審議会情報へ

科学技術・学術審議会学術分科会

2001/11/30  議事録

科学技術・学術審議会学術分科会  基本問題特別委員会(第7回)議事録

科学技術・学術審議会学術分科会
基本問題特別委員会(第7回)議事録

1.日時

平成13年11月30日(金)  15:00〜17:00

2.場所

文部科学省別館11階  大会議室

3.出席者

阿部会長

(委員)

池端、小平、鈴木、野依、木村、谷口、鳥井

(科学官)

井上明久、井上一、勝木、吉田

(事務局)

井上科学技術・学術政策局次長、太田主任学術調査官、磯田政策課長、泉振興企画課長、川上計画官、河村学術研究助成課長、他関係官

4.議事

  学術研究における評価の在り方について
  資料2(学術研究における評価の在り方に関するこれまでの主な意見)、資料3(学術研究における評価の在り方について(素案))、資料4(「学術研究における評価の在り方について」(素案)と「国の研究開発に関する大綱的指針」の対応関係)、参考1(国の研究開発評価に関する大綱的指針(平成13年11月28日内閣総理大臣決定))、参考2(「国の研究開発評価に関する大綱的指針」の概要)、参考3(大綱的指針における評価の大枠(平成13年11月21日研究計画・評価分科会研究評価部会(第3回)資料))及び参考4(文部科学省における研究及び開発に関する評価指針(仮称)について(平成13年11月21日研究計画・評価分科会研究評価部会(第3回)資料))に基づき事務局より説明の後、資料3に基づき意見交換が行われた。その内容は以下のとおり。

【委員、科学官】

  研究計画・評価分科会における審議との関係はどうなるのか。

【事務局】

  学術分科会事務局という立場から申し上げる。文部科学省評価指針をつくる前に、最終的に審議会としてまとめをお出しいただく必要があると思う。その際、学術部分は、学術分科会でお取りまとめいただき、それ以外の関連事項を含めた全体を総会に諮るのは、研究計画・評価分科会の所掌ではないかと認識している。

【委員、科学官】

  学術分科会の基本問題特別委員会として、本日の資料3に当たるものがまとまれば、それを踏まえて、研究計画・評価分科会の研究評価部会で総会にかける素案的なものができてくるというプロセスと理解してよいか。

【事務局】

  そうである。ここでは学術分科会の基本問題特別委員会という立場でこの素案を検討いただければと思う。

【委員、科学官】

  例えば新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)を通して大学にお金が流れることが多々あるようになってきている。そのときは文部科学省の評価基準で評価するのか、それとも経済産業省の評価基準で評価するのか。大学だから学術として評価するという言い方もできるだろうし、産業技術の発展のため、経済産業省の基準で評価をするということもあるかもしれない。今まで全くその議論をしたことがなかったが、そこは詰めておいてもらわないとまずい感じがする。

【事務局】

  基本的に評価の体系では、施策評価、課題評価、機関評価、個人の業績評価の4種類が提起されている。施策評価及び課題評価は、その施策、課題をマネージするところが評価の責任を持つ。NEDOのお金を使って大学が実施するという場合は、経済産業省ないしNEDOが評価し、課題の選択を行うという仕組みになる。
  今度はそれを受けて、大学の先生方が研究をするわけだが、機関としての研究活動の中に入ってくるわけだから、NEDOからお金をもらって行った研究も機関評価として取扱うし、個人の業績も評価する。NEDOのお金をもらって行った研究も大学の教官の業績の中には加えられると思う。そういう点では、大学のほうが評価するという関係にあろうかと思う。

【委員、科学官】

  例えばNEDOの評価担当者は、産業として実用につながらないような研究にお金を出すことについては反対だと言うかもしれないが、大学ですぐに実用に繋がるような研究をするのが果たして妥当かどうか。つまり、課題評価と業績評価の結果が全く逆になることがあり得る。今の理解だとちょっとまずいと思う。

【委員、科学官】

  新規産業の創出を目的としたNEDOプロジェクトは、最終目的、目標を先に掲げてスタートすることになっていると思うが、これまでのNEDOの研究開発体制では、大学に主要な研究資金がおりるという構図はあまり考えられなかった。むしろ、企業に大きな研究資金が投入され、産業化を目的とした研究開発が行なわれるという流れになっている。多額の研究費がこないにもかかわらず、大学の先生は、プロジェクトの責任者、あるいは委員としてメンバーに加わるケースが多いと思う。委員として産業化のための基礎研究を行なったり、あるいは適切な助言を与えるといった役割が一般的である。例外的なケースもあるかもしれないが、少なくとも新しい産業を創出するという観点からのプログラムで、かつ工学系を主体にしたような場合はそのような研究開発体制が取られ、しかもその目的が達成されたかどうかということは、発表会を開いて公表すると共に、大学の先生方を中心とした審査会で成功、不成功が判定され、評価が行なわれる体制がとられている。このようにプロジェクトの成功、不成功がはっきりと世の中に公表され、評価される仕組みになっているものと思われる。プロジェクトが成功すれば、適切な助言と基礎研究を通して貢献したと良い評価を得られるが、反対に失敗すれば、間接的に個人の評価にはね返ってくる仕組みになっており、評価体制は現存していると思う。

