2. 我が国における脳科学研究の基本的構想

1.脳科学研究が目指すべき方向性

 脳は、遺伝子に基づいて作り出された分子機械が重層的に組み合わさり、神経細胞、神経回路、機能コラム、脳領域といった階層構造を形成し、個体の認知、行動、記憶、思考、情動、意思や、他の個体との相互作用による社会的行動の基盤を成している。同時に、脳は、自律神経系、内分泌系、免疫系等を介して、他の身体部位との密接な連携により、全身のホメオスタシス(恒常性)を維持している。また、脳の各部位に局在する機能素子は、高度な相互依存・相互作用を特徴として、極めて全体性の高いシステムを形成し、様々な情報処理を実現している。

 近年、こうした脳の活動は、哲学、宗教、教育、政治、経済、芸術等、人間の精神活動の所産である様々な文化の生物学的基盤となっていることが広く認識されてきた。これに伴い、脳科学に対する社会的な期待や関心が急速に高まるとともに、脳科学と距離があると考えられてきた学問諸領域との結びつきが注目されてきている。

 脳を理解することは、生命科学的知見に立脚しながら、心を備えた社会的存在として人間を総合的に理解することである。また、パターン認識や、運動制御、言語処理などの情報処理機能について、脳がいかにして、人工システムを遙かにしのぐ能力を実現するのかを理解し、再現することは、情報科学の究極の目標でもある。

 脳科学に携わる研究者は、脳科学の学問が持つこのような特徴を意識し、脳の構造と機能についての知見を学問として究めるとともに、従来の専門分化型の枠組みに縛られることなく、異分野や関連諸領域との連携・融合を積極的に進めながら、人間の総合的理解を目指す「総合的人間科学」の構築を目指すことが期待される。また、次世代の人材の育成においては、脳科学の特徴である学際性・融合性を十分に意識し、広い視点から研究の内容や方向性を整理・再構築する能力を涵養することが必要である。

 さらに、少子高齢化が進む現代社会において、患者数の急増が大きな社会問題となっている精神・神経疾患の解明等、脳科学の研究成果が信頼される形で社会に還元されることに対する期待が高まっている。こうした社会からの期待の高まりに比べて、多数の研究領域が未だ萌芽的な段階に留まっているという現状を踏まえ、自然科学としての基盤が脆弱なまま、その技術が拙速に社会へ導入されることがないよう、基礎研究を一層強化した上で、社会への貢献を明確に見据えた研究に取り組んでいくことが重要である。

 また、日本人は古来、自然の本質を理解し、自然と人間との調和を重視する行動様式を大切にしてきた 。18こうした自然と調和して共生する人間観に基づいた文化的伝統を備えつつ、その中に近現代科学技術を巧みに導入するといった我が国の強みを活かし、科学技術と人間との新しい関わりを形作る先導的な学問として、我が国発のオリジナルな脳科学を展開し、世界をリードする国際連携の枠組みの構築を目指すことが必要である。

2.脳科学研究推進についての考え方

 多段階の階層構造をもつ複雑な生体システム、ことに分化した機能素子間の「相互依存・相互作用による全体性」を特徴とするシステムである脳を対象とし、学際性・融合性の高い学問である脳科学の発展のためには、必然的に包括的・全体的・融合的なアプローチが求められる。こうした観点から、(1)基礎研究、(2)基盤技術開発、(3)社会への貢献の3つの軸に基づき、長期的展望に立つ脳科学研究の基本的構想を整理するとともに、脳科学の特徴を背景とした、(4)学際的・融合的研究環境についても、その実現に向けた脳科学研究の推進体制や人材育成の在り方等を同時に考えていくことが必要である。

 このうち、以下で詳述する(1)~(3)の研究課題に関連して、「総合的人間科学」を可能とする生命科学的基盤である脳科学の学問としての主な特徴(「研究テーマの拡がり」、「新しい技術」)の観点から、短期・中期・長期的に目指す戦略目標を整理し、また、「総合的人間科学」の構築に向けた協働の観点から、関連する諸領域を整理したものを、本章末に別添(「新しい融合脳科学の目指すもの」)として付す。これは、前章の別表(「ロードマップ」)の中で、特に研究課題部分に焦点を当てたこれまでの審議結果を取りまとめたものである。

 本別添については、脳科学の学際性・融合性や、脳科学に対する社会的な期待や関心の高まり等を踏まえ、脳科学に携わる研究者のみならず、より広範に亘る関係者が、脳科学研究全体を容易に俯瞰できるものとなるよう、今後予定しているパブリックコメント等の結果を踏まえ、さらに審議を重ねていくとともに、研究の進捗に応じて定期的に見直していくことが必要である。

2-1 基礎研究

 生命科学研究において、生命現象の基礎を探求することによって得られた研究成果が、その後の研究の発展と中長期的な応用研究への展開により大きな成果を挙げた例は、枚挙に遑がない。つまり、基礎研究は、既知の現象のメカニズムを深く究めるとともに、いまだ明らかにされていない脳の基本的なメカニズムの解明により、将来のイノベーションにつながる新たな知見と技術をもたらし得る。したがって、多様な基礎研究を継続的かつ重厚に進めることは、脳科学が社会に貢献し得る大きな成果を生み出すために必要不可欠である。

 また、基礎研究の推進に当たっては、脳科学の特徴を踏まえ、分子・細胞からシステム・個体に至る各階層の研究が相互に触発し、脳の機能メカニズムの統合的理解へと収束するよう、学際的・融合的な研究環境を構築することが必要である。さらに、こうした、分子・細胞レベルから神経回路、機能コラム、脳領域といった階層構造を介して個体レベルの認知、思考、情動、意思形成といった心のメカニズム、さらには社会的行動が生み出される機序、発生・発達の原理、情報処理の様式等の解明等につながる基礎研究は、あらゆる関連諸領域の基本となり、心を備えた社会的存在としての人間の総合的理解を目指す「総合的人間科学」を可能とする生命科学的基盤として、継続的かつ強力に推進する必要がある。

