5. 脳科学研究と社会との調和について

1.脳科学の倫理的・法的・社会的課題

 脳科学研究は、社会が高齢化し、多様化・複雑化も進む我が国において、医療・福祉の向上や社会・経済の発展に貢献できる研究分野の一つである。脳科学研究の応用技術は、疾病や障害に苛まれる多くの人々に福音をもたらすとともに、国民生活に対して、多大な利便性の向上をもたらすものと期待される。とはいえ、脳科学研究の有効性が発揮できている部分は、いまだ萌芽的な段階であり、基礎研究の成果が完成された形で社会へ還元されるまでには、まだ相当の時間がかかると思われる。

 しかしながら、脳科学研究が進展しその応用技術の開発に向けた展望が開けてくると、例えば、「心を操作すること(マインド・マニピュレーション)」、「心を読み取ること(マインド・リーディング)」、「能力を高めること(エンハンスメント)」などが可能となることも、将来的には考えられる。すなわち、脳とコンピューターを接続して脳に情報を送り、望んでいないことを行わせることが可能となるかもしれない。また、非侵襲的計測技術等により、脳から情報を取り出して、考えていることを外部から読み取ることや、化学的あるいは電気的な刺激で精神活動をコントロールすること、さらには新たな薬剤が開発されることにより、治療を超えて知能を高めるようなことも可能となるかもしれない。しかもこれらの技術は、臨床の現場や個人的な利用にとどまらず、商業利用や法廷の場における利用、さらには軍事応用などへ拡張される可能性も否定できないことから、実現すればその社会的な影響は大きなものになると考えられる。

 先にも述べたとおり、これらの技術が可能になるとしてもそれは遠い先と思われるが、こうした技術が社会に大きな懸念を生み出す可能性も見据え、それにどのような対処が可能であるのかを、現在の段階から考えていかなければならない。

 一般に科学研究においては、たとえ研究者が最先端の知識を尽くし、良心に基づく振る舞いを示したとしても、誤りが生じる可能性は否定できない。この事情は脳科学研究にも当然当てはまる。

 例えば、当初想定されたほどの理想的な結果をもたらさなかったロボトミー手術の例が如実に示すように、新たな脳科学研究の応用技術とその利用に際した倫理性を評価するに当たっては、当該技術が長期的に見てどのような身体的・心理的被害を引き起こす可能性があるか、その技術がどれだけ拡大適用され幅広い対象にまで濫用される傾向性を持っているか、また、そのように拡大適用された場合にどのような被害が生じる可能性があるかなど、長期的なリスク評価等にまで踏み込んだ慎重で総合的な考察が必要になると考えられる。

 そのためには、脳科学研究の進展と並行して、次節で述べるような包括的な倫理的・法的・社会的課題に対する注意深い検討を欠かすことはできない。また研究者の側でも、自らの研究の成果が単なる思い込みや都合のよいデータ解釈に歪められる可能性を、十分に自覚することが必要である。

2.脳科学研究の社会応用の前提

 脳科学の倫理的・法的・社会的課題の中でも、研究成果の社会への還元を推進するうえでとりわけ重要となるのが、被験者保護と倫理審査であると考えられる。ヒトを対象とする研究の推進に当たっては、常に人間の尊厳や個人のプライバシーを守ることを大前提とし、被験者からのインフォームド・コンセントを得た上で、科学的に妥当で正当な考え方に基づき慎重に研究を進めることが極めて重要である。

 具体的には、被験者に対して、研究の意義や方法、研究に伴うリスクがある場合にはそのリスクについて十分に説明をして理解を求めるとともに、被験者が幼児等のように同意の能力がないような場合には、保護者等の代諾者からのインフォームド・コンセントを得る等、研究毎に適切な方法をとっていくことが必要である。また、研究の実施に当たっては、被験者の個人情報の保護のための方策を検討しておくことが必要である。

 新しい応用技術が社会に信頼される形で導入され、定着するためには、上述のような注意深い被験者保護や倫理審査のプロセスが肝要である。とりわけ脳科学研究においては、その研究内容の多様化に伴って、すでに倫理審査委員会が設置されている医学系・生物系の研究機関のみならず、倫理審査体制の未整備な他分野の研究機関でも実施される可能性が広がりつつあることから、こうした場における「倫理性の確保」にも、注意することが求められる。また、このようなシステム構築は、科学技術創造立国の実現を目指す我が国にとって、極めて重要な課題と言えよう。