【委員、科学官】

  例えば今年度から科学技術振興調整費に大学も直接申請できるようになり、グレーゾーンが広がっている。これは一面では非常にいいことだが、評価という観点からいくと、複雑化しているのは確かだ。この素案では、競争的資金については日本学術振興会の範疇のものしか書いていないが、それでよいだろうか。

【事務局】

  内部的にも、ただいまのご指摘のような議論があり、どう整理すべきかは悩ましい部分もあるが、タイトルにあるように、「学術研究における評価の在り方」ということが一番ベースで、学術研究のメインは6ページ以降に書いてあるように、「基盤的資金による研究」、「競争的資金による研究」、「大型研究プロジェクト」であり、その研究の評価の在り方を主眼にしようということである。ただ、ご指摘のような隙間があってはいけないので、そこを埋めるという議論の中で詰めていくということであろうと考えるが、まず、学術研究の一番コアなところの評価の考え方が議論の中心ではないか。現時点ではそう整理をしている。

【委員、科学官】

  「学術における評価の在り方について」という標題について、例えばプロジェクトに対する評価、競争的資金の評価の部分は、ここで書かれているもので素直に理解できると思うが、この素案は機関評価まで踏み込んでいる。機関評価までいくと、学術にかかわる機関は国が設置した機関だけではないと思う。機関に対する言葉の使い方を注意しないと、この委員会の姿勢を外から問われるようなことになるのではないか。

【委員、科学官】

  先日、産学官連携サミットの懇談会で、「大学はもっと産業技術をやれ」というコメントがあった。産業のニーズを生まないような大学はだめなんだという表現をされている。つまり、それは先ほどのグレーゾーンに踏み込まれていることだと思う。今、社会情勢はそうなっている。各省は網をかけようとするだろうが、そこはしっかり闘わなければいけないということである。

【委員、科学官】

  資料3の1ページの一番下に、「大綱的指針は国費を用いて実施される研究開発全般の・・・」とある。この「研究開発全般の」という表現はR&Dを日本語に訳したということだが、大綱的指針では、研究と開発が割合くっついた一つの概念的な感じで書かれている。その次の行では、「大学等における研究も国費を用いて実施されるものについては、その対象となるもの」とある。これは大学で行うすべての研究が入るという文脈になっていて、この辺がいかにきめ細かく、国にとって大切なそれぞれの研究活動の関係をどこまではっきりと踏まえて書けるかということだろう。これは多分、共通認識で大きな問題ではあるが、本日はこれ以上時間をかけないで、資料に沿って「基本的考え方」以下の評価の意義、留意点、評価者の選任、体制の整備ということについて議論いただければと思う。

【委員、科学官】

  評価にいろいろな形容詞、例えば「透明性のある」、「画一的」、「形式的」、「適切な」、「効率的な」あるいは「厳正な」がついている。それぞれ大体わかるけれども、「客観性の高い」とか、「客観的な評価」の定義はきちんとしておかなければいけないと思う。第三者がやれば客観的なのか、あるいは評価者も被評価者も立ち入ることのできない数字、例えば論文引用数を意味しているのか。一番わからないのが「主観的な評価」というのが全然出てこないことだ。「客観的」というのが、おそらく「国民が納得するような」という意味であれば、受け手がどう考えているか、産業が大事と考えているのか考えていないのか、そういうことと関係してくると思う。客観的というのは何を意味しているのか。最終的に注意していただければいいが、客観性を高めるというのはよさそうな気がするが、定義によっては大変困ったことになるのではないか。

【事務局】

  十分注意して使い分けたわけではないので、改めて精査したいと思うが、定量的指標との関係について言及した箇所で「客観的」という言い方を使っている。イメージ的にはある種のデータ的なものを使った場合が「客観的な」という定義の一つの例だと思うが、もう一度整理したいと思う。
  それから、「主観的」ということについては、4ページ下の「(4)評価者の選任」の3行目に「学術研究の場合、最終的には評価者の主観的な判断によるところも多い」というこの一か所で触れている。

【事務局】

  資料3の中で「客観性」という言葉が出てくるのは、大綱的指針において「客観性の高い評価指標」や外部評価の活用によって、なるべく客観的にやるべきであるという思想があるからである。ただし、あまり客観性にこだわり過ぎると、特に学術研究、基礎研究については、形式的な評価になるという危険性が非常に高いので、研究計画・評価分科会研究評価部会においても、客観性というものは一体どこまで使えるのか、その限界を明らかにし、その先は専門家の良識、洞察力をどう使っていくかという線引きを議論していただきたいと思っている。
  客観性という言葉は大綱的指針が求めていることであるが、文部科学省の評価において、それをどこまで使っていくのか、そういう観点からご議論いただきたいと思うし、事務局としても言葉の使い方について慎重に精査して乱用しないように考えていきたいと思っている。