 脳機能の統合的理解の実現に向けては、各階層で研究を進める研究者に対して、脳科学全体としての俯瞰的な研究戦略を提供し、包括的なネットワーク形成を推進することが極めて重要である。

 また、基礎研究には、次章で定義されるように、研究者の自由な発想に基づく研究である学術研究と、政策に基づき将来の応用を目指す基礎研究とがあり、それぞれの意義を踏まえて幅広く、着実にかつ持続的に推進することが必要である。このため、運営費交付金や私学助成等の基盤的経費を措置するとともに、競争的資金等を活用して継続的かつ強力に研究を推進していくことが必要である。

 その際、学術研究の推進にあたっては、自由な発想に基づいて主体的に実施される研究の多様性を確保することが重要である一方、政策に基づき将来の応用を目指す基礎研究については、国の政策として戦略的に推進すべき重要な研究領域に焦点を当て、明確な戦略目標に沿って、効果的に推進していくことが望ましい。

(1) 先端ライフサイエンスとしての脳科学の発展

 脳を含む神経系は、外界からの情報と内部環境の統合や行動の遂行に不可欠な生体システムであり、ライフサイエンス全体の最終的な目標である「生命現象の包括的・統合的な理解とその人類の福祉への貢献」19にとって必要不可欠な学問分野である。

 また、脳科学研究から得られた新しい生命現象やその基礎となるメカニズムが、ライフサイエンスの他分野に大きな影響を与え、新しい研究の潮流を創出し得ることから、研究の充実・深化に当たっては、関連諸領域との有機的な結合を強化し、他分野の牽引力となることが期待される。

 脳を構成する要素である神経細胞およびグリア細胞といった細胞レベルやそれを構成する分子レベルの研究においては、構造生物学、タンパク質科学、ゲノム科学とのさらに緊密な連携により、分子機械の集合体としての細胞機能の発現を理解し、その知見を神経回路レベルでの機能発現へと結びつけることが必要である。また、神経細胞に発現する多様な機能分子の役割に関する革新的な発見は、上位の階層である局所神経回路や脳高次機能の理解に大きな影響を与え、機能分子探索および既知分子の機能同定は、神経系に作用する新規薬物の開発へとつながる。さらに、細胞レベルでの分子機能解析から、遺伝子改変動物の作成によってそのシステムレベルでの役割を直接的に検証する方法論は確立しており、このようなアプローチ、すなわち複合手法による記憶・学習・認知・思考・運動制御機構の分子・回路・行動レベルでの統合的解明に向けた研究を、継続的に推進することが必要である。

 細胞機能を基礎として神経回路の働きを理解するには、それぞれの脳領域の特異的機能(記憶、学習、認知、思考、運動など)を回路レベルでの特性に結びつけることが重要であり、脳情報の解読と制御技術を応用した研究を通じた神経回路の形成・動作の制御機構の解明に向けた研究等を進めることが急務である。このような神経回路と脳領域の特異的機能を関連づける研究の展開に当たっては、まずは比較的研究の進んでいる大脳皮質感覚野、小脳、海馬などから始め、続いてより高次の脳領域につなげていくことにより、中期的には情動、意思決定、脳幹機能などの回路レベルでの理解を飛躍的に進めることが必要である。また、運動などの脳情報の解読に向けた研究は、外部機器等を制御する機器制御技術開発に必要な革新的な要素技術の創出を睨んで進めていくことが望ましい。

 脳領域が相互に機能的に結びつくことによって、さらに高次の脳機能が発現する。ヒトの認知・行動に関与する脳機能の発現機構の解明に向けた研究は、特に思考の機序やヒューマンエラーの原因解明につながる注意の機構の理解、さらに長期的には自我の獲得、言語の習得の理解などのヒト固有の脳機能解明に直接に結びつくという意味で重要である。また、複数脳の相互作用としての人間社会の形成のメカニズムに迫る研究への展開も期待される。このような高次脳機能の研究においては、種々の手法を独創的なモデル動物に適用した研究と、認知心理学的手法をヒトに適用した研究とを、総合して推進することが必要である。また、長期的には、自我や言語能力を含むヒト固有の精神機能の機構解明を進め、ヒトとの自然なコミュニケーションが可能な機械の開発、学習促進や記憶障害の予防、情動や意欲の健全な発達促進、創造的思考の効果的な育成等に向けた研究に展開していくことが期待される。

 さらに、分子、細胞、回路、領域を階層的に結びつけ、高次脳機能の発現する仕組みを解明するためには、実験データを基盤とした数理モデルやシミュレーション技術の活用や階層型データベースの構築などが必要である。こうした観点から、脳科学は実験生命科学と数理科学との協働による新しい融合科学のモデルケースとしての役割も期待されており、長期的には、全脳レベルでの超大規模シミュレーション技術の実現に向けて研究を展開することが望ましい。

 脳機能の多様性は、単純な上皮組織が落ち込んで形成される神経管が、細胞増殖、領域形成、細胞移動、特異的投射路の形成などの様々な過程により複雑化することにより実現される。こうした時間軸に沿った脳の発生・発達の理解は、ライフサイエンスとしての発生学の主要な課題の一つであると同時に、ヒトのこころの発達過程を理解するという意味において、心理学や教育学などの人文・社会科学系の学問領域とも密接に関連する研究課題である。特に、脳の生後発達における感受性期(臨界期)の存在とそのメカニズムの理解は、活動依存的な神経回路変化の代表的な例として、長期的には発達障害などの病態解明・治療にも直結するものであり、その機構の解明が期待される。さらに神経細胞の分化・成熟機構の分子細胞レベルでの解明は、幹細胞を利用した神経系の再生医療につながる研究課題であり、さらなる研究の展開が望ましい。

