科学技術・学術審議会学術分科会
2002/04/24 議事録科学技術・学術審議会学術分科会 基本問題特別委員会(第9回)議事録 |
科学技術・学術審議会 学術分科会
基本問題特別委員会(第9回)議事録
1.日時 | 平成14年4月24日(水)10:00〜13:00 |
2.場所 | 文部科学省別館10階第5、6会議室 |
3.出席者 | 小林会長代理 |
(委員) | 末松、大ア、野依、谷口 |
(科学官) | 秋道、井上一、勝木 |
(事務局) | 山元科学技術・学術政策局長、遠藤研究振興局長、井上科学技術・学術政策局次長、坂田研究振興局担当審議官、太田主任学術調査官、泉振興企画課長、他関係官 |
(1) | 学術研究における研究費の在り方について 資料2−1「競争的資金の制度改革について」、資料2−2「競争的資金制度改革プロジェクトについて」、資料2−3「総合科学技術会議における競争的資金制度改革に係る検討と平成15年度概算要求に向けての今後の流れ」、資料3「大学の研究費に関する論点(案)」、資料4「学術研究における研究費の現状に関する資料」、資料5−1「教育研究基盤校費に関する調査結果について」、資料5−2「教育研究基盤校費に関する調査結果(グラフ)」に基づき事務局より説明の後、意見交換が行われた。 資料3「大学の研究費の関する論点(案)」については、本委員会における意見を踏まえ、事務局において論点を整理し、次回の委員会で再度議論することとなった。その内容は以下のとおり。 (○・・・委員、科学官△・・・事務局の発言) |
○ | デュアルサポートシステムというのは英国で使っている言葉だが、どこの国でも、大学、研究機関の基本的な教育研究の経費やランニングコストは、当然手当しているわけで、問題は、現状の額が適正かということだと思う。ここ10年ぐらいは、基盤的経費に当たるものを抑制して、競争的資金を増加してきた。その結果がデータに反映しているわけだが、総合科学技術会議では、施設の老朽化、狭隘化という点は極めて危機的な状況にあるという認識で一致しており、そのための改善が強く推進されれば大変心強い限りだが、それは一つであって、その他の面でも基盤的経費の圧縮の影響は出ている。
私の承知している限りでも、施設のメンテナンス費用は、その費用分では足りなく、基盤的経費を流用しているわけだが、現実に使っている金額は、民間の費用に比べて1桁少ない。それがいわば老朽化を加速させている。足らないものは建てなければならないが、建てるだけではだめで、今ある施設をどうやって大事に、しかも機能的に使うかをもっと考えなければならない。また、これは、最近変わっているかもしれないが、基盤的経費が絞り込まれたために、学術雑誌のバックナンバーも取れなくなったという話もある。まず、現時点での基盤的経費が、大学や研究所のインフラとして適正なのかという議論をまず行うべきであり、それを抜きにして、競争的資金か、基盤的経費かという二者択一的な話は非常におかしい。基盤的経費が現時点の水準で適正かどうかをまず徹底的に調査・検討することが必要だと思う。 |
△ | ここ20年、単価ベースはほとんど据え置かれている。名目で5%程度増えているが、実質ベースは約2割ぐらい目減りしているのが現状である。
私どもとしても、そういう状態について何とかしなければいけないという問題意識は持ってきたが、全体の財政事情、あるいは文部科学省なり、特別会計の予算的な大枠の縛りの中で、なかなかそれを打ち破るほどの説得力のある議論ができてこなかった。 今回、研究経費が実際にどの程度の状態になっているのか実態調査を行ったわけだが、問題は、その11%程度、人社系で10万円弱、理工系でも30万円前後といった額が多いのか少ないのか、あるいは幾らあればいいのかといったことになると、残念ながら、私どもとしても、なかなか財源を持ち合わせていないというのが率直なところではなかろうかと思う。何か御示唆をいただけると大変ありがたい。 |
○ | 絶対額を考えれば、すぐわかる話だと思う。この研究費の黄色い帯で示されているところの絶対額で一体何ができるか。人文社会系で何冊本が買え、工学系で設備なり試薬がどのぐらい買えるかということを考えれば、適正規模かどうか、教育に必要な研究を前提としてやった場合でどうなるかということは、そんなに議論をしなくてもできるのではないかという感じもするが。
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○ | 建物のメンテナンスのことについては、私も大変重大に考えている。やはり新しいものを建てたら、それをメンテナンスして運営していく費用をぜひお願いしたい。特に、私は化学系だが、これからはメンテナンスをきちんとしないと、国際標準化機構(ISO)など様々な問題があり、研究ができなくなる。独法化しても建物のメンテナンスは、基盤経費でしなければいけないのか。建物は建物でどうして一体にならないのか。
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○ | 各所修繕や建物のメンテナンス用ということで使途がはっきりした項目があるが、それだけでは到底足りない。文部科学省の方針としては、基盤校費を使ってやることも含まれているということだが、それを足しても、民間と比べると1桁違うぐらいしか使えていない。だから、建物がまたどんどん劣化していくということのようである。
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○ | やはり教官にとっては、資料5−2の黄色と、灰色の帯のところに関心が一番いき、そこを保持しようとする。だから、建物の費用まで回すというインセンティブがなかなか出てこないのではないかと思う。