【委員、科学官】

  目的が非常に明確な研究の場合には、かなり物差しを当てることができるが、学術研究の場合にはいかがだろうか。最近の科学新聞のコラムで、「客観性を保証するためには共通の尺度を持たなくてはいけない。そのためには研究者の交流、いろいろな研究者がいろいろな機関、大学で交流が盛んになると、おのずとある種の共通の尺度が生まれてくるので、客観性というものがピア・レビューにおいても保証される。しかし、今の日本の学術の状況ではなかなか「客観的な」という言葉の実績、裏づけが難しい」とあった。

【委員、科学官】

  「客観的な指標」というのは分かる。それは多くの場合、数値的なもの、あるいは学術書であるとかで分かる。しかし、「客観的な評価」というと難しくなって、多くの大学の学術研究は時間軸が長いから、終わったものではなく、現在進行中のものに対する評価が必要になる。そうすると、基本的に数値は出てこない。それをもって良いとか、悪いとか評価するというのは、極めて主観的にならざるを得ないだろう。そういう意味で、現在進行中の活動に対してどういうふうに客観的に評価するかということは大変難しいという意味だ。

【委員、科学官】

  非常に難しいというだけでは社会に対して、学術コミュニティの説明責任が十分持てるわけではない。どう言えばいいのか工夫する必要があると思う。今の指摘は非常に大切な部分である。次の文章をつくっていく上では「客観的な」という言葉、「客観的指標」というのは確かに使えるが、評価というところへ拡大するときは、学術の場合は留意が必要だということだと思う。
同じような意味で2ページ、基本的考え方の中ほどに「アカデミック・レベルでの評価を基本に据える態度が重要である」とあるが、この「アカデミック・レベルでの評価」という表現で一般の方におわかりいただけるかどうか、誤解がないかどうかというのは多少心配だ。

【委員、科学官】

  3ページの真ん中あたりに「まず評価の目的を明確にし、それにふさわしい評価方法によることが重要である。」とあるが、評価の目的というのはどこかに書いてあっただろうか。

【委員、科学官】

  これは個々の評価をするときに、この評価は何のためにやるのかという、その評価主体が、評価される対象との組み合わせで目的を設定して、と読めるのではないか。

【事務局】

  基本的にそうである。この文章の中で評価の目的を明示的に書いたところはないが、評価の意義という形で、研究活動を活性化させる、あるいは効果的な資源配分を行う、さらには説明責任を果たすといったような意義が評価にはあって、そのうちのどこに重点を置いて評価をやるかということ、具体の評価の場面においてどこに重点を置くのかということが、その評価行為の目的にもなると考える。
  例えば競争的資金の審査であれば、それは課題を採択して研究費を付けるということが目的になるだろうし、機関評価の場合で言えば、資源配分とリンクする面もないわけではないだろうが、一義的には公的な機関で行われている研究活動を社会、国民に明らかにするという説明責任の面が大きいだろう。

【委員、科学官】

  4ページの上から2行目の評価の視点としては、「学問的意義についての評価が中心である」という、非常にもっともらしい立派なことが述べられている。果たしてこの「学問的意義」とは何かということが先ほどから指摘されているが、ここに多様性があるからこそ学問の深い意義があるんだというのが基本にあるのだと思う。この一般的な評価の在り方、総合科学技術会議の評価の在り方全てを含めて、ある枠の中にはめて評価するという姿勢が前面に出ている印象を受ける。その先には、以前の学術審議会の建議にもあるように、評価を通じて研究活動を鼓舞、奨励し、活性化を図るということが述べられており、そのような観点を欠いてはならないということも書かれているから結構なのだが、一方では、どこに学問的意義を求めるかというのは大変難しいことだと思う。
  社会に対する説明責任は、確かに大切だけれども、社会に対して直接還元できないところにも学術研究の大きな意味がある。そこを無視すれば、頭数はそろって似たようなことをやり、それなりのレベルには達する人は出ても、独創性に富んだ人が生まれることには繋がらないという側面もある。では、どうすればいいんだということになるわけだが、これは学術分科会としての答申だろうから、この文面の中に、学者が学術の在り方についてどう考えているかということが、反映されなくてはいけないのではないか。その辺の哲学、考え方をもう少し前面に出せるようにしたほうがいいのではないか。