 臨床医学研究、あるいは遺伝子改変動物の行動スクリーニングで得られたデータを基にして、様々な精神・神経疾患との関連分子が同定されつつあり、その生理的機能の解明・病態との関連性の解析が急速に進んでいる。ヒトの病気の治療に直結するこれらの疾患関連分子の研究は重要であるが、新しい生命現象に関与し得る新規分子の同定やそれに関連した脳機能の解明に向けた観点からも、こうした研究を推進することが必要である。さらに長期的には、老化の過程における脳機能の物質的・機能的変化の解明に向けて、その分子的理解を目指した研究の展開が必要である。

 脳の病気の原因を解明し、治療原理を確立するためには、臨床医学の要請に基づいた研究を推進することが必要である。また、孤発性神経変性疾患の危険・予防因子の同定・機構解明や、精神・神経疾患の分子・細胞レベルの基本因子を同定して分子病態とメカニズムの解明に向けた研究等を進めることが急務である。さらに、中期的には遺伝性疾患に基づいたタンパク質凝集・神経変性の機構解明と治療原理の確立に向けた研究を展開することが必要である。また、このような疾患を対象とした研究展開に当たっては、疾患の死後脳バンクの整備が不可欠であり、生体イメージング、遺伝子などのゲノム解析試料の採取等を組み合わせたデータ融合型のリソースとして整備していくことが期待される。

(2) 異分野融合による新しい学問領域の創出

 脳科学研究の成果は、多くの関連領域の発展を牽引するものであり、脳を情報処理装置と見なして数理科学・情報科学などを中心とする工学系諸領域のみならず、これまでの知の枠組みの中では、自然科学と距離があると考えられてきた哲学、心理学、教育学、社会学、倫理学、法学、経済学等の人文・社会科学の領域に加えて、芸術等の諸領域を含むあらゆる人間の精神活動の所産である文化が、脳科学研究の対象となり得る。

 こうした脳科学の学際的・融合的な特徴を踏まえ、心理学、認知科学、行動学による成果を受けて課題を設定し、破壊行動実験、細胞活動記録、イメージングを行うこと等を通じて、強化学習や行動制御などの分野では大きな進展が得られつつある。我が国では、これまでにヒト脳機能イメージング研究では出遅れているものの、我が国原産の霊長類(ニホンザル)が棲息するという有利な環境を活かした動物実験では世界をリードしており、今後は、こうした霊長類モデル動物による研究を引き続き進めるとともに、ヒト脳機能イメージング研究も強化し、認知神経科学の研究を総合的に推進することが必要である。

 また、我が国が世界をリードしている、ヒューマノイド・ロボットの開発等を含むロボット工学との緊密な連携が望ましい。さらに将来的には、機械と人間との共生社会に向けた、脳科学と種々の社会科学、機械工学、インターネット科学などとの文理工の協働による新学術領域の異分野融合研究の展開が期待される。

 さらに、磁気ナノワイヤーを脳内で目的の方向に配列させ、神経軸索の伸長や移植した神経細胞の移動に関する研究に用いるなど、我が国が得意とする材料科学やナノテクノロジー分野の技術を脳科学研究に適用する取組も始まっており、このような材料科学やナノテクノロジー分野との融合研究についても、さらなる展開が期待される。

 脳は、機能分化した素子間の高度な相互作用によって、極めて全体性の高いシステムを形成するという特徴を持っている。したがって、脳機能の解明に向けては、要素間の「相互依存・相互作用による全体性」に合致した新しい学際的・融合的な学問のスタイルの創出が必要であり、異分野との積極的な融合による学際・融合領域の形成が必要不可欠であることは言うまでもない。

 とりわけ脳科学は、従来、自然科学の対立概念として捉えられることの多かった人文・社会科学とを架橋する役割を果たすことが期待される。近年の脳機能画像などの基盤技術や、ブレイン・マシン・インターフェースなどの脳科学的知見の応用技術、脳機能に作用する化学物質とその作用機序についての知見などの発展によって、人間の精神活動の解読や補完支援が可能になりつつあり、さらには脳活動の操作・増強の可能性さえ論じられてきている。したがって、人間の精神・社会活動の理解に向けて、人文・社会科学系諸分野と相補的に協働していくことが期待される。

 また、これまで人文・社会科学が研究対象としてきた人格の同一性と自己意識、自由意志と人間存在、道徳判断と感情制御、芸術経験と創造性、文化と社会の多様性など、人間のさまざまな精神活動の基盤を、脳科学の知見を活用することにより、これまでとは異なる観点から人間の理解に資することが期待される。さらにこうした人間理解に通じる科学的検証や、その結果得られた知識の正しい普及を通じ、中期的な神経神話・擬似脳科学問題への包括的な対処につなげていくことが望ましい。

 脳科学の大きな目標のひとつは「人間存在の理解」にあり、その範囲は物質機械としての人間の生物学的メカニズムの解明に留まらず、脳神経系の諸要素にわたる統合作用によって創出される個人としての精神活動や、それら複数の脳の相互作用の所産としての社会現象にまで及ぶ。脳科学が「人間存在の理解」に真に貢献するためには、人間の精神活動のような一人称的現象の「個別性・一回性」と、個人・社会・文化のもつ「普遍性・多様性」とを包括した全体の現象を、研究対象とする新しいアプローチの開拓も期待される。

 こうしたアプローチを実現するためには、細分化・専門化を旨とする従来の自然科学にみられる要素還元論的アプローチのみならず、人文・社会科学の中で培われてきた人間や社会を包括的な存在として捉える現象学的な視点や問題意識を脳科学に導入することで、脳を構成する各階層における物質や情報の振舞いを、人間・社会といったシステム全体との相互作用のもとで解明していくことが期待される。したがって、哲学、心理学、教育学、社会学、倫理学、法学、経済学、政治学、美学、宗教学などの人文・社会科学と脳科学との異分野連携が進められていくことが期待される。