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○ | ただいまの意見を伺っていると、もともと絶対額が少ないから、建物までいかないという話のように伺える。もう現実に足りないということが言えると思うが、やはり増やしていただく必要があるのではないか。
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△ | 御指摘の点は、大変ごもっともだと思っている。しかし、教育研究の実態として、具体的にこのような問題があり、これだけの額を確保する必要があるということでないと、建前論としては、建物の保守管理や、あるいはいろいろな研究インフラ施設、例えば、動物実験施設とか機器分析センター等の維持や、光熱水料のコストの係り具合は、各大学ごとに違っており、また、違っていてよい。それぞれの大学が、ここに重点を置くというところにより多くの経費を割くということがあってもよい。そうすると、いろいろな経費に使える塊として大学に渡し、大学の中で使い方を工夫をしていただくほうが、この経費についてはよいだろうから。その中で工夫を求めるという建前論になってしまうわけである。
したがって、我々が今必要なことは、もう少し具体的に、こういう状況の中で、これだけの経費が必要だという議論がないと、今の非常に厳しい予算の枠の中では、ここの部分を増やせと言えば、ほかの部分がへこむということが起きるだけであり、なかなかそれだけでは問題は解決しないという状況にあることは御理解いただければありがたい。 |
○ | 日本の場合、研究大学と教育大学とははっきり分けていないが、一般的には、教育大学的な要素が強い大学の研究室の運営実態を調べれば、大学教育、大学院教育をやる前提としての研究活動に、一体薬品代がどのくらいかかるのかという概数レベルのものは把握できるので、それを比べれば、この額が多いか少ないか判断するのはそれほど難しい話ではないのではないか。
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○ | 現実には岡崎は非常に恵まれた環境にあると思うが、それでも50もの部屋の冷暖房ができないという状態が二、三年続いている。全体の中で修理を要求しても、なかなかそれが認められないので、基盤的経費をやり繰りしている。我々のところは幸いに、さまざまな競争的資金をとれているので、研究資金はそれぞれに自らがとって、基盤的経費のほとんどがそういうものに回されている。ここに表れているのは、多分、研究費、教育費が我々の目に一番映りやすいところなので、ほかを節約しているということではないかと思う。
基盤経費のなかの研究費は、まったく不足しており、新たな未知への挑戦に必要な絶対額に達していない。割合で議論するのは危険であり、絶対額を上げることの方が大事な議論である。 |
○ | 大学のようにいろいろな学部がある場合はかなりやりにくい。中には意見の強い学部、講座等違うところがある。それを大学は自治だから自分でやりなさいというディシプリンでやれば、はっきり言えば終わりである。
文科系でも、今、マルチメディアを使わないと学生は来ない。この表を見ればあまり金は使わないとなっているが、文科系でも随分文句が出ている。文科系であればそんなに使わないと思うが、何らかのそういう事例研究をやっていただければと思う。自治は原則として認めるべきだが、その中でも広範に意見を聞かないとお金の具体的な額は出ないと思う。 |
○ | 先ほどの説明とおり、法人化の暁には、ある塊でやり繰りする、あるいは努力してどこかからお金を持ってくるということになると思うが、我が国の研究の発展を考えたときに、現在程度の基盤的経費をさらに圧縮して、それを競争的資金に積むことで、本当に研究の振興ができるのかということを問われているから、今の水準の是非というか、評価が大事になってくる。その意味では、少し突き放し過ぎているのではないかという印象を受けた。
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○ | ここで問題になっているのは、競争的資金が十分に配分されるのだから、基盤的経費は要らないのではないかという考え方が、果たして本当にあるべき姿なのかということだと思う。
やはりこういうことを議論するときには、大学の本来の使命とは何か、学問の使命とはどう推進されるべきかという根本的な問題があって、現場の問題点を充分鑑みながら、どのような支援システムがいいかということを考えるべきだと思う。どうも最近、目先の効率とかめり張りが重要視されて、学問、大学の本来の使命、例えば研究とか教育の在り方といった問題を根本的なところから議論してないのではないかという気がする。独創的な研究の芽を育てることは、大学の本来担っている1つの重要な使命であり、かつ、教育をするということは、決して単に知識を教えるということだけではないのは周知の事である。そういうところをきちんと熟慮していかなければ、目先の何かを求めるだけでは学問が長期的に見て非常に衰退するのではないかと懸念される。そういう意味では、独創的な研究をどうするべきか、大学はどうあるべきか、こういうファンディングシステムの在り方を根本的なところから議論しないとおかしな方向に行ってしまうのではないかという気がした。 |
