかどうか大変疑問である。
   また、国際協調として一旦サイエンスが始動すると予算を出すのは仕方がない面が出てくる。では、いつ止めるのか。小さいときはよくわかるのだが、大きな予算になると逆にあいまいになる。大きくなると非常に漠然としているので、何をどこまでやれば到達できたと見なせるかが非常にあいまいになってしまう。だから、どこまでを目標にして、どれだけのことをして止めるのかを最初から明確にしておくべきではないか。評価とは別に、そういう決断をすることを最初に決めておくことで理解が得られる面があるのではないか。
   先行きも見据えて推進する必要があるという指摘である。先程の決定過程の指摘と合わせて、トップランナーに踊り出た日本が、今後国際的な場でどう立ち振る舞うかということで問われる大切な要素であり、特にビッグサイエンスになるとそのような側面が強くなる。
   国際性に関連して少し補足させていただきたい。国際といっても、当該グループがリーダーシップをとらない限り意味がない。先程意見のあった国際的に人が集まるかとどうかという点においては、自然に集まるというのが我々の経験であり、例えば現在建設中の日本における加速器においては、公募研究を公募すると3分の1が日本、3分の1が北アメリカ、3分の1がヨーロッパとほぼ完全に国際化された募集がある。完全な国際化だといっても、その中でリーダーシップを発揮できるかどうかということが一番の鍵ではないかと考えている。
   国際協調の中でリーダーシップをとるというのは、日本の独自性のあらわれだと思うが、日本の大学発のビッグサイエンスの場合には、いずれもそういう性質を持っており、そのユーザーは国際的にアプリケーションを出していただくと、外国から押しかけてくるという状況にある例が多いのではないか。
   ビッグサイエンスとスモールサイエンスと分けて議論するのは難しい。ビッグサイエンスを今の観点でさらに推進していただくのは、スモールサイエンスに身を置く人間としても大いに賛成だが、これから大学等が独立の法人格を持ち評価と資源配分によって各大学等が個別化されていく中で、共同研究や共同利用は明示的な制度のもとで、積極的にやらない限りどうしても現在の体制から抜け落ちてしまう。生物学のようなスモールサイエンスであっても現在は国内外に多くの人材が散らばっているので、場合によっては国際的に集まり共同研究をし、特殊な装置を世界で共有している。基礎生物学研究所にもそのような機械が1台あり、小さいけれども非常に大事だと考えている。現在の枠組みならば、研究者コミュニティーを集めて研究することができるが、今後予算配置が法人を通して行われるようになれば、そこからこぼれ落ちるものが出てくる。その中で極めて重要なものについては、しっかりと枠組みをつくっておく必要がある。
   したがって、ビッグサイエンス、スモールサイエンスというよりは、むしろ個々の法人の利害を離れてやらなくてはいけない共同利用や共同研究という枠組みをしっかり持ち、うまく工夫して、そういうことを討議できる場を設けることが必要である。
   科学、技術、学術とあったが、それは上流か下流かというと、上流に学術があり、科学があって、技術があって、次に商品やサービスという感じで受けとっている。またビッグサイエンスやプロジェクトを上流下流ということで言えば、サイエンスのほうが学術よりビジブルになっているし、テクノロジーはもっとビジブルになっている。
   特にビッグサイエンスの推進の在り方については、国民の支持を得るため我々としてはレビューをしなければいけないが、一口で言えば、かなり大きな予算を最終的には国際競争力を高めるために使っているということである。場合によるとビッグサイエンスやビッグプロジェクトは、純民政の分野ばかりではなく、安全保障にも絡まる分野に深く関係してくるものがある。具体的な問題として、日本として万全な体制を整えても、実際に国際市場へ出ていったときに国際政治の現実の中で、それを我々が思うように進めていくためにはどうしたらいいのかということもビッグについてはかなりしっかりしておかないと、結論から言えばかなりアンフェアだという状況になりかねない。
   民間企業の研究者の方々が主だったが、アメリカの一国主義が非常に強化された新しいグローバル環境の中で、一体企業経営はどうあるべきかという問題提起がなされた。企業経営レベルでもIPや特許制度の問題などがある。ビッグサイエンスやビッグテクノロジーは、そういうものが総合されたものなので、非常に大きな問題がある。かつての航空機開発など日米で行われた議論を見ていると、国家的な利害のぶつかり合いはきわめて赤裸々であり、国際的なルールづくりの場に日本がどれだけ参画していけるかが非常に重要である。プロジェクトそのもののリーダーシップもあるが、やはり基本的なルールづくりの場で日本がリーダーシップをとれるようになっていないと、現実的にせっかくのビッグサイエンスもビッグテクノロジーもなかなか進まないということがあり得る。全部がそうだとは思わないし、決して改めてテクノ・ナショナリズムを推進するつもりはないが、現実は国家的な利害がぶつかり合っている世界なので、それをどのように考えていったらいいのかを考える必要がある。
   ビッグなものについて、グローバル・サイエンス・フォーラムなど国際的な場で議論したり、ルールづくりというレベルで日本がきちんと対応できることは大変重要なことである。また、先程から出ている審議体制に関しては、以前の学術審議会のときに比べて現行の科学技術・学術審議会は所帯が大きく、試行的に今の体制で第2期を迎えているが、審議体制の見直しを検討する必要があるかもしれない。