2-2 基盤技術開発

 脳科学研究の共通的な基盤として革新をもたらすのが、基盤技術開発である。こうした基盤技術は、単に研究手法の高精度化、精緻化に貢献するのみならず、全く新しい仮説の提示や従来の定説を覆す概念の提唱などに直結するという意味において、科学技術創造立国の実現を目指す我が国における科学技術全体の共通財産として、脳科学分野に留まらず、他の研究分野にもイノベーションをもたらし得るものである。

 さらに基盤技術開発は、その革新性によって最終的には応用技術として社会に還元される可能性を持つことから、脳科学においても、その萌芽的段階からの育成、戦略的に推進すべき重要な技術についての重点的な配慮、さらに社会への貢献も見据えた政策的な対応といった多様な支援を継続的かつ強力に推進していくことが必要である。

 脳科学の学際性・融合性から、脳科学研究の発展に直結する基盤技術は多くの領域に亘るが、以下では脳の統合的理解に特に重要と考えられる三つの技術として、モデル動物開発、脳活動の可視化技術・制御技術、神経情報基盤の整備(ニューロインフォマティクス)について、それぞれの特質と特に重点的に推進すべき研究内容について詳述する。

 また、これらの三つの技術に密接に関連するとともに相補的な技術として、ゲノミクス、プロテオミクス、グリコミクスなど網羅的な分子・遺伝子の探索技術、異常タンパク質凝集制御法、神経細胞の分化機構の理解に基づく脳・脊髄損傷後の機能回復法や神経細胞の再生技術の開発、さらには網羅的な脳機能分子発現プロファイリングに基づく大規模データベース、モデル動物の確実な開発のために必要な施設や設備の整備なども、脳科学研究の発展に向けて重要であることは言うまでもない。

(1)モデル動物開発

 神経回路機能の解明、精神・神経疾患の病態解明・治療法開発のためにはそれぞれの研究目的に適したモデル動物を開発し、利用することが必要不可欠である。

 21世紀の生命科学の重要課題は、解明された限られた数の遺伝子がいかにして生命体の機能を生み出すかという点にある。脳は、遺伝子と環境の相互作用の産物として複雑に分化した構造と機能を有しており、脳の様々な部位での遺伝子の働きを知るために、その発現を時間・空間的に制御する研究手法は大変有用なものである。こうした脳機能の物質的基盤の解明に向けて、現在最も汎用されている動物はマウスであり、遺伝子工学を利用した神経回路機能の選択的な制御技術の開発は、それを活用した個体レベルでの神経回路の機能解析や、精神・神経疾患等の原因の解明に向けて推進することが急務である。

 また、マウスよりも大きくて発達した脳を持っており、さらに高度な脳機能解析のアプローチを適用しやすいラットを用いた発生工学技術の開発を進めることが必要である。一方で、ショウジョウバエ、線虫、ゼブラフィッシュなどの動物も、ライフサイクルが短いことや同定された神経細胞の機能解析が容易であるといった独自の利点を活用し、神経疾患の理解や治療法の開発、行動学習の基盤解明に向けた「ハイスループットモデル動物」として重要であり、マウス等のほ乳類にも応用可能な仮説を生み出すことも期待される。このようなモデル動物を利用した脳科学の進展は、ゲノム科学との協働という観点からも、重要性が一層増加すると考えられる。

 また、ヒトにおける脳の高次機能の理解や精神・神経疾患の研究のためには、霊長類を対象とする研究の推進が必要である。これまで、我が国はニホンザルを用いて成果を挙げてきており、感覚・運動・学習・認知機能解明やそれを支える神経回路の解剖学的知見を集積してきている。しかし、ニホンザルを用いて探索された課題解決に向けては、遺伝子組換えによる独創的なモデル動物の開発を進めることが必要である。また、我が国発の研究として世界に発信されつつある、マーモセットを用いた発生工学的研究手法の開発と疾患モデルや脳機能研究に有用な霊長類モデル動物の開発を進めるとともに、マーモセットをより有用な研究用動物とするための、脳アトラスの作成や行動課題などの研究用ツールの開発を行うことが必要である。さらに霊長類を対象とした、ウィルスベクター等を用いた脳への高効率遺伝子導入法を通じて、特定の神経細胞・神経回路における選択的な分子発現制御や除去を行う技術開発を行うことが望ましい。

 このような霊長類モデル動物の開発は、次節で述べる脳活動の可視化技術との有機的結合によって、世界を凌駕する革新的な高次脳機能研究へと展開することが期待される。

 また、霊長類モデル動物の開発にはその基盤として長期的に安定した繁殖・飼育・供給体制の整備が必要不可欠である。研究目的でのニホンザルの飼育・繁殖体制は、ナショナルバイオリソースプロジェクトによって整備されつつあるが、霊長類の個体の大きさ、ライフサイクルの長さ、動物福祉への配慮が欠かせないという動物種としての特性を鑑みると、国内の多くの研究者が共同利用研究をできる霊長類センターの設置が期待される。

(2)脳活動の可視化技術・制御技術

 脳の機能をシステムとして統合的に理解するためには、「生きた」個体・標本の機能分子・細胞機能・回路活動を可視化する技術と、それを補完する脳活動を非侵襲的に制御する技術の両者の開発を進めることが必要である。

 複雑な階層構造を持つ脳の時空間における活動のダイナミクスや、神経細胞と神経回路におけるリアルタイムコンピューテーションのメカニズムを明らかにするためには、プローブと計測技術の両面で、生きた個体の中で特定の神経細胞(群)を可視化する技術(ライブイメージング)などのさらなる技術開発や改良を行っていくことが必要である。

 一方で、光技術は情報の読み出しのみならず、脳活動の選択的操作・制御技術としての応用も増加しつつあり、光感受性分子(チャンネルロドプシンなど)を利用して、単一シナプス活動操作や特定の細胞・シナプス活動の制御を同時に実施することが可能となりつつある。さらに電磁波やレーザー制御技術の進歩により、予め機能を「籠」内封印された分子を自在に活性化する技術などの発展により、新しい物理化学的手法による神経細胞活動の操作技術が開発されている。こうした高い操作性を特徴とする光技術を用いて、分子・細胞レベルから回路機能レベルを経て個体レベルでの脳機能を直結させていくことが期待される。