○ | この基盤的経費の各使用項目はトレードオフの関係ではないのではないか。だから、例えば教育研究費はこれだけ要る、あるいは、メンテナンスはこれだけ要ると分けないと、どこもやせ細ってしまう。なぜ、競争的資金と基盤的経費が二つに分かれてしまうのか。あまり1対1に対応させることも柔軟性がなくて効率を損なうと思うが、やり繰りしろと言われても、トレードオフではない関係のものもあるので比べられない。灰色と黄色のところはやはりある一定の額が必要である。これをもっと分けたほうが説明しやすいのではないか。そうでないと、全部細ってしまって何もできなくなると思う。
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△ | 御指摘のとおりだと思う。事の発端は、そもそも基盤校費が基盤的研究費と混同されていて、片や2,100億の基盤的な研究費がある。片や1,700億の科研費があるといったような議論になっていたものだから、いや、それは違う。基盤校費は、実際にはインフラ的な経費にたくさん使われていて、研究費にいっているのはごくわずかだという話をしたら、それでは幾ら使われているのか明らかにしろという話になったので、こういう調査になった。
そこで問題は、一つには、この基盤的な研究費が、必ず一定額、毎年先生全員に一律で配られる。そういう配り方をすると、仕事をしない先生は仕事をしないまま食べていけるという世界を守るための制度ということでよろしくないのである。したがって、競争的資金という格好で配りなさいという意見がある。もう一つは、今度、間接経費が出るようになり、どんどん増やしていく。間接経費を増やしていくということになれば、その間接経費の使い方はそれぞれの大学で工夫をすればいいのであるから、そういう萌芽的な研究だとか、大学として研究をサポートしたらいいということであれば、大学の考えで、その間接経費を有効に使えばいいのではないか。少なくとも、競争的資金がどんどん増えている一方で、基盤的な部分について全く下がらないというのは、あまりにも工夫がなさ過ぎるのではないかという意見もある。 問題は、そのようなところに対して、どう反論をしていけばいいのかということである。具体的に幾ら要るかということよりも、むしろ考え方として、日本の大学の研究費のファンディングはどうあるべきなのかという哲学の部分について御示唆をいただければありがたい。 |
○ | そこが問題の焦点だと思う。やはり競争的資金は、基本的には特定プロジェクトのための経費であり、それでは、研究活動は特定プロジェクトのみをやっていればいいかというと、大学の基本的使命は、学問の府として教育をするということであるから、自動車教習所や職業訓練機関とは違い、研究があって、教育をするということなので、プロジェクトの集合体の研究だけで大学の使命は到底果たせない。そういう意味では、教育の前提となる研究費は、ここで示されている金で足りるのか。プロジェクト性が薄い、あるいはプロジェクト形成の前段階の研究を間接経費が賄えるかといえば、それは到底賄えないし、一方で競争的資金をあまり獲得していない大学でも重要な役割を果たしている大学がたくさんあるので、そういうものまで視野に入れれば、その議論は成り立たないと考える。
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○ | 今や競争的資金を使ってある種の設備がつくれるようになってきた。科研費の目的としては、ある年限で主要な研究成果は終わり、そこで終了させるのは必要だと思うが、その後、今度はそれを学生が教育的な面で使いこなしていくという意義は非常に大きいと思う。成果を社会に還元していくような面でも、その場限りで終わってしまうことがある種のひずみを生んでいる面があると思うので、そういう意味で、アフターケアのようなものがうまく考えられるといいのではないかと思う。
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○ | 論点2に「研究費を人件費に充当することについて」に移る。科研費等で大学が雇用することができる領域が増えているし、一方では、競争的資金が、米国などと比べると1けた違う。米国は10倍多い中で研究が行われていることをある程度見ながら、日本でどのようにしていくかという視点が必要かということであるが、この研究費を人件費に充当することについてご意見をいただきたい。
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○ | 大学の先生は本来、教育、研究の仕事をするという義務を持って勤務しているわけである。その本務としての活動費は、大学が手当をするのは当たり前であり、問題は、競争的資金による研究が本務に当たるのか当たらないのかということでこの議論は変わってくると思う。本来、本務として期待され、要求されている仕事をする研究費を、例えば科研費でやる場合に、その科研費の中に人件費も入れろというような議論は極めてよくない。
しかし、ある大学の研究活動が非常に評価されて、例えば、企業が開発研究を依頼してきたときには、大学にはそのための人的余力が本来ないはずだから、その委託研究の中に、人件費も込みでもらって、その経費で、そのプロジェクト開発をするための人力を工夫して手当するということだと思う。またさらに、例えば経済産業省や農林水産省等で大プロジェクトをやるのに大学の力を借りたいということで、大学が協力するのであれば、似たような判断も当然あり得るわけだから、その場合に人件費が必要だということと、本来大学がやるべき研究をどうするかは、やはりはっきり分けて議論しないと間違ってくるのではないかというのが一つある。 それから、もう一つの観点は、大学が本来やるべき研究であっても、新しいことを始めようというときに、これまではスクラップ&ビルドも含めて、研究施設を作って対応してきた。ところが、法人化になったときに、それをどうするのかという話が出て、そのものの対応のときに、競争的資金の形態として、フランス国立科学センター(CNRS)がやっているように、いわば施設及び人件費付きのファンディングを時限的にする。つまり、競争的資金の中にそういう類型をつくる。それが、従来の組織を通じた手当に還るというような発想は、それはまたそれで当然あっていいと思う。 したがって、一般論としてこういう質問を出されても、それは答えにくいし、どちらが正解だということではないのではないか。 |