【委員、科学官】

  一方で研究者は自己責任を持たなければいけないと思う。自分たちがやっていることにどういう意義があるかということを主張しなければいけない。それを評価者がどう評価するかということだと思う。被評価者はずっと受け身でしかないが、自己責任は大事であって、何かやろうとしている、現在行っている活動に対する責任を持たなければいけない。だから、自己責任を持って研究者が主張することが適当である。

【委員、科学官】

  そのとおりで、これは大変重要な側面だと思う。今おっしゃったことでもう一つ重要なことは、評価を受けて、被評価者の方がそれに対してきちんと反論できる仕組みではないか。それは書かれていただろうか。そういうことをしっかり書くべきではないだろうか。評価者が間違う場合もあるわけで、視点が異なればそれに対してどちらが正しいか判断しにくい場合もあると思う。一方向性ではなく、そういうやりとりが出来ることはすごく重要なことかもしれない。だからそれなりのシステムをきちんと作っておかないと、一方的に評価を下されるということではまずいと思う。

【委員、科学官】

  これは重要なポイントで、研究者は自分がしていることについて自己責任を持って主張し、学術研究の場合、受け身の評価というよりは、その主張と、それによって評価者と被評価者との戦いの部分が絶対必要だという認識だ。

【委員、科学官】

  4ページの中ほどに、「人文・社会科学の研究については文化や伝統との関わりが密接であり、人の価値観が反映される部分が大きいという特性を有することから、評価の普遍性に限界がある点にとりわけ十分な配慮が必要である」とあり、人文・社会科学以外は評価に普遍性が持てるが、人文・社会科学は評価ができないと読める。人文・社会科学は本来普遍的に評価ができないが、それは学問の本質としてという部分なので、これでよいのだろうか。一方で、自然科学の方も普遍的な評価ができるか疑問が残る。
また、文化や伝統との関わりがあるから普遍的な評価ができないのではなく、同じ文化や伝統の中においても、評価を普遍的にできないという部分があり、それは人文・社会科学が解釈の学であるということからすると、解釈は多様に出てこざるを得ない。その中のベターなものが、より高い蓋然性を持って受け入れられていくというプロセスの上にある。一つの解釈が普遍性を持つことはあり得ない。だからこのあたりの表現をもう少し練っていただいた方が良い。

【委員、科学官】

  自然科学系も本当に評価に普遍性があるのだろうか。それは、あるときにはあるかもしれないが、変わっていく可能性もある。
  もし皆が認めるような研究をやっていれば、その程度のものしか出てこない。研究というものには中心的なものがあって、そこから周辺部に広がっていく。あまり評価されない周辺部からいろいろなものが出てくる。それを中心にいる人たちは評価せず、中心的な仕事をしなさいというから、少しもおもしろいものが出てこない。だから、周辺部にあってあまり評価されていないものが、「萌芽的」ということであり、「基盤的資金による研究」がそれに対応しているのだろう。しかし、その「基盤的資金による研究」の中も、「すぐれた研究の・・・」というのが出てくるが、学問の中心ではなく周辺部にあって、だれが見てもこれはだめだと言うものの中にこそ、大切なものがいっぱいある。それを育てるのが萌芽的であって、ここにあるような評価をすると本当に悪くなる可能性がある。みんなが、「これはいいですね」というのを全部評価していこうというのでは、研究はだめになる気がする。

【委員、科学官】

  この意見に共感される方は多いと思うが、どう文面に反映できるだろうか。

【委員、科学官】

  それは評価者がどれだけの覚悟をもって、どういう視点から評価するかということだろう。評価者の責務として、どういう視点からどう評価したのかということをはっきりさせるということを入れるのがいいのではないか。それは、評価の方法ではないと思う。
人文・社会科学も自然科学も普遍性のある評価が可能だと思っている。それはなぜかというと、一例だが、翌日の朝刊の一面のトップ記事を決める会議で、不思議なことに1週間のうちの6日間は意見が一致するからである。新聞というのは、ニュースの評価尺度があるから多く売れているのだが、その基準を探してみたが無かった。その時おもしろいニュースだということで、そういう視点で全部一致する。だから、おもしろい研究だということであれば、結果は意外と一致するかもしれない。もちろん時代性、社会性があるとは思うが、相当普遍的な評価はできると思う。

【委員、科学官】

  学問的意義やアカデミック・レベルは非常に多面的なもので、学術関係者の中では包括概念を割合共有できるのだが、それを文章にして外に出す、特に総合科学技術会議がまとめている大綱的指針のもとで文章を出さなくてはいけないとすると、それをどう表現するかは、いろいろな工夫が必要だと思うがいかがか。。

【委員、科学官】

  評価者の責務や役割として表現できるのではないかと思う。学者として責任を持って、学者の良心で評価することであれば書けるのではないか。

【委員、科学官】

  今の提案は「評価者の選任」という表現が、「責務」や「責任」という表現の方が適切で、評価者にも重い自己責任があるという点をどう表せるかということだろうと思う。それは当然被評価者からの主張を十分にくみ入れて、評価者と被評価者の間で緊張関係がとれるシステムでないとだめだということである。一方的に選任されて、一方的に評価して、答えを出すというのでは学術研究の場合、だめだということだと思う。