 また、遺伝子工学やケミカルバイオロジーなどの先端バイオテクノロジーとの融合により、蛍光タンパク質を用いた高感度かつ低毒性の生体機能プローブの新規開発や、これらのプローブを用いたサブミリ秒レベルの時間分解能を有する光イメージング技術、超回折限界空間分解能でのシナプス活動イメージング技術、多光子励起顕微鏡による生体内(in vivo)での脳深部における多数ニューロンの同時活動計測・操作技術、単一ニューロンにおける多元シグナルの同時大量計測・多点同時活性化技術など、未開拓の手法・原理に基づく次世代機能イメージングと脳内情報の解読・制御の実現に向けた基盤技術開発を進めることが必要である。

 さらに、二光子顕微鏡技術の基盤となる非線形光学を応用した、脳内分子の化学結合を直接可視化する技術や、ナノテクノロジー・先端化学による新しい原理を基礎とした光プローブの開発など、新しい物理化学的な原理の応用によって、脳活動の可視化・制御技術にこれまでとは全く異なる方法論が生み出される可能性がある。このような革新的な物理化学的原理に基づく脳活動計測・制御技術については、長期的視野に立って開発を進めることが必要である。

 他方、記憶、学習、判断、意志決定、思考、コミュニケーションなどの高次脳機能の解明に向けては、大規模なシステムとしての脳の挙動を全体的に捉えることが必要であり、超多チャンネルのニューロン活動記録に加え、電気刺激や薬物注入、光照射を同時に行うことで脳活動を操作する多機能集積素子の開発を進めることが必要である。

 また、機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)やPETなど、診断分野で進展を見せ定量的な計測に優れたイメージング技術の活用が期待される。したがって、従来のfMRI、PET及び脳磁計(MEG)に加え、高磁場fMRIによる空間的・時間的高解像度化や、近赤外光機能イメージング技術の向上、生きているヒトの脳の神経細胞集団における発現分子の同定に向けたPETの超高解像度化、さらには複数の計測手法の複合化など、新技術を用いた非侵襲的脳活動計測装置の超高性能化・小型化などを進めることが必要である。

 さらに、fMRIを用いた脳画像の統計計測技術の標準化、新しい手法による神経伝導路の高精度可視化、脳機能画像計測、磁気共鳴分光法を利用し、外部から脳内神経伝達物質を計測する技術の開発を行い、脳機能の個体差を解明していくことも長期的に期待される。またPETでは、遺伝子改変動物からヒトまでの脳内発現分子の経時的測定を通じた疾患モデル動物でのスクリーニングや、遺伝子治療から新規薬物治療までの迅速なトランスレーショナル・リサーチの実現、標識化学によるケミカルバイオロジーの成果を生体イメージングに繋げることが期待される。さらには分子・細胞レベルと神経回路・個体レベルをシームレスに繋ぐイメージング手法の確立や、試験管内(in vitro)と生体内(in vivo)の情報の統合的理解に向けた技術開発が期待される。

(3)神経情報基盤の整備(ニューロインフォマティクス)

 脳科学研究の展開にあたっては、分子、細胞、神経回路、行動、社会性などの物理的スケールの違いや、作動原理の全く異なる複数の階層を論理的に繋ぐとともに、自然科学と人文・社会科学諸分野との融合を図ることが重要であり、異なる階層や学問的手法から得られた実験データを互いに関連づけるための、計算論的神経科学、数理モデリング、統計的手法、データベース・情報処理技術などを結集させた数理・統計・情報技術が有力な基盤技術となる。

 こうした基盤技術はニューロインフォマティクスと総称され、国際的には経済協力開発機構(OECD)の報告を元にして、2005年に国際ニューロインフォマティクス統合機構(INCF)が設立された。我が国では、理研BSI内にINCF日本ノードを設立し、国内の脳科関係の研究成果のデータベース化を支援しつつ統合し、INCFを通じて国際的に発信するなどの諸活動を行うことにより、設立当初より、国際的な協力体制の一翼を担っている。

 脳科学における実験データの取得は、霊長類を用いた長期間にわたる実験データ、高価な非侵襲脳活動計測装置を用いるヒト脳活動データ、ブレイン・マシン・インターフェースに関連するデータ、コネクトミクスの電子顕微鏡による脳回路の極微細解剖データ、さらには大規模コホート研究のデータなど、いずれも巨額の研究資金を必要とする。したがって、こうしたデータ取得の段階から視野に入れて、ニューロインフォマティクスの技術開発を進めることが必要である。

 一方、情報通信技術の著しい進展により、データ格納やデータ通信については、著しい低価格化が進んでいる。また、理論、統計、情報処理などデータに関する技術開発は、主として研究者や技術者という人的資源によって行われるものであり、多額な経費が必要とされるものではない。したがって、特に公的研究資金で取得された実験データは、原則公開とすることにより、計算論的神経科学、脳・神経の数理モデル、脳関連階層データベースの統計解析手法、脳内活動源推定の逆問題アルゴリズムや脳情報解読アルゴリズムなどの脳科学のための情報処理技術などの進展、階層と分野を超えた脳機能の理解が進むことが期待される。

 神経情報基盤の整備に当たっては、まずは、ブレイン・マシン・インターフェースや、全脳レベルでのシミュレーション技術開発と、INCF日本ノード活動との連携による体制整備を行うことが期待される。そして、中期的には、脳機能の個人差に関する膨大なデータの解析・処理技術と階層データベース(遺伝子、脳画像、神経活動、社会行動など)の開発や、遺伝子解析と社会的認知機能の関連を結びつけるコグニティブ・ゲノミクス手法といった基盤技術の開発を進め、さらに長期的には、数学・物理学・計算機科学との融合によるニューロインフォマティクス技術開発や、複数階層にわたる大規模シミュレーションを行うための技術を確立する研究を進めていくことが望ましい。さらに、脳科学を数理的観点から捉えるための脳数理研究基盤の開発も期待される。