○ | 研究教育、大学の本分は何かということと、新しく始めるときの対応はどうかということ。それから、最近、夏休みの間は給料を出さないで、それを競争的資金にして人件費を出すということもあるが、これも、やはり大学の本分は、一体9か月なのか、1年なのかということもあるわけだが、その辺も含めて御議論をいただければと思う。
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○ | 研究を推進するという意味では、年長の教官の定年問題とかかわり合いを持ってくるのではないかと思っている。そういう意味でメリットがあり得る。ライフスパンが長くなってきており、私どもの年格好で大変活動的な自然科学系の研究者はいるが、こういった人をどのように支援して研究を続けてもらうかは、日本全体の研究体制上で大事ではないかと思っている。
ただ、全員の定年を上げることは大きな経済的負担をもたらすので、あまり賢明ではないと思っている。自然科学系では、今まで使ってきた設備をずっと保持していくことが大事であって、よそに移って続けるというのは、なかなかうまくいかない。そういった場合に、大学が今までの設備やスペースを提供した上で、そういう方に研究を続けてもらう場合に、この方式は少し助けになるのではないかと考えている。これは、基本的にピアレビューで、外で判断されているわけだから、割合と説得力がある。 それから、今、大変活動的ではあるが60歳ぐらいの人が、なかなか大きな研究費をとれなくなっている。つまり、普通63歳で定年の大学が多いわけだが、60歳の人が5年のプロジェクトに申請すると、委員会で自主規制が働いて、大体だめである。しかし、本来は非常に立派な研究をしている方は、その後も研究を続ける可能性を持っている。これが今の定年の問題に大変大きな問題をもたらして、年長の教授の意欲を減退させている面があるのではないかと思う。 |
○ | 年長の研究者の活躍をもう少し図るべきだという議論は最近起こっている。非常にすぐれた年長の研究者がシンガポールに丸ごと移って研究をしているということもあるので、これは下手に対応すると優秀な人材を海外に流すことにもなりかねないことだと思う。
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○ | 少し私が気になるのは、大学の使命、大学における学問とは一体何かということ。私は生物系の研究を行っているが、人には、欠落していても日常生活に差しさわりのない遺伝子はたくさんあるわけで、それがなくても、正常に暮らしていける。しかし、一見このような無駄に見えるような遺伝子でも、将来必要になるかもしれない、いわゆる一見無用と思われるものが基本的には将来を保障しているともいえる。学問の分野も、流行を追う研究、目先の有用性があると思われる研究以外に、一見すぐには有用性のないような学問分野が、長期的視点に立ったなら非常に重要な礎を担うことが多い。これは今までの学問の歴史に照らせば明白である。すなわち、学問の本質的な在り方をしっかり認識し、保証していくことが重要と思う。従って、それを保障するシステムがないといけないと思うのだが、このように、競争的資金で研究費をもらえないと給料にまで影響を及ぼすような体制をいきなり導入すると、結果的には学術研究の衰退を招くのではないかと懸念される。
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△ | 法人化を担当している立場から申し上げる。お話しさせていただくと、今のお話は実は重要で、先ほどの基盤校費の根幹にもあることだと思うが、研究費で人件費もまかなうう、あるいはそういう格好である研究センター的なものをメンテナンスするプログラムがあること自体が、可能となった場合に、考え方として、大学にそうではない格好で、国からの運営費交付金の中で措置をする研究センターと、そうでない外側で研究プロジェクト的に利用されるセンターと、どういう位置づけにするのかというところの議論をきちんとしておかないと、話がややこしくなって、センターはすべて運営費交付金の外へどんどん出せばいいではないか、競争的に配ればいいではないかという話になりかねない。
よく引き合いに出されるのは米国の例で、米国は、大型の加速器を運転をして実験をするといったようなことまで、5年契約という格好で、公募ベースで実施している例もある。あるいは、そういう研究費が切れたならば、現実問題として、大学にはもういづらくなって大学を去らねばならない。そういう環境があるから米国の学者は仕事をするのであると。日本の学者はそう言うが、それでは米国で基礎的な、独創的な研究成果が出ていないのかといえば、そういう環境の中できちんと仕事をしているではないかという議論が出てくる。そういうことに対して、やはり日本は日本の大学全体の研究体制として、こういう格好の組み方をして、こういうたぐいの事柄についてはこういうシステムで守る、こういうたぐいのことについてはこういう位置づけで活性化をする。そういう大学の研究体制全体の在り方をどう考えるのか。それに対するファンディングをどう考えるのかという、大きな枠組みについての見通しなしに、いいことだといって飛びつくと大変なことになるという不安が一部にあるので、その点についてもまたいろいろ教えていただければ大変ありがたい。 |