【委員、科学官】

  人文・社会科学に限らず、あらゆる研究は普遍的な評価は難しいのではないだろうか。評価はそもそもそういう限界を持っているわけで、そういうことをどこかに書いておくということは意義があると思う。評価万能みたいなことはとんでもない話で、これまでの学問を見ても、こういう要素がある。

【委員、科学官】

  総合科学技術会議の大綱的指針に対応するということも現実問題として非常に重要なので、先ほどから意見を伺っていても、評価の多様性を尊重するべきだというのは大切である。いろいろな方々の評価があって、これからは国際的な評価は欠くことができないものだと思う。外国のグラント・アプリケーションや研究組織の評価もたくさんするが、そういうことをお互いにやり合っていくこと、日本の中からやるということも大切で、その中では非常に多様な評価も出てくると思う。少なくとも、評価というのは多様性があるものだということをきちんと認識してやるべきだというのは大切かと思う。
  また、研究に対する評価が一面的になりがちな状況もある。例えば大学院生のフェーローシップでは、申請書の内容を評価するというよりは、ファースト・オーサーの論文が幾つあるかによって、一面的な評価をされている傾向が感じられる。また、科学研究費補助金の審査などにおいても、インパクトファクターの高い雑誌にどれだけ論文を発表しているかが、重要な評価対象となる。もちろんこれは評価において重要な側面であり、実際に研究者たちもそういう努力をしている。しかし、それだけが絶対的と思われているわけでは決してない。そういう雑誌は、いわゆる流行を追うものが出るのが特徴で、深い学術的な意義があり、非常に深奥な学問内容であれば出るというものでも必ずしもないところがある。従って発表論文のインパクトファクターで評価を受けるというのも問題があるので、創造性は必ずしもそういうところから出ないという点を認識すべきだと思う。

【事務局】

  大綱的指針における評価者の責務は、参考1の3ページの最後に「評価実施主体、評価者等の責務」という項があるが、4ページに「評価者は厳正な評価を行うべきことを常に認識するとともに、優れた研究開発をさらに伸ばし、より良いものとなるように、適切な助言を行う。また、評価結果が後の評価者によって評価されることになる・・・」と書かれている。今の議論からいくと、必ずしもこれで十分ではないと思われる。それであれば、学術研究においてさらにどういう部分を強調しなければいけないのかということを考えていくというのが一つの方法であろうと思う。
  また、大学、大学人の非常に幅広い活動をつぶさないようにしなければいけないというのは全くそうであり、それと評価が一番関わってくるのが、研究者の業績評価の部類であると考える。大綱的指針の枠組みを見ても、研究開発課題の評価についてはプロセスが書かれているが、研究者の業績評価は、ほとんど全部機関長がどう評価するかを決めて評価を行うとなっており、機関(評価を実施をする側)にその方法について任せてている。これは研究機関においてそれぞれの目的が異なるので、そこにいる研究者、教官、教員のありようが大きく違うから共通的なものは決めないで、機関の方で、その目的、ありように応じて行っていただくということである。ということは、大学においてどう多様性を持った人材を抱えることができるように評価をするかということを考えていただき、その観点から資料3の9ページから始まる「研究者の業績評価」の記述に焦点を絞って議論いただければ整理できるのはないかと思う。また、10ページの真ん中ぐらいに、「・・・大学等がその使命を全うするために自由な研究環境の保障が必要とされていることを自覚し、自らを厳しく律して研究を推進することが望まれる」という表現があり、この部分とほかの部分を組み合わせて今までの議論の内容が読み切れないのであれば、もう少し工夫する必要がある。

【委員、科学官】

  大綱的指針が内閣総理大臣決定されており、そのもとに文部科学省としてどのような施策にするかということで、ある程度対応が付くように配慮し、学術研究における特別な点をそれぞれの項目に応じて書き込み、先ほどの評価者の責務、選任と、研究者等の業績評価のところで学術研究の特異性、評価における特異性、研究者自身の特異性をもう少しずつ膨らませるのが一つのアプローチだ思う。

【委員、科学官】

  「優れた研究」という表現が出てくるが、この「優れた」というものをどう考えたらよいのか。独創性を評価しようと読めるが、実は、その「優れた研究」というのが何であるか、理解に苦しむ。人文・社会科学の場合には、「優れた」研究というよりも、「意味ある」研究とか、「価値ある」研究というところにいく。
  では、価値とは何かと言われると、それを抜きにして優れた研究も想像できない。おそらくそこが自然科学と違うと思うのだが、そう申し上げると、「いやそんなことはない、価値ある研究というのが同じなんだ」ということをおっしゃられてしまうような気もする。優れた研究まで持っていくところに何か落とし穴があって、うさん臭くても価値ある研究ということを言わなければいけないのではないか。