   ビッグの関連予算は増やしたほうがいいが、スモールサイエンス等の予算を削って増やすのは望ましくなく、学術研究に対する全体の予算をもう少し増やすべきである。GDP比を見ても、そういう意見は非常に強い。今の時代は、スモールサイエンス的なカテゴリー分類の方が生活や産業に密着しているところが多く、ニーズも高まっていることは事実であり、重要性が増していて効果も高い。また、人類にとって科学的に非常に重要な意味を持っている分野であれば、一般にもその重要性の理解を求め、科学的な関心を引きつけておかなければ社会的に非常に危険である。
   ビッグが全体の1割から1割5分を占める現在のレベルでいいのではないか。ただ、日本がトップランナーに躍り出て世界のリーダーシップを問われたり、国際貢献をするという情勢の変化に対応して、GDP比例で俯瞰して考えても全体的な底上げによりもっと増えてもいいのではないかという結論と思われる。
   現在の額が多いか少ないかということは、一概に言いにくい。問題は、金額や割合よりも、その背後にある決定の仕組みであり、結果として出てくる数字の前にある構造あるいはその数字を生み出す構造についてまず考えなければならないのではないか。
   ビッグサイエンスの例としてここに挙がっているものの3分の2位は、大学共同利用機関を中心に行われてきたもので、想像するに、国立学校特別会計にビッグサイエンスの為にある程度の枠がとってあり、それを担当課のほうで非常にうまく配分し、その苦心の結果、800億から900億位でずっと安定した形をとってきているのではないか。これは、一方から見ると非常によく努力していただいたというふうに思うが、巨視的に見るともっと増えてもいいのではないかという見方にもなる。やはり、決定までの構造に関する問題を念頭に置いておかなければならない。
   資料3−2の「その他の主な大規模プロジェクト」についても、各プロジェクトのピーク時には、この何百倍もの予算が必要となるかもしれないし、それぞれが大波小波を打っていくものであり、これが毎年1,100〜1,200億程度で維持されるものなのかどうなのかということも大きな問題である。また、ITERなどの話が出てきたときに、他の国際宇宙ステーションなどとの兼ね合いなど非常に難しい問題がある。そこに国際協調の話が加わるとさらに難しくなる。国際協調は、多くの場合、一国だけではやり切れないので各国で予算を分担するのが1つの理由であり、もう1つは、総合的な科学技術を駆使しなければ一国だけでは成しえないということである。例えばITERなどは、プラズマ理学、工学から炉工学、それを取り巻くさまざまな大きなサイトをつくっていく科学技術であり、JT60やHLDまでは日本独自でできたが、次の段階にいくと国際協調でなければ成しえない。このような理由で始まるので、原理的に非常に削りにくく、途中からクローズするのもなかなか難しい。アメリカが縮小するというのなら、日本も縮小できないだろうかというぐらいの議論しかできないことに、ある種のもどかしさを感じてきた。この問題は、学術の問題の域を越えると言えばそれまでであるが、ビッグサイエンスについては、一口にどうすればいいかということが言いにくく、複雑な構造の問題があると言える。
   国際協調や技術安全保障という立場から我が国が大きなプロジェクトにかかわる場合に、国際的な場でどうするのか、国内でどう決めていくのかということは、予算全体が限られていると、いろいろなところに影響を及ぼす。特にビッグサイエンスという大学共同利用機関などが中心にやってきたものと、その他のビッグとが同じ括りで議論されると非常に大きな影響があり、スモールにまでその影響が及んでしまう結果になる。我々自身がその辺の議論を深め、何が学術研究にかかわるビッグプロジェクトであり、どういうものが学術研究以外のビッグプロジェクトなのか、またそれぞれに対してどういうスタンスで審議が尽くされ配慮がされるべきかということを詰めなければいけない。
   科学技術関係予算は、他の予算と違って例外的に伸ばしていただいているが、増やすのと同時に減らす部分を必ず考えるように総合科学技術会議の外部から強く言われている。欧米と比べてもGDP比で考えると大分追いついてきたが、10年毎のストックで考えると非常に少ない。全体を増やしていくという段階が続いているというのが基本的な認識だが、財政上は様々な制約があり、どこまで伸ばせるのかというのは予断を許さないところである。
   スモールサイエンス、ビッグサイエンスの問題だが、1つは、科学研究費補助金が約半分を占めている競争的研究資金の倍増がうまくいっておらず、このままでは5年間で倍増というのはほとんどあり得ないことになる。871億円というビッグサイエンスの部分が水平であるというのは若干ほっとしているところであるが、実はその他の大規模プロジェクトが問題であり、原子力、宇宙、海洋については、経済財政諮問会議がかなり違う意見を主張しており、大幅な削減を強く言われている。それはともかくとしても減ってきており、それが安全保障や国際競争力の上から本当にいいのかどうかというのは大変問題のあるところである。
   いずれにしても、スモールサイエンスとビッグサイエンスの比というのも大切だが、やはり国際的なリーダーシップや技術安全保障を含む国際競争力の問題等から見て、ビッグサイエンスの中でどこをもっと伸ばしていくのか、あるいはどこを見直すべきかという議論が必要ではないか。スモールとビッグの比較を議論していただく価値はあるが、資源配分にどれだけ説得力のあるものが出てくるか疑問が残る。

(3)    今後の日程
   次回の基本問題特別委員会(第17回)は、委員の日程を調整の上、事務局より連絡することとされた。


(研究振興局振興企画課学術企画室)


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