○ | 米国は10か月しか給料算定に扱わないから、日本もそうすべきであるという議論は以前からあるが、これは要するに、雇用形態や、人事形態等の全体の話で、それ自体じっくり腰を据えて議論すべき話だと思う。
全部プロジェクト、出来高払い、請負払い制でいいというのなら、そもそも研究所の存在は要らない。それでも、大学は大学院教育も含めて教育を担っているから、そうなっても存在意義がなくなるわけではないが、そういう議論をしたら、むしろ大学以前に、およそ研究所は要らないということになり、そういうプロジェクトを行う場所だけどこかで用意しておけばいいのではないかという議論になるので、それはそうではないということを説明すれば大体分かっているわけである。そうすると、そういう安定したインスティテュートが存在して、それを前提として、プロジェクト的な施設が機動的に対応するというイメージを書くのが、一番在るべき姿だと思う。 日本の場合には、そういう組織は常に固定していて、機動的な部分が少ないではないかという、これは大学に限らず一般的にそうであると思うが、そういう観点から組織の在り方を見直すことは大いにやっていいと思うが、それは競争的資金についての議論とは別だろうと思う。そういう時限的な施設のファンディングをどうするか。時限的な施設のファンディングを競争的にすれば、それは新しい競争的資金の形成ということになって、その点は、独法化以後のことを考えると、本格的に議論をしたほうがいいと思う。つまり、問題は分けて考えたほうがいい。一般論として言えば、必要な場合には研究費を人件費に使ってプラスになるものはプラスにすればいいが、そういうインフラとのトレードオフみたいなことでそこを議論するのはおかしいのではないかと思う。 |
○ | 安定した使途、研究所をどうやって充実しておいて、その上で競争的な環境をつくっていくか、この視点が非常に大事である。先月、米国のザデーさんというファジー理論をつくったカルテックの教授が来て言われるには、「私は、最近は研究費を申請しない」と、「黙って座っていれば、使ってくれと言ってくるよ」と。彼が申請する用紙はA4版一枚程度だと言っていた。それを出しておけば相当の額のものが来るので、自分は煩瑣な研究費申請は最近しないというわけである。そのように、米国においては、そういう人はいる。エスタブリッシュした人については、ちゃんと場所、研究費を潤沢に与えて、ほとんど競争的ではない。つまり、差別化された人がいる。その上で、そこまで至ってない人、あるいは、そうでない人については競争がある。やはり競争も、マルチなシステムになっているところが非常に大事で、すべてを一色にすると大変危険であるということを、今日御議論いただいているのではないかと思う。
時間の都合もあり、論点3、4、5、6について御議論いただきたい。 |
○ | 論点3について、学問全体を一つのディシプリンとかフィロソフィーでやるのは間違いだと思っている。それは、真理とかいろいろな意味ではいいが、その意味では、実験器具を買うように、フィールドワーク、これは農学でも極地の科学でもそうなのだが、現場に行って物を観測する、物を集めてくるということに対する理解が実験系の人は非常に乏しい。実験系の人がやっていることは、我々にとってはフィールドでやることだから、それに対するというと、これは旅費だからたとえ20万円でも出ませんという。これは研究をやるなというに等しい。ところが2000万円の設備を買う金はある。
研究費規模は、お金の規模ではなくて、何をやるための費用なのかということに対する議論を頭に置いてやっていただけたらいいと思う。そうすれば自ずと結果はわかってくる。 |
○ | 学問全体を一つの考えでは行えない。ファンディングには、多様性と柔軟性が必要だという御指摘であった。前に、社会科学の分野でフィールドワークになかなか研究費がもらえないという話を聞いたことがあるが、実質に応じたファンディングが必要だ。
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○ | 総合科学技術会議が行う競争的資金の全体調整について、もちろん全体の目配りをして骨太の戦略をとっていただくのは期待をするところが非常に大きいが、分野別という前に、やはりいろいろな競争的資金の目的について、もっと性格をはっきりさせるということが先決ではないかと思う。つまり、それぞれの行政上の課題を持っている省庁での競争的研究資金は、行政的課題解決のためにどうその研究を展開するか、要するに、利用者側に立って研究を組織するための研究資金だということをはっきりさせないと、科研費に似た競争的資金がたくさんあるから、それで調整しなければいけないという。最大原因はそこである。競争的資金のそれぞれ持つ意味をはっきり把握して、その目的を達成するためにいかに効果的に使うかということが、競争的資金の全体調整の最大の課題であって、それからその分野ごとに幾ら要るかというのは、これはなかなか大変で、どういう判断をされるかわからないが、まず第一に、個々の競争的資金の目的をはっきりさせて、その目的を達成するのに最適なマネジメントをしっかり果たしていただくということが必要なのではないか。
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○ | 各資金の持つ意味をはっきりしていただく必要があるのではないかということで、多様な各省庁の目的が明らかになっていれば、全体調整はおのずと明らかになってくるということだと思う。