【委員、科学官】

  絶対的な評価、価値観と、相対的な価値観ということだろう。「優れた」というのがあれば、「劣った」というのがあるだろうし、「価値ある」のほかは、「価値がない」である。だから、絶対的であるか相対的であるかということで、自然科学の方が普遍的な場合が多いわけだから、優れた、劣ったというのがあるのだろうと思う。人文・社会系の方が横に対応して、価値があるか価値がないかのどちらかなのか。

【委員、科学官】

  そうでもない。

【委員、科学官】

  確かに人文・社会の方が優れている/いない、という尺度はとりくにくい。

【委員、科学官】

  評価する現場を考えると、「独創性」の次に「優れた」というのがくるが、それだけなのか。

【委員、科学官】

  「価値のある」というと、何でも少しは価値がある。

【委員、科学官】

  先日開催された「ノーベル賞連続受賞を祝して」というパネルディスカッションからとても学ぶところがあった。評価というのは、過去遡及的なものと、現在進行中の研究に対するものと、おそらく未来から見たものとがあるのだろう。私も若いときに恩師から、歴史学というのは、過去と現在の対話というけれど、実は一番大事なのは未来と現在の対話、未来と過去の対話であると教えられた。つまり、「よりよい世界を求めるがゆえに、どう歴史を見ていくかという視点が出てくるんだ」ということを言われた。E.H.カーは過去と現在の対話と言ったが、実は未来と過去の対話なんだと言われた。未来というファクターを入れたときに、どうやって評価していくのかということを考えると、「優れた」というのでおさまるのだろうか。

【委員、科学官】

  4ページ上段に、「単に成果を事後的に評価するだけでなく、現に研究活動に取り組んでいる研究者の意欲や活力を適切に評価するという視点を持つべきである」と、今指摘したことを含み込んだ表現も入ってはいるが、学術研究を行っている者からすると、今の指摘は非常によくわかる。

【事務局】

  研究者の業績を評価するというのは非常に多様性があって、それぞれの学問、大学で、おのおの違った評価の目的を持っているのだろう。そのため、共通的に書くと、なかなかそこまでは踏み込めない。御指摘があった価値ある研究、意味ある研究といった考え方について、それぞれの学問、大学において、違ったところに力点が置かれるということを前提において、そういうものを全部包含した形で、「優れた」と書こうというのが、事務局の考えである。もし、この「優れた」というもので、価値あるとか、意味あるという多様な軸が読み切れないという御指摘であるとすると言葉を変えなければいけない。価値ある、意味あるということも全部含めた上で、「優れた」という視点で一般化した言葉として代表するということでどうだろうかと思う。これよりも良い表現があるということであれば御指摘いただきたいと思うが、各大学、学問の特殊事情をすべて抱えているということから、あまり踏み込んだことは書き切れないだろうということを前提に置いた方がいいのではないかと思う。

【委員、科学官】

  先ほど新聞社の話をしたが、非常に大きな意味で、我々を取り巻く世界という意味での世界観を新たにつけ加える情報や、その組み換えを余儀なくさせる情報がおもしろいということで一致するのであろう。学術もそういうところに挑戦しているのだと思う。工学でさえそうだと思う。どれだけ人類の持っている世界観に関わった研究をしているかということが実は学問の基本だろうと思う。

【委員、科学官】

  おっしゃるとおりだと思う。だから、評価目的を大事にして、プラスのものだけをとればいい。コンマ以下のものをあまり細かく見る必要はないと思う。おそらく新聞社でも、トップに出るのは一つだけで、あとのことは議論しないわけである。学術研究で一番避けなければいけないのは、多くの研究者たちをディスカレッジしてしまうことだろうと思う。「あなたのはだめだ」ということは言ってはいけない。良いものだけ取り上げればよいが、それは少数である。全部に網をかぶせようとすると、優れていない、価値の少ない研究のほうが圧倒的に多い。それはそういうものだろうと思う。では、言わないものはみんなだめかというと、その次に良くなるかもしれないので、黙っていれば良いのではないかと思う。その中には、自分たちは次に行くと思っている人もいるし、後ろめたい人も大分いると思うが、だめだと言っても始まらない。学校の初等教育もそういうことではないかと思う。下のほうに1点とか2点とつけても、あまり意味がないのではないかと思う。

【委員、科学官】

  大綱的指針は、当たり前であることを奨励する評価で、きちんとやっているかどうかという評価である。当たり前にやってもらうのは大事なことだからそれはそれでいいが、もう一つ優れたものだけをピックアップする評価を一緒に行えばいいのではないか。本当はいい人をちゃんと拾って脚光を当てていくということが価値だと思う。そういうことで、我々は、科学なり、学問を楽しむことができると思う。