 科学の倫理性は、決して研究者個々人の倫理観のみに還元されるものではない。慎重な倫理的検討を要すると思われる新たな問題が出現した場合に、個々に対応していくための仕組みを整備することが重要である。例えば、これまで我が国では、脳死体からの臓器移植に関しては立法化、ヒトES細胞を用いた研究については指針の策定といったように、次々と現れる倫理的問題に対して、その問題の性質に応じた対応がとられてきた。先に述べたように、脳科学研究においてもその応用技術の開発に向けた展望が開けてくるにつれ、さまざまな倫理的問題や社会の懸念が生じる可能性は否定できない。したがって、脳科学研究の推進に当たっては、倫理学、法学、社会学などの人文・社会科学における調査・研究の成果等も踏まえ、学会や政府レベルにおける議論を積み重ね、問題の発生に備えた対処策を、問題の性質に応じて適時的確に講じていくことが肝要である。

3.脳科学と社会とのコミュニケーション

 脳科学の基礎研究における成果が社会に還元されるようになると、科学技術のガバナンス(科学技術をどのように推進していくのか、あるいはどのように規制をするか)を超えた検討が必要となる。すなわち、医療、福祉、教育、産業などそれぞれの制度の中で脳科学をどのように適用するのかについての検討が期待される。

 例えば、一部の民間企業では、脳内情報の解読により消費者心理や行動の仕組みを解明し、消費者の嗜好に合わせた製品化を実現するニューロマーケティングが既に利用されつつある。こうした利用は、各企業に委ねられた倫理審査に基づいて行われているものの、それでもなおこうした手法に対しては、反対する声も聞かれている。したがって、今後、研究成果を社会へ還元するに当たっては、さらなる議論が期待される。

 現時点においては脳科学の知見のみで、人間の思考や行動の全てを説明できるには至っていない。たとえ研究者が自らの研究の限界を十分認識していたとしても、脳科学の知見が社会に伝達される時には話が単純化され、この限界がやすやすと無視されてしまう。

 例えば、「右脳人間、左脳人間」「男性脳、女性脳」「睡眠学習」等の多くは科学的根拠に乏しく、最近では「神経神話(Neuromyth)」と呼ばれ注意喚起がなされている28。脳のある部位は特定の精神的能力や行動傾向に対応するという単純な素人理解は、研究者たちの意図に反して生物学的決定論へと傾いていき、結果として犯罪者や精神障害者の差別・排斥等の重大な人権侵害が生じる可能性がある。

 こうした神経神話や似非脳科学が、意図的かつ大規模に、ゲーム、教育、製造物の販売などに利用されることのないよう、研究者側が正確かつ分かりやすい情報発信を行う必要がある。そのため、脳科学に携わる研究者又はコミュニティー等の研究者グループは、研究機関、学会、NPO(脳の世紀推進会議など)などを通じて、正確で分かりやすい情報を、適切に発信することが求められる。また、こうした情報発信にあたっては、研究者のみならず、科学コミュニケーションを専門とする人材の活用も望まれる。さらに、研究者などの専門家が、知識を持たない非専門家である国民を一方的に「啓発」するのではなく、双方向のコミュニケーションの場(サイエンスカフェ等)の創出を通じて、同じ目線で語り合う機会を増やすことが求められる。これを通じて、社会の側も科学的に情報を見分ける力(サイエンスリテラシー)等を身に付け、神経神話や似非脳科学を安易に受け入れることのないようにしなければならない。

 脳科学研究は、社会からの期待が高い。その脳科学研究が長期的な展望のもとで持続的な発展を遂げ、その成果が信頼される形で社会に還元されるためには、脳科学研究と社会との調和に向けて、研究者、報道メディア、産業界、行政、消費者等が、継続的にコミュニケーションを進めていくことが肝要である。

  1. Wu Ting-Fang “Understanding the Brain: The Birth of a Learning Science” (Executive Summary)(2007年OECD)

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