また、よく言われていることだが、全研究費の中で一体基礎的研究というか、多様性を保障するような基礎研究の割合は一体どうあるべきかとか、幾つかの、もっと基本的な問題が横たわっているのではないか。 例えば、資料4にもあるように、基礎研究は全研究の大体半分ぐらいというのが米国、あるいは欧州の普通の考え方だと伺っているが、そのようなことを明快に言っていただくことが非常に必要ではないかという気がする。 |
○ | 何を目的にしてマネジメントをするかがはっきりしない。競争的資金の性格によって、例えば技術開発を目指す競争的資金であれば、当然強力なマネージャーがいなければうまくいかないと思うが、科研費の運用自体をプログラムと見るのかどうか。米国国立科学財団(NSF)、英国のリサーチカウンシル、ドイツ研究協会(DFG)の審査形態の現状を調べて、日本の科研費の審査形態と比較し、違いを整理して提示していただく必要があるのではないか。その上で、プログラムマネージャーはどのような役割を果たすのかということについて本特別委員会において何か結論を出すのであれば、その検討をやっていただきたいと考える。
それから、先ほどの競争的資金について付加すると、競争的資金の在り方として、ボトムアップかトップダウンかということが大きい区別の指標として象徴的に言われているが、研究者側の研究の発展を支援するための経費なのか、利用者側に立ってある結果を出してもらうことを促進するための経費なのかということの区分のほうがより本質的である。ボトムアップがすべて学術、トップダウンがすべて科学技術という分け方は判断を誤るのではないか。 したがって、研究者による研究の発展をどのようにして効果的に促進するというファンディングの在り方と、現実的な社会各方面からの必要にどう応えて科学技術発展を促進するかという観点の両方のファンディングで、競争的資金について整理をするほうがいいのではないか。 |
○ | プログラムマネージャーについては、何を目的にして運営するのかということとの整理が必要というのは私も同感である。
もう一つの指摘は、研究費の目的が、研究者の内在的な研究を効果的に支援する研究費なのか、社会的要請に最も効果的に応えていく研究費なのか、そういう視点をもう少し明確にしていったほうがいいのではないかということである。このあたりは研究費部会で今後も審議していただくことになると思うが。 |
○ | 評価の問題に関しては、文部科学省全体としてどう在るべきかを議論しているが、学術は少し違うのでないか。それを特別に加えているということである。
私は、学術は内在的なものを推進していくことが一番大事だと思っている。ただし、割合とかそういうものについては議論はしていない。 |
○ | おそらく割合や現在の規模が適切かどうかについては、学術のことを反映して研究費の規模の検討が必要ではないかと思う。
あるいは、先ほどのプログラムマネージャーは一体何をするのか、学術という分野においてどういうことをしていくのかということ、あるいは研究費の採択評価、その辺もひとつお願いしたいと思う。 |
○ | 一元化の問題で非常に気になることは、昨年、総合科学技術会議が分野論と、基礎研究の充実という大きな二輪だということが出されたこと。そうは言っているが、分野でのさまざまな一元化が、極めて多元的で多様なボトムアップ型の研究者たちの描いている科学的なものまで含めて議論されてしまうことがあり、ボトムアップ型の学術研究も分野の枠をはめられる危機感がある。あるいは、場合によっては課題の枠まではめられる実態が出てきているように思う。これは大変危険なことで、戦略的と称するいろいろなプロジェクトが出たときに、その中に基礎研究を組み込めばいいというわけだが、そのときにある基礎研究というのは、あくまでトップダウン型の中の基礎研究であり、しかも、それが別に言う半分の基礎研究の中に含まれてしまうことから、全体がトップダウン型になってしまうという政策傾向があるように思う。
それに対して、サイエンスを知っている人たちをプログラムマネージャーにして、そういう観点で、新しく発展するボトムアップ型の研究をどうやって適切に探していくかという仕掛けをつくろうということについては、賛成である。 したがって、プロジェクトごとに正確にそのことについて研究者を選んで、それを達成する。そこに、全然別のものを紛れ込ませないという評価をすべきである。そうすると、ボトムアップ型のものはボトムアップ型にきちんと分けて選ぶことができる。そういう仕掛けをしないと、学術研究に対する数値目標設定型の圧力が非常に強くなる。 |
○ | 重点分野を決める際にもいろいろ議論があったと記憶しているが、要するに、国としての研究の進め方、ファンディングを特に戦略的にやって引っ張っていくことが有効な場合と、それがかえって弊害のある場合と両方あるということが非常に大事であって、そこが議論としては、何か全部一元化してやっていくとうまくいい結果が出るのだという。これは研究の種類、性格を無視して議論がされているので、何でもかんでもそういう手法でやればうまくいくということではないので、やはり一番必要なのは、技術開発に焦点を置いて、いかに戦略的に進めるかということだと思う。それが実際には、総合科学技術会議での議論になると、技術開発の視点というよりは、むしろそうではない基礎研究的な、あるいは大学の研究ということの視点での技術開発的な手法をどう進めるかということと一緒になった議論になるから、そこが間違うと非常に弊害をもたらすと思う。