【委員、科学官】

  今までの議論の中でも、必要な無駄という議論もあったと思う。この大綱的指針は、「国の経費を使うのだから最も効率的に配分しなくてはいけない」という評価であるが、学術研究や教育では、最も効率的にするためには、必要な無駄があるほうが効率的だというのが、先進諸国や歴史の中で人類が生み出してきた大きな知恵だと思う。そこがうまく反映されるようにまとめていただきたい。

【委員、科学官】

  今の指摘はぜひ入れておいていただきたい。無駄が必要というのは説得力がないかもしれないが、俗に言えば無駄なのだが、そういうものが学術研究を進めていき、非常に価値の高い学術研究の成果を出していくためには必要なんだということを出していただきたい。総合科学技術会議の大綱的指針の中でも、例えば投資に対する効率性だけで評価が論じられることに対して、随分いろいろなところから疑問や意見が出たが、最終的な形には、なかなかそれが生きていない。そういう意味では、今おっしゃったようなことが、評価の視点の中で必要だということを入れておけば、学術の評価の在り方が意味を持ってくるのではないか。

【事務局】

  研究開発の目的はかなりはっきりしている場合が多いわけだから、上のほうの果実をつみ取ろうとした場合に、下の無駄はできるだけ少なくということで、逆ピラミッド形で上が広がればいいという考え方があると思う。
  ところが、学術研究というのは長期的活動で、人を育てながら走っていくわけだから、ピラミッドはむしろ頂点のノーベル賞を受賞される方は数少ないのだが、すそ野の広がりがないと、どうしても高い頂きを支えられない構造になっている。その点をうまく文章化していただけるとよい。

【委員、科学官】

  すべての社会システムに冗長度が必要であることは確かだと思う。今ここでそれを追加することがどういう効果を持つのか。大学は今まで適切な冗長度を持っていて、これ以上冗長度を削ってはならないということを意味するのであれば、それは間違いだと思う。今、それをあえて強調する時期にあるかというと、そんなことは全然ないと思う。

【委員、科学官】

  大学共同利用機関において非常に心配しているのは、こういう評価によって、研究者の評価が決まるシステムが極端になってくると、例えば大学共同利用機関など、研究の支援を専らとしているグループ、それは非常に重要な役割を担っていると思うが、それが軽視されるようにならないかということである。評価をしながら、そういうところにも目配りがいくようなシステムにすることが必要であると思う。外国の利用機関と比べて、日本での研究成果が劣るとすれば、その差のかなりが支援グループの強さの違いにあることを実感している。

【委員、科学官】

  学術のセクターとしての自己責任があるわけで、総合科学技術会議も日本のためを思ってやっているわけだから、それを受けて学術のコミュニティがこの問題に対してどう対処するかが重要である。単なる抵抗勢力になっても、学術のコミュニティそのものの評判を損なうことになると思う。この委員会もさることながら、例えば日本学術会議は、我々の活動を今までどおりでいいと思っても、こういうことを拒否するという態度ではいけないと思う。こういう事態になっているのは、国民の方も多少問題があるかもしれないが、もとは学術のセクターというのが国民の負託にこたえていないという面があるからだろう。委員会でこういうものをつくるわけだが、日本学術会議から評価の問題に対して前向きに提言があるかどうか、そこが大事ではないか。そうでないと抵抗勢力だということで問題が起きないとは言えないと思う。

【委員、科学官】

  この文章をまとめている我々を含め学術コミュニティに関連する者の自己責任、社会的責任を強く認識しているということを十分踏まえて、今までが良かったということでは絶対ないわけだから、今まで良くなかった部分があるかもしれないので、評価をきちんとやろうということだろう。だが、その評価の仕方が、学術研究の場合にはいろいろな留意点があるということで、その一つは評価者と被評価者の間の主張のし合いという部分が学術研究では欠かせないのではないかと思う。

【委員、科学官】

  例えば機関評価などを考えたときは、非常に優れた業績を上げている機関があったとすると、その中の研究者の3割ぐらいが非常に華々しく日が当たって頑張っていて、国際的な評価も高ければ十分だと思う。全員がかなり研究資金を持っているようだったら、機関としてはつぶれると思う。やはり3割ぐらいは、評価、論文の引用は全くされないかもしれないが、次の世代のために、非常に挑戦的な研究をやっている層がいないと次が育たない。その辺のうまい表現はできるのではないかと思う。

【委員、科学官】

  大学の本質を考えたときに、この評価手法を出すと同時に、教育を一生懸命やっている者の評価手法を出すことで初めて大学が研究と教育を一緒にやっているということである。これもどこかで議論があったと思うが、どうしても研究の評価の話ばかり出てきてしまう。これと同時に、教育の評価の手法を文部科学省が独自に作って一緒に出すということがとても大事なことだと思う。