2-3 社会への貢献

 現代人の精神の荒廃や行動の異常、あるいは精神・神経疾患の増加が大きな社会問題となりつつある中、現代社会が直面する様々な課題の克服に向けて、脳科学研究に対する社会からの期待や関心は極めて大きい。

 さらに、脳科学研究の進展により生じる倫理的・法的・社会的課題を扱うニューロエシックス、また、脳内情報の解読により消費者心理や行動の仕組みを解明し、消費者の嗜好に合わせた製品化を実現するニューロマーケティングや、美を感じる心のメカニズムを解明するニューロエステティック(神経美学)など、脳科学の周辺領域との融合が急速に進み、脳科学の基礎研究における成果を、社会に導入していくといった動きが活発化している。

 しかし、こうした社会からの脳科学研究に対する期待や関心が高まりつつある一方で、脳科学研究の有効性が発揮できている部分は、いまだ萌芽的な段階である。そのため、基礎研究の成果が完成された形で社会に還元されるまでには、まだ相当の時間がかかると思われる。そのため、自然科学としての基盤が脆弱なまま、その技術が拙速に社会へ導入されることがないよう、基礎研究を一層強化した上で、社会への貢献を明確に見据えた研究に取り組んでいくことが肝要である。また、脳科学研究の中でも、研究領域ごとに到達度が異なることに十分に配慮するとともに、脳科学研究の新しい成果が信頼される形で社会へ還元されるための前提として、社会との調和に配慮して研究を進めていくことが肝要である。

 他方で、基礎研究により明らかになった成果のみが社会へ還元されるとは限らず、その必要性に直面することで、基礎研究が飛躍的な進化を遂げることも考えられる。つまり、基礎研究と社会への貢献を見据えた研究とは、双方向にフィードバックを行い、相乗効果を与えつつ発展していくものである。こうした観点から、脳科学の基礎研究の成果を、信頼性の高い形で社会に還元していくためのみならず、脳科学研究に対するより深い理解をもたらすためにも、社会への貢献を見据えた研究を戦略的に推進することが必要である。

 こうした状況を踏まえ、「社会に貢献する脳科学」の実現を目指した研究として重点的に推進すべき研究領域として、(1)脳と社会・教育、(2)脳と心身の健康、(3)脳と情報・産業の3つを設定し、各領域等における明確な戦略目標に沿って、基礎研究、基盤技術開発とともに、効果的に脳科学研究を推進していくことが必要である。さらに、研究の進展により生じる倫理的・法的・社会的課題についても調査・研究を行い、解決を図ることが必要である。

(1)脳と社会・教育(豊かな社会の実現に貢献する)

 脳の活動は、個体としての認識、思考、行動を司るに留まらず、異なる個体間や生物種・生態系との間に愛憎やコミュニケーション等による相互作用を生み出し、社会集団を形成する上でも決定的な役割を果たしている。このような情動やコミュニケーション等を含む社会的行動やそれらの習得過程において、脳基盤の各階層がどのように関与するかについては、脳科学研究の進展により、客観的・生物学的指標を用いた解析がようやく可能な段階になりつつあるが、いまだその研究は端緒についたばかりである。

 特に、近年大きな社会問題となっている社会性障害に関しては、古典的な精神疾患の概念だけでは捉えられない側面が急速に拡大しており、社会全体の病理メカニズムとして捉える必要性から、より広い視点からの研究が急務となっている。

 また、ある個体が異なる個体や生物種・生態系と共存して生きていくためには、それぞれの個体が各々の遺伝子情報の上に、後天的な経験情報を蓄積し、社会的生存のために必要な機能を習得する必要があることから、豊かな社会性を備えた人間を育む上で、教育は重要な課題である。そのため、より良い学びや人への思いやりに根ざした豊かな対人コミュニケーションを可能とする脳の生物学的基盤と情報処理プロセスについて、深く理解することが重要である。

 従来、こうした人間と社会・教育にかかわる問題に対しては、人文・社会科学的なアプローチが用いられてきたが、その範ちゅうにおいて捉えられない側面が急速に拡大しており、より広い視点からの研究が急務となっている。こうしたことから、ヒトの社会的行動を脳活動との関係から理解するための一つの基盤に資するため、人の発達過程を追うコホート調査を長期的に行っていくなど、人文・社会科学と脳科学が融合した新しいアプローチが期待される。

 このような観点に基づき、脳科学研究が豊かな社会の実現に貢献するためには、以下の取組等について、社会への貢献を見据えた研究を戦略的に推進することが必要である。

(1) 短期的目標に向けた取組:5年~10年後

 コミュニケーション等を含む人間の社会的行動が形成・制御される機序について、分子・細胞レベル、回路レベル、そして個体・システムレベルでの解明を目指した研究や、ゲノム情報に基づく行動遺伝学的研究、すなわちニューロゲノミクス、コグニティブ・ゲノミクス等を進めることが必要である。

 また、生物の進化の産物として、脳がどのように誕生したかという発生原理から、発生・発達に影響を与える遺伝子産物の機能を解明する研究や、ヒトの社会性の生物学的基盤としての、脳の生物学的指標(ソーシャル・ブレイン・マーカー)の確立に向けた研究、長期発達コホート研究を開始するための予備的研究としてのコホート研究の立ち上げ等を重点的に進めることが急務である。