したがって、総合科学技術会議が、技術開発にどうやって支援して集中するかという観点から、重点目標、重点分野を掲げてそれに集中することをやらないと、つくった意味が半減するのではないか。 |
○ | 非常に明確に、当面問題になっている技術開発のものと、学術的な基礎研究というものの視点をはっきり分けて議論していかないといけないということを指摘いただいた。
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○ | 研究費だけの問題を考えると、やはりこういうシステムは必要だろうと思う。ただし、そこで研究者の自律性、主体性をどう汲み上げる仕掛けになっているかということについては、プログラムディレクターあるいはマネージャーが全部取り仕切るのはよくない。また、ビッグサイエンス、スモールサイエンス、人文・社会科学等いろいろな分野の多様性をどうやってシステムとして取り上げていくか、、いろいろなものがあると思うのが、それをきちんと汲み上げるシステムであればいいと思う。
それから、もう一つは、研究費だけについて考えるのではなく、大学あるいは研究機関の目的はどうあるべきか。研究を行うインフラストラクチャー、使命、これをはっきりさせる。そこを研究費が全部支配してしまうのは、問題があるのではないか。特に、文部科学省においては、やはり人材の育成が大変大事であり、強権を発動する研究費のシステムが人材の育成に障害になってくることである。したがって、国としての大学あるいは研究のシステムがどう在るべきで、そこの何を、この研究費が支援し、あるいは推進していくのかということについてはっきりするべきではないかと思う。 |
○ | プロクラムマネージャーについては、「公正な評価」や「厳正な評価」がきちんと担保されることが目的だと思うが、そのときに審査に上がってくる対象の数に対して、量的な意味で十分に対処できるかどうかということと、それから、人文・社会科学系も含めてだが、学術のレベルがまさに世界的なレベルに伍して、それに負けない、あるいはそれを超すものを結果的に生み出していくために、こういうものをどうするかということ、それから、競争的資金についてもそれに資する形で運用していくためにどうしていくかということが、すべて大きな流れとして議論していると思うが、そのときに、一番大変なのは、初期段階のところで良い研究が逃げないように、きちんと目を張っていくことができるかどうかである。
審査の流れの中で、どういうレベルで書面審査や委員会における合議審査とが行われているのか。例えばレベルとしてはNSFのパネルレビューあたりと同じなのかどうか。また、そこに来るまでに、どのような振り方をされているのかどうか。その辺も少しきちんとしておく必要があるのではないか。 名前から言うと、企業のプログラムディレクターというと、実際に運営していくというイメージが出てくるので、ここではやはり選んで評価して、採択された後どうなっているのかをフォローする、ということを同じ人がやるという体制をとったらどうか。そのことは、かなり意味のある在り方だと思う。それぞれ違う人がやって、採択が決まった後はもう任せ切って、フォローがどうなっているのかということは、非常に重要な部分だと思う。ただし、今言ったように、一連の過程における数の問題と審査する人の質の問題については将来に向かって本当に大切な科学技術の発展に資する種のところで見逃さないようにしているようにできているかどうかというところをきちんとしておく必要があるのではないか。 また、先ほどの米国のザデー教授の話は、ある意味では非常に象徴的な話である。また、全体のファンドも限られている中でリソースを有効に使って、それは短期であるか長期であるかは関係なく、非常に基礎的であろうと、短期であろうと、本物ないし本物に近い、人たちが結果的に残ってくるような研究資金の使い方をする。競争的とはそういう意味である。あまり短期的な視野での勝った負けたが競争的資金のねらいではなく、結果的に、本物でない人たちは整理されていくようにしていかないといけない。リソースが限られていれば、そのような方向に持っていかなければいけないことについては、先ほどの幾つかの論点の中で、例えば目的のために人件費を使うことが必要ならばやればいいし、そうでなければやらなければいい。どちらかというと、何のために全体の議論がされているかということが置き去りにならないように、そこだけ少し確認をする必要がある。 このプログラムディレクターをそのように勘違いしている。もっと初期のところで、良いいものが落ちないようにというところをきちんとすることが非常に重要であると考える。 |
○ | この議論はまだいろいろあるかと思うが、要するに、世界的な研究をするのが目的で、競争的あるいは基盤的に研究費が出されているわけで、そのときに、本質的に近い研究が残っていくような過程になっているかどうか。そのようにしていただきたいということと、初期に、いい芽と思われるものが落ちないようにすることが、プログラムマネージャーに期待することができないかということではないか。