【委員、科学官】

  もちろん研究者として育てる教育的配慮ということはあるが、学部教育というところよりは、少し高度な研究者の教育というレベルなので、この評価に入るのではないかと思う。

【委員、科学官】

  ここでは学術における評価の問題で、文部科学省の評価指針の検討は研究計画・評価分科会の研究評価部会で行う。そこで、今おっしゃったような教育の面を入れなければいけない。

【事務局】

  研究計画・評価分科会研究評価部会で行うのは、大学のみならず、文部科学省が持っている特殊法人、独立行政法人、国立試験研究機関も含めた研究についてのやり方のルールづくりとしての指針の検討である。
  これとは別に、前から学術分科会やこの委員会において、大学には研究と教育という二面性があって、研究面ばかり評価していてはだめで、教育の部分も忘れてはいけないという指摘を受けているところで、そのことを最大限生かさなければいけないということで、特に8ページの「機関評価」の部分と、9ページの「研究者の業績評価」の中で、教育の面について忘れてはいけないということを素案として書き込んでいる。

【委員、科学官】

  教育についての評価の議論は、中央教育審議会の大学分科会で行うと思うが、ただ、教育は向こう、研究はこちらというのではなく、どこかで研究と教育の密接なつながりに配慮した議論が必要だろうと思う。

【委員、科学官】

  評価の軸の多様性の問題だと思う。つまり、産業に貢献する、世界の何かに貢献するというような面の出口での尺度を引いた評価だけでいくと非常に問題が出てくる。例えば次の日本の学問をそこでインキュベータとして育てていく、そういった研究が行われているということも意味があるという評価の軸だってあるはずである。そういったものを含めて、研究開発という言葉で切ってしまったときに、忘れられてしまうような研究の持つ評価の軸を出していく必要があるのではないか。
  また、大学が研究一本やりで考えてきているということについては、我々の意識の中で強かったことは事実だが、総合科学技術会議で大綱的指針の議論をしている中で、教育の意味を一生懸命強調していると、「大学は要するに教育機関として考えるべきではないか」と割り切った発言をされた議員がおられたのには大変驚いた。大学が、確かに教育機関としては非常に大事だが、同時に日本においては基礎的な学術研究の主要なセクターであるということを、総合科学技術会議は施策を考えるときに忘れていただいては困るので、やはりそこの発信の仕方というのは、よく心得てやっていただく必要がある。教育はあちらで、我が国の科学技術研究すべて含めたのはこちらでと割り切られると、日本の大学における研究は非常に困るのではないかと思う。

【委員、科学官】

  昨日、ある大学の工学部長と話をする機会があった。彼は一生懸命産学連携をやっている。この文章を見て、彼の活動はこの評価基準だと評価されないのではないかと思ったくらいである。ここに書いてあるのは、産業に役に立つ研究ではなく、本来の研究をきちんとやろうということである。産学連携も視点の一つにすると書いてあるにすぎない。これを見ると、産学協力なんていうのはもってのほかだと見えないこともないくらいの文章になっていて、普通の人が読んだら大学は学問の白い巨塔の中だという印象を与える。この文章にはいい面がたくさんあると思うが、普通の人の読み方ではこの文章はそうなってしまう。これでまだ学問の自由が書き足りないというのは、それはないだろうという感じがする。

【委員、科学官】

  厳しい意見が出たが、一番最初に議論したように、研究計画・評価分科会の方では、独立行政法人からすべて大学も含み込んで書くということである。本日の議論は、学術というところに軸足を置いて、学術のメインストリームについて意見をまとめておくということである。それを踏まえて全体の意見にまとめていただくということで、今の意見はごもっともである。確かに一般の方が読んだときに、大学の機能として随分欠落している部分があるのではないかというのは認めざるを得ないと思うがよろしいか。この報告がひとり歩きして、この部分だけが我々の総意だというようなことになると、社会からの批判が出てくるので、これは全体像のうちのどこの部分だということがよく分かるように、序論に何か工夫しないといけない。
  また次回に、本日の活発な議論を受けた、たたき台をつくっていただいき、研究計画・評価分科会に出していけるようなものをまとめたいと思う。
  また、本日議論には出なかったが、先進諸国では評価する民間機構もあり、評価機構が被評価者のコミュニティから評価されるシステムがあるが、日本はまだ始めたばかりで、評価するシステムの多様性に乏しく、評価機構の数が国主導の非常に限られたものになっているということは深く認識して評価をしなければいけない。つまり、システム自身の評価がまだ十分できていないシステムで、一つの切り口で、動き出すという認識が必要ではないかと思う。

5.今後の日程

  次回の基本問題特別委員会(第8回)については、平成14年1月22日(火)15時〜17時(場所未定)を予定し、事務局より改めて連絡することとされた。

(研究振興局振興企画課)

ページの先頭へ