(2) 中長期的目標に向けた取組:10年後~

 脳神経系の発生・発達と可塑性の原理追求や、遺伝子や環境要因など複雑な相互作用の機構解明等を通じて、社会性の発達過程、言語獲得過程・学習機能、価値判断や情動に関わる脳機能のメカニズム解明や、記憶、学習障害や薬物依存症などの克服にもつながる研究を重点的に進めることが必要である。さらに、脳情報処理と機能発達との関連に関する検討や、複雑な問題解決における脳の働きの解明に向けた研究等を進めることが必要である。また、こうした研究と連携して、人間の精神的な発達過程に関する大規模コホート研究を長期的視野に立って進めることも必要である。

 さらに、人間の倫理観などが生み出される過程と脳のメカニズムが如何に関係しているかを探る取組も進めていくことが期待される。

 こうした研究を通じて、将来的には、発達障害の予防と治療や、情動制御及び自己意識の習得といった観点から育児・保育・教育・食育への脳科学研究の確実な展開が期待される。また、脳科学と実験心理学や実験経済学・政治学が融合することで、行動を支え動かす報酬期待や情動の意思決定メカニズムを明らかとするような観点から、社会への貢献につなげることが期待される。

(2)脳と心身の健康(健やかな人生を支える)

 急速な高齢化社会の進行に伴い、QOL(生活の質)を損ない、介護を要する神経疾患が大きな社会問題となりつつある。同時に、交通事故死20の5倍を上回る自殺者の数、その背景として心身の疲労に伴ううつ病の増加など、現代人の心身の荒廃は著しい。また、我が国は先進国の中でも、労働時間が長く、逆に睡眠時間が短いため、疲労、ストレス、睡眠不足等が事故や疾患の誘因となり、心身の疲労による長期休暇などにより膨大な経済的損失をもたらしている。さらに、脳は自律神経系や内分泌系の最高中枢として、免疫系との相互作用等により、生活習慣病等の発症にも大きな影響を及ぼしている。こうした社会的背景のもと、現代人が健やかな人生を過ごす上で、脳科学研究が果たすべき役割は、過去に比して著しく高まっている。

 このような観点に基づき、脳科学研究が健やかな人生に資するためには、以下の取組等について、社会への貢献を見据えた研究を戦略的に推進することが必要である。

(1) 短期的目標に向けた取組:5年~10年後

 脳を介したストレス反応・生活習慣病やストレスに関連する心身症・うつ病などの精神・神経疾患の発症に係る分子基盤や、生理的な睡眠・覚醒と生体リズムの維持、摂食・エネルギー代謝・血液循環の調節等に関与する脳の液性・神経性基盤を明らかにするとともに、健やかな脳の発達や維持に必要な栄養素を明らかにする研究等を重点的に進めることが急務である。

 急速に社会問題化しつつあるうつ病について、脳病態に基づいた疾患概念の再構築、客観的診断法、有効な治療法の開発に向けて、神経細胞の形態学的変化が病態に関与するとの仮説を死後脳研究により検証するとともに、心理社会的ストレス、虐待などの養育問題、生活リズム、遺伝要因、性格、エピジェネティクス要因、脳老化などのさまざまな要因の関与を検討する研究を組織的に立ち上げることが急務である。

 また、精神・神経疾患の病態に関する分子・細胞レベル、回路レベル、そして個体・システムレベルにおける基本的な機序を明らかにするとともに、情動・記憶や判断機能の回復メカニズムの解明、神経幹細胞の増殖・分化機能の理解による脳・脊髄損傷後の機能回復法の開発に向けた研究等を進めることが必要である。

(2) 中長期的目標に向けた取組:10年後~

 子どもの心身の発育に関わる保育・母性機能障害の予防法や、脳科学研究からのアプローチによるストレス克服法と生活習慣病の予防法の確立を目指した研究等を進めることが必要である。

 また、脳の発生・発達に起因すると考えられる統合失調症や広汎性発達障害、正常な増殖・分化機構からの逸脱によって生じる脳腫瘍、遺伝子、環境などの多様な要因の複雑な相互作用により発症するうつ病・双極性障害を含む気分障害などの分子・細胞レベルでの病因を解明し、早期診断法および発症予防法の確立を目指すとともに、加齢に伴う認知症や神経変性疾患の発症およびこれらの疾患に伴う高次脳機能低下のメカニズムを解明し、老化制御を実現する脳の自然老化過程の解明に取り組む研究等を進めることが必要である。

 こうした研究を通じて、将来的には、睡眠障害を予防し、適切にストレスを処理し、エネルギー代謝を整えて生活習慣病を未然に防ぐとともに、精神・神経疾患の発症予防・早期診断、さらには再生医学の進展と相まって神経疾患の根治治療が可能となることが期待される。さらには、ゲノム科学と同様に広く生命科学の基盤となる可能性を秘めたケミカルバイオロジー研究との協働を進めることにより、精神・神経疾患や発達障害の治療薬の提供に向けた展開も期待される。

(3)脳と情報・産業(安全・安心・快適に役立つ)

 現代社会においては、地球環境問題を背景とした低炭素社会への転換が迫られると同時に、消費者の嗜好が多様化しているため、個々の需要に応じた高付加価値を持つ製品の開発が求められている。こうした背景のもと、経済活動の中でも、人間の嗜好を科学的アプローチで理解し製品やサービスの開発にいかすため、脳科学の成果を社会への貢献につなげる動きが急速に芽生え、育ちつつある。

 また、従来は人文科学の領域とされている芸術学や美学についても、脳に入力される情報によって報酬系神経回路などを刺激する活動の所産として、脳における情報処理の観点から捉える動きが急速に拡がりつつある。

 さらに、脳は、他の臓器と同じように、遺伝子設計に基づく化学反応によって構成されている臓器であるとともに、複雑な情報処理を行うといった、従来の生命科学の範囲を超える特異的な機能を担っている。特に、脳が進化の中で形成されてきたことを鑑みると、脳の情報処理と動作原理を解明するとともに、脳にとって本来的な情報処理の在り方を探ることは、人間自身を知るという知の追究に留まらず、脳の構造と機能に合った安全・安心・快適な情報社会をつくり、豊かな生活基盤の構築として大きく貢献すると考えられる。