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○ | 各々の国にはそれぞれの歴史があって、審査体制なり、学術の体制が発展している。日本もその例外ではない。ところが、今までの話を聞いていると、いきなり降ってわいたような話がたくさん出てきている。これは、言ってみれば接ぎ木的な発想で、桃の木に隣の柿の木を接ぎ木して隣より大きな柿の実をならせようというような、何かそういう発想に見えてしようがない。先ず、日本の研究費の審査体制の優れた点や問題点がどこにあったのか、から始めてどのように発展させることが望ましいのか、という視点から議論するのが筋であり、外国にこういうシステムがあるから、ということでいきなり安易に導入しようとすると、弊害が起きる可能性も否定できない。そういう点をもしっかり検討することが重要だと思う。プログラムマネージャーも、いろいろメリットもあるが、デメリットもあるかもしれない。例えば、アメリカと日本とを比較した場合、研究費のスケールも違うし、また考え方も異なる。それぞれの国・社会の異なった政治的・社会的要素など、すべてが絡んでくるので、下手に間違ってシステムが機能してしまうと、サイエンスがとんでもない方向に行くことになる可能性もあると思う。そもそも外国にいいものがあったからそこだけ日本ですぐに植えつけよう、という発想からはもはや抜け出ることが重要でこれには研究者側にも責任がある。今や外国の研究者は日本の研究体制についてかなり知識を深めており、それ故に日本がどうなるか、注目していることを強く肌で感じる。日本が堂々と独自の考え、体制で臨むよう努力するべきであり、このような点を充分考慮しながら政策を立てていただきたいと思う。
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○ | 日本でも、世界に冠たる幾つかの研究が見られていることから、日本のやり方に根づいた審査方式をぜひ検討していただく。これは、また研究費部会にお願いをして、先ほどのプログラムマネージャーの良いところ、あるいは悪いところを含めて、しかるべき方法をお考えいただきたい。
(2)「文部科学省における研究及び開発に関する評価指針」について 資料6−1「文部科学省における研究及び開発に関する評価指針(草案)」、資料6−2「文部科学省における研究及び開発に関する評価指針(草案)概要」に基づき事務局より説明の後、質疑応答が行われた。その内容は以下にとおり。 |
○ | 資料6−1の評価指針について、「草案」と書いてあるが、これが全文か。この中に、例えばマネジメント・サイクルとか、評価システムとか書いてある。これは、例えば評価システムとマネジメント・サイクルの両方あわせて、評価そのものの品質保証体系みたいなものは、例えば評価審査のフローだとか、そういうものとの関係で、あえて、マネジメント・サイクル、PDCAというようなことを言っているのだと思うが、それぞれの箇所に対して、だれが関与し、だれが責任があるのか、という体系図はできているのか。
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△ | 体系図としては整理してないが、本文において、それぞれ評価実施主体や評価者がどのような役割を持つかということ、あるいは、評価全体の品質保証という観点に関しては、評価の結果を公表していくということと、追跡評価などを行うことによって、もう一度、過去に行った評価をレビューしていくというような考え方を盛り込んでいる。
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○ | 中身はそういうことだろうが、やはり実際にこれを見たときに、具体的なメッセージ、意味として出るものは、きちんとした体系図ができているのと、パートに合わせて、ここに書いてあることがきちんと表示されているか、されてないかで、具体性という点からすると随分違うと思うし、多分、体系図を書かれると、ここには随分抜けているのではないかということが後で出てくるのではないかと思う。だから、本当に基本的な目的のために評価をしている。それとの関連で、評価品質をどう保証していくのかは、研究者にとっても、研究機関にとっても、教育機関にとっても非常に重要なことなので、ぜひそこは、体系図にすること自体はさほど難しいことではないが、多分それをやると、結構抜け落ちが出てくるのではないかと思うので、せっかく指針に出すのであれば、ぜひここはやられたほうがいいのではないかと思う。
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○ | ぜひわかりやすい理解を促進するようにお願いする。
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○ | 一番最後の3ページに書いてあるフォローアップだが、これは持続性が重要で、普通の人でも、研究して、その後ちょっと落ち込んで、またいいのを出すとかいろいろある。そういうのを、皆さんどうお考えなのか。何か、右上がりばかりのような、国の発展みたいなイメージがある。それはそれとしていいのだが、個人の研究のライフシステムから見たとき、非常にフォローアップしないとだめなので、そういう意味で、先生がおっしゃった評価の過程が、また別のサイクルとしてずっと通じていくというイメージを喚起するような評価をやらないと、日本国自体の科学技術にしろ、学術にしろ、うまくいかないと思う。そのイメージを何か文言で盛り込んでいただければと思う。
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○ | PDCA「循環過程」とわざわざ書いたのはそういうことだと思う。
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○ | その辺は、グラフ化ということとともに、少し御検討いただきたい。また、失敗が非常に貴重な成功だということも幾つかの教訓であるから、まず御検討いただきたい。 |
5. | 今後の日程 次回(第10回)は平成14年5月17日(金)10時〜13時(経済産業省別館1028会議室)を予定して、事務局より改めて連絡することとされた。 |
(研究振興局振興企画課学術企画室)