 このような観点に基づき、脳科学研究が安全・安心・快適な情報社会の形成に資するためには、以下の取組等について、社会への貢献を見据えた研究を戦略的に推進することが必要である。

(1) 短期的目標に向けた取組:5年~10年後

 脳内の情報処理に関与する分子・細胞レベル、回路レベルまた行動レベルでの動作原理を解明し、異なる階層の実験データを関連づけるためのシミュレーションなどに基づく理論化、モデル化を進める必要がある。また低侵襲・非侵襲による脳内活動の計測技術高度化を進める必要がある。

 また、運動機能再建、リハビリテーション治療や生活支援ロボットにもつながるブレイン・マシン・インターフェース技術の開発に向けた研究等を重点的に進めることが急務である。

(2) 中長期的目標に向けた取組:10年後~

 脳機能の再構成を実現するため、脳の情報表現と動的機能・学習原理を定量的に実証する計算論的神経科学の確立を目指した研究を進めるとともに、脳型情報処理システムの開発に向けて、環境から入力される様々な情報が及ぼす脳機能の変化の機序を解明する研究等を進めることが必要である。

 こうした研究を通じて、将来的には、脳型情報処理システムや学習アルゴリズムを活用した脳型コンピューターを実現するとともに、脳内情報の解読により消費者心理や行動の仕組みを解明し、消費者の嗜好に合わせた製品化を実現したり、美を感じる心のメカニズムを解明したりする観点から、5章で述べる社会との調和に十分配慮した上で、社会への貢献につなげることが期待される。

 また、ヒューマンエラーに起因する脳内情報機序の解明による事故防止策の提言を行うとともに、健やかな脳の発生・発達・維持をもたらすため、様々なメディアコンテンツが脳に及ぼす影響を評価し、最適な情報規格やコンテンツのガイドラインを提案するといった社会への貢献も期待される。

2-4 学際的・融合的研究環境

 多段階の階層構造をもつ複雑な生体システム、ことに分化した機能素子間の「相互依存・相互作用による全体性」を特徴とする脳を対象とし、学際性・融合性の高い学問である脳科学の発展のためには、脳科学研究の推進体制や人材育成等といった研究・教育環境についても、包括的・全体的・融合的なアプローチが必要である。

 脳科学研究の成果は、社会への貢献に供されるまでに長い期間がかかる傾向があることから21、脳科学研究の推進体制については、長期的かつ多様な研究が多面的に行われる体制構築が望ましい。このため、以下、�V章に記されているような大学、大学共同利用機関、研究開発独立行政法人、他省庁、地方公共団体、民間の研究機関などの国内の各々の研究組織がその特徴を生かしながら、それぞれの機関の枠を超えて有機的に連携することが必要である。

 また、学際性・融合性を特徴とした脳科学の人材育成については、広範な学問分野を系統的に教育する体制の維持が不可欠である。そのため、社会においてどのような人材が求められているのかを十分に考慮した上で、次世代の脳科学研究を担う若手の人材育成に向けた効果的な教育体制を構築するとともに、多様なキャリアパス構築の体制整備にも取り組むことが望ましい。

 そして、脳科学研究は人の尊厳に直結した「心」の領域を研究対象とすることから、脳科学研究を長期的かつ安定的に発展させていくためには研究者一人一人が高いモラルを持って研究に取り組むとともに、人を対象とする研究の倫理に関する十分な教育が必要である。

 さらに、脳科学研究者は、脳科学の特徴である学際性・融合性を十分に認識した上で、広い視点から研究の内容や方向性を整理・再構築し、包括的・全体的・融合的なアプローチを行うとともに、今後脳科学の枠を超えて、様々な分野との融合・連携を図り、人文・社会科学と物質・生命科学を融合した「総合的人間科学」とも呼べる新しい学問分野を構築することに寄与することが求められる。

  1. 新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について(答申)(平成15年3月中央教育審議会)
  2. 今後のライフサイエンス・ヘルスサイエンスのグランドデザイン(平成20年8月日本学術会議報告)
  3. 平成19年中の交通事故の発生状況(平成20年2月警察庁)
  4. 科学技術の中長期発展に係る俯瞰的予測調査(平成16年12月科学技術政策研究所科学技術動向研究センター)

【別添】

新しい融合脳科学の目指すもの(中間取りまとめ)

  5年 10年 15年
研究テーマの拡がり
  • 記憶・学習・知覚・運動制御・注意の統合的機構
  • 社会性の生物学的基盤
  • 長期発達コホート研究の立上げ
  • 精神・神経疾患の病態機序・分子基盤
  • 脳情報の解読と制御
  • 言語の獲得機構
  • 社会性の発達過程メカニズム
  • 睡眠や生体リズム維持、摂食・代謝の調節
  • 脳・脊髄損傷後の機能回復
  • 脳型学習アルゴリズム
  • 情動・意思決定・思考の機構
  • 発達障害などの病態解明・治療
  • 老化の過程
  • 精神・神経疾患の予防・診断・治療
  • 脳型コンピューター
新しい技術
  • 独創的モデル動物
  • 神経回路機能の選択的制御(げっ歯類)
  • 新しい物理化学手法による脳活動の操作・制御やイメージング技術
  • ブレイン・マシン・インターフェース
  • 神経回路機能の選択的制御(霊長類)
  • 階層間をシームレスに繋ぐイメージング手法
  • 階層型データベース(遺伝子、脳画像、神経活動、社会行動など)
  • 非侵襲的脳活動計測装置の超高性能・小型化
  • 革新的な物理化学的原理に基づく脳活動計測・制御技術
  • 全脳レベルでの超大規模シミュレーション技術
  • 脳数理研究基盤

既存の枠組みを超えた「総合的人間科学」の構築に向けた協働

お問合せ先

科学技術・学術政策局 計画官付

電話番号:03-6734-3982(直通)

(科学技術・学術政策局 計画官付)